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posted by ききがきすと at 17:34
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| 東日本大震災聞き書き
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東日本大震災の被災者ききがき第二弾、岩手県・田老での聴き書きツアーを7月6日と7日に実施します。ききがきすと5名とサポーター1名計6名が参加します。
今回の聴き取り実現に際しては、「NPO法人立ち上がるぞ!宮古・田老」の理事長・大棒秀一さんにアドバイスとご協力をいただいています。また、現地では大棒さんやメンバーの方々との交流会も予定しています。
今回の聴き取りは、2012年に実施した宮城県の聞き書き活動に続くものです。私たちの活動はゆっくりですが、時間が経つにつれて忘れられがちな現実を踏まえ、じっくりと被災者の方々の現状も合わせて、聞き書きしたいと思っています。皆様のご支援をよろしくお願いします。
posted by ききがきすと at 12:29
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| 東日本大震災聞き書き
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生家は猿沢池のすぐ近く、奈良公園で遊んで
私の子どもの頃や学生時代のことといっても、特別なことはなにもなかったように思うんです。生れは昭和2年ですので、青春の真っただ中がちょうど戦争でしたけど、生まれ育ったのが奈良でしたから、幸せなことに戦災に遭うこともなかったんです。
朝に夕に仏様を拝み、鹿と遊んで
奈良では、正倉をはじめ、どのお寺へ行っても、古い仏様がいらっしゃいます。小さい時から仏様を見ていますから、仏様のお顔のすばらしいのはよくわかっているんです。いいなあって、仏様のお顔に、惚れ惚れするんです。
唐招提寺の鑑真和尚様は、今は建物の奥に置かれていて、決められた日でないと一般には観せていただけませんけれど、あの頃は、廊下に置かれていたんです。鑑真和尚様の肩をさすって、その手を自分の肩に持っていくと肩の痛みが治ると言われていました。私も鑑真和尚様の肩ばかりさすっていたのを覚えていますよ。
東大寺や興福寺、秋篠寺とか、あの辺りにたくさんお寺がありますでしょう。今では、仏様は宝物館など奥まったところに置かれているんですけど、あの頃は、どのお寺に行っても、ほとんどの仏様が手の届くところにいらっしゃって、学生さんが百済観音の前にずーっと座っていたなんて話もありましたね。百済観音がいいとか、あの観音が好きだとか、そんなお話をいっぱい聞きました。どうしてそんなにいいのかしらん、なんて子ども心に思ったことでした。
五重塔や二重塔、三重塔とかもありますからね。そういうところへ行っては、いろいろな仏様を見ましたが、中でも、私は、漆黒の菩薩様が一番好きでした。中宮寺の半跏思惟菩薩様です。小さい頃は、年寄りがいましたので、よく連れって行ってもらったんです。子どもでも好きになるんですよね。手が届きそうなところに菩薩様がいらっしゃって、そばに行っても怒られることもありませんでした。だから、撫でたりなんかしてましたよ。
今でも、奈良の古いお寺や神社の写真を見ると、当時を思い出して、「ああ、あのお寺も、こんなに有名なんだなあ」なんて思ったりしますね。この頃は、奈良へ行くこともなくて、本当にご無沙汰なんですけど、仏様は、いつまでも忘れられないです。小さい頃に、よく行って拝見していましたから、そのお寺の名前を忘れることがあっても、仏様のお姿やお顔は、今でも目に見えるように覚えています。そして、思い出すと心が安らぐんです。眠る時にも仏様のお顔を思い浮かべると、すぐ眠れます。
私は、ラジオ体操も奈良公園でしましたよ。つくづく、奈良公園で大きくなったんだなあ、と思いますね。奈良公園といえば、鹿でしょう。何でこんなに鹿がいるのかなあ、と思うくらいたくさんいましたね。その鹿が、しょっちゅう草を食べてますでしょう。だから、草刈りしなくてもいいんです。ずーっと食べてくれているので、それであの広い公園が、あんなに青々しているんですよ。
奈良の人たちは、鹿を神様のお使いと思って、大事にしています。三作石子詰之旧跡と書かれた碑があって、鹿を殺したっていう話が残っています。お習字のお稽古をしていた三作という名の男の子が、お習字の紙を食べに来た鹿に文鎮を投げるんです。当たり所が悪く、鹿は死んじゃうんですよ。鹿は神のお使いと言われていますから、三作は、まだ小さな男の子だったのに罰を受けて、死んだ鹿と一緒に小石で生き埋めにされるんです。その碑が近くにありましてね。鹿を殺したら、あんなふうになっちゃうって、小さい頃から、言われたものです。
それから、奈良の人たちは、朝、早起きなんですよ。どうしてかっていうと、朝起きて、もし自分の家の前に鹿が死んでたら、たいへんな目に合うからです。万一そんなことがあれば、その鹿を隣の家に運ばなくてはいけないので、早起きするなんて言われていました。それくらい、鹿になにかあったら、たいへんなんです。それほど大事にしていたんです。
戦争中は、おいもぐらいしか鹿にあげられなかったですけど、食べ物がないからといって悪いことをするようなことはなかったですね。鹿は公園にいて、夕方になると鹿寄せの笛が吹かれます。とてもいい音でした。その笛で、鹿は集まってきて、餌をもらいます。寝るところはちゃんと囲いしてまして、そこで寝るんです。よく人に慣れていて、おとなしいですよ。そんな環境でしたから、私は奈良公園で鹿と一緒に大きくなったようなものです。
仕事も、結婚も、子育ても
女高師の頃は、ちょうど戦時中でしたから、学徒動員がありました。奈良には、動員先となるようなところがなかったので、舞鶴の海軍工廠に行きましたね。そこにはいろんなものをつくる工場があって、私たちは鉄板をぐーっと曲げて、丸くする作業をしていました。それは、魚雷の部品だったんですね。こんなふうに丸くしましてね。そのお手伝いですけれど。
終戦は舞鶴で迎えました。動員で舞鶴にいたのは、1年くらいだったと思います。それから猿沢池のそばの家に帰り、学校に戻ったんです。
女高師を卒業したのは、昭和21年だったかと思います。その後、学校の先生になったんです。当時は、高等師範学校を卒業すると、先生になるよう決まっていましたから。
また、先生になるためには、マッカーサーさんの試験を受けることも必要でした。終戦後は、マッカーサーさんが日本で一番偉い人でしたので、先生になれるかどうかっていう許可をもらうのもマッカーサーさんからだったんですね。女高師を卒業しているだけではなくて、この試験にも合格していましたから、就職の時は楽で、先生にはすぐなれました。
まず、奈良育英という私立の女学校の先生になりました。今は育英高校っていうんですけど。家から通えるところで、2年くらいは勤めたように思います。教えていたのは、家庭科で、衣食住の全てを教えましたよ。和裁も洋裁も、なんでもやらなくてはいけなかったんです。料理はもちろんです。私の専門は栄養の方でした。栄養や食の教育については、今ではテレビでもよくやっていますが、随分変わったように思います。
結婚したのは、昭和25年頃だったでしょうか。舞鶴の海軍工廠へ行った時に、海軍技術士官だった主人と出会いました。今では考えられないけど、その頃は海軍の兵隊さんが、一番格好良かったのよね。主人は海軍の制服でね、高等官食堂へ行くんです。私たちは学生ですから、もうボロボロの、豆の粕が入ったお弁当を食べているのに、高等官食堂を覗いてみたら、みなさんフォークで食べているのね。それほど違っていましたよ。すごいなあって思いました。私たちの先生も女高師だから、高等官なのよね。高等官食堂へいらっしゃるわけです。私たちはお弁当なのにね。
主人との馴れ初めは、長い話になりますよ。きっかけは、私が舞鶴に行って、一生懸命やっていたのを向こうが見て、それで、声をかけられた、ということですよ。主人は、私より4つ年上でした。
生家は古い家でしたから、親は私を奈良から遠いところへは出したくなかったし、私自身も出たくはなかったんです。嫁に行くとしても、奈良からは一歩も出たくないと思っていました。主人の実家は名古屋でしたが、戦災にあって、家も焼けていたんですよ。だから、私に名古屋へ来いというわけにはいかず、結婚について言い出せなかったようです。
主人は、終戦後は、しょっちゅう、名古屋から関西線で奈良へ来ていました。でも、親は、結婚なんてだめだめ、って。私も結婚なんてつもりもなかったし、向こうもそんなに急がなかったですね。ただ、通って来てたんですよ。
結婚したのは、舞鶴で出会ってから、ゆうに5年は経とうという頃でした。主人の粘りが実るかたちで、やっとでしたね。実家は、姉が酒屋から養子をとり、継いでくれていました。
その頃、主人は親戚のつてで犬山に家を借りて、勤め先だった三菱電機の名古屋製作所に通っていました。ですから、私は結婚して、犬山にある県立高等学校で先生になりました。働きながらの結婚生活でしたね。当時は、先生が足りなくて、来てくれ、来てくれと言われて、先生になったんです。
昭和27年に長男が、昭和30年に次男が生まれました。長男が生まれても、しばらくは先生を続けていましたね。でも、先生の給料は少なくて、主人が勤めていた三菱電機の方は給料が悪くなかったものですから、先生を辞めるように言われました。それで、教師を辞めて家に入りました。
その頃には、犬山の家も引き払って、主人の勤務先に近い名古屋市内の清明山に移っていましたね。
