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語り人 坂本武一(さかもと ぶいち)さん
北川村に生まれ育つ
おやじは、人の世話ができる人で、周りに薦められて渋々でも村会議員を2期はしたと覚えちゅう。もめごとの調整役をようしよった。田んぼで牛を使いよっても、人が相談事があって来たら、牛を居ながら(そのまま)置いちょいて行ってしまう。後で母がひどい目におうたと、愚痴りよったわよ。兄弟は、わしの上に姉が2人、下には妹が1人に弟が3人もおったき、家はにぎやかなもんじゃった。
奈半利川の懐に
北川の村を東西に二分して流れちゅうのが、奈半利川(なはりがわ)よ。和田の辺りは、左岸地域を影、右岸地域を日浦と言うて、当時は41軒の家があった。今はもう、ずんと減りよらぁ。余所へ出て行って、安芸辺りにありついた人も多い。今は、19軒かなぁ。星神社の係をしゆう人が、その数ばぁ(くらい)はあるけんね。けど、一人暮らしとか、そんな人ばっかりや。
日曽裏は、影にある集落で、学校のある小島は日浦にあったきに、ぐるりと遠回りして大きな吊り橋がかかった県道へ出にゃならんかった。けんど、すぐ向かいの瀬詰で、しょっちゅう部落の会があったもんで、吊り橋の方まで回らんでえいように、木を引いただけの丸太を組んだ橋を架けちょった。家からその丸木橋までは、子供の足でも5分とかからんかって、みながよう渡りよった。
その丸木橋で、わしのすぐ上の姉の民子(たみこ)に不幸があった。小学校1年にはなっちょった。冬休みのことや。昔の奈半利川は、水量もようけあったし流れもきつかった。丸木橋の下は、冬場でもシャーシャー大きな瀬音をたてて、怖いように流れよった。大人でも、「こりゃ目が舞う(回る)」言うたもんよ。
姉は向こう岸の友達の家へ行こうと橋を渡りよって、こけてしもうた。一緒におった友達が家に知らせに走り込んだが、助けたときはようけ水を飲んじょって、もう駄目やった。正月の寒い日のことやったと覚えちゅう。
それでも夏になったら、奈半利川は子どもの一番の遊び場で、学校から帰ったら、弟や友達と連れだって一日中遊んだもんよ。鮎をついたり、手長海老を取ったり。昔の奈半利川はきれいで、鮎もこんな大きいががおったぞ。それを食たら(食べてみたら)、なんとも言えんかった。今の鮎は、もういかん。
手がうんと長い海老もどっさりおって、面白いように獲れたもんよ。電発(巻末注参照)が工事をしてからは、あんまり見えんなっつろう。夜、火を付けた「いさり」いうがを持って、流れのゆるいところへ行くと、灯りを追わえて手長海老が石のところからゴゾゴゾゴゾゴゾ出てくるがじゃき。それをタマ(竹や針金の口輪のついた袋状の網)で獲るがよ。慣れんうちは、どうしてもようおさえん(捕まえれん)。前向きには行かんと、後ろへしさるき(退くから)。ほんじゃきに、ケツの方へタマを持っていかんと。そしたらタマへ入る。初めはそれを知らざったき、なんぼ前へ構えても、獲れるもんか。大きなががおったぞ、昔の奈半利川には、なぁ。
あの日も、何人かで来て、泳ぎよった。小学校へは行きよったき、1年生にはなっちょったろう。昔の奈半利川は、川幅も広いし、岩のような大きい石もあって、川の流れが、あんがい順調じゃない。一つ間違ごうたら、うんと瀬の早い方へ流される。しかも、そこは深い淵じゃ。
こもうても(小さくても)川では達者じゃと思いよったが、行きそこのうて、淵に呑まれて流された。それをちょうど一番上の姉の幸美が覗きよって、「早う助けて、助けて」いうて大きい声で叫んでくれだ。そこにたまたま、山田秋美さんという同じ和田の若い衆がおって、助けに飛び込んでくれた。もっと上級生になっちょったら、どこででも泳ぐばぁの力はできちょったろうけんど、あのときは姉の後を追うて、おおかた逝きよった(ほとんど死ぬところだった)。秋美さんは、命の恩人や。
あの頃は、この奥から材木を結構たくさん出しよった。魚梁瀬の国有林からは、太い材が出たきね。秋美さんは、伐採した木材を、海まで川を流して運ぶ作業の途中で、何人かの仲間と休みよったらしい。流す作業をする人が県外からも来よって、和田には、その人らぁが泊まる家もあった。家の建前が独特で、家族の居るくとは別に、その人らぁの居るくがあるように、1軒の家を分ける建て方になっちょった。森林軌道ができるまでは、奥の島あたりから木材を流す仕事がずーっと続いたわよ。
入営のため広島県福山へ
あの頃は、成人したら男は徴兵検査を受けて、合格したら2年か3年は兵隊に行かなならんかった。わしも20歳になった昭和18年に徴兵検査を受けて、その年の12月に福山に入営した。父と秋美さんの二人に送ってもらったことは、よう覚えちゅう。
当時、北川村では、入営する若者が連れだって遺族會館のところの上の段に、村の人たちが下の段に並んで見送りしたもんじゃった。村長さんが励ましの言葉を言うた後、みなで万歳三唱して、行く人たちが「頑張ってきます」いうて応える。名を記したノボリ旗がはためいて、華々しいもんじゃったぞ。
けんど、わしが兵隊に行くときには、北川村で一人じゃったきね。そういうのはなかった。野友の手島トシオいう人と二人じゃと聞いて、一緒にと思うて探したけんど、ちょうど愛媛の方へ行っちょる(行っている)とのことで、よう会わんかった。ほんで、連れだる(伴い行く)こともないままよ。
入営してから、その人に会うたけんど、野戦に一緒に行くことはなかった。どこへ行ったかはわからん。知っちゅううちでも、二人ばぁは野戦へ行かんかったがもおっつろう(行かなかった者もいただろう)。
わしらぁの隊は、日本全国、北海道から九州までの人がおる混成部隊やった。福山の西練兵場に集まって、迎えに来ちょった若い班長さんに連れられて、そこからすぐに船に乗った。玄海灘を越えて釜山港へ向こうたが、酔うて酔うて。そりゃ、玄海灘の12月いうと、荒れるときじゃもの。便所へたけだけ通うて、治まりゃつかざった(便所へ行き通して、何ともしようがなかった)。初年兵がよけ(多い)じゃろう。20歳ばぁの若い兵隊でも、船には酔うわね。
平壌での訓練
そこから平壌までは汽車に乗った。途中で降りて休むこともあったが、おおかたは汽車に乗ったままで、3日もかかって、ようやっと着いたことよ。すぐに正月やって、鯛をもろうて食べたことを覚えちゅう。
平壌での訓練が始まったが、海軍とは大分違う。弟の恒喜が行っちょった海軍では、叩かれて叩かれて、「腰が痛い、痛い」言うちょった。下手やから、上手やからというのではない。海軍の習わしみたいなもんよ。「はい」と言おうが何を言おうが、頭からじきに棒が飛んで来たと。
けんど、わしらぁの部隊では、そんなことはなかった。志願で募集しちょったき、朝鮮の人がどっさりおったが、将校らぁは、その朝鮮の志願兵らぁをそりゃ大事に言うたわよ。朝鮮人が逃亡するろうがよ。わしらぁは、別にどうもないと思うちょったけんど、何日もかけて丁寧に探さないかんかった。日本人にも、そうよ。あんまり叩かんようにしちょったねぇ。
福山の聯隊が平壌へ引っ越したがやき、大きな部隊ができちょった。けんど、みな、あの平壌の寒さには閉口したねぇ。そりゃ、凍るばぁ冷い。夜が来たら、川が凍って向こう岸へ渡れた。そんな厳しさが遅い春が来て、やっと和らぐ。5月には、川の両岸で洗濯ものをたたいて洗うのも見たわよ。
わしらぁ初年兵は、まぁ、学校で言うたら一期生(一年生)みたいなもんよ。一期生の訓練を冷い強い風が吹く中で受けよったところに、高く丸く土を盛っちゅうもんがあった。ちょうどいい塩梅やと、風が吹かん方へ回りよったら、後ろから「これは何か知っちゅうか」いうて訊かれて、「知らん」と応えたら、「これは朝鮮の墓ぞ」と教えてくれた。昔の皇族の墓やったらしい。
ミンダナオ島北端のスリガオへ
わしが所属しちょったのは、歩兵第41聯隊の第3大隊やった。さあ、何人くらいの部隊やったか。5、6百人とはいわんかったろう。聯隊長は炭谷鷹義、大隊長は近藤泰彦。間違いない。
朝鮮での訓練の後、5月の上旬に、どこへ行くとも知らされんまま、汽車で平壌を出た。釜山に着いて、鉄砲へ孟宗竹みたいな竹を括り付けて、それを担いで船に乗り込んだ。ごまかしよ、ごまかし。その竹は船の上から捨てて、処分したと思う。
船に乗っても、初めは行き先もわからん。わしらぁに言うてくれるもんか。今度の船は1万トン級と太うて、船底には、馬も積んじょった。わしは船には弱かったが、今度は船が大きかったからか、玄海灘のときと違うて酔うことはなかった。
あの頃は、船が攻撃されることも多かったが、幸せなことに、わしらぁの乗った玉津丸は無事に進んだ。非常演習いうて、船倉からみんなぁ甲板へあがって、訓練もしながら行った。整列して前の人の襟元を見たら、シラミが這いよって、わしは気色悪うて生きた心地がせんかった。そのとき初めてシラミを見たきにねぇ。それに、まだ5月やに暑うて暑うて、汗疹も出たりしたわよ。
船は、フィリピンのマニラに寄港して、5月下旬にはミンダナオ島の北端にあるスリガオに上陸した。行くには行きついたものの、そこから先は何の見通しも立たん。日本にもどれるかさえ、わからんと思うた。
討伐の日々
朝鮮の人も日本人に混ざって行っちょったが、そう多いわけじゃなかった。部隊が決まり、兵卒はみな何班、何班って分けられ、班長も決まった。わしらぁの班長は、上田寿というたと覚えちゅう。一つの班が、まあ、20人くらいおっつろうか。班長の上に小隊長、その上に中隊長というのがおって、何班もひっくるめて監視しゆうがよ。高知の仲間、石元さんや室戸の上田さんらぁと知りおうたがも、そこでやった。
スリガオには1ヶ月もおらんと、部隊を編成して、船に乗りもって島の沿岸一帯の掃討作戦に出た。初めはアメリカがフィリピンを占領しちょったがやき。それを日本軍が上陸して追い立てた。その後へ、わしらぁが入ったがよ。
道を造るがじゃない。ゲリラの討伐が目的やった。現地人は、先に来ちょったアメリカの味方するもんが大方で、道端のあちこちに仕掛けを作って隠れちゅう。ゲリラや。その竹杭の先で怪我をした者がおって、竹に毒を塗られちょったか、治りきらん。そんなこともあった。
自分の部隊がどう進んだか、地名はよう憶えてない。確かカバトバランというところへは行った。日本じゃないき、土地に詳しゅうないろう。一晩ばぁでどんどん動くし、どこをどう動いたか、頭に残っちゃぁせなぁ。戦後に師団の関係者から本を2冊送ってくれた。あれがあったら詳しいことがわかったが、孫が貸せ言うて、持って行ってわからんなった。
どこへ上陸するときやったか、船が浅瀬にはまってしもうて、着岸できん。持っちょった携行品を雑嚢(ざつのう)いう袋に入れて、肩へかけてバンドで縛って、陸を目指して歩いた。ところが、袋ごと浸かってしもうて、カンパンもなにもかも全部塩水にやられてしもうた。そんな情けない思いもしたことよ。
1日に1回は雨が降った。スコールよ。討伐に出ると、雨にもやられた。着物が濡れて、シラミがわく。水虫にも苦しんだ。軍隊では、地下足袋と靴をくれたが、毎日の雨で乾く暇がない。どんどんこじれてきて、痛うてね。乾かしはできんし、それがしょう堪えた。けんど、最後は誰もかれも靴もなくして裸足やったなぁ。
けんど、あの暑さを思うと、雨が降るからおれた、とも言える。眼鏡のレンズで煙草に火が点くばぁ太陽がきつかったのを、毎日の雨で、なんとかしのげた。
木にもまけたねぇ。討伐なんかで藪の中へ入ったら、後でピリピリ、ピリピリ体が痛うなってね。そりゃ、どやらした名の、漆みたいな木に触ったろう言われたけんど、わかるもんか。そんな木には、触らいでも、下を通っただけでまける人もおる、いうて教えてもろうた。
都会の人は体も弱うて、戦地では難儀なことばっかりやった。わしらぁは、学校上がってからは親の手伝いもするし、友達と山駆けずり回って遊んだ。兵隊に行く前は、営林署で国有林の仕事もしよったき、身体も鍛えちゅう。お蔭で大概のことに我慢できたと思うちゅう。
伝令に行けと言われて、川向うの部隊まで泳いで渡ったこともある。わしの他には、誰も川を泳げんかった。子どもの頃には溺れよっても、あれから泳ぎは達者しちょったきね。(笑)
そんな大きい川じゃない。ちょうど奈半利川ばぁの川幅じゃったように思う。部隊への連絡がすんだら、歩哨に出されちょった班長が、「まぁ、飯も食て行け」と言うてくれた。それから、こうこうしてワニを現地人が取ってきてくれちゅうき、これを小隊長へ持って帰っちゃれって、荷にしてくれた。部隊へ帰って、ワニじゃき食え言うてくれたで、って渡すと、ワニかよ、身がきれいじゃなぁ言うて、当番が炊いてみんなに食わしよった。まっこと(誠に)きれいなもんじゃったが、本当はワニじゃない。トカゲの身じゃった。そんなこともあったわよ。
担いででも連れて帰りたかった
聯隊の大方はレイテへ行ったが、わしらぁの第3大隊は残って、ミンダナオ島の警備に当たった。沖を見よったら、沖縄へ行くアメリカの大船団が通る。日増しに戦況が悪うなっていきゆうと、嫌でもわかった。
野戦へ出たときには、食糧も持っちょたけんど、すぐにのうなる。わしらは、あちこち現地人がつくっちゃぁるイモとかトウモロコシを取ってきて、それで命をつないだわよ。そうせんと何ちゃぁない。暑いところやき、年がら年中イモらぁはあった。小隊長いうたら少尉ばぁじゃが、その偉い人らぁでも、キビを食いよった。あの固いのを齧って食って。生では食えんき、イモもキビも、ちょっと煮いて食べたわよ。
バナナは、3日ばぁ草の中へ活けちょいたら食べれた。バナナとか、パパイヤ、パイナップルらぁも取って来る。それは現地人も取るがやき、よっぽど運があって間に合わんと当たらんわよ。そうよ、現地の人の食料を奪いに行くがやきね。そのうち、輸送船が途中でやられて、戦地へ食料は全く届かんようになって、兵隊の食糧事情は日を追うように悪うなっていった。
ありがたかったのは、塩を一人ひとりに分けて持たせてくれたことや。支那事変へも行っちょった先輩の兵隊さんが、塩がないと人間いかん、そう言うてみんなに塩を持たせてくれた。他の部隊の人らぁは、こればぁの高さでも足が上がらんようになったが、わしらぁの部隊は、塩を持っちょったお蔭で助かった。
その時には、塩ばぁ大事なものはないと本当に思うた。塩が切れたら、かわいそうなもんじゃ。けんど、助けちゃろうち、こっちも大方いかんがやき、何ともならん。塩をなめて水を飲んで、持ちこたえた。水はテントへ汲んできて、カルキを入れた黄色いようなのを飲んだ。
師団に合併するやらいう話があって、山の中をくぐって行きよったら、ブツアンいうたか、川に行きあたった。そこから今度は上流を指して行きよったら、もうアメ公が来ちょってバリバリ、バリバリ撃ってきた。
アメリカの味方しゆう現地人にも撃たれた。撃たれた腕を鋸で引いて切り落としたいう話しもある。ヨダミノルいう高松の男やったが、機関銃の弾が、突き抜けちょったらよかったけんど、斜めに食い込んじょった。軍医が手当しよったけんど、腐ってきて、「これは、腕をすっぱり切らんといかんぞ」言うて、鋸で引いた。けんど、その人は足がえいき、歩ける。ちゃんと戻ってきたぞね、高松へ。戦友会でも2回ばぁ会うたことがある。わしと一緒の一等兵じゃった。
