2016年04月14日

ミクロネシアの野菜隊員

語り人 富田裕子(とみた ゆうこ)さん



恵まれた自然のなか、生き物に囲まれて

新潟の実家から十分も歩けば海だったので、子供のころは、夏になると毎日のように海で泳いでいました。山はないけど、海の生き物とか、近くの原っぱの植物とか昆虫とか、とても面白いものに出会えたんです。水族館や植物園もよく行きました。空の星をながめていると、かたちが変わっていくのが不思議でした。今はもう無くなっちゃった豊かな生活ですねえ。


 こういう豊かな自然を、目いっぱい楽しんで過ごした子ども時代が、生き物大好きの性格をつくって、さらに自分という生き物への興味にもつながって、人間に関心が向きました。だから将来の夢は小学校の頃は学校の先生だったけれど、中学校以降はお医者さんになりました。治療法が見つかっていない病気に取り組みたい、と考え、医者を志したこともあるんです。


理系の母と文系の父


マリー・キューリー.jpg母はレントゲン技師なんですよ。今もう70歳を越えてますから、とっくに定年退職したんですけど、今も人手が足りないときには、仕事を頼まれて、一日単位で行ったりしています。母の生家は兼業農家で、私の祖父は、学校の事務の仕事をしていました。当時の田舎は、女の子なんて高校は卒業さえすりゃいい、なにより結婚するほうが幸せっていう風潮だったようです。


だけど、祖父が「そうじゃなくて、女性も教育を」と言ってくれたそうで、ちょうど新潟に医療技術短期大学(現在は新潟大学医学部保健学科)が新設され、そこの放射線科に入ったんです。母の弟も、この放射線科を出てレントゲン技師になり、卒業後は大学に残り、近年まで教えていました。


トマス・エジソン.jpg 父は十代のときに父親を結核で亡くしました。長男として、残された母親や他の4人の兄弟のために、高校に行くのもやめて働け、と親戚中から言われたそうです。でも、なんとか高校だけは出させてもらって、県の職員になり、県庁で働きながら短大に通って、短大卒の資格をとった人なんです。


 父と私は頭の構造が違いますね。興味・関心の対象が違うんです。話が飛んじゃいますけど、うちの主人が文系で、歴史とか好きなんですよ。だから読んでいる本とか、興味を持つ本とか、うちの父と同じですね。でも、わたしはそういう本、興味持てないんです。 

  

野口英世.jpg高校2年から理系文系に分かれてしまったので、理系の私はそれ以来、歴史は勉強してないんですね。たとえば徳川家康、豊臣秀吉ぐらいは分かるんですけど、明智光秀となると、「えーっと、どの時代の、どんな人だっけ?『本能寺の変』っていつだっけ、なんだっけ?」と、そういう調子です。


 理科に関連する歴史上の人物、例えばキューリー夫人、野口英世、エジソンなどの本は読んで、全部頭のなかに入っているし、古代の地層なんかなら、ずっと詳しく説明できます。その時代の産業になると、「えーと、ァ、産業革命?なんか勉強したけど、どの時代だっけ?」という感じで。


 *写真は、上から、キューリー夫人、エジソン、野口英世


卒業そして就職:輸入野菜を扱う仕事に


富山の大学に入学、生物学を専攻し、その後は食品関連の仕事につきました。1990年代の卒業ですから、地産地消が言われるちょっと前で、その頃から輸入食材が増え始めていたんです。新しい食品はだいたい大手の商社が輸入してくるんですね。でも、その販路開拓を地方でするとなると、都会とは違って、どっかに拠点を作ることが必要になってきます。わたしの会社がその拠点になって、販路拡大を受け持つわけです。


そこで、地元の野菜と競合しないように注意をしながら、輸入野菜をどう食べるのかを説明して、それを売らなきゃならない。例えば、スーパーなどに行って説明し、「こういう特徴のある野菜です。取り扱ってもらえませんか?」という営業もし、実際に料理のレシピを提供したり、お料理を作ったりしていました。

  

転機――人生やり残したことが


食品の仕事は楽しく、当時おつきあいしていた人もいました。二十代後半になると結婚話もでてきて、わたしの人生こんな風に、平穏無事に行くのかな、とも思い始めました。 反面、このままこの人と結婚して、この仕事続けていく…と考えると、なんとなく自分の先が見えた感じにもなりました。自分の人生に何かやり残したことがあるんじゃないかって気がし出して、「これは一体なんなんだろう」って、2年くらい悩みながら生きていたんです。


 母親みたいに手に職をつける道もあったし、お医者さんに挑戦する、という事も考えました。それとは別に、海外に行って暮らしてみたいっていう思いがあったんです。旅行して違うところに行くっていうのは、私にとって「非日常」で、ふだんの生活から離れたところで息抜きができて、気分転換になり、そして新しい発見があるんですね。だから、いろんなところに行くのが好きで、お金を貯めては旅行していました。


高校までずっと実家から徒歩通学で、大学のときに初めて県外に出て一人暮らしをしました。それで結構、異文化を味わいましたが、さらに海外でもっと長く滞在してみたいな、旅行でなく住んでみたいなと思うようになったんです。


そしてJICAと出会う


青年海外協力隊募集説明会ポスター.jpg30歳過ぎちゃうとキビしいかもしれないから、二十代の最後に、結婚という選択ではなくて、自分がやり残したことをやろうって思いました。それも最初で最後のチャンスだと考えているときに、ちょうど「青年海外協力隊の募集説明会をやります。これが最後の説明会です」っていうお知らせをテレビで見て、新聞でも読んだんです。 

                    青年海外協力隊募集説明会ポスター


 今思うと、当時JICA(国際協力機構)は、全ての都道府県でこのPRをやっていたわけではないんですね。全国に6人の国際協力推進員というのが配置されていて、たまたまその1人が活動している地域に、私が住んでいたんです。だから、身近な地元の新聞やテレビで募集説明会の知らせを見ることができたわけです。


無理かも、でもやってみる!


私は、海外で仕事をする人っていうのは、特別な教育を受けて、それなりのトレーニングを積んだ人だ、と思っていたんです。だから自分には無理かもしれないけれど、どんなものか1回は説明を聞いてみよう、という気持ちで出席したんです。これがそのまま海外ボランティア参加になってしまうなんて、考えもしませんでしたし、もちろんその時点では、仕事も結婚も、やめようなんてぜんぜん思っていませんでした。それが平成9年(1997年)の秋のことです。


 この「秋募集」の説明会でもらった募集要項のなかで、私の資格要件に合うと思われるものが、「ミクロネシアでの野菜栽培指導」っていう職種だったんです。健康診断も受けて、書類も出して、一般教養と英語の試験を受け、さらに、私の応募職種の野菜栽培に関する、記述式の問題が出されました。


試験はきびしく


1次試験が受かると、2次試験として個人面接と技術面接がありました。個人面接は「人となり」を見るもので、「なぜ理数科教師に応募しないんですか?」とか聞かれました。技術面接は、1次試験に採点を担当した東京農大の先生が、どのくらいの知識や経験があるかを、容赦なく質問してくるものでした。


tomita1.jpg 記述問題の中に「野菜の劣化や鮮度保持」に関するものがあって、わたしは「レタスを包丁で切ると切り口が赤くなる…」他、数例挙げて解答していたんです。答案を採点した先生に面接で「では、なぜ赤くなるのかわかりますか?」と質問されて、エチレンガスがどうとかこうとか…と説明したんですけど、「あなたの知識は、理科の知識であって、農業の知識じゃないです。農家さんはそういう説明はしないですね」って言われてしまいました。農家としての、収穫後の野菜の保存方法や技術を聞かれていたのに、私は家庭レベルの取り扱いを、理科の知識で説明してしまっていたのです。


合格、あたふたと出発


 もし合格しても、普通なら6か月くらいは猶予あると勝手に思っていた私は、職場には簡単に「試験を受けます。受かったら行かせてください」と言ってあっただけでした。でも、2次試験が2月なのに、合格通知が3月初め頃に届き、『合格ですが、条件付きです。農業研修をしてください』とありました。日本の寒冷地の農業と暑い国の農業とは違うから、それもそうだな、と納得です。


『詳細は追って連絡します』とのことなので、職場には「すみません、合格しました。訓練の期間に入ったら辞めさせてもらいます」とだけ伝えました。ところが、それから1週間たたないうちに来た通知には、『4月5日から5か月半の農業研修。東京農大・宮古亜熱帯農場にて』と書かれていました。


 こんなにあたふたした状況で、職場への退職予告はなんとか1か月前に間に合わせましたが、自分の移動が大変でした。年度末で引っ越し業者はなかなか、つかまらない。やっとつかまえても3月31日の午後なら…と言われる始末。結局、その日でお願いするよりなかったのです。当時は富山に住んでいたから、まずは新潟の実家に荷物を送り、それから自分自身は新潟、そして沖縄と移動しなくちゃならない。


荷物をやっと送ると、もう電車が無くなっていて、ホテルに一泊し、翌日新潟に帰ったんです。名残雪がちらつく寒い日でした。実家に帰ってすぐ、送った荷物を受け取ってぜんぶ片づけると、今度は新潟から夏の沖縄です。半袖の衣類や研修用の書類を詰めたり、郵便物を出したりして、新潟から直行便で沖縄へ。そこから宮古へ飛び、研修所に着いたのはぎりぎり…。もう泣きましたね。「こんなのもういい!」と思いました。


 こういうありさまでのスタートでしたから、職場に未練とか、そういうことを感じるひまもありません。9年も過ごした富山県でしたが、名残りを惜しむ間もありませんでした。自分の荷物を片づけるだけでいっぱい、いっぱいで、お別れ会どころじゃなかったんです。


宮古島のくらし 当番にあけくれて


 一緒に研修をスタートしたのは、男4名、女7名でした。職員4人も含め15人の世帯です。ひとり暮らしで、スーツを着て仕事をしていたOLが、4人部屋に入れられ、いきなり農家の嫁状態で、毎朝暗いうちから自転車こいで山道を20分のぼり、7時すぎまで農作業でした。当番のときは早めに宿舎に戻って7時半までに15人分の朝食の支度、片づけをしてから、講義や研修を兼ねた農作業。昼食や夕食の支度もあるし、夕方にはお風呂の掃除と準備、野菜の水やりも欠かせません。


レポートの提出もあって、ずっと時間の無いまま…、これが協力隊なのか…と、もうほとんど挫折していました。個室に入れると思い込んでいたのが違っていて、だからストレスでずーっと太って、それだけ働かされながら、まずはここで10キロぐらい太りましたね。


ひとり実験を


南の島に行くのだからと、それなりに、いろいろ派遣先のことを調べました。ミクロネシアは土が違うし、土の層も薄いということなので、行ってみなければ何が作れるか分かりません。最初に、先生に言われて、みんなで10メートルくらいの長い畝をだーっと作り、決められた担当場所に野菜を作りました。また、農大のマンゴーやサトウキビの世話をしながら、プランターくらいの小さいところで、二十日大根の生育実験みたいなことをやっていました。


 環境条件や土壌条件を変えて実験したんですが、先生に、それは農業の実験じゃない、着眼点が違うとか言われて、ああまたダメか…と。農業の人の実験は野菜を植える間隔とか、畝の高さとか、そういうことでいろいろ試すみたいですね。ここでもやっぱり私は、農業研修じゃなくて、理科の実験みたいなことをやってしまったんです。


 肥料の問題もありました。もちろん肥料を作った経験などありません。まず、コンテナに材料を詰めて、堆肥をつくる場所まで手で運ぶ。運が良ければリヤカ―が使えたけど、これが本当に重い。ひとつ2030キロにもなるんです。材料を合わせた後は、シートをかぶせたり、取ったり、定期的に温度を計ってかきまぜる当番というのもあって、「いい菌」が発酵してくれるように、安定するまでかきまぜて腐らないようにするんです。

ほんと、農家のお嫁さんになったような気がしましたが、いい経験だったと思います。


農業研修の次は


農業研修を終えてから、改めて富山へ挨拶に行きました。宮古から直行したので、私だけ日焼けして真っ黒です。それから今度は、次の研修場所である長野県の駒ヶ根に行かなくちゃなりませんでした。9月の初めから11月の終わりまで3か月かかるんです。11月なんてもう寒いんですよ。


 半年前、富山から新潟に送った秋冬物を詰めて、旅の支度をしました。駒ヶ根へは新潟から、上越、ローカル線に乗ってひとつ乗り換えて、今度もまた一泊しないと行けなかったですね。一週間のあいだに荷物を詰め替え、送るものは送って、日焼けした真っ黒な顔と茶色くなった髪の毛で行ったら、色の白い、ほっそりした人たちでいっぱいでした。当時の隊員は、現在のように年4回ではなく3回の派遣だったので、研修期間が長く、土日は休みですが79日間、朝から晩まで英語の語学訓練でした。


ここでも試験の洗礼


研修仲間と 右から2番目.jpg 一番初めにテストがありました。英語のテストと、国際協力に関する記述試験で、あまり見る機会もない。


 ← 研修仲間と

   右から2番目


例えばJOCV(青年海外協力隊)などの英語の略語について、それを正式名称で書き、日本語に訳して、その意味を説明しなさい、なんて設問でした。当時の私は今と違って、JICAの活動内容さえよく知らなかったし、書かれている言葉を理解していても、国際協力の世界とどう関連させて書けばいいのか、お手上げでした。


 当時の研修所での生活は今と違って、軍隊の訓練に近いというか、朝起きるとまず点呼があり、マラソン、ラジオ体操の後、やっと食事です。それからずっと1日中7時間勉強して、夜ようやく自分の時間が持てるかな、という毎日でした。


でも、このときは、個室こそ改修中で入れませんでしたが2人部屋です。宮古島の農業訓練は4人部屋だったから、まァ、ずっと良くなったと言えます。当時、宮古島のストレスで10キロ近く増えた体重は、ここでの高カロリー食とストレスで、さらに6キロ増えました。


いざミクロネシアへ

私の仕事は?「ミクロネシアでの野菜栽培指導」は? 


ミクロネシア 連邦 ポンペイ 島.jpg駒ヶ根での研修中に配属先変更の連絡をもらいました。ミクロネシア農業プロジェクトに中国資本が投入されたことにより、日本のボランティアはもういらないと言われ、配属予定だった農業省のオフィスもなくなってしまったということでした。

 ミクロネシア連邦ポンペイ島 →

 関係省庁によりプロジェクトが改めて検討された結果、スタートから7年を過ぎて、野菜の栽培指導はある程度目標に達したと判断されたのです。そこで、ステップアップして「栄養教育」プロジェクトを、ポンペイ州の保健局が担当し、そこに青年海外協力隊4代目の野菜栽培指導員である私が入るという展開になったのです。


ユミコとふたりの子どもと.jpgポンペイに着いてみると、前任者は、機材や、過去の書類などを保健局へ運び入れてくれてはいたけど、協力隊員の仕事環境の整備としてはそれだけです。オフィスも整っていなければ、カウンターパートと呼ばれる、一緒に仕事をする現地人スタッフもいない状況からのスタートでした。 

 ← ユミコと二人の子どもと

 着任後の関係者会議で、私はポンペイ州のコーディネーターにされてしまいました。本来ならボランティアは、そのポジションにつけないはずなんですが。


主要課題は母子健康、それからビタミンA欠乏症対策と、あとは糖尿病や高血圧対策などにも取り組むことが決まりました。成人病予防のための改善活動っていうのは以前からあったから、まず家庭菜園の普及、次に栄養教育、それから私が日本の会社でやっていた「野菜を食材に使ったレシピを作ることと、実際にやってみせる」ことを、オフィスに隣接する州立病院や、島内に5か所ある診療所などを拠点に、人を集めて、普及活動として実施することになりました。


 カウンターパートの問題は、栄養について学んだことのある看護師さんをつけてもらえることになりました。


名前がユミコと言うので、「えーっ!日本人みたいな名前ね?」と驚いたら、日本語を知っているおじいさんがつけた名前だと教えてくれました。そういう、紛らわしい日本名の人が結構いるところでした。ポンペイ州にも日本軍が駐留していた時期があり、年配者の中には日本語が話せる人もいたんです。


栄養キャンペーンと苗配り


ミクロネシアの人たちの、もともとの食生活はココナツミルクと魚、あとはタロイモ、ヤムイモ中心なので、本来の食事をしていたときは、そんなに肥満はいなかったそうです。結局、外国からの輸入品…缶詰、インスタントラーメンなんかが入ってくることによって、肥満や成人病が増えてしまったわけですね。


レシピの紹介と実演.jpg私たちの仕事は、昔むかしの日本が、保健所で栄養指導のために人を集めてやっていたような感じで、まず、ささっと料理の下ごしらえをしてみせます。それを煮るとか蒸すとかしている間に、カウンターパートのユミコが現地語で、今日はどんな材料を使っていて、どんな栄養が含まれているのか説明し、私もそれをサポートします。

      レシピの紹介と実演 →

この島の土壌の層は薄くて、栽培に向く植物は少ないんですね。だからそこらへんにある茎とか葉とか、例えば、現地語でチャヤと呼ぶ、食用ハイビtomita2.jpgスカスの葉っぱとか、さつまいもの葉やツルとか、そういうものを使ってのレシピの提供をするわけです。そして皆で試食をして、終わった後はエクササイズです。みんな食べたあとは体を動かしましょう、という趣旨で。


最後に苗を配って、みんなも自分で作りましょう、と呼びかけるプランにしたのですが、苗はそう簡単には育てられません。たとえばニラとか、暑い地域でも育つ品種のホウレンソウとかは、ここでも家庭菜園にはとても向いてます。だけどトマトは水が多いとダメなんです。


それで苗床を高くして、ビショビショにならないようにすれば、もしかしたらいけるかも、っていう試作も、ユミコと2人でやりました。山から土を運んでくる作業から始めて、これならみんなの家でもできるよねって結論を出してから、育てた苗をセメントなんかの、水漏れしない袋に植えて配ってあげました。植木鉢なんて手に入りませんから。 

     

きりない仕事

                    

 協力隊としてのJICAへの報告書はさておき、プロジェクトコーディネーターとしての仕事量は半端じゃありませんでした。「ユニセフ」からお金をもらっているので、定期的な広報の作成の他、何種類もの報告書、年間活動計画書、予算案作成と執行管理が義務付けられており、別に「South Pacific Committee」からもお金が出ていたので、そちらからも同じようなことが求められました。配属先の州の保健局、連邦政府の保健省にも毎月活動報告書を提出しなければなりません。


さらに「世界食糧デー」などのイベント開催や会議、マスコミ対応も多かったですね。その他、退学児童の更生プログラムへの協力、地元の小学校での出前講座、教科書改訂の手伝いなどもやりました。それに日本からの視察団の受け入れアレンジとか。


それまでも、そこへ行ってみて初めて、想像していた仕事と現実のミスマッチが分かる、ということはよく経験したので、仕事量は別としてこういう想定外の仕事が、多種多様降ってくることにも、不思議とあまり驚かなかったというか、そういうこともあるかなと自然に受け止めていました。


不備な受け入れ態勢からスタートした仕事でしたが、こうして少しずつ軌道に乗ってきました。でも、量も多く、レベルも高い業務をこなすには時間がかかり、平均睡眠時間は3時間くらいだったんじゃないかしら。イベント前や提出書類の締切前には、1週間の睡眠が何と10時間だけという時もありました。日本語で書けば30分で終わるものが、英語や現地語だと3時間くらいかかってしまって。それに文書をつくるのに、国際機関の様式なんて習ったこともなかったから、涙ものです。


範囲も広がる量も増える


 幸い病気もせずにすんだけど、仕事はどんどん増え、現地のニーズも高まる一方でした。そのうち公衆衛生指導もやって欲しいとか、母乳育児の指導にも加わって欲しいとか、集団健康診断の受付や補助の依頼もありました。最後は、州立病院の入院患者向けの献立作りまで手伝って欲しいと言われたけど、そこは「栄養士ではない私にはちょっとできません」と断りました。


 そして任期の終わりに、このプロジェクトの今後の計画への提案として、これまで10年間、野菜を育てる、普及する、をやって来たから、野菜隊員は私で終わりにする、これからは第2段階として、栄養士さんに来ていただいて、もっと専門的な栄養指導や病人食の管理について進めるようにしたらどうでしょうって言いました。


 こうして、今後は経験豊かなシニアボランティアさんを入れること、それと私のパートナーのユミコを、日本で研修させることを決めてもらったんです。偶然にも、私の後任の栄養士の方は郷里の新潟の人に決まりました。また、ユミコの日本での研修先のひとつが新潟にある大学になって、彼女と地元で再会できた時には、本当に嬉しかったですね。


 全訓練期間で増えた体重は、ミクロネシア赴任後、ぽーんと13キロ減りました。一年ぶりの一人暮らし、やっと自分の世界が…って幸せで。どうしても落ちなかった残りの3キロも、帰国後にスッと戻りました。


プロジェクトを終えて


ミクロネシアに着いた時から予想外の連続で、仕事をスムーズに進めようといろいろ要望してみても、結局、機関の支援はなくて自分でやるしかない、という状態でした。ですから、任期が終わって帰国するときには、正直なところ「もういい!こういう仕事には二度と関わりたくない」とまで思っていました。もう『国際』は満足したし、『外国で暮らしたい』という希望も十分かなった。結局、自分には向いてないと分かった、と結論付けて帰国しました。


 それに富山で9年暮らし、研修に1年、ミクロネシアで2年過ごしたわけで、帰国時には私も三十歳を超えていました。もう地元に落ち着いてみよう、Uターン就職じゃないけど仕事に就いて、自分で決める道を行こうという気持ちでした。


 地元にも協力隊のOB会があるので、いろんなイベントのお手伝いをしたりして過ごす中、仕事も、春から銀行に勤めることが決まりました。ちょうどインターネットバンキングが、地方でも普及し始めた頃で、私の経験を活かした業務への取り組みを期待してくださったようです。仕事上必要な資格試験も社命で急ぎ受験させられ、各種用語をはじめ、覚えることもいっぱいあり、新しい世界の充実した日々が始まろうとしていました。


ふたたびJICAと


そこへ突然新潟県内の関係者から連絡があったのです。JICAから、それまで全国で6名しかいなかった国際協力推進員を、希望すれば各県に配置するという要望調査が出されたので、新潟でも急ぎ適任者を探している、ついては応募を考えてもらえないか、との話が私に舞い込んできたんです。


安定した仕事に就いたばかりだった私は、何度もお断りしましたが、さんざん悩んだ末、最終的には多くの候補者と共に試験を受けました。2001年の夏のことです。


新潟県の当時の協力隊OB会会長の熱心な口説きが一番の理由ですが、富山県でお世話になった推進員の思い出も大きかったです。当時の私のように「国際協力は特別な人がする特別なこと、自分とは縁遠いもの」と思っている人がいるのであれば、「同じ地球に住むひとりの人間として、身近なところからできることはたくさんある」ということを伝えたい。そして、何かしたいと思っている人が一歩踏み出すための手助けになれたら、地域の発展に繋がるとも考えたんです


結果は、合格。初代のJICA新潟県国際協力推進員としての、多忙な日々が始まりました。当時は、地域におけるJICA窓口として、公的機関や組織、NGOやNPO、学校や民間企業などとの連携業務に幅広く取り組み、市民連携のよろず屋さんといった感じでした。所属はJICAですが、(公財)新潟県国際交流協会に席をおかせてもらって週3日通い、あとの週2日は県の国際交流課で勤務していました。


面積の広い新潟県ですから、離島もあるし、泊りの出張も多かったけど、それまで知らなかった新潟のことを知るいい機会だったと思います。何よりミクロネシアでの経験がとても役に立ちました。同じようなことをするにしても今度は日本語が主ですから、言葉の壁がない分、仕事ははかどりますし。


ここでも活動計画案や予算案積み上げなどが必須で、年間事業計画を作る時期には、やはり平均3時間睡眠とか3日徹夜とか、超多忙な日々になってしまいました。でも、多くの人に出会い、支えられ、内容の濃い仕事ができたと思っています。


夫との出会い・結婚


仕事を通しての出会い.jpg会議や連絡手続きなどのため、所管の東京国際センター(現JICA東京)へ行ったことが、夫との出会いのきっかけともなりました。


国際協力推進員として結婚後も勤務し、夫の赴任にあわせラオスに移り、滞在3年の間に娘を授かりました。ラオスから帰国後3年ほど日本で過ごし、次にバングラデシュに赴任という運命が待っていました。「国際業務にはもう二度と関わりたくない」とまで思っていた私なのに、人生ってわからないものですね。


ブドウ畑にて.jpg2年ほど前、祖母が百歳をすぎて亡くなりました。なすべきことを全部すませ、美味しいご飯も楽しんで、身ぎれいな格好で、本当に安らかに逝ったそうです。私はバングラデシュ住まいなので、最後のお別れには行けませんでしたが、幼い頃から祖母宅の広い田圃やブドウ畑を季節毎に訪ねては、手入れや収穫等を手伝い、大好きなおばあちゃんに野菜の話を教えてもらうのが楽しみでした。


私が「理数科教師」ではなく、「野菜隊員」を選んだのは、おばあちゃんの影響も大きかったのかもしれないと、思い出を噛みしめながら、改めて感じています。



あとがき


 裕子さんは、とにかく真面目な人というのが、初対面の印象です。バラバラと降ってくる、さまざまなトラブルに正面から取り組み、なんだか損な立場じゃない?と思うような状況でも、グチにならず「科学的な」ともいえる姿勢で分析、判断、処理を行う・・・まさに理系のお姉さんです。


 いま青年海外協力隊はみんなに知られ、その働きの成果もよく理解されていると思いますが、そういう活動が一体どのように準備され実施され、多くの隊員の方々のすばらしい活躍に結び付くのかを、裕子さんの体験をつぶさに教えていただくことで、この物語を読む方にご紹介することができたら幸いです。


 裕子さんは、すでに10年以上前に終わった経験を忘れず、いまの隊員への理解を深め、心こめて応援を送ることを忘れていません。 帰国後は是非、赴任地での活動や生活を通じて得たこと、感じたことなどを1人でも多くの方に伝えて頂きたいと思っています」という隊員へのメッセージに、国際協力の意義と、成果についての真剣な想いが込められているのです。         

                  

ききがきすと 清水正子

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2016年04月08日

義母(はは)の想いをつなぐ 〜昭和のあの日の我が家のこと〜

語り人 堀 緑(ほり みどり)さん



嫁に来てくれんか


堀武士さん、緑さん夫婦.jpg生まれは、高知県北川村の大谷です。昭和17310日生まれですから、もう73歳になります。二人の姉が、堀の家がある二又に嫁いでいましたから、お義母さんとは、嫁に来るずーっと前から顔見知りでした。私がまだ中学生の時分から顔を合わすと、お義母さんは「おまん、あてく(私の家)の嫁にきてくれんか」って、しょっちゅう言ってましたね。


(隣に座る夫の武士さんを見ながら)この人とは5つ違いで、年の頃もちょうどよかったんでしょうね。それに堀には身内が同じ集落に全くなかったもんで、私と結婚すれば、この人に義理の仲でも兄ができて心強いと、お義母さんは考えたようです。会うたびに「来てくれ、来てくれ」って言いました。


この人の弟は、私と同じ中学校で一学年下でした。お義母さんが私にずっと言うてたことが、弟の耳にも入っちょったんやろうね。なんか、私を見ると恥ずかしそうにするの。今は大阪にいますが、柚子の時期には手伝いに帰って来て、お父さんより私に話を余計にしてくれます。私と一緒に学校へ行っちょったからでしょうね。


大谷は、二又よりまだ奥に入った部落なんです。下に妹たちもいたし、今みたいに交通の便もよくなくて、中学校を卒業しても、高校へはようやってもらえませんでした。その代わりに、毛糸を習わしちゃるという約束で、しばらくは奈半利(なはり、北川村の隣町)に下宿して編み物を習ってました。


けんど、お義母さんからは、「もう早う来てくれ、来てくれ」と、会うたびに言われてました。まあ、その当時、私には他からも話があったわけですよ。若かったけど、百姓の子やから、百姓ができると思われたんでしょうね。私は何にもわかりませんでしたが、姉たちからは、「武士さんは大人しいし、あんた、嫁に来たらどう。いいご縁と思うよ」って薦められました。


ほんでもう、とうとう、この人のところへ嫁いできました。昭和35年の24日、節分の日でした。この人は23歳、私はまだ18歳ですよ。本当に若かったと思います。


武士さん緑さんの晴れの日.jpgこの人は、2つ上の姉、2つ下の妹、5つ下の弟との4人兄弟姉妹なんです。私が嫁いだ頃は、子供たちも手を離れ、暮しがやっと落ち着いてきたところやったように思います。姉さんは中学校を卒業してから平鍋の郵便局で勤めていて、もう余所に嫁いでましたし、この人は、営林署の二又の事業所に務めに出ていました。


お義父さんを戦争で早うに亡くしてましたから、男手のない農家の切り盛りで、お義母さんはずーっと大変やったようです。人を雇わんといかんかったのが、私が嫁に来て、私の姉たちの旦那さんらぁが、ぎっちり田んぼもしてくれるようになりました。「嫁に来てくれんか」って、お義母さんが私にずっと言い続けた裏には、私をもろうて、その人らぁと親戚付き合いしたいという思惑もあったんやなぁと、そう思ったことでしたよ。(笑)


お義母さんは農業のほかに、四国電力の検針と集金の仕事もずっとしていました。あの頃はまだ、この辺りもバスがしょっちゅう通いよったけんど、三輪みたいな自転車に乗って回ってましたね。それから、バイクの免許を取ったりもしましたよ。もう70近くなってからだったと思いますが、まぁ本当に、元気な人でした。


昔語りの中の『お義父さん』


当時は、お義母さんの姑になるおばあさんが、まだ元気でね。芳さんというんですが、ちょうど数えの90歳になっていました。私たちの祝言の日には大きなお客(酒宴、宴会)をして、また明くる日も「うらづけ」や言うて、お客したんです。その時に、おばあさんの卒寿の祝いも一緒にしたがですよ。きれいな赤いちゃんちゃんこを着せて。そんな写真もありますけどね。


お義父さんの話を、私はそのおばあさんやお義母さんから聴かされました。おじいさんとおばあさんには、なかなか子どもが授からんで、信仰心の厚い二人やったから、お四国を3回も歩いたそうです。「なんとかして跡取りをと願掛けて、一生懸命に回った」って言うてました。


おじいさんは、家のすぐ近くにある若宮八幡宮の神官さんでもあったようで、ある時、神様が「お宮を今より高いところへ上げて建ててくれたら、世継ぎをこさえちゃる(つくってやる)」言うて、教えてくれたんですと。それからは、おじいさんは仕事もそこそこに、一人で石段の一つから道をこさえ、小さくてもりっぱなお宮を建てたんです。お宮の屋根を葺く折には、他の神官さんたちも手伝いに来てくれたそうです。今も家の北に、このお宮がありますよ。このごろは、私が毎月の掃除とお参りをしています。


神社を守る狛犬さん.jpgお宮の2匹の狛犬さんは、芳ばあさんが弘瀬から背負って運んできたそうです。重うて重うて、ほんと大変やった、って話してました。一緒にお参りしたときに、「わしは、こんなにまとう(弱く)なってしもうた。狛犬さん、どうか元のわしにもどしておくれ」なんて、笑いもって言うてたのを思い出しますよ。


信心のかいがあって、父親が44歳、母親が39歳のときに、ようようできた跡取り息子が、お義父さんやったわけで、「これで跡を継いでもらえると思うて、心から嬉しかったわ」って、これもおばあさんがよう言うてました。


お義父さんは、小さいときからすごく器用だったようです。7つのときに藁で編んだ小さなふご(竹や藁で編んだ籠のこと)を、これは一光が編んだがや言うて、吊っちょったがを私も見たことがあります。直径20p、長さが30pくらいの小さいものでしたが、大事に吊ってましたよ。それを見ると芳ばあさんが、こんまい(小さい)手でほんに器用に編んだって、目を細めて話してくれました。


学校を出ると、お義父さんは大工の弟子に入ったそうです。そこの棟梁がちょうどお義母さんの叔父さんになる人で、よい人やと薦められて結婚したと聞いています。一軒の家を建てる一人前の大工になっていたようで、二又にはお義父さんが建てた家が、今も残っていますよ。外からならいつでも見れます。


叔父さんは戦後もずっと棟梁してましたから、お義母さんは長男のこの人のことも大工にやりたかったですと。けど、その叔父さんが気がはしかかった(気が短かった)き、この人にはむごそうで、ようやらんかったって、そう話してました。大工の弟子って修業が厳しいでしょう、特に昔はねぇ。


武士さん(両親、姉と).jpgお義父さんとお義母さんは、昭和8年頃に結婚して、4人の子どもに恵まれました。神様のお告げのとおり、お義父さんは世継ぎの役目はちゃんと果たしたわけですよね。



       武士さん(両親、姉と) →



お義母さんが言うには、上が女やったから、お義父さんは特別にこの人のことがかわいかったようです。小さいときに洋服を着せたくて、でも、あの当時この辺りでは手に入らんで、わざわざ取り寄せたそうです。それを、この人は絶対着んかったらしい。この人に訊くと、子どもの頃は、洋服より着物が好きやった、って。それは覚えちゅうって言うんです。それで、お義父さんが怒ったっていう話をお義母さんがしてました。


生きて帰らん、後を頼む


お義父さんは一人息子やったからか、兵役はずっと免れてきたようで、昭和19年、34歳で初めて応召されたということです。海軍でした。年老いた両親と4人の子どもを残して戦争へ行くとき、なんぼか心配でしたろうね。


池田稔さんという、お義父さんの従兄弟、芳おばあさんの甥になる叔父さんがいます。その人は、戦死せず帰ってきました。その叔父さんが、私の婚礼のときに来て、お義父さんの出征時の話をしてくれたことがあります。「一光が、もうほんとうわずか、煙草を吸う間にね、もう俺は生きて帰らんから、無事に帰れたらうちのことも頼むと言うた」って。


「それを思い出したら、本当、二又へ足向けようせんかった。自分は生きて帰ってきて、一光に申し訳ないという気持ちでいっぱいになった」って。本当に煙草を吸う何分かの間に、そう言うたって話でした。その叔父さんは老衰で亡くなるぐらい、長生きしましたけどね。


お義父さんから来た手紙は、お義母さんが箱へ入れて大事に置いてありました。出征したその年の6月にお義父さんの父親が亡くなっています。『親父のお葬式も大変やったろう。部落の人にはみんなぁお世話になったろう』という文面の葉書を、私も見たことがあります。


葬式には間に合わず、その後で一度だけ帰省したそうで、この人には父親の記憶はほとんどないんですけど、そのことはよう覚えちゅう、と言っています。


おじいさんの徳太郎さんの命日は、6月の20日です。78歳で、老衰だったのか、寝付いていたようです。お義母さんが、折に触れ、「一光がおったら、下山へ行って、ヤマモモを買うて来てくれるに、思うたことよ。ご飯を食べず、好きなヤマモモを食べたいとよう言いよった」って話していました。


ヤマモモの時期になると、お義母さんがヤマモモを買って来てお祀りしていたのを覚えていますよ。だから、私もヤマモモを見つけたら、必ず買って帰ります。自分たちは食べんけど、お祀りするんです。


お義父さんは、昭和194月に出征して、12月に戦死。また、その父親も、同じ年に亡くなったわけですから、おばあさんとお義母さんの戦中・戦後は、並みの苦労じゃなかったと思いますねぇ。


お義父さんは靖国神社の桜の下


お義父さんは、航空母艦雲龍に乗っていて海で亡くなったので、詳しいことは、ほとんどわかっていません。お義母さんが大切に持っていた「結成11周年記念誌 悲運の航空母艦雲龍」という青い表紙の本が残されており、それによると、雲龍は、昭和191217日にレイテへ向かい呉港を出発し、二日後の19日、東シナ海を航行中、まず艦橋下に敵潜水艦レッドフィッシュの雷撃を受け、さらに10分後の魚雷が右舷前部に命中して、午後4時半頃から数十分の間に艦尾を上にして沈没したということです。生存者が本当に少なかったようで、それ以上のことは、ほとんど伝わっていません。


堀 一光さん.jpg

←  一光さん


お義父さんの戦死の知らせをもらって、遺骨を引き取りに行ったけど、木の札一枚が入っちょっただけやったようです。海軍で、船で沈んでしもうたんやき仕方ないことやけど、それは辛かった言うて、芳ばあさんがよう話してました。戦死の報をもらったとき、お義母さんはまだ28歳。『この若い嫁が一人で頑張って4人もの子どもを太らしてくれるろうか』という心配も大きくて、本当に辛くて悲しい思いをしたようです。



お義母さんは、亡くなった人のことは、あんまり話しませんでした。ただ、この人に、「一光は大工で、謡までうたう男やったに、まことおまえは似ちょらんのう」って、言うてました。この人は、謡どころか歌も歌わんし、おしゃべりも嫌いやき、そんなことを言うのを聞いたことはあります。それ以外には、お義父さんのことはほとんど言わんかったね。前向きに生きる人やったし、哀しいことらぁ、あんまり振り返る人じゃなかったね。


けんど、いつのことやったか、お義母さんが私の長男に「お骨と言うても何も入ってない箱をもらって、連絡(当時は森林鉄道に客車を付けて人も乗せており、こう呼んでいた)に乗って帰るに、いつもの北川の景色が、本当にもう全然違うように見えた」と話して聞かせたことがありました。


そのとき、私の長男が何か言うておちょくりよったら、真顔になって、「あんたに、おばあちゃんのあのときの気持ちがわかってたまるか」言うて、まぁ珍しゅう、けんかしましたがね。長男は笑うしかのうて、「ほら、わからんねぇ、そんな言われても」って。「おばあちゃん本人にしか、わからんわね」って言い返してましたねぇ。


そんなお義母さんが、前述の記念誌にお義父さんを偲ぶ一文を寄せています。お義父さんが呉に会いに来るように便りを寄こしたのに、行かなかったことをずっと悔やんでいることや、お義父さんが休暇を取って最後の帰省をしたときに「靖国神社の桜の下へ行く」と言ったことなどが書かれています。


お義母さんが、呉によう行かんかったということをずっと残念に思ってきたことなど、私は聞いたことがありませんでした。記念誌を読んで、最後なら何としてでも会いたかったやろう、無念やったろうと思ったことです。


靖国神社へは、私が嫁に来てからでも、お義母さんは2回、この人が1回行ってます。遺族会の大寺萬世子さんが、いつも私にも声かけてくれるけど、ちょうどお盆の時期やから、なかなかよう行きません。東京の妹のところの結婚式に出かけたときに、個人的にお参りしたことがあるだけです。雲龍会の高知での会には、お義母さんが姉さんと二人で出席したことがあって、会場は三翠園だったと聞いたように思いますよ。


女二人での子育て


お義父さんが亡くなったとき、9歳を頭に4人の子どもがいたんです。女二人でなんぼか苦労したことかと思います。この人はまだ6歳。小学校1年生だったと聞いています。一番下は、まだ2歳やったから、お乳飲んでた言うてました。この弟は暴れもんで、ほんで、田んぼ植えよっても飛び込んできて、いかん言うても、聞かんとお乳を飲んだ言うてね、お義母さんが話していたのを思い出します。


