2023年12月24日

二人の母への鎮魂歌 下

かたりびと:中野ミツヨさん
ききがきすと:鶴岡香代
編集担当:清水正子

二人の養父に想う

引っ越しする前のことを今も思い出す。お父さんは友達の家遊びに行くことを厳しく止めたけど、離婚後、お母さんに相談したら「いいよ。休みのとき、遊びに行って」って。ある日、友達の家で遊んでの帰り道のこと。お父さんは奥さんが連れてきた子どもに落花生を買っていた。昔は露天商が屋台の車の荷台に物を並べて、そこで落花生なんか売っていた。お父さんはすぐ私に気づいて、買った落花生を渡そうと、私の名前を呼んだ。でも、私はその子を見て、すぐ駆け出した。その場に居たくなくて、ただ走った。お父さんは、その子を置いたまま私を追いかけてきたけど、私はずっと走って止まらない。お父さんは後ろから私の名を呼ぶ。でも、私は止まらない。絶対止まらない。

家まで走り続けた。走る間、いろんな気持ちが湧いてくる。お父さんは私とお母さんのこと、いらない。あの子を連れて物を買いに来ていた。すごくお父さんのこと嫌という気持ち。でも、お父さんはあの子をそのまま置いて、私を追ってきた。いろんな気持ちがあった。走って家に帰ったら、お母さんが「どうしたの。もうハアハアしてる。なにがあったの」って。訊いても、私、何も答えない。お父さんがいたこと、なにも言わない。

引っ越してからは、お父さんに偶然会うなんてことはなくなった。でも、お父さん、たまに小学校に私を見に来た。教室の北側の窓から中を覗いて、私を見ていたことを覚えています。何げなく窓の方を見たら、そこにお父さんの顔が見えた。私はすぐ頭を振って見ないようにした。    ずっと年を経て考えたら、お父さんは私のことを気に入っていたから、たまに学校に来て私を見たかったのだろう。あの時は、落花生を渡したかった。今なら、そういうことをしたお父さんの心がよくわかります。

お母さんは再婚して、幸せになった。暴力は全然受けない。二番目の養父は給料を全部お母さんに渡して、お母さんが家の管理をした。炭鉱の仕事は給料が高いから、三人での暮らしは安定した。でも、いくら安定しても、前のお父さんと比べたら全然違う。自分のお父さんじゃないと感じる。

二番目の養父の炭鉱の仕事は危ない。だから、家の仕事はなんにもしない。全部お母さんがする。その頃、家に水道なくて、お金を払って、共同の取水場で桶に水を入れて天秤棒で運んだ。うちはその取水場からとても遠い。当時の私はちょっと背が低くて、中学校に入るときも、130センチしかない。お母さんは纏足。私もお母さんも、一人で天秤棒担ぐのは難しい。だから、棒の両端を、こっちを私、あっちをお母さんが持って、水を運んだ。ご飯作っても、洗濯しても、いっぱいお水がいる。冬になると、その周りは氷がいっぱい張って、滑りやすい。危ないけど、お母さんと二人でやる。

ある日、お父さんが言いました。「みんなの家見たら、子どもでも一人で水運びやっている。あの子にやらせればいい」と。でも、お母さん「ダメです。まだ小さい。今は身長が伸びるとき。あの子には、まだ無理です」って。お母さんは私にやらせたくない。「私は家の仕事だけ。私は大丈夫です。あなたは、よく勉強したらいいです」。いつも私にそう言いました。

養父は、お母さんは私のこと甘やかしすぎると思っていた。夜、私が寝たと思って、二人が話しています。でも、私はまだ寝ていない。お父さんの言うことが聞こえた。「この子は実の子じゃない。日本人の子です。なんでこんなに甘やかすのか」。このことは、私の心にずっと残っています。やはり私の最初のお父さんとは違う。全然違う気がします。

その時のお母さんの答えを私は今も忘れません。お母さんは普段は怒ることがない。養父が何をしても、言っても怒ることがない。でも、このことでお母さんすごく怒って言いました。「そういうこと絶対に言わないで。この子、私の子と変わりません。この子のために私はずっと生きている。この子がいなかったら、私はもっと早く死んでいますよ」。

盲腸の手術の時のことも覚えています。病院へ行くのが遅くなって、化膿して、ひどくなった。養父は私をおんぶして病院に連れて行ってくれたけれど、その後一度も私を見舞うことはなかった。私は一か月以上入院して、お母さんが毎日毎日、お見舞いの時間には必ず来る。私は毎日窓辺にいてお母さんを待った。 

時々、二人の養父のことを比べて考えます。二番目の養父は炭鉱で働いて、お母さんと私の生活を支えてくれた。長く一緒に暮らして、ちゃんと家族になった。本当に感謝しかありません。ただ、最初の養父といた、あの幼い頃が、一番幸せだったと思うのです。お父さんとお母さんと私と、三人のあの日々が。

自立への思いから専門学校へ

昔、中国では小学校4年生までは初等小学校、5年生から2年間は高等小学校に通います。高等小学校は、前の小学校より少しだけ近くなりました。小学校6年のとき、私は成績も良いので、先生は家の近くの中学校に入学するように言いました。でも、どうしても同じクラスの人と同じ中学校に入りたい。この小学校の卒業生は全部、その中学校に行く。ただ、みんなは住むところが同じなのに、私だけ遠い。遠いので途中でバスに乗ります。その遠い中学校に私は3年間通いました。

中学三年生になって、進学希望に私は高校と書かず、師範学校に行って先生になるつもりで、専門学校と書いた。すると、担任の先生は成績も家の暮らしぶりも問題ないのに、どうしてと不思議に思って、私の家まで来ました。

その先生は自転車で初めてうちまで来て、こんな遠い道を3年間ずっと通っていたのかと、すごく感心したようです。「この子は3年間、遅刻することが一回もなく、本当に頑張った」と。そして、お母さんに「この子の成績なら、高校に入って、将来は大学に入ることができる。家の生活とか困ることはないのに、どうして高校に進学しないの?」と訊きました。お母さんは戸惑って、「私は字も読めない、一日も学校行ったことない。全然学校のこと知らない。この子がどう考えているのかも、全然わからない。帰ったら訊いてみます」と答えたそうです。

中野7.jpg 17歳の時、養母(潘素珍さん)と

お母さんから先生が来たこと、そして進学のことを話したと聞きました。男の先生が自転車で来て、遠いからたいへんだったって。お母さんは言いました。「先生は、成績もいいのに、どうして高校に進学しないのかと言いました。どうして行かないの? お母さんは、あなたに勉強をたくさんさせてあげたい」。私はそれ聞いたら、先生がうちに来たわけも、お母さんの気持ちも、よくわかった。

お母さんに言いました。「お母さん、私ね、本当に自立したい。お父さんの炭鉱の仕事たいへんです。危ない仕事ずっとしている。私が学校へ行ったら、また迷惑ばかり。やっぱり自分が自立してお母さんに恩返ししたい。そういう気持ちいっぱいです」って。
お母さんは私に「かまん、かまん。好きにやったらいいの」って。「お母さんは字も読めない、なーんにもできない。あんたはよく勉強して、自分の人生と将来しっかり考えて。それが一番にすること」と。

高校と専門学校は学歴の点では一緒だし、専門学校なら卒業したら、すぐ仕事できる。そうすれば、お母さんが楽になる。私がそう言うと、お母さんは「私が楽できる、できないは関係ないの。自分のたいせつな人生、第一に考えて」と言いました。最後に私は、「そう。これは私の人生よ」と返して、お母さんを説得しました。そうして、1961年の秋、師範学校に入りました。

労働局から病院へ

私が小学校入るとき、お父さんが私に言いました。「これからいっぱい勉強して、知識あったらいい仕事できる。また、いい人に出会ったら一生幸せになれる」って。そのときは小さいから、そのこと全部は理解できてない。でも、言われたことはちゃんと覚えている。工場の労働者の仕事はやりたくない。その考えが私にずっとありました。

師範学校で3年間、小学校の先生になるための勉強をしました。でも、中国では、どこで何の仕事をするか自分で選ぶことはできません。だんだん考えも変わり、師範学校を卒業すると、私は学校ではなく、労働局の事務員の仕事に就きました。1964年、私は19歳になっていました。

労働局で働き始めても、もちろんお母さんとずっと一緒です。もらった給料も全部お母さんに渡しました。若い事務員で覚えることいっぱい。夢中で仕事していた1966年5月、文化大革命が始まりました。労働局のような役所は、すごく政治に敏感です。いたるところに大字報が貼られている。私はそれを見るだけ。どうしてこういう運動が起こったのか、将来どうなるのか、考えてもわからない。下放政策でみんな農村へ行く。不安がいっぱいでした。

私には2つの心配がありました。1つは、「自分は日本人。これから農村に行ったら、ちゃんと帰ってこられる?」。もう一つは、「お母さんと離れたくないのに、ずっと一緒に居られる?」。すごく悩んで、職場の主任に相談しました。私のことを自分の子どもみたいに大事にしてくれて、心から信頼している人でした。

主任は局長と相談して、農村には行かない方がいい、そのためには労働局を辞め、転職するしかない、と言いました。そして、「病院の仕事でいいですか?」と訊いてくれました。その時、私は22歳。どこへ行っても、どんなことでも、まだ勉強できる。私は主任に「ありがとうございます。将来のこと考えたら、それがいいと思います」と答えました。

病院も文化大革命の最中で、最初は「運動事務所」に配属になりました。なんのことやら、私には全然わからない。批判とか何も言えず、記録だけをしていました。毎日仕事に行くけど、患者さんは少なかった。
そのうち処置室での注射を習いました。でも、それは看護師の仕事。私は看護学校に行ってない。勉強しようにも何から勉強すればいいのかわからない。本屋に行って本を買いたい。でも、毛沢東の本とか政治関係の本ばかりで、私が買いたい本はない。病院の図書館があると聞いて、行ってみたけど、何もなかった。みんなが本を持ち去っていた。
仕方ない。私は薬箱を開けて、中の説明書を一枚一枚全部集めて、家に持ち帰り、「この薬はなんの作用、副作用は何?使う量は?」って勉強しました。どこにも勉強するところなくて、本当に困りましたよ。「この病気の注射は、この薬ですればいい。大人ならこの量で、子どもならこの量で」と、計算もして。わからないところは先生に訊いて、少しずつ覚えていきました。

元は工業局の病院でしたが、工業局が3つの部局に別れた1969年、そのうちの一つが機械局付属の総合病院となりました。病院に残った私に、漢方薬の先生が漢方の薬局に入り勉強するように言ってくれました。漢方薬の仕事に変わると、「これでしっかり勉強しなさい」と本ももらいました。漢方薬は製剤薬局でつくります。そこの薬剤師が私の仕事ぶりを見て、一緒に製剤をやるように言い、大きな病院での研修の機会も与えられました。初級から勉強を始め、頑張って続けていると、国の試験がありました。薬剤師の初級試験受けて、合格しましたよ。

その後、文化大革命の後期に入り、夜間の学校が始まりました。やっと勉強できるところができたんです。私はその学校に入りました。病院に転職した翌年結婚していた私には、その頃は娘も誕生し、毎日毎日の勉強は大変でした。娘の世話はお母さんに助けてもらい、頑張って勉強を続け、また国家試験を受験。薬剤師の資格を得ました。国も急いで様々な分野の専門家養成をしなくてはいけない、そんな時代だったのだと思います。

 結婚と子育て、そしてお母さんの死

 私は誰と結婚しても、お母さんと一緒に暮らすと決めていました。二人で、いつまでも一緒に暮らすと約束していましたから。主人には兄弟が6人います。うちに来てもかまわないというので、1968年、23歳で結婚してからもずっとお母さんと一緒に暮らしました。養父は、1970年5月、炭鉱事故で亡くなりました。お母さんが毎日心配していたことが最後に本当になってしまいました。

 財布写真.jpg    就職祝いに二番目の養父から贈られた
               財布・・大切な思い出の品です

私の子どもは二人です。娘と息子です。仕事をずっとしていたし、上の娘のときは、夜間学校もあって、お母さんが全部面倒をみてくれました。お母さんはとてもきれい好き。家の中のことも、子どもの世話も本当によくしてくれました。
でも、その子が3歳のとき、お母さんは病気で倒れました。何度か入院もしましたが、家で療養するときは、先生の処方で私が薬を出したり、注射することもありました。仕事と子育て、そしてお母さんの看病。たいへんな1年余りの後、なんとかお母さんが持ち直したころ、私は下の子どもを妊娠していました。

妊娠何ヶ月かのとき、お母さんがまた倒れて、今度は病気がどんどん重くなりました。やはり昔の過労や苦労があったと思います。脊髄の結核で、もう手術もできないと言われました。私は勤め先の病院を休んで、お母さんの看病をしました。
妊娠後期に入るころには、お母さんはますます悪くなり、失禁も始まって。昔は大人用のオムツはないです。お母さんのために柔らかい布をいっぱい貯めて使いました。その頃は、家に水道がありました。暖房もあって、今と同じです。でも、日本のような保険はない。毎日の世話から医療費のことまで、全部、私がしました。入院のときも、家で看るときも、たった一人の娘として私が看病しました。最期は、家で看取りましたよ。お母さんが亡くなった時、息子が生まれて10日目でした。

お母さんの死、そして募る日本への想い

お母さんが亡くなったのは、1976年です。お母さんと30年一緒に暮らしました。どんなに悲しくても、その時、私は泣けませんでした。涙が出ない。心の中はすごく淋しい。お母さんだけが自分の親だから。お母さんが亡くなったら、自分の親戚はどこにもいない。誰もいない。毎日泣きたいけど、泣けるところがありません。
主人は家族、兄弟が多い。時々会うし、みんないい人。でも、自分の兄弟じゃない。そう考えて、すごく淋しくなった。その時、思いました。「私の日本の家はどこにあるの? 私のお父さん、お母さんはどこにいるの?」。毎日、考えました。

でも、まだ文化大革命は終結してない。どんなに自分が思っても、口に出すことできない。中国は政治運動が多いから、いろんなことを考えます。文化大革命でも私や家族には問題ない。日本人でも大きな問題はないと思います。でも、やはり普通の人とは全然違う。そう考えて、誰にも言えませんでした。

お母さんが元気なころ、考えました。もし、私が日本の家や家族を探して、本当の家族がわかったら、お母さんどうするかな。お母さんを日本へ連れて行けるなら、そうしたいと思う。でも、お母さんがどうしても一緒に行かないと言ったら、私も日本には帰らない。帰れない。そう考えました。お母さんの気持ちを一番大事にしたいと考えました。
お母さんが亡くなってから、自分の家族を探したい思いが湧きあがってきました。でも、誰にも言えない。自分の心の中に刻むように思っていること言える人はどこにもいない。うちの主人は、私が日本人の子だったことを知っている。でも、私のこういう気持ちは全然知らない。私が言わなかったから。

お母さんが亡くなってから、私は毎日毎日そういうことずっと思い続けていて、重い病気になった。黄疸性の肝炎でした。この辛い気持ち、どこで話しをする? 誰に話しする? 話すことも、泣くこともできず苦しい。自分のただ一人の母親が亡くなってから、だんだんこの病気が重くなって、入院しました。入院したとき、息子まだ1歳にもなってなかった。

日本の家族を探したい気持ちが誰にも言えないのは、文化大革命のことも確かにあった。その気持ちがすごく強くなっても、怖くて言えなかった。日本の家族のことは私は何も知らない。どこをどう探す? 何もわからない。探すことは難しい。自分の名前も知らない。親の名前も知らない。探しても身元が判明しなかったらどうなるの?そう考えて、怖い気持ちになりました。

再び公安局の呼び出しが

1979年になって間もなく春節という頃、公安局の外事科から私に一度来るようにという手紙がありました。不安でした。どうして私を呼ぶの?文化大革命が終わっても、すごく怖くって。でも、行かないわけにはいかない。
行くと、書類を渡された。自分の知っていること全部書くように言われたけど、名前や住所、仕事とか書いて、その下はと見ると、一つも書けない。いつ日本から中国へ来たのか、日本のお父さんとお母さんの名前は、居場所はどこ、親戚は誰か知ってるか、とか。私の全然知らないことばかり。なにも書けない。
「下の欄は全然書くことができません」と言うと、向こうは「あなたは自分が残留孤児だと知っているか」と訊いた。私は「知っている」と正直に答えた。嘘はつけない。「いつ、知ったの?」と訊かれて、1953年夏にお母さんと一緒に公安局行ったときのことを話しました。そのとき知りました、と。「そのとおりです。記録がある」と向こうも言いました。
「でも、その他の事は、私には記憶が全くないです。お母さんも亡くなった。お母さんは私が日本人だということは、まったく言わなかった。何も知らない」私は本当のことを言うほかなかったのです。

すると、向こうから「あんたは、日本のお父さんやお母さん、親戚とか探したい?」と訊いてきました。私は、探したくないと、その時、嘘をつきました。「探したくない、どうして?」「私はなんにも知らない。どんなに探しても無理です」。すると、今度は「この人知らない?」「あの人知らない?」と、いろんな日本人の名前を出してきて訊いてきました。私は「知りません」「知らない」・・。でも、最後に「この人はあなたのことを知ってる、と言ってます」って。「えっ、本当?それなら、その人の中国の名前を教えてください」と頼みました。

残留婦人が教えてくれた

そこで聞いたのは、中国人と結婚した残留婦人の中国名。その名前を聞いて、私はすぐに思い出しました。昔住んでいたお父さんの家の隣の人。この人は、私がもらわれて来たころ、隣のご主人と結婚した。来たときは、頭の髪が全部ない。坊主で、もう男みたいだったって。その時まだ20歳くらい。夫婦には10歳以上の年の差があった。
隣同士だから、多分よくわかっていた。この家には日本人の子がいる。自分も日本人。特別な関係で、お母さんとすごく仲がよくなった。お母さんの親友みたい。この人は、お母さんに家を貸してくれた李さんと親戚。だから、この人のことは、私もすぐわかった。

私と主人はすぐ李さんに会いに行って、この人のこと訊きました。家を教えてもらって、直接その家を訪ねました。「私は自分のことが全然わからない。知っていることあれば、教えてください」って。
そのおばさんは、「1972年に日中友好交流が始まって、私は1973年に初めて日本に帰りました。1年くらい向こうにいて、翌年こちらに帰ってすぐ、あんたのお母さんに会いに行ったよ」と話を始めました。その時、私は仕事で、お母さん一人が家にいて、何年ぶりかの再会をとっても喜んだそうです。

「でも、あなたのお母さん、すごく頑固だったよ」。おばさんは続けて話してくれました。「私は日本に帰り、1年間向こうにいて、今帰ったばかりです。あんたの娘、淑媛、日本の家族や家を探したいという気持ちがあるなら、私たちが手伝う」と、お母さんに来た目的を伝えたとたん、お母さんの態度が変わったそうです。すごく怒り出した。「もし、こんなことを言わなかったら、うちに来てくれたことはとても嬉しいです。こういうこと言うのは止めてください」って。おばさんは、そのまま帰るしかなかった。もう1回うちに来たけど、家にも入れてもらえなかったって。

私は、そういうことを全然知らなかった。お母さんは私には何にも言わなかった。でも、この人は私に会うことができなかったけど、公安局には私のこと話してくれてたんです。
「お母さんは、あんたのことなんにも言わなかった。なにか言ってくれたら、手伝うことができたけど、何にも言わん。あんたが日本人の子だと、近所の人は誰でも知っている。知っているけど、詳しいことを誰も知らない」。最後に私にそう言いました。おばさんは、ご主人が病気で重篤だからこっちにいるけど、日本にすぐ帰るつもりのようでした。私には、もうどうしようもない。

養父との再会・・そして、すべてわかった

私と主人は最初の養父の継母のところへも行きました。この人は、養父の弟のお母さん。私と主人はまず叔父さんのところへ行って「お願い、おばあさんのところ連れて行って」って頼みました。会えたけど、女の人の記憶はまた男の人と違う。覚えていることはあっても、資料をつくるのは難しい。

それで、最後は仕方がないので公安局に話して、「私の養父にはもう25年余り会ってない。全然連絡がない。今どこにいるかも知らない。お願いだから、養父の居場所探しを手伝ってください」って言いました。すると、3日後に連絡があった。養父は吉林省の奥さんの故郷にいた。向こうへ行ったことを私は全然知らなかった。

撫順市の公安局と吉林省の公安局が連絡し合って、養父のことをちゃんと調べてくれました。養父のところまで行って、私のことを初めからいろいろと訊いてくれ、養父は書類に必要なこと全部書いてくれた。それから、詳しい書類をつくって私に送ってくれました。
でも長年養父には会ってない。資料が信用できるかできないか、私はもらっても迷っていた。自分は全然覚えてない。今詳しいことを聴いておかなければ忘れるかもしれない。そんな心配もある。吉林省の公安局の人の名前は今も忘れない。于雷さん。この人が、撫順の公安局の人に連絡して、「何回聞いても同じことです。間違いない」って言ってくれました。

お父さんは私に手紙もくれました。手紙には、『あなたのことを捨てたという罪の心は、長年ずっと残っている。あなたのことを公安局の人から言われて、私はずっと泣いていた。私も年取った。淋しくなった。お母さんとあなたのこと、本当にごめんなさい。お母さんが亡くなったことも全然知らなかった』と書いてありました。
連絡すると、お父さんは早速うちに来て、詳しいことを話してくれました。お父さんはうちに来てからずっと泣いていた。そのとき、私は「お父さんのことをもう恨んでない。自分が結婚して、子ども産んで、あのときのお父さんのことは本当によく理解できた」と伝えました。

結婚と友達は違う。自分が好きじゃない人と一緒に暮らすのは本当に辛かっただろうと、自分が結婚して、私よくわかりました。お母さんは誰がどう見てもいい人です。でも、夫婦はいい人とか関係ない。もうお父さんのこと全然恨んでない。幼い日のお父さんはいつも私のこといろいろ考えてくれた。子供の考えることと大人の考えることとは全然違うんだ。
そのときお父さんは61歳。背が曲がって、とても年を取ったみたい。若いときに思っていた様子と全然違った。私のところに1週間くらい泊まったので、全部詳しく聴くことができました。私が「なにか間違っていることある?」って訊いたら、「絶対に間違っていることはない。あの当時の日本の家族にもし生きている人がいれば、絶対その資料で探すことができる」と言ってくれました。

「私がどうして自信を持って話せるのか。それは、このことがあんたの一生で一番大事なこととわかっているから。あんたをもらったことを私は後悔することはない。でも、あんたを捨てたことは一生後悔する。もらったときのこと、昨日のことのよう。頭の中はっきり覚えている」。お父さんの言葉です。後は一緒に書類を完成させて、公安局と日本の厚生省に提出しました。

初めて日本へ

私が日本の土を初めて踏んだのは、1985年(昭和60年)9月、「第8回肉親捜し」の時でした。厚生省に書類を提出してから、6年後のことです。この頃には、もう周囲にも知られていたので、どうしても日本の自分の故郷、家族を探したいという気持ちが強くなっていました。日本がどんな国になっているか、全然わからない、でも、家族に会いたい。強く願っていました。
ただ、本当に身元が判明するか、不安は大きかったです。残留孤児の中では、私は一番小さい。なんの記憶もないし、証拠の物もない。こちらにあるのは、私を引き取った日時と場所についてのお父さんの記憶、その資料だけ。

日本に来て、新聞報道もされ、テレビにも出ました。そして、すぐに身元は判明しました。私の資料と日本のおばさんが厚生省に提出した資料とが一致したのです。
私の日本のおばさん、山本芳子さんは、私の実母の兄の妻で、母とは従姉妹同士。このおばさんも、私の家族と一緒に江川崎開拓団として、夫や子どもたちと満州に渡っていたのです。

 中野3−1.jpg 永住帰国時、山本のおばさんと関西空港で

私が初めて山本のおばさんと会ったときのことは昨日のように覚えています。おばさん、なんかおかしい。私を見たら、すぐ涙がボロボロボロ。泣いていた。私の手元に厚生省からの資料が一冊ある。厚い資料を開けると、お父さん、お母さん、そして、お兄さんの写真とかが入っている。他にも、いろいろ書いてある。私の方には、中国から持って来た資料や写真が入っている。

おばさんから「どーう?あんたの親戚と認める?」って訊かれた。私、日本語わからない。通訳の人がそれを通訳する。資料を見ても、どうしていいかわからない。「わかりません」と言うしかない。私にはなんの記憶もないし、この資料も養父の記憶だけ。この人たちが自分の親戚かどうか、・・全然わからない。
私は言いました。「私にはわかりません。おばさんから私のこと見て、考えて、言ってください。それが一番正しいと思います」。

通訳の人がそれを通訳しました。資料の中の写真を見たら、なぜか私もすぐ涙が出て、泣いて泣いて、全然涙止まらなくなった。自分でもどうしてかわかりません。自然に涙が出ました。
おばさんは「この子、乙女(とめ)の娘に間違いない」そう言って、大きく頷いた。私にはわからなくても、おばさんは確信したみたい。東京に私の従姉妹が二人いて、そのお姉さんは私ととても似ている。お姉さんの顔と私を比べたらねぇ、本当に似ていて、親戚とわかる。

中国のお母さん!日本のお母さん!

山本おばさんは、撫順市の発電所の2階で養父に私を渡したときのことをちゃんと覚えていて、話してくれました。養父は、発電所の2階で私の両親に会っている。その部屋は人がいっぱいで、誰と誰が一緒の家族か全然わからないくらい混雑していた。子どもをもらいに来た中国人の男女がいて、私のお母さん、私をその男に手渡した。おばさんは夫婦二人で来たと思っていたよ。養父の継母は養父より4つしか上じゃないから勘違いしていた。言葉もわからなかったから。

家族や親戚のこと、そのときはっきりわかりました。私の家族、みんな亡くなっていました。お母さんと二人の兄さんは収容所で。お父さんは、帰国して3年目に病死したって。会いたかった家族が、みんな亡くなっている。本当に悔しかったです。ずっとずっと会いたかったですから。
東京で身元が判明してから、高知県の江川崎の故郷に帰り、3日間過ごしました。それから、また東京に戻り、中国に帰りました。ほんの2週間の日本滞在でした。

私が日本に永住帰国したのは、その3年後のことです。日本に帰る前に、私は養父に自分が貯めた5百元を送りました。当時は、給料が安い。私の給料は毎月何十元くらいよ。5百元は、お父さんにとったら大金と考えて、『このお金、私が精いっぱい貯めました。自分でなにか好きなことに遣ってください』って手紙を添えました。お父さんは嬉しくて、あちこちに話をしたそうです。「私の日本の娘が送ってきた。こんな大金、見たことない」って。

永住帰国してから、私は中国の養父母への感謝の扶養費代を申請しました。もし、お母さん生きていたら、もちろんお母さんに出したい。でも、お母さん早く亡くなったから、お父さんに出しました。
お父さんが私をもらってくれた。そのことは私の心の中でとても大切なことです。日本のお母さんの手から中国のお母さんの手へ。二人の手がつながって、私を渡してくれた。

中国のお母さんは本当に優しい人。私は日本人の子で、あの戦争直後の中国人にとっては敵の国の子ども。その敵の国の子どもをどんな辛いときも悲しいときも手を離さず、大事に大事に育ててくれた。もし反対だったら、どうかと、この問題も繰り返し考えている。日本人の場合は敵の国の子ども育ててやることができるかなぁ?

一方で、日本のお母さん・・。自分の命の火すら消えそうになって、知らない中国人に我が子を手渡すしかなかったお母さん。どんな気持ちだったの?辛かったよね、悲しかったよね。

     中野6−1.jpg 母、中野乙女(19歳の頃)  

中国撫順市は、私が二人のお母さんといた特別な場所。そこでの暮らしは、二人のお母さんに始まり、支えられ、終わりました。でも、その終わりは、今の日本での生活の始まり。そう、ここで、私の中国での暮らしは終わり、そして、日本での暮らしが始まったんです。

今、私は高知市で家族に恵まれ、元気に暮らしています。

二人のお母さん、本当にありがとうございました。

   中野さん1.jpg 中野ミツヨさん(令和3年6月12日撮影)    


あ と が き

中野ミツヨさんは、リズムのある明るい話しぶりの方です。お話の内容もしっかり構成されたわかりやすいもので、これまでも小学校などで講演されていらっしゃるとのことでした。また、ミツヨさんの帰国までの足跡は、津沼書院発行の『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)』にも詳細に記されています。ですので、この冊子はミツヨさんご本人のためにという思いで、語りの中の心の声を拾うことに努め、思い出の中の一つひとつのエピソードを大切に書き留めるようにしました。

ミツヨさんには二つの誕生日があります。中国で暮らしていた時は、養父母の実子が生まれた9月6日が彼女の誕生日とされてきましたが、実父の書き物には9月4日誕生と記されているそうです。戦争の影の残る時代に多くの苦難を乗り越えられたお話を伺いながら、人はどうしてこれほどの困難を乗り切れるのか、頑張れるのかと考えました。そして、日本のお母さんから生き抜くための賢さや粘り強さを、中国のお母さんから、どんな時も「この人のために頑張ろう」と思える絆をしっかり授かったミツヨさんのしなやかな強さに思い至りました。どんな困難も自分の力に換えて生きていく道もあるのだと、この冊子を読まれた方にお伝えできれば幸いです。

オーテピア高知図書館の八田裕子さん、高知県中国帰国者就労生活相談室の森洋子さんを通してミツヨさんと知り合うことができました。お二人に心よりお礼申し上げます。特に、森さんには戦中戦後の中国に関して教えていただくなど様々にお世話になりました。ありがとうございました。

さらに、この物語の最初の読者となり、6枚の挿絵を描いてくださった岡内富夫さん、お陰様で、中国での日々が鮮やかに蘇りました。また、私の孫の曼荼羅の塗り絵も利用して、陰影のある表紙にすることができました。衷心より敬意と感謝を表します。

                                     ききがきすと  鶴岡 香代

    母子.jpg                


  

        

     


                                                                                              





posted by ききがきすと at 15:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月29日

二人の母への鎮魂歌 上

かたりびと:中野ミツヨさん
ききがきすと:鶴岡香代
編集担当:清水正子

終戦の年に生まれて

私の両親は、1943年5月、高知県幡多郡の江川崎村から開拓民として中国吉林省の大清溝(だいせいこう)に入植しました。2年後、8月15日
の終戦は、開拓団にすぐには知らされず、大きな不安と混乱の中で逃避行が始まりました。妊娠後期に入っていた母も、開拓団のみなと一緒に不眠不休で歩き走り、大清溝から90キロ離れた廟嶺(みょうれい)で私を産んだのです。

廟嶺から吉林市駅を目指して、さらに200キロ。みな、ずっと歩いたそうです。出産直後の身でも、ただただ歩くしかありませんでした。辿り着いた吉林市からは貨物列車に乗り、撫順市へ。大清溝を出て一ヶ月が経っていました。

撫順では発電所の宿舎が日本人の収容所でした。三階建ての建物の二階。コンクリート床に一人の赤ん坊。泣く声すごく弱くて、もう死にそうな感じあって・・それが私でした。

その収容所から程近いところに中国人の夫婦が住んでいました。9月に生まれた子どもが半月ほどで亡くなって、そのお母さんは母乳がいっぱい。前にも流産して、もう子どもができないと諦めかけていた時、隣の人から「今、北からの日本人いっぱい。子どもいらない人きっといるから、もらいに行ったらいいじゃない」と言われました。

産後で具合の悪いお母さんを家に置いて、お父さんはおばあさん(お父さんの継母)とその収容所に行きました。そして、すぐに一人の赤ん坊見つけました。もらっても生きることはできないと思うほど弱々しい泣き声。迷う気持ちあったけど、おばあさんが言いました。「可哀そうに。うちの嫁まだ母乳があるから命助けるかもしれません。もらって帰ろうや」と。

お父さんは、本当は男の子が欲しかったけど、この子が男の子か女の子か全然わからない。言葉通じないから。だけど、この母親を見たら、『この子をどうか助けて、助けて・・』と言っているよう。お父さんは女の人から手渡された赤ん坊を家に連れて帰りました。私の撫順での暮らしがここから始まりました。

終戦直後の中国で日本人の両親から生まれ、食べる物も着る物もなく、乳も出ない母親の手から、中国人の家族に渡された。そのことを私は何にも知らない。覚えてない。私が、日本の家族のこと、故郷のこと知るのは、40年後の1985年のことです。

親子.jpg

中国のお父さんとお母さん

お父さんが連れて帰った赤ん坊は、赤い着物を一枚着てるだけ。その子を家のみなで見たら、着物の下はなんにもない。裸。裸で、もう肋骨がはっきり見える。お母さんからお乳を飲むと、腸ぐるぐる見えるよう。誰もが本当にこの子は生きられるかなと、心配で可哀そうに思ったって。

でも、お母さんは赤ん坊を見て、本当にもらったのだから大事に大事にせないかんと思って、毎日しっかりお乳飲ませました。3ヶ月経って、みんな本当にびっくりした。すっごく太って、前の様子は全然見えなくなった。とってもかわいい赤ちゃんになったって。その時、お父さんとお母さんは何よりも嬉しかった。

この頃のこと、もちろん私はなんにも覚えてないです。もらわれた時のこと、お父さんからずっと後になって聴くまで、なんにも知らない。お父さん、私に『淑媛(シューユァン)』と名前付けて、二人は私を自分らの子どもとして育てました。

でも、近所のみなさん、このことよく知っています。私はよく「この子は日本人の子」と言われた。小学校では友達から『チビの日本人』とか『小日本の鬼』とか呼ばれた。そう言われても私は全然信じない。私は、お父さんとお母さんの子ども。そのことは間違いない。だって、私はお母さんのお乳を4歳まで飲んでいたじゃない。私は養父母を「お父さん」「お母さん」とずっと呼んで、なんの疑いも抱かず二人の元で育ったの。

養父母は、共に山東省の出身です。親同士が知り合いで、二人がまだ小さいときに将来結婚させることを約束しました。昔は、自由恋愛じゃなくて、そういう婚姻いっぱいありました。

お父さんは、子どもの時山東省から撫順市に出て、学校に行き仕事を始め、家族みんなのために家も建てました。一方、お母さんは、ずっと山東省で育って、17歳のとき、山東省から撫順市のお父さんのところへ嫁に来ました。

婚礼前、二人は一度も会うことがない。顔をちらりと見ることもない。家に来たお母さんのこと、お父さんは全然気に入らんかったって。年は、お母さんが一つ上。お父さんはお母さんのこと気に入らん。嫌でたまらん。けど、親が決めたことは変えることができない。お父さん、どうしようもなかった。

お母さんは、結婚してから、毎日することが本当にたくさんありました。まず、家族の世話です。結婚したとき、お父さんの父と義母、祖母がいました。義母は、とても若くてお父さんより4歳だけ上。だから、結婚したとき、お父さんは16歳、お母さんは17歳で、おばあさんは20歳だったそうです。

おばあさんに男の子ができて、私の叔父さんね、その子が1歳のとき、おじいさん亡くなったって。おじいさん亡くなって何年か後、おばあさんは男の子をうちに置いたままで他の人と再婚しました。それで、うちのお母さん、ひばあちゃん(土佐弁で曾祖母のこと、ひいばあちゃん)の面倒をみながら、その子のことも全部育てました。お父さんの弟だけど、自分の本当の子みたいに。私をもらったとき、この子は9歳になっていました。

お父さんの仕事、お母さんの仕事

お父さんは運送の仕事。昔だから、車じゃなくて、馬車で運びます。馬車何台あったか、私はちゃんと覚えてないです、小さかったから。でも、馬も何頭か、雇っていた人も何人かいます。お父さんと一緒に仕事をする人が全部うちに一緒に暮らしていました。そして、その人たちの食事、洗濯などの家事は全部お母さんの仕事。

お母さん来る前は、その仕事する人がいたそうです。でも、お母さん来てからは、その人が辞めて、全部お母さんの仕事になったから、お母さん本当にたいへん苦労しました。

昔の女の人、纏足(てんそく)で足小さくて、歩けるけど長くは無理。それでも、家の仕事全部お母さん。朝3時か、4時頃には起きて、みんなのご飯をつくる。馬には餌をやって、面倒もみないかん。

上2.jpg

私よく覚えていますよ。朝起きると、いつも、お母さんはもう私の隣には居ない。ずっとそのまま仕事です。毎日毎日、朝、お父さんと雇っていた人みんなに朝ご飯。みんなが仕事に行ったら、それから、ひばあちゃんの面倒、おじさんの面倒、私の面倒。朝ご飯食べさせて、それから、また、昼ご飯をやって。

家の掃除、片付け、洗濯、全部お母さん。夜は夜で、みんなが帰ってくる前に夕飯の準備です。ご飯食べたら、みんな寝ます。でも、お母さん、まだ馬の餌つくる。馬草の束を鋤刀で押し切る。固い大豆の枯れ枝を足に挟んで両手で切る。それに水を混ぜて、馬に食べさせる。このたいへんな仕事を毎日、朝と夜、夜中と3度もしなくちゃいけない。だから、また、朝早く起きる。

お父さんの仕事もたいへんだったと思います。撫順は北の寒いところです。高知とは全然違う。特に冬、馬車に乗ると冷える。指が凍傷になるくらい。たいへんだと思いますけど、でも、お母さんの家の仕事も本当にたいへん。私は隣でよく見てわかっています。

幼い日々のお父さんの思い出

お父さんは、清潔なこと大事にする人。とてもきれい好きで、帰ったら必ず、私の手を見て、顔を見て、服を見ました。もし汚れていたらお母さんのせい。怒って暴力をふるう。だから、お母さんは、どんなに忙しくてもお父さん帰る前に私をきれいにして、顔も、手も、爪まで洗います。爪が長いのもダメでした。そういうことも毎日、お母さんの仕事の一つ。

会った最初の時から、お父さんはお母さんのこと、全然気に入ってなかった。お母さんになんの原因なくても、お父さんは、自分の気持ちが悪くなったら、お母さんに当たった。私、それを見たら、本当に怖かった。暴力はいつもじゃない。時々。だけど、私、いつもお父さんが帰ってくるの心配でした。小さくても、今日はお母さんどうなるかって。お父さんの暴力がなかったら、安心しました。

そんなことがあっても、お母さんはなんにも言わん。お母さんは無口な人。なにがあっても、外で誰に会っても、なにも言わない。愚痴を言う人じゃなかった。隣の人にも誰にでも、すごく優しい。うちのひばあちゃんもお母さんのことを大好き。全部お母さんが面倒みるから。

私はお父さんとお母さんが自分の親だと思っていた。なんの疑いもない。お母さんがどんなに私の面倒みても、当たり前のことだと思っていた。お父さんはお母さんには厳しくするけど、私のことは本当に好き。例えば、家に帰って食事してから馬の散歩。お父さんは毎日、馬を連れて散歩する。そのとき私が馬の背中に乗って、お父さんが馬を引っ張って、ゆっくりゆっくり散歩する。そんなことちゃんと覚えている。

小学校2年生(8歳)の頃

上3.jpg

あれは、私が4歳くらい。このときのこともよく覚えている。家の馬とか馬車とか全部国の会社に渡した。自分のものじゃなくなった。渡してから、お父さんは、その会社の職員になった。それからお父さんは自転車で通勤。だから、お母さんの家での仕事はずっと楽になった。雇ってる人いなくなって、馬の世話もなくなった。

お父さんは馬がいなくなったら、今度は自転車の後ろの荷台に私を乗せて、休みに時々遊びに行く。ある日、私を後ろに乗せているとき、お父さんはどうして自転車がこんなに重たくなったかと思った。止まって見ると、私の足が自転車の後ろの輪に巻き込まれて、足は血だらけ、骨が見えていた。

今でも、この右足にはっきり傷跡が残っています。そのとき、お父さんはびっくりしました。私は痛くて全身が震えている。そうなっても、私は全然泣かない。どうして泣かない? お父さんが怒ったら怖い。私のこと好きで大事にする。だけど、お母さんにすることを見ているから怖い。怖いから、全然泣かない。痛くても泣かない。その後のことがどうなったか、覚えてない。

私には小さいとき、友達が全然できない。誰の家にも遊びに行くことがない。「行ったらいかん」。お父さんが厳しく言ったから。やはり自分が日本人の子ということが、あったのかもしれません。うん。誰の家にも行くことなかった。

1952年の9月、私は小学一年生になりました。中国の学校は秋に始まるんです。入学前に、お父さんは馬蹄形の小さい時計を買って、毎日、私に時刻を教えました。私はすぐわかって早く覚えたから、お父さんすごく嬉しかったみたい。お父さんから時計の読み方習ったことは私の大事な思い出です。

小学校に入ると、お父さんが新しい本とかノートを買ってくれて、表に私の名前『宋 淑媛』と書いてくれました。そして、「よく勉強してね。知識あれば将来、良い仕事ができる。いい人と付き合って、幸せになれるようにね」と言いました。小さくてその意味はよく分からなかったけれど、とても幸せな気持ちを覚えています。幼い日の父の愛、母の愛・・心の中に刻まれています。

憲法が変わって、両親は離婚

1953年の春、中国は新しい憲法になって、婚姻がうまく行かなくなったら、離婚できる、そういうように変わりました。その頃、もう会社の課長になっていたお父さんは裁判所に行って、「どうしても離婚したい」と言いました。お母さんのこと、もうどんなにいい人でも、一緒に暮らすことできないと。

私が小学校入ってまだ半年くらいのときよ。お母さんは纏足で、どんな仕事もできない。離婚したら、これからの生活はどうすればいいの。お母さんは本当に困る。でも、お父さんは、初めからお母さんのことが気に入らんから、どうしても離婚したい。

この家に入ってから、お母さんがどんなに努力して頑張って仕事しても、お父さんは気に入らん。そのことで、お母さんとっても悔しかった。辛かった。もう、毎日、泣いて泣いて。でも、お父さんは裁判所に行って、諦めない。最後に、離婚の判決が出て、離婚することになった。

お父さんは離婚して、すぐ再婚した。奥さんは、昔の資産家の二番目の奥さん。新しい国ができる前は、二番目、三番目の奥さんがいた。中国に新しい国ができて一夫一婦制になったから、一番目の奥さんだけ残って、その人は元の主人とは離婚した。そういう人が、私と同じ年の娘連れて、お父さんと再婚した。

それで、お母さんは本当に悔しかった。昔の女の人には離婚ということ、すごく恥ずかしい。お母さんは、自分が何を悪いことしたか、いろんなことを考えて辛かった。

でも、周りの人は、お母さんがどういう人かよくわかっている。小さい私でも良くわかった。お母さんがどんなにこの家を大事にしてきたか。お母さんを見たら、本当にお母さんのことかわいそうと思う。それなのに、お父さんどうして、お母さんみたいないい人、気に入らん?もう私とお母さん、いらないの?

離婚したとき、裁判所から家の財産について通知来ました。東側の二つの部屋をひばあちゃんと叔父さんに、南向きの3つの部屋がある家全部を私とお母さんに。お父さんには、なんにもあげない。そのまま出て行け、って言うことでした。

でも、お父さん出て行ったら住むところがない。また、自分が建てた家だから、どうしても離れたくない。お母さんにお金出して、半分、お母さんから買いました。だから、その家の半分と物全部が私とお母さんの財産。そして、隣にお父さんの新しい家族が入りました。

私は日本人?日本はどこにある?

小学校1年生のとき、私には本当にたくさんのことがありました。夏には、公安局がうちのお母さんを呼び出しました。お母さんが私を連れて公安局に行くとき、私より5歳くらい上の女の子も一緒でした。その子も残留孤児だったことを、その時の私は全然知りませんでした。

途中でその子は私に「誰が何と言うても、行かないよね」って、言いました。私、なんのことか、わからない。「おかしいじゃない、お母さん。どこへ行くの、私?」お母さんに訊きました。お母さんはその子に「この子は小さいからなにも知らない。言わないで。言わないでおいて」って。その子はもう言わなくなったけど、私もう一回、「お母さん、私、どこへ行くの?」って訊いた。お母さんは、「どこへも行かない。あんたは、ずっとお母さんのそばにいるから」って答えた。

公安局に着くと、お母さんは大きな部屋のドアの前で私に「ここで待っててね。どこにも行かず、ここに居てね」と言って、中に一人で入った。私はドアの外にいる。ドアの隙間がちょっとだけ開いてる。覗くと、中は人がいっぱい。わわわわ、わわわわ。なにを話しているのか、全然わからない。

でも、なぜか確かに聞こえてきた、お母さんと警察官の話す声。お母さんが「この子を生まれたばかりでもらったの。今も8歳にもなってない。この子が日本帰っても、お父さん、お母さんが誰か知らない。家はどこかも知らない。どうする?私は今この子と二人で暮らしている。もしこの子が日本へ行ったら、私は死ぬ。絶対、行かしたくない」って、泣いたり、話したり。その警察官は最後にお母さんに「もういいから帰りなさい。この子のこと、もう何にも言わない。このまま帰って」と。それで、お母さん、すぐに出てきた。

そのこと聞いて、私はやっとわかった。近所の人や小学校でみんなが言ったこと、「日本人の子」とか、本当のことだった。お母さんは私の本当のお母さんじゃない。この国も自分の国じゃない。日本の国は、どこよ? そのとき、小さくても、いろいろ考えました。でも、心の中は、ただただ『お母さんと一緒に暮らしたい』でいっぱい。お母さんが自分の一番大事な人、そう思いました。

でも、頭の中こういうこともいっぱい。『どうして?みんな中国人、なぜ私だけ日本人なの?日本の国は、どこにあるの?私の本当の親、父と母はどういう人?どこにいる?』何もわからない。ただ、帰ったら、お母さんに訊いてみようと考えました。

でも、お母さんは家に帰っても、何にも言わない。私が知ってしまったことはお母さんもわかったはず。だけど、お母さん何にも言わない。私には訊いてみたいという気持ちがあったけど、やはり言えなかった。もう、よくわかったので。お母さんは実のお母さんじゃない。でも、一生懸命に私を育ててくれている。お母さんには私だけ。私にはお母さんだけ。

お母さんと二人ぼっち

お母さんは町内会のことで、夜に時々出かけることがありました。私は家に一人で怖かった。お父さんの方は、新しい奥さんと子どもがいる。向こうは、すごく幸せ。私一人で怖くて、お母さんを探しに外へ行きたい。「お母さん、どこ?お母さん、いない」。外でずっと泣いていた。

お母さんは帰って、すごく怒った。この子がこんなに泣いているのに、お父さんは出てこない。ずっと知らん顔した、と。多分、向こうはドア閉めていたから、気づかなかった。でも、お母さんはもうここには住みたくないと。お父さんのすぐ隣に住むことが嫌になって、残った半分の家も他の人に売って家から出ようと考え始めた。

11月になると、撫順はものすごく寒い。この頃はまだ朝鮮戦争のとき。飛行機が飛んできて危ないから、子どもたちは毎日、白いタオルを首に巻いて登校していた。家に帰ったら、そのタオルをお母さんは毎日洗って干す。冬は、炉子(ルーズ:竈ストーブ)で部屋を暖かくして上に干す。お母さんが朝の忙しいとき、私一人で干してあるタオル取ろうとした。私はとても背低くて、届かない。椅子にのって背伸びしたら、どーんと転んだよ。転んで、炉子に頭をひどく打ちつけて、血が出てきた。炉子は鉄でできている。血がたくさん流れて、どうしても止まらん。お母さん飛んで来たけど、どうしたらいいかわからない。とにかく血を止めないかん。手のひらに小麦粉を取って、それで頭の傷を押さえた。じっと押さえて、本当に血を止めた。今も頭のここに傷がある。今考えたら笑い話みたいだけど、お母さんは必死だった。病院には全然行かなかった。

昔はものがすごく安くて、家を売ったお金でなんとか生活できた。でも、どこまでやっていけるか、お母さん、毎日毎日そのことが不安。お金のこと、お母さんはずっと悩んでいた。近所の李さん、とても優しい人で、お母さんのことすごく可哀そうと思ってました。お母さんに「うちに空いてるとこあるから、どうぞ来て、住んでください。お金いらないから」と言いました。

結局、離婚から半年余りで、私とお母さんは、李さんのところに移りました。そこは、元の家にも近い。私たち引っ越したら、17歳になっていた叔父さんも職場の宿舎に移って、ひばあちゃんは前の家の東の部屋に一人になった。お父さんとは別れても、お母さんは、ひばあちゃんのこといつも気にしてる。お母さんは、そんな人よ。

李さんは、私たちを親戚の人みたいに扱ってくれて、「家賃とかいらない。1元ももらわない。家にあるものは何でも使ってください」と言ってくれました。昔は売店だったのを倉庫として使っていて、部屋は本当に広い。前は全部ドアみたいになっていて、後ろにもドアがひとつある。だけど、窓はない。夜は、ドア全部閉めて、お母さんと一つのオンドル(竈の熱を利用した床下暖房)のベッドで寝る。二人ぼっちのそんな暮らしが始まりました。

ジェンビンづくり

その広い部屋に一つ大きな石臼がありました。昔の中国では、食べ物は全部自分で作ります。その臼で、よくジェンビンを作りました。ジェンビンは、漢字で『煎餅』と書く、薄いクレープみたいなもの。まず、高粱米と大豆をたっぷりの水に一晩浸しておきます。翌朝、それを水と一緒に少しずつその大きな石臼の穴に入れて挽き、糊状のジェンビンの素を作ります。小さい石臼なら手で回すけど、それはとても大きくて、人が臼の手の部分を持ってグルグル周りを回って挽きます。田舎ならロバがこの仕事する。町にはロバがいないから人がしなくちゃいけない。この仕事を小さくても私はよくやりました。

そこは、元々こういう仕事もする場所だったから、近所の人がジェンビンを作るとき、必ず、うちに来ました。お母さんは誰がやっても手伝った。纏足もあって、外での仕事できなかったから、家での仕事をちゃんとやる人だった。

ジェンビン作れば、一日かかる。できた糊状のものを大きな鉄板で一枚一枚薄く焼いて、半径20センチくらいのクレープみたいな、春巻きの皮みたいなものを作ります。一枚一枚焼いて重ねて、20センチ以上になるくらい作るから、一日かかる。これを一人でずっとやると疲れるし、暑い。だから、みんな交代でやる。私、いつもお母さんと一緒に手伝いましたよ。

上4.jpg

ジェンビンは、ご飯の代わりに食べる。作り方も食べ方もクレープみたい。大きい鉄板で焼いて、専用の棒でくるっと拡げて、野菜や卵を挟んで四つ折りで食べた。好みで辛い物やいろいろ入れる。これは、本当に美味しい。置いておくと固くなるから、また水を足して柔らかくして食べる。懐かしい味だけれ ど、今はもう私には作れません。

ある日、ジェンビンを作って、お母さんが私に柔らかいのを一枚持たせ、「ひばあちゃんに届けてね」って。お母さんは引っ越してからも、ご飯食べるときは、向こうのひばあちゃんの面倒をみていました。
そのジェンビンを持って行って、呼んでも呼んでも返事がない。『どうしたの?私が行ったら、いつもはひばあちゃん、ものすごく喜んでくれるのに』

私は走って、お母さんのところに帰った。「ひばあちゃん、呼んでも返事がない。どうしたのかな」って。お母さんと近所の人みんなでひばあちゃんのところへ行くと、亡くなっていた。お父さんの新しい奥さんはひばあちゃんの面倒をあまりみない。ひばあちゃん亡くなるまで何も気づいてなかった。

ひばあちゃんがいなくなって、本当に淋しくなった。また、撫順の冬は寒さが厳しい。部屋は広くて、すごく寒くなる。竈で火を使えば、オンドルで暖かくなる。李さんは石炭自由に使ってと言ってくれるけど、お母さんは気を遣う。夕飯の支度に少し使うだけ。オンドルの上に寝る時、ほんのちょっとしか暖かくない。

夜になると壁は全部真っ白になる。寒くて、家の中が霜で白くなる。小さい私が落ちないよう私を壁側に寝かせる。お母さんの隣で寝てても、夜が更けると、私の足がだんだん痛くなる。寒くて、痛くなる。多分、壁が冷た過ぎるから。床に足をつくと、もう痛くて歩くことができない。痛くても病院には行けない。どうしようもない。中国のお酒60度。お母さんはそれに火を点けて、毎日毎日マッサージしてくれて良くなった。

お母さん、死んだらいやや

こんなにつましく生活しても、段々お金は少なくなる。お母さんは離婚するとき裁判所から毎月私の扶養費をお父さんから12元もらうことになっていた。課長になっていたお父さんの給料は70元くらい。その中から12元。でも、そのお金を払ってもらえないことが多くて、いつも裁判所から催促してもらっていた。生活するのはなかなか難しい。

お母さんは不安がいっぱいでも、なにも言わない。小学校2年生の私は、まだまだ幼い。前と同じように毎日学校へ行って、帰ったらお母さんと一緒にご飯食べて、なにも知らない。いつもお母さんは家で私を待っていた。

いろいろ考えても、もうお母さんには前に進む道がなくなった。あの日、学校から帰ると、お母さんがいない。隣に訊くと、「お母さん、出かけて行ったよ」と言われて、私はお母さんをあちこち探しに行った。近所・・いない。もう少し遠くへ・・。

北の方に行くと、そこには、町内の世話役のおばさんの家がある。そのおばさんが私を見つけて、「来て、来て」って。行くと、お母さんがおばさんの家の中にいて、泣いている。私はお母さんの顔を覗いて、「お母さん、どうしたの?」と訊く。お母さん、なんにも言わない。応えない。ずーっと泣いて、泣いて。

おばさんが「今日、お母さん、川に入って自殺しようとしました。私が少し遅ければ、もう死んでいたで」と言う。その家のすぐ傍に大きくて深い川がある。そこで死んだ人もいる。お母さんはそこで自殺しようとした。おばさん「もし私が気付くのが遅ければ、お母さん、死んだで」って、もう一度、私に言って聞かせました。

私は、そのこと聞いて、びっくりしました。小さくても一番心配なのは、お母さんのこと。もし亡くなったら、私、どうする? 小さくても、これからのこと、よくわかるよ。私も泣いた。もう、すごく泣いた。「お父さんが私たちをもういらないと言った。お母さんも私をいらないってことなの?」って訊いて。

お母さんは私を見て、「わかりました。もう死なない。この子を見たら、死ねない」その言葉を聞いても、私はすごく怖かった。お母さんが死んでも、私はお父さんのところへは行きたくない。新しい奥さんが来て、子どもも連れてきて、私、そのことをすごく恨んでた。もうお父さんと一緒に暮らすことは嫌!できない!