次男が生まれた翌年の昭和31年には、主人が静岡製作所に転勤になりました。それからは、ずーっと静岡で暮らしました。主人は49歳で亡くなりましたが、ちょうど長男が大学を卒業する年で、三菱電機から長男に、入社すれば静岡製作所に配属しますと話がありました。それで、長男も三菱電機に勤めることになったんです。
その後、長男は静岡製作所で所長まで務めたんですが、東京の本社に転勤になり、今もこちらにいます。次男は大学を出てから新聞記者になり、今は、こちらです。私は、しばらく孫と一緒に静岡にいたんですけど、身体の調子を悪くしてしまい、一昨年の7月にこちらの施設に移ってきました。
今、仏様とともに在る幸せ
戦争という時代ではあったけれど、振り返ってみると、私って苦労はしてないんですよね。友達の中には、あの時代は、これ以上はないほどの貧乏をして、お芋の茎ばかり食べていたと言う方もいます。私もお芋の茎は食べましたよ。でも、これ以上はない貧乏ってことではないんです。古い家でしたから、何でもやりたいことはやらせてもらいました。
また、しっかりしている姉がいてくれましたから。私が、今ここにいるのも、姉がずっといろいろアドバイスしてくれたからです。私がちょっと悪いことをすると、ああいうことをしてはだめよ、こうした方がいいのよ、とか言って、ずいぶん助けてもらったものです。
母も割合に長く元気でいてくれて、奈良から名古屋へ帰る私の汽車賃まで心配りしてくれました。母が亡くなって、姉の代になっても、それはちゃんと続けてくれました。姉が何かと気遣ってくれて、これで行きなさい、こうしなさい、って、お母さんがわり。姉のお蔭で、今があるなぁと感謝しているんです。
主人も、それはいい人でしたからね。動員に舞鶴へ行って、一番得をしたのは私だって、友達から随分言われました。どうしてって尋ねると、ご主人と一緒になったから、いいって。羨ましがられていましたよ。
ここに来てからは、二人の息子が近くにいてくれますので、安心しています。みんなに、幸せねって言われますけど、本当に、そうですね。若い頃は、私には男の子しかいないので、女の子が欲しいなあって、よく思ったんですよ。でも、今は、次男がよく私のことを気遣ってくれて、身の回りのことはなんでもやってくれます。だから、何にも心配はないんです。
私は奈良の古い家に生まれて、なにも不自由に思うことなく育ててもらいました。また、子どもの頃から毎日のように拝んでいた仏様が、今も、すぐそこにいてくださいます。目を吊り上げたような仏様じゃないですからね。何でも受け入れてくださる優しい仏様の顔でしょう。いつまでも忘れられないですね。だから、本当によかったですよ。
主人も本当にやさしい仏様のような人でしたね。そう。だから、私もよかったんだと思います。幸せですよ。
あとがき
相生の里のお部屋にお訪ねしたとき、和子さんは色白のお顔に優しい笑顔を浮かべて、私たちに声掛けをしてくださいました。そのふわりとした雰囲気に、初めての対面に強張っていた私の心の糸が、ゆるゆるとほどけたように思えます。にこやかで柔らかなお人柄が、今も心に印象深く残っています。
特別なことは何もなかったのよ、どんなことを話せばいいのかしらと、しきりに気にしてくださったのですが、お話が進みますと、奈良という特異な舞台ならではの思い出話が次々と披露されました。あの時代を思うと、たいへんな思いをされたことは間違いないのですが、それを苦になさってないのは、明るく、のびやかな性格で乗り切ってこられたからだろうと思います。そんな和子さんだから、ご主人も惹かれたのでしょうね。
また、和子さんは口癖のように「幸せなんですよ」「お陰様なんです」と繰り返しおっしゃいました。奈良での仏様との思い出が、いつまでも和子さんの心の拠り所となっているように感じました。そして、仏様を忘れず、人への感謝の思いをいつもお持ちになっていることが、心の支えともなり、ずっと和子さんをお守りしているように思えてなりません。
和子さん、これからもお元気でお過ごしくださいませ。ありがとうございました。
担当ききがきすと:鶴岡香代
posted by ききがきすと at 14:38
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| ききがきすと作品
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ペルーでの原体験が仕事の基本に
バブル崩壊の前だったので、ものすごく売れていて。その頃、海外旅行に一人で行くということを始めたんです。仕事は私の生きがいで、当時は面白くてしかたなかったですね。自分で売って、またデザインして、作って。小さな会社だったので、営業まで全部一人でさせてもらってました。
それがすごく楽しくて、もう少しスキルアップしたいという思いと、海外で生活したいという思いがありました。「兼高かおる世界の旅」を子どもの頃から見ていて、海外で生活したくて。ペルーか、中国か、トルコのどこかに行こうと思っていました。どこも細工ものが多いんですよね。宗教的なことでトルコはやめて、中国も当時は国交が正常化してなかったので、近いから年を取ってから行こうと。
結局、ペルーの銀細工を勉強しに行こうと。無謀にも知り合いもなく、言葉も知らないで行って、そこで2年半を過ごしたんです。内戦があっても、中の人たちは普通に生活していました。
ペルーの北部の町に銀細工の村があって、そこに学校があったんです。1年ぐらい経ったときに、そのことがわかって、その学校に入学をして、銀細工の勉強を1年ほどしました。
日本人は見たこともない、私が初めてというような小さな村だったんですが、そこでの生活が面白かったですね。仕事に対する思いが変わったのは、そこでです。それまでの日本はバブル崩壊前で、景気がよくて、時間に追われて、忙しいことが美徳のような流れでした。ペルーではお金もなくて、生活費もなくて。カナダ人の宣教師の教会だったんですが、そこに下宿させてもらって、子守してくれれば置いといてあげるって感じだったんです。
たまに、お手伝いで、その教会に来る貧しいおばあさんたちと一緒に仕事をするんです。日本だと1枚の型があれば、紙を5枚合わせて1回で切りますよね。そうしたらすごく怒られて、なんて怠け者なの、って言われて。早く終わらせた方が優秀なんじゃないのかって思っていたのが、明日の仕事がないじゃないの、って言われて。
そうか、仕事は長引かせないとお給料もらえないんだ、と気づいて。本当に目から鱗でした。「仕事っていうのは、早く終わらせるだけが全てではないんだな。家族のために、一つの仕事を三つに分けてでも引き延ばすことも仕事なんだ。この国のここでは、そうなんだ」って思いました。
それまで自分がやってきた「あぁ、忙しい、忙しい」という、早く次の仕事に移らなくてはいけないっていうような常識は、その国のそこだけに通用することだと思いました。で、仕事に対する見方が、そこで本当に変わったんです。Aさん、Bさん、Cさんのそれぞれに仕事のペースがあって違っているのに、自分の物差しでは計れないって、その時に思って、それから働く姿勢がすごく変わってきたんですよね。
福祉の仕事をデザインする
学校を卒業して1年経って、日本人は強制的に帰らなくてはいけない状況になりました。成田から妹がいる東京に帰る電車の中で、「なんでみんなこんな暗い顔しているんだろう。お金があって明らかにペルーよりいい生活しているのに、この疲れ切った様はなんなんだ」と思ったのが、福祉の仕事に入るきっかけになりました。ちょっと待てよ、人間って本当に面白いものじゃないかなって思ったんです。銀細工するにしても、いろんな器械が必要だったりするし。
まず、介護の仕事に就きました。当時は、まだホームヘルパー2級っていうのはなくて、要介護の家族を看る講習会っていうのがありました。そこから入っていって、知的障害者の施設とかで働いたりしたんです。視覚障害者のガイドヘルパー(以下、ガイドという)の資格も取りました。しばらくたって、足立区の社会福祉協議会が職員募集をしていたんで、受けたところ、採用に。そこで、コーディネーターとして2年間仕事しました。
そのうち、なんだ、このお役所的な仕事の仕方は、と思うことがありました。例えば、自然災害の場合には、いつガイドサービスをキャンセルしたら費用がかからないのかとか、積雪の時のキャンセルは雪の深さを測る必要があるのですが、目の見えない人がどうやって測るのかとか。使いやすいシステムに変えてくださいって言うと、自分でやればって言われました。やっていいのかなって思って、NPO法人についていろいろ調べて、自分で始めたんです。
お役所的な制度と実際が合ってないというところがずっと疑問で、そこで、おとなしく「はい、そうですか」って言っておけば、社協の職員でいられたのに、自分でやったがために忙しくなっちゃって。でも、仲間がいて、私もそう思うって言ってくれたガイドさんたちや、私も三谷さんとこへ行きたいっていう利用者さんがいてくれたので。社協からはすごく恨まれたんですけど、すぐ潰れるとかなんとか言われながら、結果として続けられてきたのは、不思議なんですけどね。
いつも私は、仕事の力は8割で、2割の力は余力として残しておかないと、いつも全力では折れちゃうと思っているんです。なので、しっかり遊び、気分転換も必要です。この頃では任せられる人もできてきたので、仲間のガイドさんたちと温泉に行ったり、栗拾いに行ったりとかそういうこともして、いい方向になってきたかなと思っています。
利用者さんについても、普通は利用者様って呼ばなくちゃいけないんですが、みなさん、名字で呼ぶし、その人たちのことも障害者扱いしないし、スタッフもみんな普通に接しています。だから、居心地がいいのか楽しみにきてくださっています。