また、姑の芳ばあさんは喘息を患っていて、お義母さんが背負うて一緒に連絡に乗って、病院まで連れて行ったって、本当に大変やったって話してました。いろんな苦労があったみたいです。ほんで、小さい子ども4人を真ん中に寝させて、芳ばあさんとお義母さんと二人が脇に寝て、そうやってしたって。


 芳ばあさんが女房役を家でして、昔は機械なんかないから、籾をとったら筵へ干して、夕方はそれを取り込んで。家での細々した仕事は、おばあさんが全部してたみたいです。お義母さんは、男みたいに外へ出て仕事せんといかんかったから、家の近くの田んぼとかは電気を暗がりに引っ張っていって、夜もすがら植えたって話していましたよ。そうやって仕事したって。営林署へ、軌道の修繕に行ったりもしていたようです。


この人の兄弟に、「お母さんのことで何が記憶に残っちゅう」って尋ねると、4人が4人とも「叱られたことよねぇ」って答えるんです。お義母さんは、ちょっと気がはしかい(気が短い)、パッパパッパ言う人やったき、子どもはみんな怒られもって育ったみたいです。この人の妹も「私はお母ちゃんに怒られた記憶しかない」って言うてます。


一方で、芳ばあさんという人は、几帳面な、本当に穏やかないい人でした。本当に神さんみたいな人やったがですよ。この人の性格が、だいたい似てますけどね。おばあさんが、4人の子どもの避難場所になったんじゃないかと思いますよ。


この人の弟の面白い話があります。弟は本当にコトコトコトコト悪りこと(いたずら、悪さ)しましたと。この人はせんかったけど。人んく(よその家)の芋を掘ったり、桃を取ったりね。そんな悪りことしたわけ、昔はね。ほんで、「おまえみたいなもんは出て行け」言うてそりゃ怒られて、風呂敷包みを首へ括り付けられて、追い出されたと。


そしたら、そのまま出て行ってしもうたんやって。どこへ行ったか、夕方になっても帰らん。どうしゆうろう思いよったら、日が暮れたき寂しゅうなったもんで、台所の戸をほんの少し開けて、顔を出して、ニタッと笑うたらしい。この弟は、ニコニコ笑顔のえい人ながよ、本当に。かわいらしい顔しちゅうもんやき、その顔を見て、みんなぁが、噴き出したんやて。この話は、何べんとなく聞かされました。


 芳ばあさんは、「4人の子どもが誰もぐれもせずに、素直によう育ってくれた」ってよく言っていました。お義母さんに、もうガンガン怒られるから、「おまんらぁ、そんなに怒られたら腹も立つろう」言うて訊いたら、この人が、「もう安もんのラジオが、ガンガン言ゆうと思うちゅう」って応えたって。おばあさんが笑いもって話してくれました。この人がちょっと大きくなってからのことのようです。


お義母さんに育ててもらった


お義母さんには、自分の娘が二人いるんですけど、私は実の娘たち以上に大事にしてもらいました。ほぼ50年、ずーっと一緒に暮らして、私はお義母さんに育ててもらったんです。自分の母より、ね。パッパパッパとものを言う人で、性格は私の母とは正反対。だから辛いと思うこともありましたけど。


口うるそうに言う人ではあったですよ。でも、私も、こんな性格ですから、いつまでもめそめそはせん。嫁いできた当時は、お義母さんの言うとおりやったけど、じっと辛抱する時期を過ぎたら、偉うなって、「お義母さん、ああやんか、こうやんか」って、涙落としもってでも言うてました。でも、言い終わったらもうすっぱり切り替えて、一緒にご飯食べて「あれ食べ、これ食べ」言うてやってきたんです。


お互いに、そんなあっさりした性格で、似ていましたね。中学生の頃から私の事を見ていて、この子とやったら、やっていけると思ってくれたのかもしれません。この話を聞いた息子の嫁が「いつの間にか、お義母さん、反対になってましたね」言うて笑いましたよ。


けど、私が涙落としもって太らした(育てた)ことを、息子たちはよう覚えているみたいです。おばあさんが、ガーガー、ガーガー言うたに、お母さんがよう辛抱して、ぼくらぁを太らしてくれたという気持ちは、今でも持っちゃせんろうか。お母さんのことは絶対、大事にせないかんと思うたいうふうに、成人してから言うてくれました。それだけで、ねぇ、幸せです。


家のことだけじゃなく、四国電力の検針の仕事も、私はお義母さんの跡を継いで、定年までさせてもらいました。私が入った頃にはもう止まってたけど、お義母さんたちの頃は、電力がみんなを春と秋には必ず一日旅行に連れて行ってくれたがですよ。昔はね、奈半利に増田屋いう呉服屋があって、お義母さんはそこで着物を作って帯を合せて。帯付けでしゃんと着物を着て、それへ行ってました。


声がよかったですき、坂恵さんがきれいに着いて(着つけて)歌を歌うてするがを、電力のおえらい方もみんなぁ楽しみやった言うて、先輩たちから私も聞かされました。お義母さんは、ほんまに声がよかったわ。それに社交家で、おしゃれでした。仕付けを取らん着物が、まだいっぱい残ってて、妹が縫うもんで、大島とかを私のチョッキにしてもろうたりしてますよ。


お義母さんの思いを継ぐ


 私たち夫婦には、男の子が二人います。長男は光(あきら)、次男は力(ちから)といいます。全部、お義母さんが付けました。


長男のことを、お義母さんは、もう可愛くって、可愛くって。世界中の何ものにも代えがたいというように、大事にして太らしてくれました。跡取り息子のお父さんの代わりやったんでしょうね。お蔭で我儘に太ったけどね。


今はもう笑い話やけど、お義母さんは、2階の自分の部屋へ光を連れて行って、自分のお乳まで飲ましてました。私のお乳は止めても、光が乳が恋しい言うたら、自分の乳出して飲ますんです。そしたら、本当に乳が出てましたよ。ほんでね、お客(酒宴、宴会)の席でもどこでも、「こんな人のおるく(居るところ)で飲んだら人に笑われるぜ」言うても、もう聞かんと飲んだ。4歳、いやぁ5歳くらいまで飲んだろうかねぇ。


本当に可愛ゆうて、下の子とは全然違う可愛がり方をしましたよ。どこへ行っても、連れて行ったものね。旅行に行った折の、どの写真見ても、光が一緒に写っちゅう。「あたいはね、死ぬるときは、光に抱いてもろうて死ぬる」そんなこと言うてました。もう、その子もおんちゃんになったけどね。


長男は、就職してからもずーっと、敬老の日には欠かさずにおばあさんに何か送ってきましたよ。「おばあ、いつまで生きちゅうがなや」言うて、冗談言いもってでもね。おばあさんのことは、心底大事にしたと思うよ。


あれは徳太郎さんとお義父さんの、・・何年の年忌のときやったかな。確か、50年やったと思います。徳太郎さんが神官さんみたいなことをしてましたので、死んだら神にしてくれ言うたそうで、あの当時は神宗に替えてました。二人は同じ年に逝きましたから、年忌も一緒にやってたんです。


その祀りのとき、私は台所でバタバタ忙しゅうしてたんですけど、お義母さんが、みんなの前で言うたがですと。「財産はこの子に、武士に譲ってくれいうのが、夫の一光の言い置きやった。頑張って子どもたちを育てて、やっと家も田畑も何もかも武士に譲りました」って、ね。


苦労したけど、こうして武士にちゃんと譲って、孫もしっかり育っているから、何の心配もない。今日はみんな揃って、50年の年忌をしてますき、言うてね。なんかまだ、いろいろ言うたらしくて、みんな泣きもって聴いた言うてました。「おばあは、すごい」言うて、誉めてました。


私はよう聴かんかったけど、神官さんも「今日のおばあさんの話に、わしはもう泣いた」言うたがですよ。「どんな話しした?」いうて訊いたら、この人の従兄弟らぁも「おばあは、なかなかいい話をした。あれやなぁ、本当にえらかったと、今日はつくづく思うた」と、そんなふうに言うてましたね。


お義母さんって人は、早うに亡くなった夫に代わって家を守って頑張って頑張ってやってきた人で、男勝りな性格。お金についても、必要なときにパッパと出してくれました。子どもが結納金するときに、ポンポンと出してくれたり、家の屋根の瓦を替えないかんいうときにも、それも何百万もいるとき、ポンと出してくれたりしました。


大胆にパッパパッパ出してくれたけど、「あてが死んでもお金は残っちゃぁせんき。残っちゅうとは思いなよ」って。「いや、思わん、思わん。今の大変なときに出してくれて、ありがたいき」言うたことでした。


あれはいつのことやったか、「もうこれはすべて、あんたにあげる」と、貯金や恩給の関係のものを、それこそ全部出して、私に渡してくれました。88歳にはなっちょったろうか。まだまだ確かな時分やったのに、何もかも預けて任す。そんな人でした。


それからは、私が全部預かって、隣近所のこともこの人の兄弟や親類のことも、お義母さんに代わって必要なときに必要なだけ出しています。恩給とかも全部私が引いて、お義母さんに「小遣いに、これ入れちゅうよ」言うて渡すと、「普通貯金のこれだけあったら、私はいいから」って、全部私に任せてやらせてくれる、・・そんな人でした。


だから今度は、私の番やと思うています。息子や孫が結婚して独り立ちするというときには、「お母ちゃん、いいわ、こんなに」言われても、「いや、私はおばあちゃんにしてもろうちゅうき、その分、今度は私が返さんと、おばあちゃんに叱られる」言うてね、ちゃんとしてやるんです。


息子らは「そう?それで、いいが?おれら事足りるで」言うんですけどね。「事足りても、それは順番」言うてね。この四月にも、孫の正の婚礼があって、やはり同じようにしたことでした。息子からは「ありがとう。これから気持ちで返していくからね」って。それだけで気持ちは十分通じて、何か嬉しいですね。


息子らぁが結婚する、家を買ういうても、この人は、うちにお金があるやら無いやら、全くノータッチ。私がせざるをえんがです。まあ、お義母さんの考え、思いは、ようわかってますから、同じようにやっているんです、私も、ね。


「美味しい!!」がつなぐ心と心


お義母さんを見習ってやってきましたが、一つの家の中ですから、互いに補い合ってやってきたこともありますよ。お義母さんは、外で仕事せんといかん人やったから、料理は苦手だったんです。だから、結婚した明くる日から、私が炊事は全部しました。私が嫁いでから、お義母さんが料理することはなかったですねぇ。


今でも、この人の妹が言うがですよ。「お母ちゃんは、料理に手をかけんかった。お母ちゃんに何の美味しい料理も作ってもらった記憶はない。けんど姉さんが来てから、いろんなもの作ってくれて食べさせてくれて、美味しかったことはよう忘れん。一生忘れん」って。義妹はクリーニング屋しよったもんで、こっちにもお客さんが多くて、毎週来てました。だから、よく一緒に食事したんですよ。昔からお義母さんは、料理するのは不得手で、嫌いやったみたいです。


私は、貧乏して育ちました。田んぼをいっぱいつくるに人を雇わないかんでしょう。事業所の奥さん連中を雇うたら、母親が学校から帰った私に、「緑、こうこうしておかず作って、食べらしよ」言うたまま、帰って来んがです。ほんで、私が、そのおばさんたちに料理作って食べさせてきました。年が離れちょった姉二人も、妹らぁも、そんなことは全然してないんです。私だけが、そんなふうに小学生のときから使われてやってきましたよ。


お義母さんも、私の料理はそりゃ喜んでくれたねぇ。山のことなら(なので)近所に店はなくて、魚など時折回ってくるお魚屋さんから買って、冷凍庫へ入れてありました。その魚をうまく料る(料理する)と、お義母さんが「ご馳走じゃね。今日は、魚屋が来たかよ」とか言いもって下りてくる。私が「冷凍の魚を料理したがよ」と応えると、「こりゃ、ご馳走じゃねぇ」言うて喜んで。食べたら必ず、「ご馳走、ご馳走、うまかった」って言う人やった。 それは感心なくらでした。


お義母さんが亡くなってからは、最近、この人が「ご馳走、ご馳走、うまかった」言うわね。似てきた、似てきた思うて、おかしい。何にも言わざったにね。最近、そんなに言い出しました。


料理は好きなんです。でも、この人からは、「料理の作り過ぎよ。よう食べてしまわん。結局、余ったら捨ててしまう。食べてしまうまで作るな」って言われます。けんど、嫌よね、何度も同じものばかり食べるのは。作って並べたら、お父さんが、「これもうまい、あれもうまい。けんど、もうたった(飽きた)」言うて笑うわね。


息子らも言います。私は料理する仕事をしたこともあるので、作って食べさすでしょう。そしたら、「お父ちゃん、あんた幸せやね。こんなうまいもん、いっつも食べて」って。


最期まで心通わせて


花見をするお義母さん.jpgお義母さんの最期の3年余りは、『ヘルシーケアなはり』でお世話になりました。私は絶対外へやらんと家で看たいと思いよったんですけど、私が病気になったのを心配した村の社協の方が、「緑さん、もう、ちょっと無理じゃなーい」って声をかけてくれて、それで、あずかってもらうことになったんです。


それでも毎日行って、車いすに乗せて、裏の桜のところとかへ連れ出して。下へ降りるとヘルシーの事務所の人とかが、「坂恵さん、あんた、今日は普段と顔が全然違うで。そんなに嬉しい?お母さんが来てくれたら」とか言うて、てがう(からかう)がですよ。「そりゃ、嬉しいわ、お母さんが来てくれたら。誰が来てくれるより、嬉しいわ」言うてね。喜んで、毎日待ちよったね。それはね、娘らが来てくれるより誰より嬉しい言うて、喜んでくれました。


最期の1年くらいは好きなもん食べさせたくて、私が頼むと栄養士さんらぁも何にも言わんで、私が持って行くものを食べらしてくれてねぇ。一緒に腰かけて、お義母さんの分は私が食べて、ほんで作っていったのをお義母さんに食べらして。今度は何が食べたい、って訊くと、海老とか蟹とか、・・・あんなものがうんと好きでした。栄養士さんが上がって来て、「坂恵さん、あんた、今日も正月料理食べゆうかね」って言うと、嬉しそうに笑ってましたよ。


お義母さんは、心太(ところてん)が大好きでした。私は趣味で大正琴やってるんですけど、友達と大正琴の教室へ行くときに、お義母さんとこへ心太を持って寄ったりしました。「ちょっと待ちよってよ、私、おばあちゃんに心太食べさせて来るき」言うて、上がって。


それを見た友達が、今だに言うんです。私はあんなことようせん、って。汁がいっぱい入っているでしょう。その汁を私が吸いもって、おばあさんに食べさせた、言うてね。「あんなこと気持ち悪うて、私は、ようせん」って、ね。私は、それが何ともない。そうやって何度も、おばあさんに食べさせましたよ。


お義母さんの最期のときに、ヘルシーの吉本先生もね、「実の親子でも、ここまでの仲はないよ」と言うてくれました。「なんぼ大事に看よっても、ちょこっと帰った間に亡くなったりすることもあるのに、坂恵さん、あなたは最期まで大好きな嫁さんに手を握ってもらって、本当に幸せやねぇ」っておっしゃった先生の言葉に、お義母さんの目からツーっと涙が流れたがですよ。そんなことってあるろうかと思ったけど。


ヘルシーでお世話してくれる人たちも、「緑さん、坂恵さんとは本当に通じ合うちゅうがやね」って、よく言ってくれたんです。心が通じるって、大切にしていきたいですよね。特に、お年寄りには、ね。私は民生委員でいろいろ回って行きますが、上辺で上手に言わなくても、心が通じてる、・・そんな関係でいられたら、何とかなるもんです。そう思っていますよ。


お義父さんに連れられて・・


和やかな笑顔のお義母さん.jpgお葬式の挨拶するのも、この人は口が重うてしゃべらんので、長男がしたがですよ。光がね。お葬式の挨拶の中で、私に、「三日にあげず通うて世話してくれた。この場を借りてお礼を言うてくれ、いうことやき、一言お礼を言う」ってね、言うてくれました。涙がひっとりこぼれてね、なんかね。


お義母さんの最後の誕生日にと、皆が病院に集まったときのことやったかなぁ。この人の弟がね、「おばあさん、あんたの一生は、若い頃は苦労したかもしれんけど、姉さんが来てからのおまんは、極楽やったね」そう言うてくれました。この人の姉さんも「緑さん、あんたには足向けして寝られん」って言ってくれましたね。だから、光に言うちゃぁったんでしょうね、この人の姉さんとか妹や弟とかが。


お義母さんは、平成21年の1220日、94歳で亡くなりました。お義父さんの命日が、一日違いの12月の19日だったでしょう。それで、私が長男に「いやー、もう一日で、おじいさんと同じ命日やったね。」と言ったんです。すると、「おかあちゃん、それは、船が沈んだがは19日でも、息を引き取ったがは20日かもしれん」って応えたがですよ。


あぁ、そうかもしれんね、と私も思ったんです。雲龍が沈んだのは19日の夕方と記念誌にも書いていました・でも、あの子が言うように、お義父さんが息を引き取ったのは20日やった・・・、そんなこともあるかなぁ、って。そう、それで、お義母さんを連れに来たかな、って思いましたね。


お義母さんは、私に、することも本当にしてくれたし、また、ああやって最期まで私を頼りにしてくれました。そのことが、私には、本当にありがたかったと思います。長い年月、一緒に暮らせたことに、今は心から感謝しています。


お義母さんが残してくれたもの


この人は、本当に芯から優しいきね。お義母さんが大変なときに、風呂から出して汗に浮いて(汗をかきながら)世話しよったら、扇風機をくるっとこちらへ向けて回してくれる。それだけでも嬉しい。あぁ、ようわかっちゅうわ、思うてね。まぁ、トイレの世話は、とっと逃げて行って手伝うてはくれんかったけどね。自分の親やに言うて、私が怒るときもありましたよ。でも、私に、「今があるのは、お母さんのお蔭。頭上がらんね。ありがとう」なんて、言ってくれるんです。優しい人なんです。


また、この人の弟は、高校を卒業すると関西へ出て就職し、今は大阪にいます。もう退職しましたが、柚子の忙しい時期には、遠いのに手伝いに来てくれるがですよ。この80歳近い人を「兄ちゃん、兄ちゃん」って呼んでね、二人がすっごく仲がいい。羨ましくなるくらい。この人も、我が息子に言うより言いやすいかねぇ。あれせぇ、これせぇ、言いつけてやってます。


先日、次男のところの孫が結婚式を大阪でしまして、それへこの弟も来てくれちょって、「もう本当、二又へ帰ったら落ち着く」言うてくれるがですよ。私は、それが嬉しい。いつまでも『帰りたい』って気持ちでいてくれることが、ね。


その帰り、空港まで次男が私らぁ二人を送って来て、「お父ちゃんとお母ちゃん、ほんなら仲良うに元気でやりよ」言うて、ポンと肩をたたいてくれました。見えんなるまで手を振ってくれゆう姿に、つくづく優しゅう育ってくれたなぁと思ったことでした。


この人の兄弟姉妹、みんな元気にしています。姉さんの旦那さんは亡くなったけど、あとは、みんな夫婦ともに元気です。大阪と高知に分かれて暮らしてるんで、みんなが揃うのは婚礼のときくらいだけど、仲は本当にいいですよ。お義母さんが残してくれた一番の財産かもしれんね。みんなぁが、こんな私を頼りにしてくれるのも、ありがたいです。

  

姉さん(平岡智恵美さん)のところは、女の子一人、うちは男の子二人で、妹(奴田原節子さん)のところが女の子、男の子一人ずつ、弟(堀郷士さん)ところも女の子、男の子一人ずついますよ。姉さんのところの孫二人も、うちの孫と同じくらいに結婚してね。私も早う曾孫つくって欲しいと思うてます。


お義母さんは、がむしゃらに働きもって、子どもをみんなしっかり育てたき、えらかったと思う。お蔭で、今、こうやって幸せにやってますもんね、みんな。このことが、一光さんの一番の供養にもなってると思います。


お墓も近いから、私は、お芳さんと徳太郎さん、一光さんと坂恵さんの命日には、毎月お参りします。お線香焚いて、月命日のお参りは欠かしません。この人も、それには感心してくれますよ。

この辺りも段々と人が減ってきたけど、上(かみ)や下(しも)から若いお嫁さんらぁが、ちょこちょこ訪ねて来てくれます。「緑さんくへ来たら、いつもホッとする」言うてね。長いこと話しよって、この人が帰って来たら、「いや、おんちゃんに、まだおるか、って言われる」言うて、慌てて帰るけどね。話を聞くだけなんやけど、みな、寄って話してくれる。この人に、風呂も溜めんと話しゆうがか、って笑われたこともあるけんど、ね。「また、堀喫茶に行きます」いう年賀状くれる人もいますよ。


こんな今の生活も、お義父さんとお義母さんが、伝えて残してくれたものなんかなぁって、大事にしていきたいと思うんですよ。



「結成11周年記念誌 悲運の航空母艦雲龍」から

主人の思い出


堀 坂恵(戦没者・堀一光の妻)


 私は大正4年に安芸郡北川村小島で生まれました。地元尋常小学校六年を卒業し、しばらくの間家の農業の手伝いをしておりました。


 父の弟で大工の棟梁をしている人がおり、その弟子に堀一光がおりました。「よい男だから結婚した方がよい」と叔父に薦められまして18歳で結婚いたしました。

 結婚後は、子供四人(男2人、女2人)に恵まれて貧しいながらも平和な生活を送っていました。

 主人に召集令状が来たのは昭和195月のことで、役場から赤紙と称する令状が来たのです。「〇月〇日までに佐世保海兵団に入団せよ」ということです。そのころ子供は上が小学二年、下が1歳半でまだ手のかかるまっ最中でした。出征祝いは親戚の人々が集まってくれて、配給の酒を持ち合って形ばかりのお祝いをいたしました。


 夫が入団して間もなくの6月に祖父が死亡したので、海軍で休暇が取れて一時帰郷しましたが、葬式には間に合いませんでした。その時の話で「今乗っている(または今度乗る)艦は航空母艦だが、改造したもので大きなものではない。偉いもまたい(「弱い」の意だが、ここでは「身分や位が低い」の意)もない、死ぬる時はみな一緒だ」ということを言っていました。海兵団入団以来、3回程たよりがありましたが、最後の手紙には「しばらくたよりはだせないが、心配せんでもよい。この前買った革靴を大事にしてくれ。親を頼む」ということで、配達されたのが19年の1223日です。すると既に戦死してから後に着いたことになるわけです。


 また、19年の12月には「今呉にいるから逢いに来てくれ」とたよりがありましたが、子やらいの最中でもあり、道中も不案内でしたので「行けない」と返事しましたが、その直後に戦死するのであれば無理してでも面会に行くべきであったのかと今でも残念に思っています。


 終戦後役場から「雲龍乗組中、沖縄北方海面の戦闘において戦死せり」と連絡があり、その後は泣くより外に仕方がありませんでした。兵隊の妻はしっかりしなくてはと覚悟は決めていましたが・・・・・


 その後、遺骨が帰ってきて安芸の公民館で白木の箱を受け取ったときは、泣けて泣けて、本当につらい思いをいたしました。


 家は五反余りの田んぼがあり、牛を飼っていたので人を雇って田植えの準備などを手伝ってもらいましたが、何様女手一つで四人の子供を育てなければならず、言うに言われぬ苦労の連続で一生を過ごしました。


 今でこそ月10万円くらいの遺族年金を頂いていますが、主人が「子供を頼む、靖国神社の花の下へ行く」と最後に話していたことを守り、靖国神社へも2回お参りをいたしました。安芸郡の山中ではありますが、親子六人が平和な生活を過ごしていたのに戦争のために引き裂かれ、悲しみの連続で終わりました。


雲龍.jpg 英霊の安らかならんことをお祈りいたします。


<参  照>

『結成十一周年記念誌 悲運の航空母艦 雲龍』

 発行日:平成十二年二月十九日

 発行者:高知県航空母艦雲龍会
  会長・明神

 編集者:高知県航空母艦雲龍会

   事務局長・松永 亀喜



あとがき


堀緑さんは、ふわりとやさしい雰囲気の方で、初対面であることを忘れて、話し込んでしまう、・・・そんな聴き書きになりました。お義母さんとの半世紀を超える生活の中で、戦死されたお義父さんのことを含め、堀の家の歴史とも言える多くの事を引き受け、昇華し、後へ繋ぐ。そんな役割を果たしてきた緑さんのお話は、そのまま昭和という時代の証言にもなっていると思います。


 昭和から平成の世となり、暮しも家族のあり方も大きく変わりました。先の大戦も、緑さんとお義母さんのような嫁と姑の関係も、遠い昔話になろうとしています。しかし、戦争のことを忘れず、人の繋がりの暖かさを思い起こすことが、今、何よりも求められている。そんな気がするのは、私だけでしょうか。


 緑さんの昔語り、たくさんの方に読んでいただきたいものです。


 (ききがきすと:鶴岡香代)

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2016年03月17日

遠い昭和の日々を辿る

語り人 坂本武一(さかもと ぶいち)さん



北川村に生まれ育つ


坂本武一さん、操さんご夫婦.jpg わしは、高知県安芸郡北川村和田の日曽裏という部落に、大正12年7月3日、父、友吾郎(ともごろう)、母、源(げん)の長男として生まれた。今年で92歳になる。おやじは農業しもって(しながら)、炭も焼きよった。炭焼きのまとめ役が奈半利におって、この辺一帯の人が炭をようやったもんよ。

おやじは、人の世話ができる人で、周りに薦められて渋々でも村会議員を2期はしたと覚えちゅう。もめごとの調整役をようしよった。田んぼで牛を使いよっても、人が相談事があって来たら、牛を居ながら(そのまま)置いちょいて行ってしまう。後で母がひどい目におうたと、愚痴りよったわよ。兄弟は、わしの上に姉が2人、下には妹が1人に弟が3人もおったき、家はにぎやかなもんじゃった。


奈半利川の懐に


北川の村を東西に二分して流れちゅうのが、奈半利川(なはりがわ)よ。和田の辺りは、左岸地域を影、右岸地域を日浦と言うて、当時は41軒の家があった。今はもう、ずんと減りよらぁ。余所へ出て行って、安芸辺りにありついた人も多い。今は、19軒かなぁ。星神社の係をしゆう人が、その数ばぁ(くらい)はあるけんね。けど、一人暮らしとか、そんな人ばっかりや。


日曽裏は、影にある集落で、学校のある小島は日浦にあったきに、ぐるりと遠回りして大きな吊り橋がかかった県道へ出にゃならんかった。けんど、すぐ向かいの瀬詰で、しょっちゅう部落の会があったもんで、吊り橋の方まで回らんでえいように、木を引いただけの太を組んだ橋を架けちょった。家からその丸木橋までは、子供の足でも5分とかからんかって、みながよう渡りよった。


その丸木橋で、わしのすぐ上の姉の民子(たみこ)に不幸があった。小学校1年にはなっちょった。冬休みのことや。昔の奈半利川は、水量もようけあったし流れもきつかった。丸木橋の下は、冬場でもシャーシャー大きな瀬音をたてて、怖いように流れよった。大人でも、「こりゃ目が舞う(回る)」言うたもんよ。


姉は向こう岸の友達の家へ行こうと橋を渡りよって、こけてしもうた。一緒におった友達が家に知らせに走り込んだが、助けたときはようけ水を飲んじょって、もう駄目やった。正月の寒い日のことやったと覚えちゅう。


それでも夏になったら、奈半利川は子どもの一番の遊び場で、学校から帰ったら、弟や友達と連れだって一日中遊んだもんよ。鮎をついたり、手長海老を取ったり。昔の奈半利川はきれいで、鮎もこんな大きいががおったぞ。それを食たら(食べてみたら)、なんとも言えんかった。今の鮎は、もういかん。


手がうんと長い海老もどっさりおって、面白いように獲れたもんよ。電発(巻末注参照)が工事をしてからは、あんまり見えんなっつろう。夜、火を付けた「いさり」いうがを持って、流れのゆるいところへ行くと、灯りを追わえて手長海老が石のところからゴゾゴゾゴゾゴゾ出てくるがじゃき。それをタマ(竹や針金の口輪のついた袋状の網)で獲るがよ。慣れんうちは、どうしてもようおさえん(捕まえれん)。前向きには行かんと、後ろへしさるき(退くから)。ほんじゃきに、ケツの方へタマを持っていかんと。そしたらタマへ入る。初めはそれを知らざったき、なんぼ前へ構えても、獲れるもんか。大きなががおったぞ、昔の奈半利川には、なぁ。


あの日も、何人かで来て、泳ぎよった。小学校へは行きよったき、1年生にはなっちょったろう。昔の奈半利川は、川幅も広いし、岩のような大きい石もあって、川の流れが、あんがい順調じゃない。一つ間違ごうたら、うんと瀬の早い方へ流される。しかも、そこは深い淵じゃ。


こもうても(小さくても)川では達者じゃと思いよったが、行きそこのうて、淵に呑まれて流された。それをちょうど一番上の姉の幸美が覗きよって、「早う助けて、助けて」いうて大きい声で叫んでくれだ。そこにたまたま、山田秋美さんという同じ和田の若い衆がおって、助けに飛び込んでくれた。もっと上級生になっちょったら、どこででも泳ぐばぁの力はできちょったろうけんど、あのときは姉の後を追うて、おおかた逝きよった(ほとんど死ぬところだった)。秋美さんは、命の恩人や。


あの頃は、この奥から材木を結構たくさん出しよった。魚梁瀬の国有林からは、太い材が出たきね。秋美さんは、伐採した木材を、海まで川を流して運ぶ作業の途中で、何人かの仲間と休みよったらしい。流す作業をする人が県外からも来よって、和田には、その人らぁが泊まる家もあった。家の建前が独特で、家族の居るくとは別に、その人らぁの居るくがあるように、1軒の家を分ける建て方になっちょった。森林軌道ができるまでは、奥の島あたりから木材を流す仕事がずーっと続いたわよ。


入営のため広島県福山へ


山田秋美さん(左)と.jpg 助けてもろうてから、秋美さんを「兄さん、兄さん」いうて呼んで、ずーっと付き合うてきた。わしの入営のときは、父が福山まで送ってくれたが、秋美さんにも高知まで送ってもろうて、一緒に撮った写真が、この写真や。 *山田秋美さん(左)と

あの頃は、成人したら男は徴兵検査を受けて、合格したら2年か3年は兵隊に行かなならんかった。わしも20歳になった昭和18年に徴兵検査を受けて、その年の12月に福山に入営した。父と秋美さんの二人に送ってもらったことは、よう覚えちゅう。


当時、北川村では、入営する若者が連れだって遺族會館のところの上の段に、村の人たちが下の段に並んで見送りしたもんじゃった。村長さんが励ましの言葉を言うた後、みなで万歳三唱して、行く人たちが「頑張ってきます」いうて応える。名を記したノボリ旗がはためいて、華々しいもんじゃったぞ。


けんど、わしが兵隊に行くときには、北川村で一人じゃったきね。そういうのはなかった。野友の手島トシオいう人と二人じゃと聞いて、一緒にと思うて探したけんど、ちょうど愛媛の方へ行っちょる(行っている)とのことで、よう会わんかった。ほんで、連れだる(伴い行く)こともないままよ。


入営してから、その人に会うたけんど、野戦に一緒に行くことはなかった。どこへ行ったかはわからん。知っちゅううちでも、二人ばぁは野戦へ行かんかったがもおっつろう(行かなかった者もいただろう)。


わしらぁの隊は、日本全国、北海道から九州までの人がおる混成部隊やった。福山の西練兵場に集まって、迎えに来ちょった若い班長さんに連れられて、そこからすぐに船に乗った。玄海灘を越えて釜山港へ向こうたが、酔うて酔うて。そりゃ、玄海灘の12月いうと、荒れるときじゃもの。便所へたけだけ通うて、治まりゃつかざった(便所へ行き通して、何ともしようがなかった)。初年兵がよけ(多い)じゃろう。20歳ばぁの若い兵隊でも、船には酔うわね。


平壌での訓練


そこから平壌までは汽車に乗った。途中で降りて休むこともあったが、おおかたは汽車に乗ったままで、3日もかかって、ようやっと着いたことよ。すぐに正月やって、鯛をもろうて食べたことを覚えちゅう。


平壌での訓練が始まったが、海軍とは大分違う。弟の恒喜が行っちょった海軍では、叩かれて叩かれて、「腰が痛い、痛い」言うちょった。下手やから、上手やからというのではない。海軍の習わしみたいなもんよ。「はい」と言おうが何を言おうが、頭からじきに棒が飛んで来たと。


けんど、わしらぁの部隊では、そんなことはなかった。志願で募集しちょったき、朝鮮の人がどっさりおったが、将校らぁは、その朝鮮の志願兵らぁをそりゃ大事に言うたわよ。朝鮮人が逃亡するろうがよ。わしらぁは、別にどうもないと思うちょったけんど、何日もかけて丁寧に探さないかんかった。日本人にも、そうよ。あんまり叩かんようにしちょったねぇ。


福山の聯隊が平壌へ引っ越したがやき、大きな部隊ができちょった。けんど、みな、あの平壌の寒さには閉口したねぇ。そりゃ、凍るばぁ冷い。夜が来たら、川が凍って向こう岸へ渡れた。そんな厳しさが遅い春が来て、やっと和らぐ。5月には、川の両岸で洗濯ものをたたいて洗うのも見たわよ。


わしらぁ初年兵は、まぁ、学校で言うたら一期生(一年生)みたいなもんよ。一期生の訓練を冷い強い風が吹く中で受けよったところに、高く丸く土を盛っちゅうもんがあった。ちょうどいい塩梅やと、風が吹かん方へ回りよったら、後ろから「これは何か知っちゅうか」いうて訊かれて、「知らん」と応えたら、「これは朝鮮の墓ぞ」と教えてくれた。昔の皇族の墓やったらしい。


ミンダナオ島北端のスリガオへ


わしが所属しちょったのは、歩兵第41聯隊の第3大隊やった。さあ、何人くらいの部隊やったか。5、6百人とはいわんかったろう。聯隊長は炭谷鷹義、大隊長は近藤泰彦。間違いない。

朝鮮での訓練の後、5月の上旬に、どこへ行くとも知らされんまま、汽車で平壌を出た。釜山に着いて、鉄砲へ孟宗竹みたいな竹を括り付けて、それを担いで船に乗り込んだ。ごまかしよ、ごまかし。その竹は船の上から捨てて、処分したと思う。


船に乗っても、初めは行き先もわからん。わしらぁに言うてくれるもんか。今度の船は1万トン級と太うて、船底には、馬も積んじょった。わしは船には弱かったが、今度は船が大きかったからか、玄海灘のときと違うて酔うことはなかった。


あの頃は、船が攻撃されることも多かったが、幸せなことに、わしらぁの乗った玉津丸は無事に進んだ。非常演習いうて、船倉からみんなぁ甲板へあがって、訓練もしながら行った。整列して前の人の襟元を見たら、シラミが這いよって、わしは気色悪うて生きた心地がせんかった。そのとき初めてシラミを見たきにねぇ。それに、まだ5月やに暑うて暑うて、汗疹も出たりしたわよ。


船は、フィリピンのマニラに寄港して、5月下旬にはミンダナオ島の北端にあるスリガオに上陸した。行くには行きついたものの、そこから先は何の見通しも立たん。日本にもどれるかさえ、わからんと思うた。


討伐の日々


朝鮮の人も日本人に混ざって行っちょったが、そう多いわけじゃなかった。部隊が決まり、兵卒はみな何班、何班って分けられ、班長も決まった。わしらぁの班長は、上田寿というたと覚えちゅう。一つの班が、まあ、20人くらいおっつろうか。班長の上に小隊長、その上に中隊長というのがおって、何班もひっくるめて監視しゆうがよ。高知の仲間、石元さんや室戸の上田さんらぁと知りおうたがも、そこでやった。


スリガオには1ヶ月もおらんと、部隊を編成して、船に乗りもって島の沿岸一帯の掃討作戦に出た。初めはアメリカがフィリピンを占領しちょったがやき。それを日本軍が上陸して追い立てた。その後へ、わしらぁが入ったがよ。


道を造るがじゃない。ゲリラの討伐が目的やった。現地人は、先に来ちょったアメリカの味方するもんが大方で、道端のあちこちに仕掛けを作って隠れちゅう。ゲリラや。その竹杭の先で怪我をした者がおって、竹に毒を塗られちょったか、治りきらん。そんなこともあった。


自分の部隊がどう進んだか、地名はよう憶えてない。確かカバトバランというところへは行った。日本じゃないき、土地に詳しゅうないろう。一晩ばぁでどんどん動くし、どこをどう動いたか、頭に残っちゃぁせなぁ。戦後に師団の関係者から本を2冊送ってくれた。あれがあったら詳しいことがわかったが、孫が貸せ言うて、持って行ってわからんなった。


どこへ上陸するときやったか、船が浅瀬にはまってしもうて、着岸できん。持っちょった携行品を雑嚢(ざつのう)いう袋に入れて、肩へかけてバンドで縛って、陸を目指して歩いた。ところが、袋ごと浸かってしもうて、カンパンもなにもかも全部塩水にやられてしもうた。そんな情けない思いもしたことよ。


1日に1回は雨が降った。スコールよ。討伐に出ると、雨にもやられた。着物が濡れて、シラミがわく。水虫にも苦しんだ。軍隊では、地下足袋と靴をくれたが、毎日の雨で乾く暇がない。どんどんこじれてきて、痛うてね。乾かしはできんし、それがしょう堪えた。けんど、最後は誰もかれも靴もなくして裸足やったなぁ。


けんど、あの暑さを思うと、雨が降るからおれた、とも言える。眼鏡のレンズで煙草に火が点くばぁ太陽がきつかったのを、毎日の雨で、なんとかしのげた。


木にもまけたねぇ。討伐なんかで藪の中へ入ったら、後でピリピリ、ピリピリ体が痛うなってね。そりゃ、どやらした名の、漆みたいな木に触ったろう言われたけんど、わかるもんか。そんな木には、触らいでも、下を通っただけでまける人もおる、いうて教えてもろうた。


都会の人は体も弱うて、戦地では難儀なことばっかりやった。わしらぁは、学校上がってからは親の手伝いもするし、友達と山駆けずり回って遊んだ。兵隊に行く前は、営林署で国有林の仕事もしよったき、身体も鍛えちゅう。お蔭で大概のことに我慢できたと思うちゅう。


伝令に行けと言われて、川向うの部隊まで泳いで渡ったこともある。わしの他には、誰も川を泳げんかった。子どもの頃には溺れよっても、あれから泳ぎは達者しちょったきね。(笑)


