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posted by ききがきすと at 15:33
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はじめに
私(清水正子:ききがきすと)と語り手 アイマコスとの出会いはガーナのケープコーストという街です。
2年ほど前、ガーナに滞在する機会があり、そのとき読んだインターネットの記事に『ガーナで活躍する女性たち』という見出しがあって、アイマコスは米国で手掛けていた仕事をやめてガーナに「帰ってきた」ひととして紹介されていました。
しかもケープコーストという歴史の長い土地でホテルを開いているという説明です。早速観光局に手紙を書いて紹介してくれるよう依頼すると首尾よく連絡がとれて、滞在していた首都アクラから200q離れた土地へと心勇んで出かけたのです。
ギニア湾に面した海岸の街へ着き、まずケープコースト城を訪ねました。ここは、反ヒューマニズムの意味で世界遺産に登録されており、貿易の拠点であり奴隷収容所でもあった場所です。その悲惨な説明を聴きながら城塞の内部を見て回った私は、絶句するばかりでした。
表紙の写真のとおり、城は音たてて荒波が打ち寄せるギニア湾に突き出た場所にあり、黄金や奴隷を積み出すのにこの上なく便利な立地だったのです。15世紀から19世紀前半までヨーロッパ各国はこの城の他にもガーナ海岸に20か所以上の砦を築き、植民地をめぐる覇権争いのため攻防を繰り返しました。
ただし「便利」というのは欧州諸国の軍人、貿易商にとっての意味です。この中に奴隷として閉じ込められた日々を想像すると、それだけで真っ暗な気持になりました。平和な暮らしから突然囚われの身となり、くびきに繋がれて長い間歩かされたあと、窓が高所にひとつしかない穴蔵のような部屋にギュー詰めに押し込められて何か月も過ごす。
そして奴隷運搬船が着くと、船底の棚にしばりつけられて寝たまま苦しい航海をし、その先は奴隷として買われて一生働かされる。そんな自分たちの運命を思い、どんなに絶望的な気持であったか想像にかたくありません。反抗的な囚人を餓死させるための部屋の扉には、ドクロのマークがありました。
打ちのめされた気持ちで見学を終え、再びクルマに乗って10分くらいで、訪問先のホテルに到着。しかし約束してあった アイマコスはおでかけで、ホテルの前庭にすごい波音で打ち寄せるギニア湾の海と、敷地のヤシの木の実をさおで落とす現地の人をぼーっと眺めて待ちました。
やっと帰ってきた彼女に、突然「あそこにミュージアムがあるから見て頂戴」と言われて訪ねたのが、タイトルでもある「記憶の壁博物館」です。これは10年ほど前に アイマコスが今は亡き夫とともに集めた写真を壁いっぱいに展示した自宅の一角を,そのまま資料館としてオープンしたものにすぎません。
さっき見てきた城塞の恐ろしい姿がしっかりと根をおろした私の心に、人間を奴隷という存在におとしめて、その人生をふみにじりながら繁栄した世界の実体がしみいるように理解され、逆にいかに黒人が人類の祖として誇らしい存在であるか、という アイマコスの主張に圧倒されて見学を終えました。
欧州各国がガーナ海岸に点々と築いた数多くの城塞。その中のケープコースト城とエルミナ城を湾の向こうににらみつけて、「二度とそんなことが出来ないよう、見張ってやる!」という心意気、これこそが、彼女がガーナに帰って、この土地を永住の地に選んだ理由なのです。彼女は「アフリカの黒人」とか「米国の黒人」という言い方はしません。「黒人」は人種でも国籍でもなく、ただの肌の色に過ぎない、アフリカにルーツを持つ人間は、世界中どこに住もうが「アフリカ人」だという主張なのです。
アフリカの人々の歴史民俗資料館としては、公の機関がもっと立派な公開の場をつくっているのかもしれません。しかし、 アイマコスという誇り高いアフリカ人が心を込めて公開に供している、この「記憶の壁博物館」を訪れることができた自分は、なんという好運に恵まれたのだろうと思うのです。
彼女の語りをビジュアルに補足する写真や絵をすべてここに掲げることができないのは残念ですが、館内に満ち満ちた「アフリカ人」の情熱を少しでも感じていただけたら、眼の回るような日程でこなしたインタビューの成果として、心から嬉しく思います。
ききがきすと・清水正子
ようこそ「記憶の壁博物館へ」
アフリカの人たちの記録――「奴隷売買の時代から現代まで」
この博物館は、アフリカ人ばかりでなく、世界中の人たちにアフリカの歴史を分かってもらうためにつくりました。ガーナも含めアフリカ諸国では、アメリカで生まれた一般のアフリカ人については知られてなくて、あっても間違った知識ということが多いの。
アメリカ生まれのアフリカ人自身でさえ、この博物館に展示された事実に触れたこともない人が圧倒的ですね。だから、この私設博物館にはできる限りの情報を集めました。規模は小さいけれど、奴隷売買の時代とそれ以降にアフリカ人がこうむった運命を少しでも知らせたい、というのが私の願いです。
家畜なみに扱われたアフリカ人
アフリカ人が北米、中南米に連れ去られたあと、どんな仕打ちを受けたか。この写真はオークション会場。町中に貼られたポスターがこれで、「黒人売ります。コットンと米の耕作用」。アフリカ人はここに連れてこられ、競りにかけられ、高値を付けた人間に買い取られた。
また、クー・クラックス・クラン団の手にかかることも…白いシーツを着た白人が私たちを脅迫し、生きたまま火を点け、殺し、強姦し、あらゆる残虐非道なことをしたのね。この写真は、農場でサトウキビを刈るアフリカ人がキビをかじらないように、顔に鉄格子のお面をかぶせたものよ。
「ニグロ売ります」「ニグロ在庫あり」の張り紙の実物がこれ。これを見た人がやって来てニグロを検分するわけね。例えばこの一枚には「ハムステッド州のスプリングヒルで競売開催、クレジットも可」と書いてあって、即金でなくても12か月の月賦で奴隷を手に入れることができたんだから。この横のポスターは「上物の9人の男と少年、12歳から27歳。洗濯と料理上手な43歳位の女」とうたっているもの。
ここにある写真は虐待されたアフリカ人…。背中に付けられた刻印は入れ墨ではないのよ、ムチで打たれてこうなったの。その傷に塩をすり込んだから傷口は治るどころか反り返って、こんなケロイドとなって残ったわけ。こうした数々の残虐なことが行われたのね。ここにも「黒人競り売り」の看板があります。今まさに売られようとしているアフリカ人の写真を見てくださいな。こんなアフリカ人の歴史を知ることこそ重要で、奴隷問題の真実を世界中の人たちとシェアする必要があると思うの。
私の神殿
このコーナーは先祖を祀るもので、私の「神殿」ね。ここに置いてある石はあの奴隷収容牢獄の壁から削り取られたもので、私は“涙の石”と呼んでいます。現在壁はきれいに削られてセメントと塗料で白く塗られています。あれはただの修復作業。伝えるための保存ではないわね。1993年にエルミナ城とケープコースト城でなされた工事で、遺跡の原型は失われてしまった。私はこれに抗議して「黒人の歴史を白塗りにして消し去るのか?」という論文を発表してやったわ。
アフリカ人先祖への鎮魂
このコーナーは、アメリカで生きて死んだ先祖への鎮魂なの。1995年、ニューヨークのフェデラル・プラザの跡地に高層ビルを建てるため、敷地を掘っていた作業員が一体の遺骨を発見、そこで掘り進んだところ500体を越える遺骨が出てきた。つまりこの地は墓地であったことが分かり、遺体はそのまま埋められたものや、箱や棺桶に入れて埋葬したものもあると判明したのです。
発掘後遺体はワシントンDCのハワード大学病院に運ばれ、検査の結果ほとんどの遺骨が、ガーナ、ナイジェリア、シェラレオネ、リベリア、ガンビア、ベニン、トーゴという7つの西アフリカ諸国のものと判定されました。
遺骨のふるさとが明らかになったところで、改めて埋葬が行われたのだけど、ガーナ出身でこの再埋葬に携わった若者は、棺桶を伝統的な民族の「アディンクラ」模様で飾ってあげたそうです。
*「アディンクラ」とは特別な意味をもつ伝統的な模様のこと(ghanaculturepolitics.com/より)
棺は地下祭室に収められ、この地下祭室が地面の下へ埋められて地上には低い丘が築かれたの。この写真にあるように、今では繁った木々や草花に彩られた丘に、さまざまな地下祭室が祀られているわ。ウォールストリートの高層ビルの下にはまだ20,000人を超えるアフリカ人奴隷が埋められているということだけど、この整備された墓地は本当に美しく、見る価値があると思うわ。ニューヨークを訪れる機会があったら、ぜひ行ってみてくださいな。
アフリカ人の才能――音楽、ダンス、そして文学も
展示はいろんなコーナーに分かれていて、ここにはボブ・マーレー、ビリー・ホリデー、エラ・フィッツジェラルド、ジェームス・ブラウン、といった歌手の写真が並んでいます。このニーナ・サイモンは米国の人種差別政策への抗議の歌を唄い、反対運動をしたため業界から干された人物。そしてマイケル・ジャクソン、ハリー・ベラフォンテは言うまでもないわね。
キャサリン・ダンカン、ジュディス・ジェイマーソンなどの舞踊家の写真もあります。皆米国の人種差別政策に抗議の声をあげたことで「共産主義者」のレッテルを貼られ、とくに大物のロブスンやボールドウィンはアメリカに居られなくなったの。
次のコーナーは、「偉大なアフリカの思想家」と呼ばれる人たち。自分自身奴隷であって、奴隷制度廃止論を唱え、奴隷制度反対運動のリーダーであったフレデリック・ダグラス、アフリカ人で初めて1967年に最高裁の判事となったサーウッド・マーシャル。ジョン・H・クラーク、財務大臣ウィリアムズ、ベン・ヨハナン博士。学者としてはポール・ロブソン、ラングストン・ヒュー、ジェームス・ボールドウィンなどの顔もあるでしょう?
そして私の夫ナナ・オコフと7歳になるひ孫のナナの写真がこれ。夫のナナと私は、1990年に同じアフリカ観をもってガーナに来たわ。私は彼を偉大なアフリカ思想家のひとりと言っています。残念なことに2000年に首都アクラで交通事故のため亡くなったけど、ナナのことは心から誇りに思っています。
注:ナナとは尊称で、当地の人に推されて首長となったためこの名称で呼ばれる。
米国社会で頭角を現した女性たち
初めて国務長官になったC・ライス、初めて国会議員になったB・ジョーダン、学校を創立したM・ベシューン。どの女性も誇らしいけど、ベシューンは白人が捨てたゴミを5ドルで買い取って、それを元手に現在あるベシューン・クックマン大学を創設したひとなの。
ここにあるのは、アフリカ人のパイロットたちの写真よ。「ツキギー・プロジェクト」から生まれた英雄たち。アメリカ合衆国はアフリカ人(黒人とも呼ばれたけど)が飛行機のメ ンテナンスはもちろん、操縦など絶対できないと考えていた。米国人は私たちアフリカ人が、精神的にも肉体的にも飛行機を扱う素養がないと考えていたの。そう、彼らは私たちの能力を否定していた。
ところが1941年に米国議会の正式な要請によって、合衆国戦時局が米国南部アラバマ州のツキギーに、後に伝説となるパイロット養成機関「ツキギー実験機関」を創設して、ここに全員が黒人である「オールブラック部隊」が結成されたわけ。これより前には、軍のパイロットにはただのひとりも黒人はいなかったそう。
1941年から5年間、ツキギーで992人が訓練を受け、そのうちの445人が海外に派遣されて、150人が戦死しました。この人たちはほとんどの白人パイロットよりも腕が立ち、あらゆる点で優れていたそう。
当時アフリカ人に供与された飛行機のコンディションはひどいもので、飛行機がバラバラにならないように噛んだチューインガムで接着していた、と言われたぐらいなの(笑)。こんな状態が長く続いたけど、最後にはちゃんとした飛行機が供与されたそうよ。よかったわ。
けれど、空軍として無敵の活躍をした約300名のメンバーに、合衆国が「議会名誉勲章」を授与して栄誉をたたえたのは、残念ながら、やっと2007年になってからのことでした。もうほとんどの隊員は亡くなっていて。だからこのコーナーは「ツキギーの空の男たち」にささげたものなの。
このように空を飛んでいた頃の写真、そして老後の姿もあわせて展示しています。彼らが実際に操縦していた飛行機の写真も、機体に残した自筆のサインの写真もあるの。そう、わたしは隊員たちをものすごーく誇りに思っているわ。こういう本物の歴史は皆に知ってもらいたいから、これからも写真を手に入れ次第展示に加えていくつもり。
そしてアフリカ大陸にも―――アフリカのリーダーたち
この壁一面はアフリカのリーダーたちの写真です。アフリカの女性で初めて大統領になったリベリアのエレノア・ジョンソン。それから私が会ったジンバブエのムガベ大統領、南アのムベキ大統領、ガーナのローリングス大統領、ジョン・ク フオ大統領にもジョン・ミルズ大統領にも会いました。
米国に居たときは大統領に会うどころか近づくこともできなかったけど、ここアフリカでは大統領と握手し、座っておしゃべりもしたものです。だから私はアフリカが好き…いえアフリカを愛しているということね。
*写真はエレノア・ジョンソン 大統領就任式で
心ふるえる画 「奴隷貿易」
この絵は、14歳の少年の作品で、アフリカ人が村から誘拐され、鎖にしばられ、数珠つなぎにされて何百マイルも歩かされ、地獄のような奴隷船に乗せられてアメリカに連れていかれる場面を描いたもの。もう一枚も彼が「大西洋アラブヨーロッパ奴隷貿易」を描いたもので、この画家の才能を物語っているでしょう?
彼はいま首都アクラでグラフィックアートの世界で身を立てようとしています。この才能を支援したいなぁと思っているところ。もし作品を見る機会があれば、彼がディズニーと同レベルの腕をもっていることが分かると思うわ。いや、もっと上かも。スポンサーか支援者を見つけるのはむずかしいかもしれないけど、彼は一生懸命努力しているところね。
アフリカの子どもたち…その明るい笑顔を伝える
この壁にはアフリカの子どもたちの姿が集めてあるの。アフリカの子どもたちの紹介記事や写真は、たいてい戦争の最中のもので、餓えていたり、物乞いしていたり、口にハエがたかっていたり。そういう場面が多くて、アフリカ文化 に包まれた美しい姿や、幸せな表情を見ることができるものはほとんどないわ。
この有名な、瀕死の幼女とその死を待つハゲタカの写真を撮ったひとはピュリッツァー賞に輝いたけど、撮影の1、2年後に自殺してしまったわね。アフリカに関する報道はかならず悲劇的だったり悲哀に満ちたもので、本当のアフリカの姿をめったに発信してないのが普通だから、私はこの壁を幸せなアフリカの子どもたちに捧げたいの。
アフリカ人による発明の数々
――それを発見し世界に知らしめる
このコレクションはアフリカ人の発明を集めたものです。モップ、ちり取り、電球のフィラメント、ゴルフティー等々、すべて米国居住のアフリカ人が発明したものよ。私は、この写真の若い女性サラ・シャバスと協力し長い年月をかけてアフリカ人の発明品を探し、発掘してきました。サラは移動博物館の学芸員で、カリブ諸国、米国、ヨーロッパ、アフリカを回って、こういう情報を発掘し、発明者が暮らす国の人にも海外にもこの事実を発信してきた女性なの。
そうして集めた資料は500点にものぼり、発明者と発明品の等身大の写真がコレクションに収まりました。何年か前の調査では、ワシントンDCの特許・商標局に登録されたアフリカ人による発明登録は7,000点超だったけど、現在では確実にこれよりずっと多くなっていると思うわ。
アスリートたちの抵抗
このコーナーはアスリートの紹介です。米国メジャーリーグ初のアフリカ人選手ジャッキー・ロビンソン、ご存じのテニスコートの女王ウィリアムズ姉妹など。 そしてモハメド・アリ。元の名をカシアス・クレイと言いますね。
米国が彼を戦場に送ろうとしたとき、アリは「ベトナム人はだれも俺を“黒い奴”と呼んだことがない。もしベトナム人がここにやってきたら、俺は戦うさ。でも俺のほうからあの国に行くことはしない」と答えた。それで米国は彼からチャンピオンベルトを取り上げたわけ。
だけどいくらベルトを取り上げて5年間試合出場禁止にしたところで、彼が私たちのヒーローであることには変わりがないのよ。
メダルを賭した抗議
ここにあるのは1968年のメキシコオリンピックのときの写真です。このふたりはオリンピックの金・銅メダリストで、表彰台にあがったときの姿は、靴を脱ぎ、黒いソックスに黒い手袋をしていて、米国の人種差別政策に抗議する姿勢をアピールしたの。結果はメダル剥奪と国外追放でした。仕事にもつけないよう、本当にひどい扱いをしたのです。
注:世界記録で優勝したトミー・スミスと3位につけたジョン・カーロスが行ったこの「ブラックパワー・サリュート」は、近代オリンピックの歴史において、もっとも有名な政治行為として知られる。(ウィキペディアより)
米国の統合政策(学校への入学を人種の比率で割りあてるなど)は在米黒人に一番悪い結果をもたらしたと、私は思っています。差別は同じように残り、隔離された平等という社会になっただけ。だけど平等といっても白人は何もかも所有し、私たちには何もなし。あったとしてもごく僅かという状態です。
むかし米国中で起こった黒人社会の隆盛は、アフリカ人ないし米国生まれのアフリカ人が集まって自分たちの社会を作った成果で“ブラックウォールストリート”という言葉まで生みましたが、そこに白人がやって来て何もかも破壊したのです。懸命に働いて作り上げた銀行、教会、学校などあらゆるものを羨んで壊し、多くのアフリカ人を殺し、空から爆弾を落とすことまでやったのです。私たちは米国内で爆撃をうけた唯一のコミュニティですね、これが1921年に起こったことです。
注:20世紀初頭、オクラホマ州タルサのグリーンウッドは、当時、最も繁栄した、アフリカ系アメリカ人の裕福な街だった。白人との取引関係が一切ないこの商店街は、1910年の石油による好景気でさらに活発となり、やがて“黒人のウォール街”つまり「ブラック・ウォール・ストリート」と呼ばれるようになった。これを目にする白人系住民の差別感情、嫉妬心は爆発寸前だった。「タルサ暴動」として記録される暴動が発生したのは、1921年の5月31日と言われている。破壊されたのは、21の教会、21のレストラン、2つの映画館、30の食料品店、病院、銀行、郵便局、図書館、学校、法律事務所、バス、民間飛行機も。また黒人所有の飛行機が盗まれ、空から爆発物を投下するのに使われたとも言われている。(ウィキペディアより)
何事も成功に至るには、お金がかかります。他国の人間がやって来て資源をほとんど持ち去り、わずかなものしか残していかなかったとしたら、盗られた国の人間は生き残れると思いますか?それは本当に難しい、そう思うでしょう?
これが私たちの国アフリカに起こったことなんです。だから、いまだに私たちは経済のランクでいうなら最貧状態で、底辺にあえいでいる…これは私たちが知的レベルで劣っているからではない。この写真の少年は、子宮摘出の手術用に縫合器具を発明したのです、わずか14歳で。医者でもなんでもない普通の少年がですよ。資源ばかりでなく、奴隷売買のために人間が連れ去られることがなかったら、アフリカの国々は多くの才能を花咲かせて遥かに繁栄していたことでしょう。
アフリカこそが人類の起源
このコーナーは私の大好きなエジプト…その歴史はヌビア人としてのアフリカ人の歴史でもあり、エジプトではアフリカ人ではなくヌビア人と呼ばれています。墳墓に祀られた人たちは明らかにヨーロッパ人ではなく、多くが私たちアフリカ人の面影を宿していて、この有名なネフェティティ像も、ヨーロッパ人でもアジア人でもなくアフリカ人そのものの顔立ちでしょう?
私は経営しているホテルの各部屋のインテリアとして、アフリカ人歴史家のことばを飾っていますが、そのなかのジョン・H・クラーク博士のことば「わたしはピラミッドより老齢であり、人種そのものより歳を重ねている」は、「わたしは子孫ではなく先祖なのだ」という意味なのね。
人類の一番古い種は、ここアフリカの大地で発見された、つまり私たちアフリカ人はそもそもの初めからここにいた。そうして強大な力を持った王と王妃がいた。それがエジプトの歴史であり、さまざまな王朝が生まれたけれど、すべてアフリカ人が興したもので、これが3~4,000年も前にあったことだったんですから。
キリスト、そしてマリアの本当の姿は黒い肌だった
ここはキリストのコーナ。キリストがアフリカ人だったことの説明です。聖書や古書を読めばジーザスと呼ばれた「人の子」の説明があり、黙示録第一章に彼の髪は子羊の毛のようであり、濃い黄銅色、オーブンで焼かれた真鍮のような色であると表現されています。でも、この説明に沿った絵はまったく描かれることはなく、常に白人のイエスが茶色やブロンドの髪の毛で登場しているのです。
そこで私の夫が自ら、本当のイエスの姿をカレンダーに描いて『イエスは黒い肌のアフリカ人だった』と主張しているのがこの作品です。
ちょっと離れた、この壁にもアフリカ人のマドンナの肖像が掲げてあるでしょう?これが私たちの理解するマリアです。さきほどキリストのことでも説明したように、聖書の描写にきちんと基づいて描かれると、マリアはアフリカ人なのです。
博物館展示を見終わって
“敵はいつも二度殺す。二度目は無言で”
このことばは、ガーナでUNESCOが主催した「奴隷ルート会議」で配布された冊子に書かれていました。ガーナをはじめとするアフリカ諸国で、外国人がわずかな代金と引き換えに鉱物資源や土地を搾取していることの告発です。そう、私たちは一度殺されたうえに二度目(いま)も静かに殺されているようなものなのです。
ルーシーという命名に見られる西洋の傲慢
アフリカのナイル川沿いの谷で女性の遺骨が見つかったとき、発見者はそれをルーシーと名付けたわ。これを見ても西洋の人間がどんなに傲慢か分かるというものです。遺骨は古いアフリカの層でみつかったのよ、だれでもルーシーでなくてアフリカの名前を付けると思わない?ルーシーなんて、その遺骨の女性にはなんの関わりもないもの。
ハリケーンについてもそう。ハリケーンはアフリカの海で生まれて、奴隷船が通ったルートそのままにアメリカに向かう。ぜんぶアフリカ生まれのハリケーンなのに、トムとか、ジョージ、メアリー、シンディなんて名付けられる。そうじゃなくてコフィ、アマ、クヮベナみたいなアフリカの名前にすべきでしょう?なのにそれは絶対に無くて、みんなアングロサクソン系の名前よ。
「黒人」ではない--―大切な存在の私たち「アフリカ人」
白人は、肌の色や服装や宗教が自分たちと違っているというだけで、アフリカ人を劣っていると言うの。米国では「ブラック・アメリカン」と呼称されるけど、ブラックは肌の色に過ぎなくて人種や国籍を意味するものじゃない。どこで生まれようと、どこに住もうと、私たちはアフリカ人ですもの。
こういう西欧人の傲慢さはあらゆる点に見られるわ。そこで私たちは何をすべきか・・・私は世界中に訴えるなんてできないから、自分なりに発言するだけ。おのれを知り、自分の大切さを知ることが重要だと思うの。私たちはこの世界で大切な存在なの。もし自分が取るに足らない存在だと思ったら、他の人を尊敬することもできるはずないでしょう?
なかには「私は取るに足らない人間で、この世のつまらない存在です」なんて言う人がいるけど、私は「自分はアフリカの母、大地の女王よ」と応えるわね。私の名前アイマコス(IMAHKÜS)のIは神とともにある私、Mはマザー、Aはアフリカ。だから私はアフリカの母というわけ。もちろん、そんなこと知らない人のほうが多いかもしれない。でも関係ないわ。
大好きなアフリカに帰って
そもそも夫と私を、ガーナ訪問のグループ旅行に誘ってくれた人はナナ・オサバリンバ5世というこのケープコーストの王様なの。彼は王位を継ぐために米国からガーナに戻った人で「私たちはアフリカの子どもたちであり、アフリカに来るべきなのだ」と言い、その通り私たちはアフリカに来ることになったのね。いわば私たちの父のような存在なので、彼の写真もここに掲げてあるのよ。
まぁそうはいっても、これはガーナに来る動機の一部であって、私は米国が好きじゃなくて、ほんとアフリカが大好き!これまで本を3冊出したけど、一番最初が「故郷に帰るのは生易しくない…でも、こんな幸せなことはない」よ。たしかに生易しくなかったわね。試練につぐ試練だったけど、後悔はしていません。この本の表紙の写真は、ココナツの木の間につるしたハンモックに寝そべって、人生を謳歌している私。そして夫がかたわらにいて…2人とも幸せいっぱいに生活を楽しんでいる光景にしたわ。
とにかくアフリカに住みたい!
1987年にひとりでガーナを訪れ、すっかり魅了された私は、その年の末の夫の誕生日に航空券をプレゼントしてひとりで旅してもらい、1988年、89年と今度はふたりでガーナへ行きました。この三回目の旅の終わりに夫は「みんながボクをチーフ(地域の王様)にしたいそうだ。王様になるってどういうことだと思う?」と私にたずねたのです。エルミナの村に滞在中、住人が抱えた問題の解決に手を貸したりして、皆が彼のチーフ就任を願ったと言うのです。こうして彼はチーフの座につきました。
私たちは当時ニューヨークで旅行代理店とタクシー会社を経営していました。3週間も他人に留守を任せていたので、私は夫のチーフ就任式のときまで居続けることはできず、「あなたがアメリカに戻る前に、どこか住むのに良い土地を見つけておいてちょうだい。海沿いがいいわ。山から海を見下ろすのはイヤだし海岸に暮らすのも好きじゃないな。海から少しあがったところで、毎日海を感じ、海を見、香りをかいで、海岸まで歩けるような場所を」と頼みました。彼は笑いながら「いいとも、海沿いの土地をさがしておくよ」と約束してくれたんです。
チーフになってアメリカに戻ってきたとき「土地が手に入ったよ。チーフになったら、村の人たちがくれたんだ」と言うではありませんか。なんとその土地とは、私が1987年にひとりで訪れたとき、心から住みたいと願って神様や仏様、あらゆるスーパーパワーに頼んで(笑)念じていた場所だったんです!この美しい海のそばの。そして1990年にやっとガーナへの永住が実現しました。私はここにホテルをつくり、毎日しっかり対岸の奴隷城塞をにらみつけ、二度とあのむごい奴隷売買が起こらないよう監視することにしたの。
私はこれまでずっと好きなことをやってきて、ラッキーだったと思うの。ここガーナという小さいけれど「ひとつのアフリカ」という、私にとってのパラダイスに居られて幸せ…先祖からの贈り物よ。
posted by ききがきすと at 17:28
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恋して結婚した両親
私は、高知県の北部中央、山に囲まれた土佐町の相川(あいかわ)、床鍋(とこなべ)というところで生まれました。父は西村兵喜(へいき)、母は森岡ときえといいます。二人は22歳のとき、昔のことではあったけれど、恋愛して結婚したんです。そう聞かされました。
父は、お膳を作っていたの。食事のときの箱膳とか、懐石のときにつかう膳ね。それです。母は紙を漉く仕事を、父の仕事場のちょうど川向でしていたそうです。川を挟んで、「おーい、元気かよ」というふうに声をかけあっていたんでしょうね。
結婚しても貧しかったと思いますよ。二人で一緒に、一から始めたんやからね。嫁ぐときに、母は祖父から、箪笥を一棹とお金をいくらか持たせてもらったそうです。でも、それだけ。父は次男坊で、そのお膳をつくるところへ奉公に来ていて、母と恋して一緒になったんですよね。
子ども時代はゆっくりゆったり
二人が24歳のとき、大正10年8月24日に、私は長女として生まれました。上には兄が1人おり、その後、弟妹5人が生まれて、兄弟姉妹7人。子どもが大勢で、親は貧乏しましたよ。でも、子どもの私たちは、ゆっくりゆったりしたもので、自由気ままに遊んだわ。
家がお膳つくりの仕事でしょう。母も、その頃は父を手伝って、漆を塗る仕事をしていました。だから、きれいな手仕事でしたよ。お百姓はしてなかったので、私たち子どもが、田畑へ行って手伝うなんてこともありませんでした。
私たちの頃は、お弁当を持って学校へ行きましたよ。山の子どもたちのお弁当には、お米の中へ粟や稗なんかの雑穀が入っていたのを覚えています。それを見られるのが恥ずかしいから言うて、裏山へ行って食べる子もいましたよ。
私の家はお百姓をしてないから、お米のご飯でしたけどね。それは貧富というのじゃなくて、親の仕事の関係なんですけどね。少しの土地でも田畑にして、土もつれになってやらんといかん時代は、もう少し後、戦争の足音がもっと確かになってからでしたね。
大好きだった兄の思い出
兄の淳一(じゅんいち)は、私より一つ上でした。東京で薬局をしている、母の姉がいて、暮らし向きはよいけれど、子どもがなかったの。そこへ欲しいと言われて養子に行ったんです。
兄の淳一さんと
子を産んだことのない伯母が安易に考えて、小学校を出たばかりの兄を連れて行ったけれど、田舎の子が都会の生活に慣れるのは簡単ではなかったんですよね。兄には辛いことが多かったようです。
馴染めなかったというだけでなく、伯母のところで兄は小使いのように働かされたとも聞いています。学校へやってくれるという約束も守られなかったからと、結局、兄は伯母の家を出ました。友達の家を転々として、軒下を借りるような苦労を重ねながらも、頑張り屋の兄は逓信省へ入ることができました。逓信省で勤めながら、杉並工業という学校(*後述1参照)を出ました。
その後、中国の大連にあったタイカ工業(*後述2参照)という大きな会社へ就職したんですが、1年後に召集されて、高知へ帰り朝倉の連隊へ入りました。そして今度は兵隊として満州へ渡ったんです。そこで風邪を悪化させて病死しています。満州のコリン(※後述3参照)というところでした。本当にいい兄でしたけどね、24歳で亡くなったんです。亡くなったときは上等兵でした。
東京で看護婦学校へ
私も学校がすむと、伯母を頼って東京へ出たの。きっかけは、婦人クラブのグラビアを見たことでね。陸軍病院だったか、赤十字病院だったか、看護婦の一日というのが写真で出ていたんです。それを見て、私は「いやー、看護婦やりたい」って言ったのね。とにかく看護婦になりたいって気持ちが高じて、東京へ行きたいとなったんです。
もちろん親は賛成しません。特に母親は大反対でしたよ。昔の看護婦というと医者のお妾さんだったりするって、田舎には、そういう噂もあったんです。だから、母には「家で、普通の娘さんのように裁縫でも習ったら」と言われました。
だけど、東京の伯母が若い頃に助産婦さんの学校へ入って、資格を持って仕事していたので、自分も何かそういう関係の仕事がいいと考えました。自分でなんとかしなくちゃいけないという気持ちもあったんです。
それで、上京してまず、逓信省を受けました。兄が逓信省に行っていたから、やっぱり私も固い仕事をしたいと考えましたから。でも、ダメでね。それで、やっぱり看護婦になろうと、試験を受けました。それで、神田神保町というところの看護婦学校へ行くことになりました。
その後すぐに大きな病院へ入れたので、私には兄のような苦労はなかったですね。東京での看護婦時代のことは、話すだけでも大変なくらい、いっぱいいろんなことがありましたよ。
でも、昔のことで、こんがらがっちゃいますね。まぁ、なるようになったと思うのよ、この年までね。
焼夷弾の東京から故郷へ
もうそろそろ引き上げて故郷へ帰ろうかと考え始めた、ちょうどそのころ、東京では空襲がどんどん激しくなっていました。昭和20年、焼夷弾が降り始めた東京から帰郷したとき、私は23歳になっていましたね。
看護婦時代、友人と(左が敏子さん)
帰郷早々、忙しいので是非にと依頼され、私は高知市内の病院で看護婦をしていました。でも、土佐町の役場から、今度は保健師になってほしいと頼まれたんです。町に保健婦を置かないと農業協同組合の活動にも支障がでるとか言われて、保健婦になれと矢のような催促でした。
昔はとにかく結核が多くて、私も肺浸潤みたいになって、咳が出ていました。だから、保健婦は嫌だと一度は断ったんですが、保健婦がいないと困るからと説き伏せられて、とうとう保健婦の試験を受けることになりました。
ほんの45日間くらいの講習を受けての試験だったんですけど、私は本当に具合が悪くて、最初はダメでした。何回かやって、そのうちに合格し、正式に保健婦になりましたね。
すぐに家庭訪問をしましたよ、保健婦としてね。赤ちゃんや、産後のお母さんのところへ行ったんです。救護班として高知市の方へ行ったこともあります。
空襲を受けてボンボン燃えゆうところへも、私たちは消防団の救急班として入りました。肩に救急袋をかけてね。大きな大きな倉庫へ、じゃーじゃー水をかけるなんてこともしましたよ。煙が出ると飛行機の的になるから、できるだけ早く消火する必要があったんです。保健婦だったからそういう仕事もしました。
高知空襲のときは、恐ろしいなんて気持ちはなくなっちゃってね。子どもを抱っこしたまま防空壕で亡くなっている人もいるし、鏡川の淵には死体が山と積まれてあるしね。「土佐町の救護班として来てるんじゃからね、他のどこへも行っちゃいけない」って言われました。だから、どこへも行かないで、そこで一生懸命救護活動をやりましたよ。
お見合いをして結婚
結婚は早い方じゃなかったですよ。友達とは「あんな人と結婚したい」とか言いながらもね。保健婦になって家庭訪問をするようになって、南川(みなみがわ)というところの学校を訪問することがあったんです。
校長先生が「あなたは、どちらの出身ですか」と訊かれるので、「土佐町の床鍋です」って答えました。それが主人との縁を結ぶことになったのです。その校長先生が、主人の姉の亭主だったんですよね。
花嫁姿の敏子さん
お見合いをして、結婚しました。主人は、私より6つ上の31歳、私は25歳になっていました。
主人は、なかなかのりこもん(土佐の方言で利口者のこと)でしたよ。私は、自分は知能も器量もたいしたことないと思っていたので、『頭のいい人』というのが結婚相手への条件でした。主人は、頭良かったよ、本当に。
主人は、女の中に一人きりの男の子でね、大事にされて育ったんです。なかなかしゃんとした人でした。お巡りさんになっていたんです。でも、戦争から帰ってからは、役場とかあっちこっちから「来てください」って頼まれても、「もう嫌じゃ」言うて断りました。「あの嫌な戦争をしてきて、もうたくさんじゃ」と言って、職には就かず好きなことを自由にやったんです。
居合やったり、剣道やったりね。だから、結婚しても、百姓をするのは少しだけで、現金収入はほとんどなかったですね。部落長の役をはじめ、なにかしら公のことはどんどんやったんですよ。お金にはならないことをね。
主人とニューギニアでの戦争
人や部落のお世話役っていうのを主人はずっとしました。戦争では、ニューギニアの方へ行ったんです。あそこでの戦いは本当にひどかったですからね。だから、自分が職に就くことよりか、もっと人の役に立ちたいという思いが、いっぱいあったんですね。部落のこと、町のことにね、腐心してやったわ。お金はもうないけどね、みんなに好かれてね。
私たちは、戦後すぐに結婚したでしょう。兵隊に行っていた人たちが、うちへ集まって、あそこで、ここでという戦争のときの話はよくしていましたね。友達がいっぱい来て、いつでもそういう話でしたねぇ。私にも戦争のことをよく話して聞かしてくれましたよ。でも、私はゆっくりは聴けないし、覚えてもなくて、戦争のことでお話しすることはありませんね。
主人は写真屋をやったこともあったけれど、それよりなにより、公益のことをうんと考えて、人のためになることをうんと熱心にやったねぇ。まぁ、男前やし、頭はいいし、他人のことをしっかり考えられる人で、いい人でしたよ。けんど、経済ということを除けての人でしたから、私は、やっぱりね、男性として見るには、腑に落ちんところはありました。
子育てと仕事の日々
子どもは3人います。女が一人と男が二人ね。長女の節(せつ)が一番上で、昭和22年10月26日に生まれています。その下の長男が24年2月16日に。主人が清(きよし)なので、清人(きよと)と名付けたのよね。次男の正根(まさね)は26年11月1日に誕生しました。それがね、みんな誕生日が木曜日なのよ。私も、ね。なんだか不思議でしょう。
結婚して、10年は家で子育てをしました。その間、主人はちょいちょい農協へも勤めたりはしましたけど、なかなかお給料もいただいてこないのよ。困った人がいればあげるような人でしたからね。終戦後でみんなたいへんだったでしょう。生活に困るような人がいればあげたいのよね。自分ところはお米もあって何とでもなると思っているの。経済に執着する人ではなかったんです。
だから、子育てが一段落したら、私が就職して、勤めなくてはしようがないと思いましたね。田畑があったから、えいっと思って、それを全部売り払って、主人には好きなように生きてもらったんです。
ご主人と仲睦まじく
私はまた、看護婦の仕事に戻りましたよ。本山の中央病院に20年いて、それから大杉の中央病院で10年、いや12年だったかな。生活の面では、私がやるしかなかったんですよね。苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ、やっぱりね。
看護婦として勤務した30余年
その頃の看護婦の仕事は、今とは全然違いますよ。我々のときは、結核が多かったし、赤痢や疫痢という伝染病も珍しくありませんでした。それに、昔は付添いさんがちゃんと患者さんには付いていました。国がそれを認めていましたからね。そこが今と全然違います。
今の看護婦は新しいことをどんどん勉強しなくちゃいけないでしょう。カメラはもちろん、いろいろ新しい機械もどんどんできるし、横文字も使えなくてはね。私たちが東京で看護婦やってる時代は、そんなことの勉強は必要なかっ
たんですから。
あの時代なりに、まぁ、私たちも、やることはやったよね。腸注って、肛門から栄養を入れるなんてことはやりました。注入したんです。口から食べなくなったら、今は胃に穴を開けてやるでしょう。それみたいに肛門から注入する。胃ろうも点滴もなかったですからね、昔は。静脈注射はありましたけどね。
まぁ、勤務した病院は、どちらも入院設備のある大きな病院で、もう点滴とか注射とか、そういうのは普通にしました。でも、今とは治療方法も違うし、今はもうついていけないと思いますよ。なにもかも、どんどん進歩してね。私なんか、横文字も知らないんですから。
ニューギニアへの最後の旅
主人は75歳のときだったか、戦友らのお骨を拾いにニューギニアへ行ったんです。なんとしてでも行きたくて、痛い腰を治療してまで、やっと行ったんですよね。ちょうどその頃、私も股関節で、たいへんな手術をしたんですけど、どうしても行きたいからって。ニューギニアには特別な思いがあったんでしょうね。
旧陸軍支給の鞄(岡内富夫さん作品)
でも、そこから帰るとすぐ、具合が悪くなって、入院したんです。なんとか退院にはなりましたが、もうずっと調子が悪いままでしたね。心臓発作を起こし、救急車で高知市の近森病院へ搬送されました。いったんは快方へ向かっていたんですけど、見舞客を送ったあとで急変し、心筋梗塞で亡くなりました。
あれほど気にしていたニューギニアへも、もう二度と行くこともできなくなって・・・。他にもやりたいことがあったでしょうにね。いろいろ本も書いているんですけど、何もかも昔の思い出になってしまいました。酒は飲まない人だったけど、タバコだけは吸っていましたよ、主人は、ね。
今の私の幸せ、これからの時代へ
夫が亡くなってからも、私はずっと本山で一人暮らしを続けていました。年金があるから、食べていくくらいのことは困りません。でも、90歳を過ぎた私のことを子どもたちが心配するので、3年前に高知市内のマンションに移ってきたんです。今は、次男と一緒に暮らしています。
長男はアメリカにいて、レストランをやっています。私はアメリカには行ったことはないけれど、向こうには孫も一人いるんですよ。
今日はたまたま、次男が家族のいる東京へ行って留守なので、こちらのケア施設にショートステイに来てお世話になっています。長女も私の近くにいてくれていますから、子どもらの世話になりながら、こうしてやっていけてます。
子どもらがこうして私のことを気にかけてくれて、ありがたいと感謝しています。だけど、子どものことになると、それは私の話ではなくて、他人の話です。子どもには子どもの人生がある。そう思っています。だから、子どもの話はこれくらいにしておきます。子どもらにも失礼になると困りますから。
私は、今、週4日はここのデイサービスへ来て、お風呂へ入れていただいたり、本当によくしてもらっていますよ。致せり尽くせりなの。ここは障害がある人がほとんどでしょう。昔は、家で看るしかなった、そういう人たちを、ここでは大事にしてくれます。本当に大変じゃなぁと思うけどね。
ここへ来て見ていると、みんなが老人を大事に大事にしてくれています。私たちは幸せじゃけど、次の時代はどうなるかわからない。国の介護保険や医療保険があって、やれているんでしょうが、老人がどんどん増えると、これもあれもはできなくなるでしょう。次の時代はどんなになるか、わかりませんね。今が続いて欲しい気持ちはあるけど、どんな時代にも、もう終わりというときはあります。それは仕方のないことですよね。
〈 参 照 〉
※1 杉並工業という学校:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。
※2 タイカ工業:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。
※3 コリン:詳細不明のため確認できず、聞き取ったまま『コリン』と記載。現在の中国東北部黒竜江省の虎林のことかと推測される。虎林は、ロシアとの国境近く、第二次大戦末期、砲声とどろく激戦地となった地でもある。
あとがき
和田さんとは、私たちNPO法人シニアわーくすRyoma21の高知支部メンバーが、この春から訪問させていただいている本山町の通所介護施設「デイサービス長老大学」で出会いました。今は高知市にお住いの和田さんが、たまたま本山町に帰られており、デイに来られていたのです。
戦病死されたお兄様のことや東京での若い頃のお話を伺い、もっと聴かせていただきたいと願ったことが実現し、この冊子につながりました。本当にありがいご縁であったと感謝しています。
和田さんは、この年代の方には珍しく土佐弁をあまり使わず、落ち着いた低いトーンで話されます。説得力のある話しぶりは、あの戦争を挟んだ大変な時代を、看護婦という専門性の高い仕事を持ちながら、子ども三人を育てる母として生き抜いてこられたからこそのものと思えます。
また、お話のそこここに、しっかり生きてこられた和田さんならではの言葉が散りばめられています。例えば、『苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ』というところ。思うようにものごとが進まず、自分の周りがなんともほの暗く見えてしまうときなどは、私も、この言葉を思い出して、顔を上げて歩こうと思います。
素敵なお話を聴かせていただき、本当にありがとうございました。
なお、相川の美しい棚田風景の表紙絵と、本文中の鞄のカットは、Ryoma21高知支部の岡内富夫さんに描いていただきました。彩を添えてくださいましたことに、心から感謝いたします。
(ききがきすと:鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 21:30
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かたりりびと:大町岑生(おおまちみねお)さん
ききがきすと:柳瀬晶子
姉のおかげで高校へ
私は昭和十二年、中国の天津で生まれて、五歳のときに戦争で引き上げてきました。帰国後も空襲で家が丸焼けになって、疎開もしたり、苦しい時代を生きてきました。
八人兄弟の二人目で長男です。
やがて高校に入って、大学に行こうという思いがあったんですけど、家計が苦しいので、高校に行く事すらできない状況でした。
姉が中学を卒業して、いわゆる女工として働きはじめました。当時は集団就職といって、地域とか学校ぐるみでトラックとか列車に乗って、遠い岐阜県の大垣の紡績工場に行きました。
親友三人とのお別れ会での姉の涙が忘れられません。私は姉が働いてくれたおかげで、三池工業高校電気科へ奨学金で行けることになったのです。
私は高校を卒業しましたが、こんどは妹を高校に行かせられなくて、やはり中学まででした。
私は兄弟の中では成績が良くて、学校でもトップクラスで、それで高校に行きたいというのがあったんです。高校を卒業して、次は大学を目指したかったんです。
ところが、引き揚げてきたときには兄弟が四人だったのが、帰国して四人増えて、八人兄弟になったのです。家計はそれはもう大変で、大学なんてとてもじゃないけど行けませんでした。
学校に山崎という親友がいまして、彼も私も大学に行きたいけど、学費が出せないから行けない。せめて大学を受験して、合格したという満足感でがまんしようと思ったのです。受かっても大学には行かないということで受験しました。二人とも熊本大学に合格したんですよ。
最初から行かないことが前提でしたからね。それで就職したわけですね。
就職して、実家に援助
高校卒業後、北九州の八幡製鉄で働きはじめました。初任給は封を開けず、そのまま全額を親に送金しました。その後も月給の半分の仕送りを毎月続けました。
働いてみると学歴の差が歴然とあって、愕然としました。これは学校に行かなきゃだめだと思って、入社後一年目に「九州工業大学」の夜学を受験して合格しました。昼間は働いて、二部制の夜学に通ったのです。
ところが、入社後の学歴は認めないという厳しい時代。三年で短期大学の資格は取れたんですけど、四年制の資格を取りたくて、いったん短期大学を二年で辞めて、四年制を受験したんです。そうしたら落ちてしまって、夢がついえてしまいました。悔しい思いを胸に抱えて聴講生の資格で働きながら、二年間授業を受けました。
二十二歳か、二十三歳のころ、中学二年生の弟をみてくれと実家に頼まれました。当時私は独身寮に住んでいたんですが、弟の面倒みるため、家賃の安い会社の独身寮を出なくてはいけなくなってしまい、部屋を借りました。
弟はやっぱり寂しくなって、実家に帰りたいと言い出しました。それまでにも、妹が弟一人では大変だろうということで、手伝いにきてくれました。けれど、本人が高校進学は地元にしたいということなんです。
私は学校の進路相談にも保護者として行きましたが、弟は成績が悪いんですよ。私が勧める学校には行けないので、実家に戻って地元の高校に行くことになりました。
電車で運命の出会い
ちょうどそのころ、通勤電車で会社の事務員の女性と会うようになって、そんな苦しかった事情を聞いてくれました。彼女は私の状況を理解してくれる協力者でした。
当時、私は実家への仕送りを続けていましたが、それだけでは足りません。もし自分が結婚したら、女房の稼ぎの分を仕送りに回せるという考えもありました。そんな都合のいいこと理解してくれるはずはないと思っていましたところ、彼女に相談してみたら、事情を理解し、快諾してくれ、結婚することになりました。
そこで、親に紹介に行ったところ、親も兄弟七人もみんなが唖然として、白い眼で見るわけです。大事な稼ぎ手、一家の大黒柱と頼りにしていた長男の私が結婚してしまうというので、反対されてしまいました。
仕方なく一応紹介だけして戻ってきました。そうしたら、親が八幡製鉄の人事部長に「二人を別れさせてほしい」と手紙まで送って、私は人事部長に、どういうことなんだと呼び出されました。上司からも説得されましたが、結婚の意思は固いということで、結婚を決めました。
式の日取りを決めて、両親は来なくてもいいから、二人で神社で式を挙げることのお知らせだけをしました。そして、二人だけで神社で写真を撮ったりしようと思っていたところ、親がきたのです。びっくりしました。親が来たので、お嫁さんの方の親にもきちんとご挨拶が必要だということと、仲人さんを立てようということにもなって、ばたばたでした。
仲人さんになって下さった方に急きょお願いすると、事情を理解して引き受けて下さいました。そしてなんとか二日後に、両親四人と私たちと仲人さんの八人で式を挙げました。
仕送りは続く
結婚をした当初の部屋が狭かったので、十二月に大きいアパートに引っ越しましたが、翌年の二月に火災に遭ってしまいました。雪の降る強風の朝、洗濯しているときで、私が第一発見者でした。
消防車が来ても、火元は消さないで、消火活動は周りに火が移らないことに注力するんですね。私たちの部屋は炎の中。私は女房の貴重品や大事なものを取りに煙の中を入っていきました。しかし、後ろから女房に引っ張られてとどまりました。そこでもし、入ってしまっていたら、命はなかったと後で思いました。女房に命を救ってもらったのです。
火災の後は、服も靴も全部燃えてしまって出勤できないので、いろんな人に助けていただきました。物をいただいたり、義援金を会社が募ってくれたりで、三日後には出社できました。
新婚はこんな感じで始まって、物もなにもなくなって、またゼロからのスタートでした。
そんな中でも、実家がやはり気になっていました。反対を押し切って結婚したものですから、「結婚したら嫁さんにぞっこんで、岑生は家のことを忘れた」と思われたくないという気持ちもあって、妻の給料そのままを送金し続けていました。
新婚であり火災にもあって、自分たちのものを揃えたいにもかかわらず、仕送りを続けました。でも、やはり私たちもぎりぎりだったので、途中仕送りが途絶えてしまうときもあったんです。
そのとき親父がわざわざ来て「なんとか仕送りを続けてほしい」と頼まれました。「通帳を見せてみろ」と言われ、通帳を見せたら、どうにもできないことがわかって帰っていきました。
親父は働けるのに、仕事をしても長続きしませんでした。南京では警察として働いていたので、その恩給があったのですが、子どもが八人もいたので生活は苦しかったのです。
私が大阪に転勤になったときに、働かない両親に就職を世話してあげました。母には有馬のほうのお金持ちのお手伝いさん。父には和歌山のつばき温泉。しかし、働いても半年しか続きませんでした。
今思うとくやしい・・・
女房は五歳上なんです。結婚を反対されたのはそんなこともあったんですね。私が二十四歳で結婚したので、彼女は二十九歳。そういう年齢差もあって、家がこんなに大変なのに、お前は何を狂ったのかと言われました。だけど、私は家のことは忘れてないわけですよね。
どうして、寮に入って三年後の二十二歳の頃に、寮を出てまで弟を引き取って面倒みようとしたのか・・・。
今回、聞き書きをしていただくということで、自分なりにメモして自分の歴史を紐解いていきました。そうしたら重大なことに気が付いたのです。
親父がいわゆるDV、家庭内暴力で悲惨だったのです。子どもたちが食事していればそれをひっくり返したり、なげつけたり大変でした。母は恐怖にいつも震えて、死のうともしましたが、子どもたちのために生きなくてはいけない、そんな状況でした。
そんな母をいつも見ていて、母を助けなければと思っていました。そういうふうに幼い心が固まってしまった。母が言うことはどんなことでもしなくてはいけないと思った。だから、無理してでも平気で、自分のことより、優先してね。ふつうは断って、自分の将来のことをまず考えますね。育てられないくらい子どもを産んだ親の責任ですから。
それに気付かなかったことが、今思うと悔しくてしようがないと思いました。書いていて自分なりに涙がでてきました。
大阪にきて、両親に仕事を紹介した後にも、できる範囲で仕送りはしていたのです。しかしあるとき、両親が創価学会に入っていることが分かりました。活動の一つとして献金もあって、母は熱心に活動していたのです。
苦労して出したお金がそっちに回っているのかと悲しくなり、それからは仕送りするのはやめました。女房は仕送りについては何も言わずに我慢してくれて、生活のためお金が足りないと、女房の実家に助けてもらったりしました。僕はそのときはそれを知らなくて、あとで話してくれました。
しかし、兄弟は僕以外は創価学会に入ってしまい、両親の亡くなった後の家と土地の遺産相続で、意見の相違がありました。自分が身を削ってしていた仕送りに、理解と感謝がないことが分かり、非常に残念な思いがありました。
妹が中学を卒業して働きながら夜学の高校に通っていたころ、勉強がわからないということで、私は通信教育として毎日のように添削をしてあげました。私は九州工大の夜学に通いながら自分の勉強もして、添削もしてという毎日だったのです。
そんなこともしてあげたのに、こんな関係になってしまうなんて情けないです。創価学会に入っていないことも原因にされました。やはり両親の教育が悪かったんでしょうね
こんな実家の家族とのやるせない出来事や思いがあった私を、囲碁が救ってくれました。囲碁が浄化してリフレッシュさせてくれたのです。その話はこれからしますね。
第三の青春が始まった!