そのことをお母さんに言った。お母さんはずーっとずーっと泣いて、これからの生活どうすればいいの、って。最後に、「もう帰ろう。私はもう死なないから、心配しないで」と、私を連れて帰った。帰る前に、おばさんは私の名前呼んで、「お母さんのこと、ちゃんと見てね。こういう気持ちあったら、なかなか止まらんよ」って。私の心配はどんどん膨らんだ。

家に帰っても、ずーっとお母さんのそばにいる。どこにも行かない。小さいから、考えることは、お母さんのことばかり。お母さんのそばにいたら、一番安全だと思う。学校も行かない。絶対、お母さんから離れない。離れたくない。夜になっても、寝てはいかん。寝たくても寝れない。寝たら、また、お母さんどこか行ってしまう。死んだら、どうする? ずーっとお母さんの手をつないで寝る。お母さんのことが心配で心配で、眠いのに、急に目が覚める。『お母さんいる?』『うん、いる、いる』。また、眠る。また、急に覚めて。そうして、朝が来る。

お母さんは私のことを見て、ずっと泣いている。お母さんがどんなに言っても、私は学校行かない。ずっと家にいる。お母さん、私を見て、「安心して。お母さん、絶対死なない。もう大丈夫。あんたのこと考えて、私、死んだらいかん」。そう言っても、私は信じない。でも、近所の人たちは私に「学校、どうぞ行ってちょうだい。昼は私たちみんな、お母さんと一緒にいるから大丈夫」って言って聞かせて、お母さんも「どうか学校行ってちょうだい」と言う。その時から私、学校にまた行くようになりました。

学校行っても、『今日、帰ったら、お母さんいるかな』とずっと考えている。帰ったら、『お母さんいた』。やっと安心する。どのくらい学校へ行かなかったのか、もうわからないけど、どう言われても学校行かなかったことは忘れません。子どもだから、どんなに心配でも、眠いときは寝ます。寝たら、急に目が覚めて、お母さん見たらホッとする。お母さんもそんな私のことを見て、この子は本当に心配で心配でたまらないのだと思う。そして、ずっと泣いていたお母さんのことを覚えてます。

お母さんの再婚

その頃、みんながお母さんに「生活困っているなら、いい人あれば、再婚して」って言いました。でも、お母さんはどうしても再婚したくない。「この子のために再婚したくない。再婚相手がどういう人か分からない。お金は私が節約するから」って言う。

近所の人、なおもお母さんに言います。「離婚しても、再婚しても、恥ずかしいことじゃない。あんたのせいじゃない。仕方ないことよ。だから、生活するため、この子のため、再婚考えたらいい」って。

もう、どうすればいいの。お母さんいっぱい悩んで、私が9歳のとき、再婚しました。2番目の養父は、炭鉱の労働者。結婚しないで、ずっと一人だった人。お母さん、離婚したとき34歳。再婚したときは、36歳。このときは、同じ撫順だけど、ちょっと遠いところへ引っ越しました。

再婚するとき、私は幼くても、すごく複雑だったよ。最初のお父さんのことを憎んでいても、まだ時々は思い出して、心の中では自分のお父さんと思っていた。お父さんのしたことは憎い。でも、お父さんが私をもらって、大事に育ててくれた8年間のこと、ずうっと忘れない。だから、お母さん再婚しても、私はずっと、お父さんが付けてくれた名前と姓のまま、変わらなかった。

引っ越しして、小学校とても遠くなった。お母さんは、近くに小学校があるから、転校したらいい、と言いました。でも、私は転校しない。したくない。どうして、したくない? 自分がよくわかった。自分は日本人の子。そのことをここの学校のみんな知っている。でも、それはもういいの。転校したら、また向こうでも知られる。それはいかん。拡がることはしたくない。それで、転校したくないと。最後にはお母さん「もういいわ。自分が好きにしたらいい」って。

はじめは家から学校への道がわからない。お母さんが私送って行く。片道で一時間半くらいかかる。途中に高い階段がある。お母さんは、その階段の上に座って、私をずっと見ている。私は学校までまっすぐの道を行って、左に曲がる。私が見えなくなると、お母さんは帰る。私は走って走って行く。段々と道がわかってきたら、お母さんは送らなくなった。その小学校には、そうやって4年生の終わりまで1年半くらい通った。        (下巻に続く)
                  ききがきすと  鶴岡 香代



posted by ききがきすと at 13:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月02日

戦場に立つ開拓団少女


戦場に立つ開拓団少女


       小原茂(おはらしげ)さん



うちは六人家族


 小原(おはら)茂(しげ)と申します。昭和8年2月15日に、父小原亀(かめ)治(じ)と母春(はる)恵(え)の長女として生まれました。国(くに)助(すけ)と言う6つ上の兄がいましたが、年が離れていたせいか、一緒に遊んだ記憶はあまりないですね。

満州に渡るまで住んでいたのは、高知県東部の町、安芸市の僧津(そうづ)です。母に手を引かれて、再々山へ行ったことを覚えています。手前に大きな池があったような。山で枯れ枝を拾うと、母がそれをこのくらいの小さな束にして私の背に負わせてくれた・・そんなことを覚えています。

2つ下に妹初子(はつこ)、5つ下に弟康夫(やすお)が生まれ、うちは6人家族になりました。父は九州に居る母の親戚のところへ出稼ぎに行っていたようで、あまり家に居なかったですね。母が一人で子ども4人の面倒をみていました。

兄と学校に行くようになると、毎朝母がご飯を炊いて、一人に一椀くれました。でも、おかずがない。ほんの少しおじゃこを買うてあって、それをご飯を炊いた後の火で炒って、それでご飯を食べました。あの頃は、ほら、みんなぁ、似たり寄ったり。貧乏が珍しい時代じゃなかったでしょう。中でも、うちはうんと貧乏やったようにも思うけど。

 

小原茂さん(R4.5.18撮影)

歓呼の声に送られて


その僧津から満州へ家族揃って出立したのは、私が小学2年生になろうという春のことでした。だから、そのときの様子は記憶しています。安芸の駅までは、近所の人やら親戚やら、一人ひとりは覚えてないけれど、たくさんの見送りがありました。それはよーく覚えている。駅のホームでみんな、私たちが汽車に乗るまで送ってくれた。そこに立ったまま、私らが見えなくなるまで、手を振り続けてくれた。私はそれを窓からずっと見ていた。なぜか今でもはっきりと覚えている。兄が14歳、私は8歳、妹は6歳。弟はまだ3歳でした。

九州から朝鮮に渡り、朝鮮でまた汽車に乗りました。私たちの汽車に乗り込んできた朝鮮の人がリンゴを籠いっぱい持っていて、私らみんなに一個ずつくれました。真っ赤なリンゴ。南国生まれの私にはリンゴが珍しくて、とても嬉しかった。あの赤い色。今も忘れられません。


柞木台開拓団協和郷に着いて


目指す北満州の千振の開拓団まで、私たちは毎日毎日汽車に乗って揺られ続けました。そうしてやっとソ連国境にほど近い『北満州三(さん)江(こう)省樺川(かせん)県千振(ちぶり)街柞(さく)木(もく)台(だい)開拓団協和(きょうわ)郷(ごう)』に辿り着いたのでした。冬は零下35度にもなる極寒の地でした。

はじめは二家族が一軒の家に入れられ、たいへんでした。そのうち開拓団の団地が建ち、うちにも大きな家が割り当てられました。団地は3列になっていて、うちは真ん中の列の東から2番目。同級生の横山知子さんの家が前の列の一番東で、すぐ近所でした。後ろの列には家が少なかったように思います。団地には安芸から来た人が集まっていましたね。


遠い千振の学校まで


柞木台協和郷は、千振の汽車の駅からは本当に遠かったですよ。しかも駅まで乗り物はなくて、歩くしかない。初めは近くに学校もなくて、子どもたちは千振の街の学校に入りました。月曜日に学校に行き、土曜日に家に帰る。家から離れて寮で暮らす子どもたちのために、開拓団のお母さんたちが交代で来て、炊事や洗濯をしてくれました。

私、母の記憶はあまりないんです。満州に渡った明くる年に36歳の若さで亡くなりましたから。だけど、母が寮へ来てご飯をつくってくれたことは覚えています。重篤の母を父は遠い佳木斯(じゃむす)の病院まで連れて行きました。でも手当のかいなく亡くなったんです。その後は、横山さんのお母さんが寮へ来てくれたのを覚えています。

兄はすぐ卒業したので、千振の学校には、ほとんど私一人で行かなくてはなりませんでした。一人が淋しくて、私はよう泣きましたよ。行くときはいいんです。起きて、ご飯を食べたら、開拓団の友達みんなと一緒だから。土曜日に学校が終わると、私は遅くまでみなを待つことができず、長い道のりを一人で帰る。段々と日が暮れていく。あの頃は通りに笛を吹きながら行く中国の盲目の人がいて、すれ違うと何か恐ろしく、泣きながら帰ったものです。

千振まで2年くらい通ったかなぁ。その後、近くに満人の家に手を入れた急ごしらえの学校ができて、そこに通っていました。


開拓団に学校ができた


 しばらくすると、うちの開拓団にも、やっと学校ができました。柞木台在満国民小学校。立派なレンガ造りの建物で、入り口に校名を書いた看板が立っている。一つの板には『柞木台』、もう一つの長い板には『在満国民小学校』と書かれていて、子ども心に誇らしく思いました。その看板は今でも目に浮かびます。

その新しい学校に私は妹と一緒に通いました。友達や妹と勉強したり遊んだり。でも、弟は入学したのが、終戦のあの年のことでしたから、勉強はほとんどできなかったと思います。

学校へは何を着て行ったかなぁ。食べるものでは苦労することはなかったけど、着るものは配給のものしかなかった。寒いところなので、冬は綿入れの上着に綿入れのズボン。母がいなかったから、着た切り雀で・・。おかしいけど仕方ない。特に弟はずーっと同じのを着ちょったなぁ。最後に中国の人にもらわれていくときも、擦り切れて薄うなった上着とズボンやった。ほら、配給ものはどれもミシンでざっと縫うたものやきねぇ。         

父と子ども4人の暮らし


 母が亡くなって、子ども4人を連れた父の暮らしは、たいへんだったろうと思います。でも、私は学校から帰ると近所の友達と外でずっと遊んで、家の仕事や炊事を手伝うことはあまりなかったんです。兄は学校を卒業すると、父と百姓しながら、私らの面倒もみてくれました。怒るような人じゃなかったけど、私は遊んでばかりで言うこときかんでしょう。だから、時には叱られることもありました。

3度の食事は父が作ってくれたけど、作れるおかず言うたら煮物だけ。大根や人参やら、うちの畑で穫れる野菜の煮物。開拓団での仕事は、田畑を耕し家畜を飼うことだから、田んぼも畑もあって、秋にはたくさん収穫していました。米はたくさんあったし、野菜も何でも作っていたから、食べるものに困ることはなかったね。

でも、北満州は、とにかく寒い。秋が来たら大根もジャガイモも凍る。凍ってしまう。浅い穴を掘って、まずはそこへ置く。もっと寒い冬になれば、牛小屋へ移す。牛も2頭おったのよ。子牛も何頭か生まれて、豚も何頭もおったねぇ。初めは馬も。家ごとに馬をくれていたけど、後から軍隊にやろうか、取られてしもうて、それで、牛に替えたわね。牛を飼いよったねぇ。

鶏もいっぱいおったよ。鶏小屋は、開拓団が構えてくれた外の便所だったとこ。父は器用やったから、便所を別の場所に作って、使わなくなった外便所を鶏小屋にしていました。

だけど、卵や肉を食べた記憶はないんです。食べたのかなぁ。母が生きていたら、いろんな料理ができたろうけど、父は煮物ばっかり。食べ方を知らなかったのかもしれません。でも、味噌汁はありました。大きな鍋に野菜がいっぱいの味噌汁。

         鉛筆が.jpg 仕事のために苦力(くーりー)言うて、中国人の老人を一人雇っていました。毎朝、自分の家から来て、仕事をする。夕方になったら自分の家に帰り、また、翌朝来る。だから、うちで一緒にご飯を食べるようなことはなかったです。


終戦の年に兄も父も召集されて


 お正月言うても特別なことした思い出はないんです。ただ、餅つきはしました。うちの西隣に曽我さんって言うたか、そこにおばあちゃんがおってね。そのおばあちゃんに父が頼んで、お餅を作ってもろうた。父は搗くことはできても、餅にはようせん。だから、おばあちゃんが来て作ってくれた。父も兄弟も、みんなぁ揃って食べたことでした。

      でも、あの終戦の年には、お正月なんてなかった。餅つきもなく、何にもなかった・・。戦争がひどくなったせいか、普通の日と一緒やったような気がします。

兄国助、牡丹江の軍隊で

年の春先、18歳になった兄に赤紙が来て、すぐ入隊となりました。そして、その数ヶ月後の7月31日に戦病死したと知らせを受け、父が遺骨を引き取りに行きました。日本でするように家にお祀りして、家族だけで祈ったことを覚えています。

それからほんの10日ばかり後、今度は父に赤紙が来たんです。頼りの長男を亡くし、大きな家に母のない3人の子どもだけを残して戦地に向かわねばならなかった父。その胸の内は、どんなだったでしょう。

私たちも父との別れが辛くて、不安で、悲しくて・・ただただ姉弟で抱き合って泣くことしかできません。私が12歳で、妹は10歳、弟はまだ7歳。その3人の泣き声を背中で聞きながら、父は出て行きました。私たちから目を逸らしながら、手を振る父の姿は今も目に焼き付いています。終戦直前の8月10日の昼過ぎのことです。それが父との永遠の別れとなりました。

日本が戦争に負けた!!


子ども3人だけになった、その夜。同級生の横山知子さんが2つ上のお姉さんの操さんと二人でうちへ泊りに来てくれました。私ら姉弟3人は父の居ない心細さをその二人に慰められ、子どもらばかりの一夜がなんとか明けて行きました。

朝早く、誰かがガラス戸を叩いています。「茂ちゃん、茂ちゃん。早う起きなさい」って言う声も聞こえる。驚いて目を覚まして見ると、知子さんとこのおばちゃんです。飛び起きた私におばちゃんは「茂ちゃん、すぐみんなを起こしなさい。起こして、みんなぁでうちへ来るんよ」と言います。さらに、おばちゃんは「日本が戦争に負けたって。だから、みんなぁで日本へ帰るんよ。おばちゃんちへ早う来てね」と言って、帰って行きました。

私は慌ててみんなの名を呼んで起こし、横山さんの家へ急ぎました。前の列の一番東の端の家。すぐの近所です。家に入ると、中では大きな荷物をいっぱい作っています。いつもと違う状況に驚いて、私はどうしていいかわからず、泣き出しました。

すると、おばちゃんは「茂ちゃん、泣かんとってね。おばちゃんがご飯食べたら、あんたくへ行って荷物つくっちゃるきね。早うご飯食べて」と優しく言うてくれました。私は、そこでご飯をもらい、それからおばちゃんと一緒にうちへ帰りました。


リュックサックを縫う


うちへ入ると、おばちゃんは、「お母さんの箪笥を早う見て。何か生地がないかね?あったら出してきて」って。箪笥を開けると、白い生地がたくさんある。「おばちゃん、白いがはいっぱいあるで」と言うと、「白いがはいかん。黒い生地はないかね?見てみいや」とのこと。他の引き出しを探すと、新品の黒い生地が出てきた。ずっと前に開拓団に配給されて、母が箪笥にしまってあったものがそのまま残っていたんです。

その生地でおばちゃんは、縁側に座ったままリュックサックを縫い始めました。私に一つ、妹に一つ。私も学校でほんの少し裁縫は習ったので、ちょっとは縫うことができました。ミシンはない。おばちゃんを手伝って二人でリュックサックを手縫いして、逃避行用のリックを2つ仕上げました。

おばちゃんに言われて、そのリュックに自分らの着替えを入れました。「針と糸も入れちょきなさいよ。もし、どこかで破れたら使うきね、忘れんように」おばちゃんの言うとおり、私は針と糸を入れ、それからチリ紙もいっぱい入れました。日本人はチリ紙をいっぱい使うきね。四角いがをいっぱい入れて、背負ってねぇ。後から、こんなもん入れてって・・、アホなことをしたと思うたことよ。


逃避行始まる


それが父との涙の別れの翌日、8月11日の朝のことです。飼っていた牛や豚や鶏は、全部そこへ置いていくしかない。家にはお米もいっぱいあったし、キビもね、外の大きな木の箱にいっぱい入ってました。全部捨てて行くしかなかった。

今考えると、父は出征する時にきっと誰かにお金を頼んでいただろうけど、子どもだったからか、お金は一銭も持たされていませんでした。でも、その時は、そんなこと思いもしませんでしたね。


荷物は多いし、子どももいる。開拓団の皆が牛を出して、何台もの牛車を仕立てて、出発しました。幼い弟は牛車に座り、私は妹の手をしっかり握って、住み慣れた家に別れを告げ、なにもわからないまま、みんなと一緒に開拓団を後にしたのです。


 開拓団の男の人たちが相談して、まずは依(い)蘭(らん)県(けん)へ逃げようと決めていました。男の人と言っても開拓団に残った男性は、恒石のおんちゃん、田中のおんちゃんに横山のおんちゃんのわずか3人だけ。18歳から45歳までは兵隊に取られて、若い人はいないんです。だから開拓団は、子どもと、おじいちゃんやおばあちゃんといったお年寄りが多くて、お母さんたちが頑張ってました。うちは母も居ないでしょう。本当に心細かったです。

依蘭県を目指し、まずは汽車に乗ろうと千振の駅へ向かっていると、出会った満人らが、口々に「汽車は止まっている」「どこへも行けない」と言います。駅へ行ってもダメだとわかり、取りあえず車を休ませようと寄った近くの満人の部落で、一晩だったか二晩だったか、泊ることになったと記憶しています。

一行の中に、旦那さんが兵隊に行って、男の子ばかり3人連れた妊婦さんがいました。夜になって、なんとお産が始まり、赤ちゃんが生まれましたよ。よく覚えています。


 いったん我が家に帰るも・・


汽車では南下できないと頭を抱え、男の人たちが相談した結果、「このままでは命が危ない。汽車が無理なら、船しかない。松(しょう)花江(かこう)から船に乗って南へ逃げよう。いったん戻って、再出発だ」となり、私たちは元の開拓団まで引き返しました。

家に帰って、驚きました。なんと、雇っていた満人の苦力が家の中に居て、二人の男がそれぞれ、荷造りの最中だったんです。毛布を敷いて、その中へうちの布団や衣類、その他の家財道具、何か知らんけど全部包んで、大きな荷物を作っていました。横山のおばちゃんが作っていたみたいな大きな荷物。

私は恐ろしくて、もう泣きながら前の横山のおばちゃんの家に飛び込んで、涙声でおばちゃんに言いました。「苦力がうちのものを盗りゆう」と。おばちゃんは私を見て、「もうしようがないね。帰らずに、ここに居て」と言ってくれました。それで、もう家には帰らず、おばちゃんちでお世話になりました。その時、うちのものは何もかも、捨てて、盗られて・・全部なくなったと思い知りました。


依蘭県に向け再び発つ


私たちが依蘭県に向け再び出発したのは、一夜明けて14日の午前中でした。徳島、鳴門、愛媛、協和の4つの郷は出発し、土佐、東予の2郷は集団移動を避けて留まるとのことでした。

まず向かった大平鎮までは丘や谷の道ばかりでした。幼い弟は牛車に乗せてもらえたけど、私は妹の手を引いてずっと歩きました。道は険しいし、この時は雨もよく降って、いたるところで川が増水していました。道か川か見分けもつかないようなありさまの中、難儀しながらの前進でした。

鉛筆が2.jpgその日、私は恒石のおばちゃんとその娘さんと一緒の組になって歩いていました。恒石のおんちゃんは、うちの開拓団の責任者だったので、あの夜にお産をしたお母さんと子どもたちを乗せた牛車を守って、一番後ろを来ていたんです。

飲まず食わずで、すっかり疲れた私たちが道端で少し休んでいると、向こうから鎌を持った二人の満人がやってきました。すれ違い際に「後ろにまだ車があるのか」と訊いたので、私たちは何も思わず、「あります」と答えたんです。

恒石のおばちゃんと娘さんは、後からおんちゃんの車がなかなか来ないので心配になり、「私らぁ親子で迎えに行ってみる」と言うて、道を戻って行きました。行ってみると、車の傍にお父さんが倒れていて、顔も体も血だらけ。私らに車のことを尋ねた満人の二人がおんちゃんを殺して、車からお金やなにやかや全部盗ってしもうたってことでした。

車に乗っていたはずのお産した奥さんと子どもたちの姿は、どこにもない。人が殺されゆうところを見て、恐ろしくて逃げたのか、どこかへ連れて行かれたのか・・。自分らの荷物も何一つ持たず、なにもかも捨ててしもうて・・・。 

あの母子のこと、そして、開拓団の責任者として母子を守ろうとして命を取られた恒石のおんちゃんのことも、私はずっと忘れることができません。


両親の写真まで捨てて


匪賊や銃弾に度々脅かされながらも、先に出発した4つの郷はなんとか大平鎮の近くまで来ていました。早朝から銃撃され、連絡に来た満州警察と話し合っていた開拓団の何人かが拘留され、何時間も止められるということがありました。なんとか出発は許されたのですが、状況は、どんどん難しくなっていきました。

また、荷物を捨てるように命令が出ることもありました。これまでも「みんな、要らん物はできるだけ捨てなさい。牛もたいへんだから」と言われ、少しずつ荷を軽くしてきましたが、この時は皆、泣きながらさらに捨てていました。

私も持っているものをすべて捨てなくてはと思い、親の写真まで一枚残らず捨てました。なぜだか『こんなもの持ってきて』と思ってしまったんです。大事な写真をすべて捨ててしまったことを後では随分後悔したことでした。


苦力に車を盗られる


16日の夕方になってやっと依蘭県に入りました。町に入ろうというところで、雇いの中国人苦力が「車が動かんなった。故障した。ここで直すので、皆さん、持てるだけの荷物を持って、先に行って」と言ったんです。

それまでずっと私たちの荷車を守ってくれた苦力です。「仕方ない、大事なものだけ持って先に行こう」となりました。小さい子どもたちを車から降ろすと、皆、持てるものを持って歩き始めました。

でも、その時の私にはなにもない。初めからお金は持ってないし、親の写真ももうない。何が大事かもわからない。仕方なく、私は妹弟の手を引いて付いて歩き始めていました。

ところが、皆が車から少し離れたあたりで、なんと苦力が牛を追いたて、飛ぶようにその車を持って逃げたんです。アッと言う間の出来事でした。大事なものを全部取られて、皆が道淵で泣くことよ。持ち金全部を身に着けている人はいなかったと思います。皆、車の荷物の中に包んで置いていたそうですから。それも盗られて、ひどい目にあったんです。でも、仕様がない。逃げた苦力に、もう追いつくことはできません。泣いて諦めるしかなかったのでした。


依蘭橋の惨事


その日、私たちがやっと入った町は、何千何百人の難民でたいへんな混雑ぶりでした。北からソ連軍が入ってきて、東北の開拓団の人が皆、南へ南へと逃げ、依蘭県のこの町で一緒になっていましたから。本当にすごい人でした。私たちは木がたくさん植えられた、学校のような施設の広い庭に入り、大きな木の下で一晩を過ごしました。   

そして、あくる日、17日の朝、大勢の人がさらに南を目指して松花江を渡ろうと依蘭橋に向かって歩き出していました。松花江は満州では一番大きくて、川幅も広いんです。難民の長い列が、依蘭橋にさしかかった時、突然、ソ連機が飛んできました。居合わせた兵隊らが「これは、いかん。爆弾で橋がやられる。落ちてしまうぞ」と叫び、「後退!元へ戻れ!」と大声で繰り返します。しかし、橋の上はすでにいっぱいの人。それが皆、戻れと言われ、子どもは泣くは、親は叫ぶはのすごい混乱となりました。


私は妹弟と一緒に橋から100mくらい手前に居たと思います。周りは人、人、

人。人ばかりです。皆、今度は川沿いに南へ走る。走って船に乗り込み、川を渡ろうと、必死です。攻撃は飛行機からだけじゃない。水上にはソ連の軍艦もいる。あちらから、こちらから弾が飛んで来る。周りには匪賊もいて、怖い満人に叩かれる。

そんなひどい目に合いながらも、なんとか逃げて、船がそこに見えるところまで来ました。あの船に乗ればなんとかなると、妹弟の手を引いて走っている時のことです。私と並んで、一人の若い女の人が、背中に二人の子ども負うて走っていました。ピューンと弾が私の頭の真上を飛んだ・・次の瞬間、その女の人がバタンと倒れたんです。

流れ弾に当たり、子どもを背負ったまま倒れて血を流している。大量に流れる真っ赤な血。私はもう恐ろしゅうて、二人の子どもを見ることもできない。私だけじゃない。周囲は人がいっぱい。でも、幼い二人に手を差し出す者はない。みんな自分のことだけで精いっぱい。

私は急いで妹と弟の手を取り直し、船に向かい一目散に走りました。その時の私には「弾が当たらんかって、良かった」という思いしかなかったんです。「お母さんが私を助けてくれた」と。ただ恐ろしかった。頭の上を、耳の傍を弾がピュンピュン飛ぶんです。できることなら目を覆いたい。戦場と同じです。怖れ慄きながら、私は妹弟を連れ、その場からただただ逃げたのでした。


山を逃げる


なんとか船に乗り、向う岸へ渡りました。それからが、また、たいへんです。道から外れて、道なき道を行くんです。畑の中をあちこちしながら、山の上の方へ逃げました。留まることはできない。みんな必死です。開拓団にいた大勢の人たちが、皆、南へ南へと逃げる。日本へ帰ろうと。日本に帰りたいと。

山の中を逃げていた、ある朝のこと、道端で休んでいると、突然、弾が飛んできました。川竹さんの次男坊の巧ちゃんが、その弾に当たって、左足の指が二本吹き飛ばされました。功ちゃんは痛くて泣くし、お母さんは驚いて叫び、大騒ぎになりました。消毒も薬もない中で、包帯だけはあったのか、お母さんが何とかそれで手当しました。それからは、お母さんが功ちゃんを背負って逃げていました。

暑い夏のことです。包帯をお母さんが外した時に、傷口に白い虫が湧いているのが見えました。『痛いろう。恐いろう』と気の毒でたまりません。開拓団の逃避行にはお医者さんなんかいません。薬もない。なにもないんです。川竹のおんちゃんは、うちの父と一緒に兵隊に取られたきね。あの子のお母さんが、うんと苦労したわねぇ。


 雨がよく降りました。山道がぬかるみ、歩くのが辛くなる。子どもや年寄りは、足が止まる。でも、皆の列から遅れると、道端にそのまま置いて行かれます。だから、親も子も必死です。叱咤する親の声、子どもの泣き声。私は妹弟を連れて皆に付いて行くのに必死でした。

空腹も辛かったですよ。畑があれば、生のキビや大根、ニンジンなどを盗って食べる。水があれば、汚くても小さな虫がいても目を閉じて飲む。死にたい気持ちになったことも一度や二度ではありませんでした。


山中に日本軍の野営跡がありました。中にはお米や漬物など食べ物がある。でも、弾がピュンピュン飛んで来る。テントの前の道には若い女の人が倒れています。流れ弾に当たって、血だまりの中に仰向けに倒れています。息絶えたように見えました。

傍らに幼い二人の子どもがいて、その女の人の服を引っ張り、乳を引っ張りして、口へ持って行こうとしています。乳を飲みたかったんですよ。小さな子だからね。「母ちゃん、母ちゃん」言うて、泣きもってねぇ。

皆それを見ても、「かわいそう」と言いながら、通り過ぎていくだけ。二人の幼子を助けようとする人は誰もいません。あの二人の泣く声が、乳を求める指や口が、今も頭から離れません。眠れぬ夜には、あの後二人がどうなったのか、優しい中国人に助けられていたらいいなとか、いろいろと思うのです。

テントに入って何か食べたか、って?いやぁ、そんな恐ろしいところに、私らぁ、入ることはできません。もちろん何一つ口にすることはなかったですよ。


命がけの濁流渡り


再び河に出ました。松花江の支川でしたが、大雨の後で流れも速く、向こう岸を遠く感じました。濁った水が渦巻いています。渡るための船もありません。こちら岸の木から向こう岸の木に一本の針金を渡して括り付け、一人ひとり、それを握って渡るのです。

 たった一本の針金を命綱に大勢の人が行列をつくって次々と濁流に入って行きました。中には手が外れて「助けて、助けて」と叫びながら流れに吞まれる人もいます。それを見て、子どもらは恐ろしくて泣き叫んでいます。

 開拓団のお父さんは兵隊に取られ、お母さんが子どもや年寄りを連れているんです。大きな子どものいない家のお母さんは、幼子を抱えて濁流を前に途方にくれ、中には思い余って子どもを水中に投げる者もいました。しゃべれる年齢の子どもは「母ちゃん、捨てんとって、投げんとって」って。でも、お母さんも何人もの子どもを連れては渡れませんから。何十人の人がここで命を落としたでしょう。たまりかねて母親が子どもの後を追って流されるのも見ました。


私もおっかなびっくり渡り始めました。針金を掴み、一歩一歩。なんとか岸に近づいたところで、突然、波がざぶんと来て、手が針金から外れ、一瞬で水中に引き込まれました。先に渡って後の者を岸に引き上げてくれていた田中のおんちゃんが、一度沈んで再浮上してきた私に、大きな声で「茂ちゃん、早う手を上げて!沈んだらいかんよ!」って叫んでくれたんです。そして、水面に上げた私の手を力いっぱい引っ張ってくれました。田中のおんちゃんは、太い人で背も高く、手も長い。どっちの手やったか、上げた私の手を千切れるばぁ引っ張って、岸へ上げてくれました。その時は痛いこともわからない。私が岸に上がると、妹も付いて上がってきて、二人とも命拾いしました。

岸でしばらく弟を待ちました。弟は、木を繋いでつくった小さな筏に乗せてもらって、なんとか渡ることができました。私は田中のおんちゃんに命を救ってもらった。おんちゃんがいなければ、私はあそこで終わっていたと思います。私だけでなく、妹も弟も、開拓団の皆様のお陰で助かったんです。心から感謝しています。


美味しかったご飯


河を渡ると、また集団での逃避行です。ソ連兵も怖い、中国人も怖い。道を外れて歩いていくと、20軒くらいの小さな部落に入りました。家はあるのに、人はほとんど見かけません。特に女や子どもは一人もいない。日本人が大勢で逃げてくるのを恐れて、この部落では男の人をほんの数人だけ守りに残し、皆どこかに隠れたようでした。

私たちは、その部落で一晩泊ることになりました。そこで、お米を炊いて、白いご飯をみんなで食べました。逃避行が始まって以来、初めて食べたご飯の美味しかったこと。夏のことなら野菜は畑にいっぱい。キュウリやナスがいっぱいありました。もちろん他人(ひと)のお米や野菜です。どこでどう手に入れたものか私にはわかりません。でも、そこで家を出てから初めてお腹を満たし、ゆっくり休んだことを覚えています。


翌日、また山に入りましたが、どんなに歩いても道がわからず、同じところをグルグルグルグル回って、夕方また元の部落に帰ってきてしまいました。翌日、満人の道案内を得て、やっと部落のある山から出ることができました。

それからも逃避行はまだまだ続きます。道のない山の中を逃げていると、ソ連の車が来ました。鉄砲持ったソ連の兵隊がたくさん乗っていました。ロシア語で何か言うけれど、私らにはわかりません。私たちはコーリャン畑に隠れましたが、お年寄りの中には「ここで死ぬなら、それも

鉛筆が3.jpg

いい」って、道淵に立ったままの人もいました。逃げるのもたいへんで嫌になったのでしょう。

そのうち弟は足が痛くて歩けなくなりました。皆に置いて行かれることが怖くて、私は妹だけを連れて歩き出しました。後ろから弟の泣き声が「お姉ちゃん、置いて行かんで。連れて行って」と私を追いかけてきます。それでも歩いていると、亡き母が「茂、お前以外の誰が弟の面倒を見る?妹と弟の二人をしっかり連れていかんで、どうする!」と叱る声が聞こえたような気がしました。結局、妹と泣きながら引き返し、弟の手を取っていました。その後、前を行く皆になんとか追いつくことができました。

方正県で収容所に入る


空腹を抱えての山河越えの後、8月末に、やっと方正県まで辿りつきました。私たち同様に日本に帰ろうとたくさんの人がここに集まっています。しかし、ソ連軍に阻まれ、方正の街には入れません。

街の東の高い丘に日本軍の居住跡があり、そこには毛布や鉄兜、靴下、雨靴、冬の暖かな靴など、様々なものが山積みされていました。日本人の兵隊が来て、「自分で持てるだけ持って行きなさい」とみんなに言いました。誰もができるだけたくさん持って行きました。

でも、私には、どれも重い。幼い弟妹の手を引き、歩いて付いていくだけがようようの私には、何も持てない。誰かに「夜どこで泊まることになるかわからん。これを一枚でも持って行きなさい」と言われて、毛布を一枚だけもらいました。寒い夜に必要かと思ったのです。

結局、私たちは方正の街には入れず、方正県の東の伊漢通(いかんつう)の倉庫のようなとこに落ち着きました。そこは日本人難民の収容所で、中国の人が「ここは沖縄の人たちの開拓団だった」と教えてくれました。いつまでここに居るんだろう。お父さんには会えるんだろうか。いつになれば日本に帰れるんだろう。不安だけがどんどん膨らみました。

私たちの団は東の端にある二つの大きな倉庫に分かれて入ることになりましたが、そこでの苦労も、また、一とおりではありません。倉庫の土の床に敷くものは何もない。あるのは、筵(むしろ)、お米を入れるあの編んだ筵だけです。それを開いて敷布団にしました。

倉庫の中は、外よりいくらかましという程度で、秋になると、夜の寒さが一段と厳しくなりました。とても眠ることはできません。横山のおばさんが「このままでは、寒くて冬越えできんよ。この毛布でズボンを縫いなさい」と言ってくれました。それで、私は持ってきた毛布で三人のズボンを縫いました。妹に一枚、弟に一枚、私に一枚。すると、今度は掛ける布団がありません。仕方なく筵を被って、弟妹と寄り添うように寝たことでした。

衣類も夜具もない。食料もない。そこにはお年寄りがまだたくさんいましたので、10月になると、飢えや栄養失調などで毎日のように人が亡くなりました。11月になり寒さが一段と厳しくなると、凍死する人も出るようになりました。大きな穴を掘って、その中へ亡くなった人を捨てるように埋けているのを見ました。亡くなった人を祀るどころか、並べる場所さえなかったんです。

神様からの贈り物


弟の指に出来物ができて、爪が落ちたことがありました。その頃には、収容所にも簡易の診療所ができて、日本の軍医さんが診てくれました。お金は要らない。只で診てくれたんです。それで私、弟を連れてそこへ行って治療してもらいました。

ある日、治療を終えて診療所から出ると、目の前に財布が一つ落ちてるんです。周りには誰もいません。目の前の財布。これは神様が置いてくれたとしか思えませんでした。拾って開けてみると、十円札が一枚入っています。

私にはお金はありません。一銭も持たされてなかったんです。最初は収容所でもお米の配給が少しありましたが、すぐに皮がまだ残ったコーリャンに替わりました。それを炊いて食べると本当に渋いんです。それでも食べないとひもじい。配給のものはどんなものでも食べました。

そんな時の十円。神様の恵みです。食べ物を買えるところはあったんです。日本の難民がたくさんいるので、中国の人が売りに来るんです。日曜市みたいなところ。遠くから売りに来る人もいましたよ。美味しいものいっぱい持ってね。ふかふかの中華まん、今はスーパーでも売りゆうでしょう?それから、トウモロコシの粉を蒸したファゴウや、白い豆の粉を蒸したチェゴウ。鍋の中で膨らんでフワフワに蒸しあがっているのを切り分けて売ってくれるんです。蒸しパンや餅に似て、本当に美味しかった。お金のある人は、買うて食べているけど、私には買えなかった。でも、あの10円で、私ら3人が何日か食べることができました。

収容所の中には中国人のところへ働きに行く人もいました。若い女の人たちは、働いてお金をもらっていました。子どもや親のためにね。配給だけでは、全然足りないから。働いて、そこで残ったご飯やおかずを貰ってくる人もいました。


ある寒い日の真夜中に


 横山のおばさんは、いつも私ら3人を気遣って、何かと声をかけてくれました。おじさんは45歳を超えていたのか、兵隊には行かず、家族と一緒にいましたよ。でもある寒い夜、たいへんなことが起こりました。突然、中国の国民党の人らが私たちの倉庫に入ってきて、鉄砲で脅しながら横山さんの4番目の娘さん、操ちゃんを無理やり外へ連れ出そうとしたんです。

真夜中のことで、操ちゃんは「行かんきね」と泣き叫び、おじさんは娘を中へ引き戻そうと必死です。操ちゃんが「お父さん、早く殺して!私は行かない。殺して!」と泣いて訴える。お父さんは娘を引っ張る。あちらの兵隊は諦めずに、さらに外へと引っ張る。

みんな目は覚めているのに、操ちゃんやおじさんを助けようとする人はいません。誰も声一つ上げないんです。最後には、兵隊が天井向けて二発拳銃を撃って、出て行きました。それで、操ちゃんは何とか助かりました。操ちゃんが北の入り口から一番外側に、私は、そのすぐ横の列に寝ていましたから、全部目にしたんです。


そんなことがあった後、おじさんは重い病に倒れて、亡くなりました。後を追うように長女の初さん、初さんの子どもさんと、横山家では3人が次々に急逝するという不幸に見舞われました。

春に別れる

家族.jpg

横 山 家 の 皆 さ ん

(おばさんは上の左端、知子さんは下の中央)

収容所に子どもをもらいに来たり、お嫁さんを探しに来る中国人がいました。ろくに食べることもできず、日本へ帰る目途も立たない暮らしの中で、皆と別れて中国人と一緒に出ていく人も多かったんです。

お金のある日本人は、なんとしてでも帰ろうと、ハルピンを目指して収容所を出ていきました。ハルピンまで行けば、なんとかして日本に帰れる。ただ、ハルピンまでは車もなく歩いて行くしかないんです。たいへんな苦労です。でも、横山のおばさんは、娘を収容所に置くのが怖くて、次女と四女の二人を先にハルピンに発たせ、二人の娘と末の息子と四人で残っていました。

4月になり、ようよう方正にも遅い春が来た、ある日のこと。横山のおばさんが「おばちゃん、茂ちゃんに話があるんよ」と、部屋にいた私を炊事場に呼びました。そして、言ったんです。「うちも、お父さんが亡くなったでしょう。生きていれば、私たちが日本へ帰るとき、何としてでも、茂ちゃんたち姉弟3人も連れて帰る。けど、おばちゃん一人では、その力もお金もない」と・・。その先は聞かなくても、おばさんの言いたいことがわかりました。

おばさんは一息ついて続けました。「おばちゃんだけで、うちの3人を連れて帰らないかんのよ。そのお金もない。中国の人が毎日子どもをもらいに来よるの、知ってるよね?あんたらぁも、ここにおっても食べ物がないきね、中国の人に助けてもらいなさい。おばちゃんが日本に帰れてお父さんに会えたら、迎えに来るように必ず話すから。それまで、とにかく頑張って欲しい。生きていて欲しい」

泣き崩れる私をおばさんは胸に抱きしめてくれました。そのおばさんの目にも涙が溢れています。おばさんも辛かったんです。二人で抱き合って、しばらく涙にくれました。その時のおばさんの胸の柔らかな温もりを私は一生忘れることはありません。

昭和21年4月、こうして私たち姉弟3人は中国の人にもらわれて行くことになり、数日後、中国人のおじさんが牛車で迎えに来ました。川竹のおばさんとその息子二人と姪一人の家族4人に、恒石のお姉さんも一緒です。8人が、皆に泣きながら別れを告げました。行先は誰も知りません。悲しみと不安に胸が押しつぶされそうで、誰の目にも涙が溢れていました。


夕方やっと方正県の隣の延寿(えんじゅ)県にある加信(かしん)鎮(ちん)という小さな田舎町に着きました。大勢の人が私たちを待っていて、それぞれの引き取られる家が決まっていきます。なすすべもなく、私は妹弟と泣く泣く別れるしかありませんでした。

私たちを収容所に迎えにきたおじさんは世話役で、私たちは中国人から中国人へと品物のように売買されたのでした。でも、そのことを知ったのは、ずっと後になってからのこと。このときの私は、何もわからず、運命の波にただ飲み込まれるだけでした。


妹弟とも別れて


妹と弟は子どものない夫婦に一緒に引き取られましたが、そこのお父さんは間もなく弟を遠い田舎の方へまた売ってしまいました。だから、妹と弟も、結局は別れ別れになりました。お金で人をやり取りすることが、当時は当たり前のように行われていたんです。

それでも、妹は夫婦に娘として大切にされ、幸せに暮らしたようです。妹の家の近くにいたころは、遊んでいる妹を見かけることもありましたが、中国語のできない私は、周りの目も気になって、声をかけることはできませんでした。

その後、妹は病気になり手を尽くしても治らず、16歳で亡くなりました。後で、お父さんが私を訪ねて来て、妹の死を知らせてくれました。「お金をつかって、できる治療はすべてした。でも、治すことができなくて。残念でならない」って話してくれました。お父さんは妹を本当の娘のように思ってくれていたと思います。

妹にも弟にも、別れてから会いに行くことは一度もできませんでした。それっきり・・。言葉も地理もわからず、人も知らない。たとえ近所でも、出歩くことは難しかったんです。だから、遠いところにやられてからの弟の消息は、まったくわからず、病気で亡くなったことを何年も経ってから聞かされました。まだ27歳の若さでした。


その後、私も転々とし、3度目に売られた家で、結婚することになりました。私は14歳、夫の劉(りゅう)宝庫(ほうこう)は15歳と、若過ぎる夫婦でした。暮らしは貧しく苦労がありましたが、夫との出会いに救われ、2人の息子と3人の娘をもうけました。

帰国の夢叶い、父を想う


二人の娘の病死など辛いこと哀しいこともありましたが、その都度、主人と一緒に乗り越え、いつかは日本に帰りたいとの思いをずっと持ち続けていました。長い年月をじっと待ち続け、友人である川竹さんのお陰で高知の身内のことがわかりました。そして、昭和51年の第2次訪日調査団のお陰で「一時帰国」がやっと許されました。でも、帰ってみると会いたいと夢見ていた父はすでに病死していて、墓前であいさつするしかありませんでした。幼い日を過ごした安芸市で私は親族の皆さまにお世話になって、また中国へ戻りました。

 それから再び長い年月を待って、やっと永住許可を得て、平成5年5月28日に私は次男一家3人とともに帰国しました。ここから、皆さまの暖かいご支援やご協力をいただき、私の高知での生活が始まったのでした。

墓参り.jpg

帰国が叶い父の墓参りに

 私の母方の従兄弟に、安芸の市役所に勤務している和田精郎さんという人がいて、帰国した私の世話をうんとしてくれました。その人が父の牡丹江の軍隊に入ってからのことをよう知っていて、私に話してくれました。

父が牡丹江にやっと着いて、兵舎に入り、軍服に着替えた・・その直後に上官から「戦争は終わった。すぐに帰りなさい」と言われたそうです。その時、父はお金は一銭も持ってなかったと言います。遠い道のりをどうやって帰る?帰るまでにした苦労は一とおりじゃなかったと話したようです。

牡丹江から私たちの柞木台開拓団までは本当に遠いんです。汽車に乗るお金がないから、駅の傍で仕事を探して、お金ができたら行けるところまで汽車に乗る。また降りて、仕事を探し、そこで働いて・・。そんな苦労を重ねながら、私ら子どもに会おうと必死で帰ったそうです。

でも、帰ってみたら、空っぽ。家には誰もいない。荷物も何もない。盗られてしまって、何もなかったって。頑張って頑張ってやっと開拓団まで、家まで帰ったのに、子どもたちは誰一人いない。会えないまま。父は何もかも無くし、仕方なく、また駅へと引き帰したって。


父が日本に帰って来たのは、昭和32年か33年と聞きました。たった一人で帰って来たって。終戦から随分経ってますよね。日本へ帰るお金がなくて、こんなに時間がかかったんでしょうね。仕事して、お金ができたら乗り物乗って、無くなったらまた降りて仕事探して、そうして大連から日本へ帰ってきたんでしょう。

「お父さんもたいへんな苦労をしたんだなぁ」と思いました。私らぁに会いたくて、開拓団まで帰ってきてくれたのにね。どんなに無念な気持ちだったでしょうね。私も父には本当に会いたかった。残念でたまりません。


そして、横山のおばさんのこと


 父と同様に、横山のおばさんのこともずっと気にかかっていました。無事に日本に着いただろうか。いつか会える日が来るだろうか、と。だから、帰国して同級生の横山知子さんや操さん、鶴子さんと会うことができたときは、横山のおばさんのことを尋ねました。

私たちと別れた後、おばさんは、先に発った二人の娘が待つハルピンへ向かったそうです。ハルピンに着いて、おばさんは操さんらと会うことができました。でも、おばさんがもう動けないくらい疲れた様子だったので、娘さんらが気遣って、「お母さん、ちょっと待っていてね。何か食べるものを買ってくるから」と、おばさんをそこに休ませて買いに行った・・・その短い間に、おばさんの息がなくなっていたと聞きました。