そんな大きい川じゃない。ちょうど奈半利川ばぁの川幅じゃったように思う。部隊への連絡がすんだら、歩哨に出されちょった班長が、「まぁ、飯も食て行け」と言うてくれた。それから、こうこうしてワニを現地人が取ってきてくれちゅうき、これを小隊長へ持って帰っちゃれって、荷にしてくれた。部隊へ帰って、ワニじゃき食え言うてくれたで、って渡すと、ワニかよ、身がきれいじゃなぁ言うて、当番が炊いてみんなに食わしよった。まっこと(誠に)きれいなもんじゃったが、本当はワニじゃない。トカゲの身じゃった。そんなこともあったわよ。


担いででも連れて帰りたかった


聯隊の大方はレイテへ行ったが、わしらぁの第3大隊は残って、ミンダナオ島の警備に当たった。沖を見よったら、沖縄へ行くアメリカの大船団が通る。日増しに戦況が悪うなっていきゆうと、嫌でもわかった。


 野戦へ出たときには、食糧も持っちょたけんど、すぐにのうなる。わしらは、あちこち現地人がつくっちゃぁるイモとかトウモロコシを取ってきて、それで命をつないだわよ。そうせんと何ちゃぁない。暑いところやき、年がら年中イモらぁはあった。小隊長いうたら少尉ばぁじゃが、その偉い人らぁでも、キビを食いよった。あの固いのを齧って食って。生では食えんき、イモもキビも、ちょっと煮いて食べたわよ。


バナナは、3日ばぁ草の中へ活けちょいたら食べれた。バナナとか、パパイヤ、パイナップルらぁも取って来る。それは現地人も取るがやき、よっぽど運があって間に合わんと当たらんわよ。そうよ、現地の人の食料を奪いに行くがやきね。そのうち、輸送船が途中でやられて、戦地へ食料は全く届かんようになって、兵隊の食糧事情は日を追うように悪うなっていった。


ありがたかったのは、塩を一人ひとりに分けて持たせてくれたことや。支那事変へも行っちょった先輩の兵隊さんが、塩がないと人間いかん、そう言うてみんなに塩を持たせてくれた。他の部隊の人らぁは、こればぁの高さでも足が上がらんようになったが、わしらぁの部隊は、塩を持っちょったお蔭で助かった。


その時には、塩ばぁ大事なものはないと本当に思うた。塩が切れたら、かわいそうなもんじゃ。けんど、助けちゃろうち、こっちも大方いかんがやき、何ともならん。塩をなめて水を飲んで、持ちこたえた。水はテントへ汲んできて、カルキを入れた黄色いようなのを飲んだ。


師団に合併するやらいう話があって、山の中をくぐって行きよったら、ブツアンいうたか、川に行きあたった。そこから今度は上流を指して行きよったら、もうアメ公が来ちょってバリバリ、バリバリ撃ってきた。


アメリカの味方しゆう現地人にも撃たれた。撃たれた腕を鋸で引いて切り落としたいう話しもある。ヨダミノルいう高松の男やったが、機関銃の弾が、突き抜けちょったらよかったけんど、斜めに食い込んじょった。軍医が手当しよったけんど、腐ってきて、「これは、腕をすっぱり切らんといかんぞ」言うて、鋸で引いた。けんど、その人は足がえいき、歩ける。ちゃんと戻ってきたぞね、高松へ。戦友会でも2回ばぁ会うたことがある。わしと一緒の一等兵じゃった。


山の中では、どっさり死んだわ。食糧もない。マラリアにもやられる。マラリアの薬がきつうて、胃腸をやられる。戦うて死ぬがじゃない。大腸炎やマラリアに罹って、死んだ人が大勢おらぁね。わしらぁの仕事は、毎日、負傷したり、体調崩した仲間の世話をすることと食い物を探すことやった。けんど、探しに行きやぁ、撃たれよったわよ。


体調が悪うなったり、足が動かんなって、移動に付いて行けん人は、手りゅう弾もろうちゅうき、途中で自決した。そんな人も、どっさりおらぁ。みんな、担いででも連れて帰ってやりたい。けんど、自分がようよう動いて行きゆう。我もいかんなりゆうき(自分も死にかけているので)、何ともようせんかった。遺骨収集にもなかなか行けんような山の奥で、本当にようけ亡くなった。


終戦、そしてレイテ島での俘虜生活


昭和20年の815日、わしらぁは陣地を構えて、まだ戦いよった。互いに立ち向こうておったところへ、宣伝に使うようなこんまい飛行機が低空で飛んできて、ラジオやビラを落としていった。ビラには『日本のみなさん、戦争は終わりました』と書いちゃあった。それを見て、あぁ終わったと思うて、嬉しかった。


わしらぁの41聯隊は、大方がレイテで戦死したと聞いた。ミンダナオ島へ残されて、運が良かったがよ。戦友の高岡の石元さんが、毎年815日に電話してくる。今日の日ばぁ、嬉しかった日はなかったぞなぁ、言うてね。もう1ヶ月戦争が続いたら、一人残らず死んでしまうがやった。食料がないきね、ほら。みんなぁ逝ってしまうがよ。そんな状況の中で、迎えた終戦やった。


それからの俘虜生活も、大変やったが、戦争しゆうよりはましよ。助かった、思うた。銃を捨てて向こうに渡し、みんなが降伏した。上の方で連絡が取れちょったのか、白旗掲げるようなこともなく、部隊がみんな揃うて、持っちょった銃を1ヶ所へ集めて、整然とやったわね。


俘虜の生活は、レイテ島で始まった。そこへ行ったら先々に来た人もおって、みんなぁ太い屋根だけの宿舎に入れられた。そこは玉砕したところじゃったが、建物の大部分は残っちょった。古かったが、ヤシの葉っぱを葺いたような屋根はあった。中は吹き抜けじゃけんど、上等よ。


けんど、食べ物がなかったわ。飯盒出せ言うき出したら、飯盒の蓋へ1食分じゃ言うてくれるが、米粒は10粒と入っちゃぁせん。アメリカ側は十分に支給してくれちゅうが、間におった炊事をする者が問題よ。入れ墨をした親分・子分の、ああいうがらぁが飯を構えよった。自分らぁだけ、白飯のいいのをどっさり食いよったわ。


親分、子分になったら、きれいなというか、汚いというか、そんなもんよ。それやき、何ちゃぁ言えん。何か言うたら、叩き殺される。アメリカ側に訴えても、十分に食料は出しちゅうとはね切られるし。下の者は、本当、生きちゅうというばぁのもんよ。便所に行くにようようじゃった


仕事は、アメリカの仕事をしよった、宿舎や他の施設には、いろんな荷が入っちゅうき、現地人がかっぱらいに来る。そんなことできんように塀をつくったりした。そこには、終戦から翌年の年末まで、長いことおったなぁ。南海大地震のあった夜は日本に帰って名古屋の三菱の工場で寝よったがやき、1年半ばぁおったことになる。


ようよう引揚船で日本へ


俘虜でも早い者は終戦の年に帰れたが、自分は昭和21年の12月にやっとタクロバンから引揚船に乗った。船は3千トン級あるアメリカの輸送船や言いよった。2千人は乗っちょったろうか。大きい波でも来たら大揺れするような船やった。もともとが貨物船じゃき、便所言うても甲板に別に網張り幕張りして、そこでわからんようにしたわよ。海へ流すがよ。急ごしらへの船やき、そんなもんよ。


日本が近づいて山並みが遠くに見えたときには、甲板で、みんなぁワーっと言うたわよ。どうこう言うても生きる死ぬるやったきね。


着いたがは名古屋港、師走の20日やった。陸へ上がって土を踏んだら、そりゃ、ホッとした。明日は我が死ぬるかもしれんと思いよったわけやきね。泣いた人もおっつろう。まあ、食い物がなかったのが、一番辛かったわな。水飲んで塩なめて、なんとか生き長らえて、やっと帰ってきたがや。


名古屋の検閲所に着いたとき、持ち物は全部出さんといかんかった。広島出身の上田というわしらぁの班長さんが、部隊の名簿をこっそり持って帰っちょったわよ。戦死した人の家族に何とか報告したいゆう思いがあってねぇ。そのままじゃ取り上げられるが、引揚者の連絡先とか何とか言いつくろうて、それで何とか持って帰るがを許された。後で戦友会をつくって何回も集まれたのは、その名簿のお蔭いうことよ。


それから消毒剤を真っ白うになるまで頭から振りかけられて、全身の消毒をして、やっと終わりや。カンパンと水はくれた。それを食いもって、その日の宿舎の名古屋三菱工場跡を目指したことやった。その晩みなで、腹がすいたばぁ辛いことはない、寝るに寝れんかったって、話したことを覚えちゅう。


帰国した夜、南海大地震にあう

      

翌日の未明が、あの南海大地震よ。みんなぁ慌てたけんど、京都の戦友が「こればぁのことやったら、心配ない」って。そんで、靴履いたまま、まとめた荷物を枕にして寝よった。


翌日、帰ろうと駅へ行くと、裸足の者が何人かおる。軍靴はどうしたかと訊くと、昨夜の地震で裸足で飛び出してしもうて、帰ってみたら靴が盗られてないがやと。靴はみんなにくれちょった。戦地で生きる死ぬるで互いにやってきちょって、なんでと思うたわね。裸足のまま汽車に乗った人が何人もおって、よう忘れん。なぜか、自分らぁの西へ向かう組じゃなくて、東へ向かう人ばっかりじゃったがねぇ。


 高知へは同郷の4人で一緒に帰った。四国へ入って土讃線で来よって、大田口やったかと思うが、汽車が止まった。地震の土砂崩れで、そこからは大杉あたりまで、2時間ばぁ歩いたような記憶がある。そこから、また汽車に乗って、後免まで帰った。日が暮れてしもうて、高岡の石元さんは、乗り物を見つけて帰ったけんど、自分らぁはバスもない。宿屋を探しおうて、後免で泊まったわよ。室戸の人らぁと、一緒やったなぁ。田中さんと上田さんよ。


帰り着いた故郷で


弟の恒喜がもどっちゅう(帰っている)かと心配しよったが、先に帰って来ちょった。最後は沖縄に近い島におったらしい。それが、なんと玉砕したところじゃって、役場から戦死したいう知らせが来たと。玉砕じゃったき、確認できんもんは死んだとして、戦死の公報を出したんじゃろう。けんど、知らせて来たときには、もう本人が家へもどっちょったと。


この弟は、ミッドウェイへも行っちょったが、船が攻撃されて使えんなって帰ってきたと。弟も、わしも、つくづく運が良かったと思うたことよ。けんど、自分らぁが無事やったいうて、喜ぶ気にはなれんかったなぁ。帰って来て、近所に戦死した人がようけ(多く)おることを知らされた。


自分が行った後から、召集されて戦地へ行った人もいっぱいおったし、恒喜みたいに、徴用におっても帰ったら兵隊にとられるき、いっそ志願した方がましやということで、志願した組もあったらしい。


入営の折に自分を高知市まで送って行ってくれた山田秋美さんも、その後、召集で戦争に行って、シベリアへ抑留された。何年も苦労したけんど、ちゃんと帰って来て、定年まで営林署に勤めた。


山下志郎さん.jpg戦死した者は身内にもおった。姉、幸美の連れあいの山下志郎(やましたしろう:昭和20年6月10日戦死)さんは、何回か召集されたが、最後に行ったフィリピンのレイハンで戦死した。35歳やった。子どもが女の子と男の子と二人おったが、姉は百姓してなかったき、食わすもんもない。働きもせんといかんで、たいへんやった。


食べるもんは百姓しよったうちがつくって、みんなぁで一緒に暮らした。あるものを食べて暮らす。そんなふうにやった。姉は営林署の仕事をずっとして、苦労しもってでも子どもらぁを一人前に太らした。最後は年金もついたわよ。姉はもう亡くなったけんど、姪は奈半利に、甥は高松におる。うちの家族と一緒よ。


従兄弟では二人、坂本耕作(さかもとこうさく:写真左、昭和19年9月19日ビルマ方面にて戦死、行年24歳)さんと坂本智(さかもとさとる:写真右、昭和20年11月17日、中国にて戦病死)さんが戦死しちゅう。耕作さんは、同じ和田で年も近かったき、川でも山でも、よう連れだって遊びよった。わしが川で流されたときも一緒やったと思う。もう一人の智さんは、鍛冶屋の弟子に行っちょった言うてね、家にはおらんかったき、ようは知らんけんどね。


坂本耕作さん.jpg 坂本智さん.jpg



中島才介さん.jpg部落の仲間内でも戦死した者がおる。中島才介(なかじまさいすけ:昭和20年11月5日戦病死)さんは、年は2つ下じゃったが、家が近じゃったき、ずっと一緒に遊んだ。大人しい、利口もんじゃった。軍隊へ行って、衛生兵をしよったらしい。わしは18年に家を出て行ってから、終戦までもどらざったき、詳しいことは知らんが、21歳の年で、上海で戦病死しちゅう。悔しかったろうと、残念でならん。


他にも知り合いで戦死した人は何人もおる。和田の部落だけでも、十の指じゃ足りんき、どうしても自分が帰って来たことを手放しでは喜べん。よう帰らんかった者は、みんなぁ若うて、一人身の者がほとんどよ。これからやったわなぁ。


大事な家族が欠けた家が、一つの部落の中だけでも、こんなにあるということよ。和田でも小島でも、気の毒なことに、おとどい(兄弟)が戦死した家もあった。それが、戦争じゃ。みんなぁが帰って来れたらよかったに、という気持ちは、いつまでも続きよらぁよ。



◆妻が語る戦後編

          

坂本 操(さかもと みさお)さん


奈半利川のあちら(宗ノ上)からこちら(和田)へ嫁いで


私の生まれも北川村で、宗ノ上という部落です。やはり夏は奈半利川でよく遊びましたよ。私のところは、長山の発電所のところから分かれた支流になるんですけどね。旧姓は、門田といいます。父は、道之助(みちのすけ)、母は墨恵(すみえ)。7人兄弟姉妹の私が一番上です。昭和4年3月9日の生まれで、86歳。お父さんとは6つ違いです。


学校は、木積へ6年まで、その後は片道5キロ以上の道を歩いて北川まで2年通いましたよ。毎日、毎日、よう行ったもんやと思います。学校へ行くに、夜は草履つくらないかんしね。勉強どころじゃなかった。


二十歳前の操さん(左).jpg

*写真は20歳前の操さん(左) 芸能大会で踊りました


上級生のときは、兵隊さんの見送りや遺骨のお迎え、それから村葬いうのもあって、全部参列せないかんかった。長いこと立てりよったら気分が悪うなってきて、しょう辛かった。それに、みんなが泣きゆう。その顔を見たら辛くてね、本当に。よう忘れません。

 終戦のときは、16歳でした。結婚したのは、お父さんが帰ってからです。知り合いではなかったですよ。家へ行くまで、会うたこともないし、顔さえ見たこともなかった。その時分は食糧難でね、みんなが「あそこは田んぼつくっちゅうき、あそこへ行ったら餓えることはないき」言うてね。そんなふうに百姓を選んで、お嫁に行かされたがよ。終戦から3年後の昭和23年の1010日でした。

 当時は、まだまだ食料不足が続きよって、ご飯いうても、主は麦よ。ほとんどの田んぼで麦をつくりよった。麦が半分、お米はほんのちょっとで、芋やかぼちゃを切って入れて、まぁ言うたら、雑炊みたいなもんよ。山へ行く人には、それを飯ごうへ入れて持たせてました。終戦後もしばらくは、そんなで、徐々に麦飯になっていったわねぇ。弁当にお粥や雑炊が入っちゅうなんて、今の人は想像もできんろうけど、戦争が終わっても食べれたら上等の時代が続いて、みんなぁ苦労したわね。


けんど、奈半利川は豊かで、鮎はもちろん、鰻も、手長海老もようけおりました。昔の鮎は、とにかく大きかったわね。こんな長い、こんな幅のね。この人が兄弟3人連れだって川を流れて鮎を突いてきたことをよう覚えちゅう。今は埼玉におる一番下の弟が、まだ学校へ行きゆう頃やったか、見たら大きな水桶に八分目ばぁも鮎が入っちょって。私の里は小川で鮎もあんまりおらんかったき、そのときは、本当にびっくりして、よう忘れません。


焼いて食べたら、ほら美味しかったわね。秋になったら、それを串に通して囲炉裏でゆっくり炙って、燻製みたいにしました。おかずにも、味噌汁の出汁にもしたねぇ。美味しかったぞね、そりゃ。当時の味を知った者じゃないと、あの美味しさはわからん。塩で焼いちょいて頭から食べれたきね。昔の奈半利川の懐かしい味よねぇ。


子育ての日々


子どもは5人授かりました。上3人が女で、下2人が男の子やったけど、一番上の娘と下の端の男の子とは病気で亡くしました。あの時代は、まだ子どもが病気で死ぬことがようありました。


下の子は、腸重積症という、腸が詰まる病気で、下へは出んようになって、上へもどしてね。3歳でした。もっと大きい良い病院へ行けたら早う見つけてくれたと思うたけど、この辺にはなかったきねぇ。


寿命やったわね。今は、そういうように自分が思ってます。何日も漂流しよった人でも、助かる人は助かる。寿命があったら、どんなにしてでも生きていける。そう思うようにして諦めてます。去年が50年やってね、そのお祀りをしました。


次女と3女と長男と、中の3人の子どもは順調に育ってくれました。ただ、長男の達治は、小児麻痺で足が悪うなってねぇ。村から予防注射についての知らせがあったらしいけど、その頃は、この人のお父さんが会には出よったし、私らぁは知りませんでした。予防注射が1回に2千円か3千円かで、希望する人はしたらしいです。でも、予防注射を受けてない人でも、どうもなかった子どももおったしね。皆々というわけじゃない。まあ、運、不運があるわねぇ。


でもねぇ、幸せなことに、達治はおばあさんに本当にかわいがってもらいました。おばあさんがずっと連れてくれて、高知の畠中病院まで行って指圧もしてもろうたんです。おばあさんがまだまだ元気で、背負うて抱いて。おばあさんに育てらて、達治は、おばあちゃんっ子よね。


私は達治を小鹿園(巻末注参照)へ連れて行って、コルセットもつくってもろうたけど、すぐに、そのコルセットもまどろこしゅうなって(手間がかかりじれったくなって)履かんなった。先生に言うと、履くのが嫌なら、それでもよかろうって。で、作って1ヶ月か2ヶ月かばぁしか履かざったね。


足が悪うても、あの子はうんと身が軽かったがね。小学校1年の頃やったか、大きな木に登って、枝鎌で枝を切りゆう言うて、近所の人が知らせてくれたことがありました。いや、怖い、へんしも(すぐに)下りてき、言うて叫んだことよ。それが、またハゼの木やったき、ホロセ(身体にできる発疹)がいっぱい出て、病院へ走り込んだわね。達治はアレルギーがあって、身体中まけるがよ。お薬もろうてつけたことです。


 山でこぼて(小鳥を獲る木の仕掛け)張って、よう遊んだきね。こぼてのエサにするに、ハゼの木や南天の実とか、よう取ってました。柴馬いうて、柴を刈ってきて元を結わえて、それに跨って坂道を滑り下りる遊びも、みんなぁでようしたわねぇ。達治も、それは楽しげにして、よう遊んだ、遊んだ。


私が聞いた戦争の話


戦争の話を私は、嫁いでから、この人や弟の恒喜さんなんかから聴きました。それに、家のすぐ隣の大久保の叔父さんらぁも、よう話してました。お父さんより後の召集で、満州の方へ行っちょって、シベリアへ連れて行かれた言うて、シベリアでの苦労話をようしよったねぇ。


寒うて寒うて、たいへんやったうえに、とにかく働いたもんでないと食べらさんかったですと、ロシアは。熱がある言うたら休ましてはくれるけど、休んだら食べるもんはない。働いたら、働いたという切符みたいなものをくれて、それで食べ物をもろうて来て、分けて食べらしたりした、そう言うてました。


その厳しいロシアで、エゾ松とかいう松をぎっちり(少しの休みもなくずっと)切らされたようです。隣の叔父さんらぁは、山仕事は慣れちゅう。木も切ったことあったし、何とか踏ん張れたけど、町育ちの人は、そんなこともしたことない。まぁ、教えてはくれたけんど、体力的にも難儀したろう。そう話してましたよ。


今治市で開催した戦友会.jpgこの人の戦友会へは、私も一緒に行ったことがあります。フィリピンから上田班長さんが苦労して持ち帰った名簿があって、それを基に全国へ散らばっちゅう戦友のみんなに呼びかけたそうで、昭和40年頃から始まっています。


班長さんが広島の方でしたから、会場は広島が多かったんですが、高知や香川でもしましたよ。(写真を見ながら)これが昭和46年に高知でしたときのがじゃね。ここへ写っちゅう人も、もうみんなぁ、おらんなってしもうた。この人が高岡の人でね、この人は室戸の元(もと、地名)の人や、上田さん。・・みんなぁ戦友やったがですよ。


最初は多かった人数が、年々みんなぁが年をよせて、減っていきました。脳梗塞やったりして体調を崩してね。自分一人ではよう来んようになって、奥さんが一緒に付いてくる人もいましたよ。夫婦で一緒に写っちゅう戦友会の写真もあります。高知でも何回かやったから、私も付いて行ったことがあります。お酒も入って、みんなぁで昔話に花が咲いて、楽しかったですよ。終いの方は、ほんとう人が少のうなってましたけどね。


夫唱婦随の幸せな今


お父さんは、若い頃からなかなかの仕事師で、向こう意気が強い、曲がったことが嫌いな人でした。厳格な面もあったけど、私が病気したときは、それは大事に世話してくれました。両親のことや達治の病気のことなど、私が心配ごとを言うと、「いろいろ言うな。明日のことは、誰にもわからん。なるようにしかならん」と叱られたもんです。お父さんの前向きに突き進む姿勢に、随分救われましたね。感謝しています。


まぁ、働きもんで、私が嫁いでからは、マラリアで1回熱が出て寝たことがあっただけ。内臓を患うて寝たことは平成14年まで1度もなかったんです。営林署の山仕事をしよったき、脛を痛めて入院したり、集材いうて木を飛ばす(ワイヤーでつるして運びおろす)機械のエンジンかけよって、手の、ここから先が脱臼して抜けてね。冬の冷いときで、伯父さんの人と一緒に仕事をしよった時でした。親指のような膨らみが、脱臼したところへでき合しちょったがね、血管が浮いたみたいに。


あの頃は田野に岡宗いう病院があって、そこに55日ほどいましたね。脱臼でもひどかったもんよね。普通は、すぐ治るもんやけんど、血管が紫色になって、もう恐ろしいようになってました。治ってからは、今度は屈伸するに痛うて痛うて。治ってからも、痛いき顔も洗えんって言うてました。でも、まぁ、もう一方の手で何とかしてましたねぇ。


それ以外は、本当に健康な人で、間も隙間もなく働く。仕事が趣味みたいな人なんです。なんちゃ趣味はないき、年を取ったらどうするろう、退屈するろうねぇと、そんな心配をするほどでした。


平成14年に病気したときは、仕事のし過ぎやったと思います。1週間ほど眩暈がして、1ヶ月くらい寝ないかんかったんです。それで足が弱って、動きよってこけて、腰を打った。それからは、ずっと足がいかんね。全然痛みはないき、何とか家にはおれるけど、足に力が入らんでグニャグニャのようになっちゅう。が立ちゃあ、ことことなんでもできると思うて、本人は辛いろう。けんど、まぁ、痛うないきに暮らしよい。そう思うたら、我慢もできるわねぇ。


お父さんの体が思うように動かんなって、私がしちゃることが上手にできんと、「自分は我がのことせえ」言うて怒らることもあります。けど、頑張って、ご飯も炊いて食べさせんといかん。絶対呆けられんと、そう思うてます。お父さんにも、呆けられんで、って言うてます。


集会所へ体操に行ったら、計算とか間違い探しとかの宿題をくれるんです。それは、まだまだ大丈夫。それから、二人でテレビの国会中継も聴いて、いろいろ批評もして、「そう言うたちいくか」言うたり、「そういうようにせんといかん」言うたりね。


毎日が、ゆっくり過ぎていきます。昔、私が病気したときは、大事にしてもらいました。今は、私がお父さんを大事にしちゃらないかんと思うてます。でも、つい喧嘩もしたりするけどね。(笑)


<参照>


※1 電発:J‐POWER(電源開発株式会社)のこと。奈半利川には3水力発電所(魚梁瀬、二又、長山)がある。


※2 小鹿園:県立の肢体不自由児施設として、昭和31年に「整肢小鹿園」として設置され、県内唯一の専門機関として肢体不自由児に対する治療やリハビリ訓練、療育支援の使命を果たしてきた。平成11年に他機関と統合され、「県立療育福祉センター」となっている。


あとがき


北川村での「聴き書き」は、村の遺族會館に掲げられた若き英霊のみなさんの声を聴きたい、拾いたいとの思いで始めたものですが、2年目の今年、初めて戦争体験者である坂本武一さんのお話を聞くことができました。


長い年月が経った今でも、風化することなく脳裏にある戦場のありさまや亡くなった戦友のことを、こうして語っていただいたことに、改めてお礼申し上げます。


今年は戦後70年。新聞やテレビでも戦争体験者のみなさんの話が、よく取り上げられました。兵士や従軍看護婦として戦場の経験を語る方のほとんどが、90歳を越えていらっしゃいます。「ききがきすと」として、少しでも多くの戦争体験者の方々の想いを聞き取り、伝えたいと願わずにいられません。


             (ききがきすと:鶴岡香代)





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2015年04月27日

『あの日を忘れない 東日本大震災を語る・岩手編』が完成しました!

表裏:使用.jpg 20147月に、岩手県宮古市田老地区を訪問し、被災者の方々から伺ったお話をまとめた『あの日を忘れない 東日本大震災を語る・岩手編』が完成しました。宮城編に続く第二弾となります。


田老地区には「万里の長城」といわれる長さ2600m、高さ10mを超すX字型の防潮堤がありました。明治と昭和の初期にも、大きな地震と津波に襲われた田老地区は、巨大な防潮堤と、高台にまっすぐに伸びた非難しやすい道を整備していました。それでも、今回の津波で180名を越す犠牲者を出してしまったのです


 ホテルの6階にいて、押し寄せる津波を恐怖の中でもビデオに撮影した人、自宅の2階にいて家ごと流された人、足が悪いからこそいち早く逃げて助かった人、津波で生じた火災の必死で防いだ人、それでも希望を持って新たな道に進みだす人。この方々のリアリティあるお話には、担当したききがきすとも声をなくすことがありました。


DSC_0047a.jpg このような貴重なお話をまとめて、形にすることができたのは、お話くださった皆さんはもちろんですが、地元で復興活動を行っているNPO法人「立ち上がるぞ!宮古市田老」の理事長である大棒秀一さんと新屋正治さんのご協力があったからです。心から感謝しています。


シリーズの第一弾『あの日を忘れない 東日本大震災を語る・宮城編』(20137月刊行)は、宮城県図書館に収蔵されました。今後、「宮城県震災アーカイブ」としてデジタル化され、公開される予定です。この岩手編も、関連ある図書館や施設にお送りすることを考えています。また、ききがきすと一同は、第三弾の福島編も作成したいと意気込んでいます。皆様のご協力をよろしくお願いします。


なお、『あの日を忘れない』シリーズは、1,500円(消費税込み、送料215円/冊)でお分けします。ご希望の方は、まずメールにて(松本まで)ご連絡ください。 info@ryoma21.jp




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2015年04月06日

子らを守りて、生き抜いて

語り人  大寺一子(おおてら かずこさん)

隣村への嫁入


ootera1.jpg私は大正11625日の生まれですから、この6月で92歳になりました。学もなくて、呆けるのも早うて、この頃はとんと物忘れも多うて。こんなことでは、お話にはなりませんからと、聞き書きのお話も一度はお断りしたんですけど・・・。でも、ぜひに、とのことなら、聴いてもらいましょうか。

私たち夫婦の出会いから・・・ですか。あれは、昭和14年のことだったと思いますよ。私はまだ18歳と、本当に若かったですよ。隆さんは27歳。私より9つ年上でした。ちょうど応召が解かれて、戦争から帰ってきたところでした。

私の生まれは、北川村のすぐ隣、田野町の土生岡(はぶのおか)です。男ばかり7人の兄弟に囲まれた、ただ一人の娘でした。当時の遊びといえば、女の子は「おじゃみ(お手玉)」や「あやとり」。「陣取り」いうて、こっちとあっちに陣をつくって鬼が追いかけたり、大勢で「かくれんぼ」なんかもしました。男の子に交じって、よう「パン(メンコ)」もしたねぇ。男兄弟に随分鍛えられて育ちましたよ。里のすぐそこに小さな山がありましたので、「こぼて」を仕掛けて小鳥を取ったのは、楽しい思い出です。今は、そんなことして遊ぶ子は、もういませんけどね。

そんな男まさりに育った私でしたが、父親には本当にかわいがってもらいました。たった一人の娘を、なんとか幸せにしてやりたいと願った父の思いが、私を隆さんと結婚させたように思います。

当時は、若い男はみんな戦争に行っていましたから、嫁に行けないまま年を取る女の人も多かったんです。そんな女の人のことを「行かず後家」なんて陰で呼んだりしていました。ですから、父親は、私には何としてでも結婚させたいと念じていたようです。

それで、隆さんが戦争から帰ってすぐに、お隣の池田さんから見合いの話が出たときには、とんとん拍子に話が進んだようです。あっという間に仲人のおじさんを連れてくることになってね。

結婚までの付き合い・・・ですか。昔は今とは違いますよ。私は、どんな人やら見たこともないまま、結婚したようなものです。確かに、隆さんを実家へ連れてきて、いろいろ話はしましたよ。でも、話をしたのは父親で、私ではないんです。私は、まだほんの18ばかり。その時が見合いとも知らず、ほとんど相手の顔も見ていませんよ。上の学校へも行かず、一人で年取っていくのは可哀そうだという父親の思いが強かったんでしょうね。ただ一人の娘のために、その縁談をちゃんといい話にしたんです。

ootera2.jpgですから、あちらへ嫁いでから、やっとまともに顔を見たような調子でしたよ。言葉の一つ交わすでなく、なんの付き合いもないまま、ね。今の時代なら、若い人たちは自分たちで付き合いして、二人の気が合ったら結婚となるけれど、昔はそうじゃなかったですからね。見に来てくれたときにちらっと会うけれど、その時はそんな気もないでしょう、結婚するなんて。

だから、顔もわからないまま、親たちが話しして決めたとおりに、嫁いで行くんです。相手の家で顔を合わすまで、どんな男の人やらわからないで結婚する。当時は、それが普通でしたね。

結婚式は、嫁ぎ先の近くに星神社というお宮があって、そこでしましたね。あの当時は、花嫁は文金高島田でしたよ。田野にあった畑山という写真屋さんに、写真も撮ってもらいました。

その写真は、今もあるはずです。娘に渡してあると思います。親族全員で写したものも1枚あったと思いますよ。最近は見たことはないんですけど、言えば、出してきてくれると思います。


短くも穏やかで幸せだった親子の暮らし


隆さんは本当にやさしい人でした。翌年の6月には、女の子が生まれました。長女のお産は、土生岡の里でしまして、私の父親が「萬世子」と名付けました。実家は、二十三士の清岡道之助さんの家がすぐ近くで、道之助さんところのお姉さんに「まよさん(文末補足1参照)」という人がいて、立派な人だったそうです。あのような女の人になってくれたらと、あやかったのです。

また、こちらの舅は萬太郎といいましたから、萬太郎のような世渡りができたら上等じゃきに、萬太郎の萬をとって「萬世子」と、そう言っていました。里の父親の願いがこもっているんですよ。

萬世子が1歳になったばかりの昭和167月、隆さんは再び応召され、満州牡丹江の部隊に入隊しましたが、そのときは、2年程で元気に帰って来てくれました。

帰っても、家では戦争のことはまったく話しませんでしたね。今ね、新聞によく戦争から帰ってきた人の話が載っているでしょう。それを見て、おっとたまるか(なんてひどい)、お父さんもなんぼか辛い目におうたろう、と思うんですよ。

前歯を傷めて治療していたのを覚えています。あれも、軍隊で叩かれたのではないろうかと、今ごろになって、戦争の話を読んだり聴いたりして思うんです。軍が厳しいということもあって、家では軍隊でのことは何も言えなかったんでしょうね。嬉しいことは何もなくて、なんぼか苦しかっただろうと思いますよ。

ootera3.jpg体格は大きかったけんど、気持ちはやさしい、おとなしい人でした。きびきびとはよう動かんで、苦労したがやろう。新聞読むと、当時の軍では、暴力なんて日常茶飯事やもんね。けど、お父さんは前歯のことも、何も、戦争の話は、ほんの少しも言いませんでした。よく考えた、やさしい人でしたから。

長女の萬世子が、お父さんに似ています。性格のやさしいところが、そっくりです。この子には、お父さんの記憶がありますよ。3歳、数えの4歳の頃のことです。お父ちゃんにね、高法寺(こんぽうじ)さまへ連れて行ってもろうて、リリアン編みの袋を買うてもろうた、そう言うてます。

また、その時分、隆さんは奈半利の営林署の方へ勤めており、自転車で通勤していました。お父ちゃんが晩方帰るときに、自転車に乗せてもろうた、とも言います。萬世子に食べさせたいと、よく赤物の鯛とかをお土産に買って帰っていましたね。その時だったかどうかはわからないけど、笑ったときに、金歯がきらっと光る口元であったなと、そんなこともおぼろげに覚えているようです。

でも、そうした平穏な生活は短くて、ほんの半年で終わりました。昭和18年末に、4度目の応召となり、濠北派遣の部隊に入隊しましたから。私は、その時に4カ月になる次の子を身ごもっていました。もうそれきり、行ったきりになるとも思わず、見送ったことですよ。

その頃には、萬世子はカタカナをちゃんと書いていましたから、私はお父さんに手紙を書かせたりもしましたよ。本も空で読み、ちゃんと大人に聞かせるので、隆さんにも知らせたいと思いました。

でも、今度は遠い遠いニューギニアで、便りもなかなか難しくて、翌年7月に生まれた次女のことも届かぬままだったのでは、と思っています。

いっしょに世渡りして夫婦の形をつくるには、あまりに間がなかったですよ。だから、隆さんについては、やさしい、いい人だったという思いだけです。


この子らと生きると決めて


最後の応召では、ずっと南へ行ったんです。昭和19104日、ニューギニア島ヤカチにおいて戦死(行年32歳)したと、知らせて来ました。でもね、遺骨一つ帰るでなし、ただ名前が入っただけの箱が来たんです。それっきり。

あの時代は、そんなもんでしたぞね。四角い箱には、なーんにも入っていません。名前だけ。木の札だったか、紙の札だったかは、もう忘れましたけどね。

私は「お父さん、軍服といっしょにお祀りしますからね。暖かく着て、静かに眠ってくださいね」と言いました。もう軍服が要ることもないと思い、一緒に埋めましたよ。

当時は、そんなことでした。そんな辛い思いをしたのは、私一人ではなかったですから。若い人はみんな、そう。今の若い人は、本当に幸せですよ。

私は、まだ22歳でしたから、里の父親は随分心配し、気を揉んだことでした。「おまえ、まだ将来は長いぞ。これからが人生じゃ」と言うて。「今から一人で暮らすということは、たいへんじゃ。子どもを連れちょってもかまんきに言うて、世話してくれる人が来たが、一つ考えてみたらどうか。ここにおってもなんじゃが」言うて、来てくれましたわ。

けんどね、私には2人子どもがありましたろう。私は、どんな生活ができるにしても、子どもとはよう替えません。「ここでどんな地獄して苦労してもかまん。ここで子どもを、親のない子にしとうないきに。子どものために、私は頑張って生きていくから」と、父親に言いました。「だから、お父さん、もうそんなことは、今後はいっさい話を持って来たらいかん」言うて、私は頑張りましたわ。

隆さんが出征してからできた子も女の子でした。妹の方は、嫁ぎ先で生みましたから、こちらのおじいさんが「照喜」という名前つける言うてね。私はもがりゃしません(反対はしません)。おじいさんにつけてもろうたがね。男の子のような名前じゃけんど、ね。ほんで、萬世子と照喜の2人です。



ootera4.jpg
萬世子さんと照喜さん


家族には恵まれちょったと思います。お姑さんも、がいな(我意を張る)こと言う訳でなし、おとなしい人でした。

隆さんには、お兄さんが1人、姉さんが5人おりましたが、私が嫁いだときには、お兄さんは亡くなっちょって、男は隆さん1人でした。お兄さんには女の子が1人あって、女の子じゃから高等小学校出してもろうたらいいきに言うてましたけど、お義父さんが全部ちゃんと構えて、あの子も安芸の女学校にやりました。

また、一番上のお姉さんは大阪へ嫁いで、警察へいきゆう人と一緒になっちょりました。ところが、旦那さんが亡くなってしもうて、戦争当時は、子どもさん2人を連れて、うちの隠居いうて離れがあった、そこへ帰っちょった。まぁ、長い間には、いろんなことがありましたよ。

あの時分のことは、食べるものがなくて、みんな不自由したと言いますが、私のところはたくさん田畑を作っちょったから、食料に困ることはなかったですわね。でも、労働はたいへんやった。1町5反という田んぼを作っていました。

おじいさんがようせんようになってからは、私が女の人を5人も6人も雇うてやりました。その時分は、人に田んぼを貸すと、自分でよう作らんから貸しちゅうということで、農地委員会に安く取り上げられました。私は、こんな頑固な性分でしょう。ご先祖様から預かった田畑を失うことが嫌で、どうでもして頑張りとおして、ずーっと守ってきました。

萬世子は、高校卒業するとき、進学コースで勉強していて、「お母ちゃん、大学やってちょうだい」と言うたけんどね、月々の収入がなかった。百姓じゃきね。あの子は大学行きとうて、私は「役場が奨学資金貸してくれるいうき、行って相談してくるわね」言うて、役場へ行きましたわ。でも、なんともならんかった。どういう訳でいかんという説明もないまま、「こりゃ、いかん。できん」言うだけで、私は、いまだに納得がいきません。

後でみんなに話したら、そりゃ、食べるだけの財産があったからじゃろう、と言われたけど、それならそう言ってくれんとね。ただ、いかん、できんで、私は戻って来たぞね、言うたことよ。大学へ行きたがったのに、私はようやらんかった。人を雇うて百姓をしてましたき、それを払うたら残りはありゃしませんでした。そうやって頑張ってきました。


ありがたい、今の幸せ


でも、そのお蔭で、今日(こんにち)は、幸せですよ。こればぁの、文句もありません。

 萬世子は、何度も言うようやけど、ほんまにお父さんに似ちょって、人間が温厚です。小さい時から私が育ててきまして、今はもう70余る年ですが、今だに私に「けんど、おかあちゃん」言うて、口答え一つ言うたことはないですぞね。

今、北川村の婦人会の会長をしています。自分は事務所の仕事ばっかりして婦人会の方へ携わってないから、とても無理ですと言いましたけんどね、みなさんが、私たちができることはみんなで協力して助けますから、やってください言うてくださってね。とうとう自分も断りかねたかしらん、ね。十分なことはできてないやろうけど、みなさん全員でよう協力してくれて、お蔭でどうにか、保っていきゆうらしいです。