組織での仕事で大事なのは、役割分担ですよね。高齢者の支援をやっている足立区の古い派遣センターで仕事をしたことがあったんです。その時、お役所にはすごく丁寧な言葉を使うんですけど、ホームヘルパーさんに対しては、自分の都合のいい人にしか派遣しないとか、おかしいんじゃないかなって思いました。
働く人も依頼する人も事務局も、同じだろうって思っているんですよね。仕事がなければ派遣はできない、派遣がなければ利用者さんが困るっていう堂々巡りです。だったら、立場は違っても、同じじゃないか。ただ、役割が違うだけだと。利用者さんからは仕事もらわなきゃいけないし、ホームヘルパーさんはホームヘルパーさんで、仕事に行ってもらわなきゃならないし。みんな同じですよね。
私は代表ではあるけれども、偉いわけでもなんでもない、ただの電話番だって言います。雑務は私がこなすし、けんかも私がするから、あなたたちは安心して仕事に行ってちょうだいって言うんです。
利用者さんにも、私がガイドさんを大事にするのは、あなた達のためなんだよ、って。三谷さんはガイドの味方なんだよなって言う人もいるけど、それはひいてはあなた達のためでしょう、ガイドさんが辞めたら困るでしょう、って言うんですよ。
私は役所からはすごく嫌われているかもしれない。でも、役所からの仕事も私は断らないんです。たいへんな人のところへお話に行ってという時にも、行きますって、できることは引き受けます。それに関しても実績をつんできたのかなと。言うだけのことを言うからには、やることはやらなくちゃいけない。
また、ガイドさんたちには、常に仕事として動いてもらわなくてはいけません。だから、うちではボランティアはやらない。お金は全部払います。たとえ、事業収入が入る仕事でなくても、ガイドさんには払うんです。赤字になっても払います。そうしないと生活は守れません。会社としては、べつに儲けなくていい。みんなが給料もらえればいいじゃないかと思っています。
収入は介護報酬に頼っているわけですが、国がこの仕事に理解を示さないんですよね。高齢者の方には理解があるんです。だけど、うちなんか高齢プラス障害があるので、ダブルでもらいたいくらいなんです。でも、今以上は事業所が増えないということは、利益が出ないからなんですよね。
仕事が段々増えてきてはいるんですけど、それは助成金を受けているとか、委託事業があるからです。だから、まるっきり民間で介護報酬だけでやっているところは増えません。もうちょっと、そこらへんのところを理解して欲しいんです。なんたって、視覚障碍者の支援をしているのは、民間ではうちぐらいしかないですから。他のところはすべて公的なところなので、うちは別に困っていないとなっちゃうんですよね。
当事者である視覚障害者の人たちが動かないと、国とかは動かせない。でも、その人たちには、常に必要な派遣はされていますから、別に困らないんです。わざと困らせるってできないですよね。ストライキってわけにもいきませんから。なので、仕方ないのかなぁ。
また、頻繁に制度というか、名称が変わっちゃうんですよね。「移動支援」から「同行援護」になるとか。その度に定款を直すことに。私たちが頼んだわけではないのに、国が勝手に変えといて、定款変えなさいって言われて、本当に無駄が多い。まぁ、でも、仕事できているから、今のところ。
人はみ違う、だから面白い
だけど、後継者を探すのは難しい。だって、こんなたいへんなこと誰がやるの、そういう感じです。私が倒れたら、終わっちゃう。いざとなったら、今いる職員、スタッフが何とかしてくれるとは思うんですけどね。今、私の口からは言えないですが、多分動くとは思うんです。随分できるようになっていますから。それまでの様子見ですかね。
ガイドってマンツーマンでする仕事なんです。事務もマンツーマンでしているので、その事務も交代はできないんですよ。派遣の請求システムとして国がつくったものは、ものすごくややこしくなっていて、それを普段から皆に教えるのかっていうと、守秘義務もあり、なかなか難しい。あなたもできるようにしてねって、AさんにもBさんにも教えるってできないですよね。
今、事務的な仕事をしているのは、私ともう一人います。この人は事務的なことから派遣まではできるでしょうけど、そこからはこれからですね。周りもね、まだ動いているからいいだろう、三谷さんがいるからいいだろうと思っている。
やり方を変えれば、その人なりのカラーでできると思うんですよね。私のように、イノシシみたいにダーっと行かなくても、やんわりといけばいいと思うし、何とかなる。うちが辞めると、バーっと散らばっちゃう利用者さんたちを受け入れるところもないんで、それは区の方も困るのかもしれません。
問題山積みで、一つ終わったら、また新たな問題が出るのですが、その度に、仕事が人生じゃなくて、遊びも必要だし、気分を変えたいし、ってとこですね。ほんと、仕事づけは嫌だな。毎日が日曜日でなくてもいいから、たまには日曜日欲しいな、みたいなね。仕事は自分でやっているから、嫌いではありません。ただ、楽なことではないなって。年中無休の仕事ですから、私がこうしている間にも仕事している人がいるわけですよね。怪我がないようにとか願うだけだけど。
これまでのメンバーについて振り返ってみると、最初に立ち上げた時の人が合わなくて、出て行ったんです。制度を無視していたので注意をしたんですが、辞めてしまって。その時に、その人が連れてきた利用者さんが、ごっそりいなくなったんですよね。
でも、誰一人心配しなかったんです。大丈夫じゃない、って。だから、あんまりたいへんって感じもなかったんですけど。・・まぁ、常にたいへんでもあるんだけど、メンバーがよかったですよね。大丈夫よ、仕事少なくなってもいいからっていう感じでしたから。で、蓋開けてみたら、全然減らなくて、よかったです。
日々いろいろありですけどね。でも、後に根に持ってもしょうがないし、そんな性格でもなかったので、よかったのかな。メソメソしてたらやっていけない。
例えば、私だって、10人、20人いるガイドさんの中には、気の合わない人だっているわけですよ。でも、私と気が合う必要はないんですよね。利用者さんと合って、楽しく仕事に出てれば、どの人も必要な人材で、人が財産です。
よく、代表と気が合わなくて辞めたとかありますが、私と合う必要ないじゃない。利用者さんと合って、行ける人のところへ行ってくれたらいいって言っていると、その人はその人なりに働いてくれるし、すごくいいなと思うんですよね。
人って、パズルじゃないけど、必要なところにはめ込むっていうか、マッチングさせるのが、コーディネートの面白さじゃないですか。ガイドさん同士で気が合う必要もないし、合う人もいるだろうけど。そういう目で見ていると、苦手だなと思っていた人もなんとなく理解できてきて、あぁ、こういう人なんだなって思える。人間って面白いですよね。人間なんてみんな違うから面白い。自分みたいなのが、10人いてごらんなさい、って感じです。上の立場の人は、そこは認めないといけないと思います。
私も、いろんな国へ行って、いろんな人と会う中で、そう思ってきました。違ってないと面白くない。役所の中にも、すご
くいい人もいるし、親身になってくれる人もいます。基本、みなさんいい人で、制度の狭間でぶつかるだけです。
今度飲みにいきたいですね、って言ってくれる人もいますよ。実際には行くことはないですが、そんな中で仕事できるのは、自分でやっている醍醐味もあるなと思うんです。こういう仲間が増えてくれるといいなと思います。
福祉の仕事をデザインする
事業所をやりたいという相談があるんです。ぜひ、やってください、知っていることはみんな教えますよ、って言うんです。ノウハウには何の秘密もないので、やってください、って。でも、なかなかやってくれる人がいない。山形とか2〜3件、相談もあったんですけど。障害に限定しているので、競合も少ないんです。高齢者向けのサービスはたくさんありますが、障害者となると少なくなりますよね。だからこそ、必要だというのもある。
全国にそういうネットワークがあって、例えば、東京の人が高知県に行くので、高知県のガイドさんが高知の空港で待っているという場合もなくはないんですよ。だけど、そうするには両方に登録するとか、すごく手間がかかって、目の見えない人がどこまでできるのかっていうことが、すごく疑問です。
飛行機に乗せてくれれば、降りたところで、出迎えてもらえる。そういうシステムがあれば、もっと障害のある人も動きやすくなりますよね。独居でも動ける。若い人には、そういう人が多いですよ。いろんな活動をしている人もいるし。サッカーで、ブラジルに行ったり、ロッククライミングをやってる人もいるし。応援したいんですが、なかなか思うようにいきません。制度が問題です。
情報発信も大事で、もうちょっとパソコンも勉強しなくちゃいけない。やろうと思うと切りがないです。ブログとかフェイスブックはやっているんですけど、なかなか特定の人しか知らない。視覚障害者のガイドや制度については、詳しく書くんですけど、見たかなあ、って程度ですね。
地方によって制度が異なり、一人当たりの視覚障害者の使える時間も違っていて、全国統一してくれないと困るんです。
でも、うちの田舎なんか人口少なくて、しかも地域が山だとかだと、ガイドさんが行けないくらいの距離のところもあり、そうすると難しいですよね。そういうところの障害者って、もう引きこもっているしかないのかなぁ、って、心配なんです。できれば、少しでも楽しんでもらいたいですね。
まだまだ難しいところです。やっていくと面白いんですけど、一つ手をつけると終わらなくなっちゃうし、今あることで手いっぱいのところもあるし、ね。ちょっと過渡期っっていうのかな。もう一つってところです。
みなさんの歴史を書き留めておきたいという思いがあるんです。時々、すごく面白くて、私たちの意表をつく答えを言てくれる人とかもいるんですよね。だから、あぁ、こういう思いもあるのかなぁって知ったり、聴き出すことも勉強していきたいんです。表に立って喧嘩ばかりしてないでね。(笑)