山の中では、どっさり死んだわ。食糧もない。マラリアにもやられる。マラリアの薬がきつうて、胃腸をやられる。戦うて死ぬがじゃない。大腸炎やマラリアに罹って、死んだ人が大勢おらぁね。わしらぁの仕事は、毎日、負傷したり、体調崩した仲間の世話をすることと食い物を探すことやった。けんど、探しに行きやぁ、撃たれよったわよ。
体調が悪うなったり、足が動かんなって、移動に付いて行けん人は、手りゅう弾もろうちゅうき、途中で自決した。そんな人も、どっさりおらぁ。みんな、担いででも連れて帰ってやりたい。けんど、自分がようよう動いて行きゆう。我もいかんなりゆうき(自分も死にかけているので)、何ともようせんかった。遺骨収集にもなかなか行けんような山の奥で、本当にようけ亡くなった。
終戦、そしてレイテ島での俘虜生活
昭和20年の8月15日、わしらぁは陣地を構えて、まだ戦いよった。互いに立ち向こうておったところへ、宣伝に使うようなこんまい飛行機が低空で飛んできて、ラジオやビラを落としていった。ビラには『日本のみなさん、戦争は終わりました』と書いちゃあった。それを見て、あぁ終わったと思うて、嬉しかった。
わしらぁの41聯隊は、大方がレイテで戦死したと聞いた。ミンダナオ島へ残されて、運が良かったがよ。戦友の高岡の石元さんが、毎年8月15日に電話してくる。今日の日ばぁ、嬉しかった日はなかったぞなぁ、言うてね。もう1ヶ月戦争が続いたら、一人残らず死んでしまうがやった。食料がないきね、ほら。みんなぁ逝ってしまうがよ。そんな状況の中で、迎えた終戦やった。
それからの俘虜生活も、大変やったが、戦争しゆうよりはましよ。助かった、思うた。銃を捨てて向こうに渡し、みんなが降伏した。上の方で連絡が取れちょったのか、白旗掲げるようなこともなく、部隊がみんな揃うて、持っちょった銃を1ヶ所へ集めて、整然とやったわね。
俘虜の生活は、レイテ島で始まった。そこへ行ったら先々に来た人もおって、みんなぁ太い屋根だけの宿舎に入れられた。そこは玉砕したところじゃったが、建物の大部分は残っちょった。古かったが、ヤシの葉っぱを葺いたような屋根はあった。中は吹き抜けじゃけんど、上等よ。
けんど、食べ物がなかったわ。飯盒出せ言うき出したら、飯盒の蓋へ1食分じゃ言うてくれるが、米粒は10粒と入っちゃぁせん。アメリカ側は十分に支給してくれちゅうが、間におった炊事をする者が問題よ。入れ墨をした親分・子分の、ああいうがらぁが飯を構えよった。自分らぁだけ、白飯のいいのをどっさり食いよったわ。
親分、子分になったら、きれいなというか、汚いというか、そんなもんよ。それやき、何ちゃぁ言えん。何か言うたら、叩き殺される。アメリカ側に訴えても、十分に食料は出しちゅうとはね切られるし。下の者は、本当、生きちゅうというばぁのもんよ。便所に行くにようようじゃった。
仕事は、アメリカの仕事をしよった、宿舎や他の施設には、いろんな荷が入っちゅうき、現地人がかっぱらいに来る。そんなことできんように塀をつくったりした。そこには、終戦から翌年の年末まで、長いことおったなぁ。南海大地震のあった夜は日本に帰って名古屋の三菱の工場で寝よったがやき、1年半ばぁおったことになる。
ようよう引揚船で日本へ
俘虜でも早い者は終戦の年に帰れたが、自分は昭和21年の12月にやっとタクロバンから引揚船に乗った。船は3千トン級あるアメリカの輸送船や言いよった。2千人は乗っちょったろうか。大きい波でも来たら大揺れするような船やった。もともとが貨物船じゃき、便所言うても甲板に別に網張り幕張りして、そこでわからんようにしたわよ。海へ流すがよ。急ごしらへの船やき、そんなもんよ。
日本が近づいて山並みが遠くに見えたときには、甲板で、みんなぁワーっと言うたわよ。どうこう言うても生きる死ぬるやったきね。
着いたがは名古屋港、師走の20日やった。陸へ上がって土を踏んだら、そりゃ、ホッとした。明日は我が死ぬるかもしれんと思いよったわけやきね。泣いた人もおっつろう。まあ、食い物がなかったのが、一番辛かったわな。水飲んで塩なめて、なんとか生き長らえて、やっと帰ってきたがや。
名古屋の検閲所に着いたとき、持ち物は全部出さんといかんかった。広島出身の上田というわしらぁの班長さんが、部隊の名簿をこっそり持って帰っちょったわよ。戦死した人の家族に何とか報告したいゆう思いがあってねぇ。そのままじゃ取り上げられるが、引揚者の連絡先とか何とか言いつくろうて、それで何とか持って帰るがを許された。後で戦友会をつくって何回も集まれたのは、その名簿のお蔭いうことよ。
それから消毒剤を真っ白うになるまで頭から振りかけられて、全身の消毒をして、やっと終わりや。カンパンと水はくれた。それを食いもって、その日の宿舎の名古屋三菱工場跡を目指したことやった。その晩みなで、腹がすいたばぁ辛いことはない、寝るに寝れんかったって、話したことを覚えちゅう。
帰国した夜、南海大地震にあう
翌日の未明が、あの南海大地震よ。みんなぁ慌てたけんど、京都の戦友が「こればぁのことやったら、心配ない」って。そんで、靴履いたまま、まとめた荷物を枕にして寝よった。
翌日、帰ろうと駅へ行くと、裸足の者が何人かおる。軍靴はどうしたかと訊くと、昨夜の地震で裸足で飛び出してしもうて、帰ってみたら靴が盗られてないがやと。靴はみんなにくれちょった。戦地で生きる死ぬるで互いにやってきちょって、なんでと思うたわね。裸足のまま汽車に乗った人が何人もおって、よう忘れん。なぜか、自分らぁの西へ向かう組じゃなくて、東へ向かう人ばっかりじゃったがねぇ。
高知へは同郷の4人で一緒に帰った。四国へ入って土讃線で来よって、大田口やったかと思うが、汽車が止まった。地震の土砂崩れで、そこからは大杉あたりまで、2時間ばぁ歩いたような記憶がある。そこから、また汽車に乗って、後免まで帰った。日が暮れてしもうて、高岡の石元さんは、乗り物を見つけて帰ったけんど、自分らぁはバスもない。宿屋を探しおうて、後免で泊まったわよ。室戸の人らぁと、一緒やったなぁ。田中さんと上田さんよ。
帰り着いた故郷で
弟の恒喜がもどっちゅう(帰っている)かと心配しよったが、先に帰って来ちょった。最後は沖縄に近い島におったらしい。それが、なんと玉砕したところじゃって、役場から戦死したいう知らせが来たと。玉砕じゃったき、確認できんもんは死んだとして、戦死の公報を出したんじゃろう。けんど、知らせて来たときには、もう本人が家へもどっちょったと。
この弟は、ミッドウェイへも行っちょったが、船が攻撃されて使えんなって帰ってきたと。弟も、わしも、つくづく運が良かったと思うたことよ。けんど、自分らぁが無事やったいうて、喜ぶ気にはなれんかったなぁ。帰って来て、近所に戦死した人がようけ(多く)おることを知らされた。
自分が行った後から、召集されて戦地へ行った人もいっぱいおったし、恒喜みたいに、徴用におっても帰ったら兵隊にとられるき、いっそ志願した方がましやということで、志願した組もあったらしい。
入営の折に自分を高知市まで送って行ってくれた山田秋美さんも、その後、召集で戦争に行って、シベリアへ抑留された。何年も苦労したけんど、ちゃんと帰って来て、定年まで営林署に勤めた。
戦死した者は身内にもおった。姉、幸美の連れあいの山下志郎(やましたしろう:昭和20年6月10日戦死)さんは、何回か召集されたが、最後に行ったフィリピンのレイハンで戦死した。35歳やった。子どもが女の子と男の子と二人おったが、姉は百姓してなかったき、食わすもんもない。働きもせんといかんで、たいへんやった。
食べるもんは百姓しよったうちがつくって、みんなぁで一緒に暮らした。あるものを食べて暮らす。そんなふうにやった。姉は営林署の仕事をずっとして、苦労しもってでも子どもらぁを一人前に太らした。最後は年金もついたわよ。姉はもう亡くなったけんど、姪は奈半利に、甥は高松におる。うちの家族と一緒よ。
従兄弟では二人、坂本耕作(さかもとこうさく:写真左、昭和19年9月19日ビルマ方面にて戦死、行年24歳)さんと坂本智(さかもとさとる:写真右、昭和20年11月17日、中国にて戦病死)さんが戦死しちゅう。耕作さんは、同じ和田で年も近かったき、川でも山でも、よう連れだって遊びよった。わしが川で流されたときも一緒やったと思う。もう一人の智さんは、鍛冶屋の弟子に行っちょった言うてね、家にはおらんかったき、ようは知らんけんどね。
部落の仲間内でも戦死した者がおる。中島才介(なかじまさいすけ:昭和20年11月5日戦病死)さんは、年は2つ下じゃったが、家が近じゃったき、ずっと一緒に遊んだ。大人しい、利口もんじゃった。軍隊へ行って、衛生兵をしよったらしい。わしは18年に家を出て行ってから、終戦までもどらざったき、詳しいことは知らんが、21歳の年で、上海で戦病死しちゅう。悔しかったろうと、残念でならん。
他にも知り合いで戦死した人は何人もおる。和田の部落だけでも、十の指じゃ足りんき、どうしても自分が帰って来たことを手放しでは喜べん。よう帰らんかった者は、みんなぁ若うて、一人身の者がほとんどよ。これからやったわなぁ。
大事な家族が欠けた家が、一つの部落の中だけでも、こんなにあるということよ。和田でも小島でも、気の毒なことに、おとどい(兄弟)が戦死した家もあった。それが、戦争じゃ。みんなぁが帰って来れたらよかったに、という気持ちは、いつまでも続きよらぁよ。
◆妻が語る戦後編
坂本 操(さかもと みさお)さん
奈半利川のあちら(宗ノ上)からこちら(和田)へ嫁いで
私の生まれも北川村で、宗ノ上という部落です。やはり夏は奈半利川でよく遊びましたよ。私のところは、長山の発電所のところから分かれた支流になるんですけどね。旧姓は、門田といいます。父は、道之助(みちのすけ)、母は墨恵(すみえ)。7人兄弟姉妹の私が一番上です。昭和4年3月9日の生まれで、86歳。お父さんとは6つ違いです。
学校は、木積へ6年まで、その後は片道5キロ以上の道を歩いて北川まで2年通いましたよ。毎日、毎日、よう行ったもんやと思います。学校へ行くに、夜は草履つくらないかんしね。勉強どころじゃなかった。
*写真は20歳前の操さん(左) 芸能大会で踊りました
当時は、まだまだ食料不足が続きよって、ご飯いうても、主は麦よ。ほとんどの田んぼで麦をつくりよった。麦が半分、お米はほんのちょっとで、芋やかぼちゃを切って入れて、まぁ言うたら、雑炊みたいなもんよ。山へ行く人には、それを飯ごうへ入れて持たせてました。終戦後もしばらくは、そんなで、徐々に麦飯になっていったわねぇ。弁当にお粥や雑炊が入っちゅうなんて、今の人は想像もできんろうけど、戦争が終わっても食べれたら上等の時代が続いて、みんなぁ苦労したわね。
けんど、奈半利川は豊かで、鮎はもちろん、鰻も、手長海老もようけおりました。昔の鮎は、とにかく大きかったわね。こんな長い、こんな幅のね。この人が兄弟3人連れだって川を流れて鮎を突いてきたことをよう覚えちゅう。今は埼玉におる一番下の弟が、まだ学校へ行きゆう頃やったか、見たら大きな水桶に八分目ばぁも鮎が入っちょって。私の里は小川で鮎もあんまりおらんかったき、そのときは、本当にびっくりして、よう忘れません。
焼いて食べたら、ほら美味しかったわね。秋になったら、それを串に通して囲炉裏でゆっくり炙って、燻製みたいにしました。おかずにも、味噌汁の出汁にもしたねぇ。美味しかったぞね、そりゃ。当時の味を知った者じゃないと、あの美味しさはわからん。塩で焼いちょいて頭から食べれたきね。昔の奈半利川の懐かしい味よねぇ。
子育ての日々
子どもは5人授かりました。上3人が女で、下2人が男の子やったけど、一番上の娘と下の端の男の子とは病気で亡くしました。あの時代は、まだ子どもが病気で死ぬことがようありました。
下の子は、腸重積症という、腸が詰まる病気で、下へは出んようになって、上へもどしてね。3歳でした。もっと大きい良い病院へ行けたら早う見つけてくれたと思うたけど、この辺にはなかったきねぇ。
寿命やったわね。今は、そういうように自分が思ってます。何日も漂流しよった人でも、助かる人は助かる。寿命があったら、どんなにしてでも生きていける。そう思うようにして諦めてます。去年が50年やってね、そのお祀りをしました。
次女と3女と長男と、中の3人の子どもは順調に育ってくれました。ただ、長男の達治は、小児麻痺で足が悪うなってねぇ。村から予防注射についての知らせがあったらしいけど、その頃は、この人のお父さんが会には出よったし、私らぁは知りませんでした。予防注射が1回に2千円か3千円かで、希望する人はしたらしいです。でも、予防注射を受けてない人でも、どうもなかった子どももおったしね。皆々というわけじゃない。まあ、運、不運があるわねぇ。
でもねぇ、幸せなことに、達治はおばあさんに本当にかわいがってもらいました。おばあさんがずっと連れてくれて、高知の畠中病院まで行って指圧もしてもろうたんです。おばあさんがまだまだ元気で、背負うて抱いて。おばあさんに育てらて、達治は、おばあちゃんっ子よね。
私は達治を小鹿園(巻末注参照)へ連れて行って、コルセットもつくってもろうたけど、すぐに、そのコルセットもまどろこしゅうなって(手間がかかりじれったくなって)履かんなった。先生に言うと、履くのが嫌なら、それでもよかろうって。で、作って1ヶ月か2ヶ月かばぁしか履かざったね。
足が悪うても、あの子はうんと身が軽かったがね。小学校1年の頃やったか、大きな木に登って、枝鎌で枝を切りゆう言うて、近所の人が知らせてくれたことがありました。いや、怖い、へんしも(すぐに)下りてき、言うて叫んだことよ。それが、またハゼの木やったき、ホロセ(身体にできる発疹)がいっぱい出て、病院へ走り込んだわね。達治はアレルギーがあって、身体中まけるがよ。お薬もろうてつけたことです。
山でこぼて(小鳥を獲る木の仕掛け)張って、よう遊んだきね。こぼてのエサにするに、ハゼの木や南天の実とか、よう取ってました。柴馬いうて、柴を刈ってきて元を結わえて、それに跨って坂道を滑り下りる遊びも、みんなぁでようしたわねぇ。達治も、それは楽しげにして、よう遊んだ、遊んだ。
私が聞いた戦争の話
戦争の話を私は、嫁いでから、この人や弟の恒喜さんなんかから聴きました。それに、家のすぐ隣の大久保の叔父さんらぁも、よう話してました。お父さんより後の召集で、満州の方へ行っちょって、シベリアへ連れて行かれた言うて、シベリアでの苦労話をようしよったねぇ。
寒うて寒うて、たいへんやったうえに、とにかく働いたもんでないと食べらさんかったですと、ロシアは。熱がある言うたら休ましてはくれるけど、休んだら食べるもんはない。働いたら、働いたという切符みたいなものをくれて、それで食べ物をもろうて来て、分けて食べらしたりした、そう言うてました。
その厳しいロシアで、エゾ松とかいう松をぎっちり(少しの休みもなくずっと)切らされたようです。隣の叔父さんらぁは、山仕事は慣れちゅう。木も切ったことあったし、何とか踏ん張れたけど、町育ちの人は、そんなこともしたことない。まぁ、教えてはくれたけんど、体力的にも難儀したろう。そう話してましたよ。
この人の戦友会へは、私も一緒に行ったことがあります。フィリピンから上田班長さんが苦労して持ち帰った名簿があって、それを基に全国へ散らばっちゅう戦友のみんなに呼びかけたそうで、昭和40年頃から始まっています。