本当に、この子は、私に似ず、お父さんに似ちゅうの。お父さんとは、ほんの3年ばぁしか連れだっていませんでしたけど、人間は本当いい人と思いましたからね。

妹の方は、私に似てね、さっぱりした性格ですわ。この子には、お父ちゃんの思い出はいっさいない。なんにも知らん。まだ、お腹にいたときに、行ってしもうたんやから、仕方ない。戦争をもう1、2年早く止めてくれちょったらね。そう思うこともあるわね。可哀そうで。

でも、まあ、高校までしかようやらんかったけど、なんとか2人を育てあげました。思い出すと、涙が出らあね。本当に、その時分の辛かったことは、話にならんきね。若かったからこそ、辛抱ができたの。でも、2人の娘は、母親が苦労する姿をずっと見てきて、ようわかってくれちゅう。だから、苦労した甲斐があって、今の私には、幸せが戻ってきています。

もう40年以上も前のことになりますが、今の婿が私んく(私の家)へ萬世子をもらいに来てくれました。けんど、話を聴きよったら、婿のところには男の兄弟が5人もあるいうき、こちらへもろうてくれんか言うことになってね。仲人さんが「そりゃ仲人の口が立たんが」言うて、頭掻いてね。

けんど、私の兄の口添えもあって、仲人さんも最後に、まあ一つ、この話を向こうへ持って帰る言うてくれました。帰ったところで、今度はいい話にしてくれて、まとまったことですわ。

この婿がおとなしい、温厚な人でね。私はこの口じゃきに、言うてきかんと承知しませんわ。でも、婿はちゃんと考えちゅうき、取り合わんことは取り合わん。ちゃんと夫婦2人が考えてくれちゅうが。ほんで、今、私は90過ぎて、こんなにしてもらって幸せで。よう子どもを捨てなんだと思うてね。

だから言うことですよ、「これほどにしてもらいゆう姑ばんばがあるろうかね。私は、こればあの文句もない。これで文句言いよったら罰が当たる」と。そしたら、「本人が、そう思うちょったら、それでえいわよ」言うて返ってきます。若い時に頑張った甲斐があったいうことやろうけど、いろいろ話を聴くに、若い時に頑張ってきても、みなみなそうはいかんでしょう。

「ご先祖様、本当にいろいろありましたけんど、預かった田畑は一つも失うことなく今日まできました。子どもも無事に退職しました。田畑は全部、もう子どもに渡しますので」言うてね、私は、仏様、ご先祖様を拝みましたぞね。あと何年生きるか知らんけど、こんなにしてもらったら、もう何にも言うことはない。幸せよ。苦労したことは、なんにも思いません。


これからも忘れることなく


ootera5.jpg隆さんのことも、忘れんと、こうして聞いてもろうて、ありがたいことです。遺影集のこの写真は、おじいさんが好きやった。

満州の寒いところへ行っちょったき、こんな服装よねぇ。おじいさんが、この写真を選んで、村の遺族会へ出しちょったがよ。私には全然話ないまま、おじいさんの気に入った写真を、ね。

 戦地から来た手紙もいっぱいありましたけんど、ほかして(捨てて)しもうたろうかね。こんなもの置いちょいても、いかん思うて。けど、ひょっとしたら、まだ一つ、二つはあるかもしれん。子どもに来たがも、あればぁあったきね。もう、わからんね。何十年も見んもん。お父さんの肩章とか、いろんなものと一緒に、萬世子に渡したように思うけどね。

最期については、わかりません。軍の方からは、直接にはなんも言うてこざったし、あの時分には、訊くこともできざった。赤道直下のどこいらまで行ちょったらしい、言うくらいのことでね。本当に苦労したろう、厳しいところで・・。私は、もう誰にも、そんな思いはしてもらいとうありません。もう二度と戦争は嫌ですね。

あの戦争から70年近い年月が経って、この頃は私らぁも、大方のことは、忘れてしまいだした。こうして遺影集に残してくれちゅうことは、本当にありがたいです。先輩の浜渦武雄さん(文末補足2参照)いうかね、あの方がこうやってお世話してくださったから、遺影集もできたし、遺族會館もね、ああして残りましたよね。

この北川という村は、先に立ってやってくれる人たちが、こういう心掛けでやってくれるから、後へ後へと残りますがね。お陰様で、隆さんのことも忘れられんと、後の人につながっていくと思うて、感謝しています。


< お父ちゃんからの手紙 >


◆大寺 一子 様(妻への手紙)


毎日忙しい日を送っていることと思います

ご健勝で今頃麦の手入れに懸命のことでありましょう

節句ですが 鯉幟もどこを見ても見えず ただ異郷の風景のみ

洋君の幟を見て 萬世ちゃんが喜んでいることと想像いたしておりますよ

節句に送金をいたしたが受取りしてください

返信は航空便にて書留にし返信を願いする

健吾で郷土にあるときより元気で働いている故あんしんしてください

皆々様によろしく 体にくれぐれも注意する様に


◆大寺萬世子 様(長女への手紙)


毎度の便りの健勝の報 嬉しく喜んで居ります

氏神様のお祭りも楽しくすんだようで誠に結構のことと思います

刈取りもそろそろ始めているようだが、豊年で何より喜ばしいことでありましょう

また近年にない柿の豊年のようにて美しい実を垣根にぶら下げていることとて子供等もほしがることでありましょう

蜜柑も又たくさんなったようで菓子の少ない昨今とて何より副食のことでありましょう

土生の方から棒峯様の御守様送ってくれました

お礼を言ってくれ 

麦蒔を待とう

体に十分気を付けて

皆様によろしく サヨウナラ



ootera6.jpg
幼い萬世子さんをはじめ家族への気遣いがあふれる隆さんの手紙


<補足1>

清岡まよ:清岡道之助は、田野町土生の岡の郷士であり、武市半平太とともに投獄された土佐勤王党員の助命嘆願を岩佐の関所に出したその足で脱藩しようとして、捕らわれ、処刑された安芸郡の二十三烈士の首領として知られる。今も残るその生家の床の間に家系図が掛けられているが、「まよ」という名の姉は確認できなかった。


<補足2>

浜渦武雄:大正4年、北川村野友に生まれる。傷痍軍人となり、昭和13年に兵役免除となって以降、北川村に帰り、戦中・戦後の多難な時代を村職員や村議会議員として活躍した。遺族会においては、歴代の会長をよく支えながら、遺族會館の建設や英魂堂の再建に尽力。また、遺族會館内部に戦没者の写真を掲げ、英魂堂内部には神仏両様にお祀りができる設備を仕上げるなど施設の充実を図るとともに、村の英霊の遺影写真集「国敗れて山川あり」の編纂出版を行った。平成4年没。


あとがき


 北川村遺族會館に掲げられた数多くの英霊の遺影。この英霊たちの声を聴きたい、確かにここで生きていたという証しを記したい、という私の思いに応えて、大寺一子さんが、夫隆さんとの思い出を語ってくださいました。

戦争のことは思い出すのも、ましてや語ることはもっと辛かったかと思われます。本当に、ありがとうございました。

 一子さんの、ご高齢とは思えない明快な語り口で、隆さんとの出会いや当時の結婚の様子が、生き生きと伝わり、暖かな気持ちになった一方で、戦争の厳しさを突き付けられ、改めて深く考える機会ともなりました。

頑張り屋の一子さんが築かれた今の幸せも、平和な日々の中だからこそです。戦争を知らない世代の私たちも、平和のありがたさを肝に銘じたいと思います。


ききがきすと担当:鶴岡香代





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2015年03月27日

はるかなる人に 〜川島正秀さんのこと〜

  語り人  川島操さん(妻)

  語り人  上村繁樹さん(義弟)

  語り人  川島博孝(長男)



今 も 胸 の こ こ に

語り人  川島操さん(妻)


遠いあの日、寄りおうて一緒になって


kawa2.jpg よう来てくれましたね。でも、夫のこととゆうても、すべて昔のことになってしもうて、わからんようになりました。私は大正9年の生まれで、もう94歳になります。こんな年寄りですきねぇ。


正秀さんと結婚したのは、私が数えの19歳の時。正秀さんは3つ年上でした。結婚前から互いに知り合っていたというような、そんなことはありません。同じ部落でしたから、もちろん顔は見知っていましたが、今の人たちのように好きになってというようなことではないんです。あんまり昔のことになりましたき、細かいことは忘れてしもうて・・。もう遠い遠いことです。

 今みたいな結婚式もせんかったねぇ。寄りおうただけ。そうして一緒になりました。そのときに、こんな話をしたというような記憶もないです。特にはなんの話もなかったねぇ。昔のことやもんね。今とは違う。


kawa1.jpg(川島正秀さんは大正6年8月25日生まれ。昭和17年8月、大東亜戦争に応召。昭和19年4月、博多を発ち、南太平洋方面に出征。昭和19年8月4日、マッカサル海にて戦死。)


 結婚してからも、どっかへ遊びに行くというようなことはなかったですよ。遊びには行きません。貧乏暇なしです。時代も時代だったから、楽しいことは全然ない。二人でしたのは、本当に仕事だけでね。いいようがないほど、仕事ばっかりしました。家は百姓で、田畑の仕事ばっかり。山での仕事もあって、これがなかなかしんどかった。昔のことは今とは違うから、仕方ないと思いますよ。


それに、一緒に暮らした年月は、今思うても本当に短かった。結婚の翌年、昭和1310月に生まれた長男の博孝が、ようよう4つになった年の夏に、出征しましたもんね。ほんの5年くらいですかね、結婚して一緒におったがは・・・。そんなもんじゃろねぇ。短いもんやった。

長男の下には、2つ違いで長女の満子が生まれていました。応召されたときには、二女の惇美も腹の中にいましたき、正秀さんは気にかかってしょうがなかったろうねぇ。結局、昭和17年の8月に行ったきりになって・・・、一番上の博孝の小学校への入学も、よう見んと行ってしもうたわねぇ。


泣いて、泣いて、それから精一杯仕事して


戦死の知らせを受けたのは、山で仕事していたときでした。弟の嫁が呼びにきてくれたのを今でもよう覚えちょります。暑い日でした。そりゃもう、泣いて、泣いて。ほんとう目も腫れちょった。家へは誰が言うてきてくれたもんか、そんなことは忘れました。役場やったろうかねぇ。


遺骨は、長らく来んかったように覚えています。まぁ、遺骨いうても、木の札だけで、他にはなんにも来ざった。遺骨が帰って来たときには、ガソ(森林鉄道)で途中の二又まで来たのを、もろうてもどったと思います。それから、みんなに来てもろうて、ちゃんと葬式をしました。いつとははっきり覚えてないけんど、鮎が取れるときやったように思うきね。夏の終わり・・やったろうかねぇ。


kawa5.jpg昭和19年の8月4日に、正秀さんはマカッサル海(※地図参照)で亡くなったということでした。28歳の若さで、ねぇ。戦後しばらくして、野市に復員してきた人が、正秀さんと同じ船に乗っていたと知らされました。その人は、沈没した同じ船に乗っていて、助かったということでした。夫の最期がどうだったか、話を聞かせてもらいたくても、私には3人の子どもがいて行くことができず、弟に行って話を聞いてきてもらいました。弟なら、その話ができると思います。ぜひ、弟からその話を聴いてみてください。お願いします。


 夫の出征後に子どもがもう一人できて、3人になっていましたから、生活は、それはもうたいへんでした。その苦労は戦後もずっと続きましたよ。短い結婚生活で戦争に行かれて、男手なしに農業をしながら、3人の子どもを育てたんです。並たいていのことではありませんでした。でも、あの当時は、みんな同じ。そういう時代でした。


私は、自分の親の家の隣に住んで、両親に助けてもらいました。弟夫婦と一緒に、大家族の生活でしたが、子どもたちの世話は親や弟嫁に頼み、私は精一杯仕事しました。


お陰様で、子どもたちは健康に育ってくれました。でも、中学校を卒業した長男を、生活のために、すぐに山の仕事に行かせなくてはならなくて・・・。私は、なんとか工業高校に進学させてやりたかったんです。そのことは、今思い出しても辛いし、心残りなことです。下の娘2人は、田野の親戚の家から中芸高校へ行かせることができて、それぞれに巣立っていきました。みなが助けてくれて、頑張ってくれて、お陰様で、今日の日があります。


胸のここにずっと居る人


kawa3.jpg 正秀さんの思い出というても、もうこれくらいのもんです。百年近くも生きちゅうと、たいがいのことは忘れてしまうもんよ。笑いゆうけど、みんなぁそうよね。遠い遠いことになって、忘れていくもんよ。

そうそう、手紙を持って来てくれちょったがやねぇ。正秀さんは、手紙をよく書いて寄こしましたから、それはこの缶にいれてずっと大事にしてきました。筆まめな人で、満州から私にきたものや、博孝に当てたもの、私の両親へのもの・・いろいろとたくさんきました。書くことは、なんでも書けるき、手紙にはやさしいことばっかり書いて寄こしちゅう。

字は上手で、よく近所の人の手紙も書いてやったりしていました。几帳面な人でしたし、手紙のとおり、やさしいことは、やさしい人やった。私はもう目も見えんなって、長いこと読むこともないままですき、今はもうどんなことが書かれちょったか、ようは覚えてはいません。

けど、書く字が博孝と似いちゅうように、顔や性格も、二人がそっくり。よう似いちゅうと思う。今でも、胸のここに、ここにずっと居る。だから、すぐに思い出せるんよね。短かったけど、忘れることはありません。いつまでも、ここにいます。



正 秀 さ ん か ら 託 さ れ て

語り人  上村繁樹さん(義弟)



ともに島で育って


kawa4.jpg正秀さんは、私の姉の亭主で、義理の兄になります。私とは、7つ違いじゃったけんど、同じ島(北川村の地名)の出身で、子どものころから知り合いでした。島には、小学校があったですよ。小島小学校の分校で、その当時は、島にあるような分校が奥に7つあった。年が離れちゅうき小学校で顔合すことはなかったけんど、狭いとこじゃき、みんなぁが顔なじみよね。


よう山で遊んだね。冬が来たら、こんな棒を引かいて、その向こうにタネを置く仕掛けをつくって、小さい鳥をおさえた・・・。それが一番の遊びやったね。メジロなんかの小鳥が多かったけんど、太いのはハトなんかもおったなぁ。焼いて食ったろうかね。食べたことは、よう覚えてないけんど。まあ、遊びごとよね。男の子は、毎日、山ばっかしで遊んだね。


夏は川へ、ね。かなつき持っていって、鮎をついた。冬は、アメゴとイダや。チチブは石にひっついちゅうがをおさえた。どれも美味しいわよ。いたどりなんかの山菜も取ったりしたけんど、それは一時のことよ。


子どもの頃は、あんまり家の手伝いはせんかったね。大事にしてもろうた。上級生になったときは、荷運びをやったがね。昔は物を運搬するには、全部、背負いというもんで、背中に負うて運んだわね。家の手伝いは、そんなことくらいで、家族があんまり手伝いはさせんかったように思うがね。私も親の手伝いをしたというような思いはあんまりなかった。


正秀さんとは年が離れちょったきに、一緒に遊ぶことは少なかったけんど、なんかのときには大事にしてくれたと覚えちゅう。自分は姉二人じゃき、いい兄貴、いい話し相手で、ありがたかった。


正秀さんが、兵隊に行くときには、家族みんなぁを預かっていてくれと言うて頼みにきたがよ。それで、家へみんなぁが来て、11人の大家族で暮らしたことよ。姉さんの子どもたちとは、実の親子と一緒、家族同然じゃ。


長男の博孝は、そのとき、まだ5歳じゃった。まだ自分らぁには子どもがない時分じゃったが、妻が背におうて、よう守りしたもんよ。その下に女の子もおって、同じように育てたねぇ。姉の操が3人目を生むようになっちょって、出産に、奈半利の病院に来ちゅうときに、ちょうど正秀さんが召集になって、兵隊に行ったと思う。それが最後になってしもうたなぁ。


戦場から自分の親のところへ、よう便りがあった。正秀さんの手紙はたくさん残ちゅう。こんな箱に入れて、今は川島の嫁が大事に持っちゅうと思うが。字は上等。上手やったと覚えちゅう。


海に沈んだ最期


戦後になって、姉の代わりに、野市へ復員した人を訪ねていったときのことは、よう忘れん。今のと昔のとは野市の道路も、多少違いはせんろうかと思うが、東から高知向いて行ったところの北側に散髪屋があって、そこの人が、正秀さんが戦死したとき乗っちょった、ちょうどその船に一緒におったということやった。


その人の話では、まずは満州の方へ行っちょったらしい。満州のどこまで行っちょったかは、わからんがね。その満州から乗った船が内地へ向かったもんで、兵隊のみんなぁは、これで帰れると考えちょったようです。ところが、いったんは九州の博多へ着いたものの、船は南方へ向こうた。もう忘れましたが、ずっと南のなんとかいう島から船に乗ったところで、船がやられてしもうたと聞きました。


野市の人が言うことには、「私は、船に酔わんけれど、川島の正秀は船に弱いから、船の底に入ると言って、下へ降りて行った。それが最後で、船がやられてしもうて・・・。私は船から降りることができて助かった」と。それで、終戦になり、家へ無事に戻ることができた、ということじゃった。


野市の散髪屋の人の名前も、船が何にやられたのか、そのときの詳しいことやなんかは、もう忘れてしまいましたけんど、大方はそんなことでした。その話を聴いたときの、なんやら言いようがない気持ちは、よう忘れませんがね。そのほかのことは、なんちゃわからん。野市の散髪屋が言うくらいのことしかわからんです。


実は、正秀さんは、満州から九州に着けば、私が面会にくると思うちょったらしい。ちょうどその時分、私も兵役で善通寺へ行っちょたけんど、親が年老いちゅうき、1回は家へ帰って家の整理をしてから来いと言われて、ちょうど家へ帰っちょった。それで、九州へ行く間がないままに、正秀さんの船は博多を出てしもうた。今でも悔やまぁね、そのことは。


島へは来たことがあるかね。今度島へ来たら、自分の家へも寄ってよ。博孝の隣がうちよ。川島の家族とうちの家族とは、本当の兄弟以上よね。大家族みたいなもんじゃ。今でも、博孝に、うちの家からあれ取ってこい言うたら、自分の家と一緒で何でもわかっちゅう。親子も同然じゃ。本当の付き合いじゃ。


博孝もわしを親みたいに言うしね。うちの家内も博孝が5歳のときに背に負いまわって世話したきね。正秀さんが家族を頼むと、自分のところへ来た。それは、もうずっと昔のことじゃが、心にはずーっと残っちゅうわよ。



お や じ へ の 封 印 し た 思 い

語り人  川島博孝(長男)



暑い日の白い思い出


 おやじのことは、村がつくってくれた遺影の写真集にあるぐらいのことしか知らん。戦死したマカッサル海は、地図にはあったぞ。何回かは、わしも見た。けんど、それもずーっと昔のことや。その他のことは、わからん。乗っちょって沈んだという船の名前もわからん。




kawa6.jpg
機械仕事に精を出す川島博孝さんと妻の貴美子さん

 戦没者墓地のある野川口まで、初めて行ったときのことは、よう覚えちゅう。5つばぁのときやろう。その頃は、まだ奈半利川に今の橋はなかったき、手前のどこかから野友まで、ロープやったか、針金やったか引っ張っちゃったき、そんなもんを手繰って船で渡しよった。今の高速が走っちゅうところへんか、もうちょっと上やったろうか。加茂の方からね、向こうへ、野友の方へね。そんなにして、親父の遺骨を納めに行ったことよ。それは覚えちゅう。


夏の暑いときに、初めて渡しを渡って、流れがきつうて妙に怖かったなあ、っていうような感じも持っちょらぁ。白い布へ何か書いてもろうて、それを遺骨の箱へ巻くかなんかしたような・・・。それがなんやったか、わからんけんど、そんなものは遺骨へ巻くよりほかは、なかったと思うきね。


多分、初めての祀りということで、大勢で一緒に行ったんやろうと思う。前田の家におばさんがおったころで、そこで待たさいてもろうたと覚えちゅう。そのときの状況は、確かに出てくる。親戚の者に連れられて、そこまで行ったがや。誰と行ったかは、ようはわからんけど、島光則さんは確かにおったと記憶がある。その人は、上村の叔父の嫁さんの兄貴やき。

母の話は二又で遺骨を受け取ったということで、こっちは、戦没者墓地へ祀りに行った話や。二又でのことは、覚えちゃあせんけんど、遺骨を受け取ったあとの、ちゃんとつながった話や。遺骨いうても、おやじは船で沈んじゅうがやき、もろうたもんには、なにも入っちぁせん。本当に、なにもなかったし、なにもわからん。


誰にも話すこともない、遠いことよ。とにかく、暑かった。みんな白いもん着て、袖まくしあげるか、半袖か。あの頃は、夏着るもんいうたら、ワイシャツでもなんでも白いもんしかなかったき。変わった色はなかった。みんな白かった。なんせ、白一色よ・・・・。


ぷっつり切った・・辛い思い


おやじが死んだというようなことは、小学校の3年か4年ばぁからこっちは、ぷっつり切れた。手紙も昔々に何回か見たけんど、その後見るようなことはない。こうして残しちゅうだけのことや。


おやじのことは、正直言うて、思い出すのは辛いし、話しとうもない。戦争の話は、本当にせん。しとうない。わしら、おやじの顔も知らん。写真で残っちゅうだけで、わしらには、わからん。よう似ちゅうと言われるき、似ちゅうがやろう。わしは子どもの時分は、わりことし(いたづらっ子)やったぞ。この写真を見てみいや。わりことしの目をしちゅうが。


物づくりが好きで、機械のことやったら話すことはなんぼでもある。手づくりのこの庭や、山の木のことらぁも、話しはいっぱいあるき。また来たら、次は、そんな話をしちゃおう。時間が、なんぼあっても足らんぞ。



< お父ちゃんからの手紙 >


○川島 操 様(妻への手紙)

 操さん 子どもができたとのこと安心いたしました

 その後ひだちはいかがにございますか お伺い申し上げます

 女の子だとね 名前はなんとつけたのだ

 早く早くお便りくださいね

 次に家の方の秋、月谷らはちょっとは刈ったでしょうね

 自分の家の秋の様子も知らしてくれよ

 ウマイ物であればウント送ってくださいね

 ハハハハ

 では御身大切になさいませ



○川島博孝 様(長男への手紙)

 博孝よ 父も大変元気にて着いた故、安心致せよ 

一生懸命でやっているよ お前もまだ五つだ 

おばあ様やおじい様の言うことを良く聞いて元気で遊びおれ

母の言うことを第一にね 母にも良く言え

武重君には懸命で訓練をせよとね

まずは体を大切に

また次に さようなら



kawa7.jpg
博孝さんに満州から来た絵葉書


○上村 庄 様(妻の母への手紙)

 拝啓 時下厳寒の その後 ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません

 その後 母上様にはお変わりありませんか お伺い申し上げます

 次に私も元気にて懸命に働いて居ります故 ご安心くださいませ

 お手紙によりますれば島も今年は大変に寒いとのことですね

 また 長々の晴天で飲み水も大変少なくなったとのことですね

 お困りのことと思います

 お母様には毎日子供たちの守りをしていてくだされ

誠にお世話様にございます

 なお この上とも よろしくお頼み申し上げます

 本日は旧正月の元旦でありますよ

 お正月も博孝や満子は元気に遊んでおることと思います

 では 御身大切にお暮しくださいませ

 度々お便り待っております



○上村 産次 様(妻の父への手紙)

 拝啓 長々ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません

 その後 御父上様一同には お変わりございませんか お伺い申し上げます

 次に私も元気にて務めおりますれば 何とぞご安心くださいね

 さて昨日は慰問品をたくさんお送りくだされ 

誠に有難く厚くお礼申し上げます

 印も受取りました故 安心ください

 操の書面によると 早や野床をしているとのこと 早いものですね

 当満州も暖かくなって野原は青くなってきましたよ

 暖かくなるにつれて奈半利川の鮎も大分上がってきたですね

 島にも着ているでしょうね お伺いするよ

 では いつもながら操、子供をよろしくお頼み申し上げます

 皆様によろしく申してくださいね 書面にてお礼まで



あとがき



 仕事で出席した高知県北川村の戦没者慰霊祭で、会場である遺族會館にぐるりと掲げられた数多くの村の英霊の遺影に出会い、まっすぐに視線を投げてよこすその若さに、私は痛いほどの哀しさを感じました。そして、そのことは、私の中ですでに過去のこととなっていた戦争を、身近に引き寄せて考えるきっかけともなりました。


遺影となったみなさんに少しでも関わりたいと願いながら、もう十年近い年月が経ってしまいましたが、この度、やっと、遺影のお一人である川島正秀さんのご遺族に会い、お話を伺うことができました。


 若かりし日の結婚生活について、川島操さんは、「遊びには行きません。二人でしたのは仕事だけ」と教えてくれました。戦争は、花見や祭りなど、そんなささやかなエピソードも許さず、ほんの5年で逝ってしまった正秀さん。でも、「胸のここに、ずっと居る」と、手を胸に当てておっしゃった操さんの言葉が、私の耳にずっと残っています。


戦争とは、戦死された人々だけでなく、遺された家族のみなさんにも、耐え難い苦難を強いるものなのだとつくづく知らされました。重い心の蓋を外して話してくださった長男の博孝さんをはじめとするご遺族のみなさん、本当にありがとうございました。


また、今回の聴き書きには、北川村協会福祉協議会の西岡和会長さんをはじめ、多くの方にご協力いただきました。心から感謝申し上げます。


ききがき担当:鶴岡香代


(完)

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posted by ききがきすと at 21:30 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月08日

少年飛行兵、八五歳の今思うこと

語り手:杉本 明(すぎもとあきら)さん



生い立ち


sugimoto1.jpg私は、昭和4年(1929年)、熊本県下益城郡小川町(現在は宇城市)で、8人兄弟(男7、女1)の5男として生まれました。家は精米業でした。

 

父親は明治12年生まれ。日露戦争に行って帰ってきて、その後、アメリカへ行きました。その頃、熊本・広島・和歌山では、移民に行くことが大変流行っていました。アメリカへ行って、そこで子供2人が生まれています。アメリカである程度金を稼いで、それを元手に国へ帰ってきて、精米業を始めたようです。

 

その頃、百姓は食うや食わずの状態で、日露戦争は、イギリスから金を借りて、あれ以上続けたら日本は破産していたという瀬戸際で勝った、そういう情勢でした。父親は、乃木大将の第三軍に所属して、例の203高地の戦いに参戦していましたから、よくまあ生き延びたと思います。帰ってきた頃は働き口がなく、農民はみんな兵隊に行ったのでしょう。長男だけが家に残った、そんなふうに推測しています。

 

精米業といっても、小作人相手ですから、肥料から農機具等の分まで自分たちで支払えない費用を前貸し、その分を作物ができてから米で物納してもらう、という仕組みでした。

 

sugimoto3.jpgただ、家族だけで間に合うわけにもいかない仕事でしたから、小作人のところまで行き来して米等を馬車やリヤカーで運搬する男衆(人夫)、そして家事全般を担う女中を雇っていました。ひたすら精米の仕事に専念する親父を、いわば工場長≠ニすれば、金庫番≠ノ相当するのがおふくろでした。

 

当時は義務教育制度もなかったこともあり、小学校にも行かず、ろくに読み書きもできないような父親に対し、高等小学校を出ている彼女はインテリ女性でもありました。小作人には誰にいくら貸したかを通帳〈かよいちょう〉に記帳しておき、収穫期には「あなたは米何表持ってきて…」と割り振りし、男衆や女中には必要な指示をだすなど、全体の采配をふるっていました。

 

米を集める時期は、家の中、蔵の中は米だらけという印象でした。米は一般の人にも売って商売にしていました。初めは貧乏だったと思いますが、私が育った時は比較的豊かでした。

 

その頃、まだ幼稚園なんかありませんでしたから、私が小学校へ入るまで、どういう生活をしたのか、写真もない、記録もないものですからわかりません。この前、自分史つくりのこともありますので、姉(91才でまだ存命)に「私が子供の頃、どういう子だったのか?」と聞きましたら「とっても大人しくていい子だったよ…」と言われましたが、あまり記憶はありません。




 

小学校時代

 

小学校へは昭和11年に入り、17年までいましたが、その間に2・26事件とか、支那事変とかいろいろあったわけですけれど、子供ですから、私はあまり身近に感じてはいませんでした。だけど、支那事変で戦死し、英霊として帰ってくる人がたまにいましたから、「ああ、戦争やっているのだなあ、中国と戦争やっているらしいよ…程度しか知りませんでした。

 

小学校では毎日の行事がありました。学校の門を入ると「奉安殿」(※注)というのがあり、最敬礼をしてから教室へはいりました。朝、全校生徒が校庭かまたは講堂に集まり、校長先生が「天皇陛下に挨拶、東方遥拝!」で始まる訓示がありました。もう一つ、元旦や紀元節の祭日にも学校に召集され、奉安殿から講堂の壇上に運び移した「教育勅語」が読み上げられ、その間、頭を下げて聞かされました。

 

奉安殿:戦時中、各学校に建設され、天皇、皇后の御真影と教育勅語などを納めていた建物で、職員生徒は、登下校時や単に前を通過する際には最敬礼するように定められていた。


 以前、戦友会で伊豆へいき、観光スポットになっている明治5年に建てられたという小学校を見学しましたが、そこに「奉安殿」があり、土産ものとして売っていた「教育勅語」を記念に買ってきましたよ。

 

小学校6年の時、昭和16128日に真珠湾攻撃がありましたね。なぜか、霜が降りてとても寒い朝だったことが記憶に残っています。ラジオで「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という放送を直に聞いて、何か大変な事になりそうだなあ、と感じていました。

 

 17年元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃で、アメリカの軍艦が波しぶきを上げて沈んでゆく写真を見て、ああ、日本はすごいんだなあ、と強烈に思っていました。一方、熊本というところは、陸軍の第6師団という大変軍事色の強い環境にありましたので、「末は大将か、大臣か」というようにいわれたものでした。だから、親父も徹底した軍国主義者でしたから、国のために一生懸命やるんだ、という思いは強かったんですね。

 

sugimoto2.jpg 兄弟8人については、長男は中学をでましたけれど、姉は高等女学校へ、あとは皆、高等小学校へ。私だけが突然変異みたいな児で、自分で言うのもおかしいかもしれませんが頭がよかったのですよ。卒業する時は、成績優等賞、運動賞、そして6年間無欠席だったので、賞状を4種類もらったくらいでした。

 

 スポーツはバレーボールをやっていて、私のポジションはセッター、小学校の時から男50人くらいの学級の中で、私は一番背が高かった。初めはバスケットボールをやっていたのですが、なんか小学生にはキツイ、というわけで、6年になってからはバレーボールにかわったのです。

 

ドモリが障害になった面接試験

 

当然のように中学(今でいう高等学校)進学を志向しました。試験は筆記試験はなく、口頭試問だけがあり、先生が3人座っているところで話すわけです。私はボーット頭に血が昇って会話にならなかったのです。それで、中学入学試験は不合格。しょうがないから、ふつう、中学に落ちた人がそのまま進学する高等小学校1年に入りました。

 

頭のいいのは皆が中学へ行き、水呑み百姓で勉強ができないような連中が高等小学校に行くわけですから、自分としては志と違って心外、ずいぶんとショックでしたね! 私はイヤになっちゃったので、その当時陸軍には幼年学校というのがあり、いっそのことこっちの方がいいと、試験を受けました。学科試験は通りましたが、やはり面接で、ドモリが甚だしいということで合格に至りませんでした。

 

しょうがないと思って、高等科1年の時に改めて中学を受験しましたけれど、口頭試問でまた落っこちました。兄貴がドモリを始めて、それを私が面白がって真似ているうちに自分もそうなってしまったらしく、6年生になった時、自分がドモリだということをハッキリ意識するようになりました。だから、みんなの前でしゃべれなくなったのです。ドモリのことは、大学生になってからも、就職してからも引きずっていました。

 

少年飛行兵への道

 

 sugimoto4.jpg高等小学校には行きたくなかったけれど、そうは言っておられない。それで、『少年飛行学校』を受験したのです。ここでは、面接でドモリにならなくて合格できました。昭和1810月に立川にある『陸軍航空学校』へ入隊しました。その時は、担任の先生も喜んで、高等科2年生の生徒を自宅へ集めて私の送別会を開いてくれ、皆でさよならと駅まで送ってくれました。東京へ来る時は、ちょうど父の甥っ子、姪っ子が神戸や名古屋にいましたので、ついでに行こうというわけで、家がまだ裕福なこともあり両親もついてきました。昭和4年生まれの人だけの募集でしたが、多分3500人くらいが入隊したのではないかと思います。

 

 立川に集められて営兵生活をしていた時、我々グループの班長から「お前たち、生きて帰れるなんて思っていないだろうな、生きて帰りたいなら今すぐ帰れ!まだ入校式はやっていない、帰りたい奴は今すぐ帰れ!」こう言われたんです。生きて帰れない、なんて殆ど考えていませんでしたね。だから、生きて帰りたい、と思うけれど、歓呼の声に送られてやって来たのに、まさか、本音をいうわけにもいかない。結論的に言うと、自分は戦争で、弾が心臓でなく脚にあたって名誉の負傷をして、生きて家に帰りたいなあ、という思いがずっとありました。

 

 今、戦友会でそういう話をしても、他の連中はそういうことはなかったみたいですね。たまたま私の班長が言ったのであって、それも私と一緒に話を聞いたのは、1213名ぐらい。極端に言うと私だけが聞いた感じです。やはり建前と本音とは違う、国のため、故郷に錦を飾るとか、すごい憧れがあり、例えば、戦死して英霊として帰ってくるとか、そういうものに敬意を表することはありましたが、それと一個人として生きるという執念とは別問題だと、私だけは思っていたのでしょうね。

 

立川には1週間近くおりました。操縦、通信、整備と3つにわかれており、いろいろと適正検査がありましたが、私は通信に所属し、その後『大分陸軍少年飛行兵学校』に配属されました。

 

大分陸軍少年飛行兵学校

 

sugimoto5.jpg 大分少年飛行兵学校では榛名中隊4小隊7班に配属されて、1年間の教育を受けました。6時の起床ラッパでたたき起こされ、朝の点呼、午前は学科で、午後は有線通信、歩兵訓練、射撃、剣術、銃剣術の訓練です。

 

 有線通信訓練は、電話機とケーブル巻取器を背負って練兵場や大分市内に移動し、列車のレールの切れ目を利用して、バラスの上に通信ケーブルを敷設したり、橋桁の下を通す作業でした。電話機等を背負うとずっしりと重く肩に食い込んできましたが、市内に出て娑婆の匂いをかぐのはせめてもの楽しみになっていました。1日の訓練が終わっても、自分の班に戻れば、所有物の整理や洗濯で時間が足らず、夕食を食べ、風呂に入ってそのあとも90分の自習、10時の消灯ラッパとともにそのまま寝込んでしまうという、時間に追いまくられて日課をこなすだけで精一杯の毎日でした。

 

夏には歩行訓練を兼ね、別府の野外演習場まで、炎熱の中を背嚢の上に銃をかついで、軍歌を唄いながら歩く約4時間の演習がありました。肩に喰い込む銃を「左肩に変えろ」の指令でほっと一息ついて左に変えたり、また水筒の水もその都度チェックされ、演習場にたどり着くときには喉の渇きでフラフラになり、失神状態寸前の思いでした。

 

水戸航空通信学校

 

大分で1年たって、翌19年『水戸航空通信学校』へ行きました。10中隊あって、私は機上通信中隊に配属され、飛行機に乗る中隊に所属しました。空中勤務いわゆるヒコーキ乗り≠ヘ、気象とか整備とかに比べて一つ上に位置しており、それが大変誇りでした。

 

午前はトンツ―訓練=A乱数表を使い数字だけで(暗号処理により)通信するわけですが、毎日トン・ツー、トン・ツーの連続でものすごい量の訓練を受けました。学科としては通信機の構造理論教育があり、真空管の原理などの説明があっても、小学校出身で十分な基礎教育を受けていない私にはちんぷんかんぷんで、理解するまでは苦労しました。

 

sugimoto6.jpg午後は教練で、飛行機に搭乗して訓練を受けました。飛行機に乗った時のトンツー実地訓練≠ナは、電波が大きくなったり小さくなったりして、大変神経使う訓練でした。

 

機上訓練では、通信機とバッテリーを飛行機に乗せての訓練で、三層の通信機を繋ぐケーブルがときどき接触不良になることがありました。出発時間までに点検を終えなければならない、と時間との戦いに苦労しました。内容としては、練習機に4人搭乗して、地上との通信連絡、方位決定、爆弾投下が主な訓練でしたが、教官の指導でやっていてもミスすることが多く、いわゆる空中拳骨≠フ制裁がしばしば飛んできました。

 

朝の点呼が終わると飛行場を一周するのが日課でしたが、水戸の冬は寒く、霜柱が20センチほど立っている中、靴が埋まりながら走るのが大変でした。また10日に1回ぐらい、消灯ラッパが鳴る時刻、交代で兵舎入口に歩哨として立つ任務がありましたが、厳寒の中で1時間立ちっぱなしでいると、体が凍えて床についても眠れないことがしばしばでした。

 

20年に入って空襲が激しくなり、機上訓練が出来なくなってきたので、飛行場の周囲に塹壕を掘り、機関銃を据え付けて待機し空襲に備えました。しかし、敵のグラマン機襲来で機関銃を発射すると逆襲を受けることにもなるので、結果的には実際に機関銃を発射することは一度もありませんでした。

 

終戦

 

昭和20年になると、制空権がアメリカに抑えられ、水戸にも毎日のように敵のグラマン機がやってきて砲撃されました。310日の東京大空襲については、その日、東京の空がやけに明るいなあと思いましたが、何も知らされませんでした。6月、沖縄が占領された頃だと想像していますが、鳥取分隊へ移りました。現在の鳥取飛行場になっている砂丘の一部でしたが、ここは工場もなく空襲がありません。裏日本は真空地帯、そこへ敵が上陸するとは上層部も考えていませんでした。通信兵というのは大変貴重で、通信兵がいないと編隊を組んで誘導することができませんから、とにかく訓練できる場所を確保して継続する必要性があったのでしょう。

 

米機動部隊を探知する『索敵』訓練は、米軍のレーダーに探知されないように電波発信は最小限にとどめ、空母=1、戦艦=2、駆逐艦=3ときめておき、艦数だけを本部に発信する厳しい訓錬でした。実は、通信兵は海外の放送を聞こうと思えばできたのです。傍受は厳罰ものでしたが、ある時ダイヤルをまわしていたら、たまたま「ソ連が満州へ進軍した…」という電波が聞こえました。「これはどうなるのだろうか?」と思いましたが、勿論、そんなこと誰にも言えませんでした。

 

815日、「今日は飛行機が飛ばないから…」と全員集合し、『玉音放送』を聞きましたが、ザーという音が耳に付き、天皇の声ともよくわかりませんでした。そして、夕方上官から「日本は戦争に負けた」と聞かされました。

