2012年04月18日

山を愛し、お酒を愛し、人を愛し

山を愛し、お酒を愛し、人を愛し

 
 かたりびと:加藤忠男   ききがきすと:豊島道子

先輩教員の誘いで始めた「山」に魅せられて

t1.jpg 
今年85歳になるけど、人生をあらためて思い起こしてみると、半分は山だったね。富士山にも事あるごとに登ったしね。

山をやるきっかけ? 高校の教員になってからだね。大学で山岳をならした人が私の同僚で。そうね、10歳くらい上だったかな。山好きな先輩で、手ほどきしてくれて、山の登り方とか、こんな山がいいとかを教えてくれたり。その人は拓殖大学の山岳部出身で、キャリアからいうと、南極探検隊なんかにも参加できたような人なんだけどね。

 
学校の教員だったから、学校が休みの夏・冬は少し遠出をして、二人だけで行った山はたくさんあるね。低い山は低い山なりの良さがあったし、高い山だけが名峯ではないし、1000mでもいいわけ。

 
田部井淳子さんも、福島県にもたくさんいい山があるので、好きな山をせっせと紹介して登ってるね。一度一緒に上った事もあるな。うーん、八ヶ岳はいい山だ! 彼女は福島出身だし、親近感があるね。彼女まだまだやれるし、テレビで見るにつけ、元気でいいねぇ。女性初のエベレストに登る候補の女性が、たまたま具合が悪かったので、次候補の彼女が選ばれて、それでどんどん頭角を表していったんだよ。まあ、世の中何かのきっかけというか、運もあるんだねぇ。

山を教えてくれた人の大怪我

t2.jpg 
そうそう、その先輩が、怪我をしたんだ、大怪我をね。運動会の後、慰労会があって、お酒を飲んで家に帰るのに、タクシーに乗ったらしいのね。降りた場所が川べりで、酔っぱらっていたし、狭いのでそのまま川に落ちてしまったとか。大変な事故で、頭打って、腰打って、脊髄損傷。入院して、そのままでついに復帰できなかったね。

 
私もがっかりしたけど、それからは一人で登るようになったね。みんなしてわいわい登るような事はなかったけど、好きだったね、山は。

 
山で道に迷ったという事はないかって? 地図とコンパスだけで登るけど、それは無かったね。

 
妻も山が好きだから、止められた事は無かったよ。「行くの? 気をつけて行ってらっしゃい」っていつも送りだしてくれたよ。

 
山は無理しちゃいけないというのを、いつも自分に言い聞かせてたよ。自分の技量を過信してはだめ。山は臆病ぐらいの方がいいんだ・・・。無理やり登ると、雷にあたったり。冬の山はいいね。厳冬期はやらなかったね。3月なると雪がかたまってくるので、アイゼンきかせて登るんだけど、そのあたりがいいね。

 どんな山でも、冬山で雪崩はいつでもおきるから。クレパスはあるけど、危険性は少ない。幅が2m、深さ30mあって100m続くんだね。

大好きな山「剣岳」とその小説

 
一番好きな山?

 
真っ先に立山。「剱岳 点の記」という映画が最近あったでしょ?山のガイドで、山案内人が剱岳の高さを測ったんだね。あの頃、地理観測所が地図を作っていたと思うけど、その役所に勤めてたのかな。

t3.jpg 
本もあって、大好きな本(注)なんだけど、それが映画になってね。何度も見たよ。おもしろかった! 自分の知ってる山がたっぷり出てくるから。剱岳は、富山県になるのかな。立山の最高峰!立山から室堂平、バスとケーブルとトンネルの中はトロリーバス・・。扇沢からだとかなり時間はかかるね。剱岳を含むのが立山連邦。日本三霊山の一つとして今でも崇められている山山だ。

*注:本書は、日露戦争直後、北アルプスの劔岳登頂を命ぜられた測 量官・柴崎芳太郎をモデルにした小説である。当時、劔岳は前人未踏、弘法大師が草鞋3千足を使っても登れず、登ってはならない山と恐れられていた。その劔岳の踏破を草創期の山岳会が狙っていた。これを知った陸地測量部のトップ層が初登頂は譲れないと、命令した。

 陸地測量部は30年間にわたって測量を続け、ほぼ日本の地図を作り上げていた。最後に残ったのが劔岳周辺。日本の山は、修験者など宗教上登頂された以外の山はほとんど陸地測量部員によって初登頂されている。絶対に山岳会に先を越されてはならない、上司がすべて陸軍将校の陸地測量部員にとって初登頂は至上命令だった。

 困難を極めたが、剣岳と映らの大雪渓(現在、長次郎谷と呼ばれている)から山頂を極めた。しかし、山東三角点設置のための材料はとても背負い上げられない。やむなく四等三角点、それでも長さ10(3m)、切り口1寸5分(4.5cm)の丸太を担ぎ上げなければ
ならなかった。ゆるぎない信念と使命感、部下への思い遣りあふれたマネジメントなど、リーダーの資質十分な柴崎と、確かな技をもった律儀な職人長次郎の組み合わせによって三角点設置のための劔岳登頂は、はじめて成しえた業績と云えるだろう。「文藝春秋社のコメントより一部抜粋」

秋田の兄も山好きだった

孝吉兄の米寿の祝いの席.jpg 
いろんな山に、秋田の兄貴も連れてったよ。孝吉兄も山を恐れない人だったから。山大好きだったけど、あの人も山にきのこ取りに行って、遭難し、急死に一生を得たね。新聞紙やらで寒さを凌いで、一昼夜、水だけで生き延びるとは、やっぱりたいしたもんだな。晩秋の秋田の山奥では氷点下だったろうし。

 
あの人は筆まめで、文筆家。たいした筆まめ。みんなに書いたものを送ってね。あの人は、小さい頃から絵は断トツに上手かったね。小さい頃に筆セットを買ってもらって、絵具もあの頃は高かったけど、養子に行ったから、待遇が良かったんだろう。よく風景画を描いていたのを覚えてますよ。私もそれなりに絵は好きだったけど、比べ物にはならないほど上手かったね。

 
本当は東京芸術大学に行きたかったけど、勉強の方で落ちちゃったんだ。それから仕事は日本生命やら転々として、絵は単なる趣味になっちゃったね。あのまま絵の世界に入っていたら、それなりに大成したかも知れないが。

 
日本の登山は信仰登山

 
剱岳というのは信仰の山。日本人の山登りと西洋人のそれとでは、考え方が違うんですよ。日本人は、昔から山には神様が宿っているという信仰をもって、祠(ほこら)を建てて、そこに参拝登山をするという感覚。信仰のために登るという歴史があった。

 
しかし、明治時代になって、近代登山といって、スポーツ登山というか、信仰がなくても、登山をするようになった。ところが、ヨーロッパ人は日本のそういう信仰登山に関心がなく、スポーツ登山が無いと考えて、日本の山を開発しようと、乗鞍岳とか穂高とかに登ったんですよ。宣教師たちが剱岳に登った。ヨーロッパ人は剣岳を未踏の山と勘違いして、まあ知識が無かったのかも知れないが、こぞって剱岳に登ったんだな。

 
日本では昔から富士講・何々村で、今度は立山に登るから年間計画を立てて、いついつ登るという風にして登る。参拝に行く・・・、富士山参拝・伊勢参拝・というのが講なんですね。富士講の講というのは、講和の講・・集団の事。富士山の神様を信じて登る集団は『講』、立山に登る集団は『立講』ってこと。

 
山に行くにも旅費がいるわけだね。講はみんなで旅費を積み立てて、村長は順番に村民を連れていくわけ。積み立てていれば、いつかは行けるわけだから。

 
日本の近代化でいろんな事がおきた

まだ車も運転されて元気だった頃.jpg 
明治になって、日本も近代化するために、政府が出した廃仏棄却令・・・、仏を捨て去れってこと。日本は仏を信じてお寺を信じきたのに、近代化を急ぐために、古い物は悪い、西洋の物がいいと。

 
明治の初期はすべて日本の古いもの捨てて、幕府を全部悪い物にした。それを倒した朝帝はいいという風になってしまい、そういう風習が続いたんだね。日本はある部分、文明開化が行きすぎて、西洋文化は進んだけど、日本独自の文化を捨てた、という過去があるんですよ。

 
今はどうなんでしょうかね・・。

 
徳川幕府を倒さなくては、日本はついていけないという事で、捨てちゃったんだね。いいか悪いかは別として。大仏様の上に天皇を置いたわけ。前は天皇が下だったのに、江戸時代から仏様の上に天皇絶対主義になったんだ。現人神・天皇は生き神様。天皇はずっといたけど、政治から手を引いてしまったわけ。幕府に任せたわけ。権力はないけど、えらいものにしておこう、という事だね。

 
また山の話になるけど、今の世の中でも山女(注:山ガールのこと)とか流行ってるらしいけど、山に登ると崇高な気持ちになるとか、御来光を見るために富士山に登るとか、いつになっても日本人は信仰登山のような気がするけどね。

 
最近までやっていた「ウォーキングの会」

数年前までリーダーを務めていた『歩こう会』.jpg 
ずっと温めていた素人のための「ウォーキングの会」を主婦を中心に、楽しくやったのが最後だね。毎回鎌倉や、横浜のこの辺の旧所名跡を廻りながら、ゆっくり歩くという趣旨で近所の人に声をかけたら、それなりに集まってね。

 
毎回、自分で実際歩いてポイントを探して、計画を立てるのが、それは楽しかったね。もともと歴史も好きだし、歩くのも好きだから。ルートをあれやこれや考えている時が、それもお酒を飲みながら考えて。いやー、最高だったね。まあいつしか自然消滅して、その会も無くなったけど、晩年のいい思い出だ。

あとがき

 
私の父の兄弟である忠男叔父の「ききがき」をするには、あまりにも壮絶な人生を知っている私としては、非常に複雑な思いでした。しかし限られた3時間という範囲で、何か叔父の一番好きだった事の少しでも書き残す事ができれば、という思いでした。