「ようやっと会えて、何の話もしないうちにねぇ・・」と娘さんらは辛い悲しい話をしてくれました。ハルピンで娘らにやっと会えたのに、おばさんはそこで亡くなっていたって。おばさんに私はうんとお世話になりました。とてもやさしい人で、辛い苦しい時にいつも助けてもらった。今も夜眠れないとき、あの時々のおばちゃんが目の前に出てくるんです。自分の母親みたいに。忘れることはできません。


家族を想い、家族を祀る


今は、こうして日本に帰り、郷里の高知で暮らしています。言葉の問題もあったし、病気がちで思うように仕事もできず、苦労はずっとありました。でも、給付金の新たな制度ができて、今は生活の不安もなくなりました。本当にありがたいことだと思っています。

満州に渡った時は6人家族だったのに、今こうして生きているのは私だけです。よう生きてきたわねぇと、自分でも思うんです。戦争さえなかったらと考えますよ。戦争になって家族がバラバラになり、した苦労は一とおりのものではなかったですから。

亡き母の写真.jpg

ありし日の母

家族を祀ることが今の私の役割です。高知市に来てから、お世話してくださる方がいて、筆山にお墓を構え、安芸からこっちへ連れてきました。とは言っても、中国で亡くなった母や兄や・・お骨は持って帰ることはできませんから、何もないんですけどね。私が足が不自由で墓参りが難しくなったので、今は代りに息子が行ってくれています。

 家ではこうして父と母の遺影を置き、お祀りしています。この母の写真は、大坪の叔母が持っていたものを借りて、私が新たに作りました。叔母は父の妹で、写真の母はとても若いんです。これを見ると、生きてきた、生きているという気持ちになる。もうここで終わりと思うことがいっぱいありましたよ。60の時も、ここまでと思ったのに、もう90に手が届くところまで生きて来た。ずっと母が、若くて亡くなった母が私のことを守ってくれた・・そう思って感謝しています。


あとがき

私の母と同世代の小原茂さん。満州移民という国策がなければ、日本で終戦を迎え、戦後の国難の時代を、ご家族とともに懸命に生きたことでしょう。でも北満州の開拓団の少女は、戦場同様の山中を、弟妹の手を取って逃げ惑わねばなりませんでした。今も夢にうつつに見る悲惨な体験は、辛く苦しいことばかりでした。時に涙ぐみ、苦笑いしながらも、丁寧にしっかり語り伝えてくださった小原さん。本当に、ありがとうございました。

「ウクライナでの戦争を毎日、テレビで観ています。心配して観ています。早く終わるようにと祈りながら観ています」小原さんが、お会いする度におっしゃっていた言葉です。この祈りが冊子を読んでくださる方々に届き、平和への一歩ともなりますように。

最後に、小原さん紹介の労をとり、貴重なアドバイスの数々をくださった中野ミツヨさんと、素敵な挿絵で彩を添えてくださった岡内富夫さんのお二人に、心から感謝申し上げます。

                     ききがきすと 鶴岡香代





       






posted by ききがきすと at 17:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月24日

百寿の今が一番幸せ! 〜娘夫婦と山梨の地に暮らして〜

su12.jpgかたりびと:鈴木八重子
ききがきすと:豊島道子
編集担当:鶴岡香代


生まれは姫路、若い頃の父は相撲取り

私は大正10年7月5日、姫路の網干(あぼし)に生まれました。今年で百歳になります。

何年か前に主人が亡くなり、一人暮らしに自信がなくなり、娘のいるこの山梨にお世話になっています。今はもう何の心配もなく、水墨画を描いたり、デイサービスにお世話になる毎日です。

父親の実家は、網干でも南部の海のそばで、もともとは船大工の家だったようです。でも、私の父親は相撲が好きで好きで、結局相撲取りになったと聞いています。体が大きく、ハンサムでした。時津風部屋に入ったそうです。「ふんどし担ぎ」とかいうのはやらないで、十両までいったらし
いです。四股名は「大浜」。昔は相撲部屋は関東と関西に分かれていて、関西の方の時津風部屋にいたそうです。子供ができてから関取をやめてし
まったらしいですが。


この写真は、父親が亡くなった後に、追善相撲が営まれた時のものらしいです。私の叔父である父の兄が、主催し行ったみたいです。姫路の小さな町にその時の超人気横綱を二人呼び、追善相撲を開催するなんて、母ともども兄弟で遣り手だったんだと思いますよ。この写真に両横綱のsu1.jpgサインでも貰っとけば、お宝になったのにね。

当時の化粧まわしをずっと大切に置いていたのを、つい最近、甥っ子が処分してしまったそうです。お見せできなくて残念。

 時の両横綱 双葉山と羽黒山

実家は料亭、やさしかった兄

相撲取りをやめた後に、両親二人で料亭を始めて、そこの中庭でいとこ達と撮った写真が次頁のものです。一階には中庭をぐるりと取り巻くように八室ほどの部屋がありましたね。

お兄ちゃんと二人でいつもその一室で朝ごはんを食べて、学校へ行ってました。両親が遅くまで働いているので、朝はお兄ちゃんが世話してくれていました。時間割のこととか、帯紐を結んでくれたりと。その頃はまだ着物で学校へ通っていた時代です。でも、料亭をやっていたからか派手な家だったので、たまに洋服で行くこともありました。兄は本当にやさしい人でした。

朝起きると、何かしらは用意してあるのを二人で食べて学校に行ってました。枕元にシュークリームなんかの珍しいお菓子が置かれていたことも。夜のご飯は父親が作ってくれていた記憶があります。今考えるとチャンコで鍛えられたからかも知れませんね。


住み込みの仲居さんが二人ほどいましたが、私たち子供の世話は一切してくれませんでした。でも、その頃は特にさびしいとか思ったことはなかったです。

その料亭はほとんど母親が切り盛りしていました。料亭とは別に、父親が道楽で始めた芝居小屋もありました。父親が50歳で亡くなってからも、赤字だったその芝居小屋をたたむわけにもいかず、母は一人で続けて、さらには建て直して大きくしたんですよ。芝居小屋といってもそれなりにきちんとした舞台があって、大衆娯楽の場となっていたのよね。でも結局、戦争で閉めてしまいました。


料亭の方も、戦争が始まると材料の調達とかが難しくなり、結局止めざるを得なくなりましたね。

神戸の料亭で行儀見習い

私は結婚して東京に出てきましたが、それまで何をしてたかというと、尋常小学校へ6年、高等小学校へ2年と通った後、女学校の受験には落ちて、専門学校に入りました。当時は青年学校と言ったかと。2年ほど行きました。

su4.jpgその後、知り合いの神戸の由緒ある大きな料亭に行儀見習いで1年間ほどかな、行かされました。西郷さんとかも通っていたような、それは格式ある料亭でしたね。そこでは、仲居さんのようにお部屋に入っての仕事はしませんでした。なので、実際にお客様と会うことはなかったです。

                   兄が撮ってくれた1枚 →

そこで覚えているのは、大きな何十畳もあるようなお部屋の床の間を磨いている時にね、大きな塗のサイン帳みたいなのを見つけたときのことです。開けてみたら、すごい人の名前がいっぱい書かれていて、それでびっくりしました! 誰の名があったかというのは今となっては覚えてないけど、とにかくすごい人の名前がずらーっと。

兄は、神戸の方で、質屋の番頭をしたり、ダンスホールで働いたりと、いろんなことをやっていました。質屋の番頭をしていた時に質流れのいいカメラを手に入れ、私を撮ってくれました。その写真が前頁のものです。そのカメラは家が一軒買えるくらいとか言っていました。

いとこ同士で結婚! 夫は近衛騎兵

su5.jpg私と主人はいとこ同士です。でも、住んでいた所が関西と東京だったから、年頃になるまで会った事はなかったのね。話には出たことがあったので、そういういとこがいるのは知ってるって程度でした。そんな二人がなぜ結婚ということになったかと言うと・・・。

 新婚時代の二人

主人は立教大学に入って弓道部のキャプテンになったんです。その遠征なんかで京都に来たりすると、私の姫路の家に寄るんですよ。それが知り合うきっかけだったわね。

二人をとりもったのは、母の妹で、東京で造り酒屋をやっていたおばさんなんです。このおばさんは、夫の母と私の母と三姉妹だったんですよ。そして、おばさんは、どうしても私を東京に呼びたかったわけ。

それで東京にいた良ちゃん(ご主人)を勧めたわけ。本当に上手く勧めてくれたのよ。たまたま私のおばあちゃんがお風呂で滑って怪我して、それが東京のそのおばさんの耳に入ったのね。それで慌てて会いに来た時に、良ちゃんが八重ちゃんのことを嫁に欲しいって言ってる、と告げられたの。

その一方で、良ちゃんには、八重ちゃんが東京に出てきたいって言ってると、上手く話を作ってそれで何とはなしに一緒になる事になったわけ。だから、両想いとか、本当に好きで好きで、とかいうのとはちょっと違ってたわね。

su6.jpgお付き合いを始めた頃には、主人は近衛騎兵、兵隊さんね。その時は中尉でした。大学卒業してすぐ士官候補で採用されたので、戦争には行くことはなく、天皇陛下をお守りして、馬に乗っての護衛隊をしていたの。

                 近衛兵時代の夫・良之助さん →

近衛騎兵というのは、きちんとした家柄でないとなれなかったのに、なぜ主人がそれになれたかというと、顔がでかくて立派に見えたからだ、とみんなして言っては笑っていたのよ。でも、本当だと思うわ。背は低かったけれど、顔は大きくて堂々としてたからね。主人の父は象牙の彫刻家で、その息子では絶対なれないはず、と周りは言ってたわね。

近衛騎兵を辞めた後は・・・

戦争が終わってから、主人が仕事をいくつ変わったか覚えてないくらい。看板はいいんだけど、内容が悪いから続かなくてね。しょっちゅう仕事は変えてたわね。

まずは、聖跡桜ヶ丘という所で、喫茶店を始めたの。駅を降りてすぐの所に家を買ってね。私達の縁結びのおばさんの造り酒屋がつぶれたのね。おじさんが空襲で亡くなったので、商売を止めて全部売ったのね。そのお金を少し援助してもらい、おばさんの家の近くの土地を買って喫茶店をやりながら3人の子育てをしたわ。主人のもとへ両親も来たから、ずっと7人暮らしでしたね。主人は一人っ子だったから。喫茶店はほとんど私がやっていたの、主人はお勤め。

主人は今の帝国データバンクの前身となった興信所にも勤めていました。採用にはなったんだけど、顔が大きいから尾行なんかしてても、すぐばれちゃって、それでたぶん首になったんでしょうね。上司と喧嘩したとかも言ってた気がする。その片手間に喫茶店をたまには手伝ってもいましたね、当時は。

その喫茶店も結局儲からなかったわ。主人は元々浅草の人なので、下町に帰りたくて仕方がなかったみたいです。それで、そこを売って、荒川に戻ったわけ。そこで、また違う仕事をするわけね。今の東京女子医大の第二病院そばで、中学時代の友達に担がれて運送会社を始めたのね。三人くらいでの共同経営だったと思う。一人っ子だったから、貧乏人のおぼっちゃまだったのね。この運送会社も長くは続かなかったと思う。潰れたというより、まあ解散したのかな。

その後、また運送会社を、今度は一人で始めたのよ。出資者がいたからやれたんだと思うけど、それも長くは続かなかったわね。事故があったのが発端で、それで傾いてしまったの。

根付師だった義父の事

su7.jpgでも、いつも食べるには困らなかったわよ。おじいちゃんがいたから。主人の父は象牙の彫り師で、根付とか彫っていました。その当時は海外にも輸出していましたから、貿易商人でもあったのね。それなりにお金があった人だから、一緒に暮らすようになってからも、ちょくちょく援助はしてくれました。

お義母さんは、もともと知っている親戚のおばさんだから、喧嘩なんかしたことなかったわね。おっとり屋さんで、のんきな人でしたね。お義父さんにお妾さんがいても、周りや私達が気づいているのに、お義母さんだけ気がつかないの。

お義父さんは一晩だけ泊まって、必ず翌日には帰ってくるんです。手編みの赤いマフラーをして帰って来た時は、みんなわかってるから黙ってるんですが、お義母さんは「あら、素敵なマフラーね。買ったの?」とか言うんです。だから私はその場に居づらくなって、お勝手に逃げ込んだりする事もあったわね。その次の時は、今度は手袋。あらあらと、またお勝手へと逃げたわ。

そんなこんなで、私がお妾さんのことを知ってるものだから、お義父さんはぐうの音も出なかったと思うわよ。おかしかったわよ、いろいろ(笑)。

でも、お義父さんは、子どもの頃には神童と言われていたくらい、本当に頭のいい人でした。私は、いじわるされたこともなく、苦労もなかったわね。

もし私に文才があれば、こういう事を本にしたかったと思うこともあります。それを主人に言ったら、「すごい恋愛をしたとか、ものすごく面白い事がない限り、本なんか書けるものではないんだぞ」と叱られたことがあるのね。それはすごく良く覚えているの。

一番好きなのは、日本舞踊

6歳から習い始めた日本舞踊が一番好きでした。何故かって言うと、お三味線も歌も習ったけど、そんなに上手くなかったからなのよ。踊りだけはお師匠さんに褒められた事もあり、好きでしたね。姫路の方に習いに通ってたけど、やめたり、また通いだしたりして、そのうち戦争が広がって断念したと思います。


でも今でも踊りは大好きで、NHKの「古典芸能」なんかたまに観てますよ。

水墨画は今も描き続けています

それから趣味で続けているのは、水墨画ね。60歳で始めて、東京の方では、ずっとお花を描いていたけど、こちらに来てからは先生がお花は描かないのよ。景色っていうか風景画よね。週2日、隣町の須玉の方まで送ってもらって習っているんだけど、初めて出展した時は「大賞」をいただきました。上から4番目の賞だけど、この辺では生徒さんが80名位しかいないから、大した事ないのよ。東京では生徒さんがもっと大勢いて、一度だけかな、賞をいただいたのは。あまり大きな声じゃ言えないけどね。

2度目の展覧会では下から4番目の賞で、前より落ちちゃったのよ。でも描いていると気持ちも落ち着くし、夢中になれるから好きで続けてるの。


水墨画も習いに行けて、本当にもったいないくらいの生活をさせてもらってます。最後にこんな風に静かに幸せに過ごせるとは思ってもいなかったですよ、本当に。

娘夫婦には本当に感謝しています。私のために建て増しをして、日当たりのいいこの部屋も用意してくれたし、幸せ者ですよ。長生きして本当に良かったです。


あとがき

鈴木八重子さんの聞き書きをさせていただいたのは、 かれこれ5年前になります。彼女は、私の山梨の別荘近くに住む友人のお母さまで、頭のしっかりされたかわいいおばあちゃまです。こちらからお願いしたのにもかかわらず、仕上げる事もないまま月日が経ち、今年百歳になられる八重子さんの「祝百寿」を記念して完成させるに至りました。

ご近所の方がたくさん集まる賑やかな家で、来客があると自らお部屋の方から出てらして、端の方にすわって、ニコニコしてはみんなと会話を楽しんでいたのが印象的でした。猫好きで、娘さんがもともと飼っている猫をご自分の部屋に呼ぶのですが、なかなか長居をしてくれないのが寂しいのよ、とおっしゃるところなどは、とてもおちゃめでかわいく、私もこんな風に歳が取れたらと思いました。

絵がご趣味で、居間には彼女の日本画が季節ごとに飾られていて、その説明をされる時が少女の目になって生き生きとされていたのを思い出します。

su11.jpgちなみに今回の表紙は、八重子さんの作品の中の一枚ですが、偶然ご本人、娘さん、私の三人揃って一番好きな絵でしたので、この「ひなげし」を背景に入れました。ちなみに、「日本南画院展」で入選した80代の時の作品だそうです。

                       左から、豊島・八重子さん・娘の麻里さん

後日改めて撮らせていただいた次頁の写真の後ろの壁に貼ってある水墨画は、現在進行形のもので、ご自分の部屋から外の景色を描いたものだそうです。百歳になられても意欲満々なのには脱帽です。

大正・昭和・平成・令和という激動の中を生きてこられ、大変なご苦労もされているかと思いきや、のんびり穏やかな話しぶりで、「私の話なんか何も面白い事なんかないし、そんな記録に残す事なんか・・」とはじめのうちは謙遜されていましたが、次から次へ興味深い話が飛び出してあっという間の2時間でした。

今年の夏の八重子さんのお誕生日には、町の小さなイベント会場で、水墨画の展覧会を開く計画をしているそうです。もちろん八重子さんには内緒で着々と進めているそうですが、私も是非駆けつけたいと思っています、この冊子をお祝いに持って。

令和3年5月吉日    ききがきすと 豊島道子




posted by ききがきすと at 15:33 | Comment(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月04日

記憶の壁博物館 〜アフリカの人たちの記録〜

かたりびと:アイマコス・シンガ・オコフ・アビバ
ききがきすと:清水正子
編集担当:鶴岡香代

はじめに


私(清水正子:ききがきすと)と語り手 アイマコスとの出会いはガーナのケープコーストという街です。


年ほど前、ガーナに滞在する機会があり、そのとき読んだインターネットの記事に『ガーナで活躍する女性たち』という見出しがあって、アイマコスは米国で手掛けていた仕事をやめてガーナに「帰ってきた」ひととして紹介されていました。


しかもケープコーストという歴史の長い土地でホテルを開いているという説明です。早速観光局に手紙を書いて紹介してくれるよう依頼すると首尾よく連絡がとれて、滞在していた首都アクラから200q離れた土地へと心勇んで出かけたのです。


ギニア湾に面した海岸の街へ着き、まずケープコースト城を訪ねました。ここは、反ヒューマニズムの意味城塞写真.jpgで世界遺産に登録されており、貿易の拠点であり奴隷収容所でもあった場所です。その悲惨な説明を聴きながら城塞の内部を見て回った私は、絶句するばかりでした。


表紙の写真のとおり、城は音たてて荒波が打ち寄せるギニア湾に突き出た場所にあり、黄金や奴隷を積み出すのにこの上なく便利な立地だったのです。15世紀から19世紀前半までヨーロッパ各国はこの城の他にもガーナ海岸に20か所以上の砦を築き、植民地をめぐる覇権争いのため攻防を繰り返しました。


ただし「便利」というのは欧州諸国の軍人、貿易商にとっての意味です。この中に奴隷として閉じ込められた日々を想像すると、それだけで真っ暗な気持になりました。平和な暮らしから突然囚われの身となり、くびきに繋がれて長い間歩かされたあと、窓が高所にひとつしかない穴蔵のような部屋にギュー詰めに押し込められて何か月も過ごす。


そして奴隷運搬船が着くと、船底の棚にしばりつけられて寝たまま苦しい航海をし、その先は奴隷として買われて一生働かされる。そんな自分たちの運命を思い、どんなに絶望的な気持であったか想像にかたくありません。反抗的な囚人を餓死させるための部屋の扉には、ドクロのマークがありました。


打ちのめされた気持ちで見学を終え、再びクルマに乗って10分くらいで、訪問先のホテルに到着。しかし約束してあった アイマコスはおでかけで、ホテルの前庭にすごい波音で打ち寄せるギニア湾の海と、敷地のヤシの木の実をさおで落とす現地の人をぼーっと眺めて待ちました。


やっと帰ってきた彼女に、突然「あそこにミュージアムがあるから見て頂戴」と言われて訪ねたのが、タイトルでもある「記憶の壁博物館」です。これは10年ほど前に アイマコスが今は亡き夫とともに集めた写真を壁いっぱいに展示した自宅の一角を,そのまま資料館としてオープンしたものにすぎません。


さっき見てきた城塞の恐ろしい姿がしっかりと根をおろした私の心に、人間を奴隷という存在におとしめて、その人生をふみにじりながら繁栄した世界の実体がしみいるように理解され、逆にいかに黒人が人類の祖として誇らしい存在であるか、という アイマコスの主張に圧倒されて見学を終えました。


欧州各国がガーナ海岸に点々と築いた数多くの城塞。その中のケープコースト城とエルミナ城を湾の向こうににらみつけて、「二度とそんなことが出来ないよう、見張ってやる!」という心意気、これこそが、彼女がガーナに帰って、この土地を永住の地に選んだ理由なのです。彼女は「アフリカの黒人」とか「米国の黒人」という言い方はしません。「黒人」は人種でも国籍でもなく、ただの肌の色に過ぎない、アフリカにルーツを持つ人間は、世界中どこに住もうが「アフリカ人」だという主張なのです。


アフリカの人々の歴史民俗資料館としては、公の機関がもっと立派な公開の場をつくっているのかもしれません。しかし、 アイマコスという誇り高いアフリカ人が心を込めて公開に供している、この「記憶の壁博物館」を訪れることができた自分は、なんという好運に恵まれたのだろうと思うのです。


彼女の語りをビジュアルに補足する写真や絵をすべてここに掲げることができないのは残念ですが、館内に満ち満ちた「アフリカ人」の情熱を少しでも感じていただけたら、眼の回るような日程でこなしたインタビューの成果として、心から嬉しく思います。


ききがきすと・清水正子


ようこそ「記憶の壁博物館へ」

アフリカの人たちの記録――「奴隷売買の時代から現代まで」


反抗奴隷を閉じ込め、餓死させる牢.jpg反抗奴隷を閉じ込め、餓死させる牢

ホテルの庭から湾の向こうにケープコースト城と、同じく奴隷城塞アルミナ城をのぞむ.jpgホテルの庭から湾の向こうにケープコースト城と、同じく奴隷城塞アルミナ城をのぞむ 

ビーチのそばに建つガーナ民家風コッテージ.jpgビーチのそばに建つガーナ民家風コッテージ

ホテル前庭のヤシの木の列、その豊かな実を1本のさおで巧みに落とす人.jpgテル前庭のヤシの木の列、その豊かな実を1本のさおで巧みに落とす人

この博物館は、アフリカ人ばかりでなく、世界中の人たちにアフリカの歴史を分かってもらうためにつくりました。ガーナも含めアフリカ諸国では、アメリカで生まれた一般のアフリカ人については知られてなくて、あっても間違った知識ということが多いの。


アメリカ生まれのアフリカ人自身でさえ、この博物館に展示された事実に触れたこともない人が圧倒的ですね。だから、この私設博物館にはできる限りの情報を集めました。規模は小さいけれど、奴隷売買の時代とそれ以降にアフリカ人がこうむった運命を少しでも知らせたい、というのが私の願いです。


家畜なみに扱われたアフリカ人


アフリカ人が北米、中南米に連れ去られたあと、どんな仕打ちを受けたか。この写真はオークション会場。町中に貼られたポスターがこれで、「黒人売りますコットンと米の耕作用」。アフリカ人はここに連れてこられ、競りにかけられ、高値を付けた人間に買い取られた。


二グロ.jpgまた、クー・クラックス・クラン団の手にかかることも…白いシーツを着た白人が私たちを脅迫し、生きたまま火を点け、殺し、強姦し、あらゆる残虐非道なことをしたのね。この写真は農場でサトウキビを刈るアフリカ人がキビをかじらないように、顔に鉄格子のお面をかぶせたものよ。


「ニグロ売ります」「ニグロ在庫あり」の張り紙の実物がこれ。これを見た人がやって来てニグロを検分するわけね。例えばこの一枚には「ハムステッド州のスプリングヒルで競売開催、クレジットも可」と書いてあって、即金でなくても12か月の月賦で奴隷を手に入れることができたんだから。この横のポスターは「上物の9人の男と少年、12歳から27歳。洗濯と料理上手な43歳位の女」とうたっているもの。


ここにある写真は虐待されたアフリカ人…。背中に付けられた刻印は入れ墨ではないのよ、ムチで打たれてこうなったの。その傷に塩をすり込んだから傷口は治るどころか反り返って、こんなケロイドとなって残ったわけ。こうした数々の残虐なことが行われたのね。ここにも「黒人競り売り」の看板があります。今まさに売られようとしているアフリカ人の写真を見てくださいな。こんなアフリカ人の歴史を知ることこそ重要で、奴隷問題の真実を世界中の人たちとシェアする必要があると思うの。


私の神殿

このコーナーは先祖を祀るもので、私の「神殿」ね。ここに置いてある石はあの奴隷収容牢獄の壁から削り取られたもので、私は“涙の石”と呼んでいます。現在壁はきれいに削られてセメントと塗料で白く塗られています。あれはただの修復作業。伝えるための保存ではないわね。1993年にエルミナ城とケープコースト城でなされた工事で、遺跡の原型は失われてしまった。私はこれに抗議して「黒人の歴史を白塗りにして消し去るのか?」という論文を発表してやったわ。


地下牢.jpg

荒波が外壁に打ち寄せる音だけが聞こえる地下牢の狭い部屋に、ぎっしりと押し込められたまま、「船積み」されるのを待った。


アフリカ人先祖への鎮魂


このコーナーは、アメリカで生きて死んだ先祖への鎮魂なの。1995年、ニューヨークのフェデラル・プラザの跡地に高層ビルを建てるため、敷地を掘っていた作業員が一体の遺骨を発見、そこで掘り進んだところ500体を越える遺骨が出てきた。つまりこの地は墓地であったことが分かり、遺体はそのまま埋められたものや、箱や棺桶に入れて埋葬したものもあると判明したのです。


発掘後遺体はワシントンDCのハワード大学病院に運ばれ、検査の結果ほとんどの遺骨が、ガーナ、ナイジェリア、シェラレオネ、リベリア、ガンビア、ベニン、トーゴという7つの西アフリカ諸国のものと判定されました。


遺骨のふるさとが明らかになったところで、改めて埋葬が行われたのだけど、ガーナ出身でこの再埋葬に携わった若者は、棺桶を伝統的な民族の「アディンクラ」模様で飾ってあげたそうです。

*「アディンクラ」とは特別な意味をもつ伝統的な模様のこと(ghanaculturepolitics.com/より


  平和.jpg親子.jpg勇敢さ.jpg



棺は地下祭室に収められ、この地下祭室が地面の下へ埋められて地上には低い丘が築かれたの。この写真にあるように、今では繁った木々や草花に彩られた丘に、さまざまな地下祭室が祀られているわ。ウォールストリートの高層ビルの下にはまだ20,000人を超えるアフリカ人奴隷が埋められているということだけど、この整備された墓地は本当に美しく、見る価値があると思うわ。ニューヨークを訪れる機会があったらぜひ行ってみてくださいな。


墓.jpg

たくさんのアフリカ人が眠る公園墓地


アフリカ人の才能――音楽、ダンス、そして文学も



マイケル.jpg展示はいろんなコーナーに分かれていて、ここにはボブ・マーレー、ビリー・ホリデー、エラ・フィッツジェラルド、ジェームス・ブラウン、といった歌手の写真が並んでいます。このニーナ・サイモンは米国の人種差別政策への抗議の歌を唄い、反対運動をしたため業界から干された人物。そしてマイケル・ジャクソン、ハリー・ベラフォンテは言うまでもないわね。


キャサリン・ダンカン、ジュディス・ジェイマーソンなどの舞踊家の写真もあります。皆米国の人種差別政策に抗議の声をあげたことで「共産主義者」のレッテルを貼られ、とくに大物のロブスンやボールドウィンはアメリカに居られなくなったの。


次のコーナーは、「偉大なアフリカの思想家」と呼ばれる人たち。自分自身奴隷であって、奴隷制度廃止論を唱え、奴隷制度反対運動のリーダーであったフレデリック・ダグラス、アフリカ人で初めて1967年に最高裁の判事となったサーウッド・マーシャル。ジョン・H・クラーク、財務大臣ウィリアムズ、ベン・ヨハナン博士。学者としてはポール・ロブソン、ラングストン・ヒュー、ジェームス・ボールドウィンなどの顔もあるでしょう?


夫ナナ.jpgそして私の夫ナナ・オコフと7歳になるひ孫のナナの写真がこれ。夫のナナと私は、1990年に同じアフリカ観をもってガーナに来たわ。私は彼を偉大なアフリカ思想家のひとりと言っています。残念なことに2000年に首都アクラで交通事故のため亡くなったけど、ナナのことは心から誇りに思っています。

注:ナナとは尊称で、当地の人に推されて首長となったためこの名称で呼ばれる。


米国社会で頭角を現した女性たち


ライス.jpg初めて国務長官になったC・ライス、初めて国会議員になったB・ジョーダン、学校を創立したM・ベシューン。どの女性も誇らしいけど、ベシューンは白人が捨てたゴミを5ドルで買い取って、それを元手に現在あるベシューン・クックマン大学を創設したひとなの。


ここにあるのは、アフリカ人のパイロットたちの写真よ。「ツキギー・プロジェクト」から生まれた英雄たち。アメリカ合衆国はアフリカ人(黒人とも呼ばれたけど)が飛行機のメ ンテナンスはもちろん、操縦など絶対できないと考えていた。米国人は私たちアフリカ人が、精神的にも肉体的にも飛行機を扱う素養がないと考えていたの。そう、彼らは私たちの能力を否定していた。


パイロット.jpgところが1941年に米国議会の正式な要請によって、合衆国戦時局が米国南部アラバマ州のツキギーに、後に伝説となるパイロット養成機関「ツキギー実験機関」を創設して、ここに全員が黒人である「オールブラック部隊」が結成されたわけ。これより前には、軍のパイロットにはただのひとりも黒人はいなかったそう。


1941年から5年間、ツキギーで992人が訓練を受け、そのうちの445人が海外に派遣されて、150人が戦死しました。この人たちはほとんどの白人パイロットよりも腕が立ち、あらゆる点で優れていたそう。


当時アフリカ人に供与された飛行機のコンディションはひどいもので、飛行機がバラバラにならないように噛んだチューインガムで接着していた、と言われたぐらいなの(笑)。こんな状態が長く続いたけど、最後にはちゃんとした飛行機が供与されたそうよ。よかったわ。


けれど、空軍として無敵の活躍をした約300名のメンバーに、合衆国が「議会名誉勲章」を授与して栄誉をたたえたのは、残念ながら、やっと2007年になってからのことでした。もうほとんどの隊員は亡くなっていて。だからこのコーナーは「ツキギーの空の男たち」にささげたものなの。


このように空を飛んでいた頃の写真、そして老後の姿もあわせて展示しています。彼らが実際に操縦していた飛行機の写真も、機体に残した自筆のサインの写真もあるの。そう、わたしは隊員たちをものすごーく誇りに思っているわ。こういう本物の歴史は皆に知ってもらいたいから、これからも写真を手に入れ次第展示に加えていくつもり。


そしてアフリカ大陸にも―――アフリカのリーダーたち


エレノア.jpgこの壁一面はアフリカのリーダーたちの写真です。アフリカの女性で初めて大統領になったリベリアのエレノア・ジョンソン。それから私が会ったジンバブエのムガベ大統領、南アのムベキ大統領、ガーナのローリングス大統領、ジョン・ク フオ大統領にもジョン・ミルズ大統領にも会いました。


米国に居たときは大統領に会うどころか近づくこともできなかったけど、ここアフリカでは大統領と握手し、座っておしゃべりもしたものです。だから私はアフリカが好き…いえアフリカを愛しているということね。

*写真はエレノア・ジョンソン 大統領就任式で


心ふるえる画 「奴隷貿易」


14歳少年の絵画.jpgこの絵は、14歳の少年の作品で、アフリカ人が村から誘拐され、鎖にしばられ、数珠つなぎにされて何百マイルも歩かされ、地獄のような奴隷船に乗せられてアメリカに連れていかれる場面を描いたもの。もう一枚も彼が「大西洋アラブヨーロッパ奴隷貿易」を描いたもので、この画家の才能を物語っているでしょう?


彼はいま首都アクラでグラフィックアートの世界で身を立てようとしています。この才能を支援したいなぁと思っているところ。もし作品を見る機会があれば、彼がディズニーと同レベルの腕をもっていることが分かると思うわ。いや、もっと上かも。スポンサーか支援者を見つけるのはむずかしいかもしれないけど、彼は一生懸命努力しているところね。


アフリカの子どもたち…その明るい笑顔を伝える


子どもたち.jpgこの壁にはアフリカの子どもたちの姿が集めてあるの。アフリカの子どもたちの紹介記事や写真は、たいてい戦争の最中のもので、餓えていたり、物乞いしていたり、口にハエがたかっていたり。そういう場面が多くて、アフリカ文化 に包まれた美しい姿や、幸せな表情を見ることができるものはほとんどないわ。


この有名な、瀕死の幼女とその死を待つハゲタカの写真を撮ったひとはピュリッツァー賞に輝いたけど、撮影の1、2年後に自殺してしまったわね。アフリカに関する報道はかならず悲劇的だったり悲哀に満ちたもので、本当のアフリカの姿をめったに発信してないのが普通だから、私はこの壁を幸せなアフリカの子どもたちに捧げたいの。


アフリカ人による発明の数々

――それを発見し世界に知らしめる


このコレクションはアフリカ人の発明を集めたものです。モップ、ちり取り、電球のフィラメント、ゴルフティー等々すべて米国居住のアフリカ人が発明したものよ。私は、この写真の若い女性サラ・シャバスと協力し長い年月をかけてアフリカ人の発明品を探し、発掘してきました。サラは移動博物館の学芸員で、カリブ諸国、米国、ヨーロッパ、アフリカを回って、こういう情報を発掘し、発明者が暮らす国の人にも海外にもこの事実を発信してきた女性なの。


そうして集めた資料は500点にものぼり、発明者と発明品の等身大の写真がコレクションに収まりました。何年か前の調査では、ワシントンDCの特許・商標局に登録されたアフリカ人による発明登録は7,000点超だったけど、現在では確実にこれよりずっと多くなっていると思うわ。


アスリートたちの抵抗


タイソン.jpgこのコーナーはアスリートの紹介です。米国メジャーリーグ初のアフリカ人選手ジャッキー・ロビンソン、ご存じのテニスコートの女王ウィリアムズ姉妹など。 そしてモハメド・アリ。元の名をカシアス・クレイと言いますね。

米国が彼を戦場に送ろうとしたとき、アリは「ベトナム人はだれも俺を“黒い奴”と呼んだことがない。もしベトナム人がここにやってきたら、俺は戦うさ。でも俺のほうからあの国に行くことはしない」と答えた。それで米国は彼からチャンピオンベルトを取り上げたわけ。

だけどいくらベルトを取り上げて5年間試合出場禁止にしたところで、彼が私たちのヒーローであることには変わりがないのよ。


メダルを賭した抗議


抗議.jpgここにあるのは1968年のメキシコオリンピックのときの写真です。このふたりはオリンピックの金・銅メダリストで、表彰台にあがったときの姿は、靴を脱ぎ、黒いソックスに黒い手袋をしていて、米国の人種差別政策に抗議する姿勢をアピールしたの。結果はメダル剥奪と国外追放でした。仕事にもつけないよう、本当にひどい扱いをしたのです。

注:世界記録で優勝したトミー・スミスと3位につけたジョン・カーロスが行ったこの「ブラックパワー・サリュート」は、近代オリンピックの歴史において、もっとも有名な政治行為として知られる。(ウィキペディアより)


米国の統合政策(学校への入学を人種の比率で割りあてるなど)は在米黒人に一番悪い結果をもたらしたと、私は思っています。差別は同じように残り、隔離された平等という社会になっただけ。だけど平等といっても白人は何もかも所有し、私たちには何もなし。あったとしてもごく僅かという状態です。


むかし米国中で起こった黒人社会の隆盛は、アフリカ人ないし米国生まれのアフリカ人が集まって自分たちの社会を作った成果で“ブラックウォールストリート”という言葉まで生みましたが、そこに白人がやって来て何もかも破壊したのです。懸命に働いて作り上げた銀行、教会、学校などあらゆるものを羨んで壊し、多くのアフリカ人を殺し、空から爆弾を落とすことまでやったのです。私たちは米国内で爆撃をうけた唯一のコミュニティですね、これが1921年に起こったことです。


注:20世紀初頭、オクラホマ州タルサのグリーンウッドは、当時、最も繁栄した、アフリカ系アメリカ人の裕福な街だった。白人との取引関係が一切ないこの商店街は、1910年の石油による好景気でさらに活発となり、やがて“黒人のウォール街”つまり「ブラック・ウォール・ストリート」と呼ばれるようになった。これを目にする白人系住民の差別感情、嫉妬心は爆発寸前だった。「タルサ暴動」として記録される暴動が発生したのは、1921年の5月31日と言われている。破壊されたのは、21の教会、21のレストラン、2つの映画館、30の食料品店、病院、銀行、郵便局、図書館、学校、法律事務所、バス、民間飛行機も。また黒人所有の飛行機が盗まれ、空から爆発物を投下するのに使われたとも言われている。(ウィキペディアより)


何事も成功に至るには、お金がかかります。他国の人間がやって来て資源をほとんど持ち去り、わずかなものしか残していかなかったとしたら、盗られた国の人間は生き残れると思いますか?それは本当に難しい、そう思うでしょう?


これが私たちの国アフリカに起こったことなんです。だから、いまだに私たちは経済のランクでいうなら最貧状態で、底辺にあえいでいる…これは私たちが知的レベルで劣っているからではない。この写真の少年は、子宮摘出の手術用に縫合器具を発明したのです、わずか14歳で。医者でもなんでもない普通の少年がですよ。資源ばかりでなく、奴隷売買のために人間が連れ去られることがなかったら、アフリカの国々は多くの才能を花咲かせて遥かに繁栄していたことでしょう。


アフリカこそが人類の起源


ネフェティティ像.jpgこのコーナーは私の大好きなエジプト…その歴史はヌビア人としてのアフリカ人の歴史でもあり、エジプトではアフリカ人ではなくヌビア人と呼ばれています。墳墓に祀られた人たちは明らかにヨーロッパ人ではなく、多くが私たちアフリカ人の面影を宿していて、この有名なネフェティティ像も、ヨーロッパ人でもアジア人でもなくアフリカ人そのものの顔立ちでしょう?


私は経営しているホテルの各部屋のインテリアとして、アフリカ人歴史家のことばを飾っていますが、そのなかのジョン・H・クラーク博士のことば「わたしはピラミッドより老齢であり、人種そのものより歳を重ねている」は、「わたしは子孫ではなく先祖なのだ」という意味なのね。


人類の一番古い種は、ここアフリカの大地で発見された、つまり私たちアフリカ人はそもそもの初めからここにいた。そうして強大な力を持った王と王妃がいた。それがエジプトの歴史であり、さまざまな王朝が生まれたけれど、すべてアフリカ人が興したもので、これが3~4,000年も前にあったことだったんですから。


キリスト、そしてマリアの本当の姿は黒い肌だった


ここはキリストのコーナ。キリストがアフリカ人だったことの説明です。聖書や古書を読めばジーザスと呼ばれた「人の子」の説明があり、黙示録第一章に彼の髪は子羊の毛のようであり、濃い黄銅色、オーブンで焼かれた真鍮のような色であると表現されています。でも、この説明に沿った絵はまったく描かれることはなく、常に白人のイエスが茶色やブロンドの髪の毛で登場しているのです。


そこで私の夫が自ら、本当のイエスの姿をカレンダーに描いて『イエスは黒い肌のアフリカ人だった』と主張しているのがこの作品です。


ちょっと離れた、この壁にもアフリカ人のマドンナの肖像が掲げてあるでしょう?これが私たちの理解するマリアです。さきほどキリストのことでも説明したように、聖書の描写にきちんと基づいて描かれると、マリアはアフリカ人なのです。


博物館展示を見終わって


“敵はいつも二度殺す。二度目は無言で”

このことばは、ガーナでUNESCOが主催した「奴隷ルート会議」で配布された冊子に書かれていました。ガーナをはじめとするアフリカ諸国で、外国人がわずかな代金と引き換えに鉱物資源や土地を搾取していることの告発です。そう、私たちは一度殺されたうえに二度目(いま)も静かに殺されているようなものなのです。


ルーシーという命名に見られる西洋の傲慢


アフリカのナイル川沿いの谷で女性の遺骨が見つかったとき、発見者はそれをルーシーと名付けたわ。これを見ても西洋の人間がどんなに傲慢か分かるというものです。遺骨は古いアフリカの層でみつかったのよ、だれでもルーシーでなくてアフリカの名前を付けると思わない?ルーシーなんてその遺骨の女性にはなんの関わりもないもの。


ハリケーンについてもそう。ハリケーンはアフリカの海で生まれて、奴隷船が通ったルートそのままにアメリカに向かう。ぜんぶアフリカ生まれのハリケーンなのに、トムとか、ジョージ、メアリー、シンディなんて名付けられる。そうじゃなくてコフィ、アマ、クヮベナみたいなアフリカの名前にすべきでしょう?なのにそれは絶対に無くて、みんなアングロサクソン系の名前よ。


「黒人」ではない--―大切な存在の私たち「アフリカ人」


白人は、肌の色や服装や宗教が自分たちと違っているというだけで、アフリカ人を劣っていると言うの。米国では「ブラック・アメリカン」と呼称されるけど、ブラックは肌の色に過ぎなくて人種や国籍を意味するものじゃない。どこで生まれようと、どこに住もうと、私たちはアフリカ人ですもの。


こういう西欧人の傲慢さはあらゆる点に見られるわ。そこで私たちは何をすべきか・・・私は世界中に訴えるなんてできないから、自分なりに発言するだけ。おのれを知り、自分の大切さを知ることが重要だと思うの。私たちはこの世界で大切な存在なの。もし自分が取るに足らない存在だと思ったら、他の人を尊敬することもできるはずないでしょう?


なかには「私は取るに足らない人間で、この世のつまらない存在です」なんて言う人がいるけど、私は「自分はアフリカの母、大地の女王よ」と応えるわね。私の名前アイマコス(IMAHKÜS)のIは神とともにある私、Mはマザー、Aはアフリカだから私はアフリカの母というわけ。もちろん、そんなこと知らない人のほうが多いかもしれない。でも関係ないわ。



大好きなアフリカに帰って

著作.jpgそもそも夫と私を、ガーナ訪問のグループ旅行に誘ってくれた人はナナ・オサバリンバ5世というこのケープコーストの王様なの。彼は王位を継ぐために米国からガーナに戻った人で「私たちはアフリカの子どもたちであり、アフリカに来るべきなのだ」と言い、その通り私たちはアフリカに来ることになったのね。いわば私たちの父のような存在なので、彼の写真もここに掲げてあるのよ。


まぁそうはいっても、これはガーナに来る動機の一部であって、私は米国が好きじゃなくて、ほんとアフリカが大好き!これまで本を3冊出したけど、一番最初が「故郷に帰るのは生易しくない…でも、こんな幸せなことはない」よ。たしかに生易しくなかったわね。試練につぐ試練だったけど、後悔はしていません。この本の表紙の写真は、ココナツの木の間につるしたハンモックに寝そべって、人生を謳歌している私。そして夫がかたわらにいて…2人とも幸せいっぱいに生活を楽しんでいる光景にしたわ。


とにかくアフリカに住みたい!