あとがき
三谷さんと私は、ききがきすと養成講座で同じ受講者として出会いました。講座のワークショップの中で、「私と仕事」をテーマに、お互いの話を聴き書きし合った仲間です。聴き手の未熟さにも関わらず、三谷さんが語ってくださった仕事についての経緯や考え方は、日本の狭い枠から飛び出したような幅の広さや面白さがあるものでした。豊富な内容に、思わず「そうそう!」と頷きながら聞いていました。
ペルーの片田舎のおばあさんたちとの作業の中で、人も仕事もそれぞれでいいんだと気づき、仕事への姿勢が大きく変化したと話されていたことからも、NPO法人代表でありながら、仕事を管理するというより、仕事を楽しくデザインしているという印象を持ちました。人はみんな、違っていい。違っているから、面白い。当り前にそうおっしゃる、軽くて、明確な口調に、不思議な説得力があります。
私も、こんな上司と一緒に仕事したかったなぁ。
(聴き書き担当 鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 13:01
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ベンガル語をお茶を飲みながら学ぶ
バングラデシュに来てから1か月は、お茶を飲みながらベンガル語を勉強するのに費やしました。
バングラデシュの街を歩くと、至る所に小さなお茶飲みの場所があります。たいていは屋台でお茶を沸かして人々に飲ませてくれる店ですが、中には地面に座って路上でお茶を売っている場所もあります。
こういうお茶飲み場を「チャドカン」と言います。ここでお茶を飲みながら、皆で主人を囲んでおしゃべりを楽しむのがこの国の風習ですが、私もここでベンガル語を学びました。 一日に10か所も20か所もまわって、おしゃべりの中でベンガル語を習ったわけです。いわば活きた学習方法ですか。
もう学期はスタートしていたので、入学審査担当官は「学期の切り替えまで、1年くらい待つよりないだろう」と言うのですが、自分は「いや、待てない、どうしても今すぐ入学させて欲しい」と粘りました。自分の話すベンガル語を聞いていた担当官は「それだけ話せるなら講義についていけるだろうから、まァ、いいか」と承認してくれました。柔軟といえば柔軟、ちょっといい加減かなあ。お茶屋で鍛えたベンガル語が役に立ったわけです。こうして学生ビザもとることができ、ベンガル語もしっかりと学び始めることができました。2003年1月のことです。
エクマットラの誕生
その仲間たちと一緒に街に出て、半年ほど路上に住んでいる人たちと話をして、調査をしました。みんなで校庭の芝生にクルマ座になって座り、議論に議論を重ね、時間をかけて確実に、自分たちがやりたいことの絵を描いていきました。
これがekmattra(エクマットラ)の成り立ちです。「エクマットラ」とは「皆で共有する一本の線」という意味で、遠くはなれてしまっている貧困層と富裕層を限りなく近づけて、1本の線にすることを目指し、バングラデシュ国の問題は、バングラデシュの人たちがみずから直視し、解決を目指すのだ、という理念を表します。豊かな国の援助に頼るというかたちでは、 いつまで経っても国の自立は難しいものです。
自国の問題を他の国任せにせず、自分たちで解決・改善できてこそ、その国の発展はある、という自明の論理の展開でした。他の団体が実施中の期限つきプロジェクトを見て、海外からの援助に頼ることの問題点に気づかされたのもこの頃です。
エクマットラ創設者のうち9人が、今も変わらずこのプロジェクトを手がけ、絶えず議論をつづけて、より理想的な将来像を練り上げています。この仲間と出会えなかったら、おそらく1年か2年いただけで、自分は何もできないんだ、とシッポを巻いて帰ることになったんじゃないかと思います。
まず「青空教室」
たとえばバングラデシュでは、非常に多くのNGOが活動していて、ストリートチルドレンに対しても、多くの支援がされています。しかし母親が娼婦だったり、父親がヘロイン中毒だったり、どちらかと言うと「社会の落ちこぼれ」のような親は、自分達のためだけに、子どもたちを収入源としてしっかり確保しておきたい、と考えがちです。そして、そういった親を持つ子どもたちは、こういうNGOの支援を受けられないことがあると分かりました。そこで、自分達としては、親が理由で支援を受けられない子どもたちを、何とかしていこうという方針が固まってきました。
まずは親に対して話をすることから始めました。話を聴いて回った地域は「娼婦街」だったのですが、そんな地域で外国人の自分が話かけることは、とても危ないことで、最初は、リンチにあいそうになりました。娼婦の人たちは夜に仕事をして、昼間はみんな疲れて寝ているので、夕暮れ時しか話せないんですね。そうすると、結構、あたりが暗いし、怪しい人が集まってきたりということがありました。それから、今でもあるのですが、その頃は特に、外国人による「人身売買」が多かったようで、私も外国人ということで間違えられたことがありました。大人数に取り囲まれ、「二度とここに来るな。今度来たら、ただじゃおかないぞ」とリンチにあいそうになって。
その時は「わかりました」と言って帰るのですが、そこで諦めたら何にもならないので、毎日毎日行きました。結局1ヵ月半くらい通いつめるうちに、本気だと分かってもらえたんです。特に、その地域のボス的な娼婦の人がいて、その人が皆に先立って理解してくれたのが大きいですね。それまでは自分の過去のこと、子どものこと、なぜ娼婦をしているか、などについて口を閉ざしていたのですが、だんだん話してくれるようになりました。「自分の娘にはこういった仕事(娼婦)はして欲しくない」「本当はもっと幸せな生き方を選んで欲しい」と。でも「そうするための方法は分からない」というのが本音でした。
親たちも巻き込んで
そこで、私たちが青空教室をやっていることや、計画中のシェルターホームのことを話しました。たしかに日々の収入を得るためには、子どもを手元においた方がいいでしょうが、子どもたちが教育を受け、さらに技術訓練を受けることで、何年か後に仕事につけて生活できるようになったら、子どもにとってもあなたにとってもプラスではないですか、と説得したのです。
とはいっても、やはり説明だけではなかなかピンと来ないようなので、「まずは、とりあえず子どもたちを青空教室に参加させてみたら?」「青空教室は週に3回、1日2時間だけだから、子どもがそこに参加するだけだったら、収入が減ってもそれほど問題ないでしょう?」といって参加してもらうようにしていきました。
その後、だんだん来る子どもたちが増えてきた時分、『親に対する青空教室』も始めたんです。「ここでどんなことを教えているのか、知りたくない?」と誘って、子どもを20人くらい座らせ、親もその周りに20人くらい座らせました。そこで、表向きは子どもたちに教えながら、実はその周りにいる親たちに対して、こちらの意図することが伝わるようにしたのです。親たちは青空教室の実際を見、私たちが真剣に教えているのを見、私たちの思いを肌で感じてくれるようになる。そうやって少しずつ変わっていきました。
カリキュラムを作ったとき、最初は教室につきもののイメージとして「読み・書き・計算」からというのがあったので、まずはベンガル語の「あいうえお」、英語の「ABCD」、数字「1、2、3、4、5」を教えていきました。ところが、子どもたちは親に言われて出席しているので、あまり興味がないんですよね。本当につまらなさそうにしていて。こんなやり方で1、2週間くらい教えましたが、とうとうこれはダメだ、と思いました。
そこで、遊びや歌や踊りや劇といった内容に変えていったところ、子どもたちが少しずつ興味を持ってくれるようになりました。歌、詩の朗読、踊り、遊び、工作などを通じて心を動かされ、笑ってくれるようになり、これを私たちはさらに、モラルやチームワークを教える方向に導いていきました。
青空教室の転機
青空教室はそれこそ天井も壁も無いスペースでやっているので、出席しやすい代わりに、さぼりやすいということがありました。いろいろな子どもたちがやって来てはいなくなり、ということを繰り返していました。それでも、青空教室を始めて1ヵ月半ほど経った頃から、15人位の子どもたちがずっと参加するようになってきました。これが半年程続いた頃、この子どもたちに、もう少し大きな飛躍の機会を作ってあげたいと思いました。
そんな折、たまたま日本大使館が主催するスピーチコンテストがあり、この子どもたちが発表する場をもらって、それまで覚えてきた歌や踊りや詩の朗読を披露させてもらいました。20分程度のささやかな出番でしたが、急病のふりをする子がいるほどおじけづいていた子どもたちが発表を終えた瞬間、500人を超える大観衆が全員立ち上って、割れるような拍手で応えてくれたんです。
私もその場にいて鳥肌が立つ思いがしたのですが、なにより子どもたちが、目を見張るほど表情が変わりました。それまで世間から隠れるように暮らしてきた子どもたちが、自分でも他の人たちに認められることがあるんだ!他の人に賞賛をもらうことができるんだ!という驚きと歓びだったのでしょう。
そこで初めて、自分たちが続けてきたことは間違ってなかったのだ、と思いました。それまでは、最初の教育方法がダメで歌や踊りを取り入れたりしたものの、「本当にこれでいいのか、本当に彼らを変えていけるのか」という思いがありましたが、その発表会後の子どもたちの顔を見て、大きな自信を持つことができました。翌日、多少斜めに構えていた子どもたちを含め、全員が「兄ちゃん昨日はすごかったねーっ!!」と抱きついてきました。15人という少数の子どもたちではあるけれど、自分たちがやってきたことは見当はずれではなかった、少しずつ何かを変えていけるんだと、彼らの変わりようを見て自分たちの迷いはふっ切れました。これが2004年2月の出来事でした。