班長さんが広島の方でしたから、会場は広島が多かったんですが、高知や香川でもしましたよ。(写真を見ながら)これが昭和46年に高知でしたときのがじゃね。ここへ写っちゅう人も、もうみんなぁ、おらんなってしもうた。この人が高岡の人でね、この人は室戸の元(もと、地名)の人や、上田さん。・・みんなぁ戦友やったがですよ。
最初は多かった人数が、年々みんなぁが年をよせて、減っていきました。脳梗塞やったりして体調を崩してね。自分一人ではよう来んようになって、奥さんが一緒に付いてくる人もいましたよ。夫婦で一緒に写っちゅう戦友会の写真もあります。高知でも何回かやったから、私も付いて行ったことがあります。お酒も入って、みんなぁで昔話に花が咲いて、楽しかったですよ。終いの方は、ほんとう人が少のうなってましたけどね。
夫唱婦随の幸せな今
お父さんは、若い頃からなかなかの仕事師で、向こう意気が強い、曲がったことが嫌いな人でした。厳格な面もあったけど、私が病気したときは、それは大事に世話してくれました。両親のことや達治の病気のことなど、私が心配ごとを言うと、「いろいろ言うな。明日のことは、誰にもわからん。なるようにしかならん」と叱られたもんです。お父さんの前向きに突き進む姿勢に、随分救われましたね。感謝しています。
まぁ、働きもんで、私が嫁いでからは、マラリアで1回熱が出て寝たことがあっただけ。内臓を患うて寝たことは平成14年まで1度もなかったんです。営林署の山仕事をしよったき、脛を痛めて入院したり、集材いうて木を飛ばす(ワイヤーでつるして運びおろす)機械のエンジンかけよって、手の、ここから先が脱臼して抜けてね。冬の冷いときで、伯父さんの人と一緒に仕事をしよった時でした。親指のような膨らみが、脱臼したところへでき合しちょったがね、血管が浮いたみたいに。
あの頃は田野に岡宗いう病院があって、そこに55日ほどいましたね。脱臼でもひどかったもんよね。普通は、すぐ治るもんやけんど、血管が紫色になって、もう恐ろしいようになってました。治ってからは、今度は屈伸するに痛うて痛うて。治ってからも、痛いき顔も洗えんって言うてました。でも、まぁ、もう一方の手で何とかしてましたねぇ。
それ以外は、本当に健康な人で、間も隙間もなく働く。仕事が趣味みたいな人なんです。なんちゃ趣味はないき、年を取ったらどうするろう、退屈するろうねぇと、そんな心配をするほどでした。
平成14年に病気したときは、仕事のし過ぎやったと思います。1週間ほど眩暈がして、1ヶ月くらい寝ないかんかったんです。それで足が弱って、動きよってこけて、腰を打った。それからは、ずっと足がいかんね。全然痛みはないき、何とか家にはおれるけど、足に力が入らんでグニャグニャのようになっちゅう。足が立ちゃあ、ことことなんでもできると思うて、本人は辛いろう。けんど、まぁ、痛うないきに暮らしよい。そう思うたら、我慢もできるわねぇ。
お父さんの体が思うように動かんなって、私がしちゃることが上手にできんと、「自分は我がのことせえ」言うて怒らることもあります。けど、頑張って、ご飯も炊いて食べさせんといかん。絶対呆けられんと、そう思うてます。お父さんにも、呆けられんで、って言うてます。
集会所へ体操に行ったら、計算とか間違い探しとかの宿題をくれるんです。それは、まだまだ大丈夫。それから、二人でテレビの国会中継も聴いて、いろいろ批評もして、「そう言うたちいくか」言うたり、「そういうようにせんといかん」言うたりね。
毎日が、ゆっくり過ぎていきます。昔、私が病気したときは、大事にしてもらいました。今は、私がお父さんを大事にしちゃらないかんと思うてます。でも、つい喧嘩もしたりするけどね。(笑)
<参照>
※1 電発:J‐POWER(電源開発株式会社)のこと。奈半利川には3水力発電所(魚梁瀬、二又、長山)がある。
※2 小鹿園:県立の肢体不自由児施設として、昭和31年に「整肢小鹿園」として設置され、県内唯一の専門機関として肢体不自由児に対する治療やリハビリ訓練、療育支援の使命を果たしてきた。平成11年に他機関と統合され、「県立療育福祉センター」となっている。
あとがき
北川村での「聴き書き」は、村の遺族會館に掲げられた若き英霊のみなさんの声を聴きたい、拾いたいとの思いで始めたものですが、2年目の今年、初めて戦争体験者である坂本武一さんのお話を聞くことができました。
長い年月が経った今でも、風化することなく脳裏にある戦場のありさまや亡くなった戦友のことを、こうして語っていただいたことに、改めてお礼申し上げます。
今年は戦後70年。新聞やテレビでも戦争体験者のみなさんの話が、よく取り上げられました。兵士や従軍看護婦として戦場の経験を語る方のほとんどが、90歳を越えていらっしゃいます。「ききがきすと」として、少しでも多くの戦争体験者の方々の想いを聞き取り、伝えたいと願わずにいられません。
(ききがきすと:鶴岡香代)
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Ryoma21では、一定のレベル以上の聴き書きができる人を育成し、活躍につなげるために「ききがきすと養成講座」を開催します。今回で6回目の開催となります。
資格を取得すれば、ご自身でご家族や親しい方の「聴き書き」をすることはもちろん、Ryoma21の仲間と一緒に活動することができます。
【ききがきすと養成講座の概要】
◆開催日:平成27年12月8日、15日、
平成28年1月12日、19日、
2月16日、23日の火曜日6回
◆会 場:銀座風月堂ビル5階会議室、
ならびに公共施設など
◆カリキュラム概略
@開校式、傾聴実習 A文章作成概論
B文章作成実習 Cパソコン編集作業
D製本作業 Eまとめ、閉講式
*詳細は、下の募集パンフレットをダウンロードしてご覧ください。
第6回講座受講生募集チラシ表.pdf
第6回講座受講生募集チラシ裏.pdf
◆募集人員:6名限定(先着順)
じっくり指導を受けることができ、確実にスキルが身につきます。
◆申込締切:平成27年12月5日(金)
◆受講資格:@年齢/性別不問
Aパソコンの基本的な操作ができ、ワードで簡単な文書が
作れる方
Bノートパソコン、テープ・ICレコーダー、デジカメを
持っている方。*新規購入の方にはアドバイスします。
*パソコンが使えない方は、Ryoma21が開催するパソコン
講座を会員価格で受講することができます。
ご希望の方は kikigakist@ryoma21.jp まで。
◆受講料:Ryoma21正会員35,000円、賛助会員40,000円
非会員45,000円
*同時入会で、正会員料金になります。
*テキスト・資料代を含みます。
◆問い合わせ/申し込み
下記を記載して、お申込みください。
受講する方のお名前、郵便番号、ご住所、電話番号、メールアドレス
NPO法人シニアわーくすRyoma21「ききがきすと」グループ
e-mail: kikigakist@ryoma21.jp FAX:03-5537-5281
◎聴き書きをしてほしいというご相談・ご依頼は下のチラシをご覧ください。
また、上記まで、お気軽にご相談ください。
1410聴き書きのシステムと料金.pdf
以上
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語り人 庄司菊枝(しょうじきくえ)さん
思わぬ病気が
めげているから、電車に乗って病院に行くのがつらいんですよ。通院する間も熱っぽくなるからね。つらいのはわかります。でも、私はどんなに具合悪い時でも、寝るのは夜だけにして、つらくても起きていました。「病人らしい病人になっちゃだめ!」と言いました。
それから友人は、ご主人に病院まで車で送ってきてもらうようになりました。病院では時間がかかるんですよ、2時間で終わればいいほう。下手すると3時間もかかってしまう。でも、ご主人は診察中はお茶をして、長い間待っていました。その後、友人は良くなってカラオケを楽しんで、カラオケ大会にも出たりするようになりました。
病気を乗り越えボランティアを
私が地域の活動にすごく興味を持ったのは、生きた証として皆さんに喜んでもらえることをしたいと思ったからです。
まずボランティアコーディネーターという資格試験を受けたんです。40人くらい受けて、多少落ちた人もいました。そして、福祉の仕事をボランティアでやってくれないかと、ラブコールがかかったんですよ。その時、私は65歳。やってみると楽しくて。1年で切り替えですが、「またやってくれ」と言われて嬉しかった。
一番初めにやったのが、耳の聞こえない方に手話師を引き合わせるお世話です。そしてボランティアをやりたい人の相談にのる。そんな役をさせていただいて嬉しかったです。
女の人はいいのですが、定年になって来る男の人が難しいんですよ。「こういう態度ではだめですよ」とくれぐれも言っても、「大丈夫」とか「俺をそんなに信用できないのか?」とくる。夕方、紹介した老人ホームから電話がかかってきて「もうあの人は二度とよこさないで下さい」と断られました。
次に切手を貼る仕事を手伝ってもらいましたが、「そんなばかげたことできない」と断る。イベントの手伝いをしてもらいましたが、お弁当の券を好きな人にいっぱいあげてしまったり・・・。みんなでやる仕事は出来ない。彼に何か合う仕事と考えて、頭が痛くなってくるんですよ。やってもらうことに、ことごとく不満が出る。私がやっていて一番失敗したのが、この男の方です。
やりたい人とお願いする人との橋渡しをするのが、私の役目なんですが、なかには車椅子の男の人で、ボランティアは女の人に来てほしいと依頼がありました。男のボランティアが行くと、家に入れてくれない。理由を聞くと、「女の人の方が心細やかだからいい」と。「男の人でも気のつく人が、たくさんいるからその人たちはどうですか?」と言っても「女の人の方がいい」と・・・。いろんな人がいますよ。
仕事・子育て・家事のめまぐるしい時代
最初に勤めたのは幼稚園でした。結婚して辞めて、実家の鉄鋼所で事務をやっていましたが、住まいが遠かったので、その仕事も辞めたんです。長女が生まれて、借家は問題が多いので、新しい住まいが欲しいと思いました。勤めることを主人に相談したら、「家に居ていいんだよ。勤めたいなら勤めてもいい。でも、俺はいっさい手伝わないよ」と言われました。
姉の所の2階が空いているので、そこに住まわせてもらい、大きな会計事務所にタイピストとして勤めました。仕事は忙しかったです。
家に帰ると外に娘がいて、「どうしたの?」と声をかけると、「お母さんまだかなぁと、星を見ていたの」と言います。「何かつらいことあったの?」と聞くと、何にも言わない。姉の所にも子供がいて、私の娘の後から生まれたので、小さかったの。その子と一緒に遊んでいて、何か気に入らなくて泣いていたらしいんですよ。
そしたら、姉が「明美ちゃん、またいじめたの?」って言ったそうなの。いじめたんじゃないのに、聞いてくれない。そして、娘は空をじっと見て、私に「お星様とお話ししてたの」と訴えました。本当に長女にはかわいそうな思いをさせました。
仕事は忙しかったです。今のようなワープロやパソコンと違って、印字を打っていく時代の和文タイプですから、1字間違えると、またやり直しなので。会計事務所なので、絶対に間違いは許されません。最後の仕上げの課だったので大変でした。残業になっちゃうんですよ。あの頃は何10件も打つので大変でした。
二人目を妊娠した時に、仕事を辞めたのですが、その時一番喜んでいたのは長女です。娘は5歳になっていました。
それまでは毎日、おねしょをしていたんですよ。幼稚園の仕事をしていたのでわかるんですが、おねしょは子供の心の病気からくることもあるのです。それが、私が仕事を辞めた日からピタッと止まりました。それ以後、一回もおねしょはしませんでした。
仕事をしている時は、近所の人に送り迎えに行ってもらっていましたが、こんどは毎日保育園に送り迎えに行きました。私が迎えに行った時、娘は嬉しかったのか、「この人が私のお母さんよ」って、みんなに紹介していました。今でも心に残っています。
二人目が生まれて
二人目も女の子でした。二人とも帝王切開で生んだのです。あの頃は、売血が流行っていて、とんでもない血がいろいろあったみたいで、それが20年くらい経たないと、出てこないんですよね。
二人目がある程度大きくなってから、また仕事を始めました。あの頃は、パートというのは無くて、正社員ばかりです。経理課でしたから、帰りが遅くなるのですよ。長女はもう小学生でしたが、次女は朝にお弁当と水筒を持たせて保育園に預け、出勤です。あとで見たら泣いているんですよ。もう辛かった。
ある日、次女がはしかで、仕方なく家に置いて「ごめんね」と言いながら、勤めに出ました。そしたら、次女は「行ってらっしゃい」と言うんです。人の心を読むんですね。「お母さんは休めないんだから、いいよ。お母さん、大丈夫だから、行って、行って」と、4歳の娘が言うんですよ。涙がぽろぽろ出てきちゃいました。
そしたら、夜、保育園の先生が家に様子を見に来てくれて、「正子ちゃんを置いて、仕事に行ったんですか。なんと冷たい鬼のお母さんでしょう」と言われました。先生にしてみれば、「こんな時に休まないと、いつ休むの?」とうちの子のことを思って言ってくれたのでしょうが・・・。「私の気持ちなんかわかるものか・・・」と思いました。
「休ませてほしい」と言えば、休ませてくれたかもしれませんが、「だから、所帯持ちは仕事が続かない」と思われたくなかった。子供がいるのは私だけでしたから、結婚して辞める人も多かったけれど、私も頑張ったし、子供達も頑張ってくれた。
宝物の絵本
そして、孫達にも絵本をあげました。「これ、ぼくの本だよ」と、幼稚園で自慢しているらしいです。絵本を作る時は、文章から書いて、絵も自分で描いて仕上げます。私しかわからない、子や孫の成長の記録です。
今、やっているボランティア
うちの近所のお子さんのいないご夫婦、独身の方、小学校以下の子供たち対象のボランティアもさせていただきました。亡くなるまで、お付き合いさせていただいた方もいます。平成21年から、お年寄りだけのサークルでしているものもあります。94歳のおばあちゃま、80歳でバスを乗り継いで来てくれる方もいます。豊洲から来る人は「ここが一番好き」と言ってくれます。
今やっているのは脳のための1分間スピーチ、2分間スピーチ、お話し会、ゲーム、歌、肩をたたいて歌いながらの体操などです。楽しいですよ。「とうりゃんせ」や「あんたがたどこさ」と歌って、お手玉やまり遊びをしたり。時間は2時間くらいです。
*地域のクリスマスパーティーで焼いたアップルとミートパイ
毎年変わったことを取り入れていて、去年は折り紙をしました。今年は粘土をやろうかなと思っています。3月はラメや白・ピンクで桜の形を作ろうと思っています。そのほか、ママと子供の作品など。企画するのは楽しいです。
ボランティアが生きがい
今、文化センターでは絵本作りをしています。仕上げまでは時間がかかります。亀戸天神物語をみんなで作っているので、宮司さんには、私達にはわからない言葉の使い方などをみてもらっています。3〜4回みてもらいましたが、忙しい方なので、なかなか会えず、以前、朝の8時50分に待ち合わせして行ったくらいです
今回は、区との協賛でプロの絵描きさんに描いてもらうことになりました。最終的にはスプレーのりで貼り、表紙をつけて仕上げていきます。印刷や仕上げはプロに頼んだら高いから、江東区では、われわれが作ったのを、町会の人が印刷して下さるんです。