福岡から大阪に転勤、同期入社第一号で係長に昇進し、八年間、夢中で働いていました。
それから三十四歳の時についに東京に転勤してきました。私の人生はそこから始まりました。第三の青春のはじまりです。
東京では仕事関係でいろんな人と知り合えるようになって、その中で三井物産の木村さんという方に出会いました。その方は囲碁が強い師範の方で、親しくなって教えてもらうようになりました。
そこから今の囲碁の人生が始まりました。それが四十五歳でした。異業種交流会木村教室を立ち上げて、木村師範に囲碁を習ったことで人生が開けました。また、触れ合い囲碁の安田敏春九段を紹介していただきました。
東京の本社から定年になる前に出向して、その出向先から再出向して働きました。最初の出向先はとてもよかったんです、私も思い存分働きました。
次の出向先では、お客様から会社にいろんなクレームがたくさんありました。そこで、品質管理、納期管理の改善を社長に提案したら、首になってしまいました。ちょうどそれが五十八歳でした。
退職して、これから先はどういう人生を描いていこうか考えました。
タイミングよく、東京都が主催のシニアボランティア研修会があって、参加することにしました。世の中にはどういうボランティアの活動があるのかとか、ボランティアの仕組みを勉強し、ボランティアの体験もあって、二年くらい勉強しました。
いよいよ六十歳になってようやくそのときがきました。
ちょうど江東区にボランティア連絡会というのが発足した年で、私もそこに参加しました。会場にはボランティアに興味のある方々が来ていて、四十名くらいいました。それぞれどんなボランティアをしていきたいかを発表するのですが、賛同する人はグループを作っていくわけです。
私は「子どもに囲碁を教えたい」ということを提案して、「これに賛同する方は手を挙げてください」と言ったら、四名が手を挙げてくれました。
そこから「ホタルの碁」という団体を作って活動をはじめました。
「ホタルの碁」スタート!
近隣の小学校や、幼稚園、保育園に囲碁を教えに行くというボランティア活動のはじまりです。最初はボランティアセンターの部屋を借りて、そこで開催しました。しかし、参加者は、最初はわりと来たのですが、だんだん減ってきました。
やはり待っているのはなく、ニーズのあるところに教えに行くのが大事だということになり、幼稚園や保育園、児童館、小学校に行って教えるということにしました。
「ホタルの碁」という名前は、そこに行って教える、飛んでいってあかりを灯すという意味でつけました。
最高では八つの学校に教えに行って大会もやりました。
私たちのグループで広げるだけでは、マンパワーが知れているので、江東区全体が学校単位で囲碁大会をやってくれるように、区長とか関連団体に呼びかけましたが、区はその提案に乗ってくれません。
江東区には加藤正夫という名誉九段という囲碁の名人がいて、その方のご協力で「こども囲碁大会」といって、参加したい子どもが申し込んで対戦するという催しがあるのです。それが十年目で、今年が十一年目。
私が提案したのは、区内の学校単位で対戦していく「江東区小学校対抗囲碁交流大会」です。学校ぐるみの取り組みには地域の人も応援したくなって、囲碁を地域の人が学校に教えにきてくれることになる。学校のみならず地域ぐるみで盛り上がって、高齢者とこどもたちのつながりもでき、生きがいにもなる。囲碁のまち江東区になっていくというのが夢で、その提案なのです。
そこで区の協働事業を提案できるシステムがあったので、そこに提案したのですが、採択されませんでした。では採択された事業はどんなものがあるのかと見てみたら、僕の提案も引けをとらないくらいいいのになぜだろうと。
提案しても採択されないのなら審査員になってみようと、ちょうど募集があったので応募しましたが、残念ながら落ちてしまいました。
そうやって続けてきているのです。
私はいま、幼稚園に教えに行くことに一番情熱が盛り上がっています。何も知らない子どもたちに、だけど一つ一つが新しくて、教えたことが芽になっていく。小学生より感受性が強いからどんどん吸収していきます。
六十歳過ぎて新しい仕事が
私は六十歳からこのボランティアをはじめたのですが、同時に、六十歳になって失業保険をもらうためにハローワークに通って、仕事の紹介を受けました。
電検三種といって、私の高校でも一、二名しか受からないような難しい資格ですが、高校三年生のときに取っていたので、その資格のおかげで、仕事を紹介してもらいました。
行くつもりがなくて面接と試験を受けたのですが、採用が決まりました。では、同じ働くのならもっといい条件はないかと、それから積極的に探しました。比較検討して絞り込んで、行ってみた会社がとてもよかったので、その会社で七十六歳まで働くことになりました。
出先の仕事ではやりがいを感じていましたが、だんだんコンピューターを使っていく仕事になっていくので、若い人には追いつけなくなって、ストレスを感じながら働いていました。
女房からは「そんなに忙しいのならボランティアを辞めなさい」と言われましたが、「このボランティアがあるからこそ、仕事での辛さも乗り越えていけるんだ。もし、ボランティアを辞めるのなら仕事も辞めるよ」と言いました。
そして、会社からも毎年毎年、契約社員の更新を頼まれました。
私の人生は実家の貧乏があって苦労しましたが、東京にきてから人との出会いがあって、新たな人生が花開いたという感じです。
来年で八十歳になります。三月二十五日は電気の日で、はじめて日本が電気を灯した日ですね、電気に関するいろんな催しがあります。その電気の日に、八十歳になって電気事業に貢献した人を表彰する卒寿功労賞というのがあります。私は七十歳から七十六歳まで勤めた会社に推薦されまして、経歴書を出しました。だから三月二十五日はきっと表彰されます。
次の目標はオリンピック
私の次のターゲットはオリンピックです。一人で思っていてもだめなので、宣言することにしました。たまたまボランティアセンターのパンフレットを更新するというので、次なる計画はオリンピックで観光客に囲碁を教える文化交流をすることを載せました。
そのためにボランティアセンターや連絡協議会に協力をお願いしました。区会議員の川北議員がいるのですが、その活動報告を兼ねた忘年会に行ってきました。区長や東京都の議員も来ていたので話しました。東京オリンピックの際には、日本の伝統文化を紹介するコーナーをぜひ設営してほしい。そこで私は観光客に囲碁を教えたいと。
あとは、オリンピックの際に囲碁の会場が設営されても、いざ外国の方に教えようとしたときに話せないのでは困るということで、英語の勉強を始めました。
開催まであと二年あるので、それまでには話せるようになるのではと思っています。今も待ち時間に英会話の勉強をしていました。目下の目標はそれです。
妻が元気でいてくれて、私もそういう活動ができるような状況があるのが一番です。それを心配しながらでは、活動に打ち込めないですからね。
体験することが大事
小学校の囲碁のボランティアでは年度の終わりのときに、子どもたちに感想文を書いてもらっています。自分たちの励みにもなります。
幼稚園や保育園では保護者の方にアンケートを書いてもらうのですが、保護者の一人から難しいので簡単に教えてほしいと意見がありました。
囲碁の教え方には二通りあります。囲ったら取れるというのと、最後は陣地の広い方が勝ちということで、陣地の広い方が勝ちというところに到着するためには、いろんな手法があります。
囲ったら取れるというのは簡単なので、それだけでいいのではという意見もありました。でも、せっかく囲碁を習って、幼稚園を卒業したときに「囲ったらとれる」というのだけでは、本当の囲碁を知っているとは言えません。もったいない。
どうしたらいいかと思って、保護者にアンケートをとりました。非常に楽しんでやっていて、「囲ったらとっただけでいい」という考えの方はほとんどいませんでした。陣地を広くとるというやり方は、守るための戦い方で、方法や作戦が広がって、ものすごくおもしろいのです。
幼稚園には六十名の園児がいて、「ホタルの碁」の仲間七人で教えていています。幼稚園のこどもたちは対局が楽しいのです。わからないなりに、対局すればわかってきます。三回戦では、最後には勝った子どもたちがみんなの前で対戦します。静かながら必死で、真剣な対戦を幼稚園児の皆で見ます。幼稚園で教えて今年で七年目です。
小学校で囲碁を教えていると、上手い子どもがいるんです。どこかで習ったのかと聞くと、大町先生に習ったと言うんです。嬉しいですね。幼稚園には一時間を年に三回教えに行っているんです。その三回だけですが、やりがいがあって楽しいです。
小学校に教えに行っているのは、土曜日に学校がお休みで、地域に開放しているときです。地域の方が先生になって、こどもたちに料理や太鼓、英語や中国語、サッカーなどを教えている「ウィークエンドスクール」というのが、年に十回あります。
もう一つ、放課後の一時間、学童保育でも教えています。教えたときは必ず宿題を出します。年度末には出席と成績と感想を書いて、級位を決めて、修了式に級位認定証をあげます。子どもたちの記念にもなりますし、思い出にもなればいいと思っています。
覚えてどんどんレベルが上がってくる子どもがいますが、その子に合わせて教えていると、ほかの子がついてこられなくなるので、常に同じレベルで教えています。一年目に教えて、二年目、三年目にも来る子もいれば来ない子もいます。
囲碁を理解して、もの足りなくなればこちらの狙い通りです。興味を次の興味に移してもらえればいいのです。
世の中には学ぶべきおもしろいことはたくさんありますから、囲碁はその中の一つでいいんです。将来大きくなったときに、また囲碁をやりたくなったときにやればいい。子どもの時にちょっと知識が入っているととっつきやすいんです。大人になって初めてだと考え込んでしまって、次の手が進まない、子どもは直感でぱっとできます。
要するに体験させることが大事なんです。勝ったりすると自分の自信にもつながります。また、負けて泣く子もいます。みんなの前で泣いてしまったら、ほめてあげるんです。
「この子は強くなる、悔しい気持ちが大事、こういう気持ちで打たないとだめなんだよ」とね。
あとがき
大町さんは、長身でおしゃれでダンディーで、七十九歳とは思えないほど若々しい印象の方です。落ち着いて丁寧に話してくださり、とてもエレガントな印象でした。
ご実家のことではご苦労が続いていらっしゃいましたが、それを乗り越えた強さと優しさがお話の中でずっと感じられました。
囲碁を通してのボランティアで与えること、貢献することをされています。子どもたちに囲碁を通して何を伝えていきたいかという思い、オリンピックや将来の夢を語る大町さんは輝いています。未来に輝く子ともだちのために、子どもたちの持っている力を信頼してじっくりその芽を育てていく取り組みは、大町さんの心をも豊かにしていくのだと思いました。
また、大町さんの奥様がずっと大町さんのことを支えていらっしゃることに、偉大さを感じました。
大町さんのチャレンジ精神と情熱は、聞いている私も、何か力が湧いてくるような気持になりました。ありがとうございました。
ききがきすと:柳瀬晶子
posted by ききがきすと at 20:54
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高知でのダンス三昧の日々
『ユリヤ』が柳町に移った、その年の春に僕は明治大学を卒業して、高知へ帰ってきました。高知で踊ってましたよ。当時は高知にもダンスホールがあって、最初は上町の『山本ダンスホール』に通ったなぁ。これは、僕の姉が行ってたんよ。次は『中の橋ダンスホール』だったかな。それから得月楼のちょっと裏手の東の方、浦戸町に『ガーデン』っていうダンスホールがあって、もう、そこへは夜な夜な通いました。
けどね、高知のダンスはダサいと思いました。東京はね、例えば、五反田の『カサブランカ』とか、新橋の・・『フロリダ』だったかな、きれいなダンサーがいっぱいいたんです。しかも、生バンドでダンスが踊れたんですよ。
そのころ、ちょうどアメリカのフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を観たんです。いわゆるタップダンサーで、「トップハット」とか、「キャリオカ」とか、いろんな映画に出た人です。それで今度は、タップダンスを自己流で踏み始めたんですよ。まぁ、バカなことしたもんよね。高知には、そんな就職先はないし、それに、タップを教えるほどうまくはなかったし。
だけど、ジャズとリズムと、そして足を踏み鳴らして踊る、そのハーモニーが好きでした。こんな格好のいい、おしゃれな世界はないと思いました。今でも、僕はそういう世界に憧れています。もう80歳を超えて、とてもダンスはできなくなったけど。・・まぁ、社交ダンスなら、ちょっとしたジルバぐらいはできるかなぁ。うーん、もう複雑なステップはできないね。
何にしろ、好きなものがあるっていうのは、ありがたいですよ。学究肌の人は、研究とかね、頭をつかう。けど、僕らみたいなぼんくらは、要するに手足を動かして、耳から入る音楽、ジャズを聴いて、あるいはタンゴの調べを聴いて、かっこよく踊るというのが、そのころの青年たちの、不良の遊びだった。今の子は、どうしているのかなぁ。
要するに、このドラ息子ときたら高知に帰ってからも、ダンスが高じてずっとキャバレーに入れ込んでいたってわけです。家業の『ユリヤ』がうまくいっていることをいいことにね。
その当時ちゃんとしたバンドがいて、ダンスが踊れるのはキャバレー。『椿』とか『リラ』、『ABC』とかね。そういうところに限られていました。そこへ毎晩通ったんです。やっぱりキャバレーは高いわね。それに、一人ではよう行かんから、また不良の友達を連れて行くわけですよ。いいかっこしてね。
まぁ、随分、はちゃめちゃ遊んだよ、あの頃は。今考えると、僕しか、あぁいう遊びはできなかったろうね。一応、僕のダンスは東京じこみだから、キャバレーでも、あいつはダンスはうまいなと。そらそうや、おまえらみたいな田舎もんとちゃうぞ、ってなもんよね。
ホームバー『フランソワ』の誕生
どうも僕には喫茶店での仕事が性に合わなくてね。ぶらぶらしとったですよ。そのうちに今の『フランソワ』の土地を両親が買いました。そこにあったバラックを壊して建て直し、ここで住まいをしようと考えたんです。
まぁ、2階、3階は住まいでもいいけど、1階は貸店舗にしようかとなって、けんど、1階だけ貸すのはいかんなぁ、と言い始めた。それなら、僕がバーをやると言うと、親父がなんと言ったと思う?「バーなんて、止めておけ。そんなもの、商売にならん。ウナギ屋やれ」言うたんですよ。「ちょっと待って」と。
まぁね、ウナギを焼くぐらいは俺も、やってやれないことはない、と思いましたよ。親父はウナギが好きだったからね。けど、「あのニョロニョロ動くウナギをね、あれの腹を裂くなんて、そんなむごいことは俺はできん」って言ったんです。それで、「親父、やるかえ」って返すと、親父もなにも言わなかった。それで、ウナギ屋は終わりです。
親父やお袋から、キャバレーとかバーへ飲みに行かんようにとさんざん説教されて、もうしょうがないから、自分でバーをつくる、となったわけです。それが『フランソワ』の始まりですよ。外へ飲みに行かんように、ホームバーにした・・・、バカなことよねぇ。それが昭和40年のことです。
しかし、最初の頃は、まったく儲けなかったんです。友達はたくさん来るけど、僕のことだから全部貸しです。俗に言う貸倒れ。そのはずよ。みな、昼間は競輪競馬へ行ってやね、すっからかんで飲みに来るんだから、金はないよね。そんなのに貸して、何百万も貸倒れになりました。
フランソワの前に立つ鈴木さん →
また、当時のことなら、支払いは盆暮れにまとめて。そういう昔からの習慣がありましたからね。県庁の役人とかの公務員や商店街の旦那衆とかは、盆暮れが多かったんです。しかし、盆暮れにでも払ってくれる人はまだまし。さすがの僕も、ちょっと待てよ、これじゃいかんとなった。これは、現金商売にせんと、どうやってもいかんぞと。
だから、料金がもっと安くなるようにしました。舶来酒ばかりでなく、国産酒も入れたりね。もう現金だけで商売しようと考えたわけです。それでなんとか、『フランソワ』がもったわけですよ。そうなるまでに10年くらいはかかりましたね。
僕の自慢はね、貯金がないこと。けど、なんとか日銭は稼げる。なんとか食っていけるわけ。今、これで食っているからね。まぁ、赤字にならんように、現金商売で。それが、一つの転機だったね。これは、やっぱり商売の鉄則だろうね。
『フランソワ』でカクテルをつくる
お袋に「章弘、おまえ、これが帳面やけど、お客さん結構来てるけど、全然お金がないよ。仕入れのお金もない」と言われて、それなら、よし、これ売ろうかと思ったこともあります。けんど、さぁ、売ってどうするということもない。そしたらね、東京だけじゃなく京都でも随分遊んでいた、その僕の胸に漠々とでも浮かんだのは、カクテルだったんです。
東京から帰って、『ユリヤ』を嫌々でも手伝っていた9年の間に、よく京都で遊びました。姉が京都に嫁いでいたので、ゆっくり3年ほどは遊んだかなぁ。京都に『サンボア』というカクテルの店があって、寺町にその本家があるんですが、そこの中川古鹿(ころく)さんというおじいちゃんに本当にお世話になりました。とってもおしゃれな方でね、動作が実にきれいなんです。その古鹿さんに憧れて、その京都『サンボア』へ夜な夜な通うことになり、それで、弟子入りしたいとまで思いました。でも、そこは息子が6人、男ばかりいて、結局、無理だったけどね。
『サンボア』本家は長男が跡を継いで、そして、次男、三男は喫茶と、酒屋をやっていました。四男の志郎と僕とは同い年で、その志郎が祇園でやっていた店も成功して、今は孫の時代になっているはずです。それで、京都には『サンボア』が3軒あるんですよ。本家の寺町と祇園、もう一軒は六男の清が始めた木屋町。今でも交際が続いています。
ちょうど祇園表通りからひとつ南に下がったところに、今でも八坂中学という学校があります。その前辺りからお茶屋街がずーっとあって、そのお茶屋の一角に『祇園サンボア』があるんです。これは山口瞳が本に書いてもいますよ。
それがすこぶる美しい名文で、たいへんな評判を呼び、今や京都を代表するバーになっているんです。そこへ行くと、お茶屋街ですから、現役の芸子さんなんかがちょいちょいお座敷帰りにお客さんと飲みに来てますよ。あぁ、京都っていいなって思うね。
僕は、祇園は敷居が高くて入れなかったから、よく上七軒とかいったなぁ。もう一つランクが下のお茶屋街が上七軒と他にもあったけど、どこやったかな。そんなところで、お茶屋遊びらしいこともやってましたね。
東京とか京都で不良している間に、僕はこんなふうにカクテルバーへ出入りして、こんなハイカラな世界があるだろうかと思いました。普通のバーは、サントリーのウィスキーならそれを出すだけ。だけど、カクテルは、酒と酒、あるいは酒とほかの飲み物をベースに調和させる。そうして新たなものを生み出すものなんです。
また、高知にも、そういう先駆者がいましたよ。高井久五郎(きゅうごろう)という人で、戦前大阪のキャバレーでバーテンダーをやっていたと聞いています。この人は愛媛生まれだったけれども、縁があって高知へ来て、野村デパートの食堂主任なんかやっていたそうです。
戦後はね、今の京町の野村証券のところ、あそこに『シルバースター』というキャバレー第一号ができて、そこのマネージャーをしながら、バーテンダーもしていました。僕らの大先輩です。この人がやがて独立して、『555(スリーファイブ)』を始めました。この店は、今の中種の葉山、あそこの裏にある路地にありました。すばらしいバーでしたよ。
こういう商売は、おしゃれじゃないと駄目です。清潔感はもちろん必要だけれど、それだけではいけない。僕がいくらダンスが好きでも、ここで踊るわけにはいきません。せめて、シェーカー振ったり、お話しする中でかっこよく見せる。
格好は、とても大事なことです。この世界で一流バーテンダーと言われる人は、みなおしゃれです。本当におしゃれ。おいしくつくるということは、おしゃれに振るということとイコールでなくちゃいけない。いわゆる、あちゃこちゃ、あっちへ走り、こっちへ走りすると、俗に言う「あいつは野暮だなぁ」ってことで、野暮ではできません。
おしゃれも、本物を知る第一級のおしゃれでないとね。僕が長年やってきたバーテンダーのスタイル。これは、世界共通です。ほら、外国のね、パリやロンドン、ニューヨークのバーマンは、本当におしゃれですよ。かっこいいんです。
カクテル西洋事情
ヨーロッバでは、カクテルは街中のバーではなくてね、ホテルバーなんです。日本とは違います。アメリカンバーという言葉があって、ヨーロッパでは、カクテルバーのことをこう呼ぶんです。
イギリスのアッパークラス、上流階級は、訪問客があったら、午後にシェリー酒を出すという習慣があったんですよ。まぁ、言わば、貴族の習わしですね。お茶とケーキを出すか、それに合わせて殿方にはシェリー酒を出す。それが高じて、カクテルも出すようになる。
だから、カクテルタイムとか、カクテルアワーというのは、まだ明るいうち、いわゆる午後から夜にかけてであり、カクテルはその時間帯に供する飲み物だったんです。
英国やフランス、パリでね、ホテルバーでカクテルを飲むというのは、その頃の有産階級の一つの象徴でしたよ。バーでカクテルを飲む、非常に贅沢な習慣だったわけで、それは、いまだにありますね。まぁ、ロンドンは別として、今でもパリの街中にカクテルバーは非常に少ないんです。あそこはワインバーか、あるいはホテルバーのどちらかでカクテルを飲む、そういうお国柄なんです。
アメリカ映画とか英国映画、フランス映画、イタリア映画などには、そういう酒を飲むシーンがふんだんに出てきて、僕は大いに感化されました。その一番いい例がアメリカの有名な「カサブランカ」という映画です。パリから亡命したアメリカ人、それがカサブランカの街でアメリカンバーをつくるんですよ。アメリカンバーというのは、カクテルバーのことです。そこで飲むのが、シャンパンでありワインであり、カクテルなんです。映画でそういう世界を観たんです。
それから、アメリカ映画でもう一つ、「花嫁の父」という映画がありました。その中で家の庭で娘の結婚式の披露宴をする、ガーデンパーティの場面がありました。それを観たのは高校1年くらいのときだったかな。そのときに、マティーニが出てきたんです。「マティーニには、まだ早いよ」というせりふがあって、なぜか僕はそういう文化に魅せられたんです。”It’s too early to drink a martini”「マティーニには、まだ早いよ」という、その謎が解けず、ずっと心に残りました。
なぜマティーニには早いよ、と言ったのか。マティーニというのは、いわゆるカクテルタイムで飲むには違いないけれど、非常にアルコール度数が強いんです。だから、早いうちに飲むと酔いつぶれるよという意味を兼ねてる・・。おそらくね。
これがいまでいう、アペリティーフ(aperitif)、食前酒です。マティーニは、食前酒ではあるけれど、ものすごく強い。ヤンキーとか西洋人は胃袋が丈夫だからいいけれど、日本人はあれをすきっ腹でやると、もう飯が食えなくなる。そういうシロモノ。人気はある。永遠のカクテルです。
マティーニで有名なのが、もう一つ。チャーチル・マティーニです。マティーニというのはね、ジンとベルモットだけ、それをミキシンググラスでこうしてつくるんです。チャーチル・マティーニというのはね、ジンだけ入れて、ベルモットをちらっと横目で見るだけで、ジン・マティーニをつくる。これがチャーチル・マティーニ。それだけ彼はドライが好きだったってことですよ。
一番のお宝、英国のカクテル・レシピ本
もう一つ、007マティーニ、これもまた面白い。有名な007の作者というのはね、日本へも何度も来たことがある、飲んべえのイアン・フレミングで、この作家はマティーニが大好きなんです。007マティーニ、これはスパイを意味します。英国人の地酒であるジンではなく、ウォッカをつかう、ウォッカ・マティーニなんです。また、マティーニいうと全部ステアー(*かきまぜる)なんですが、それをステアーでなくて、シェイクするんです。
けどね、それには訳がある。昔のロンドンカクテルの文献を見てみると、マティーニはステアーではないですね。1930年のサヴォイのカクテルブックにはシェイクとあるんです。ドライマティーニは、全部シェイクなんです。
だから、その007の作者、イアン・フレミングは、ソ連側のスパイというのでドライ・ジンをウォッカに替え、しかも、シェイクというので、非常に新鮮に映ったんです。けれど、実は、時代は繰り返すで、戦前は、マティーニはステアーでなくて、全部シェイクだったんです。その文献がね、これですよ。
『ザ サヴォイ カクテル ブック』って本でね、これは、たいへんな貴重品です。僕の一番のお宝なんです。ザ・サヴォイというのは、ロンドン・サヴォイ・ホテルのことで、僕はここへ2回行っています。
1930年ということは昭和5年ですね。昭和5年に、この本が刊行されたんですよ。そのときのマティーニは、・・(本に目を通しながら)・・いいですか、マティーニ(ドライ)は、フレンチバムース・・これはベルモットのことです。英語読みしたらバムースになるんですね。フレンチバムース1/3に、ドライジン2/3。これを、Shake well と書いてある。つまり、シェイクなんです。しかし、今はね、マティーニいうと全部ステアーなんですよ。
シェイクとステアーの違いは、シェイクの場合は、カクテル・シェイカーへ氷入れてシェイクしますわね。シェイクというのは、揺るがすということです。これは何を意味しているかというと、空気を入れるということです。
ステアーというのは、逆に空気を入れない。液体だけの澄み切ったもので供するためにステアーするんです。シェイクは、酸素を入れる。そこに違いがある。大きな違いです。これが今から80数年前に、もうすでにシェイクだったんですよ。マティーニは全部シェイクで、ステアーではなかったんですよ。
例えば、(本を見ながら)マンハッタンなんかね、これもシェイクでしょう。この頃は、全部シェイクなんですよ。ここに、ステアーが出ている。マンハッタン・カクテル・スウィート。ステアー、ウェル。これですね。ステアー。マンハッタンは1930年代にすでにステアーやっていた。
カクテルの酒を替えると、カクテル名が変わってくるんです。これは、ライオウ・カナディアン・クラブという。ライはライ・ウィスキーのこと。ライ麦のウィスキー。あるいは、カナディアン・クラブ。カナディアンというのは、ライ・ウィスキーのこと。こういうレシピがちゃんと出ている。
また、この本は石版刷りですよ。石へ絵をかいて色付けして、それを印刷に用いたものです。非常に貴重な文献ですよ。面白いでしょう。これが、サヴォイで、いまだに現存しています。ロンドンへ行く機会があれば、ぜひとも、サヴォイホテルへ寄ることを勧めますよ。
こちらの本はね、カフェ・ロワイヤル。これは、ピカデリーサーカスの近所にある大きなレストランです。バーレストラン。このカクテル文献も素晴らしいですよ。
ここに面白いことを書いてある。これ、ターリングという、その当時のバーテンダーが書いた本なんですよ。W・J・ターリング、カフェ・ロワイヤル。これがね、1937年。ここにコロネーションってあるでしょう。いわゆる戴冠式のことですよ。今のエリザベス女王のお父様、つまり、ジョージ6世の戴冠式の年に発行したカクテルブックということです。
これには、その当時の風俗画が描かれています。例えば、これはいわゆるレビューですよね。こういう世界とカクテルというのは、歓楽の世界感と交わるところにある。つまり、こういう世界だったんですよね、80年前はね。面白いでしょう。
さらに、面白いことにね、ここ見てください。『ツー ブラザー ジョセフ・ベッツ』。ブラザーというのは兄弟だけど、まぁ言わば弟分、彼の弟子だったんですね。『ウィズ エターナル ベストウィッシュ、フロム オーサー ターリング』。作家からベストウィッシュを持って君に贈ると、直筆で書いていますよね。1946年。これは、昭和21年ですよ。
カフェ・ロワイヤル。これはフランス語読みですよね。向こうでも、フランス語読みがハイカラだった。人品卑しからぬジェントルマンが出入りするバーレストラン。これも、ロンドンです。
この2冊を僕は、神田の古本屋で見つけました。いくらで買ったか忘れたけれど、結構高かったですよ。ここに神田・田村とあるでしょう。神田の神保町にある田村という古本屋。今でも神田にあると思いますよ。
『フランソワ』の灯りをつなぐ
今の高知にも、いいバーテンダーはたくさんいます。この頃は、女性のバーテンダーもいて、チェコのプラハの世界大会で優勝した高橋直美さん。彼女は高知で頑張り続けて、何回もチャレンジしてね、やっと栄冠を仕留めたんです。素晴らしい。今は銀座の八丁目あたりの外堀通りの『ガスライト・イヴ』というところで働いています、店長で。
やはりファッションの生まれる街といえば東京だろうけど、高知だって「しゃれもの」は結構いますよ。高知は高知らしいファッションが生まれて当然だと思います。その高知で、『フランソワ』のネオンを消さずにいきたい。その願いをかなえてくれたのは、三好誠さんです。
彼はね、広島県の福山生まれで、高知大学の学生だったんですよ。学生時代にバイトでうちに2年か3年いたかなぁ。それから、いったん就職したんだけれど、その後ちょっと体を壊して、高知へ遊びに来たんです。
「どうしてるんだい」と訊くと、「今は何もしてません」と言うから、「じゃ、うちを手伝ってくれ」となったわけです。それからもう20年近くになるかなぁ。
フランソワの店内 →
僕はやっぱりね、ちっぽけな店ですけど、この『フランソワ』、大好きなんですよ。だって、僕のホームバーだもの。僕は、ここでね、文章書いたり、手紙書いたり、本読んだりするんですよ。ちょっと一杯やりながらね。
店は、昭和40年に建てた当時と、ほとんど変わっていません。窓に『フランソワ』と描いてますわね。あれは実は、金文字なんです。表から見るとわかるけどね。これは、金紙を貼っています。これは僕の自慢でね。今から25年ほど前に改装するときに、つくってもらいました。でも、改装は入り口や窓の部分だけで、基本的な部分はいっしょです。カウンターやこの棚の辺りの感じもね。50年前と変わってないんです。
あの当時は、いわゆるデコラの時代でね。つまり、材木だけでは大工賃が高くつくから、デコラを張ったんです。カウンターも全部、デコラを張っています。デコラが流行ったのは、工賃が安いわりに耐久力が強いからなんですが、これは面白くない。と言うのは、いくら年が経っても古さがでないんですよ。まったくない。
この枠なんかもデコラですよ。木材に樹脂を張っている。変わらなくていいとも言えるけど、僕は面白くない。大失敗。本物をつくりたかったからね。けどね。まあ、それも仕方ない。これも、そうした時代を象徴する一つの工材だったからね。
大好きな高知の街、生き生きと自由であれ
我ながら、僕は恵まれてるなと思いますよ。やはり、家族、特に両親を思うとね。これくらい不良のドラ息子を長い目で見てくだすった。それから、姉は姉で、またそれを承知のうえで、僕によくアドバイスする。それはそれで、ありがたい。やっぱり姉弟愛だなぁと思うんですね。
それと、今の家内はね、こんな水商売なんか、まったく向かない女です。まったく酒も飲まないし、おしゃべりもできないしね。それでもなんとかやってきてくれました。だって、ほかの仕事しろと言われても、僕にはほかの仕事はできない。
これはもう私の天職ですよ。それは今、この年になって初めて言える言葉かもわかりませんね。若いときは、そんなこと関係なく、夢中でやってたからね。
ずっと暮らしてきた、この高知の街、僕、大好きでね。でも、今の高知は、僕らみたいな不良には、ちょっと住みにくくなった気がするね。不良は良きにあらずですが、その反面、ほかにない自由を感じる。これが不良だと思っています。
したいことをする、見たいものを見て、聴きたいものを聴く。あの自由な感覚ですよ。まぁ、これから世の中がどんなに変わっていくかわかりませんが、高知には、生き生きと自由な、そういう本物の文化が根付いて欲しいね。
あ と が き
鈴木さんは、軽く洒脱な語り口で、昔の新京橋界隈の暮らしや、青春の日々、東京や京都での経験について生き生きと聴かせてくださいました。私も同じ高知県に生まれ育った者ですが、遠くにアドバルーンを見ながら、あそこがお街と憧れた田舎の子。ハイカラな街っ子のエピソードの一つひとつを物語のように面白く聴かせていただきました。
明るい話しぶりに、戦争を挟むたいへんな時代だったことも忘れ、笑いを誘われることも度々で、こういう方が戦後の日本を楽しく、魅力的に色付けしてくださったのだと改めて思ったことです。昭和一桁生まれのモダンボーイの魅力を、少しでもお伝えできれば幸いです。
また、今回、岡内富夫さんが、この冊子の表紙にと、『フランソワ』を描いてくださいました。街のやわらかな風まで感じさせる2枚の素敵な絵に、心から感謝いたします。
なお、昔日のバーテンダーの方々については、資料の入手が難しく、確認できないまま記載させていただいた部分があることをお断り申し上げます。
ききがきすと:鶴岡香代
posted by ききがきすと at 22:15
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かたりびと:鈴木章弘(あきひろ)さん
ききがきすと:鶴岡香代
昭和7年12月22日、僕は父・正一郎(しょういちろう)と母・静(しず)の長男として、高知市新京橋35番地に生まれました。男の兄弟はなく、純子(すみこ)という2つ違いの姉がいます。
高知といえば、四国の中でも田舎には違いない、地理的には田舎に違いないけれど、その高知にあっても、戦前の新京橋(最終頁*1参照)といえば、まさに中心商店街。都会的というか、早くいえば、ハイカラな街で、そこでの暮らしぶりというのは、田舎とはまったく違うものでした。
今は中央公園になっているあの辺りを、戦前・戦中は、新京橋商店街と呼んでいました。新京橋の名称は今も若干残っていますが、もともとは、あの広い公園から堀詰へかけての一帯のことで、当時は新京橋という橋が本当に架かっていたんです。
戦前の新京橋界隈を知っている人はもう少なくなりましたが、街とその外では、まるで別世界だったわけです。だから、当時、みなが街へ行くと言えば、それは特別なこと。ビルを見て、店を覗いて、洋食を食べる。それから活動写真、今の映画ですよね。もちろん、テレビはない時代ですから、活動写真を観て、おうどんを食べて帰るというのが娯楽であり、最大の楽しみだった時代です。
街のデパートにアドバルーンが上がっていて、市内ならどこからでも見えましたよ。戦前、戦後を通じて、昭和30年代までかなぁ。あれが街の一つの象徴、シンボルだったんですね。あそこがみなにとっての街、行ってみたい街だった。だけど、僕は子どものときから、その街で暮らしてきてますから、そういう生活しか知らんわけです。
まぁ、小学校を卒業する昭和19年頃まで、僕はずっと新京橋に住んでいましたから、街っ子だし、今でいう「ぼんぼん育ち」ですよ。名が章弘ですから、子どもの頃はよく「あきちゃん」とか、「あっきん」とか、「ぼん」とも呼ばれてね。いやー、まぁ、ばかぼんですわ。
うちは商家でした。もともとの出は琴平なんですが、祖父の時代に博打で勘当をくらって、高知へ移ってきたそうです。祖父は鈴木時計店の看板を上げて、時計商をしてましてね。その棟並びで、僕の両親が鈴木写真館をやってました。
その時代の一番のお客さんというのは、やはり兵隊さんだったんです。高知には、今の高知大学になっているところ、あそこに陸軍の44連隊がございました。そこから戦地へ赴かれる兵隊さんが、新京橋で活動を観て、そして、腕時計を買って、記念写真を撮る。そうして戦地へ行ったのですよね。
だから、うちの商売というのは、兵隊さん相手に、まぁ、早くいえば、ぼろ儲けしたんです。あの頃は、軍人さんはたくさんいたし、金持ちでしたよ。だから、僕は何不自由なく育ちました。
ハイカラ感覚は幼少時から
母の生家は高岡郡波介村岩戸、今の土佐市ですが、母の父、つまり僕の祖父は早くから街へ出て、鳳館(おおとりかん)という映画館をやっていました。これは、堀詰の電停前にあって、家からほんの数分とかからない。子どもに人気のチャンバラ映画ばっかりやっていましたよ。だから、学校から帰ってきたら、叔父の家へ遊びに行くか、鳳館で活動写真を観るか。そりゃ、恵まれていましたね。
それで、こういうどうしようもない男、ばかぼんが生まれたってわけ。でも、街育ちのばかぼんしか知らない世界、特別な世界がそこにあったんですよ。ちゃんとした家庭で育っていれば、・・・もっと不良になっていたかな。
だけど、僕は田舎の楽しさも知っていますよ。夏休みの楽しみは、母の生家へ遊びに行くことでしたから。そこで田舎での生活を満喫したものです。野や山で鳥を獲ったり、ウサギ狩りに行ったり。よその家の畑の桑の実をつまんで、食べたりもしたなぁ。その時分は、おおらかでした。秋に行けば、柿が生っているし、栗もたくさんあったしね。
柳原幼稚園っていうのがありましてね。いいところのぼっちゃん、おじょうちゃんの行く幼稚園だったんですよ。この辺りにも幼稚園はありましたが、姉が行っていたから、僕もそこへ。当時も幼稚園というのは2年あったけれど、僕は1年だけ通いました。
今の乗出しをまっすぐ南へ下がって、東の角。下がると坂でね、その西にある沈下橋の前に忠霊塔があって、その隣が柳原幼稚園でした。戦後は競輪の選手の宿舎になったと聞きました。
家は商売しているから、母は忙しい。まったく子やらい(最終頁*2参照)はしないで、女中さんとかいましたよ。だからってことじゃないけれど、僕はね、よく幼稚園をさぼりました。もう、そのころから、みなと一緒に授業受けるとか、遊戯するとか、そういうのがまったく嫌でね。
途中の山内神社のところへね、エビ玉や箱瓶(最終頁*3参照)を隠しといて、それでね、幼稚園行くと言って行かずに、日がな一日鏡川で魚獲ったり、エビ獲ったりして、それで帰ってきよったね。そんな家庭に育ったから、まぁ、なんともだらしのない少年だったわけです。
幼稚園の頃から自転車に乗ったりもしていました。おやじはオートバイに乗っていたしね。家のすぐ近所にデパートもあったんです。野村デパート。中央食堂へ上がるエレベーターがあって、僕は、その食堂へ行くのが楽しみでした。
今でいうハンバーグステーキね。あれを、僕ら子どもの頃はミンチボールって言っていました。ミンチ肉をボール状にしてね。僕は、お子様ランチなんて、あまり食わなかったな。ちゃんと大人の食べる洋食、例えば、ビフカツとか、あんなのが好きだったね。外でよく食べたものです。
当時にすれば、実にハイカラな生活ぶりです。その気持ちをね、いまだに僕は失ってないつもりです。別に田舎の子を差別するわけではないですよ。けれど、おれは街でハイカラにやっていこうと。それは、子どものときも今もいっしょです。だから、現在、こういう洋酒バーを家業にしているのも、そういうハイカラ趣味がそうさせたのかもしれませんね。
ぼん、高知女子師範の附属小学校に通う
小学校は、高知県女子師範学校の附属小学校に通いました。昔はね、先生を養成する師範学校というのがあったんです。今の高知大学の教育学部ね。当時の師範学校は男子と女子は別で、男子は今の附属小・中学校のある小津町に、女子は潮江にありました。女子師範は、第二高等女学校と附属小学校を併設していて、小学校から女学校、女子師範と教育を一括する学校だったんです。今は、潮江中学校になっています。
本来の校区は第三小学校、後の追手前小学校だったから、僕ら、ごく一部の子どもだけが、新京橋から潮江橋を渡って通学したわけです。今、帯屋町に大西時計店がありますよね。当時の大西は、東店と西店という兄弟の店でした。今残っているのは、西店のほうです。そこの息子たちと一緒に通ったものです。
近所のガキ友達はみな第三小学校だったし、女子師範なんて小学校の名前に女子が付くのも嫌だったなぁ。「お前はねぇ、ばかぼんで、えいし(良い衆の意味 最終頁※4参照)の子やったから、ほんで附属へ行ったんだ」と言われたものです。
学校から帰れば新京橋界隈のガキとも遊ぶけど、僕は遊びも飽きっぽいんで、もう馬鹿らしくなったら、一人で家へ帰って好きな本読んだりしてました。だんだんと遠く感じるようにもなってね。そうして自然と一人で遊ぶことが多くなっていったかなぁ。環境も大きかったですね。
附属小学校は、一学年に男子25人、女子が28人の、本当に少人数の学校でした。男女共学は1年・2年まででね。3年からは男子組、女子組と分かれて授業を受けたもんです。決められた制服がありましてね、制服、制帽、帽章で通いました。
ここには、いろんな地域から子どもたちが来ていましたから、いろんな友達に出会いました。いわゆる、えいしの子ばっかりで、国家公務員とか学校の先生の娘や息子とか、そういった感じでした。
その頃、今の高知大学の前身の旧制高知高校というのがあって、そこのドイツ語の教授であった米原先生の息子が、同じ組にいたんです。米原君と僕は仲が良くて、いろんな思い出がありますね。
附小はね、やはり模範学校ですから、子どもの遊びで、これはやっちゃいけないというのがいくつかあったわけですよ。普通メンコといいますが、高知ではパンという、ボール紙のカードをパンパンたたいてけ落とす遊びよね。あれはだめ。ビー玉がだめ、コマ回しもだめというように、子どもが好きな遊びは、ほとんど学校ではできませんでした。
あとね、日月いう、けん玉。あれは、学校でやりましたよ。基本的には、けん玉を持っていくのも、禁止されていましてね。それをカバンの隅っこに入れて、昼休みなんかに米原君とよくやっていましたねぇ。
米原君の家は旧制高知高校の官舎で、小津町にありました。新京橋からそこまで歩いて遊びに行きました。その当時の高校生が盛んにやっていたのはラグビー、相撲とボート。それから、テニスもよくやっていましたね。なかなかハイカラでしたよ。僕らはテニスのボールをね、よくかっぱらいに行きました。
子どもの僕らが野球をするのにぼっちり(最終頁※5参照)でね。今も小津町には官舎がありますよ、附属小学校・中学校の北にね。
『へなちょこ』ぼんの中学受験
僕らの中学受験は、昭和20年の春、終戦の直前でした。僕ら男子は、城東、海南か、市商へ行くものが多かったね。25人のうち、一番できるやつは城東中学校、今の追手前高校です。それから軍人の息子たちは海南中学へ行く。今の小津高校ですね。商売人の息子は、市商、高知商業ね。
それから、器用な子は高知工業。女子は第一高女。これは丸の内高校ですよ、今の。それから私立の土佐高女、今の土佐女子ですね。ほとんどがそこへ行きましたね。
僕はね、叔父が海南へ行っていたこともあり、ぜひ海南を受けたいと思っていました。将来、軍人になるという気持ちはまったくなかったけれど、海南が男らしくていいと言ったら、叔父が「おい、あっきん。君は海南、無理や」と言う。なんで無理かと問うと、そこは軍人学校でね、教練がきついぞと。おまえのへなちょこやったら、それこそ付いていけんぞ、言うて脅されてね。
じゃ、教練の一番やさしい中学校はどこかと問うと、叔父はしばらく考えて「それは土佐中くらいのもんやな」って答えたんです。土佐中は僕が通っていた附属小学校のすぐ東やから、よく見かけたし、じゃ、土佐中を受けようかとなりました。
この叔父は、母の一番下の弟で、山本幸雄(ゆきお)といいます。昭和2年生まれでしたから、僕とは5歳しか違わない。僕の一番の遊び相手で、子どものころから「叔父さん」なんて呼んだことはない。「幸雄さん、幸雄さん」と呼んで、兄弟のように育ちました。高知新聞に長く勤めて、80歳で亡くなりました。
結局のところ、土佐中学校を受験し、なんとか滑り込みましたよ。僕たちの小学校の秀才二人は、学校推薦で入ったんですけどね。昔は、そんなこともあったんです。その同級生二人はね、土佐中、土佐高と出て、東大へ行きました。やっぱり頭のいい子は違うなぁと思いました。
僕らは推薦組じゃなくて、土佐中学校を勝手に受けたんです。そうして、終戦直前の土佐中に入ったんです。
高知市大空襲で、すべて焼けて
土佐中学校に入学した年の7月4日に高知市は大空襲にあいました。高知駅からはりまや橋、桟橋まで、また、上町までの電車通り沿いはことごとく焼け野原になって、全部見通せました。住まいも店も、学校も全焼しました。
夜が明け始めたころ、空襲が始まりました。夏の夜明けですからね、4時か、5時頃。父母は新京橋にいましたが、僕はじいさんのいわゆる寓居というか、土佐中のすぐ近所にある別宅にいました。
じいさん、ばあさんと一緒に逃げたわけだけど、じいさんというのがへそ曲がりで、絶対に防空壕に入らない。僕は、いったん、ばあさんと防空壕の中に避難したんです。出たときには、じいさんは大やけどしていて、子ども心にも『これは、いかんな』と思いました。
しかし、それを介抱する手立てもなく、そのまま置いて、高見の方へ逃げるしかありませんでした。どんどん焼夷弾が落ちてくるからね。高見まで行くと、空襲はまったくありませんでした。ほんの2ブロック、その差でしたね。
帰ってみると別宅は全焼。仕方なく与力町に住んでいる叔父を訪ねましたが、そこもまる焼けでした。その叔父と僕と姉と、あと2人の親戚の子を連れて、その5人で、その日のうちに波介村、今の土佐市にある母静の生家まで歩いて行きました。
親父やお袋がどうなっているか、わからんままね。じいさんも心配でした。親父がオートバイで探し回って、なんとか見つけたものの、じいさんはもう大やけどで、結局、その日のうちに病院で亡くなったって。これは後から聞いたことです。
大嶋校長のもと、土佐中学校の再建
7月4日の高知市空襲で、住まいだけでなく土佐中の校舎も焼けました。木造でしたから、ほぼ全焼です。4月に入学して、学徒動員で6月に麦刈りに行って、その後すぐ焼けてしまったものですから、たいへんでしたわ。しかし、その当時の大嶋光次校長というのは、これはすごい方やったね。
もともと土佐中学校は、宇田、川崎という両財閥が私財を投じて創った学校です。幕末から明治にかけて、高知県は龍馬をはじめ、谷干城らいろんな素晴らしい秀才を輩出してきました。そういう傑出した人物を育てる、英才教育に特に力を入れるということで、宇田家と川崎家がお金を出して創った学校なんですよ。
ところが、敗戦になり財閥が解体されて、もう川崎家、宇田家からはお金が出なくなりました。大嶋校長は、当時の進駐軍、GHQね、これは県庁にあったんですが、そこへ行って、高知県の総司令官と面会し、土佐中学校の再建への支援を願い出たんです。
旧校舎、後方に女子師範も見える →
当時、浦戸の航空隊というのがありました。それから、今の高知龍馬空港、あれは、当時、海軍の飛行場だったんです。それらをアメリカ軍が占領し管理していました。その瓦、材木でよければ、大嶋さん、君にあげる。ただし、それを持ち運び、建てるのは学校でやってくれ、となりました。
その作業に僕たち生徒も動員されたんです。あの当時は4年生が最上級でしたが、みなね、農人町から大きい木造の船に乗って、日章まで取りに行ったんです。太平洋に出て、そうして瓦や木材を運んで、農人町へ荷揚げして、農人町からはトラックへ移しかえて。そうやって土佐中まで運んだものです。
それを僕らは、3年ほどやらされた。自分たちで棟材、瓦運びをやって、バラック校舎を建てたわけです。大嶋校長のもとでね。
当時の『悪りことし』中学生