シェルター設立
以前から青空教室の次の段階として、子どもたちを養育し、通常教育を受けさせるシェルターホームを作りたいという思いがあったのですが、発表会の成功によって弾みがつき、2か月後、ホームを設立しました。この設備つくりの資金については、前年から実業家や一流企業で働いている人などに援助依頼をしに行ったのですが、「そういうことは先進国に頼めば?」と言って、誰も見向きもしてくれなかったという経験があります。外国の援助を頼むのが当然という体質の表れなのです。
私たちの思いは、バングラデシュの人たちを巻き込み、その援助で活動を行っていきたいというものです。というのも、バングラデシュの人から寄付金やサポートを受けることによって、彼ら自身にこの活動を知ってもらい、そして自分たちの国のことに意識を持ってもらうという狙いが活動の根底にあります。
たとえ日本など外国からの暖かい支援を頂いたとしても、そこに依存しないという姿勢を維持する、だから最初から、なんとか自分たちでお金をまわしてやっていこう、という考えでした。本当に子どもたちを変えていきたかったら、親を含めて周りの大人たちを変えていかなければいけないんですよね。
このシェルターでは、通常の教育をしています。青空教室でも読み書きは教えられますが、しっかりとしたものとは言えないので、子どもたちにとっては、ここに来て初めてちゃんとした読み書きが始まります。あとは、刺繍や、紙工作など、技術教育の基礎的なものですが、ただ、一番大切なのは「モラル」を教えることです。限られた空間の中で他の人間と共同生活をすることで、社会性を身につけるということがとても重要です。子どもたちには、路上生活が象徴する自由しか経験が無いわけですから。
そのため、まずは青空教室を入り口として、そこで最低半年間、私たちとの信頼関係を築けた子どもたちの中で、強い意欲を持った者がいれば、親を説得してシェルターに連れてくることにしています。 当初6人だった子どもは、現在30人に増えて共同生活を送り、近くの学校に通っています。この年には、新聞がエクマットラのことを記事にしてくれ、バングラデシュのひとたちの協力が集まるようになりました。子どもたちの里親になってくれる人も出はじめたのは、とても嬉しいことです。
最終目標は技術訓練センター(アカデミー)の創設
さらに、現在のシェルターの規模では本格的な技術教育はできないので、技術支援センターを設立する構想を立てました。2008年9月に、ダッカから170`離れたマイメンシン県に、建設予定地として3.5エーカー(約4300坪に相当)の土地を購入しました。ここに建物を作って、最終的な技術訓練センターとして、子ども達が技術を身に付けて社会に出て行く場とする、というプロセスを考えています。つまり第1のステップは青空教室、第2のステップにシェルターがあり、その後もうすぐオープンするアカデミーで技術を学んで、16〜18歳になったときに社会に出て行く、という仕組みです。社会に出て行くときに、他の企業に就職してもかまいませんが、私たちとしては、彼らが身につけた技術が、私たちの収益となる事業につながる仕組みにしていきたいと考えています。
具体的には、現在も簡単な「お菓子作り」をやっているんですが、アカデミーではオーブンなどを設置して、本格的にお菓子作りを実現していきたいと思います。彼らが技術を身につけて卒業する時に、ekmattraとしてお菓子屋さんを開くことができれば、子ども達の就職先にもなりますし、そうすれば、そこでの収益を次の子ども達への支援に回すことができます。
この最終目標実現のめの資金作りとして、さまざまなことを試みてきました。2006年には映画制作の構想がスタート、2009年4月に『アリ地獄のような街』が完成しました。いまエクマットラの代表者になっている、映画監督Shubhashish Roy(シュボシシュ・ロイ)が監督した映画です。完成後、バングラデシュでも日本でも上映会を開き、チケット売上はセンター建設資金の一部に加えられました。これは、それこそ、はい上がるのがむずかしい場所に生まれたストリートチルドレンの絶望的な生活を、実際に起こった事件をもとに作ったもので、観るひとたちに現実を知ってもらうよき手段となっています。
一番大口の建物建設資金については、バングラ・ダッチ銀行と何度も何度も話を詰め、やっと審査が通って、とうとう2010年、アカデミー建設資金が寄付されることになりました。これを知らされたとき、あまりの嬉しさに銀行を出たとたん、大声で「やったァ、寄付が受けられる!!」と叫んでしまい、びっくりした通りがかりの人までが、なんだか分からないけどおめでとう、と声をかけてくれた思い出があります。このおかげで翌年からアカデミー建設が始められたんです。
レストラン「ロシャヨン」のオープン
そして2011年4月には、レストラン「ロシャヨン」のオープンにこぎつけました。タイ、バングラ、日本料理のミックスの店で、焼き鳥もメニューにあります。単なる、資金集めのためだけでなく、店の名前「ロシャヨン」が意味するところは「化学反応」であり、いろんな人が寄り集まって和気あいあいと食事することで、互いの気持ちや考え方が自然に「反応」し合って変化し、より広い視野と暖かな心が生まれることを目的としています。同時にこのレストランそのものが、ストリートチルドレンの職場となり、自立して職につくための研修の機会となるよう考えて作りました、
開店準備のためには、日本の焼き鳥屋で1週間見習いさせてもらい、作り方はもちろん、資金、仕込み、その他、店というものの経営全般について勉強させてもらいました。この焼き鳥屋さん、そして、イスラム教国であるバングラデシュなので、お酒やミリンが使えない点をカバーしてくれた友人には本当に感謝しています。
両親も見てくれた
バングラデシュでの活動について、はっきりした承諾も得ずに日本から出てきてしまった自分ですが、青空教室をオープンして間もなく、両親が「本当に他人に迷惑かけずにやっているのか?」と調べにやってきて、エクマットラ活動の大学以来の仲間と、子供たちの大歓迎を受けました。いつものように、みんなで楽しく学習している様子をつぶさに見た父母は、心配や疑問もなくなった様子で帰国の途につきました。その機内で、父親が詠んだ句がこれです。
『ストリートチルドレン 胸に抱きたる わが息子
父親がメールで送ってきてくれたこの句を読んだとき、言い尽くせない感動でいっぱいになりました。自分のやりたいことのために、勝手に日本から飛び出して、ろくに日本に帰ることもなく、プロジェクトに打ち込んできた自分なのに、そしてこれからも、人並みの親孝行もできないかもしれないのに、こんなにも分かってくれて、こんなにも自分の側に立ってくれたんだ、という泣きたいくらいの喜びでした。
世界でいちばん幸せな自分
2014年完成予定の技術支援センターは、子供たちが社会に出て、自立した生活を営むために必要な専門的技術・知識を身に付けるための全寮制の技術訓練学校となります。これを本格的なアカデミーとして運営し、卒業生に資格を与え、小規模な店舗、たとえば屋台みたいなものを持たせてやり、自分で営業させる。そして自分たちの後輩をかれら自身が指導するというかたちで、次の世代へのバトンタッチを実現する。ここまでやれたら、自分は日本に帰れるかもしれません。10年後か15年後か分からないけれど。
素晴らしい仲間との出会い、数限りなく受けた親切、こういうことに恵まれた自分の人生はなんと幸せなのだろう。たしかに同世代の日本人と比べたら収入は極端に少ないでしょう。でも、誰よりも今を楽しんでいるという自信があります。いま、私は一人のバングラデシュ人として活動できている心情であり、このことを本当に誇りに思います。
最初は確かに「かわいそうだから」という気持ちがあったかもしれません。でも今はこの国のために何かできるということが、このうえなく誇らしい気持ちです。そして何よりも自分は世界でいちばん幸せな人間だと思えます。
あとがき
渡辺さんは情熱の人、誠意の人です。インタビューの約束当日は、政治的な問題から、政府の反対派が全国で道路封鎖を実施し、わたしたち一般の在留邦人は、大使館から外出を控えるよう指示が出されていたため、動くことができませんでした。
その危険なときに、遠くからバイクで、安全に注意を払いつつ、時間をかけて会いに来てくださいました。そんな苦労をなんでもないように笑って説明し、インタビューの約束をしっかり守ってくださったのです。
さわやかな日本男子。
こういう方を育て、信頼して、バングラデシュという難しい国での活動を、応援しておいでのご家族は、なんと素敵な皆さんだろうと、ひときわ強く印象付けられました。
たまたまバングラデシュに滞在したことによって、立派に、『外向きな活動』をつづけている若い人にお話しを聞くことができたのは、本当に幸運なことでした。
担当ききがきすと:清水正子
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| ききがきすと作品
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| 東日本大震災聞き書き
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| ききがきすと養成講座
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| 最新情報