1987年にひとりでガーナを訪れ、すっかり魅了された私は、その年の末の夫の誕生日に航空券をプレゼントしてひとりで旅してもらい、1988年、89年と今度はふたりでガーナへ行きました。この三回目の旅の終わりに夫は「みんながボクをチーフ(地域の王様)にしたいそうだ。王様になるってどういうことだと思う?」と私にたずねたのです。エルミナの村に滞在中、住人が抱えた問題の解決に手を貸したりして、皆が彼のチーフ就任を願ったと言うのです。こうして彼はチーフの座につきました。


孫と.jpg孫のバンジーと

私たちは当時ニューヨークで旅行代理店とタクシー会社を経営していました。3週間も他人に留守を任せていたので、私は夫のチーフ就任式のときまで居続けることはできず、「あなたがアメリカに戻る前に、どこか住むのに良い土地を見つけておいてちょうだい。海沿いがいいわ。山から海を見下ろすのはイヤだし海岸に暮らすのも好きじゃないな。海から少しあがったところで、毎日海を感じ、海を見、香りをかいで、海岸まで歩けるような場所を」と頼みました。彼は笑いながら「いいとも、海沿いの土地をさがしておくよ」と約束してくれたんです。


チーフになってアメリカに戻ってきたとき「土地が手に入ったよ。チーフになったら、村の人たちがくれたんだ」と言うではありませんか。なんとその土地とは、私が1987年にひとりで訪れたとき、心から住みたいと願って神様や仏様、あらゆるスーパーパワーに頼んで(笑)念じていた場所だったんです!この美しい海のそばの。そして1990年にやっとガーナへの永住が実現しました。私はここにホテルをつくり、毎日しっかり対岸の奴隷城塞をにらみつけ、二度とあのむごい奴隷売買が起こらないよう監視することにしたの。


私はこれまでずっと好きなことをやってきて、ラッキーだったと思うの。ここガーナという小さいけれど「ひとつのアフリカ」という、私にとってのパラダイスに居られて幸せ…先祖からの贈り物よ。


posted by ききがきすと at 17:28 | Comment(1) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

遠く懐かしい、あの日を想う

  かたりびと:和田俊子さん
  ききがきすと:鶴岡香代
  *編集担当:清水正子

恋して結婚した両親


wada1.jpg私は、高知県の北部中央、山に囲まれた土佐町の相川(あいかわ)、床鍋(とこなべ)というところで生まれました。父は西村兵喜(へいき)、母は森岡ときえといいます。二人は22歳のとき、昔のことではあったけれど、恋愛して結婚したんです。そう聞かされました。


父は、お膳を作っていたの。食事のときの箱膳とか、懐石のときにつかう膳ね。それです。母は紙を漉く仕事を、父の仕事場のちょうど川向でしていたそうです。川を挟んで、「おーい、元気かよ」というふうに声をかけあっていたんでしょうね。


結婚しても貧しかったと思いますよ。二人で一緒に、一から始めたんやからね。嫁ぐときに、母は祖父から、箪笥を一棹とお金をいくらか持たせてもらったそうです。でも、それだけ。父は次男坊で、そのお膳をつくるところへ奉公に来ていて、母と恋して一緒になったんですよね。


子ども時代はゆっくりゆったり


二人が24歳のとき、大正10年8月24日に、私は長女として生まれました。上には兄が1人おり、その後、弟妹5人が生まれて、兄弟姉妹7人。子どもが大勢で、親は貧乏しましたよ。でも、子どもの私たちは、ゆっくりゆったりしたもので、自由気ままに遊んだわ。

家がお膳つくりの仕事でしょう。母も、その頃は父を手伝って、漆を塗る仕事をしていました。だから、きれいな手仕事でしたよ。お百姓はしてなかったので、私たち子どもが、田畑へ行って手伝うなんてこともありませんでした。


私たちの頃は、お弁当を持って学校へ行きましたよ。山の子どもたちのお弁当には、お米の中へ粟や稗なんかの雑穀が入っていたのを覚えています。それを見られるのが恥ずかしいから言うて、裏山へ行って食べる子もいましたよ。


私の家はお百姓をしてないから、お米のご飯でしたけどね。それは貧富というのじゃなくて、親の仕事の関係なんですけどね。少しの土地でも田畑にして、土もつれになってやらんといかん時代は、もう少し後、戦争の足音がもっと確かになってからでしたね。


大好きだった兄の思い出


wada2.jpg兄の淳一(じゅんいち)は、私より一つ上でした。東京で薬局をしている、母の姉がいて、暮らし向きはよいけれど、子どもがなかったの。そこへ欲しいと言われて養子に行ったんです。



兄の淳一さんと


子を産んだことのない伯母が安易に考えて、小学校を出たばかりの兄を連れて行ったけれど、田舎の子が都会の生活に慣れるのは簡単ではなかったんですよね。兄には辛いことが多かったようです。


馴染めなかったというだけでなく、伯母のところで兄は小使いのように働かされたとも聞いています。学校へやってくれるという約束も守られなかったからと、結局、兄は伯母の家を出ました。友達の家を転々として、軒下を借りるような苦労を重ねながらも、頑張り屋の兄は逓信省へ入ることができました。逓信省で勤めながら、杉並工業という学校(*後述1参照)を出ました。


その後、中国の大連にあったタイカ工業(*後述2参照)という大きな会社へ就職したんですが、1年後に召集されて、高知へ帰り朝倉の連隊へ入りました。そして今度は兵隊として満州へ渡ったんです。そこで風邪を悪化させて病死しています。満州のコリン(※後述3参照)というところでした。本当にいい兄でしたけどね、24歳で亡くなったんです。亡くなったときは上等兵でした。


東京で看護婦学校へ


私も学校がすむと、伯母を頼って東京へ出たの。きっかけは、婦人クラブのグラビアを見たことでね。陸軍病院だったか、赤十字病院だったか、看護婦の一日というのが写真で出ていたんです。それを見て、私は「いやー、看護婦やりたい」って言ったのね。とにかく看護婦になりたいって気持ちが高じて、東京へ行きたいとなったんです。


もちろん親は賛成しません。特に母親は大反対でしたよ。昔の看護婦というと医者のお妾さんだったりするって、田舎には、そういう噂もあったんです。だから、母には「家で、普通の娘さんのように裁縫でも習ったら」と言われました。


だけど、東京の伯母が若い頃に助産婦さんの学校へ入って、資格を持って仕事していたので、自分も何かそういう関係の仕事がいいと考えました。自分でなんとかしなくちゃいけないという気持ちもあったんです。


それで、上京してまず、逓信省を受けました。兄が逓信省に行っていたから、やっぱり私も固い仕事をしたいと考えましたから。でも、ダメでね。それで、やっぱり看護婦になろうと、試験を受けました。それで、神田神保町というところの看護婦学校へ行くことになりました。


その後すぐに大きな病院へ入れたので、私には兄のような苦労はなかったですね。東京での看護婦時代のことは、話すだけでも大変なくらい、いっぱいいろんなことがありましたよ。


でも、昔のことで、こんがらがっちゃいますね。まぁ、なるようになったと思うのよ、この年までね。


焼夷弾の東京から故郷へ


wada3.jpgもうそろそろ引き上げて故郷へ帰ろうかと考え始めた、ちょうどそのころ、東京では空襲がどんどん激しくなっていました。昭和20年、焼夷弾が降り始めた東京から帰郷したとき、私は23歳になっていましたね。


看護婦時代、友人と(左が敏子さん


帰郷早々、忙しいので是非にと依頼され、私は高知市内の病院で看護婦をしていました。でも、土佐町の役場から、今度は保健師になってほしいと頼まれたんです。町に保健婦を置かないと農業協同組合の活動にも支障がでるとか言われて、保健婦になれと矢のような催促でした。


昔はとにかく結核が多くて、私も肺浸潤みたいになって、咳が出ていました。だから、保健婦は嫌だと一度は断ったんですが、保健婦がいないと困るからと説き伏せられて、とうとう保健婦の試験を受けることになりました。


ほんの45日間くらいの講習を受けての試験だったんですけど、私は本当に具合が悪くて、最初はダメでした。何回かやって、そのうちに合格し、正式に保健婦になりましたね。


すぐに家庭訪問をしましたよ、保健婦としてね。赤ちゃんや、産後のお母さんのところへ行ったんです。救護班として高知市の方へ行ったこともあります。


空襲を受けてボンボン燃えゆうところへも、私たちは消防団の救急班として入りました。肩に救急袋をかけてね。大きな大きな倉庫へ、じゃーじゃー水をかけるなんてこともしましたよ。煙が出ると飛行機の的になるから、できるだけ早く消火する必要があったんです。保健婦だったからそういう仕事もしました。


高知空襲のときは、恐ろしいなんて気持ちはなくなっちゃってね。子どもを抱っこしたまま防空壕で亡くなっている人もいるし、鏡川の淵には死体が山と積まれてあるしね。「土佐町の救護班として来てるんじゃからね、他のどこへも行っちゃいけない」って言われました。だから、どこへも行かないで、そこで一生懸命救護活動をやりましたよ。


お見合いをして結婚


結婚は早い方じゃなかったですよ。友達とは「あんな人と結婚したい」とか言いながらもね。保健婦になって家庭訪問をするようになって、南川(みなみがわ)というところの学校を訪問することがあったんです。


wada4.jpg校長先生が「あなたは、どちらの出身ですか」と訊かれるので、「土佐町の床鍋です」って答えました。それが主人との縁を結ぶことになったのです。その校長先生が、主人の姉の亭主だったんですよね。


花嫁姿の敏子さん


お見合いをして、結婚しました。主人は、私より6つ上の31歳、私は25歳になっていました。


主人は、なかなかのりこもん(土佐の方言で利口者のこと)でしたよ。私は、自分は知能も器量もたいしたことないと思っていたので、『頭のいい人』というのが結婚相手への条件でした。主人は、頭良かったよ、本当に。


主人は、女の中に一人きりの男の子でね、大事にされて育ったんです。なかなかしゃんとした人でした。お巡りさんになっていたんです。でも、戦争から帰ってからは、役場とかあっちこっちから「来てください」って頼まれても、「もう嫌じゃ」言うて断りました。「あの嫌な戦争をしてきて、もうたくさんじゃ」と言って、職には就かず好きなことを自由にやったんです。


居合やったり、剣道やったりね。だから、結婚しても、百姓をするのは少しだけで、現金収入はほとんどなかったですね。部落長の役をはじめ、なにかしら公のことはどんどんやったんですよ。お金にはならないことをね。


主人とニューギニアでの戦争


人や部落のお世話役っていうのを主人はずっとしました。戦争では、ニューギニアの方へ行ったんです。あそこでの戦いは本当にひどかったですからね。だから、自分が職に就くことよりか、もっと人の役に立ちたいという思いが、いっぱいあったんですね。部落のこと、町のことにね、腐心してやったわ。お金はもうないけどね、みんなに好かれてね。


私たちは、戦後すぐに結婚したでしょう。兵隊に行っていた人たちが、うちへ集まって、あそこで、ここでという戦争のときの話はよくしていましたね。友達がいっぱい来て、いつでもそういう話でしたねぇ。私にも戦争のことをよく話して聞かしてくれましたよ。でも、私はゆっくりは聴けないし、覚えてもなくて、戦争のことでお話しすることはありませんね。


主人は写真屋をやったこともあったけれど、それよりなにより、公益のことをうんと考えて、人のためになることをうんと熱心にやったねぇ。まぁ、男前やし、頭はいいし、他人のことをしっかり考えられる人で、いい人でしたよ。けんど、経済ということを除けての人でしたから、私は、やっぱりね、男性として見るには、腑に落ちんところはありました。


子育てと仕事の日々


子どもは3人います。女が一人と男が二人ね。長女の節(せつ)が一番上で、昭和221026日に生まれています。その下の長男が24年2月16日に。主人が清(きよし)なので、清人(きよと)と名付けたのよね。次男の正根(まさね)は2611月1日に誕生しました。それがね、みんな誕生日が木曜日なのよ。私も、ね。なんだか不思議でしょう。


結婚して、10年は家で子育てをしました。その間、主人はちょいちょい農協へも勤めたりはしましたけど、なかなかお給料もいただいてこないのよ。困った人がいればあげるような人でしたからね。終戦後でみんなたいへんだったでしょう。生活に困るような人がいればあげたいのよね。自分ところはお米もあって何とでもなると思っているの。経済に執着する人ではなかったんです。


wada5.jpgだから、子育てが一段落したら、私が就職して、勤めなくてはしようがないと思いましたね。田畑があったから、えいっと思って、それを全部売り払って、主人には好きなように生きてもらったんです。


    ご主人と仲睦まじく


私はまた、看護婦の仕事に戻りましたよ。本山の中央病院に20年いて、それから大杉の中央病院で10年、いや12年だったかな。生活の面では、私がやるしかなかったんですよね。苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ、やっぱりね。


看護婦として勤務した30余年


その頃の看護婦の仕事は、今とは全然違いますよ。我々のときは、結核が多かったし、赤痢や疫痢という伝染病も珍しくありませんでした。それに、昔は付添いさんがちゃんと患者さんには付いていました。国がそれを認めていましたからね。そこが今と全然違います。


今の看護婦は新しいことをどんどん勉強しなくちゃいけないでしょう。カメラはもちろん、いろいろ新しい機械もどんどんできるし、横文字も使えなくてはね。私たちが東京で看護婦やってる時代は、そんなことの勉強は必要なかっ

たんですから。


あの時代なりに、まぁ、私たちも、やることはやったよね。腸注って、肛門から栄養を入れるなんてことはやりました。注入したんです。口から食べなくなったら、今は胃に穴を開けてやるでしょう。それみたいに肛門から注入する。胃ろうも点滴もなかったですからね、昔は。静脈注射はありましたけどね。


まぁ、勤務した病院は、どちらも入院設備のある大きな病院で、もう点滴とか注射とか、そういうのは普通にしました。でも、今とは治療方法も違うし、今はもうついていけないと思いますよ。なにもかも、どんどん進歩してね。私なんか、横文字も知らないんですから。


ニューギニアへの最後の旅


主人は75歳のときだったか、戦友らのお骨を拾いにニューギニアへ行ったんです。なんとしてでも行きたくて、痛い腰を治療してまで、やっと行ったんですよね。ちょうどその頃、私も股関節で、たいへんな手術をしたんですけど、どうしても行きたいからって。ニューギニアには特別wada6.jpgな思いがあったんでしょうね。


旧陸軍支給の鞄(岡内富夫さん作品)


でも、そこから帰るとすぐ、具合が悪くなって、入院したんです。なんとか退院にはなりましたが、もうずっと調子が悪いままでしたね。心臓発作を起こし、救急車で高知市の近森病院へ搬送されました。いったんは快方へ向かっていたんですけど、見舞客を送ったあとで急変し、心筋梗塞で亡くなりました。


あれほど気にしていたニューギニアへも、もう二度と行くこともできなくなって・・・。他にもやりたいことがあったでしょうにね。いろいろ本も書いているんですけど、何もかも昔の思い出になってしまいました。酒は飲まない人だったけど、タバコだけは吸っていましたよ、主人は、ね。


今の私の幸せ、これからの時代へ


夫が亡くなってからも、私はずっと本山で一人暮らしを続けていました。年金があるから、食べていくくらいのことは困りません。でも、90歳を過ぎた私のことを子どもたちが心配するので、3年前に高知市内のマンションに移ってきたんです。今は、次男と一緒に暮らしています。


長男はアメリカにいて、レストランをやっています。私はアメリカには行ったことはないけれど、向こうには孫も一人いるんですよ。


今日はたまたま、次男が家族のいる東京へ行って留守なので、こちらのケア施設にショートステイに来てお世話になっています。長女も私の近くにいてくれていますから、子どもらの世話になりながら、こうしてやっていけてます。


子どもらがこうして私のことを気にかけてくれて、ありがたいと感謝しています。だけど、子どものことになると、それは私の話ではなくて、他人の話です。子どもには子どもの人生がある。そう思っています。だから、子どもの話はこれくらいにしておきます。子どもらにも失礼になると困りますから。


私は、今、週4日はここのデイサービスへ来て、お風呂へ入れていただいたり、本当によくしてもらっていますよ。致せり尽くせりなの。ここは障害がある人がほとんどでしょう。昔は、家で看るしかなった、そういう人たちを、ここでは大事にしてくれます。本当に大変じゃなぁと思うけどね。


ここへ来て見ていると、みんなが老人を大事に大事にしてくれています。私たちは幸せじゃけど、次の時代はどうなるかわからない。国の介護保険や医療保険があって、やれているんでしょうが、老人がどんどん増えると、これもあれもはできなくなるでしょう。次の時代はどんなになるか、わかりませんね。今が続いて欲しい気持ちはあるけど、どんな時代にも、もう終わりというときはあります。それは仕方のないことですよね。



〈 参    照 〉


※1 杉並工業という学校:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。


※2 タイカ工業:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。


※3 コリン:詳細不明のため確認できず、聞き取ったまま『コリン』と記載。現在の中国東北部黒竜江省の虎林のことかと推測される。虎林は、ロシアとの国境近く、第二次大戦末期、砲声とどろく激戦地となった地でもある。


あとがき


 和田さんとは、私たちNPO法人シニアわーくすRyoma21の高知支部メンバーが、この春から訪問させていただいている本山町の通所介護施設「デイサービス長老大学」で出会いました。今は高知市にお住いの和田さんが、たまたま本山町に帰られており、デイに来られていたのです。


戦病死されたお兄様のことや東京での若い頃のお話を伺い、もっと聴かせていただきたいと願ったことが実現し、この冊子につながりました。本当にありがいご縁であったと感謝しています。


 和田さんは、この年代の方には珍しく土佐弁をあまり使わず、落ち着いた低いトーンで話されます。説得力のある話しぶりは、あの戦争を挟んだ大変な時代を、看護婦という専門性の高い仕事を持ちながら、子ども三人を育てる母として生き抜いてこられたからこそのものと思えます。


また、お話のそこここに、しっかり生きてこられた和田さんならではの言葉が散りばめられています。例えば、『苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ』というところ。思うようにものごとが進まず、自分の周りがなんともほの暗く見えてしまうときなどは、私も、この言葉を思い出して、顔を上げて歩こうと思います。


素敵なお話を聴かせていただき、本当にありがとうございました。


なお、相川の美しい棚田風景の表紙絵と、本文中の鞄のカットは、Ryoma21高知支部の岡内富夫さんに描いていただきました。彩を添えてくださいましたことに、心から感謝いたします。


(ききがきすと:鶴岡香代)


 

posted by ききがきすと at 21:30 | Comment(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月10日

幹太く、空高く 〜馬路の村に生きる〜

 かたりびと:岩城佳子(いわきよしこ)さん
 ききがきすと:鶴岡佳代
 編集担当:舘坂雪枝

朝鮮半島の平壌に生まれる


iwaki1.jpg 私の父・岩城勲(いさお)、母・遊亀(ゆうき)は二人とも、ここ馬路村の出身です。父はたいへんな勉強家だったようで、住友林業という、今もある会社ですけど、そこへ入社しました。当時としては、高知の田舎から入るというのは珍しかったと思いますよ。


父の最初の赴任地は平壌(ぴょんやん)でした。朝鮮半島へと言われて、事前にしっかり勉強をしてから行ったと聞いています。私はそこで昭和7年3月25日に長女として生まれました。でも、赤ん坊のころしかいませんでしたので、残念ながら平壌のことは何も覚えていません。


次の赴任地となった咸興(かんこう)では、小学校卒業までの10年ほどを過ごしました。李朝の文化が残ったとてもきれいな街で、人口は6万人くらいだったかと思います。朝鮮半島が日本の植民地だった時代です。日本の会社がたくさんあって、日本人がたくさん暮らしていましたね。


小学校のことはよく覚えています。制服のセーラー服を着て通学していました。1学年に4組、一つの組に50人ほどの生徒がいましたから、千人を超える大きな小学校でした。建物もそれは立派でしたよ。


北朝鮮の冬はとても寒いんですが、私たちの家にはオンドルがあり、ストーブの火も赤く燃え、部屋の中は温かく快適でした。そこでの私は、のんびりと気ままに、まぁお嬢さんで、何不自由なく暮らしていましたね。


大東亜戦争が始まった


小学校4年生のときに、大東亜戦争が始まりました。初めの1年くらいは、ものすごい戦果で、勝ち戦の大本営発表に街中が浮かれたような感じだったのを覚えています。


昭和19年に父が、今度は清津(せいしん)というソ連との国境近くの街に転勤になり、私は、そこで女学校に入りました。戦争はだんだんと厳しくなり、もう誰もかれもが召集されるという状況で、39歳になっていた父にも召集令状がきました。若い社員の方は先にみな兵隊にとられていましたから、住友林業の広い事務所が年を取った男性と女性の事務員さんだけになり、寂しく心細く思ったことでした。


ちょうどその頃、私たちのところへ「事務所を貸してくれ」と言って、暁部隊という30人くらいの小隊がやって来ました。「どうぞ、使ってください」ということで、見ましたら、その兵隊さんらは武器を持ってないんですよ。鉄砲とか、そんなのもないんです。30人もおいでますのにねぇ。学校では、日本の国は神様の国であるから神風が吹いて戦争には負けないという教育を受け、私自身も信じていました。だけど、兵隊さんが武器を持ってないのを見て、子ども心にも『これは・・』と思いましたよ。


家に父が大事にしていた日本刀が2振りありまして、母が「よかったら使ってください」と差し上げたところ、隊長さんは喜んで持っていかれました。今思えば、その隊長さんは学徒動員。早稲田大学に在学中に動員され、こちらに来ることになったということでした。横浜の青木さん。お名前はそこまでしか覚えていませんが、すっきりした容姿のりっぱな方でした。


今すぐ一歩でも南に逃げよ


その青木さんが、8月の9日に訪ねて来られて、「岩城さん、これは秘密だから公言できないことだが、ソ連が戦争に加わった。ここに居ては危ない。今すぐ一歩でも南に逃げなさい」と、言われたんですよね。


母はもうびっくりして、必要なものだけ持つと、私たちを連れ、会社のトラックで清津の駅まで走りました。その時、もうすでに沖にはソ連の艦隊がずらっと並んで、艦砲射撃をしていました。大砲の弾を打っている様をどう見たのか聞いたのか、ただ夢中でしたね。


清津の駅まで行きますと、そこはもう黒山の人。とても汽車に乗れるような状態ではありません。でも、駅長さんが父と非常に懇意な間柄の方で、「岩城さんのご家族でしたら、何としてでも最後のこの列車に乗せないかん」言うて、窓から放り込んでくれたんですよ。人の上に人が乗ったような状態でしたね。

頼れる知人のいる咸興までなんとかたどり着いて、私たちは汽車を降りました。そして、そこで終戦を迎えたんです。咸興では、いわゆる難民としての生活でした。それまで辛いことが多かった朝鮮の人々に取って代わるように、今度は日本人の私たちが非常に苦しく辛い目にあうようになりました。


だけど、中には人のいい朝鮮の人もいましたよ。その時、一番上の私がまだ12歳。下に8歳、4歳、2歳と、家には女の子ばかり4人の子どもがいました。かわいそうだと思ったんでしょうね。黙ってこっそり食べ物を持ってきてくれたりしました。ありがたかったですよ。


そんな状態ですから、私は母の相談相手になって、しっかりしないと事が足りません。とにかく頑張りました。北朝鮮の冬は零下10度。吐く息で睫毛が凍ったようになる。それぐらい寒いんです。敗戦後の凍える冬、家族5人が1枚のお布団で、こう抱きおうて、お互いの体温で温め合って過ごしました。


38度線の突破を敢行


翌年の春が来て、ようよう暖かくなった頃・・5月になっていたかと思います。「ここに居ては飢え死にするだけだ。山に逃げよう。山道を南下して、38度線を突破するしかない」ということになりました。そのころは、すでに朝鮮半島の北と南を隔てる38度線が設けられ、行き来することはまったくできなくなっていたんです。


私たちは70人くらいの団体で、夜の闇に紛れ、山に入りました。「ソ連の兵隊は、若い女の人を連れて行って暴行する」と言われ、13歳になっていた私は、髪を切り顔へ炭をつけて、男の子になりました。母は2歳の香代子を背負い、味噌と米を入れた袋を腰へ巻いて・・・そうやって、私たちはみな、38度線を目指し、ただひたすら歩いたんです。


昼になると、私は米を鍋へ入れ、谷へ下り、米を洗いました。お水をいっぱい入れてご飯を炊きました。米が少ししかなかったですからね。お粥みたいなのを食べて、少し休んで、また歩いて。日が暮れたら、そこで野宿しました。


山の中で、道らしい道はありません。でも、同じように南を目指す人の通った跡があり、迷うことはなかったですね。中には、ぼろきれみたいなものを木の枝に結んで印をしてくれていたところもありました。


道中のいたるところに死体がゴロゴロありました。「連れて行って、連れて行って」って、すがるような、拝むような、そんな人たちもいっぱいいました。もう歩くこともできなくなって、行き倒れてしまった・・・・そんな人たち。あまり言いたくないことがたくさんあります。


私たちを追い抜いて行った若い人が、捕まって大きな木へ括り付けられて、叩かれているのも見ました。今でも忘れられません。叩いていたのは、ソ連兵ではなくて、朝鮮人の物取りみたいな人だったように思います。おいはぎみたいなものですね。


ようよう越えた38度線


38度線の辺りには歩哨って言うんでしょうか、見張りに立ってる人たちがいるんです。でも、「ここを越えたら」という思いでひたすら歩きました。そんな私たちをかわいそうにと思ったのか、ちょっと甘くみてくれたように思います。


板門店のあたりで、ようよう38度線を越えると、アメリカ人が来て何かしきりに話しかけてきました。でも、英語はわかりませんし、どうしていいのか途方に暮れたことでした。みなが一箇所に集められて、DDTという白い消毒の薬をかけられ、予防注射を打たれました。そこでもらった固い乾パンのこと、難民がそれはたくさんいたことなど、今も忘れられません。


それから、貨物列車に乗せられて、釜山まで。幼かった妹たちを母と二人して背負ったり、引っ張ったり、そうやって帰ってきたんです。その時の本当に辛かったことは、3人の妹たちも覚えています。


復員していた父との再会


召集されていた父は、終戦のとき38度線より南にいたんです。だから、難なく復員し、日本へ帰ってきていました。帰ってはきたものの、家族のことや母の苦労を思い、心配と気兼ねで居ても立ってもいられない気持ちだったろうと思いますよ。でも、どんなに気を揉んでも38度線を越えて北へ行くことはできなかったんです。父も和歌山県の田辺市で住友林業の所長をしながら苦しい思いで家族を待ったと思うんですよね。


母は、4人の娘を抱えて本当に苦労の連続でしたけど、釜山では運よく日本に帰る船に乗ることができました。下関行きのはずが船中に伝染病の方があったため、着いたのは仙崎港という小さな港でした。終戦の翌年、5月末のことだったと思います。


そこには、住友林業の方から連絡をもらった父が迎えに来ていました。母は、「お父さんは、私たちを朝鮮に残して、迎えにも来てくれんような薄情な人やから、もの言うたらいかん」って私たち子どもに言いましたよ。だけど、そんなことじゃないことはよくわかっていました。来たくても、北へは来られなかったんですからねぇ。


まずはふるさと馬路村へ帰る


帰国して、私たちはまず、馬路に帰りました。父方の祖父母はもういませんでしたが、母方の祖父母は元気で、「よう帰ってきた」言うて、それは喜んで迎えてくれました。それから、父の赴任先の田辺市に入り、家族での暮らしが始まりました。


でも、終戦後の食料不足で苦労しました。働いてお金をもらっても、家族のための食料を買うことができない。田舎へ行って、お百姓さんに米など分けてもらっても、帰る途中で押収されたりして、小さな子どもたちを抱えて、両親は本当に困ったようでした。


もうどうしようもなくなり、父は住友林業を諦めて、馬路へ帰る決意をしました。「馬路でなんとかする。製材でもやるか」と言うてました。でも、製材の仕事を始めることにはならず、森林組合に勤めたり、それから村議会にも1期は出たと思います。


そんな暮らしの中でも、私は勉強が好きで、学校へ行きたいという気持ちを強く持っていました。父もそんな私のことをよくわかっていて、「勉強して学校はちゃんと行け」と言ってくれました。


でも、私には、父が裸一貫で帰ってきて、お金がないということが嫌というほどわかっていました。帰国後に、また一人妹が増え娘5人になっていましたので、私が無理を通して学校へ行けば、下の妹たちの教育ができない。そんなことは、言われなくても理解していたんです。


姑となる人に「嫁に来い」と望まれて


自分の行き先をどうしようかと悩んでいたちょうどその頃、岩城の本家から嫁入りの話が出ました。私は旧姓も岩城で、私の生まれた家は何代か前の分家になります。岩城の本家のお母さん、私の姑になる人が、なぜか私を非常に気に入って、「嫁に来い、来てくれんか」って。私のことを朝鮮から苦労して帰ってきたから、仕込んでみたいと思ったようですねぇ。


私の主人は3人兄弟の末っ子ですが、長兄はフィリピンで戦死し、次兄も結核で亡くなっていました。男の私の主人だけが、東京の陸軍士官学校の学生のまま終戦を迎え、村に帰っていましたので、母親にしてみると、『この息子に早く嫁をもらって、家を継がさんと。さもないと、家が絶える』という想いがものすごく強かったんだと思います。


また、嫁さんを仕込むには若いうちがいい。そんな気持ちもあったかと思います。安芸高等女学校の寄宿舎にいた私が夏休みに帰ると、毎晩のように家に来て「学校へは行くよばん(行かなくていい、という意味の土佐弁)。来てくれんか」ってしょっちゅう言ってきました。


そのとき、私はまだ、1415でしたよ。仲人まで立てて、どんどん話を進めるんです。私はただただ困ってしまいました。むげに断って本家の機嫌を損ねたら、父がやりにくいんじゃないろうかとか、いろいろ気に病んだことでした。


女学校の担任の先生にも「どうしたらいいろう」と相談しました。「私は学校へ行きたいんですけど」と。先生は、「そりゃ勉強も大事よ。けど、あなたを見てると、相手の人がいい人だったら、結婚も悪いとは思わんよ」とおっしゃってくださいました。


主人からの手紙で決めた嫁入り


iwaki3.jpgそれでも決心できずにフラフラしていた私のところに、ある日、手紙がきたんです。私宛の封筒で、裏には『岩城勲』と父の名があります。でも、筆跡が違うんです。父の字は知っていますから『あら、これはおかしい』と思いながら封を切ると、主人からのものでした。


若き日の岩城ご夫妻


男女共学が始まったとはいえ、当時は、親以外の男の人からの手紙なんてとんでもないことです。中を見ると、こういうことで、どんどん話が進んでいるということが書かれていて、『でも、おまえは勉強がしたいということで悩んでいることと思う。本当に勉強をしたければ、その道へ進め。けど、もし嫁に来てくれるなら、俺には異存はない。来てもらいたい』とありました。


その後に、『もし来てくれるなら、岩城の家風に沿うてくれ』とか、『親を大事にせよ』とか、まぁ、五箇条の御誓文みたいなことを書いていましたね。それを読んだときに、私は『あぁ、この人は素晴らしい人や。この人に賭けてみよう』と思ったんです。すぐに決心がつきました。


その頃、主人は馬路の農協に勤めていましたので、夏休みに帰ったとき、『あぁ、あの人やな』というように、ちらっと顔を見たことはありました。でも、話をしたことはなかったですよ。後から聞いたところでは、主人は私の妹たちになにかに買うちゃって、なつけていたようです。私への気持ちはあっても、今の人のようにそれを直接伝えるということはできなかったんでしょう。


年は6つ上です。この人はいい人かもしれない。少なくても私の本当の気持ちはわかってくれている。そう思えて、結婚することを決心しました。


先生にお話しすると、「岩城さん、おめでとう。でも、運動会のときまでは、おってや」ということでした。それで、秋の運動会の後、安芸高女を中退しました。勉強はしたかったんですけど、断念してね。


お義母さんはもう喜んで、とにかく来てくれ、すぐ来てくれでした。岩城は庄屋も務めた馬路でも古い家系ですから、本家としては、『ここで絶えたらおおごと』という思いが強かったんですね。それで、翌年の1月にすぐ結婚となりました。新郎、岩城敏郎は22歳。私は、まだ16歳の花嫁でした。


初めての農家での生活、そして百姓仕事


私には百姓の経験はありません。麦や粟、稗なんか見たこともなかったんです。だから、初めは辛いことも多かったですよ。でも、私には5人姉妹の長女だという自覚がありましたからね。婚家から帰るということは絶対にいかんこと。私がそのいかんことをしたら、下々の妹にも影響する。そのような教育を受けたとも思いませんが、やっぱり心の中にそういう一本の芯があったんでしょうね。どんなに辛くても帰られん。ここで頑張るしかない。そう思っていました。


したことがない百姓ですから、どうやっていいかさっぱりわかりません。お義母さんが、こうやれ、ああやれといちいち教えてくれるんですよね。朝は5時に起きてご飯をたかんといかん。


そんな中で、その年の12月には長男の立郎(たつお)が生まれました。子どもを育てながらの慣れない百姓です。初めは、疲れて疲れて。本当にようやったと自分でも思います。


当時、主人は農協に勤めてました。でも、その時分の男の人が給料を妻に渡すということはあまりなかったですね。私も主人からお金をもらったなんて記憶はほとんどありません。嫁ぎ先の両親に支えられて、なんとかやれたんです。


今考えてみれば、よく私にいろんなことを教えてくれたと感謝しています。両親は二人とも立派な人でした。


百姓仕事をしながらも子育てに一生懸命だった日々


19歳のときに次男の弘幸(ひろゆき)が、23歳のときに長女の昌子(まさこ)が生まれ、私は二十歳代を2男1女の母として過ごしました。いつの時代も子どもの世話はしんどくて、母親はたいへんなものです。私も同じでした。百姓が忙しゅうてたまらん。けんど、子どもがお腹がすいちゅうにちがいないと思う。お乳も張ってきてたまらんなる。とにかく早く帰っちゃらないかんと思って、山の畑からだんだん走りながら帰る。お乳を飲ましたら、子どもの顔を見る間もなく、また、仕事に戻る。その繰り返しでしたね。


どんなときも絶えず子どものことがあって、頭から離れない、そんな感じでした。それを子どもは見ていますので、お母さんっていうのは本当に苦労しながらやっていると、子どもにだってわかっていたと思います。


今のお母さんは自分が大事で、よう捨てん。だから、お母さんも辛いし、子どもの不満も大きくなるように思えます。親子で居るのに、母親がずっと携帯電話をつついてばかりだったりするでしょう。私には、そんなふうに思えるときがありますね。


一番辛かったのは次男の病気


辛いなと思ったことはいっぱいありますけど、なんといっても一番辛かったのは次男の病気のときでした。弘幸は勉強もできる、世話のない子でしたけど、5年生のとき、腎臓を患ったんです。このときは、顔が腫れたので、あれっと思って、すぐ病院にかかりました。近所にも何人か同じように発病したお子さんがいて、扁桃腺からの菌が原因だと言われました。


その時は、ちゃんと治療し、きれいに治しました。いえ、治し切ったと思っていました。だけど、それから1年ほど経ったとき、また悪くなりました。『なにかしんどそうやな』と思ったくらいで、再発とは夢にも思いません。どこも痛いわけではないので、おかしいと気づいた頃には、病気は随分進んでいました。治療しましたが、結局、慢性腎炎という病名を付けられ、高知赤十字病院に入院となりました。病院内の学校へ通うこととなり、本当に可哀そうなことでした。


それから、高知医大の病院へ、次に岡山大学病院へと転院したんですが、なかなか結果が出ず、家へ帰されました。そして、人工透析を考えなくてはならないと宣告されたんです。昭和50年だったと思います。当時は、まだ透析の技術が今ほど良くなくて、水分や食べ物の制限はひどかったし、体力的にもたいへんな状況になると聞かされていました。


私の腎臓を一つやれんもんやろうか


私は次男のことが心配で、可哀そうで、なんとかならないかと随分悩んだし、考えました。考えるうちに、『自分の腎臓は2つある。一つを弘幸にやれんもんやろうか』と思いいたりました。移植は、それまでにも例はありましたが、まだまだ一般的ではなかった時代です。


岡山大学病院の桑原先生に、「先生、私の腎臓がもしも使えるなら、子どもにやっちゃってくれんろうか」ってお願いしました。「それなら、調べてみる」と言ってくれて、すぐ検査をしてくださいました。ところが、弘幸の血液はA型、私のはO型で、合いません。移植はできないと言われた、その時、そこでじっと聴いていた主人が、「俺の腎臓は、どうやろうか」と、こう言うてくれたんです。


ところが、主人の両親からは「孫は一人じゃない」と言われました。二人にとっては、主人はたった一人生き残っている息子です。そりゃ、無理はないですよね。「孫は一人じゃない」と。板挟みになって、私は居ても立っても居られないような気持ちでした。


でも、主人は「とにかく、調べてもらいたい」と譲らず、検査してみると、血液型は同じA型で、機能的にもよく似ているという結果でした。これなら移植できると、先生が乗り気になってくださったんです。


その時の私は、『移植して、もし主人に何かあったらどうしよう。腎臓をやったために主人が長生きようせんかったとしたら、それは私の責任や。お義父さん、お義母さんに申し訳ない』と考え、もう本当に、たまらんように思いました。


でも、主人が、「これほど組織が似ているということを知りながら、俺は、この子にやらずにはようおらん。この子が苦しみながら死ぬるがを、俺は、よう見ん」と、こう言いました。優しい、しっかりした人でしたね。


家族だから乗り越えられた試練


iwaki4.jpgそれで、昭和50年に岡山大学病院で移植手術を受けることができたんです。手術は成功して、次男はその腎臓で元気に過ごすことができ、結婚もしました。主治医だった桑原先生が次男の結婚をとても喜んでくださって、『術後10年目のゴールイン』として高知新聞に掲載もしていただきました。これがその新聞です。昭和60年の古いものですけど、私はよう捨てんと持っていました。


次男は3人の男の子にも恵まれました。移植手術から15年後に、透析するようにはなりましたけど、今も元気で、幸せにやっています。主人の健康を心配しましたが、お義父さん、お義母さんより後まで元気に生きてくれて、83の歳を迎えてから亡くなりました。


そのことが本当にありがたく思えます。私たちは、次男の病気という大きな試練を家族で乗り越えた、いえ、家族だからこそ乗り越えられたと思っています。


二人の義兄との絆


先にお話したように、夫は岩城の家の三男でした。主人の一番上の兄は航空兵で、フィリピンのレイテで戦死しています。フィリピンへ行く直前に、お兄さんは、東京の主人のところに寄ったそうです。その時のお兄さんの話を私に聴かせてくれたことがあります。


それまで長兄は中支那にいたようで、重慶だったか、爆撃に出たときのことを「爆弾を落とすときは、ちょっと下へ降りて落とす。後は、すぐすーっと上まで上がらないかんがやけんど、飛行機の性能がようないき、まだよう上がらんうちに爆発してしまう。その爆風でもういかんと思ったことが何回もあった」と話したそうです。


今度はフィリピンへ行けと言われたと告げた後で、長兄は主人に、「絶対に飛行機には乗るな。地を這え。そしたら、ひょっと助かるということもある。お前が死んだら、岩城の家は絶えるぞ。岩城の家を守ってくれ」と言ったそうです。やっぱり、家というものを大事にしたんですね、昔は。子どもであっても、そういう考えをしっかり持っていたんです。


先祖があって、自分がある。それは、決して古い考えではないと思いますよ。今の若い人にも伝えたい。自分の命は自分だけのものではない。これは、本当のことです。テレビでやっている『ファミリーヒストリー』を観ると、みなが感激しているじゃないですか。やっぱりね、と思います。


陸軍士官学校の最後の61期生だった主人は、結局、戦争には行きませんでした。でも、もう少し戦争が長引いたらどうなっていたのか。日本は「本土決戦」を声高に言っていましたし、当時の陸軍の将校なんかには、そういう考えの人も大勢いたようですからね。


次兄は、警官だったそうです。上司に結核の人がいて、お世話をしていて、うつったようです。その当時は、ペニシリンとかの薬もありませんでした。この兄は文学の好きな優しい性格で、上の兄は激しい気性だったと聞いています。


私の長男は夫の長兄にそっくりです。法事のときの写真を見て、みなが「気持ちが悪いぐらい似てる」って言います。だから、私は飛行機乗りだった長兄がこの長男に、また、次兄は次男に生まれ変わったんじゃないかと思うんです。二人が私の子どもとして生まれ変わって生きてくれている。守ってくれゆうと思います。だから、ご飯を炊いた時には必ず仏様にお祀りしています。お陰様で、今があります。本当にありがたいことです。


主人の一大転機に義父が石割技術を教える


このあたりで岩城組のことを話さないといきませんね。結婚して3年くらい経ったころやったと思います。お義父さんが怖い顔して、「おまえら、来い」って呼ぶんです。何の心当たりもない私は、どうしたのやろうとびっくりしました。


当時、青年団というのがあり、井上満さんという、なかなか行動力のある方が会長で、主人も一緒に活躍していました。その青年団の幹部らが、公民館を建てたいと考えて、資金稼ぎに映画やお芝居をやとって、木戸銭を集めたりしてたんです。でも、なかなからちがあかん。それで、農協に古い肥料があるが、あれはいらんもんやから、あれを売って資金にしようとなったらしいんです。


iwaki5.jpgもちろん、それは農協の物ですから、隠れて売ったりはできないわけですよね。告げ口した人があって、そのことが露見し、問題になったわけです。元をただせば、公民館を建てる資金を集めたかった。


義父(立吉)と義母(松猪


それだけでしたが、舅は村長も務めた人でしたから、岩城の家に泥を塗った言うて、主人と私の二人を据えて怒りましたよ。私はなにがなにやらさっぱりわからんまま叱られたんです。


まぁ、それは仕方がないとしても、一応けじめとして主人は農協を首になり、仕事を失ってしまいました。「何かして働かないかんが、誰にも頼めん」と困っていたときに、お義父さんが「おれが石割りを教える」と言ってくれました。若いときに、石割りの技術を持っていたのです。



石にも目があり、その目に穴をあけて、かすがいみたいなものを当ててパンと打つと石が割れる。主人はやったこともない石割りの技術を自分の親から教わったんです。辛かったと思います。手にまめができて、血を流しながらやっている主人を見たら、何とかして助けたい、力になりたいと思いました。


岩城組の看板をあげる


それからの私は慣れない百姓を続けながらも、主人を傍らでじっと見ていました。主人は前へ前へと仕事をつくっていく人です。石を割ることから始めて、そのうち田んぼの淵がつえたので直してくれとか、道を拡げてくれとか頼まれるようになりました。


一人で何役もはできません。人を1人雇い、それが2人になり3人になり、田の畔や道の補修、拡幅などの工事をするようになると、県の土木事務所から土木事業者の資格を取るように話がありました。資格を取ると、土木工事の入札に参加できるようになり、主人はさらに入札に必要な積算ができるよう勉強したんです。そうやって土木管理施工技術者1級の資格も取り、昭和38年には岩城組の看板をあげたんです。


一方で、主人は帳簿をつくるとか、そういう細かいことはしない人でした。主人の仕事ぶりを見て、私は『帳簿づけなど事務の仕事をちゃんとせんといかんなぁ』と思うようになり、自分が岩城組の会計をやろうと考えました。百姓をしながら、簿記の勉強をし、百姓と両道かけて頑張ったんです。簿記の資格を得た後で、衛生管理者の資格も取りました。あの頃は、本当に寝る間もないように働いたことでした。


iwaki6.jpg土木の仕事はどんどん膨らんで人は増え、失業保険とか労災とか、そんな制度も新しくどんどん入ってきます。


昭和の頃の、今は懐かしい岩城組の仲間たち


どうしていいかわからず、関係役所へ、「初めてでわからんのですが、手続きはどうしたらいいですか」って習いに行きました。そうやって取り込んで、進めていきました。すぐ行って習う。わかる。後はまじめにやっていく。だから、信用してくれたんですよね。

最後には、事務に女の人を一人雇いました。けんど、まぁ、ほとんどは私が自分でやりましたよ。病気をしたこともありますが、これはという大病はなく、頑張って続けることができたことに感謝しています。


当時はまだ珍しかった自動車の運転免許を取る


入札に行く機会が増えてくると、取るつもりがないときなどは、主人から「おまえが行ってくれ」と言われることが多くなりました。入札は安芸市で行われることが多かったのですが、馬路からは片道30q以上の山道です。『これじゃあ車に乗らんとどうにもならん』と思い始めて、車の免許を取ったのは、31歳のときでした。


その当時はまだ、免許を持つ人は村にほとんどいなかったですよ。主人曰く、「おまえ、自転車にもよう乗らんのに」。その時は、私も若かったよねぇ。「お父さん、自転車は輪が2つやけど、車は4つあるき、安定しちゅう。間違っても、ひっくり返ることはないき、大丈夫。私は車の免許を取りたい」そう言い張ったことでした。主人はけたけた笑って、「言い出したらきかんき、まぁ、行って取ってこい」って言うてくれました。


免許は一発で取りましたよ。試験のコースがいくつかあるんですが、どのコースになるか本番までわからんので、全部のコースを覚えました。中には、間違ってね、先生にAコースへ行けと言われたのに、Bコースへ入った人もいました。その後部座席に次に受ける私は乗っているんですよね。


先生が「おまえ、どこへ行きよりゃ」言うと、「僕は、郵便局へ行きよります」って。すっかりあがって、コースを間違ったことすら気づかないんですよ。その人は郵便局の職員さんでね、先生が笑って、「コースを間違ごうちゅうぞ」って、ね。自動車学校は、奈半利にありました。奈半利までせっせと通いましたよ。今は懐かしい思い出です。


生きがいとなった地域のお世話役


百姓仕事に子育て、土木の仕事も加わって大忙しの20代が過ぎ、30代半ばになったとき、ふっと『私には青春がなかったなぁ』って思ったことがありました。『青春はなかったけれど、この世にせっかく生まれてきたんやもの。なにかしたい。なにかやりたい』と、そんな気持ちがむらむらと沸き起こってきました。


iwaki7.jpg
母を囲み、妹らと和やかに食事会

他の人が結婚して今から子育てというときに、私はもう子どもたちに手がかからなくなっていました。また、家のことも百姓仕事も要領がわかって能率も上がっていましたからね。


地域のみなさんのお世話役を少しずつするようになったのは、ちょうどそんなころからです。村の農協婦人部のお手伝いをしていたところ、次の会長をやってほしいと頼まれ、引き受けました。それが、昭和48年4月のことで、その4年後からは民生児童委員にもなり、地域のみなさんのお世話役を20年ほどさせていただきましたね。


若いときから主人も、そのことには理解がありましたよ。私がカレーを作っていると、「また、出張か」と訊くんです。「今度は、どこへ行くのか」と、笑いながらね。一緒に暮らしていれば、わかったんでしょうね。また、どこかへいくがやなと。


平成に入ってからも、村の婦人会長をはじめ、社会福祉協議会の評議員や健康づくり推進協議会委員、食生活改善推進協議会委員など務めさせていただきました。ボランティアというのは、無報酬でするということで、地域のみなさんの協力がないと、何も形にはならないんですよね。でも、みんなで力を合わせる、その過程が、また楽しかったんです。


馬路村には『おらが村・心臓やぶりフルマラソン大会』というのがありました。もう随分前のことになりますけど、あれを始める時に、ちょうど私は村の婦人会長をしていました。前夜祭をやろうとなったんですが、企画段階では暗中模索です。村の教育委員会の担当職員と何度も話し合いました。


自分が家にある、お漬物とかを持ってきて、「これ食べてやろうよ」と言うこともありましたよ。ああしよう、こうしようと、それぞれが意見を出し合う。決まれば、みながパッと協力する。それには、まずは自分が動くということが何より大事だと学びました。まぁ、みんな本当に気持ちよく仕事してくれましたね。


自分は本当に世話好きやったと思うんですね。で、村会議員も平成11年から3期やらせていただきました。議会へ出たいとかまったく思っていませんでしたけど、「出てや、出てや」言うていただいてね。本当に選挙運動なんかしないまま、挙がらせてもらったんです。


あんなこともこんなことも、できることはさせていただきました。それが私の生きがいやったなぁとつくづく思います。お陰様で、自分としては生きがいのある幸せな人生を送ることができました。そんなふうに思っています。


ほんの最近まで、村の老人会長もやっていました。まだできないことはなかったんですが、娘が心配して高知市での会などには付いてきてくれるんです。それも申し訳なくて、自分の年齢を考え、昨年で辞めました。人には引き時が肝心です。これからは、若い人の縁の下の力持ちになって、育てる方に回ります。年を取ったら、このことを忘れないようにしたいですね。


神様が助けてくれて今がある


主人が亡くなってから、もう10年ほどになります。昭和24年に結婚して、ほぼ60年という長い月日を一緒に暮らしました。体格も良くて、まぁ、侍でしたね。男らしいというか、全然、損得を言う人ではなかったんです。筋が一本ぽんと通っていました。初対面の人には、ちょっと怖いような取っ付きにくい感じの人でしたが、慣れたらそんなことは全然ありません。仕事が好きで、現場と人を大事にする人やったなぁと思います。


今は長男が、岩城の家も岩城組も引き継いでしっかりやってくれています。次男は高知市で元気に暮らしていますし、長女は安芸市に嫁ぎましたので、今は家のことで私が心配することはなにもありません。これまでを振り返ると、『どんな困りごとも、なんとかなる。神様が助けてくれたなぁ』と、ありがたく感謝するばかりです。


これからの私の目標と願い


今の日本の国は、みなが長命になり高齢者が増えましたよね。いいことやと思いますけど、若い人は少なくなり、その若い人への負担が大きくなっています。だから、健康寿命を延ばして、なんとか最後まで自分のことは自分でできるような状態で一生を終えたいなと願っています。それが、私の今の気持ちだし、これから先の私の目標でもあります。また、それを自分一人でというのではなく、地域のみなで助け合いながら一緒に実現していけたらと思っています。そうしないと、日本の国もたいへんですよね。


これまでに私は、アメリカとかヨーロッパへも行きました。それぞれに素晴らしい国だとは思いましたけれど、日本の素晴らしさを再認識する機会にもなりました。日本人は、すごい。だから、自分の国に自信を持とうって。


iwaki8.jpg今の若い人には、よその国に憧れすぎて、よくわからないまま、例えばアメリカの方が良いというように思っているところがあります。もう一度、日本のことを考えて、もう少し日本の国のことも、外国のことも勉強してほしい。そう思っています。


アメリカで暮らす孫一家


私には今、孫が6人、ひ孫が7人いますよ。孫の一人はアメリカ人と一緒になり、私に本当にいろんなことを体験させてくれています。世界がひろがった思いです。だから、平和でないと困るんです。心から、みんなに平和でいてほしいと祈っています。


あとがき


岩城さんとは、馬路で初めてお会いし、北朝鮮から始まる長いご自身の物語を聴かせていただきました。わかりやすく正確に、しかもよどみのない話しぶりと、起伏に富み人の情けに溢れた話の中身に、思わず引き込まれました。物腰の柔らかな小柄な女性ですが、芯の通った強さ、人を包む大きさを感じます。


空に大きく枝を伸ばした一本の木のような方・・そう思って、主題を『幹太く、空高く〜馬路の村に生きる〜』とさせていただきました。


38度線越えを目指した山中での出来事やご結婚までのいきさつ、ご主人の一大転機と、お若い頃の一つひとつのエピソードが、地中深く根を張り成長していく一本の木と重なります。若い世代のみなさんにも是非、読んでいただきたいと思います。貴重なお話をありがとうございました。

(ききがきすと:鶴岡香代)

posted by ききがきすと at 22:51 | Comment(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月04日

高知の街をハイカラに生きる(下)

  かたりびと:鈴木章弘(あきひろ)さん
  ききがきすと:鶴岡香代

高知でのダンス三昧の日々


 su1.jpg『ユリヤ』が柳町に移った、その年の春に僕は明治大学を卒業して、高知へ帰ってきました。高知で踊ってましたよ。当時は高知にもダンスホールがあって、最初は上町の『山本ダンスホール』に通ったなぁ。これは、僕の姉が行ってたんよ。次は『中の橋ダンスホール』だったかな。それから得月楼のちょっと裏手の東の方、浦戸町に『ガーデン』っていうダンスホールがあって、もう、そこへは夜な夜な通いました。


けどね、高知のダンスはダサいと思いました。東京はね、例えば、五反田の『カサブランカ』とか、新橋の・・『フロリダ』だったかな、きれいなダンサーがいっぱいいたんです。しかも、生バンドでダンスが踊れたんですよ。


そのころ、ちょうどアメリカのフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を観たんです。いわゆるタップダンサーで、「トップハット」とか、「キャリオカ」とか、いろんな映画に出た人です。それで今度は、タップダンスを自己流で踏み始めたんですよ。まぁ、バカなことしたもんよね。高知には、そんな就職先はないし、それに、タップを教えるほどうまくはなかったし。


だけど、ジャズとリズムと、そして足を踏み鳴らして踊る、そのハーモニーが好きでした。こんな格好のいい、おしゃれな世界はないと思いました。今でも、僕はそういう世界に憧れています。もう80歳を超えて、とてもダンスはできなくなったけど。・・まぁ、社交ダンスなら、ちょっとしたジルバぐらいはできるかなぁ。うーん、もう複雑なステップはできないね。


何にしろ、好きなものがあるっていうのは、ありがたいですよ。学究肌の人は、研究とかね、頭をつかう。けど、僕らみたいなぼんくらは、要するに手足を動かして、耳から入る音楽、ジャズを聴いて、あるいはタンゴの調べを聴いて、かっこよく踊るというのが、そのころの青年たちの、不良の遊びだった。今の子は、どうしているのかなぁ。


要するに、このドラ息子ときたら高知に帰ってからも、ダンスが高じてずっとキャバレーに入れ込んでいたってわけです。家業の『ユリヤ』がうまくいっていることをいいことにね。


その当時ちゃんとしたバンドがいて、ダンスが踊れるのはキャバレー。『椿』とか『リラ』、『ABC』とかね。そういうところに限られていました。そこへ毎晩通ったんです。やっぱりキャバレーは高いわね。それに、一人ではよう行かんから、また不良の友達を連れて行くわけですよ。いいかっこしてね。


まぁ、随分、はちゃめちゃ遊んだよ、あの頃は。今考えると、僕しか、あぁいう遊びはできなかったろうね。一応、僕のダンスは東京じこみだから、キャバレーでも、あいつはダンスはうまいなと。そらそうや、おまえらみたいな田舎もんとちゃうぞ、ってなもんよね。


ホームバー『フランソワ』の誕生


どうも僕には喫茶店での仕事が性に合わなくてね。ぶらぶらしとったですよ。そのうちに今の『フランソワ』の土地を両親が買いました。そこにあったバラックを壊して建て直し、ここで住まいをしようと考えたんです。


まぁ、2階、3階は住まいでもいいけど、1階は貸店舗にしようかとなって、けんど、1階だけ貸すのはいかんなぁ、と言い始めた。それなら、僕がバーをやると言うと、親父がなんと言ったと思う?「バーなんて、止めておけ。そんなもの、商売にならん。ウナギ屋やれ」言うたんですよ。「ちょっと待って」と。


まぁね、ウナギを焼くぐらいは俺も、やってやれないことはない、と思いましたよ。親父はウナギが好きだったからね。けど、「あのニョロニョロ動くウナギをね、あれの腹を裂くなんて、そんなむごいことは俺はできん」って言ったんです。それで、「親父、やるかえ」って返すと、親父もなにも言わなかった。それで、ウナギ屋は終わりです。


親父やお袋から、キャバレーとかバーへ飲みに行かんようにとさんざん説教されて、もうしょうがないから、自分でバーをつくる、となったわけです。それが『フランソワ』の始まりですよ。外へ飲みに行かんように、ホームバーにした・・・、バカなことよねぇ。それが昭和40年のことです。


su5.jpgしかし、最初の頃は、まったく儲けなかったんです。友達はたくさん来るけど、僕のことだから全部貸しです。俗に言う貸倒れ。そのはずよ。みな、昼間は競輪競馬へ行ってやね、すっからかんで飲みに来るんだから、金はないよね。そんなのに貸して、何百万も貸倒れになりました。


フランソワの前に立つ鈴木さん →


また、当時のことなら、支払いは盆暮れにまとめて。そういう昔からの習慣がありましたからね。県庁の役人とかの公務員や商店街の旦那衆とかは、盆暮れが多かったんです。しかし、盆暮れにでも払ってくれる人はまだまし。さすがの僕も、ちょっと待てよ、これじゃいかんとなった。これは、現金商売にせんと、どうやってもいかんぞと。


だから、料金がもっと安くなるようにしました。舶来酒ばかりでなく、国産酒も入れたりね。もう現金だけで商売しようと考えたわけです。それでなんとか、『フランソワ』がもったわけですよ。そうなるまでに10年くらいはかかりましたね。


僕の自慢はね、貯金がないこと。けど、なんとか日銭は稼げる。なんとか食っていけるわけ。今、これで食っているからね。まぁ、赤字にならんように、現金商売で。それが、一つの転機だったね。これは、やっぱり商売の鉄則だろうね。