ところで、神社といえば、江東区には一番古い藤原鎌足由来の「亀戸香取神社」、学問の神様の藤原道真を祭った「亀戸天神」、日本武尊の后・弟橘姫の笄塚のある「浅間神社」があり、これらに関する3冊を、仲間と作りあげました。
江東区で観光ガイドもしています。個人の時もありますが、旅行会社から頼まれる時もあります。お正月だと七福神めぐりなどもガイドしますね。費用は去年から、保険料・お土産代で500円いただいています。
そのガイドをするには資格がなければなりません。観光課というところで、受講して試験を受けるのです。みんなの前で説明もしなければなりませんし、落第する人もいますが、図々しくしていると通るんですよ。男の人は、あがっちゃって出来ない人もいますが。
1年に18〜19回しています。私の班が一番多いですね。午前・午後のコースがあり、一回が2〜2.5時間くらいです。亀戸天神を回るだけでも1.5時間かかります。そのほかに、昔あった銀銅貨鋳造の「銭座」を回るコースもあります。銭形平次のお金などを骨董屋で買っておいてお見せしたら、みなさんに喜ばれました。
嬉しいことに、社会福祉協議会からの紹介募集もあって、以前参加した方が楽しかったからといって、千葉から観光バスで来てくれて、ご案内したこともあります。
これからもボランティアに夢中
私のボランティアの主なものには、ボランティアコーディネーター、高齢者のお世話、観光ガイド、絵本作り、パン粘土作りなどがあります。私がやっているボランティアは、現在13個でしょうか。それでも2個減らしました。ほとんど毎日のように、出かけています。
でも、うちの主人は5時にお風呂に入る人間で、私がそれに間に合わないといけない。それまでに帰るようにしていますが、時間に追われます。
主人はボランティアが大嫌い。今は日中にテレビを見てくれているので、助かっています。主人が元気でいてくれているからできることなので、感謝しています。
今が一番幸せですね。主人には「おまえはボランティアに行く時、恋人に会いに行くみたいだな」と言われています。私は声をかけてもらうと嬉しくて、ときには分きざみの予定をカレンダーに書いていますよ。今でも病院に行って注射をしながらですが、元気になっています。
児童館で「先生、これプレゼント」と、私の顔を描いたものを渡してくれたりすると、とても嬉しくて、大事にそれを取ってあります。
みなさんが喜んで下さる。それが私のエネルギーとなります。そして、それが私の生きている証となっているのです。
*手作りのパン粘土クリップ
そして、ボランティアとの出会い。数々のボランティアを精力的に打ち込んでいらっしゃる。きっとそれは、元気で生きていられることの恩返しのように、こちらにもしみじみと伝わってきました。元気と勇気をもらいました
「人の役に立つって嬉しいこと!そして私はそこからエネルギーを頂いているのです」と言われる姿に感動しました。貴重なお話をどうもありがとうございました。
最後に、手作りの可愛いパン粘土クリップをいただき、ありがとうございました。大事に使わせていただきます。これからも、ボランティアに趣味に、ご活躍されることを願っています。
ききがき担当:永井有可子
終わり
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語り人 庄司菊江(しょうじ きくえ)さん
私が地域活動やボランティアにすごく興味を持ったのは、60代の初めの頃でした。その頃、まだフルタイムで勤めていたのですが、ものすごく疲れて疲れて、どうしようもなくて、病院でいろいろ精密検査を受けたら「慢性肝炎」と診断されました。医師から「だいぶ進んでますよ」って言われたのです。
勤め先が福祉関係の仕事だったので、3月いっぱいは勤めなければなりません。でも本当にひどく疲れて、もう定年でうちにいた主人に送り迎えをやってもらって、なんとか3月31日まで勤めて、やめさせてもらったのです。
それで病院に行ったら、「即入院」。一週間ぐらいの入院といわれ、たいしたことないなんて思っていたら、とんでもない・・。一ヶ月入院して、そのあとまた一日おきに注射しにいかねばならないという大変な病気でした。インターフェロンの注射がきつく、また、いろいろな薬も飲まなければならず、薬漬けで食欲も体力も全くなくなりました。
うちの主人がまだ仕事があったので、朝は見送らなければと玄関まで行くと、「おまえ、幽霊は夜出てくるものだぞ。 昼間やめろよ」と言われたのは、ちょっときつかったです。朝の私の姿をみると、ぞっとして仕事へ行く気もなくなっちゃうって。それから朝は出ないようにしました。要するに、それほどひどかったということです。
顔の色がまっ白で、あのころは今よりすこし肥ってましたが、食べられないのでどんどん痩せてゆき、パジャマのズボンが歩くとずるずる下がってしまうくらいでした。ご飯も食べられない、匂いも駄目、果物をすこし食べられたくらいで、体中痛くなって、寝てもいられないのです。
主人に叩いてもらってもどうにもならなくて、寝てても起きていてもつらくて、テレビだって見る気はしない、音楽だって聞く気がしない。もうどうにもならなかったです。お見舞いに来てくれた友達にも、後から言われました。「庄司さん、このまま何ヶ月もつのかね、死ぬんじゃないかしらと思った」と。 そのくらい重症でした。
私は近くの「江東病院」にかかり、一日おきに注射をしに行きました。元旦の日も注射しに行くのです。すると、守衛さんや看護婦さんが私たちを待っていてくれるんです。それから一年くらい、一日おきに注射している間は、薬が強くって髪は真っ白。髪の毛はとかすたび、洗うたびに、お岩さんみたいに抜けていきました。ですから、かつらを三つも変えました。今はもう使ってないですが。
そんな大病に耐えられたのは、「私はこのままでは絶対死ねない。私が『生きた証』としてやりたい事はまだいっぱいあるんだ」という思いでした。それに、皆さんにいろんなご迷惑かけてきたから、治ったら、何か皆さんのお役に立つことをしたいと思ったんです。そういう気持ちって、とても大事ですね。「病は気から」と申しますでしょ。私はどんなつらいことでも、治るためにいいことだったら、なんでもやりました。ただただ自分で「夢」と「希望」をもっていただけだったんですよ。
一緒に入院していた方が通院にこなくなったので、私が大分よくなってからその方のお宅まで行きました。もうなんにもしないで家で寝たっきり、ご主人がみんなやってくれていたようです。そして、「もうあんな思いするなら死んでもいい」と言うんです。それで私は「あなただめよ」って言ってやりました。
その時、ご主人はいらっしゃらなかったので、また、帰ってくるころを見計らって訪ねて、ご主人に直談判しました。「私は、あなたの奥様と同じ頃入院して、やっと少し元気になりました。それは、ただこれで死にたくないという気持ちでいたからなのです。だから、ご主人、協力してあげてください」ってね。
本人の気持ちはもうめげちゃっているから、電車に乗って行くのがつらいのです。わたしわかりますよ。自分だって青白い幽霊みたいな顔して、バスや電車に乗ったりするのは嫌ですから。紅茶もコーヒーの匂いも駄目で。通院している間は熱っぽくもなりますし、疲れもします。だから、なにしろ送って行ってくれるだけでもよいわけです。
ご主人は奥さんの苦しい様子を毎日みているから、結局、「あんたの好きなようにしろ」って言っていたようです。一日中お布団も敷きっぱなしの彼女に「私は横になるのは夜寝るときだけにして、昼はつらくても起きていましたよ」って、厳しいけど言いました。病人らしい病人にはなっちゃいけないと、自分で心に決めていましたから。
それからは一日おきの通院に、ご主人がちゃん車と送ってくれるようになり、終わるまでずっと待っていてくれていました。病院は、順番があるし、注射したり検査したりで、二時間で終われば御の字です。三時間以上かかることもあり、その間起きているわけだから、気分のよい時はともかく、つらくて大変です。でも、ご主人は終わるまで他所でお茶して待ってくれていましたし、私もできるかぎり、彼女と一緒にお話するようにしていたので、彼女もなんとか乗り越えられました。今では、大好きなカラオケを毎日やるほど元気になりました。
「生きた証」へのチャレンジ ― 65歳
元気になった時、心に決めた「生きた証」の実現のため、一番先に「ボランティアコーディネーター」の講座と資格試験を受けました。40人くらい受けて、多少落ちた人もいましたが、私は受かりました。その後、以前福祉の仕事をしていたものですから、江東区の方から人手が足りないので、アルバイトをしてくれないかというお話をいただききました。私以外にもたくさん受かった方はいたので、始めは断りました。うちの主人にも相談したら、「あまり無理して、また体を壊されたら困るし・・」と。でも、向こうがとても熱心に言ってくれたのでやる気になりました。やっぱりこの年で仕事のラブコールがかかるなんてうれしいですから。
その時65歳でしたが、やったらこれがまた楽しいんです、楽しくって、一年ごとの切り替えのたびに、またやってくれって言われると、それがまたうれしくて、毎年更新されていきました。
私が一番担当したのは、耳の不自由な方に手話士をセッティングする仕事でした。その他に、ボランティアをやりたい方の窓口相談をやらせていただき、自分と逆の立場なので、とても勉強になりました。
ボランティアをやりたいという人はけっこうお見えになるので、その方を適材適所のかたちで紹介できるよう、しっかり見抜いてくださいと上司に言われました。女性はわりとスムーズにボランティアに入ることができるのですが、定年になって来る男性の方は、難しいです。肩書がいっぱいありますでしょ。「こういう態度は絶対ダメです」「肩書とか全部とっぱらって、ご自分を無地にしてください」などと、充分話をして、くれぐれも心がけるよういったんですがねえ。
あんまりにも熱心に「大丈夫。私にやらせてくれ」とおっしゃるので、先方の老人ホームに紹介すると、先方も「いいですよ」と言われたので紹介しました。ですが、その日の夕方、ホームから「二度とうちによこさないでください」って言われました。
やはり大手の会社の部長をしていた方で、頭でわかっていても、それから抜けられない。威張って、これは違うとか、どうのこうのって。それでは相手の方もおもしろくないでしょう。
それでは別の仕事をと、月に2回ぐらいある切手を切る仕事をやってもらったら、「こんなバカげたことを」と言われました。だけど、ボランティアはそういうものなんです。いろんなイベントの仕事もやってもらったんですが、人に使われることがお嫌いな方なので、自分流にやられるからどうしても失敗が多いのです。
そうすると、他にもいろいろ不都合が出てきて、二度とお願いされないし。きっと不向きなんですね。結局、上司から言ってもらいましたが、割り当てできる仕事はだんだんなくなって、その人のこと考えると頭が痛くなりました。「いいからやらせてくれ」といっても、また同じことになると思うとね。
ですが、そこを見抜くのが私たちの責任なんです。今まで大きな失敗はその方のケースで、あとはだいたい成功しました。もっとやりたいのに少し仕事が足りないとかいう方はいらっしゃいましたが、それは苦情でなく、もっとやりたいということですから、むしろうれしいことだと思います。
あと、一人暮らしの男性から、部屋のお掃除や、車いすなので一緒にタクシーで映画を観に行ってほしいとの要望がありました。それが女性がよいというのです。
何かあると困るので、上司と相談して男の人に行ってもらったのですが、その男のボランティアは家に入れてもくれないで帰されました。そんな人のところに女の人は出せやしませんよ。
そういう人のボランティア紹介も私の仕事なんです。どうして男性ではダメなのですか?と聞くと、女の人の方が心細やかでよいというのです。女の人は結構忙しいので、男の方でとっても優しく、気が利く人がいますから、どうですか?といっても、「駄目だ。女性がよい」というのです。
こういう方がまれにいますが、私のほうからは、お断りしますとは言えないので、この場合も上司に断ってもらいました。
つらかった共働き奮戦記―20代〜50代
実は、私は63歳で大病するまで、独身の時からずっと働いてきました。はじめは幼稚園に勤めていたのですが、結婚して、子育てもあったので、仕事は辞めました。
実家が鉄工所やっていたので、簡単な事務の手伝いをしていたのですが、そのうち借家でなく、どうしても家が欲しくなりました。家を買うために働きたいと主人に相談すると、「俺は一生アパート暮らしでかまわないから、家にいろ」と言うんです。でも、どうしても働きたいというと、「お前が勤めるのならば、俺はいっさい家事は手伝わない」と言われました。だから、長女にはとても可哀そうな思いをさせました。
姉のところには長女より小さな子供がいたのですが、姉の家の2階が空いていたので、そこに住まわせてもらいました。保育園から帰ってきた長女を姉にみてもらいながら、大きな会計事務所のタイピストになりました。
たくさんの会計士さんが働いていましたが、タイピストは私をいれて女性二人でした。私が行かないと、もう一人のタイピストの人に迷惑かけちゃうので、長女に「ごめんね」といって、お弁当とポットを置き、「行ってくるね」と言って家を出ました。「行ってらっしゃい」と言ってくれるのですが、もう一度そっと戸を開けてみると、ふとんをかぶってひとりで泣いているんです。もうね、あれはつらかったですね。
会計事務所の月末は忙しいので、帰りも遅くなります。すると長女が表で待っている、その後姿が不憫で、今でも心に残っています。私が「なにしていたの?」と声かけると喜んで、「おかあさんまだかなぁって思って、星を見てたの」っていうんです。「なにかつらいことあったの?」と聞くと、黙っているんです。
後から姉がいうのには、一緒に遊んでいた姉の子が、なにか気に入らなくて泣きだしたとき、「あけみちゃん(娘の名)、またいじめたの?」って言ったんですって。長女は「そうじゃない」といっても聞いてくれない。だから、「お母さん、まだかなぁって、お星さまとお話したの」って言うのです。
だから、子供が二人になったらば、やめよう、やめようと思っていました。仕事も今みたいなワープロやパソコンと違って和文タイプですから、失敗すると最初からやり直しになったりして、大変でした。会計事務所では最後の仕上げの部署にいたので、月末は何10件も打ちますから、どうしても残業になってしまいます。結局、二人目の妊娠でそこは辞めました。
その時、一番喜んだのは長女でした。いつも送りはしていましたが、お迎えは近所のお友達のおかあさんにお願いしていました。辞めたその日からは、私が園にお迎えにいきましたら、とてもうれしかったみたいで、「この人が私のおかあさんよ、おかあさんよ」って、みんなに私を紹介したんです。
