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先輩教員の誘いで始めた「山」に魅せられて
今年85歳になるけど、人生をあらためて思い起こしてみると、半分は山だったね。富士山にも事あるごとに登ったしね。
山をやるきっかけ? 高校の教員になってからだね。大学で山岳をならした人が私の同僚で。そうね、10歳くらい上だったかな。山好きな先輩で、手ほどきしてくれて、山の登り方とか、こんな山がいいとかを教えてくれたり。その人は拓殖大学の山岳部出身で、キャリアからいうと、南極探検隊なんかにも参加できたような人なんだけどね。
学校の教員だったから、学校が休みの夏・冬は少し遠出をして、二人だけで行った山はたくさんあるね。低い山は低い山なりの良さがあったし、高い山だけが名峯ではないし、1000mでもいいわけ。
田部井淳子さんも、福島県にもたくさんいい山があるので、好きな山をせっせと紹介して登ってるね。一度一緒に上った事もあるな。うーん、八ヶ岳はいい山だ! 彼女は福島出身だし、親近感があるね。彼女まだまだやれるし、テレビで見るにつけ、元気でいいねぇ。女性初のエベレストに登る候補の女性が、たまたま具合が悪かったので、次候補の彼女が選ばれて、それでどんどん頭角を表していったんだよ。まあ、世の中何かのきっかけというか、運もあるんだねぇ。
山を教えてくれた人の大怪我
そうそう、その先輩が、怪我をしたんだ、大怪我をね。運動会の後、慰労会があって、お酒を飲んで家に帰るのに、タクシーに乗ったらしいのね。降りた場所が川べりで、酔っぱらっていたし、狭いのでそのまま川に落ちてしまったとか。大変な事故で、頭打って、腰打って、脊髄損傷。入院して、そのままでついに復帰できなかったね。
私もがっかりしたけど、それからは一人で登るようになったね。みんなしてわいわい登るような事はなかったけど、好きだったね、山は。
山で道に迷ったという事はないかって? 地図とコンパスだけで登るけど、それは無かったね。
妻も山が好きだから、止められた事は無かったよ。「行くの? 気をつけて行ってらっしゃい」っていつも送りだしてくれたよ。
山は無理しちゃいけないというのを、いつも自分に言い聞かせてたよ。自分の技量を過信してはだめ。山は臆病ぐらいの方がいいんだ・・・。無理やり登ると、雷にあたったり。冬の山はいいね。厳冬期はやらなかったね。3月なると雪がかたまってくるので、アイゼンきかせて登るんだけど、そのあたりがいいね。
どんな山でも、冬山で雪崩はいつでもおきるから。クレパスはあるけど、危険性は少ない。幅が2m、深さ30mあって100m続くんだね。
大好きな山「剣岳」とその小説
一番好きな山?
真っ先に立山。「剱岳 点の記」という映画が最近あったでしょ?山のガイドで、山案内人が剱岳の高さを測ったんだね。あの頃、地理観測所が地図を作っていたと思うけど、その役所に勤めてたのかな。
本もあって、大好きな本(注)なんだけど、それが映画になってね。何度も見たよ。おもしろかった! 自分の知ってる山がたっぷり出てくるから。剱岳は、富山県になるのかな。立山の最高峰!立山から室堂平、バスとケーブルとトンネルの中はトロリーバス・・。扇沢からだとかなり時間はかかるね。剱岳を含むのが立山連邦。日本三霊山の一つとして今でも崇められている山山だ。
*注:本書は、日露戦争直後、北アルプスの劔岳登頂を命ぜられた測 量官・柴崎芳太郎をモデルにした小説である。当時、劔岳は前人未踏、弘法大師が草鞋3千足を使っても登れず、登ってはならない山と恐れられていた。その劔岳の踏破を草創期の山岳会が狙っていた。これを知った陸地測量部のトップ層が初登頂は譲れないと、命令した。
陸地測量部は30年間にわたって測量を続け、ほぼ日本の地図を作り上げていた。最後に残ったのが劔岳周辺。日本の山は、修験者など宗教上登頂された以外の山はほとんど陸地測量部員によって初登頂されている。絶対に山岳会に先を越されてはならない、上司がすべて陸軍将校の陸地測量部員にとって初登頂は至上命令だった。