土佐中学校は、僕たちから1年あとの27回生までは男子校でしたが、28回生からは男女共学になり、女子も入るようになりました。いろんな人に入ってもらって、入学金も取り、授業料も上げたんです。それまでの僕らの授業料は非常に安かったですよ。
というのは、宇田・川崎の財閥が運営していたからね。お金のない頭のいい子を寮へ入れて面倒をみていました。学費だけでなく、寮生活させて食べさせ、すべてをみたんですよね。そういうよき時代でした。僕ら、悪りことしは別で、ちゃんと授業料を払ってましたけどね。
中学生の悪りことしというのはね、まず不良の真似をするんです。不良はなにをしているかというと、詰襟のボタンを外して、帽子をちょっと斜めにかぶる。それからタバコを吸うんです。これが不良のしぐさです。それにみな憧れていました。これは、アメリカ映画の影響も大きいね。アメリカ人が、うまそうにタバコを吸うんですよ。
高知へもアメリカやイギリス、オーストラリアから進駐軍が来てたでしょう。そこから親父がタバコを買ってくるわけですよ。キャメルなんかね。その親父が買ってくるタバコをよく盗み取りして、僕は中学3年から吸ってたんです。まさに不良だね。だけど、秀才面してタバコ吸うのも、結構いましたよ。僕は、勉強せん、ぼんくらだったけれども、真似だけは一応やった。
後は女学生とね、ほとんどが土佐女子だったけれども、一緒に鏡川でボートに乗ったりしてね。今でいうデートです。うん、楽しかったですよ。土佐女子の女の子なんか、これも不良ですよ。まじめな生徒は来ないからね。
美味しいお汁粉屋があるとか、あそこのあんみつがうまいとか言って、よくその女の子たちと食べに行ったものですよ。僕も甘いものが好きだったから。不良っていっても、かわいいもんです。懐かしい思い出です。
あの頃の懐かしい映画の数々
母方の祖父がすぐ近所で映画館をやってたせいで、幼少時から映画は僕の生活の一部でした。まずは、鳳館のチャンバラ映画ね。僕の好きな俳優は、雲井龍之介とか、大乗寺八郎だったね。紅トカゲといって、覆面して、白地に紅のトカゲの柄の着物を着て、それでチャンバラする。その真似をしたもんや。それが僕の日課だったよ。
戦前は映画を活動写真といってました。おもに大都映画で、日活なんかもチャンバラ映画が主体だったなぁ。あと、松竹、東宝の現代ものがありましたね。いわゆる新派です。
昭和13年、映画を観に初めて叔母と行きました。それが『愛染かつら』で、僕にはちっとも面白くない。もう金輪際、新派の映画は観ないぞと思ったね。当時は、『旅の夜風』という主題歌と、上原謙と田中絹代が演じた津村浩三、高石かつ枝の恋物語が大評判だったけど、僕はまだ小学校へ上がる前。子どもが観たって面白くないわね。
でも、映画館へあんなに行列して入ったのは、初めてでした。それが、今の高知大丸のところにあった世界館という松竹の封切館だった。僕は、それまで、ほら、チャンバラばっかり観ているでしょう。上原謙や佐分利信は、後で知るんですけど、そんな現代ものなんか面白くないわけよ
。
けど、その当時、桑野通子という女優さんがいてね。子ども心にね、素晴らしくきれいな女優さんやなぁって思ったんです。この人は、東京のダンスホールでダンサーやってて、そこで映画界の方にスカウトされたと言われていました。非常にモダーンで、いわゆるスーツ、帽子の似合う女優さんでしたね。
そのあとが、高峰三枝子とか小暮美千代とか、あのクラスです。その時代になると、みなさん、よく知っていますよね。
戦後になると、外国映画もよく観るようになるんですが、子どもの頃からずっと、僕はこんなふうに映画三昧の生活でした。
初めて上京、そこで見たのは・・
昭和26年に、僕は初めて東京へ出ました。土佐高校(最終頁※6参照)は私学だから、公立より早く卒業式があって、大学受験するからと2月に東京へね。けど、僕は全然勉強してなくて、受かるわけないんですよ。友人はみな、東大とか京大とか、私立では慶応や早稲田とかに行きましたけど、僕はそんなの通るわけはない。親には受験すると嘘をついて、東京へ遊びに行ったんです
。
僕はやはり日本人ですから、上京してまずしたことは、皇居遥拝でした。東京へ着いた翌日、皇居へ行って、二重橋の前で最敬礼しましたよ。その帰り道、日比谷公園のほうで、人がバタバタと走っている。なんのこっちゃと思って、追っかけていくと、「マッカーサーが出てくるぞ」と言う。
極東軍最高司令官ジェネラル・ダグラス・マッカーサー。天皇陛下よりも偉かった人ですよ、当時は。僕も走って見に行きましたよ。
ちょうど昼ご飯の時間帯、GHQ、今の第一生命ホールのところでした。昼は家族と一緒にランチをとるので、車で出てくるわけです。家族はアメリカ大使館に住んでいましたからね。今の第一生命ビルを見てもわかるように、柱がそびえ立ち、石段もかなり高い。その両脇でGIが捧げ銃をしてね、そこにマッカーサーが出てくるんです。
マッカーサーは朝鮮動乱で北爆をやると言って、トルーマンと喧嘩して、首になる。ちょうど、その時期なんですよ。その証拠には、それからすぐ後の3月か4月に、彼は解任されて、アメリカへ帰るわけです。
そのマッカーサーが出てくるって、ものすごい人でした。僕はすばやかったから、一番前へ行ってね、手持ちのカメラでマッカーサーの写真を撮りました。初めての東京見物の第一の収穫は、このことでしたね。
もう一つの収穫は、お堀端に今もある帝国劇場で観た『もるがんお雪』です。帝国劇場は、今は改装されてくだらん建物になっていますけど、昔の帝国劇場は立派だったですよ。
『モルガンお雪』は、アメリカ人のJ・P・モルガン、いわゆる銀行家の金持ちと日本の芸者との恋物語を菊田一夫が脚色、演出したものでした。僕はそのころ、菊田一夫は知らなかった。でも、モルガンを演じたのが古川ロッパ、お雪さんが宝塚を退団したばかりの越路吹雪で、それは楽しかったですよ。
僕、ほやほやの高卒の18歳でしょう。入場券は結構高かったと思うけど、そこで『モルガンお雪』を観て、わぁ、東京やなぁと思いました。
次に有楽町へ行くと、日劇ミュージックホールというのがありました。日本劇場という、円形のホールの中にね。映画とレビューを交互にやっていて、ものすごくいいダンサーがいました。
ちょっと外人ばりの、手足の長い、日本人離れしたダンサー。それで、僕も、今度は一生懸命ダンスを練習しようなんて思いましたよ。
高知へ帰ると、お袋が「どうだった」って訊くから、「いやー、受からんかった」って。受からんわけよ、受験してないんやから。それだけね、ひどい息子だったんです。お袋は、随分悲しくて、頼りなく思っただろうねぇ。
学生時代はダンスとバイトに明け暮れて
この後、東京の予備校へ行くからと嘘をついて、また、東京へ出ました。駿河台予備校と言う有名な予備校。今でもあると思います。行く言うて、行かずに、また、遊んでいたわけ。昭和26年から27年にかけてです。
でも、そのあくる年に、今度はちゃんと明治大学を受験しました。受けに行っただけじゃなくて、明治大学商学部へ入学したんです。早稲田へ行きたかったけど、早稲田、慶応はお金がたくさん要るから。明治も学費は要ったけどね。
それが不思議なことに、受験の半年くらい前に、明大の春日井教授・・だったかな、その先生と電車の中で偶然、向かい合わせになってね。「君は今、どうしているか」って訊かれて、「僕は今、高校出て浪人中です」と答えたんです。そしたらね、「今度、うちの明治へ来たまえ、そして、僕のゼミを受けたまえ」って。
僕は、教授がそう言ってくれたら、もう無試験で入れるもんとばっかり思って、世田谷のその教授宅を訪ねたんです。すると、「バカ言っちゃいけないよ。ちゃんと受験してもらわなくては困る。合格したら、僕のゼミを受けに来なさい」と言われました。
それで、なんとか滑り込んで、『よし、春日井教授のゼミ受けるぞ』と。だけど、ゼミに入るには試験があったんですよ。20人くらいしか採らないから、試験するんです。受かるわけないわ。そりゃ、難しかった。
春日井教授は、経済学の先生。いわゆる近代経済です。教授のゼミを受けた者は、その当時の一流銀行、第一銀行とか三井、三菱銀行とか、野村證券とかへ採用になるというわけよ。俺なんかが通るわけない。ゼミの試験で入れんのだから。やはり、大学はすごいなぁと思ったね。
それで、僕の学生生活は、麻雀と玉突き、それと音楽で始まりました。レコード喫茶というのがあってね。ジャズ、タンゴ、シャンソン。もう、いろんなところへ行きましたね。楽しかった。明治大の先輩にハイカラな遊び人がいて、レストランとか洋酒バーとか、それからダンスホールにも連れて行ってもらって、不良を仕込まれたわけ。まぁ、素質もあったんだけどね。
そのかわりアルバイトもしましたよ、キャバレーでね。その当時、銀座のキャバレーは、昼間はダンスホールになっていました。だから、昼はダンスを覚えて、夜はキャバレーでウェイターのバイトをやったりしました。
そのうちに、バーテンダーの空きができたんです。ある先輩がとんずらしていなくなってね。「お前、まぁちょっとやってみろ」となって、それで、バーへ配属され、そこでまねごとを覚えました。
今思い起こすと、銀座に『機関車』というバーがあって、そこへ先輩が連れて行ってくれたんです。そこで生まれて初めてカクテルを飲みました。後から知ったことだけれど、その時のバーテンダーが鈴木雋三(しゅんぞう)という、後の日本バーテンダー協会の会長になった人です。僕のお袋と同じ明治43年生まれのバーテンダーでね、もちろん故人になっています。有名な『クール』の古川緑郎(ふるかわろくろう)とかね、名だたるバーテンダーが活躍していた頃の銀座。『機関車』も、あの時代を代表する銀座のバーの一つでしたね。
ちょうど朝鮮動乱のあとで、所得倍増の時代が始まろうとしていた頃ですよ。景気はずっと右上がりで、キャバレーにみなよく来ました。有名人も悪も、金持ちもね。僕はバイトをしながら、なんとか食いつないでいました。昼間はダンスホールに行って、夜はキャバレーで働いてという、そういう生活を続けて、ダンスの腕は上がりました。
母の商才で喫茶店『ユリヤ』開業
家業の方はというと、戦後も写真屋を続けていましたよ。進駐軍のヤンキーがフィルムを欲しがって、物々交換が始まったんです。ヤンキーも金がないものだから、タバコ1カートンをおやじのとこに持ってきて、それと撮影用のフィルムを交換するんです。
ちょうど中学生の生意気盛りの頃でね、僕も下手な英語を使ってやってみましたよ。ところが、全然通じないんよね。テン、ツエンティと言うと、テンはテンですけど、20をツエンティとヤンキーは言わない。トニー、トニー言うんよね。俺、なんでトニーって言うんやろうと不思議でね。20円だから「ツエンティ円」って言うと、「テン、トニー?」って訊いてくるわけですよ。そんな思い出がありますね。
進駐軍からもらったものは、タバコだけじゃなかったんです。オーストラリア人なんかは、バターとかチーズを持って来ていました。これも田舎の子は知らんわけで、「おまえ、チーズ食ったことあるか」って言うと、「いやー、ない」。それで、俺がチーズの缶詰を渡してやると、なんか旨いような、不味いような顔して食ってましたよ。
そんなわけで、我が家には、コーヒーの缶詰、MJBとかヒルス&ブロス、それにハーシのチョコレートとかまでが山のようにありました。すべてフィルム欲しさに進駐軍が持ってきたものだったんです。その一方で、日本人はまだカメラとか、写真を写すとかいう余裕がなかった時代で、家業の写真屋はじり貧になるばかりでした。
そんな中、うちのお袋は商才に長けてたものだから、『よし、これで喫茶店やろう』となったんです。それが『ユリヤ喫茶店』の始まりで、まずは上町4丁目に立ち上げました。昭和22年だったかな。これは大当たりでした。
昔の新京橋大西時計店辺り →
その後、焼けた新京橋の店の辺り一帯を中央公園にすることになり、代替地として帯屋町をくれたんです。今は『池田洋装店』と紳士服の『原』になっています。2店とも大きな店舗ですよね。2ヶ所に分かれたのをもらったけれど、どうしようか。喫茶店をするには帯屋町は向かんだろうと考えているとき、柳町の角っこに売地が出たんです。だから、帯屋町の替地を売って、そこを買い、喫茶店を上町から移して、そこで新たに始めました。
それが、昭和31年だった。『ユリヤ』では、親父がコーヒーを焙煎して、お袋がパンケーキ焼いたり、おぜんざいつくったりね。夏は氷が評判でしたよ。クリームぜんざいとか、ピーチアイスクリーム。当時はまだまだ珍しかったからね。お袋も親父もハイカラ好きだったから。まぁ、今考えたら、特にお袋はえらかったと思うね。
(下巻に続く)
<参 照>
※1 新京橋:
新京橋は現在の高知大丸前に架かっていた橋で、この橋のすぐ西に当時の高知を代表する繁華街の一つである新京橋通りがありました。鈴木時計店と鈴木写真館は軒を連ねて通りの南側にあり、堀詰電停前だった鈴木さんの母方祖父の映画館鳳館も、すぐ近所でした。当時はみな、堀詰で電車を降り、新京橋、京町と歩き、映画を観たり買い物をして、はりまや橋からまた電車に乗って帰ったそうです。
※2 子やらい:子どもの養育の意
※3 エビ玉や箱瓶:
エビ玉は直径約12pで柄の長さ約20pの小さな玉網。箱瓶は底にガラス板を嵌め込んだ木製の箱型のもので、蓋はなく、これを水中眼鏡のように使って川底を見ながら魚を獲った。
※4 えいし:良い衆の意。土佐弁では、「良い」を「えー」「えい」と言う。
※5 ぼっちり:土佐弁で、ちょうど・過不足がないの意。
※6 土佐高校:
鈴木さんが入学した土佐中学校は、昭和22年4月1日に新制中学校を併設、昭和23年4月1日には新制高校に昇格し、校名を土佐高等学校、土佐中学校と改めた。
posted by ききがきすと at 22:16
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家族にささげた青春時代
私は昭和12年11月11日、中国で生まれました。戦争が終わって5歳の時、福岡県へ引き揚げてきましたが、生活は苦しく厳しい時代でした。父は引き揚げ後、三池炭鉱に就職して社宅住まいでした。当時は姉、弟、妹の4人兄弟でしたが、その後4人増えて8人兄弟になりました。
私は生活のために、社宅内をリヤカーで貝を売りに回りました。中学校の修学旅行は旅費が出せず、行けなくて辛い思いをしましたが、仕方ありません。
高校に入ってからは大学へ行きたいという思いがありましたが、家庭が苦しいものだから、高校にすら行くこともむずかしかったんです。そのために、まず姉が中学を卒業した後、岐阜の大垣というところへ、紡績工場の女工として集団就職をしました。その時のお別れの会で、姉の涙が今でも忘れられません。姉のおかげで、私は高校に行けるようになりました。
後に姉は亡くなりましたが、ある社長さんに見染められて、2号さんみたいな生活をしていました。その後、そこを辞めて、お金をいただいて帰ってきました。それで土地と家を買ったので、実家のほうは生活ができるようになったのです。だから兄弟に、姉のことだけは忘れてはいけないよ、と言うのです。
親友のとの想い出
中学からの同級生で、山崎という親友がいました。お父さんは事故で亡くなり、お母さんは三池炭鉱の選炭婦として働いていて、彼の家もまた貧しくて大学へは行くことはできません。
成績が良くトップクラスだった私は、大学を目指したかったのですが、兄弟が多く貧しくて、いくことはできません。そこで山崎と一緒に大学の受験だけして、もし合格してもいかない・・・という条件で受験しました。二人とも見事に大学に合格しました。しかし、その満足感を残したままで、就職をしました。
当時は就職難で、私は就職試験の筆記試験では受かるけど、面接で何度も落ちました。先生から、面接でなにを聞かれて、何と返事しているのかと問われました。自衛隊は憲法違反かどうかという質問に、私は憲法違反だと答えていたのでした。それで、試験を3社も受けて、みな落ちてしまい、なかなか次の会社を受けられなくて、待機をしていました。
その時、八幡製鉄所を志望の友人が別の会社に合格したので、私が替え玉で、八幡製作所を受験して合格しました。その時の面接では、先生のアドバイスを受け、自衛隊の憲法違反のことは言いませんでした。これで、もし落ちたら、三池炭鉱に入る予定にしていました。
親友の山崎は三池炭鉱に就職しましたが、後に塵爆発事故がありまして約460名の犠牲者が出てしまい、彼もその中にいたのです。私がもし山崎と一緒に、三池炭鉱へ就職していたら、爆発事故に遭って、あの中にいたのか・・・と思いました。
学歴の差を感じた職場
北九州の八幡製鉄へ入社してからは、職場や待遇の面で、学歴の差を肌で感じて愕然としました。それで、九州工業大学の夜学を受験し、通い始めました。ところが、入社した後の学歴は認めない、というのです。後1年で卒業というときに、2部制大学(夜間5年)の設立を知り受験しましたが、落ちてしまい、夢は途絶えてしまいした。
その後、その悔しさを胸に抱え、聴講生の資格で2年間授業を受けました。それが22歳の時です。
当時は仕送りをしながら、会社の独身寮へ入っていました。しかし親が「中2の弟の面倒をみてくれ」といってきましたので、寮を出ていかなくてはならなくなり、アパートを探し移りました。そのうちに、弟1人では寂しいだろうと、妹まで来たんですよ。やがて弟が高校進学のころになり、進学相談にも保護者として、若い私が行きました。
妹が中学卒業後、住込みの店員をしながら夜学に通っていた時に、勉強が分からないので教えてと、手紙がきていました。それで、添削して返してあげる、通信教育が始まりました。そこ頃、私は仕事をしながら、大学の夜学へ通っていましたので、自分の勉強もしたかったのですが、妹の方を優先しました。睡眠時間も少なくて、過労状態でした。
反対されゼロからの結婚生活
実家への仕送りや兄弟の面倒をみながらの生活で、私も苦しかったんですよ。そんなとき、同じ会社の事務の女性の方と、通勤の電車で会う機会が増えるようになり、お互いの身の回りの事情を話すようになりました。私の仕送りだけでは足りないので、結婚したら女房の分がそっくり送れる、という気持ちもありました。
でもそういう条件では、プロポーズもできないと思っていたら、そのことを理解してくれて応援する、というので結婚することにしたんです。
それで、彼女を親に紹介するため実家に行きました。兄弟たちも集まりましたが、冷ややかな目で見て、唖然としていました。皆は、私を将来の大黒柱と思っていたんですね。私が24歳、女房は29歳。そういう年齢差もあって、反対されました。
その後、父親が会社の人事部長に、「この結婚は認めない、別れさせてくれ」と手紙を書いたんです。でも、周りが反対すると、ますます気持ちを通したくなりました、私の意志は固く、式を挙げる日のお知らせだけをして、二人だけの結婚式を実家に伝えました。
そうしましたら、両方の親がきてくれまして、もうびっくりしましたね。慌てて仲人さんもたてて、二日後に、私達と両親8人で式を挙げました。
結婚後は共稼ぎで、嫁さんの給料は全額を仕送りしました。大きいアパートに移りましたが、12月に越して、3ケ月後の風の強い日に、お隣から出火し全焼しました。その時、私も必死に消火活動をしましたが、消防車は私の家は消さないで、延焼しないようにと周りを消すんです。
私は妻の貴重品などを取りに、煙の中へ入って行ったんですね。そしたら、後ろでグイッとひっぱるので見たら、女房が「止めておきなさい」と言うんです。そのおかげで命が助かりました。入っていたら焼死ですものね。
3日後に夫婦共に出勤するようになりましたが、みな焼けてしまい何もないです。会社から社宅を借り、資金カンパを受け、服などもみなに貸してもらいました。そういうことで、新婚生活ということは勿論なく、本当にゼロからのスタートでしたね。
再三、実家より仕送りの催促
でも、実家の方は気になっていました。反対を押し切って結婚したものですから、嫁さんにぞっこんで家のことを忘れたのでは、と思われたくありませんでした。自分の物を揃える必要もあるけど、仕送りは続けていました。生活が大変で、途中で仕送りが途絶えたこともありました。
すると、親父が田舎から出てきて「何とか、もう少し仕送りできないか」と言うので、「できないと」答えました。「貯金通帳を見せて」と言われ、見せたら、残額がないのを見て納得し、帰って行きました。
なぜ苦しい生活の中でも、家族に送金していたのかというと、父親が仕事をしないからです。そのうえに、子供たちが食事をしていても、台をひっくりかえしたり、物を投げつけたりと、家庭内暴力で家の中はめちゃめちゃでした。
死のうとまで思ったけれども、子供たちがいるので生きていかなくてはいけない、という母親の耐えてきた姿を、ずっとみてきました。
だから、自分は無理してでも、母親を助けなくてはいけない。母にはどんなことでもしてあげよう、それが私の役割だ、という気持ちが、固まり強くなってしまったのです。自分のこれからの人生や、将来のことなどを考えることすらできませんでした。
父親は以前、警察勤務をしていた恩給が入っていたので、それで生活ができると思っていたのですね。引き揚げ後は三池炭鉱に勤めましたが、辞めたりして長続きしない。でも子供がたくさんいるから大変ですよ。
それで、父親を和歌山の椿温泉に、母親は芦屋でお手伝いさんと、仕事の世話をしました。でも、二人とも長続きしなくて、半年間で家に戻りましたので、また、できる範囲で送金していました。
実家の家族全員で入信
時々帰省する時がありましたが、あるとき、両親や兄弟は創価学会に入っているのが分かりました。その活動の一つとして、寄付をしていたのです。それも情熱を持って・・・。苦労して出したお金がそちらに回っているのかなと思って、支援を止めました。後に女房から聞いた話ですが、女房は生活費が足りないと実家へ行って、お金を借りていたとのことでした。
実家に帰るたびに、入会を進められましたので、もう行かなくなりました。私以外の兄弟は、全員入りました。私だけ入らなかったので、兄弟たちから非難されました。
両親が亡くなり、遺産相続の問題になりました。貧乏をしていて財産は無いけれども、家と土地を兄弟で等分しようと提案したのですが、納得してくれなかったのです。それは、私だけ学会に入っていなかったからですね。そこで、裁判にかけることになったのですが、そんな価値はないんですよ。
調停まで行っても結論がでなくて、裁判の時間も費用もかかるので止めました。そんなことがあり、その後、兄弟との縁を切ったのです。こんなひどい関係になるのかな・・・と、情けなくなりました。子供のころは面倒をみたのに、兄弟から感謝の気持ちや、恩義はあってもしかるべきだと思いましたがね。
新たな人生の始まりは囲碁
大阪勤務を経て、私が45歳のときに東京へ転勤になりました。そこで、囲碁のプロ級の腕前の三井物産の「木村さん」に出会い、囲碁を教えてもらいました。そのことが、人生の分岐点となり、私を救ってくれました。そして、その後のボランティア活動が、私を浄化してくれたのです。
やがて東京の本社も定年になり、いろいろな会社に出向となりました。ある会社で、お客様からのクレームがなくならないのは、ちゃんと品質管理をやっていないからだから、やらないといけない、ということを社長に言ったら、クビになってしまいました。58歳のときでした。
私は、ゆくゆく60歳からどのような人生を描いていこうか、と考えていました。その時に、東京都が主催する「シニアボランティアスクール」というがありまして、どのようなやり方や、どういう活動のエリアがあるのかを勉強し、ボランティアの体験を2年くらいやりました。いよいよ60歳になったので、その時がきた、という感じでした。
江東区で「ボランティア連絡会」が発足した年で、興味を持った人が40人くらいいました。やりたいことに賛同する人で、それぞれグループを作るんですね。そこで私は、子供たちに囲碁を教えることを提案しましたら、4名が賛同してくれました。2000年の「ホタルの碁」の誕生です。蛍が飛んでいってそこに灯りをともす、という意味です。
最初はボランティアセンターに部屋を借り、囲碁の会場を作って、案内を出しました。はじめのうちは来たんですけど、だんだん減っていくんですね。ここに来なさい、教えますよ、ということではなく、そういうニーズのあるところに行かなくては、と近隣の小学校や幼稚園、児童館に教えに行くようになりました。
江東区には、子供への普及を熱心にやっている加藤雅夫名誉9段が創設した、「江東区子供囲碁大会」があり、10年経って、もっと発展させようと活動しています。
それとは別に、江東区全体での「学校対抗囲碁大会」をやって欲しいのですよ。なぜなら、地域の人が学校に教えに行き、子供とのつながりを持てば、お年寄りが教えてくれることに喜びを感じ、より勉強するので良いことですね。
そういう提案を区長や関連部門に働きかけるけど、なかなか実現は難しいですね。そのようにして「囲碁の町・江東」を夢見ているんです。
60歳になり、失業保険をもらいにハローワークに行って、就職する気はなかったのですが、働く意欲を示さないといけないので、求人を申し込みました。「電検3種」の資格をもっていたので、仕事に就くことになり、76歳まで仕事とボランティアの両立で忙しくて、ストレスがたまっていました。
女房から「そんなに忙しいのならボランティアを辞めなさい」と言われました。しかし、ボランティアがあるから仕事ができていたのです。
囲碁でいきいきの子供たち
私は、幼稚園児に教えている時が一番情熱的になる時ですね。やり始めて、今年で7年目、60名の園児を8名の仲間で教えています。なにも知らないところに、ひとつひとつ入っていって覚えて行く。小学生より感受性が強いですね。
囲碁は難しいですけど、教え方は2通りあるんですよ。やさしいやり方は囲って取る方法で、難しい方は陣地を広げて行く方法です。やさしいやり方だけでいいのでは、という意見もありますが、囲碁の本当の事を理解してもらいたいので、私は両方のやり方を教えています。
よく理解していない子も、いざ対局になるといきいきしてきて、すごく盛り上がります。負けて泣き出す子もいますが、その時は皆の前で、悔しい気持ちを持つのは大事だよと誉めてあげると、その子は強くなりますね。
小学校では月に1回、学校が土曜日休みの時「ウイークエンドスクール」といって地域に開放して、子供たちに何かを教えるという制度があるんです。たとえば、料理、踊り、太鼓、サッカー等があります。そこで囲碁を2時間10回コースで教えています。
もう一つは「ゲンキッズ(元気な子供の意味)」といって、働いているお母さんが帰ってくるまでの放課後に教えています。子供たちに宿題を出し、成績、感想、出席などで総合評価を出して、級を決め認定書を渡すと、とても喜んでくれます。
何年も来ている子は物足りなくなりますが、それが狙いです。次の興味に向いて、いろんなことに挑んでもらいたいです。将来、大人になって囲碁をやりたくなったら、また、その時にやれば良いでしょう。いろんな事を体験させることが大事なのです。そして、日本を背負う子供たちが礼節を重んじ、生きる力を育むことができるようになることです。
オリンピック・パラリンピックに向けて
オリンピック・パラリンピックの時は、海外からスポーツも見たいが、日本の伝統文化を知りたい人達も来ます。だから、江東区に日本の伝統文化を紹介するコーナーを設け、そこに囲碁板を置いて教えたいと思っています。夢で終わるかもしれませんが、いま、それを働きかけています。
でも、いくらそう働きかけても、私が外国人に英語で話ができないと、何の意味もないわけですよ。まずは自分だということで、会話の勉強を始めました。もし、このことが実現しなくても、4年先には英語が話せるようになったら、私なりの収穫ですね。私の生きがいの囲碁の普及、指導のために見据えています。
生かされた命を大切に
振り返ってみると、これまで何度も死に遭遇する事件がありました。
電線に触れ、感電し、池では溺れ、火事で煙の中に入って行こうとして妻が止めてくれました。親友の山崎と三池炭鉱で働いていたら、爆発の事故にあっていたかもしれません。それが、私の人生最大のエピソードです。
今生かされている私は、大変運のいい男だと思い、彼の分まで生きなくてはと九州に行ったら、いつも山崎のお墓参りをします。
健康維持のために、水泳やピンポンも励んでいます。今年80歳になりますが、3月25日の「電気の日」には、日本電気協会から、長年電気に携わってきたということで、卒寿功労者表彰を受けます。
長い間、ここまで付いてきてくれた妻にたいしては、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです。5歳年上の妻は長年の苦労がたたり、体調不良が続いています。これから残りの人生を、妻のためにすべてを捧げたいと思います。
あとがき
大町さんは戦後の混乱した貧しい時代、家族のために働き、生活を支え続けてきた青春時代でした。それなのに、家族から報いられることはありませんでした。こんなに寂しく辛いことはないと思います。
しかし、それを理解し協力してこられた奥様と、囲碁との出合いがあったからこそ、苦難を乗り越えられ、今日があるのだと思います。そのような波乱万丈な道のりを、静かにたんたんと語られるお姿に感銘いたしました。
いまは、子供たちに囲碁を教えることを生きがいとし、また、世界の人達にも広めようと、そのために英会話の勉強を始められています。目標をたて努力を惜しまない、大町さんの頑張りを見習いたいと思います。
(ききがき担当 木村景子)
posted by ききがきすと at 18:16
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思い立ったら、ひとり旅
私は旅行が好きなのです。だいたい毎月1回は国内というか近場ですけど、どこかに出かけます。1日ツアーに参加するとか、あるいは「あっ、小田原行きたいなと」思ったら、電車に乗って行く時間を作ります。
そして、年に1回は海外旅行に行くというのを、目標というか、年間のスケジュールとしています。そのために、一所懸命お金を貯めるという感じですかね。
海外は、友達と行くのが多いですが、国内は日程が合わなかったりするので、一人で行くことが多いです。たとえば、友達とメールとか電話で話しても、その日は合わないこともあるし、面倒くさいから、もういいやと思ったりするので。
たまに温泉に行きたいねと、一緒に行くこともありますが、国内だと北海道から沖縄まで、ほとんど1人で行きます。どっちかと言うと、足のむくまま、気のむくままですかね。
初めていくところはガイドブック頼り
大きな都市なんかだと、バス会社がやっている「名所めぐり」などの半日か1日のバスツアーが5000円くらいで出ていたりします。初めて行った町は、それでひと通りわかるじゃないですか。最初に行く町は、謙虚に基本のガイドブックにちゃんと添って、しっかりまわります。次に行った時は、あそこは別にもういいかなとか、今度こういう所に行ってみようかと決めますね。
出張もわりとあります。今度も広島の方に行きますが、その帰り、どこに寄ろうかな、ついでに、あっちこっちへ行こうかなと。せっかく広島まで行くんだから、下関とか九州も近いなと思うと、行っちゃたりします。
うちのNPOの「くうかい」(まち歩き・食べ歩きのサークル)も同じですが、とにかく歩いて、その町を知って、美味しいものを食べます。最初は、その町の名物だと言われるものを食べます。その次は、いろいろ探しますけど。2回目くらいになったら、だいたいの場所が分かるので、その時はもう自分の足で歩きます。
バスや電車の時刻表も自分で調べます。今はスマホで、いくらでも調べられるじゃないですか。ここからここまでは車で何分。で、何分に乗れば着くから、ここに何分いて、帰ってくればいいかなと。出張で行った時は、仕事が終ってからホテルの部屋で、翌日の予定をスマホで調べて行く。そんな感じです。
たとえば、裏通りを歩いて、道に迷ったとするでしょ。地図を見て行ってもおかしいな、変だな、間違えたかなと。それがまた、おもしろいですね。そういうことが、旅の醍醐味というのではないですか。そこの町の人になったみたいです。
海外でロングスティしてみたい
実は、海外も国内と同じように旅がしたいのです。私は、ハワイとニューヨーク、パリは1人でも平気かもです。ハワイは日系人も多いし、日本語も通じたりするから、1人で歩いても全く平気ですね。CDを買いに行ったりね。
危ないところはもちろんあるので、そういうところは事前に調べて、寄らないようにします。ニューヨークは、だいたいどんなところが危ないか、危なくないか分かります。美術館やジャズのライブハウス巡りをしてみましたけど、意外と大丈夫でした。
でも、ロスはちょっと恐くて、できないなと思いました。海外の町でも、できたら、行った時にウロチョロしたいのだけど、場所によってはちょっと不安ですね。
これからは、どこか1か所、パリならパリ、ロンドンならロンドンのリーズナブルなホテルなどに泊まって、その町の人みたいに歩きまわるのをやりたいなと思います。宿泊先はエアビーアンドビーでもいいのですけど、今、流行ってますよね、自分の家の一室を貸すという仕組み。
日本をじっくり、すみずみまで
日本も、九州から北海道まで行きました。友達なんかには「松本さんは、日本で行っていないところはないでしょ」と言われるのですが、そんなことはありませんよ。たとえば、広島県には行ったところがあるけれども、広島市以外のところはほとんど行ったことがないとか。そのような場所や町はいくらでもあります。
私の田舎は宮城県です。仙台は知っているけど、他の町はあまり知らなかったりします。だから、行ったところがないとはいえません。
出張で、例えば、また名古屋か、なんで何回も名古屋ばっかりなんだろうと思うんだけども、この間はあそこで、「ひつまぶし」を食べたから、今度は足をのばして、高山の方まで行っちゃってもいいじゃない、などと考えると、同じ場所の出張でも楽しくなります。
1人旅の寂しさも醍醐味
1人旅は寂しい時もありますよ。でも、寂しいのも旅の醍醐味なのです。寂しくなければ旅ではない。人間というものは、本質的に寂しいものなのです。お友達と、ワーワーいいながら行くのも楽しいでしょうけど、それは別に、旅に行かなくてもできるじゃないですか。名所旧跡を見て、昔の人はこうだったのだなと、1人で考えたりすることが、私の旅なのです。
たとえば、小田原城を見に行って、その時に友達なんかいたら、ただ、すごいわねーと、言って終わりになったりします。少しはこうなのかしら、と考えたりはするけど、それより深くならなかったりするでしょ。でも1人だと、じっくりと考えて、なるほどね、なんて思うこともあるわけです。
たまに、道に迷ったりして、困ったなと思ったりしますけど、日本である限り、日本語通じます。日本人は、親切だし、「道が分からないんですけど」と尋ねると、女の人なんかは一所懸命説明してくれます。
旅先でご飯を1人で食べていて、寂しいなと思ったら、あー、こういう寂しさもありだな、人間とはそうものなんだろうな、と考えたりしますね。そして、1人居酒屋にいるときに、まわりには大勢で楽しい人達がいるけど、1人で呑んでいるのも悪くないなと思ったりすると、人間が深くなれた気がします。そういう意味でも、絶対に1人旅はするべきです。
慣れていない人は、近場からの1人旅をおすすめします。時々、1人になって自分のこと、家族のこと、もっと大きく言えば日本のこと、そして、日本と海外との関係や歴史などを考える機会にもなりますからね。
たとえば、函館に行き、実は、ここはフランスの人たちが住んでいた所なのです、と聞いて、そこからいろんなことを考えたりするのが楽しい。
ただ連れて行かれるだけだと、そういうことを知らなかったり、考えなかったりします。車に乗って食べて、また車に乗ってね。でも1人だと、食べ物も自分で選ぶでしょ。何を食べよかと、一所懸命見て、何か変わった物ないかとね。
老舗のおそば屋さんがあって、歴史的な説明書きがあったりすると、「そういうことか、なるほどね。このおそばも、そのようにして、できたのか」と思うのが、重要なところなのね。
たまには、友達とバスツアーで、楽しくおしゃべりしながら、それではここの見学は20分です、30分です、というのもいいのですけども、それはあまり記憶に残ってないです。友達と話したことは覚えているんですけど、なんでこの場所に行ったんだろう、何の由緒があったんだろうということは、あんまり覚えてないです。
ガイドさんの説明や資料を見るだけではなく、自分で調べて、ここに行ってみたいなと考えるのとは、思い入れが違うのです。
海外と日本とのかかわりを知りたい
海外旅行でも関心があるのは、その国の歴史です。大学で歴史を専攻しましたのでね。そして、人が好きです。
こういったら、怒られるかもしれないのですが、アフリカに動物を見に行くとかいうのは、あまり興味はありません。アフリカで象やキリン見て、だからそれがどういうこと?と思ってしまうんですね。東山動物園や上野動物園、北海道の旭山動物園にいるわけだから。なにもアフリカに行ってまで、キリンとか象を見るのはでなくて、アフリカの人たちがどのような人たちなのか、奴隷市場のような歴史はどういうものだったのか。そういうことを知るためなら行ってもいいです。
来年1月に、ポルトガルに行くんですよ。スペインには行ったことがあるので、今度はポルトガル行きたいと思っていました。スペインに「サンチィアゴ・デ・コンポスティーラ」という巡礼の道があります。日本のお遍路さんと同じで、向こうの人は一生のうちに一度は行きたいという巡礼の道です。そこに寄ってからポルトガルへ行くというツアーがあるのです。
仕事も忙しいのですが、8日日間の休みを取って。安いんですよ。10万円を切る金額なんですよ。すごいでしょ。思い切って、行くことにしました。ポルトガルでは、ファド(民族歌謡)も聞きたいと思っています。
ヨーロッパで行ったところといえば、イタリア、フランス、ドイツ、イギリス、チェコ、オーストリア、ハンガリーなど。そして、フィンランドには、オーロラを見に行きました。唯一、自然を見たくて行ったところですね。1回しか見られなかったのですが、見られなかった人もいますからね。帰りにロシアのサントクペテルブルグにも寄りました。モスクワは乗り換えに寄っただけなので、行ったとはいえません。
どの国にもいいところがある
勤めていた頃、営業の人達が成績を達成すると、ご褒美に海外旅行に招待するというプログラムがあったんです。私は、その事務局をやっていました。あまり料金の高いところや、日にちがかかるところは連れて行けないから、おもにアジアの各地、香港、マレーシア、台湾などと、毎年違うところへ、連れて行きました。
個人的にはタイ、インドネシア、バリ島も行ったし、カンボジアにも行きました。ビルマというか、今のミャンマーは治安がまだ良くなくて、行っていません。中国とか韓国とかは行っています。
1番印象に残った国というのは難しいですね。その国なりに良い所があるわけですよ。たとえば、暑いけれど、ベトナムでいいなぁと思うのは、アオザイの女性がきれいだったり、フォーが美味しかっったり、自転車の人力車みたいなのに乗って楽しかったり。
ベトコンが、ここで戦ったという地下道に行ったりすると、ベトナムの人ってすごかったなと思ったりします。
ヨーロッパの洗練されたパリのシャンゼリゼを歩けば、これはこれで、すばらしいなと思うし、行った先々でその時が1番です。だから、もう2度と行きたくないと思うのは、そんなにないかな。今の社会情勢では、韓国と中国には行きたくありませんけど。時期が来たら、また行ってみたいなという場所はありますね。
行きたいと思った時に行くのが良い、そう思います。私は旅行のライターをやってもよかったかもしれないですね。ただ、動き回るには、特に海外は、お金が必要ですね。
家にだけ、日本にだけいてもつまんないな。いろんなところに行って、いろいろなものを見て、いろいろ感じる。そういうことが、また自分の次の成長とか、仕事に生きてくると思うので、とにかくたくさんの体験をしたいですね。
写真を撮ることは、感性をみがきます
カメラは、旅行と関連があります。写真を撮るのも好きです。スマホのカメラがすごく良くなって、今は持って歩きませんけど、以前は小さなカメラをいつも持っていました。歩いていて、はっと感じるものがあると、それを、とりあえず写真にとって貯めておきます。
だから、パソコンの中には、花とか、景色とか写真のファイルがたくさんあります。「聴き書き」の冊子づくりにも写真が必要な時があるので、私はそれを使います。FacebookのようなSNSに投稿するときでも、イメージ写真として使います。文章だけだと、なんかつまんないですものね。やっぱり読んでもらう、目にふれてもらうには、写真があった方がいいではないかと思います。
ほとんど、自分は写っていません。1人旅ですから。たまに、私はここに来た、という証拠写真が欲しいなという時は、近くにいる人とか、私と同じようにカメラを抱えたりした人に、「すみません、写真をとっていただけませんか」という感じですね。「お撮りしましょうか」と逆にいうと、相手の方も「そうですね」と。それが楽しかったりします。感性をみがくということで、写真はいいと思います。
横丁歩くだけでも旅だ、というじゃないですか。単に歩いて横丁を曲がったって、ちっとも旅じゃないけど、そこで自分なりに感性をみがいてきれいだなとか、これ最近できたんだなとか、面白いなって思うことが、旅だと思うんです。
そう思って、忘れないように「こんな所に、こんなきれいな花が咲いているわ」と思った時に、パシャッと撮ります。あとからその写真見たときに、なんできれいだなと思ったんだろう、何かを感じたんだろう、もしかして、その前に何かあったのかもと思ったり。写真と旅とは関連付いていますね。
常にアンテナをはりめぐらせて
時間は作らないとね。やらなければいけないことは早く終わらせて、好きな方に持っていくというのが理想ですが、現実には、やりたくないなと先のばししてしまって、締切りだと必死になってやっています。
このところ、どこにも行ってないなと思ってテレビを見て、旅の情報をやっていたりすると、そこに行ってみようと思いますね。それが、アンテナを張るということではないかと思うのです。
食べ物も同じです。新しいお店ができたとか、新しい商品ができたらしいけれど、すぐに行くと、混んでいるからしばらくして、行ってみようと考えたりしたら、スマホにお店の名前を入れておきます。で、仕事に行って、空き時間ができた時にどうしようかなと思った時に、それを見て、この辺りに何とかいう美術館があるらしい、1時間あれば行けるかなと、行ったりしてね。
空き時間は、結構もったいないですね。お客さんとの面談が意外と早く終わった時とか、あるいは、急に電話が入って「ごめんなさい、今日の会議は延期にさせてください」とか、ぽかっと2時間くらい空いたりすることがあるんです。そんな時は、あそこに行ってみようとか、あれをちょっと食べたい、今行くとちょうど良いじゃないかと、そんなこと考えます。私は、好奇心が強いということですね。
あとがき
松本すみ子さんは、国内外問わず、小さな路地裏までも旅と称して、ささいなことも見のがさず、気軽にひとりで旅を楽しんでいます。その行動力、そのバイタリティには、ただ驚かされました。歴史への探求心や、人とのふれあいを感じる旅。そのためには、常にさまざまな事柄に関心を持ち、新しい情報を取り入れています。
また、自分と向き合うことの大切さを知るために、ひとり旅の良さ、大切さを説いた言葉は、深く心に残りました。これからの、ますます活動的な旅ライフが楽しみです。
ききがき担当:木村景子
posted by ききがきすと at 21:55
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ふるさと長野から上京する
私は、昭和9年3月30日、長野県長野市で生まれました。82歳になります。昭和の時代は長く続きましたが、もう少し後で生まれたら、昭和二桁生まれで多少若く見られて良かったんじゃないかといわれたりもします。
いまは、東京で暮らしています。思い返してみると、私も若い頃にはいろいろありました。若さにまかせ、若さゆえに、いたずらごころでやってしまったことなど、当時は楽しいと思ってやったことですが、良くも悪くも数々あります。
私の父親は三男でしたが、その当時は、長男が家の跡を継いで、下の弟たちは財産をもらうこともなく、小僧に出るようなそんな時代でした。おふくろは、財産を持たないそんなおやじの所に嫁いできた訳です。
私はというと、三人兄弟の長男でしたが、長男だから財産をもらって家の跡を継ぐということもなく、自分でも長野に住み続けようという気もなかったのです。高校を卒業したら、食いっぱぐれる心配のない公務員になろうと思い、公務員の二次面接試験を受けるために、一度東京に出てきました。
でも結局、二次の試験には受かることができなくて、公務員になる道は開けませんでした。その当時、造船疑獄事件が起きていて、そんなことが私の試験にも影響したのかもしれません。
それでも、高校を終える時に私が志望した学校は早稲田でした。早稲田大学を受験しようと思っていました。その時はすでに、昼間の学校に通うことはあきらめていましたが、早稲田の受験チャンスを狙っていました。
狙ってはいたんだけど、1年浪人して入ったのは、お茶の水にある明治の短期大学です。そして、大学に通うために下宿として、母親の弟の叔父の家に世話になったのが、東京へ出てくる始まりでした。叔父の家は、最初は台東区浅草の竜泉というところにあって、鷲神社・(おおとりさん)のそばでした。小さい家で、風呂もドラム缶を改造したようなものでしたが、しばらくして、吉野町に家を建てて移っています。
私は、中学生のころからみんなに「おっさん。おっさん」と呼ばれていました。若ものらしくなかったんでしょうかね。母方の実家で法事か何かがあって、母親の兄弟たちが集まってお墓に行ったことがありました。お墓は、三十分近くも山の方に歩いていくような所にあったのですが、大勢でだらだらと歩いていく時に、中学生だった私が、みんなへの気配りをしたり、誰それが居なくなってはいないかなどと、気を利かしたりしたようです。
その様子を見ていた叔父さんが、「おまえは大人だな」といったことがあります。そんなことから、「おっさん」といわれだしたようですが、当時から、なんとなく大人びてはいたようです。私も「おっさん」といわれても、とくべつ悪い気はしなくて、それからもずっとそんなふうに言われ続けてきています。
伝統ある長野北高校へ進む
私は、長野県立長野北高校の出身です。北高校は長野県でも伝統のある学校でした。高校1年の時には、生物班に入り、顕微鏡で精子を見るなんてこともやっていましたよ。大人になってから、2〜3回、この時の生物班の同好会に出ています。10年ほど前に、当時の生物班の会を新たに作るからと届いた発起人の名前は、京都大学で研究をしているような人でした。生物班に入っていた人たちの大半は、その後農林省に入ったり大学の教授になったりしています。
北高校は、長野でも下宿させても行かせたいと親が思うような学校で、もともとは男子校でしたが、女性が一人初めて入ってくる、そんな時代でもありました。同級生の3分の2くらいは大学に進学し、いじめなどは無く、北高校に通っていると、皆から一目置かれるようなそんな学校でした。
大蔵省の証券局長(次官級)になった優秀なやつがいたり、慶応大学を出て、地方紙ながら信濃毎日新聞という長野県民の大半が取って見るような新聞社の社長になる人。そして、500人ほどの生徒の中で成績が1番か2番ながら、父親が早くに亡くなってしまい、当時の校長先生が保証人になって、高卒で富士銀行(現:みずほ銀行)に入ることができた優秀なやつもいます。叔父の仕事の関係で、富士銀行の行員名簿を見る機会があった時に、中に彼の名前も見つけました。大卒でなく、高卒で入ると最初からラインが違ってしまうのですが。