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Ryoma21では、一定のレベル以上の聴き書きができる人を育成し、活躍につなげるために「ききがきすと養成講座」を開催します。今回で4回目の開催となります。
資格を取得すれば、ご自身でご家族や親しい方の「聴き書き」をすることはもちろん、Ryoma21の仲間と一緒に活動することができます。
どんな意味があるの?@自費出版に関心のある方は多いと思います。でも、いざ書いてみると、自分では思ったように書けないもの。それであきらめてしまう人がたくさんいます。
「ききがきすと」はその方々に代わって、お話を伺い、まとめ、冊子にしてお届けします。ご依頼があれば、書籍にするお手伝いもします。
Aご両親がどんな人生を送ってきたか、きちんと聞いたことがありますか。長い人生には苦労や喜び、こどもが知らない出来事もたくさんあるはずです。親が亡くなってから、親戚などから聞いて「そうっだったのか...」と驚くこと、悔やむこともあります。しかし、気恥しさもや慣れから、家族に面と向かって話をすることは難しいもの。
実は、この活動のリーダーをしている松本もそうした一人です。その経験はこちらで。そんな時、案外、第三者なら聞き出しやすいのです。そんなご家族のお手伝いをします。
B会社には社史があります。しかし、そこには、実際にその会社で働き、成果を上げてきた個人はあまり登場してきません。団塊の世代などの方々は、日本が世界に飛び出し、経済大国となる過程で一所懸命働き、それなりの成果を上げてきたという自負があるでしょう。
そうした個人の経済史は、今の日本に、今後の日本にとっても大切な宝です。そういう話を残しておきたい方々のお手伝いをします。
C何よりも、さまざまな方々の人生のお話を伺い、それをまとめる仕事に携われることは、「ききがきすと」にとっても大きな喜びです。お話を伺った後の「ききがきすと」の顔は輝いています。それは、新しい人生をあたかも体験できる充実したひと時でもあるのです。
講座の内容は?
全部で6回の講座です。たった6回ですが、聴く、書く、まとめる、形にする という密度の濃い内容です。ほかの方の大事な人生を伺ってまとめるという責任のある仕事をするためには、一定以上のスキルが必要です。正直言って、厳しい講座です。座って話を聞いているだけで、資格が取れる講座とは違います。
だから、資格取得までいかない方も出てきます。しかし、頑張っていただければ、受講者は10名以下ですので、講師はできる限りのサポートをします。そして、実習で自分の作品が冊子になった時の喜びは格別だということを保証します。
今回は、本講座とは別に、認定作品作成のための実習ツアーも用意します。東日本大震災の被災者の方々のお話をお聴きします。自由参加ですが、関心のある方にはまたとない機会になると思いますので、ご検討ください。詳細は受講者にお知らせします。
受講者以外で、ご関心のある方はお問い合わせください。
◆開催日:平成25年10月5日から20日までの土・日の6回
認定作品実習ツアーは1泊2日の予定
◆時 間:13:30〜16:30
◆会 場:銀座風月堂ビル5階会議室、ならびに中央区公共施設など
◆カリキュラム概略
@開校式、傾聴実習 A文章講座 B聴き書き実習
Cパソコンでの編集作業 D製本作業 E作品講評、閉講式
*詳細は、下の募集パンフレットをダウンロードしてご覧ください。
第4回講座受講生募集チラシ表.pdf
第4回講座受講生募集チラシ裏.pdf
◆募集人員:10名限定(先着順)
◆申込締切:平成25年10月1日(火)
◆受講資格:@年齢/性別不問
Aパソコンの基本的な操作ができ、ワードで簡単な文書が作れる方
Bノートパソコン、テープ・ICレコーダー、デジカメを持っている方
◆受講料:Ryoma21正会員35,000円、賛助会員40,000円、非会員45,000円
*同時入会で、正会員料金になります。 *テキスト・資料代を含みます。
◆問い合わせ/申し込み
下記を記載して、お申込みください。
受講する方のお名前、郵便番号、ご住所、電話番号、メールアドレス
NPO法人シニアわーくすRyoma21「ききがきすと」グループ
e-mail: kikigakist@ryoma21.jp FAX:03-5537-5281
◎聴き書きに関するご用命はこちらのチラシをご覧ください。
1308聴き書きのシステムと料金.pdf
以上
posted by ききがきすと at 21:56
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| ききがきすと養成講座
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posted by ききがきすと at 20:30
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| 「ききがきすと」とは?
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◆母の人生を親戚が教えてくれた
自分の親がどんな人生を送ってきたか。大筋では知っていても、面と向かって話を聞いたことのある人は少ないのではないでしょうか。私(ききがきすとリーダー:松本すみ子)もそうでした。私の両親は再婚です。二人の子を残して妻に病死された父は、親戚の紹介で、満州から引き揚げてきた母と再婚します。母は最初、満州に渡るという男性と結婚し、子供を二人生み、現地でそれなりに幸せに暮らしていました。そのうちに戦争が起き、夫は戦争に駆り出され、病死します。そうしているうちに、ソ連軍が進行し、逃げ回るうちに男の子は栄養失調で、女の子は引き揚げの船の中で亡くなってしまったそうです。
満州から引き揚げてきたこと、再婚だということはうすうす知っていました。しかし、それ以外のことはほとんど知りませんでした。母も自ら語ることはなかったからです。
そして、母はまもなく90歳という時に、乳がんになりました。医者からは余命3か月と言われました。そんな時、お見舞いにくる母の兄弟姉妹や親戚の人たちから、母が満州でどんなに苦労したかを聞かせてもらうことになったのです。そうだったんだ...。皆は、私のまったく知らない出来事をたくさん話してくれました。そういう話を聞くたびに、なぜ、元気なうちに、母の話を聞いてあげなかったのかと後悔の思いが込み上げてきました。母の気持ちをもっと汲みとってあげることはできなかったのかと。夫が亡くなった後の生活、逃げる時の状況、二人の子を亡くした時の気持ち。
◆後悔しないために
しかし、家族とは不思議なものです。一番身近にいながら、肝心な話はしていない。気恥しさもあり、家族に面と向かって話をすることは難しいのです。そういう家族がきっとたくさんいるはず。でも、聴けるときに聴いておかないと、もう遅いといこともあるのです。私のように。
私は文章を書くことも仕事にしていますので、聞き書きのような活動には以前から関心を持ってきました。ただ、それほど熱心ではなかった。母の死と、その人生をより深く知ることで、この活動を本格的に始めようと思いました。仕事の合間の活動でもあり、まだまだ小さな活動ですが、理解してくださる仲間も少しずつ増てきました。この活動は末永く続けていきたいと思っています。
母の人生は、私は直接聴くことはできませんでしたが、母が問わず語りに病床で話した内容を、姉が録音しており、それをまとめたものは私の「ききがきすと」としての(実際は聞き書きではありませんが)第一号作品です。こちらにありますので、読んでみてください。
「ききがきすと」活動の対象は、母のような高齢者だけでなく、日本をここまで成長させた団塊世代などのリタイア組の話も積極的にまとめていきます。人は生きていく過程で多くのこと経験し、学びます。それは日本の宝、後世の人たちにとって、かけがえのない宝だと思うのです。また、東日本大震災の被災地を訪問し、被災者の方々のお話をうかがって、まとめる活動もしています。
◆ききがきすと作品一覧 → http://kikigakist.ryoma21.jp/category/6933386-1.html
◆聴き書きのお申し込み → http://kikigakist.ryoma21.jp/category/6951596-1.html
◆ききがきすと養成講座 → http://kikigakist.ryoma21.jp/article/371124421.html
posted by ききがきすと at 22:56
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| 「ききがきすと」とは?
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| 東日本大震災聞き書き
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| 東日本大震災聞き書き
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| ききがきすと作品
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*この聴き書きは「アン 〜なんでも自分で〜」の英語版です。
Anne Margaret Halloran
Advisor
Regional Cooperation and Integration
The Ministry of Foreign Affairs,
Born in New South Wales, Australia I was born in a town called ” Wagga Wagga” in New South Wales, Australia.