困難を極めたが、剣岳と映らの大雪渓(現在、長次郎谷と呼ばれている)から山頂を極めた。しかし、山東三角点設置のための材料はとても背負い上げられない。やむなく四等三角点、それでも長さ10尺(3m)、切り口1寸5分(4.5cm)の丸太を担ぎ上げなければならなかった。ゆるぎない信念と使命感、部下への思い遣りあふれたマネジメントなど、リーダーの資質十分な柴崎と、確かな技をもった律儀な職人長次郎の組み合わせによって三角点設置のための劔岳登頂は、はじめて成しえた業績と云えるだろう。「文藝春秋社のコメントより一部抜粋」
秋田の兄も山好きだった
いろんな山に、秋田の兄貴も連れてったよ。孝吉兄も山を恐れない人だったから。山大好きだったけど、あの人も山にきのこ取りに行って、遭難し、急死に一生を得たね。新聞紙やらで寒さを凌いで、一昼夜、水だけで生き延びるとは、やっぱりたいしたもんだな。晩秋の秋田の山奥では氷点下だったろうし。
あの人は筆まめで、文筆家。たいした筆まめ。みんなに書いたものを送ってね。あの人は、小さい頃から絵は断トツに上手かったね。小さい頃に筆セットを買ってもらって、絵具もあの頃は高かったけど、養子に行ったから、待遇が良かったんだろう。よく風景画を描いていたのを覚えてますよ。私もそれなりに絵は好きだったけど、比べ物にはならないほど上手かったね。
本当は東京芸術大学に行きたかったけど、勉強の方で落ちちゃったんだ。それから仕事は日本生命やら転々として、絵は単なる趣味になっちゃったね。あのまま絵の世界に入っていたら、それなりに大成したかも知れないが。
日本の登山は信仰登山
剱岳というのは信仰の山。日本人の山登りと西洋人のそれとでは、考え方が違うんですよ。日本人は、昔から山には神様が宿っているという信仰をもって、祠(ほこら)を建てて、そこに参拝登山をするという感覚。信仰のために登るという歴史があった。
しかし、明治時代になって、近代登山といって、スポーツ登山というか、信仰がなくても、登山をするようになった。ところが、ヨーロッパ人は日本のそういう信仰登山に関心がなく、スポーツ登山が無いと考えて、日本の山を開発しようと、乗鞍岳とか穂高とかに登ったんですよ。宣教師たちが剱岳に登った。ヨーロッパ人は剣岳を未踏の山と勘違いして、まあ知識が無かったのかも知れないが、こぞって剱岳に登ったんだな。
日本では昔から富士講・何々村で、今度は立山に登るから年間計画を立てて、いついつ登るという風にして登る。参拝に行く・・・、富士山参拝・伊勢参拝・というのが講なんですね。富士講の講というのは、講和の講・・集団の事。富士山の神様を信じて登る集団は『講』、立山に登る集団は『立講』ってこと。
山に行くにも旅費がいるわけだね。講はみんなで旅費を積み立てて、村長は順番に村民を連れていくわけ。積み立てていれば、いつかは行けるわけだから。
日本の近代化でいろんな事がおきた
明治になって、日本も近代化するために、政府が出した廃仏棄却令・・・、仏を捨て去れってこと。日本は仏を信じてお寺を信じきたのに、近代化を急ぐために、古い物は悪い、西洋の物がいいと。
明治の初期はすべて日本の古いもの捨てて、幕府を全部悪い物にした。それを倒した朝帝はいいという風になってしまい、そういう風習が続いたんだね。日本はある部分、文明開化が行きすぎて、西洋文化は進んだけど、日本独自の文化を捨てた、という過去があるんですよ。
今はどうなんでしょうかね・・。
徳川幕府を倒さなくては、日本はついていけないという事で、捨てちゃったんだね。いいか悪いかは別として。大仏様の上に天皇を置いたわけ。前は天皇が下だったのに、江戸時代から仏様の上に天皇絶対主義になったんだ。現人神・天皇は生き神様。天皇はずっといたけど、政治から手を引いてしまったわけ。幕府に任せたわけ。権力はないけど、えらいものにしておこう、という事だね。