いまだに私の心に残っているのですが、長女はさびしくて、すごくまわりに気を使っていたと思うんです。口に出さない分、毎日おねしょしていました。主人は怒って、お尻にお灸するとか言ってましたが、私は幼稚園で先生をしていましたから、どうしてそうなるのか、心の病の方が多いと判っていた。どんなに新しい布団を作ってやっても、その日からおねしょをしちゃうんです。それが驚いたことには、私が仕事を辞めたその日から、ピタッとしなくなったのです。長女が学校に入る前でした。
そして二人目を出産、二人目も女の子でした。二人とも帝王切開なので、その時の輸血で慢性の肝炎になったようです。あのころは、お金がない人が血を売る時代でしたので、とんでもない血がいろいろとあったみたいです。その症状が20年くらい経たないと出ないんですね。
長女が学校に行ってからは、次女を保育園に入れて、再び働きだしました。今の様にパートはなく、正社員です。経理課だったので、どうしても残業が多いのですが、みんなに迷惑かけられないので、残業もしっかりやりました。迎えに行く時間はいつも遅くて、遅番の時は、お迎えを人にお願いしていました。次女にもずいぶんかわいそうな思いをさせました。
次女が、まだ年中さんくらいの時に、「はしか」で保育園を休ませ、悩みましたが、仕事に行きました。そしたら、担任の先生が、保育園が終わって来てくれたらしいんです。「まさこちゃん(次女の名)のお見舞いに行ったら、おかあさんは、なんと一人だけ残して仕事に行ったのですか?なんと冷たい。鬼のお母さんです!」と言われた時はどんなにつらかったか。
次女はとくに気を回す、人の心を読む子でしたから、「おかあさん、お仕事だからいいのよ」と言ってくれるんです。「おかあさん、大丈夫だから、行って、行って」って言うんです。「行かないで」って、ダダこねないんです、まだ四歳の頃ですよ。そんな話をすると今でも、涙が出てしまいます。
小さな子供がいたのだから、その子が病気だからといえば休めたでしょう。でも、あの時、結婚して子供がいたのは私一人でしたから。周りは独身の人ばかりで、結婚すると辞める時代でした。「だから所帯持ちは、子持ちは駄目だ」と言われたら、後の人に繫がらないと思って休めませんでした。
保育園の先生にしてみれば、こんな時くらい休んであげないと、いつ休むんですか?という、うちの子供を思う気持ちから言って下さったのでしょうが、その時は「私の気持なんかわかるもんか!」と歯を食いしばりました。私も頑張りましたが、子供たちが一番頑張ってくれました。お陰様で、二人とも素直で、本当によい子に育ってくれました。
世界でひとつの絵本つくり
上の子の成人式の少し前に、手作り絵本の講座を受けて、この子のために、私にしかわからない、この子の本を作ろうと思いたちました。講座が12月に終わったので、翌年の成人式に間に合ったんですよ。
絵本を読むと、長女はきょとんとして、「これ本当だったの? おかあさん、私ちっともさびしくなかったんだよ」というんです。「いつもおかあさんがかばってくれたから平気だった、お母さんはそんなに悪いと思っていてくれたの?」とあっけらかんと言うんです。「でも、おかあさん、これ一生の宝物にするからね」って言ってくれました。
絵本つくりはそれがはじまりで、それから次女にも、そして孫にも絵本を作ってあげました。大きくなって保育園や幼稚園に入ると、「これ、ぼくの絵本だよ。僕の名前が入っているんだよ、僕が主役なんだよ」と、お友達に見せびらかしていました。
全部オリジナルです。絵も文章も私が書き、写真は切り抜いて貼るんです。表紙も全部、私が作ります。あのころカラーコピーもなかったので、本当に世界に一冊の本でした。
絵本つくりは、最初は働きながら趣味でやっていたのですが、ボランティアセンターで働き始めた頃、近所の小学校以下のお子さんと、独身のお年を召した方と、お子さんのいないご夫婦のための交流も兼ねて、教室みたいにしてやり始めました。
小学生は卒業すれば終わるのですが、大人の生徒さんは「孫と一緒にやっているみたいで楽しい」とすごく喜んでくださっていました。ある独身の高齢の女の方は亡くなるまで、ずっと続けてくださいました。とても器用な方だったので、たくさん作品を残していってくれました。
几帳面な方で、ずっと日記を書いておられました。亡くなられた時に、ご兄弟があいさつにいらして、「姉は一人ぼっちのさびしい人生かと思っていましたが、そうじゃなかったんですね。日記にすべて書いてありました。残った作品をお子さんたちにプレゼントしてあげていただけますか?」とおっしゃって、大変感謝されました。そういう方たちもたくさんいらして、一生のお付き合いをさせていただいています。
ある年、たまたま小学生が男の子ばかり集まってしまって、あまりに元気がよすぎ、にぎやかすぎて、お年寄りが驚いてしまいました。そして、「今回でやめますから」とボランティアセンターに申し出ました。すると、「それでしたら、お年寄りだけでやったらどうですか?」と言われ、平成21年から高齢者向けのサークルにして、「さざんか」と名前を変えました。
ライフワーク「さざんか」の始動―70歳
創設当初に受講されたお年寄りが、いまだに来ていらっしゃいます。でも、毎年のように亡くなる方もいて、今年は94歳のおばあちゃんが亡くなりました。それでもみなさん大変お元気で、遠くは豊洲からバスを乗り継いで来られる八十歳くらいのおじいさまもいらっしゃって、この会が一番楽しいと楽しみにしておられます。
私は病気の時にやりたいと夢みていたことが、こういうかたちで、実現できてすごくうれしいです。
今「さざんか」では、脳のためにどんなことがいいのか考えて、1分間スピーチを全員にやってもらっています。初めはやだやだという人に限って、5分もお話するので、こちらがストップかけるんですよ(笑)。
少し時間が余れば、「あと二分だけ話したい人は?」というと、豊洲のおじいさまなどが積極的に話されます。「ここに来るのはなにしろ楽しい。ここほど楽しいところはない」とおっしゃいます。今日も雨の中を来ていらっしゃってました。
お話し会とか、ゲームとか、脳トレのため、幼稚園に勤めた経験も活かし、いろいろ工夫しています。童謡を歌いながら指の体操をやってみたり 「これ脳トレです」なんて言わないで、自然にやってもらえるように心がけています。
童謡の「むすんでひらいて」を歌いながら、肩を叩いたりしてコミュニケーションをはかったり、最後にプレゼントをするために、お手玉をまわしながらのゲーム。「ずいずいずっころばし」や「とうりゃんせ」、「てまり歌」などを歌い、お手玉が止まった人に何か手作りのものを差し上げるんです。そうすると、見学に来た方たちが「私も入れてください」と、一緒に輪の中に入ってらしたりします。
毎月、変わったことを計画します。昨年の一年間は必ず「折り紙」をやりました。あれも脳トレに良いのです。季節の風物や行事にあった作品を考え、難しいところはあらかじめ作っておき、残りをみなさんに作って仕上げてもらいます。
今年は「粘土」やろうかなと思っています。私はいまだに児童館などに来てくれと呼ばれるんですが、それには飛び出すカードとか粘土を持っていきます。その季節にあったもので、来月は桜のマグネットを作ろうかなぁなんて考えています。白やピンク色の桜を樹脂粘土で作り、表面にラメを入れますと、とてもきれいなんですよ。
いつも私たちが「さざんか」でやるのは二時間単位なのですが、児童館の場合は、お母さんとお子さんが一緒に参加しますから、一時間か長くて一時間半くらいで仕上げられるようにします。どんなに短くても、仕上げて帰さなければなりませんからね。決めるまで大変ですが、それも楽しいんです
今日は1ヶ月に1回の病院でしたから、朝八時すぎに家を出ました。注射もしないといけないので。いまだに病院にかかっているんですよ。でも、それをやっているおかげで、私はこんなに元気でいられるんです。
郷土愛から生まれた絵本「亀戸物語」
今日はそのあと、亀戸文化センターへ行き、十時からは「絵本同好会」でした。今、区から頼まれて、「亀戸物語 NO3」という「亀戸天神社」さんの本を作っているんです。私ひとりが作るのでなく、参加者を募集してみんなで作ります。みんなから集めた文章は最初はバラバラなので、それを私がまとめていきます。だいたい大雑把にまとめて、それを再度みんなに見せてこねていき、ストーリーにしていきます。
それを天神社の宮司さんに何度もみてもらいます。宮司さんも忙しい方で、時間がなかなか合わないので、この間なんか朝の八時五十分に待ちあわせました。早い時間でないと、宮司さんも時間がとれないのです。
私たちにはわからない言葉の使い方などを教えていただいたり、宝物殿の中に区の文化財などもいっぱいありますから、その中から、ふたつぐらい書かせてもらうのを一緒に選んでいただいたりします。
今回は図書館にも贈呈するため、プロの画家の方に書いてもらうので、その方にも一緒に行ってもらいます。区との共催の形で、文化センターでやるものですから、プロの画家さんには、区からお金が出ますが、私たちは無料奉仕です。生徒さんには、材料費など多少出るのですが。
今日は、だいたいどこに字を入れるかとかを決める仕事でした。来週からは、絵に文章を付けてゆき、最終的にはちゃんと糊で貼って、最後は表紙を付けたりして完成。結構立派なものが出来るんですよ。
亀戸九丁目の浅間神社の宮司さんも、町会長さんも、こういう本がお好きな方々です。私たちが作った原稿をそっくりお渡しして、同じ町会の印刷屋さんに1冊300円で小さくして作ってもらい、皆さんにお配りしました。
初め、私が提案したのは江東区で一番古い「香取神社」だったのです。「香取神社」は、藤原鎌足がまだ亀戸が島だった頃に、日本統一のために香取大神に戦勝祈願して、大勝したのが起因。665年に創建された由緒ある神社です。菅原道真公をお祀りする亀戸天神社は1646年だから約千年も違うのです。
私は郷土愛から、一番古い「香取神社」からと思ったのですが、「亀戸天神が一番有名だから、やはり亀戸天神がよい」という意見も多く、絵をかく先生も「ぼくは亀戸天神を書きたいとおっしゃったので、最終的には多数決で「亀戸天神」に決めました。
ひっぱりだこの江東区観光ガイド
私、江東区の観光ガイドもしています。旅行会社から頼まれてやるのもありますし、区主催のイベントとしてもやります。一月はお正月ですから、「七福神めぐり」も企画したりしています。
区の観光課の講座を六か月受講して、観光ガイドになりました。試験は現場でありましたが、私はずうずうしいのか、全然上がらずに合格できました。
今は、1年に18、19回くらいやっています。ただ歩くのでなく、いろいろ勉強できて楽しいじゃないですか。班の中では私が一番多いようで、うれしいことに、私がボランティアしている社会教育団体の利用者さんがご指名で来られるので、たくさん私に回ってくるのです。楽しかったからといって、千葉の方が再び観光バスでいらしたりもして。
だいたい「亀戸天神様」のあたりと「銭座」だけでも2時間か2時間半かかります。「銭座」は、銀座が銀貨を作っていたのに対し、銅銭を作っていたので「亀戸銭座」と言われました。銭形平次が投げた「寛永通宝」の投げ銭が有名ですね。だから、私も実物を買っておいて、ガイドの時にお見せするとみなさん大変喜ばれます。
今が一番しあわせ― 75歳
今が生まれてから一番しあわせだと思っています。主人には悪いけれど、恋をしていた時より幸せ!主人が「お前は、毎日誰か恋人に会いに行くみたいに出かけるな」って、ちょっとやきもちを焼くくらいです。行先は全部カレンダーに書いて出かけます。時間で動いているようなスケジュールですが、でも、それができるしあわせってあるじゃないですか。声をかけてもらえるしあわせも。
今は活動を13に減らしました。それでもほとんど毎日のように出かけてます。観光ガイドなどは、月1回ということはありませんからね。勉強会もありますし、班ごとの反省会や集まりもあります。夜は出ませんが、昼間はフル回転。それでも、遅くなると主人がいらいらして、キリンさんのように角がでるんです。私、愛されているんで・・(笑)
子供が小さな時から「手伝わないぞ!」って宣言されて50年。やっと最近、お風呂は自分で沸かすようになってくれました。なぜかというと、彼は「5時から男」で、5時になると、まっさきにお風呂に入りたい人なんです。でも、私の帰宅が5時を過ぎたらうるさいんです。毎日五時までは好きなテレビ番組があるので安心なんですが。
主人が退屈して、いらいらされると健康にも良くないし、認知症の始まりにもなりますから、なるべく1週間に1度は時間をつくって、一緒にでかけます。それも朝10時からお昼まで。なぜかというと午後は主人のお昼寝の時間なので、お買いものとお茶を飲むだけのデートです。
普段は、昼頃はなるべく帰って、一緒にお食事をするようにしています。そうは言っても、買い物をして帰る時に亀戸に寄ったりして、たまに一時頃になってしまうこともあります。主人は先に食べていますが、角が生えています。 愛されているんですから、しようがないですよ(笑)
そう思わないとできないし、主人が元気でいてくれればこそ今の私ができることなので、それは感謝をしないといけないと思っています。
私が、今これだけのことができるエネルギーの源は、皆さんが喜んでくれるということ、そして、それがうれしくて余計楽しくなる、今度はなにをしょうと考えると、また楽しくなる、その繰り返しです。
区から頼まれて児童館でやる「ママさんチャレンジ」も、1回につき、打ち合わせに2〜3回は行きます。行くとみなさんが喜んでくれるんです。子供たちも喜んでくれて、私の似顔絵を書いて、「これ、庄司先生プレゼント!」と寄ってきてくれる。絵を見ると、頭でっかちで眼鏡かけて、口をくっとしている。そんなことがとても嬉しいのです。今のすべてが大事な私の宝物なんです。
あとがき
昭和14年5月10日生まれの庄司菊江さんは、現在75歳。
60歳過ぎまで、働きながら家事や子育てをしてこられたキャリアウーマンのさきがけ的存在です。やがて大病を患い、つらい1年間の闘病生活を経験されます。そのことが庄司さんのその後の生き方に大きな影響を与えました。
健康を回復した後、現在に至るまでの12年、毎日フル回転で、江東区の観光ガイドや、63歳から始めたボランティアコーディネーター、そして35年間続けてきた絵本つくり、「江東絵本同好会」、平成21年発足のシニアサークル「さざんか」の主宰、保育士の経験を活かした児童館の「ママさんチャレンジ」のサポート等。現在も13の活動をしながら元気いっぱいに飛び回っておられます。
そうした庄司さんの姿や行動は、眼前に迫る高齢化社会のとてもよいお手本となりましょう。過去の思い出に浸る暇もなく、アクティブに今日を生きる庄司さんにとって、今が一番輝いて心身ともにお元気なのかもしれません。
「いまが一番しあわせ!」と素敵な笑顔でお話をされる庄司さんに、こうしてはおられないと、私も猛省させられました。これからもどうかお元気で、地域の健やかなるスーパーウーマンとしてご活躍されることをこころよりお祈りしております。 本当にありがとうございました。
ききがき担当:池内 伸子
posted by ききがきすと at 23:02
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| ききがきすと作品
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| 東日本大震災聞き書き