I have been there until 16. Now it is quite a large town, but when I was born it was rather a small place. It’s a ruralcenter for a farming area in the south of New South Wales. I suppose it would have been warmer than it would be in present Southern part where I live now. As for the climate, relatively mild in my memory but was very dry and with strong and dusty wind. “Dust storm” was the strongest in my memory. And I was quite young in those days.
The teachers’Family,indeed
When I was very young, I realized that I came from a family of school teachers. As my parents were teachers and my father was the Principal 5 of 5 schools. Two of my sisters were teachers and myyoungest sister was a nurse.
When it was a time that girls go in a few years before you leave schools and get married and having her family, most common career was teaching or nursing. But nursing was not interest for me. So I became a teacher.
I started as a teacher’s assistant after graduating from school and before going to teachers training. school, I taught even Latin and French.
When I started to teach at school, I taught every subject, because it was a very
small school with only two teachers and thirty students. And occasionally we were called up to teach something else because there was a shortage in teachers.
Later on I have been teaching at a school where I specialized in teaching English, History and Geography.
Choose what is better for you
Began to teach in New South Wales, and for around 5-6 years then went down to settle in Victoria, South of Australia. I’d taken a holiday and I stayed. I didn’t ever go back to live in New South Wales.
I did not actually get married. I have chosen not to get married but I got one child.
Plainly not, it was not something like community approved of, but it was what a matter to do, and I haven’t worried about it. Then I have chosen never to marry.
I did have relationships with this man for a very long time, but I didn’t want to have children further. Sometimes it’s a problem. I was very happy to have my son of course, but I sometimes say it was perfectly right for the first time. I didn’t have to do it again. Since then I had no correspondence with the father of my son.
Wonderful days of teaching
So teaching was my first career. Officially I started in 1959. And I did that until 1982. It’s a long time. Now I meet some of my students with their children going to the same school where I last taught.
Even in this country, I met one of students I taught. I haven’t seen her since she was my student when she was fifteen. But we remembered each other again soon. We have become friends here. And while working she obtained Ph.D. and became the manager.
I occasionally run into people who say ” I know you somewhere, right?.” One of my students.
Yes, I am proud of my teaching experience and also students. They become friendly when we meet, and most of them are very very amazing women. I thought it was nice for my career having taught in girls school, so I didn’t want to teach in boys’.
To the new work at the public sector
I left teaching in 1982. At that time my son was finishing. As he was in his last stage at school, I thought I better let him give more freedom as far as time was concerned, I didn’t need to be around so much. He was grown up and was going to leave town to go to University anyway. I planned to change careers but didn’t quite know what I wanted to do.
For a while, I just worked in a quite different position from what I did while teaching and then I got into a public sector related. I joined Victorian public service in May of 1983 and began working.
When I changed my work, I was so fortunate that things happened for me. The position became available that I applied for, and I began working in the industrial relations. That was a very good career step for me, as it gave me the knowledge that helped me go to the next stage of my career.
In 1999 I was invited by one of major hospitals in Victoria to apply to be the industrial relations manager at that hospital.That was my next career step.
As the hospital was still very closely linked with public service in Victoria, those
works gave me the range of very good context of public sector services, that’s very helpful.
I dare say, you must be ambitious about to rise up, for your career. It is important not to be too cautious, just try. Leave it to God--That is my thinking of try. If it doesn’t work at doing this, do something else.
My happy days of working
For the rest of my working life ---I left the hospital with the 10 years working in the field of industrial laws and industrial relations. Then I worked for the Catholic schools in Victoria that looked for the person in charge of human resources.
It was like a consultancy or advisory service for the Catholic schools for human resources functions. Because they had small resources department, I virtually worked for different systems to assist them about social functions.
And it involved lots of wonderful travel to every part of Victoria! I was very happy to work with such a lot of travelling opportunities. The travel to the parts of Victoria that otherwise I would not have opportunity to visit. It was interesting, very interesting work with people---with very interesting people, more than that, I could have touring!
Trip –My favorite thing–
One of the other things along with the line is a passion of travelling to Europe.
I went to Europe for the first time with another teacher. She was a German teacher and we went to Switzerland for 3 weeks of study and 3 weeks of travel in Europe during the long school holidays. We enjoyed what-do-you-call-it “home stay” there for 3 weeks and went to school with the family we stayed. We did that twice, in 1973 and in 1975. For me, that was the beginning of my travel, after that now I really in love with Europe.
My impression of the travel was that no much difference were in between countries. People, the individual people is the same, but they have own culture. Indeed cosmopolitan. Now I think my favorite place in the world is Italy, I really
like to go as far as I can, but there’s problem of money!
My son and I
When my son was 16, I took him out of school and went to Europe and travelled for 3 months, in what they call “back packing” style.
I wanted to show him Europe through my eyes. And for me, there was great interest inhistory, the Roman and Greek history. We were fortunate to spend a lot of time visiting to various historical remains and works in terms of the Roman history in Italy and also in Greece. Again a lot of the cultural background and history bases where we derived from. Again some understanding in an appreci- ation of that time.
My son is now in an occupation of health and safety manager, and up the current time his contract is with the Shell Oil Refinery in Geelong in Victoria. So he didn’t go into European culture. He went to something much more practical related.
Working in Timor Leste
I came here for my first visit to see my niece in 2004 for a holiday for a couple of weeks. I just, I felt that I had a connection with people here that so nice.
They were so friendly welcoming and I really enjoyed my time here.
As I decided that when I retired, I would be volunteer somewhere for a while. In this term, I have been considering having discussion with a lawyer I knew who had been in Malawi. And I knew another young lady who had been in India as a volunteer. They both talked to me the wonderful experiences they had had.
After my visit here I sought an opportunity and contacted with AVI: Australian Volunteers International. And when I was asked for, in an interview I indicated that I’m particularly interested in Timor Leste and I was offered this position which was supposed to have started in 2006.
But a lot of trouble occurred at that time in this country. So they had to take all the volunteers out of the country. So my assignment was cancelled indefinitely at that time.
Then I was invited by a hospital that I worked previously to go back and they wanted me to stay on, but I didn’t want to.
When the time came again, I came up here in 2008 and started my assignment with the National Society of the Red Cross for 18 months.
In February of 2011, I came again to Timor Leste to work as an advisor at Ministry of Foreign Affairs.
International society was very close---that was of my impression born in working with amazing people.
Everybody from the secretary general down through every level of staffs is just wonderful. I learned so much from them. It was like a part of large family.
If I study further
If I study now--- well I have thought I would have to do something when I retire.
I have a thought of study. Not though I am a religious person but I am interested in other peoples’ religious thinking. And I have thought about studying Theology.
Because it was just interesting for me why some people are deeply religious and others are anti-religious. Some people take a way to extremist at (what I think is) the negative way because of the religious believes.
I don’t understand why these --- the religious believes can make people act or think as they lead. So sometimes I think to try studying.
Theology, Philosophy and the mix. I might understand some of those things that multi-life people to live for.
Some people have a comfortable conversation with you without trying to convince you or to make you believe like all the people. Sometimes some people take very desperate methods to make others like a sort of violence, if you say, absolutely fanaticism.
Therefore, sometimes I think when I retire, I might just to satisfy my curiosity, study Theology, Philosophy or combination to understand why people have no religious for this place or have religious for that place. But probably it’s impossible.
The fear of losing memory? Forget it
As the brain is still working, we should keep it busy.
People sometimes are afraid of forgetting names or loosing things. But we have done it all our lives, only when we get older, we began to wonder if it is because of you are losing a memory. Yet probably during all your life you are losing things already.
You know I used to worry because I can’t remember people’s names. I would always remember your face to see you again, but probably have no idea about what is your name.
In this term, it’s good when you work in an organization. As I returned to work in the hospital, there were still people there from 20 years before. I recognized the faces but no names. Fortunately they wear all name tag so you never have to ask anybody the name. It’s very good. It’s very handy. So I may wish that all the people in the world do have the name tattooed in their forehead.
Elders in Australia
What is happening in Australia recent years although there is a retirement age which, I think upper age of 65, people are now encouraged to stay on at work. There is no limit. You can stay on after that age.
I think it’s an appreciation of the facts that people with more ages at work have lot of experiences that would be shared with younger ages from different view. So you get the balance of younger view and older view.
And more and more, now you see older people staying on, not necessarily full time at work, but working 2 or 3 days a week or some other each day. That’s
quite common thing in Australia now.
About the Role of Elders at home
I had three sisters so the family were six. But many families then had six or
more children. Today an average family has two children, different from a woman
in the past who would have children to look after for quite a long time. Two children only leads to very very few grand-children. Compared with a big family or a big extended family, now is very much smaller, and for older generation less things to do.
I myself didn’t look after my grand-children so well. For more than day or two in the weekend, I took care of them for their parent taking a break. I have to say two was plenty. I wouldn’t have an energy to look after more than two. And by the end of the week end I would be exhausted.