また山の話になるけど、今の世の中でも山女(注:山ガールのこと)とか流行ってるらしいけど、山に登ると崇高な気持ちになるとか、御来光を見るために富士山に登るとか、いつになっても日本人は信仰登山のような気がするけどね。
最近までやっていた「ウォーキングの会」
ずっと温めていた素人のための「ウォーキングの会」を主婦を中心に、楽しくやったのが最後だね。毎回鎌倉や、横浜のこの辺の旧所名跡を廻りながら、ゆっくり歩くという趣旨で近所の人に声をかけたら、それなりに集まってね。
毎回、自分で実際歩いてポイントを探して、計画を立てるのが、それは楽しかったね。もともと歴史も好きだし、歩くのも好きだから。ルートをあれやこれや考えている時が、それもお酒を飲みながら考えて。いやー、最高だったね。まあいつしか自然消滅して、その会も無くなったけど、晩年のいい思い出だ。
あとがき
私の父の兄弟である忠男叔父の「ききがき」をするには、あまりにも壮絶な人生を知っている私としては、非常に複雑な思いでした。しかし限られた3時間という範囲で、何か叔父の一番好きだった事の少しでも書き残す事ができれば、という思いでした。
私が小さな時から一番愉快で、物知りだった叔父は、私が上京してからも人がよく集まり、笑い声の絶えない家でしたので、叔父宅へは事あるごとに行っていたのが昨日の事のように思い出されます。
今は、体が思うようにならない叔母を介護しながら、自分も進みつつある認知症とむきあって穏やかな日々を過ごしています。かわいい孫が4人もいるのですから、まだまだお二人仲良くどうぞお元気でお暮らし下さい。
posted by ききがきすと at 22:40
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◆趣味あれこれ
東京に帰ってから刺繍をやっていたんですよ。そのほかに、皮工芸をやっていまして、たまたま、1個こっちに持ってきておいて、部屋に作品がありますのでそれを見せます。ブックエンドがあります。
皮を彫るんです。それも自分で。デザインは先生が持ってきて、その中から選んでやるんですけど、こういう細かい画は自分で考えて作ります。
家にはスリッパとかありましたけれど、みな捨てちゃいましたね。家にいくと、周りに皮工芸をした大きな鏡があるんですよ。あと、玄関のマットレスがあります。いま、家の玄関は小さいのでしまってあります。
◆リウマチを患う
習字もね、昔、習いに行ったときは、それで日展まで出せるところまでいったんですが、リウマチが起きたんです。それが悔しくて・・・。やっぱり練習はしていましたけれど、もう、片手になっちゃたから、だめですね。
ころんで、手をついて、それがきっかけでした。それで、聖路加病院の一番新しい先生に会いましてね、その日が土曜日か何かで、いつもの先生はいなかったんです。いつものの先生がもう脳梗塞やってるから、手術をしちやっちゃだめと言っているのに、その先生は若いから、手術するというんです。それで、手術をする、しない、する、しないで半日かかっちゃった。それが良くなかったんです。
そのときはついてなかったんですね。知らないから、もうここからここまでギブスはめられたから、てっきり直るものと思っていたから…。
結局、今住んでいるところの近所の人が「赤坂にいい病院がありますよ」と教えて下さって、そこへ通って直してもらったんですが、ギブスをはめることになっちゃって。ええ、泣いてね・・・。こんなになっちゃって、悔しいですね。
この間から習字を片手で始めました。常に何かやった方がいいかなあ。昔から何かは、やっていましたね。子供のセーター編んであげたり、チョッキを編んだり、こういうのは子供達もよく着ていました。
習字は下手ですけど、左手で書いたのがリビングホールに1枚だけ飾ってあります。画もあります。バナナの画と、あとザクロの画が・・・。
刺繍とか手先を使い根気がいる趣味がすきですね。でも、趣味というのはなかなか続けるというのは大変ですね。続けられたのは、お友達がいたからでしょうね。
憧れの大学へ行く