 
私が小さな時から一番愉快で、物知りだった叔父は、私が上京してからも人がよく集まり、笑い声の絶えない家でしたので、叔父宅へは事あるごとに行っていたのが昨日の事のように思い出されます。

 
今は、体が思うようにならない叔母を介護しながら、自分も進みつつある認知症とむきあって穏やかな日々を過ごしています。かわいい孫が4人もいるのですから、まだまだお二人仲良くどうぞお元気でお暮らし下さい。

posted by ききがきすと at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月09日

人生に悔いなし、向学心に燃えて

人生に悔いなし、向学心に燃えて
 〜「旅人さん」と言われ、各地を転勤する中で〜

 
かたりびと:大嶋みつよ  ききがきすと:菊井正彦

私たちは転勤族

face1.jpg 私がこのホームへ入居したのは5年前、「相生の里」ができてしばらくしてからです。主人は定年になって家にいたんですけれど、私がリウマチになって、子供達が、「こんなに遠くに居たんではだめだから、近くにいらっしゃい」、といいますので、引越してきました。

 前は”勝どき“に居たんです。勝どき橋を建てていた会社が市に貸していた住宅があり、1年ぐらい住んでいたんですよ。


 主人は日本生命に勤めていて転勤族だから、いろんな所へ行きましてね、「旅人さん(たびにんさん)」と言われたこともあるんですよ、「旅人さん」と言われて何のことかと思いましたら、転勤して歩くかららしいんです。やっぱり周りの人はそう思うんですよ。私は分からなかったんです。初めていわれたときは、年中動いているから「旅人さん」と言われたんだと思って。

 転勤は、本当に日本国中ありましたね。東京都内は歩きましたよ! 特に、オリンピックの前は。最初は、子供がいましたから、庭がある一戸建てを借りていたんです。オリンピック近くになって埼玉県へ引越し、それから社宅になりました。

 長かったのは渋谷、よかったですね。渋谷ではいろんなことができましたからね、主人は帰りが遅いし、子供達も大きくなっていたから。だから、碁なんかを習ったんですよ。腕はたいしたことはないですよ。四谷の駅前にある碁会所へも行きました。碁はこのホームでも教えていただくんです。いまでは、置碁してもらって、勝つか負けるかどっちかという感じです。

 他には埼玉にも行きました。有名な鐘のある・・・川越です。チョット変わった町ですね。江戸への北の入り口で、お宮も神社も大きいし、情緒があるところで駄菓子屋さんなんか、一杯並んでいますよ。

 どこへ行ってもなるべく、あまりよそ者にはならないようにと思いまして、その地区の方と一生懸命交流するようにしました。そういう苦労はありますね!

 長く居たのは福島県で4年間です。4年間で長い方ですよ。大阪に転勤した時には1年ですぐ帰ってきたこともあるんです。これは会社の都合です。子供が高校生だったから、受験しなくてはいけなかったし・・・。そんな苦労もありました。

◆思い出の地「福島」

image2.jpg 福島には思い出があります! 今は原発がありますけど、・・・その頃はなかったですよ。「原発ってどんなものかしら? 見に行こう」といって、皆で見に行ったことがあるんです。まさか、こんなことになるとは・・・。

 原発があんなに沢山できるとは思いませんでした。最初一つだけだと思っていました。「それじゃ、行ってみようか」って、観光気分でね。

 あのとき、原発に反対すればよかった・・・。反対なんかできなかったんですけれどね。

 だから、福島に一番思い出がありますね! 住んでいましたのは、福島市のちょうど真ん中、福島大学の前です。中通りですね。信夫山の麓です。あそこはよかったですよ! 今は大学の図書館になっていますけど、大学があってすごく楽しくて・・・。

 福島では友達ができましてね、よく旅行にいったんですよ、車で。福島の裏磐梯の方、まだ雪のある内に。何というんでしょうか、雪の回廊ですか? それを見たんですよ、黒部立山で有名ですが、福島にもあるんですよ。

 福島ではとっても楽しい思い出があります!。温泉に行ったときに、山の中で花火大会を見たんです。山の中で花火ってすごく綺麗なんですね! 温泉は何というところでしたかな? 温泉はいっぱいあるからね。

 花火は海だと思うでしょ? 山の花火もとても綺麗でしたよ。山の花火ってあんまり見ないじゃないですか。山の平らな所で打ち上げるから、山の花火は綺麗ですね。夜空が綺麗だし。

 福島の次は関西に行きました。あの頃は、子供はもう上が中学生になっていて、一番下の子供は小学生になっていましたでしょうか?

 県が違うと教育も違いますね。一番困ったのは長男のことでしたね。いつも、違う学校へ行く時が、学年の途中に引っかかるんですよ。長女はうまくいきましたが、長男は2年生の時だったり、中学3年生の時にもあったり・・・。でも、今考えますと、子供達も悪くならずについてきてくれたからよかったですけれどね。

◆子供達のこと

 今、長男は銀座で商売しているし、デザイナーの長女は電通に勤めていて、もう60歳になるかしら、部長なんですよ。キャリアウーマンというのかしら。

 旦那さんが新聞記者をしているんですけれど、定年まで勤めて、その後、自分の兄弟のところへ行って、自分達のお婆ちゃんを診ているんですよ。90歳になるお婆ちゃんは足をガンで切っちゃって、片足になっちゃたんですけど。でも、長女の旦那さんがよく診てくれています。朝も6時にお婆ちゃんのところに行って、足を診て、食事をあげて、おむつもちゃんとやって・・・。だから、大変な時は大変なんですけれど。

 今、主人は東京駅の前に住んでいます。家を買って勝鬨から引越したんです。マンションができて、そこがいいから一番下の子も買うというんで・・・。別個の家ですけどね。主人は家に居ます。おさんどんはやらないみたいですよ。やはり外で食べていた方が安心です。

 主人は東京生まれなんです。目黒の駅前で商売をしていて、強制疎開で引越しして栃木県に。お爺ちゃん、お婆ちゃんの生まれたところへ行ったんです。もう、二人とも亡くなりました。私は小田原、浜っこです。どちらにしても都会っ子です。

 主人が定年になったとき、相模原に家を建てました。大工さんをわざわざ福島から連れていって、建ててもらったんです。だから、越したくなかったんですけど。福島の大工はいいですからね。だけど、相模原がすごく寒いところなんです。湿気が多いところで、そういうことが影響して私がリウマチになっちゃたんです。それで、こっちに引越ししてきました。

 あと思い出としては、大阪に居たときです。関西で野球の強い学校ありますね・・・、西宮にある学校です。その学校が近くてよく、野球場も見に行ったし、その球技場で体操もやりましたね。運動会も見に行った。

 甲子園も行きました。招待してくれたことがありまして、一番高い所にある席で、上からガラスが入った特別席があるんですよ、よく観えるんです。1回だけそこへ行ったことありますよ。その代わり、一般席の人と一緒に物を買ったり、食べたりできない、むずかしいですよ。

◆転勤地での友達づくり

 転勤した先の方と友達になったことはあります。大阪(西宮)に居たときに、私が皮工芸を習っていたんです。先生が名古屋の人でしたから、自分達も住んでいた名古屋で習っていたんですが、その時は、大阪まで一緒に習いにきて、展覧会などいろんなことやりました。

 その人達とは今でも交流しています。この相生の里にも来てくださって。5人いて、2人はもう亡くなっちゃたんですが。元気な方が、つい2、3日前もチョット来てくれました。そういうお友達とは、私なんか少ないのですけれど、ずっと大事にしていて、旅行へ行ったり、何かして遊んでいます。もう長いんです。

 刺繍は、みなさんもご存知かと思いますが、桜をやる先生がいましたでしょう、桜を黒い布地に刺繍する有名な先生、もう亡くなったですけどね。その先生のところへ習いに行ってたんです。

 その5人グループで九州の、新しくできたハウステンボスへ行ってきましたよ。あそこを建てたのは清水建設だったと思いますが、会社の一番偉い人がご主人、という、その奥さんも友達なんです!。 で、こういう人達と遊びに行ったりして、そっちの家に行ったり、ずいぶんいろんなことをしましたね。

◆趣味あれこれ

face2e.jpg 東京に帰ってから刺繍をやっていたんですよ。そのほかに、皮工芸をやっていまして、たまたま、1個こっちに持ってきておいて、部屋に作品がありますのでそれを見せます。ブックエンドがあります。

 皮を彫るんです。それも自分で。デザインは先生が持ってきて、その中から選んでやるんですけど、こういう細かい画は自分で考えて作ります。

 家にはスリッパとかありましたけれど、みな捨てちゃいましたね。家にいくと、周りに皮工芸をした大きな鏡があるんですよ。あと、玄関のマットレスがあります。いま、家の玄関は小さいのでしまってあります。


◆リウマチを患う

 習字もね、昔、習いに行ったときは、それで日展まで出せるところまでいったんですが、リウマチが起きたんです。それが悔しくて・・・。やっぱり練習はしていましたけれど、もう、片手になっちゃたから、だめですね。

 ころんで、手をついて、それがきっかけでした。それで、聖路加病院の一番新しい先生に会いましてね、その日が土曜日か何かで、いつもの先生はいなかったんです。いつものの先生がもう脳梗塞やってるから、手術をしちやっちゃだめと言っているのに、その先生は若いから、手術するというんです。それで、手術をする、しない、する、しないで半日かかっちゃった。それが良くなかったんです。

 そのときはついてなかったんですね。知らないから、もうここからここまでギブスはめられたから、てっきり直るものと思っていたから…。

 結局、今住んでいるところの近所の人が「赤坂にいい病院がありますよ」と教えて下さって、そこへ通って直してもらったんですが、ギブスをはめることになっちゃって。ええ、泣いてね・・・。こんなになっちゃって、悔しいですね。

image3.jpg この間から習字を片手で始めました。常に何かやった方がいいかなあ。昔から何かは、やっていましたね。子供のセーター編んであげたり、チョッキを編んだり、こういうのは子供達もよく着ていました。