『フランソワ』でカクテルをつくる


お袋に「章弘、おまえ、これが帳面やけど、お客さん結構来てるけど、全然お金がないよ。仕入れのお金もない」と言われて、それなら、よし、これ売ろうかと思ったこともあります。けんど、さぁ、売ってどうするということもない。そしたらね、東京だけじゃなく京都でも随分遊んでいた、その僕の胸に漠々とでも浮かんだのは、カクテルだったんです。


東京から帰って、『ユリヤ』を嫌々でも手伝っていた9年の間に、よく京都で遊びました。姉が京都に嫁いでいたので、ゆっくり3年ほどは遊んだかなぁ。京都に『サンボア』というカクテルの店があって、寺町にその本家があるんですが、そこの中川古鹿(ころく)さんというおじいちゃんに本当にお世話になりました。とってもおしゃれな方でね、動作が実にきれいなんです。その古鹿さんに憧れて、その京都『サンボア』へ夜な夜な通うことになり、それで、弟子入りしたいとまで思いました。でも、そこは息子が6人、男ばかりいて、結局、無理だったけどね。


『サンボア』本家は長男が跡を継いで、そして、次男、三男は喫茶と、酒屋をやっていました。四男の志郎と僕とは同い年で、その志郎が祇園でやっていた店も成功して、今は孫の時代になっているはずです。それで、京都には『サンボア』が3軒あるんですよ。本家の寺町と祇園、もう一軒は六男の清が始めた木屋町。今でも交際が続いています。


ちょうど祇園表通りからひとつ南に下がったところに、今でも八坂中学という学校があります。その前辺りからお茶屋街がずーっとあって、そのお茶屋の一角に『祇園サンボア』があるんです。これは山口瞳が本に書いてもいますよ。


それがすこぶる美しい名文で、たいへんな評判を呼び、今や京都を代表するバーになっているんです。そこへ行くと、お茶屋街ですから、現役の芸子さんなんかがちょいちょいお座敷帰りにお客さんと飲みに来てますよ。あぁ、京都っていいなって思うね。


僕は、祇園は敷居が高くて入れなかったから、よく上七軒とかいったなぁ。もう一つランクが下のお茶屋街が上七軒と他にもあったけど、どこやったかな。そんなところで、お茶屋遊びらしいこともやってましたね。


東京とか京都で不良している間に、僕はこんなふうにカクテルバーへ出入りして、こんなハイカラな世界があるだろうかと思いました。普通のバーは、サントリーのウィスキーならそれを出すだけ。だけど、カクテルは、酒と酒、あるいは酒とほかの飲み物をベースに調和させる。そうして新たなものを生み出すものなんです。


また、高知にも、そういう先駆者がいましたよ。高井久五郎(きゅうごろう)という人で、戦前大阪のキャバレーでバーテンダーをやっていたと聞いています。この人は愛媛生まれだったけれども、縁があって高知へ来て、野村デパートの食堂主任なんかやっていたそうです。


戦後はね、今の京町の野村証券のところ、あそこに『シルバースター』というキャバレー第一号ができて、そこのマネージャーをしながら、バーテンダーもしていました。僕らの大先輩です。この人がやがて独立して、『555(スリーファイブ)』を始めました。この店は、今の中種の葉山、あそこの裏にある路地にありました。すばらしいバーでしたよ。


こういう商売は、おしゃれじゃないと駄目です。清潔感はもちろん必要だけれど、それだけではいけない。僕がいくらダンスが好きでも、ここで踊るわけにはいきません。せめて、シェーカー振ったり、お話しする中でかっこよく見せる。


格好は、とても大事なことです。この世界で一流バーテンダーと言われる人は、みなおしゃれです。本当におしゃれ。おいしくつくるということは、おしゃれに振るということとイコールでなくちゃいけない。いわゆる、あちゃこちゃ、あっちへ走り、こっちへ走りすると、俗に言う「あいつは野暮だなぁ」ってことで、野暮ではできません。


おしゃれも、本物を知る第一級のおしゃれでないとね。僕が長年やってきたバーテンダーのスタイル。これは、世界共通です。ほら、外国のね、パリやロンドン、ニューヨークのバーマンは、本当におしゃれですよ。かっこいいんです。


カクテル西洋事情


ヨーロッバでは、カクテルは街中のバーではなくてね、ホテルバーなんです。日本とは違います。アメリカンバーという言葉があって、ヨーロッパでは、カクテルバーのことをこう呼ぶんです。


イギリスのアッパークラス、上流階級は、訪問客があったら、午後にシェリー酒を出すという習慣があったんですよ。まぁ、言わば、貴族の習わしですね。お茶とケーキを出すか、それに合わせて殿方にはシェリー酒を出す。それが高じて、カクテルも出すようになる。


だから、カクテルタイムとか、カクテルアワーというのは、まだ明るいうち、いわゆる午後から夜にかけてであり、カクテルはその時間帯に供する飲み物だったんです。


英国やフランス、パリでね、ホテルバーでカクテルを飲むというのは、その頃の有産階級の一つの象徴でしたよ。バーでカクテルを飲む、非常に贅沢な習慣だったわけで、それは、いまだにありますね。まぁ、ロンドンは別として、今でもパリの街中にカクテルバーは非常に少ないんです。あそこはワインバーか、あるいはホテルバーのどちらかでカクテルを飲む、そういうお国柄なんです。

アメリカ映画とか英国映画、フランス映画、イタリア映画などには、そういう酒を飲むシーンがふんだんに出てきて、僕は大いに感化されました。その一番いい例がアメリカの有名な「カサブランカ」という映画です。パリから亡命したアメリカ人、それがカサブランカの街でアメリカンバーをつくるんですよ。アメリカンバーというのは、カクテルバーのことです。そこで飲むのが、シャンパンでありワインであり、カクテルなんです。映画でそういう世界を観たんです。


それから、アメリカ映画でもう一つ、「花嫁の父」という映画がありました。その中で家の庭で娘の結婚式の披露宴をする、ガーデンパーティの場面がありました。それを観たのは高校1年くらいのときだったかな。そのときに、マティーニが出てきたんです。「マティーニには、まだ早いよ」というせりふがあって、なぜか僕はそういう文化に魅せられたんです。”It’s too early to drink a martini”「マティーニには、まだ早いよ」という、その謎が解けず、ずっと心に残りました。


なぜマティーニには早いよ、と言ったのか。マティーニというのは、いわゆるカクテルタイムで飲むには違いないけれど、非常にアルコール度数が強いんです。だから、早いうちに飲むと酔いつぶれるよという意味を兼ねてる・・。おそらくね。


これがいまでいう、アペリティーフ(aperitif)、食前酒です。マティーニは、食前酒ではあるけれど、ものすごく強い。ヤンキーとか西洋人は胃袋が丈夫だからいいけれど、日本人はあれをすきっ腹でやると、もう飯が食えなくなる。そういうシロモノ。人気はある。永遠のカクテルです。


マティーニで有名なのが、もう一つ。チャーチル・マティーニです。マティーニというのはね、ジンとベルモットだけ、それをミキシンググラスでこうしてつくるんです。チャーチル・マティーニというのはね、ジンだけ入れて、ベルモットをちらっと横目で見るだけで、ジン・マティーニをつくる。これがチャーチル・マティーニ。それだけ彼はドライが好きだったってことですよ。


一番のお宝、英国のカクテル・レシピ本


su6.jpgもう一つ、007マティーニ、これもまた面白い。有名な007の作者というのはね、日本へも何度も来たことがある、飲んべえのイアン・フレミングで、この作家はマティーニが大好きなんです。007マティーニ、これはスパイを意味します。英国人の地酒であるジンではなく、ウォッカをつかう、ウォッカ・マティーニなんです。また、マティーニいうと全部ステアー(*かきまぜる)なんですが、それをステアーでなくて、シェイクするんです。


けどね、それには訳がある。昔のロンドンカクテルの文献を見てみると、マティーニはステアーではないですね。1930年のサヴォイのカクテルブックにはシェイクとあるんです。ドライマティーニは、全部シェイクなんです。


だから、その007の作者、イアン・フレミングは、ソ連側のスパイというのでドライ・ジンをウォッカに替え、しかも、シェイクというので、非常に新鮮に映ったんです。けれど、実は、時代は繰り返すで、戦前は、マティーニはステアーでなくて、全部シェイクだったんです。その文献がね、これですよ。


『ザ サヴォイ カクテル ブック』って本でね、これは、たいへんな貴重品です。僕の一番のお宝なんです。ザ・サヴォイというのは、ロンドン・サヴォイ・ホテルのことで、僕はここへ2回行っています。


1930年ということは昭和5年ですね。昭和5年に、この本が刊行されたんですよ。そのときのマティーニは、・・(本に目を通しながら)・・いいですか、マティーニ(ドライ)は、フレンチバムース・・これはベルモットのことです。英語読みしたらバムースになるんですね。フレンチバムース1/3に、ドライジン2/3。これを、Shake well と書いてある。つまり、シェイクなんです。しかし、今はね、マティーニいうと全部ステアーなんですよ。


シェイクとステアーの違いは、シェイクの場合は、カクテル・シェイカーへ氷入れてシェイクしますわね。シェイクというのは、揺るがすということです。これは何を意味しているかというと、空気を入れるということです。


ステアーというのは、逆に空気を入れない。液体だけの澄み切ったもので供するためにステアーするんです。シェイクは、酸素を入れる。そこに違いがある。大きな違いです。これが今から80数年前に、もうすでにシェイクだったんですよ。マティーニは全部シェイクで、ステアーではなかったんですよ。


例えば、(本を見ながら)マンハッタンなんかね、これもシェイクでしょう。この頃は、全部シェイクなんですよ。ここに、ステアーが出ている。マンハッタン・カクテル・スウィート。ステアー、ウェル。これですね。ステアー。マンハッタンは1930年代にすでにステアーやっていた。


カクテルの酒を替えると、カクテル名が変わってくるんです。これは、ライオウ・カナディアン・クラブという。ライはライ・ウィスキーのこと。ライ麦のウィスキー。あるいは、カナディアン・クラブ。カナディアンというのは、ライ・ウィスキーのこと。こういうレシピがちゃんと出ている。


また、この本は石版刷りですよ。石へ絵をかいて色付けして、それを印刷に用いたものです。非常に貴重な文献ですよ。面白いでしょう。これが、サヴォイで、いまだに現存しています。ロンドンへ行く機会があれば、ぜひとも、サヴォイホテルへ寄ることを勧めますよ。


こちらの本はね、カフェ・ロワイヤル。これは、ピカデリーサーカスの近所にある大きなレストランです。バーレストラン。このカクテル文献も素晴らしいですよ。


ここに面白いことを書いてある。これ、ターリングという、その当時のバーテンダーが書いた本なんですよ。W・J・ターリング、カフェ・ロワイヤル。これがね、1937年。ここにコロネーションってあるでしょう。いわゆる戴冠式のことですよ。今のエリザベス女王のお父様、つまり、ジョージ6世の戴冠式の年に発行したカクテルブックということです。


これには、その当時の風俗画が描かれています。例えば、これはいわゆるレビューですよね。こういう世界とカクテルというのは、歓楽の世界感と交わるところにある。つまり、こういう世界だったんですよね、80年前はね。面白いでしょう。


さらに、面白いことにね、ここ見てください。『ツー ブラザー ジョセフ・ベッツ』。ブラザーというのは兄弟だけど、まぁ言わば弟分、彼の弟子だったんですね。『ウィズ エターナル ベストウィッシュ、フロム オーサー ターリング』。作家からベストウィッシュを持って君に贈ると、直筆で書いていますよね。1946年。これは、昭和21年ですよ。


カフェ・ロワイヤル。これはフランス語読みですよね。向こうでも、フランス語読みがハイカラだった。人品卑しからぬジェントルマンが出入りするバーレストラン。これも、ロンドンです。

この2冊を僕は、神田の古本屋で見つけました。いくらで買ったか忘れたけれど、結構高かったですよ。ここに神田・田村とあるでしょう。神田の神保町にある田村という古本屋。今でも神田にあると思いますよ。


『フランソワ』の灯りをつなぐ


今の高知にも、いいバーテンダーはたくさんいます。この頃は、女性のバーテンダーもいて、チェコのプラハの世界大会で優勝した高橋直美さん。彼女は高知で頑張り続けて、何回もチャレンジしてね、やっと栄冠を仕留めたんです。素晴らしい。今は銀座の八丁目あたりの外堀通りの『ガスライト・イヴ』というところで働いています、店長で。


やはりファッションの生まれる街といえば東京だろうけど、高知だって「しゃれもの」は結構いますよ。高知は高知らしいファッションが生まれて当然だと思います。その高知で、『フランソワ』のネオンを消さずにいきたい。その願いをかなえてくれたのは、三好誠さんです。


彼はね、広島県の福山生まれで、高知大学の学生だったんですよ。学生時代にバイトでうちに2年か3年いたかなぁ。それから、いったん就職したんだけれど、その後ちょっと体を壊して、高知へ遊びに来たんです。


su7.jpg「どうしてるんだい」と訊くと、「今は何もしてません」と言うから、「じゃ、うちを手伝ってくれ」となったわけです。それからもう20年近くになるかなぁ。


     フランソワの店内 →


僕はやっぱりね、ちっぽけな店ですけど、この『フランソワ』、大好きなんですよ。だって、僕のホームバーだもの。僕は、ここでね、文章書いたり、手紙書いたり、本読んだりするんですよ。ちょっと一杯やりながらね。


店は、昭和40年に建てた当時と、ほとんど変わっていません。窓に『フランソワ』と描いてますわね。あれは実は、金文字なんです。表から見るとわかるけどね。これは、金紙を貼っています。これは僕の自慢でね。今から25年ほど前に改装するときに、つくってもらいました。でも、改装は入り口や窓の部分だけで、基本的な部分はいっしょです。カウンターやこの棚の辺りの感じもね。50年前と変わってないんです。


あの当時は、いわゆるデコラの時代でね。つまり、材木だけでは大工賃が高くつくから、デコラを張ったんです。カウンターも全部、デコラを張っています。デコラが流行ったのは、工賃が安いわりに耐久力が強いからなんですが、これは面白くない。と言うのは、いくら年が経っても古さがでないんですよ。まったくない。


この枠なんかもデコラですよ。木材に樹脂を張っている。変わらなくていいとも言えるけど、僕は面白くない。大失敗。本物をつくりたかったからね。けどね。まあ、それも仕方ない。これも、そうした時代を象徴する一つの工材だったからね。


大好きな高知の街、生き生きと自由であれ


我ながら、僕は恵まれてるなと思いますよ。やはり、家族、特に両親を思うとね。これくらい不良のドラ息子を長い目で見てくだすった。それから、姉は姉で、またそれを承知のうえで、僕によくアドバイスする。それはそれで、ありがたい。やっぱり姉弟愛だなぁと思うんですね。


それと、今の家内はね、こんな水商売なんか、まったく向かない女です。まったく酒も飲まないし、おしゃべりもできないしね。それでもなんとかやってきてくれました。だって、ほかの仕事しろと言われても、僕にはほかの仕事はできない。


これはもう私の天職ですよ。それは今、この年になって初めて言える言葉かもわかりませんね。若いときは、そんなこと関係なく、夢中でやってたからね。


ずっと暮らしてきた、この高知の街、僕、大好きでね。でも、今の高知は、僕らみたいな不良には、ちょっと住みにくくなった気がするね。不良は良きにあらずですが、その反面、ほかにない自由を感じる。これが不良だと思っています。


したいことをする、見たいものを見て、聴きたいものを聴く。あの自由な感覚ですよ。まぁ、これから世の中がどんなに変わっていくかわかりませんが、高知には、生き生きと自由な、そういう本物の文化が根付いて欲しいね。



あ と が き


 鈴木さんは、軽く洒脱な語り口で、昔の新京橋界隈の暮らしや、青春の日々、東京や京都での経験について生き生きと聴かせてくださいました。私も同じ高知県に生まれ育った者ですが、遠くにアドバルーンを見ながら、あそこがお街と憧れた田舎の子。ハイカラな街っ子のエピソードの一つひとつを物語のように面白く聴かせていただきました。


明るい話しぶりに、戦争を挟むたいへんな時代だったことも忘れ、笑いを誘われることも度々で、こういう方が戦後の日本を楽しく、魅力的に色付けしてくださったのだと改めて思ったことです。昭和一桁生まれのモダンボーイの魅力を、少しでもお伝えできれば幸いです。


また、今回、岡内富夫さんが、この冊子の表紙にと、『フランソワ』を描いてくださいました。街のやわらかな風まで感じさせる2枚の素敵な絵に、心から感謝いたします。


なお、昔日のバーテンダーの方々については、資料の入手が難しく、確認できないまま記載させていただいた部分があることをお断り申し上げます。


ききがきすと:鶴岡香代


posted by ききがきすと at 22:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月08日

高知の街をハイカラに生きる(上)

   かたりびと:鈴木章弘(あきひろ)さん

ききがきすと:鶴岡香代


新京橋生まれの街育ち

su1.jpg昭和7年1222日、僕は父・正一郎(しょういちろう)と母・静(しず)の長男として、高知市新京橋35番地に生まれました。男の兄弟はなく、純子(すみこ)という2つ違いの姉がいます。


高知といえば、四国の中でも田舎には違いない、地理的には田舎に違いないけれど、その高知にあっても、戦前の新京橋(最終頁*1参照)といえば、まさに中心商店街。都会的というか、早くいえば、ハイカラな街で、そこでの暮らしぶりというのは、田舎とはまったく違うものでした。


今は中央公園になっているあの辺りを、戦前・戦中は、新京橋商店街と呼んでいました。新京橋の名称は今も若干残っていますが、もともとは、あの広い公園から堀詰へかけての一帯のことで、当時は新京橋という橋が本当に架かっていたんです。


 戦前の新京橋界隈を知っている人はもう少なくなりましたが、街とその外では、まるで別世界だったわけです。だから、当時、みなが街へ行くと言えば、それは特別なこと。ビルを見て、店を覗いて、洋食を食べる。それから活動写真、今の映画ですよね。もちろん、テレビはない時代ですから、活動写真を観て、おうどんを食べて帰るというのが娯楽であり、最大の楽しみだった時代です。


街のデパートにアドバルーンが上がっていて、市内ならどこからでも見えましたよ。戦前、戦後を通じて、昭和30年代までかなぁ。あれが街の一つの象徴、シンボルだったんですね。あそこがみなにとっての街、行ってみたい街だった。だけど、僕は子どものときから、その街で暮らしてきてますから、そういう生活しか知らんわけです。


 まぁ、小学校を卒業する昭和19年頃まで、僕はずっと新京橋に住んでいましたから、街っ子だし、今でいう「ぼんぼん育ち」ですよ。名が章弘ですから、子どもの頃はよく「あきちゃん」とか、「あっきん」とか、「ぼん」とも呼ばれてね。いやー、まぁ、ばかぼんですわ。


うちは商家でした。もともとの出は琴平なんですが、祖父の時代に博打で勘当をくらって、高知へ移ってきたそうです。祖父は鈴木時計店の看板を上げて、時計商をしてましてね。その棟並びで、僕の両親が鈴木写真館をやってました。


その時代の一番のお客さんというのは、やはり兵隊さんだったんです。高知には、今の高知大学になっているところ、あそこに陸軍の44連隊がございました。そこから戦地へ赴かれる兵隊さんが、新京橋で活動を観て、そして、腕時計を買って、記念写真を撮る。そうして戦地へ行ったのですよね。


だから、うちの商売というのは、兵隊さん相手に、まぁ、早くいえば、ぼろ儲けしたんです。あの頃は、軍人さんはたくさんいたし、金持ちでしたよ。だから、僕は何不自由なく育ちました。


ハイカラ感覚は幼少時から


 母の生家は高岡郡波介村岩戸、今の土佐市ですが、母の父、つまり僕の祖父は早くから街へ出て、鳳館(おおとりかん)という映画館をやっていました。これは、堀詰の電停前にあって、家からほんの数分とかからない。子どもに人気のチャンバラ映画ばっかりやっていましたよ。だから、学校から帰ってきたら、叔父の家へ遊びに行くか、鳳館で活動写真を観るか。そりゃ、恵まれていましたね。


それで、こういうどうしようもない男、ばかぼんが生まれたってわけ。でも、街育ちのばかぼんしか知らない世界、特別な世界がそこにあったんですよ。ちゃんとした家庭で育っていれば、・・・もっと不良になっていたかな。


だけど、僕は田舎の楽しさも知っていますよ。夏休みの楽しみは、母の生家へ遊びに行くことでしたから。そこで田舎での生活を満喫したものです。野や山で鳥を獲ったり、ウサギ狩りに行ったり。よその家の畑の桑の実をつまんで、食べたりもしたなぁ。その時分は、おおらかでした。秋に行けば、柿が生っているし、栗もたくさんあったしね。


su2.jpg 柳原幼稚園っていうのがありましてね。いいところのぼっちゃん、おじょうちゃんの行く幼稚園だったんですよ。この辺りにも幼稚園はありましたが、姉が行っていたから、僕もそこへ。当時も幼稚園というのは2年あったけれど、僕は1年だけ通いました。


今の乗出しをまっすぐ南へ下がって、東の角。下がると坂でね、その西にある沈下橋の前に忠霊塔があって、その隣が柳原幼稚園でした。戦後は競輪の選手の宿舎になったと聞きました。


家は商売しているから、母は忙しい。まったく子やらい(最終頁*2参照)はしないで、女中さんとかいましたよ。だからってことじゃないけれど、僕はね、よく幼稚園をさぼりました。もう、そのころから、みなと一緒に授業受けるとか、遊戯するとか、そういうのがまったく嫌でね。


途中の山内神社のところへね、エビ玉や箱瓶(最終頁*3参照)を隠しといて、それでね、幼稚園行くと言って行かずに、日がな一日鏡川で魚獲ったり、エビ獲ったりして、それで帰ってきよったね。そんな家庭に育ったから、まぁ、なんともだらしのない少年だったわけです。


幼稚園の頃から自転車に乗ったりもしていました。おやじはオートバイに乗っていたしね。家のすぐ近所にデパートもあったんです。野村デパート。中央食堂へ上がるエレベーターがあって、僕は、その食堂へ行くのが楽しみでした。


今でいうハンバーグステーキね。あれを、僕ら子どもの頃はミンチボールって言っていました。ミンチ肉をボール状にしてね。僕は、お子様ランチなんて、あまり食わなかったな。ちゃんと大人の食べる洋食、例えば、ビフカツとか、あんなのが好きだったね。外でよく食べたものです。


当時にすれば、実にハイカラな生活ぶりです。その気持ちをね、いまだに僕は失ってないつもりです。別に田舎の子を差別するわけではないですよ。けれど、おれは街でハイカラにやっていこうと。それは、子どものときも今もいっしょです。だから、現在、こういう洋酒バーを家業にしているのも、そういうハイカラ趣味がそうさせたのかもしれませんね。


ぼん、高知女子師範の附属小学校に通う


小学校は、高知県女子師範学校の附属小学校に通いました。昔はね、先生を養成する師範学校というのがあったんです。今の高知大学の教育学部ね。当時の師範学校は男子と女子は別で、男子は今の附属小・中学校のある小津町に、女子は潮江にありました。女子師範は、第二高等女学校と附属小学校を併設していて、小学校から女学校、女子師範と教育を一括する学校だったんです。今は、潮江中学校になっています。


本来の校区は第三小学校、後の追手前小学校だったから、僕ら、ごく一部の子どもだけが、新京橋から潮江橋を渡って通学したわけです。今、帯屋町に大西時計店がありますよね。当時の大西は、東店と西店という兄弟の店でした。今残っているのは、西店のほうです。そこの息子たちと一緒に通ったものです。


近所のガキ友達はみな第三小学校だったし、女子師範なんて小学校の名前に女子が付くのも嫌だったなぁ。「お前はねぇ、ばかぼんで、えいし(良い衆の意味 最終頁※4参照)の子やったから、ほんで附属へ行ったんだ」と言われたものです。


学校から帰れば新京橋界隈のガキとも遊ぶけど、僕は遊びも飽きっぽいんで、もう馬鹿らしくなったら、一人で家へ帰って好きな本読んだりしてました。だんだんと遠く感じるようにもなってね。そうして自然と一人で遊ぶことが多くなっていったかなぁ。環境も大きかったですね。


附属小学校は、一学年に男子25人、女子が28人の、本当に少人数の学校でした。男女共学は1年・2年まででね。3年からは男子組、女子組と分かれて授業を受けたもんです。決められた制服がありましてね、制服、制帽、帽章で通いました。


ここには、いろんな地域から子どもたちが来ていましたから、いろんな友達に出会いました。いわゆる、えいしの子ばっかりで、国家公務員とか学校の先生の娘や息子とか、そういった感じでした。


その頃、今の高知大学の前身の旧制高知高校というのがあって、そこのドイツ語の教授であった米原先生の息子が、同じ組にいたんです。米原君と僕は仲が良くて、いろんな思い出がありますね。


附小はね、やはり模範学校ですから、子どもの遊びで、これはやっちゃいけないというのがいくつかあったわけですよ。普通メンコといいますが、高知ではパンという、ボール紙のカードをパンパンたたいてけ落とす遊びよね。あれはだめ。ビー玉がだめ、コマ回しもだめというように、子どもが好きな遊びは、ほとんど学校ではできませんでした。


あとね、日月いう、けん玉。あれは、学校でやりましたよ。基本的には、けん玉を持っていくのも、禁止されていましてね。それをカバンの隅っこに入れて、昼休みなんかに米原君とよくやっていましたねぇ。


米原君の家は旧制高知高校の官舎で、小津町にありました。新京橋からそこまで歩いて遊びに行きました。その当時の高校生が盛んにやっていたのはラグビー、相撲とボート。それから、テニスもよくやっていましたね。なかなかハイカラでしたよ。僕らはテニスのボールをね、よくかっぱらいに行きました。


子どもの僕らが野球をするのにぼっちり(最終頁※5参照)でね。今も小津町には官舎がありますよ、附属小学校・中学校の北にね。


『へなちょこ』ぼんの中学受験


僕らの中学受験は、昭和20年の春、終戦の直前でした。僕ら男子は、城東、海南か、市商へ行くものが多かったね。25人のうち、一番できるやつは城東中学校、今の追手前高校です。それから軍人の息子たちは海南中学へ行く。今の小津高校ですね。商売人の息子は、市商、高知商業ね。


それから、器用な子は高知工業。女子は第一高女。これは丸の内高校ですよ、今の。それから私立の土佐高女、今の土佐女子ですね。ほとんどがそこへ行きましたね。


僕はね、叔父が海南へ行っていたこともあり、ぜひ海南を受けたいと思っていました。将来、軍人になるという気持ちはまったくなかったけれど、海南が男らしくていいと言ったら、叔父が「おい、あっきん。君は海南、無理や」と言う。なんで無理かと問うと、そこは軍人学校でね、教練がきついぞと。おまえのへなちょこやったら、それこそ付いていけんぞ、言うて脅されてね。


じゃ、教練の一番やさしい中学校はどこかと問うと、叔父はしばらく考えて「それは土佐中くらいのもんやな」って答えたんです。土佐中は僕が通っていた附属小学校のすぐ東やから、よく見かけたし、じゃ、土佐中を受けようかとなりました。


この叔父は、母の一番下の弟で、山本幸雄(ゆきお)といいます。昭和2年生まれでしたから、僕とは5歳しか違わない。僕の一番の遊び相手で、子どものころから「叔父さん」なんて呼んだことはない。「幸雄さん、幸雄さん」と呼んで、兄弟のように育ちました。高知新聞に長く勤めて、80歳で亡くなりました。


結局のところ、土佐中学校を受験し、なんとか滑り込みましたよ。僕たちの小学校の秀才二人は、学校推薦で入ったんですけどね。昔は、そんなこともあったんです。その同級生二人はね、土佐中、土佐高と出て、東大へ行きました。やっぱり頭のいい子は違うなぁと思いました。


僕らは推薦組じゃなくて、土佐中学校を勝手に受けたんです。そうして、終戦直前の土佐中に入ったんです。


高知市大空襲で、すべて焼けて


土佐中学校に入学した年の7月4日に高知市は大空襲にあいました。高知駅からはりまや橋、桟橋まで、また、上町までの電車通り沿いはことごとく焼け野原になって、全部見通せました。住まいも店も、学校も全焼しました。


夜が明け始めたころ、空襲が始まりました。夏の夜明けですからね、4時か、5時頃。父母は新京橋にいましたが、僕はじいさんのいわゆる寓居というか、土佐中のすぐ近所にある別宅にいました。


じいさん、ばあさんと一緒に逃げたわけだけど、じいさんというのがへそ曲がりで、絶対に防空壕に入らない。僕は、いったん、ばあさんと防空壕の中に避難したんです。出たときには、じいさんは大やけどしていて、子ども心にも『これは、いかんな』と思いました。


しかし、それを介抱する手立てもなく、そのまま置いて、高見の方へ逃げるしかありませんでした。どんどん焼夷弾が落ちてくるからね。高見まで行くと、空襲はまったくありませんでした。ほんの2ブロック、その差でしたね。


帰ってみると別宅は全焼。仕方なく与力町に住んでいる叔父を訪ねましたが、そこもまる焼けでした。その叔父と僕と姉と、あと2人の親戚の子を連れて、その5人で、その日のうちに波介村、今の土佐市にある母静の生家まで歩いて行きました。


親父やお袋がどうなっているか、わからんままね。じいさんも心配でした。親父がオートバイで探し回って、なんとか見つけたものの、じいさんはもう大やけどで、結局、その日のうちに病院で亡くなったって。これは後から聞いたことです。


大嶋校長のもと、土佐中学校の再建


7月4日の高知市空襲で、住まいだけでなく土佐中の校舎も焼けました。木造でしたから、ほぼ全焼です。4月に入学して、学徒動員で6月に麦刈りに行って、その後すぐ焼けてしまったものですから、たいへんでしたわ。しかし、その当時の大嶋光次校長というのは、これはすごい方やったね。


もともと土佐中学校は、宇田、川崎という両財閥が私財を投じて創った学校です。幕末から明治にかけて、高知県は龍馬をはじめ、谷干城らいろんな素晴らしい秀才を輩出してきました。そういう傑出した人物を育てる、英才教育に特に力を入れるということで、宇田家と川崎家がお金を出して創った学校なんですよ。


ところが、敗戦になり財閥が解体されて、もう川崎家、宇田家からはお金が出なくなりました。大嶋校長は、当時の進駐軍、GHQね、これは県庁にあったんですが、そこへ行って、高知県の総司令官と面会し、土佐中学校の再建への支援を願い出たんです。

su3.jpg

旧校舎、後方に女子師範も見える →


当時、浦戸の航空隊というのがありました。それから、今の高知龍馬空港、あれは、当時、海軍の飛行場だったんです。それらをアメリカ軍が占領し管理していました。その瓦、材木でよければ、大嶋さん、君にあげる。ただし、それを持ち運び、建てるのは学校でやってくれ、となりました。


その作業に僕たち生徒も動員されたんです。あの当時は4年生が最上級でしたが、みなね、農人町から大きい木造の船に乗って、日章まで取りに行ったんです。太平洋に出て、そうして瓦や木材を運んで、農人町へ荷揚げして、農人町からはトラックへ移しかえて。そうやって土佐中まで運んだものです。


それを僕らは、3年ほどやらされた。自分たちで棟材、瓦運びをやって、バラック校舎を建てたわけです。大嶋校長のもとでね。


当時の『悪りことし』中学生


土佐中学校は、僕たちから1年あとの27回生までは男子校でしたが、28回生からは男女共学になり、女子も入るようになりました。いろんな人に入ってもらって、入学金も取り、授業料も上げたんです。それまでの僕らの授業料は非常に安かったですよ。


というのは、宇田・川崎の財閥が運営していたからね。お金のない頭のいい子を寮へ入れて面倒をみていました。学費だけでなく、寮生活させて食べさせ、すべてをみたんですよね。そういうよき時代でした。僕ら、悪りことしは別で、ちゃんと授業料を払ってましたけどね。


中学生の悪りことしというのはね、まず不良の真似をするんです。不良はなにをしているかというと、詰襟のボタンを外して、帽子をちょっと斜めにかぶる。それからタバコを吸うんです。これが不良のしぐさです。それにみな憧れていました。これは、アメリカ映画の影響も大きいね。アメリカ人が、うまそうにタバコを吸うんですよ。


高知へもアメリカやイギリス、オーストラリアから進駐軍が来てたでしょう。そこから親父がタバコを買ってくるわけですよ。キャメルなんかね。その親父が買ってくるタバコをよく盗み取りして、僕は中学3年から吸ってたんです。まさに不良だね。だけど、秀才面してタバコ吸うのも、結構いましたよ。僕は、勉強せん、ぼんくらだったけれども、真似だけは一応やった。


後は女学生とね、ほとんどが土佐女子だったけれども、一緒に鏡川でボートに乗ったりしてね。今でいうデートです。うん、楽しかったですよ。土佐女子の女の子なんか、これも不良ですよ。まじめな生徒は来ないからね。


美味しいお汁粉屋があるとか、あそこのあんみつがうまいとか言って、よくその女の子たちと食べに行ったものですよ。僕も甘いものが好きだったから。不良っていっても、かわいいもんです。懐かしい思い出です。


あの頃の懐かしい映画の数々


母方の祖父がすぐ近所で映画館をやってたせいで、幼少時から映画は僕の生活の一部でした。まずは、鳳館のチャンバラ映画ね。僕の好きな俳優は、雲井龍之介とか、大乗寺八郎だったね。紅トカゲといって、覆面して、白地に紅のトカゲの柄の着物を着て、それでチャンバラする。その真似をしたもんや。それが僕の日課だったよ。


戦前は映画を活動写真といってました。おもに大都映画で、日活なんかもチャンバラ映画が主体だったなぁ。あと、松竹、東宝の現代ものがありましたね。いわゆる新派です。


昭和13年、映画を観に初めて叔母と行きました。それが『愛染かつら』で、僕にはちっとも面白くない。もう金輪際、新派の映画は観ないぞと思ったね。当時は、『旅の夜風』という主題歌と、上原謙と田中絹代が演じた津村浩三、高石かつ枝の恋物語が大評判だったけど、僕はまだ小学校へ上がる前。子どもが観たって面白くないわね。


でも、映画館へあんなに行列して入ったのは、初めてでした。それが、今の高知大丸のところにあった世界館という松竹の封切館だった。僕は、それまで、ほら、チャンバラばっかり観ているでしょう。上原謙や佐分利信は、後で知るんですけど、そんな現代ものなんか面白くないわけよ

けど、その当時、桑野通子という女優さんがいてね。子ども心にね、素晴らしくきれいな女優さんやなぁって思ったんです。この人は、東京のダンスホールでダンサーやってて、そこで映画界の方にスカウトされたと言われていました。非常にモダーンで、いわゆるスーツ、帽子の似合う女優さんでしたね。


そのあとが、高峰三枝子とか小暮美千代とか、あのクラスです。その時代になると、みなさん、よく知っていますよね。


戦後になると、外国映画もよく観るようになるんですが、子どもの頃からずっと、僕はこんなふうに映画三昧の生活でした。


初めて上京、そこで見たのは・・


昭和26年に、僕は初めて東京へ出ました。土佐高校(最終頁※6参照)は私学だから、公立より早く卒業式があって、大学受験するからと2月に東京へね。けど、僕は全然勉強してなくて、受かるわけないんですよ。友人はみな、東大とか京大とか、私立では慶応や早稲田とかに行きましたけど、僕はそんなの通るわけはない。親には受験すると嘘をついて、東京へ遊びに行ったんです

僕はやはり日本人ですから、上京してまずしたことは、皇居遥拝でした。東京へ着いた翌日、皇居へ行って、二重橋の前で最敬礼しましたよ。その帰り道、日比谷公園のほうで、人がバタバタと走っている。なんのこっちゃと思って、追っかけていくと、「マッカーサーが出てくるぞ」と言う。


極東軍最高司令官ジェネラル・ダグラス・マッカーサー。天皇陛下よりも偉かった人ですよ、当時は。僕も走って見に行きましたよ。


ちょうど昼ご飯の時間帯、GHQ、今の第一生命ホールのところでした。昼は家族と一緒にランチをとるので、車で出てくるわけです。家族はアメリカ大使館に住んでいましたからね。今の第一生命ビルを見てもわかるように、柱がそびえ立ち、石段もかなり高い。その両脇でGIが捧げ銃をしてね、そこにマッカーサーが出てくるんです。


マッカーサーは朝鮮動乱で北爆をやると言って、トルーマンと喧嘩して、首になる。ちょうど、その時期なんですよ。その証拠には、それからすぐ後の3月か4月に、彼は解任されて、アメリカへ帰るわけです。


そのマッカーサーが出てくるって、ものすごい人でした。僕はすばやかったから、一番前へ行ってね、手持ちのカメラでマッカーサーの写真を撮りました。初めての東京見物の第一の収穫は、このことでしたね。


もう一つの収穫は、お堀端に今もある帝国劇場で観た『もるがんお雪』です。帝国劇場は、今は改装されてくだらん建物になっていますけど、昔の帝国劇場は立派だったですよ。


『モルガンお雪』は、アメリカ人のJ・P・モルガン、いわゆる銀行家の金持ちと日本の芸者との恋物語を菊田一夫が脚色、演出したものでした。僕はそのころ、菊田一夫は知らなかった。でも、モルガンを演じたのが古川ロッパ、お雪さんが宝塚を退団したばかりの越路吹雪で、それは楽しかったですよ。


僕、ほやほやの高卒の18歳でしょう。入場券は結構高かったと思うけど、そこで『モルガンお雪』を観て、わぁ、東京やなぁと思いました。


次に有楽町へ行くと、日劇ミュージックホールというのがありました。日本劇場という、円形のホールの中にね。映画とレビューを交互にやっていて、ものすごくいいダンサーがいました。


ちょっと外人ばりの、手足の長い、日本人離れしたダンサー。それで、僕も、今度は一生懸命ダンスを練習しようなんて思いましたよ。


高知へ帰ると、お袋が「どうだった」って訊くから、「いやー、受からんかった」って。受からんわけよ、受験してないんやから。それだけね、ひどい息子だったんです。お袋は、随分悲しくて、頼りなく思っただろうねぇ。


学生時代はダンスとバイトに明け暮れて


この後、東京の予備校へ行くからと嘘をついて、また、東京へ出ました。駿河台予備校と言う有名な予備校。今でもあると思います。行く言うて、行かずに、また、遊んでいたわけ。昭和26年から27年にかけてです。


でも、そのあくる年に、今度はちゃんと明治大学を受験しました。受けに行っただけじゃなくて、明治大学商学部へ入学したんです。早稲田へ行きたかったけど、早稲田、慶応はお金がたくさん要るから。明治も学費は要ったけどね。


それが不思議なことに、受験の半年くらい前に、明大の春日井教授・・だったかな、その先生と電車の中で偶然、向かい合わせになってね。「君は今、どうしているか」って訊かれて、「僕は今、高校出て浪人中です」と答えたんです。そしたらね、「今度、うちの明治へ来たまえ、そして、僕のゼミを受けたまえ」って。


僕は、教授がそう言ってくれたら、もう無試験で入れるもんとばっかり思って、世田谷のその教授宅を訪ねたんです。すると、「バカ言っちゃいけないよ。ちゃんと受験してもらわなくては困る。合格したら、僕のゼミを受けに来なさい」と言われました。


それで、なんとか滑り込んで、『よし、春日井教授のゼミ受けるぞ』と。だけど、ゼミに入るには試験があったんですよ。20人くらいしか採らないから、試験するんです。受かるわけないわ。そりゃ、難しかった。


春日井教授は、経済学の先生。いわゆる近代経済です。教授のゼミを受けた者は、その当時の一流銀行、第一銀行とか三井、三菱銀行とか、野村證券とかへ採用になるというわけよ。俺なんかが通るわけない。ゼミの試験で入れんのだから。やはり、大学はすごいなぁと思ったね。


それで、僕の学生生活は、麻雀と玉突き、それと音楽で始まりました。レコード喫茶というのがあってね。ジャズ、タンゴ、シャンソン。もう、いろんなところへ行きましたね。楽しかった。明治大の先輩にハイカラな遊び人がいて、レストランとか洋酒バーとか、それからダンスホールにも連れて行ってもらって、不良を仕込まれたわけ。まぁ、素質もあったんだけどね。


そのかわりアルバイトもしましたよ、キャバレーでね。その当時、銀座のキャバレーは、昼間はダンスホールになっていました。だから、昼はダンスを覚えて、夜はキャバレーでウェイターのバイトをやったりしました。


そのうちに、バーテンダーの空きができたんです。ある先輩がとんずらしていなくなってね。「お前、まぁちょっとやってみろ」となって、それで、バーへ配属され、そこでまねごとを覚えました。


今思い起こすと、銀座に『機関車』というバーがあって、そこへ先輩が連れて行ってくれたんです。そこで生まれて初めてカクテルを飲みました。後から知ったことだけれど、その時のバーテンダーが鈴木雋三(しゅんぞう)という、後の日本バーテンダー協会の会長になった人です。僕のお袋と同じ明治43年生まれのバーテンダーでね、もちろん故人になっています。有名な『クール』の古川緑郎(ふるかわろくろう)とかね、名だたるバーテンダーが活躍していた頃の銀座。『機関車』も、あの時代を代表する銀座のバーの一つでしたね。


ちょうど朝鮮動乱のあとで、所得倍増の時代が始まろうとしていた頃ですよ。景気はずっと右上がりで、キャバレーにみなよく来ました。有名人も悪も、金持ちもね。僕はバイトをしながら、なんとか食いつないでいました。昼間はダンスホールに行って、夜はキャバレーで働いてという、そういう生活を続けて、ダンスの腕は上がりました。


母の商才で喫茶店『ユリヤ』開業


家業の方はというと、戦後も写真屋を続けていましたよ。進駐軍のヤンキーがフィルムを欲しがって、物々交換が始まったんです。ヤンキーも金がないものだから、タバコ1カートンをおやじのとこに持ってきて、それと撮影用のフィルムを交換するんです。


ちょうど中学生の生意気盛りの頃でね、僕も下手な英語を使ってやってみましたよ。ところが、全然通じないんよね。テン、ツエンティと言うと、テンはテンですけど、20をツエンティとヤンキーは言わない。トニー、トニー言うんよね。俺、なんでトニーって言うんやろうと不思議でね。20円だから「ツエンティ円」って言うと、「テン、トニー?」って訊いてくるわけですよ。そんな思い出がありますね。


進駐軍からもらったものは、タバコだけじゃなかったんです。オーストラリア人なんかは、バターとかチーズを持って来ていました。これも田舎の子は知らんわけで、「おまえ、チーズ食ったことあるか」って言うと、「いやー、ない」。それで、俺がチーズの缶詰を渡してやると、なんか旨いような、不味いような顔して食ってましたよ。


そんなわけで、我が家には、コーヒーの缶詰、MJBとかヒルス&ブロス、それにハーシのチョコレートとかまでが山のようにありました。すべてフィルム欲しさに進駐軍が持ってきたものだったんです。その一方で、日本人はまだカメラとか、写真を写すとかいう余裕がなかった時代で、家業の写真屋はじり貧になるばかりでした。


そんな中、うちのお袋は商才に長けてたものだから、『よし、これで喫茶店やろう』となったんです。それが『ユリヤ喫茶店』の始まりで、まずは上町4丁目に立ち上げました。昭和22年だったかな。これは大当たりでした。


su4.jpg昔の新京橋大西時計店辺り →


その後、焼けた新京橋の店の辺り一帯を中央公園にすることになり、代替地として帯屋町をくれたんです。今は『池田洋装店』と紳士服の『原』になっています。2店とも大きな店舗ですよね。2ヶ所に分かれたのをもらったけれど、どうしようか。喫茶店をするには帯屋町は向かんだろうと考えているとき、柳町の角っこに売地が出たんです。だから、帯屋町の替地を売って、そこを買い、喫茶店を上町から移して、そこで新たに始めました。


それが、昭和31年だった。『ユリヤ』では、親父がコーヒーを焙煎して、お袋がパンケーキ焼いたり、おぜんざいつくったりね。夏は氷が評判でしたよ。クリームぜんざいとか、ピーチアイスクリーム。当時はまだまだ珍しかったからね。お袋も親父もハイカラ好きだったから。まぁ、今考えたら、特にお袋はえらかったと思うね。

(下巻に続く)


<参  照>


※1 新京橋:

新京橋は現在の高知大丸前に架かっていた橋で、この橋のすぐ西に当時の高知を代表する繁華街の一つである新京橋通りがありました。鈴木時計店と鈴木写真館は軒を連ねて通りの南側にあり、堀詰電停前だった鈴木さんの母方祖父の映画館鳳館も、すぐ近所でした。当時はみな、堀詰で電車を降り、新京橋、京町と歩き、映画を観たり買い物をして、はりまや橋からまた電車に乗って帰ったそうです。


※2 子やらい:子どもの養育の意


※3 エビ玉や箱瓶:

エビ玉は直径約12pで柄の長さ約20pの小さな玉網。箱瓶は底にガラス板を嵌め込んだ木製の箱型のもので、蓋はなく、これを水中眼鏡のように使って川底を見ながら魚を獲った。


※4 えいし:良い衆の意。土佐弁では、「良い」を「えー」「えい」と言う。


※5 ぼっちり:土佐弁で、ちょうど・過不足がないの意。


※6 土佐高校:

鈴木さんが入学した土佐中学校は、昭和22年4月1日に新制中学校を併設、昭和23年4月1日には新制高校に昇格し、校名を土佐高等学校、土佐中学校と改めた。

posted by ききがきすと at 22:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月22日

正直者の靴メーカーさんの生き方

語り人 大蔵敏幸(おおくら としゆき)さん

ふるさと長野から上京する


kura1.jpg私は、昭和9330日、長野県長野市で生まれました。82歳になります。昭和の時代は長く続きましたが、もう少し後で生まれたら、昭和二桁生まれで多少若く見られて良かったんじゃないかといわれたりもします。


いまは、東京で暮らしています。思い返してみると、私も若い頃にはいろいろありました。若さにまかせ、若さゆえに、いたずらごころでやってしまったことなど、当時は楽しいと思ってやったことですが、良くも悪くも数々あります。


私の父親は三男でしたが、その当時は、長男が家の跡を継いで、下の弟たちは財産をもらうこともなく、小僧に出るようなそんな時代でした。おふくろは、財産を持たないそんなおやじの所に嫁いできた訳です。


私はというと、三人兄弟の長男でしたが、長男だから財産をもらって家の跡を継ぐということもなく、自分でも長野に住み続けようという気もなかったのです。高校を卒業したら、食いっぱぐれる心配のない公務員になろうと思い、公務員の二次面接試験を受けるために、一度東京に出てきました。


でも結局、二次の試験には受かることができなくて、公務員になる道は開けませんでした。その当時、造船疑獄事件が起きていて、そんなことが私の試験にも影響したのかもしれません。


それでも、高校を終える時に私が志望した学校は早稲田でした。早稲田大学を受験しようと思っていました。その時はすでに、昼間の学校に通うことはあきらめていましたが、早稲田の受験チャンスを狙っていました。


狙ってはいたんだけど、1年浪人して入ったのは、お茶の水にある明治の短期大学です。そして、大学に通うために下宿として、母親の弟の叔父の家に世話になったのが、東京へ出てくる始まりでした。叔父の家は、最初は台東区浅草の竜泉というところにあって、鷲神社・(おおとりさん)のそばでした。小さい家で、風呂もドラム缶を改造したようなものでしたが、しばらくして、吉野町に家を建てて移っています。


私は、中学生のころからみんなに「おっさん。おっさん」と呼ばれていました。若ものらしくなかったんでしょうかね。母方の実家で法事か何かがあって、母親の兄弟たちが集まってお墓に行ったことがありました。お墓は、三十分近くも山の方に歩いていくような所にあったのですが、大勢でだらだらと歩いていく時に、中学生だった私が、みんなへの気配りをしたり、誰それが居なくなってはいないかなどと、気を利かしたりしたようです。


その様子を見ていた叔父さんが、「おまえは大人だな」といったことがあります。そんなことから、「おっさん」といわれだしたようですが、当時から、なんとなく大人びてはいたようです。私も「おっさん」といわれても、とくべつ悪い気はしなくて、それからもずっとそんなふうに言われ続けてきています。


伝統ある長野北高校へ進む


kura2.jpg私は、長野県立長野北高校の出身です。北高校は長野県でも伝統のある学校でした。高校1年の時には、生物班に入り、顕微鏡で精子を見るなんてこともやっていましたよ。大人になってから、2〜3回、この時の生物班の同好会に出ています。10年ほど前に、当時の生物班の会を新たに作るからと届いた発起人の名前は、京都大学で研究をしているような人でした。生物班に入っていた人たちの大半は、その後農林省に入ったり大学の教授になったりしています。


北高校は、長野でも下宿させても行かせたいと親が思うような学校で、もともとは男子校でしたが、女性が一人初めて入ってくる、そんな時代でもありました。同級生の3分の2くらいは大学に進学し、いじめなどは無く、北高校に通っていると、皆から一目置かれるようなそんな学校でした。


大蔵省の証券局長(次官級)になった優秀なやつがいたり、慶応大学を出て、地方紙ながら信濃毎日新聞という長野県民の大半が取って見るような新聞社の社長になる人。そして、500人ほどの生徒の中で成績が1番か2番ながら、父親が早くに亡くなってしまい、当時の校長先生が保証人になって、高卒で富士銀行(現:みずほ銀行)に入ることができた優秀なやつもいます。叔父の仕事の関係で、富士銀行の行員名簿を見る機会があった時に、中に彼の名前も見つけました。大卒でなく、高卒で入ると最初からラインが違ってしまうのですが。


私が尋常小学校2年の時に、学校の制度が国民学校へと変わり、また高等小学校高等科が新制中学へ、というように、学校の区割りも制度も大きく切り変わる時でした。私が通う頃は、戦争が終わって間もない時だったので、将来のことは何も分からないし考えられないような状況でもあったのです。でも、中学の時の友達は、ガキ友達でずっと続いています。