自分の時間が多く、主人の帰りが遅いし、子供達が全部大きくなってから、私が50から60歳の頃、大学に入ったんですよ! 法政大学に。
NHK学園がありますね、そこに入っていると大学にいけるんですよ。NHK学園に入れば大学に入れる、そういうずるい考えを持っていました。それで、法政大学の文学部歴史科に入って、歴史を勉強したんです。
史学科だから、卒論は二宮金次郎を書いたんですよ、小田原出身だからね。新しい本も手に入れやすいし、二宮金次郎も結構いろんな苦労しているから・・・。
卒論書くのは大変でしたよ。夕方から大学に行くのです。「お母さんに自分の時間ちょうだい」と、子供達に言って。そして、翌朝はまたきちんと起きるんですが、好きな勉強のためですから、そりゃ平気でしたよ、女性は強いですね。
それがね、ちょうど母が病気になっちゃって。2年間、休学して、また行って。だから、結局、NHK学園は4年・・・。10年のうち、2年が休学で残念でしただけれど、でも、母をちゃんと見送りましたからね、
私は常に何かにチャレンジしていないと気がすまないんでしょうね。大学に91歳のお婆さんがきていたんですよ、ホント。私なんか50、60代ですから、頑張らなきゃと。
振り返ると、向学心に燃えた人生に悔いなし、という感じ。いい人生だったなあ・・・と思います。
(完)
posted by ききがきすと at 03:05
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posted by ききがきすと at 02:45
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posted by ききがきすと at 01:13
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卒業したのは横浜国立大学の経済学部。当時の国立は1期校、2期校といっていた。1期校の東大と2期校の横浜国大、それに駿台予備校を受けたが、東大は“桜が散った”。2期校と駿台の発表は同じ日で、どちらも受かっていて、どうしようかなと悩んだ。もう1年浪人して東大を受ければ、なんとかなるだろうという高校の先生もいたし。
仕事は経理・会計だったが、私は会社というものを突き放してみていたような気がする。普通は偉くなってくるにつれて、企業の中にのめり込んでいって、人間関係なんかを築いていくのだろうけど。客観的に見ることを要請されていたかもしれないが、ポンと外れてみていたような気がする。上からの指示をあまり素直に聞けないようなところがあって、扱いにくかったかもしれない(笑)。それなりには一生懸命やっていたと思うけど。製品開発とか営業だったら、違ったのかな。
投融資は本体じゃできないから、どこも関係会社つくってやっていた。そういうことで稼いだお金をファンドなんかに投融資していたが、それが一度に弾けた。担当者は処分されたり、会社を辞めざるをえなかったり、ずいぶん傷ついた人が多かったと思う。でも、上は無責任だよね。やってる時は見て見ぬふりなんだよ。本来のマネジメントからすれば、定款で決めた本業は製品を作って、世の中に貢献するということだから、博打をやることではないと、ちゃんと締めないといけない。だけど、まあ利益を出すし、儲かっているし、それを配当すれば、株主からも文句をいわれないという構造だった。
前にも言ったように、自分はのめり込めない、のめり込まない性格。それが欠点でもあったろうし、もっと自分を出すものがなかったのか、あるいはそれが分からなかったのか、怖くてできなかったのか。その辺はよくわからない。けど、時々、のめり込んでいくことがやっぱり怖かったのかなと思う。冷静ぶっているだけだったのかもしれない。
posted by ききがきすと at 23:47
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語りびと:藤田敏子 ききがきすと:海田廣子
聞き書き時期:2011年1月