 習字は下手ですけど、左手で書いたのがリビングホールに1枚だけ飾ってあります。画もあります。バナナの画と、あとザクロの画が・・・。

 刺繍とか手先を使い根気がいる趣味がすきですね。でも、趣味というのはなかなか続けるというのは大変ですね。続けられたのは、お友達がいたからでしょうね。

憧れの大学へ行く

image4.jpg 自分の時間が多く、主人の帰りが遅いし、子供達が全部大きくなってから、私が50から60歳の頃、大学に入ったんですよ! 法政大学に。

 NHK学園がありますね、そこに入っていると大学にいけるんですよ。NHK学園に入れば大学に入れる、そういうずるい考えを持っていました。それで、法政大学の文学部歴史科に入って、歴史を勉強したんです。

 史学科だから、卒論は二宮金次郎を書いたんですよ、小田原出身だからね。新しい本も手に入れやすいし、二宮金次郎も結構いろんな苦労しているから・・・。

 卒論書くのは大変でしたよ。夕方から大学に行くのです。「お母さんに自分の時間ちょうだい」と、子供達に言って。そして、翌朝はまたきちんと起きるんですが、好きな勉強のためですから、そりゃ平気でしたよ、女性は強いですね。

 それがね、ちょうど母が病気になっちゃって。2年間、休学して、また行って。だから、結局、NHK学園は4年・・・。10年のうち、2年が休学で残念でしただけれど、でも、母をちゃんと見送りましたからね、

 私は常に何かにチャレンジしていないと気がすまないんでしょうね。大学に91歳のお婆さんがきていたんですよ、ホント。私なんか5060代ですから、頑張らなきゃと。

 振り返ると、向学心に燃えた人生に悔いなし、という感じ。いい人生だったなあ・・・と思います。

(完)

posted by ききがきすと at 03:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月09日

心の中の大手町、赤坂、月島

心の中の大手町、赤坂、月島

  かたりびと:長縄芳子   聴き書き:S.K

1.仕事一筋の人生でした

東京市外電話局に勤めました

face1.jpg 
私は、大正五年一月二〇日生まれの九五歳。数えで九六歳になります。「仕事と結婚」して、これまでずっと一人で生きて来ました。今でいえばキャリアウーマンでしょうか。四〇年勤めました。私が就職した昭和五年の頃は、女性は結婚するのが当たり前で、一人でいるということはあまりありませんでした。その頃からちょっと変わっていたのかもしれません。

 
高等小学校を出て、聖心女学校の夜学を卒業し、昭和五年八月二三日に逓信省の電話の仕事につきました。東京市外電話局(東京中央電話局)(注1)といいました。全国を有線と通信(電信)で連絡をする通信士のような仕事です。学校を卒業するとき、学校の紹介で七人くらい試験を受けましたが、受かったのは三人でした。電話局は、大手町にありました。今の逓信総合博物館の南側で、通りをはさんで向かい側です。

三越を振りました

 
実は、学校を卒業したとき、三越と逓信省と両方に受かっていました。当時三越は、新宿の二幸という会社が就職や人事などを扱っていましたが―。

 
ところが、四月一日に電話局の採用通知がくると思ったら、なかなか採用日が決まらず、何だかんだして、八月二三日になって採用になりました。その頃市内電話が自動化されたということで、いろいろ忙しかったからだろうと思います。うちの母は、「そういうややこしいところには入らないで、三越にした方がいいわよ」と廻りから言われたようです。

 
あとから考えても、自分としては電話局に入ってよかったと思っています。というのは、三越は一日中立ちっぱなしですから、お客さんの機嫌を取っていてはくたびれてしまいます。私は大体、お客さんに会って、ニコニコ案内するような性格じゃないですから―。そういうことで、三越を振りました。

有線と通信で市外電話をつなぎました

image3.jpg 
毎年一度、電信の試験と法規の試験があり、結果が報告されました。それが出鱈目だと「長縄さん、試験ダメでしたね」と怒られます。だから、一生懸命勉強しました。でもそれはいい思い出です。一生縣命やる、若いからやる、そういう気持ちだったと思います。

 
その頃、電話の仕事は、東京、大阪、名古屋、札幌など大きい局が全国を分担してやっていました。東京は、その中心ということで全国を管理していました。遠いところでは、朝鮮や、しばらくして有線になった沖縄、北海道などもやっていました。樺太は、まだありませんでした。

 
はじめのうちは、電話は市内も市外も全部人が手でつないでいて、自動ではありませんでした。私が電話局に入った昭和五年というのは、ちょうど初めて京橋の局が自動になった頃で、ダイヤルを回すと自動でつながると大騒ぎになっていたときでした。自動化は、都内で一番最初が京橋局で、その次は高輪の局でした(注2)。

 
市内の局はみな自動化されましたが、市外電話は長距離ですから手でつなぎました。今と違って、ダイヤルして大阪が出るというわけではありません。そこで、有線にもかかわらず、少しでも有線を無駄にしないようにということで、トツウ(電信)と有線の両方(注3)を使って、次のお客さんをこうという具合に、空かないようにやっていました。だから、一日の通話量がどれくらいあったかよくわかりません。

 
線が空いているときは、線をつないで大阪の局を呼びだし、「どこのお客さんをつないで下さい。そっちのお客さんをこっちへつないでください。」と、口でしゃべればわかります。しかし、お客さんを続けてつなぐようにするには、話を職員がやったのではしょうがないですから、線をつないだまま、トツウ・トツウで、向こうからくる信号を聞いて、こっちからも信号を送って・・、という具合にやりました。

 
トツウ(電信)は、若いときからやりましたので、仕事で使ったことは今でも忘れません。おそらく、そういうふうにやっていたことは何にものっていないかもしれません。

 
韓国は有線だったと思いますが、線がつながっていて、たまたま通話が空いているときに、だれかうちの方の職員が「朝鮮人がいるわよ」と言ったらしいんです。それを聞かれてしまった。それで、監督さんと上の人たちが、問題が問題だからと大喧嘩になって大変でした。そのことは、職員が謝罪して、いいあんばいに治まりました。そういうことはあまり外には言えないことでした。

戦後、管理職に

image2.jpg 
戦後は、月島の家から電話局に通いました。アメリカ軍が進駐して来て「特別運用課」の方に配置になりました。いろいろありましたが、日本語では言葉が通じないので、幼稚園の「ディス・イズ」を勉強して何とかやりました。

 
特別運用課で勉強させてもらい、確か三〇歳を過ぎた頃に管理職になりました。女性の管理職は多くはなかったですが、少なくもなかったように思います。

 
電話局は女性の職場ですが、隣の中央電気通信局(中電)は男性の職場でした。でも、戦後は、女性も入るようになったのを思い出します。

 
仕事の内容は、国にかかわることなので、あまり公表できません。でも、四〇年間何とかかんとかやって、お陰さまで最後はちゃんと年金もいただき、ご飯を食べることに困ることもなく、ありがたいと思っています。

2.大家族で大変でした

兄妹は九人

 
どうして一人でいたのか聞かれますが、何しろ兄妹が一二人でした。私が一番上で長女ですが、一つ下の弟が長男。その次が双子の女の子で、赤ん坊の時に二人とも肺炎で亡くなりました。

 
その次が次男で、震災当時四歳でした。母は、動物を見せて喜ばせたいと思ったらしく、その子を上野動物園に連れて行きました。そのとき体に風邪の状況があったのですが、わからなかったようです。

 
帰りに子どもがどうも普通じゃないと思って、浅草の叔父のところに寄り、良くしていただいていた先生に診てもらったらとんでもない状態でした。「熱がありますので、今晩一晩中大切にしないと大変なことになりますよ」と言われ、それで急いで叔父の家に戻ってきて介抱しましたが、一日か二日して、肺炎で亡くなりました。

face2.jpg 
そういうことで三人亡くなって、残ったのが九人です。兄妹九人は、結婚したり、お嫁さんをもらうまでは皆うちにいました。女の子は、千葉とか神奈川とかに、皆嫁いで行きました。すぐ下の弟(長男)は、七三歳で早く亡くなりました。嫁もがっかりしたと思います。九人のうち一番下の弟も一昨年亡くなりました。

大変な思いをした買い出し

 
九人全員が揃っていた終戦後は、もののないときで、食事のときなど全員がお膳のところにずらっと並んで大騒ぎでした。貧乏でしたから、親は子どもを育てるのが大変だったと思います。

 
食べる米がないので、両国から汽車にのって、銚子のちょっと手前の駅のところに買い出しに行きました。何とか話しがついて、お米を一四キロ買いました。駅まで行く大通りには交番があり、ヤミ米が見つかると、とんでもないとつかまってしまいます。そこで海岸通りの砂浜を歩いていきました。そのうち、背負った米が重くて、くたびれてしまいました。どこかそのへんで休もうと思って腰を下ろしたが最後、今度は一四キロの米が持ち上がりません。

 
よっと持ち上げようとしても、下は砂ですから、ずるっと足がすべって立てないんです。しょうがないので、海苔や魚を干すやぐらに、えんやらやと米をかけて、一緒に行った長男の嫁にやっと立たせてもらいました。そういう辛い思いもしました。

 
帰りの汽車も大変でした。私が何べんも足をすべらせているので、「お姉さん、危ないから先に乗って」と嫁が言います。そこで先に汽車に乗りましたが、いつまでたっても嫁が来ません。窓から見たら、「お姉さん、まだ乗せてもらえない」と、泣き声を出しています。これは大変と思い、「すみません。あれはうちの嫁です。下から持ち上げてください」と周りのお客さんに頼み、やっと窓から乗っけてもらいました。