 

阿南陸軍大臣の自決の報を聞かされたりして部隊は混乱していましたが、しばらくして本隊があった加古川(兵庫県)に集合して本隊長の訓示があり、「いざ鎌倉まで自宅待機!」の訓令が出て、復員が確定しました。郷里の熊本へ帰る途中、超満員の列車で広島駅を通過したとき、巨木の幹だけが白い肌をむきだしにしている夜景を見て、特殊爆弾が落ちたらしいと聞きましたが、原爆だったのですね。

 

子供だから、戦争に負けた、という意味がよくわかりません。生きて家に帰れる、ああ、万歳!おふくろのいるところへ帰れるというのがただ嬉しい、という思いでした。家に帰った時は、両親と姉と弟二人、それに疎開していた親戚が数人同居しており、家の中は家財道具やなんかで大変でした。

 

あまりにも混沌としているから、私は船乗りにでもなろうか?兵隊に行っていまさら中学へゆけるか?という大人っぽい自負もありました。けれども、問い合わせたら、「陸軍少年飛行学校生なら、中学3年生の資格がある…」ということがわかりましたので、証明書をだして、私は同級生より下のクラスに編入しました。中学に入ったけれど、皆は英語、物理などを勉強しているけれど、こっちは何にもやっていない、特に英語は全くチンプンカンプンで大変苦労しましたね。

 

熊本の中学へ復帰しますと、クラブ活動が始まるというわけで、バレーボール部を結成し一生懸命練習しました。県大会に参加したら、奇しくも優勝してしまい、第2回国民体育大会の県代表として金沢大会に出場することになりました。入場行進が始まりメインスタンドを行進していたとき、主賓席にMPに護衛された天皇陛下のお姿を拝謁しました。戦前、戦中ではとてもかなわなかった現人神〈あらひとがみ〉を見たわけですから、感激のあまり目がしらが熱くなり涙がこぼれてきました。

 

大学に入ったけれど

 

sugimoto7.jpg 大学に志望を出すとき、郷里出身で大学の理事をしていた先輩に挨拶にいきました。「聞けば優秀な運動選手らしいから…」とバレーボール部入部を条件に推薦してくれたようです。しかし、現状は食べるものがない、日々生きることが先決で、運動するどころではなかったので、実際には入部しませんでした。当時のバレーボールは9人制で国際試合はありませんでしたが、もし国際試合のチャンスでも予想できていましたら、入部を考えたかもしれませんね。

 

 早稲田大学の入学式の時に、挨拶に立った教授からは「戦時中は軍事教練で大変だった…」という話を聞きました。「東大、明治とかは早々と軍事教練を承諾したけれど、早稲田は拒否していた。ある時、陸軍大佐がやってきて、壇上に登り軍事教練の必要性を説き、『諸君!』と言い出したら、『大佐!その胸についている勲章は人を殺した功績の勲章ではないか!そんな軍事教練なんかやれるか!』と学生がわあわあと騒ぎ出したので、大佐はしゃべれなくなってしまった。そういうのが早稲田精神だ」。それを聞いた時私はビックリしちゃいました。1年前、少年兵として天皇陛下万歳を叫んでいたあれは何だったのか?そう思いました。それを今でもずっと引きずっています。

 

 大学にいきましたが、食糧難で腹が減って腹が減って…。当時は下宿もない、食事つきの下宿に入るなら米を半分出せ、と言われて実家から米をもらって、出したこともありました。自炊のできる部屋がないので、米を持っていてもそれを炊いて食べる所がない。要するに部屋だけ借りるしかありません。食べるものと言えば、例えばお湯をいれると団子みたいなものが出来る(そばがき?)とか、また、実家から米を送ってもらい、当時1升230円で寿司屋に売って、その金でコッペパンとかを買って飢えをしのいでいました。

 

  当時は国民、皆がそうだったと思います。1年くらいは、日々の暮らしに追われて勉強する雰囲気には全くなりませんでした。だから春・夏・正月と大学の休みになると、真っ先に私は熊本の実家に帰って腹を満たそうとしました。その後、同郷の友人一家が住んでいた社宅に、2畳の部屋を間借りして、自炊も出来るからといってやっと落ち着きました。そこで、奥さんが夕食の支度を終えてから、私が飯を炊いて、コンブか佃煮に魚を少し買ってきてご飯にするというわけでした。

 

 学校へ行っても、校舎は戦災でやられたのもあったし、暖房もなかった。大学は出席すれば単位はくれましたから、出席だけはちゃんとしていました。5年(旧制で1年、新制で4年)経過する中で世の中もだんだんと落ち着いてきましたが、それでもやっぱり食べること、住むことの不安がつきまとっていました。友達のところへ行くと、そのお母さんが「腹一杯食べなさい」と、また、郷土の先輩をたよって会社を訪ねていくと、ビフテキを食べさせてくれたりして、今でも思い出しますね。

 

 私の友達といえば同郷の2、3人ぐらい。本当はクラブ活動のどこかへ入っていれば、友達ももっとできてよかったのでしょうけれど、つきあうとやはり金が要りますし、金がないからつい遠慮しちゃう、みじめな思いはしたくない、というプライドもあったかもしれません。だから、大学の友達は殆どいませんでした。このあたりのせつなさは身にしみていましたから、自分の子供には、大学へ入ったら授業はいいからクラブ活動をやって友達を多く作っておけよ、と言っています。戦後の杉本家の経済事情からすれば、私が東京へきて大学へ行くなんてもともと無理なことだったのです。

 

 実家のことですが、戦時中、村には精米業が我が家を含めて4軒ありました。国の食糧統制という事情もあったのでしょう、食糧営団≠ノするという動きに沿って、2軒を廃止しようということになり4軒で話し合いしました。1軒は後継ぎがいないから決まりました。母は「絶対営団には入るなよ…」と言い張っていましたがどうしても話がまとまらない。最後には父の判断で、結局実家も営団に入ることになり統合され、廃業になりました。戦後食糧難になりましたら、精米業を継続したところは、精米する時に1割くらいピンハネしてその分を闇米で売り、その儲けで蔵が立っていましたよ。

 

 そんなことで、兄貴たちは復員したが仕事はない。家はごちゃごちゃしていて親は本当に苦労していましたね。当時、長男は満州からシベリアに抑留されており、次男が米屋を引き継いでいました。だからあてになるのは次男。私が休暇で実家に帰ると、次男は「金なんかないのに、明の大学の月謝を出すなんて…」と、父といつも大喧嘩ですよ。それでも父は次男から無理やりむしり取って、私に金を渡してくれました。いやでしたね!

 

 でも、杉本家から大学へ行く子供がいる、というのはあんな田舎では大変な名誉と思われていましたから、父は「明だけは、なんとかして…」という思いがあり、そのことについては兄弟たちも誇りにしたようですね。今思えば、私一人が大学まで行かしてもらえたこと感謝しなければいけませんね!

 

社会人時代

 

大学を出るころは就職難で八方手を尽くして職を探しました。熊本県出身の先輩に芝浦精糖鰍フ重役を紹介してもらって入社試験を受け、運よく入社することができました。初任給9,800円でしたが貧乏生活の学卒にとっては感謝々々でした。(昭和28年)

 

当時外貨不足で原糖輸入が割当制度になっていて、砂糖会社は斤10円*ラけている時代でした。私たちはその第一期生として採用されましたが、先輩たちは戦前の砂糖会社出身ということもあり、会社の体をなしてはいませんでした。始めは私のドモリ≠ヨの印象から判断されたのでしょうか、総務部へ配属されました。が、そこでの地味な仕事が正直イヤでした。そのうち開発部へ移り、部長が取締役であったことや、会社の環境にも慣れてきたこと、生来の進取の気性にもマッチして伸び伸びと仕事することができました。

 

そして時代は変り砂糖も自由化され、独占体制はくずれて人員整理や会社統合(芝浦精糖、横浜精糖、大阪製糖)が始まり、私たちは清涼飲料(商品名シナルコ)を販売する会社を作って頑張りました。しかし、うまくいかず、三井製糖統合とともに三井物産林業に移ることになりました。

 

三井物産では相模湖町に所有していた山林(100万坪)の処理に困り、自然公園をつくり社会貢献をしようと、三井物産林業に委託することになり、その担当になりました。自然公園の先進国であるアメリカなどを視察して開園にこぎつけましたが、結果はうまくいかず、独立会社(現名称 さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト)運営に切り替えることになり、その後『学校法人 大乗淑徳学園』に転職しました。(昭和62年)

 

大乗淑徳学園は幼稚園から大学院まで当時1万人を擁する学園でした。しかし、やがて到来する若年層の減少を見込んで、企業経営のノウハウを採り入れることを志向していましたので、紹介されて私が採用されることになりました。担当したのは、知的資源を社会に貢献する『エクステンションセンター』と、傘下の女子高生の1年留学を受け入れる『英国カレッジ』の設立でした。

 

そのころ文部省は『生涯学習』に力を入れる方針に変わり、社会教育局を生涯学習局に切り替えたりした時でした。担当官もまだ不慣れなこともあり、われわれ民間と共同研究をして、全国各地で『生涯学習フェスティバル』を企画開催して、センターの所長である私自身もその講師になったりもしました。学園の新規事業についてはほとんど任されていました。『エクステンションセンター』の設立という点では、業界でも草分けだったと思いますが、学園主催の講座では受講者が集まりにくいと判断し、板橋区と提携して区の公開講座に切り換え、区の広報紙にも掲載したりして集客に努め会場を一杯にして理事長に感謝されたりしました。

 

sugimoto8.jpgまた、当時は子女の海外留学が盛んで各高等学校(女子高3校)はその実現に苦慮していました。そこで、学園として英国にカレッジをつくって留学生を迎える『淑徳チェルトナムカレッジ』を設立し、1年後には淑徳短大英文学科に編入する制度をつくり、その担当(副校長)になりました。

 

美しい田園風景で知られるコッツウォルズ地方のチェルトナム市に3階建ての邸宅を購入し、校長以下イギリス人教師を採用する一方、留学した生徒にはイギリス人の家庭でホームスティを経験してもらう、という仕組みを作りました。授業はイギリス人、生活指導は日本人(淑徳高校の男女教師)という役割分担で学校運営を進めました。ホームスティをしながらの生活には、カルチァーショックでホームシックにかかる学生もいて、授業よりむしろ生活指導が大変で、母親、子ともども気持ちの動揺を収めるために、日本と現地を遠隔操作しながらの仕事でした。

 

当時はいわゆるサッチャーの時代=B失業率が高い頃で、優秀な教師さえ失業している時代で、教師採用には苦労しませんでした。やっとありついた仕事という教師の平身低頭ぶりに、七つの海を支配したイギリス人を日本人が雇用して、黄色人種が白色人種の上に立って飯を食わせたという優越感が正直ありましたね。

 

戦友会への入会

 

sugimoto10.jpg年後は、自治会の役員などボランティア活動に張り切って関わっていましたが、それらをやめるとしばらくポッカリ穴が開いたような時期がありました。私は少年飛行兵学校に入校して67年経つまで、戦友に会いたいという気持ちはさほど起こりませんでしたが、80歳を超えた時、戦友に会いたい気持ちが湧き出てきました。

 

何か手かがりはないか?とパソコンでインターネット検索をしていたところ、偶然、古本屋のサイトがあり、『大分少年飛行兵学校』で使用されていた『国語』と『歴史』の教科書が委託販売されていることを見つけました。

 

委託者が戦友会の会長だということがわかり、連絡して戦友会の存在を確認し、『大分少年飛行兵17期生の会』に入会ました。やがて私の入会の知らせが戦友会の会報に掲載されると「杉本、お前!元気でいたのか?」と何人かから矢継ぎ早に連絡がありましたが、67年前の戦友の名前と顔が一致せず、すっかり浦島太郎になり会話になりませんでした。

 

入会してからは機会あるごとに戦友と一献傾けていますが、40数年前から顔を突き合わせている戦友たちの話に私の記憶がついていけず、少年飛行兵時代の苦労話がよみがえるのに時間がかかりました。

 

戦友会に入会してからはまめに参加してきましたものの、それほど親しい人はいません。でも、実は唯一の戦友、ともいえる人が一人います。それは鳥取に転任したとき隣のベッドにいた紺谷君です。

 

私ははっきり覚えていなかったのですが、彼が体調を崩して、当時常食だった米に高粱を混ぜた飯が食べられなくなり、このままでは死ぬかもしれないと思っていたらしいのです。ある日たまたま私が炊事当番で食事の分配役でしたので、大きな調理窯でできる焦げ飯をこっそり#゙に分けてやったところ、米の飯にありついてやっと食欲が出てきた…、ということがあったようです。

 

戦友会に入会したとき紺谷君から「杉本!どうしていたんだお前!…」とすぐ電話がかかってきて、「あの時お前には、本当に助けられた…」と言ってくれました。想い出して、やはり懐かしく嬉しかったですね。彼は今、北海道の旭川にいますが、互いに何時どうなるかわかりませんので、できれば今年の夏にでも会いにいこうか、と考えています。

 

85歳の今思うこと

 

熊本の私の家の隣には大邸宅の隠居家があり、当時農家では養蚕が盛んで、製糸工場を2つも持っているご隠居さんでした。そのご隠居さんは高齢でも学のある人で、社交的な親父はご機嫌伺いにおりおり訪ねていました。私が大学に進学してご隠居さん宅に挨拶に行ったとき「いまこの小川町には優秀な若者が居ない。大学を出たら小川に還って郷里の発展に手を貸してくれ」と言われました。ところが、私はご隠居さんの期待に反し、大学を卒業してそのまま東京の会社に就職し、東京育ちのかみさんと職場結婚をしたので、小川町は遠い故郷になってしまいました。

 

父は私の結婚には反対しませんでしたが、私に託した父の夢はこれで終わりだと思ったかも知れません。いつか隣のご隠居さんから「いい息子を育ててくれた…」と言われること、その日を夢に見て、無理を承知で大学まで出してくれたのかもしれないと、今、私も親父が亡くなった同じ年齢を迎えて、そんなことを思うようになりました。

 

8人いた私の兄弟も、いまでは姉と末弟の3人になってしまい、また、私と似たような境遇の6人兄妹の中で育った妻も、最近は「一人になってさびしい…」と言っています。父は神棚に向かってひとりごとを言い、母は仏壇の前で南無阿弥陀仏を唱えていたのを思い出します。父は84歳、母は81歳でそれぞれ亡くなりましたが、今では両親の気持ちが少しわかるようになってきました。

 

sugimoto12.jpg最近、興味が湧くままに本を手にとって読み始めてみますと、あたかも渇いた砂が水を吸い込むように′サ在の心境や気持ちに響いてくるものがあり、自分で自分に驚いている昨今です。

 

例えば、生命≠ノ興味が出てきて遺伝学や免疫学に関心を持つようになりました。60兆の細胞が、細胞分裂を繰り返しながら生命を維持したり、菌を撃退するために免疫作用で自己防衛をしたりして、人間の叡智を超えた自然現象、生命の不思議・神秘に、今、科学者は驚嘆して『サムシング・グレード(村上和雄著)』とか『スーパーシステム(多田富雄著:生命の意味論)』とか、神の領域を暗示するようなことばを使っています。

 

また、親鸞は『教行心証』に、極楽浄土で終わるのではなく、また現生に還ってくるという、二種回向の教えを書き残しています。兵役に服しながら犬死にしたくないと悩み続けた哲学者の梅原猛も「だから自分は親鸞が好きなのだ、また、『山川草木悉皆成仏』(最澄)こそ世界平和の教えなのだ」と有識者に呼びかけていることに、私は今共鳴しています。

 

ボランティア活動に関わっていた頃、「実は、私の兄も少年飛行兵でした」という人と出逢い、話が盛り上がり、その方が仲立ちして、予備役陸軍中尉だったあるお寺の和尚さん(92歳)と会い、戦争体験を聞く機会がありました。話の中で「自分の任務は知覧に派遣され特攻機の整備だったが、出陣する特攻機のエンジン調整をしたあと、自分が座っていた操縦席に若い隊員が搭乗し、それを見送る時の耐えがたい気持ちは、とても他人に語る気持ちにはなれない」と述懐されていたことに、とても共感できました。

 

先日も、NHKのTV番組で放送された『最後の挑戦・柿右衛門窯の一子相伝・豪華列車を飾る有田焼』を視聴しましたが、体調を崩した十四代柿右衛門が長男に託する思いこそ、先祖に対する十四代柿右衛門の親孝行ではないかと思ったことでした。

 

梅原猛は、「母親が子どもを産んで無心に可愛がり守り抜こうとする愛情が道徳の基本だ、中国で生まれた儒教は親に孝行と言っているが、もともと親を思う気持ちと子どもへの愛情では少し違いがあるようで、子どもへの愛情が先になるのは仕方がないこと…子どもに愛情をかけ立派に育てることが親孝行なのだ」と説いています。

 

うちのかみさんは「子供たちから最近ちっとも電話がない…」と嘆いていますが、わが身に照らして思うとき親孝行したいときには親はなし≠ナ悔いることしきりです。先祖から頂いた命を子孫へ引き継ぐことが自分の使命だと理解し、私も、自分の息子や娘が近況を知らせてこないのは寂しい、と思うときもありますが、彼らがそれなりに孫たちを一生懸命育てているのをみると、褒めてやりたいと心掛けています。

 

 

あとがき

 

担当ききがきすと:菊井 正彦


杉本明さんとは、NPO法人 関東シニアライフアドバイザーの会員同士です。


協会へ入会されたのは4年前だったと思いますが、特に親しく語る機会はありませんでした。3月初旬に神奈川地区会員が集まるイベントがあり、病気の私の体調が良くなりましたので「私の顔をみせたい、仲間の顔をみたい」と参加したときに、しぶりにお会いました。なんとなく自分史を書きたいと思っていた杉本さんは、私が「聞き書き」という活動をしていることに関心を持っていただき、私より10歳上の先輩ですが、同じ大学・同じ学部を卒業したということもあり、話が進みました。


 品の良いロマンスグレイの老紳士という印象の杉本さんが、見出しにもあるようなご自分のコンプレックスの部分や、ひもじい思いだけだったとも言える大学時代等を赤裸々に語ってくれたことはとても印象に残りました。


 たまたま、「聞き書き」していた期間中に放送された「ラジオ深夜便」で、立花隆が「自分史≠ナ豊かなセカンドステージを」と話しています。そのなかで、「自分史を作り始めると自分がわかってくる…」と言っていますが、同感されたようでした。自分の記憶だけではハッキリしないことも、戦友と想い出話を楽しんだり、また語りを聞き手に傾聴してもらうことで、より浮かび上がり活字にもまとまってくるということに、私も改めて気づかされました。


 後日談でなく途中談≠ノなりますが、自分史作りを進めるなかで、近く鹿児島の知覧≠ナ戦友会があり、杉本さんも参加申し込みをしている、ということを知りました。知覧≠ニいえば特攻隊の基地、戦争に関わりない私もいつか訪れたい所と思っていました。「そうだ、どうせなら戦争に関わった人たちが傍にいるという状況の中で見学できたほうがいい…」と気がつきました。


 「私でも参加できますか?」とききましたところ、世話人の方からも快く了解を得ることができ、521日と22日に「少飛17期特攻観音詣での集い」に参加同行することになりました。知覧″sきは3回目になるという杉本さんも今回新しい発見があったとききましたが、杉本さんの自分史作りの内容に裏づけがとれ、役立ったことはいうまでもありません。また、私にとっても貴重な旅になりました。


posted by ききがきすと at 18:32 | Comment(2) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月05日

エクマットラ 〜バングラデシュのストリートチルドレンと共に

語り手:渡辺大樹(わたなべ ひろき)さん

ヨットに夢中の4年間

watanabe1.jpg大学時代は地理学専攻でしたが、勉強は卒業のための単位をぎりぎり取ることだけやって、あとはヨットに全ての時間をそそぎました。ヨットのレースをいかに進めるか、いかにチームを勝たせるかですよね。本当に好きでした。

 高校時代に一生懸命やっていた野球は、ひたすら苦しい練習と、ときどき勝利するわずかな喜びの日々でしたが、ヨットは苦しい練習さえ楽しいものに思えるという、楽しさばかりだったと言えます。もちろん、つらいことも、大変なこともあったのですが、でもそれさえ全部楽しかったですねぇ。

 いかに人を巻き込んで、いかにチームを作って、いかにモチベートしていくか、もちろん自分もモチベーション上げながら、仲間とやっていくのが楽しい。人が見ているからこそ、仲間が見ているからこそ手を抜けないし、逆に個人競技だったら手を抜いてしまうこともあるかもしれない。とにかく団体競技がすごく向いていました。

 理科系ではないし、物理なんて苦手の自分なんですが、練習が終わって、みんな帰ってしまった後に、ひとりでヨットの艤装や帆の角度を、改善改良する試みをやっていました。この箇所を1oあげるとどうなるか、もう少し変えるとどうなるか…と、夢中になってヨットの帆走を有利にするために工夫し続けたんです。

自分を捧げたヨットがおわって

こうして、在学中にすべてをかけて臨んだヨットのインターカレッジ予選を通過、大学の創部以来初めての種目で、全国大会に出ることができて、自分をそっくり捧げてきたものが終わりました。

 この年末に、たまたま先輩に誘われてタイでの国際大会に参加したのですが、それも終わった後というのは、今まで自分が向ってきたものすべてが無くなって、カラッポになった状態でした。おまけに競技が終わると、周りはヨットを趣味とする人たちですから世界中の金持ちばかりで、豪華なパーティーに招待され、それこそめったにない世界を経験していたんです。

果物売りの少年.jpg まさにこのとき、大会行事の移動のため2階建てバスでスラム街を通り、ふと窓から見下ろした瞬間、貧しさの極みのタイの子供と眼が合ってしまったんです。その一瞬、自分は何をしているのだろう、と衝撃を受けました。自分はたまたま日本に生まれ、気の遠くなるほどの将来の選択肢にめぐまれている。片や、タイのスラムに生まれたばかりに、一生こういう生活から抜け出ることができない少年がいるという不公平さ。カラッポの心にスッと憤りが入り込んで、それが今の活動の原動力になったのじゃないか、と思います。

 もし自分という者が存在することが、そして、その自分が努力することが、たとえ何百人、何千人の子供たちの人生を変えることはできないにしても、ひとりでもふたりでも、その子供たちの人生を変えられるなら、素晴らしいことなんじゃないか、それこそ人生の意味があるんじゃないか、という思いが生まれてきました。
 そして、タイでのこの想いが、なぜかすぐ、「世界の最貧国のひとつバングラデシュ」 というイメージに結び付き、バングラデシュに来ることに決めました。小さい頃から「貧しい国」というイメージがあったのかもしれません。

家族の考えはちがった

もちろん、バングラデシュに来ることについては、かなり長いあいだ、家族との意見が食い違っていた時期がありました。両親は、「ひとりでバングラデシュに行って、他の人に迷惑かけずにやっていけるのか? 力になるどころか、周囲の助けを呼ぶような結果になるのではないか?」 という反応でした。これは、ただ反対するのとは違った「すすんだ心配」だったと思います。これに対して自分は、「行ってみなければ分からない、多分やり抜くことができると思う」 という主張を展開するしかなく、しばらくの間はこういった意見の対立が続きました。 

 最終的には、「両親がこういう自分を産んでくれたために、こういう自分の信念が出てきたのだから、この選択を認めて欲しい」という、いま思えば説得とは言えない説得で、なかば強引に押し切るようなかたちで、出発してしまいました。

 のどが渇いても飲み物は買わずにがまん、バスに乗るところも歩いていく、という節約に節約を重ねて、一生懸命貯めた80万円だけを懐に、ひとりバングラデシュに来てしまったわけです。NPOや海外青年協力隊の一員として、渡航する選択肢もあったとは思いますが、、まず最初は自分の眼で見てみたいと思ったんです。もしひとりでやって、何もできないと思ったら、そこで初めて団体に所属すればいい、と思いました。

ベンガル語をお茶を飲みながら学ぶ


街のお茶屋さん『チャドカン』.jpg バングラデシュに来てから1か月は、お茶を飲みながらベンガル語を勉強するのに費やしました。

 バングラデシュの街を歩くと、至る所に小さなお茶飲みの場所があります。たいていは屋台でお茶を沸かして人々に飲ませてくれる店ですが、中には地面に座って路上でお茶を売っている場所もあります。


 こういうお茶飲み場を「チャドカン」と言います。ここでお茶を飲みながら、皆で主人を囲んでおしゃべりを楽しむのがこの国の風習ですが、私もここでベンガル語を学びました。 一日に10か所も20か所もまわって、おしゃべりの中でベンガル語を習ったわけです。いわば活きた学習方法ですか。


ダッカ大学に強引入学

 無鉄砲だった私は、数年間滞在するつもりで、バングラデシュに来たにも関わらず、持っていたビザは3ヶ月の観光ビザという状態でした。国立ダッカ大学に入学すれば学生ビザが取れると知り、またベンガル語をしっかりと学びたいという気持ちもあってダッカ大学に入学することを決めました。ただその方法も、今から思えばまことに無鉄砲なやり方でした。

ダッカ大学クリムゾンホール.jpg もう学期はスタートしていたので、入学審査担当官は「学期の切り替えまで、1年くらい待つよりないだろう」と言うのですが、自分は「いや、待てない、どうしても今すぐ入学させて欲しい」と粘りました。自分の話すベンガル語を聞いていた担当官は「それだけ話せるなら講義についていけるだろうから、まァ、いいか」と承認してくれました。柔軟といえば柔軟、ちょっといい加減かなあ。お茶屋で鍛えたベンガル語が役に立ったわけです。こうして学生ビザもとることができ、ベンガル語もしっかりと学び始めることができました。2003年1月のことです。


エクマットラの誕生


 大学入学後は、勉強のためブツブツ単語を唱えながらキャンパスを歩いていて、話しかけられたり、青空のもと、楽しくギターと歌の演奏をしている学生たちと親しくなったりと、さまざまなかたちで友人が増えていきました。そのなかに、貧しいために悲惨な境遇にある、ストリートチルドレンの問題に心を痛め、何とかしようと考えている仲間がいることが分かってきました。

 その仲間たちと一緒に街に出て、半年ほど路上に住んでいる人たちと話をして、調査をしました。みんなで校庭の芝生にクルマ座になって座り、議論に議論を重ね、時間をかけて確実に、自分たちがやりたいことの絵を描いていきました。


バングラデシュ国旗.jpg これがekmattra(エクマットラ)の成り立ちです。「エクマットラ」とは「皆で共有する一本の線」という意味で、遠くはなれてしまっている貧困層と富裕層を限りなく近づけて、1本の線にすることを目指し、バングラデシュ国の問題は、バングラデシュの人たちがみずから直視し、解決を目指すのだ、という理念を表します。豊かな国の援助に頼るというかたちでは、 いつまで経っても国の自立は難しいものです。


 自国の問題を他の国任せにせず、自分たちで解決・改善できてこそ、その国の発展はある、という自明の論理の展開でした。他の団体が実施中の期限つきプロジェクトを見て、海外からの援助に頼ることの問題点に気づかされたのもこの頃です。


 エクマットラ創設者のうち9人が、今も変わらずこのプロジェクトを手がけ、絶えず議論をつづけて、より理想的な将来像を練り上げています。この仲間と出会えなかったら、おそらく1年か2年いただけで、自分は何もできないんだ、とシッポを巻いて帰ることになったんじゃないかと思います。          


まず「青空教室」


 20039月に青空教室を始めました。皆で路上調査をしてみて、子供たちの将来をふさいでいるものは、社会だけでなく、その親たちである場合もある、と分かりました。なぜかというと、親にとって子どもは「稼ぎ手」なんですね。子どもが1日ごみを拾ったり、鉄くずを拾ったりすると、わずかな額でも収入となります。だから子どもが学校へ行くようになると、この日銭がなくなってしまうので、親は子どもの教育には良い顔をしません。

 たとえばバングラデシュでは、非常に多くのNGOが活動していて、ストリートチルドレンに対しても、多くの支援がされています。しかし母親が娼婦だったり、父親がヘロイン中毒だったり、どちらかと言うと「社会の落ちこぼれ」のような親は、自分達のためだけに、子どもたちを収入源としてしっかり確保しておきたい、と考えがちです。そして、そういった親を持つ子どもたちは、こういうNGOの支援を受けられないことがあると分かりました。そこで、自分達としては、親が理由で支援を受けられない子どもたちを、何とかしていこうという方針が固まってきました。


 まずは親に対して話をすることから始めました。話を聴いて回った地域は「娼婦街」だったのですが、そんな地域で外国人の自分が話かけることは、とても危ないことで、最初は、リンチにあいそうになりました。娼婦の人たちは夜に仕事をして、昼間はみんな疲れて寝ているので、夕暮れ時しか話せないんですね。そうすると、結構、あたりが暗いし、怪しい人が集まってきたりということがありました。それから、今でもあるのですが、その頃は特に、外国人による「人身売買」が多かったようで、私も外国人ということで間違えられたことがありました。大人数に取り囲まれ、「二度とここに来るな。今度来たら、ただじゃおかないぞ」とリンチにあいそうになって。


 その時は「わかりました」と言って帰るのですが、そこで諦めたら何にもならないので、毎日毎日行きました。結局1ヵ月半くらい通いつめるうちに、本気だと分かってもらえたんです。特に、その地域のボス的な娼婦の人がいて、その人が皆に先立って理解してくれたのが大きいですね。それまでは自分の過去のこと、子どものこと、なぜ娼婦をしているか、などについて口を閉ざしていたのですが、だんだん話してくれるようになりました。「自分の娘にはこういった仕事(娼婦)はして欲しくない」「本当はもっと幸せな生き方を選んで欲しい」と。でも「そうするための方法は分からない」というのが本音でした。


親たちも巻き込んで


子どもたち.jpg そこで、私たちが青空教室をやっていることや、計画中のシェルターホームのことを話しました。たしかに日々の収入を得るためには、子どもを手元においた方がいいでしょうが、子どもたちが教育を受け、さらに技術訓練を受けることで、何年か後に仕事につけて生活できるようになったら、子どもにとってもあなたにとってもプラスではないですか、と説得したのです。


 とはいっても、やはり説明だけではなかなかピンと来ないようなので、「まずは、とりあえず子どもたちを青空教室に参加させてみたら?」「青空教室は週に3回、1日2時間だけだから、子どもがそこに参加するだけだったら、収入が減ってもそれほど問題ないでしょう?」といって参加してもらうようにしていきました。


その後、だんだん来る子どもたちが増えてきた時分、『親に対する青空教室』も始めたんです。「ここでどんなことを教えているのか、知りたくない?」と誘って、子どもを20人くらい座らせ、親もその周りに20人くらい座らせました。そこで、表向きは子どもたちに教えながら、実はその周りにいる親たちに対して、こちらの意図することが伝わるようにしたのです。親たちは青空教室の実際を見、私たちが真剣に教えているのを見、私たちの思いを肌で感じてくれるようになる。そうやって少しずつ変わっていきました。


 カリキュラムを作ったとき、最初は教室につきもののイメージとして「読み・書き・計算」からというのがあったので、まずはベンガル語の「あいうえお」、英語の「ABCD」、数字「1、2、3、4、5」を教えていきました。ところが、子どもたちは親に言われて出席しているので、あまり興味がないんですよね。本当につまらなさそうにしていて。こんなやり方で1、2週間くらい教えましたが、とうとうこれはダメだ、と思いました。


 そこで、遊びや歌や踊りや劇といった内容に変えていったところ、子どもたちが少しずつ興味を持ってくれるようになりました。歌、詩の朗読、踊り、遊び、工作などを通じて心を動かされ、笑ってくれるようになり、これを私たちはさらに、モラルやチームワークを教える方向に導いていきました。


青空教室の転機


 青空教室はそれこそ天井も壁も無いスペースでやっているので、出席しやすい代わりに、さぼりやすいということがありました。いろいろな子どもたちがやって来てはいなくなり、ということを繰り返していました。それでも、青空教室を始めて1ヵ月半ほど経った頃から、15人位の子どもたちがずっと参加するようになってきました。これが半年程続いた頃、この子どもたちに、もう少し大きな飛躍の機会を作ってあげたいと思いました。


 そんな折、たまたま日本大使館が主催するスピーチコンテストがあり、この子どもたちが発表する場をもらって、それまで覚えてきた歌や踊りや詩の朗読を披露させてもらいました。20分程度のささやかな出番でしたが、急病のふりをする子がいるほどおじけづいていた子どもたちが発表を終えた瞬間、500人を超える大観衆が全員立ち上って、割れるような拍手で応えてくれたんです。


私もその場にいて鳥肌が立つ思いがしたのですが、なにより子どもたちが、目を見張るほど表情が変わりました。それまで世間から隠れるように暮らしてきた子どもたちが、自分でも他の人たちに認められることがあるんだ!他の人に賞賛をもらうことができるんだ!という驚きと歓びだったのでしょう。


 そこで初めて、自分たちが続けてきたことは間違ってなかったのだ、と思いました。それまでは、最初の教育方法がダメで歌や踊りを取り入れたりしたものの、「本当にこれでいいのか、本当に彼らを変えていけるのか」という思いがありましたが、その発表会後の子どもたちの顔を見て、大きな自信を持つことができました。翌日、多少斜めに構えていた子どもたちを含め、全員が「兄ちゃん昨日はすごかったねーっ!!」と抱きついてきました。15人という少数の子どもたちではあるけれど、自分たちがやってきたことは見当はずれではなかった、少しずつ何かを変えていけるんだと、彼らの変わりようを見て自分たちの迷いはふっ切れました。これが2004年2月の出来事でした。


シェルター設立


 以前から青空教室の次の段階として、子どもたちを養育し、通常教育を受けさせるシェルターホームを作りたいという思いがあったのですが、発表会の成功によって弾みがつき、2か月後、ホームを設立しました。この設備つくりの資金については、前年から実業家や一流企業で働いている人などに援助依頼をしに行ったのですが、「そういうことは先進国に頼めば?」と言って、誰も見向きもしてくれなかったという経験があります。外国の援助を頼むのが当然という体質の表れなのです。


 私たちの思いは、バングラデシュの人たちを巻き込み、その援助で活動を行っていきたいというものです。というのも、バングラデシュの人から寄付金やサポートを受けることによって、彼ら自身にこの活動を知ってもらい、そして自分たちの国のことに意識を持ってもらうという狙いが活動の根底にあります。


たとえ日本など外国からの暖かい支援を頂いたとしても、そこに依存しないという姿勢を維持する、だから最初から、なんとか自分たちでお金をまわしてやっていこう、という考えでした。本当に子どもたちを変えていきたかったら、親を含めて周りの大人たちを変えていかなければいけないんですよね。

 このシェルターでは、通常の教育をしています。青空教室でも読み書きは教えられますが、しっかりとしたものとは言えないので、子どもたちにとっては、ここに来て初めてちゃんとした読み書きが始まります。あとは、刺繍や、紙工作など、技術教育の基礎的なものですが、ただ、一番大切なのは「モラル」を教えることです。限られた空間の中で他の人間と共同生活をすることで、社会性を身につけるということがとても重要です。子どもたちには、路上生活が象徴する自由しか経験が無いわけですから。


 そのため、まずは青空教室を入り口として、そこで最低半年間、私たちとの信頼関係を築けた子どもたちの中で、強い意欲を持った者がいれば、親を説得してシェルターに連れてくることにしています。 当初6人だった子どもは、現在30人に増えて共同生活を送り、近くの学校に通っています。この年には、新聞がエクマットラのことを記事にしてくれ、バングラデシュのひとたちの協力が集まるようになりました。子どもたちの里親になってくれる人も出はじめたのは、とても嬉しいことです。


最終目標は技術訓練センター(アカデミー)の創設


 さらに、現在のシェルターの規模では本格的な技術教育はできないので、技術支援センターを設立する構想を立てました。2008年9月に、ダッカから170`離れたマイメンシン県に、建設予定地として3.5エーカー(約4300坪に相当)の土地を購入しました。ここに建物を作って、最終的な技術訓練センターとして、子ども達が技術を身に付けて社会に出て行く場とする、というプロセスを考えています。つまり第1のステップは青空教室、第2のステップにシェルターがあり、その後もうすぐオープンするアカデミーで技術を学んで、1618歳になったときに社会に出て行く、という仕組みです。社会に出て行くときに、他の企業に就職してもかまいませんが、私たちとしては、彼らが身につけた技術が、私たちの収益となる事業につながる仕組みにしていきたいと考えています。


 具体的には、現在も簡単な「お菓子作り」をやっているんですが、アカデミーではオーブンなどを設置して、本格的にお菓子作りを実現していきたいと思います。彼らが技術を身につけて卒業する時に、ekmattraとしてお菓子屋さんを開くことができれば、子ども達の就職先にもなりますし、そうすれば、そこでの収益を次の子ども達への支援に回すことができます。

 この最終目標実現のめの資金作りとして、さまざまなことを試みてきました。2006年には映画制作の構想がスタート、20094月に『アリ地獄のような街』が完成しました。いまエクマットラの代表者になっている、映画監督Shubhashish Roy(シュボシシュ・ロイ)が監督した映画です。完成後、バングラデシュでも日本でも上映会を開き、チケット売上はセンター建設資金の一部に加えられました。これは、それこそ、はい上がるのがむずかしい場所に生まれたストリートチルドレンの絶望的な生活を、実際に起こった事件をもとに作ったもので、観るひとたちに現実を知ってもらうよき手段となっています。

 一番大口の建物建設資金については、バングラ・ダッチ銀行と何度も何度も話を詰め、やっと審査が通って、とうとう2010年、アカデミー建設資金が寄付されることになりました。これを知らされたとき、あまりの嬉しさに銀行を出たとたん、大声で「やったァ、寄付が受けられる!!」と叫んでしまい、びっくりした通りがかりの人までが、なんだか分からないけどおめでとう、と声をかけてくれた思い出があります。このおかげで翌年からアカデミー建設が始められたんです。


レストラン「ロシャヨン」のオープン


レストラン 「ロシャヨン」内装はエスニックな木彫で.jpg そして20114月には、レストラン「ロシャヨン」のオープンにこぎつけました。タイ、バングラ、日本料理のミックスの店で、焼き鳥もメニューにあります。単なる、資金集めのためだけでなく、店の名前「ロシャヨン」が意味するところは「化学反応」であり、いろんな人が寄り集まって和気あいあいと食事することで、互いの気持ちや考え方が自然に「反応」し合って変化し、より広い視野と暖かな心が生まれることを目的としています。同時にこのレストランそのものが、ストリートチルドレンの職場となり、自立して職につくための研修の機会となるよう考えて作りました、


 開店準備のためには、日本の焼き鳥屋で1週間見習いさせてもらい、作り方はもちろん、資金、仕込み、その他、店というものの経営全般について勉強させてもらいました。この焼き鳥屋さん、そして、イスラム教国であるバングラデシュなので、お酒やミリンが使えない点をカバーしてくれた友人には本当に感謝しています。


両親も見てくれた


 バングラデシュでの活動について、はっきりした承諾も得ずに日本から出てきてしまった自分ですが、青空教室をオープンして間もなく、両親が「本当に他人に迷惑かけずにやっているのか?」と調べにやってきて、エクマットラ活動の大学以来の仲間と、子供たちの大歓迎を受けました。いつものように、みんなで楽しく学習している様子をつぶさに見た父母は、心配や疑問もなくなった様子で帰国の途につきました。その機内で、父親が詠んだ句がこれです。


『ストリートチルドレン 胸に抱きたる わが息子 

    我が人生 意義ありと謝す』

父親がメールで送ってきてくれたこの句を読んだとき、言い尽くせない感動でいっぱいになりました。自分のやりたいことのために、勝手に日本から飛び出して、ろくに日本に帰ることもなく、プロジェクトに打ち込んできた自分なのに、そしてこれからも、人並みの親孝行もできないかもしれないのに、こんなにも分かってくれて、こんなにも自分の側に立ってくれたんだ、という泣きたいくらいの喜びでした。


世界でいちばん幸せな自分


watanabe2.jpg 2014年完成予定の技術支援センターは、子供たちが社会に出て、自立した生活を営むために必要な専門的技術・知識を身に付けるための全寮制の技術訓練学校となります。これを本格的なアカデミーとして運営し、卒業生に資格を与え、小規模な店舗、たとえば屋台みたいなものを持たせてやり、自分で営業させる。そして自分たちの後輩をかれら自身が指導するというかたちで、次の世代へのバトンタッチを実現する。ここまでやれたら、自分は日本に帰れるかもしれません。10年後か15年後か分からないけれど。


 素晴らしい仲間との出会い、数限りなく受けた親切、こういうことに恵まれた自分の人生はなんと幸せなのだろう。たしかに同世代の日本人と比べたら収入は極端に少ないでしょう。でも、誰よりも今を楽しんでいるという自信があります。いま、私は一人のバングラデシュ人として活動できている心情であり、このことを本当に誇りに思います。


最初は確かに「かわいそうだから」という気持ちがあったかもしれません。でも今はこの国のために何かできるということが、このうえなく誇らしい気持ちです。そして何よりも自分は世界でいちばん幸せな人間だと思えます。


あとがき


 渡辺さんは情熱の人、誠意の人です。インタビューの約束当日は、政治的な問題から、政府の反対派が全国で道路封鎖を実施し、わたしたち一般の在留邦人は、大使館から外出を控えるよう指示が出されていたため、動くことができませんでした。


 その危険なときに、遠くからバイクで、安全に注意を払いつつ、時間をかけて会いに来てくださいました。そんな苦労をなんでもないように笑って説明し、インタビューの約束をしっかり守ってくださったのです。

さわやかな日本男子。


 こういう方を育て、信頼して、バングラデシュという難しい国での活動を、応援しておいでのご家族は、なんと素敵な皆さんだろうと、ひときわ強く印象付けられました。


 たまたまバングラデシュに滞在したことによって、立派に、『外向きな活動』をつづけている若い人にお話しを聞くことができたのは、本当に幸運なことでした。


 担当ききがきすと:清水正子 


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2013年01月12日

夢を実現した幸運人生 〜写真で巡る自分史〜

夢を実現した幸運人生 〜写真で巡る自分史〜

       かたりびと:工藤隆英
       ききがきすと:菊井正彦
       発行日:2012年12月1日

kudo.jpgこれは、Ryoma21ききがきすとグループが初めて手がけた本格的な書籍です。
B5版100ページで作りました。

依頼者の工藤隆英さんが話してくださった子供時代から定年後の生活までが、思い出の写真とともに掲載されています。
また、大好きだという旅行に関しては、奥様や友人と訪問した世界各地の写真が盛りだくさんです。

聴き書きの基本料金では、約20ページ程度、写真も数枚という手作り冊子になりますが、こうした個別のご希望、書籍づくりにもお応えすることができます。

お気軽にご相談ください。 → info@ryoma21.jp

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2013年01月11日

Anne ― A story of an Independent Lady ―

Anne A story of an Independent Lady


    *この聴き書きは「アン 〜なんでも自分で〜」の英語版です。

   Anne Margaret Halloran

     Advisor
    
Regional Cooperation and Integration
     The Ministry of Foreign Affairs,

     The Democratic Republic of East Timor

                         Kikigakist: Shimizu Masako


Born in New South Wales, Australia

ann1.jpg I was born in a town called  ” Wagga Wagga”  in New South Wales, Australia.