私が尋常小学校2年の時に、学校の制度が国民学校へと変わり、また高等小学校高等科が新制中学へ、というように、学校の区割りも制度も大きく切り変わる時でした。私が通う頃は、戦争が終わって間もない時だったので、将来のことは何も分からないし考えられないような状況でもあったのです。でも、中学の時の友達は、ガキ友達でずっと続いています。
高校の友達は大学を出た人が多く、同級会に行って自己紹介すると、すごいやつが多くて、おれみたいに靴屋になったというと、「ふ〜ん」というような雰囲気になることもあります。中には大学へいかないでも、出世した仲間もたくさんいるんですけどね。
多感だった高校時代
高校時代の私は、コルホーズとかいうような社会主義に憧れていました。でもしばらくして、みんな平等で、やってもやらなくても取り分が変わらないというシステムに面白みを感じなくなりました。そして、労働貴族である連合や組合長などのトップになるのは、東大出の頭の良い人たちばかりだし、資本家のトップの連中もまた、利口なやつがうまく上に立つのだと分かってくると、どっちがどっちともいえないなと思うようになりました。
そんなふうに生半可に世の中を見てしまって、将来これで生きていこうとかいう計画が立たなくなっていたように思います。その都度その都度の生き方で、そんなに望み高くしなくても良いのでは・・・。そんな考えになりました。
小学校6年の時、先生からいわれた、鶏頭(にわとりの頭)と牛のしっぽという話を思い出します。しっぽでも、でかい所に就いて生きていくか。小さくても鶏の頭のようになって人の上に立つか。二つの生き方があるよと言われ、自分でよく考えなさいと教えられました。
時代はだんだん競争社会へとなっていきましたが、私はというと、人を蹴落として何が何でも一番にならなくても、自分なりの目標を定めていけば良いと、割合にのんびり考えるようになっていました。
加えて、高校生の時に蓄膿症にかかったことで、授業が散漫になってしまいました。蓄膿症は、結局、東京に出てから手術することになるのですが、今思えば、早くに手術しておけば良かった。その時は手術するのが嫌だったのです。そんなこんなで、重い蓄膿症では優秀な人たちと互角に競争するのは大変だなとも思っていました。
社会もだんだん変わってきているし、資格を取ってトップばかりをねらうのではなく、職人的な考えで生きていくこと。職人的な生き方をすれば、いつの時代でも人に世話をかけないで生きていけると思うようになっていました。
靴メーカーとして生きていくことに
私は学校を出てからは、叔父さんの店で、問屋から革を買ってきて、靴メーカーにそれを売るというようなことを仕事としてやっていました。叔父さんのところには、娘1人息子2人がいました。
いつか、息子のどっちかが店の跡を継ぐようになるかもしれない。そんな時に、私のような親戚が店にいつまでも居るというのはどうだろう・・・という話が出てきて、私は、違う商売を始めるか、独立した方が良いのではないかと考え始めました。当時私は、他の人とは違うものを作って靴メーカーから喜ばれていたので、靴屋の仕事としては、同業の人よりも勝てていました。
お金は無かったんだけど、他の靴屋さんと違ったことをすればやっていけそうでした。だったら、独立しても良いかなと考えました。腹を決め、五年くらいそのための修行をして、独立するきっかけを待ちました。
芝浦の屠場(屠殺場)から三輪車で皮を持ってくるのですが、皮といっても、豚の皮をはいですぐのものなので、内臓は付いてないのだけれど、多少の肉だとか耳だとかしっぽだとかがまだ付いています。お得意さんの所へそれを持っていっては、みそ汁の中へ豚の鼻をスライスして入れたりして食べました。それを見ていた小僧さんたちが、東京のちくわは穴が二つあるのかなどといったり・・・。思えば、楽しい青春時代だったですよ。
そうこうしているうちに、行きつけのお得意さんの靴屋が、勘定が払えなくなったから「50坪ほどの自分の店を供出するがどうだろう。」という話を持ってきたのです。その話のお得意さんと、靴作りは一人職人を引っ張ってくることにして、おれが靴を売れば良いじゃないかと考え、そのことがきっかけとなって、3人で靴屋を始めようと思いました。
それまで叔父さんの店に対して、自分としてはそこそこに稼ぎもできた方だから、おれが独立する時には、叔父さんも資金を出してやるからといってくれていました。叔父さんからは100万円くらいは出してもらえるかと思っていました。それを資金として、他の2人がいくらか出し、有限会社「大倉製靴」が始められると思いました。
でも実際に、叔父さんのところを辞めることになった日の最後の最後、挨拶して店を出る時になっても、叔父さんからは何ももらえなかったのです。あの時は裏切られた気がして、店から帰る道々涙が止まりませんでした。3人でやろうと、他の2人は上座におれの席を用意して、おれがお金を持っていくのを待っていてくれたのに・・・、お金はもらえなかった。それでは話が違うからと皆で考え直そうと相談しました。
すると程なく、20万円の定期証書を貸してくれるという人がいて、すぐにそれを換金することができ、また他の2人からもお金を出してもらうことができ、どうにかこうにか、ようやく工場をスタートすることができました。
叔父さんの店を辞める時、そこで働いていたおばちゃんたちは、どうせまた、大倉さんはすぐに頭を下げて戻ってくるだろうと話していたようです。叔父さんの方も、そう簡単にはうまくいかないだろうから戻ってくるに違いないと思っていたのかもしれない。後で考えると、どうやらおふくろともそんな話になっていたようですが。
スタートした当初は、借り受けた工場はおんぼろ靴工場で、雑然としていて、まず初めに便所の掃除から始めましたよ。残っていた従業員も、あまり良い人はいなかった。
そこも1年して3人でやるのは解消しました。おれが主流だとみんな思ってしまうので、私も、共同でやるのは早くにやめた方が良いとは思っていたのですが。
順調だったが、波乱も
叔父の店で働いていた頃に、ある靴屋に材料を売りに行った時のこと。顔見知りの問屋さんが来ていて、おれが靴屋をやるつもりだといったら、もし、あなたがうちに売り込めるような靴を作れば、どこでも買ってくれるはずだから頑張れと言ってくれました。また、浅草の橋場というところで工場を紹介してくれる人も出てきました。家賃は10万円ほどで、丁度良かったので貸してくれるように頼みに行こうと思いました。
当時の浅草の橋場というと、バカでかい御屋敷があって、たいそうなお金持ちが集まっているような場所でしたよ。工場を貸してくれるように頼みに行った所では、おれの顔を見て、この人は家賃を滞納しそうにないと思ったそうで、すぐに仕事場として貸してもらえることになりました。私は、その時はまだ独り身でした。貸してくれたその人には恩もあるもんだから、その後もえらいご奉仕することになるのですが。
しばらくして、大家さんから、そこの場所を正和自動車という北千住のタクシー会社に売りたいので、大倉さん違う所へ工場を作るから移ってくれないかと言われました。自分たちはそれでも仕事はできると思ったので、移りました。
仕事は順調でした。家賃もだんだんに上げて、最後は四十万くらいだったように思うのですが、毎月、北千住の大家さんの所へ持って行く、そんなことを張り合いにして喜んで働いていました。
それから、ちょうどバブルの時代になっていきます。不動産屋さんが「借りていても何だから、その場所を買わないか」という話を持ってきたのです。そして、バカ高い買い物をしてしまい、多額の借金をしょい込んでしまうことになりました。私が50代半ば頃です。そんな金があれば他の場所へ移っても良かったのに。
当時、私の家には風呂がありませんでした。風呂好きの私のかみさんは、毎日3時か4時になると近所の風呂屋に行って、一番風呂に入るのがなによりの楽しみだったんですね。そのことを理由にしたら、かみさんは怒るだろうけど、その場所にすっかりなじんでいたので、その場所から簡単には離れられなかったこともあります。
工場は、建てつけが良いとは言えないのですが、貸し工場ではあっても、大家さんから新築で建ててもらっていたし、感謝して住んでいました。そこを安住の地と思って、家賃も働いていれば払えていたのが、結果として転落の道を選んでしまいました。私の工場でしか創れないというような靴もできていたのに。
そして、バブルの影響で商売をたたまなければいけないという経験もしました。うまくやれば家1軒くらいは残してつぶれることもできたのですが、私のために財産を取りっぱぐれてしまったとかいうことがないように、銀行の方だけは法的に整理して、あとはなし崩し的に支払いを全部きれいにしました。助けてくれた人もいましたよ。
それだから、今でもうちのかみさんは、大手を振って浅草の仲間のところに遊びに行けたりしていますよ。
いろいろな種も蒔きました
こどもは娘1人です。そこに婿がきてくれて大倉姓になってくれました。娘たちは、椿山荘で式を挙げましたよ。婿は東洋エンジニアリングに勤めていましたが、そこをやめて靴屋になってくれて、10年くらい私と一緒に靴屋をやりました。2人には子どもは授からなかったんだけど。
大倉製靴制作の靴
娘は銀座の三越の食品売り場に勤めていたことがあります。三越とはなにかとご縁があって、面白い話もあるんですよ。私が最初に世話になった叔父さんの革屋の名は「三越商店」というのですが、叔父さんが「越 三郎」という名前だったから付けた名前なのです。
当時の三越デパートへ叔父さんが靴の革を売りに行った時に、商標登録に違反するから名前を変えるようにといわれ、「光越商事」にかえたという経緯があります。叔父さんの会社も、そこそこに大きくやっていたからということでもあったようですが。
ちなみに、私の靴屋は「大丸商店」(後に「大丸製靴」→「大倉製靴」へと変わる)という名前でしたが、あの「大丸」からは特別クレームはつきませんでしたよ。
私の所で作った靴の写真を見て下さい。当時、新聞社が業界紙に載せるからと、私の「大丸製靴」が創った靴を撮った写真です。
この他の一般全国紙や雑誌にも出たり、昭和48年頃、松島トモ子が履いて週刊誌にも載ったりしたこともあります。一足、5万円です。「パンタロンも走る」などといってパンタロンが流行っていた時代でした。ハイヒールでは歩きにくかったけど、私の靴はストーム底が厚いのでよく売れました。底の高さは二寸(5〜6センチ)で、この時の靴が元になって、いまだにヒールの厚い靴を若い人が履いてくれています。
今、業界からズバッと足を洗うということは、生半可にしていると、どっかへ迷惑をかけることがあっちゃいけないとの思いもあるんです。
あの山田洋次監督の「男はつらいよ」の映画の中でも、私の工場の靴が使われたんです。シリーズの48作目「寅次郎紅の花」の時です。満男の就職がどうのこうのというストーリーで、葛飾の靴職人役で、私も、私の靴と一緒に出ました。山田監督に、ふだん通りの言葉でしゃべって下さいと言われましたが、結局、緊張して何もしゃべれなくて・・・。頭が真っ白な状態でしたよ。
この映画の関係で、今でも葛飾区の寅さん記念館共催の「寅さんよもやま川柳」というものにも参加しているのですが・・・。
そこで選に入った私の川柳です。
・生きてます三途の川に寅の顔
・チャブ台と寅とさくらとおばちゃんと
愉しんで、社会活動もやっています
仕事を離れた今は、平成23年から、葛飾区の地区センターで「回想法」を始めました。やり始めてからもう5年になります。
注)回想法とは:おもに高齢者を対象とし、その人の歴史や思い出を、共感しながら聞くことを基本とする心理療法の一つ。世代間交流や地域活動として利用されることが多く、葛飾区では全国に先駆けて活発に行われています。
回想法を始めたのは、婿のお父さんが超音波の「ミューマ」という器械を作っていたことからです。「ミューマ」で頭に電極をあてて、超音波で脳に刺激を与えると、認知証のリスクがうんと減るということなのです。
ちょうど葛飾区の高齢者支援センターから「回想法」の案内がきたこともあって、イメージとして「ミューマ」と「回想法」は認知症予防に関連があると思ったので始めました。その時の区役所の担当者が同郷の長野県出身だったということで、のせられてしまったようで、会の代表にもなっています。
毎月与えられるテーマに添って、地区の仲間と集まってやっています。毎回手作りで、個人的にその時の「回想法」のテーマに合ったポスターを作っては、会の時に持っていっています。ポスターの絵文字やイラストなどは、いろんな新聞などのチラシを参考にしています。武田双雲さんの妹さんや、金澤翔子さんの文字などからイメージを膨らませ、作っています。
画家の池田満寿夫氏とは長野北高校時代の知り合いで、彼直筆のサイン入りの本も持っているのですが、時々参考?にさせてもらいながら作っていますよ。でも、やつの絵は、彼の母親がいうように近所にはちょっと配れないような絵が多いですけどね。(笑)彼についてはいろいろなエピソードがあるんですよ。
こんな回想法の時のポスターもそうですが、私も絵は下手なりに描いたりしています。中学3年の時の担任の先生で、途中で教員を退職し、陶芸の道に入られた先生がいるのですが、いまだにその方とも続いていて、その先生の所に顔を出しては、皿を作ったりして、うまいへた関係なくいたずら書きなどしています。
「ディベート」にも参加しています。ディベートは、全国的に広まっているもので、例えば、その時に関心が持たれているような「結婚したらどちらの姓を名のるか」など一つのテーマを研究し勉強します。そして、賛成反対に分かれて議論し、相手の弱点についてテーマを深めながら討論していくもので、最終的には審判を受けることになります。
これは、全国的には創価大学が伝統的に強いのですが、葛飾区シニア支援センターで募集があったことをきっかけに、最初は何が何だか分からなかったけど、面白そうだったので入り、今は三十人くらいで続けています。
注)ディベートとは:その時話題になっているテーマについて、賛成反対の立場に分かれ議論すること。討論(会)とも呼ばれているもの。
娘たちと暮らすこの頃です
今は、娘たちと暮らしていて、娘たちに食わしてもらっているようなもんです。年齢的にも、自分の身体が動けなくなるのも、もうすぐ近くに来ているから、いろいろ、考え方の切替えが必要かなと思っています。
うちのかみさんは、腰の具合は良くないが、元気にやっていて、月に2〜3回ほど、自分が信じる横浜の宗教法人に通っています。その宗教法人は、あれよあれよという間に大きくなっていって驚くばかりですが、かみさんはかみさんなりにやっているようです。かみさんの姉はアメリカに、妹はカナダに住んでいます。
私は、特別な宗教だけにのめり込む方ではないのですが、宗教がらみの繋がりもたくさんあって、創価学会の山口(代表)さんの選挙の応援なんかをしたりしています。宗教は分からない所もたくさんあるけど、宗教がらみでは民主音楽協会とも交流があります。ここには、東大出などの優秀な人が多くいて、たいしたものです。こんなような、多くの人とのつながりは、私なりに大事にしています。
娘たちは、一生懸命やっていることだし、まぁ、今は平穏に暮らしています。婿は、もと勤めていた、東洋エンジニアリングにまた勤めることができました。
中途半端を絵に描いたような私の人生だけど、悪い方にはいってないなと自分では思っています。笑っちゃうくらい、くそ真面目な道を選んでしまった。今は、靴屋はやっていませんが、そんな人生です。
願うことといったら、何度か大病も経験しましたし、出来る限り健康でこどもたちの世話にならない身体をつくることですね。
あとがき
大倉さんとは、平成27年の秋に葛飾区の「回想法」の講座でお会いしたのが始まりですので、まだ日の浅いお付き合になります。お会いした当初より、風格があり、講座の中でも存在感を示されていたお一人でした。ご出身が長野県とのことで、お隣の新潟出身の私としては勝手に親近感を覚えたりしていました。
この度の「ききがきすと」の話し手としてお願いしたのは、大倉さんの包み込むようなお人柄にひかれたからのように思います。「ききがきすと」については、最初は馴染みがなく戸惑われたことと思いますが、私の問いかけにいつも「そうだね。」とまず応じて下さって、楽しいお話ばかりではなかったはずですが終始明るいお話振りでした。
人の恩を忘れることなく、人とのつながりを大切にされてきたこれまでの生き方は、今現在の人脈の多さや、穏やかなご家庭の在り方に現れているように思います。
お忙しい中、あたたかな時間の共有に感謝しつつ、これからも宜しくお願い致します。
posted by ききがきすと at 22:39
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語り人 富田裕子(とみた ゆうこ)さん
新潟の実家から十分も歩けば海だったので、子供のころは、夏になると毎日のように海で泳いでいました。山はないけど、海の生き物とか、近くの原っぱの植物とか昆虫とか、とても面白いものに出会えたんです。水族館や植物園もよく行きました。空の星をながめていると、かたちが変わっていくのが不思議でした。今はもう無くなっちゃった豊かな生活ですねえ。
こういう豊かな自然を、目いっぱい楽しんで過ごした子ども時代が、生き物大好きの性格をつくって、さらに自分という生き物への興味にもつながって、人間に関心が向きました。だから将来の夢は、小学校の頃は学校の先生だったけれど、中学校以降はお医者さんになりました。治療法が見つかっていない病気に取り組みたい、と考え、医者を志したこともあるんです。
理系の母と文系の父
母はレントゲン技師なんですよ。今もう70歳を越えてますから、とっくに定年退職したんですけど、今も人手が足りないときには、仕事を頼まれて、一日単位で行ったりしています。母の生家は兼業農家で、私の祖父は、学校の事務の仕事をしていました。当時の田舎は、女の子なんて高校は卒業さえすりゃいい、なにより結婚するほうが幸せっていう風潮だったようです。
だけど、祖父が「そうじゃなくて、女性も教育を」と言ってくれたそうで、ちょうど新潟に医療技術短期大学(現在は新潟大学医学部保健学科)が新設され、そこの放射線科に入ったんです。母の弟も、この放射線科を出てレントゲン技師になり、卒業後は大学に残り、近年まで教えていました。
父は十代のときに父親を結核で亡くしました。長男として、残された母親や他の4人の兄弟のために、高校に行くのもやめて働け、と親戚中から言われたそうです。でも、なんとか高校だけは出させてもらって、県の職員になり、県庁で働きながら短大に通って、短大卒の資格をとった人なんです。
父と私は頭の構造が違いますね。興味・関心の対象が違うんです。話が飛んじゃいますけど、うちの主人が文系で、歴史とか好きなんですよ。だから読んでいる本とか、興味を持つ本とか、うちの父と同じですね。でも、わたしはそういう本、興味持てないんです。
高校2年から理系文系に分かれてしまったので、理系の私はそれ以来、歴史は勉強してないんですね。たとえば徳川家康、豊臣秀吉ぐらいは分かるんですけど、明智光秀となると、「えーっと、どの時代の、どんな人だっけ?『本能寺の変』っていつだっけ、なんだっけ?」と、そういう調子です。
理科に関連する歴史上の人物、例えばキューリー夫人、野口英世、エジソンなどの本は読んで、全部頭のなかに入っているし、古代の地層なんかなら、ずっと詳しく説明できます。その時代の産業になると、「えーと、ァ、産業革命?なんか勉強したけど、どの時代だっけ?」という感じで。
*写真は、上から、キューリー夫人、エジソン、野口英世
卒業そして就職:輸入野菜を扱う仕事に
富山の大学に入学、生物学を専攻し、その後は食品関連の仕事につきました。1990年代の卒業ですから、地産地消が言われるちょっと前で、その頃から輸入食材が増え始めていたんです。新しい食品はだいたい大手の商社が輸入してくるんですね。でも、その販路開拓を地方でするとなると、都会とは違って、どっかに拠点を作ることが必要になってきます。わたしの会社がその拠点になって、販路拡大を受け持つわけです。
そこで、地元の野菜と競合しないように注意をしながら、輸入野菜をどう食べるのかを説明して、それを売らなきゃならない。例えば、スーパーなどに行って説明し、「こういう特徴のある野菜です。取り扱ってもらえませんか?」という営業もし、実際に料理のレシピを提供したり、お料理を作ったりしていました。
転機――人生やり残したことが
食品の仕事は楽しく、当時おつきあいしていた人もいました。二十代後半になると結婚話もでてきて、わたしの人生こんな風に、平穏無事に行くのかな、とも思い始めました。 反面、このままこの人と結婚して、この仕事続けていく…と考えると、なんとなく自分の先が見えた感じにもなりました。自分の人生に何かやり残したことがあるんじゃないかって気がし出して、「これは一体なんなんだろう」って、2年くらい悩みながら生きていたんです。
母親みたいに手に職をつける道もあったし、お医者さんに挑戦する、という事も考えました。それとは別に、海外に行って暮らしてみたいっていう思いがあったんです。旅行して違うところに行くっていうのは、私にとって「非日常」で、ふだんの生活から離れたところで息抜きができて、気分転換になり、そして新しい発見があるんですね。だから、いろんなところに行くのが好きで、お金を貯めては旅行していました。
高校までずっと実家から徒歩通学で、大学のときに初めて県外に出て一人暮らしをしました。それで結構、異文化を味わいましたが、さらに海外でもっと長く滞在してみたいな、旅行でなく住んでみたいなと思うようになったんです。
そしてJICAと出会う
30歳過ぎちゃうとキビしいかもしれないから、二十代の最後に、結婚という選択ではなくて、自分がやり残したことをやろうって思いました。それも最初で最後のチャンスだと考えているときに、ちょうど「青年海外協力隊の募集説明会をやります。これが最後の説明会です」っていうお知らせをテレビで見て、新聞でも読んだんです。
青年海外協力隊募集説明会ポスター
今思うと、当時JICA(国際協力機構)は、全ての都道府県でこのPRをやっていたわけではないんですね。全国に6人の国際協力推進員というのが配置されていて、たまたまその1人が活動している地域に、私が住んでいたんです。だから、身近な地元の新聞やテレビで募集説明会の知らせを見ることができたわけです。
無理かも、でもやってみる!
私は、海外で仕事をする人っていうのは、特別な教育を受けて、それなりのトレーニングを積んだ人だ、と思っていたんです。だから自分には無理かもしれないけれど、どんなものか1回は説明を聞いてみよう、という気持ちで出席したんです。これがそのまま海外ボランティア参加になってしまうなんて、考えもしませんでしたし、もちろんその時点では、仕事も結婚も、やめようなんてぜんぜん思っていませんでした。それが平成9年(1997年)の秋のことです。
この「秋募集」の説明会でもらった募集要項のなかで、私の資格要件に合うと思われるものが、「ミクロネシアでの野菜栽培指導」っていう職種だったんです。健康診断も受けて、書類も出して、一般教養と英語の試験を受け、さらに、私の応募職種の野菜栽培に関する、記述式の問題が出されました。
試験はきびしく
1次試験が受かると、2次試験として個人面接と技術面接がありました。個人面接は「人となり」を見るもので、「なぜ理数科教師に応募しないんですか?」とか聞かれました。技術面接は、1次試験に採点を担当した東京農大の先生が、どのくらいの知識や経験があるかを、容赦なく質問してくるものでした。
記述問題の中に「野菜の劣化や鮮度保持」に関するものがあって、わたしは「レタスを包丁で切ると切り口が赤くなる…」他、数例挙げて解答していたんです。答案を採点した先生に面接で「では、なぜ赤くなるのかわかりますか?」と質問されて、エチレンガスがどうとかこうとか…と説明したんですけど、「あなたの知識は、理科の知識であって、農業の知識じゃないです。農家さんはそういう説明はしないですね」って言われてしまいました。農家としての、収穫後の野菜の保存方法や技術を聞かれていたのに、私は家庭レベルの取り扱いを、理科の知識で説明してしまっていたのです。
合格、あたふたと出発
もし合格しても、普通なら6か月くらいは猶予あると勝手に思っていた私は、職場には簡単に「試験を受けます。受かったら行かせてください」と言ってあっただけでした。でも、2次試験が2月なのに、合格通知が3月初め頃に届き、『合格ですが、条件付きです。農業研修をしてください』とありました。日本の寒冷地の農業と暑い国の農業とは違うから、それもそうだな、と納得です。
『詳細は追って連絡します』とのことなので、職場には「すみません、合格しました。訓練の期間に入ったら辞めさせてもらいます」とだけ伝えました。ところが、それから1週間たたないうちに来た通知には、『4月5日から5か月半の農業研修。東京農大・宮古亜熱帯農場にて』と書かれていました。
こんなにあたふたした状況で、職場への退職予告はなんとか1か月前に間に合わせましたが、自分の移動が大変でした。年度末で引っ越し業者はなかなか、つかまらない。やっとつかまえても3月31日の午後なら…と言われる始末。結局、その日でお願いするよりなかったのです。当時は富山に住んでいたから、まずは新潟の実家に荷物を送り、それから自分自身は新潟、そして沖縄と移動しなくちゃならない。
荷物をやっと送ると、もう電車が無くなっていて、ホテルに一泊し、翌日新潟に帰ったんです。名残雪がちらつく寒い日でした。実家に帰ってすぐ、送った荷物を受け取ってぜんぶ片づけると、今度は新潟から夏の沖縄です。半袖の衣類や研修用の書類を詰めたり、郵便物を出したりして、新潟から直行便で沖縄へ。そこから宮古へ飛び、研修所に着いたのはぎりぎり…。もう泣きましたね。「こんなのもういい!」と思いました。
こういうありさまでのスタートでしたから、職場に未練とか、そういうことを感じるひまもありません。9年も過ごした富山県でしたが、名残りを惜しむ間もありませんでした。自分の荷物を片づけるだけでいっぱい、いっぱいで、お別れ会どころじゃなかったんです。
宮古島のくらし 当番にあけくれて
一緒に研修をスタートしたのは、男4名、女7名でした。職員4人も含め15人の世帯です。ひとり暮らしで、スーツを着て仕事をしていたOLが、4人部屋に入れられ、いきなり農家の嫁状態で、毎朝暗いうちから自転車こいで山道を20分のぼり、7時すぎまで農作業でした。当番のときは早めに宿舎に戻って7時半までに15人分の朝食の支度、片づけをしてから、講義や研修を兼ねた農作業。昼食や夕食の支度もあるし、夕方にはお風呂の掃除と準備、野菜の水やりも欠かせません。
レポートの提出もあって、ずっと時間の無いまま…、これが協力隊なのか…と、もうほとんど挫折していました。個室に入れると思い込んでいたのが違っていて、だからストレスでずーっと太って、それだけ働かされながら、まずはここで10キロぐらい太りましたね。
ひとり実験を
南の島に行くのだからと、それなりに、いろいろ派遣先のことを調べました。ミクロネシアは土が違うし、土の層も薄いということなので、行ってみなければ何が作れるか分かりません。最初に、先生に言われて、みんなで10メートルくらいの長い畝をだーっと作り、決められた担当場所に野菜を作りました。また、農大のマンゴーやサトウキビの世話をしながら、プランターくらいの小さいところで、二十日大根の生育実験みたいなことをやっていました。
環境条件や土壌条件を変えて実験したんですが、先生に、それは農業の実験じゃない、着眼点が違うとか言われて、ああまたダメか…と。農業の人の実験は野菜を植える間隔とか、畝の高さとか、そういうことでいろいろ試すみたいですね。ここでもやっぱり私は、農業研修じゃなくて、理科の実験みたいなことをやってしまったんです。
肥料の問題もありました。もちろん肥料を作った経験などありません。まず、コンテナに材料を詰めて、堆肥をつくる場所まで手で運ぶ。運が良ければリヤカ―が使えたけど、これが本当に重い。ひとつ20〜30キロにもなるんです。材料を合わせた後は、シートをかぶせたり、取ったり、定期的に温度を計ってかきまぜる当番というのもあって、「いい菌」が発酵してくれるように、安定するまでかきまぜて腐らないようにするんです。
ほんと、農家のお嫁さんになったような気がしましたが、いい経験だったと思います。
農業研修の次は
農業研修を終えてから、改めて富山へ挨拶に行きました。宮古から直行したので、私だけ日焼けして真っ黒です。それから今度は、次の研修場所である長野県の駒ヶ根に行かなくちゃなりませんでした。9月の初めから11月の終わりまで3か月かかるんです。11月なんてもう寒いんですよ。
半年前、富山から新潟に送った秋冬物を詰めて、旅の支度をしました。駒ヶ根へは新潟から、上越、ローカル線に乗ってひとつ乗り換えて、今度もまた一泊しないと行けなかったですね。一週間のあいだに荷物を詰め替え、送るものは送って、日焼けした真っ黒な顔と茶色くなった髪の毛で行ったら、色の白い、ほっそりした人たちでいっぱいでした。当時の隊員は、現在のように年4回ではなく3回の派遣だったので、研修期間が長く、土日は休みですが79日間、朝から晩まで英語の語学訓練でした。
ここでも試験の洗礼
一番初めにテストがありました。英語のテストと、国際協力に関する記述試験で、あまり見る機会もない。
← 研修仲間と
右から2番目
例えばJOCV(青年海外協力隊)などの英語の略語について、それを正式名称で書き、日本語に訳して、その意味を説明しなさい、なんて設問でした。当時の私は今と違って、JICAの活動内容さえよく知らなかったし、書かれている言葉を理解していても、国際協力の世界とどう関連させて書けばいいのか、お手上げでした。
当時の研修所での生活は今と違って、軍隊の訓練に近いというか、朝起きるとまず点呼があり、マラソン、ラジオ体操の後、やっと食事です。それからずっと1日中7時間勉強して、夜ようやく自分の時間が持てるかな、という毎日でした。
でも、このときは、個室こそ改修中で入れませんでしたが2人部屋です。宮古島の農業訓練は4人部屋だったから、まァ、ずっと良くなったと言えます。当時、宮古島のストレスで10キロ近く増えた体重は、ここでの高カロリー食とストレスで、さらに6キロ増えました。
いざミクロネシアへ
私の仕事は?「ミクロネシアでの野菜栽培指導」は?
駒ヶ根での研修中に配属先変更の連絡をもらいました。ミクロネシア農業プロジェクトに中国資本が投入されたことにより、日本のボランティアはもういらないと言われ、配属予定だった農業省のオフィスもなくなってしまったということでした。
関係省庁によりプロジェクトが改めて検討された結果、スタートから7年を過ぎて、野菜の栽培指導はある程度目標に達したと判断されたのです。そこで、ステップアップして「栄養教育」プロジェクトを、ポンペイ州の保健局が担当し、そこに青年海外協力隊4代目の野菜栽培指導員である私が入るという展開になったのです。
ポンペイに着いてみると、前任者は、機材や、過去の書類などを保健局へ運び入れてくれてはいたけど、協力隊員の仕事環境の整備としてはそれだけです。オフィスも整っていなければ、カウンターパートと呼ばれる、一緒に仕事をする現地人スタッフもいない状況からのスタートでした。
着任後の関係者会議で、私はポンペイ州のコーディネーターにされてしまいました。本来ならボランティアは、そのポジションにつけないはずなんですが。
主要課題は母子健康、それからビタミンA欠乏症対策と、あとは糖尿病や高血圧対策などにも取り組むことが決まりました。成人病予防のための改善活動っていうのは以前からあったから、まず家庭菜園の普及、次に栄養教育、それから私が日本の会社でやっていた「野菜を食材に使ったレシピを作ることと、実際にやってみせる」ことを、オフィスに隣接する州立病院や、島内に5か所ある診療所などを拠点に、人を集めて、普及活動として実施することになりました。
カウンターパートの問題は、栄養について学んだことのある看護師さんをつけてもらえることになりました。
名前がユミコと言うので、「えーっ!日本人みたいな名前ね?」と驚いたら、日本語を知っているおじいさんがつけた名前だと教えてくれました。そういう、紛らわしい日本名の人が結構いるところでした。ポンペイ州にも日本軍が駐留していた時期があり、年配者の中には日本語が話せる人もいたんです。
栄養キャンペーンと苗配り
ミクロネシアの人たちの、もともとの食生活はココナツミルクと魚、あとはタロイモ、ヤムイモ中心なので、本来の食事をしていたときは、そんなに肥満はいなかったそうです。結局、外国からの輸入品…缶詰、インスタントラーメンなんかが入ってくることによって、肥満や成人病が増えてしまったわけですね。
私たちの仕事は、昔むかしの日本が、保健所で栄養指導のために人を集めてやっていたような感じで、まず、ささっと料理の下ごしらえをしてみせます。それを煮るとか蒸すとかしている間に、カウンターパートのユミコが現地語で、今日はどんな材料を使っていて、どんな栄養が含まれているのか説明し、私もそれをサポートします。
この島の土壌の層は薄くて、栽培に向く植物は少ないんですね。だからそこらへんにある茎とか葉とか、例えば、現地語でチャヤと呼ぶ、食用ハイビスカスの葉っぱとか、さつまいもの葉やツルとか、そういうものを使ってのレシピの提供をするわけです。そして皆で試食をして、終わった後はエクササイズです。みんな食べたあとは体を動かしましょう、という趣旨で。
最後に苗を配って、みんなも自分で作りましょう、と呼びかけるプランにしたのですが、苗はそう簡単には育てられません。たとえばニラとか、暑い地域でも育つ品種のホウレンソウとかは、ここでも家庭菜園にはとても向いてます。だけどトマトは水が多いとダメなんです。
それで苗床を高くして、ビショビショにならないようにすれば、もしかしたらいけるかも、っていう試作も、ユミコと2人でやりました。山から土を運んでくる作業から始めて、これならみんなの家でもできるよねって結論を出してから、育てた苗をセメントなんかの、水漏れしない袋に植えて配ってあげました。植木鉢なんて手に入りませんから。
きりない仕事
協力隊としてのJICAへの報告書はさておき、プロジェクトコーディネーターとしての仕事量は半端じゃありませんでした。「ユニセフ」からお金をもらっているので、定期的な広報の作成の他、何種類もの報告書、年間活動計画書、予算案作成と執行管理が義務付けられており、別に「South Pacific Committee」からもお金が出ていたので、そちらからも同じようなことが求められました。配属先の州の保健局、連邦政府の保健省にも毎月活動報告書を提出しなければなりません。
さらに「世界食糧デー」などのイベント開催や会議、マスコミ対応も多かったですね。その他、退学児童の更生プログラムへの協力、地元の小学校での出前講座、教科書改訂の手伝いなどもやりました。それに日本からの視察団の受け入れアレンジとか。
それまでも、そこへ行ってみて初めて、想像していた仕事と現実のミスマッチが分かる、ということはよく経験したので、仕事量は別としてこういう想定外の仕事が、多種多様降ってくることにも、不思議とあまり驚かなかったというか、そういうこともあるかなと自然に受け止めていました。
不備な受け入れ態勢からスタートした仕事でしたが、こうして少しずつ軌道に乗ってきました。でも、量も多く、レベルも高い業務をこなすには時間がかかり、平均睡眠時間は3時間くらいだったんじゃないかしら。イベント前や提出書類の締切前には、1週間の睡眠が何と10時間だけという時もありました。日本語で書けば30分で終わるものが、英語や現地語だと3時間くらいかかってしまって。それに文書をつくるのに、国際機関の様式なんて習ったこともなかったから、涙ものです。
範囲も広がる量も増える
幸い病気もせずにすんだけど、仕事はどんどん増え、現地のニーズも高まる一方でした。そのうち公衆衛生指導もやって欲しいとか、母乳育児の指導にも加わって欲しいとか、集団健康診断の受付や補助の依頼もありました。最後は、州立病院の入院患者向けの献立作りまで手伝って欲しいと言われたけど、そこは「栄養士ではない私にはちょっとできません」と断りました。
そして任期の終わりに、このプロジェクトの今後の計画への提案として、これまで10年間、野菜を育てる、普及する、をやって来たから、野菜隊員は私で終わりにする、これからは第2段階として、栄養士さんに来ていただいて、もっと専門的な栄養指導や病人食の管理について進めるようにしたらどうでしょうって言いました。
こうして、今後は経験豊かなシニアボランティアさんを入れること、それと私のパートナーのユミコを、日本で研修させることを決めてもらったんです。偶然にも、私の後任の栄養士の方は郷里の新潟の人に決まりました。また、ユミコの日本での研修先のひとつが新潟にある大学になって、彼女と地元で再会できた時には、本当に嬉しかったですね。
全訓練期間で増えた体重は、ミクロネシア赴任後、ぽーんと13キロ減りました。一年ぶりの一人暮らし、やっと自分の世界が…って幸せで。どうしても落ちなかった残りの3キロも、帰国後にスッと戻りました。
プロジェクトを終えて
ミクロネシアに着いた時から予想外の連続で、仕事をスムーズに進めようといろいろ要望してみても、結局、機関の支援はなくて自分でやるしかない、という状態でした。ですから、任期が終わって帰国するときには、正直なところ「もういい!こういう仕事には二度と関わりたくない」とまで思っていました。もう『国際』は満足したし、『外国で暮らしたい』という希望も十分かなった。結局、自分には向いてないと分かった、と結論付けて帰国しました。
それに富山で9年暮らし、研修に1年、ミクロネシアで2年過ごしたわけで、帰国時には私も三十歳を超えていました。もう地元に落ち着いてみよう、Uターン就職じゃないけど仕事に就いて、自分で決める道を行こうという気持ちでした。
地元にも協力隊のOB会があるので、いろんなイベントのお手伝いをしたりして過ごす中、仕事も、春から銀行に勤めることが決まりました。ちょうどインターネットバンキングが、地方でも普及し始めた頃で、私の経験を活かした業務への取り組みを期待してくださったようです。仕事上必要な資格試験も社命で急ぎ受験させられ、各種用語をはじめ、覚えることもいっぱいあり、新しい世界の充実した日々が始まろうとしていました。
ふたたびJICAと
そこへ突然新潟県内の関係者から連絡があったのです。JICAから、それまで全国で6名しかいなかった国際協力推進員を、希望すれば各県に配置するという要望調査が出されたので、新潟でも急ぎ適任者を探している、ついては応募を考えてもらえないか、との話が私に舞い込んできたんです。
安定した仕事に就いたばかりだった私は、何度もお断りしましたが、さんざん悩んだ末、最終的には多くの候補者と共に試験を受けました。2001年の夏のことです。
新潟県の当時の協力隊OB会会長の熱心な口説きが一番の理由ですが、富山県でお世話になった推進員の思い出も大きかったです。当時の私のように「国際協力は特別な人がする特別なこと、自分とは縁遠いもの」と思っている人がいるのであれば、「同じ地球に住むひとりの人間として、身近なところからできることはたくさんある」ということを伝えたい。そして、何かしたいと思っている人が一歩踏み出すための手助けになれたら、地域の発展に繋がるとも考えたんです
結果は、合格。初代のJICA新潟県国際協力推進員としての、多忙な日々が始まりました。当時は、地域におけるJICA窓口として、公的機関や組織、NGOやNPO、学校や民間企業などとの連携業務に幅広く取り組み、市民連携のよろず屋さんといった感じでした。所属はJICAですが、(公財)新潟県国際交流協会に席をおかせてもらって週3日通い、あとの週2日は県の国際交流課で勤務していました。
面積の広い新潟県ですから、離島もあるし、泊りの出張も多かったけど、それまで知らなかった新潟のことを知るいい機会だったと思います。何よりミクロネシアでの経験がとても役に立ちました。同じようなことをするにしても今度は日本語が主ですから、言葉の壁がない分、仕事ははかどりますし。
ここでも活動計画案や予算案積み上げなどが必須で、年間事業計画を作る時期には、やはり平均3時間睡眠とか3日徹夜とか、超多忙な日々になってしまいました。でも、多くの人に出会い、支えられ、内容の濃い仕事ができたと思っています。
夫との出会い・結婚
会議や連絡手続きなどのため、所管の東京国際センター(現JICA東京)へ行ったことが、夫との出会いのきっかけともなりました。
国際協力推進員として結婚後も勤務し、夫の赴任にあわせラオスに移り、滞在3年の間に娘を授かりました。ラオスから帰国後3年ほど日本で過ごし、次にバングラデシュに赴任という運命が待っていました。「国際業務にはもう二度と関わりたくない」とまで思っていた私なのに、人生ってわからないものですね。
2年ほど前、祖母が百歳をすぎて亡くなりました。なすべきことを全部すませ、美味しいご飯も楽しんで、身ぎれいな格好で、本当に安らかに逝ったそうです。私はバングラデシュ住まいなので、最後のお別れには行けませんでしたが、幼い頃から祖母宅の広い田圃やブドウ畑を季節毎に訪ねては、手入れや収穫等を手伝い、大好きなおばあちゃんに野菜の話を教えてもらうのが楽しみでした。
私が「理数科教師」ではなく、「野菜隊員」を選んだのは、おばあちゃんの影響も大きかったのかもしれないと、思い出を噛みしめながら、改めて感じています。
あとがき
裕子さんは、とにかく真面目な人というのが、初対面の印象です。バラバラと降ってくる、さまざまなトラブルに正面から取り組み、なんだか損な立場じゃない?と思うような状況でも、グチにならず「科学的な」ともいえる姿勢で分析、判断、処理を行う・・・まさに理系のお姉さんです。
いま青年海外協力隊はみんなに知られ、その働きの成果もよく理解されていると思いますが、そういう活動が一体どのように準備され実施され、多くの隊員の方々のすばらしい活躍に結び付くのかを、裕子さんの体験をつぶさに教えていただくことで、この物語を読む方にご紹介することができたら幸いです。
裕子さんは、すでに10年以上前に終わった経験を忘れず、いまの隊員への理解を深め、心こめて応援を送ることを忘れていません。 「 帰国後は是非、赴任地での活動や生活を通じて得たこと、感じたことなどを1人でも多くの方に伝えて頂きたいと思っています」という隊員へのメッセージに、国際協力の意義と、成果についての真剣な想いが込められているのです。
ききがきすと 清水正子
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| ききがきすと作品
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語り人 堀 緑(ほり みどり)さん
嫁に来てくれんか
生まれは、高知県北川村の大谷です。昭和17年3月10日生まれですから、もう73歳になります。二人の姉が、堀の家がある二又に嫁いでいましたから、お義母さんとは、嫁に来るずーっと前から顔見知りでした。私がまだ中学生の時分から顔を合わすと、お義母さんは「おまん、あてく(私の家)の嫁にきてくれんか」って、しょっちゅう言ってましたね。
(隣に座る夫の武士さんを見ながら)この人とは5つ違いで、年の頃もちょうどよかったんでしょうね。それに堀には身内が同じ集落に全くなかったもんで、私と結婚すれば、この人に義理の仲でも兄ができて心強いと、お義母さんは考えたようです。会うたびに「来てくれ、来てくれ」って言いました。
この人の弟は、私と同じ中学校で一学年下でした。お義母さんが私にずっと言うてたことが、弟の耳にも入っちょったんやろうね。なんか、私を見ると恥ずかしそうにするの。今は大阪にいますが、柚子の時期には手伝いに帰って来て、お父さんより私に話を余計にしてくれます。私と一緒に学校へ行っちょったからでしょうね。
大谷は、二又よりまだ奥に入った部落なんです。下に妹たちもいたし、今みたいに交通の便もよくなくて、中学校を卒業しても、高校へはようやってもらえませんでした。その代わりに、毛糸を習わしちゃるという約束で、しばらくは奈半利(なはり、北川村の隣町)に下宿して編み物を習ってました。
けんど、お義母さんからは、「もう早う来てくれ、来てくれ」と、会うたびに言われてました。まあ、その当時、私には他からも話があったわけですよ。若かったけど、百姓の子やから、百姓ができると思われたんでしょうね。私は何にもわかりませんでしたが、姉たちからは、「武士さんは大人しいし、あんた、嫁に来たらどう。いいご縁と思うよ」って薦められました。
ほんでもう、とうとう、この人のところへ嫁いできました。昭和35年の2月4日、節分の日でした。この人は23歳、私はまだ18歳ですよ。本当に若かったと思います。
この人は、2つ上の姉、2つ下の妹、5つ下の弟との4人兄弟姉妹なんです。私が嫁いだ頃は、子供たちも手を離れ、暮しがやっと落ち着いてきたところやったように思います。姉さんは中学校を卒業してから平鍋の郵便局で勤めていて、もう余所に嫁いでましたし、この人は、営林署の二又の事業所に務めに出ていました。
お義父さんを戦争で早うに亡くしてましたから、男手のない農家の切り盛りで、お義母さんはずーっと大変やったようです。人を雇わんといかんかったのが、私が嫁に来て、私の姉たちの旦那さんらぁが、ぎっちり田んぼもしてくれるようになりました。「嫁に来てくれんか」って、お義母さんが私にずっと言い続けた裏には、私をもろうて、その人らぁと親戚付き合いしたいという思惑もあったんやなぁと、そう思ったことでしたよ。(笑)
お義母さんは農業のほかに、四国電力の検針と集金の仕事もずっとしていました。あの頃はまだ、この辺りもバスがしょっちゅう通いよったけんど、三輪みたいな自転車に乗って回ってましたね。それから、バイクの免許を取ったりもしましたよ。もう70近くなってからだったと思いますが、まぁ本当に、元気な人でした。
昔語りの中の『お義父さん』
当時は、お義母さんの姑になるおばあさんが、まだ元気でね。芳さんというんですが、ちょうど数えの90歳になっていました。私たちの祝言の日には大きなお客(酒宴、宴会)をして、また明くる日も「うらづけ」や言うて、お客したんです。その時に、おばあさんの卒寿の祝いも一緒にしたがですよ。きれいな赤いちゃんちゃんこを着せて。そんな写真もありますけどね。
お義父さんの話を、私はそのおばあさんやお義母さんから聴かされました。おじいさんとおばあさんには、なかなか子どもが授からんで、信仰心の厚い二人やったから、お四国を3回も歩いたそうです。「なんとかして跡取りをと願掛けて、一生懸命に回った」って言うてました。
おじいさんは、家のすぐ近くにある若宮八幡宮の神官さんでもあったようで、ある時、神様が「お宮を今より高いところへ上げて建ててくれたら、世継ぎをこさえちゃる(つくってやる)」言うて、教えてくれたんですと。それからは、おじいさんは仕事もそこそこに、一人で石段の一つから道をこさえ、小さくてもりっぱなお宮を建てたんです。お宮の屋根を葺く折には、他の神官さんたちも手伝いに来てくれたそうです。今も家の北に、このお宮がありますよ。このごろは、私が毎月の掃除とお参りをしています。
お宮の2匹の狛犬さんは、芳ばあさんが弘瀬から背負って運んできたそうです。重うて重うて、ほんと大変やった、って話してました。一緒にお参りしたときに、「わしは、こんなにまとう(弱く)なってしもうた。狛犬さん、どうか元のわしにもどしておくれ」なんて、笑いもって言うてたのを思い出しますよ。