 
長男の嫁が元気だった時は、いつもこの話が出ていました。その嫁も一昨年の一二月に亡くなりました。よくできた嫁でした。

3.関東大震災で焼け出されました

赤坂で生まれました

face3.jpg 
私が生まれた家は、赤坂の一ッ木通りの傍にありました。父は建築屋でした。その頃は、通りのあたりは二階建ての家が多く、ほとんどが木造家屋でした。

 
大正一二年当時、私は一ッ木町の赤坂小学校(注4)の一年で、七歳でした。学校は、市電通り(青山通り)をはさんで、豊川稲荷のすぐ向かいにありました。九月一日は、学校は半日でした(注5)。昼前に家に帰って、母親に「ご飯まだ? おなかすいちゃった」と言うと、「今仕度してるから、どこか公園ででも遊んでらっしゃい」と言われました。

 
学校で、隣の席の河内さんに、ご飯を食べたら遊びに来てねと言われ、行くことにしていました。それで、ご飯前でも構わないだろうと思い、河内さんの家に行くことにしました。

 
河内さんの家は、歩いて一二・一三分ぐらいのところです。一ッ木通りをまっすぐ行ったところの交番から、左側に練兵場(注6)がある通りを乃木坂の方に五分ほど行って、通りから路地を二・三軒入ったところでした。

突然の地震。歩こうにも体がふらふら

 
私が「河内さん!」とちょうど呼んだときでした。突然「ぐらぐらっ、ぐらぐらっ」ときました。一一時五八分です。震度六か六強ぐらいでしょう。河内さんが、二階にいたか、階下にいたかはわかりません。危ないと思って、急いで河内さんの家の路地から表通りに出ました。

 
揺れるたびに煙がわあっと出て、いいお天気なのに空は煙で真っ暗。何にも見えません。通りにだれがいるかもわかりません。とにかく交番のところまで行かなきゃと思って、揺れで体がふわふわ・ふわふわ。何とか歩きました。年寄りだったらひっくり返っていたでしょう。まだ七つの子どもだったから立っていられたのかもしれません。

通りの真ん中へ出ろ

 
すると、「表へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ」と、おじいさんが怒鳴っているんです。怒鳴っているのがどんな人か、全然見えません。でも、その声を聞いて、道の真中にいるうちに、やっと地震が止みました。収まって見ると、何と空の煙は家の壁土だったのです。

 
通りのあちこちは、つぶれた家、二階がめちゃめちゃになった家、横倒しになった家といった状況になっていました。一ッ木通りのあたりの家は、溜池の方から出た火が廻ってきて、焼けてしまいました。あとになって私の家も焼けたことがわかりました。

お堀端に逃げる

 
両親は、私と弟と四歳の子の三人を連れて、荷車に、らっきょとかおにぎりなど食べ物や貴重品を載せて逃げました。夜は赤坂見附のお濠の公園で、父親が持ち出した畳に座って野宿しました。空が真っ赤な夕焼けで、きれいだったのを覚えています。

青山で避難生活

 
学校には一月ぐらい避難していたと思います。その後、青山の絵画館の前に避難所(仮住宅)ができて、江東や浅草や深川で焼け出された人と一緒に住んでいました。その仮住宅には四年いました。つまり都内の復興は四年かかったということでしょう。

 
避難住宅の前には青山連隊の練兵場があり、ラッパが聞こえてよかったことを思い出します。その後、小学校四年の一二月二三日に、月島に引っ越しました。

月島での苦労

face4.jpg 
震災後、月島へ来たわけですが、家は六畳と三畳でした。家族五人には狭いので、二畳建て増しし、隣にちょっぴりだけど庭も作りました。二畳の下に防空壕を掘りました。

 
当時、晴海のあたりはまだ海でした。この隅田川も洪水になるときがあったくらいでしたから、そのせいか、防空壕を掘ったら水がどんどん出てくるので、中で水の汲み出しをしなければなりませんでした。

 
そこで、木の樋(出し口)を作って、路地の土のうで囲ったところに水をため、柄杓で汲んで使うようにしていました。近所の人が、「水道が出ないので、築地の河岸までもらいに行かなきゃならないの。すみませんけど、お米研ぎと洗濯に使いたいんで、水いただけますか」と言っては、バケツを持ってきて汲んでいました。もっとも、水は臭いがするので、飲み水には使えませんでした。

4.おじいさんは命の恩人です

 
これまで第二次大戦もありましたし、いろんなことがありました。でも、繰り返しになりますが、関東大震災のとき、よく気がついて、「真ん中に!」って怒鳴ってくれたおじいさんは、命の恩人です。

 
あのおじいさんがいたおかげで、九五歳の今まで生きてこれたのです。その人にはとても感謝しています。どこの誰かもわかりませんが、ああいうときは神様みたいな人が出るんだなと思うのです。

 
そのおじいさんは、今はもう生きていないと思いますが、その当時、世の中が落ち着いていたら、表彰ものだったと思います。何人の人が通りにいたかわかりませんが、私一人じゃなくて、その人たちがみんな助かったわけですから。

 
あの状況で、怒鳴れたということは、東京の人ではなく、おそらく地震がたびたびある地方の人じゃないかと思います。そうでなければ、そういうことまで気がつかないでしょう。

 
長生きすると、命にかかわるようないろんなことがあります。でも今、命があるということは、この世に尽くせということだなと思います。だから、自分のことぐらいは自分で頑張らなきゃと思っています。

              (平成23・6・4談)

(注)

1:明治2312月に東京電話交換局が開設され、同25年7月に現在の千代田区大手町2丁目に移転し、同36年4月に東京中央電話局と改称された。東京市外電話局という名称になったのは、昭和24年6月、戦後の機構改革で逓信省が電気通信省に改められた時のことである。電気通信省はその後、昭和27年8月に日本電信電話公社となり、現在のNTTに受け継がれている。なお、東京市外電話局は、昭和60年に建物とともに、その歴史の幕を閉じている。

2:大正15年(昭和元年)に、東京中央電話局京橋分局で、日本で初めて自動交換方式が採用されている。

3:当時の電話交換で長距離線に用いられた「電信信号方式」といわれるもの。市外電話線を利用して作った電信回線を利用して電信符号で相手局を呼びだす。東京・大阪の両交換手が交換事務の連絡に使うために、電信電話双信法によって、通話中の電話回線に電信回線を乗せて、電信信号で交換上の打ち合わせや交換証の送受を行っていた

4:当時は東京市赤坂区一ッ木町(現在の港区赤坂4丁目・5丁目にあたる)という地番があったが、今は地名変更のため残っていない。なお、赤坂の「一ッ木通り」という通りの名称は、今も残っている。赤坂小学校は、明治6年に赤坂区一ッ木町に開校された学校で、同8年に赤坂小学校の名称となった。現在は赤坂8丁目にあるが、当時は青山通りをはさんで豊川稲荷の向かい側(今の赤坂4丁目のあたり)に校地・校舎があった。

5:9月1日は土曜日で2学期の始業式があり、子どもたちは昼前に下校している。

6:戦前、一ッ木町(現在の赤坂5丁目あたり)にあった「近衛歩兵第3連隊」ではないかと思われる。

(参考文献・写真出典)

○「写真でつづる八十八年―東京市外電話局」
 (昭和53年 日本電信電話公社東京市外電話局)
○「市外電話交換業務提要」
 
(昭和7年 東京中央電話局)
○「東京の電話(上)」
 
(昭和33年 日本電信電話公社東京電気通信局)
○「赤坂小学校の一二〇年」
 (平成4年 港区立赤坂小学校同窓会)
○「新修港区史」
 
(昭和54年 東京都港区役所)
○「関東大震災」
 
(平成17年 財団法人東京都慰霊協会)
○「語り継ぐ赤坂・青山 あの日あの頃」
 
(平成22年 赤坂・青山地区タウンミーティング『まちの歴史伝承分科会』)

(完)

posted by ききがきすと at 02:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月09日

市丸姉さんにあこがれて

市丸姉さんにあこがれて
 〜九十五歳のいまなお、どどいつを!〜

 かたりびと:木下清子  ききがきすと:豊島道子

左ぎっちょでも楽しかったわ

face3b.jpg 私は、大正4年生まれの95歳。おっちょこちょいなの。江戸っ子よ。私はね、字が書けない、読む事は読むんだけど、字が書けない。そのために見る事を覚えた。字が書けないから、見ると覚えるじゃないですか。これは「きのした」って、読むんだわ、とかね。

 尋常小学校はちゃんと6年間出たのよ。でも私左ぎっちょだから・・いまだに左ぎっちょで、みっともなくて困っちゃう。6人兄弟で、みんな字が上手いの。私だけが下手だったわ。だから、ろくな仕事にも就けなかった。女中に行っても、朋輩に馬鹿にされて追い出されたりして。親は別に働きに出したりしたわけではないけど、自分で出たのよ。

 お店の主人は泣き泣き、私を辞めさせたの。お料理屋だったから、左ぎっちょでは、商売が左前になるから、と言われてね。お客には好かれたんだけど。それでも、どうしても料理屋とかは駄目で、左でやれるところがいいっていう事で、貝屋に奉公したの。左ぎっちょでも、貝って口を開いてるから、こうやりゃ割れるじゃない?