 I have been there until 16.  Now it is quite a large town, but when I was born it was rather a small place.  It’s a ruralcenter for a farming area in the south of New South Wales.  I suppose it would have been warmer than it would be in present Southern part where I live now. As for the climate, relatively mild in my memory but was very dry and with strong and dusty wind.  “Dust storm” was the strongest in my memory.  And I was quite young in those days.

The teachers’Family,indeed


 When I was very young, I realized that I came from a family of school teachers. As my parents were teachers and my father was the Principal 5 of 5 schools. Two of my sisters were teachers and myyoungest sister was a nurse.


 When it was a time that girls go in a few years before you leave schools and get married and having her family, most common career was teaching or nursing. But nursing was not interest for me. So I became a teacher.


 I started as a teacher’s assistant after graduating from school and before going to teachers training. school, I taught even Latin and French.

  When I started to teach at school, I taught every subject, because it was a very
small school with only two teachers and thirty students.  And occasionally we were called up to teach something else because there was a shortage in teachers.


 Later on I have been teaching at a school where I specialized in teaching English, History and Geography.

Choose what is better for you

 
Began to teach in New South Wales, and for around 5-6 years then went down to settle in Victoria, South of Australia.  I’d taken a holiday and I stayed.  I didn’t ever go back to live in New South Wales.
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 I did not actually get married. I have chosen not to get married but I got one child.

 Plainly not, it was not something like community approved of, but it was what a matter to do, and I haven’t worried about it. Then I have chosen never to marry.

I did have relationships with this man for a very long time, but I didn’t want to have children further.  Sometimes it’s a problem.  I was very happy to have my son of course, but I sometimes say it was perfectly right for the first time. I didn’t have to do it again.  Since then I had no correspondence with the father of my son.

Wonderful days of teaching

 So teaching was my first career. Officially I started in 1959. And I did that until 1982. It’s a long time.  Now I meet some of my students with their children going to the same school where I last taught.

 Even in this country, I met one of students I taught.  I haven’t seen her since she was my student when she was fifteen. But we remembered each other again soon. We have become friends here. And while working she obtained Ph.D. and became the manager.

 I occasionally run into people who say ” I know you somewhere, right?.”  One of my students.

 
Yes, I am proud of my teaching experience and also students. They become friendly when we meet, and most of them are very very amazing women. I thought it was nice for my career having taught in girls school, so I didn’t want to teach in boys’.

To the new work at the public sector

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I left teaching in 1982.  At that time my son was finishing.  As he was in his last stage at school, I thought I better let him give more freedom as far as time was concerned, I didn’t need to be around so much.  He was grown up and was going to leave town to go to University anyway.  I planned to change careers but didn’t quite know what I wanted to do.

 
For a while, I just worked in a quite different position from what I did while teaching and then I got into a public sector related.  I joined Victorian public service in May of 1983 and began working.

 
When I changed my work, I was so fortunate that things happened for me. The position became available that I applied for, and I began working in the industrial relations. That was a very good career step for me, as it gave me the knowledge that helped me go to the next stage of my career.

 
In 1999 I was invited by one of major hospitals in Victoria to apply to be the industrial relations manager at that hospital.That was my next career step.

 
As the hospital was still very closely linked with public service in Victoria, those
works gave me the range of very good context of public sector services, that’s very helpful.

 I dare say, you must be ambitious about to rise up, for your career. It is important not to be too cautious, just try. Leave it to God--That is my thinking of try.  If it doesn’t work at doing this, do something else.

My happy days of working

 
For the rest of my working life ---I left the hospital with the 10 years working in the field of industrial laws and industrial relations. Then I worked for the Catholic schools in Victoria that looked for the person in charge of human resources.

 
It was like a consultancy or advisory service for the Catholic schools for human resources functions.  Because they had small resources department,  I virtually worked for different systems to assist them about social functions.

 
And it involved lots of wonderful travel to every part of Victoria!  I was very happy to work with such a lot of travelling opportunities. The travel to the parts of Victoria that otherwise I would not have opportunity to visit.   It was interesting, very interesting work with people---with very interesting people, more than that, I could have  touring!

Trip –My favorite thing–

 
One of the other things along with the line is a passion of travelling to Europe.

 
I went to Europe for the first time with another teacher. She was a German teacher and we went to Switzerland for 3 weeks of study and 3 weeks of travel in Europe during  the long school holidays. We enjoyed what-do-you-call-it “home stay” there for 3 weeks and went to school with the family we stayed. We did that twice, in 1973 and in 1975. For me, that was the beginning of my travel, after that now I really in love with Europe.

 
My impression of the travel was that no much difference were in between countries. People, the individual people is the same, but they have own culture. Indeed cosmopolitan. Now I think my favorite place in the world is Italy, I really
like to go as far as I can, but there’s problem of money!

My son and I

ann3.jpgWhen my son was 16, I took him out of school and went to Europe and travelled for 3 months, in what they call “back packing” style.

 
I wanted to show him Europe through my eyes. And for me, there was great interest inhistory, the Roman and Greek history. We were fortunate to spend a lot of time visiting to various historical remains and works in terms of the Roman history in Italy and also in Greece.  Again a lot of the cultural background and history bases where we derived from. Again some understanding in an appreci- ation of that time.

 
My son is now in an occupation of health and safety manager, and up the current time his contract is with the Shell Oil Refinery in Geelong in Victoria. So he didn’t go into European culture. He went to something much more practical related.

Working in Timor Leste

ann4.jpgI came here for my first visit to see my niece in 2004 for  a holiday for a couple of weeks.  I just, I felt that I had a connection with people here that so nice.

 
They were so friendly welcoming and I really enjoyed my time here.

 
As I decided that when I retired, I would be volunteer somewhere for a while. In this term, I have been considering having discussion with a lawyer I knew who had been in Malawi.  And I knew another young lady who had been in India as a volunteer. They both talked to me the wonderful experiences they had had.

 
After my visit here I sought an opportunity and contacted with AVI: Australian Volunteers International.  And when I was asked for, in an interview I indicated that I’m particularly interested in Timor Leste and I was offered this position which was supposed to have started in 2006.

 
But a lot of trouble occurred at that time in this country. So they had to take all the volunteers out of the country. So my assignment was cancelled indefinitely at that time.

 
Then I was invited by a hospital that I worked previously to go back and they wanted me to stay on, but I didn’t want to. 

 
When the time came again, I came up here in 2008 and started my assignment with the National Society of the Red Cross for 18 months.

 
In February of 2011, I came again to Timor Leste to work as an advisor at Ministry of Foreign Affairs.

International society was very close---that was of my impression born in working with amazing people. 

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 Everybody from the secretary general down through every level of staffs is just wonderful. I learned so much from them. It was like a part of large family.

If I study further

ann5.jpg If I study now--- well I have thought I would have to do something when I retire.

 
I have a thought of study. Not though I am a religious person but I am interested in other peoples’ religious thinking. And I have thought about studying Theology.

 Because it was just interesting for me why some people are deeply religious and others are anti-religious. Some people take a way to extremist at (what I think is) the negative way because of the religious believes. 

 I don’t understand why these --- the religious believes can make people act or think as they lead. So sometimes I think to try studying.

 
Theology, Philosophy and the mix. I might understand some of those things that multi-life people to live for.

 
Some people have a comfortable conversation with you without trying to convince you or to make you believe like all the people. Sometimes some people take very desperate methods to make others like a sort of violence, if you say, absolutely fanaticism. 

 
Therefore, sometimes I think when I retire, I might just to satisfy my curiosity, study Theology, Philosophy or combination to understand why people have no religious for this place or have religious for that place. But probably it’s impossible.

The fear of losing memory?  Forget it  

 As the brain is still working, we should keep it busy.

 
People sometimes are afraid of forgetting names or loosing things. But we have done it all our lives, only when we get older, we began to wonder if it is because of you are losing a memory.  Yet probably during all your life you are losing things already.  

 
You know I used to worry because I can’t remember people’s names.   I would always remember your face to see you again, but probably have no idea about what is your name.

In this term, it’s good when you work in an organization. As I returned to work in the hospital, there were still people there from 20 years before.  I recognized the faces but no names.  Fortunately they wear all name tag so you never have to ask anybody the name. It’s very good. It’s very handy. So I may wish that all the people in the world do have the name tattooed in their forehead.

Elders in Australia

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What is happening in Australia recent years although there is a retirement age which, I think upper age of 65, people are now encouraged to stay on at work. There is no limit. You can stay on after that age. 

 I think it’s an appreciation of the facts that people with more ages at work have lot of experiences that would be shared with younger ages from different view.  So you get the balance of younger view and older view.

 
And more and more, now you see older people staying on, not necessarily full time at work, but working 2 or 3 days a week or some other each day. That’s
quite common thing in Australia now.
 

About the Role of Elders at home

 
I had three sisters so the family were six. But many families then had six or
more children. Today an average family has two children, different from a woman
in the past who would have children to look after for quite a long time. Two children only leads to very very few grand-children. Compared with a big family or a big extended family, now is very much smaller, and for older generation less things to do.

 
I myself didn’t look after my grand-children so well. For more than day or two in the weekend, I took care of them for their parent taking a break.  I have to say two was plenty. I wouldn’t have an energy to look after more than two.  And by the end of the week end I would be exhausted. 

 
Now that my grand-daughters are teenagers, we spend time with, during a school year and most of the week end, when I am back in Australia.  As they are studying or doing researches for their homework, they are very quiet.  It’s lovely to see them at my home, lovely to visit them.

 
Now I am very fortunate that my niece and her husband and their children are here. One is 5 and the other is 3.  And just they lovely. This is very good timing
to come near- by, and this is another reason to continue staying here.

I’m not good at asking for help

 
 I think the Australian travel more by car than by train/airplane and so do I. For
example, to go to the Northern city of Sydney which is the capital city of New south Wales from Melbourne, it’s about ten hours driving time, but one hour in a plane. I prefer driving to taking a plane, because I like to have a long travel.

 
If an accident happened?  I would try myself to solve it. I would like to be able to do myself. I’m very independent.   I’m not good at asking for help.

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2013年01月07日

一生懸命働いた

一生懸命働いた

                  かたりびと:山本留吉(98歳)
            ききがきすと:海田廣子
                             聴き書き時期:201210月20

親はこれ以上ないくらいの貧乏

tomekichi1.jpg 生まれたのは千葉県の木更津市桜井516番。
鹿島マンゾウの長男がエイゾウ、次男がカネキチ、そして三男の私が留吉。長女は鹿島志づと言って、それの子が80何歳かな、この老人施設「相生の里」に入所しています。兄弟は皆もういないので、丈夫でいるのは私一人ですよ。

 
親はこれ以上の貧乏はないくらい貧乏に貧乏していました。これ以上の貧乏はしたくない、みんなそういう気持ちで生きていました。一生懸命やろうじゃないかと言っても4人しかいない(笑)。何も買わなかったので、けちと言う言葉があてはまるでしょうね。

 
父親は漁業をやっておって、大きな樽を船に積んで沖に行って、魚を買って歩く商売をしていました。これからという時に、ころっといく病気でぽっくり亡くなりました。42歳でしたね。父さんは子供つくるのだけは元気だった(笑)。

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母さんは身体は大きくなかったけど、丈夫でしたね。私は母さんが33歳の時の子ですけども、我々を育てるためにリヤカーに飯台つけて、魚を売りに行っていました。箱にちゃんと魚を入れて、冷蔵庫はなかったので氷をいっぱい入れてました。何が何でもこの人から買わなきゃというお得意さんのいる場所を作ったらしい。

 
木更津に新田橋というのがあって、それを渡ると裁判所があり、その片側に裁判所に関係ある人が住んでいたんです。そこにお得意さんがたくさんできてね。

 
母さんは年に1回、お正月に手ぬぐいを配っていました。私はそれをこしらえる手伝いをしたからはっきり言えます。よその人はそういう物を配らないので、お得意さんはよその人からは買いませんでした。それはありがたい事ですよ。

正義感が強かった兵役時代

 兵隊に長いこと行っていました。昭和14年、26歳のときに目黒輜重大隊に招集されました。自動車部隊だったので、私は運転できなかったけれども、すぐ運転をやらされました。

 軍隊では「本日、何時何分までに前線に兵の戦死者を輸送しろ」と命令がきて、藁の中に虫がいっぱいたかった患者などを輸送していました。号令係をしょっちゅうやらされました。私は詩吟が好きだったので、その頃、本当によい声でしたね。自分で自分のことを言うとなんとかが笑うと言いますが(笑)。

 軍隊には殴ったり蹴ったりする人がいっぱいいたんですよ。ビンタを喰わして、えばっている人もいたね。この写真に写っている人は酒ばかり飲んで喧嘩ばかりしていて、どこまでいっても一等兵だったね。みんながあまり暴れていたから、私は早く星をもらって、乱暴なやつに「このやろうっ、そんなのやっちゃいけないよ」と言いたかった。それで一生懸命働いて星をつけてもらいました。

 星をつけてもらってからはね、殴っちゃいけないよー、皆、天皇陛下にご奉公するために来てるんだから、そんなことすんなよって、よーく言ったんですよ。それから無くなってきましたね。

 
私は殴りもしないし、殴られることもなかった。山梨県の獣医が私を好きでね、私のそばを離れなかったから、それもあるんでしょう。

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戦後、いろんな商売やりました

 
戦後は食うか食われるかの状況でしたので、一生懸命働きました。今のような穏やかなことはなかったから、いろんなことやりましたよ。お巡りさんがうるさかったでしょ。それを乗り越えてやっていたんで、つらいときがあったね。でも、まずそれをしないとご飯が食べられない。

 
干し海苔を乾物屋が欲しがっていたので、それに目をつけて兄弟3人で闇をやりました。一日目はよかった。二日目、中央線の四谷のちょっと手前のトンネルで暗くなるところがあるでしょ、そこでみんな盗られました。まさかと思いましたけどね、離れて座っていたのでわからない。稼いだお金で仕入れていたから、また、これだけ稼ぐのは大変だなぁと、後で話しました。

 立川にスーパーのいなげやがあって、そこのおじいさんがすごく目利きでね。お金を持っているんだね。いくらでもよいから持ってこいと言うわけですが、いくらでもと言ってもね。兄弟で相談して、これくらいなら儲かるかな。じゃー、これくらいでよいね。では明日は100枚、200枚持って行こうか、とこうなる。

いなげやで買ってもらったからこそ今があるので、ありがたいですね。お礼申し上げると、ここでいなげやの宣伝しているようだけど(笑)。

お世辞をいうのが嫌いだった

 私が奉公したところは五反田の「地球堂」という靴屋。これま
た親父さんがお金儲けがうまい。でも、人をこき使う(笑)。ほんとにそうなんですよ。あの頃のお札、1円だったかなぁ、いくらだったか忘れたけれども。その親父さんは売り上げが溜まったら、お札を結わいて、仏壇の中に仕舞うの。それを銀行に持っていったかどうかは知らないけどね。

 
靴屋ではお世辞言うのが嫌いだったから、あまり商売上手じゃなくて、これが致命傷だった。でも、靴の知識を教えてもらいながら一生懸命やりました。

 
いっぱいお客さんが来ていても私はお客さんを逃さない、必ず売ってしまう。それをおやじさんは認めてくれていましたね。

 
靴屋は現金がないから、業者から手形で買わなければならない。日にちが来たならば手形を現金にしなきゃいけない。お金がないときは落とせなくてつらいことがあるんですよ。

 五反田ではお金を貸してくれという人が多くてね。お金を持って行って、月末に月給もらったら必ず持って来たけど。ここに長く勤めていたら、こっちがつぶれると、靴屋は3年くらいでやめました。

 
鹿島という姓から山本の姓になって70年くらい経つかな、長いですね。兵隊から帰ってきて早々に、うちの親戚の人が、婿さんに行ってもらわないと困ると言うんだよ。私は財産がなかったので、一生懸命働いていくらかお宝ができるようになればよい、これから自分でそれを作っていくんだと思っていたので、「いやだよそんなの」と言ったけどね。女はきれいでもきれいでなくても何でもよくて、その気がなかったけど、頼まれて婿さんになった。

 
奥さんの名前は義子(よしこ)、亡くなってからもうだいぶ経つね。奥さんはいい人でね。優しくて、どこまでいっても優しかった。怒るということはあまりしないんだね、ほんとうにいい人だった。人間は我を張ってはいけないな、奥さんのようにどこまでいっても優しくなければいけないと思うね。

人間は分を守らなくちゃぁね


tome5.jpg 義理のおじいちゃんが、終戦間近まで山梨県の上野原の下にある荒田村の村長を長いことやっていました。キュウリ、トマトやさつま芋などが倉の中にいっぱい入っていて、よくもらいに行ったね。おじいちゃんに「一度に慌てて持って行くことないよ。たくさん持って行かなくても、少し持って行けば良いじゃないか」と言われました。それで、自分で買うこともできるのだから、そんなに芋をたくさん持っていくことはない、そういった欲望を持っちゃいけないと反省しましたよ。

 
靴屋の倅が35歳で20歳の嫁さんをもらいました。その嫁さんはおしろいつけて丸髷結っていて、お風呂に行くと、とてもみんなによくしてもらえるのね。「何だ、こんな女、昼間からおしろいなんかつけて」と思っていた。こんなことを言って申し訳ないが。私らは生意気な格好は嫌いだったね。身分不相応の格好をしてはいけないとよく親に言われていましたから。

 
靴屋の家主は材木屋で、その倅がすぐ裏に住んでいました。それと一緒に支店に行ったことがあります。私がひとこというよりかも、その倅が文句を言うと、親父は引っ込んでしまう。やはり大家さんだという意識を持っているからね。世の中というものはそんなものですよ。

土地を売買したおかげでここにいられる

 
少しずつ土地を買ってお金を貯めました。私の経験では、お金を貯めるには土地が一番よい。

あるところに行って声を掛けました。「この辺に私に適当な土地がないですかね。5060坪を2〜3カ所欲しいのだけど・・。これだけお金を持っているけど、まけてくれないかね」

 
「ちょうどこっちも売りたい時だから、まけて売ってあげるよ」と言ってくれた。登記所の抄本もらってから、お金を半分払って「じゃー、明日来るからね」といったやり方で取引していました。

 
私は買った土地を早く売りたいので、その土地の周りでうろうろしていると「この土地、どこが持っていますかね?」と聞かれる。そこで、「あーこの土地欲しいですかね。そうですか。もし何なら聞いてあげましようか?」と答える。私の土地だからね(笑)。これも一つの方法ですよ。

 
それから「商売始めるの?」「息子がこの辺で欲しいと言うから買ってあげたい。どれくらいなら売るかね?」「さーね、私はよくわかんないけど。100万円欠けたら売らないだろう。100万円は大したことないよ。10万円が10あれば100万円になるから」

 
すると相手も「じゃ、あっちで買うか」というから「いや、それくらいの値段ならあっちも売らないよ」と言ったりした。100万円くらいは儲けたいから、こんな風に売買をやったんだよ。

 
国立にあった有斐閣の土地40坪を買ったことがありましたよ。まぁ、何とか信用されて、悪人のようには見えなかったのでしょう(笑)。

 
その土地に私の家を建てたら、女房がここは道路がうるさいからもっと下がったところに行ったらどうですか、と言いだした。300〜400万円で買った土地を1000万円で売ろうと思ったら、翌日買いたい人が見えたんだよ。お金を持ってきたらしいので、私は腹ができているから、即、売ることを決めましたよ。ウソではなくて本当の話なんですよ。

 
私が今日まで来られたのは有斐閣の土地を買ったこと。それが一番大きかった。そのお陰なんです。

 
国立では、大和銀行に土地を売ったこともあり、ずいぶんお世話になったんですよ。150万円くらい利息が入ったときに銀行がすごく喜んでくれて、新米の担当者が何でも相談してくれと言ってくれてお得意様になったね。あんた、なに、そんなに簡単に態度変わるのって言ったけどね(笑)。あの銀行もつぶれましたね。銀行はあまり人に良いところ見せるといけないね。

 
それで国立の別の所に家を建て、それを売ったお金をこの老人施設「相生の里」につぎ込んだ。子供もいないんだし、死ぬのになんもいらないでしょ。何も残すことない。

姪に何もかも任せています

tome4.jpg もうすぐ100歳になるから、私は今なんもいらない。3兄弟が早くこの世から離れてしまったから、どうすればいいんだか。

 
私は跡継ぎがいないので、姪が跡を継いでいます。東京都はお墓の継承については手続きが早いこと早いこと。山本留吉は×、今度は鹿島ゆきこが○というような方法で、1日くらいで変更してくれた。この姪に何もかも任せていて、今、守ってくれてますよ。私の貯金通帳から毎月の家賃を振り込んでくれています。

 
姪は58歳、結婚して子供が2人います。次男が買った新川の土地を維持していて、偉いと思うよ。4階のビルを建てて一階を蕎麦屋や飲み屋さんに貸しています。

 
姪はタバコを売っているんだけども、タバコはさっぱり売れないと言っていた。吸わない人が多いんだから、俺が買ってやろうかと言ったんですがね。私は何10年とタバコを吸ったことがないんですけど。

 
姪にお金を上げようというと、いらないという。欲張らないのね。普通の人なら内心では残してくれたらいいのにと思うでしょうけど、姪は欲しがらない。むしろあの子は勤めているときにボーナスもらったら、私に5万円くれたんですよ。

 
姪がお墓参りに行ってくれるのはありがたいね。「お墓、きれいに掃除してくれてあったよ」「あ〜そうか」「なにもかも高くなったよ。お花も2000円いくらだったよ」と言っていました。

準備してきたから今がある

 
ここに入所する前は、自分の家に住んで警備士をやっていました。たとえば競馬場とか、多摩川の競艇場とか。この間、立川競輪場の前で5億円を失くした警備会社がありますよね。そこにも働きに行っていた。あの警備会社はお金をちゃんと封筒に入れて現金で支払ってくれるんですよ。そういうのに目につけてやられたようだ。

 
月に15日は働きました。年取っても働いていたんだから、こんないいことはないですよ。車が好きで、大型の免許はもちろん、バスの二種も持っていました。大型の運転手やるより子供の方が楽しいから、幼稚園のバスの運転もしていました。1回の事故も無しだったね。「うちのパパなんて下手だよ。木にぶつけるのよ」「私は大きい車でも事故起こさないからいいほうかね」と言うと、「もちろんおじちゃんは上手だよ〜、上手だよ〜」と言ってくれる。

 
私は、兵隊に長いこと行っていたので、今はその恩給を使わしてもらっています。私学共済と国民年金、それから恩給をもらっているのでここの費用が支払える。当時、女房がそんなものに入ったって、お金なんてもらえないよと、よく言ったけどね。政府はごまかしはしないから、今もらえるんだね。余計にお金を掛けていたので、今はたくさん入ってきます。

楽しみも喜びもあって幸せ

 
私は車が好きで、しょっちゅう買い換えてたけれど、姪は10年も同じ車に乗っている。この前、姪がなんとなく車がおかしくなったと言って、やっと買い換えたね。いい車を買ったので、じいちゃんを連れて行きたいと、東京駅に連れて行ってくれた。東京駅はきれいだね。

 
ここ「相生の里」ではセブンイレブンからお弁当を取って食べたり、電話で品物を注文して配達してもらっています。500円以上は配達料は無料なのでいいですね。そばやの「うえむら」に頼んで出前してもらったりもしています。

 
それからもう一つの楽しみはどこかで食事をすることだね。「虹のサービス」の人と毎週月曜日、6000円かかるけど、ハイヤーを使って銀座に出かけています。銀座アスターは中華ラーメンでも、焼きそばでも食べるものはなんでもおいしいね。担当の人も銀座アスターが好きですね。

でも車椅子を押していくのは大変ですよ。商店街をぐるーと回って、三越の3階、4階、最後に地下で食料品を買って帰ります。それがひとつの喜びでもあり、自分の楽しみでもある。お金さえ使えばいろんなものがありますが、お金をむやみやたらに使うことはないです。

 
もうここ「相生の里」で死ぬんだから、何もいらないんです。ここに入所する前に奥さんの写真も家具もみんな置いてきました。お寺さんに約束して「正導院釋常賢居士」という戒名までもらっています。何の価値もないかもしれないけど、桜井の興福寺というお寺でね。亡くなった女房もそこで全部やってもらっている。もし、私が亡くなれば霊柩車がすぐ着くように連絡がついています。今はなーんもやり残したものがなくて幸せですよ。

(完)

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2012年04月18日

アン 〜なんでも自分で〜

アン 〜なんでも自分で〜

  かたりびと:アン・M・ハロラン
        (東チモール民主共和国 外務省 地域協力統合局 顧問)
  ききがきすと:清水正子

 *英語版「Anne ― A story of an Independent Lady ―」もあります。

ニューサウスウェルズの小さな町に生まれて

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生まれた町『ウォガ・ウォガ』はニューサウスウェルズ州の農業地帯の中心地で、今では人口4万のかなり大きな都市になっていますが、私の生まれた当時はごく小さな町でした。

 気候は、現在、私の自宅がある所より北なので、もうちょっと暖かかったように思いますが、とにかく乾いて強烈な砂嵐の舞うところでした。あの砂嵐…、私の中ではそれが一番強い思い出です。何しろとても若い頃の印象ですもの。

教育者ファミリー

 
ものごころが付いたとき、自分の家は教師一家だわ・・・、と気づきました。両親とも教師で、とくに父親は5つの学校の校長を兼任しておりました。姉と私はのちに教師となり、妹も保育園の先生になりました。

 
自分も卒業・就職・結婚して独立して生きる年齢になったとき、当時女性にとって選択肢は2つ、保育園の先生か学校の先生になるかでしたが、保育園は苦手だったので、学校の先生になりました。

 
最初は中学校を終えた16歳で教え始め、資格は補助教員でした。このときはギリシャ語、フランス語まで教えたことがあります。それから教師養成学校へ行って正式に教師となりました。

 
教師になっても、最初の赴任先は小さな学校で、教師2人と30人余りの生徒という規模の学校でした。それで全科目を教えたものです。ウェールズでは当時教師が不足しており、ときどき要請されて他の科目を教えることは普通でした。のちに英語、歴史、地理の3教科のエクスパートとして教師を続けました。

自分の好きな生き方を選ぶ

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16歳まで故郷ですごし、5〜6年間、教師として働いた後、南隣のビクトリア州に休暇で行って、そのまま郷里には帰りませんでした。

 
そこで結婚はしなかったけれど一児をもうけ、未婚をつらぬきました。ある男性と長い間暮らしたのですが、息子ひとりを産んだ後、欲しい子供の数で意見が合わなかったりして、結局、結婚しない生き方を選びました。

 
子供は可愛いけれど1人で充分、子供を産む経験は1回でいいと、周囲の視線にもめげず、「結婚しない」という自分の生き方を通したわけです。もちろん当時の世間はこんな生き方を認めるようなものではありませんでした。でも人は自分の好きな生き方を選ぶべきだと思います。

 
彼とは別れてから全然連絡をとっていません

教師はすてきな仕事

 
59年に教師として人生のキャリアをスタートし、82年まで23年とは、なんと長い年月でしょう! 働きました。今でも教え子が、私が昔教えた学校に通う子供を連れていくのに出会うことがありますよ。

 
ここ東チモールでも教え子の一人にばったり出会い、彼女が15歳のとき以来でしたが、すぐ分かって、友達として付き合い始めました。彼女は博士号をとって、今、管理職についています。他にもときどき「どこかでお会いしましたよね・・・」と言って、近寄ってくる人に出会うけれど、みんな教え子です。

 
昔教えた女性たちとは今でも会うと懐かしく、しかも、皆素敵な人になっており、女子校で教えたことが本当に良かった・・・。男子校では教えたいと思いませんでしたね。

教師から公的機関の仕事へ

 
82年に教職を離れたのは、ちょうど息子が中学・高校を終えて大学に行くなど、郷里を出て自立するときであり、もう大人だから、これ以上彼のそばに居て干渉しない方がいいと思ったからです。でもそのときは自分がこれから何をしたいかはっきりしませんでしたね。

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しばらく教職とは関係ない仕事をした後、ビクトリア州の公的機関の仕事に就きました。83年の5月のスタートです。

 
常に上昇志向を持って行動することが、キャリアを積むためには必要ですが、そうするうちに、私の場合ラッキーなことに、望んだ仕事への道が開け、労務管理の仕事にかかわることができたのです。

 
ここでの仕事が、次のキャリアへのステップアップとしてとても役立ちました。ビクトリア州の大病院のひとつに労務管理部長として招かれ、この病院は公共セクターの一部門でしたから、公共部門のシステム理解が深まり、さらなる仕事へとつながっていきました。

 
キャリアアップを望むなら、考え過ぎずに、運を天に任せて、とにかくやってみることです。それが駄目なら他のことに目を向ければいい・・・、これが私の信条かしら。


旅がセットの楽しい仕事

 
産業法や労務管理の仕事を経て、10年ほどカソリックの学校で人事管理業務に関わりましたが、この仕事はビクトリア州のいろんな地方への旅が必須でした。おかげで実にさまざまな地方へ旅し、さまざまな興味深い人たちに会い、普通なら決して行かない所で素晴らしい経験をすることができました。いい仕事でしょ?

 
旅といえば、私の心を燃え立たせるものはヨーロッパへの旅ですね。

 
初めてヨーロッパに行ったのは、同僚のドイツ人教師とでした。彼女とは長期休暇を利用してスイスに行き、いわゆるホームステイをしながら勉強3週間、ヨーロッパ旅行3週間の6週間にわたる日程の旅行をしたのです。73年が1回目、そして75年が2回目です。 以来ヨーロッパにとりつかれています。

 
旅をして思うことは、国によって人間性が違うことはないが、文化はそれぞれ独自のものがあるということですね。私のお気に入りはイタリー・・・。これからも何度でも、出来るだけ行きたい国です。でもお金が問題

息子と私

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息子が16歳のとき3ケ月間のヨーロッパの旅に連れて行きました。バックパッキングの旅で、私は息子に私の目を通してヨーロッパを見せてやりたかったのです。私にとってギリシャ、ローマの歴史は実に興味深いものであり、このとき自分たちの文化的歴史的背景・事物をじっくり見ることができて嬉しかったですね。

 
息子の教育を目指して行った旅ですが、彼はいま、ビクトリア州ジーロン市にあるシェル石油の精製プラントで衛生保安管理部長として働いています。考えてみればまったくヨーロッパ文化と関係ない実際的な分野に行ってしまったんだわ。

東チモールでボランティアを

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04年にこの地東チモールを訪れて、2〜3日滞在し、この地の人たちと接して、素敵な縁を感じたものです。みんな親しみこめて歓迎してくれ、本当にほっとする時間を楽しむことができました。

 
これは以前から考えていたことですが、弁護士の友人がアフリカのマラウィで、もうひとりはインドで、それぞれボランティアとして働いたときの素晴らしい経験を話してくれたのもあって、退職したらどこかで、ボランティアとして貢献しようという気持ちが固まったのです。

 
「オーストラリア・国際ボランティア協会」にボランティアの申込みをし、面接で特に東チモールに関心があることをアピールしました。その結果、いまの仕事を打診され、06年から始める予定でした。

 でも、この年、東チモールで暴動騒ぎが起こって、政府はボランティア全員を引き揚げさせました。それで私も何か月か待たざるをえず、提案した計画もしばらく延期となりました。以前働いたことのある病院から声をかけられたものの続ける気になれず、断りました。

 
結局、08年になって私の希望が実現し、東チモール国立赤十字社で仕事を始めました。この国で18か月過ごし、国と国はほんとうに密な関係にあるという感想をもっています。現在ここの外務省で働いている印象は、トップの局長からスタッフたちまで素晴らしい人たちで、本当にたくさんの事を勉強しました。そう、まるで大家族のような雰囲気です。

さらに勉強をするとしたら

 
退職した今、新しく勉強するとしたらそうですねぇ、自分は信心深い人間ではないけれど、他の人の宗教に対する考えに興味があるから神学かしら。

 
私には、なぜ宗教心の強い人と反宗教的な人がいるのか、なぜ信仰のためにときには過激な(私から見れば否定的な)手段に出る人がいるのか・・・、こういうことに非常な興味があります。なぜ宗教心がひとの行動を左右するのか分からないのです。

 
それで、ときどき神学か心理学か、それともふたつとも勉強してみようかと思うのですが、まァ、多分無理でしょうね。

老化現象?気にしない、気にしない

 
この年になっても、頭脳は日々働いているのだから、鍛えなくては。

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老いは心の持ちようで、例えば、物忘れがひどくなったのは何かの症状ではないかと怖がる前に、昔からいろんなことを忘れていたじゃないの、と考えたらどうかしら。年取って物忘れすることが年齢のせいかもしれないと思えるとき、今まででもずっと、同じようなことをやってきたじゃないか、と思い返せばいい。

 
たとえば、私は人の名前を憶えるのが苦手で、親しく話した人に再会しても、顔は憶えているのに、名前は絶対に頭に浮んでこないという確信があります。その意味で、大組織で働くことは都合がいいわね。私が元働いた病院に戻ったとき、20年来働いていた人たちがまだいました。

 
顔は分かるけれど、名前がぜんぜん思い出せない。でも、みんな胸に名札を付けているから誰の名前も聞く必要がないのね、本当に便利でよかった。あんな風に、みんな額かなんかに名前を“いれずみ”にしたら便利でしょうね。

オーストラリアのシニア

 
オーストラリアでは65歳ごろの、定年でリタイアした人たちのため、政府はそのまま職場にとどまってパートタイム的に働くことを奨励しています。年齢の制限はありません。長く働いていたシニアは、異なる観点から豊富な経験を若い人に伝え、分かち合うことができるということが認められたのだと思います。これによって、社会的にも考え方のバランスがとれ、役に立つという考えからです。

 
元の職場を辞めずに、フルタイムではなく、週に2〜3回とか、何日かおき位のペースで仕事をする人がだんだん増えています。オーストラリアでは当たり前のことになりつつある、と言えるでしょう。

家族の中のシニアの出番

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家族の中のシニアの出番をせばめるものとしては、少子化問題がありますね。私の小さい頃は、自分たちは3人姉妹ですが、他は6人きょうだいが普通でした。女は子供の世話に生涯の長い時間をとられ、大家族ですから、老人たちも役割が多かったのです。でも、現在は子供2人が普通でしょ? 孫の数も激減しています。大家族がなくなって、今のような極小家族では老人たちの孫の世話という活躍の場がなくなったのですね。

 
私自身は2人の孫の世話で手いっぱいでした。息子夫婦の息抜きのため週末の1日か2日面倒をみてやるのが精々で、預かった週の終わりにはヘトヘトでした。私に言わせれば2人でも多いくらいという感じですよ。

 
でも、今ふたりはティーンエイジャーで、私がオーストラリアにいるときなど、学期中はたいていの週末をいっしょに過ごします。でも、彼女たちは勉強や下調べに忙しいので、読書ばかりで静かなものです。孫たちが来るのも、会いに行くのも楽しみです。

 
幸運なことに、現在、東チモールに姪と家族が住んでいて、その子供たちは3歳と5歳。可愛いくてなりません。ちょうどこの時期にこの国に来られて良かったと思いますし、これも滞在理由のひとつかもしれません。

何でも自分で

オ―ストラリア人は飛行機や汽車より車で移動するのが好きです。私もそう。

たとえばニューサウスウェルズ州の首都はシドニーですが、メルボルンから行くには飛行機なら1時間で着いてしまいます。でも、私は車で10時間かけて行く方が好き。旅のトラブルも怖いとは思いませんね。自分で解決を目指します。

 私の信条は何でも自分ですること。他人に頼むのは苦手です。



*「アン 〜なんでも一人で〜」の英語版もあります。まもなく掲載予定です。

(完)

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2012年04月18日

山を愛し、お酒を愛し、人を愛し

山を愛し、お酒を愛し、人を愛し

 
 かたりびと:加藤忠男   ききがきすと:豊島道子

先輩教員の誘いで始めた「山」に魅せられて

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今年85歳になるけど、人生をあらためて思い起こしてみると、半分は山だったね。富士山にも事あるごとに登ったしね。

山をやるきっかけ? 高校の教員になってからだね。大学で山岳をならした人が私の同僚で。そうね、10歳くらい上だったかな。山好きな先輩で、手ほどきしてくれて、山の登り方とか、こんな山がいいとかを教えてくれたり。その人は拓殖大学の山岳部出身で、キャリアからいうと、南極探検隊なんかにも参加できたような人なんだけどね。

 
学校の教員だったから、学校が休みの夏・冬は少し遠出をして、二人だけで行った山はたくさんあるね。低い山は低い山なりの良さがあったし、高い山だけが名峯ではないし、1000mでもいいわけ。

 
田部井淳子さんも、福島県にもたくさんいい山があるので、好きな山をせっせと紹介して登ってるね。一度一緒に上った事もあるな。うーん、八ヶ岳はいい山だ! 彼女は福島出身だし、親近感があるね。彼女まだまだやれるし、テレビで見るにつけ、元気でいいねぇ。女性初のエベレストに登る候補の女性が、たまたま具合が悪かったので、次候補の彼女が選ばれて、それでどんどん頭角を表していったんだよ。まあ、世の中何かのきっかけというか、運もあるんだねぇ。

山を教えてくれた人の大怪我

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そうそう、その先輩が、怪我をしたんだ、大怪我をね。運動会の後、慰労会があって、お酒を飲んで家に帰るのに、タクシーに乗ったらしいのね。降りた場所が川べりで、酔っぱらっていたし、狭いのでそのまま川に落ちてしまったとか。大変な事故で、頭打って、腰打って、脊髄損傷。入院して、そのままでついに復帰できなかったね。

 
私もがっかりしたけど、それからは一人で登るようになったね。みんなしてわいわい登るような事はなかったけど、好きだったね、山は。

 
山で道に迷ったという事はないかって? 地図とコンパスだけで登るけど、それは無かったね。

 
妻も山が好きだから、止められた事は無かったよ。「行くの? 気をつけて行ってらっしゃい」っていつも送りだしてくれたよ。

 
山は無理しちゃいけないというのを、いつも自分に言い聞かせてたよ。自分の技量を過信してはだめ。山は臆病ぐらいの方がいいんだ・・・。無理やり登ると、雷にあたったり。冬の山はいいね。厳冬期はやらなかったね。3月なると雪がかたまってくるので、アイゼンきかせて登るんだけど、そのあたりがいいね。

 どんな山でも、冬山で雪崩はいつでもおきるから。クレパスはあるけど、危険性は少ない。幅が2m、深さ30mあって100m続くんだね。

大好きな山「剣岳」とその小説

 
一番好きな山?