信心のかいがあって、父親が44歳、母親が39歳のときに、ようようできた跡取り息子が、お義父さんやったわけで、「これで跡を継いでもらえると思うて、心から嬉しかったわ」って、これもおばあさんがよう言うてました。
お義父さんは、小さいときからすごく器用だったようです。7つのときに藁で編んだ小さなふご(竹や藁で編んだ籠のこと)を、これは一光が編んだがや言うて、吊っちょったがを私も見たことがあります。直径20p、長さが30pくらいの小さいものでしたが、大事に吊ってましたよ。それを見ると芳ばあさんが、こんまい(小さい)手でほんに器用に編んだって、目を細めて話してくれました。
学校を出ると、お義父さんは大工の弟子に入ったそうです。そこの棟梁がちょうどお義母さんの叔父さんになる人で、よい人やと薦められて結婚したと聞いています。一軒の家を建てる一人前の大工になっていたようで、二又にはお義父さんが建てた家が、今も残っていますよ。外からならいつでも見れます。
叔父さんは戦後もずっと棟梁してましたから、お義母さんは長男のこの人のことも大工にやりたかったですと。けど、その叔父さんが気がはしかかった(気が短かった)き、この人にはむごそうで、ようやらんかったって、そう話してました。大工の弟子って修業が厳しいでしょう、特に昔はねぇ。
お義父さんとお義母さんは、昭和8年頃に結婚して、4人の子どもに恵まれました。神様のお告げのとおり、お義父さんは世継ぎの役目はちゃんと果たしたわけですよね。
武士さん(両親、姉と) →
お義母さんが言うには、上が女やったから、お義父さんは特別にこの人のことがかわいかったようです。小さいときに洋服を着せたくて、でも、あの当時この辺りでは手に入らんで、わざわざ取り寄せたそうです。それを、この人は絶対着んかったらしい。この人に訊くと、子どもの頃は、洋服より着物が好きやった、って。それは覚えちゅうって言うんです。それで、お義父さんが怒ったっていう話をお義母さんがしてました。
生きて帰らん、後を頼む
お義父さんは一人息子やったからか、兵役はずっと免れてきたようで、昭和19年、34歳で初めて応召されたということです。海軍でした。年老いた両親と4人の子どもを残して戦争へ行くとき、なんぼか心配でしたろうね。
池田稔さんという、お義父さんの従兄弟、芳おばあさんの甥になる叔父さんがいます。その人は、戦死せず帰ってきました。その叔父さんが、私の婚礼のときに来て、お義父さんの出征時の話をしてくれたことがあります。「一光が、もうほんとうわずか、煙草を吸う間にね、もう俺は生きて帰らんから、無事に帰れたらうちのことも頼むと言うた」って。
「それを思い出したら、本当、二又へ足向けようせんかった。自分は生きて帰ってきて、一光に申し訳ないという気持ちでいっぱいになった」って。本当に煙草を吸う何分かの間に、そう言うたって話でした。その叔父さんは老衰で亡くなるぐらい、長生きしましたけどね。
お義父さんから来た手紙は、お義母さんが箱へ入れて大事に置いてありました。出征したその年の6月にお義父さんの父親が亡くなっています。『親父のお葬式も大変やったろう。部落の人にはみんなぁお世話になったろう』という文面の葉書を、私も見たことがあります。
葬式には間に合わず、その後で一度だけ帰省したそうで、この人には父親の記憶はほとんどないんですけど、そのことはよう覚えちゅう、と言っています。
おじいさんの徳太郎さんの命日は、6月の20日です。78歳で、老衰だったのか、寝付いていたようです。お義母さんが、折に触れ、「一光がおったら、下山へ行って、ヤマモモを買うて来てくれるに、思うたことよ。ご飯を食べず、好きなヤマモモを食べたいとよう言いよった」って話していました。
ヤマモモの時期になると、お義母さんがヤマモモを買って来てお祀りしていたのを覚えていますよ。だから、私もヤマモモを見つけたら、必ず買って帰ります。自分たちは食べんけど、お祀りするんです。
お義父さんは、昭和19年4月に出征して、12月に戦死。また、その父親も、同じ年に亡くなったわけですから、おばあさんとお義母さんの戦中・戦後は、並みの苦労じゃなかったと思いますねぇ。
お義父さんは靖国神社の桜の下へ
お義父さんは、航空母艦雲龍に乗っていて海で亡くなったので、詳しいことは、ほとんどわかっていません。お義母さんが大切に持っていた「結成11周年記念誌 悲運の航空母艦雲龍」という青い表紙の本が残されており、それによると、雲龍は、昭和19年12月17日にレイテへ向かい呉港を出発し、二日後の19日、東シナ海を航行中、まず艦橋下に敵潜水艦レッドフィッシュの雷撃を受け、さらに10分後の魚雷が右舷前部に命中して、午後4時半頃から数十分の間に艦尾を上にして沈没したということです。生存者が本当に少なかったようで、それ以上のことは、ほとんど伝わっていません。
← 堀一光さん
お義父さんの戦死の知らせをもらって、遺骨を引き取りに行ったけど、木の札一枚が入っちょっただけやったようです。海軍で、船で沈んでしもうたんやき仕方ないことやけど、それは辛かった言うて、芳ばあさんがよう話してました。戦死の報をもらったとき、お義母さんはまだ28歳。『この若い嫁が一人で頑張って4人もの子どもを太らしてくれるろうか』という心配も大きくて、本当に辛くて悲しい思いをしたようです。
お義母さんは、亡くなった人のことは、あんまり話しませんでした。ただ、この人に、「一光は大工で、謡までうたう男やったに、まことおまえは似ちょらんのう」って、言うてました。この人は、謡どころか歌も歌わんし、おしゃべりも嫌いやき、そんなことを言うのを聞いたことはあります。それ以外には、お義父さんのことはほとんど言わんかったね。前向きに生きる人やったし、哀しいことらぁ、あんまり振り返る人じゃなかったね。
けんど、いつのことやったか、お義母さんが私の長男に「お骨と言うても何も入ってない箱をもらって、連絡(当時は森林鉄道に客車を付けて人も乗せており、こう呼んでいた)に乗って帰るに、いつもの北川の景色が、本当にもう全然違うように見えた」と話して聞かせたことがありました。
そのとき、私の長男が何か言うておちょくりよったら、真顔になって、「あんたに、おばあちゃんのあのときの気持ちがわかってたまるか」言うて、まぁ珍しゅう、けんかしましたがね。長男は笑うしかのうて、「ほら、わからんねぇ、そんな言われても」って。「おばあちゃん本人にしか、わからんわね」って言い返してましたねぇ。
そんなお義母さんが、前述の記念誌にお義父さんを偲ぶ一文を寄せています。お義父さんが呉に会いに来るように便りを寄こしたのに、行かなかったことをずっと悔やんでいることや、お義父さんが休暇を取って最後の帰省をしたときに「靖国神社の桜の下へ行く」と言ったことなどが書かれています。
お義母さんが、呉によう行かんかったということをずっと残念に思ってきたことなど、私は聞いたことがありませんでした。記念誌を読んで、最後なら何としてでも会いたかったやろう、無念やったろうと思ったことです。
靖国神社へは、私が嫁に来てからでも、お義母さんは2回、この人が1回行ってます。遺族会の大寺萬世子さんが、いつも私にも声かけてくれるけど、ちょうどお盆の時期やから、なかなかよう行きません。東京の妹のところの結婚式に出かけたときに、個人的にお参りしたことがあるだけです。雲龍会の高知での会には、お義母さんが姉さんと二人で出席したことがあって、会場は三翠園だったと聞いたように思いますよ。
女二人での子育て
お義父さんが亡くなったとき、9歳を頭に4人の子どもがいたんです。女二人でなんぼか苦労したことかと思います。この人はまだ6歳。小学校1年生だったと聞いています。一番下は、まだ2歳やったから、お乳飲んでた言うてました。この弟は暴れもんで、ほんで、田んぼ植えよっても飛び込んできて、いかん言うても、聞かんとお乳を飲んだ言うてね、お義母さんが話していたのを思い出します。
また、姑の芳ばあさんは喘息を患っていて、お義母さんが背負うて一緒に連絡に乗って、病院まで連れて行ったって、本当に大変やったって話してました。いろんな苦労があったみたいです。ほんで、小さい子ども4人を真ん中に寝させて、芳ばあさんとお義母さんと二人が脇に寝て、そうやってしたって。
芳ばあさんが女房役を家でして、昔は機械なんかないから、籾をとったら筵へ干して、夕方はそれを取り込んで。家での細々した仕事は、おばあさんが全部してたみたいです。お義母さんは、男みたいに外へ出て仕事せんといかんかったから、家の近くの田んぼとかは電気を暗がりに引っ張っていって、夜もすがら植えたって話していましたよ。そうやって仕事したって。営林署へ、軌道の修繕に行ったりもしていたようです。
この人の兄弟に、「お母さんのことで何が記憶に残っちゅう」って尋ねると、4人が4人とも「叱られたことよねぇ」って答えるんです。お義母さんは、ちょっと気がはしかい(気が短い)、パッパパッパ言う人やったき、子どもはみんな怒られもって育ったみたいです。この人の妹も「私はお母ちゃんに怒られた記憶しかない」って言うてます。
一方で、芳ばあさんという人は、几帳面な、本当に穏やかないい人でした。本当に神さんみたいな人やったがですよ。この人の性格が、だいたい似てますけどね。おばあさんが、4人の子どもの避難場所になったんじゃないかと思いますよ。
この人の弟の面白い話があります。弟は本当にコトコトコトコト悪りこと(いたずら、悪さ)しましたと。この人はせんかったけど。人んく(よその家)の芋を掘ったり、桃を取ったりね。そんな悪りことしたわけ、昔はね。ほんで、「おまえみたいなもんは出て行け」言うてそりゃ怒られて、風呂敷包みを首へ括り付けられて、追い出されたと。
そしたら、そのまま出て行ってしもうたんやって。どこへ行ったか、夕方になっても帰らん。どうしゆうろう思いよったら、日が暮れたき寂しゅうなったもんで、台所の戸をほんの少し開けて、顔を出して、ニタッと笑うたらしい。この弟は、ニコニコ笑顔のえい人ながよ、本当に。かわいらしい顔しちゅうもんやき、その顔を見て、みんなぁが、噴き出したんやて。この話は、何べんとなく聞かされました。
芳ばあさんは、「4人の子どもが誰もぐれもせずに、素直によう育ってくれた」ってよく言っていました。お義母さんに、もうガンガン怒られるから、「おまんらぁ、そんなに怒られたら腹も立つろう」言うて訊いたら、この人が、「もう安もんのラジオが、ガンガン言ゆうと思うちゅう」って応えたって。おばあさんが笑いもって話してくれました。この人がちょっと大きくなってからのことのようです。
お義母さんに育ててもらった
お義母さんには、自分の娘が二人いるんですけど、私は実の娘たち以上に大事にしてもらいました。ほぼ50年、ずーっと一緒に暮らして、私はお義母さんに育ててもらったんです。自分の母より、ね。パッパパッパとものを言う人で、性格は私の母とは正反対。だから辛いと思うこともありましたけど。
口うるそうに言う人ではあったですよ。でも、私も、こんな性格ですから、いつまでもめそめそはせん。嫁いできた当時は、お義母さんの言うとおりやったけど、じっと辛抱する時期を過ぎたら、偉うなって、「お義母さん、ああやんか、こうやんか」って、涙落としもってでも言うてました。でも、言い終わったらもうすっぱり切り替えて、一緒にご飯食べて「あれ食べ、これ食べ」言うてやってきたんです。
お互いに、そんなあっさりした性格で、似ていましたね。中学生の頃から私の事を見ていて、この子とやったら、やっていけると思ってくれたのかもしれません。この話を聞いた息子の嫁が「いつの間にか、お義母さん、反対になってましたね」言うて笑いましたよ。
けど、私が涙落としもって太らした(育てた)ことを、息子たちはよう覚えているみたいです。おばあさんが、ガーガー、ガーガー言うたに、お母さんがよう辛抱して、ぼくらぁを太らしてくれたという気持ちは、今でも持っちゃせんろうか。お母さんのことは絶対、大事にせないかんと思うたいうふうに、成人してから言うてくれました。それだけで、ねぇ、幸せです。
家のことだけじゃなく、四国電力の検針の仕事も、私はお義母さんの跡を継いで、定年までさせてもらいました。私が入った頃にはもう止まってたけど、お義母さんたちの頃は、電力がみんなを春と秋には必ず一日旅行に連れて行ってくれたがですよ。昔はね、奈半利に増田屋いう呉服屋があって、お義母さんはそこで着物を作って帯を合せて。帯付けでしゃんと着物を着て、それへ行ってました。
声がよかったですき、坂恵さんがきれいに着いて(着つけて)歌を歌うてするがを、電力のおえらい方もみんなぁ楽しみやった言うて、先輩たちから私も聞かされました。お義母さんは、ほんまに声がよかったわ。それに社交家で、おしゃれでした。仕付けを取らん着物が、まだいっぱい残ってて、妹が縫うもんで、大島とかを私のチョッキにしてもろうたりしてますよ。
お義母さんの思いを継ぐ
私たち夫婦には、男の子が二人います。長男は光(あきら)、次男は力(ちから)といいます。全部、お義母さんが付けました。
長男のことを、お義母さんは、もう可愛くって、可愛くって。世界中の何ものにも代えがたいというように、大事にして太らしてくれました。跡取り息子のお父さんの代わりやったんでしょうね。お蔭で我儘に太ったけどね。
今はもう笑い話やけど、お義母さんは、2階の自分の部屋へ光を連れて行って、自分のお乳まで飲ましてました。私のお乳は止めても、光が乳が恋しい言うたら、自分の乳出して飲ますんです。そしたら、本当に乳が出てましたよ。ほんでね、お客(酒宴、宴会)の席でもどこでも、「こんな人のおるく(居るところ)で飲んだら人に笑われるぜ」言うても、もう聞かんと飲んだ。4歳、いやぁ5歳くらいまで飲んだろうかねぇ。
本当に可愛ゆうて、下の子とは全然違う可愛がり方をしましたよ。どこへ行っても、連れて行ったものね。旅行に行った折の、どの写真見ても、光が一緒に写っちゅう。「あたいはね、死ぬるときは、光に抱いてもろうて死ぬる」そんなこと言うてました。もう、その子もおんちゃんになったけどね。
長男は、就職してからもずーっと、敬老の日には欠かさずにおばあさんに何か送ってきましたよ。「おばあ、いつまで生きちゅうがなや」言うて、冗談言いもってでもね。おばあさんのことは、心底大事にしたと思うよ。
あれは徳太郎さんとお義父さんの、・・何年の年忌のときやったかな。確か、50年やったと思います。徳太郎さんが神官さんみたいなことをしてましたので、死んだら神にしてくれ言うたそうで、あの当時は神宗に替えてました。二人は同じ年に逝きましたから、年忌も一緒にやってたんです。
その祀りのとき、私は台所でバタバタ忙しゅうしてたんですけど、お義母さんが、みんなの前で言うたがですと。「財産はこの子に、武士に譲ってくれいうのが、夫の一光の言い置きやった。頑張って子どもたちを育てて、やっと家も田畑も何もかも武士に譲りました」って、ね。
苦労したけど、こうして武士にちゃんと譲って、孫もしっかり育っているから、何の心配もない。今日はみんな揃って、50年の年忌をしてますき、言うてね。なんかまだ、いろいろ言うたらしくて、みんな泣きもって聴いた言うてました。「おばあは、すごい」言うて、誉めてました。
私はよう聴かんかったけど、神官さんも「今日のおばあさんの話に、わしはもう泣いた」言うたがですよ。「どんな話しした?」いうて訊いたら、この人の従兄弟らぁも「おばあは、なかなかいい話をした。あれやなぁ、本当にえらかったと、今日はつくづく思うた」と、そんなふうに言うてましたね。
お義母さんって人は、早うに亡くなった夫に代わって家を守って頑張って頑張ってやってきた人で、男勝りな性格。お金についても、必要なときにパッパと出してくれました。子どもが結納金するときに、ポンポンと出してくれたり、家の屋根の瓦を替えないかんいうときにも、それも何百万もいるとき、ポンと出してくれたりしました。
大胆にパッパパッパ出してくれたけど、「あてが死んでもお金は残っちゃぁせんき。残っちゅうとは思いなよ」って。「いや、思わん、思わん。今の大変なときに出してくれて、ありがたいき」言うたことでした。
あれはいつのことやったか、「もうこれはすべて、あんたにあげる」と、貯金や恩給の関係のものを、それこそ全部出して、私に渡してくれました。88歳にはなっちょったろうか。まだまだ確かな時分やったのに、何もかも預けて任す。そんな人でした。
それからは、私が全部預かって、隣近所のこともこの人の兄弟や親類のことも、お義母さんに代わって必要なときに必要なだけ出しています。恩給とかも全部私が引いて、お義母さんに「小遣いに、これ入れちゅうよ」言うて渡すと、「普通貯金のこれだけあったら、私はいいから」って、全部私に任せてやらせてくれる、・・そんな人でした。
だから今度は、私の番やと思うています。息子や孫が結婚して独り立ちするというときには、「お母ちゃん、いいわ、こんなに」言われても、「いや、私はおばあちゃんにしてもろうちゅうき、その分、今度は私が返さんと、おばあちゃんに叱られる」言うてね、ちゃんとしてやるんです。
息子らは「そう?それで、いいが?おれら事足りるで」言うんですけどね。「事足りても、それは順番」言うてね。この四月にも、孫の正の婚礼があって、やはり同じようにしたことでした。息子からは「ありがとう。これから気持ちで返していくからね」って。それだけで気持ちは十分通じて、何か嬉しいですね。
息子らぁが結婚する、家を買ういうても、この人は、うちにお金があるやら無いやら、全くノータッチ。私がせざるをえんがです。まあ、お義母さんの考え、思いは、ようわかってますから、同じようにやっているんです、私も、ね。
「美味しい!!」がつなぐ心と心
お義母さんを見習ってやってきましたが、一つの家の中ですから、互いに補い合ってやってきたこともありますよ。お義母さんは、外で仕事せんといかん人やったから、料理は苦手だったんです。だから、結婚した明くる日から、私が炊事は全部しました。私が嫁いでから、お義母さんが料理することはなかったですねぇ。
今でも、この人の妹が言うがですよ。「お母ちゃんは、料理に手をかけんかった。お母ちゃんに何の美味しい料理も作ってもらった記憶はない。けんど姉さんが来てから、いろんなもの作ってくれて食べさせてくれて、美味しかったことはよう忘れん。一生忘れん」って。義妹はクリーニング屋しよったもんで、こっちにもお客さんが多くて、毎週来てました。だから、よく一緒に食事したんですよ。昔からお義母さんは、料理するのは不得手で、嫌いやったみたいです。
私は、貧乏して育ちました。田んぼをいっぱいつくるに人を雇わないかんでしょう。事業所の奥さん連中を雇うたら、母親が学校から帰った私に、「緑、こうこうしておかず作って、食べらしよ」言うたまま、帰って来んがです。ほんで、私が、そのおばさんたちに料理作って食べさせてきました。年が離れちょった姉二人も、妹らぁも、そんなことは全然してないんです。私だけが、そんなふうに小学生のときから使われてやってきましたよ。
お義母さんも、私の料理はそりゃ喜んでくれたねぇ。山のことなら(なので)近所に店はなくて、魚など時折回ってくるお魚屋さんから買って、冷凍庫へ入れてありました。その魚をうまく料る(料理する)と、お義母さんが「ご馳走じゃね。今日は、魚屋が来たかよ」とか言いもって下りてくる。私が「冷凍の魚を料理したがよ」と応えると、「こりゃ、ご馳走じゃねぇ」言うて喜んで。食べたら必ず、「ご馳走、ご馳走、うまかった」って言う人やった。 それは感心なくらでした。
お義母さんが亡くなってからは、最近、この人が「ご馳走、ご馳走、うまかった」言うわね。似てきた、似てきた思うて、おかしい。何にも言わざったにね。最近、そんなに言い出しました。
料理は好きなんです。でも、この人からは、「料理の作り過ぎよ。よう食べてしまわん。結局、余ったら捨ててしまう。食べてしまうまで作るな」って言われます。けんど、嫌よね、何度も同じものばかり食べるのは。作って並べたら、お父さんが、「これもうまい、あれもうまい。けんど、もうたった(飽きた)」言うて笑うわね。
息子らも言います。私は料理する仕事をしたこともあるので、作って食べさすでしょう。そしたら、「お父ちゃん、あんた幸せやね。こんなうまいもん、いっつも食べて」って。
最期まで心通わせて
お義母さんの最期の3年余りは、『ヘルシーケアなはり』でお世話になりました。私は絶対外へやらんと家で看たいと思いよったんですけど、私が病気になったのを心配した村の社協の方が、「緑さん、もう、ちょっと無理じゃなーい」って声をかけてくれて、それで、あずかってもらうことになったんです。
それでも毎日行って、車いすに乗せて、裏の桜のところとかへ連れ出して。下へ降りるとヘルシーの事務所の人とかが、「坂恵さん、あんた、今日は普段と顔が全然違うで。そんなに嬉しい?お母さんが来てくれたら」とか言うて、てがう(からかう)がですよ。「そりゃ、嬉しいわ、お母さんが来てくれたら。誰が来てくれるより、嬉しいわ」言うてね。喜んで、毎日待ちよったね。それはね、娘らが来てくれるより誰より嬉しい言うて、喜んでくれました。
最期の1年くらいは好きなもん食べさせたくて、私が頼むと栄養士さんらぁも何にも言わんで、私が持って行くものを食べらしてくれてねぇ。一緒に腰かけて、お義母さんの分は私が食べて、ほんで作っていったのをお義母さんに食べらして。今度は何が食べたい、って訊くと、海老とか蟹とか、・・・あんなものがうんと好きでした。栄養士さんが上がって来て、「坂恵さん、あんた、今日も正月料理食べゆうかね」って言うと、嬉しそうに笑ってましたよ。
お義母さんは、心太(ところてん)が大好きでした。私は趣味で大正琴やってるんですけど、友達と大正琴の教室へ行くときに、お義母さんとこへ心太を持って寄ったりしました。「ちょっと待ちよってよ、私、おばあちゃんに心太食べさせて来るき」言うて、上がって。
それを見た友達が、今だに言うんです。私はあんなことようせん、って。汁がいっぱい入っているでしょう。その汁を私が吸いもって、おばあさんに食べさせた、言うてね。「あんなこと気持ち悪うて、私は、ようせん」って、ね。私は、それが何ともない。そうやって何度も、おばあさんに食べさせましたよ。
お義母さんの最期のときに、ヘルシーの吉本先生もね、「実の親子でも、ここまでの仲はないよ」と言うてくれました。「なんぼ大事に看よっても、ちょこっと帰った間に亡くなったりすることもあるのに、坂恵さん、あなたは最期まで大好きな嫁さんに手を握ってもらって、本当に幸せやねぇ」っておっしゃった先生の言葉に、お義母さんの目からツーっと涙が流れたがですよ。そんなことってあるろうかと思ったけど。
ヘルシーでお世話してくれる人たちも、「緑さん、坂恵さんとは本当に通じ合うちゅうがやね」って、よく言ってくれたんです。心が通じるって、大切にしていきたいですよね。特に、お年寄りには、ね。私は民生委員でいろいろ回って行きますが、上辺で上手に言わなくても、心が通じてる、・・そんな関係でいられたら、何とかなるもんです。そう思っていますよ。
お義父さんに連れられて・・
お葬式の挨拶するのも、この人は口が重うてしゃべらんので、長男がしたがですよ。光がね。お葬式の挨拶の中で、私に、「三日にあげず通うて世話してくれた。この場を借りてお礼を言うてくれ、いうことやき、一言お礼を言う」ってね、言うてくれました。涙がひっとりこぼれてね、なんかね。
お義母さんの最後の誕生日にと、皆が病院に集まったときのことやったかなぁ。この人の弟がね、「おばあさん、あんたの一生は、若い頃は苦労したかもしれんけど、姉さんが来てからのおまんは、極楽やったね」そう言うてくれました。この人の姉さんも「緑さん、あんたには足向けして寝られん」って言ってくれましたね。だから、光に言うちゃぁったんでしょうね、この人の姉さんとか妹や弟とかが。
お義母さんは、平成21年の12月20日、94歳で亡くなりました。お義父さんの命日が、一日違いの12月の19日だったでしょう。それで、私が長男に「いやー、もう一日で、おじいさんと同じ命日やったね。」と言ったんです。すると、「おかあちゃん、それは、船が沈んだがは19日でも、息を引き取ったがは20日かもしれん」って応えたがですよ。
あぁ、そうかもしれんね、と私も思ったんです。雲龍が沈んだのは19日の夕方と記念誌にも書いていました・でも、あの子が言うように、お義父さんが息を引き取ったのは20日やった・・・、そんなこともあるかなぁ、って。そう、それで、お義母さんを連れに来たかな、って思いましたね。
お義母さんは、私に、することも本当にしてくれたし、また、ああやって最期まで私を頼りにしてくれました。そのことが、私には、本当にありがたかったと思います。長い年月、一緒に暮らせたことに、今は心から感謝しています。
お義母さんが残してくれたもの
この人は、本当に芯から優しいきね。お義母さんが大変なときに、風呂から出して汗に浮いて(汗をかきながら)世話しよったら、扇風機をくるっとこちらへ向けて回してくれる。それだけでも嬉しい。あぁ、ようわかっちゅうわ、思うてね。まぁ、トイレの世話は、とっと逃げて行って手伝うてはくれんかったけどね。自分の親やに言うて、私が怒るときもありましたよ。でも、私に、「今があるのは、お母さんのお蔭。頭上がらんね。ありがとう」なんて、言ってくれるんです。優しい人なんです。
また、この人の弟は、高校を卒業すると関西へ出て就職し、今は大阪にいます。もう退職しましたが、柚子の忙しい時期には、遠いのに手伝いに来てくれるがですよ。この80歳近い人を「兄ちゃん、兄ちゃん」って呼んでね、二人がすっごく仲がいい。羨ましくなるくらい。この人も、我が息子に言うより言いやすいかねぇ。あれせぇ、これせぇ、言いつけてやってます。
先日、次男のところの孫が結婚式を大阪でしまして、それへこの弟も来てくれちょって、「もう本当、二又へ帰ったら落ち着く」言うてくれるがですよ。私は、それが嬉しい。いつまでも『帰りたい』って気持ちでいてくれることが、ね。
その帰り、空港まで次男が私らぁ二人を送って来て、「お父ちゃんとお母ちゃん、ほんなら仲良うに元気でやりよ」言うて、ポンと肩をたたいてくれました。見えんなるまで手を振ってくれゆう姿に、つくづく優しゅう育ってくれたなぁと思ったことでした。
この人の兄弟姉妹、みんな元気にしています。姉さんの旦那さんは亡くなったけど、あとは、みんな夫婦ともに元気です。大阪と高知に分かれて暮らしてるんで、みんなが揃うのは婚礼のときくらいだけど、仲は本当にいいですよ。お義母さんが残してくれた一番の財産かもしれんね。みんなぁが、こんな私を頼りにしてくれるのも、ありがたいです。
姉さん(平岡智恵美さん)のところは、女の子一人、うちは男の子二人で、妹(奴田原節子さん)のところが女の子、男の子一人ずつ、弟(堀郷士さん)ところも女の子、男の子一人ずついますよ。姉さんのところの孫二人も、うちの孫と同じくらいに結婚してね。私も早う曾孫つくって欲しいと思うてます。
お義母さんは、がむしゃらに働きもって、子どもをみんなしっかり育てたき、えらかったと思う。お蔭で、今、こうやって幸せにやってますもんね、みんな。このことが、一光さんの一番の供養にもなってると思います。
お墓も近いから、私は、お芳さんと徳太郎さん、一光さんと坂恵さんの命日には、毎月お参りします。お線香焚いて、月命日のお参りは欠かしません。この人も、それには感心してくれますよ。
この辺りも段々と人が減ってきたけど、上(かみ)や下(しも)から若いお嫁さんらぁが、ちょこちょこ訪ねて来てくれます。「緑さんくへ来たら、いつもホッとする」言うてね。長いこと話しよって、この人が帰って来たら、「いや、おんちゃんに、まだおるか、って言われる」言うて、慌てて帰るけどね。話を聞くだけなんやけど、みな、寄って話してくれる。この人に、風呂も溜めんと話しゆうがか、って笑われたこともあるけんど、ね。「また、堀喫茶に行きます」いう年賀状くれる人もいますよ。
こんな今の生活も、お義父さんとお義母さんが、伝えて残してくれたものなんかなぁって、大事にしていきたいと思うんですよ。
「結成11周年記念誌 悲運の航空母艦雲龍」から
主人の思い出
堀 坂恵(戦没者・堀一光の妻)
私は大正4年に安芸郡北川村小島で生まれました。地元尋常小学校六年を卒業し、しばらくの間家の農業の手伝いをしておりました。
父の弟で大工の棟梁をしている人がおり、その弟子に堀一光がおりました。「よい男だから結婚した方がよい」と叔父に薦められまして18歳で結婚いたしました。
結婚後は、子供四人(男2人、女2人)に恵まれて貧しいながらも平和な生活を送っていました。
主人に召集令状が来たのは昭和19年5月のことで、役場から赤紙と称する令状が来たのです。「〇月〇日までに佐世保海兵団に入団せよ」ということです。そのころ子供は上が小学二年、下が1歳半でまだ手のかかるまっ最中でした。出征祝いは親戚の人々が集まってくれて、配給の酒を持ち合って形ばかりのお祝いをいたしました。
夫が入団して間もなくの6月に祖父が死亡したので、海軍で休暇が取れて一時帰郷しましたが、葬式には間に合いませんでした。その時の話で「今乗っている(または今度乗る)艦は航空母艦だが、改造したもので大きなものではない。偉いもまたい(「弱い」の意だが、ここでは「身分や位が低い」の意)もない、死ぬる時はみな一緒だ」ということを言っていました。海兵団入団以来、3回程たよりがありましたが、最後の手紙には「しばらくたよりはだせないが、心配せんでもよい。この前買った革靴を大事にしてくれ。親を頼む」ということで、配達されたのが19年の12月23日です。すると既に戦死してから後に着いたことになるわけです。
また、19年の12月には「今呉にいるから逢いに来てくれ」とたよりがありましたが、子やらいの最中でもあり、道中も不案内でしたので「行けない」と返事しましたが、その直後に戦死するのであれば無理してでも面会に行くべきであったのかと今でも残念に思っています。
終戦後役場から「雲龍乗組中、沖縄北方海面の戦闘において戦死せり」と連絡があり、その後は泣くより外に仕方がありませんでした。兵隊の妻はしっかりしなくてはと覚悟は決めていましたが・・・・・
その後、遺骨が帰ってきて安芸の公民館で白木の箱を受け取ったときは、泣けて泣けて、本当につらい思いをいたしました。
家は五反余りの田んぼがあり、牛を飼っていたので人を雇って田植えの準備などを手伝ってもらいましたが、何様女手一つで四人の子供を育てなければならず、言うに言われぬ苦労の連続で一生を過ごしました。
今でこそ月10万円くらいの遺族年金を頂いていますが、主人が「子供を頼む、靖国神社の花の下へ行く」と最後に話していたことを守り、靖国神社へも2回お参りをいたしました。安芸郡の山中ではありますが、親子六人が平和な生活を過ごしていたのに戦争のために引き裂かれ、悲しみの連続で終わりました。
英霊の安らかならんことをお祈りいたします。
<参 照>
『結成十一周年記念誌 悲運の航空母艦 雲龍』
発行日:平成十二年二月十九日
発行者:高知県航空母艦雲龍会
会長・明神一
編集者:高知県航空母艦雲龍会
事務局長・松永 亀喜
あとがき
堀緑さんは、ふわりとやさしい雰囲気の方で、初対面であることを忘れて、話し込んでしまう、・・・そんな聴き書きになりました。お義母さんとの半世紀を超える生活の中で、戦死されたお義父さんのことを含め、堀の家の歴史とも言える多くの事を引き受け、昇華し、後へ繋ぐ。そんな役割を果たしてきた緑さんのお話は、そのまま昭和という時代の証言にもなっていると思います。
昭和から平成の世となり、暮しも家族のあり方も大きく変わりました。先の大戦も、緑さんとお義母さんのような嫁と姑の関係も、遠い昔話になろうとしています。しかし、戦争のことを忘れず、人の繋がりの暖かさを思い起こすことが、今、何よりも求められている。そんな気がするのは、私だけでしょうか。
緑さんの昔語り、たくさんの方に読んでいただきたいものです。
(ききがきすと:鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 22:33
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語り人 坂本武一(さかもと ぶいち)さん
北川村に生まれ育つ
おやじは、人の世話ができる人で、周りに薦められて渋々でも村会議員を2期はしたと覚えちゅう。もめごとの調整役をようしよった。田んぼで牛を使いよっても、人が相談事があって来たら、牛を居ながら(そのまま)置いちょいて行ってしまう。後で母がひどい目におうたと、愚痴りよったわよ。兄弟は、わしの上に姉が2人、下には妹が1人に弟が3人もおったき、家はにぎやかなもんじゃった。
奈半利川の懐に
北川の村を東西に二分して流れちゅうのが、奈半利川(なはりがわ)よ。和田の辺りは、左岸地域を影、右岸地域を日浦と言うて、当時は41軒の家があった。今はもう、ずんと減りよらぁ。余所へ出て行って、安芸辺りにありついた人も多い。今は、19軒かなぁ。星神社の係をしゆう人が、その数ばぁ(くらい)はあるけんね。けど、一人暮らしとか、そんな人ばっかりや。
日曽裏は、影にある集落で、学校のある小島は日浦にあったきに、ぐるりと遠回りして大きな吊り橋がかかった県道へ出にゃならんかった。けんど、すぐ向かいの瀬詰で、しょっちゅう部落の会があったもんで、吊り橋の方まで回らんでえいように、木を引いただけの丸太を組んだ橋を架けちょった。家からその丸木橋までは、子供の足でも5分とかからんかって、みながよう渡りよった。
その丸木橋で、わしのすぐ上の姉の民子(たみこ)に不幸があった。小学校1年にはなっちょった。冬休みのことや。昔の奈半利川は、水量もようけあったし流れもきつかった。丸木橋の下は、冬場でもシャーシャー大きな瀬音をたてて、怖いように流れよった。大人でも、「こりゃ目が舞う(回る)」言うたもんよ。
姉は向こう岸の友達の家へ行こうと橋を渡りよって、こけてしもうた。一緒におった友達が家に知らせに走り込んだが、助けたときはようけ水を飲んじょって、もう駄目やった。正月の寒い日のことやったと覚えちゅう。
それでも夏になったら、奈半利川は子どもの一番の遊び場で、学校から帰ったら、弟や友達と連れだって一日中遊んだもんよ。鮎をついたり、手長海老を取ったり。昔の奈半利川はきれいで、鮎もこんな大きいががおったぞ。それを食たら(食べてみたら)、なんとも言えんかった。今の鮎は、もういかん。
手がうんと長い海老もどっさりおって、面白いように獲れたもんよ。電発(巻末注参照)が工事をしてからは、あんまり見えんなっつろう。夜、火を付けた「いさり」いうがを持って、流れのゆるいところへ行くと、灯りを追わえて手長海老が石のところからゴゾゴゾゴゾゴゾ出てくるがじゃき。それをタマ(竹や針金の口輪のついた袋状の網)で獲るがよ。慣れんうちは、どうしてもようおさえん(捕まえれん)。前向きには行かんと、後ろへしさるき(退くから)。ほんじゃきに、ケツの方へタマを持っていかんと。そしたらタマへ入る。初めはそれを知らざったき、なんぼ前へ構えても、獲れるもんか。大きなががおったぞ、昔の奈半利川には、なぁ。
あの日も、何人かで来て、泳ぎよった。小学校へは行きよったき、1年生にはなっちょったろう。昔の奈半利川は、川幅も広いし、岩のような大きい石もあって、川の流れが、あんがい順調じゃない。一つ間違ごうたら、うんと瀬の早い方へ流される。しかも、そこは深い淵じゃ。
こもうても(小さくても)川では達者じゃと思いよったが、行きそこのうて、淵に呑まれて流された。それをちょうど一番上の姉の幸美が覗きよって、「早う助けて、助けて」いうて大きい声で叫んでくれだ。そこにたまたま、山田秋美さんという同じ和田の若い衆がおって、助けに飛び込んでくれた。もっと上級生になっちょったら、どこででも泳ぐばぁの力はできちょったろうけんど、あのときは姉の後を追うて、おおかた逝きよった(ほとんど死ぬところだった)。秋美さんは、命の恩人や。
あの頃は、この奥から材木を結構たくさん出しよった。魚梁瀬の国有林からは、太い材が出たきね。秋美さんは、伐採した木材を、海まで川を流して運ぶ作業の途中で、何人かの仲間と休みよったらしい。流す作業をする人が県外からも来よって、和田には、その人らぁが泊まる家もあった。家の建前が独特で、家族の居るくとは別に、その人らぁの居るくがあるように、1軒の家を分ける建て方になっちょった。森林軌道ができるまでは、奥の島あたりから木材を流す仕事がずーっと続いたわよ。
入営のため広島県福山へ
あの頃は、成人したら男は徴兵検査を受けて、合格したら2年か3年は兵隊に行かなならんかった。わしも20歳になった昭和18年に徴兵検査を受けて、その年の12月に福山に入営した。父と秋美さんの二人に送ってもらったことは、よう覚えちゅう。
当時、北川村では、入営する若者が連れだって遺族會館のところの上の段に、村の人たちが下の段に並んで見送りしたもんじゃった。村長さんが励ましの言葉を言うた後、みなで万歳三唱して、行く人たちが「頑張ってきます」いうて応える。名を記したノボリ旗がはためいて、華々しいもんじゃったぞ。
けんど、わしが兵隊に行くときには、北川村で一人じゃったきね。そういうのはなかった。野友の手島トシオいう人と二人じゃと聞いて、一緒にと思うて探したけんど、ちょうど愛媛の方へ行っちょる(行っている)とのことで、よう会わんかった。ほんで、連れだる(伴い行く)こともないままよ。
入営してから、その人に会うたけんど、野戦に一緒に行くことはなかった。どこへ行ったかはわからん。知っちゅううちでも、二人ばぁは野戦へ行かんかったがもおっつろう(行かなかった者もいただろう)。
わしらぁの隊は、日本全国、北海道から九州までの人がおる混成部隊やった。福山の西練兵場に集まって、迎えに来ちょった若い班長さんに連れられて、そこからすぐに船に乗った。玄海灘を越えて釜山港へ向こうたが、酔うて酔うて。そりゃ、玄海灘の12月いうと、荒れるときじゃもの。便所へたけだけ通うて、治まりゃつかざった(便所へ行き通して、何ともしようがなかった)。初年兵がよけ(多い)じゃろう。20歳ばぁの若い兵隊でも、船には酔うわね。
平壌での訓練
そこから平壌までは汽車に乗った。途中で降りて休むこともあったが、おおかたは汽車に乗ったままで、3日もかかって、ようやっと着いたことよ。すぐに正月やって、鯛をもろうて食べたことを覚えちゅう。
平壌での訓練が始まったが、海軍とは大分違う。弟の恒喜が行っちょった海軍では、叩かれて叩かれて、「腰が痛い、痛い」言うちょった。下手やから、上手やからというのではない。海軍の習わしみたいなもんよ。「はい」と言おうが何を言おうが、頭からじきに棒が飛んで来たと。
けんど、わしらぁの部隊では、そんなことはなかった。志願で募集しちょったき、朝鮮の人がどっさりおったが、将校らぁは、その朝鮮の志願兵らぁをそりゃ大事に言うたわよ。朝鮮人が逃亡するろうがよ。わしらぁは、別にどうもないと思うちょったけんど、何日もかけて丁寧に探さないかんかった。日本人にも、そうよ。あんまり叩かんようにしちょったねぇ。
福山の聯隊が平壌へ引っ越したがやき、大きな部隊ができちょった。けんど、みな、あの平壌の寒さには閉口したねぇ。そりゃ、凍るばぁ冷い。夜が来たら、川が凍って向こう岸へ渡れた。そんな厳しさが遅い春が来て、やっと和らぐ。5月には、川の両岸で洗濯ものをたたいて洗うのも見たわよ。
わしらぁ初年兵は、まぁ、学校で言うたら一期生(一年生)みたいなもんよ。一期生の訓練を冷い強い風が吹く中で受けよったところに、高く丸く土を盛っちゅうもんがあった。ちょうどいい塩梅やと、風が吹かん方へ回りよったら、後ろから「これは何か知っちゅうか」いうて訊かれて、「知らん」と応えたら、「これは朝鮮の墓ぞ」と教えてくれた。昔の皇族の墓やったらしい。
ミンダナオ島北端のスリガオへ
わしが所属しちょったのは、歩兵第41聯隊の第3大隊やった。さあ、何人くらいの部隊やったか。5、6百人とはいわんかったろう。聯隊長は炭谷鷹義、大隊長は近藤泰彦。間違いない。
朝鮮での訓練の後、5月の上旬に、どこへ行くとも知らされんまま、汽車で平壌を出た。釜山に着いて、鉄砲へ孟宗竹みたいな竹を括り付けて、それを担いで船に乗り込んだ。ごまかしよ、ごまかし。その竹は船の上から捨てて、処分したと思う。
船に乗っても、初めは行き先もわからん。わしらぁに言うてくれるもんか。今度の船は1万トン級と太うて、船底には、馬も積んじょった。わしは船には弱かったが、今度は船が大きかったからか、玄海灘のときと違うて酔うことはなかった。
あの頃は、船が攻撃されることも多かったが、幸せなことに、わしらぁの乗った玉津丸は無事に進んだ。非常演習いうて、船倉からみんなぁ甲板へあがって、訓練もしながら行った。整列して前の人の襟元を見たら、シラミが這いよって、わしは気色悪うて生きた心地がせんかった。そのとき初めてシラミを見たきにねぇ。それに、まだ5月やに暑うて暑うて、汗疹も出たりしたわよ。
船は、フィリピンのマニラに寄港して、5月下旬にはミンダナオ島の北端にあるスリガオに上陸した。行くには行きついたものの、そこから先は何の見通しも立たん。日本にもどれるかさえ、わからんと思うた。
討伐の日々
朝鮮の人も日本人に混ざって行っちょったが、そう多いわけじゃなかった。部隊が決まり、兵卒はみな何班、何班って分けられ、班長も決まった。わしらぁの班長は、上田寿というたと覚えちゅう。一つの班が、まあ、20人くらいおっつろうか。班長の上に小隊長、その上に中隊長というのがおって、何班もひっくるめて監視しゆうがよ。高知の仲間、石元さんや室戸の上田さんらぁと知りおうたがも、そこでやった。
スリガオには1ヶ月もおらんと、部隊を編成して、船に乗りもって島の沿岸一帯の掃討作戦に出た。初めはアメリカがフィリピンを占領しちょったがやき。それを日本軍が上陸して追い立てた。その後へ、わしらぁが入ったがよ。
道を造るがじゃない。ゲリラの討伐が目的やった。現地人は、先に来ちょったアメリカの味方するもんが大方で、道端のあちこちに仕掛けを作って隠れちゅう。ゲリラや。その竹杭の先で怪我をした者がおって、竹に毒を塗られちょったか、治りきらん。そんなこともあった。
自分の部隊がどう進んだか、地名はよう憶えてない。確かカバトバランというところへは行った。日本じゃないき、土地に詳しゅうないろう。一晩ばぁでどんどん動くし、どこをどう動いたか、頭に残っちゃぁせなぁ。戦後に師団の関係者から本を2冊送ってくれた。あれがあったら詳しいことがわかったが、孫が貸せ言うて、持って行ってわからんなった。
どこへ上陸するときやったか、船が浅瀬にはまってしもうて、着岸できん。持っちょった携行品を雑嚢(ざつのう)いう袋に入れて、肩へかけてバンドで縛って、陸を目指して歩いた。ところが、袋ごと浸かってしもうて、カンパンもなにもかも全部塩水にやられてしもうた。そんな情けない思いもしたことよ。
1日に1回は雨が降った。スコールよ。討伐に出ると、雨にもやられた。着物が濡れて、シラミがわく。水虫にも苦しんだ。軍隊では、地下足袋と靴をくれたが、毎日の雨で乾く暇がない。どんどんこじれてきて、痛うてね。乾かしはできんし、それがしょう堪えた。けんど、最後は誰もかれも靴もなくして裸足やったなぁ。
けんど、あの暑さを思うと、雨が降るからおれた、とも言える。眼鏡のレンズで煙草に火が点くばぁ太陽がきつかったのを、毎日の雨で、なんとかしのげた。
木にもまけたねぇ。討伐なんかで藪の中へ入ったら、後でピリピリ、ピリピリ体が痛うなってね。そりゃ、どやらした名の、漆みたいな木に触ったろう言われたけんど、わかるもんか。そんな木には、触らいでも、下を通っただけでまける人もおる、いうて教えてもろうた。
都会の人は体も弱うて、戦地では難儀なことばっかりやった。わしらぁは、学校上がってからは親の手伝いもするし、友達と山駆けずり回って遊んだ。兵隊に行く前は、営林署で国有林の仕事もしよったき、身体も鍛えちゅう。お蔭で大概のことに我慢できたと思うちゅう。
伝令に行けと言われて、川向うの部隊まで泳いで渡ったこともある。わしの他には、誰も川を泳げんかった。子どもの頃には溺れよっても、あれから泳ぎは達者しちょったきね。(笑)
そんな大きい川じゃない。ちょうど奈半利川ばぁの川幅じゃったように思う。部隊への連絡がすんだら、歩哨に出されちょった班長が、「まぁ、飯も食て行け」と言うてくれた。それから、こうこうしてワニを現地人が取ってきてくれちゅうき、これを小隊長へ持って帰っちゃれって、荷にしてくれた。部隊へ帰って、ワニじゃき食え言うてくれたで、って渡すと、ワニかよ、身がきれいじゃなぁ言うて、当番が炊いてみんなに食わしよった。まっこと(誠に)きれいなもんじゃったが、本当はワニじゃない。トカゲの身じゃった。そんなこともあったわよ。
担いででも連れて帰りたかった
聯隊の大方はレイテへ行ったが、わしらぁの第3大隊は残って、ミンダナオ島の警備に当たった。沖を見よったら、沖縄へ行くアメリカの大船団が通る。日増しに戦況が悪うなっていきゆうと、嫌でもわかった。
野戦へ出たときには、食糧も持っちょたけんど、すぐにのうなる。わしらは、あちこち現地人がつくっちゃぁるイモとかトウモロコシを取ってきて、それで命をつないだわよ。そうせんと何ちゃぁない。暑いところやき、年がら年中イモらぁはあった。小隊長いうたら少尉ばぁじゃが、その偉い人らぁでも、キビを食いよった。あの固いのを齧って食って。生では食えんき、イモもキビも、ちょっと煮いて食べたわよ。
バナナは、3日ばぁ草の中へ活けちょいたら食べれた。バナナとか、パパイヤ、パイナップルらぁも取って来る。それは現地人も取るがやき、よっぽど運があって間に合わんと当たらんわよ。そうよ、現地の人の食料を奪いに行くがやきね。そのうち、輸送船が途中でやられて、戦地へ食料は全く届かんようになって、兵隊の食糧事情は日を追うように悪うなっていった。
ありがたかったのは、塩を一人ひとりに分けて持たせてくれたことや。支那事変へも行っちょった先輩の兵隊さんが、塩がないと人間いかん、そう言うてみんなに塩を持たせてくれた。他の部隊の人らぁは、こればぁの高さでも足が上がらんようになったが、わしらぁの部隊は、塩を持っちょったお蔭で助かった。
その時には、塩ばぁ大事なものはないと本当に思うた。塩が切れたら、かわいそうなもんじゃ。けんど、助けちゃろうち、こっちも大方いかんがやき、何ともならん。塩をなめて水を飲んで、持ちこたえた。水はテントへ汲んできて、カルキを入れた黄色いようなのを飲んだ。
師団に合併するやらいう話があって、山の中をくぐって行きよったら、ブツアンいうたか、川に行きあたった。そこから今度は上流を指して行きよったら、もうアメ公が来ちょってバリバリ、バリバリ撃ってきた。
アメリカの味方しゆう現地人にも撃たれた。撃たれた腕を鋸で引いて切り落としたいう話しもある。ヨダミノルいう高松の男やったが、機関銃の弾が、突き抜けちょったらよかったけんど、斜めに食い込んじょった。軍医が手当しよったけんど、腐ってきて、「これは、腕をすっぱり切らんといかんぞ」言うて、鋸で引いた。けんど、その人は足がえいき、歩ける。ちゃんと戻ってきたぞね、高松へ。戦友会でも2回ばぁ会うたことがある。わしと一緒の一等兵じゃった。
山の中では、どっさり死んだわ。食糧もない。マラリアにもやられる。マラリアの薬がきつうて、胃腸をやられる。戦うて死ぬがじゃない。大腸炎やマラリアに罹って、死んだ人が大勢おらぁね。わしらぁの仕事は、毎日、負傷したり、体調崩した仲間の世話をすることと食い物を探すことやった。けんど、探しに行きやぁ、撃たれよったわよ。
体調が悪うなったり、足が動かんなって、移動に付いて行けん人は、手りゅう弾もろうちゅうき、途中で自決した。そんな人も、どっさりおらぁ。みんな、担いででも連れて帰ってやりたい。けんど、自分がようよう動いて行きゆう。我もいかんなりゆうき(自分も死にかけているので)、何ともようせんかった。遺骨収集にもなかなか行けんような山の奥で、本当にようけ亡くなった。
終戦、そしてレイテ島での俘虜生活