 東京の佃よ、生まれて育ったのは。だから左ぎっちょだけど、左で殻むいたりして、楽しかったわ。いじめられないで。その主人が「そのつゆ、大事だから、飲んじゃいな!」って。貝がかたっぽ生きてるんでね、気持ち悪かったけどしょっちゅう、つゆ飲んでた。アサリだの赤貝だの・・・


寄席に通って、市丸姉さんの真似

face7.jpg
 字は書けない、ただしゃべることは、覚えたいんで、*市丸姉さんって人いたでしょ。

注)市丸姉さんは長野県松本市生まれ、16歳のとき、浅間温泉で半玉(芸者見習い)になり、19歳で上京して浅草で芸者になった。
浅草では一晩に何件ものお座敷を掛け持ちするほどの人気者。 噂を聞いたビクターが市丸姉さんを昭和6年に歌手としてデビューさせ、静岡鉄道のコマーシャルソング「茶切節」が全国的な大ヒットなった。
芸者1だったようです。

 浅草のそういうところに行って、「小唄」とか「どどいつ」を覚えたりしてたわ。私、14歳位だったからよっぽど寄せにでも出ようかしら、って言ったら、親がそんな思いしなくていいってね。

 寄席に出ない代わりに、学校の帰りには、寄せの下足番のおじさんの所に行って、おじさん知らないのに、「この下駄どこに入れたらいい?」って、言われないのにやるもんだから、かわいがられてね。だからね、「今日は、市丸姉さんくるから、お客の所に行って座って歌聞いた方がいいよ」って言ってくれたりして。

 毎日学校から帰ってくると寄せに行って、そんな事してたのよ。楽しかったわ。

かごしょって、魚拾い?

 ある日、友達に「魚市場でこじきやんない?」って言われたの。友達に。いいわって答えて。何だかわかる「こじき」って? 汚いかっこしてね、わらじはいて、かごしょってね。下におっこってるのを、ひろうわけ。そこの主人に何も言わないで、自分のかごに全部入れるわけ。家に持って帰ってきて、近所に持ってって売るのね、料理屋さんとかにね。

 かごしょって、わらじはいてね、魚市場の中に入ってそばを食べるお金位は持ってたから、そこで食べて隣のおじさんと仲良くなって、「おじさん、下におっこってるごみ拾いたいんだけど」って言ったら、「そっか、小遣い稼ぎだな。かごしょって4時に来なくちゃダメだよ」って教えてもらってね。4時に行くから学校なんて行かないの。

 ご主人がみんないい人で、いいよ、いいよって言ってくれるので、下に落ちてるの拾って。そのうち「この子か、清ちゃんてのは?」と言われて、すいませんって。でもね、私達は子供だったから、みんなかごに魚ほってくれたりして、楽しかったわ、子供のじぶんて。

結婚生活は短かったわね

 お嫁に行ったところは、門前仲町ってとこで、借家だったわ。ある時、下駄やじゃなくて、ええとね、何やだったか? とにかく家から近いから毎日行って、その前の掃除したりなんかしてたのよ。

 そこにいた人が、いいとこの息子なんだけど、親とけんかして、飛び出して、大学も出てたんだけど、その人が独身でそこに居候していたの。「私もらってくれないかしら」って言ったら、「いいよ、もらってやる」って。それでちゃんと結婚式もやって一緒になったの。

 その人と結婚したんだけど、死んじゃったわね。結婚して10年位は一緒にいたんだけど。その人電気やさんでね。その時は、赤坂に貸家がたくさんあって、乃木大将の墓もあったわね。7・8人の弟子を連れては、コードをあっちやれ、こっちやれっていうふうな仕事をしてたわ。

 戦争にもあったわね。門前仲町で逃げて、川っぺりにつかまって、夜をあかしたの。いろいろその間あったけど、戦争は早く終わったような気がするけど、今となりゃあんまり覚えてないね。

私、男の人が好きなの!

image5b.jpg
 くだらない話が一杯あるのよ。していいかしら? 私ね、男が好きだったの。どんな男って、お金を持ってたら、どこへでも行ったの。私はお金持ってなかったから、お金があったらどこへでも行けるでしょ?

 たとえば、向島の方に、「やおまつ」という料理旅館があったの。「やおまつ」に行くのにね、永代橋から船が出てたの。船頭がいて、川っぺりに雨も降ってないのに、番傘さして出迎えてくれるのよ。

 私、昔から市丸姉さんにあこがれて、歌いなさい、っていうと今でもすぐ歌うの。「どどいつぁ〜野暮でも、やりくりゃああ上手っ、けさも七つやでほめら〜れえぇぇ〜た」

 くだらない、人生。男の人が好きなのよ。振られたことはないわね。

 芸事が好きだったから、いろんな歌を歌ったわね。市丸さんが好きだったわ。浅草の芸者衆。勝太郎さんとかね。「端唄」とか、「どどいつ」だとか、持ち味があるでしょ、声に。私は低音で歌ったり、高い声で歌ったり。私は、芸者になりたかったけど、親がいけないって。

相生の里での今の生活

image3b.jpg 三味線も2丁もってきてるの。足をけがしてね、座れないし、三味線は、車椅子ではひけないのよ。私、ここでは今車椅子の生活だから、すわれないでしょ、三味線がのらないでしょ、この肘掛がじゃまして。だらしない持ち方になるからやれないわ。ここへ(膝の上に)のせないとね、浅く腰かけないと、三味線がのらないでしょ(今にも三味線があれば引き出しそうな雰囲気で)。いつでも三味線ひけるように、ここに(相生の里)持ってきてるの。

 何年か前の暮の大みそかで、歌ったり、三味線弾いたり、みんなの前でやったのよ。何か歌ってって言われると、手を挙げて、はいって歌うのよ。

 でもその後ころんで、大けがしたの。もう3年位前に、ころんで、大怪我をして、もう治らないのよ。医者がリハビリも駄目だし、無理しちゃだめって言うから。

 お裁縫が好きだったけど、ここじゃ針と糸持ってきてはいけませんって、言われたの。お裁縫もするのよ、ちゃんと親が習いに通わせてくれて。

 みんな兄弟元気ですよ。長男が、お金送ってくれてね。私が一番下だけど、みんな東京に住んでます。今じゃ、みんな年とって会う事もないけど・・・。

image4b.jpg
 私ね、西瓜が好きなの。で冷蔵庫買ったのね。去年すいか出なかったでしょ。真半分のすいか、大きな西瓜を冷蔵庫に入れておいて、食べるの。今年は美味しいすいかたくさん食べなくちゃ。お酒は飲まないし、たばこ吸わないから私。西瓜が一番好き。

 ここは一人部屋なの。テレビもあるの、こんな大きいテレビが届いたの。歌番組見るのよ。歌が好き、踊りが好き、ダンスが好き。足が悪くても踊っちゃうわよ。相手がリードしてくれれば、何でも踊っちゃうわよ。

 時々ね、ここには芸人が来て、ダンスだの、いろなのをやってますよ。

 日本舞踊の先生もしてたのよ。左ぎっちょで。ちっちゃい時から踊りは習わされて。

今でも声は大事にしてるわよ

 唄えなくなったら困るから、今でも声は大事にしているわよ。喧嘩は嫌い、ここでも喧嘩は絶対しないわよ。

 何にも顔には付けてないのよ。頭だって。足がこんなだから、買いに行けないでしょ。水で洗うだけよ。ずいぶん貝の汁を飲んだおかげだわ。今のこの年になって、悪いとこないもの、ただ転んだから足が悪いだけで。

 なんたって、かっぽでも、やっこさんでも踊っちゃうわよ。なまけてるようだけど、ぼやっとしてるのは昔から嫌いだから、何やかにややってますよ。三味線は弾くし、今はこんな格好だけど、エプロンを変えてみたり、着物着ないでもできるようにやってね。


 ドジョウすくいの手をしながら、あ、こりゃこりゃ!

 で、ダンスは自己流なの。相手つかまえたら、私が歌っておどっちゃうの。おじいさんだろうが、誰だろうが。すぐ歌うのよ、楽しいわよ。

 「会いたい〜ぃぃとっ、思う矢先にぃぃぃ、来たよぅ、と言われっ、会いたくないふぅぅり、見たいかぁぁぁお!」文句によって、高いところから出たり、低いところにいったり、歌はいいわよね。


◆あとがき


 今回は、ある御縁で、木下清子さんのお話を伺う機会を持てました事、本当に感謝です。この相生の里という素晴らしい環境の中で、ご高齢者のお一人、お一人の人生を垣間見る機会をいただき、関係者の方々にも深く御礼申しあげます。

 さて、清子さんとの初対面ですが、私の95歳の方のイメージと全く違う女性がそこにいました。しっかりした口調で、「木下です、こんにちは」と本当にお元気でお話好きな方だとわかる印象で、すぐ打ち解ける事ができました。

 市丸姉さんにあこがれて踊り・歌・三味線にあけくれた人生・・・時代はさておき、本当に好きな事に没頭できた清子さんは幸せな人生を送られたと、確信しました。

 お話中も、身振り・手振りで、踊りの話がはずみ、お怪我をなさる前のお元気な清子さんの踊りと三味線を是非拝聴したかったな、と返す返す残念に思った次第です。

 お話を一通り伺った後、昔の写真はありますか?という問いに、「部屋にたくさんあるのでどうぞ」と快く招いて下さって、本冊子に載せました写真を撮る事ができました。どうぞ、これからも粋などどいつを、どうか唄い続けて続けて下さる事を願ってやみません。

〈注〉この聴き書きはご本人の語った言葉をそのまま書き起こしていますので、本文中に、差別的あるいは禁止用語に該当する言葉が出てくる場合もあります。聴き書きグループでは、ご本人が自分自身に関して語った内容や言葉は、特別な場合を除き、できるだけ忠実に記載する事にしています。


(完)


posted by ききがきすと at 01:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月24日

定年後の仕事はカウンセラー

定年後の仕事はカウンセラー
 〜ライフワークを見つけるまで〜

  語り手:酒井正昭さん(70歳)ききがきすと:松本すみ子
  
聴き書き時期:2011111

60年代安保闘争のさなかに 

sakai6.jpg 
卒業したのは横浜国立大学の経済学部。当時の国立は1期校、2期校といっていた。1期校の東大と2期校の横浜国大、それに駿台予備校を受けたが、東大は“桜が散った”。2期校と駿台の発表は同じ日で、どちらも受かっていて、どうしようかなと悩んだ。もう1年浪人して東大を受ければ、なんとかなるだろうという高校の先生もいたし。