高校の友達は大学を出た人が多く、同級会に行って自己紹介すると、すごいやつが多くて、おれみたいに靴屋になったというと、「ふ〜ん」というような雰囲気になることもあります。中には大学へいかないでも、出世した仲間もたくさんいるんですけどね。


多感だった高校時代


kura3.jpg高校時代の私は、コルホーズとかいうような社会主義に憧れていました。でもしばらくして、みんな平等で、やってもやらなくても取り分が変わらないというシステムに面白みを感じなくなりました。そして、労働貴族である連合や組合長などのトップになるのは、東大出の頭の良い人たちばかりだし、資本家のトップの連中もまた、利口なやつがうまく上に立つのだと分かってくると、どっちがどっちともいえないなと思うようになりました。


そんなふうに生半可に世の中を見てしまって、将来これで生きていこうとかいう計画が立たなくなっていたように思います。その都度その都度の生き方で、そんなに望み高くしなくても良いのでは・・・。そんな考えになりました。


小学校6年の時、先生からいわれた、鶏頭(にわとりの頭)と牛のしっぽという話を思い出します。しっぽでも、でかい所に就いて生きていくか。小さくても鶏の頭のようになって人の上に立つか。二つの生き方があるよと言われ、自分でよく考えなさいと教えられました。


時代はだんだん競争社会へとなっていきましたが、私はというと、人を蹴落として何が何でも一番にならなくても、自分なりの目標を定めていけば良いと、割合にのんびり考えるようになっていました。


加えて、高校生の時に蓄膿症にかかったことで、授業が散漫になってしまいました。蓄膿症は、結局、東京に出てから手術することになるのですが、今思えば、早くに手術しておけば良かった。その時は手術するのが嫌だったのです。そんなこんなで、重い蓄膿症では優秀な人たちと互角に競争するのは大変だなとも思っていました。


社会もだんだん変わってきているし、資格を取ってトップばかりをねらうのではなく、職人的な考えで生きていくこと。職人的な生き方をすれば、いつの時代でも人に世話をかけないで生きていけると思うようになっていました。


靴メーカーとして生きていくことに


私は学校を出てからは、叔父さんの店で、問屋から革を買ってきて、靴メーカーにそれを売るというようなことを仕事としてやっていました。叔父さんのところには、娘1人息子2人がいました。


kura4.jpgいつか、息子のどっちかが店の跡を継ぐようになるかもしれない。そんな時に、私のような親戚が店にいつまでも居るというのはどうだろう・・・という話が出てきて、私は、違う商売を始めるか、独立した方が良いのではないかと考え始めました。当時私は、他の人とは違うものを作って靴メーカーから喜ばれていたので、靴屋の仕事としては、同業の人よりも勝てていました。


お金は無かったんだけど、他の靴屋さんと違ったことをすればやっていけそうでした。だったら、独立しても良いかなと考えました。腹を決め、五年くらいそのための修行をして、独立するきっかけを待ちました。


芝浦の屠場(屠殺場)から三輪車で皮を持ってくるのですが、皮といっても、豚の皮をはいですぐのものなので、内臓は付いてないのだけれど、多少の肉だとか耳だとかしっぽだとかがまだ付いています。お得意さんの所へそれを持っていっては、みそ汁の中へ豚の鼻をスライスして入れたりして食べました。それを見ていた小僧さんたちが、東京のちくわは穴が二つあるのかなどといったり・・・。思えば、楽しい青春時代だったですよ。


そうこうしているうちに、行きつけのお得意さんの靴屋が、勘定が払えなくなったから「50坪ほどの自分の店を供出するがどうだろう。」という話を持ってきたのです。その話のお得意さんと、靴作りは一人職人を引っ張ってくることにして、おれが靴を売れば良いじゃないかと考え、そのことがきっかけとなって、3人で靴屋を始めようと思いました。


それまで叔父さんの店に対して、自分としてはそこそこに稼ぎもできた方だから、おれが独立する時には、叔父さんも資金を出してやるからといってくれていました。叔父さんからは100万円くらいは出してもらえるかと思っていました。それを資金として、他の2人がいくらか出し、有限会社「大倉製靴」が始められると思いました。


でも実際に、叔父さんのところを辞めることになった日の最後の最後、挨拶して店を出る時になっても、叔父さんからは何ももらえなかったのです。あの時は裏切られた気がして、店から帰る道々涙が止まりませんでした。3人でやろうと、他の2人は上座におれの席を用意して、おれがお金を持っていくのを待っていてくれたのに・・・、お金はもらえなかった。それでは話が違うからと皆で考え直そうと相談しました。


すると程なく、20万円の定期証書を貸してくれるという人がいて、すぐにそれを換金することができ、また他の2人からもお金を出してもらうことができ、どうにかこうにか、ようやく工場をスタートすることができました。


叔父さんの店を辞める時、そこで働いていたおばちゃんたちは、どうせまた、大倉さんはすぐに頭を下げて戻ってくるだろうと話していたようです。叔父さんの方も、そう簡単にはうまくいかないだろうから戻ってくるに違いないと思っていたのかもしれない。後で考えると、どうやらおふくろともそんな話になっていたようですが。


スタートした当初は、借り受けた工場はおんぼろ靴工場で、雑然としていて、まず初めに便所の掃除から始めましたよ。残っていた従業員も、あまり良い人はいなかった。

そこも1年して3人でやるのは解消しました。おれが主流だとみんな思ってしまうので、私も、共同でやるのは早くにやめた方が良いとは思っていたのですが。


順調だったが、波乱も


kura5.jpg叔父の店で働いていた頃に、ある靴屋に材料を売りに行った時のこと。顔見知りの問屋さんが来ていて、おれが靴屋をやるつもりだといったら、もし、あなたがうちに売り込めるような靴を作れば、どこでも買ってくれるはずだから頑張れと言ってくれました。また、浅草の橋場というところで工場を紹介してくれる人も出てきました。家賃は10万円ほどで、丁度良かったので貸してくれるように頼みに行こうと思いました。


当時の浅草の橋場というと、バカでかい御屋敷があって、たいそうなお金持ちが集まっているような場所でしたよ。工場を貸してくれるように頼みに行った所では、おれの顔を見て、この人は家賃を滞納しそうにないと思ったそうで、すぐに仕事場として貸してもらえることになりました。私は、その時はまだ独り身でした。貸してくれたその人には恩もあるもんだから、その後もえらいご奉仕することになるのですが。


しばらくして、大家さんから、そこの場所を正和自動車という北千住のタクシー会社に売りたいので、大倉さん違う所へ工場を作るから移ってくれないかと言われました。自分たちはそれでも仕事はできると思ったので、移りました。


仕事は順調でした。家賃もだんだんに上げて、最後は四十万くらいだったように思うのですが、毎月、北千住の大家さんの所へ持って行く、そんなことを張り合いにして喜んで働いていました。


それから、ちょうどバブルの時代になっていきます。不動産屋さんが「借りていても何だから、その場所を買わないか」という話を持ってきたのです。そして、バカ高い買い物をしてしまい、多額の借金をしょい込んでしまうことになりました。私が50代半ば頃です。そんな金があれば他の場所へ移っても良かったのに。


当時、私の家には風呂がありませんでした。風呂好きの私のかみさんは、毎日3時か4時になると近所の風呂屋に行って、一番風呂に入るのがなによりの楽しみだったんですね。そのことを理由にしたら、かみさんは怒るだろうけど、その場所にすっかりなじんでいたので、その場所から簡単には離れられなかったこともあります。


工場は、建てつけが良いとは言えないのですが、貸し工場ではあっても、大家さんから新築で建ててもらっていたし、感謝して住んでいました。そこを安住の地と思って、家賃も働いていれば払えていたのが、結果として転落の道を選んでしまいました。私の工場でしか創れないというような靴もできていたのに。


そして、バブルの影響で商売をたたまなければいけないという経験もしました。うまくやれば家1軒くらいは残してつぶれることもできたのですが、私のために財産を取りっぱぐれてしまったとかいうことがないように、銀行の方だけは法的に整理して、あとはなし崩し的に支払いを全部きれいにしました。助けてくれた人もいましたよ。


それだから、今でもうちのかみさんは、大手を振って浅草の仲間のところに遊びに行けたりしていますよ。


いろいろな種も蒔きました


こどもは娘1人です。そこに婿がきてくれて大倉姓になってくれました。娘たちは、椿山荘で式を挙げましたよ。婿は東洋エンジニアリングに勤めていましたが、そこをやめて靴屋になってくれて、10年くらい私と一緒に靴屋をやりました。2人には子どもは授からなかったんだけど。

kura6.jpg kura7.jpg

     大倉製靴制作の靴


娘は銀座の三越の食品売り場に勤めていたことがあります。三越とはなにかとご縁があって、面白い話もあるんですよ。私が最初に世話になった叔父さんの革屋の名は「三越商店」というのですが、叔父さんが「越 三郎」という名前だったから付けた名前なのです。


当時の三越デパートへ叔父さんが靴の革を売りに行った時に、商標登録に違反するから名前を変えるようにといわれ、「光越商事」にかえたという経緯があります。叔父さんの会社も、そこそこに大きくやっていたからということでもあったようですが。


ちなみに、私の靴屋は「大丸商店」(後に「大丸製靴」→「大倉製靴」へと変わる)という名前でしたが、あの「大丸」からは特別クレームはつきませんでしたよ。


私の所で作った靴の写真を見て下さい。当時、新聞社が業界紙に載せるからと、私の「大丸製靴」が創った靴を撮った写真です。


この他の一般全国紙や雑誌にも出たり、昭和48年頃、松島トモ子が履いて週刊誌にも載ったりしたこともあります。一足、5万円です。「パンタロンも走る」などといってパンタロンが流行っていた時代でした。ハイヒールでは歩きにくかったけど、私の靴はストーム底が厚いのでよく売れました。底の高さは二寸(5〜6センチ)で、この時の靴が元になって、いまだにヒールの厚い靴を若い人が履いてくれています。


 その当時、ここ「大丸製靴」でしか創れないというような靴もできていました。その頃は、種をいろいろと蒔いたんですよ。

今、業界からズバッと足を洗うということは、生半可にしていると、どっかへ迷惑をかけることがあっちゃいけないとの思いもあるんです。


あの山田洋次監督の「男はつらいよ」の映画の中でも、私の工場の靴が使われたんです。シリーズの48作目「寅次郎紅の花」の時です。満男の就職がどうのこうのというストーリーで、葛飾の靴職人役で、私も、私の靴と一緒に出ました。山田監督に、ふだん通りの言葉でしゃべって下さいと言われましたが、結局、緊張して何もしゃべれなくて・・・。頭が真っ白な状態でしたよ。


この映画の関係で、今でも葛飾区の寅さん記念館共催の「寅さんよもやま川柳」というものにも参加しているのですが・・・。


そこで選に入った私の川柳です。

 ・生きてます三途の川に寅の顔

 ・チャブ台と寅とさくらとおばちゃんと

         

愉しんで、社会活動もやっています


仕事を離れた今は、平成23年から、葛飾区の地区センターで「回想法」を始めました。やり始めてからもう5年になります。


注)回想法とは:おもに高齢者を対象とし、その人の歴史や思い出を、共感しながら聞くことを基本とする心理療法の一つ。世代間交流や地域活動として利用されることが多く、葛飾区では全国に先駆けて活発に行われています。


kura8.jpg 回想法を始めたのは、婿のお父さんが超音波の「ミューマ」という器械を作っていたことからです。「ミューマ」で頭に電極をあてて、超音波で脳に刺激を与えると、認知証のリスクがうんと減るということなのです。


ちょうど葛飾区の高齢者支援センターから「回想法」の案内がきたこともあって、イメージとして「ミューマ」と「回想法」は認知症予防に関連があると思ったので始めました。その時の区役所の担当者が同郷の長野県出身だったということで、のせられてしまったようで、会の代表にもなっています。


毎月与えられるテーマに添って、地区の仲間と集まってやっています。毎回手作りで、個人的にその時の「回想法」のテーマに合ったポスターを作っては、会の時に持っていっています。ポスターの絵文字やイラストなどは、いろんな新聞などのチラシを参考にしています。武田双雲さんの妹さんや、金澤翔子さんの文字などからイメージを膨らませ、作っています。


画家の池田満寿夫氏とは長野北高校時代の知り合いで、彼直筆のサイン入りの本も持っているのですが、時々参考?にさせてもらいながら作っていますよ。でも、やつの絵は、彼の母親がいうように近所にはちょっと配れないような絵が多いですけどね。(笑)彼についてはいろいろなエピソードがあるんですよ。


こんな回想法の時のポスターもそうですが、私も絵は下手なりに描いたりしています。中学3年の時の担任の先生で、途中で教員を退職し、陶芸の道に入られた先生がいるのですが、いまだにその方とも続いていて、その先生の所に顔を出しては、皿を作ったりして、うまいへた関係なくいたずら書きなどしています。


「ディベート」にも参加しています。ディベートは、全国的に広まっているもので、例えば、その時に関心が持たれているような「結婚したらどちらの姓を名のるか」など一つのテーマを研究し勉強します。そして、賛成反対に分かれて議論し、相手の弱点についてテーマを深めながら討論していくもので、最終的には審判を受けることになります。


これは、全国的には創価大学が伝統的に強いのですが、葛飾区シニア支援センターで募集があったことをきっかけに、最初は何が何だか分からなかったけど、面白そうだったので入り、今は三十人くらいで続けています。


注)ディベートとは:その時話題になっているテーマについて、賛成反対の立場に分かれ議論すること。討論(会)とも呼ばれているもの。


娘たちと暮らすこの頃です


今は、娘たちと暮らしていて、娘たちに食わしてもらっているようなもんです。年齢的にも、自分の身体が動けなくなるのも、もうすぐ近くに来ているから、いろいろ、考え方の切替えが必要かなと思っています。


うちのかみさんは、腰の具合は良くないが、元気にやっていて、月に2〜3回ほど、自分が信じる横浜の宗教法人に通っています。その宗教法人は、あれよあれよという間に大きくなっていって驚くばかりですが、かみさんはかみさんなりにやっているようです。かみさんの姉はアメリカに、妹はカナダに住んでいます。


私は、特別な宗教だけにのめり込む方ではないのですが、宗教がらみの繋がりもたくさんあって、創価学会の山口(代表)さんの選挙の応援なんかをしたりしています。宗教は分からない所もたくさんあるけど、宗教がらみでは民主音楽協会とも交流があります。ここには、東大出などの優秀な人が多くいて、たいしたものです。こんなような、多くの人とのつながりは、私なりに大事にしています。


娘たちは、一生懸命やっていることだし、まぁ、今は平穏に暮らしています。婿は、もと勤めていた、東洋エンジニアリングにまた勤めることができました。

中途半端を絵に描いたような私の人生だけど、悪い方にはいってないなと自分では思っています。笑っちゃうくらい、くそ真面目な道を選んでしまった。今は、靴屋はやっていませんが、そんな人生です。


願うことといったら、何度か大病も経験しましたし、出来る限り健康でこどもたちの世話にならない身体をつくることですね。



あとがき


大倉さんとは、平成27年の秋に葛飾区の「回想法」の講座でお会いしたのが始まりですので、まだ日の浅いお付き合になります。お会いした当初より、風格があり、講座の中でも存在感を示されていたお一人でした。ご出身が長野県とのことで、お隣の新潟出身の私としては勝手に親近感を覚えたりしていました。


この度の「ききがきすと」の話し手としてお願いしたのは、大倉さんの包み込むようなお人柄にひかれたからのように思います。「ききがきすと」については、最初は馴染みがなく戸惑われたことと思いますが、私の問いかけにいつも「そうだね。」とまず応じて下さって、楽しいお話ばかりではなかったはずですが終始明るいお話振りでした。


人の恩を忘れることなく、人とのつながりを大切にされてきたこれまでの生き方は、今現在の人脈の多さや、穏やかなご家庭の在り方に現れているように思います。


お忙しい中、あたたかな時間の共有に感謝しつつ、これからも宜しくお願い致します。


ききがきすと担当:桑原雪枝

続きを読む

posted by ききがきすと at 22:39 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月14日

ミクロネシアの野菜隊員

語り人 富田裕子(とみた ゆうこ)さん



恵まれた自然のなか、生き物に囲まれて

新潟の実家から十分も歩けば海だったので、子供のころは、夏になると毎日のように海で泳いでいました。山はないけど、海の生き物とか、近くの原っぱの植物とか昆虫とか、とても面白いものに出会えたんです。水族館や植物園もよく行きました。空の星をながめていると、かたちが変わっていくのが不思議でした。今はもう無くなっちゃった豊かな生活ですねえ。


 こういう豊かな自然を、目いっぱい楽しんで過ごした子ども時代が、生き物大好きの性格をつくって、さらに自分という生き物への興味にもつながって、人間に関心が向きました。だから将来の夢は小学校の頃は学校の先生だったけれど、中学校以降はお医者さんになりました。治療法が見つかっていない病気に取り組みたい、と考え、医者を志したこともあるんです。


理系の母と文系の父


マリー・キューリー.jpg母はレントゲン技師なんですよ。今もう70歳を越えてますから、とっくに定年退職したんですけど、今も人手が足りないときには、仕事を頼まれて、一日単位で行ったりしています。母の生家は兼業農家で、私の祖父は、学校の事務の仕事をしていました。当時の田舎は、女の子なんて高校は卒業さえすりゃいい、なにより結婚するほうが幸せっていう風潮だったようです。


だけど、祖父が「そうじゃなくて、女性も教育を」と言ってくれたそうで、ちょうど新潟に医療技術短期大学(現在は新潟大学医学部保健学科)が新設され、そこの放射線科に入ったんです。母の弟も、この放射線科を出てレントゲン技師になり、卒業後は大学に残り、近年まで教えていました。


トマス・エジソン.jpg 父は十代のときに父親を結核で亡くしました。長男として、残された母親や他の4人の兄弟のために、高校に行くのもやめて働け、と親戚中から言われたそうです。でも、なんとか高校だけは出させてもらって、県の職員になり、県庁で働きながら短大に通って、短大卒の資格をとった人なんです。


 父と私は頭の構造が違いますね。興味・関心の対象が違うんです。話が飛んじゃいますけど、うちの主人が文系で、歴史とか好きなんですよ。だから読んでいる本とか、興味を持つ本とか、うちの父と同じですね。でも、わたしはそういう本、興味持てないんです。 

  

野口英世.jpg高校2年から理系文系に分かれてしまったので、理系の私はそれ以来、歴史は勉強してないんですね。たとえば徳川家康、豊臣秀吉ぐらいは分かるんですけど、明智光秀となると、「えーっと、どの時代の、どんな人だっけ?『本能寺の変』っていつだっけ、なんだっけ?」と、そういう調子です。


 理科に関連する歴史上の人物、例えばキューリー夫人、野口英世、エジソンなどの本は読んで、全部頭のなかに入っているし、古代の地層なんかなら、ずっと詳しく説明できます。その時代の産業になると、「えーと、ァ、産業革命?なんか勉強したけど、どの時代だっけ?」という感じで。


 *写真は、上から、キューリー夫人、エジソン、野口英世


卒業そして就職:輸入野菜を扱う仕事に


富山の大学に入学、生物学を専攻し、その後は食品関連の仕事につきました。1990年代の卒業ですから、地産地消が言われるちょっと前で、その頃から輸入食材が増え始めていたんです。新しい食品はだいたい大手の商社が輸入してくるんですね。でも、その販路開拓を地方でするとなると、都会とは違って、どっかに拠点を作ることが必要になってきます。わたしの会社がその拠点になって、販路拡大を受け持つわけです。


そこで、地元の野菜と競合しないように注意をしながら、輸入野菜をどう食べるのかを説明して、それを売らなきゃならない。例えば、スーパーなどに行って説明し、「こういう特徴のある野菜です。取り扱ってもらえませんか?」という営業もし、実際に料理のレシピを提供したり、お料理を作ったりしていました。

  

転機――人生やり残したことが


食品の仕事は楽しく、当時おつきあいしていた人もいました。二十代後半になると結婚話もでてきて、わたしの人生こんな風に、平穏無事に行くのかな、とも思い始めました。 反面、このままこの人と結婚して、この仕事続けていく…と考えると、なんとなく自分の先が見えた感じにもなりました。自分の人生に何かやり残したことがあるんじゃないかって気がし出して、「これは一体なんなんだろう」って、2年くらい悩みながら生きていたんです。


 母親みたいに手に職をつける道もあったし、お医者さんに挑戦する、という事も考えました。それとは別に、海外に行って暮らしてみたいっていう思いがあったんです。旅行して違うところに行くっていうのは、私にとって「非日常」で、ふだんの生活から離れたところで息抜きができて、気分転換になり、そして新しい発見があるんですね。だから、いろんなところに行くのが好きで、お金を貯めては旅行していました。


高校までずっと実家から徒歩通学で、大学のときに初めて県外に出て一人暮らしをしました。それで結構、異文化を味わいましたが、さらに海外でもっと長く滞在してみたいな、旅行でなく住んでみたいなと思うようになったんです。


そしてJICAと出会う


青年海外協力隊募集説明会ポスター.jpg30歳過ぎちゃうとキビしいかもしれないから、二十代の最後に、結婚という選択ではなくて、自分がやり残したことをやろうって思いました。それも最初で最後のチャンスだと考えているときに、ちょうど「青年海外協力隊の募集説明会をやります。これが最後の説明会です」っていうお知らせをテレビで見て、新聞でも読んだんです。 

                    青年海外協力隊募集説明会ポスター


 今思うと、当時JICA(国際協力機構)は、全ての都道府県でこのPRをやっていたわけではないんですね。全国に6人の国際協力推進員というのが配置されていて、たまたまその1人が活動している地域に、私が住んでいたんです。だから、身近な地元の新聞やテレビで募集説明会の知らせを見ることができたわけです。


無理かも、でもやってみる!


私は、海外で仕事をする人っていうのは、特別な教育を受けて、それなりのトレーニングを積んだ人だ、と思っていたんです。だから自分には無理かもしれないけれど、どんなものか1回は説明を聞いてみよう、という気持ちで出席したんです。これがそのまま海外ボランティア参加になってしまうなんて、考えもしませんでしたし、もちろんその時点では、仕事も結婚も、やめようなんてぜんぜん思っていませんでした。それが平成9年(1997年)の秋のことです。


 この「秋募集」の説明会でもらった募集要項のなかで、私の資格要件に合うと思われるものが、「ミクロネシアでの野菜栽培指導」っていう職種だったんです。健康診断も受けて、書類も出して、一般教養と英語の試験を受け、さらに、私の応募職種の野菜栽培に関する、記述式の問題が出されました。


試験はきびしく


1次試験が受かると、2次試験として個人面接と技術面接がありました。個人面接は「人となり」を見るもので、「なぜ理数科教師に応募しないんですか?」とか聞かれました。技術面接は、1次試験に採点を担当した東京農大の先生が、どのくらいの知識や経験があるかを、容赦なく質問してくるものでした。


tomita1.jpg 記述問題の中に「野菜の劣化や鮮度保持」に関するものがあって、わたしは「レタスを包丁で切ると切り口が赤くなる…」他、数例挙げて解答していたんです。答案を採点した先生に面接で「では、なぜ赤くなるのかわかりますか?」と質問されて、エチレンガスがどうとかこうとか…と説明したんですけど、「あなたの知識は、理科の知識であって、農業の知識じゃないです。農家さんはそういう説明はしないですね」って言われてしまいました。農家としての、収穫後の野菜の保存方法や技術を聞かれていたのに、私は家庭レベルの取り扱いを、理科の知識で説明してしまっていたのです。


合格、あたふたと出発


 もし合格しても、普通なら6か月くらいは猶予あると勝手に思っていた私は、職場には簡単に「試験を受けます。受かったら行かせてください」と言ってあっただけでした。でも、2次試験が2月なのに、合格通知が3月初め頃に届き、『合格ですが、条件付きです。農業研修をしてください』とありました。日本の寒冷地の農業と暑い国の農業とは違うから、それもそうだな、と納得です。


『詳細は追って連絡します』とのことなので、職場には「すみません、合格しました。訓練の期間に入ったら辞めさせてもらいます」とだけ伝えました。ところが、それから1週間たたないうちに来た通知には、『4月5日から5か月半の農業研修。東京農大・宮古亜熱帯農場にて』と書かれていました。


 こんなにあたふたした状況で、職場への退職予告はなんとか1か月前に間に合わせましたが、自分の移動が大変でした。年度末で引っ越し業者はなかなか、つかまらない。やっとつかまえても3月31日の午後なら…と言われる始末。結局、その日でお願いするよりなかったのです。当時は富山に住んでいたから、まずは新潟の実家に荷物を送り、それから自分自身は新潟、そして沖縄と移動しなくちゃならない。


荷物をやっと送ると、もう電車が無くなっていて、ホテルに一泊し、翌日新潟に帰ったんです。名残雪がちらつく寒い日でした。実家に帰ってすぐ、送った荷物を受け取ってぜんぶ片づけると、今度は新潟から夏の沖縄です。半袖の衣類や研修用の書類を詰めたり、郵便物を出したりして、新潟から直行便で沖縄へ。そこから宮古へ飛び、研修所に着いたのはぎりぎり…。もう泣きましたね。「こんなのもういい!」と思いました。


 こういうありさまでのスタートでしたから、職場に未練とか、そういうことを感じるひまもありません。9年も過ごした富山県でしたが、名残りを惜しむ間もありませんでした。自分の荷物を片づけるだけでいっぱい、いっぱいで、お別れ会どころじゃなかったんです。


宮古島のくらし 当番にあけくれて


 一緒に研修をスタートしたのは、男4名、女7名でした。職員4人も含め15人の世帯です。ひとり暮らしで、スーツを着て仕事をしていたOLが、4人部屋に入れられ、いきなり農家の嫁状態で、毎朝暗いうちから自転車こいで山道を20分のぼり、7時すぎまで農作業でした。当番のときは早めに宿舎に戻って7時半までに15人分の朝食の支度、片づけをしてから、講義や研修を兼ねた農作業。昼食や夕食の支度もあるし、夕方にはお風呂の掃除と準備、野菜の水やりも欠かせません。


レポートの提出もあって、ずっと時間の無いまま…、これが協力隊なのか…と、もうほとんど挫折していました。個室に入れると思い込んでいたのが違っていて、だからストレスでずーっと太って、それだけ働かされながら、まずはここで10キロぐらい太りましたね。


ひとり実験を


南の島に行くのだからと、それなりに、いろいろ派遣先のことを調べました。ミクロネシアは土が違うし、土の層も薄いということなので、行ってみなければ何が作れるか分かりません。最初に、先生に言われて、みんなで10メートルくらいの長い畝をだーっと作り、決められた担当場所に野菜を作りました。また、農大のマンゴーやサトウキビの世話をしながら、プランターくらいの小さいところで、二十日大根の生育実験みたいなことをやっていました。


 環境条件や土壌条件を変えて実験したんですが、先生に、それは農業の実験じゃない、着眼点が違うとか言われて、ああまたダメか…と。農業の人の実験は野菜を植える間隔とか、畝の高さとか、そういうことでいろいろ試すみたいですね。ここでもやっぱり私は、農業研修じゃなくて、理科の実験みたいなことをやってしまったんです。


 肥料の問題もありました。もちろん肥料を作った経験などありません。まず、コンテナに材料を詰めて、堆肥をつくる場所まで手で運ぶ。運が良ければリヤカ―が使えたけど、これが本当に重い。ひとつ2030キロにもなるんです。材料を合わせた後は、シートをかぶせたり、取ったり、定期的に温度を計ってかきまぜる当番というのもあって、「いい菌」が発酵してくれるように、安定するまでかきまぜて腐らないようにするんです。

ほんと、農家のお嫁さんになったような気がしましたが、いい経験だったと思います。


農業研修の次は


農業研修を終えてから、改めて富山へ挨拶に行きました。宮古から直行したので、私だけ日焼けして真っ黒です。それから今度は、次の研修場所である長野県の駒ヶ根に行かなくちゃなりませんでした。9月の初めから11月の終わりまで3か月かかるんです。11月なんてもう寒いんですよ。


 半年前、富山から新潟に送った秋冬物を詰めて、旅の支度をしました。駒ヶ根へは新潟から、上越、ローカル線に乗ってひとつ乗り換えて、今度もまた一泊しないと行けなかったですね。一週間のあいだに荷物を詰め替え、送るものは送って、日焼けした真っ黒な顔と茶色くなった髪の毛で行ったら、色の白い、ほっそりした人たちでいっぱいでした。当時の隊員は、現在のように年4回ではなく3回の派遣だったので、研修期間が長く、土日は休みですが79日間、朝から晩まで英語の語学訓練でした。


ここでも試験の洗礼


研修仲間と 右から2番目.jpg 一番初めにテストがありました。英語のテストと、国際協力に関する記述試験で、あまり見る機会もない。


 ← 研修仲間と

   右から2番目


例えばJOCV(青年海外協力隊)などの英語の略語について、それを正式名称で書き、日本語に訳して、その意味を説明しなさい、なんて設問でした。当時の私は今と違って、JICAの活動内容さえよく知らなかったし、書かれている言葉を理解していても、国際協力の世界とどう関連させて書けばいいのか、お手上げでした。


 当時の研修所での生活は今と違って、軍隊の訓練に近いというか、朝起きるとまず点呼があり、マラソン、ラジオ体操の後、やっと食事です。それからずっと1日中7時間勉強して、夜ようやく自分の時間が持てるかな、という毎日でした。


でも、このときは、個室こそ改修中で入れませんでしたが2人部屋です。宮古島の農業訓練は4人部屋だったから、まァ、ずっと良くなったと言えます。当時、宮古島のストレスで10キロ近く増えた体重は、ここでの高カロリー食とストレスで、さらに6キロ増えました。


いざミクロネシアへ

私の仕事は?「ミクロネシアでの野菜栽培指導」は? 


ミクロネシア 連邦 ポンペイ 島.jpg駒ヶ根での研修中に配属先変更の連絡をもらいました。ミクロネシア農業プロジェクトに中国資本が投入されたことにより、日本のボランティアはもういらないと言われ、配属予定だった農業省のオフィスもなくなってしまったということでした。

 ミクロネシア連邦ポンペイ島 →

 関係省庁によりプロジェクトが改めて検討された結果、スタートから7年を過ぎて、野菜の栽培指導はある程度目標に達したと判断されたのです。そこで、ステップアップして「栄養教育」プロジェクトを、ポンペイ州の保健局が担当し、そこに青年海外協力隊4代目の野菜栽培指導員である私が入るという展開になったのです。


ユミコとふたりの子どもと.jpgポンペイに着いてみると、前任者は、機材や、過去の書類などを保健局へ運び入れてくれてはいたけど、協力隊員の仕事環境の整備としてはそれだけです。オフィスも整っていなければ、カウンターパートと呼ばれる、一緒に仕事をする現地人スタッフもいない状況からのスタートでした。 

 ← ユミコと二人の子どもと

 着任後の関係者会議で、私はポンペイ州のコーディネーターにされてしまいました。本来ならボランティアは、そのポジションにつけないはずなんですが。


主要課題は母子健康、それからビタミンA欠乏症対策と、あとは糖尿病や高血圧対策などにも取り組むことが決まりました。成人病予防のための改善活動っていうのは以前からあったから、まず家庭菜園の普及、次に栄養教育、それから私が日本の会社でやっていた「野菜を食材に使ったレシピを作ることと、実際にやってみせる」ことを、オフィスに隣接する州立病院や、島内に5か所ある診療所などを拠点に、人を集めて、普及活動として実施することになりました。


 カウンターパートの問題は、栄養について学んだことのある看護師さんをつけてもらえることになりました。


名前がユミコと言うので、「えーっ!日本人みたいな名前ね?」と驚いたら、日本語を知っているおじいさんがつけた名前だと教えてくれました。そういう、紛らわしい日本名の人が結構いるところでした。ポンペイ州にも日本軍が駐留していた時期があり、年配者の中には日本語が話せる人もいたんです。


栄養キャンペーンと苗配り


ミクロネシアの人たちの、もともとの食生活はココナツミルクと魚、あとはタロイモ、ヤムイモ中心なので、本来の食事をしていたときは、そんなに肥満はいなかったそうです。結局、外国からの輸入品…缶詰、インスタントラーメンなんかが入ってくることによって、肥満や成人病が増えてしまったわけですね。


レシピの紹介と実演.jpg私たちの仕事は、昔むかしの日本が、保健所で栄養指導のために人を集めてやっていたような感じで、まず、ささっと料理の下ごしらえをしてみせます。それを煮るとか蒸すとかしている間に、カウンターパートのユミコが現地語で、今日はどんな材料を使っていて、どんな栄養が含まれているのか説明し、私もそれをサポートします。

      レシピの紹介と実演 →

この島の土壌の層は薄くて、栽培に向く植物は少ないんですね。だからそこらへんにある茎とか葉とか、例えば、現地語でチャヤと呼ぶ、食用ハイビtomita2.jpgスカスの葉っぱとか、さつまいもの葉やツルとか、そういうものを使ってのレシピの提供をするわけです。そして皆で試食をして、終わった後はエクササイズです。みんな食べたあとは体を動かしましょう、という趣旨で。


最後に苗を配って、みんなも自分で作りましょう、と呼びかけるプランにしたのですが、苗はそう簡単には育てられません。たとえばニラとか、暑い地域でも育つ品種のホウレンソウとかは、ここでも家庭菜園にはとても向いてます。だけどトマトは水が多いとダメなんです。


それで苗床を高くして、ビショビショにならないようにすれば、もしかしたらいけるかも、っていう試作も、ユミコと2人でやりました。山から土を運んでくる作業から始めて、これならみんなの家でもできるよねって結論を出してから、育てた苗をセメントなんかの、水漏れしない袋に植えて配ってあげました。植木鉢なんて手に入りませんから。 

     

きりない仕事

                    

 協力隊としてのJICAへの報告書はさておき、プロジェクトコーディネーターとしての仕事量は半端じゃありませんでした。「ユニセフ」からお金をもらっているので、定期的な広報の作成の他、何種類もの報告書、年間活動計画書、予算案作成と執行管理が義務付けられており、別に「South Pacific Committee」からもお金が出ていたので、そちらからも同じようなことが求められました。配属先の州の保健局、連邦政府の保健省にも毎月活動報告書を提出しなければなりません。


さらに「世界食糧デー」などのイベント開催や会議、マスコミ対応も多かったですね。その他、退学児童の更生プログラムへの協力、地元の小学校での出前講座、教科書改訂の手伝いなどもやりました。それに日本からの視察団の受け入れアレンジとか。


それまでも、そこへ行ってみて初めて、想像していた仕事と現実のミスマッチが分かる、ということはよく経験したので、仕事量は別としてこういう想定外の仕事が、多種多様降ってくることにも、不思議とあまり驚かなかったというか、そういうこともあるかなと自然に受け止めていました。


不備な受け入れ態勢からスタートした仕事でしたが、こうして少しずつ軌道に乗ってきました。でも、量も多く、レベルも高い業務をこなすには時間がかかり、平均睡眠時間は3時間くらいだったんじゃないかしら。イベント前や提出書類の締切前には、1週間の睡眠が何と10時間だけという時もありました。日本語で書けば30分で終わるものが、英語や現地語だと3時間くらいかかってしまって。それに文書をつくるのに、国際機関の様式なんて習ったこともなかったから、涙ものです。


範囲も広がる量も増える


 幸い病気もせずにすんだけど、仕事はどんどん増え、現地のニーズも高まる一方でした。そのうち公衆衛生指導もやって欲しいとか、母乳育児の指導にも加わって欲しいとか、集団健康診断の受付や補助の依頼もありました。最後は、州立病院の入院患者向けの献立作りまで手伝って欲しいと言われたけど、そこは「栄養士ではない私にはちょっとできません」と断りました。


 そして任期の終わりに、このプロジェクトの今後の計画への提案として、これまで10年間、野菜を育てる、普及する、をやって来たから、野菜隊員は私で終わりにする、これからは第2段階として、栄養士さんに来ていただいて、もっと専門的な栄養指導や病人食の管理について進めるようにしたらどうでしょうって言いました。


 こうして、今後は経験豊かなシニアボランティアさんを入れること、それと私のパートナーのユミコを、日本で研修させることを決めてもらったんです。偶然にも、私の後任の栄養士の方は郷里の新潟の人に決まりました。また、ユミコの日本での研修先のひとつが新潟にある大学になって、彼女と地元で再会できた時には、本当に嬉しかったですね。


 全訓練期間で増えた体重は、ミクロネシア赴任後、ぽーんと13キロ減りました。一年ぶりの一人暮らし、やっと自分の世界が…って幸せで。どうしても落ちなかった残りの3キロも、帰国後にスッと戻りました。


プロジェクトを終えて


ミクロネシアに着いた時から予想外の連続で、仕事をスムーズに進めようといろいろ要望してみても、結局、機関の支援はなくて自分でやるしかない、という状態でした。ですから、任期が終わって帰国するときには、正直なところ「もういい!こういう仕事には二度と関わりたくない」とまで思っていました。もう『国際』は満足したし、『外国で暮らしたい』という希望も十分かなった。結局、自分には向いてないと分かった、と結論付けて帰国しました。


 それに富山で9年暮らし、研修に1年、ミクロネシアで2年過ごしたわけで、帰国時には私も三十歳を超えていました。もう地元に落ち着いてみよう、Uターン就職じゃないけど仕事に就いて、自分で決める道を行こうという気持ちでした。


 地元にも協力隊のOB会があるので、いろんなイベントのお手伝いをしたりして過ごす中、仕事も、春から銀行に勤めることが決まりました。ちょうどインターネットバンキングが、地方でも普及し始めた頃で、私の経験を活かした業務への取り組みを期待してくださったようです。仕事上必要な資格試験も社命で急ぎ受験させられ、各種用語をはじめ、覚えることもいっぱいあり、新しい世界の充実した日々が始まろうとしていました。


ふたたびJICAと


そこへ突然新潟県内の関係者から連絡があったのです。JICAから、それまで全国で6名しかいなかった国際協力推進員を、希望すれば各県に配置するという要望調査が出されたので、新潟でも急ぎ適任者を探している、ついては応募を考えてもらえないか、との話が私に舞い込んできたんです。


安定した仕事に就いたばかりだった私は、何度もお断りしましたが、さんざん悩んだ末、最終的には多くの候補者と共に試験を受けました。2001年の夏のことです。


新潟県の当時の協力隊OB会会長の熱心な口説きが一番の理由ですが、富山県でお世話になった推進員の思い出も大きかったです。当時の私のように「国際協力は特別な人がする特別なこと、自分とは縁遠いもの」と思っている人がいるのであれば、「同じ地球に住むひとりの人間として、身近なところからできることはたくさんある」ということを伝えたい。そして、何かしたいと思っている人が一歩踏み出すための手助けになれたら、地域の発展に繋がるとも考えたんです


結果は、合格。初代のJICA新潟県国際協力推進員としての、多忙な日々が始まりました。当時は、地域におけるJICA窓口として、公的機関や組織、NGOやNPO、学校や民間企業などとの連携業務に幅広く取り組み、市民連携のよろず屋さんといった感じでした。所属はJICAですが、(公財)新潟県国際交流協会に席をおかせてもらって週3日通い、あとの週2日は県の国際交流課で勤務していました。


面積の広い新潟県ですから、離島もあるし、泊りの出張も多かったけど、それまで知らなかった新潟のことを知るいい機会だったと思います。何よりミクロネシアでの経験がとても役に立ちました。同じようなことをするにしても今度は日本語が主ですから、言葉の壁がない分、仕事ははかどりますし。


ここでも活動計画案や予算案積み上げなどが必須で、年間事業計画を作る時期には、やはり平均3時間睡眠とか3日徹夜とか、超多忙な日々になってしまいました。でも、多くの人に出会い、支えられ、内容の濃い仕事ができたと思っています。


夫との出会い・結婚


仕事を通しての出会い.jpg会議や連絡手続きなどのため、所管の東京国際センター(現JICA東京)へ行ったことが、夫との出会いのきっかけともなりました。


国際協力推進員として結婚後も勤務し、夫の赴任にあわせラオスに移り、滞在3年の間に娘を授かりました。ラオスから帰国後3年ほど日本で過ごし、次にバングラデシュに赴任という運命が待っていました。「国際業務にはもう二度と関わりたくない」とまで思っていた私なのに、人生ってわからないものですね。


ブドウ畑にて.jpg2年ほど前、祖母が百歳をすぎて亡くなりました。なすべきことを全部すませ、美味しいご飯も楽しんで、身ぎれいな格好で、本当に安らかに逝ったそうです。私はバングラデシュ住まいなので、最後のお別れには行けませんでしたが、幼い頃から祖母宅の広い田圃やブドウ畑を季節毎に訪ねては、手入れや収穫等を手伝い、大好きなおばあちゃんに野菜の話を教えてもらうのが楽しみでした。


私が「理数科教師」ではなく、「野菜隊員」を選んだのは、おばあちゃんの影響も大きかったのかもしれないと、思い出を噛みしめながら、改めて感じています。



あとがき


 裕子さんは、とにかく真面目な人というのが、初対面の印象です。バラバラと降ってくる、さまざまなトラブルに正面から取り組み、なんだか損な立場じゃない?と思うような状況でも、グチにならず「科学的な」ともいえる姿勢で分析、判断、処理を行う・・・まさに理系のお姉さんです。


 いま青年海外協力隊はみんなに知られ、その働きの成果もよく理解されていると思いますが、そういう活動が一体どのように準備され実施され、多くの隊員の方々のすばらしい活躍に結び付くのかを、裕子さんの体験をつぶさに教えていただくことで、この物語を読む方にご紹介することができたら幸いです。


 裕子さんは、すでに10年以上前に終わった経験を忘れず、いまの隊員への理解を深め、心こめて応援を送ることを忘れていません。 帰国後は是非、赴任地での活動や生活を通じて得たこと、感じたことなどを1人でも多くの方に伝えて頂きたいと思っています」という隊員へのメッセージに、国際協力の意義と、成果についての真剣な想いが込められているのです。         

                  

ききがきすと 清水正子

posted by ききがきすと at 02:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

義母(はは)の想いをつなぐ 〜昭和のあの日の我が家のこと〜

語り人 堀 緑(ほり みどり)さん



嫁に来てくれんか


堀武士さん、緑さん夫婦.jpg生まれは、高知県北川村の大谷です。昭和17310日生まれですから、もう73歳になります。二人の姉が、堀の家がある二又に嫁いでいましたから、お義母さんとは、嫁に来るずーっと前から顔見知りでした。私がまだ中学生の時分から顔を合わすと、お義母さんは「おまん、あてく(私の家)の嫁にきてくれんか」って、しょっちゅう言ってましたね。


(隣に座る夫の武士さんを見ながら)この人とは5つ違いで、年の頃もちょうどよかったんでしょうね。それに堀には身内が同じ集落に全くなかったもんで、私と結婚すれば、この人に義理の仲でも兄ができて心強いと、お義母さんは考えたようです。会うたびに「来てくれ、来てくれ」って言いました。


この人の弟は、私と同じ中学校で一学年下でした。お義母さんが私にずっと言うてたことが、弟の耳にも入っちょったんやろうね。なんか、私を見ると恥ずかしそうにするの。今は大阪にいますが、柚子の時期には手伝いに帰って来て、お父さんより私に話を余計にしてくれます。私と一緒に学校へ行っちょったからでしょうね。


大谷は、二又よりまだ奥に入った部落なんです。下に妹たちもいたし、今みたいに交通の便もよくなくて、中学校を卒業しても、高校へはようやってもらえませんでした。その代わりに、毛糸を習わしちゃるという約束で、しばらくは奈半利(なはり、北川村の隣町)に下宿して編み物を習ってました。


けんど、お義母さんからは、「もう早う来てくれ、来てくれ」と、会うたびに言われてました。まあ、その当時、私には他からも話があったわけですよ。若かったけど、百姓の子やから、百姓ができると思われたんでしょうね。私は何にもわかりませんでしたが、姉たちからは、「武士さんは大人しいし、あんた、嫁に来たらどう。いいご縁と思うよ」って薦められました。


ほんでもう、とうとう、この人のところへ嫁いできました。昭和35年の24日、節分の日でした。この人は23歳、私はまだ18歳ですよ。本当に若かったと思います。


武士さん緑さんの晴れの日.jpgこの人は、2つ上の姉、2つ下の妹、5つ下の弟との4人兄弟姉妹なんです。私が嫁いだ頃は、子供たちも手を離れ、暮しがやっと落ち着いてきたところやったように思います。姉さんは中学校を卒業してから平鍋の郵便局で勤めていて、もう余所に嫁いでましたし、この人は、営林署の二又の事業所に務めに出ていました。


お義父さんを戦争で早うに亡くしてましたから、男手のない農家の切り盛りで、お義母さんはずーっと大変やったようです。人を雇わんといかんかったのが、私が嫁に来て、私の姉たちの旦那さんらぁが、ぎっちり田んぼもしてくれるようになりました。「嫁に来てくれんか」って、お義母さんが私にずっと言い続けた裏には、私をもろうて、その人らぁと親戚付き合いしたいという思惑もあったんやなぁと、そう思ったことでしたよ。(笑)


お義母さんは農業のほかに、四国電力の検針と集金の仕事もずっとしていました。あの頃はまだ、この辺りもバスがしょっちゅう通いよったけんど、三輪みたいな自転車に乗って回ってましたね。それから、バイクの免許を取ったりもしましたよ。もう70近くなってからだったと思いますが、まぁ本当に、元気な人でした。


昔語りの中の『お義父さん』


当時は、お義母さんの姑になるおばあさんが、まだ元気でね。芳さんというんですが、ちょうど数えの90歳になっていました。私たちの祝言の日には大きなお客(酒宴、宴会)をして、また明くる日も「うらづけ」や言うて、お客したんです。その時に、おばあさんの卒寿の祝いも一緒にしたがですよ。きれいな赤いちゃんちゃんこを着せて。そんな写真もありますけどね。


お義父さんの話を、私はそのおばあさんやお義母さんから聴かされました。おじいさんとおばあさんには、なかなか子どもが授からんで、信仰心の厚い二人やったから、お四国を3回も歩いたそうです。「なんとかして跡取りをと願掛けて、一生懸命に回った」って言うてました。


おじいさんは、家のすぐ近くにある若宮八幡宮の神官さんでもあったようで、ある時、神様が「お宮を今より高いところへ上げて建ててくれたら、世継ぎをこさえちゃる(つくってやる)」言うて、教えてくれたんですと。それからは、おじいさんは仕事もそこそこに、一人で石段の一つから道をこさえ、小さくてもりっぱなお宮を建てたんです。お宮の屋根を葺く折には、他の神官さんたちも手伝いに来てくれたそうです。今も家の北に、このお宮がありますよ。このごろは、私が毎月の掃除とお参りをしています。


神社を守る狛犬さん.jpgお宮の2匹の狛犬さんは、芳ばあさんが弘瀬から背負って運んできたそうです。重うて重うて、ほんと大変やった、って話してました。一緒にお参りしたときに、「わしは、こんなにまとう(弱く)なってしもうた。狛犬さん、どうか元のわしにもどしておくれ」なんて、笑いもって言うてたのを思い出しますよ。


信心のかいがあって、父親が44歳、母親が39歳のときに、ようようできた跡取り息子が、お義父さんやったわけで、「これで跡を継いでもらえると思うて、心から嬉しかったわ」って、これもおばあさんがよう言うてました。


お義父さんは、小さいときからすごく器用だったようです。7つのときに藁で編んだ小さなふご(竹や藁で編んだ籠のこと)を、これは一光が編んだがや言うて、吊っちょったがを私も見たことがあります。直径20p、長さが30pくらいの小さいものでしたが、大事に吊ってましたよ。それを見ると芳ばあさんが、こんまい(小さい)手でほんに器用に編んだって、目を細めて話してくれました。


学校を出ると、お義父さんは大工の弟子に入ったそうです。そこの棟梁がちょうどお義母さんの叔父さんになる人で、よい人やと薦められて結婚したと聞いています。一軒の家を建てる一人前の大工になっていたようで、二又にはお義父さんが建てた家が、今も残っていますよ。外からならいつでも見れます。


叔父さんは戦後もずっと棟梁してましたから、お義母さんは長男のこの人のことも大工にやりたかったですと。けど、その叔父さんが気がはしかかった(気が短かった)き、この人にはむごそうで、ようやらんかったって、そう話してました。大工の弟子って修業が厳しいでしょう、特に昔はねぇ。


武士さん(両親、姉と).jpgお義父さんとお義母さんは、昭和8年頃に結婚して、4人の子どもに恵まれました。神様のお告げのとおり、お義父さんは世継ぎの役目はちゃんと果たしたわけですよね。



       武士さん(両親、姉と) →



お義母さんが言うには、上が女やったから、お義父さんは特別にこの人のことがかわいかったようです。小さいときに洋服を着せたくて、でも、あの当時この辺りでは手に入らんで、わざわざ取り寄せたそうです。それを、この人は絶対着んかったらしい。この人に訊くと、子どもの頃は、洋服より着物が好きやった、って。それは覚えちゅうって言うんです。それで、お義父さんが怒ったっていう話をお義母さんがしてました。


生きて帰らん、後を頼む


お義父さんは一人息子やったからか、兵役はずっと免れてきたようで、昭和19年、34歳で初めて応召されたということです。海軍でした。年老いた両親と4人の子どもを残して戦争へ行くとき、なんぼか心配でしたろうね。


池田稔さんという、お義父さんの従兄弟、芳おばあさんの甥になる叔父さんがいます。その人は、戦死せず帰ってきました。その叔父さんが、私の婚礼のときに来て、お義父さんの出征時の話をしてくれたことがあります。「一光が、もうほんとうわずか、煙草を吸う間にね、もう俺は生きて帰らんから、無事に帰れたらうちのことも頼むと言うた」って。


「それを思い出したら、本当、二又へ足向けようせんかった。自分は生きて帰ってきて、一光に申し訳ないという気持ちでいっぱいになった」って。本当に煙草を吸う何分かの間に、そう言うたって話でした。その叔父さんは老衰で亡くなるぐらい、長生きしましたけどね。