 
真っ先に立山。「剱岳 点の記」という映画が最近あったでしょ?山のガイドで、山案内人が剱岳の高さを測ったんだね。あの頃、地理観測所が地図を作っていたと思うけど、その役所に勤めてたのかな。

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本もあって、大好きな本(注)なんだけど、それが映画になってね。何度も見たよ。おもしろかった! 自分の知ってる山がたっぷり出てくるから。剱岳は、富山県になるのかな。立山の最高峰!立山から室堂平、バスとケーブルとトンネルの中はトロリーバス・・。扇沢からだとかなり時間はかかるね。剱岳を含むのが立山連邦。日本三霊山の一つとして今でも崇められている山山だ。

*注:本書は、日露戦争直後、北アルプスの劔岳登頂を命ぜられた測 量官・柴崎芳太郎をモデルにした小説である。当時、劔岳は前人未踏、弘法大師が草鞋3千足を使っても登れず、登ってはならない山と恐れられていた。その劔岳の踏破を草創期の山岳会が狙っていた。これを知った陸地測量部のトップ層が初登頂は譲れないと、命令した。

 陸地測量部は30年間にわたって測量を続け、ほぼ日本の地図を作り上げていた。最後に残ったのが劔岳周辺。日本の山は、修験者など宗教上登頂された以外の山はほとんど陸地測量部員によって初登頂されている。絶対に山岳会に先を越されてはならない、上司がすべて陸軍将校の陸地測量部員にとって初登頂は至上命令だった。

 困難を極めたが、剣岳と映らの大雪渓(現在、長次郎谷と呼ばれている)から山頂を極めた。しかし、山東三角点設置のための材料はとても背負い上げられない。やむなく四等三角点、それでも長さ10(3m)、切り口1寸5分(4.5cm)の丸太を担ぎ上げなければ
ならなかった。ゆるぎない信念と使命感、部下への思い遣りあふれたマネジメントなど、リーダーの資質十分な柴崎と、確かな技をもった律儀な職人長次郎の組み合わせによって三角点設置のための劔岳登頂は、はじめて成しえた業績と云えるだろう。「文藝春秋社のコメントより一部抜粋」

秋田の兄も山好きだった

孝吉兄の米寿の祝いの席.jpg 
いろんな山に、秋田の兄貴も連れてったよ。孝吉兄も山を恐れない人だったから。山大好きだったけど、あの人も山にきのこ取りに行って、遭難し、急死に一生を得たね。新聞紙やらで寒さを凌いで、一昼夜、水だけで生き延びるとは、やっぱりたいしたもんだな。晩秋の秋田の山奥では氷点下だったろうし。

 
あの人は筆まめで、文筆家。たいした筆まめ。みんなに書いたものを送ってね。あの人は、小さい頃から絵は断トツに上手かったね。小さい頃に筆セットを買ってもらって、絵具もあの頃は高かったけど、養子に行ったから、待遇が良かったんだろう。よく風景画を描いていたのを覚えてますよ。私もそれなりに絵は好きだったけど、比べ物にはならないほど上手かったね。

 
本当は東京芸術大学に行きたかったけど、勉強の方で落ちちゃったんだ。それから仕事は日本生命やら転々として、絵は単なる趣味になっちゃったね。あのまま絵の世界に入っていたら、それなりに大成したかも知れないが。

 
日本の登山は信仰登山

 
剱岳というのは信仰の山。日本人の山登りと西洋人のそれとでは、考え方が違うんですよ。日本人は、昔から山には神様が宿っているという信仰をもって、祠(ほこら)を建てて、そこに参拝登山をするという感覚。信仰のために登るという歴史があった。

 
しかし、明治時代になって、近代登山といって、スポーツ登山というか、信仰がなくても、登山をするようになった。ところが、ヨーロッパ人は日本のそういう信仰登山に関心がなく、スポーツ登山が無いと考えて、日本の山を開発しようと、乗鞍岳とか穂高とかに登ったんですよ。宣教師たちが剱岳に登った。ヨーロッパ人は剣岳を未踏の山と勘違いして、まあ知識が無かったのかも知れないが、こぞって剱岳に登ったんだな。

 
日本では昔から富士講・何々村で、今度は立山に登るから年間計画を立てて、いついつ登るという風にして登る。参拝に行く・・・、富士山参拝・伊勢参拝・というのが講なんですね。富士講の講というのは、講和の講・・集団の事。富士山の神様を信じて登る集団は『講』、立山に登る集団は『立講』ってこと。

 
山に行くにも旅費がいるわけだね。講はみんなで旅費を積み立てて、村長は順番に村民を連れていくわけ。積み立てていれば、いつかは行けるわけだから。

 
日本の近代化でいろんな事がおきた

まだ車も運転されて元気だった頃.jpg 
明治になって、日本も近代化するために、政府が出した廃仏棄却令・・・、仏を捨て去れってこと。日本は仏を信じてお寺を信じきたのに、近代化を急ぐために、古い物は悪い、西洋の物がいいと。

 
明治の初期はすべて日本の古いもの捨てて、幕府を全部悪い物にした。それを倒した朝帝はいいという風になってしまい、そういう風習が続いたんだね。日本はある部分、文明開化が行きすぎて、西洋文化は進んだけど、日本独自の文化を捨てた、という過去があるんですよ。

 
今はどうなんでしょうかね・・。

 
徳川幕府を倒さなくては、日本はついていけないという事で、捨てちゃったんだね。いいか悪いかは別として。大仏様の上に天皇を置いたわけ。前は天皇が下だったのに、江戸時代から仏様の上に天皇絶対主義になったんだ。現人神・天皇は生き神様。天皇はずっといたけど、政治から手を引いてしまったわけ。幕府に任せたわけ。権力はないけど、えらいものにしておこう、という事だね。

 
また山の話になるけど、今の世の中でも山女(注:山ガールのこと)とか流行ってるらしいけど、山に登ると崇高な気持ちになるとか、御来光を見るために富士山に登るとか、いつになっても日本人は信仰登山のような気がするけどね。

 
最近までやっていた「ウォーキングの会」

数年前までリーダーを務めていた『歩こう会』.jpg 
ずっと温めていた素人のための「ウォーキングの会」を主婦を中心に、楽しくやったのが最後だね。毎回鎌倉や、横浜のこの辺の旧所名跡を廻りながら、ゆっくり歩くという趣旨で近所の人に声をかけたら、それなりに集まってね。

 
毎回、自分で実際歩いてポイントを探して、計画を立てるのが、それは楽しかったね。もともと歴史も好きだし、歩くのも好きだから。ルートをあれやこれや考えている時が、それもお酒を飲みながら考えて。いやー、最高だったね。まあいつしか自然消滅して、その会も無くなったけど、晩年のいい思い出だ。

あとがき

 
私の父の兄弟である忠男叔父の「ききがき」をするには、あまりにも壮絶な人生を知っている私としては、非常に複雑な思いでした。しかし限られた3時間という範囲で、何か叔父の一番好きだった事の少しでも書き残す事ができれば、という思いでした。

 
私が小さな時から一番愉快で、物知りだった叔父は、私が上京してからも人がよく集まり、笑い声の絶えない家でしたので、叔父宅へは事あるごとに行っていたのが昨日の事のように思い出されます。

 
今は、体が思うようにならない叔母を介護しながら、自分も進みつつある認知症とむきあって穏やかな日々を過ごしています。かわいい孫が4人もいるのですから、まだまだお二人仲良くどうぞお元気でお暮らし下さい。

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2012年01月09日

人生に悔いなし、向学心に燃えて

人生に悔いなし、向学心に燃えて
 〜「旅人さん」と言われ、各地を転勤する中で〜

 
かたりびと:大嶋みつよ  ききがきすと:菊井正彦

私たちは転勤族

face1.jpg 私がこのホームへ入居したのは5年前、「相生の里」ができてしばらくしてからです。主人は定年になって家にいたんですけれど、私がリウマチになって、子供達が、「こんなに遠くに居たんではだめだから、近くにいらっしゃい」、といいますので、引越してきました。

 前は”勝どき“に居たんです。勝どき橋を建てていた会社が市に貸していた住宅があり、1年ぐらい住んでいたんですよ。


 主人は日本生命に勤めていて転勤族だから、いろんな所へ行きましてね、「旅人さん(たびにんさん)」と言われたこともあるんですよ、「旅人さん」と言われて何のことかと思いましたら、転勤して歩くかららしいんです。やっぱり周りの人はそう思うんですよ。私は分からなかったんです。初めていわれたときは、年中動いているから「旅人さん」と言われたんだと思って。

 転勤は、本当に日本国中ありましたね。東京都内は歩きましたよ! 特に、オリンピックの前は。最初は、子供がいましたから、庭がある一戸建てを借りていたんです。オリンピック近くになって埼玉県へ引越し、それから社宅になりました。

 長かったのは渋谷、よかったですね。渋谷ではいろんなことができましたからね、主人は帰りが遅いし、子供達も大きくなっていたから。だから、碁なんかを習ったんですよ。腕はたいしたことはないですよ。四谷の駅前にある碁会所へも行きました。碁はこのホームでも教えていただくんです。いまでは、置碁してもらって、勝つか負けるかどっちかという感じです。

 他には埼玉にも行きました。有名な鐘のある・・・川越です。チョット変わった町ですね。江戸への北の入り口で、お宮も神社も大きいし、情緒があるところで駄菓子屋さんなんか、一杯並んでいますよ。

 どこへ行ってもなるべく、あまりよそ者にはならないようにと思いまして、その地区の方と一生懸命交流するようにしました。そういう苦労はありますね!

 長く居たのは福島県で4年間です。4年間で長い方ですよ。大阪に転勤した時には1年ですぐ帰ってきたこともあるんです。これは会社の都合です。子供が高校生だったから、受験しなくてはいけなかったし・・・。そんな苦労もありました。

◆思い出の地「福島」

image2.jpg 福島には思い出があります! 今は原発がありますけど、・・・その頃はなかったですよ。「原発ってどんなものかしら? 見に行こう」といって、皆で見に行ったことがあるんです。まさか、こんなことになるとは・・・。

 原発があんなに沢山できるとは思いませんでした。最初一つだけだと思っていました。「それじゃ、行ってみようか」って、観光気分でね。

 あのとき、原発に反対すればよかった・・・。反対なんかできなかったんですけれどね。

 だから、福島に一番思い出がありますね! 住んでいましたのは、福島市のちょうど真ん中、福島大学の前です。中通りですね。信夫山の麓です。あそこはよかったですよ! 今は大学の図書館になっていますけど、大学があってすごく楽しくて・・・。

 福島では友達ができましてね、よく旅行にいったんですよ、車で。福島の裏磐梯の方、まだ雪のある内に。何というんでしょうか、雪の回廊ですか? それを見たんですよ、黒部立山で有名ですが、福島にもあるんですよ。

 福島ではとっても楽しい思い出があります!。温泉に行ったときに、山の中で花火大会を見たんです。山の中で花火ってすごく綺麗なんですね! 温泉は何というところでしたかな? 温泉はいっぱいあるからね。

 花火は海だと思うでしょ? 山の花火もとても綺麗でしたよ。山の花火ってあんまり見ないじゃないですか。山の平らな所で打ち上げるから、山の花火は綺麗ですね。夜空が綺麗だし。

 福島の次は関西に行きました。あの頃は、子供はもう上が中学生になっていて、一番下の子供は小学生になっていましたでしょうか?

 県が違うと教育も違いますね。一番困ったのは長男のことでしたね。いつも、違う学校へ行く時が、学年の途中に引っかかるんですよ。長女はうまくいきましたが、長男は2年生の時だったり、中学3年生の時にもあったり・・・。でも、今考えますと、子供達も悪くならずについてきてくれたからよかったですけれどね。

◆子供達のこと

 今、長男は銀座で商売しているし、デザイナーの長女は電通に勤めていて、もう60歳になるかしら、部長なんですよ。キャリアウーマンというのかしら。

 旦那さんが新聞記者をしているんですけれど、定年まで勤めて、その後、自分の兄弟のところへ行って、自分達のお婆ちゃんを診ているんですよ。90歳になるお婆ちゃんは足をガンで切っちゃって、片足になっちゃたんですけど。でも、長女の旦那さんがよく診てくれています。朝も6時にお婆ちゃんのところに行って、足を診て、食事をあげて、おむつもちゃんとやって・・・。だから、大変な時は大変なんですけれど。

 今、主人は東京駅の前に住んでいます。家を買って勝鬨から引越したんです。マンションができて、そこがいいから一番下の子も買うというんで・・・。別個の家ですけどね。主人は家に居ます。おさんどんはやらないみたいですよ。やはり外で食べていた方が安心です。

 主人は東京生まれなんです。目黒の駅前で商売をしていて、強制疎開で引越しして栃木県に。お爺ちゃん、お婆ちゃんの生まれたところへ行ったんです。もう、二人とも亡くなりました。私は小田原、浜っこです。どちらにしても都会っ子です。

 主人が定年になったとき、相模原に家を建てました。大工さんをわざわざ福島から連れていって、建ててもらったんです。だから、越したくなかったんですけど。福島の大工はいいですからね。だけど、相模原がすごく寒いところなんです。湿気が多いところで、そういうことが影響して私がリウマチになっちゃたんです。それで、こっちに引越ししてきました。

 あと思い出としては、大阪に居たときです。関西で野球の強い学校ありますね・・・、西宮にある学校です。その学校が近くてよく、野球場も見に行ったし、その球技場で体操もやりましたね。運動会も見に行った。

 甲子園も行きました。招待してくれたことがありまして、一番高い所にある席で、上からガラスが入った特別席があるんですよ、よく観えるんです。1回だけそこへ行ったことありますよ。その代わり、一般席の人と一緒に物を買ったり、食べたりできない、むずかしいですよ。

◆転勤地での友達づくり

 転勤した先の方と友達になったことはあります。大阪(西宮)に居たときに、私が皮工芸を習っていたんです。先生が名古屋の人でしたから、自分達も住んでいた名古屋で習っていたんですが、その時は、大阪まで一緒に習いにきて、展覧会などいろんなことやりました。

 その人達とは今でも交流しています。この相生の里にも来てくださって。5人いて、2人はもう亡くなっちゃたんですが。元気な方が、つい2、3日前もチョット来てくれました。そういうお友達とは、私なんか少ないのですけれど、ずっと大事にしていて、旅行へ行ったり、何かして遊んでいます。もう長いんです。

 刺繍は、みなさんもご存知かと思いますが、桜をやる先生がいましたでしょう、桜を黒い布地に刺繍する有名な先生、もう亡くなったですけどね。その先生のところへ習いに行ってたんです。

 その5人グループで九州の、新しくできたハウステンボスへ行ってきましたよ。あそこを建てたのは清水建設だったと思いますが、会社の一番偉い人がご主人、という、その奥さんも友達なんです!。 で、こういう人達と遊びに行ったりして、そっちの家に行ったり、ずいぶんいろんなことをしましたね。

◆趣味あれこれ

face2e.jpg 東京に帰ってから刺繍をやっていたんですよ。そのほかに、皮工芸をやっていまして、たまたま、1個こっちに持ってきておいて、部屋に作品がありますのでそれを見せます。ブックエンドがあります。

 皮を彫るんです。それも自分で。デザインは先生が持ってきて、その中から選んでやるんですけど、こういう細かい画は自分で考えて作ります。

 家にはスリッパとかありましたけれど、みな捨てちゃいましたね。家にいくと、周りに皮工芸をした大きな鏡があるんですよ。あと、玄関のマットレスがあります。いま、家の玄関は小さいのでしまってあります。


◆リウマチを患う

 習字もね、昔、習いに行ったときは、それで日展まで出せるところまでいったんですが、リウマチが起きたんです。それが悔しくて・・・。やっぱり練習はしていましたけれど、もう、片手になっちゃたから、だめですね。

 ころんで、手をついて、それがきっかけでした。それで、聖路加病院の一番新しい先生に会いましてね、その日が土曜日か何かで、いつもの先生はいなかったんです。いつものの先生がもう脳梗塞やってるから、手術をしちやっちゃだめと言っているのに、その先生は若いから、手術するというんです。それで、手術をする、しない、する、しないで半日かかっちゃった。それが良くなかったんです。

 そのときはついてなかったんですね。知らないから、もうここからここまでギブスはめられたから、てっきり直るものと思っていたから…。

 結局、今住んでいるところの近所の人が「赤坂にいい病院がありますよ」と教えて下さって、そこへ通って直してもらったんですが、ギブスをはめることになっちゃって。ええ、泣いてね・・・。こんなになっちゃって、悔しいですね。

image3.jpg この間から習字を片手で始めました。常に何かやった方がいいかなあ。昔から何かは、やっていましたね。子供のセーター編んであげたり、チョッキを編んだり、こういうのは子供達もよく着ていました。

 習字は下手ですけど、左手で書いたのがリビングホールに1枚だけ飾ってあります。画もあります。バナナの画と、あとザクロの画が・・・。

 刺繍とか手先を使い根気がいる趣味がすきですね。でも、趣味というのはなかなか続けるというのは大変ですね。続けられたのは、お友達がいたからでしょうね。

憧れの大学へ行く

image4.jpg 自分の時間が多く、主人の帰りが遅いし、子供達が全部大きくなってから、私が50から60歳の頃、大学に入ったんですよ! 法政大学に。

 NHK学園がありますね、そこに入っていると大学にいけるんですよ。NHK学園に入れば大学に入れる、そういうずるい考えを持っていました。それで、法政大学の文学部歴史科に入って、歴史を勉強したんです。

 史学科だから、卒論は二宮金次郎を書いたんですよ、小田原出身だからね。新しい本も手に入れやすいし、二宮金次郎も結構いろんな苦労しているから・・・。

 卒論書くのは大変でしたよ。夕方から大学に行くのです。「お母さんに自分の時間ちょうだい」と、子供達に言って。そして、翌朝はまたきちんと起きるんですが、好きな勉強のためですから、そりゃ平気でしたよ、女性は強いですね。

 それがね、ちょうど母が病気になっちゃって。2年間、休学して、また行って。だから、結局、NHK学園は4年・・・。10年のうち、2年が休学で残念でしただけれど、でも、母をちゃんと見送りましたからね、

 私は常に何かにチャレンジしていないと気がすまないんでしょうね。大学に91歳のお婆さんがきていたんですよ、ホント。私なんか5060代ですから、頑張らなきゃと。

 振り返ると、向学心に燃えた人生に悔いなし、という感じ。いい人生だったなあ・・・と思います。

(完)

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2012年01月09日

心の中の大手町、赤坂、月島

心の中の大手町、赤坂、月島

  かたりびと:長縄芳子   聴き書き:S.K

1.仕事一筋の人生でした

東京市外電話局に勤めました

face1.jpg 
私は、大正五年一月二〇日生まれの九五歳。数えで九六歳になります。「仕事と結婚」して、これまでずっと一人で生きて来ました。今でいえばキャリアウーマンでしょうか。四〇年勤めました。私が就職した昭和五年の頃は、女性は結婚するのが当たり前で、一人でいるということはあまりありませんでした。その頃からちょっと変わっていたのかもしれません。

 
高等小学校を出て、聖心女学校の夜学を卒業し、昭和五年八月二三日に逓信省の電話の仕事につきました。東京市外電話局(東京中央電話局)(注1)といいました。全国を有線と通信(電信)で連絡をする通信士のような仕事です。学校を卒業するとき、学校の紹介で七人くらい試験を受けましたが、受かったのは三人でした。電話局は、大手町にありました。今の逓信総合博物館の南側で、通りをはさんで向かい側です。

三越を振りました

 
実は、学校を卒業したとき、三越と逓信省と両方に受かっていました。当時三越は、新宿の二幸という会社が就職や人事などを扱っていましたが―。

 
ところが、四月一日に電話局の採用通知がくると思ったら、なかなか採用日が決まらず、何だかんだして、八月二三日になって採用になりました。その頃市内電話が自動化されたということで、いろいろ忙しかったからだろうと思います。うちの母は、「そういうややこしいところには入らないで、三越にした方がいいわよ」と廻りから言われたようです。

 
あとから考えても、自分としては電話局に入ってよかったと思っています。というのは、三越は一日中立ちっぱなしですから、お客さんの機嫌を取っていてはくたびれてしまいます。私は大体、お客さんに会って、ニコニコ案内するような性格じゃないですから―。そういうことで、三越を振りました。

有線と通信で市外電話をつなぎました

image3.jpg 
毎年一度、電信の試験と法規の試験があり、結果が報告されました。それが出鱈目だと「長縄さん、試験ダメでしたね」と怒られます。だから、一生懸命勉強しました。でもそれはいい思い出です。一生縣命やる、若いからやる、そういう気持ちだったと思います。

 
その頃、電話の仕事は、東京、大阪、名古屋、札幌など大きい局が全国を分担してやっていました。東京は、その中心ということで全国を管理していました。遠いところでは、朝鮮や、しばらくして有線になった沖縄、北海道などもやっていました。樺太は、まだありませんでした。

 
はじめのうちは、電話は市内も市外も全部人が手でつないでいて、自動ではありませんでした。私が電話局に入った昭和五年というのは、ちょうど初めて京橋の局が自動になった頃で、ダイヤルを回すと自動でつながると大騒ぎになっていたときでした。自動化は、都内で一番最初が京橋局で、その次は高輪の局でした(注2)。

 
市内の局はみな自動化されましたが、市外電話は長距離ですから手でつなぎました。今と違って、ダイヤルして大阪が出るというわけではありません。そこで、有線にもかかわらず、少しでも有線を無駄にしないようにということで、トツウ(電信)と有線の両方(注3)を使って、次のお客さんをこうという具合に、空かないようにやっていました。だから、一日の通話量がどれくらいあったかよくわかりません。

 
線が空いているときは、線をつないで大阪の局を呼びだし、「どこのお客さんをつないで下さい。そっちのお客さんをこっちへつないでください。」と、口でしゃべればわかります。しかし、お客さんを続けてつなぐようにするには、話を職員がやったのではしょうがないですから、線をつないだまま、トツウ・トツウで、向こうからくる信号を聞いて、こっちからも信号を送って・・、という具合にやりました。

 
トツウ(電信)は、若いときからやりましたので、仕事で使ったことは今でも忘れません。おそらく、そういうふうにやっていたことは何にものっていないかもしれません。

 
韓国は有線だったと思いますが、線がつながっていて、たまたま通話が空いているときに、だれかうちの方の職員が「朝鮮人がいるわよ」と言ったらしいんです。それを聞かれてしまった。それで、監督さんと上の人たちが、問題が問題だからと大喧嘩になって大変でした。そのことは、職員が謝罪して、いいあんばいに治まりました。そういうことはあまり外には言えないことでした。

戦後、管理職に

image2.jpg 
戦後は、月島の家から電話局に通いました。アメリカ軍が進駐して来て「特別運用課」の方に配置になりました。いろいろありましたが、日本語では言葉が通じないので、幼稚園の「ディス・イズ」を勉強して何とかやりました。

 
特別運用課で勉強させてもらい、確か三〇歳を過ぎた頃に管理職になりました。女性の管理職は多くはなかったですが、少なくもなかったように思います。

 
電話局は女性の職場ですが、隣の中央電気通信局(中電)は男性の職場でした。でも、戦後は、女性も入るようになったのを思い出します。

 
仕事の内容は、国にかかわることなので、あまり公表できません。でも、四〇年間何とかかんとかやって、お陰さまで最後はちゃんと年金もいただき、ご飯を食べることに困ることもなく、ありがたいと思っています。

2.大家族で大変でした

兄妹は九人

 
どうして一人でいたのか聞かれますが、何しろ兄妹が一二人でした。私が一番上で長女ですが、一つ下の弟が長男。その次が双子の女の子で、赤ん坊の時に二人とも肺炎で亡くなりました。

 
その次が次男で、震災当時四歳でした。母は、動物を見せて喜ばせたいと思ったらしく、その子を上野動物園に連れて行きました。そのとき体に風邪の状況があったのですが、わからなかったようです。

 
帰りに子どもがどうも普通じゃないと思って、浅草の叔父のところに寄り、良くしていただいていた先生に診てもらったらとんでもない状態でした。「熱がありますので、今晩一晩中大切にしないと大変なことになりますよ」と言われ、それで急いで叔父の家に戻ってきて介抱しましたが、一日か二日して、肺炎で亡くなりました。

face2.jpg 
そういうことで三人亡くなって、残ったのが九人です。兄妹九人は、結婚したり、お嫁さんをもらうまでは皆うちにいました。女の子は、千葉とか神奈川とかに、皆嫁いで行きました。すぐ下の弟(長男)は、七三歳で早く亡くなりました。嫁もがっかりしたと思います。九人のうち一番下の弟も一昨年亡くなりました。

大変な思いをした買い出し

 
九人全員が揃っていた終戦後は、もののないときで、食事のときなど全員がお膳のところにずらっと並んで大騒ぎでした。貧乏でしたから、親は子どもを育てるのが大変だったと思います。

 
食べる米がないので、両国から汽車にのって、銚子のちょっと手前の駅のところに買い出しに行きました。何とか話しがついて、お米を一四キロ買いました。駅まで行く大通りには交番があり、ヤミ米が見つかると、とんでもないとつかまってしまいます。そこで海岸通りの砂浜を歩いていきました。そのうち、背負った米が重くて、くたびれてしまいました。どこかそのへんで休もうと思って腰を下ろしたが最後、今度は一四キロの米が持ち上がりません。

 
よっと持ち上げようとしても、下は砂ですから、ずるっと足がすべって立てないんです。しょうがないので、海苔や魚を干すやぐらに、えんやらやと米をかけて、一緒に行った長男の嫁にやっと立たせてもらいました。そういう辛い思いもしました。

 
帰りの汽車も大変でした。私が何べんも足をすべらせているので、「お姉さん、危ないから先に乗って」と嫁が言います。そこで先に汽車に乗りましたが、いつまでたっても嫁が来ません。窓から見たら、「お姉さん、まだ乗せてもらえない」と、泣き声を出しています。これは大変と思い、「すみません。あれはうちの嫁です。下から持ち上げてください」と周りのお客さんに頼み、やっと窓から乗っけてもらいました。

 
長男の嫁が元気だった時は、いつもこの話が出ていました。その嫁も一昨年の一二月に亡くなりました。よくできた嫁でした。

3.関東大震災で焼け出されました

赤坂で生まれました

face3.jpg 
私が生まれた家は、赤坂の一ッ木通りの傍にありました。父は建築屋でした。その頃は、通りのあたりは二階建ての家が多く、ほとんどが木造家屋でした。

 
大正一二年当時、私は一ッ木町の赤坂小学校(注4)の一年で、七歳でした。学校は、市電通り(青山通り)をはさんで、豊川稲荷のすぐ向かいにありました。九月一日は、学校は半日でした(注5)。昼前に家に帰って、母親に「ご飯まだ? おなかすいちゃった」と言うと、「今仕度してるから、どこか公園ででも遊んでらっしゃい」と言われました。

 
学校で、隣の席の河内さんに、ご飯を食べたら遊びに来てねと言われ、行くことにしていました。それで、ご飯前でも構わないだろうと思い、河内さんの家に行くことにしました。

 
河内さんの家は、歩いて一二・一三分ぐらいのところです。一ッ木通りをまっすぐ行ったところの交番から、左側に練兵場(注6)がある通りを乃木坂の方に五分ほど行って、通りから路地を二・三軒入ったところでした。

突然の地震。歩こうにも体がふらふら

 
私が「河内さん!」とちょうど呼んだときでした。突然「ぐらぐらっ、ぐらぐらっ」ときました。一一時五八分です。震度六か六強ぐらいでしょう。河内さんが、二階にいたか、階下にいたかはわかりません。危ないと思って、急いで河内さんの家の路地から表通りに出ました。

 
揺れるたびに煙がわあっと出て、いいお天気なのに空は煙で真っ暗。何にも見えません。通りにだれがいるかもわかりません。とにかく交番のところまで行かなきゃと思って、揺れで体がふわふわ・ふわふわ。何とか歩きました。年寄りだったらひっくり返っていたでしょう。まだ七つの子どもだったから立っていられたのかもしれません。

通りの真ん中へ出ろ

 
すると、「表へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ」と、おじいさんが怒鳴っているんです。怒鳴っているのがどんな人か、全然見えません。でも、その声を聞いて、道の真中にいるうちに、やっと地震が止みました。収まって見ると、何と空の煙は家の壁土だったのです。

 
通りのあちこちは、つぶれた家、二階がめちゃめちゃになった家、横倒しになった家といった状況になっていました。一ッ木通りのあたりの家は、溜池の方から出た火が廻ってきて、焼けてしまいました。あとになって私の家も焼けたことがわかりました。

お堀端に逃げる

 
両親は、私と弟と四歳の子の三人を連れて、荷車に、らっきょとかおにぎりなど食べ物や貴重品を載せて逃げました。夜は赤坂見附のお濠の公園で、父親が持ち出した畳に座って野宿しました。空が真っ赤な夕焼けで、きれいだったのを覚えています。

青山で避難生活

 
学校には一月ぐらい避難していたと思います。その後、青山の絵画館の前に避難所(仮住宅)ができて、江東や浅草や深川で焼け出された人と一緒に住んでいました。その仮住宅には四年いました。つまり都内の復興は四年かかったということでしょう。

 
避難住宅の前には青山連隊の練兵場があり、ラッパが聞こえてよかったことを思い出します。その後、小学校四年の一二月二三日に、月島に引っ越しました。

月島での苦労

face4.jpg 
震災後、月島へ来たわけですが、家は六畳と三畳でした。家族五人には狭いので、二畳建て増しし、隣にちょっぴりだけど庭も作りました。二畳の下に防空壕を掘りました。

 
当時、晴海のあたりはまだ海でした。この隅田川も洪水になるときがあったくらいでしたから、そのせいか、防空壕を掘ったら水がどんどん出てくるので、中で水の汲み出しをしなければなりませんでした。

 
そこで、木の樋(出し口)を作って、路地の土のうで囲ったところに水をため、柄杓で汲んで使うようにしていました。近所の人が、「水道が出ないので、築地の河岸までもらいに行かなきゃならないの。すみませんけど、お米研ぎと洗濯に使いたいんで、水いただけますか」と言っては、バケツを持ってきて汲んでいました。もっとも、水は臭いがするので、飲み水には使えませんでした。

4.おじいさんは命の恩人です

 
これまで第二次大戦もありましたし、いろんなことがありました。でも、繰り返しになりますが、関東大震災のとき、よく気がついて、「真ん中に!」って怒鳴ってくれたおじいさんは、命の恩人です。

 
あのおじいさんがいたおかげで、九五歳の今まで生きてこれたのです。その人にはとても感謝しています。どこの誰かもわかりませんが、ああいうときは神様みたいな人が出るんだなと思うのです。

 
そのおじいさんは、今はもう生きていないと思いますが、その当時、世の中が落ち着いていたら、表彰ものだったと思います。何人の人が通りにいたかわかりませんが、私一人じゃなくて、その人たちがみんな助かったわけですから。

 
あの状況で、怒鳴れたということは、東京の人ではなく、おそらく地震がたびたびある地方の人じゃないかと思います。そうでなければ、そういうことまで気がつかないでしょう。

 
長生きすると、命にかかわるようないろんなことがあります。でも今、命があるということは、この世に尽くせということだなと思います。だから、自分のことぐらいは自分で頑張らなきゃと思っています。

              (平成23・6・4談)

(注)

1:明治2312月に東京電話交換局が開設され、同25年7月に現在の千代田区大手町2丁目に移転し、同36年4月に東京中央電話局と改称された。東京市外電話局という名称になったのは、昭和24年6月、戦後の機構改革で逓信省が電気通信省に改められた時のことである。電気通信省はその後、昭和27年8月に日本電信電話公社となり、現在のNTTに受け継がれている。なお、東京市外電話局は、昭和60年に建物とともに、その歴史の幕を閉じている。

2:大正15年(昭和元年)に、東京中央電話局京橋分局で、日本で初めて自動交換方式が採用されている。

3:当時の電話交換で長距離線に用いられた「電信信号方式」といわれるもの。市外電話線を利用して作った電信回線を利用して電信符号で相手局を呼びだす。東京・大阪の両交換手が交換事務の連絡に使うために、電信電話双信法によって、通話中の電話回線に電信回線を乗せて、電信信号で交換上の打ち合わせや交換証の送受を行っていた

4:当時は東京市赤坂区一ッ木町(現在の港区赤坂4丁目・5丁目にあたる)という地番があったが、今は地名変更のため残っていない。なお、赤坂の「一ッ木通り」という通りの名称は、今も残っている。赤坂小学校は、明治6年に赤坂区一ッ木町に開校された学校で、同8年に赤坂小学校の名称となった。現在は赤坂8丁目にあるが、当時は青山通りをはさんで豊川稲荷の向かい側(今の赤坂4丁目のあたり)に校地・校舎があった。

5:9月1日は土曜日で2学期の始業式があり、子どもたちは昼前に下校している。

6:戦前、一ッ木町(現在の赤坂5丁目あたり)にあった「近衛歩兵第3連隊」ではないかと思われる。

(参考文献・写真出典)

○「写真でつづる八十八年―東京市外電話局」
 (昭和53年 日本電信電話公社東京市外電話局)
○「市外電話交換業務提要」
 
(昭和7年 東京中央電話局)
○「東京の電話(上)」
 
(昭和33年 日本電信電話公社東京電気通信局)
○「赤坂小学校の一二〇年」
 (平成4年 港区立赤坂小学校同窓会)
○「新修港区史」
 
(昭和54年 東京都港区役所)
○「関東大震災」
 
(平成17年 財団法人東京都慰霊協会)
○「語り継ぐ赤坂・青山 あの日あの頃」
 
(平成22年 赤坂・青山地区タウンミーティング『まちの歴史伝承分科会』)

(完)

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2012年01月09日

市丸姉さんにあこがれて

市丸姉さんにあこがれて
 〜九十五歳のいまなお、どどいつを!〜

 かたりびと:木下清子  ききがきすと:豊島道子

左ぎっちょでも楽しかったわ

face3b.jpg 私は、大正4年生まれの95歳。おっちょこちょいなの。江戸っ子よ。私はね、字が書けない、読む事は読むんだけど、字が書けない。そのために見る事を覚えた。字が書けないから、見ると覚えるじゃないですか。これは「きのした」って、読むんだわ、とかね。

 尋常小学校はちゃんと6年間出たのよ。でも私左ぎっちょだから・・いまだに左ぎっちょで、みっともなくて困っちゃう。6人兄弟で、みんな字が上手いの。私だけが下手だったわ。だから、ろくな仕事にも就けなかった。女中に行っても、朋輩に馬鹿にされて追い出されたりして。親は別に働きに出したりしたわけではないけど、自分で出たのよ。

 お店の主人は泣き泣き、私を辞めさせたの。お料理屋だったから、左ぎっちょでは、商売が左前になるから、と言われてね。お客には好かれたんだけど。それでも、どうしても料理屋とかは駄目で、左でやれるところがいいっていう事で、貝屋に奉公したの。左ぎっちょでも、貝って口を開いてるから、こうやりゃ割れるじゃない?