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2014年7月に、岩手県宮古市田老地区を訪問し、被災者の方々から伺ったお話をまとめた『あの日を忘れない 東日本大震災を語る・岩手編』が完成しました。宮城編に続く第二弾となります。
田老地区には「万里の長城」といわれる長さ2600m、高さ10mを超すX字型の防潮堤がありました。明治と昭和の初期にも、大きな地震と津波に襲われた田老地区は、巨大な防潮堤と、高台にまっすぐに伸びた非難しやすい道を整備していました。それでも、今回の津波で180名を越す犠牲者を出してしまったのです。
ホテルの6階にいて、押し寄せる津波を恐怖の中でもビデオに撮影した人、自宅の2階にいて家ごと流された人、足が悪いからこそいち早く逃げて助かった人、津波で生じた火災の必死で防いだ人、それでも希望を持って新たな道に進みだす人。この方々のリアリティあるお話には、担当したききがきすとも声をなくすことがありました。
このような貴重なお話をまとめて、形にすることができたのは、お話くださった皆さんはもちろんですが、地元で復興活動を行っているNPO法人「立ち上がるぞ!宮古市田老」の理事長である大棒秀一さんと新屋正治さんのご協力があったからです。心から感謝しています。
シリーズの第一弾『あの日を忘れない 東日本大震災を語る・宮城編』(2013年7月刊行)は、宮城県図書館に収蔵されました。今後、「宮城県震災アーカイブ」としてデジタル化され、公開される予定です。この岩手編も、関連ある図書館や施設にお送りすることを考えています。また、ききがきすと一同は、第三弾の福島編も作成したいと意気込んでいます。皆様のご協力をよろしくお願いします。
なお、『あの日を忘れない』シリーズは、1,500円(消費税込み、送料215円/冊)でお分けします。ご希望の方は、まずメールにて(松本まで)ご連絡ください。 info@ryoma21.jp
posted by ききがきすと at 18:03
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隣村への嫁入り
私は大正11年6月25日の生まれですから、この6月で92歳になりました。学もなくて、呆けるのも早うて、この頃はとんと物忘れも多うて。こんなことでは、お話にはなりませんからと、聞き書きのお話も一度はお断りしたんですけど・・・。でも、ぜひに、とのことなら、聴いてもらいましょうか。
私たち夫婦の出会いから・・・ですか。あれは、昭和14年のことだったと思いますよ。私はまだ18歳と、本当に若かったですよ。隆さんは27歳。私より9つ年上でした。ちょうど応召が解かれて、戦争から帰ってきたところでした。
私の生まれは、北川村のすぐ隣、田野町の土生岡(はぶのおか)です。男ばかり7人の兄弟に囲まれた、ただ一人の娘でした。当時の遊びといえば、女の子は「おじゃみ(お手玉)」や「あやとり」。「陣取り」いうて、こっちとあっちに陣をつくって鬼が追いかけたり、大勢で「かくれんぼ」なんかもしました。男の子に交じって、よう「パン(メンコ)」もしたねぇ。男兄弟に随分鍛えられて育ちましたよ。里のすぐそこに小さな山がありましたので、「こぼて」を仕掛けて小鳥を取ったのは、楽しい思い出です。今は、そんなことして遊ぶ子は、もういませんけどね。
そんな男まさりに育った私でしたが、父親には本当にかわいがってもらいました。たった一人の娘を、なんとか幸せにしてやりたいと願った父の思いが、私を隆さんと結婚させたように思います。
当時は、若い男はみんな戦争に行っていましたから、嫁に行けないまま年を取る女の人も多かったんです。そんな女の人のことを「行かず後家」なんて陰で呼んだりしていました。ですから、父親は、私には何としてでも結婚させたいと念じていたようです。
それで、隆さんが戦争から帰ってすぐに、お隣の池田さんから見合いの話が出たときには、とんとん拍子に話が進んだようです。あっという間に仲人のおじさんを連れてくることになってね。
結婚までの付き合い・・・ですか。昔は今とは違いますよ。私は、どんな人やら見たこともないまま、結婚したようなものです。確かに、隆さんを実家へ連れてきて、いろいろ話はしましたよ。でも、話をしたのは父親で、私ではないんです。私は、まだほんの18ばかり。その時が見合いとも知らず、ほとんど相手の顔も見ていませんよ。上の学校へも行かず、一人で年取っていくのは可哀そうだという父親の思いが強かったんでしょうね。ただ一人の娘のために、その縁談をちゃんといい話にしたんです。
ですから、あちらへ嫁いでから、やっとまともに顔を見たような調子でしたよ。言葉の一つ交わすでなく、なんの付き合いもないまま、ね。今の時代なら、若い人たちは自分たちで付き合いして、二人の気が合ったら結婚となるけれど、昔はそうじゃなかったですからね。見に来てくれたときにちらっと会うけれど、その時はそんな気もないでしょう、結婚するなんて。
だから、顔もわからないまま、親たちが話しして決めたとおりに、嫁いで行くんです。相手の家で顔を合わすまで、どんな男の人やらわからないで結婚する。当時は、それが普通でしたね。
結婚式は、嫁ぎ先の近くに星神社というお宮があって、そこでしましたね。あの当時は、花嫁は文金高島田でしたよ。田野にあった畑山という写真屋さんに、写真も撮ってもらいました。
その写真は、今もあるはずです。娘に渡してあると思います。親族全員で写したものも1枚あったと思いますよ。最近は見たことはないんですけど、言えば、出してきてくれると思います。
短くも穏やかで幸せだった親子の暮らし
隆さんは本当にやさしい人でした。翌年の6月には、女の子が生まれました。長女のお産は、土生岡の里でしまして、私の父親が「萬世子」と名付けました。実家は、二十三士の清岡道之助さんの家がすぐ近くで、道之助さんところのお姉さんに「まよさん(文末補足1参照)」という人がいて、立派な人だったそうです。あのような女の人になってくれたらと、あやかったのです。
また、こちらの舅は萬太郎といいましたから、萬太郎のような世渡りができたら上等じゃきに、萬太郎の萬をとって「萬世子」と、そう言っていました。里の父親の願いがこもっているんですよ。
萬世子が1歳になったばかりの昭和16年7月、隆さんは再び応召され、満州牡丹江の部隊に入隊しましたが、そのときは、2年程で元気に帰って来てくれました。
帰っても、家では戦争のことはまったく話しませんでしたね。今ね、新聞によく戦争から帰ってきた人の話が載っているでしょう。それを見て、おっとたまるか(なんてひどい)、お父さんもなんぼか辛い目におうたろう、と思うんですよ。
前歯を傷めて治療していたのを覚えています。あれも、軍隊で叩かれたのではないろうかと、今ごろになって、戦争の話を読んだり聴いたりして思うんです。軍が厳しいということもあって、家では軍隊でのことは何も言えなかったんでしょうね。嬉しいことは何もなくて、なんぼか苦しかっただろうと思いますよ。
体格は大きかったけんど、気持ちはやさしい、おとなしい人でした。きびきびとはよう動かんで、苦労したがやろう。新聞読むと、当時の軍では、暴力なんて日常茶飯事やもんね。けど、お父さんは前歯のことも、何も、戦争の話は、ほんの少しも言いませんでした。よく考えた、やさしい人でしたから。
長女の萬世子が、お父さんに似ています。性格のやさしいところが、そっくりです。この子には、お父さんの記憶がありますよ。3歳、数えの4歳の頃のことです。お父ちゃんにね、高法寺(こんぽうじ)さまへ連れて行ってもろうて、リリアン編みの袋を買うてもろうた、そう言うてます。
また、その時分、隆さんは奈半利の営林署の方へ勤めており、自転車で通勤していました。お父ちゃんが晩方帰るときに、自転車に乗せてもろうた、とも言います。萬世子に食べさせたいと、よく赤物の鯛とかをお土産に買って帰っていましたね。その時だったかどうかはわからないけど、笑ったときに、金歯がきらっと光る口元であったなと、そんなこともおぼろげに覚えているようです。
でも、そうした平穏な生活は短くて、ほんの半年で終わりました。昭和18年末に、4度目の応召となり、濠北派遣の部隊に入隊しましたから。私は、その時に4カ月になる次の子を身ごもっていました。もうそれきり、行ったきりになるとも思わず、見送ったことですよ。
その頃には、萬世子はカタカナをちゃんと書いていましたから、私はお父さんに手紙を書かせたりもしましたよ。本も空で読み、ちゃんと大人に聞かせるので、隆さんにも知らせたいと思いました。
でも、今度は遠い遠いニューギニアで、便りもなかなか難しくて、翌年7月に生まれた次女のことも届かぬままだったのでは、と思っています。
いっしょに世渡りして夫婦の形をつくるには、あまりに間がなかったですよ。だから、隆さんについては、やさしい、いい人だったという思いだけです。
この子らと生きると決めて
最後の応召では、ずっと南へ行ったんです。昭和19年10月4日、ニューギニア島ヤカチにおいて戦死(行年32歳)したと、知らせて来ました。でもね、遺骨一つ帰るでなし、ただ名前が入っただけの箱が来たんです。それっきり。
あの時代は、そんなもんでしたぞね。四角い箱には、なーんにも入っていません。名前だけ。木の札だったか、紙の札だったかは、もう忘れましたけどね。
私は「お父さん、軍服といっしょにお祀りしますからね。暖かく着て、静かに眠ってくださいね」と言いました。もう軍服が要ることもないと思い、一緒に埋めましたよ。
当時は、そんなことでした。そんな辛い思いをしたのは、私一人ではなかったですから。若い人はみんな、そう。今の若い人は、本当に幸せですよ。
私は、まだ22歳でしたから、里の父親は随分心配し、気を揉んだことでした。「おまえ、まだ将来は長いぞ。これからが人生じゃ」と言うて。「今から一人で暮らすということは、たいへんじゃ。子どもを連れちょってもかまんきに言うて、世話してくれる人が来たが、一つ考えてみたらどうか。ここにおってもなんじゃが」言うて、来てくれましたわ。
けんどね、私には2人子どもがありましたろう。私は、どんな生活ができるにしても、子どもとはよう替えません。「ここでどんな地獄して苦労してもかまん。ここで子どもを、親のない子にしとうないきに。子どものために、私は頑張って生きていくから」と、父親に言いました。「だから、お父さん、もうそんなことは、今後はいっさい話を持って来たらいかん」言うて、私は頑張りましたわ。
隆さんが出征してからできた子も女の子でした。妹の方は、嫁ぎ先で生みましたから、こちらのおじいさんが「照喜」という名前つける言うてね。私はもがりゃしません(反対はしません)。おじいさんにつけてもろうたがね。男の子のような名前じゃけんど、ね。ほんで、萬世子と照喜の2人です。
家族には恵まれちょったと思います。お姑さんも、がいな(我意を張る)こと言う訳でなし、おとなしい人でした。
隆さんには、お兄さんが1人、姉さんが5人おりましたが、私が嫁いだときには、お兄さんは亡くなっちょって、男は隆さん1人でした。お兄さんには女の子が1人あって、女の子じゃから高等小学校出してもろうたらいいきに言うてましたけど、お義父さんが全部ちゃんと構えて、あの子も安芸の女学校にやりました。
また、一番上のお姉さんは大阪へ嫁いで、警察へいきゆう人と一緒になっちょりました。ところが、旦那さんが亡くなってしもうて、戦争当時は、子どもさん2人を連れて、うちの隠居いうて離れがあった、そこへ帰っちょった。まぁ、長い間には、いろんなことがありましたよ。
あの時分のことは、食べるものがなくて、みんな不自由したと言いますが、私のところはたくさん田畑を作っちょったから、食料に困ることはなかったですわね。でも、労働はたいへんやった。1町5反という田んぼを作っていました。
おじいさんがようせんようになってからは、私が女の人を5人も6人も雇うてやりました。その時分は、人に田んぼを貸すと、自分でよう作らんから貸しちゅうということで、農地委員会に安く取り上げられました。私は、こんな頑固な性分でしょう。ご先祖様から預かった田畑を失うことが嫌で、どうでもして頑張りとおして、ずーっと守ってきました。
萬世子は、高校卒業するとき、進学コースで勉強していて、「お母ちゃん、大学やってちょうだい」と言うたけんどね、月々の収入がなかった。百姓じゃきね。あの子は大学行きとうて、私は「役場が奨学資金貸してくれるいうき、行って相談してくるわね」言うて、役場へ行きましたわ。でも、なんともならんかった。どういう訳でいかんという説明もないまま、「こりゃ、いかん。できん」言うだけで、私は、いまだに納得がいきません。
後でみんなに話したら、そりゃ、食べるだけの財産があったからじゃろう、と言われたけど、それならそう言ってくれんとね。ただ、いかん、できんで、私は戻って来たぞね、言うたことよ。大学へ行きたがったのに、私はようやらんかった。人を雇うて百姓をしてましたき、それを払うたら残りはありゃしませんでした。そうやって頑張ってきました。
ありがたい、今の幸せ
でも、そのお蔭で、今日(こんにち)は、幸せですよ。こればぁの、文句もありません。
萬世子は、何度も言うようやけど、ほんまにお父さんに似ちょって、人間が温厚です。小さい時から私が育ててきまして、今はもう70余る年ですが、今だに私に「けんど、おかあちゃん」言うて、口答え一つ言うたことはないですぞね。
今、北川村の婦人会の会長をしています。自分は事務所の仕事ばっかりして婦人会の方へ携わってないから、とても無理ですと言いましたけんどね、みなさんが、私たちができることはみんなで協力して助けますから、やってください言うてくださってね。とうとう自分も断りかねたかしらん、ね。十分なことはできてないやろうけど、みなさん全員でよう協力してくれて、お蔭でどうにか、保っていきゆうらしいです。
本当に、この子は、私に似ず、お父さんに似ちゅうの。お父さんとは、ほんの3年ばぁしか連れだっていませんでしたけど、人間は本当いい人と思いましたからね。
妹の方は、私に似てね、さっぱりした性格ですわ。この子には、お父ちゃんの思い出はいっさいない。なんにも知らん。まだ、お腹にいたときに、行ってしもうたんやから、仕方ない。戦争をもう1、2年早く止めてくれちょったらね。そう思うこともあるわね。可哀そうで。
でも、まあ、高校までしかようやらんかったけど、なんとか2人を育てあげました。思い出すと、涙が出らあね。本当に、その時分の辛かったことは、話にならんきね。若かったからこそ、辛抱ができたの。でも、2人の娘は、母親が苦労する姿をずっと見てきて、ようわかってくれちゅう。だから、苦労した甲斐があって、今の私には、幸せが戻ってきています。
もう40年以上も前のことになりますが、今の婿が私んく(私の家)へ萬世子をもらいに来てくれました。けんど、話を聴きよったら、婿のところには男の兄弟が5人もあるいうき、こちらへもろうてくれんか言うことになってね。仲人さんが「そりゃ仲人の口が立たんが」言うて、頭掻いてね。
けんど、私の兄の口添えもあって、仲人さんも最後に、まあ一つ、この話を向こうへ持って帰る言うてくれました。帰ったところで、今度はいい話にしてくれて、まとまったことですわ。