昭和20年の8月15日、わしらぁは陣地を構えて、まだ戦いよった。互いに立ち向こうておったところへ、宣伝に使うようなこんまい飛行機が低空で飛んできて、ラジオやビラを落としていった。ビラには『日本のみなさん、戦争は終わりました』と書いちゃあった。それを見て、あぁ終わったと思うて、嬉しかった。
わしらぁの41聯隊は、大方がレイテで戦死したと聞いた。ミンダナオ島へ残されて、運が良かったがよ。戦友の高岡の石元さんが、毎年8月15日に電話してくる。今日の日ばぁ、嬉しかった日はなかったぞなぁ、言うてね。もう1ヶ月戦争が続いたら、一人残らず死んでしまうがやった。食料がないきね、ほら。みんなぁ逝ってしまうがよ。そんな状況の中で、迎えた終戦やった。
それからの俘虜生活も、大変やったが、戦争しゆうよりはましよ。助かった、思うた。銃を捨てて向こうに渡し、みんなが降伏した。上の方で連絡が取れちょったのか、白旗掲げるようなこともなく、部隊がみんな揃うて、持っちょった銃を1ヶ所へ集めて、整然とやったわね。
俘虜の生活は、レイテ島で始まった。そこへ行ったら先々に来た人もおって、みんなぁ太い屋根だけの宿舎に入れられた。そこは玉砕したところじゃったが、建物の大部分は残っちょった。古かったが、ヤシの葉っぱを葺いたような屋根はあった。中は吹き抜けじゃけんど、上等よ。
けんど、食べ物がなかったわ。飯盒出せ言うき出したら、飯盒の蓋へ1食分じゃ言うてくれるが、米粒は10粒と入っちゃぁせん。アメリカ側は十分に支給してくれちゅうが、間におった炊事をする者が問題よ。入れ墨をした親分・子分の、ああいうがらぁが飯を構えよった。自分らぁだけ、白飯のいいのをどっさり食いよったわ。
親分、子分になったら、きれいなというか、汚いというか、そんなもんよ。それやき、何ちゃぁ言えん。何か言うたら、叩き殺される。アメリカ側に訴えても、十分に食料は出しちゅうとはね切られるし。下の者は、本当、生きちゅうというばぁのもんよ。便所に行くにようようじゃった。
仕事は、アメリカの仕事をしよった、宿舎や他の施設には、いろんな荷が入っちゅうき、現地人がかっぱらいに来る。そんなことできんように塀をつくったりした。そこには、終戦から翌年の年末まで、長いことおったなぁ。南海大地震のあった夜は日本に帰って名古屋の三菱の工場で寝よったがやき、1年半ばぁおったことになる。
ようよう引揚船で日本へ
俘虜でも早い者は終戦の年に帰れたが、自分は昭和21年の12月にやっとタクロバンから引揚船に乗った。船は3千トン級あるアメリカの輸送船や言いよった。2千人は乗っちょったろうか。大きい波でも来たら大揺れするような船やった。もともとが貨物船じゃき、便所言うても甲板に別に網張り幕張りして、そこでわからんようにしたわよ。海へ流すがよ。急ごしらへの船やき、そんなもんよ。
日本が近づいて山並みが遠くに見えたときには、甲板で、みんなぁワーっと言うたわよ。どうこう言うても生きる死ぬるやったきね。
着いたがは名古屋港、師走の20日やった。陸へ上がって土を踏んだら、そりゃ、ホッとした。明日は我が死ぬるかもしれんと思いよったわけやきね。泣いた人もおっつろう。まあ、食い物がなかったのが、一番辛かったわな。水飲んで塩なめて、なんとか生き長らえて、やっと帰ってきたがや。
名古屋の検閲所に着いたとき、持ち物は全部出さんといかんかった。広島出身の上田というわしらぁの班長さんが、部隊の名簿をこっそり持って帰っちょったわよ。戦死した人の家族に何とか報告したいゆう思いがあってねぇ。そのままじゃ取り上げられるが、引揚者の連絡先とか何とか言いつくろうて、それで何とか持って帰るがを許された。後で戦友会をつくって何回も集まれたのは、その名簿のお蔭いうことよ。
それから消毒剤を真っ白うになるまで頭から振りかけられて、全身の消毒をして、やっと終わりや。カンパンと水はくれた。それを食いもって、その日の宿舎の名古屋三菱工場跡を目指したことやった。その晩みなで、腹がすいたばぁ辛いことはない、寝るに寝れんかったって、話したことを覚えちゅう。
帰国した夜、南海大地震にあう
翌日の未明が、あの南海大地震よ。みんなぁ慌てたけんど、京都の戦友が「こればぁのことやったら、心配ない」って。そんで、靴履いたまま、まとめた荷物を枕にして寝よった。
翌日、帰ろうと駅へ行くと、裸足の者が何人かおる。軍靴はどうしたかと訊くと、昨夜の地震で裸足で飛び出してしもうて、帰ってみたら靴が盗られてないがやと。靴はみんなにくれちょった。戦地で生きる死ぬるで互いにやってきちょって、なんでと思うたわね。裸足のまま汽車に乗った人が何人もおって、よう忘れん。なぜか、自分らぁの西へ向かう組じゃなくて、東へ向かう人ばっかりじゃったがねぇ。
高知へは同郷の4人で一緒に帰った。四国へ入って土讃線で来よって、大田口やったかと思うが、汽車が止まった。地震の土砂崩れで、そこからは大杉あたりまで、2時間ばぁ歩いたような記憶がある。そこから、また汽車に乗って、後免まで帰った。日が暮れてしもうて、高岡の石元さんは、乗り物を見つけて帰ったけんど、自分らぁはバスもない。宿屋を探しおうて、後免で泊まったわよ。室戸の人らぁと、一緒やったなぁ。田中さんと上田さんよ。
帰り着いた故郷で
弟の恒喜がもどっちゅう(帰っている)かと心配しよったが、先に帰って来ちょった。最後は沖縄に近い島におったらしい。それが、なんと玉砕したところじゃって、役場から戦死したいう知らせが来たと。玉砕じゃったき、確認できんもんは死んだとして、戦死の公報を出したんじゃろう。けんど、知らせて来たときには、もう本人が家へもどっちょったと。
この弟は、ミッドウェイへも行っちょったが、船が攻撃されて使えんなって帰ってきたと。弟も、わしも、つくづく運が良かったと思うたことよ。けんど、自分らぁが無事やったいうて、喜ぶ気にはなれんかったなぁ。帰って来て、近所に戦死した人がようけ(多く)おることを知らされた。
自分が行った後から、召集されて戦地へ行った人もいっぱいおったし、恒喜みたいに、徴用におっても帰ったら兵隊にとられるき、いっそ志願した方がましやということで、志願した組もあったらしい。
入営の折に自分を高知市まで送って行ってくれた山田秋美さんも、その後、召集で戦争に行って、シベリアへ抑留された。何年も苦労したけんど、ちゃんと帰って来て、定年まで営林署に勤めた。
戦死した者は身内にもおった。姉、幸美の連れあいの山下志郎(やましたしろう:昭和20年6月10日戦死)さんは、何回か召集されたが、最後に行ったフィリピンのレイハンで戦死した。35歳やった。子どもが女の子と男の子と二人おったが、姉は百姓してなかったき、食わすもんもない。働きもせんといかんで、たいへんやった。
食べるもんは百姓しよったうちがつくって、みんなぁで一緒に暮らした。あるものを食べて暮らす。そんなふうにやった。姉は営林署の仕事をずっとして、苦労しもってでも子どもらぁを一人前に太らした。最後は年金もついたわよ。姉はもう亡くなったけんど、姪は奈半利に、甥は高松におる。うちの家族と一緒よ。
従兄弟では二人、坂本耕作(さかもとこうさく:写真左、昭和19年9月19日ビルマ方面にて戦死、行年24歳)さんと坂本智(さかもとさとる:写真右、昭和20年11月17日、中国にて戦病死)さんが戦死しちゅう。耕作さんは、同じ和田で年も近かったき、川でも山でも、よう連れだって遊びよった。わしが川で流されたときも一緒やったと思う。もう一人の智さんは、鍛冶屋の弟子に行っちょった言うてね、家にはおらんかったき、ようは知らんけんどね。
部落の仲間内でも戦死した者がおる。中島才介(なかじまさいすけ:昭和20年11月5日戦病死)さんは、年は2つ下じゃったが、家が近じゃったき、ずっと一緒に遊んだ。大人しい、利口もんじゃった。軍隊へ行って、衛生兵をしよったらしい。わしは18年に家を出て行ってから、終戦までもどらざったき、詳しいことは知らんが、21歳の年で、上海で戦病死しちゅう。悔しかったろうと、残念でならん。
他にも知り合いで戦死した人は何人もおる。和田の部落だけでも、十の指じゃ足りんき、どうしても自分が帰って来たことを手放しでは喜べん。よう帰らんかった者は、みんなぁ若うて、一人身の者がほとんどよ。これからやったわなぁ。
大事な家族が欠けた家が、一つの部落の中だけでも、こんなにあるということよ。和田でも小島でも、気の毒なことに、おとどい(兄弟)が戦死した家もあった。それが、戦争じゃ。みんなぁが帰って来れたらよかったに、という気持ちは、いつまでも続きよらぁよ。
◆妻が語る戦後編
坂本 操(さかもと みさお)さん
奈半利川のあちら(宗ノ上)からこちら(和田)へ嫁いで
私の生まれも北川村で、宗ノ上という部落です。やはり夏は奈半利川でよく遊びましたよ。私のところは、長山の発電所のところから分かれた支流になるんですけどね。旧姓は、門田といいます。父は、道之助(みちのすけ)、母は墨恵(すみえ)。7人兄弟姉妹の私が一番上です。昭和4年3月9日の生まれで、86歳。お父さんとは6つ違いです。
学校は、木積へ6年まで、その後は片道5キロ以上の道を歩いて北川まで2年通いましたよ。毎日、毎日、よう行ったもんやと思います。学校へ行くに、夜は草履つくらないかんしね。勉強どころじゃなかった。
*写真は20歳前の操さん(左) 芸能大会で踊りました
当時は、まだまだ食料不足が続きよって、ご飯いうても、主は麦よ。ほとんどの田んぼで麦をつくりよった。麦が半分、お米はほんのちょっとで、芋やかぼちゃを切って入れて、まぁ言うたら、雑炊みたいなもんよ。山へ行く人には、それを飯ごうへ入れて持たせてました。終戦後もしばらくは、そんなで、徐々に麦飯になっていったわねぇ。弁当にお粥や雑炊が入っちゅうなんて、今の人は想像もできんろうけど、戦争が終わっても食べれたら上等の時代が続いて、みんなぁ苦労したわね。
けんど、奈半利川は豊かで、鮎はもちろん、鰻も、手長海老もようけおりました。昔の鮎は、とにかく大きかったわね。こんな長い、こんな幅のね。この人が兄弟3人連れだって川を流れて鮎を突いてきたことをよう覚えちゅう。今は埼玉におる一番下の弟が、まだ学校へ行きゆう頃やったか、見たら大きな水桶に八分目ばぁも鮎が入っちょって。私の里は小川で鮎もあんまりおらんかったき、そのときは、本当にびっくりして、よう忘れません。
焼いて食べたら、ほら美味しかったわね。秋になったら、それを串に通して囲炉裏でゆっくり炙って、燻製みたいにしました。おかずにも、味噌汁の出汁にもしたねぇ。美味しかったぞね、そりゃ。当時の味を知った者じゃないと、あの美味しさはわからん。塩で焼いちょいて頭から食べれたきね。昔の奈半利川の懐かしい味よねぇ。
子育ての日々
子どもは5人授かりました。上3人が女で、下2人が男の子やったけど、一番上の娘と下の端の男の子とは病気で亡くしました。あの時代は、まだ子どもが病気で死ぬことがようありました。
下の子は、腸重積症という、腸が詰まる病気で、下へは出んようになって、上へもどしてね。3歳でした。もっと大きい良い病院へ行けたら早う見つけてくれたと思うたけど、この辺にはなかったきねぇ。
寿命やったわね。今は、そういうように自分が思ってます。何日も漂流しよった人でも、助かる人は助かる。寿命があったら、どんなにしてでも生きていける。そう思うようにして諦めてます。去年が50年やってね、そのお祀りをしました。
次女と3女と長男と、中の3人の子どもは順調に育ってくれました。ただ、長男の達治は、小児麻痺で足が悪うなってねぇ。村から予防注射についての知らせがあったらしいけど、その頃は、この人のお父さんが会には出よったし、私らぁは知りませんでした。予防注射が1回に2千円か3千円かで、希望する人はしたらしいです。でも、予防注射を受けてない人でも、どうもなかった子どももおったしね。皆々というわけじゃない。まあ、運、不運があるわねぇ。
でもねぇ、幸せなことに、達治はおばあさんに本当にかわいがってもらいました。おばあさんがずっと連れてくれて、高知の畠中病院まで行って指圧もしてもろうたんです。おばあさんがまだまだ元気で、背負うて抱いて。おばあさんに育てらて、達治は、おばあちゃんっ子よね。
私は達治を小鹿園(巻末注参照)へ連れて行って、コルセットもつくってもろうたけど、すぐに、そのコルセットもまどろこしゅうなって(手間がかかりじれったくなって)履かんなった。先生に言うと、履くのが嫌なら、それでもよかろうって。で、作って1ヶ月か2ヶ月かばぁしか履かざったね。
足が悪うても、あの子はうんと身が軽かったがね。小学校1年の頃やったか、大きな木に登って、枝鎌で枝を切りゆう言うて、近所の人が知らせてくれたことがありました。いや、怖い、へんしも(すぐに)下りてき、言うて叫んだことよ。それが、またハゼの木やったき、ホロセ(身体にできる発疹)がいっぱい出て、病院へ走り込んだわね。達治はアレルギーがあって、身体中まけるがよ。お薬もろうてつけたことです。
山でこぼて(小鳥を獲る木の仕掛け)張って、よう遊んだきね。こぼてのエサにするに、ハゼの木や南天の実とか、よう取ってました。柴馬いうて、柴を刈ってきて元を結わえて、それに跨って坂道を滑り下りる遊びも、みんなぁでようしたわねぇ。達治も、それは楽しげにして、よう遊んだ、遊んだ。
私が聞いた戦争の話
戦争の話を私は、嫁いでから、この人や弟の恒喜さんなんかから聴きました。それに、家のすぐ隣の大久保の叔父さんらぁも、よう話してました。お父さんより後の召集で、満州の方へ行っちょって、シベリアへ連れて行かれた言うて、シベリアでの苦労話をようしよったねぇ。
寒うて寒うて、たいへんやったうえに、とにかく働いたもんでないと食べらさんかったですと、ロシアは。熱がある言うたら休ましてはくれるけど、休んだら食べるもんはない。働いたら、働いたという切符みたいなものをくれて、それで食べ物をもろうて来て、分けて食べらしたりした、そう言うてました。
その厳しいロシアで、エゾ松とかいう松をぎっちり(少しの休みもなくずっと)切らされたようです。隣の叔父さんらぁは、山仕事は慣れちゅう。木も切ったことあったし、何とか踏ん張れたけど、町育ちの人は、そんなこともしたことない。まぁ、教えてはくれたけんど、体力的にも難儀したろう。そう話してましたよ。
この人の戦友会へは、私も一緒に行ったことがあります。フィリピンから上田班長さんが苦労して持ち帰った名簿があって、それを基に全国へ散らばっちゅう戦友のみんなに呼びかけたそうで、昭和40年頃から始まっています。
班長さんが広島の方でしたから、会場は広島が多かったんですが、高知や香川でもしましたよ。(写真を見ながら)これが昭和46年に高知でしたときのがじゃね。ここへ写っちゅう人も、もうみんなぁ、おらんなってしもうた。この人が高岡の人でね、この人は室戸の元(もと、地名)の人や、上田さん。・・みんなぁ戦友やったがですよ。
最初は多かった人数が、年々みんなぁが年をよせて、減っていきました。脳梗塞やったりして体調を崩してね。自分一人ではよう来んようになって、奥さんが一緒に付いてくる人もいましたよ。夫婦で一緒に写っちゅう戦友会の写真もあります。高知でも何回かやったから、私も付いて行ったことがあります。お酒も入って、みんなぁで昔話に花が咲いて、楽しかったですよ。終いの方は、ほんとう人が少のうなってましたけどね。
夫唱婦随の幸せな今
お父さんは、若い頃からなかなかの仕事師で、向こう意気が強い、曲がったことが嫌いな人でした。厳格な面もあったけど、私が病気したときは、それは大事に世話してくれました。両親のことや達治の病気のことなど、私が心配ごとを言うと、「いろいろ言うな。明日のことは、誰にもわからん。なるようにしかならん」と叱られたもんです。お父さんの前向きに突き進む姿勢に、随分救われましたね。感謝しています。
まぁ、働きもんで、私が嫁いでからは、マラリアで1回熱が出て寝たことがあっただけ。内臓を患うて寝たことは平成14年まで1度もなかったんです。営林署の山仕事をしよったき、脛を痛めて入院したり、集材いうて木を飛ばす(ワイヤーでつるして運びおろす)機械のエンジンかけよって、手の、ここから先が脱臼して抜けてね。冬の冷いときで、伯父さんの人と一緒に仕事をしよった時でした。親指のような膨らみが、脱臼したところへでき合しちょったがね、血管が浮いたみたいに。
あの頃は田野に岡宗いう病院があって、そこに55日ほどいましたね。脱臼でもひどかったもんよね。普通は、すぐ治るもんやけんど、血管が紫色になって、もう恐ろしいようになってました。治ってからは、今度は屈伸するに痛うて痛うて。治ってからも、痛いき顔も洗えんって言うてました。でも、まぁ、もう一方の手で何とかしてましたねぇ。
それ以外は、本当に健康な人で、間も隙間もなく働く。仕事が趣味みたいな人なんです。なんちゃ趣味はないき、年を取ったらどうするろう、退屈するろうねぇと、そんな心配をするほどでした。
平成14年に病気したときは、仕事のし過ぎやったと思います。1週間ほど眩暈がして、1ヶ月くらい寝ないかんかったんです。それで足が弱って、動きよってこけて、腰を打った。それからは、ずっと足がいかんね。全然痛みはないき、何とか家にはおれるけど、足に力が入らんでグニャグニャのようになっちゅう。足が立ちゃあ、ことことなんでもできると思うて、本人は辛いろう。けんど、まぁ、痛うないきに暮らしよい。そう思うたら、我慢もできるわねぇ。
お父さんの体が思うように動かんなって、私がしちゃることが上手にできんと、「自分は我がのことせえ」言うて怒らることもあります。けど、頑張って、ご飯も炊いて食べさせんといかん。絶対呆けられんと、そう思うてます。お父さんにも、呆けられんで、って言うてます。
集会所へ体操に行ったら、計算とか間違い探しとかの宿題をくれるんです。それは、まだまだ大丈夫。それから、二人でテレビの国会中継も聴いて、いろいろ批評もして、「そう言うたちいくか」言うたり、「そういうようにせんといかん」言うたりね。
毎日が、ゆっくり過ぎていきます。昔、私が病気したときは、大事にしてもらいました。今は、私がお父さんを大事にしちゃらないかんと思うてます。でも、つい喧嘩もしたりするけどね。(笑)
<参照>
※1 電発:J‐POWER(電源開発株式会社)のこと。奈半利川には3水力発電所(魚梁瀬、二又、長山)がある。
※2 小鹿園:県立の肢体不自由児施設として、昭和31年に「整肢小鹿園」として設置され、県内唯一の専門機関として肢体不自由児に対する治療やリハビリ訓練、療育支援の使命を果たしてきた。平成11年に他機関と統合され、「県立療育福祉センター」となっている。
あとがき
北川村での「聴き書き」は、村の遺族會館に掲げられた若き英霊のみなさんの声を聴きたい、拾いたいとの思いで始めたものですが、2年目の今年、初めて戦争体験者である坂本武一さんのお話を聞くことができました。
長い年月が経った今でも、風化することなく脳裏にある戦場のありさまや亡くなった戦友のことを、こうして語っていただいたことに、改めてお礼申し上げます。
今年は戦後70年。新聞やテレビでも戦争体験者のみなさんの話が、よく取り上げられました。兵士や従軍看護婦として戦場の経験を語る方のほとんどが、90歳を越えていらっしゃいます。「ききがきすと」として、少しでも多くの戦争体験者の方々の想いを聞き取り、伝えたいと願わずにいられません。
(ききがきすと:鶴岡香代)
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語り人 庄司菊枝(しょうじきくえ)さん
思わぬ病気が
めげているから、電車に乗って病院に行くのがつらいんですよ。通院する間も熱っぽくなるからね。つらいのはわかります。でも、私はどんなに具合悪い時でも、寝るのは夜だけにして、つらくても起きていました。「病人らしい病人になっちゃだめ!」と言いました。
それから友人は、ご主人に病院まで車で送ってきてもらうようになりました。病院では時間がかかるんですよ、2時間で終わればいいほう。下手すると3時間もかかってしまう。でも、ご主人は診察中はお茶をして、長い間待っていました。その後、友人は良くなってカラオケを楽しんで、カラオケ大会にも出たりするようになりました。
病気を乗り越えボランティアを
私が地域の活動にすごく興味を持ったのは、生きた証として皆さんに喜んでもらえることをしたいと思ったからです。
まずボランティアコーディネーターという資格試験を受けたんです。40人くらい受けて、多少落ちた人もいました。そして、福祉の仕事をボランティアでやってくれないかと、ラブコールがかかったんですよ。その時、私は65歳。やってみると楽しくて。1年で切り替えですが、「またやってくれ」と言われて嬉しかった。
一番初めにやったのが、耳の聞こえない方に手話師を引き合わせるお世話です。そしてボランティアをやりたい人の相談にのる。そんな役をさせていただいて嬉しかったです。
女の人はいいのですが、定年になって来る男の人が難しいんですよ。「こういう態度ではだめですよ」とくれぐれも言っても、「大丈夫」とか「俺をそんなに信用できないのか?」とくる。夕方、紹介した老人ホームから電話がかかってきて「もうあの人は二度とよこさないで下さい」と断られました。
次に切手を貼る仕事を手伝ってもらいましたが、「そんなばかげたことできない」と断る。イベントの手伝いをしてもらいましたが、お弁当の券を好きな人にいっぱいあげてしまったり・・・。みんなでやる仕事は出来ない。彼に何か合う仕事と考えて、頭が痛くなってくるんですよ。やってもらうことに、ことごとく不満が出る。私がやっていて一番失敗したのが、この男の方です。
やりたい人とお願いする人との橋渡しをするのが、私の役目なんですが、なかには車椅子の男の人で、ボランティアは女の人に来てほしいと依頼がありました。男のボランティアが行くと、家に入れてくれない。理由を聞くと、「女の人の方が心細やかだからいい」と。「男の人でも気のつく人が、たくさんいるからその人たちはどうですか?」と言っても「女の人の方がいい」と・・・。いろんな人がいますよ。
仕事・子育て・家事のめまぐるしい時代
最初に勤めたのは幼稚園でした。結婚して辞めて、実家の鉄鋼所で事務をやっていましたが、住まいが遠かったので、その仕事も辞めたんです。長女が生まれて、借家は問題が多いので、新しい住まいが欲しいと思いました。勤めることを主人に相談したら、「家に居ていいんだよ。勤めたいなら勤めてもいい。でも、俺はいっさい手伝わないよ」と言われました。
姉の所の2階が空いているので、そこに住まわせてもらい、大きな会計事務所にタイピストとして勤めました。仕事は忙しかったです。
家に帰ると外に娘がいて、「どうしたの?」と声をかけると、「お母さんまだかなぁと、星を見ていたの」と言います。「何かつらいことあったの?」と聞くと、何にも言わない。姉の所にも子供がいて、私の娘の後から生まれたので、小さかったの。その子と一緒に遊んでいて、何か気に入らなくて泣いていたらしいんですよ。
そしたら、姉が「明美ちゃん、またいじめたの?」って言ったそうなの。いじめたんじゃないのに、聞いてくれない。そして、娘は空をじっと見て、私に「お星様とお話ししてたの」と訴えました。本当に長女にはかわいそうな思いをさせました。
仕事は忙しかったです。今のようなワープロやパソコンと違って、印字を打っていく時代の和文タイプですから、1字間違えると、またやり直しなので。会計事務所なので、絶対に間違いは許されません。最後の仕上げの課だったので大変でした。残業になっちゃうんですよ。あの頃は何10件も打つので大変でした。
二人目を妊娠した時に、仕事を辞めたのですが、その時一番喜んでいたのは長女です。娘は5歳になっていました。
それまでは毎日、おねしょをしていたんですよ。幼稚園の仕事をしていたのでわかるんですが、おねしょは子供の心の病気からくることもあるのです。それが、私が仕事を辞めた日からピタッと止まりました。それ以後、一回もおねしょはしませんでした。
仕事をしている時は、近所の人に送り迎えに行ってもらっていましたが、こんどは毎日保育園に送り迎えに行きました。私が迎えに行った時、娘は嬉しかったのか、「この人が私のお母さんよ」って、みんなに紹介していました。今でも心に残っています。
二人目が生まれて
二人目も女の子でした。二人とも帝王切開で生んだのです。あの頃は、売血が流行っていて、とんでもない血がいろいろあったみたいで、それが20年くらい経たないと、出てこないんですよね。
二人目がある程度大きくなってから、また仕事を始めました。あの頃は、パートというのは無くて、正社員ばかりです。経理課でしたから、帰りが遅くなるのですよ。長女はもう小学生でしたが、次女は朝にお弁当と水筒を持たせて保育園に預け、出勤です。あとで見たら泣いているんですよ。もう辛かった。
ある日、次女がはしかで、仕方なく家に置いて「ごめんね」と言いながら、勤めに出ました。そしたら、次女は「行ってらっしゃい」と言うんです。人の心を読むんですね。「お母さんは休めないんだから、いいよ。お母さん、大丈夫だから、行って、行って」と、4歳の娘が言うんですよ。涙がぽろぽろ出てきちゃいました。
そしたら、夜、保育園の先生が家に様子を見に来てくれて、「正子ちゃんを置いて、仕事に行ったんですか。なんと冷たい鬼のお母さんでしょう」と言われました。先生にしてみれば、「こんな時に休まないと、いつ休むの?」とうちの子のことを思って言ってくれたのでしょうが・・・。「私の気持ちなんかわかるものか・・・」と思いました。
「休ませてほしい」と言えば、休ませてくれたかもしれませんが、「だから、所帯持ちは仕事が続かない」と思われたくなかった。子供がいるのは私だけでしたから、結婚して辞める人も多かったけれど、私も頑張ったし、子供達も頑張ってくれた。
宝物の絵本
そして、孫達にも絵本をあげました。「これ、ぼくの本だよ」と、幼稚園で自慢しているらしいです。絵本を作る時は、文章から書いて、絵も自分で描いて仕上げます。私しかわからない、子や孫の成長の記録です。
今、やっているボランティア
うちの近所のお子さんのいないご夫婦、独身の方、小学校以下の子供たち対象のボランティアもさせていただきました。亡くなるまで、お付き合いさせていただいた方もいます。平成21年から、お年寄りだけのサークルでしているものもあります。94歳のおばあちゃま、80歳でバスを乗り継いで来てくれる方もいます。豊洲から来る人は「ここが一番好き」と言ってくれます。
今やっているのは脳のための1分間スピーチ、2分間スピーチ、お話し会、ゲーム、歌、肩をたたいて歌いながらの体操などです。楽しいですよ。「とうりゃんせ」や「あんたがたどこさ」と歌って、お手玉やまり遊びをしたり。時間は2時間くらいです。
*地域のクリスマスパーティーで焼いたアップルとミートパイ
毎年変わったことを取り入れていて、去年は折り紙をしました。今年は粘土をやろうかなと思っています。3月はラメや白・ピンクで桜の形を作ろうと思っています。そのほか、ママと子供の作品など。企画するのは楽しいです。
ボランティアが生きがい
今、文化センターでは絵本作りをしています。仕上げまでは時間がかかります。亀戸天神物語をみんなで作っているので、宮司さんには、私達にはわからない言葉の使い方などをみてもらっています。3〜4回みてもらいましたが、忙しい方なので、なかなか会えず、以前、朝の8時50分に待ち合わせして行ったくらいです
今回は、区との協賛でプロの絵描きさんに描いてもらうことになりました。最終的にはスプレーのりで貼り、表紙をつけて仕上げていきます。印刷や仕上げはプロに頼んだら高いから、江東区では、われわれが作ったのを、町会の人が印刷して下さるんです。
ところで、神社といえば、江東区には一番古い藤原鎌足由来の「亀戸香取神社」、学問の神様の藤原道真を祭った「亀戸天神」、日本武尊の后・弟橘姫の笄塚のある「浅間神社」があり、これらに関する3冊を、仲間と作りあげました。
江東区で観光ガイドもしています。個人の時もありますが、旅行会社から頼まれる時もあります。お正月だと七福神めぐりなどもガイドしますね。費用は去年から、保険料・お土産代で500円いただいています。
そのガイドをするには資格がなければなりません。観光課というところで、受講して試験を受けるのです。みんなの前で説明もしなければなりませんし、落第する人もいますが、図々しくしていると通るんですよ。男の人は、あがっちゃって出来ない人もいますが。
1年に18〜19回しています。私の班が一番多いですね。午前・午後のコースがあり、一回が2〜2.5時間くらいです。亀戸天神を回るだけでも1.5時間かかります。そのほかに、昔あった銀銅貨鋳造の「銭座」を回るコースもあります。銭形平次のお金などを骨董屋で買っておいてお見せしたら、みなさんに喜ばれました。
嬉しいことに、社会福祉協議会からの紹介募集もあって、以前参加した方が楽しかったからといって、千葉から観光バスで来てくれて、ご案内したこともあります。
これからもボランティアに夢中
私のボランティアの主なものには、ボランティアコーディネーター、高齢者のお世話、観光ガイド、絵本作り、パン粘土作りなどがあります。私がやっているボランティアは、現在13個でしょうか。それでも2個減らしました。ほとんど毎日のように、出かけています。
でも、うちの主人は5時にお風呂に入る人間で、私がそれに間に合わないといけない。それまでに帰るようにしていますが、時間に追われます。
主人はボランティアが大嫌い。今は日中にテレビを見てくれているので、助かっています。主人が元気でいてくれているからできることなので、感謝しています。
今が一番幸せですね。主人には「おまえはボランティアに行く時、恋人に会いに行くみたいだな」と言われています。私は声をかけてもらうと嬉しくて、ときには分きざみの予定をカレンダーに書いていますよ。今でも病院に行って注射をしながらですが、元気になっています。
児童館で「先生、これプレゼント」と、私の顔を描いたものを渡してくれたりすると、とても嬉しくて、大事にそれを取ってあります。
みなさんが喜んで下さる。それが私のエネルギーとなります。そして、それが私の生きている証となっているのです。
*手作りのパン粘土クリップ
そして、ボランティアとの出会い。数々のボランティアを精力的に打ち込んでいらっしゃる。きっとそれは、元気で生きていられることの恩返しのように、こちらにもしみじみと伝わってきました。元気と勇気をもらいました
「人の役に立つって嬉しいこと!そして私はそこからエネルギーを頂いているのです」と言われる姿に感動しました。貴重なお話をどうもありがとうございました。
最後に、手作りの可愛いパン粘土クリップをいただき、ありがとうございました。大事に使わせていただきます。これからも、ボランティアに趣味に、ご活躍されることを願っています。
ききがき担当:永井有可子
終わり
posted by ききがきすと at 22:29
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語り人 庄司菊江(しょうじ きくえ)さん
私が地域活動やボランティアにすごく興味を持ったのは、60代の初めの頃でした。その頃、まだフルタイムで勤めていたのですが、ものすごく疲れて疲れて、どうしようもなくて、病院でいろいろ精密検査を受けたら「慢性肝炎」と診断されました。医師から「だいぶ進んでますよ」って言われたのです。
勤め先が福祉関係の仕事だったので、3月いっぱいは勤めなければなりません。でも本当にひどく疲れて、もう定年でうちにいた主人に送り迎えをやってもらって、なんとか3月31日まで勤めて、やめさせてもらったのです。
それで病院に行ったら、「即入院」。一週間ぐらいの入院といわれ、たいしたことないなんて思っていたら、とんでもない・・。一ヶ月入院して、そのあとまた一日おきに注射しにいかねばならないという大変な病気でした。インターフェロンの注射がきつく、また、いろいろな薬も飲まなければならず、薬漬けで食欲も体力も全くなくなりました。
うちの主人がまだ仕事があったので、朝は見送らなければと玄関まで行くと、「おまえ、幽霊は夜出てくるものだぞ。 昼間やめろよ」と言われたのは、ちょっときつかったです。朝の私の姿をみると、ぞっとして仕事へ行く気もなくなっちゃうって。それから朝は出ないようにしました。要するに、それほどひどかったということです。
顔の色がまっ白で、あのころは今よりすこし肥ってましたが、食べられないのでどんどん痩せてゆき、パジャマのズボンが歩くとずるずる下がってしまうくらいでした。ご飯も食べられない、匂いも駄目、果物をすこし食べられたくらいで、体中痛くなって、寝てもいられないのです。
主人に叩いてもらってもどうにもならなくて、寝てても起きていてもつらくて、テレビだって見る気はしない、音楽だって聞く気がしない。もうどうにもならなかったです。お見舞いに来てくれた友達にも、後から言われました。「庄司さん、このまま何ヶ月もつのかね、死ぬんじゃないかしらと思った」と。 そのくらい重症でした。
私は近くの「江東病院」にかかり、一日おきに注射をしに行きました。元旦の日も注射しに行くのです。すると、守衛さんや看護婦さんが私たちを待っていてくれるんです。それから一年くらい、一日おきに注射している間は、薬が強くって髪は真っ白。髪の毛はとかすたび、洗うたびに、お岩さんみたいに抜けていきました。ですから、かつらを三つも変えました。今はもう使ってないですが。
そんな大病に耐えられたのは、「私はこのままでは絶対死ねない。私が『生きた証』としてやりたい事はまだいっぱいあるんだ」という思いでした。それに、皆さんにいろんなご迷惑かけてきたから、治ったら、何か皆さんのお役に立つことをしたいと思ったんです。そういう気持ちって、とても大事ですね。「病は気から」と申しますでしょ。私はどんなつらいことでも、治るためにいいことだったら、なんでもやりました。ただただ自分で「夢」と「希望」をもっていただけだったんですよ。
一緒に入院していた方が通院にこなくなったので、私が大分よくなってからその方のお宅まで行きました。もうなんにもしないで家で寝たっきり、ご主人がみんなやってくれていたようです。そして、「もうあんな思いするなら死んでもいい」と言うんです。それで私は「あなただめよ」って言ってやりました。
その時、ご主人はいらっしゃらなかったので、また、帰ってくるころを見計らって訪ねて、ご主人に直談判しました。「私は、あなたの奥様と同じ頃入院して、やっと少し元気になりました。それは、ただこれで死にたくないという気持ちでいたからなのです。だから、ご主人、協力してあげてください」ってね。
本人の気持ちはもうめげちゃっているから、電車に乗って行くのがつらいのです。わたしわかりますよ。自分だって青白い幽霊みたいな顔して、バスや電車に乗ったりするのは嫌ですから。紅茶もコーヒーの匂いも駄目で。通院している間は熱っぽくもなりますし、疲れもします。だから、なにしろ送って行ってくれるだけでもよいわけです。
ご主人は奥さんの苦しい様子を毎日みているから、結局、「あんたの好きなようにしろ」って言っていたようです。一日中お布団も敷きっぱなしの彼女に「私は横になるのは夜寝るときだけにして、昼はつらくても起きていましたよ」って、厳しいけど言いました。病人らしい病人にはなっちゃいけないと、自分で心に決めていましたから。
それからは一日おきの通院に、ご主人がちゃん車と送ってくれるようになり、終わるまでずっと待っていてくれていました。病院は、順番があるし、注射したり検査したりで、二時間で終われば御の字です。三時間以上かかることもあり、その間起きているわけだから、気分のよい時はともかく、つらくて大変です。でも、ご主人は終わるまで他所でお茶して待ってくれていましたし、私もできるかぎり、彼女と一緒にお話するようにしていたので、彼女もなんとか乗り越えられました。今では、大好きなカラオケを毎日やるほど元気になりました。
「生きた証」へのチャレンジ ― 65歳
元気になった時、心に決めた「生きた証」の実現のため、一番先に「ボランティアコーディネーター」の講座と資格試験を受けました。40人くらい受けて、多少落ちた人もいましたが、私は受かりました。その後、以前福祉の仕事をしていたものですから、江東区の方から人手が足りないので、アルバイトをしてくれないかというお話をいただききました。私以外にもたくさん受かった方はいたので、始めは断りました。うちの主人にも相談したら、「あまり無理して、また体を壊されたら困るし・・」と。でも、向こうがとても熱心に言ってくれたのでやる気になりました。やっぱりこの年で仕事のラブコールがかかるなんてうれしいですから。
その時65歳でしたが、やったらこれがまた楽しいんです、楽しくって、一年ごとの切り替えのたびに、またやってくれって言われると、それがまたうれしくて、毎年更新されていきました。
私が一番担当したのは、耳の不自由な方に手話士をセッティングする仕事でした。その他に、ボランティアをやりたい方の窓口相談をやらせていただき、自分と逆の立場なので、とても勉強になりました。
ボランティアをやりたいという人はけっこうお見えになるので、その方を適材適所のかたちで紹介できるよう、しっかり見抜いてくださいと上司に言われました。女性はわりとスムーズにボランティアに入ることができるのですが、定年になって来る男性の方は、難しいです。肩書がいっぱいありますでしょ。「こういう態度は絶対ダメです」「肩書とか全部とっぱらって、ご自分を無地にしてください」などと、充分話をして、くれぐれも心がけるよういったんですがねえ。
あんまりにも熱心に「大丈夫。私にやらせてくれ」とおっしゃるので、先方の老人ホームに紹介すると、先方も「いいですよ」と言われたので紹介しました。ですが、その日の夕方、ホームから「二度とうちによこさないでください」って言われました。
やはり大手の会社の部長をしていた方で、頭でわかっていても、それから抜けられない。威張って、これは違うとか、どうのこうのって。それでは相手の方もおもしろくないでしょう。
それでは別の仕事をと、月に2回ぐらいある切手を切る仕事をやってもらったら、「こんなバカげたことを」と言われました。だけど、ボランティアはそういうものなんです。いろんなイベントの仕事もやってもらったんですが、人に使われることがお嫌いな方なので、自分流にやられるからどうしても失敗が多いのです。
そうすると、他にもいろいろ不都合が出てきて、二度とお願いされないし。きっと不向きなんですね。結局、上司から言ってもらいましたが、割り当てできる仕事はだんだんなくなって、その人のこと考えると頭が痛くなりました。「いいからやらせてくれ」といっても、また同じことになると思うとね。
ですが、そこを見抜くのが私たちの責任なんです。今まで大きな失敗はその方のケースで、あとはだいたい成功しました。もっとやりたいのに少し仕事が足りないとかいう方はいらっしゃいましたが、それは苦情でなく、もっとやりたいということですから、むしろうれしいことだと思います。
あと、一人暮らしの男性から、部屋のお掃除や、車いすなので一緒にタクシーで映画を観に行ってほしいとの要望がありました。それが女性がよいというのです。
何かあると困るので、上司と相談して男の人に行ってもらったのですが、その男のボランティアは家に入れてもくれないで帰されました。そんな人のところに女の人は出せやしませんよ。
そういう人のボランティア紹介も私の仕事なんです。どうして男性ではダメなのですか?と聞くと、女の人の方が心細やかでよいというのです。女の人は結構忙しいので、男の方でとっても優しく、気が利く人がいますから、どうですか?といっても、「駄目だ。女性がよい」というのです。
こういう方がまれにいますが、私のほうからは、お断りしますとは言えないので、この場合も上司に断ってもらいました。
つらかった共働き奮戦記―20代〜50代
実は、私は63歳で大病するまで、独身の時からずっと働いてきました。はじめは幼稚園に勤めていたのですが、結婚して、子育てもあったので、仕事は辞めました。
実家が鉄工所やっていたので、簡単な事務の手伝いをしていたのですが、そのうち借家でなく、どうしても家が欲しくなりました。家を買うために働きたいと主人に相談すると、「俺は一生アパート暮らしでかまわないから、家にいろ」と言うんです。でも、どうしても働きたいというと、「お前が勤めるのならば、俺はいっさい家事は手伝わない」と言われました。だから、長女にはとても可哀そうな思いをさせました。
姉のところには長女より小さな子供がいたのですが、姉の家の2階が空いていたので、そこに住まわせてもらいました。保育園から帰ってきた長女を姉にみてもらいながら、大きな会計事務所のタイピストになりました。
たくさんの会計士さんが働いていましたが、タイピストは私をいれて女性二人でした。私が行かないと、もう一人のタイピストの人に迷惑かけちゃうので、長女に「ごめんね」といって、お弁当とポットを置き、「行ってくるね」と言って家を出ました。「行ってらっしゃい」と言ってくれるのですが、もう一度そっと戸を開けてみると、ふとんをかぶってひとりで泣いているんです。もうね、あれはつらかったですね。
会計事務所の月末は忙しいので、帰りも遅くなります。すると長女が表で待っている、その後姿が不憫で、今でも心に残っています。私が「なにしていたの?」と声かけると喜んで、「おかあさんまだかなぁって思って、星を見てたの」っていうんです。「なにかつらいことあったの?」と聞くと、黙っているんです。
後から姉がいうのには、一緒に遊んでいた姉の子が、なにか気に入らなくて泣きだしたとき、「あけみちゃん(娘の名)、またいじめたの?」って言ったんですって。長女は「そうじゃない」といっても聞いてくれない。だから、「お母さん、まだかなぁって、お星さまとお話したの」って言うのです。
だから、子供が二人になったらば、やめよう、やめようと思っていました。仕事も今みたいなワープロやパソコンと違って和文タイプですから、失敗すると最初からやり直しになったりして、大変でした。会計事務所では最後の仕上げの部署にいたので、月末は何10件も打ちますから、どうしても残業になってしまいます。結局、二人目の妊娠でそこは辞めました。
その時、一番喜んだのは長女でした。いつも送りはしていましたが、お迎えは近所のお友達のおかあさんにお願いしていました。辞めたその日からは、私が園にお迎えにいきましたら、とてもうれしかったみたいで、「この人が私のおかあさんよ、おかあさんよ」って、みんなに私を紹介したんです。
いまだに私の心に残っているのですが、長女はさびしくて、すごくまわりに気を使っていたと思うんです。口に出さない分、毎日おねしょしていました。主人は怒って、お尻にお灸するとか言ってましたが、私は幼稚園で先生をしていましたから、どうしてそうなるのか、心の病の方が多いと判っていた。どんなに新しい布団を作ってやっても、その日からおねしょをしちゃうんです。それが驚いたことには、私が仕事を辞めたその日から、ピタッとしなくなったのです。長女が学校に入る前でした。
そして二人目を出産、二人目も女の子でした。二人とも帝王切開なので、その時の輸血で慢性の肝炎になったようです。あのころは、お金がない人が血を売る時代でしたので、とんでもない血がいろいろとあったみたいです。その症状が20年くらい経たないと出ないんですね。
長女が学校に行ってからは、次女を保育園に入れて、再び働きだしました。今の様にパートはなく、正社員です。経理課だったので、どうしても残業が多いのですが、みんなに迷惑かけられないので、残業もしっかりやりました。迎えに行く時間はいつも遅くて、遅番の時は、お迎えを人にお願いしていました。次女にもずいぶんかわいそうな思いをさせました。
次女が、まだ年中さんくらいの時に、「はしか」で保育園を休ませ、悩みましたが、仕事に行きました。そしたら、担任の先生が、保育園が終わって来てくれたらしいんです。「まさこちゃん(次女の名)のお見舞いに行ったら、おかあさんは、なんと一人だけ残して仕事に行ったのですか?なんと冷たい。鬼のお母さんです!」と言われた時はどんなにつらかったか。
次女はとくに気を回す、人の心を読む子でしたから、「おかあさん、お仕事だからいいのよ」と言ってくれるんです。「おかあさん、大丈夫だから、行って、行って」って言うんです。「行かないで」って、ダダこねないんです、まだ四歳の頃ですよ。そんな話をすると今でも、涙が出てしまいます。
小さな子供がいたのだから、その子が病気だからといえば休めたでしょう。でも、あの時、結婚して子供がいたのは私一人でしたから。周りは独身の人ばかりで、結婚すると辞める時代でした。「だから所帯持ちは、子持ちは駄目だ」と言われたら、後の人に繫がらないと思って休めませんでした。
保育園の先生にしてみれば、こんな時くらい休んであげないと、いつ休むんですか?という、うちの子供を思う気持ちから言って下さったのでしょうが、その時は「私の気持なんかわかるもんか!」と歯を食いしばりました。私も頑張りましたが、子供たちが一番頑張ってくれました。お陰様で、二人とも素直で、本当によい子に育ってくれました。
世界でひとつの絵本つくり
上の子の成人式の少し前に、手作り絵本の講座を受けて、この子のために、私にしかわからない、この子の本を作ろうと思いたちました。講座が12月に終わったので、翌年の成人式に間に合ったんですよ。
絵本を読むと、長女はきょとんとして、「これ本当だったの? おかあさん、私ちっともさびしくなかったんだよ」というんです。「いつもおかあさんがかばってくれたから平気だった、お母さんはそんなに悪いと思っていてくれたの?」とあっけらかんと言うんです。「でも、おかあさん、これ一生の宝物にするからね」って言ってくれました。
絵本つくりはそれがはじまりで、それから次女にも、そして孫にも絵本を作ってあげました。大きくなって保育園や幼稚園に入ると、「これ、ぼくの絵本だよ。僕の名前が入っているんだよ、僕が主役なんだよ」と、お友達に見せびらかしていました。
全部オリジナルです。絵も文章も私が書き、写真は切り抜いて貼るんです。表紙も全部、私が作ります。あのころカラーコピーもなかったので、本当に世界に一冊の本でした。
絵本つくりは、最初は働きながら趣味でやっていたのですが、ボランティアセンターで働き始めた頃、近所の小学校以下のお子さんと、独身のお年を召した方と、お子さんのいないご夫婦のための交流も兼ねて、教室みたいにしてやり始めました。
小学生は卒業すれば終わるのですが、大人の生徒さんは「孫と一緒にやっているみたいで楽しい」とすごく喜んでくださっていました。ある独身の高齢の女の方は亡くなるまで、ずっと続けてくださいました。とても器用な方だったので、たくさん作品を残していってくれました。
几帳面な方で、ずっと日記を書いておられました。亡くなられた時に、ご兄弟があいさつにいらして、「姉は一人ぼっちのさびしい人生かと思っていましたが、そうじゃなかったんですね。日記にすべて書いてありました。残った作品をお子さんたちにプレゼントしてあげていただけますか?」とおっしゃって、大変感謝されました。そういう方たちもたくさんいらして、一生のお付き合いをさせていただいています。
ある年、たまたま小学生が男の子ばかり集まってしまって、あまりに元気がよすぎ、にぎやかすぎて、お年寄りが驚いてしまいました。そして、「今回でやめますから」とボランティアセンターに申し出ました。すると、「それでしたら、お年寄りだけでやったらどうですか?」と言われ、平成21年から高齢者向けのサークルにして、「さざんか」と名前を変えました。
ライフワーク「さざんか」の始動―70歳
創設当初に受講されたお年寄りが、いまだに来ていらっしゃいます。でも、毎年のように亡くなる方もいて、今年は94歳のおばあちゃんが亡くなりました。それでもみなさん大変お元気で、遠くは豊洲からバスを乗り継いで来られる八十歳くらいのおじいさまもいらっしゃって、この会が一番楽しいと楽しみにしておられます。