 でも、発表を見に行った時に、学校の坂の上から、2人で仲良く腕組んで歩いてきたカッコいい男女の学生が来て、やっぱりここにしちゃおうかなと。自分でも物理とか理科は自信がなかったし。横浜だと受験科目は3科目だけだったからね。
 

 
当時の2期校って、入ってもすぐやめて予備校に行ったり、この大学に入ったのは2度目だという学生がいたり、大変なところだった。地方にいる親には、東大とか一橋に入ったといって、実は予備校に通っていたとか、親からは4年間しか仕送りがこないから、バイトで稼いで卒業しなければならないなんていう学生もいたし。 

 
入学したのは、ちょうど60年安保の時代。2年の時かな、国会のデモで樺美智子さんが亡くなったのは。1年の秋くらいから、当時の革新団体の安保阻止会が結成されて、羽田での座り込みがあったりした。学校にはほとんど行かなくて、デモをしに東京に来ているような毎日だった。 

sakai1.jpg
                    酒井正昭さん

 
安保条約は6月19日に自動的に法律で決まってしまうわけで、当時の岸総理大臣は当然、それを狙っていた。あの人もそれなりに大物だったわけだ。われわれは大きな政治の枠の中で流されていくような、どうしようもないような気持ちで、国会の周りに座り込んでいた。ほとんどの学生の指導部もぶっ壊れているから、動かす力もない。ただ、暗い街灯の下でひたすら座り込んでいるくらいしか、自分たちの意思表示の仕方がなかった。それがものすごく印象に残っている。 

 
でも、僕らはみんな本を読んでいたよ、岩波文庫とか新書とか。こういうことは若い人に伝えたくなる。そんなことがあって、ちょうど去年が50年。時々、当時の高校や大学の友達なんかと会って話すと、そういう話題が出る。単なる思い出の一つに変わったなという人もいるけど。 

 
学生運動が終わってから、勉強したいという気持ちがすごく湧いてきて、大学に残って経済学を勉強しようかなと思った。一方で、自分の能力がどのくらいかを試したいという気持ちもあった。革新だとか左翼だという方に入っていたから、企業の中に入っていくことにはためらいがあったけど、ぶきっちょみたいだし、学者っていうよりも実社会でいろんなことにぶつかって、どのくらいのものかやってみるのもいいかなんて。 

 
そんなことで悩んでいるうちに、就職の募集は終わってしまった。でも、当時はプラスチック関係が新しい産業として生まれていて、三菱樹脂がまだ募集していた。ここは筆記試験もないから大丈夫だぞ、とか言われて入社した(笑)。 

 
中心となる工場は滋賀県の長浜市。入社後、そこで集合教育があった時、「すごい田舎だ、こんなところは止めようか」なんて思ったけど、戦国時代の面影が残っている面白い町だった。それで、ここでやってみるかという気になって、そのままずっといたような感じ。 

バブルを経てバブル崩壊へ 

sakai4.jpg 
仕事は経理・会計だったが、私は会社というものを突き放してみていたような気がする。普通は偉くなってくるにつれて、企業の中にのめり込んでいって、人間関係なんかを築いていくのだろうけど。客観的に見ることを要請されていたかもしれないが、ポンと外れてみていたような気がする。上からの指示をあまり素直に聞けないようなところがあって、扱いにくかったかもしれない(笑)。それなりには一生懸命やっていたと思うけど。製品開発とか営業だったら、違ったのかな。 

 
お前は言うことが早すぎる、まだ皆が分かっていないことを言っているといわれたこともある。例えば、あの部門は存在意味がないですよと言ってしまう。突拍子もないことを、得意になってしゃべっていると思われるらしい。その時、その部門は一生懸命やっているわけだし。でも、5年くらい経つとやっぱり、自分の言った通りになっていて、みんな、もう知らん顔して他のことをやっている。たぶん、こういう目も突き放して見ていた結果だと思う。 

 
だけど、工場で課長とかをやっていた時に、新入社員が配属されると、お前のところで面倒見てくれと言われて、毎年、私が担当していた。新人を2・3年でそれなりにできるようにすると、どこかに転勤させる。それが面白かった。その仕事は一生懸命やった。だから、今でも結構、若い人と話ができる。 

 
三菱という名前を背負った会社だけど、いくつもある企業の下の方だから、財務、資金関係、資金調達が大変だった。当時は高度成長期で、地方銀行が東京支店を開設する頃。当然、何億とか用意して出てくるので、そういうところから調達していた。メイン銀行は三菱だけど、新しい産業にはおっかなびっくりで貸さない。でも、他行の借入額が三菱の額を越したら、それはそれでだめ。そういう仕事は、ずいぶん面白がってやっていた。

 
そのうち間接金融から証券会社経由の直接金融の時代になってきた。企業の力がそのまま株式市場に反映されて、そこから資金が調達されるようになると、トップの政策と結びついてくる。新製品の開発をどのタイミングで新聞にバラして、いつ報道させるか。証券会社にはいつ時価発行のプランを出して、株価を上げられるかを考える。トップの意思決定と資金調達がリンクしないといけなくなった。変わり目の時代だった。

 
バブルの中でどんどん直接金融になっていったので、資金調達の金利もマイナスにできた。例えば、外国で債権を発行して、5年後の金利や返すお金を有利なレートで予約しておく。すると金利がマイナスになり、ずっと返すお金が少なくなるわけ。一時、財務の時代と言われたことがあったけど、たぶん、そんな理由からだろう。だから、工場で物なんか作っているよりも、投資で儲けたほうがいいじゃないかなんて。そういうのがバブルの絶頂期だった。 

sakai5.jpg 
投融資は本体じゃできないから、どこも関係会社つくってやっていた。そういうことで稼いだお金をファンドなんかに投融資していたが、それが一度に弾けた。担当者は処分されたり、会社を辞めざるをえなかったり、ずいぶん傷ついた人が多かったと思う。でも、上は無責任だよね。やってる時は見て見ぬふりなんだよ。本来のマネジメントからすれば、定款で決めた本業は製品を作って、世の中に貢献するということだから、博打をやることではないと、ちゃんと締めないといけない。だけど、まあ利益を出すし、儲かっているし、それを配当すれば、株主からも文句をいわれないという構造だった。

 
本業での博打はビジネスとしてあると思う。こういうプラスチックの製品は当たるだろうから、それにお金を何十億を掛ける。これは、先見の明があったか、なかったかということ。ただ、株式での博打は証券会社がやることであって、普通の事業者がやることではない。弾けて当然だった。その後から、監査制度というのが重要視された。 

定年後にカウンセリングを選んだ理由 

 会社での自分に対する評価に、人の話を聴き過ぎるというのがあった。例えば、プロジェクトの運営では、親分肌で引っ張っていっていいんだと言われた。お酒を飲み交わしながら、それなりに人がついていくんだと。

 
でも、仕事でいろんな発想が湧いてくるのは、会社で話を聴いている時が多かった。毎日指示を出さなればならないけど、話を聞けば得ることが多いし、部下も自分で気がついて自主的に動いていく。「うん、そうだよな、やってみな」と言えるし、その方がやる気が出る筈という気がした。だから、仕事はピラミッド型よりもサークル型のほうがやりやすいんじゃないかと思っていた。

 机も席が決まっていて縦に並ぶよりは、丸い机でフリーアドレスがいいと思った。今はそういうのがあるけど、昔はあまりなかった。最後に関係会社に出向した時は、それを絶対やってみようと思った。大正時代創業の古い会社だったけど、丸いテーブルを入れ、フリーアドレスにして、書類はキャビネットだけにした。私は役員だから、秘密の書類があるので仕切りの向こうに行くことはあるけど、皆と同じ輪に入るからと。

 
それに一番抵抗したのは、プロパーの人だね。課長が最も抵抗した。「せっかく課長になって、家族とか親戚に自慢できるのに、この席がなくなるんですか」。そういうものかなあと思った。でも、じっくり話をした。こういう趣旨でやるし、本当に実力ある課長なら、席がどんなところでもちゃんと情報が集まってくると。そしたら、分かってくれて、「やりましょう!」と。その会社は今でも、このスタイルでやっている。 

 
そんな経験があったから、定年後に何をしようかなと思った時、人の話を聴く心理関係の仕事があると聞いて、それならできるかなと結びついた。私のような職歴だと、税理士や会計士、ファイナンシャルプランナーのような仕事を考えると思うけど、そういうのは全然やる気がしなかった。

sakai3.jpg 
前にも言ったように、自分はのめり込めない、のめり込まない性格。それが欠点でもあったろうし、もっと自分を出すものがなかったのか、あるいはそれが分からなかったのか、怖くてできなかったのか。その辺はよくわからない。けど、時々、のめり込んでいくことがやっぱり怖かったのかなと思う。冷静ぶっているだけだったのかもしれない。

 
だから、カウンセリングをしていて、「自分が何をやったらいいのか分からないんです」なんていう話を聞いても、その気持ちがそれなりに分かる。見つけられないというよりも、見つけることをためらう気持ちもあるのかもしれないし。

 
今は、カウンセリングが自分に合っているし、自分の居場所かなっていう気がする。「どうも、ありがとうございました」と言って別れる時は、「ああ、よかったな」と思って、自分としてもやったなという気がする。これは会社のやったなとは違う。 会社員時代は有り難い時代で、給料の心配がなく、自動的に給料が入ってきていた気がする。今は、入ってくるお金の単位はものすごく少ないけど、それでも、そういうお金の方が、自分の仕事の成果だと思える。私が話を聞いた人のお金の何分の1かがここにきた。距離感がすごく近い。

いいカウンセラーに出会うには
 

 
カウンセリングをやってきて自分が変わったと思うことは、いろんなことを受け止められるようになったこと。これも人生、それも生き方だと。それに、日常の周りの細かいことが、人間の意識をかなり支配しているということも分かった。例えば、誰かと話していて、こういうことをいわれた時に、ものすごく辛い思いになったとか。そういう時に、自分をどう対処させるかということを考えていかないといけない。抽象的な話だけでは解決しない。具体的な場面を自分で思い浮かべることが大事だ。 