この婿がおとなしい、温厚な人でね。私はこの口じゃきに、言うてきかんと承知しませんわ。でも、婿はちゃんと考えちゅうき、取り合わんことは取り合わん。ちゃんと夫婦2人が考えてくれちゅうが。ほんで、今、私は90過ぎて、こんなにしてもらって幸せで。よう子どもを捨てなんだと思うてね。
だから言うことですよ、「これほどにしてもらいゆう姑ばんばがあるろうかね。私は、こればあの文句もない。これで文句言いよったら罰が当たる」と。そしたら、「本人が、そう思うちょったら、それでえいわよ」言うて返ってきます。若い時に頑張った甲斐があったいうことやろうけど、いろいろ話を聴くに、若い時に頑張ってきても、みなみなそうはいかんでしょう。
「ご先祖様、本当にいろいろありましたけんど、預かった田畑は一つも失うことなく今日まできました。子どもも無事に退職しました。田畑は全部、もう子どもに渡しますので」言うてね、私は、仏様、ご先祖様を拝みましたぞね。あと何年生きるか知らんけど、こんなにしてもらったら、もう何にも言うことはない。幸せよ。苦労したことは、なんにも思いません。
これからも忘れることなく
隆さんのことも、忘れんと、こうして聞いてもろうて、ありがたいことです。遺影集のこの写真は、おじいさんが好きやった。
満州の寒いところへ行っちょったき、こんな服装よねぇ。おじいさんが、この写真を選んで、村の遺族会へ出しちょったがよ。私には全然話ないまま、おじいさんの気に入った写真を、ね。
戦地から来た手紙もいっぱいありましたけんど、ほかして(捨てて)しもうたろうかね。こんなもの置いちょいても、いかん思うて。けど、ひょっとしたら、まだ一つ、二つはあるかもしれん。子どもに来たがも、あればぁあったきね。もう、わからんね。何十年も見んもん。お父さんの肩章とか、いろんなものと一緒に、萬世子に渡したように思うけどね。
最期については、わかりません。軍の方からは、直接にはなんも言うてこざったし、あの時分には、訊くこともできざった。赤道直下のどこいらまで行ちょったらしい、言うくらいのことでね。本当に苦労したろう、厳しいところで・・。私は、もう誰にも、そんな思いはしてもらいとうありません。もう二度と戦争は嫌ですね。
あの戦争から70年近い年月が経って、この頃は私らぁも、大方のことは、忘れてしまいだした。こうして遺影集に残してくれちゅうことは、本当にありがたいです。先輩の浜渦武雄さん(文末補足2参照)いうかね、あの方がこうやってお世話してくださったから、遺影集もできたし、遺族會館もね、ああして残りましたよね。
この北川という村は、先に立ってやってくれる人たちが、こういう心掛けでやってくれるから、後へ後へと残りますがね。お陰様で、隆さんのことも忘れられんと、後の人につながっていくと思うて、感謝しています。
< お父ちゃんからの手紙 >
◆大寺 一子 様(妻への手紙)
毎日忙しい日を送っていることと思います
ご健勝で今頃麦の手入れに懸命のことでありましょう
節句ですが 鯉幟もどこを見ても見えず ただ異郷の風景のみ
洋君の幟を見て 萬世ちゃんが喜んでいることと想像いたしておりますよ
節句に送金をいたしたが受取りしてください
返信は航空便にて書留にし返信を願いする
健吾で郷土にあるときより元気で働いている故あんしんしてください
皆々様によろしく 体にくれぐれも注意する様に
◆大寺萬世子 様(長女への手紙)
毎度の便りの健勝の報 嬉しく喜んで居ります
氏神様のお祭りも楽しくすんだようで誠に結構のことと思います
刈取りもそろそろ始めているようだが、豊年で何より喜ばしいことでありましょう
また近年にない柿の豊年のようにて美しい実を垣根にぶら下げていることとて子供等もほしがることでありましょう
蜜柑も又たくさんなったようで菓子の少ない昨今とて何より副食のことでありましょう
土生の方から棒峯様の御守様送ってくれました
お礼を言ってくれ
麦蒔を待とう
体に十分気を付けて
皆様によろしく サヨウナラ
<補足1>
清岡まよ:清岡道之助は、田野町土生の岡の郷士であり、武市半平太とともに投獄された土佐勤王党員の助命嘆願を岩佐の関所に出したその足で脱藩しようとして、捕らわれ、処刑された安芸郡の二十三烈士の首領として知られる。今も残るその生家の床の間に家系図が掛けられているが、「まよ」という名の姉は確認できなかった。
<補足2>
浜渦武雄:大正4年、北川村野友に生まれる。傷痍軍人となり、昭和13年に兵役免除となって以降、北川村に帰り、戦中・戦後の多難な時代を村職員や村議会議員として活躍した。遺族会においては、歴代の会長をよく支えながら、遺族會館の建設や英魂堂の再建に尽力。また、遺族會館内部に戦没者の写真を掲げ、英魂堂内部には神仏両様にお祀りができる設備を仕上げるなど施設の充実を図るとともに、村の英霊の遺影写真集「国敗れて山川あり」の編纂出版を行った。平成4年没。
あとがき
北川村遺族會館に掲げられた数多くの英霊の遺影。この英霊たちの声を聴きたい、確かにここで生きていたという証しを記したい、という私の思いに応えて、大寺一子さんが、夫隆さんとの思い出を語ってくださいました。
戦争のことは思い出すのも、ましてや語ることはもっと辛かったかと思われます。本当に、ありがとうございました。
一子さんの、ご高齢とは思えない明快な語り口で、隆さんとの出会いや当時の結婚の様子が、生き生きと伝わり、暖かな気持ちになった一方で、戦争の厳しさを突き付けられ、改めて深く考える機会ともなりました。
頑張り屋の一子さんが築かれた今の幸せも、平和な日々の中だからこそです。戦争を知らない世代の私たちも、平和のありがたさを肝に銘じたいと思います。
ききがきすと担当:鶴岡香代
完
posted by ききがきすと at 22:59
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語り人 川島操さん(妻)
語り人 上村繁樹さん(義弟)
語り人 川島博孝(長男)
今 も 胸 の こ こ に
語り人 川島操さん(妻)
遠いあの日、寄りおうて一緒になって
よう来てくれましたね。でも、夫のこととゆうても、すべて昔のことになってしもうて、わからんようになりました。私は大正9年の生まれで、もう94歳になります。こんな年寄りですきねぇ。
正秀さんと結婚したのは、私が数えの19歳の時。正秀さんは3つ年上でした。結婚前から互いに知り合っていたというような、そんなことはありません。同じ部落でしたから、もちろん顔は見知っていましたが、今の人たちのように好きになってというようなことではないんです。あんまり昔のことになりましたき、細かいことは忘れてしもうて・・。もう遠い遠いことです。
今みたいな結婚式もせんかったねぇ。寄りおうただけ。そうして一緒になりました。そのときに、こんな話をしたというような記憶もないです。特にはなんの話もなかったねぇ。昔のことやもんね。今とは違う。
(川島正秀さんは大正6年8月25日生まれ。昭和17年8月、大東亜戦争に応召。昭和19年4月、博多を発ち、南太平洋方面に出征。昭和19年8月4日、マッカサル海にて戦死。)
結婚してからも、どっかへ遊びに行くというようなことはなかったですよ。遊びには行きません。貧乏暇なしです。時代も時代だったから、楽しいことは全然ない。二人でしたのは、本当に仕事だけでね。いいようがないほど、仕事ばっかりしました。家は百姓で、田畑の仕事ばっかり。山での仕事もあって、これがなかなかしんどかった。昔のことは今とは違うから、仕方ないと思いますよ。
それに、一緒に暮らした年月は、今思うても本当に短かった。結婚の翌年、昭和13年10月に生まれた長男の博孝が、ようよう4つになった年の夏に、出征しましたもんね。ほんの5年くらいですかね、結婚して一緒におったがは・・・。そんなもんじゃろねぇ。短いもんやった。
長男の下には、2つ違いで長女の満子が生まれていました。応召されたときには、二女の惇美も腹の中にいましたき、正秀さんは気にかかってしょうがなかったろうねぇ。結局、昭和17年の8月に行ったきりになって・・・、一番上の博孝の小学校への入学も、よう見んと行ってしもうたわねぇ。
泣いて、泣いて、それから精一杯仕事して
戦死の知らせを受けたのは、山で仕事していたときでした。弟の嫁が呼びにきてくれたのを今でもよう覚えちょります。暑い日でした。そりゃもう、泣いて、泣いて。ほんとう目も腫れちょった。家へは誰が言うてきてくれたもんか、そんなことは忘れました。役場やったろうかねぇ。
遺骨は、長らく来んかったように覚えています。まぁ、遺骨いうても、木の札だけで、他にはなんにも来ざった。遺骨が帰って来たときには、ガソ(森林鉄道)で途中の二又まで来たのを、もろうてもどったと思います。それから、みんなに来てもろうて、ちゃんと葬式をしました。いつとははっきり覚えてないけんど、鮎が取れるときやったように思うきね。夏の終わり・・やったろうかねぇ。
昭和19年の8月4日に、正秀さんはマカッサル海(※地図参照)で亡くなったということでした。28歳の若さで、ねぇ。戦後しばらくして、野市に復員してきた人が、正秀さんと同じ船に乗っていたと知らされました。その人は、沈没した同じ船に乗っていて、助かったということでした。夫の最期がどうだったか、話を聞かせてもらいたくても、私には3人の子どもがいて行くことができず、弟に行って話を聞いてきてもらいました。弟なら、その話ができると思います。ぜひ、弟からその話を聴いてみてください。お願いします。
夫の出征後に子どもがもう一人できて、3人になっていましたから、生活は、それはもうたいへんでした。その苦労は戦後もずっと続きましたよ。短い結婚生活で戦争に行かれて、男手なしに農業をしながら、3人の子どもを育てたんです。並たいていのことではありませんでした。でも、あの当時は、みんな同じ。そういう時代でした。
私は、自分の親の家の隣に住んで、両親に助けてもらいました。弟夫婦と一緒に、大家族の生活でしたが、子どもたちの世話は親や弟嫁に頼み、私は精一杯仕事しました。
お陰様で、子どもたちは健康に育ってくれました。でも、中学校を卒業した長男を、生活のために、すぐに山の仕事に行かせなくてはならなくて・・・。私は、なんとか工業高校に進学させてやりたかったんです。そのことは、今思い出しても辛いし、心残りなことです。下の娘2人は、田野の親戚の家から中芸高校へ行かせることができて、それぞれに巣立っていきました。みなが助けてくれて、頑張ってくれて、お陰様で、今日の日があります。
胸のここにずっと居る人
正秀さんの思い出というても、もうこれくらいのもんです。百年近くも生きちゅうと、たいがいのことは忘れてしまうもんよ。笑いゆうけど、みんなぁそうよね。遠い遠いことになって、忘れていくもんよ。
そうそう、手紙を持って来てくれちょったがやねぇ。正秀さんは、手紙をよく書いて寄こしましたから、それはこの缶にいれてずっと大事にしてきました。筆まめな人で、満州から私にきたものや、博孝に当てたもの、私の両親へのもの・・いろいろとたくさんきました。書くことは、なんでも書けるき、手紙にはやさしいことばっかり書いて寄こしちゅう。
字は上手で、よく近所の人の手紙も書いてやったりしていました。几帳面な人でしたし、手紙のとおり、やさしいことは、やさしい人やった。私はもう目も見えんなって、長いこと読むこともないままですき、今はもうどんなことが書かれちょったか、ようは覚えてはいません。
けど、書く字が博孝と似いちゅうように、顔や性格も、二人がそっくり。よう似いちゅうと思う。今でも、胸のここに、ここにずっと居る。だから、すぐに思い出せるんよね。短かったけど、忘れることはありません。いつまでも、ここにいます。
正 秀 さ ん か ら 託 さ れ て
語り人 上村繁樹さん(義弟)
ともに島で育って
正秀さんは、私の姉の亭主で、義理の兄になります。私とは、7つ違いじゃったけんど、同じ島(北川村の地名)の出身で、子どものころから知り合いでした。島には、小学校があったですよ。小島小学校の分校で、その当時は、島にあるような分校が奥に7つあった。年が離れちゅうき小学校で顔合すことはなかったけんど、狭いとこじゃき、みんなぁが顔なじみよね。
よう山で遊んだね。冬が来たら、こんな棒を引かいて、その向こうにタネを置く仕掛けをつくって、小さい鳥をおさえた・・・。それが一番の遊びやったね。メジロなんかの小鳥が多かったけんど、太いのはハトなんかもおったなぁ。焼いて食ったろうかね。食べたことは、よう覚えてないけんど。まあ、遊びごとよね。男の子は、毎日、山ばっかしで遊んだね。
夏は川へ、ね。かなつき持っていって、鮎をついた。冬は、アメゴとイダや。チチブは石にひっついちゅうがをおさえた。どれも美味しいわよ。いたどりなんかの山菜も取ったりしたけんど、それは一時のことよ。
子どもの頃は、あんまり家の手伝いはせんかったね。大事にしてもろうた。上級生になったときは、荷運びをやったがね。昔は物を運搬するには、全部、背負いというもんで、背中に負うて運んだわね。家の手伝いは、そんなことくらいで、家族があんまり手伝いはさせんかったように思うがね。私も親の手伝いをしたというような思いはあんまりなかった。
正秀さんとは年が離れちょったきに、一緒に遊ぶことは少なかったけんど、なんかのときには大事にしてくれたと覚えちゅう。自分は姉二人じゃき、いい兄貴、いい話し相手で、ありがたかった。
正秀さんが、兵隊に行くときには、家族みんなぁを預かっていてくれと言うて頼みにきたがよ。それで、家へみんなぁが来て、11人の大家族で暮らしたことよ。姉さんの子どもたちとは、実の親子と一緒、家族同然じゃ。
長男の博孝は、そのとき、まだ5歳じゃった。まだ自分らぁには子どもがない時分じゃったが、妻が背におうて、よう守りしたもんよ。その下に女の子もおって、同じように育てたねぇ。姉の操が3人目を生むようになっちょって、出産に、奈半利の病院に来ちゅうときに、ちょうど正秀さんが召集になって、兵隊に行ったと思う。それが最後になってしもうたなぁ。
戦場から自分の親のところへ、よう便りがあった。正秀さんの手紙はたくさん残ちゅう。こんな箱に入れて、今は川島の嫁が大事に持っちゅうと思うが。字は上等。上手やったと覚えちゅう。
海に沈んだ最期
戦後になって、姉の代わりに、野市へ復員した人を訪ねていったときのことは、よう忘れん。今のと昔のとは野市の道路も、多少違いはせんろうかと思うが、東から高知向いて行ったところの北側に散髪屋があって、そこの人が、正秀さんが戦死したとき乗っちょった、ちょうどその船に一緒におったということやった。
その人の話では、まずは満州の方へ行っちょったらしい。満州のどこまで行っちょったかは、わからんがね。その満州から乗った船が内地へ向かったもんで、兵隊のみんなぁは、これで帰れると考えちょったようです。ところが、いったんは九州の博多へ着いたものの、船は南方へ向こうた。もう忘れましたが、ずっと南のなんとかいう島から船に乗ったところで、船がやられてしもうたと聞きました。
野市の人が言うことには、「私は、船に酔わんけれど、川島の正秀は船に弱いから、船の底に入ると言って、下へ降りて行った。それが最後で、船がやられてしもうて・・・。私は船から降りることができて助かった」と。それで、終戦になり、家へ無事に戻ることができた、ということじゃった。