私は病気の時にやりたいと夢みていたことが、こういうかたちで、実現できてすごくうれしいです。
今「さざんか」では、脳のためにどんなことがいいのか考えて、1分間スピーチを全員にやってもらっています。初めはやだやだという人に限って、5分もお話するので、こちらがストップかけるんですよ(笑)。
少し時間が余れば、「あと二分だけ話したい人は?」というと、豊洲のおじいさまなどが積極的に話されます。「ここに来るのはなにしろ楽しい。ここほど楽しいところはない」とおっしゃいます。今日も雨の中を来ていらっしゃってました。
お話し会とか、ゲームとか、脳トレのため、幼稚園に勤めた経験も活かし、いろいろ工夫しています。童謡を歌いながら指の体操をやってみたり 「これ脳トレです」なんて言わないで、自然にやってもらえるように心がけています。
童謡の「むすんでひらいて」を歌いながら、肩を叩いたりしてコミュニケーションをはかったり、最後にプレゼントをするために、お手玉をまわしながらのゲーム。「ずいずいずっころばし」や「とうりゃんせ」、「てまり歌」などを歌い、お手玉が止まった人に何か手作りのものを差し上げるんです。そうすると、見学に来た方たちが「私も入れてください」と、一緒に輪の中に入ってらしたりします。
毎月、変わったことを計画します。昨年の一年間は必ず「折り紙」をやりました。あれも脳トレに良いのです。季節の風物や行事にあった作品を考え、難しいところはあらかじめ作っておき、残りをみなさんに作って仕上げてもらいます。
今年は「粘土」やろうかなと思っています。私はいまだに児童館などに来てくれと呼ばれるんですが、それには飛び出すカードとか粘土を持っていきます。その季節にあったもので、来月は桜のマグネットを作ろうかなぁなんて考えています。白やピンク色の桜を樹脂粘土で作り、表面にラメを入れますと、とてもきれいなんですよ。
いつも私たちが「さざんか」でやるのは二時間単位なのですが、児童館の場合は、お母さんとお子さんが一緒に参加しますから、一時間か長くて一時間半くらいで仕上げられるようにします。どんなに短くても、仕上げて帰さなければなりませんからね。決めるまで大変ですが、それも楽しいんです
今日は1ヶ月に1回の病院でしたから、朝八時すぎに家を出ました。注射もしないといけないので。いまだに病院にかかっているんですよ。でも、それをやっているおかげで、私はこんなに元気でいられるんです。
郷土愛から生まれた絵本「亀戸物語」
今日はそのあと、亀戸文化センターへ行き、十時からは「絵本同好会」でした。今、区から頼まれて、「亀戸物語 NO3」という「亀戸天神社」さんの本を作っているんです。私ひとりが作るのでなく、参加者を募集してみんなで作ります。みんなから集めた文章は最初はバラバラなので、それを私がまとめていきます。だいたい大雑把にまとめて、それを再度みんなに見せてこねていき、ストーリーにしていきます。
それを天神社の宮司さんに何度もみてもらいます。宮司さんも忙しい方で、時間がなかなか合わないので、この間なんか朝の八時五十分に待ちあわせました。早い時間でないと、宮司さんも時間がとれないのです。
私たちにはわからない言葉の使い方などを教えていただいたり、宝物殿の中に区の文化財などもいっぱいありますから、その中から、ふたつぐらい書かせてもらうのを一緒に選んでいただいたりします。
今回は図書館にも贈呈するため、プロの画家の方に書いてもらうので、その方にも一緒に行ってもらいます。区との共催の形で、文化センターでやるものですから、プロの画家さんには、区からお金が出ますが、私たちは無料奉仕です。生徒さんには、材料費など多少出るのですが。
今日は、だいたいどこに字を入れるかとかを決める仕事でした。来週からは、絵に文章を付けてゆき、最終的にはちゃんと糊で貼って、最後は表紙を付けたりして完成。結構立派なものが出来るんですよ。
亀戸九丁目の浅間神社の宮司さんも、町会長さんも、こういう本がお好きな方々です。私たちが作った原稿をそっくりお渡しして、同じ町会の印刷屋さんに1冊300円で小さくして作ってもらい、皆さんにお配りしました。
初め、私が提案したのは江東区で一番古い「香取神社」だったのです。「香取神社」は、藤原鎌足がまだ亀戸が島だった頃に、日本統一のために香取大神に戦勝祈願して、大勝したのが起因。665年に創建された由緒ある神社です。菅原道真公をお祀りする亀戸天神社は1646年だから約千年も違うのです。
私は郷土愛から、一番古い「香取神社」からと思ったのですが、「亀戸天神が一番有名だから、やはり亀戸天神がよい」という意見も多く、絵をかく先生も「ぼくは亀戸天神を書きたいとおっしゃったので、最終的には多数決で「亀戸天神」に決めました。
ひっぱりだこの江東区観光ガイド
私、江東区の観光ガイドもしています。旅行会社から頼まれてやるのもありますし、区主催のイベントとしてもやります。一月はお正月ですから、「七福神めぐり」も企画したりしています。
区の観光課の講座を六か月受講して、観光ガイドになりました。試験は現場でありましたが、私はずうずうしいのか、全然上がらずに合格できました。
今は、1年に18、19回くらいやっています。ただ歩くのでなく、いろいろ勉強できて楽しいじゃないですか。班の中では私が一番多いようで、うれしいことに、私がボランティアしている社会教育団体の利用者さんがご指名で来られるので、たくさん私に回ってくるのです。楽しかったからといって、千葉の方が再び観光バスでいらしたりもして。
だいたい「亀戸天神様」のあたりと「銭座」だけでも2時間か2時間半かかります。「銭座」は、銀座が銀貨を作っていたのに対し、銅銭を作っていたので「亀戸銭座」と言われました。銭形平次が投げた「寛永通宝」の投げ銭が有名ですね。だから、私も実物を買っておいて、ガイドの時にお見せするとみなさん大変喜ばれます。
今が一番しあわせ― 75歳
今が生まれてから一番しあわせだと思っています。主人には悪いけれど、恋をしていた時より幸せ!主人が「お前は、毎日誰か恋人に会いに行くみたいに出かけるな」って、ちょっとやきもちを焼くくらいです。行先は全部カレンダーに書いて出かけます。時間で動いているようなスケジュールですが、でも、それができるしあわせってあるじゃないですか。声をかけてもらえるしあわせも。
今は活動を13に減らしました。それでもほとんど毎日のように出かけてます。観光ガイドなどは、月1回ということはありませんからね。勉強会もありますし、班ごとの反省会や集まりもあります。夜は出ませんが、昼間はフル回転。それでも、遅くなると主人がいらいらして、キリンさんのように角がでるんです。私、愛されているんで・・(笑)
子供が小さな時から「手伝わないぞ!」って宣言されて50年。やっと最近、お風呂は自分で沸かすようになってくれました。なぜかというと、彼は「5時から男」で、5時になると、まっさきにお風呂に入りたい人なんです。でも、私の帰宅が5時を過ぎたらうるさいんです。毎日五時までは好きなテレビ番組があるので安心なんですが。
主人が退屈して、いらいらされると健康にも良くないし、認知症の始まりにもなりますから、なるべく1週間に1度は時間をつくって、一緒にでかけます。それも朝10時からお昼まで。なぜかというと午後は主人のお昼寝の時間なので、お買いものとお茶を飲むだけのデートです。
普段は、昼頃はなるべく帰って、一緒にお食事をするようにしています。そうは言っても、買い物をして帰る時に亀戸に寄ったりして、たまに一時頃になってしまうこともあります。主人は先に食べていますが、角が生えています。 愛されているんですから、しようがないですよ(笑)
そう思わないとできないし、主人が元気でいてくれればこそ今の私ができることなので、それは感謝をしないといけないと思っています。
私が、今これだけのことができるエネルギーの源は、皆さんが喜んでくれるということ、そして、それがうれしくて余計楽しくなる、今度はなにをしょうと考えると、また楽しくなる、その繰り返しです。
区から頼まれて児童館でやる「ママさんチャレンジ」も、1回につき、打ち合わせに2〜3回は行きます。行くとみなさんが喜んでくれるんです。子供たちも喜んでくれて、私の似顔絵を書いて、「これ、庄司先生プレゼント!」と寄ってきてくれる。絵を見ると、頭でっかちで眼鏡かけて、口をくっとしている。そんなことがとても嬉しいのです。今のすべてが大事な私の宝物なんです。
あとがき
昭和14年5月10日生まれの庄司菊江さんは、現在75歳。
60歳過ぎまで、働きながら家事や子育てをしてこられたキャリアウーマンのさきがけ的存在です。やがて大病を患い、つらい1年間の闘病生活を経験されます。そのことが庄司さんのその後の生き方に大きな影響を与えました。
健康を回復した後、現在に至るまでの12年、毎日フル回転で、江東区の観光ガイドや、63歳から始めたボランティアコーディネーター、そして35年間続けてきた絵本つくり、「江東絵本同好会」、平成21年発足のシニアサークル「さざんか」の主宰、保育士の経験を活かした児童館の「ママさんチャレンジ」のサポート等。現在も13の活動をしながら元気いっぱいに飛び回っておられます。
そうした庄司さんの姿や行動は、眼前に迫る高齢化社会のとてもよいお手本となりましょう。過去の思い出に浸る暇もなく、アクティブに今日を生きる庄司さんにとって、今が一番輝いて心身ともにお元気なのかもしれません。
「いまが一番しあわせ!」と素敵な笑顔でお話をされる庄司さんに、こうしてはおられないと、私も猛省させられました。これからもどうかお元気で、地域の健やかなるスーパーウーマンとしてご活躍されることをこころよりお祈りしております。 本当にありがとうございました。
ききがき担当:池内 伸子
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隣村への嫁入り
私は大正11年6月25日の生まれですから、この6月で92歳になりました。学もなくて、呆けるのも早うて、この頃はとんと物忘れも多うて。こんなことでは、お話にはなりませんからと、聞き書きのお話も一度はお断りしたんですけど・・・。でも、ぜひに、とのことなら、聴いてもらいましょうか。
私たち夫婦の出会いから・・・ですか。あれは、昭和14年のことだったと思いますよ。私はまだ18歳と、本当に若かったですよ。隆さんは27歳。私より9つ年上でした。ちょうど応召が解かれて、戦争から帰ってきたところでした。
私の生まれは、北川村のすぐ隣、田野町の土生岡(はぶのおか)です。男ばかり7人の兄弟に囲まれた、ただ一人の娘でした。当時の遊びといえば、女の子は「おじゃみ(お手玉)」や「あやとり」。「陣取り」いうて、こっちとあっちに陣をつくって鬼が追いかけたり、大勢で「かくれんぼ」なんかもしました。男の子に交じって、よう「パン(メンコ)」もしたねぇ。男兄弟に随分鍛えられて育ちましたよ。里のすぐそこに小さな山がありましたので、「こぼて」を仕掛けて小鳥を取ったのは、楽しい思い出です。今は、そんなことして遊ぶ子は、もういませんけどね。
そんな男まさりに育った私でしたが、父親には本当にかわいがってもらいました。たった一人の娘を、なんとか幸せにしてやりたいと願った父の思いが、私を隆さんと結婚させたように思います。
当時は、若い男はみんな戦争に行っていましたから、嫁に行けないまま年を取る女の人も多かったんです。そんな女の人のことを「行かず後家」なんて陰で呼んだりしていました。ですから、父親は、私には何としてでも結婚させたいと念じていたようです。
それで、隆さんが戦争から帰ってすぐに、お隣の池田さんから見合いの話が出たときには、とんとん拍子に話が進んだようです。あっという間に仲人のおじさんを連れてくることになってね。
結婚までの付き合い・・・ですか。昔は今とは違いますよ。私は、どんな人やら見たこともないまま、結婚したようなものです。確かに、隆さんを実家へ連れてきて、いろいろ話はしましたよ。でも、話をしたのは父親で、私ではないんです。私は、まだほんの18ばかり。その時が見合いとも知らず、ほとんど相手の顔も見ていませんよ。上の学校へも行かず、一人で年取っていくのは可哀そうだという父親の思いが強かったんでしょうね。ただ一人の娘のために、その縁談をちゃんといい話にしたんです。
ですから、あちらへ嫁いでから、やっとまともに顔を見たような調子でしたよ。言葉の一つ交わすでなく、なんの付き合いもないまま、ね。今の時代なら、若い人たちは自分たちで付き合いして、二人の気が合ったら結婚となるけれど、昔はそうじゃなかったですからね。見に来てくれたときにちらっと会うけれど、その時はそんな気もないでしょう、結婚するなんて。
だから、顔もわからないまま、親たちが話しして決めたとおりに、嫁いで行くんです。相手の家で顔を合わすまで、どんな男の人やらわからないで結婚する。当時は、それが普通でしたね。
結婚式は、嫁ぎ先の近くに星神社というお宮があって、そこでしましたね。あの当時は、花嫁は文金高島田でしたよ。田野にあった畑山という写真屋さんに、写真も撮ってもらいました。
その写真は、今もあるはずです。娘に渡してあると思います。親族全員で写したものも1枚あったと思いますよ。最近は見たことはないんですけど、言えば、出してきてくれると思います。
短くも穏やかで幸せだった親子の暮らし
隆さんは本当にやさしい人でした。翌年の6月には、女の子が生まれました。長女のお産は、土生岡の里でしまして、私の父親が「萬世子」と名付けました。実家は、二十三士の清岡道之助さんの家がすぐ近くで、道之助さんところのお姉さんに「まよさん(文末補足1参照)」という人がいて、立派な人だったそうです。あのような女の人になってくれたらと、あやかったのです。
また、こちらの舅は萬太郎といいましたから、萬太郎のような世渡りができたら上等じゃきに、萬太郎の萬をとって「萬世子」と、そう言っていました。里の父親の願いがこもっているんですよ。
萬世子が1歳になったばかりの昭和16年7月、隆さんは再び応召され、満州牡丹江の部隊に入隊しましたが、そのときは、2年程で元気に帰って来てくれました。
帰っても、家では戦争のことはまったく話しませんでしたね。今ね、新聞によく戦争から帰ってきた人の話が載っているでしょう。それを見て、おっとたまるか(なんてひどい)、お父さんもなんぼか辛い目におうたろう、と思うんですよ。
前歯を傷めて治療していたのを覚えています。あれも、軍隊で叩かれたのではないろうかと、今ごろになって、戦争の話を読んだり聴いたりして思うんです。軍が厳しいということもあって、家では軍隊でのことは何も言えなかったんでしょうね。嬉しいことは何もなくて、なんぼか苦しかっただろうと思いますよ。
体格は大きかったけんど、気持ちはやさしい、おとなしい人でした。きびきびとはよう動かんで、苦労したがやろう。新聞読むと、当時の軍では、暴力なんて日常茶飯事やもんね。けど、お父さんは前歯のことも、何も、戦争の話は、ほんの少しも言いませんでした。よく考えた、やさしい人でしたから。
長女の萬世子が、お父さんに似ています。性格のやさしいところが、そっくりです。この子には、お父さんの記憶がありますよ。3歳、数えの4歳の頃のことです。お父ちゃんにね、高法寺(こんぽうじ)さまへ連れて行ってもろうて、リリアン編みの袋を買うてもろうた、そう言うてます。
また、その時分、隆さんは奈半利の営林署の方へ勤めており、自転車で通勤していました。お父ちゃんが晩方帰るときに、自転車に乗せてもろうた、とも言います。萬世子に食べさせたいと、よく赤物の鯛とかをお土産に買って帰っていましたね。その時だったかどうかはわからないけど、笑ったときに、金歯がきらっと光る口元であったなと、そんなこともおぼろげに覚えているようです。
でも、そうした平穏な生活は短くて、ほんの半年で終わりました。昭和18年末に、4度目の応召となり、濠北派遣の部隊に入隊しましたから。私は、その時に4カ月になる次の子を身ごもっていました。もうそれきり、行ったきりになるとも思わず、見送ったことですよ。
その頃には、萬世子はカタカナをちゃんと書いていましたから、私はお父さんに手紙を書かせたりもしましたよ。本も空で読み、ちゃんと大人に聞かせるので、隆さんにも知らせたいと思いました。
でも、今度は遠い遠いニューギニアで、便りもなかなか難しくて、翌年7月に生まれた次女のことも届かぬままだったのでは、と思っています。
いっしょに世渡りして夫婦の形をつくるには、あまりに間がなかったですよ。だから、隆さんについては、やさしい、いい人だったという思いだけです。
この子らと生きると決めて
最後の応召では、ずっと南へ行ったんです。昭和19年10月4日、ニューギニア島ヤカチにおいて戦死(行年32歳)したと、知らせて来ました。でもね、遺骨一つ帰るでなし、ただ名前が入っただけの箱が来たんです。それっきり。
あの時代は、そんなもんでしたぞね。四角い箱には、なーんにも入っていません。名前だけ。木の札だったか、紙の札だったかは、もう忘れましたけどね。
私は「お父さん、軍服といっしょにお祀りしますからね。暖かく着て、静かに眠ってくださいね」と言いました。もう軍服が要ることもないと思い、一緒に埋めましたよ。
当時は、そんなことでした。そんな辛い思いをしたのは、私一人ではなかったですから。若い人はみんな、そう。今の若い人は、本当に幸せですよ。
私は、まだ22歳でしたから、里の父親は随分心配し、気を揉んだことでした。「おまえ、まだ将来は長いぞ。これからが人生じゃ」と言うて。「今から一人で暮らすということは、たいへんじゃ。子どもを連れちょってもかまんきに言うて、世話してくれる人が来たが、一つ考えてみたらどうか。ここにおってもなんじゃが」言うて、来てくれましたわ。
けんどね、私には2人子どもがありましたろう。私は、どんな生活ができるにしても、子どもとはよう替えません。「ここでどんな地獄して苦労してもかまん。ここで子どもを、親のない子にしとうないきに。子どものために、私は頑張って生きていくから」と、父親に言いました。「だから、お父さん、もうそんなことは、今後はいっさい話を持って来たらいかん」言うて、私は頑張りましたわ。
隆さんが出征してからできた子も女の子でした。妹の方は、嫁ぎ先で生みましたから、こちらのおじいさんが「照喜」という名前つける言うてね。私はもがりゃしません(反対はしません)。おじいさんにつけてもろうたがね。男の子のような名前じゃけんど、ね。ほんで、萬世子と照喜の2人です。
家族には恵まれちょったと思います。お姑さんも、がいな(我意を張る)こと言う訳でなし、おとなしい人でした。
隆さんには、お兄さんが1人、姉さんが5人おりましたが、私が嫁いだときには、お兄さんは亡くなっちょって、男は隆さん1人でした。お兄さんには女の子が1人あって、女の子じゃから高等小学校出してもろうたらいいきに言うてましたけど、お義父さんが全部ちゃんと構えて、あの子も安芸の女学校にやりました。
また、一番上のお姉さんは大阪へ嫁いで、警察へいきゆう人と一緒になっちょりました。ところが、旦那さんが亡くなってしもうて、戦争当時は、子どもさん2人を連れて、うちの隠居いうて離れがあった、そこへ帰っちょった。まぁ、長い間には、いろんなことがありましたよ。
あの時分のことは、食べるものがなくて、みんな不自由したと言いますが、私のところはたくさん田畑を作っちょったから、食料に困ることはなかったですわね。でも、労働はたいへんやった。1町5反という田んぼを作っていました。
おじいさんがようせんようになってからは、私が女の人を5人も6人も雇うてやりました。その時分は、人に田んぼを貸すと、自分でよう作らんから貸しちゅうということで、農地委員会に安く取り上げられました。私は、こんな頑固な性分でしょう。ご先祖様から預かった田畑を失うことが嫌で、どうでもして頑張りとおして、ずーっと守ってきました。
萬世子は、高校卒業するとき、進学コースで勉強していて、「お母ちゃん、大学やってちょうだい」と言うたけんどね、月々の収入がなかった。百姓じゃきね。あの子は大学行きとうて、私は「役場が奨学資金貸してくれるいうき、行って相談してくるわね」言うて、役場へ行きましたわ。でも、なんともならんかった。どういう訳でいかんという説明もないまま、「こりゃ、いかん。できん」言うだけで、私は、いまだに納得がいきません。
後でみんなに話したら、そりゃ、食べるだけの財産があったからじゃろう、と言われたけど、それならそう言ってくれんとね。ただ、いかん、できんで、私は戻って来たぞね、言うたことよ。大学へ行きたがったのに、私はようやらんかった。人を雇うて百姓をしてましたき、それを払うたら残りはありゃしませんでした。そうやって頑張ってきました。
ありがたい、今の幸せ
でも、そのお蔭で、今日(こんにち)は、幸せですよ。こればぁの、文句もありません。
萬世子は、何度も言うようやけど、ほんまにお父さんに似ちょって、人間が温厚です。小さい時から私が育ててきまして、今はもう70余る年ですが、今だに私に「けんど、おかあちゃん」言うて、口答え一つ言うたことはないですぞね。
今、北川村の婦人会の会長をしています。自分は事務所の仕事ばっかりして婦人会の方へ携わってないから、とても無理ですと言いましたけんどね、みなさんが、私たちができることはみんなで協力して助けますから、やってください言うてくださってね。とうとう自分も断りかねたかしらん、ね。十分なことはできてないやろうけど、みなさん全員でよう協力してくれて、お蔭でどうにか、保っていきゆうらしいです。
本当に、この子は、私に似ず、お父さんに似ちゅうの。お父さんとは、ほんの3年ばぁしか連れだっていませんでしたけど、人間は本当いい人と思いましたからね。
妹の方は、私に似てね、さっぱりした性格ですわ。この子には、お父ちゃんの思い出はいっさいない。なんにも知らん。まだ、お腹にいたときに、行ってしもうたんやから、仕方ない。戦争をもう1、2年早く止めてくれちょったらね。そう思うこともあるわね。可哀そうで。
でも、まあ、高校までしかようやらんかったけど、なんとか2人を育てあげました。思い出すと、涙が出らあね。本当に、その時分の辛かったことは、話にならんきね。若かったからこそ、辛抱ができたの。でも、2人の娘は、母親が苦労する姿をずっと見てきて、ようわかってくれちゅう。だから、苦労した甲斐があって、今の私には、幸せが戻ってきています。
もう40年以上も前のことになりますが、今の婿が私んく(私の家)へ萬世子をもらいに来てくれました。けんど、話を聴きよったら、婿のところには男の兄弟が5人もあるいうき、こちらへもろうてくれんか言うことになってね。仲人さんが「そりゃ仲人の口が立たんが」言うて、頭掻いてね。
けんど、私の兄の口添えもあって、仲人さんも最後に、まあ一つ、この話を向こうへ持って帰る言うてくれました。帰ったところで、今度はいい話にしてくれて、まとまったことですわ。
この婿がおとなしい、温厚な人でね。私はこの口じゃきに、言うてきかんと承知しませんわ。でも、婿はちゃんと考えちゅうき、取り合わんことは取り合わん。ちゃんと夫婦2人が考えてくれちゅうが。ほんで、今、私は90過ぎて、こんなにしてもらって幸せで。よう子どもを捨てなんだと思うてね。
だから言うことですよ、「これほどにしてもらいゆう姑ばんばがあるろうかね。私は、こればあの文句もない。これで文句言いよったら罰が当たる」と。そしたら、「本人が、そう思うちょったら、それでえいわよ」言うて返ってきます。若い時に頑張った甲斐があったいうことやろうけど、いろいろ話を聴くに、若い時に頑張ってきても、みなみなそうはいかんでしょう。
「ご先祖様、本当にいろいろありましたけんど、預かった田畑は一つも失うことなく今日まできました。子どもも無事に退職しました。田畑は全部、もう子どもに渡しますので」言うてね、私は、仏様、ご先祖様を拝みましたぞね。あと何年生きるか知らんけど、こんなにしてもらったら、もう何にも言うことはない。幸せよ。苦労したことは、なんにも思いません。
これからも忘れることなく
隆さんのことも、忘れんと、こうして聞いてもろうて、ありがたいことです。遺影集のこの写真は、おじいさんが好きやった。
満州の寒いところへ行っちょったき、こんな服装よねぇ。おじいさんが、この写真を選んで、村の遺族会へ出しちょったがよ。私には全然話ないまま、おじいさんの気に入った写真を、ね。
戦地から来た手紙もいっぱいありましたけんど、ほかして(捨てて)しもうたろうかね。こんなもの置いちょいても、いかん思うて。けど、ひょっとしたら、まだ一つ、二つはあるかもしれん。子どもに来たがも、あればぁあったきね。もう、わからんね。何十年も見んもん。お父さんの肩章とか、いろんなものと一緒に、萬世子に渡したように思うけどね。
最期については、わかりません。軍の方からは、直接にはなんも言うてこざったし、あの時分には、訊くこともできざった。赤道直下のどこいらまで行ちょったらしい、言うくらいのことでね。本当に苦労したろう、厳しいところで・・。私は、もう誰にも、そんな思いはしてもらいとうありません。もう二度と戦争は嫌ですね。
あの戦争から70年近い年月が経って、この頃は私らぁも、大方のことは、忘れてしまいだした。こうして遺影集に残してくれちゅうことは、本当にありがたいです。先輩の浜渦武雄さん(文末補足2参照)いうかね、あの方がこうやってお世話してくださったから、遺影集もできたし、遺族會館もね、ああして残りましたよね。
この北川という村は、先に立ってやってくれる人たちが、こういう心掛けでやってくれるから、後へ後へと残りますがね。お陰様で、隆さんのことも忘れられんと、後の人につながっていくと思うて、感謝しています。
< お父ちゃんからの手紙 >
◆大寺 一子 様(妻への手紙)
毎日忙しい日を送っていることと思います
ご健勝で今頃麦の手入れに懸命のことでありましょう
節句ですが 鯉幟もどこを見ても見えず ただ異郷の風景のみ
洋君の幟を見て 萬世ちゃんが喜んでいることと想像いたしておりますよ
節句に送金をいたしたが受取りしてください
返信は航空便にて書留にし返信を願いする
健吾で郷土にあるときより元気で働いている故あんしんしてください
皆々様によろしく 体にくれぐれも注意する様に
◆大寺萬世子 様(長女への手紙)
毎度の便りの健勝の報 嬉しく喜んで居ります
氏神様のお祭りも楽しくすんだようで誠に結構のことと思います
刈取りもそろそろ始めているようだが、豊年で何より喜ばしいことでありましょう
また近年にない柿の豊年のようにて美しい実を垣根にぶら下げていることとて子供等もほしがることでありましょう
蜜柑も又たくさんなったようで菓子の少ない昨今とて何より副食のことでありましょう
土生の方から棒峯様の御守様送ってくれました
お礼を言ってくれ
麦蒔を待とう
体に十分気を付けて
皆様によろしく サヨウナラ
<補足1>
清岡まよ:清岡道之助は、田野町土生の岡の郷士であり、武市半平太とともに投獄された土佐勤王党員の助命嘆願を岩佐の関所に出したその足で脱藩しようとして、捕らわれ、処刑された安芸郡の二十三烈士の首領として知られる。今も残るその生家の床の間に家系図が掛けられているが、「まよ」という名の姉は確認できなかった。
<補足2>
浜渦武雄:大正4年、北川村野友に生まれる。傷痍軍人となり、昭和13年に兵役免除となって以降、北川村に帰り、戦中・戦後の多難な時代を村職員や村議会議員として活躍した。遺族会においては、歴代の会長をよく支えながら、遺族會館の建設や英魂堂の再建に尽力。また、遺族會館内部に戦没者の写真を掲げ、英魂堂内部には神仏両様にお祀りができる設備を仕上げるなど施設の充実を図るとともに、村の英霊の遺影写真集「国敗れて山川あり」の編纂出版を行った。平成4年没。
あとがき
北川村遺族會館に掲げられた数多くの英霊の遺影。この英霊たちの声を聴きたい、確かにここで生きていたという証しを記したい、という私の思いに応えて、大寺一子さんが、夫隆さんとの思い出を語ってくださいました。
戦争のことは思い出すのも、ましてや語ることはもっと辛かったかと思われます。本当に、ありがとうございました。
一子さんの、ご高齢とは思えない明快な語り口で、隆さんとの出会いや当時の結婚の様子が、生き生きと伝わり、暖かな気持ちになった一方で、戦争の厳しさを突き付けられ、改めて深く考える機会ともなりました。
頑張り屋の一子さんが築かれた今の幸せも、平和な日々の中だからこそです。戦争を知らない世代の私たちも、平和のありがたさを肝に銘じたいと思います。
ききがきすと担当:鶴岡香代
完
posted by ききがきすと at 22:59
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語り人 川島操さん(妻)
語り人 上村繁樹さん(義弟)
語り人 川島博孝(長男)
今 も 胸 の こ こ に
語り人 川島操さん(妻)
遠いあの日、寄りおうて一緒になって
よう来てくれましたね。でも、夫のこととゆうても、すべて昔のことになってしもうて、わからんようになりました。私は大正9年の生まれで、もう94歳になります。こんな年寄りですきねぇ。
正秀さんと結婚したのは、私が数えの19歳の時。正秀さんは3つ年上でした。結婚前から互いに知り合っていたというような、そんなことはありません。同じ部落でしたから、もちろん顔は見知っていましたが、今の人たちのように好きになってというようなことではないんです。あんまり昔のことになりましたき、細かいことは忘れてしもうて・・。もう遠い遠いことです。
今みたいな結婚式もせんかったねぇ。寄りおうただけ。そうして一緒になりました。そのときに、こんな話をしたというような記憶もないです。特にはなんの話もなかったねぇ。昔のことやもんね。今とは違う。
(川島正秀さんは大正6年8月25日生まれ。昭和17年8月、大東亜戦争に応召。昭和19年4月、博多を発ち、南太平洋方面に出征。昭和19年8月4日、マッカサル海にて戦死。)
結婚してからも、どっかへ遊びに行くというようなことはなかったですよ。遊びには行きません。貧乏暇なしです。時代も時代だったから、楽しいことは全然ない。二人でしたのは、本当に仕事だけでね。いいようがないほど、仕事ばっかりしました。家は百姓で、田畑の仕事ばっかり。山での仕事もあって、これがなかなかしんどかった。昔のことは今とは違うから、仕方ないと思いますよ。
それに、一緒に暮らした年月は、今思うても本当に短かった。結婚の翌年、昭和13年10月に生まれた長男の博孝が、ようよう4つになった年の夏に、出征しましたもんね。ほんの5年くらいですかね、結婚して一緒におったがは・・・。そんなもんじゃろねぇ。短いもんやった。
長男の下には、2つ違いで長女の満子が生まれていました。応召されたときには、二女の惇美も腹の中にいましたき、正秀さんは気にかかってしょうがなかったろうねぇ。結局、昭和17年の8月に行ったきりになって・・・、一番上の博孝の小学校への入学も、よう見んと行ってしもうたわねぇ。
泣いて、泣いて、それから精一杯仕事して
戦死の知らせを受けたのは、山で仕事していたときでした。弟の嫁が呼びにきてくれたのを今でもよう覚えちょります。暑い日でした。そりゃもう、泣いて、泣いて。ほんとう目も腫れちょった。家へは誰が言うてきてくれたもんか、そんなことは忘れました。役場やったろうかねぇ。
遺骨は、長らく来んかったように覚えています。まぁ、遺骨いうても、木の札だけで、他にはなんにも来ざった。遺骨が帰って来たときには、ガソ(森林鉄道)で途中の二又まで来たのを、もろうてもどったと思います。それから、みんなに来てもろうて、ちゃんと葬式をしました。いつとははっきり覚えてないけんど、鮎が取れるときやったように思うきね。夏の終わり・・やったろうかねぇ。
昭和19年の8月4日に、正秀さんはマカッサル海(※地図参照)で亡くなったということでした。28歳の若さで、ねぇ。戦後しばらくして、野市に復員してきた人が、正秀さんと同じ船に乗っていたと知らされました。その人は、沈没した同じ船に乗っていて、助かったということでした。夫の最期がどうだったか、話を聞かせてもらいたくても、私には3人の子どもがいて行くことができず、弟に行って話を聞いてきてもらいました。弟なら、その話ができると思います。ぜひ、弟からその話を聴いてみてください。お願いします。
夫の出征後に子どもがもう一人できて、3人になっていましたから、生活は、それはもうたいへんでした。その苦労は戦後もずっと続きましたよ。短い結婚生活で戦争に行かれて、男手なしに農業をしながら、3人の子どもを育てたんです。並たいていのことではありませんでした。でも、あの当時は、みんな同じ。そういう時代でした。
私は、自分の親の家の隣に住んで、両親に助けてもらいました。弟夫婦と一緒に、大家族の生活でしたが、子どもたちの世話は親や弟嫁に頼み、私は精一杯仕事しました。
お陰様で、子どもたちは健康に育ってくれました。でも、中学校を卒業した長男を、生活のために、すぐに山の仕事に行かせなくてはならなくて・・・。私は、なんとか工業高校に進学させてやりたかったんです。そのことは、今思い出しても辛いし、心残りなことです。下の娘2人は、田野の親戚の家から中芸高校へ行かせることができて、それぞれに巣立っていきました。みなが助けてくれて、頑張ってくれて、お陰様で、今日の日があります。
胸のここにずっと居る人
正秀さんの思い出というても、もうこれくらいのもんです。百年近くも生きちゅうと、たいがいのことは忘れてしまうもんよ。笑いゆうけど、みんなぁそうよね。遠い遠いことになって、忘れていくもんよ。
そうそう、手紙を持って来てくれちょったがやねぇ。正秀さんは、手紙をよく書いて寄こしましたから、それはこの缶にいれてずっと大事にしてきました。筆まめな人で、満州から私にきたものや、博孝に当てたもの、私の両親へのもの・・いろいろとたくさんきました。書くことは、なんでも書けるき、手紙にはやさしいことばっかり書いて寄こしちゅう。
字は上手で、よく近所の人の手紙も書いてやったりしていました。几帳面な人でしたし、手紙のとおり、やさしいことは、やさしい人やった。私はもう目も見えんなって、長いこと読むこともないままですき、今はもうどんなことが書かれちょったか、ようは覚えてはいません。
けど、書く字が博孝と似いちゅうように、顔や性格も、二人がそっくり。よう似いちゅうと思う。今でも、胸のここに、ここにずっと居る。だから、すぐに思い出せるんよね。短かったけど、忘れることはありません。いつまでも、ここにいます。
正 秀 さ ん か ら 託 さ れ て
語り人 上村繁樹さん(義弟)
ともに島で育って
正秀さんは、私の姉の亭主で、義理の兄になります。私とは、7つ違いじゃったけんど、同じ島(北川村の地名)の出身で、子どものころから知り合いでした。島には、小学校があったですよ。小島小学校の分校で、その当時は、島にあるような分校が奥に7つあった。年が離れちゅうき小学校で顔合すことはなかったけんど、狭いとこじゃき、みんなぁが顔なじみよね。
よう山で遊んだね。冬が来たら、こんな棒を引かいて、その向こうにタネを置く仕掛けをつくって、小さい鳥をおさえた・・・。それが一番の遊びやったね。メジロなんかの小鳥が多かったけんど、太いのはハトなんかもおったなぁ。焼いて食ったろうかね。食べたことは、よう覚えてないけんど。まあ、遊びごとよね。男の子は、毎日、山ばっかしで遊んだね。
夏は川へ、ね。かなつき持っていって、鮎をついた。冬は、アメゴとイダや。チチブは石にひっついちゅうがをおさえた。どれも美味しいわよ。いたどりなんかの山菜も取ったりしたけんど、それは一時のことよ。
子どもの頃は、あんまり家の手伝いはせんかったね。大事にしてもろうた。上級生になったときは、荷運びをやったがね。昔は物を運搬するには、全部、背負いというもんで、背中に負うて運んだわね。家の手伝いは、そんなことくらいで、家族があんまり手伝いはさせんかったように思うがね。私も親の手伝いをしたというような思いはあんまりなかった。
正秀さんとは年が離れちょったきに、一緒に遊ぶことは少なかったけんど、なんかのときには大事にしてくれたと覚えちゅう。自分は姉二人じゃき、いい兄貴、いい話し相手で、ありがたかった。
正秀さんが、兵隊に行くときには、家族みんなぁを預かっていてくれと言うて頼みにきたがよ。それで、家へみんなぁが来て、11人の大家族で暮らしたことよ。姉さんの子どもたちとは、実の親子と一緒、家族同然じゃ。
長男の博孝は、そのとき、まだ5歳じゃった。まだ自分らぁには子どもがない時分じゃったが、妻が背におうて、よう守りしたもんよ。その下に女の子もおって、同じように育てたねぇ。姉の操が3人目を生むようになっちょって、出産に、奈半利の病院に来ちゅうときに、ちょうど正秀さんが召集になって、兵隊に行ったと思う。それが最後になってしもうたなぁ。
戦場から自分の親のところへ、よう便りがあった。正秀さんの手紙はたくさん残ちゅう。こんな箱に入れて、今は川島の嫁が大事に持っちゅうと思うが。字は上等。上手やったと覚えちゅう。
海に沈んだ最期
戦後になって、姉の代わりに、野市へ復員した人を訪ねていったときのことは、よう忘れん。今のと昔のとは野市の道路も、多少違いはせんろうかと思うが、東から高知向いて行ったところの北側に散髪屋があって、そこの人が、正秀さんが戦死したとき乗っちょった、ちょうどその船に一緒におったということやった。
その人の話では、まずは満州の方へ行っちょったらしい。満州のどこまで行っちょったかは、わからんがね。その満州から乗った船が内地へ向かったもんで、兵隊のみんなぁは、これで帰れると考えちょったようです。ところが、いったんは九州の博多へ着いたものの、船は南方へ向こうた。もう忘れましたが、ずっと南のなんとかいう島から船に乗ったところで、船がやられてしもうたと聞きました。
野市の人が言うことには、「私は、船に酔わんけれど、川島の正秀は船に弱いから、船の底に入ると言って、下へ降りて行った。それが最後で、船がやられてしもうて・・・。私は船から降りることができて助かった」と。それで、終戦になり、家へ無事に戻ることができた、ということじゃった。
野市の散髪屋の人の名前も、船が何にやられたのか、そのときの詳しいことやなんかは、もう忘れてしまいましたけんど、大方はそんなことでした。その話を聴いたときの、なんやら言いようがない気持ちは、よう忘れませんがね。そのほかのことは、なんちゃわからん。野市の散髪屋が言うくらいのことしかわからんです。
実は、正秀さんは、満州から九州に着けば、私が面会にくると思うちょったらしい。ちょうどその時分、私も兵役で善通寺へ行っちょたけんど、親が年老いちゅうき、1回は家へ帰って家の整理をしてから来いと言われて、ちょうど家へ帰っちょった。それで、九州へ行く間がないままに、正秀さんの船は博多を出てしもうた。今でも悔やまぁね、そのことは。
島へは来たことがあるかね。今度島へ来たら、自分の家へも寄ってよ。博孝の隣がうちよ。川島の家族とうちの家族とは、本当の兄弟以上よね。大家族みたいなもんじゃ。今でも、博孝に、うちの家からあれ取ってこい言うたら、自分の家と一緒で何でもわかっちゅう。親子も同然じゃ。本当の付き合いじゃ。
博孝もわしを親みたいに言うしね。うちの家内も博孝が5歳のときに背に負いまわって世話したきね。正秀さんが家族を頼むと、自分のところへ来た。それは、もうずっと昔のことじゃが、心にはずーっと残っちゅうわよ。
お や じ へ の 封 印 し た 思 い
語り人 川島博孝(長男)
暑い日の白い思い出
おやじのことは、村がつくってくれた遺影の写真集にあるぐらいのことしか知らん。戦死したマカッサル海は、地図にはあったぞ。何回かは、わしも見た。けんど、それもずーっと昔のことや。その他のことは、わからん。乗っちょって沈んだという船の名前もわからん。
戦没者墓地のある野川口まで、初めて行ったときのことは、よう覚えちゅう。5つばぁのときやろう。その頃は、まだ奈半利川に今の橋はなかったき、手前のどこかから野友まで、ロープやったか、針金やったか引っ張っちゃったき、そんなもんを手繰って船で渡しよった。今の高速が走っちゅうところへんか、もうちょっと上やったろうか。加茂の方からね、向こうへ、野友の方へね。そんなにして、親父の遺骨を納めに行ったことよ。それは覚えちゅう。
夏の暑いときに、初めて渡しを渡って、流れがきつうて妙に怖かったなあ、っていうような感じも持っちょらぁ。白い布へ何か書いてもろうて、それを遺骨の箱へ巻くかなんかしたような・・・。それがなんやったか、わからんけんど、そんなものは遺骨へ巻くよりほかは、なかったと思うきね。
多分、初めての祀りということで、大勢で一緒に行ったんやろうと思う。前田の家におばさんがおったころで、そこで待たさいてもろうたと覚えちゅう。そのときの状況は、確かに出てくる。親戚の者に連れられて、そこまで行ったがや。誰と行ったかは、ようはわからんけど、島光則さんは確かにおったと記憶がある。その人は、上村の叔父の嫁さんの兄貴やき。
母の話は二又で遺骨を受け取ったということで、こっちは、戦没者墓地へ祀りに行った話や。二又でのことは、覚えちゃあせんけんど、遺骨を受け取ったあとの、ちゃんとつながった話や。遺骨いうても、おやじは船で沈んじゅうがやき、もろうたもんには、なにも入っちぁせん。本当に、なにもなかったし、なにもわからん。
誰にも話すこともない、遠いことよ。とにかく、暑かった。みんな白いもん着て、袖まくしあげるか、半袖か。あの頃は、夏着るもんいうたら、ワイシャツでもなんでも白いもんしかなかったき。変わった色はなかった。みんな白かった。なんせ、白一色よ・・・・。
ぷっつり切った・・辛い思い
おやじが死んだというようなことは、小学校の3年か4年ばぁからこっちは、ぷっつり切れた。手紙も昔々に何回か見たけんど、その後見るようなことはない。こうして残しちゅうだけのことや。
おやじのことは、正直言うて、思い出すのは辛いし、話しとうもない。戦争の話は、本当にせん。しとうない。わしら、おやじの顔も知らん。写真で残っちゅうだけで、わしらには、わからん。よう似ちゅうと言われるき、似ちゅうがやろう。わしは子どもの時分は、わりことし(いたづらっ子)やったぞ。この写真を見てみいや。わりことしの目をしちゅうが。
物づくりが好きで、機械のことやったら話すことはなんぼでもある。手づくりのこの庭や、山の木のことらぁも、話しはいっぱいあるき。また来たら、次は、そんな話をしちゃおう。時間が、なんぼあっても足らんぞ。
< お父ちゃんからの手紙 >
○川島 操 様(妻への手紙)
操さん 子どもができたとのこと安心いたしました
その後ひだちはいかがにございますか お伺い申し上げます
女の子だとね 名前はなんとつけたのだ
早く早くお便りくださいね
次に家の方の秋、月谷らはちょっとは刈ったでしょうね
自分の家の秋の様子も知らしてくれよ
ウマイ物であればウント送ってくださいね
ハハハハ
では御身大切になさいませ
○川島博孝 様(長男への手紙)
博孝よ 父も大変元気にて着いた故、安心致せよ
一生懸命でやっているよ お前もまだ五つだ
おばあ様やおじい様の言うことを良く聞いて元気で遊びおれ
母の言うことを第一にね 母にも良く言え
武重君には懸命で訓練をせよとね
まずは体を大切に
また次に さようなら
○上村 庄 様(妻の母への手紙)
拝啓 時下厳寒の その後 ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません
その後 母上様にはお変わりありませんか お伺い申し上げます
次に私も元気にて懸命に働いて居ります故 ご安心くださいませ
お手紙によりますれば島も今年は大変に寒いとのことですね
また 長々の晴天で飲み水も大変少なくなったとのことですね
お困りのことと思います
お母様には毎日子供たちの守りをしていてくだされ
誠にお世話様にございます
なお この上とも よろしくお頼み申し上げます
本日は旧正月の元旦でありますよ
お正月も博孝や満子は元気に遊んでおることと思います
では 御身大切にお暮しくださいませ
度々お便り待っております
○上村 産次 様(妻の父への手紙)
拝啓 長々ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません
その後 御父上様一同には お変わりございませんか お伺い申し上げます
次に私も元気にて務めおりますれば 何とぞご安心くださいね
さて昨日は慰問品をたくさんお送りくだされ
誠に有難く厚くお礼申し上げます
印も受取りました故 安心ください
操の書面によると 早や野床をしているとのこと 早いものですね
当満州も暖かくなって野原は青くなってきましたよ
暖かくなるにつれて奈半利川の鮎も大分上がってきたですね
島にも着ているでしょうね お伺いするよ
では いつもながら操、子供をよろしくお頼み申し上げます
皆様によろしく申してくださいね 書面にてお礼まで
あとがき
仕事で出席した高知県北川村の戦没者慰霊祭で、会場である遺族會館にぐるりと掲げられた数多くの村の英霊の遺影に出会い、まっすぐに視線を投げてよこすその若さに、私は痛いほどの哀しさを感じました。そして、そのことは、私の中ですでに過去のこととなっていた戦争を、身近に引き寄せて考えるきっかけともなりました。
遺影となったみなさんに少しでも関わりたいと願いながら、もう十年近い年月が経ってしまいましたが、この度、やっと、遺影のお一人である川島正秀さんのご遺族に会い、お話を伺うことができました。
若かりし日の結婚生活について、川島操さんは、「遊びには行きません。二人でしたのは仕事だけ」と教えてくれました。戦争は、花見や祭りなど、そんなささやかなエピソードも許さず、ほんの5年で逝ってしまった正秀さん。でも、「胸のここに、ずっと居る」と、手を胸に当てておっしゃった操さんの言葉が、私の耳にずっと残っています。
戦争とは、戦死された人々だけでなく、遺された家族のみなさんにも、耐え難い苦難を強いるものなのだとつくづく知らされました。重い心の蓋を外して話してくださった長男の博孝さんをはじめとするご遺族のみなさん、本当にありがとうございました。
また、今回の聴き書きには、北川村協会福祉協議会の西岡和会長さんをはじめ、多くの方にご協力いただきました。心から感謝申し上げます。
ききがき担当:鶴岡香代
(完)
posted by ききがきすと at 21:30
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語り手:杉本 明(すぎもとあきら)さん
生い立ち
*奉安殿:戦時中、各学校に建設され、天皇、皇后の御真影と教育勅語などを納めていた建物で、職員生徒は、登下校時や単に前を通過する際には最敬礼するように定められていた。
担当ききがきすと:菊井 正彦
杉本明さんとは、NPO法人 関東シニアライフアドバイザーの会員同士です。
協会へ入会されたのは4年前だったと思いますが、特に親しく語る機会はありませんでした。3月初旬に神奈川地区会員が集まるイベントがあり、病気の私の体調が良くなりましたので「私の顔をみせたい、仲間の顔をみたい」と参加したときに、しぶりにお会いました。なんとなく自分史を書きたいと思っていた杉本さんは、私が「聞き書き」という活動をしていることに関心を持っていただき、私より10歳上の先輩ですが、同じ大学・同じ学部を卒業したということもあり、話が進みました。
品の良いロマンスグレイの老紳士という印象の杉本さんが、見出しにもあるようなご自分のコンプレックスの部分や、ひもじい思いだけだったとも言える大学時代等を赤裸々に語ってくれたことはとても印象に残りました。
たまたま、「聞き書き」していた期間中に放送された「ラジオ深夜便」で、立花隆が「自分史≠ナ豊かなセカンドステージを」と話しています。そのなかで、「自分史を作り始めると自分がわかってくる…」と言っていますが、同感されたようでした。自分の記憶だけではハッキリしないことも、戦友と想い出話を楽しんだり、また語りを聞き手に傾聴してもらうことで、より浮かび上がり活字にもまとまってくるということに、私も改めて気づかされました。