新幹線のホームで私の前に夫の母親がいたの。たくさん荷物を持っていたから、一つお持ちしましょうかと声をかけて新幹線に乗ったのがご縁だった。一度遊びに来てくださいといわれて、住所、場所を書いてもらった。そのとき私は、婚約していたのを断りに名古屋から静岡へ行く時だった。
結婚してしばらくして、子どもが中学生になったらカルチャースクールではなくて、ちゃんとしたところに絵を習いに行きたいと思っていたのよね。たまたま、ホテルオークラのレディーズサークルでアトリエのオーナーの奥さまと一緒になりお友達になった。「実は恵比寿に主人がアトリエを開くのでよかったら来てくださいね」と言われて、じゃ見に行こうかなと軽い気持ちで見に行って、ここなら大丈夫かなと。ちょうど息子が中学生になるタイミングだった。義母はあの時代の人だから家庭の主婦が毎日外に出るなんてとんでもないという考えが強い。義母は4時に夕飯を食べるの。だから、朝9時ごろまでにきちんと片付けをして、お昼ご飯と夕飯の準備をしてから出かけて行く。文句を言われないように家のことは完璧にした。そこが私の強いところ。やりくりがうまくなったわね。何十年もかかって編み出したことだから。義母も何年かするうちにだんだん私のやり方に慣れて、諦めちゃって・・・(笑)。でも長かったわ。これで大丈夫だと思ったのはおじいちゃんが亡くなってから。
私の母の父は、佐々木三六(さんろく)という画家。雅号は「長江」。母が遺産分けでもらった絵がたくさんあった。私たちでは保管できないのでもったいないからと金沢の近代美術館に相談したら、そこの館長さんが預からせてもらうと言って保管してくれることになった。そのかわり美術館で企画展する時は使わせてくださいという条件で。
昭和52年に福井県立美術館で『福井の明治美術展』が開催された。三六さんの絵が図録の表紙に使われている。ルーベンスとかフェルメールのような絵ね。イタリアの美術学校留学の時に描いたのではないかしら。図録に『洋画留学の最も早い人の一人。トリノ留学。コンクール で一等賞をとった作品』と書いてある。 三六さんの父、佐々木長淳(ながあつ)さんも絵を描いていた。図録に『ペ リーが来たときに、軍艦の中に絵図を描いた。養蚕学もやっていて近代製糸業にも尽くした。橋本左内肖像画を残した』とある。
孫の私は絵を描くのが好きなだけ。あと、いとこ(三六さんの三男の子)が人形作家。ご主人が外科のお医者さまだった。私より2才年上で71才。富山に住んでいて人形作りを教えている。彼女の人形はコレクターがたくさんいて海外では全部売り切れてしまう。今度パリに出展するらしい。日本の人形展で賞を総なめにしているの。この人が一番おじいさんの影響を受けている。
私の絵が欲しいというので絵を送ったら、紙粘土で作った人形を送ってきたの。身体の骨組みから全部わかってないとこういう作品はできないと思う。孫たちが見るとリアルすぎて怖いというの。ものすごく霊感が強い人だから人形に魂が全部はいっていく。粗末にできない。ほこりかぶっているけど(笑)。そのうちに二人展をしたい。
日本に帰ってから検査を受けたら「別にこれといったことがありません」と。あの出血は何だったのと狐につままれたような感じ。ストレスとか気圧の変化とかで腸に穴が開いて出血したらしい。1週間ギリシャで入院している間にすっかり穴がふさがって、日本で検査受けたときはどうってことなくなっていた。癌なんてとんでもない。
昔、テニスをしていたの。夫も一緒に。そのときの仲間はみな辞めてしまっているのだけども、今も行き来している。1月3日は必ずわが家に来て私のお料理を食べて、飲み会をやるの。8人くらいなので足の踏み場もないくらい。午後3時に来て、帰るのは夜の11時過ぎ。今年で22年よと言われて、そんなに続いていたのとびっくりしたのだけど・・・。
posted by ききがきすと at 12:12
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