 東京の佃よ、生まれて育ったのは。だから左ぎっちょだけど、左で殻むいたりして、楽しかったわ。いじめられないで。その主人が「そのつゆ、大事だから、飲んじゃいな!」って。貝がかたっぽ生きてるんでね、気持ち悪かったけどしょっちゅう、つゆ飲んでた。アサリだの赤貝だの・・・


寄席に通って、市丸姉さんの真似

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 字は書けない、ただしゃべることは、覚えたいんで、*市丸姉さんって人いたでしょ。

注)市丸姉さんは長野県松本市生まれ、16歳のとき、浅間温泉で半玉(芸者見習い)になり、19歳で上京して浅草で芸者になった。
浅草では一晩に何件ものお座敷を掛け持ちするほどの人気者。 噂を聞いたビクターが市丸姉さんを昭和6年に歌手としてデビューさせ、静岡鉄道のコマーシャルソング「茶切節」が全国的な大ヒットなった。
芸者1だったようです。

 浅草のそういうところに行って、「小唄」とか「どどいつ」を覚えたりしてたわ。私、14歳位だったからよっぽど寄せにでも出ようかしら、って言ったら、親がそんな思いしなくていいってね。

 寄席に出ない代わりに、学校の帰りには、寄せの下足番のおじさんの所に行って、おじさん知らないのに、「この下駄どこに入れたらいい?」って、言われないのにやるもんだから、かわいがられてね。だからね、「今日は、市丸姉さんくるから、お客の所に行って座って歌聞いた方がいいよ」って言ってくれたりして。

 毎日学校から帰ってくると寄せに行って、そんな事してたのよ。楽しかったわ。

かごしょって、魚拾い?

 ある日、友達に「魚市場でこじきやんない?」って言われたの。友達に。いいわって答えて。何だかわかる「こじき」って? 汚いかっこしてね、わらじはいて、かごしょってね。下におっこってるのを、ひろうわけ。そこの主人に何も言わないで、自分のかごに全部入れるわけ。家に持って帰ってきて、近所に持ってって売るのね、料理屋さんとかにね。

 かごしょって、わらじはいてね、魚市場の中に入ってそばを食べるお金位は持ってたから、そこで食べて隣のおじさんと仲良くなって、「おじさん、下におっこってるごみ拾いたいんだけど」って言ったら、「そっか、小遣い稼ぎだな。かごしょって4時に来なくちゃダメだよ」って教えてもらってね。4時に行くから学校なんて行かないの。

 ご主人がみんないい人で、いいよ、いいよって言ってくれるので、下に落ちてるの拾って。そのうち「この子か、清ちゃんてのは?」と言われて、すいませんって。でもね、私達は子供だったから、みんなかごに魚ほってくれたりして、楽しかったわ、子供のじぶんて。

結婚生活は短かったわね

 お嫁に行ったところは、門前仲町ってとこで、借家だったわ。ある時、下駄やじゃなくて、ええとね、何やだったか? とにかく家から近いから毎日行って、その前の掃除したりなんかしてたのよ。

 そこにいた人が、いいとこの息子なんだけど、親とけんかして、飛び出して、大学も出てたんだけど、その人が独身でそこに居候していたの。「私もらってくれないかしら」って言ったら、「いいよ、もらってやる」って。それでちゃんと結婚式もやって一緒になったの。

 その人と結婚したんだけど、死んじゃったわね。結婚して10年位は一緒にいたんだけど。その人電気やさんでね。その時は、赤坂に貸家がたくさんあって、乃木大将の墓もあったわね。7・8人の弟子を連れては、コードをあっちやれ、こっちやれっていうふうな仕事をしてたわ。

 戦争にもあったわね。門前仲町で逃げて、川っぺりにつかまって、夜をあかしたの。いろいろその間あったけど、戦争は早く終わったような気がするけど、今となりゃあんまり覚えてないね。

私、男の人が好きなの!

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 くだらない話が一杯あるのよ。していいかしら? 私ね、男が好きだったの。どんな男って、お金を持ってたら、どこへでも行ったの。私はお金持ってなかったから、お金があったらどこへでも行けるでしょ?

 たとえば、向島の方に、「やおまつ」という料理旅館があったの。「やおまつ」に行くのにね、永代橋から船が出てたの。船頭がいて、川っぺりに雨も降ってないのに、番傘さして出迎えてくれるのよ。

 私、昔から市丸姉さんにあこがれて、歌いなさい、っていうと今でもすぐ歌うの。「どどいつぁ〜野暮でも、やりくりゃああ上手っ、けさも七つやでほめら〜れえぇぇ〜た」

 くだらない、人生。男の人が好きなのよ。振られたことはないわね。

 芸事が好きだったから、いろんな歌を歌ったわね。市丸さんが好きだったわ。浅草の芸者衆。勝太郎さんとかね。「端唄」とか、「どどいつ」だとか、持ち味があるでしょ、声に。私は低音で歌ったり、高い声で歌ったり。私は、芸者になりたかったけど、親がいけないって。

相生の里での今の生活

image3b.jpg 三味線も2丁もってきてるの。足をけがしてね、座れないし、三味線は、車椅子ではひけないのよ。私、ここでは今車椅子の生活だから、すわれないでしょ、三味線がのらないでしょ、この肘掛がじゃまして。だらしない持ち方になるからやれないわ。ここへ(膝の上に)のせないとね、浅く腰かけないと、三味線がのらないでしょ(今にも三味線があれば引き出しそうな雰囲気で)。いつでも三味線ひけるように、ここに(相生の里)持ってきてるの。

 何年か前の暮の大みそかで、歌ったり、三味線弾いたり、みんなの前でやったのよ。何か歌ってって言われると、手を挙げて、はいって歌うのよ。

 でもその後ころんで、大けがしたの。もう3年位前に、ころんで、大怪我をして、もう治らないのよ。医者がリハビリも駄目だし、無理しちゃだめって言うから。

 お裁縫が好きだったけど、ここじゃ針と糸持ってきてはいけませんって、言われたの。お裁縫もするのよ、ちゃんと親が習いに通わせてくれて。

 みんな兄弟元気ですよ。長男が、お金送ってくれてね。私が一番下だけど、みんな東京に住んでます。今じゃ、みんな年とって会う事もないけど・・・。

image4b.jpg
 私ね、西瓜が好きなの。で冷蔵庫買ったのね。去年すいか出なかったでしょ。真半分のすいか、大きな西瓜を冷蔵庫に入れておいて、食べるの。今年は美味しいすいかたくさん食べなくちゃ。お酒は飲まないし、たばこ吸わないから私。西瓜が一番好き。

 ここは一人部屋なの。テレビもあるの、こんな大きいテレビが届いたの。歌番組見るのよ。歌が好き、踊りが好き、ダンスが好き。足が悪くても踊っちゃうわよ。相手がリードしてくれれば、何でも踊っちゃうわよ。

 時々ね、ここには芸人が来て、ダンスだの、いろなのをやってますよ。

 日本舞踊の先生もしてたのよ。左ぎっちょで。ちっちゃい時から踊りは習わされて。

今でも声は大事にしてるわよ

 唄えなくなったら困るから、今でも声は大事にしているわよ。喧嘩は嫌い、ここでも喧嘩は絶対しないわよ。

 何にも顔には付けてないのよ。頭だって。足がこんなだから、買いに行けないでしょ。水で洗うだけよ。ずいぶん貝の汁を飲んだおかげだわ。今のこの年になって、悪いとこないもの、ただ転んだから足が悪いだけで。

 なんたって、かっぽでも、やっこさんでも踊っちゃうわよ。なまけてるようだけど、ぼやっとしてるのは昔から嫌いだから、何やかにややってますよ。三味線は弾くし、今はこんな格好だけど、エプロンを変えてみたり、着物着ないでもできるようにやってね。


 ドジョウすくいの手をしながら、あ、こりゃこりゃ!

 で、ダンスは自己流なの。相手つかまえたら、私が歌っておどっちゃうの。おじいさんだろうが、誰だろうが。すぐ歌うのよ、楽しいわよ。

 「会いたい〜ぃぃとっ、思う矢先にぃぃぃ、来たよぅ、と言われっ、会いたくないふぅぅり、見たいかぁぁぁお!」文句によって、高いところから出たり、低いところにいったり、歌はいいわよね。


◆あとがき


 今回は、ある御縁で、木下清子さんのお話を伺う機会を持てました事、本当に感謝です。この相生の里という素晴らしい環境の中で、ご高齢者のお一人、お一人の人生を垣間見る機会をいただき、関係者の方々にも深く御礼申しあげます。

 さて、清子さんとの初対面ですが、私の95歳の方のイメージと全く違う女性がそこにいました。しっかりした口調で、「木下です、こんにちは」と本当にお元気でお話好きな方だとわかる印象で、すぐ打ち解ける事ができました。

 市丸姉さんにあこがれて踊り・歌・三味線にあけくれた人生・・・時代はさておき、本当に好きな事に没頭できた清子さんは幸せな人生を送られたと、確信しました。

 お話中も、身振り・手振りで、踊りの話がはずみ、お怪我をなさる前のお元気な清子さんの踊りと三味線を是非拝聴したかったな、と返す返す残念に思った次第です。

 お話を一通り伺った後、昔の写真はありますか?という問いに、「部屋にたくさんあるのでどうぞ」と快く招いて下さって、本冊子に載せました写真を撮る事ができました。どうぞ、これからも粋などどいつを、どうか唄い続けて続けて下さる事を願ってやみません。

〈注〉この聴き書きはご本人の語った言葉をそのまま書き起こしていますので、本文中に、差別的あるいは禁止用語に該当する言葉が出てくる場合もあります。聴き書きグループでは、ご本人が自分自身に関して語った内容や言葉は、特別な場合を除き、できるだけ忠実に記載する事にしています。


(完)


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2011年04月24日

定年後の仕事はカウンセラー

定年後の仕事はカウンセラー
 〜ライフワークを見つけるまで〜

  語り手:酒井正昭さん(70歳)ききがきすと:松本すみ子
  
聴き書き時期:2011111

60年代安保闘争のさなかに 

sakai6.jpg 
卒業したのは横浜国立大学の経済学部。当時の国立は1期校、2期校といっていた。1期校の東大と2期校の横浜国大、それに駿台予備校を受けたが、東大は“桜が散った”。2期校と駿台の発表は同じ日で、どちらも受かっていて、どうしようかなと悩んだ。もう1年浪人して東大を受ければ、なんとかなるだろうという高校の先生もいたし。

 でも、発表を見に行った時に、学校の坂の上から、2人で仲良く腕組んで歩いてきたカッコいい男女の学生が来て、やっぱりここにしちゃおうかなと。自分でも物理とか理科は自信がなかったし。横浜だと受験科目は3科目だけだったからね。
 

 
当時の2期校って、入ってもすぐやめて予備校に行ったり、この大学に入ったのは2度目だという学生がいたり、大変なところだった。地方にいる親には、東大とか一橋に入ったといって、実は予備校に通っていたとか、親からは4年間しか仕送りがこないから、バイトで稼いで卒業しなければならないなんていう学生もいたし。 

 
入学したのは、ちょうど60年安保の時代。2年の時かな、国会のデモで樺美智子さんが亡くなったのは。1年の秋くらいから、当時の革新団体の安保阻止会が結成されて、羽田での座り込みがあったりした。学校にはほとんど行かなくて、デモをしに東京に来ているような毎日だった。 

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                    酒井正昭さん

 
安保条約は6月19日に自動的に法律で決まってしまうわけで、当時の岸総理大臣は当然、それを狙っていた。あの人もそれなりに大物だったわけだ。われわれは大きな政治の枠の中で流されていくような、どうしようもないような気持ちで、国会の周りに座り込んでいた。ほとんどの学生の指導部もぶっ壊れているから、動かす力もない。ただ、暗い街灯の下でひたすら座り込んでいるくらいしか、自分たちの意思表示の仕方がなかった。それがものすごく印象に残っている。 

 
でも、僕らはみんな本を読んでいたよ、岩波文庫とか新書とか。こういうことは若い人に伝えたくなる。そんなことがあって、ちょうど去年が50年。時々、当時の高校や大学の友達なんかと会って話すと、そういう話題が出る。単なる思い出の一つに変わったなという人もいるけど。 

 
学生運動が終わってから、勉強したいという気持ちがすごく湧いてきて、大学に残って経済学を勉強しようかなと思った。一方で、自分の能力がどのくらいかを試したいという気持ちもあった。革新だとか左翼だという方に入っていたから、企業の中に入っていくことにはためらいがあったけど、ぶきっちょみたいだし、学者っていうよりも実社会でいろんなことにぶつかって、どのくらいのものかやってみるのもいいかなんて。 

 
そんなことで悩んでいるうちに、就職の募集は終わってしまった。でも、当時はプラスチック関係が新しい産業として生まれていて、三菱樹脂がまだ募集していた。ここは筆記試験もないから大丈夫だぞ、とか言われて入社した(笑)。 

 
中心となる工場は滋賀県の長浜市。入社後、そこで集合教育があった時、「すごい田舎だ、こんなところは止めようか」なんて思ったけど、戦国時代の面影が残っている面白い町だった。それで、ここでやってみるかという気になって、そのままずっといたような感じ。 

バブルを経てバブル崩壊へ 

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仕事は経理・会計だったが、私は会社というものを突き放してみていたような気がする。普通は偉くなってくるにつれて、企業の中にのめり込んでいって、人間関係なんかを築いていくのだろうけど。客観的に見ることを要請されていたかもしれないが、ポンと外れてみていたような気がする。上からの指示をあまり素直に聞けないようなところがあって、扱いにくかったかもしれない(笑)。それなりには一生懸命やっていたと思うけど。製品開発とか営業だったら、違ったのかな。 

 
お前は言うことが早すぎる、まだ皆が分かっていないことを言っているといわれたこともある。例えば、あの部門は存在意味がないですよと言ってしまう。突拍子もないことを、得意になってしゃべっていると思われるらしい。その時、その部門は一生懸命やっているわけだし。でも、5年くらい経つとやっぱり、自分の言った通りになっていて、みんな、もう知らん顔して他のことをやっている。たぶん、こういう目も突き放して見ていた結果だと思う。 

 
だけど、工場で課長とかをやっていた時に、新入社員が配属されると、お前のところで面倒見てくれと言われて、毎年、私が担当していた。新人を2・3年でそれなりにできるようにすると、どこかに転勤させる。それが面白かった。その仕事は一生懸命やった。だから、今でも結構、若い人と話ができる。 

 
三菱という名前を背負った会社だけど、いくつもある企業の下の方だから、財務、資金関係、資金調達が大変だった。当時は高度成長期で、地方銀行が東京支店を開設する頃。当然、何億とか用意して出てくるので、そういうところから調達していた。メイン銀行は三菱だけど、新しい産業にはおっかなびっくりで貸さない。でも、他行の借入額が三菱の額を越したら、それはそれでだめ。そういう仕事は、ずいぶん面白がってやっていた。

 
そのうち間接金融から証券会社経由の直接金融の時代になってきた。企業の力がそのまま株式市場に反映されて、そこから資金が調達されるようになると、トップの政策と結びついてくる。新製品の開発をどのタイミングで新聞にバラして、いつ報道させるか。証券会社にはいつ時価発行のプランを出して、株価を上げられるかを考える。トップの意思決定と資金調達がリンクしないといけなくなった。変わり目の時代だった。

 
バブルの中でどんどん直接金融になっていったので、資金調達の金利もマイナスにできた。例えば、外国で債権を発行して、5年後の金利や返すお金を有利なレートで予約しておく。すると金利がマイナスになり、ずっと返すお金が少なくなるわけ。一時、財務の時代と言われたことがあったけど、たぶん、そんな理由からだろう。だから、工場で物なんか作っているよりも、投資で儲けたほうがいいじゃないかなんて。そういうのがバブルの絶頂期だった。 

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投融資は本体じゃできないから、どこも関係会社つくってやっていた。そういうことで稼いだお金をファンドなんかに投融資していたが、それが一度に弾けた。担当者は処分されたり、会社を辞めざるをえなかったり、ずいぶん傷ついた人が多かったと思う。でも、上は無責任だよね。やってる時は見て見ぬふりなんだよ。本来のマネジメントからすれば、定款で決めた本業は製品を作って、世の中に貢献するということだから、博打をやることではないと、ちゃんと締めないといけない。だけど、まあ利益を出すし、儲かっているし、それを配当すれば、株主からも文句をいわれないという構造だった。

 
本業での博打はビジネスとしてあると思う。こういうプラスチックの製品は当たるだろうから、それにお金を何十億を掛ける。これは、先見の明があったか、なかったかということ。ただ、株式での博打は証券会社がやることであって、普通の事業者がやることではない。弾けて当然だった。その後から、監査制度というのが重要視された。 

定年後にカウンセリングを選んだ理由 

 会社での自分に対する評価に、人の話を聴き過ぎるというのがあった。例えば、プロジェクトの運営では、親分肌で引っ張っていっていいんだと言われた。お酒を飲み交わしながら、それなりに人がついていくんだと。

 
でも、仕事でいろんな発想が湧いてくるのは、会社で話を聴いている時が多かった。毎日指示を出さなればならないけど、話を聞けば得ることが多いし、部下も自分で気がついて自主的に動いていく。「うん、そうだよな、やってみな」と言えるし、その方がやる気が出る筈という気がした。だから、仕事はピラミッド型よりもサークル型のほうがやりやすいんじゃないかと思っていた。

 机も席が決まっていて縦に並ぶよりは、丸い机でフリーアドレスがいいと思った。今はそういうのがあるけど、昔はあまりなかった。最後に関係会社に出向した時は、それを絶対やってみようと思った。大正時代創業の古い会社だったけど、丸いテーブルを入れ、フリーアドレスにして、書類はキャビネットだけにした。私は役員だから、秘密の書類があるので仕切りの向こうに行くことはあるけど、皆と同じ輪に入るからと。

 
それに一番抵抗したのは、プロパーの人だね。課長が最も抵抗した。「せっかく課長になって、家族とか親戚に自慢できるのに、この席がなくなるんですか」。そういうものかなあと思った。でも、じっくり話をした。こういう趣旨でやるし、本当に実力ある課長なら、席がどんなところでもちゃんと情報が集まってくると。そしたら、分かってくれて、「やりましょう!」と。その会社は今でも、このスタイルでやっている。 

 
そんな経験があったから、定年後に何をしようかなと思った時、人の話を聴く心理関係の仕事があると聞いて、それならできるかなと結びついた。私のような職歴だと、税理士や会計士、ファイナンシャルプランナーのような仕事を考えると思うけど、そういうのは全然やる気がしなかった。

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前にも言ったように、自分はのめり込めない、のめり込まない性格。それが欠点でもあったろうし、もっと自分を出すものがなかったのか、あるいはそれが分からなかったのか、怖くてできなかったのか。その辺はよくわからない。けど、時々、のめり込んでいくことがやっぱり怖かったのかなと思う。冷静ぶっているだけだったのかもしれない。

 
だから、カウンセリングをしていて、「自分が何をやったらいいのか分からないんです」なんていう話を聞いても、その気持ちがそれなりに分かる。見つけられないというよりも、見つけることをためらう気持ちもあるのかもしれないし。

 
今は、カウンセリングが自分に合っているし、自分の居場所かなっていう気がする。「どうも、ありがとうございました」と言って別れる時は、「ああ、よかったな」と思って、自分としてもやったなという気がする。これは会社のやったなとは違う。 会社員時代は有り難い時代で、給料の心配がなく、自動的に給料が入ってきていた気がする。今は、入ってくるお金の単位はものすごく少ないけど、それでも、そういうお金の方が、自分の仕事の成果だと思える。私が話を聞いた人のお金の何分の1かがここにきた。距離感がすごく近い。

いいカウンセラーに出会うには
 

 
カウンセリングをやってきて自分が変わったと思うことは、いろんなことを受け止められるようになったこと。これも人生、それも生き方だと。それに、日常の周りの細かいことが、人間の意識をかなり支配しているということも分かった。例えば、誰かと話していて、こういうことをいわれた時に、ものすごく辛い思いになったとか。そういう時に、自分をどう対処させるかということを考えていかないといけない。抽象的な話だけでは解決しない。具体的な場面を自分で思い浮かべることが大事だ。 

 
また、時間を守ることの大切さを知った。カウンセリングでは1時間でぴたっと決める能力が必要だ。いいカウンセラーの見分け方の一つはこれかもしれない。特に、発達障害や人格障害の人と会う時は、1時間で相手が泣いていても終わらせることが大事。その時、相手はものすごく見捨てられたというらめしい顔をするかもしれないけど、それが逆に、人間同士の信頼感につながる。あそこにいけば、必ず私の時間が1時間あるという安定感。これが大切だと思う。そういうことが分かった人は、5分遅れる時でも必ず連絡をくれる。そういうところから人は変わる。

 
カウンセラーにもいろんな人がいる。会社なんかの縦の関係をそのまま持ち込んで、聞いてやるよという姿勢の人もいる。「あなたは自分のことに関しては専門家で、私は認知行動療法の専門家。専門家と専門家が、あなたの悩みや苦しさを解決するために、2人が対等に共同作業をするんですよ」という見方をする人が本当のカウンセラー。そういう人のほうが少ない。 

 
企業人はなかなか変われない。会社で仕事ができる資質と、人として生きていく資質は少し違う。企業の縦の人間関係しか見られない人とか、会社で自分が達成できなかったことを抱え込んでいる人が、ボランティアの組織なんかに入り込んでくると危ない。もっと違う価値観や見方でやっていくことが大事だと、気づけばいいんだけど。 

 
地域活動に入る人のための講座があるけど、ソフトランディングできるように、おだてるように組み立てられているような気がする。人間それぞれ違いがあることを認め合いながら運営していくことがボランティアであり、地域活動だということをもっと伝わるような仕組みが必要じゃないかな。 

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これからのカウンセリング 

 
これからは個室の中で、1対1でやっていくカウンセリングって、どうなんだろう。疲れている人や問題を持っている人が3人とか4人で、共同作業というスタイルもあると思う。芸術療法の話を聞くと、絵を描く、コラージュを作るということは、一人でやるよりも集団でやった方が、他の人の刺激を受けて物語が開けていくそうだ。

 同じように、うつで休職していて、ようやく出社できるようになった人なんかは、グループディスカッションをすれば考えがしっかりし、それが出社への準備になっていくはず。それにはファシリテーターの技量がものすごく問われるけど。人間は社会の中で存在しているのに、1対1でしかカウンセリングをやらないのはおかしい。今、取り調べとカウンセリングくらいでしょう、個室でやるのは。 

 
一緒に活動しているカウンセリングのNPOにも、机を丸いものにしようと提案している。いつの間にか、古手から順に奥に座ると決まってしまっている。これもおかしい。古い考え方からの脱皮が必要だよ。もしかして、机なんかなくてもいいかも。 

 
最近は体が辛くなってきたから、カウンセリングもそろそろ辞めようかなと思うんだけど、結構、やりだすと終わらない。逆に、増えていったりしてね(笑い)。 


posted by ききがきすと at 23:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月08日

作品:人が集まってくれる暮らしは楽しい

人が集まってくれる暮らしは楽しい  
 〜夢は持ち続ければ叶う〜


     語りびと:藤田敏子  ききがきすと:海田廣子  
     聞き書き時期:20111

 
夫の母親との出会いがご縁

fujiyama10.jpg 新幹線のホームで私の前に夫の母親がいたの。たくさん荷物を持っていたから、一つお持ちしましょうかと声をかけて新幹線に乗ったのがご縁だった。一度遊びに来てくださいといわれて、住所、場所を書いてもらった。そのとき私は、婚約していたのを断りに名古屋から静岡へ行く時だった。

 帰ってきて、またお見合い写真でも撮るかと写真を撮りに行く途中で、そういえばこの近くだったのじゃないかと思い出して夫の母親のところに立ち寄った。たまたま私が行った日に夫もそこにいたの。会ったとき、すごいオジサンがいるわって(笑)。9才も違うので若いときの年の離れってそう感じるじゃない?。

 まさかその人と結婚するとは思わなかった。デートもしないうちに話が決まったの。

 一度だけどこへ行きたいと聞かれて、名古屋の東山動物園に行って、二人でゴリラの前で笑った。デートはそれ1回だけ。おじさんだからこの人なら間違いないのじゃないかなっていう気はしたの。でも私の親は心配して、興信所に頼んで調べましたね。真面目な人だと言うのがわかったからOKがでたのだと思う。恋愛感情もないし、手をつないだわけでもないし、ただゴリラの前で笑っただけなのに・・。思い切りがいいでしょ。

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                                                    思いきりがいいでしょ、と話す藤山敏子さん


 義母は、嫁はこうでなきゃいけないとの思いが強く、気が強い人。結婚したときは、それはものすごく大変な思いをした。子育ての時もそれはそれは大変だった。ホントにつらい事って思い出すのもいやでしょ。だからあまり人に言わないの。
 

 
結婚して最初の頃はずっと主婦だった。夫は退職するまで、専門書の大手外資系出版社の日本代表だった。大学の教科書、美術書、医学書、経済学の本など。本の著者がたくさんいたのでその接待があった。家に呼んで接待するだけならいいのだけど、ちゃんとお話を合わせられるように著者の方の本を一応読んだ。私は英語はダメだから日本語に訳されている本を買って、わかりもしないのに読んでいたのでとても忙しかった。小説だったらいいのだけど・・・。今その反動で簡単な本ばかり読んでるけど(笑)。

 外国からのお客さまだから和服を着て行かなきゃいけないじゃない。だから和服をまず着ることから。何となく着ることはできたのだけど、月に2回くらい先生に家に来てもらって、着崩れしない帯の結び方を教えてもらった。とにかく早く覚えなきゃと、先生が帰ると教えてもらったことを全部メモしてその通りに自分でやってみた。3ヶ月くらいでびしっと帯が一人で結べるようになった。結婚したときは主人が外資系企業に勤めていることは知っていたけど、そこまで大変だとは思わなかった。

 敏子さんを見ていると「幸せそうな絵を描いているし、なんの苦労もなく幸せな人ね」とずっと言われ続けている。「はいはい」と返事しているけども、気持ちの中では実はそうじゃない。好きな本を読んでその世界に入ったり、アトリエに行ったり、お友達に会っておしゃべりしたりとか、それを上手に解消する方法があるの。
 

アトリエで絵を描き始める
 

fujiyama2.jpg 結婚してしばらくして、子どもが中学生になったらカルチャースクールではなくて、ちゃんとしたところに絵を習いに行きたいと思っていたのよね。たまたま、ホテルオークラのレディーズサークルでアトリエのオーナーの奥さまと一緒になりお友達になった。「実は恵比寿に主人がアトリエを開くのでよかったら来てくださいね」と言われて、じゃ見に行こうかなと軽い気持ちで見に行って、ここなら大丈夫かなと。ちょうど息子が中学生になるタイミングだった。

 アトリエに行きだしてからは長いですよ。もう化石になっちゃって・・・(笑)。月曜と水曜の午前中のクラスは、みなさんめちゃくちゃ真面目な人ばかり。真剣でね。それこそ話もしないで黙々と描く人ばかり。入りたいと思う人が見学に来ても、その真剣さを見て恐れをなして、このクラスは入れませんというの。とけ込めないと思うみたい。描いてないときは和気藹々でいい人ばかりなのだけどね。

義母はあの時代の人だから家庭の主婦が毎日外に出るなんてとんでもないという考えが強い。義母は4時に夕飯を食べるの。だから、朝9時ごろまでにきちんと片付けをして、お昼ご飯と夕飯の準備をしてから出かけて行く。文句を言われないように家のことは完璧にした。そこが私の強いところ。やりくりがうまくなったわね。何十年もかかって編み出したことだから。義母も何年かするうちにだんだん私のやり方に慣れて、諦めちゃって・・・(笑)。でも長かったわ。これで大丈夫だと思ったのはおじいちゃんが亡くなってから。


 外に出かけることはできなかったけど、恵比寿のアトリエだけは行っていた。私のストレス解消の場かな。今でもそうだけど・・・。自分でもよく耐えてきたと思う。
 アトリエでは大きい絵を描いて、家では小さい絵を描く。毎年テーマを決めて、シリーズではがきに水彩画を描いている。お花、野菜やケーキなど。小さい絵をちょこちょこと描いているのは楽しいわよ。ハーブのシリーズもあった。ハーブは自分で育てて花が咲くまで待って描く。プランテーションに行っていろんなハーブを買ってきて、種から育てる。毎年16枚描いて印刷してもらうの。何年もやっているからどんどん原画がたまる。原画だけでも展覧会ができそうな気がする。長細い額に入れてもいいかな。

 あと、綱島のギャラリーで毎年9月に5人でグループ展をやっている。だれかが辞めた時点で辞めることになっているのだけど。去年そういえば17回忌だと言ってみんなで笑ったわ。それから毎年クリスマス近くに、親しくしている織物の先生が生徒のために展示会を催すの。その先生から「展覧会だから小さな絵を出して」と頼まれるので、5、6枚小さな絵を出すの。水彩はがきや絵が欲しい方には、安くおわけしている。
 

母方の実家は代々画家だった
 

 私が生まれたのは金沢。両親ともに金沢の人。母の実家は佐々木というの。私の兄弟は弟が二人。私は長女なのだけど、私の母は後妻で腹違いの姉がいる。姉たちはおじいさん、おばあさんに育てられていたので一緒に住まなかった。姉は金沢に住んでいるけどちゃんと行き来している。時々遊びに行ったりしている。

fujiyama3.jpg 私の母の父は、佐々木三六(さんろく)という画家。雅号は「長江」。母が遺産分けでもらった絵がたくさんあった。私たちでは保管できないのでもったいないからと金沢の近代美術館に相談したら、そこの館長さんが預からせてもらうと言って保管してくれることになった。そのかわり美術館で企画展する時は使わせてくださいという条件で。

 全部持っていかれるのもなんだしと思い、その中から絵を数枚もらった。額に入れて居間に飾ってる。三六さんのスケッチ帳は貴重なものだから私が欲しいといって母からもらってきた。日本髪の人、着物を着た子どもや男の人などを鉛筆でデッサンしたり、風景を水彩でスケッチしてる。でも、シミだらけでもったいない。今みたいなスケッチブックがあったらどんなによかったでしょうね。

fujiyama4.jpg 昭和52年に福井県立美術館で『福井の明治美術展』が開催された。三六さんの絵が図録の表紙に使われている。ルーベンスとかフェルメールのような絵ね。イタリアの美術学校留学の時に描いたのではないかしら。図録に『洋画留学の最も早い人の一人。トリノ留学。コンクール で一等賞をとった作品』と書いてある。 三六さんの父、佐々木長淳(ながあつ)さんも絵を描いていた。図録に『ペ
リーが来たときに、軍艦の中に絵図を描いた。養蚕学もやっていて近代製糸業にも尽くした。橋本左内肖像画を残した』とある。

 母は実家が代々画家だったことを私に一切話さなかったので、大きくなるまでおじいさんが絵を描く人だったことは知らなかった。母はちょこちょこといたずら描きするのだけど、絵がうまい人だわと高校生くらいの時に思った。多分、絵を描くのは当たり前だと思っていた人だと思う。 
福井の美術館ではじめておじいさんの絵の実物を見た。さすがにイタリアに留学していただけあって、他の人の絵よりむちゃくちゃ色がきれいなの。富士山の絵のブルーがすごくきれいだった。大きい作品だったので感動したわ。油絵も水彩画もたくさんあった。母にもらった絵やスケッチ帳は、いままで誰にも見せたことがない。はじめて人に見せた。おじいさんはきっと喜んでいるわ。

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孫の私は絵を描くのが好きなだけ。あと、いとこ(三六さんの三男の子)が人形作家。ご主人が外科のお医者さまだった。私より2才年上で71才。富山に住んでいて人形作りを教えている。彼女の人形はコレクターがたくさんいて海外では全部売り切れてしまう。今度パリに出展するらしい。日本の人形展で賞を総なめにしているの。この人が一番おじいさんの影響を受けている。

fujiyama6.jpg 私の絵が欲しいというので絵を送ったら、紙粘土で作った人形を送ってきたの。身体の骨組みから全部わかってないとこういう作品はできないと思う。孫たちが見るとリアルすぎて怖いというの。ものすごく霊感が強い人だから人形に魂が全部はいっていく。粗末にできない。ほこりかぶっているけど(笑)。そのうちに二人展をしたい。  

優しくて女性的ねと言われるけど・・・

  20
代の頃、父の転勤で松本に3年くらい住んでいたことがある。長いことスキーにのめりこんでいた。そのころはお弁当を持って板を担いでバスに乗り、毎週一人で滑りに行っていた。赤倉、妙高、御岳高原、美ヶ原とか。私は一人でいるのが好きな人なの。気を遣わなくていいから。好きなようにできるじゃない。

 3月くらいかな、アイスバーンのところを直滑降で滑っていて顔からダダっーと、ずりずりにけがをして骨折した。家に帰ったら母にもう懲りたでしょと言われた。でも次の年からまた出かけて行った。好きなように滑って楽しいのよ、これがまた。 

 みなさん女性的で優しくていい人ねと言ってくれるけど、すごい男勝りかもしれない。さばさばしている。子どもは男の子一人で、女の子がいないので体育会系かも知れない。

 でも、身体は弱かったのよ。ものすごく弱くてね。熱出してアトリエを休んだりした。

 海外旅行で成田を出たとたんに具合が悪くなって、下血が始まった。びっくりしてね。どうしようと。下血が止まらなくて、このまま続いたら生きて帰れないかも知れないと思った。そのときは息子と一緒のツアーだった。みんなに迷惑をかけてはいけないという気持ちが強いものだから我慢したの。ギリシャに着くちょっと前に、添乗員さんにギリシャから帰りますと言ってホテルまで連れて行ってもらった。ホテルでお医者さんに見てもらったらすぐ病院に行かなきゃダメだと言われて、国立の病院に連れて行かれた。こんな病院はじめて見たわと思うようなすごいところ。汚ならしいし、不潔だし、患者さんがいっぱい溢れるようにいた。そこでとにかく応急の処置受けて、下血が多かったので輸血してもらった。エイズが流行っている頃で心配だったけど・・・。

 輸血をしてもらったら身体がふわ〜と暖かくなってきてなんともいえないよい気分になったの。そのときのことは忘れられない。それだけ血が少なくなっていたのね。それから腸の検査を受け、入院しないとダメだと言われて、しょうがなく入院した。

 一週間後に検査の結果がわかりましたと、いろんな先生が入ってきてわいわいやってるの。すごい大きい声でわめくように何か言っているけど、こちらは何かわからない。何言ってるのと息子に聞いたら「この検査は失敗に終わりました」と。「うそ〜」(笑)。

 「失敗したから1週間後にもう1回検査させてくれ」と言うの。息子が「こんな所にいたら殺される。すぐ引き上げるっ」と怒って、飛行機の手配や退院手続きして、その日の夜の便で帰国した。私の病気のことを先生は何か言っていたのと息子に聞いたら「癌です」と言われたって。ああ、やっぱりねと思った。なぜかシラ〜とした感じで「そう」と返事した。

fujiyama7.jpg 日本に帰ってから検査を受けたら「別にこれといったことがありません」と。あの出血は何だったのと狐につままれたような感じ。ストレスとか気圧の変化とかで腸に穴が開いて出血したらしい。1週間ギリシャで入院している間にすっかり穴がふさがって、日本で検査受けたときはどうってことなくなっていた。癌なんてとんでもない。

 ギリシャにいたらきっとどこか切られていたわ。息子は命の恩人。そのときにギリシャ人の血をかなりもらったのね。それからすごく元気になった。ものすごく元気な人の血をもらったみたい。熱も出さなくなったし、寝込むこともあまりなくなった。不思議ですね。そこから私は生まれ変わったのだと思う。でも心配だから毎年エイズの検査を受けていましたよ。

 ギリシャは2回目だった。病院に運ばれるとき、タクシーの中で横になってアクロポリスを見ながら「あ、アクロポリスだ」と。じたばたすること一つもなかった。不安は不安なのだけど、ものすごく冷静な自分がそこにいた。息子も冷静なの。添乗員に、こんなすごいことになっているのに冷静になっている人たちは始めてみましたと言われた。それもきっと無事で帰ってこられることがわかってたのじゃないかな。内心、こんなところで死んでたまるか、ばからしいと思っていたのね。
 

いろんな人とつながりを持っている幸せ
 

fujiyama8.jpg 昔、テニスをしていたの。夫も一緒に。そのときの仲間はみな辞めてしまっているのだけども、今も行き来している。1月3日は必ずわが家に来て私のお料理を食べて、飲み会をやるの。8人くらいなので足の踏み場もないくらい。午後3時に来て、帰るのは夜の11時過ぎ。今年で22年よと言われて、そんなに続いていたのとびっくりしたのだけど・・・。

 お菓子を作るのも好き。月に1回、5名くらい来てもらって、はがきに水彩で絵を描いてもらう。そのあとに「アフタヌーンコーヒー」の会をしている。絵は小学校以来描いたことがない人ばかりで、ケーキだけ食べたいと言う人ばかりだったけど、絵を描き始めたらおもしろくなって楽しみにしているみたい。

 主婦なので、2、3回でやめるだろうと思っていたら、お弁当持ちで参加する。お弁当食べて、1時から4時までやるの。このグループは編み物や織物をする人たち。作品展をなさるのでそのときに買わせてもらうの。

 外に出かけているちょっとおもしろいグループがある。お医者さんの奥さん5人グループ。ホテルオークラのサークルでご一緒になった方々で、2030年の長いつきあい。皆さん70才以上で、超ハイクラスの人たち。音楽のお仕事をしている方は、ニューヨークに別宅を持っていて、お稽古のある日に合わせて帰ってきて「夕べ、ニューヨークから帰ってきたところ」と、名古屋や大阪から帰ってきたような言い方なの。私は背伸びもしないし、このままの人間を見てもらえばいいと思って気楽につきあわせていただいている。想像もつかないような知らない世界をいっぱい聞けて、それは楽しい。
 

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敏子さんが描いた油絵

 月に1回「アフタヌーンコーヒーの会」というのをしてるでしょ。それがね、若いときからの夢だった。この会では、私も楽しませてもらっている。私より10歳くらい若い人が多くて、若い人の考えを聞ける。いろんなお話が出てくるわよ。こんどはどこに旅行に行きたいとか、お料理のレシピなんか主婦感覚で、すごく勉強になり大助かり。

 女性でもいろんな趣味を持っている人たちはおもしろい。みなさんに共通しているのは何かしている人は若々しいということ。生き生きしてる。家の中に閉じこもって孫の世話だけしている人とはちょっと違う。そういうネットワークを持っていることは、この年では幸せかなと思う。
幸せは自分で作っていかないとね。ほんの小さいことでも嬉しいとか、幸せと思うようにしてる。そんなに上を見ないようにしているけども、夢はちゃんと持ってる。若いときから年を取ったらこういうことをしたいという夢があったら、自然にそこまでたどり着くというのがこういうことなんだなってね。

 夢はちゃんと持ち続けないとだめだなということがよくわかった。このごろ大事なところの感動がちょっと薄れているのじゃないかなと感じることがあるの。情けなくて・・・(笑)。ま、これも自然の流れに年相応にいけばいいのだなって。そこで無理をしようと思うと身体にも影響がでると思うので自然体がいい。

posted by ききがきすと at 12:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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