お義父さんから来た手紙は、お義母さんが箱へ入れて大事に置いてありました。出征したその年の6月にお義父さんの父親が亡くなっています。『親父のお葬式も大変やったろう。部落の人にはみんなぁお世話になったろう』という文面の葉書を、私も見たことがあります。


葬式には間に合わず、その後で一度だけ帰省したそうで、この人には父親の記憶はほとんどないんですけど、そのことはよう覚えちゅう、と言っています。


おじいさんの徳太郎さんの命日は、6月の20日です。78歳で、老衰だったのか、寝付いていたようです。お義母さんが、折に触れ、「一光がおったら、下山へ行って、ヤマモモを買うて来てくれるに、思うたことよ。ご飯を食べず、好きなヤマモモを食べたいとよう言いよった」って話していました。


ヤマモモの時期になると、お義母さんがヤマモモを買って来てお祀りしていたのを覚えていますよ。だから、私もヤマモモを見つけたら、必ず買って帰ります。自分たちは食べんけど、お祀りするんです。


お義父さんは、昭和194月に出征して、12月に戦死。また、その父親も、同じ年に亡くなったわけですから、おばあさんとお義母さんの戦中・戦後は、並みの苦労じゃなかったと思いますねぇ。


お義父さんは靖国神社の桜の下


お義父さんは、航空母艦雲龍に乗っていて海で亡くなったので、詳しいことは、ほとんどわかっていません。お義母さんが大切に持っていた「結成11周年記念誌 悲運の航空母艦雲龍」という青い表紙の本が残されており、それによると、雲龍は、昭和191217日にレイテへ向かい呉港を出発し、二日後の19日、東シナ海を航行中、まず艦橋下に敵潜水艦レッドフィッシュの雷撃を受け、さらに10分後の魚雷が右舷前部に命中して、午後4時半頃から数十分の間に艦尾を上にして沈没したということです。生存者が本当に少なかったようで、それ以上のことは、ほとんど伝わっていません。


堀 一光さん.jpg

←  一光さん


お義父さんの戦死の知らせをもらって、遺骨を引き取りに行ったけど、木の札一枚が入っちょっただけやったようです。海軍で、船で沈んでしもうたんやき仕方ないことやけど、それは辛かった言うて、芳ばあさんがよう話してました。戦死の報をもらったとき、お義母さんはまだ28歳。『この若い嫁が一人で頑張って4人もの子どもを太らしてくれるろうか』という心配も大きくて、本当に辛くて悲しい思いをしたようです。



お義母さんは、亡くなった人のことは、あんまり話しませんでした。ただ、この人に、「一光は大工で、謡までうたう男やったに、まことおまえは似ちょらんのう」って、言うてました。この人は、謡どころか歌も歌わんし、おしゃべりも嫌いやき、そんなことを言うのを聞いたことはあります。それ以外には、お義父さんのことはほとんど言わんかったね。前向きに生きる人やったし、哀しいことらぁ、あんまり振り返る人じゃなかったね。


けんど、いつのことやったか、お義母さんが私の長男に「お骨と言うても何も入ってない箱をもらって、連絡(当時は森林鉄道に客車を付けて人も乗せており、こう呼んでいた)に乗って帰るに、いつもの北川の景色が、本当にもう全然違うように見えた」と話して聞かせたことがありました。


そのとき、私の長男が何か言うておちょくりよったら、真顔になって、「あんたに、おばあちゃんのあのときの気持ちがわかってたまるか」言うて、まぁ珍しゅう、けんかしましたがね。長男は笑うしかのうて、「ほら、わからんねぇ、そんな言われても」って。「おばあちゃん本人にしか、わからんわね」って言い返してましたねぇ。


そんなお義母さんが、前述の記念誌にお義父さんを偲ぶ一文を寄せています。お義父さんが呉に会いに来るように便りを寄こしたのに、行かなかったことをずっと悔やんでいることや、お義父さんが休暇を取って最後の帰省をしたときに「靖国神社の桜の下へ行く」と言ったことなどが書かれています。


お義母さんが、呉によう行かんかったということをずっと残念に思ってきたことなど、私は聞いたことがありませんでした。記念誌を読んで、最後なら何としてでも会いたかったやろう、無念やったろうと思ったことです。


靖国神社へは、私が嫁に来てからでも、お義母さんは2回、この人が1回行ってます。遺族会の大寺萬世子さんが、いつも私にも声かけてくれるけど、ちょうどお盆の時期やから、なかなかよう行きません。東京の妹のところの結婚式に出かけたときに、個人的にお参りしたことがあるだけです。雲龍会の高知での会には、お義母さんが姉さんと二人で出席したことがあって、会場は三翠園だったと聞いたように思いますよ。


女二人での子育て


お義父さんが亡くなったとき、9歳を頭に4人の子どもがいたんです。女二人でなんぼか苦労したことかと思います。この人はまだ6歳。小学校1年生だったと聞いています。一番下は、まだ2歳やったから、お乳飲んでた言うてました。この弟は暴れもんで、ほんで、田んぼ植えよっても飛び込んできて、いかん言うても、聞かんとお乳を飲んだ言うてね、お義母さんが話していたのを思い出します。


また、姑の芳ばあさんは喘息を患っていて、お義母さんが背負うて一緒に連絡に乗って、病院まで連れて行ったって、本当に大変やったって話してました。いろんな苦労があったみたいです。ほんで、小さい子ども4人を真ん中に寝させて、芳ばあさんとお義母さんと二人が脇に寝て、そうやってしたって。


 芳ばあさんが女房役を家でして、昔は機械なんかないから、籾をとったら筵へ干して、夕方はそれを取り込んで。家での細々した仕事は、おばあさんが全部してたみたいです。お義母さんは、男みたいに外へ出て仕事せんといかんかったから、家の近くの田んぼとかは電気を暗がりに引っ張っていって、夜もすがら植えたって話していましたよ。そうやって仕事したって。営林署へ、軌道の修繕に行ったりもしていたようです。


この人の兄弟に、「お母さんのことで何が記憶に残っちゅう」って尋ねると、4人が4人とも「叱られたことよねぇ」って答えるんです。お義母さんは、ちょっと気がはしかい(気が短い)、パッパパッパ言う人やったき、子どもはみんな怒られもって育ったみたいです。この人の妹も「私はお母ちゃんに怒られた記憶しかない」って言うてます。


一方で、芳ばあさんという人は、几帳面な、本当に穏やかないい人でした。本当に神さんみたいな人やったがですよ。この人の性格が、だいたい似てますけどね。おばあさんが、4人の子どもの避難場所になったんじゃないかと思いますよ。


この人の弟の面白い話があります。弟は本当にコトコトコトコト悪りこと(いたずら、悪さ)しましたと。この人はせんかったけど。人んく(よその家)の芋を掘ったり、桃を取ったりね。そんな悪りことしたわけ、昔はね。ほんで、「おまえみたいなもんは出て行け」言うてそりゃ怒られて、風呂敷包みを首へ括り付けられて、追い出されたと。


そしたら、そのまま出て行ってしもうたんやって。どこへ行ったか、夕方になっても帰らん。どうしゆうろう思いよったら、日が暮れたき寂しゅうなったもんで、台所の戸をほんの少し開けて、顔を出して、ニタッと笑うたらしい。この弟は、ニコニコ笑顔のえい人ながよ、本当に。かわいらしい顔しちゅうもんやき、その顔を見て、みんなぁが、噴き出したんやて。この話は、何べんとなく聞かされました。


 芳ばあさんは、「4人の子どもが誰もぐれもせずに、素直によう育ってくれた」ってよく言っていました。お義母さんに、もうガンガン怒られるから、「おまんらぁ、そんなに怒られたら腹も立つろう」言うて訊いたら、この人が、「もう安もんのラジオが、ガンガン言ゆうと思うちゅう」って応えたって。おばあさんが笑いもって話してくれました。この人がちょっと大きくなってからのことのようです。


お義母さんに育ててもらった


お義母さんには、自分の娘が二人いるんですけど、私は実の娘たち以上に大事にしてもらいました。ほぼ50年、ずーっと一緒に暮らして、私はお義母さんに育ててもらったんです。自分の母より、ね。パッパパッパとものを言う人で、性格は私の母とは正反対。だから辛いと思うこともありましたけど。


口うるそうに言う人ではあったですよ。でも、私も、こんな性格ですから、いつまでもめそめそはせん。嫁いできた当時は、お義母さんの言うとおりやったけど、じっと辛抱する時期を過ぎたら、偉うなって、「お義母さん、ああやんか、こうやんか」って、涙落としもってでも言うてました。でも、言い終わったらもうすっぱり切り替えて、一緒にご飯食べて「あれ食べ、これ食べ」言うてやってきたんです。


お互いに、そんなあっさりした性格で、似ていましたね。中学生の頃から私の事を見ていて、この子とやったら、やっていけると思ってくれたのかもしれません。この話を聞いた息子の嫁が「いつの間にか、お義母さん、反対になってましたね」言うて笑いましたよ。


けど、私が涙落としもって太らした(育てた)ことを、息子たちはよう覚えているみたいです。おばあさんが、ガーガー、ガーガー言うたに、お母さんがよう辛抱して、ぼくらぁを太らしてくれたという気持ちは、今でも持っちゃせんろうか。お母さんのことは絶対、大事にせないかんと思うたいうふうに、成人してから言うてくれました。それだけで、ねぇ、幸せです。


家のことだけじゃなく、四国電力の検針の仕事も、私はお義母さんの跡を継いで、定年までさせてもらいました。私が入った頃にはもう止まってたけど、お義母さんたちの頃は、電力がみんなを春と秋には必ず一日旅行に連れて行ってくれたがですよ。昔はね、奈半利に増田屋いう呉服屋があって、お義母さんはそこで着物を作って帯を合せて。帯付けでしゃんと着物を着て、それへ行ってました。


声がよかったですき、坂恵さんがきれいに着いて(着つけて)歌を歌うてするがを、電力のおえらい方もみんなぁ楽しみやった言うて、先輩たちから私も聞かされました。お義母さんは、ほんまに声がよかったわ。それに社交家で、おしゃれでした。仕付けを取らん着物が、まだいっぱい残ってて、妹が縫うもんで、大島とかを私のチョッキにしてもろうたりしてますよ。


お義母さんの思いを継ぐ


 私たち夫婦には、男の子が二人います。長男は光(あきら)、次男は力(ちから)といいます。全部、お義母さんが付けました。


長男のことを、お義母さんは、もう可愛くって、可愛くって。世界中の何ものにも代えがたいというように、大事にして太らしてくれました。跡取り息子のお父さんの代わりやったんでしょうね。お蔭で我儘に太ったけどね。


今はもう笑い話やけど、お義母さんは、2階の自分の部屋へ光を連れて行って、自分のお乳まで飲ましてました。私のお乳は止めても、光が乳が恋しい言うたら、自分の乳出して飲ますんです。そしたら、本当に乳が出てましたよ。ほんでね、お客(酒宴、宴会)の席でもどこでも、「こんな人のおるく(居るところ)で飲んだら人に笑われるぜ」言うても、もう聞かんと飲んだ。4歳、いやぁ5歳くらいまで飲んだろうかねぇ。


本当に可愛ゆうて、下の子とは全然違う可愛がり方をしましたよ。どこへ行っても、連れて行ったものね。旅行に行った折の、どの写真見ても、光が一緒に写っちゅう。「あたいはね、死ぬるときは、光に抱いてもろうて死ぬる」そんなこと言うてました。もう、その子もおんちゃんになったけどね。


長男は、就職してからもずーっと、敬老の日には欠かさずにおばあさんに何か送ってきましたよ。「おばあ、いつまで生きちゅうがなや」言うて、冗談言いもってでもね。おばあさんのことは、心底大事にしたと思うよ。


あれは徳太郎さんとお義父さんの、・・何年の年忌のときやったかな。確か、50年やったと思います。徳太郎さんが神官さんみたいなことをしてましたので、死んだら神にしてくれ言うたそうで、あの当時は神宗に替えてました。二人は同じ年に逝きましたから、年忌も一緒にやってたんです。


その祀りのとき、私は台所でバタバタ忙しゅうしてたんですけど、お義母さんが、みんなの前で言うたがですと。「財産はこの子に、武士に譲ってくれいうのが、夫の一光の言い置きやった。頑張って子どもたちを育てて、やっと家も田畑も何もかも武士に譲りました」って、ね。


苦労したけど、こうして武士にちゃんと譲って、孫もしっかり育っているから、何の心配もない。今日はみんな揃って、50年の年忌をしてますき、言うてね。なんかまだ、いろいろ言うたらしくて、みんな泣きもって聴いた言うてました。「おばあは、すごい」言うて、誉めてました。


私はよう聴かんかったけど、神官さんも「今日のおばあさんの話に、わしはもう泣いた」言うたがですよ。「どんな話しした?」いうて訊いたら、この人の従兄弟らぁも「おばあは、なかなかいい話をした。あれやなぁ、本当にえらかったと、今日はつくづく思うた」と、そんなふうに言うてましたね。


お義母さんって人は、早うに亡くなった夫に代わって家を守って頑張って頑張ってやってきた人で、男勝りな性格。お金についても、必要なときにパッパと出してくれました。子どもが結納金するときに、ポンポンと出してくれたり、家の屋根の瓦を替えないかんいうときにも、それも何百万もいるとき、ポンと出してくれたりしました。


大胆にパッパパッパ出してくれたけど、「あてが死んでもお金は残っちゃぁせんき。残っちゅうとは思いなよ」って。「いや、思わん、思わん。今の大変なときに出してくれて、ありがたいき」言うたことでした。


あれはいつのことやったか、「もうこれはすべて、あんたにあげる」と、貯金や恩給の関係のものを、それこそ全部出して、私に渡してくれました。88歳にはなっちょったろうか。まだまだ確かな時分やったのに、何もかも預けて任す。そんな人でした。


それからは、私が全部預かって、隣近所のこともこの人の兄弟や親類のことも、お義母さんに代わって必要なときに必要なだけ出しています。恩給とかも全部私が引いて、お義母さんに「小遣いに、これ入れちゅうよ」言うて渡すと、「普通貯金のこれだけあったら、私はいいから」って、全部私に任せてやらせてくれる、・・そんな人でした。


だから今度は、私の番やと思うています。息子や孫が結婚して独り立ちするというときには、「お母ちゃん、いいわ、こんなに」言われても、「いや、私はおばあちゃんにしてもろうちゅうき、その分、今度は私が返さんと、おばあちゃんに叱られる」言うてね、ちゃんとしてやるんです。


息子らは「そう?それで、いいが?おれら事足りるで」言うんですけどね。「事足りても、それは順番」言うてね。この四月にも、孫の正の婚礼があって、やはり同じようにしたことでした。息子からは「ありがとう。これから気持ちで返していくからね」って。それだけで気持ちは十分通じて、何か嬉しいですね。


息子らぁが結婚する、家を買ういうても、この人は、うちにお金があるやら無いやら、全くノータッチ。私がせざるをえんがです。まあ、お義母さんの考え、思いは、ようわかってますから、同じようにやっているんです、私も、ね。


「美味しい!!」がつなぐ心と心


お義母さんを見習ってやってきましたが、一つの家の中ですから、互いに補い合ってやってきたこともありますよ。お義母さんは、外で仕事せんといかん人やったから、料理は苦手だったんです。だから、結婚した明くる日から、私が炊事は全部しました。私が嫁いでから、お義母さんが料理することはなかったですねぇ。


今でも、この人の妹が言うがですよ。「お母ちゃんは、料理に手をかけんかった。お母ちゃんに何の美味しい料理も作ってもらった記憶はない。けんど姉さんが来てから、いろんなもの作ってくれて食べさせてくれて、美味しかったことはよう忘れん。一生忘れん」って。義妹はクリーニング屋しよったもんで、こっちにもお客さんが多くて、毎週来てました。だから、よく一緒に食事したんですよ。昔からお義母さんは、料理するのは不得手で、嫌いやったみたいです。


私は、貧乏して育ちました。田んぼをいっぱいつくるに人を雇わないかんでしょう。事業所の奥さん連中を雇うたら、母親が学校から帰った私に、「緑、こうこうしておかず作って、食べらしよ」言うたまま、帰って来んがです。ほんで、私が、そのおばさんたちに料理作って食べさせてきました。年が離れちょった姉二人も、妹らぁも、そんなことは全然してないんです。私だけが、そんなふうに小学生のときから使われてやってきましたよ。


お義母さんも、私の料理はそりゃ喜んでくれたねぇ。山のことなら(なので)近所に店はなくて、魚など時折回ってくるお魚屋さんから買って、冷凍庫へ入れてありました。その魚をうまく料る(料理する)と、お義母さんが「ご馳走じゃね。今日は、魚屋が来たかよ」とか言いもって下りてくる。私が「冷凍の魚を料理したがよ」と応えると、「こりゃ、ご馳走じゃねぇ」言うて喜んで。食べたら必ず、「ご馳走、ご馳走、うまかった」って言う人やった。 それは感心なくらでした。


お義母さんが亡くなってからは、最近、この人が「ご馳走、ご馳走、うまかった」言うわね。似てきた、似てきた思うて、おかしい。何にも言わざったにね。最近、そんなに言い出しました。


料理は好きなんです。でも、この人からは、「料理の作り過ぎよ。よう食べてしまわん。結局、余ったら捨ててしまう。食べてしまうまで作るな」って言われます。けんど、嫌よね、何度も同じものばかり食べるのは。作って並べたら、お父さんが、「これもうまい、あれもうまい。けんど、もうたった(飽きた)」言うて笑うわね。


息子らも言います。私は料理する仕事をしたこともあるので、作って食べさすでしょう。そしたら、「お父ちゃん、あんた幸せやね。こんなうまいもん、いっつも食べて」って。


最期まで心通わせて


花見をするお義母さん.jpgお義母さんの最期の3年余りは、『ヘルシーケアなはり』でお世話になりました。私は絶対外へやらんと家で看たいと思いよったんですけど、私が病気になったのを心配した村の社協の方が、「緑さん、もう、ちょっと無理じゃなーい」って声をかけてくれて、それで、あずかってもらうことになったんです。


それでも毎日行って、車いすに乗せて、裏の桜のところとかへ連れ出して。下へ降りるとヘルシーの事務所の人とかが、「坂恵さん、あんた、今日は普段と顔が全然違うで。そんなに嬉しい?お母さんが来てくれたら」とか言うて、てがう(からかう)がですよ。「そりゃ、嬉しいわ、お母さんが来てくれたら。誰が来てくれるより、嬉しいわ」言うてね。喜んで、毎日待ちよったね。それはね、娘らが来てくれるより誰より嬉しい言うて、喜んでくれました。


最期の1年くらいは好きなもん食べさせたくて、私が頼むと栄養士さんらぁも何にも言わんで、私が持って行くものを食べらしてくれてねぇ。一緒に腰かけて、お義母さんの分は私が食べて、ほんで作っていったのをお義母さんに食べらして。今度は何が食べたい、って訊くと、海老とか蟹とか、・・・あんなものがうんと好きでした。栄養士さんが上がって来て、「坂恵さん、あんた、今日も正月料理食べゆうかね」って言うと、嬉しそうに笑ってましたよ。


お義母さんは、心太(ところてん)が大好きでした。私は趣味で大正琴やってるんですけど、友達と大正琴の教室へ行くときに、お義母さんとこへ心太を持って寄ったりしました。「ちょっと待ちよってよ、私、おばあちゃんに心太食べさせて来るき」言うて、上がって。


それを見た友達が、今だに言うんです。私はあんなことようせん、って。汁がいっぱい入っているでしょう。その汁を私が吸いもって、おばあさんに食べさせた、言うてね。「あんなこと気持ち悪うて、私は、ようせん」って、ね。私は、それが何ともない。そうやって何度も、おばあさんに食べさせましたよ。


お義母さんの最期のときに、ヘルシーの吉本先生もね、「実の親子でも、ここまでの仲はないよ」と言うてくれました。「なんぼ大事に看よっても、ちょこっと帰った間に亡くなったりすることもあるのに、坂恵さん、あなたは最期まで大好きな嫁さんに手を握ってもらって、本当に幸せやねぇ」っておっしゃった先生の言葉に、お義母さんの目からツーっと涙が流れたがですよ。そんなことってあるろうかと思ったけど。


ヘルシーでお世話してくれる人たちも、「緑さん、坂恵さんとは本当に通じ合うちゅうがやね」って、よく言ってくれたんです。心が通じるって、大切にしていきたいですよね。特に、お年寄りには、ね。私は民生委員でいろいろ回って行きますが、上辺で上手に言わなくても、心が通じてる、・・そんな関係でいられたら、何とかなるもんです。そう思っていますよ。


お義父さんに連れられて・・


和やかな笑顔のお義母さん.jpgお葬式の挨拶するのも、この人は口が重うてしゃべらんので、長男がしたがですよ。光がね。お葬式の挨拶の中で、私に、「三日にあげず通うて世話してくれた。この場を借りてお礼を言うてくれ、いうことやき、一言お礼を言う」ってね、言うてくれました。涙がひっとりこぼれてね、なんかね。


お義母さんの最後の誕生日にと、皆が病院に集まったときのことやったかなぁ。この人の弟がね、「おばあさん、あんたの一生は、若い頃は苦労したかもしれんけど、姉さんが来てからのおまんは、極楽やったね」そう言うてくれました。この人の姉さんも「緑さん、あんたには足向けして寝られん」って言ってくれましたね。だから、光に言うちゃぁったんでしょうね、この人の姉さんとか妹や弟とかが。


お義母さんは、平成21年の1220日、94歳で亡くなりました。お義父さんの命日が、一日違いの12月の19日だったでしょう。それで、私が長男に「いやー、もう一日で、おじいさんと同じ命日やったね。」と言ったんです。すると、「おかあちゃん、それは、船が沈んだがは19日でも、息を引き取ったがは20日かもしれん」って応えたがですよ。


あぁ、そうかもしれんね、と私も思ったんです。雲龍が沈んだのは19日の夕方と記念誌にも書いていました・でも、あの子が言うように、お義父さんが息を引き取ったのは20日やった・・・、そんなこともあるかなぁ、って。そう、それで、お義母さんを連れに来たかな、って思いましたね。


お義母さんは、私に、することも本当にしてくれたし、また、ああやって最期まで私を頼りにしてくれました。そのことが、私には、本当にありがたかったと思います。長い年月、一緒に暮らせたことに、今は心から感謝しています。


お義母さんが残してくれたもの


この人は、本当に芯から優しいきね。お義母さんが大変なときに、風呂から出して汗に浮いて(汗をかきながら)世話しよったら、扇風機をくるっとこちらへ向けて回してくれる。それだけでも嬉しい。あぁ、ようわかっちゅうわ、思うてね。まぁ、トイレの世話は、とっと逃げて行って手伝うてはくれんかったけどね。自分の親やに言うて、私が怒るときもありましたよ。でも、私に、「今があるのは、お母さんのお蔭。頭上がらんね。ありがとう」なんて、言ってくれるんです。優しい人なんです。


また、この人の弟は、高校を卒業すると関西へ出て就職し、今は大阪にいます。もう退職しましたが、柚子の忙しい時期には、遠いのに手伝いに来てくれるがですよ。この80歳近い人を「兄ちゃん、兄ちゃん」って呼んでね、二人がすっごく仲がいい。羨ましくなるくらい。この人も、我が息子に言うより言いやすいかねぇ。あれせぇ、これせぇ、言いつけてやってます。


先日、次男のところの孫が結婚式を大阪でしまして、それへこの弟も来てくれちょって、「もう本当、二又へ帰ったら落ち着く」言うてくれるがですよ。私は、それが嬉しい。いつまでも『帰りたい』って気持ちでいてくれることが、ね。


その帰り、空港まで次男が私らぁ二人を送って来て、「お父ちゃんとお母ちゃん、ほんなら仲良うに元気でやりよ」言うて、ポンと肩をたたいてくれました。見えんなるまで手を振ってくれゆう姿に、つくづく優しゅう育ってくれたなぁと思ったことでした。


この人の兄弟姉妹、みんな元気にしています。姉さんの旦那さんは亡くなったけど、あとは、みんな夫婦ともに元気です。大阪と高知に分かれて暮らしてるんで、みんなが揃うのは婚礼のときくらいだけど、仲は本当にいいですよ。お義母さんが残してくれた一番の財産かもしれんね。みんなぁが、こんな私を頼りにしてくれるのも、ありがたいです。

  

姉さん(平岡智恵美さん)のところは、女の子一人、うちは男の子二人で、妹(奴田原節子さん)のところが女の子、男の子一人ずつ、弟(堀郷士さん)ところも女の子、男の子一人ずついますよ。姉さんのところの孫二人も、うちの孫と同じくらいに結婚してね。私も早う曾孫つくって欲しいと思うてます。


お義母さんは、がむしゃらに働きもって、子どもをみんなしっかり育てたき、えらかったと思う。お蔭で、今、こうやって幸せにやってますもんね、みんな。このことが、一光さんの一番の供養にもなってると思います。


お墓も近いから、私は、お芳さんと徳太郎さん、一光さんと坂恵さんの命日には、毎月お参りします。お線香焚いて、月命日のお参りは欠かしません。この人も、それには感心してくれますよ。

この辺りも段々と人が減ってきたけど、上(かみ)や下(しも)から若いお嫁さんらぁが、ちょこちょこ訪ねて来てくれます。「緑さんくへ来たら、いつもホッとする」言うてね。長いこと話しよって、この人が帰って来たら、「いや、おんちゃんに、まだおるか、って言われる」言うて、慌てて帰るけどね。話を聞くだけなんやけど、みな、寄って話してくれる。この人に、風呂も溜めんと話しゆうがか、って笑われたこともあるけんど、ね。「また、堀喫茶に行きます」いう年賀状くれる人もいますよ。


こんな今の生活も、お義父さんとお義母さんが、伝えて残してくれたものなんかなぁって、大事にしていきたいと思うんですよ。



「結成11周年記念誌 悲運の航空母艦雲龍」から

主人の思い出


堀 坂恵(戦没者・堀一光の妻)


 私は大正4年に安芸郡北川村小島で生まれました。地元尋常小学校六年を卒業し、しばらくの間家の農業の手伝いをしておりました。


 父の弟で大工の棟梁をしている人がおり、その弟子に堀一光がおりました。「よい男だから結婚した方がよい」と叔父に薦められまして18歳で結婚いたしました。

 結婚後は、子供四人(男2人、女2人)に恵まれて貧しいながらも平和な生活を送っていました。

 主人に召集令状が来たのは昭和195月のことで、役場から赤紙と称する令状が来たのです。「〇月〇日までに佐世保海兵団に入団せよ」ということです。そのころ子供は上が小学二年、下が1歳半でまだ手のかかるまっ最中でした。出征祝いは親戚の人々が集まってくれて、配給の酒を持ち合って形ばかりのお祝いをいたしました。


 夫が入団して間もなくの6月に祖父が死亡したので、海軍で休暇が取れて一時帰郷しましたが、葬式には間に合いませんでした。その時の話で「今乗っている(または今度乗る)艦は航空母艦だが、改造したもので大きなものではない。偉いもまたい(「弱い」の意だが、ここでは「身分や位が低い」の意)もない、死ぬる時はみな一緒だ」ということを言っていました。海兵団入団以来、3回程たよりがありましたが、最後の手紙には「しばらくたよりはだせないが、心配せんでもよい。この前買った革靴を大事にしてくれ。親を頼む」ということで、配達されたのが19年の1223日です。すると既に戦死してから後に着いたことになるわけです。


 また、19年の12月には「今呉にいるから逢いに来てくれ」とたよりがありましたが、子やらいの最中でもあり、道中も不案内でしたので「行けない」と返事しましたが、その直後に戦死するのであれば無理してでも面会に行くべきであったのかと今でも残念に思っています。


 終戦後役場から「雲龍乗組中、沖縄北方海面の戦闘において戦死せり」と連絡があり、その後は泣くより外に仕方がありませんでした。兵隊の妻はしっかりしなくてはと覚悟は決めていましたが・・・・・


 その後、遺骨が帰ってきて安芸の公民館で白木の箱を受け取ったときは、泣けて泣けて、本当につらい思いをいたしました。


 家は五反余りの田んぼがあり、牛を飼っていたので人を雇って田植えの準備などを手伝ってもらいましたが、何様女手一つで四人の子供を育てなければならず、言うに言われぬ苦労の連続で一生を過ごしました。


 今でこそ月10万円くらいの遺族年金を頂いていますが、主人が「子供を頼む、靖国神社の花の下へ行く」と最後に話していたことを守り、靖国神社へも2回お参りをいたしました。安芸郡の山中ではありますが、親子六人が平和な生活を過ごしていたのに戦争のために引き裂かれ、悲しみの連続で終わりました。


雲龍.jpg 英霊の安らかならんことをお祈りいたします。


<参  照>

『結成十一周年記念誌 悲運の航空母艦 雲龍』

 発行日:平成十二年二月十九日

 発行者:高知県航空母艦雲龍会
  会長・明神

 編集者:高知県航空母艦雲龍会

   事務局長・松永 亀喜



あとがき


堀緑さんは、ふわりとやさしい雰囲気の方で、初対面であることを忘れて、話し込んでしまう、・・・そんな聴き書きになりました。お義母さんとの半世紀を超える生活の中で、戦死されたお義父さんのことを含め、堀の家の歴史とも言える多くの事を引き受け、昇華し、後へ繋ぐ。そんな役割を果たしてきた緑さんのお話は、そのまま昭和という時代の証言にもなっていると思います。


 昭和から平成の世となり、暮しも家族のあり方も大きく変わりました。先の大戦も、緑さんとお義母さんのような嫁と姑の関係も、遠い昔話になろうとしています。しかし、戦争のことを忘れず、人の繋がりの暖かさを思い起こすことが、今、何よりも求められている。そんな気がするのは、私だけでしょうか。


 緑さんの昔語り、たくさんの方に読んでいただきたいものです。


 (ききがきすと:鶴岡香代)

posted by ききがきすと at 22:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月17日

遠い昭和の日々を辿る

語り人 坂本武一(さかもと ぶいち)さん



北川村に生まれ育つ


坂本武一さん、操さんご夫婦.jpg わしは、高知県安芸郡北川村和田の日曽裏という部落に、大正12年7月3日、父、友吾郎(ともごろう)、母、源(げん)の長男として生まれた。今年で92歳になる。おやじは農業しもって(しながら)、炭も焼きよった。炭焼きのまとめ役が奈半利におって、この辺一帯の人が炭をようやったもんよ。

おやじは、人の世話ができる人で、周りに薦められて渋々でも村会議員を2期はしたと覚えちゅう。もめごとの調整役をようしよった。田んぼで牛を使いよっても、人が相談事があって来たら、牛を居ながら(そのまま)置いちょいて行ってしまう。後で母がひどい目におうたと、愚痴りよったわよ。兄弟は、わしの上に姉が2人、下には妹が1人に弟が3人もおったき、家はにぎやかなもんじゃった。


奈半利川の懐に


北川の村を東西に二分して流れちゅうのが、奈半利川(なはりがわ)よ。和田の辺りは、左岸地域を影、右岸地域を日浦と言うて、当時は41軒の家があった。今はもう、ずんと減りよらぁ。余所へ出て行って、安芸辺りにありついた人も多い。今は、19軒かなぁ。星神社の係をしゆう人が、その数ばぁ(くらい)はあるけんね。けど、一人暮らしとか、そんな人ばっかりや。


日曽裏は、影にある集落で、学校のある小島は日浦にあったきに、ぐるりと遠回りして大きな吊り橋がかかった県道へ出にゃならんかった。けんど、すぐ向かいの瀬詰で、しょっちゅう部落の会があったもんで、吊り橋の方まで回らんでえいように、木を引いただけの太を組んだ橋を架けちょった。家からその丸木橋までは、子供の足でも5分とかからんかって、みながよう渡りよった。


その丸木橋で、わしのすぐ上の姉の民子(たみこ)に不幸があった。小学校1年にはなっちょった。冬休みのことや。昔の奈半利川は、水量もようけあったし流れもきつかった。丸木橋の下は、冬場でもシャーシャー大きな瀬音をたてて、怖いように流れよった。大人でも、「こりゃ目が舞う(回る)」言うたもんよ。


姉は向こう岸の友達の家へ行こうと橋を渡りよって、こけてしもうた。一緒におった友達が家に知らせに走り込んだが、助けたときはようけ水を飲んじょって、もう駄目やった。正月の寒い日のことやったと覚えちゅう。


それでも夏になったら、奈半利川は子どもの一番の遊び場で、学校から帰ったら、弟や友達と連れだって一日中遊んだもんよ。鮎をついたり、手長海老を取ったり。昔の奈半利川はきれいで、鮎もこんな大きいががおったぞ。それを食たら(食べてみたら)、なんとも言えんかった。今の鮎は、もういかん。


手がうんと長い海老もどっさりおって、面白いように獲れたもんよ。電発(巻末注参照)が工事をしてからは、あんまり見えんなっつろう。夜、火を付けた「いさり」いうがを持って、流れのゆるいところへ行くと、灯りを追わえて手長海老が石のところからゴゾゴゾゴゾゴゾ出てくるがじゃき。それをタマ(竹や針金の口輪のついた袋状の網)で獲るがよ。慣れんうちは、どうしてもようおさえん(捕まえれん)。前向きには行かんと、後ろへしさるき(退くから)。ほんじゃきに、ケツの方へタマを持っていかんと。そしたらタマへ入る。初めはそれを知らざったき、なんぼ前へ構えても、獲れるもんか。大きなががおったぞ、昔の奈半利川には、なぁ。


あの日も、何人かで来て、泳ぎよった。小学校へは行きよったき、1年生にはなっちょったろう。昔の奈半利川は、川幅も広いし、岩のような大きい石もあって、川の流れが、あんがい順調じゃない。一つ間違ごうたら、うんと瀬の早い方へ流される。しかも、そこは深い淵じゃ。


こもうても(小さくても)川では達者じゃと思いよったが、行きそこのうて、淵に呑まれて流された。それをちょうど一番上の姉の幸美が覗きよって、「早う助けて、助けて」いうて大きい声で叫んでくれだ。そこにたまたま、山田秋美さんという同じ和田の若い衆がおって、助けに飛び込んでくれた。もっと上級生になっちょったら、どこででも泳ぐばぁの力はできちょったろうけんど、あのときは姉の後を追うて、おおかた逝きよった(ほとんど死ぬところだった)。秋美さんは、命の恩人や。


あの頃は、この奥から材木を結構たくさん出しよった。魚梁瀬の国有林からは、太い材が出たきね。秋美さんは、伐採した木材を、海まで川を流して運ぶ作業の途中で、何人かの仲間と休みよったらしい。流す作業をする人が県外からも来よって、和田には、その人らぁが泊まる家もあった。家の建前が独特で、家族の居るくとは別に、その人らぁの居るくがあるように、1軒の家を分ける建て方になっちょった。森林軌道ができるまでは、奥の島あたりから木材を流す仕事がずーっと続いたわよ。


入営のため広島県福山へ


山田秋美さん(左)と.jpg 助けてもろうてから、秋美さんを「兄さん、兄さん」いうて呼んで、ずーっと付き合うてきた。わしの入営のときは、父が福山まで送ってくれたが、秋美さんにも高知まで送ってもろうて、一緒に撮った写真が、この写真や。 *山田秋美さん(左)と

あの頃は、成人したら男は徴兵検査を受けて、合格したら2年か3年は兵隊に行かなならんかった。わしも20歳になった昭和18年に徴兵検査を受けて、その年の12月に福山に入営した。父と秋美さんの二人に送ってもらったことは、よう覚えちゅう。


当時、北川村では、入営する若者が連れだって遺族會館のところの上の段に、村の人たちが下の段に並んで見送りしたもんじゃった。村長さんが励ましの言葉を言うた後、みなで万歳三唱して、行く人たちが「頑張ってきます」いうて応える。名を記したノボリ旗がはためいて、華々しいもんじゃったぞ。


けんど、わしが兵隊に行くときには、北川村で一人じゃったきね。そういうのはなかった。野友の手島トシオいう人と二人じゃと聞いて、一緒にと思うて探したけんど、ちょうど愛媛の方へ行っちょる(行っている)とのことで、よう会わんかった。ほんで、連れだる(伴い行く)こともないままよ。


入営してから、その人に会うたけんど、野戦に一緒に行くことはなかった。どこへ行ったかはわからん。知っちゅううちでも、二人ばぁは野戦へ行かんかったがもおっつろう(行かなかった者もいただろう)。


わしらぁの隊は、日本全国、北海道から九州までの人がおる混成部隊やった。福山の西練兵場に集まって、迎えに来ちょった若い班長さんに連れられて、そこからすぐに船に乗った。玄海灘を越えて釜山港へ向こうたが、酔うて酔うて。そりゃ、玄海灘の12月いうと、荒れるときじゃもの。便所へたけだけ通うて、治まりゃつかざった(便所へ行き通して、何ともしようがなかった)。初年兵がよけ(多い)じゃろう。20歳ばぁの若い兵隊でも、船には酔うわね。


平壌での訓練


そこから平壌までは汽車に乗った。途中で降りて休むこともあったが、おおかたは汽車に乗ったままで、3日もかかって、ようやっと着いたことよ。すぐに正月やって、鯛をもろうて食べたことを覚えちゅう。


平壌での訓練が始まったが、海軍とは大分違う。弟の恒喜が行っちょった海軍では、叩かれて叩かれて、「腰が痛い、痛い」言うちょった。下手やから、上手やからというのではない。海軍の習わしみたいなもんよ。「はい」と言おうが何を言おうが、頭からじきに棒が飛んで来たと。


けんど、わしらぁの部隊では、そんなことはなかった。志願で募集しちょったき、朝鮮の人がどっさりおったが、将校らぁは、その朝鮮の志願兵らぁをそりゃ大事に言うたわよ。朝鮮人が逃亡するろうがよ。わしらぁは、別にどうもないと思うちょったけんど、何日もかけて丁寧に探さないかんかった。日本人にも、そうよ。あんまり叩かんようにしちょったねぇ。


福山の聯隊が平壌へ引っ越したがやき、大きな部隊ができちょった。けんど、みな、あの平壌の寒さには閉口したねぇ。そりゃ、凍るばぁ冷い。夜が来たら、川が凍って向こう岸へ渡れた。そんな厳しさが遅い春が来て、やっと和らぐ。5月には、川の両岸で洗濯ものをたたいて洗うのも見たわよ。


わしらぁ初年兵は、まぁ、学校で言うたら一期生(一年生)みたいなもんよ。一期生の訓練を冷い強い風が吹く中で受けよったところに、高く丸く土を盛っちゅうもんがあった。ちょうどいい塩梅やと、風が吹かん方へ回りよったら、後ろから「これは何か知っちゅうか」いうて訊かれて、「知らん」と応えたら、「これは朝鮮の墓ぞ」と教えてくれた。昔の皇族の墓やったらしい。


ミンダナオ島北端のスリガオへ


わしが所属しちょったのは、歩兵第41聯隊の第3大隊やった。さあ、何人くらいの部隊やったか。5、6百人とはいわんかったろう。聯隊長は炭谷鷹義、大隊長は近藤泰彦。間違いない。

朝鮮での訓練の後、5月の上旬に、どこへ行くとも知らされんまま、汽車で平壌を出た。釜山に着いて、鉄砲へ孟宗竹みたいな竹を括り付けて、それを担いで船に乗り込んだ。ごまかしよ、ごまかし。その竹は船の上から捨てて、処分したと思う。


船に乗っても、初めは行き先もわからん。わしらぁに言うてくれるもんか。今度の船は1万トン級と太うて、船底には、馬も積んじょった。わしは船には弱かったが、今度は船が大きかったからか、玄海灘のときと違うて酔うことはなかった。


あの頃は、船が攻撃されることも多かったが、幸せなことに、わしらぁの乗った玉津丸は無事に進んだ。非常演習いうて、船倉からみんなぁ甲板へあがって、訓練もしながら行った。整列して前の人の襟元を見たら、シラミが這いよって、わしは気色悪うて生きた心地がせんかった。そのとき初めてシラミを見たきにねぇ。それに、まだ5月やに暑うて暑うて、汗疹も出たりしたわよ。


船は、フィリピンのマニラに寄港して、5月下旬にはミンダナオ島の北端にあるスリガオに上陸した。行くには行きついたものの、そこから先は何の見通しも立たん。日本にもどれるかさえ、わからんと思うた。


討伐の日々


朝鮮の人も日本人に混ざって行っちょったが、そう多いわけじゃなかった。部隊が決まり、兵卒はみな何班、何班って分けられ、班長も決まった。わしらぁの班長は、上田寿というたと覚えちゅう。一つの班が、まあ、20人くらいおっつろうか。班長の上に小隊長、その上に中隊長というのがおって、何班もひっくるめて監視しゆうがよ。高知の仲間、石元さんや室戸の上田さんらぁと知りおうたがも、そこでやった。


スリガオには1ヶ月もおらんと、部隊を編成して、船に乗りもって島の沿岸一帯の掃討作戦に出た。初めはアメリカがフィリピンを占領しちょったがやき。それを日本軍が上陸して追い立てた。その後へ、わしらぁが入ったがよ。


道を造るがじゃない。ゲリラの討伐が目的やった。現地人は、先に来ちょったアメリカの味方するもんが大方で、道端のあちこちに仕掛けを作って隠れちゅう。ゲリラや。その竹杭の先で怪我をした者がおって、竹に毒を塗られちょったか、治りきらん。そんなこともあった。


自分の部隊がどう進んだか、地名はよう憶えてない。確かカバトバランというところへは行った。日本じゃないき、土地に詳しゅうないろう。一晩ばぁでどんどん動くし、どこをどう動いたか、頭に残っちゃぁせなぁ。戦後に師団の関係者から本を2冊送ってくれた。あれがあったら詳しいことがわかったが、孫が貸せ言うて、持って行ってわからんなった。


どこへ上陸するときやったか、船が浅瀬にはまってしもうて、着岸できん。持っちょった携行品を雑嚢(ざつのう)いう袋に入れて、肩へかけてバンドで縛って、陸を目指して歩いた。ところが、袋ごと浸かってしもうて、カンパンもなにもかも全部塩水にやられてしもうた。そんな情けない思いもしたことよ。


1日に1回は雨が降った。スコールよ。討伐に出ると、雨にもやられた。着物が濡れて、シラミがわく。水虫にも苦しんだ。軍隊では、地下足袋と靴をくれたが、毎日の雨で乾く暇がない。どんどんこじれてきて、痛うてね。乾かしはできんし、それがしょう堪えた。けんど、最後は誰もかれも靴もなくして裸足やったなぁ。


けんど、あの暑さを思うと、雨が降るからおれた、とも言える。眼鏡のレンズで煙草に火が点くばぁ太陽がきつかったのを、毎日の雨で、なんとかしのげた。


木にもまけたねぇ。討伐なんかで藪の中へ入ったら、後でピリピリ、ピリピリ体が痛うなってね。そりゃ、どやらした名の、漆みたいな木に触ったろう言われたけんど、わかるもんか。そんな木には、触らいでも、下を通っただけでまける人もおる、いうて教えてもろうた。


都会の人は体も弱うて、戦地では難儀なことばっかりやった。わしらぁは、学校上がってからは親の手伝いもするし、友達と山駆けずり回って遊んだ。兵隊に行く前は、営林署で国有林の仕事もしよったき、身体も鍛えちゅう。お蔭で大概のことに我慢できたと思うちゅう。


伝令に行けと言われて、川向うの部隊まで泳いで渡ったこともある。わしの他には、誰も川を泳げんかった。子どもの頃には溺れよっても、あれから泳ぎは達者しちょったきね。(笑)


そんな大きい川じゃない。ちょうど奈半利川ばぁの川幅じゃったように思う。部隊への連絡がすんだら、歩哨に出されちょった班長が、「まぁ、飯も食て行け」と言うてくれた。それから、こうこうしてワニを現地人が取ってきてくれちゅうき、これを小隊長へ持って帰っちゃれって、荷にしてくれた。部隊へ帰って、ワニじゃき食え言うてくれたで、って渡すと、ワニかよ、身がきれいじゃなぁ言うて、当番が炊いてみんなに食わしよった。まっこと(誠に)きれいなもんじゃったが、本当はワニじゃない。トカゲの身じゃった。そんなこともあったわよ。


担いででも連れて帰りたかった


聯隊の大方はレイテへ行ったが、わしらぁの第3大隊は残って、ミンダナオ島の警備に当たった。沖を見よったら、沖縄へ行くアメリカの大船団が通る。日増しに戦況が悪うなっていきゆうと、嫌でもわかった。


 野戦へ出たときには、食糧も持っちょたけんど、すぐにのうなる。わしらは、あちこち現地人がつくっちゃぁるイモとかトウモロコシを取ってきて、それで命をつないだわよ。そうせんと何ちゃぁない。暑いところやき、年がら年中イモらぁはあった。小隊長いうたら少尉ばぁじゃが、その偉い人らぁでも、キビを食いよった。あの固いのを齧って食って。生では食えんき、イモもキビも、ちょっと煮いて食べたわよ。


バナナは、3日ばぁ草の中へ活けちょいたら食べれた。バナナとか、パパイヤ、パイナップルらぁも取って来る。それは現地人も取るがやき、よっぽど運があって間に合わんと当たらんわよ。そうよ、現地の人の食料を奪いに行くがやきね。そのうち、輸送船が途中でやられて、戦地へ食料は全く届かんようになって、兵隊の食糧事情は日を追うように悪うなっていった。


ありがたかったのは、塩を一人ひとりに分けて持たせてくれたことや。支那事変へも行っちょった先輩の兵隊さんが、塩がないと人間いかん、そう言うてみんなに塩を持たせてくれた。他の部隊の人らぁは、こればぁの高さでも足が上がらんようになったが、わしらぁの部隊は、塩を持っちょったお蔭で助かった。


その時には、塩ばぁ大事なものはないと本当に思うた。塩が切れたら、かわいそうなもんじゃ。けんど、助けちゃろうち、こっちも大方いかんがやき、何ともならん。塩をなめて水を飲んで、持ちこたえた。水はテントへ汲んできて、カルキを入れた黄色いようなのを飲んだ。


師団に合併するやらいう話があって、山の中をくぐって行きよったら、ブツアンいうたか、川に行きあたった。そこから今度は上流を指して行きよったら、もうアメ公が来ちょってバリバリ、バリバリ撃ってきた。


アメリカの味方しゆう現地人にも撃たれた。撃たれた腕を鋸で引いて切り落としたいう話しもある。ヨダミノルいう高松の男やったが、機関銃の弾が、突き抜けちょったらよかったけんど、斜めに食い込んじょった。軍医が手当しよったけんど、腐ってきて、「これは、腕をすっぱり切らんといかんぞ」言うて、鋸で引いた。けんど、その人は足がえいき、歩ける。ちゃんと戻ってきたぞね、高松へ。戦友会でも2回ばぁ会うたことがある。わしと一緒の一等兵じゃった。


山の中では、どっさり死んだわ。食糧もない。マラリアにもやられる。マラリアの薬がきつうて、胃腸をやられる。戦うて死ぬがじゃない。大腸炎やマラリアに罹って、死んだ人が大勢おらぁね。わしらぁの仕事は、毎日、負傷したり、体調崩した仲間の世話をすることと食い物を探すことやった。けんど、探しに行きやぁ、撃たれよったわよ。


体調が悪うなったり、足が動かんなって、移動に付いて行けん人は、手りゅう弾もろうちゅうき、途中で自決した。そんな人も、どっさりおらぁ。みんな、担いででも連れて帰ってやりたい。けんど、自分がようよう動いて行きゆう。我もいかんなりゆうき(自分も死にかけているので)、何ともようせんかった。遺骨収集にもなかなか行けんような山の奥で、本当にようけ亡くなった。


終戦、そしてレイテ島での俘虜生活


昭和20年の815日、わしらぁは陣地を構えて、まだ戦いよった。互いに立ち向こうておったところへ、宣伝に使うようなこんまい飛行機が低空で飛んできて、ラジオやビラを落としていった。ビラには『日本のみなさん、戦争は終わりました』と書いちゃあった。それを見て、あぁ終わったと思うて、嬉しかった。


わしらぁの41聯隊は、大方がレイテで戦死したと聞いた。ミンダナオ島へ残されて、運が良かったがよ。戦友の高岡の石元さんが、毎年815日に電話してくる。今日の日ばぁ、嬉しかった日はなかったぞなぁ、言うてね。もう1ヶ月戦争が続いたら、一人残らず死んでしまうがやった。食料がないきね、ほら。みんなぁ逝ってしまうがよ。そんな状況の中で、迎えた終戦やった。


それからの俘虜生活も、大変やったが、戦争しゆうよりはましよ。助かった、思うた。銃を捨てて向こうに渡し、みんなが降伏した。上の方で連絡が取れちょったのか、白旗掲げるようなこともなく、部隊がみんな揃うて、持っちょった銃を1ヶ所へ集めて、整然とやったわね。


俘虜の生活は、レイテ島で始まった。そこへ行ったら先々に来た人もおって、みんなぁ太い屋根だけの宿舎に入れられた。そこは玉砕したところじゃったが、建物の大部分は残っちょった。古かったが、ヤシの葉っぱを葺いたような屋根はあった。中は吹き抜けじゃけんど、上等よ。


けんど、食べ物がなかったわ。飯盒出せ言うき出したら、飯盒の蓋へ1食分じゃ言うてくれるが、米粒は10粒と入っちゃぁせん。アメリカ側は十分に支給してくれちゅうが、間におった炊事をする者が問題よ。入れ墨をした親分・子分の、ああいうがらぁが飯を構えよった。自分らぁだけ、白飯のいいのをどっさり食いよったわ。


親分、子分になったら、きれいなというか、汚いというか、そんなもんよ。それやき、何ちゃぁ言えん。何か言うたら、叩き殺される。アメリカ側に訴えても、十分に食料は出しちゅうとはね切られるし。下の者は、本当、生きちゅうというばぁのもんよ。便所に行くにようようじゃった