野市の散髪屋の人の名前も、船が何にやられたのか、そのときの詳しいことやなんかは、もう忘れてしまいましたけんど、大方はそんなことでした。その話を聴いたときの、なんやら言いようがない気持ちは、よう忘れませんがね。そのほかのことは、なんちゃわからん。野市の散髪屋が言うくらいのことしかわからんです。
実は、正秀さんは、満州から九州に着けば、私が面会にくると思うちょったらしい。ちょうどその時分、私も兵役で善通寺へ行っちょたけんど、親が年老いちゅうき、1回は家へ帰って家の整理をしてから来いと言われて、ちょうど家へ帰っちょった。それで、九州へ行く間がないままに、正秀さんの船は博多を出てしもうた。今でも悔やまぁね、そのことは。
島へは来たことがあるかね。今度島へ来たら、自分の家へも寄ってよ。博孝の隣がうちよ。川島の家族とうちの家族とは、本当の兄弟以上よね。大家族みたいなもんじゃ。今でも、博孝に、うちの家からあれ取ってこい言うたら、自分の家と一緒で何でもわかっちゅう。親子も同然じゃ。本当の付き合いじゃ。
博孝もわしを親みたいに言うしね。うちの家内も博孝が5歳のときに背に負いまわって世話したきね。正秀さんが家族を頼むと、自分のところへ来た。それは、もうずっと昔のことじゃが、心にはずーっと残っちゅうわよ。
お や じ へ の 封 印 し た 思 い
語り人 川島博孝(長男)
暑い日の白い思い出
おやじのことは、村がつくってくれた遺影の写真集にあるぐらいのことしか知らん。戦死したマカッサル海は、地図にはあったぞ。何回かは、わしも見た。けんど、それもずーっと昔のことや。その他のことは、わからん。乗っちょって沈んだという船の名前もわからん。
戦没者墓地のある野川口まで、初めて行ったときのことは、よう覚えちゅう。5つばぁのときやろう。その頃は、まだ奈半利川に今の橋はなかったき、手前のどこかから野友まで、ロープやったか、針金やったか引っ張っちゃったき、そんなもんを手繰って船で渡しよった。今の高速が走っちゅうところへんか、もうちょっと上やったろうか。加茂の方からね、向こうへ、野友の方へね。そんなにして、親父の遺骨を納めに行ったことよ。それは覚えちゅう。
夏の暑いときに、初めて渡しを渡って、流れがきつうて妙に怖かったなあ、っていうような感じも持っちょらぁ。白い布へ何か書いてもろうて、それを遺骨の箱へ巻くかなんかしたような・・・。それがなんやったか、わからんけんど、そんなものは遺骨へ巻くよりほかは、なかったと思うきね。
多分、初めての祀りということで、大勢で一緒に行ったんやろうと思う。前田の家におばさんがおったころで、そこで待たさいてもろうたと覚えちゅう。そのときの状況は、確かに出てくる。親戚の者に連れられて、そこまで行ったがや。誰と行ったかは、ようはわからんけど、島光則さんは確かにおったと記憶がある。その人は、上村の叔父の嫁さんの兄貴やき。
母の話は二又で遺骨を受け取ったということで、こっちは、戦没者墓地へ祀りに行った話や。二又でのことは、覚えちゃあせんけんど、遺骨を受け取ったあとの、ちゃんとつながった話や。遺骨いうても、おやじは船で沈んじゅうがやき、もろうたもんには、なにも入っちぁせん。本当に、なにもなかったし、なにもわからん。
誰にも話すこともない、遠いことよ。とにかく、暑かった。みんな白いもん着て、袖まくしあげるか、半袖か。あの頃は、夏着るもんいうたら、ワイシャツでもなんでも白いもんしかなかったき。変わった色はなかった。みんな白かった。なんせ、白一色よ・・・・。
ぷっつり切った・・辛い思い
おやじが死んだというようなことは、小学校の3年か4年ばぁからこっちは、ぷっつり切れた。手紙も昔々に何回か見たけんど、その後見るようなことはない。こうして残しちゅうだけのことや。
おやじのことは、正直言うて、思い出すのは辛いし、話しとうもない。戦争の話は、本当にせん。しとうない。わしら、おやじの顔も知らん。写真で残っちゅうだけで、わしらには、わからん。よう似ちゅうと言われるき、似ちゅうがやろう。わしは子どもの時分は、わりことし(いたづらっ子)やったぞ。この写真を見てみいや。わりことしの目をしちゅうが。
物づくりが好きで、機械のことやったら話すことはなんぼでもある。手づくりのこの庭や、山の木のことらぁも、話しはいっぱいあるき。また来たら、次は、そんな話をしちゃおう。時間が、なんぼあっても足らんぞ。
< お父ちゃんからの手紙 >
○川島 操 様(妻への手紙)
操さん 子どもができたとのこと安心いたしました
その後ひだちはいかがにございますか お伺い申し上げます
女の子だとね 名前はなんとつけたのだ
早く早くお便りくださいね
次に家の方の秋、月谷らはちょっとは刈ったでしょうね
自分の家の秋の様子も知らしてくれよ
ウマイ物であればウント送ってくださいね
ハハハハ
では御身大切になさいませ
○川島博孝 様(長男への手紙)
博孝よ 父も大変元気にて着いた故、安心致せよ
一生懸命でやっているよ お前もまだ五つだ
おばあ様やおじい様の言うことを良く聞いて元気で遊びおれ
母の言うことを第一にね 母にも良く言え
武重君には懸命で訓練をせよとね
まずは体を大切に
また次に さようなら
○上村 庄 様(妻の母への手紙)
拝啓 時下厳寒の その後 ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません
その後 母上様にはお変わりありませんか お伺い申し上げます
次に私も元気にて懸命に働いて居ります故 ご安心くださいませ
お手紙によりますれば島も今年は大変に寒いとのことですね
また 長々の晴天で飲み水も大変少なくなったとのことですね
お困りのことと思います
お母様には毎日子供たちの守りをしていてくだされ
誠にお世話様にございます
なお この上とも よろしくお頼み申し上げます
本日は旧正月の元旦でありますよ
お正月も博孝や満子は元気に遊んでおることと思います
では 御身大切にお暮しくださいませ
度々お便り待っております
○上村 産次 様(妻の父への手紙)
拝啓 長々ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません
その後 御父上様一同には お変わりございませんか お伺い申し上げます
次に私も元気にて務めおりますれば 何とぞご安心くださいね
さて昨日は慰問品をたくさんお送りくだされ
誠に有難く厚くお礼申し上げます
印も受取りました故 安心ください
操の書面によると 早や野床をしているとのこと 早いものですね
当満州も暖かくなって野原は青くなってきましたよ
暖かくなるにつれて奈半利川の鮎も大分上がってきたですね
島にも着ているでしょうね お伺いするよ
では いつもながら操、子供をよろしくお頼み申し上げます
皆様によろしく申してくださいね 書面にてお礼まで
あとがき
仕事で出席した高知県北川村の戦没者慰霊祭で、会場である遺族會館にぐるりと掲げられた数多くの村の英霊の遺影に出会い、まっすぐに視線を投げてよこすその若さに、私は痛いほどの哀しさを感じました。そして、そのことは、私の中ですでに過去のこととなっていた戦争を、身近に引き寄せて考えるきっかけともなりました。
遺影となったみなさんに少しでも関わりたいと願いながら、もう十年近い年月が経ってしまいましたが、この度、やっと、遺影のお一人である川島正秀さんのご遺族に会い、お話を伺うことができました。
若かりし日の結婚生活について、川島操さんは、「遊びには行きません。二人でしたのは仕事だけ」と教えてくれました。戦争は、花見や祭りなど、そんなささやかなエピソードも許さず、ほんの5年で逝ってしまった正秀さん。でも、「胸のここに、ずっと居る」と、手を胸に当てておっしゃった操さんの言葉が、私の耳にずっと残っています。
戦争とは、戦死された人々だけでなく、遺された家族のみなさんにも、耐え難い苦難を強いるものなのだとつくづく知らされました。重い心の蓋を外して話してくださった長男の博孝さんをはじめとするご遺族のみなさん、本当にありがとうございました。
また、今回の聴き書きには、北川村協会福祉協議会の西岡和会長さんをはじめ、多くの方にご協力いただきました。心から感謝申し上げます。
ききがき担当:鶴岡香代
(完)
posted by ききがきすと at 21:30
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posted by ききがきすと at 14:08
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posted by ききがきすと at 15:49
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| ききがきすと養成講座
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Ryoma21では、一定のレベル以上の聴き書きができる人を育成し、活躍につなげるために「ききがきすと養成講座」を開催します。今回で5回目の開催となります。
資格を取得すれば、ご自身でご家族や親しい方の「聴き書き」をすることはもちろん、Ryoma21の仲間と一緒に活動することができます。
【ききがきすと養成講座の概要】
*この講座は開催規定人数に達しましたので、開催が決定しました。まだ、申し込みは可能です。
◆開催日:平成26年12月10日から2月12日
までの水曜日5回、木曜日1回
◆会 場:銀座風月堂ビル5階会議室、
ならびに中央区公共施設など
◆カリキュラム概略
@開校式、傾聴実習 A文章講座 B聴き書き実習
Cパソコンでの編集作業 D製本作業 Eまとめ、閉講式
*詳細は、下の募集パンフレットをダウンロードしてご覧ください。
第5回講座受講生募集チラシ表.pdf
◆募集人員:6名限定(先着順)
じっくり指導を受けることができ、確実にスキルが身につきます。
◆申込締切:平成26年12月1日(火)
◆受講資格:@年齢/性別不問
Aパソコンの基本的な操作ができ、ワードで簡単な文書が
作れる方
*パソコンが使えない方は、Ryoma21が開催するパソコン
講座を受講しましょう。
ご希望の方は「パソコンサークルさくさく」岩田まで
→ pcsupport@ryoma21.jp
Bノートパソコン、テープ・ICレコーダー、デジカメを
持っている方。*新規購入の方にはアドバイスします。
◆受講料:Ryoma21正会員35,000円、賛助会員40,000円
非会員45,000円
*同時入会で、正会員料金になります。
*テキスト・資料代を含みます。
◆問い合わせ/申し込み
下記を記載して、お申込みください。
受講する方のお名前、郵便番号、ご住所、電話番号、メールアドレス
NPO法人シニアわーくすRyoma21「ききがきすと」グループ
e-mail: kikigakist@ryoma21.jp FAX:03-5537-5281
◎聴き書きをしてほしいというご相談はこちらのチラシをご覧ください。
また、上記まで、お気軽にご相談ください。
1410聴き書きのシステムと料金.pdf
以上
posted by ききがきすと at 14:57
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語り手:杉本 明(すぎもとあきら)さん
生い立ち
*奉安殿:戦時中、各学校に建設され、天皇、皇后の御真影と教育勅語などを納めていた建物で、職員生徒は、登下校時や単に前を通過する際には最敬礼するように定められていた。
担当ききがきすと:菊井 正彦
杉本明さんとは、NPO法人 関東シニアライフアドバイザーの会員同士です。
協会へ入会されたのは4年前だったと思いますが、特に親しく語る機会はありませんでした。3月初旬に神奈川地区会員が集まるイベントがあり、病気の私の体調が良くなりましたので「私の顔をみせたい、仲間の顔をみたい」と参加したときに、しぶりにお会いました。なんとなく自分史を書きたいと思っていた杉本さんは、私が「聞き書き」という活動をしていることに関心を持っていただき、私より10歳上の先輩ですが、同じ大学・同じ学部を卒業したということもあり、話が進みました。
品の良いロマンスグレイの老紳士という印象の杉本さんが、見出しにもあるようなご自分のコンプレックスの部分や、ひもじい思いだけだったとも言える大学時代等を赤裸々に語ってくれたことはとても印象に残りました。
たまたま、「聞き書き」していた期間中に放送された「ラジオ深夜便」で、立花隆が「自分史≠ナ豊かなセカンドステージを」と話しています。そのなかで、「自分史を作り始めると自分がわかってくる…」と言っていますが、同感されたようでした。自分の記憶だけではハッキリしないことも、戦友と想い出話を楽しんだり、また語りを聞き手に傾聴してもらうことで、より浮かび上がり活字にもまとまってくるということに、私も改めて気づかされました。
後日談でなく途中談≠ノなりますが、自分史作りを進めるなかで、近く鹿児島の知覧≠ナ戦友会があり、杉本さんも参加申し込みをしている、ということを知りました。知覧≠ニいえば特攻隊の基地、戦争に関わりない私もいつか訪れたい所と思っていました。「そうだ、どうせなら戦争に関わった人たちが傍にいるという状況の中で見学できたほうがいい…」と気がつきました。
「私でも参加できますか?」とききましたところ、世話人の方からも快く了解を得ることができ、5月21日と22日に「少飛17期特攻観音詣での集い」に参加同行することになりました。知覧″sきは3回目になるという杉本さんも今回新しい発見があったとききましたが、杉本さんの自分史作りの内容に裏づけがとれ、役立ったことはいうまでもありません。また、私にとっても貴重な旅になりました。
posted by ききがきすと at 18:32
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posted by ききがきすと at 17:34
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| 東日本大震災聞き書き
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東日本大震災の被災者ききがき第二弾、岩手県・田老での聴き書きツアーを7月6日と7日に実施します。ききがきすと5名とサポーター1名計6名が参加します。
今回の聴き取り実現に際しては、「NPO法人立ち上がるぞ!宮古・田老」の理事長・大棒秀一さんにアドバイスとご協力をいただいています。また、現地では大棒さんやメンバーの方々との交流会も予定しています。
今回の聴き取りは、2012年に実施した宮城県の聞き書き活動に続くものです。私たちの活動はゆっくりですが、時間が経つにつれて忘れられがちな現実を踏まえ、じっくりと被災者の方々の現状も合わせて、聞き書きしたいと思っています。皆様のご支援をよろしくお願いします。
posted by ききがきすと at 12:29
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