 
また、時間を守ることの大切さを知った。カウンセリングでは1時間でぴたっと決める能力が必要だ。いいカウンセラーの見分け方の一つはこれかもしれない。特に、発達障害や人格障害の人と会う時は、1時間で相手が泣いていても終わらせることが大事。その時、相手はものすごく見捨てられたというらめしい顔をするかもしれないけど、それが逆に、人間同士の信頼感につながる。あそこにいけば、必ず私の時間が1時間あるという安定感。これが大切だと思う。そういうことが分かった人は、5分遅れる時でも必ず連絡をくれる。そういうところから人は変わる。

 
カウンセラーにもいろんな人がいる。会社なんかの縦の関係をそのまま持ち込んで、聞いてやるよという姿勢の人もいる。「あなたは自分のことに関しては専門家で、私は認知行動療法の専門家。専門家と専門家が、あなたの悩みや苦しさを解決するために、2人が対等に共同作業をするんですよ」という見方をする人が本当のカウンセラー。そういう人のほうが少ない。 

 
企業人はなかなか変われない。会社で仕事ができる資質と、人として生きていく資質は少し違う。企業の縦の人間関係しか見られない人とか、会社で自分が達成できなかったことを抱え込んでいる人が、ボランティアの組織なんかに入り込んでくると危ない。もっと違う価値観や見方でやっていくことが大事だと、気づけばいいんだけど。 

 
地域活動に入る人のための講座があるけど、ソフトランディングできるように、おだてるように組み立てられているような気がする。人間それぞれ違いがあることを認め合いながら運営していくことがボランティアであり、地域活動だということをもっと伝わるような仕組みが必要じゃないかな。 

sakai2.jpg

これからのカウンセリング 

 
これからは個室の中で、1対1でやっていくカウンセリングって、どうなんだろう。疲れている人や問題を持っている人が3人とか4人で、共同作業というスタイルもあると思う。芸術療法の話を聞くと、絵を描く、コラージュを作るということは、一人でやるよりも集団でやった方が、他の人の刺激を受けて物語が開けていくそうだ。

 同じように、うつで休職していて、ようやく出社できるようになった人なんかは、グループディスカッションをすれば考えがしっかりし、それが出社への準備になっていくはず。それにはファシリテーターの技量がものすごく問われるけど。人間は社会の中で存在しているのに、1対1でしかカウンセリングをやらないのはおかしい。今、取り調べとカウンセリングくらいでしょう、個室でやるのは。 

 
一緒に活動しているカウンセリングのNPOにも、机を丸いものにしようと提案している。いつの間にか、古手から順に奥に座ると決まってしまっている。これもおかしい。古い考え方からの脱皮が必要だよ。もしかして、机なんかなくてもいいかも。 

 
最近は体が辛くなってきたから、カウンセリングもそろそろ辞めようかなと思うんだけど、結構、やりだすと終わらない。逆に、増えていったりしてね(笑い)。 


posted by ききがきすと at 23:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月08日

作品:人が集まってくれる暮らしは楽しい

人が集まってくれる暮らしは楽しい  
 〜夢は持ち続ければ叶う〜


     語りびと:藤田敏子  ききがきすと:海田廣子  
     聞き書き時期:20111

 
夫の母親との出会いがご縁

fujiyama10.jpg 新幹線のホームで私の前に夫の母親がいたの。たくさん荷物を持っていたから、一つお持ちしましょうかと声をかけて新幹線に乗ったのがご縁だった。一度遊びに来てくださいといわれて、住所、場所を書いてもらった。そのとき私は、婚約していたのを断りに名古屋から静岡へ行く時だった。

 帰ってきて、またお見合い写真でも撮るかと写真を撮りに行く途中で、そういえばこの近くだったのじゃないかと思い出して夫の母親のところに立ち寄った。たまたま私が行った日に夫もそこにいたの。会ったとき、すごいオジサンがいるわって(笑)。9才も違うので若いときの年の離れってそう感じるじゃない?。

 まさかその人と結婚するとは思わなかった。デートもしないうちに話が決まったの。

 一度だけどこへ行きたいと聞かれて、名古屋の東山動物園に行って、二人でゴリラの前で笑った。デートはそれ1回だけ。おじさんだからこの人なら間違いないのじゃないかなっていう気はしたの。でも私の親は心配して、興信所に頼んで調べましたね。真面目な人だと言うのがわかったからOKがでたのだと思う。恋愛感情もないし、手をつないだわけでもないし、ただゴリラの前で笑っただけなのに・・。思い切りがいいでしょ。

fujiyama1.jpg        
                                                    思いきりがいいでしょ、と話す藤山敏子さん


 義母は、嫁はこうでなきゃいけないとの思いが強く、気が強い人。結婚したときは、それはものすごく大変な思いをした。子育ての時もそれはそれは大変だった。ホントにつらい事って思い出すのもいやでしょ。だからあまり人に言わないの。
 

 
結婚して最初の頃はずっと主婦だった。夫は退職するまで、専門書の大手外資系出版社の日本代表だった。大学の教科書、美術書、医学書、経済学の本など。本の著者がたくさんいたのでその接待があった。家に呼んで接待するだけならいいのだけど、ちゃんとお話を合わせられるように著者の方の本を一応読んだ。私は英語はダメだから日本語に訳されている本を買って、わかりもしないのに読んでいたのでとても忙しかった。小説だったらいいのだけど・・・。今その反動で簡単な本ばかり読んでるけど(笑)。

 外国からのお客さまだから和服を着て行かなきゃいけないじゃない。だから和服をまず着ることから。何となく着ることはできたのだけど、月に2回くらい先生に家に来てもらって、着崩れしない帯の結び方を教えてもらった。とにかく早く覚えなきゃと、先生が帰ると教えてもらったことを全部メモしてその通りに自分でやってみた。3ヶ月くらいでびしっと帯が一人で結べるようになった。結婚したときは主人が外資系企業に勤めていることは知っていたけど、そこまで大変だとは思わなかった。

 敏子さんを見ていると「幸せそうな絵を描いているし、なんの苦労もなく幸せな人ね」とずっと言われ続けている。「はいはい」と返事しているけども、気持ちの中では実はそうじゃない。好きな本を読んでその世界に入ったり、アトリエに行ったり、お友達に会っておしゃべりしたりとか、それを上手に解消する方法があるの。
 

アトリエで絵を描き始める
 

fujiyama2.jpg 結婚してしばらくして、子どもが中学生になったらカルチャースクールではなくて、ちゃんとしたところに絵を習いに行きたいと思っていたのよね。たまたま、ホテルオークラのレディーズサークルでアトリエのオーナーの奥さまと一緒になりお友達になった。「実は恵比寿に主人がアトリエを開くのでよかったら来てくださいね」と言われて、じゃ見に行こうかなと軽い気持ちで見に行って、ここなら大丈夫かなと。ちょうど息子が中学生になるタイミングだった。

 アトリエに行きだしてからは長いですよ。もう化石になっちゃって・・・(笑)。月曜と水曜の午前中のクラスは、みなさんめちゃくちゃ真面目な人ばかり。真剣でね。それこそ話もしないで黙々と描く人ばかり。入りたいと思う人が見学に来ても、その真剣さを見て恐れをなして、このクラスは入れませんというの。とけ込めないと思うみたい。描いてないときは和気藹々でいい人ばかりなのだけどね。

義母はあの時代の人だから家庭の主婦が毎日外に出るなんてとんでもないという考えが強い。義母は4時に夕飯を食べるの。だから、朝9時ごろまでにきちんと片付けをして、お昼ご飯と夕飯の準備をしてから出かけて行く。文句を言われないように家のことは完璧にした。そこが私の強いところ。やりくりがうまくなったわね。何十年もかかって編み出したことだから。義母も何年かするうちにだんだん私のやり方に慣れて、諦めちゃって・・・(笑)。でも長かったわ。これで大丈夫だと思ったのはおじいちゃんが亡くなってから。


 外に出かけることはできなかったけど、恵比寿のアトリエだけは行っていた。私のストレス解消の場かな。今でもそうだけど・・・。自分でもよく耐えてきたと思う。
 アトリエでは大きい絵を描いて、家では小さい絵を描く。毎年テーマを決めて、シリーズではがきに水彩画を描いている。お花、野菜やケーキなど。小さい絵をちょこちょこと描いているのは楽しいわよ。ハーブのシリーズもあった。ハーブは自分で育てて花が咲くまで待って描く。プランテーションに行っていろんなハーブを買ってきて、種から育てる。毎年16枚描いて印刷してもらうの。何年もやっているからどんどん原画がたまる。原画だけでも展覧会ができそうな気がする。長細い額に入れてもいいかな。

 あと、綱島のギャラリーで毎年9月に5人でグループ展をやっている。だれかが辞めた時点で辞めることになっているのだけど。去年そういえば17回忌だと言ってみんなで笑ったわ。それから毎年クリスマス近くに、親しくしている織物の先生が生徒のために展示会を催すの。その先生から「展覧会だから小さな絵を出して」と頼まれるので、5、6枚小さな絵を出すの。水彩はがきや絵が欲しい方には、安くおわけしている。
 

母方の実家は代々画家だった
 

 私が生まれたのは金沢。両親ともに金沢の人。母の実家は佐々木というの。私の兄弟は弟が二人。私は長女なのだけど、私の母は後妻で腹違いの姉がいる。姉たちはおじいさん、おばあさんに育てられていたので一緒に住まなかった。姉は金沢に住んでいるけどちゃんと行き来している。時々遊びに行ったりしている。

fujiyama3.jpg 私の母の父は、佐々木三六(さんろく)という画家。雅号は「長江」。母が遺産分けでもらった絵がたくさんあった。私たちでは保管できないのでもったいないからと金沢の近代美術館に相談したら、そこの館長さんが預からせてもらうと言って保管してくれることになった。そのかわり美術館で企画展する時は使わせてくださいという条件で。