Now that my grand-daughters are teenagers, we spend time with, during a school year and most of the week end, when I am back in Australia. As they are studying or doing researches for their homework, they are very quiet. It’s lovely to see them at my home, lovely to visit them.
Now I am very fortunate that my niece and her husband and their children are here. One is 5 and the other is 3. And just they lovely. This is very good timing
to come near- by, and this is another reason to continue staying here.
I’m not good at asking for help
I think the Australian travel more by car than by train/airplane and so do I. For
example, to go to the Northern city of Sydney which is the capital city of New south Wales from Melbourne, it’s about ten hours driving time, but one hour in a plane. I prefer driving to taking a plane, because I like to have a long travel.
If an accident happened? I would try myself to solve it. I would like to be able to do myself. I’m very independent. I’m not good at asking for help.
posted by ききがきすと at 18:55
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義理のおじいちゃんが、終戦間近まで山梨県の上野原の下にある荒田村の村長を長いことやっていました。キュウリ、トマトやさつま芋などが倉の中にいっぱい入っていて、よくもらいに行ったね。おじいちゃんに「一度に慌てて持って行くことないよ。たくさん持って行かなくても、少し持って行けば良いじゃないか」と言われました。それで、自分で買うこともできるのだから、そんなに芋をたくさん持っていくことはない、そういった欲望を持っちゃいけないと反省しましたよ。
靴屋の倅が35歳で20歳の嫁さんをもらいました。その嫁さんはおしろいつけて丸髷結っていて、お風呂に行くと、とてもみんなによくしてもらえるのね。「何だ、こんな女、昼間からおしろいなんかつけて」と思っていた。こんなことを言って申し訳ないが。私らは生意気な格好は嫌いだったね。身分不相応の格好をしてはいけないとよく親に言われていましたから。
靴屋の家主は材木屋で、その倅がすぐ裏に住んでいました。それと一緒に支店に行ったことがあります。私がひとこというよりかも、その倅が文句を言うと、親父は引っ込んでしまう。やはり大家さんだという意識を持っているからね。世の中というものはそんなものですよ。
土地を売買したおかげでここにいられる
少しずつ土地を買ってお金を貯めました。私の経験では、お金を貯めるには土地が一番よい。
あるところに行って声を掛けました。「この辺に私に適当な土地がないですかね。50〜60坪を2〜3カ所欲しいのだけど・・。これだけお金を持っているけど、まけてくれないかね」
「ちょうどこっちも売りたい時だから、まけて売ってあげるよ」と言ってくれた。登記所の抄本もらってから、お金を半分払って「じゃー、明日来るからね」といったやり方で取引していました。
私は買った土地を早く売りたいので、その土地の周りでうろうろしていると「この土地、どこが持っていますかね?」と聞かれる。そこで、「あーこの土地欲しいですかね。そうですか。もし何なら聞いてあげましようか?」と答える。私の土地だからね(笑)。これも一つの方法ですよ。
それから「商売始めるの?」「息子がこの辺で欲しいと言うから買ってあげたい。どれくらいなら売るかね?」「さーね、私はよくわかんないけど。100万円欠けたら売らないだろう。100万円は大したことないよ。10万円が10あれば100万円になるから」
すると相手も「じゃ、あっちで買うか」というから「いや、それくらいの値段ならあっちも売らないよ」と言ったりした。100万円くらいは儲けたいから、こんな風に売買をやったんだよ。
国立にあった有斐閣の土地40坪を買ったことがありましたよ。まぁ、何とか信用されて、悪人のようには見えなかったのでしょう(笑)。
その土地に私の家を建てたら、女房がここは道路がうるさいからもっと下がったところに行ったらどうですか、と言いだした。300〜400万円で買った土地を1000万円で売ろうと思ったら、翌日買いたい人が見えたんだよ。お金を持ってきたらしいので、私は腹ができているから、即、売ることを決めましたよ。ウソではなくて本当の話なんですよ。
私が今日まで来られたのは有斐閣の土地を買ったこと。それが一番大きかった。そのお陰なんです。
国立では、大和銀行に土地を売ったこともあり、ずいぶんお世話になったんですよ。150万円くらい利息が入ったときに銀行がすごく喜んでくれて、新米の担当者が何でも相談してくれと言ってくれてお得意様になったね。あんた、なに、そんなに簡単に態度変わるのって言ったけどね(笑)。あの銀行もつぶれましたね。銀行はあまり人に良いところ見せるといけないね。
それで国立の別の所に家を建て、それを売ったお金をこの老人施設「相生の里」につぎ込んだ。子供もいないんだし、死ぬのになんもいらないでしょ。何も残すことない。
姪に何もかも任せています もうすぐ100歳になるから、私は今なんもいらない。3兄弟が早くこの世から離れてしまったから、どうすればいいんだか。
私は跡継ぎがいないので、姪が跡を継いでいます。東京都はお墓の継承については手続きが早いこと早いこと。山本留吉は×、今度は鹿島ゆきこが○というような方法で、1日くらいで変更してくれた。この姪に何もかも任せていて、今、守ってくれてますよ。私の貯金通帳から毎月の家賃を振り込んでくれています。
姪は58歳、結婚して子供が2人います。次男が買った新川の土地を維持していて、偉いと思うよ。4階のビルを建てて一階を蕎麦屋や飲み屋さんに貸しています。
姪はタバコを売っているんだけども、タバコはさっぱり売れないと言っていた。吸わない人が多いんだから、俺が買ってやろうかと言ったんですがね。私は何10年とタバコを吸ったことがないんですけど。
姪にお金を上げようというと、いらないという。欲張らないのね。普通の人なら内心では残してくれたらいいのにと思うでしょうけど、姪は欲しがらない。むしろあの子は勤めているときにボーナスもらったら、私に5万円くれたんですよ。
姪がお墓参りに行ってくれるのはありがたいね。「お墓、きれいに掃除してくれてあったよ」「あ〜そうか」「なにもかも高くなったよ。お花も2000円いくらだったよ」と言っていました。
準備してきたから今がある
ここに入所する前は、自分の家に住んで警備士をやっていました。たとえば競馬場とか、多摩川の競艇場とか。この間、立川競輪場の前で5億円を失くした警備会社がありますよね。そこにも働きに行っていた。あの警備会社はお金をちゃんと封筒に入れて現金で支払ってくれるんですよ。そういうのに目につけてやられたようだ。
月に15日は働きました。年取っても働いていたんだから、こんないいことはないですよ。車が好きで、大型の免許はもちろん、バスの二種も持っていました。大型の運転手やるより子供の方が楽しいから、幼稚園のバスの運転もしていました。1回の事故も無しだったね。「うちのパパなんて下手だよ。木にぶつけるのよ」「私は大きい車でも事故起こさないからいいほうかね」と言うと、「もちろんおじちゃんは上手だよ〜、上手だよ〜」と言ってくれる。
私は、兵隊に長いこと行っていたので、今はその恩給を使わしてもらっています。私学共済と国民年金、それから恩給をもらっているのでここの費用が支払える。当時、女房がそんなものに入ったって、お金なんてもらえないよと、よく言ったけどね。政府はごまかしはしないから、今もらえるんだね。余計にお金を掛けていたので、今はたくさん入ってきます。
楽しみも喜びもあって幸せ
私は車が好きで、しょっちゅう買い換えてたけれど、姪は10年も同じ車に乗っている。この前、姪がなんとなく車がおかしくなったと言って、やっと買い換えたね。いい車を買ったので、じいちゃんを連れて行きたいと、東京駅に連れて行ってくれた。東京駅はきれいだね。
ここ「相生の里」ではセブンイレブンからお弁当を取って食べたり、電話で品物を注文して配達してもらっています。500円以上は配達料は無料なのでいいですね。そばやの「うえむら」に頼んで出前してもらったりもしています。
それからもう一つの楽しみはどこかで食事をすることだね。「虹のサービス」の人と毎週月曜日、6000円かかるけど、ハイヤーを使って銀座に出かけています。銀座アスターは中華ラーメンでも、焼きそばでも食べるものはなんでもおいしいね。担当の人も銀座アスターが好きですね。
でも車椅子を押していくのは大変ですよ。商店街をぐるーと回って、三越の3階、4階、最後に地下で食料品を買って帰ります。それがひとつの喜びでもあり、自分の楽しみでもある。お金さえ使えばいろんなものがありますが、お金をむやみやたらに使うことはないです。
もうここ「相生の里」で死ぬんだから、何もいらないんです。ここに入所する前に奥さんの写真も家具もみんな置いてきました。お寺さんに約束して「正導院釋常賢居士」という戒名までもらっています。何の価値もないかもしれないけど、桜井の興福寺というお寺でね。亡くなった女房もそこで全部やってもらっている。もし、私が亡くなれば霊柩車がすぐ着くように連絡がついています。今はなーんもやり残したものがなくて幸せですよ。
(完)
posted by ききがきすと at 00:01
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「ききがきすと」になって活動しませんか!
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第3回講座受講生募集チラシ表.pdf
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posted by ききがきすと at 23:03
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