後日談でなく途中談≠ノなりますが、自分史作りを進めるなかで、近く鹿児島の知覧≠ナ戦友会があり、杉本さんも参加申し込みをしている、ということを知りました。知覧≠ニいえば特攻隊の基地、戦争に関わりない私もいつか訪れたい所と思っていました。「そうだ、どうせなら戦争に関わった人たちが傍にいるという状況の中で見学できたほうがいい…」と気がつきました。
「私でも参加できますか?」とききましたところ、世話人の方からも快く了解を得ることができ、5月21日と22日に「少飛17期特攻観音詣での集い」に参加同行することになりました。知覧″sきは3回目になるという杉本さんも今回新しい発見があったとききましたが、杉本さんの自分史作りの内容に裏づけがとれ、役立ったことはいうまでもありません。また、私にとっても貴重な旅になりました。
posted by ききがきすと at 18:32
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生家は猿沢池のすぐ近く、奈良公園で遊んで
私の子どもの頃や学生時代のことといっても、特別なことはなにもなかったように思うんです。生れは昭和2年ですので、青春の真っただ中がちょうど戦争でしたけど、生まれ育ったのが奈良でしたから、幸せなことに戦災に遭うこともなかったんです。
朝に夕に仏様を拝み、鹿と遊んで
奈良では、正倉をはじめ、どのお寺へ行っても、古い仏様がいらっしゃいます。小さい時から仏様を見ていますから、仏様のお顔のすばらしいのはよくわかっているんです。いいなあって、仏様のお顔に、惚れ惚れするんです。
唐招提寺の鑑真和尚様は、今は建物の奥に置かれていて、決められた日でないと一般には観せていただけませんけれど、あの頃は、廊下に置かれていたんです。鑑真和尚様の肩をさすって、その手を自分の肩に持っていくと肩の痛みが治ると言われていました。私も鑑真和尚様の肩ばかりさすっていたのを覚えていますよ。
東大寺や興福寺、秋篠寺とか、あの辺りにたくさんお寺がありますでしょう。今では、仏様は宝物館など奥まったところに置かれているんですけど、あの頃は、どのお寺に行っても、ほとんどの仏様が手の届くところにいらっしゃって、学生さんが百済観音の前にずーっと座っていたなんて話もありましたね。百済観音がいいとか、あの観音が好きだとか、そんなお話をいっぱい聞きました。どうしてそんなにいいのかしらん、なんて子ども心に思ったことでした。
五重塔や二重塔、三重塔とかもありますからね。そういうところへ行っては、いろいろな仏様を見ましたが、中でも、私は、漆黒の菩薩様が一番好きでした。中宮寺の半跏思惟菩薩様です。小さい頃は、年寄りがいましたので、よく連れって行ってもらったんです。子どもでも好きになるんですよね。手が届きそうなところに菩薩様がいらっしゃって、そばに行っても怒られることもありませんでした。だから、撫でたりなんかしてましたよ。
今でも、奈良の古いお寺や神社の写真を見ると、当時を思い出して、「ああ、あのお寺も、こんなに有名なんだなあ」なんて思ったりしますね。この頃は、奈良へ行くこともなくて、本当にご無沙汰なんですけど、仏様は、いつまでも忘れられないです。小さい頃に、よく行って拝見していましたから、そのお寺の名前を忘れることがあっても、仏様のお姿やお顔は、今でも目に見えるように覚えています。そして、思い出すと心が安らぐんです。眠る時にも仏様のお顔を思い浮かべると、すぐ眠れます。
私は、ラジオ体操も奈良公園でしましたよ。つくづく、奈良公園で大きくなったんだなあ、と思いますね。奈良公園といえば、鹿でしょう。何でこんなに鹿がいるのかなあ、と思うくらいたくさんいましたね。その鹿が、しょっちゅう草を食べてますでしょう。だから、草刈りしなくてもいいんです。ずーっと食べてくれているので、それであの広い公園が、あんなに青々しているんですよ。
奈良の人たちは、鹿を神様のお使いと思って、大事にしています。三作石子詰之旧跡と書かれた碑があって、鹿を殺したっていう話が残っています。お習字のお稽古をしていた三作という名の男の子が、お習字の紙を食べに来た鹿に文鎮を投げるんです。当たり所が悪く、鹿は死んじゃうんですよ。鹿は神のお使いと言われていますから、三作は、まだ小さな男の子だったのに罰を受けて、死んだ鹿と一緒に小石で生き埋めにされるんです。その碑が近くにありましてね。鹿を殺したら、あんなふうになっちゃうって、小さい頃から、言われたものです。
それから、奈良の人たちは、朝、早起きなんですよ。どうしてかっていうと、朝起きて、もし自分の家の前に鹿が死んでたら、たいへんな目に合うからです。万一そんなことがあれば、その鹿を隣の家に運ばなくてはいけないので、早起きするなんて言われていました。それくらい、鹿になにかあったら、たいへんなんです。それほど大事にしていたんです。
戦争中は、おいもぐらいしか鹿にあげられなかったですけど、食べ物がないからといって悪いことをするようなことはなかったですね。鹿は公園にいて、夕方になると鹿寄せの笛が吹かれます。とてもいい音でした。その笛で、鹿は集まってきて、餌をもらいます。寝るところはちゃんと囲いしてまして、そこで寝るんです。よく人に慣れていて、おとなしいですよ。そんな環境でしたから、私は奈良公園で鹿と一緒に大きくなったようなものです。
仕事も、結婚も、子育ても
女高師の頃は、ちょうど戦時中でしたから、学徒動員がありました。奈良には、動員先となるようなところがなかったので、舞鶴の海軍工廠に行きましたね。そこにはいろんなものをつくる工場があって、私たちは鉄板をぐーっと曲げて、丸くする作業をしていました。それは、魚雷の部品だったんですね。こんなふうに丸くしましてね。そのお手伝いですけれど。
終戦は舞鶴で迎えました。動員で舞鶴にいたのは、1年くらいだったと思います。それから猿沢池のそばの家に帰り、学校に戻ったんです。
女高師を卒業したのは、昭和21年だったかと思います。その後、学校の先生になったんです。当時は、高等師範学校を卒業すると、先生になるよう決まっていましたから。
また、先生になるためには、マッカーサーさんの試験を受けることも必要でした。終戦後は、マッカーサーさんが日本で一番偉い人でしたので、先生になれるかどうかっていう許可をもらうのもマッカーサーさんからだったんですね。女高師を卒業しているだけではなくて、この試験にも合格していましたから、就職の時は楽で、先生にはすぐなれました。
まず、奈良育英という私立の女学校の先生になりました。今は育英高校っていうんですけど。家から通えるところで、2年くらいは勤めたように思います。教えていたのは、家庭科で、衣食住の全てを教えましたよ。和裁も洋裁も、なんでもやらなくてはいけなかったんです。料理はもちろんです。私の専門は栄養の方でした。栄養や食の教育については、今ではテレビでもよくやっていますが、随分変わったように思います。
結婚したのは、昭和25年頃だったでしょうか。舞鶴の海軍工廠へ行った時に、海軍技術士官だった主人と出会いました。今では考えられないけど、その頃は海軍の兵隊さんが、一番格好良かったのよね。主人は海軍の制服でね、高等官食堂へ行くんです。私たちは学生ですから、もうボロボロの、豆の粕が入ったお弁当を食べているのに、高等官食堂を覗いてみたら、みなさんフォークで食べているのね。それほど違っていましたよ。すごいなあって思いました。私たちの先生も女高師だから、高等官なのよね。高等官食堂へいらっしゃるわけです。私たちはお弁当なのにね。
主人との馴れ初めは、長い話になりますよ。きっかけは、私が舞鶴に行って、一生懸命やっていたのを向こうが見て、それで、声をかけられた、ということですよ。主人は、私より4つ年上でした。
生家は古い家でしたから、親は私を奈良から遠いところへは出したくなかったし、私自身も出たくはなかったんです。嫁に行くとしても、奈良からは一歩も出たくないと思っていました。主人の実家は名古屋でしたが、戦災にあって、家も焼けていたんですよ。だから、私に名古屋へ来いというわけにはいかず、結婚について言い出せなかったようです。
主人は、終戦後は、しょっちゅう、名古屋から関西線で奈良へ来ていました。でも、親は、結婚なんてだめだめ、って。私も結婚なんてつもりもなかったし、向こうもそんなに急がなかったですね。ただ、通って来てたんですよ。
結婚したのは、舞鶴で出会ってから、ゆうに5年は経とうという頃でした。主人の粘りが実るかたちで、やっとでしたね。実家は、姉が酒屋から養子をとり、継いでくれていました。
その頃、主人は親戚のつてで犬山に家を借りて、勤め先だった三菱電機の名古屋製作所に通っていました。ですから、私は結婚して、犬山にある県立高等学校で先生になりました。働きながらの結婚生活でしたね。当時は、先生が足りなくて、来てくれ、来てくれと言われて、先生になったんです。
昭和27年に長男が、昭和30年に次男が生まれました。長男が生まれても、しばらくは先生を続けていましたね。でも、先生の給料は少なくて、主人が勤めていた三菱電機の方は給料が悪くなかったものですから、先生を辞めるように言われました。それで、教師を辞めて家に入りました。
その頃には、犬山の家も引き払って、主人の勤務先に近い名古屋市内の清明山に移っていましたね。
次男が生まれた翌年の昭和31年には、主人が静岡製作所に転勤になりました。それからは、ずーっと静岡で暮らしました。主人は49歳で亡くなりましたが、ちょうど長男が大学を卒業する年で、三菱電機から長男に、入社すれば静岡製作所に配属しますと話がありました。それで、長男も三菱電機に勤めることになったんです。
その後、長男は静岡製作所で所長まで務めたんですが、東京の本社に転勤になり、今もこちらにいます。次男は大学を出てから新聞記者になり、今は、こちらです。私は、しばらく孫と一緒に静岡にいたんですけど、身体の調子を悪くしてしまい、一昨年の7月にこちらの施設に移ってきました。
今、仏様とともに在る幸せ
戦争という時代ではあったけれど、振り返ってみると、私って苦労はしてないんですよね。友達の中には、あの時代は、これ以上はないほどの貧乏をして、お芋の茎ばかり食べていたと言う方もいます。私もお芋の茎は食べましたよ。でも、これ以上はない貧乏ってことではないんです。古い家でしたから、何でもやりたいことはやらせてもらいました。
また、しっかりしている姉がいてくれましたから。私が、今ここにいるのも、姉がずっといろいろアドバイスしてくれたからです。私がちょっと悪いことをすると、ああいうことをしてはだめよ、こうした方がいいのよ、とか言って、ずいぶん助けてもらったものです。
母も割合に長く元気でいてくれて、奈良から名古屋へ帰る私の汽車賃まで心配りしてくれました。母が亡くなって、姉の代になっても、それはちゃんと続けてくれました。姉が何かと気遣ってくれて、これで行きなさい、こうしなさい、って、お母さんがわり。姉のお蔭で、今があるなぁと感謝しているんです。
主人も、それはいい人でしたからね。動員に舞鶴へ行って、一番得をしたのは私だって、友達から随分言われました。どうしてって尋ねると、ご主人と一緒になったから、いいって。羨ましがられていましたよ。
ここに来てからは、二人の息子が近くにいてくれますので、安心しています。みんなに、幸せねって言われますけど、本当に、そうですね。若い頃は、私には男の子しかいないので、女の子が欲しいなあって、よく思ったんですよ。でも、今は、次男がよく私のことを気遣ってくれて、身の回りのことはなんでもやってくれます。だから、何にも心配はないんです。
私は奈良の古い家に生まれて、なにも不自由に思うことなく育ててもらいました。また、子どもの頃から毎日のように拝んでいた仏様が、今も、すぐそこにいてくださいます。目を吊り上げたような仏様じゃないですからね。何でも受け入れてくださる優しい仏様の顔でしょう。いつまでも忘れられないですね。だから、本当によかったですよ。
主人も本当にやさしい仏様のような人でしたね。そう。だから、私もよかったんだと思います。幸せですよ。
あとがき
相生の里のお部屋にお訪ねしたとき、和子さんは色白のお顔に優しい笑顔を浮かべて、私たちに声掛けをしてくださいました。そのふわりとした雰囲気に、初めての対面に強張っていた私の心の糸が、ゆるゆるとほどけたように思えます。にこやかで柔らかなお人柄が、今も心に印象深く残っています。
特別なことは何もなかったのよ、どんなことを話せばいいのかしらと、しきりに気にしてくださったのですが、お話が進みますと、奈良という特異な舞台ならではの思い出話が次々と披露されました。あの時代を思うと、たいへんな思いをされたことは間違いないのですが、それを苦になさってないのは、明るく、のびやかな性格で乗り切ってこられたからだろうと思います。そんな和子さんだから、ご主人も惹かれたのでしょうね。
また、和子さんは口癖のように「幸せなんですよ」「お陰様なんです」と繰り返しおっしゃいました。奈良での仏様との思い出が、いつまでも和子さんの心の拠り所となっているように感じました。そして、仏様を忘れず、人への感謝の思いをいつもお持ちになっていることが、心の支えともなり、ずっと和子さんをお守りしているように思えてなりません。
和子さん、これからもお元気でお過ごしくださいませ。ありがとうございました。
担当ききがきすと:鶴岡香代
posted by ききがきすと at 14:38
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ペルーでの原体験が仕事の基本に
バブル崩壊の前だったので、ものすごく売れていて。その頃、海外旅行に一人で行くということを始めたんです。仕事は私の生きがいで、当時は面白くてしかたなかったですね。自分で売って、またデザインして、作って。小さな会社だったので、営業まで全部一人でさせてもらってました。
それがすごく楽しくて、もう少しスキルアップしたいという思いと、海外で生活したいという思いがありました。「兼高かおる世界の旅」を子どもの頃から見ていて、海外で生活したくて。ペルーか、中国か、トルコのどこかに行こうと思っていました。どこも細工ものが多いんですよね。宗教的なことでトルコはやめて、中国も当時は国交が正常化してなかったので、近いから年を取ってから行こうと。
結局、ペルーの銀細工を勉強しに行こうと。無謀にも知り合いもなく、言葉も知らないで行って、そこで2年半を過ごしたんです。内戦があっても、中の人たちは普通に生活していました。
ペルーの北部の町に銀細工の村があって、そこに学校があったんです。1年ぐらい経ったときに、そのことがわかって、その学校に入学をして、銀細工の勉強を1年ほどしました。
日本人は見たこともない、私が初めてというような小さな村だったんですが、そこでの生活が面白かったですね。仕事に対する思いが変わったのは、そこでです。それまでの日本はバブル崩壊前で、景気がよくて、時間に追われて、忙しいことが美徳のような流れでした。ペルーではお金もなくて、生活費もなくて。カナダ人の宣教師の教会だったんですが、そこに下宿させてもらって、子守してくれれば置いといてあげるって感じだったんです。
たまに、お手伝いで、その教会に来る貧しいおばあさんたちと一緒に仕事をするんです。日本だと1枚の型があれば、紙を5枚合わせて1回で切りますよね。そうしたらすごく怒られて、なんて怠け者なの、って言われて。早く終わらせた方が優秀なんじゃないのかって思っていたのが、明日の仕事がないじゃないの、って言われて。
そうか、仕事は長引かせないとお給料もらえないんだ、と気づいて。本当に目から鱗でした。「仕事っていうのは、早く終わらせるだけが全てではないんだな。家族のために、一つの仕事を三つに分けてでも引き延ばすことも仕事なんだ。この国のここでは、そうなんだ」って思いました。
それまで自分がやってきた「あぁ、忙しい、忙しい」という、早く次の仕事に移らなくてはいけないっていうような常識は、その国のそこだけに通用することだと思いました。で、仕事に対する見方が、そこで本当に変わったんです。Aさん、Bさん、Cさんのそれぞれに仕事のペースがあって違っているのに、自分の物差しでは計れないって、その時に思って、それから働く姿勢がすごく変わってきたんですよね。
福祉の仕事をデザインする
学校を卒業して1年経って、日本人は強制的に帰らなくてはいけない状況になりました。成田から妹がいる東京に帰る電車の中で、「なんでみんなこんな暗い顔しているんだろう。お金があって明らかにペルーよりいい生活しているのに、この疲れ切った様はなんなんだ」と思ったのが、福祉の仕事に入るきっかけになりました。ちょっと待てよ、人間って本当に面白いものじゃないかなって思ったんです。銀細工するにしても、いろんな器械が必要だったりするし。
まず、介護の仕事に就きました。当時は、まだホームヘルパー2級っていうのはなくて、要介護の家族を看る講習会っていうのがありました。そこから入っていって、知的障害者の施設とかで働いたりしたんです。視覚障害者のガイドヘルパー(以下、ガイドという)の資格も取りました。しばらくたって、足立区の社会福祉協議会が職員募集をしていたんで、受けたところ、採用に。そこで、コーディネーターとして2年間仕事しました。
そのうち、なんだ、このお役所的な仕事の仕方は、と思うことがありました。例えば、自然災害の場合には、いつガイドサービスをキャンセルしたら費用がかからないのかとか、積雪の時のキャンセルは雪の深さを測る必要があるのですが、目の見えない人がどうやって測るのかとか。使いやすいシステムに変えてくださいって言うと、自分でやればって言われました。やっていいのかなって思って、NPO法人についていろいろ調べて、自分で始めたんです。
お役所的な制度と実際が合ってないというところがずっと疑問で、そこで、おとなしく「はい、そうですか」って言っておけば、社協の職員でいられたのに、自分でやったがために忙しくなっちゃって。でも、仲間がいて、私もそう思うって言ってくれたガイドさんたちや、私も三谷さんとこへ行きたいっていう利用者さんがいてくれたので。社協からはすごく恨まれたんですけど、すぐ潰れるとかなんとか言われながら、結果として続けられてきたのは、不思議なんですけどね。
いつも私は、仕事の力は8割で、2割の力は余力として残しておかないと、いつも全力では折れちゃうと思っているんです。なので、しっかり遊び、気分転換も必要です。この頃では任せられる人もできてきたので、仲間のガイドさんたちと温泉に行ったり、栗拾いに行ったりとかそういうこともして、いい方向になってきたかなと思っています。
利用者さんについても、普通は利用者様って呼ばなくちゃいけないんですが、みなさん、名字で呼ぶし、その人たちのことも障害者扱いしないし、スタッフもみんな普通に接しています。だから、居心地がいいのか楽しみにきてくださっています。
組織での仕事で大事なのは、役割分担ですよね。高齢者の支援をやっている足立区の古い派遣センターで仕事をしたことがあったんです。その時、お役所にはすごく丁寧な言葉を使うんですけど、ホームヘルパーさんに対しては、自分の都合のいい人にしか派遣しないとか、おかしいんじゃないかなって思いました。
働く人も依頼する人も事務局も、同じだろうって思っているんですよね。仕事がなければ派遣はできない、派遣がなければ利用者さんが困るっていう堂々巡りです。だったら、立場は違っても、同じじゃないか。ただ、役割が違うだけだと。利用者さんからは仕事もらわなきゃいけないし、ホームヘルパーさんはホームヘルパーさんで、仕事に行ってもらわなきゃならないし。みんな同じですよね。
私は代表ではあるけれども、偉いわけでもなんでもない、ただの電話番だって言います。雑務は私がこなすし、けんかも私がするから、あなたたちは安心して仕事に行ってちょうだいって言うんです。
利用者さんにも、私がガイドさんを大事にするのは、あなた達のためなんだよ、って。三谷さんはガイドの味方なんだよなって言う人もいるけど、それはひいてはあなた達のためでしょう、ガイドさんが辞めたら困るでしょう、って言うんですよ。
私は役所からはすごく嫌われているかもしれない。でも、役所からの仕事も私は断らないんです。たいへんな人のところへお話に行ってという時にも、行きますって、できることは引き受けます。それに関しても実績をつんできたのかなと。言うだけのことを言うからには、やることはやらなくちゃいけない。
また、ガイドさんたちには、常に仕事として動いてもらわなくてはいけません。だから、うちではボランティアはやらない。お金は全部払います。たとえ、事業収入が入る仕事でなくても、ガイドさんには払うんです。赤字になっても払います。そうしないと生活は守れません。会社としては、べつに儲けなくていい。みんなが給料もらえればいいじゃないかと思っています。
収入は介護報酬に頼っているわけですが、国がこの仕事に理解を示さないんですよね。高齢者の方には理解があるんです。だけど、うちなんか高齢プラス障害があるので、ダブルでもらいたいくらいなんです。でも、今以上は事業所が増えないということは、利益が出ないからなんですよね。
仕事が段々増えてきてはいるんですけど、それは助成金を受けているとか、委託事業があるからです。だから、まるっきり民間で介護報酬だけでやっているところは増えません。もうちょっと、そこらへんのところを理解して欲しいんです。なんたって、視覚障碍者の支援をしているのは、民間ではうちぐらいしかないですから。他のところはすべて公的なところなので、うちは別に困っていないとなっちゃうんですよね。
当事者である視覚障害者の人たちが動かないと、国とかは動かせない。でも、その人たちには、常に必要な派遣はされていますから、別に困らないんです。わざと困らせるってできないですよね。ストライキってわけにもいきませんから。なので、仕方ないのかなぁ。
また、頻繁に制度というか、名称が変わっちゃうんですよね。「移動支援」から「同行援護」になるとか。その度に定款を直すことに。私たちが頼んだわけではないのに、国が勝手に変えといて、定款変えなさいって言われて、本当に無駄が多い。まぁ、でも、仕事できているから、今のところ。
人はみ違う、だから面白い
だけど、後継者を探すのは難しい。だって、こんなたいへんなこと誰がやるの、そういう感じです。私が倒れたら、終わっちゃう。いざとなったら、今いる職員、スタッフが何とかしてくれるとは思うんですけどね。今、私の口からは言えないですが、多分動くとは思うんです。随分できるようになっていますから。それまでの様子見ですかね。
ガイドってマンツーマンでする仕事なんです。事務もマンツーマンでしているので、その事務も交代はできないんですよ。派遣の請求システムとして国がつくったものは、ものすごくややこしくなっていて、それを普段から皆に教えるのかっていうと、守秘義務もあり、なかなか難しい。あなたもできるようにしてねって、AさんにもBさんにも教えるってできないですよね。
今、事務的な仕事をしているのは、私ともう一人います。この人は事務的なことから派遣まではできるでしょうけど、そこからはこれからですね。周りもね、まだ動いているからいいだろう、三谷さんがいるからいいだろうと思っている。
やり方を変えれば、その人なりのカラーでできると思うんですよね。私のように、イノシシみたいにダーっと行かなくても、やんわりといけばいいと思うし、何とかなる。うちが辞めると、バーっと散らばっちゃう利用者さんたちを受け入れるところもないんで、それは区の方も困るのかもしれません。
問題山積みで、一つ終わったら、また新たな問題が出るのですが、その度に、仕事が人生じゃなくて、遊びも必要だし、気分を変えたいし、ってとこですね。ほんと、仕事づけは嫌だな。毎日が日曜日でなくてもいいから、たまには日曜日欲しいな、みたいなね。仕事は自分でやっているから、嫌いではありません。ただ、楽なことではないなって。年中無休の仕事ですから、私がこうしている間にも仕事している人がいるわけですよね。怪我がないようにとか願うだけだけど。
これまでのメンバーについて振り返ってみると、最初に立ち上げた時の人が合わなくて、出て行ったんです。制度を無視していたので注意をしたんですが、辞めてしまって。その時に、その人が連れてきた利用者さんが、ごっそりいなくなったんですよね。
でも、誰一人心配しなかったんです。大丈夫じゃない、って。だから、あんまりたいへんって感じもなかったんですけど。・・まぁ、常にたいへんでもあるんだけど、メンバーがよかったですよね。大丈夫よ、仕事少なくなってもいいからっていう感じでしたから。で、蓋開けてみたら、全然減らなくて、よかったです。
日々いろいろありですけどね。でも、後に根に持ってもしょうがないし、そんな性格でもなかったので、よかったのかな。メソメソしてたらやっていけない。
例えば、私だって、10人、20人いるガイドさんの中には、気の合わない人だっているわけですよ。でも、私と気が合う必要はないんですよね。利用者さんと合って、楽しく仕事に出てれば、どの人も必要な人材で、人が財産です。
よく、代表と気が合わなくて辞めたとかありますが、私と合う必要ないじゃない。利用者さんと合って、行ける人のところへ行ってくれたらいいって言っていると、その人はその人なりに働いてくれるし、すごくいいなと思うんですよね。
人って、パズルじゃないけど、必要なところにはめ込むっていうか、マッチングさせるのが、コーディネートの面白さじゃないですか。ガイドさん同士で気が合う必要もないし、合う人もいるだろうけど。そういう目で見ていると、苦手だなと思っていた人もなんとなく理解できてきて、あぁ、こういう人なんだなって思える。人間って面白いですよね。人間なんてみんな違うから面白い。自分みたいなのが、10人いてごらんなさい、って感じです。上の立場の人は、そこは認めないといけないと思います。
私も、いろんな国へ行って、いろんな人と会う中で、そう思ってきました。違ってないと面白くない。役所の中にも、すご
くいい人もいるし、親身になってくれる人もいます。基本、みなさんいい人で、制度の狭間でぶつかるだけです。
今度飲みにいきたいですね、って言ってくれる人もいますよ。実際には行くことはないですが、そんな中で仕事できるのは、自分でやっている醍醐味もあるなと思うんです。こういう仲間が増えてくれるといいなと思います。
福祉の仕事をデザインする
事業所をやりたいという相談があるんです。ぜひ、やってください、知っていることはみんな教えますよ、って言うんです。ノウハウには何の秘密もないので、やってください、って。でも、なかなかやってくれる人がいない。山形とか2〜3件、相談もあったんですけど。障害に限定しているので、競合も少ないんです。高齢者向けのサービスはたくさんありますが、障害者となると少なくなりますよね。だからこそ、必要だというのもある。
全国にそういうネットワークがあって、例えば、東京の人が高知県に行くので、高知県のガイドさんが高知の空港で待っているという場合もなくはないんですよ。だけど、そうするには両方に登録するとか、すごく手間がかかって、目の見えない人がどこまでできるのかっていうことが、すごく疑問です。
飛行機に乗せてくれれば、降りたところで、出迎えてもらえる。そういうシステムがあれば、もっと障害のある人も動きやすくなりますよね。独居でも動ける。若い人には、そういう人が多いですよ。いろんな活動をしている人もいるし。サッカーで、ブラジルに行ったり、ロッククライミングをやってる人もいるし。応援したいんですが、なかなか思うようにいきません。制度が問題です。
情報発信も大事で、もうちょっとパソコンも勉強しなくちゃいけない。やろうと思うと切りがないです。ブログとかフェイスブックはやっているんですけど、なかなか特定の人しか知らない。視覚障害者のガイドや制度については、詳しく書くんですけど、見たかなあ、って程度ですね。
地方によって制度が異なり、一人当たりの視覚障害者の使える時間も違っていて、全国統一してくれないと困るんです。
でも、うちの田舎なんか人口少なくて、しかも地域が山だとかだと、ガイドさんが行けないくらいの距離のところもあり、そうすると難しいですよね。そういうところの障害者って、もう引きこもっているしかないのかなぁ、って、心配なんです。できれば、少しでも楽しんでもらいたいですね。
まだまだ難しいところです。やっていくと面白いんですけど、一つ手をつけると終わらなくなっちゃうし、今あることで手いっぱいのところもあるし、ね。ちょっと過渡期っっていうのかな。もう一つってところです。
みなさんの歴史を書き留めておきたいという思いがあるんです。時々、すごく面白くて、私たちの意表をつく答えを言てくれる人とかもいるんですよね。だから、あぁ、こういう思いもあるのかなぁって知ったり、聴き出すことも勉強していきたいんです。表に立って喧嘩ばかりしてないでね。(笑)
あとがき
三谷さんと私は、ききがきすと養成講座で同じ受講者として出会いました。講座のワークショップの中で、「私と仕事」をテーマに、お互いの話を聴き書きし合った仲間です。聴き手の未熟さにも関わらず、三谷さんが語ってくださった仕事についての経緯や考え方は、日本の狭い枠から飛び出したような幅の広さや面白さがあるものでした。豊富な内容に、思わず「そうそう!」と頷きながら聞いていました。
ペルーの片田舎のおばあさんたちとの作業の中で、人も仕事もそれぞれでいいんだと気づき、仕事への姿勢が大きく変化したと話されていたことからも、NPO法人代表でありながら、仕事を管理するというより、仕事を楽しくデザインしているという印象を持ちました。人はみんな、違っていい。違っているから、面白い。当り前にそうおっしゃる、軽くて、明確な口調に、不思議な説得力があります。
私も、こんな上司と一緒に仕事したかったなぁ。
(聴き書き担当 鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 13:01
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ベンガル語をお茶を飲みながら学ぶ
バングラデシュに来てから1か月は、お茶を飲みながらベンガル語を勉強するのに費やしました。
バングラデシュの街を歩くと、至る所に小さなお茶飲みの場所があります。たいていは屋台でお茶を沸かして人々に飲ませてくれる店ですが、中には地面に座って路上でお茶を売っている場所もあります。
こういうお茶飲み場を「チャドカン」と言います。ここでお茶を飲みながら、皆で主人を囲んでおしゃべりを楽しむのがこの国の風習ですが、私もここでベンガル語を学びました。 一日に10か所も20か所もまわって、おしゃべりの中でベンガル語を習ったわけです。いわば活きた学習方法ですか。
もう学期はスタートしていたので、入学審査担当官は「学期の切り替えまで、1年くらい待つよりないだろう」と言うのですが、自分は「いや、待てない、どうしても今すぐ入学させて欲しい」と粘りました。自分の話すベンガル語を聞いていた担当官は「それだけ話せるなら講義についていけるだろうから、まァ、いいか」と承認してくれました。柔軟といえば柔軟、ちょっといい加減かなあ。お茶屋で鍛えたベンガル語が役に立ったわけです。こうして学生ビザもとることができ、ベンガル語もしっかりと学び始めることができました。2003年1月のことです。
エクマットラの誕生
その仲間たちと一緒に街に出て、半年ほど路上に住んでいる人たちと話をして、調査をしました。みんなで校庭の芝生にクルマ座になって座り、議論に議論を重ね、時間をかけて確実に、自分たちがやりたいことの絵を描いていきました。
これがekmattra(エクマットラ)の成り立ちです。「エクマットラ」とは「皆で共有する一本の線」という意味で、遠くはなれてしまっている貧困層と富裕層を限りなく近づけて、1本の線にすることを目指し、バングラデシュ国の問題は、バングラデシュの人たちがみずから直視し、解決を目指すのだ、という理念を表します。豊かな国の援助に頼るというかたちでは、 いつまで経っても国の自立は難しいものです。
自国の問題を他の国任せにせず、自分たちで解決・改善できてこそ、その国の発展はある、という自明の論理の展開でした。他の団体が実施中の期限つきプロジェクトを見て、海外からの援助に頼ることの問題点に気づかされたのもこの頃です。
エクマットラ創設者のうち9人が、今も変わらずこのプロジェクトを手がけ、絶えず議論をつづけて、より理想的な将来像を練り上げています。この仲間と出会えなかったら、おそらく1年か2年いただけで、自分は何もできないんだ、とシッポを巻いて帰ることになったんじゃないかと思います。
まず「青空教室」
たとえばバングラデシュでは、非常に多くのNGOが活動していて、ストリートチルドレンに対しても、多くの支援がされています。しかし母親が娼婦だったり、父親がヘロイン中毒だったり、どちらかと言うと「社会の落ちこぼれ」のような親は、自分達のためだけに、子どもたちを収入源としてしっかり確保しておきたい、と考えがちです。そして、そういった親を持つ子どもたちは、こういうNGOの支援を受けられないことがあると分かりました。そこで、自分達としては、親が理由で支援を受けられない子どもたちを、何とかしていこうという方針が固まってきました。
まずは親に対して話をすることから始めました。話を聴いて回った地域は「娼婦街」だったのですが、そんな地域で外国人の自分が話かけることは、とても危ないことで、最初は、リンチにあいそうになりました。娼婦の人たちは夜に仕事をして、昼間はみんな疲れて寝ているので、夕暮れ時しか話せないんですね。そうすると、結構、あたりが暗いし、怪しい人が集まってきたりということがありました。それから、今でもあるのですが、その頃は特に、外国人による「人身売買」が多かったようで、私も外国人ということで間違えられたことがありました。大人数に取り囲まれ、「二度とここに来るな。今度来たら、ただじゃおかないぞ」とリンチにあいそうになって。
その時は「わかりました」と言って帰るのですが、そこで諦めたら何にもならないので、毎日毎日行きました。結局1ヵ月半くらい通いつめるうちに、本気だと分かってもらえたんです。特に、その地域のボス的な娼婦の人がいて、その人が皆に先立って理解してくれたのが大きいですね。それまでは自分の過去のこと、子どものこと、なぜ娼婦をしているか、などについて口を閉ざしていたのですが、だんだん話してくれるようになりました。「自分の娘にはこういった仕事(娼婦)はして欲しくない」「本当はもっと幸せな生き方を選んで欲しい」と。でも「そうするための方法は分からない」というのが本音でした。
親たちも巻き込んで
そこで、私たちが青空教室をやっていることや、計画中のシェルターホームのことを話しました。たしかに日々の収入を得るためには、子どもを手元においた方がいいでしょうが、子どもたちが教育を受け、さらに技術訓練を受けることで、何年か後に仕事につけて生活できるようになったら、子どもにとってもあなたにとってもプラスではないですか、と説得したのです。
とはいっても、やはり説明だけではなかなかピンと来ないようなので、「まずは、とりあえず子どもたちを青空教室に参加させてみたら?」「青空教室は週に3回、1日2時間だけだから、子どもがそこに参加するだけだったら、収入が減ってもそれほど問題ないでしょう?」といって参加してもらうようにしていきました。
その後、だんだん来る子どもたちが増えてきた時分、『親に対する青空教室』も始めたんです。「ここでどんなことを教えているのか、知りたくない?」と誘って、子どもを20人くらい座らせ、親もその周りに20人くらい座らせました。そこで、表向きは子どもたちに教えながら、実はその周りにいる親たちに対して、こちらの意図することが伝わるようにしたのです。親たちは青空教室の実際を見、私たちが真剣に教えているのを見、私たちの思いを肌で感じてくれるようになる。そうやって少しずつ変わっていきました。
カリキュラムを作ったとき、最初は教室につきもののイメージとして「読み・書き・計算」からというのがあったので、まずはベンガル語の「あいうえお」、英語の「ABCD」、数字「1、2、3、4、5」を教えていきました。ところが、子どもたちは親に言われて出席しているので、あまり興味がないんですよね。本当につまらなさそうにしていて。こんなやり方で1、2週間くらい教えましたが、とうとうこれはダメだ、と思いました。
そこで、遊びや歌や踊りや劇といった内容に変えていったところ、子どもたちが少しずつ興味を持ってくれるようになりました。歌、詩の朗読、踊り、遊び、工作などを通じて心を動かされ、笑ってくれるようになり、これを私たちはさらに、モラルやチームワークを教える方向に導いていきました。
青空教室の転機
青空教室はそれこそ天井も壁も無いスペースでやっているので、出席しやすい代わりに、さぼりやすいということがありました。いろいろな子どもたちがやって来てはいなくなり、ということを繰り返していました。それでも、青空教室を始めて1ヵ月半ほど経った頃から、15人位の子どもたちがずっと参加するようになってきました。これが半年程続いた頃、この子どもたちに、もう少し大きな飛躍の機会を作ってあげたいと思いました。
そんな折、たまたま日本大使館が主催するスピーチコンテストがあり、この子どもたちが発表する場をもらって、それまで覚えてきた歌や踊りや詩の朗読を披露させてもらいました。20分程度のささやかな出番でしたが、急病のふりをする子がいるほどおじけづいていた子どもたちが発表を終えた瞬間、500人を超える大観衆が全員立ち上って、割れるような拍手で応えてくれたんです。
私もその場にいて鳥肌が立つ思いがしたのですが、なにより子どもたちが、目を見張るほど表情が変わりました。それまで世間から隠れるように暮らしてきた子どもたちが、自分でも他の人たちに認められることがあるんだ!他の人に賞賛をもらうことができるんだ!という驚きと歓びだったのでしょう。
そこで初めて、自分たちが続けてきたことは間違ってなかったのだ、と思いました。それまでは、最初の教育方法がダメで歌や踊りを取り入れたりしたものの、「本当にこれでいいのか、本当に彼らを変えていけるのか」という思いがありましたが、その発表会後の子どもたちの顔を見て、大きな自信を持つことができました。翌日、多少斜めに構えていた子どもたちを含め、全員が「兄ちゃん昨日はすごかったねーっ!!」と抱きついてきました。15人という少数の子どもたちではあるけれど、自分たちがやってきたことは見当はずれではなかった、少しずつ何かを変えていけるんだと、彼らの変わりようを見て自分たちの迷いはふっ切れました。これが2004年2月の出来事でした。
シェルター設立
以前から青空教室の次の段階として、子どもたちを養育し、通常教育を受けさせるシェルターホームを作りたいという思いがあったのですが、発表会の成功によって弾みがつき、2か月後、ホームを設立しました。この設備つくりの資金については、前年から実業家や一流企業で働いている人などに援助依頼をしに行ったのですが、「そういうことは先進国に頼めば?」と言って、誰も見向きもしてくれなかったという経験があります。外国の援助を頼むのが当然という体質の表れなのです。
私たちの思いは、バングラデシュの人たちを巻き込み、その援助で活動を行っていきたいというものです。というのも、バングラデシュの人から寄付金やサポートを受けることによって、彼ら自身にこの活動を知ってもらい、そして自分たちの国のことに意識を持ってもらうという狙いが活動の根底にあります。
たとえ日本など外国からの暖かい支援を頂いたとしても、そこに依存しないという姿勢を維持する、だから最初から、なんとか自分たちでお金をまわしてやっていこう、という考えでした。本当に子どもたちを変えていきたかったら、親を含めて周りの大人たちを変えていかなければいけないんですよね。
このシェルターでは、通常の教育をしています。青空教室でも読み書きは教えられますが、しっかりとしたものとは言えないので、子どもたちにとっては、ここに来て初めてちゃんとした読み書きが始まります。あとは、刺繍や、紙工作など、技術教育の基礎的なものですが、ただ、一番大切なのは「モラル」を教えることです。限られた空間の中で他の人間と共同生活をすることで、社会性を身につけるということがとても重要です。子どもたちには、路上生活が象徴する自由しか経験が無いわけですから。
そのため、まずは青空教室を入り口として、そこで最低半年間、私たちとの信頼関係を築けた子どもたちの中で、強い意欲を持った者がいれば、親を説得してシェルターに連れてくることにしています。 当初6人だった子どもは、現在30人に増えて共同生活を送り、近くの学校に通っています。この年には、新聞がエクマットラのことを記事にしてくれ、バングラデシュのひとたちの協力が集まるようになりました。子どもたちの里親になってくれる人も出はじめたのは、とても嬉しいことです。
最終目標は技術訓練センター(アカデミー)の創設
さらに、現在のシェルターの規模では本格的な技術教育はできないので、技術支援センターを設立する構想を立てました。2008年9月に、ダッカから170`離れたマイメンシン県に、建設予定地として3.5エーカー(約4300坪に相当)の土地を購入しました。ここに建物を作って、最終的な技術訓練センターとして、子ども達が技術を身に付けて社会に出て行く場とする、というプロセスを考えています。つまり第1のステップは青空教室、第2のステップにシェルターがあり、その後もうすぐオープンするアカデミーで技術を学んで、16〜18歳になったときに社会に出て行く、という仕組みです。社会に出て行くときに、他の企業に就職してもかまいませんが、私たちとしては、彼らが身につけた技術が、私たちの収益となる事業につながる仕組みにしていきたいと考えています。
具体的には、現在も簡単な「お菓子作り」をやっているんですが、アカデミーではオーブンなどを設置して、本格的にお菓子作りを実現していきたいと思います。彼らが技術を身につけて卒業する時に、ekmattraとしてお菓子屋さんを開くことができれば、子ども達の就職先にもなりますし、そうすれば、そこでの収益を次の子ども達への支援に回すことができます。
この最終目標実現のめの資金作りとして、さまざまなことを試みてきました。2006年には映画制作の構想がスタート、2009年4月に『アリ地獄のような街』が完成しました。いまエクマットラの代表者になっている、映画監督Shubhashish Roy(シュボシシュ・ロイ)が監督した映画です。完成後、バングラデシュでも日本でも上映会を開き、チケット売上はセンター建設資金の一部に加えられました。これは、それこそ、はい上がるのがむずかしい場所に生まれたストリートチルドレンの絶望的な生活を、実際に起こった事件をもとに作ったもので、観るひとたちに現実を知ってもらうよき手段となっています。
一番大口の建物建設資金については、バングラ・ダッチ銀行と何度も何度も話を詰め、やっと審査が通って、とうとう2010年、アカデミー建設資金が寄付されることになりました。これを知らされたとき、あまりの嬉しさに銀行を出たとたん、大声で「やったァ、寄付が受けられる!!」と叫んでしまい、びっくりした通りがかりの人までが、なんだか分からないけどおめでとう、と声をかけてくれた思い出があります。このおかげで翌年からアカデミー建設が始められたんです。
レストラン「ロシャヨン」のオープン
そして2011年4月には、レストラン「ロシャヨン」のオープンにこぎつけました。タイ、バングラ、日本料理のミックスの店で、焼き鳥もメニューにあります。単なる、資金集めのためだけでなく、店の名前「ロシャヨン」が意味するところは「化学反応」であり、いろんな人が寄り集まって和気あいあいと食事することで、互いの気持ちや考え方が自然に「反応」し合って変化し、より広い視野と暖かな心が生まれることを目的としています。同時にこのレストランそのものが、ストリートチルドレンの職場となり、自立して職につくための研修の機会となるよう考えて作りました、
開店準備のためには、日本の焼き鳥屋で1週間見習いさせてもらい、作り方はもちろん、資金、仕込み、その他、店というものの経営全般について勉強させてもらいました。この焼き鳥屋さん、そして、イスラム教国であるバングラデシュなので、お酒やミリンが使えない点をカバーしてくれた友人には本当に感謝しています。
両親も見てくれた
バングラデシュでの活動について、はっきりした承諾も得ずに日本から出てきてしまった自分ですが、青空教室をオープンして間もなく、両親が「本当に他人に迷惑かけずにやっているのか?」と調べにやってきて、エクマットラ活動の大学以来の仲間と、子供たちの大歓迎を受けました。いつものように、みんなで楽しく学習している様子をつぶさに見た父母は、心配や疑問もなくなった様子で帰国の途につきました。その機内で、父親が詠んだ句がこれです。
『ストリートチルドレン 胸に抱きたる わが息子
父親がメールで送ってきてくれたこの句を読んだとき、言い尽くせない感動でいっぱいになりました。自分のやりたいことのために、勝手に日本から飛び出して、ろくに日本に帰ることもなく、プロジェクトに打ち込んできた自分なのに、そしてこれからも、人並みの親孝行もできないかもしれないのに、こんなにも分かってくれて、こんなにも自分の側に立ってくれたんだ、という泣きたいくらいの喜びでした。
世界でいちばん幸せな自分
2014年完成予定の技術支援センターは、子供たちが社会に出て、自立した生活を営むために必要な専門的技術・知識を身に付けるための全寮制の技術訓練学校となります。これを本格的なアカデミーとして運営し、卒業生に資格を与え、小規模な店舗、たとえば屋台みたいなものを持たせてやり、自分で営業させる。そして自分たちの後輩をかれら自身が指導するというかたちで、次の世代へのバトンタッチを実現する。ここまでやれたら、自分は日本に帰れるかもしれません。10年後か15年後か分からないけれど。
素晴らしい仲間との出会い、数限りなく受けた親切、こういうことに恵まれた自分の人生はなんと幸せなのだろう。たしかに同世代の日本人と比べたら収入は極端に少ないでしょう。でも、誰よりも今を楽しんでいるという自信があります。いま、私は一人のバングラデシュ人として活動できている心情であり、このことを本当に誇りに思います。
最初は確かに「かわいそうだから」という気持ちがあったかもしれません。でも今はこの国のために何かできるということが、このうえなく誇らしい気持ちです。そして何よりも自分は世界でいちばん幸せな人間だと思えます。
あとがき
渡辺さんは情熱の人、誠意の人です。インタビューの約束当日は、政治的な問題から、政府の反対派が全国で道路封鎖を実施し、わたしたち一般の在留邦人は、大使館から外出を控えるよう指示が出されていたため、動くことができませんでした。
その危険なときに、遠くからバイクで、安全に注意を払いつつ、時間をかけて会いに来てくださいました。そんな苦労をなんでもないように笑って説明し、インタビューの約束をしっかり守ってくださったのです。
さわやかな日本男子。
こういう方を育て、信頼して、バングラデシュという難しい国での活動を、応援しておいでのご家族は、なんと素敵な皆さんだろうと、ひときわ強く印象付けられました。
たまたまバングラデシュに滞在したことによって、立派に、『外向きな活動』をつづけている若い人にお話しを聞くことができたのは、本当に幸運なことでした。
担当ききがきすと:清水正子
posted by ききがきすと at 15:34
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