 全部持っていかれるのもなんだしと思い、その中から絵を数枚もらった。額に入れて居間に飾ってる。三六さんのスケッチ帳は貴重なものだから私が欲しいといって母からもらってきた。日本髪の人、着物を着た子どもや男の人などを鉛筆でデッサンしたり、風景を水彩でスケッチしてる。でも、シミだらけでもったいない。今みたいなスケッチブックがあったらどんなによかったでしょうね。

fujiyama4.jpg 昭和52年に福井県立美術館で『福井の明治美術展』が開催された。三六さんの絵が図録の表紙に使われている。ルーベンスとかフェルメールのような絵ね。イタリアの美術学校留学の時に描いたのではないかしら。図録に『洋画留学の最も早い人の一人。トリノ留学。コンクール で一等賞をとった作品』と書いてある。 三六さんの父、佐々木長淳(ながあつ)さんも絵を描いていた。図録に『ペ
リーが来たときに、軍艦の中に絵図を描いた。養蚕学もやっていて近代製糸業にも尽くした。橋本左内肖像画を残した』とある。

 母は実家が代々画家だったことを私に一切話さなかったので、大きくなるまでおじいさんが絵を描く人だったことは知らなかった。母はちょこちょこといたずら描きするのだけど、絵がうまい人だわと高校生くらいの時に思った。多分、絵を描くのは当たり前だと思っていた人だと思う。 
福井の美術館ではじめておじいさんの絵の実物を見た。さすがにイタリアに留学していただけあって、他の人の絵よりむちゃくちゃ色がきれいなの。富士山の絵のブルーがすごくきれいだった。大きい作品だったので感動したわ。油絵も水彩画もたくさんあった。母にもらった絵やスケッチ帳は、いままで誰にも見せたことがない。はじめて人に見せた。おじいさんはきっと喜んでいるわ。

fujiyama5.jpg

孫の私は絵を描くのが好きなだけ。あと、いとこ(三六さんの三男の子)が人形作家。ご主人が外科のお医者さまだった。私より2才年上で71才。富山に住んでいて人形作りを教えている。彼女の人形はコレクターがたくさんいて海外では全部売り切れてしまう。今度パリに出展するらしい。日本の人形展で賞を総なめにしているの。この人が一番おじいさんの影響を受けている。

fujiyama6.jpg 私の絵が欲しいというので絵を送ったら、紙粘土で作った人形を送ってきたの。身体の骨組みから全部わかってないとこういう作品はできないと思う。孫たちが見るとリアルすぎて怖いというの。ものすごく霊感が強い人だから人形に魂が全部はいっていく。粗末にできない。ほこりかぶっているけど(笑)。そのうちに二人展をしたい。  

優しくて女性的ねと言われるけど・・・

  20
代の頃、父の転勤で松本に3年くらい住んでいたことがある。長いことスキーにのめりこんでいた。そのころはお弁当を持って板を担いでバスに乗り、毎週一人で滑りに行っていた。赤倉、妙高、御岳高原、美ヶ原とか。私は一人でいるのが好きな人なの。気を遣わなくていいから。好きなようにできるじゃない。

 3月くらいかな、アイスバーンのところを直滑降で滑っていて顔からダダっーと、ずりずりにけがをして骨折した。家に帰ったら母にもう懲りたでしょと言われた。でも次の年からまた出かけて行った。好きなように滑って楽しいのよ、これがまた。 

 みなさん女性的で優しくていい人ねと言ってくれるけど、すごい男勝りかもしれない。さばさばしている。子どもは男の子一人で、女の子がいないので体育会系かも知れない。

 でも、身体は弱かったのよ。ものすごく弱くてね。熱出してアトリエを休んだりした。

 海外旅行で成田を出たとたんに具合が悪くなって、下血が始まった。びっくりしてね。どうしようと。下血が止まらなくて、このまま続いたら生きて帰れないかも知れないと思った。そのときは息子と一緒のツアーだった。みんなに迷惑をかけてはいけないという気持ちが強いものだから我慢したの。ギリシャに着くちょっと前に、添乗員さんにギリシャから帰りますと言ってホテルまで連れて行ってもらった。ホテルでお医者さんに見てもらったらすぐ病院に行かなきゃダメだと言われて、国立の病院に連れて行かれた。こんな病院はじめて見たわと思うようなすごいところ。汚ならしいし、不潔だし、患者さんがいっぱい溢れるようにいた。そこでとにかく応急の処置受けて、下血が多かったので輸血してもらった。エイズが流行っている頃で心配だったけど・・・。

 輸血をしてもらったら身体がふわ〜と暖かくなってきてなんともいえないよい気分になったの。そのときのことは忘れられない。それだけ血が少なくなっていたのね。それから腸の検査を受け、入院しないとダメだと言われて、しょうがなく入院した。

 一週間後に検査の結果がわかりましたと、いろんな先生が入ってきてわいわいやってるの。すごい大きい声でわめくように何か言っているけど、こちらは何かわからない。何言ってるのと息子に聞いたら「この検査は失敗に終わりました」と。「うそ〜」(笑)。

 「失敗したから1週間後にもう1回検査させてくれ」と言うの。息子が「こんな所にいたら殺される。すぐ引き上げるっ」と怒って、飛行機の手配や退院手続きして、その日の夜の便で帰国した。私の病気のことを先生は何か言っていたのと息子に聞いたら「癌です」と言われたって。ああ、やっぱりねと思った。なぜかシラ〜とした感じで「そう」と返事した。

fujiyama7.jpg 日本に帰ってから検査を受けたら「別にこれといったことがありません」と。あの出血は何だったのと狐につままれたような感じ。ストレスとか気圧の変化とかで腸に穴が開いて出血したらしい。1週間ギリシャで入院している間にすっかり穴がふさがって、日本で検査受けたときはどうってことなくなっていた。癌なんてとんでもない。

 ギリシャにいたらきっとどこか切られていたわ。息子は命の恩人。そのときにギリシャ人の血をかなりもらったのね。それからすごく元気になった。ものすごく元気な人の血をもらったみたい。熱も出さなくなったし、寝込むこともあまりなくなった。不思議ですね。そこから私は生まれ変わったのだと思う。でも心配だから毎年エイズの検査を受けていましたよ。

 ギリシャは2回目だった。病院に運ばれるとき、タクシーの中で横になってアクロポリスを見ながら「あ、アクロポリスだ」と。じたばたすること一つもなかった。不安は不安なのだけど、ものすごく冷静な自分がそこにいた。息子も冷静なの。添乗員に、こんなすごいことになっているのに冷静になっている人たちは始めてみましたと言われた。それもきっと無事で帰ってこられることがわかってたのじゃないかな。内心、こんなところで死んでたまるか、ばからしいと思っていたのね。
 

いろんな人とつながりを持っている幸せ
 

fujiyama8.jpg 昔、テニスをしていたの。夫も一緒に。そのときの仲間はみな辞めてしまっているのだけども、今も行き来している。1月3日は必ずわが家に来て私のお料理を食べて、飲み会をやるの。8人くらいなので足の踏み場もないくらい。午後3時に来て、帰るのは夜の11時過ぎ。今年で22年よと言われて、そんなに続いていたのとびっくりしたのだけど・・・。

 お菓子を作るのも好き。月に1回、5名くらい来てもらって、はがきに水彩で絵を描いてもらう。そのあとに「アフタヌーンコーヒー」の会をしている。絵は小学校以来描いたことがない人ばかりで、ケーキだけ食べたいと言う人ばかりだったけど、絵を描き始めたらおもしろくなって楽しみにしているみたい。

 主婦なので、2、3回でやめるだろうと思っていたら、お弁当持ちで参加する。お弁当食べて、1時から4時までやるの。このグループは編み物や織物をする人たち。作品展をなさるのでそのときに買わせてもらうの。

 外に出かけているちょっとおもしろいグループがある。お医者さんの奥さん5人グループ。ホテルオークラのサークルでご一緒になった方々で、2030年の長いつきあい。皆さん70才以上で、超ハイクラスの人たち。音楽のお仕事をしている方は、ニューヨークに別宅を持っていて、お稽古のある日に合わせて帰ってきて「夕べ、ニューヨークから帰ってきたところ」と、名古屋や大阪から帰ってきたような言い方なの。私は背伸びもしないし、このままの人間を見てもらえばいいと思って気楽につきあわせていただいている。想像もつかないような知らない世界をいっぱい聞けて、それは楽しい。
 

fujiyama9.jpg
敏子さんが描いた油絵

 月に1回「アフタヌーンコーヒーの会」というのをしてるでしょ。それがね、若いときからの夢だった。この会では、私も楽しませてもらっている。私より10歳くらい若い人が多くて、若い人の考えを聞ける。いろんなお話が出てくるわよ。こんどはどこに旅行に行きたいとか、お料理のレシピなんか主婦感覚で、すごく勉強になり大助かり。

 女性でもいろんな趣味を持っている人たちはおもしろい。みなさんに共通しているのは何かしている人は若々しいということ。生き生きしてる。家の中に閉じこもって孫の世話だけしている人とはちょっと違う。そういうネットワークを持っていることは、この年では幸せかなと思う。
幸せは自分で作っていかないとね。ほんの小さいことでも嬉しいとか、幸せと思うようにしてる。そんなに上を見ないようにしているけども、夢はちゃんと持ってる。若いときから年を取ったらこういうことをしたいという夢があったら、自然にそこまでたどり着くというのがこういうことなんだなってね。

 夢はちゃんと持ち続けないとだめだなということがよくわかった。このごろ大事なところの感動がちょっと薄れているのじゃないかなと感じることがあるの。情けなくて・・・(笑)。ま、これも自然の流れに年相応にいけばいいのだなって。そこで無理をしようと思うと身体にも影響がでると思うので自然体がいい。

posted by ききがきすと at 12:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<<前の20件  1 2 3   

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。