仕事は、アメリカの仕事をしよった、宿舎や他の施設には、いろんな荷が入っちゅうき、現地人がかっぱらいに来る。そんなことできんように塀をつくったりした。そこには、終戦から翌年の年末まで、長いことおったなぁ。南海大地震のあった夜は日本に帰って名古屋の三菱の工場で寝よったがやき、1年半ばぁおったことになる。


ようよう引揚船で日本へ


俘虜でも早い者は終戦の年に帰れたが、自分は昭和21年の12月にやっとタクロバンから引揚船に乗った。船は3千トン級あるアメリカの輸送船や言いよった。2千人は乗っちょったろうか。大きい波でも来たら大揺れするような船やった。もともとが貨物船じゃき、便所言うても甲板に別に網張り幕張りして、そこでわからんようにしたわよ。海へ流すがよ。急ごしらへの船やき、そんなもんよ。


日本が近づいて山並みが遠くに見えたときには、甲板で、みんなぁワーっと言うたわよ。どうこう言うても生きる死ぬるやったきね。


着いたがは名古屋港、師走の20日やった。陸へ上がって土を踏んだら、そりゃ、ホッとした。明日は我が死ぬるかもしれんと思いよったわけやきね。泣いた人もおっつろう。まあ、食い物がなかったのが、一番辛かったわな。水飲んで塩なめて、なんとか生き長らえて、やっと帰ってきたがや。


名古屋の検閲所に着いたとき、持ち物は全部出さんといかんかった。広島出身の上田というわしらぁの班長さんが、部隊の名簿をこっそり持って帰っちょったわよ。戦死した人の家族に何とか報告したいゆう思いがあってねぇ。そのままじゃ取り上げられるが、引揚者の連絡先とか何とか言いつくろうて、それで何とか持って帰るがを許された。後で戦友会をつくって何回も集まれたのは、その名簿のお蔭いうことよ。


それから消毒剤を真っ白うになるまで頭から振りかけられて、全身の消毒をして、やっと終わりや。カンパンと水はくれた。それを食いもって、その日の宿舎の名古屋三菱工場跡を目指したことやった。その晩みなで、腹がすいたばぁ辛いことはない、寝るに寝れんかったって、話したことを覚えちゅう。


帰国した夜、南海大地震にあう

      

翌日の未明が、あの南海大地震よ。みんなぁ慌てたけんど、京都の戦友が「こればぁのことやったら、心配ない」って。そんで、靴履いたまま、まとめた荷物を枕にして寝よった。


翌日、帰ろうと駅へ行くと、裸足の者が何人かおる。軍靴はどうしたかと訊くと、昨夜の地震で裸足で飛び出してしもうて、帰ってみたら靴が盗られてないがやと。靴はみんなにくれちょった。戦地で生きる死ぬるで互いにやってきちょって、なんでと思うたわね。裸足のまま汽車に乗った人が何人もおって、よう忘れん。なぜか、自分らぁの西へ向かう組じゃなくて、東へ向かう人ばっかりじゃったがねぇ。


 高知へは同郷の4人で一緒に帰った。四国へ入って土讃線で来よって、大田口やったかと思うが、汽車が止まった。地震の土砂崩れで、そこからは大杉あたりまで、2時間ばぁ歩いたような記憶がある。そこから、また汽車に乗って、後免まで帰った。日が暮れてしもうて、高岡の石元さんは、乗り物を見つけて帰ったけんど、自分らぁはバスもない。宿屋を探しおうて、後免で泊まったわよ。室戸の人らぁと、一緒やったなぁ。田中さんと上田さんよ。


帰り着いた故郷で


弟の恒喜がもどっちゅう(帰っている)かと心配しよったが、先に帰って来ちょった。最後は沖縄に近い島におったらしい。それが、なんと玉砕したところじゃって、役場から戦死したいう知らせが来たと。玉砕じゃったき、確認できんもんは死んだとして、戦死の公報を出したんじゃろう。けんど、知らせて来たときには、もう本人が家へもどっちょったと。


この弟は、ミッドウェイへも行っちょったが、船が攻撃されて使えんなって帰ってきたと。弟も、わしも、つくづく運が良かったと思うたことよ。けんど、自分らぁが無事やったいうて、喜ぶ気にはなれんかったなぁ。帰って来て、近所に戦死した人がようけ(多く)おることを知らされた。


自分が行った後から、召集されて戦地へ行った人もいっぱいおったし、恒喜みたいに、徴用におっても帰ったら兵隊にとられるき、いっそ志願した方がましやということで、志願した組もあったらしい。


入営の折に自分を高知市まで送って行ってくれた山田秋美さんも、その後、召集で戦争に行って、シベリアへ抑留された。何年も苦労したけんど、ちゃんと帰って来て、定年まで営林署に勤めた。


山下志郎さん.jpg戦死した者は身内にもおった。姉、幸美の連れあいの山下志郎(やましたしろう:昭和20年6月10日戦死)さんは、何回か召集されたが、最後に行ったフィリピンのレイハンで戦死した。35歳やった。子どもが女の子と男の子と二人おったが、姉は百姓してなかったき、食わすもんもない。働きもせんといかんで、たいへんやった。


食べるもんは百姓しよったうちがつくって、みんなぁで一緒に暮らした。あるものを食べて暮らす。そんなふうにやった。姉は営林署の仕事をずっとして、苦労しもってでも子どもらぁを一人前に太らした。最後は年金もついたわよ。姉はもう亡くなったけんど、姪は奈半利に、甥は高松におる。うちの家族と一緒よ。


従兄弟では二人、坂本耕作(さかもとこうさく:写真左、昭和19年9月19日ビルマ方面にて戦死、行年24歳)さんと坂本智(さかもとさとる:写真右、昭和20年11月17日、中国にて戦病死)さんが戦死しちゅう。耕作さんは、同じ和田で年も近かったき、川でも山でも、よう連れだって遊びよった。わしが川で流されたときも一緒やったと思う。もう一人の智さんは、鍛冶屋の弟子に行っちょった言うてね、家にはおらんかったき、ようは知らんけんどね。


坂本耕作さん.jpg 坂本智さん.jpg



中島才介さん.jpg部落の仲間内でも戦死した者がおる。中島才介(なかじまさいすけ:昭和20年11月5日戦病死)さんは、年は2つ下じゃったが、家が近じゃったき、ずっと一緒に遊んだ。大人しい、利口もんじゃった。軍隊へ行って、衛生兵をしよったらしい。わしは18年に家を出て行ってから、終戦までもどらざったき、詳しいことは知らんが、21歳の年で、上海で戦病死しちゅう。悔しかったろうと、残念でならん。


他にも知り合いで戦死した人は何人もおる。和田の部落だけでも、十の指じゃ足りんき、どうしても自分が帰って来たことを手放しでは喜べん。よう帰らんかった者は、みんなぁ若うて、一人身の者がほとんどよ。これからやったわなぁ。


大事な家族が欠けた家が、一つの部落の中だけでも、こんなにあるということよ。和田でも小島でも、気の毒なことに、おとどい(兄弟)が戦死した家もあった。それが、戦争じゃ。みんなぁが帰って来れたらよかったに、という気持ちは、いつまでも続きよらぁよ。



◆妻が語る戦後編

          

坂本 操(さかもと みさお)さん


奈半利川のあちら(宗ノ上)からこちら(和田)へ嫁いで


私の生まれも北川村で、宗ノ上という部落です。やはり夏は奈半利川でよく遊びましたよ。私のところは、長山の発電所のところから分かれた支流になるんですけどね。旧姓は、門田といいます。父は、道之助(みちのすけ)、母は墨恵(すみえ)。7人兄弟姉妹の私が一番上です。昭和4年3月9日の生まれで、86歳。お父さんとは6つ違いです。


学校は、木積へ6年まで、その後は片道5キロ以上の道を歩いて北川まで2年通いましたよ。毎日、毎日、よう行ったもんやと思います。学校へ行くに、夜は草履つくらないかんしね。勉強どころじゃなかった。


二十歳前の操さん(左).jpg

*写真は20歳前の操さん(左) 芸能大会で踊りました


上級生のときは、兵隊さんの見送りや遺骨のお迎え、それから村葬いうのもあって、全部参列せないかんかった。長いこと立てりよったら気分が悪うなってきて、しょう辛かった。それに、みんなが泣きゆう。その顔を見たら辛くてね、本当に。よう忘れません。

 終戦のときは、16歳でした。結婚したのは、お父さんが帰ってからです。知り合いではなかったですよ。家へ行くまで、会うたこともないし、顔さえ見たこともなかった。その時分は食糧難でね、みんなが「あそこは田んぼつくっちゅうき、あそこへ行ったら餓えることはないき」言うてね。そんなふうに百姓を選んで、お嫁に行かされたがよ。終戦から3年後の昭和23年の1010日でした。

 当時は、まだまだ食料不足が続きよって、ご飯いうても、主は麦よ。ほとんどの田んぼで麦をつくりよった。麦が半分、お米はほんのちょっとで、芋やかぼちゃを切って入れて、まぁ言うたら、雑炊みたいなもんよ。山へ行く人には、それを飯ごうへ入れて持たせてました。終戦後もしばらくは、そんなで、徐々に麦飯になっていったわねぇ。弁当にお粥や雑炊が入っちゅうなんて、今の人は想像もできんろうけど、戦争が終わっても食べれたら上等の時代が続いて、みんなぁ苦労したわね。


けんど、奈半利川は豊かで、鮎はもちろん、鰻も、手長海老もようけおりました。昔の鮎は、とにかく大きかったわね。こんな長い、こんな幅のね。この人が兄弟3人連れだって川を流れて鮎を突いてきたことをよう覚えちゅう。今は埼玉におる一番下の弟が、まだ学校へ行きゆう頃やったか、見たら大きな水桶に八分目ばぁも鮎が入っちょって。私の里は小川で鮎もあんまりおらんかったき、そのときは、本当にびっくりして、よう忘れません。


焼いて食べたら、ほら美味しかったわね。秋になったら、それを串に通して囲炉裏でゆっくり炙って、燻製みたいにしました。おかずにも、味噌汁の出汁にもしたねぇ。美味しかったぞね、そりゃ。当時の味を知った者じゃないと、あの美味しさはわからん。塩で焼いちょいて頭から食べれたきね。昔の奈半利川の懐かしい味よねぇ。


子育ての日々


子どもは5人授かりました。上3人が女で、下2人が男の子やったけど、一番上の娘と下の端の男の子とは病気で亡くしました。あの時代は、まだ子どもが病気で死ぬことがようありました。


下の子は、腸重積症という、腸が詰まる病気で、下へは出んようになって、上へもどしてね。3歳でした。もっと大きい良い病院へ行けたら早う見つけてくれたと思うたけど、この辺にはなかったきねぇ。


寿命やったわね。今は、そういうように自分が思ってます。何日も漂流しよった人でも、助かる人は助かる。寿命があったら、どんなにしてでも生きていける。そう思うようにして諦めてます。去年が50年やってね、そのお祀りをしました。


次女と3女と長男と、中の3人の子どもは順調に育ってくれました。ただ、長男の達治は、小児麻痺で足が悪うなってねぇ。村から予防注射についての知らせがあったらしいけど、その頃は、この人のお父さんが会には出よったし、私らぁは知りませんでした。予防注射が1回に2千円か3千円かで、希望する人はしたらしいです。でも、予防注射を受けてない人でも、どうもなかった子どももおったしね。皆々というわけじゃない。まあ、運、不運があるわねぇ。


でもねぇ、幸せなことに、達治はおばあさんに本当にかわいがってもらいました。おばあさんがずっと連れてくれて、高知の畠中病院まで行って指圧もしてもろうたんです。おばあさんがまだまだ元気で、背負うて抱いて。おばあさんに育てらて、達治は、おばあちゃんっ子よね。


私は達治を小鹿園(巻末注参照)へ連れて行って、コルセットもつくってもろうたけど、すぐに、そのコルセットもまどろこしゅうなって(手間がかかりじれったくなって)履かんなった。先生に言うと、履くのが嫌なら、それでもよかろうって。で、作って1ヶ月か2ヶ月かばぁしか履かざったね。


足が悪うても、あの子はうんと身が軽かったがね。小学校1年の頃やったか、大きな木に登って、枝鎌で枝を切りゆう言うて、近所の人が知らせてくれたことがありました。いや、怖い、へんしも(すぐに)下りてき、言うて叫んだことよ。それが、またハゼの木やったき、ホロセ(身体にできる発疹)がいっぱい出て、病院へ走り込んだわね。達治はアレルギーがあって、身体中まけるがよ。お薬もろうてつけたことです。


 山でこぼて(小鳥を獲る木の仕掛け)張って、よう遊んだきね。こぼてのエサにするに、ハゼの木や南天の実とか、よう取ってました。柴馬いうて、柴を刈ってきて元を結わえて、それに跨って坂道を滑り下りる遊びも、みんなぁでようしたわねぇ。達治も、それは楽しげにして、よう遊んだ、遊んだ。


私が聞いた戦争の話


戦争の話を私は、嫁いでから、この人や弟の恒喜さんなんかから聴きました。それに、家のすぐ隣の大久保の叔父さんらぁも、よう話してました。お父さんより後の召集で、満州の方へ行っちょって、シベリアへ連れて行かれた言うて、シベリアでの苦労話をようしよったねぇ。


寒うて寒うて、たいへんやったうえに、とにかく働いたもんでないと食べらさんかったですと、ロシアは。熱がある言うたら休ましてはくれるけど、休んだら食べるもんはない。働いたら、働いたという切符みたいなものをくれて、それで食べ物をもろうて来て、分けて食べらしたりした、そう言うてました。


その厳しいロシアで、エゾ松とかいう松をぎっちり(少しの休みもなくずっと)切らされたようです。隣の叔父さんらぁは、山仕事は慣れちゅう。木も切ったことあったし、何とか踏ん張れたけど、町育ちの人は、そんなこともしたことない。まぁ、教えてはくれたけんど、体力的にも難儀したろう。そう話してましたよ。


今治市で開催した戦友会.jpgこの人の戦友会へは、私も一緒に行ったことがあります。フィリピンから上田班長さんが苦労して持ち帰った名簿があって、それを基に全国へ散らばっちゅう戦友のみんなに呼びかけたそうで、昭和40年頃から始まっています。


班長さんが広島の方でしたから、会場は広島が多かったんですが、高知や香川でもしましたよ。(写真を見ながら)これが昭和46年に高知でしたときのがじゃね。ここへ写っちゅう人も、もうみんなぁ、おらんなってしもうた。この人が高岡の人でね、この人は室戸の元(もと、地名)の人や、上田さん。・・みんなぁ戦友やったがですよ。


最初は多かった人数が、年々みんなぁが年をよせて、減っていきました。脳梗塞やったりして体調を崩してね。自分一人ではよう来んようになって、奥さんが一緒に付いてくる人もいましたよ。夫婦で一緒に写っちゅう戦友会の写真もあります。高知でも何回かやったから、私も付いて行ったことがあります。お酒も入って、みんなぁで昔話に花が咲いて、楽しかったですよ。終いの方は、ほんとう人が少のうなってましたけどね。


夫唱婦随の幸せな今


お父さんは、若い頃からなかなかの仕事師で、向こう意気が強い、曲がったことが嫌いな人でした。厳格な面もあったけど、私が病気したときは、それは大事に世話してくれました。両親のことや達治の病気のことなど、私が心配ごとを言うと、「いろいろ言うな。明日のことは、誰にもわからん。なるようにしかならん」と叱られたもんです。お父さんの前向きに突き進む姿勢に、随分救われましたね。感謝しています。


まぁ、働きもんで、私が嫁いでからは、マラリアで1回熱が出て寝たことがあっただけ。内臓を患うて寝たことは平成14年まで1度もなかったんです。営林署の山仕事をしよったき、脛を痛めて入院したり、集材いうて木を飛ばす(ワイヤーでつるして運びおろす)機械のエンジンかけよって、手の、ここから先が脱臼して抜けてね。冬の冷いときで、伯父さんの人と一緒に仕事をしよった時でした。親指のような膨らみが、脱臼したところへでき合しちょったがね、血管が浮いたみたいに。


あの頃は田野に岡宗いう病院があって、そこに55日ほどいましたね。脱臼でもひどかったもんよね。普通は、すぐ治るもんやけんど、血管が紫色になって、もう恐ろしいようになってました。治ってからは、今度は屈伸するに痛うて痛うて。治ってからも、痛いき顔も洗えんって言うてました。でも、まぁ、もう一方の手で何とかしてましたねぇ。


それ以外は、本当に健康な人で、間も隙間もなく働く。仕事が趣味みたいな人なんです。なんちゃ趣味はないき、年を取ったらどうするろう、退屈するろうねぇと、そんな心配をするほどでした。


平成14年に病気したときは、仕事のし過ぎやったと思います。1週間ほど眩暈がして、1ヶ月くらい寝ないかんかったんです。それで足が弱って、動きよってこけて、腰を打った。それからは、ずっと足がいかんね。全然痛みはないき、何とか家にはおれるけど、足に力が入らんでグニャグニャのようになっちゅう。が立ちゃあ、ことことなんでもできると思うて、本人は辛いろう。けんど、まぁ、痛うないきに暮らしよい。そう思うたら、我慢もできるわねぇ。


お父さんの体が思うように動かんなって、私がしちゃることが上手にできんと、「自分は我がのことせえ」言うて怒らることもあります。けど、頑張って、ご飯も炊いて食べさせんといかん。絶対呆けられんと、そう思うてます。お父さんにも、呆けられんで、って言うてます。


集会所へ体操に行ったら、計算とか間違い探しとかの宿題をくれるんです。それは、まだまだ大丈夫。それから、二人でテレビの国会中継も聴いて、いろいろ批評もして、「そう言うたちいくか」言うたり、「そういうようにせんといかん」言うたりね。


毎日が、ゆっくり過ぎていきます。昔、私が病気したときは、大事にしてもらいました。今は、私がお父さんを大事にしちゃらないかんと思うてます。でも、つい喧嘩もしたりするけどね。(笑)


<参照>


※1 電発:J‐POWER(電源開発株式会社)のこと。奈半利川には3水力発電所(魚梁瀬、二又、長山)がある。


※2 小鹿園:県立の肢体不自由児施設として、昭和31年に「整肢小鹿園」として設置され、県内唯一の専門機関として肢体不自由児に対する治療やリハビリ訓練、療育支援の使命を果たしてきた。平成11年に他機関と統合され、「県立療育福祉センター」となっている。


あとがき


北川村での「聴き書き」は、村の遺族會館に掲げられた若き英霊のみなさんの声を聴きたい、拾いたいとの思いで始めたものですが、2年目の今年、初めて戦争体験者である坂本武一さんのお話を聞くことができました。


長い年月が経った今でも、風化することなく脳裏にある戦場のありさまや亡くなった戦友のことを、こうして語っていただいたことに、改めてお礼申し上げます。


今年は戦後70年。新聞やテレビでも戦争体験者のみなさんの話が、よく取り上げられました。兵士や従軍看護婦として戦場の経験を語る方のほとんどが、90歳を越えていらっしゃいます。「ききがきすと」として、少しでも多くの戦争体験者の方々の想いを聞き取り、伝えたいと願わずにいられません。


             (ききがきすと:鶴岡香代)





posted by ききがきすと at 16:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月27日

『あの日を忘れない 東日本大震災を語る・岩手編』が完成しました!

表裏:使用.jpg 20147月に、岩手県宮古市田老地区を訪問し、被災者の方々から伺ったお話をまとめた『あの日を忘れない 東日本大震災を語る・岩手編』が完成しました。宮城編に続く第二弾となります。


田老地区には「万里の長城」といわれる長さ2600m、高さ10mを超すX字型の防潮堤がありました。明治と昭和の初期にも、大きな地震と津波に襲われた田老地区は、巨大な防潮堤と、高台にまっすぐに伸びた非難しやすい道を整備していました。それでも、今回の津波で180名を越す犠牲者を出してしまったのです


 ホテルの6階にいて、押し寄せる津波を恐怖の中でもビデオに撮影した人、自宅の2階にいて家ごと流された人、足が悪いからこそいち早く逃げて助かった人、津波で生じた火災の必死で防いだ人、それでも希望を持って新たな道に進みだす人。この方々のリアリティあるお話には、担当したききがきすとも声をなくすことがありました。


DSC_0047a.jpg このような貴重なお話をまとめて、形にすることができたのは、お話くださった皆さんはもちろんですが、地元で復興活動を行っているNPO法人「立ち上がるぞ!宮古市田老」の理事長である大棒秀一さんと新屋正治さんのご協力があったからです。心から感謝しています。


シリーズの第一弾『あの日を忘れない 東日本大震災を語る・宮城編』(20137月刊行)は、宮城県図書館に収蔵されました。今後、「宮城県震災アーカイブ」としてデジタル化され、公開される予定です。この岩手編も、関連ある図書館や施設にお送りすることを考えています。また、ききがきすと一同は、第三弾の福島編も作成したいと意気込んでいます。皆様のご協力をよろしくお願いします。


なお、『あの日を忘れない』シリーズは、1,500円(消費税込み、送料215円/冊)でお分けします。ご希望の方は、まずメールにて(松本まで)ご連絡ください。 info@ryoma21.jp




続きを読む

posted by ききがきすと at 18:03 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月06日

子らを守りて、生き抜いて

語り人  大寺一子(おおてら かずこさん)

隣村への嫁入


ootera1.jpg私は大正11625日の生まれですから、この6月で92歳になりました。学もなくて、呆けるのも早うて、この頃はとんと物忘れも多うて。こんなことでは、お話にはなりませんからと、聞き書きのお話も一度はお断りしたんですけど・・・。でも、ぜひに、とのことなら、聴いてもらいましょうか。

私たち夫婦の出会いから・・・ですか。あれは、昭和14年のことだったと思いますよ。私はまだ18歳と、本当に若かったですよ。隆さんは27歳。私より9つ年上でした。ちょうど応召が解かれて、戦争から帰ってきたところでした。

私の生まれは、北川村のすぐ隣、田野町の土生岡(はぶのおか)です。男ばかり7人の兄弟に囲まれた、ただ一人の娘でした。当時の遊びといえば、女の子は「おじゃみ(お手玉)」や「あやとり」。「陣取り」いうて、こっちとあっちに陣をつくって鬼が追いかけたり、大勢で「かくれんぼ」なんかもしました。男の子に交じって、よう「パン(メンコ)」もしたねぇ。男兄弟に随分鍛えられて育ちましたよ。里のすぐそこに小さな山がありましたので、「こぼて」を仕掛けて小鳥を取ったのは、楽しい思い出です。今は、そんなことして遊ぶ子は、もういませんけどね。

そんな男まさりに育った私でしたが、父親には本当にかわいがってもらいました。たった一人の娘を、なんとか幸せにしてやりたいと願った父の思いが、私を隆さんと結婚させたように思います。

当時は、若い男はみんな戦争に行っていましたから、嫁に行けないまま年を取る女の人も多かったんです。そんな女の人のことを「行かず後家」なんて陰で呼んだりしていました。ですから、父親は、私には何としてでも結婚させたいと念じていたようです。

それで、隆さんが戦争から帰ってすぐに、お隣の池田さんから見合いの話が出たときには、とんとん拍子に話が進んだようです。あっという間に仲人のおじさんを連れてくることになってね。

結婚までの付き合い・・・ですか。昔は今とは違いますよ。私は、どんな人やら見たこともないまま、結婚したようなものです。確かに、隆さんを実家へ連れてきて、いろいろ話はしましたよ。でも、話をしたのは父親で、私ではないんです。私は、まだほんの18ばかり。その時が見合いとも知らず、ほとんど相手の顔も見ていませんよ。上の学校へも行かず、一人で年取っていくのは可哀そうだという父親の思いが強かったんでしょうね。ただ一人の娘のために、その縁談をちゃんといい話にしたんです。

ootera2.jpgですから、あちらへ嫁いでから、やっとまともに顔を見たような調子でしたよ。言葉の一つ交わすでなく、なんの付き合いもないまま、ね。今の時代なら、若い人たちは自分たちで付き合いして、二人の気が合ったら結婚となるけれど、昔はそうじゃなかったですからね。見に来てくれたときにちらっと会うけれど、その時はそんな気もないでしょう、結婚するなんて。

だから、顔もわからないまま、親たちが話しして決めたとおりに、嫁いで行くんです。相手の家で顔を合わすまで、どんな男の人やらわからないで結婚する。当時は、それが普通でしたね。

結婚式は、嫁ぎ先の近くに星神社というお宮があって、そこでしましたね。あの当時は、花嫁は文金高島田でしたよ。田野にあった畑山という写真屋さんに、写真も撮ってもらいました。

その写真は、今もあるはずです。娘に渡してあると思います。親族全員で写したものも1枚あったと思いますよ。最近は見たことはないんですけど、言えば、出してきてくれると思います。


短くも穏やかで幸せだった親子の暮らし


隆さんは本当にやさしい人でした。翌年の6月には、女の子が生まれました。長女のお産は、土生岡の里でしまして、私の父親が「萬世子」と名付けました。実家は、二十三士の清岡道之助さんの家がすぐ近くで、道之助さんところのお姉さんに「まよさん(文末補足1参照)」という人がいて、立派な人だったそうです。あのような女の人になってくれたらと、あやかったのです。

また、こちらの舅は萬太郎といいましたから、萬太郎のような世渡りができたら上等じゃきに、萬太郎の萬をとって「萬世子」と、そう言っていました。里の父親の願いがこもっているんですよ。

萬世子が1歳になったばかりの昭和167月、隆さんは再び応召され、満州牡丹江の部隊に入隊しましたが、そのときは、2年程で元気に帰って来てくれました。

帰っても、家では戦争のことはまったく話しませんでしたね。今ね、新聞によく戦争から帰ってきた人の話が載っているでしょう。それを見て、おっとたまるか(なんてひどい)、お父さんもなんぼか辛い目におうたろう、と思うんですよ。

前歯を傷めて治療していたのを覚えています。あれも、軍隊で叩かれたのではないろうかと、今ごろになって、戦争の話を読んだり聴いたりして思うんです。軍が厳しいということもあって、家では軍隊でのことは何も言えなかったんでしょうね。嬉しいことは何もなくて、なんぼか苦しかっただろうと思いますよ。

ootera3.jpg体格は大きかったけんど、気持ちはやさしい、おとなしい人でした。きびきびとはよう動かんで、苦労したがやろう。新聞読むと、当時の軍では、暴力なんて日常茶飯事やもんね。けど、お父さんは前歯のことも、何も、戦争の話は、ほんの少しも言いませんでした。よく考えた、やさしい人でしたから。

長女の萬世子が、お父さんに似ています。性格のやさしいところが、そっくりです。この子には、お父さんの記憶がありますよ。3歳、数えの4歳の頃のことです。お父ちゃんにね、高法寺(こんぽうじ)さまへ連れて行ってもろうて、リリアン編みの袋を買うてもろうた、そう言うてます。

また、その時分、隆さんは奈半利の営林署の方へ勤めており、自転車で通勤していました。お父ちゃんが晩方帰るときに、自転車に乗せてもろうた、とも言います。萬世子に食べさせたいと、よく赤物の鯛とかをお土産に買って帰っていましたね。その時だったかどうかはわからないけど、笑ったときに、金歯がきらっと光る口元であったなと、そんなこともおぼろげに覚えているようです。

でも、そうした平穏な生活は短くて、ほんの半年で終わりました。昭和18年末に、4度目の応召となり、濠北派遣の部隊に入隊しましたから。私は、その時に4カ月になる次の子を身ごもっていました。もうそれきり、行ったきりになるとも思わず、見送ったことですよ。

その頃には、萬世子はカタカナをちゃんと書いていましたから、私はお父さんに手紙を書かせたりもしましたよ。本も空で読み、ちゃんと大人に聞かせるので、隆さんにも知らせたいと思いました。

でも、今度は遠い遠いニューギニアで、便りもなかなか難しくて、翌年7月に生まれた次女のことも届かぬままだったのでは、と思っています。

いっしょに世渡りして夫婦の形をつくるには、あまりに間がなかったですよ。だから、隆さんについては、やさしい、いい人だったという思いだけです。


この子らと生きると決めて


最後の応召では、ずっと南へ行ったんです。昭和19104日、ニューギニア島ヤカチにおいて戦死(行年32歳)したと、知らせて来ました。でもね、遺骨一つ帰るでなし、ただ名前が入っただけの箱が来たんです。それっきり。

あの時代は、そんなもんでしたぞね。四角い箱には、なーんにも入っていません。名前だけ。木の札だったか、紙の札だったかは、もう忘れましたけどね。

私は「お父さん、軍服といっしょにお祀りしますからね。暖かく着て、静かに眠ってくださいね」と言いました。もう軍服が要ることもないと思い、一緒に埋めましたよ。

当時は、そんなことでした。そんな辛い思いをしたのは、私一人ではなかったですから。若い人はみんな、そう。今の若い人は、本当に幸せですよ。

私は、まだ22歳でしたから、里の父親は随分心配し、気を揉んだことでした。「おまえ、まだ将来は長いぞ。これからが人生じゃ」と言うて。「今から一人で暮らすということは、たいへんじゃ。子どもを連れちょってもかまんきに言うて、世話してくれる人が来たが、一つ考えてみたらどうか。ここにおってもなんじゃが」言うて、来てくれましたわ。

けんどね、私には2人子どもがありましたろう。私は、どんな生活ができるにしても、子どもとはよう替えません。「ここでどんな地獄して苦労してもかまん。ここで子どもを、親のない子にしとうないきに。子どものために、私は頑張って生きていくから」と、父親に言いました。「だから、お父さん、もうそんなことは、今後はいっさい話を持って来たらいかん」言うて、私は頑張りましたわ。

隆さんが出征してからできた子も女の子でした。妹の方は、嫁ぎ先で生みましたから、こちらのおじいさんが「照喜」という名前つける言うてね。私はもがりゃしません(反対はしません)。おじいさんにつけてもろうたがね。男の子のような名前じゃけんど、ね。ほんで、萬世子と照喜の2人です。



ootera4.jpg
萬世子さんと照喜さん


家族には恵まれちょったと思います。お姑さんも、がいな(我意を張る)こと言う訳でなし、おとなしい人でした。

隆さんには、お兄さんが1人、姉さんが5人おりましたが、私が嫁いだときには、お兄さんは亡くなっちょって、男は隆さん1人でした。お兄さんには女の子が1人あって、女の子じゃから高等小学校出してもろうたらいいきに言うてましたけど、お義父さんが全部ちゃんと構えて、あの子も安芸の女学校にやりました。

また、一番上のお姉さんは大阪へ嫁いで、警察へいきゆう人と一緒になっちょりました。ところが、旦那さんが亡くなってしもうて、戦争当時は、子どもさん2人を連れて、うちの隠居いうて離れがあった、そこへ帰っちょった。まぁ、長い間には、いろんなことがありましたよ。

あの時分のことは、食べるものがなくて、みんな不自由したと言いますが、私のところはたくさん田畑を作っちょったから、食料に困ることはなかったですわね。でも、労働はたいへんやった。1町5反という田んぼを作っていました。

おじいさんがようせんようになってからは、私が女の人を5人も6人も雇うてやりました。その時分は、人に田んぼを貸すと、自分でよう作らんから貸しちゅうということで、農地委員会に安く取り上げられました。私は、こんな頑固な性分でしょう。ご先祖様から預かった田畑を失うことが嫌で、どうでもして頑張りとおして、ずーっと守ってきました。

萬世子は、高校卒業するとき、進学コースで勉強していて、「お母ちゃん、大学やってちょうだい」と言うたけんどね、月々の収入がなかった。百姓じゃきね。あの子は大学行きとうて、私は「役場が奨学資金貸してくれるいうき、行って相談してくるわね」言うて、役場へ行きましたわ。でも、なんともならんかった。どういう訳でいかんという説明もないまま、「こりゃ、いかん。できん」言うだけで、私は、いまだに納得がいきません。

後でみんなに話したら、そりゃ、食べるだけの財産があったからじゃろう、と言われたけど、それならそう言ってくれんとね。ただ、いかん、できんで、私は戻って来たぞね、言うたことよ。大学へ行きたがったのに、私はようやらんかった。人を雇うて百姓をしてましたき、それを払うたら残りはありゃしませんでした。そうやって頑張ってきました。


ありがたい、今の幸せ


でも、そのお蔭で、今日(こんにち)は、幸せですよ。こればぁの、文句もありません。

 萬世子は、何度も言うようやけど、ほんまにお父さんに似ちょって、人間が温厚です。小さい時から私が育ててきまして、今はもう70余る年ですが、今だに私に「けんど、おかあちゃん」言うて、口答え一つ言うたことはないですぞね。

今、北川村の婦人会の会長をしています。自分は事務所の仕事ばっかりして婦人会の方へ携わってないから、とても無理ですと言いましたけんどね、みなさんが、私たちができることはみんなで協力して助けますから、やってください言うてくださってね。とうとう自分も断りかねたかしらん、ね。十分なことはできてないやろうけど、みなさん全員でよう協力してくれて、お蔭でどうにか、保っていきゆうらしいです。

本当に、この子は、私に似ず、お父さんに似ちゅうの。お父さんとは、ほんの3年ばぁしか連れだっていませんでしたけど、人間は本当いい人と思いましたからね。

妹の方は、私に似てね、さっぱりした性格ですわ。この子には、お父ちゃんの思い出はいっさいない。なんにも知らん。まだ、お腹にいたときに、行ってしもうたんやから、仕方ない。戦争をもう1、2年早く止めてくれちょったらね。そう思うこともあるわね。可哀そうで。

でも、まあ、高校までしかようやらんかったけど、なんとか2人を育てあげました。思い出すと、涙が出らあね。本当に、その時分の辛かったことは、話にならんきね。若かったからこそ、辛抱ができたの。でも、2人の娘は、母親が苦労する姿をずっと見てきて、ようわかってくれちゅう。だから、苦労した甲斐があって、今の私には、幸せが戻ってきています。

もう40年以上も前のことになりますが、今の婿が私んく(私の家)へ萬世子をもらいに来てくれました。けんど、話を聴きよったら、婿のところには男の兄弟が5人もあるいうき、こちらへもろうてくれんか言うことになってね。仲人さんが「そりゃ仲人の口が立たんが」言うて、頭掻いてね。

けんど、私の兄の口添えもあって、仲人さんも最後に、まあ一つ、この話を向こうへ持って帰る言うてくれました。帰ったところで、今度はいい話にしてくれて、まとまったことですわ。

この婿がおとなしい、温厚な人でね。私はこの口じゃきに、言うてきかんと承知しませんわ。でも、婿はちゃんと考えちゅうき、取り合わんことは取り合わん。ちゃんと夫婦2人が考えてくれちゅうが。ほんで、今、私は90過ぎて、こんなにしてもらって幸せで。よう子どもを捨てなんだと思うてね。

だから言うことですよ、「これほどにしてもらいゆう姑ばんばがあるろうかね。私は、こればあの文句もない。これで文句言いよったら罰が当たる」と。そしたら、「本人が、そう思うちょったら、それでえいわよ」言うて返ってきます。若い時に頑張った甲斐があったいうことやろうけど、いろいろ話を聴くに、若い時に頑張ってきても、みなみなそうはいかんでしょう。

「ご先祖様、本当にいろいろありましたけんど、預かった田畑は一つも失うことなく今日まできました。子どもも無事に退職しました。田畑は全部、もう子どもに渡しますので」言うてね、私は、仏様、ご先祖様を拝みましたぞね。あと何年生きるか知らんけど、こんなにしてもらったら、もう何にも言うことはない。幸せよ。苦労したことは、なんにも思いません。


これからも忘れることなく


ootera5.jpg隆さんのことも、忘れんと、こうして聞いてもろうて、ありがたいことです。遺影集のこの写真は、おじいさんが好きやった。

満州の寒いところへ行っちょったき、こんな服装よねぇ。おじいさんが、この写真を選んで、村の遺族会へ出しちょったがよ。私には全然話ないまま、おじいさんの気に入った写真を、ね。

 戦地から来た手紙もいっぱいありましたけんど、ほかして(捨てて)しもうたろうかね。こんなもの置いちょいても、いかん思うて。けど、ひょっとしたら、まだ一つ、二つはあるかもしれん。子どもに来たがも、あればぁあったきね。もう、わからんね。何十年も見んもん。お父さんの肩章とか、いろんなものと一緒に、萬世子に渡したように思うけどね。

最期については、わかりません。軍の方からは、直接にはなんも言うてこざったし、あの時分には、訊くこともできざった。赤道直下のどこいらまで行ちょったらしい、言うくらいのことでね。本当に苦労したろう、厳しいところで・・。私は、もう誰にも、そんな思いはしてもらいとうありません。もう二度と戦争は嫌ですね。

あの戦争から70年近い年月が経って、この頃は私らぁも、大方のことは、忘れてしまいだした。こうして遺影集に残してくれちゅうことは、本当にありがたいです。先輩の浜渦武雄さん(文末補足2参照)いうかね、あの方がこうやってお世話してくださったから、遺影集もできたし、遺族會館もね、ああして残りましたよね。

この北川という村は、先に立ってやってくれる人たちが、こういう心掛けでやってくれるから、後へ後へと残りますがね。お陰様で、隆さんのことも忘れられんと、後の人につながっていくと思うて、感謝しています。


< お父ちゃんからの手紙 >


◆大寺 一子 様(妻への手紙)


毎日忙しい日を送っていることと思います

ご健勝で今頃麦の手入れに懸命のことでありましょう

節句ですが 鯉幟もどこを見ても見えず ただ異郷の風景のみ

洋君の幟を見て 萬世ちゃんが喜んでいることと想像いたしておりますよ

節句に送金をいたしたが受取りしてください

返信は航空便にて書留にし返信を願いする

健吾で郷土にあるときより元気で働いている故あんしんしてください

皆々様によろしく 体にくれぐれも注意する様に


◆大寺萬世子 様(長女への手紙)


毎度の便りの健勝の報 嬉しく喜んで居ります

氏神様のお祭りも楽しくすんだようで誠に結構のことと思います

刈取りもそろそろ始めているようだが、豊年で何より喜ばしいことでありましょう

また近年にない柿の豊年のようにて美しい実を垣根にぶら下げていることとて子供等もほしがることでありましょう

蜜柑も又たくさんなったようで菓子の少ない昨今とて何より副食のことでありましょう

土生の方から棒峯様の御守様送ってくれました

お礼を言ってくれ 

麦蒔を待とう

体に十分気を付けて

皆様によろしく サヨウナラ



ootera6.jpg
幼い萬世子さんをはじめ家族への気遣いがあふれる隆さんの手紙


<補足1>

清岡まよ:清岡道之助は、田野町土生の岡の郷士であり、武市半平太とともに投獄された土佐勤王党員の助命嘆願を岩佐の関所に出したその足で脱藩しようとして、捕らわれ、処刑された安芸郡の二十三烈士の首領として知られる。今も残るその生家の床の間に家系図が掛けられているが、「まよ」という名の姉は確認できなかった。


<補足2>

浜渦武雄:大正4年、北川村野友に生まれる。傷痍軍人となり、昭和13年に兵役免除となって以降、北川村に帰り、戦中・戦後の多難な時代を村職員や村議会議員として活躍した。遺族会においては、歴代の会長をよく支えながら、遺族會館の建設や英魂堂の再建に尽力。また、遺族會館内部に戦没者の写真を掲げ、英魂堂内部には神仏両様にお祀りができる設備を仕上げるなど施設の充実を図るとともに、村の英霊の遺影写真集「国敗れて山川あり」の編纂出版を行った。平成4年没。


あとがき


 北川村遺族會館に掲げられた数多くの英霊の遺影。この英霊たちの声を聴きたい、確かにここで生きていたという証しを記したい、という私の思いに応えて、大寺一子さんが、夫隆さんとの思い出を語ってくださいました。

戦争のことは思い出すのも、ましてや語ることはもっと辛かったかと思われます。本当に、ありがとうございました。

 一子さんの、ご高齢とは思えない明快な語り口で、隆さんとの出会いや当時の結婚の様子が、生き生きと伝わり、暖かな気持ちになった一方で、戦争の厳しさを突き付けられ、改めて深く考える機会ともなりました。

頑張り屋の一子さんが築かれた今の幸せも、平和な日々の中だからこそです。戦争を知らない世代の私たちも、平和のありがたさを肝に銘じたいと思います。


ききがきすと担当:鶴岡香代





posted by ききがきすと at 22:59 | Comment(2) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月27日

はるかなる人に 〜川島正秀さんのこと〜

  語り人  川島操さん(妻)

  語り人  上村繁樹さん(義弟)

  語り人  川島博孝(長男)



今 も 胸 の こ こ に

語り人  川島操さん(妻)


遠いあの日、寄りおうて一緒になって


kawa2.jpg よう来てくれましたね。でも、夫のこととゆうても、すべて昔のことになってしもうて、わからんようになりました。私は大正9年の生まれで、もう94歳になります。こんな年寄りですきねぇ。


正秀さんと結婚したのは、私が数えの19歳の時。正秀さんは3つ年上でした。結婚前から互いに知り合っていたというような、そんなことはありません。同じ部落でしたから、もちろん顔は見知っていましたが、今の人たちのように好きになってというようなことではないんです。あんまり昔のことになりましたき、細かいことは忘れてしもうて・・。もう遠い遠いことです。

 今みたいな結婚式もせんかったねぇ。寄りおうただけ。そうして一緒になりました。そのときに、こんな話をしたというような記憶もないです。特にはなんの話もなかったねぇ。昔のことやもんね。今とは違う。


kawa1.jpg(川島正秀さんは大正6年8月25日生まれ。昭和17年8月、大東亜戦争に応召。昭和19年4月、博多を発ち、南太平洋方面に出征。昭和19年8月4日、マッカサル海にて戦死。)


 結婚してからも、どっかへ遊びに行くというようなことはなかったですよ。遊びには行きません。貧乏暇なしです。時代も時代だったから、楽しいことは全然ない。二人でしたのは、本当に仕事だけでね。いいようがないほど、仕事ばっかりしました。家は百姓で、田畑の仕事ばっかり。山での仕事もあって、これがなかなかしんどかった。昔のことは今とは違うから、仕方ないと思いますよ。


それに、一緒に暮らした年月は、今思うても本当に短かった。結婚の翌年、昭和1310月に生まれた長男の博孝が、ようよう4つになった年の夏に、出征しましたもんね。ほんの5年くらいですかね、結婚して一緒におったがは・・・。そんなもんじゃろねぇ。短いもんやった。

長男の下には、2つ違いで長女の満子が生まれていました。応召されたときには、二女の惇美も腹の中にいましたき、正秀さんは気にかかってしょうがなかったろうねぇ。結局、昭和17年の8月に行ったきりになって・・・、一番上の博孝の小学校への入学も、よう見んと行ってしもうたわねぇ。


泣いて、泣いて、それから精一杯仕事して


戦死の知らせを受けたのは、山で仕事していたときでした。弟の嫁が呼びにきてくれたのを今でもよう覚えちょります。暑い日でした。そりゃもう、泣いて、泣いて。ほんとう目も腫れちょった。家へは誰が言うてきてくれたもんか、そんなことは忘れました。役場やったろうかねぇ。


遺骨は、長らく来んかったように覚えています。まぁ、遺骨いうても、木の札だけで、他にはなんにも来ざった。遺骨が帰って来たときには、ガソ(森林鉄道)で途中の二又まで来たのを、もろうてもどったと思います。それから、みんなに来てもろうて、ちゃんと葬式をしました。いつとははっきり覚えてないけんど、鮎が取れるときやったように思うきね。夏の終わり・・やったろうかねぇ。


kawa5.jpg昭和19年の8月4日に、正秀さんはマカッサル海(※地図参照)で亡くなったということでした。28歳の若さで、ねぇ。戦後しばらくして、野市に復員してきた人が、正秀さんと同じ船に乗っていたと知らされました。その人は、沈没した同じ船に乗っていて、助かったということでした。夫の最期がどうだったか、話を聞かせてもらいたくても、私には3人の子どもがいて行くことができず、弟に行って話を聞いてきてもらいました。弟なら、その話ができると思います。ぜひ、弟からその話を聴いてみてください。お願いします。


 夫の出征後に子どもがもう一人できて、3人になっていましたから、生活は、それはもうたいへんでした。その苦労は戦後もずっと続きましたよ。短い結婚生活で戦争に行かれて、男手なしに農業をしながら、3人の子どもを育てたんです。並たいていのことではありませんでした。でも、あの当時は、みんな同じ。そういう時代でした。


私は、自分の親の家の隣に住んで、両親に助けてもらいました。弟夫婦と一緒に、大家族の生活でしたが、子どもたちの世話は親や弟嫁に頼み、私は精一杯仕事しました。


お陰様で、子どもたちは健康に育ってくれました。でも、中学校を卒業した長男を、生活のために、すぐに山の仕事に行かせなくてはならなくて・・・。私は、なんとか工業高校に進学させてやりたかったんです。そのことは、今思い出しても辛いし、心残りなことです。下の娘2人は、田野の親戚の家から中芸高校へ行かせることができて、それぞれに巣立っていきました。みなが助けてくれて、頑張ってくれて、お陰様で、今日の日があります。


胸のここにずっと居る人


kawa3.jpg 正秀さんの思い出というても、もうこれくらいのもんです。百年近くも生きちゅうと、たいがいのことは忘れてしまうもんよ。笑いゆうけど、みんなぁそうよね。遠い遠いことになって、忘れていくもんよ。

そうそう、手紙を持って来てくれちょったがやねぇ。正秀さんは、手紙をよく書いて寄こしましたから、それはこの缶にいれてずっと大事にしてきました。筆まめな人で、満州から私にきたものや、博孝に当てたもの、私の両親へのもの・・いろいろとたくさんきました。書くことは、なんでも書けるき、手紙にはやさしいことばっかり書いて寄こしちゅう。

字は上手で、よく近所の人の手紙も書いてやったりしていました。几帳面な人でしたし、手紙のとおり、やさしいことは、やさしい人やった。私はもう目も見えんなって、長いこと読むこともないままですき、今はもうどんなことが書かれちょったか、ようは覚えてはいません。

けど、書く字が博孝と似いちゅうように、顔や性格も、二人がそっくり。よう似いちゅうと思う。今でも、胸のここに、ここにずっと居る。だから、すぐに思い出せるんよね。短かったけど、忘れることはありません。いつまでも、ここにいます。



正 秀 さ ん か ら 託 さ れ て

語り人  上村繁樹さん(義弟)



ともに島で育って


kawa4.jpg正秀さんは、私の姉の亭主で、義理の兄になります。私とは、7つ違いじゃったけんど、同じ島(北川村の地名)の出身で、子どものころから知り合いでした。島には、小学校があったですよ。小島小学校の分校で、その当時は、島にあるような分校が奥に7つあった。年が離れちゅうき小学校で顔合すことはなかったけんど、狭いとこじゃき、みんなぁが顔なじみよね。


よう山で遊んだね。冬が来たら、こんな棒を引かいて、その向こうにタネを置く仕掛けをつくって、小さい鳥をおさえた・・・。それが一番の遊びやったね。メジロなんかの小鳥が多かったけんど、太いのはハトなんかもおったなぁ。焼いて食ったろうかね。食べたことは、よう覚えてないけんど。まあ、遊びごとよね。男の子は、毎日、山ばっかしで遊んだね。


夏は川へ、ね。かなつき持っていって、鮎をついた。冬は、アメゴとイダや。チチブは石にひっついちゅうがをおさえた。どれも美味しいわよ。いたどりなんかの山菜も取ったりしたけんど、それは一時のことよ。


子どもの頃は、あんまり家の手伝いはせんかったね。大事にしてもろうた。上級生になったときは、荷運びをやったがね。昔は物を運搬するには、全部、背負いというもんで、背中に負うて運んだわね。家の手伝いは、そんなことくらいで、家族があんまり手伝いはさせんかったように思うがね。私も親の手伝いをしたというような思いはあんまりなかった。


正秀さんとは年が離れちょったきに、一緒に遊ぶことは少なかったけんど、なんかのときには大事にしてくれたと覚えちゅう。自分は姉二人じゃき、いい兄貴、いい話し相手で、ありがたかった。


正秀さんが、兵隊に行くときには、家族みんなぁを預かっていてくれと言うて頼みにきたがよ。それで、家へみんなぁが来て、11人の大家族で暮らしたことよ。姉さんの子どもたちとは、実の親子と一緒、家族同然じゃ。


長男の博孝は、そのとき、まだ5歳じゃった。まだ自分らぁには子どもがない時分じゃったが、妻が背におうて、よう守りしたもんよ。その下に女の子もおって、同じように育てたねぇ。姉の操が3人目を生むようになっちょって、出産に、奈半利の病院に来ちゅうときに、ちょうど正秀さんが召集になって、兵隊に行ったと思う。それが最後になってしもうたなぁ。


戦場から自分の親のところへ、よう便りがあった。正秀さんの手紙はたくさん残ちゅう。こんな箱に入れて、今は川島の嫁が大事に持っちゅうと思うが。字は上等。上手やったと覚えちゅう。


海に沈んだ最期


戦後になって、姉の代わりに、野市へ復員した人を訪ねていったときのことは、よう忘れん。今のと昔のとは野市の道路も、多少違いはせんろうかと思うが、東から高知向いて行ったところの北側に散髪屋があって、そこの人が、正秀さんが戦死したとき乗っちょった、ちょうどその船に一緒におったということやった。


その人の話では、まずは満州の方へ行っちょったらしい。満州のどこまで行っちょったかは、わからんがね。その満州から乗った船が内地へ向かったもんで、兵隊のみんなぁは、これで帰れると考えちょったようです。ところが、いったんは九州の博多へ着いたものの、船は南方へ向こうた。もう忘れましたが、ずっと南のなんとかいう島から船に乗ったところで、船がやられてしもうたと聞きました。


野市の人が言うことには、「私は、船に酔わんけれど、川島の正秀は船に弱いから、船の底に入ると言って、下へ降りて行った。それが最後で、船がやられてしもうて・・・。私は船から降りることができて助かった」と。それで、終戦になり、家へ無事に戻ることができた、ということじゃった。


野市の散髪屋の人の名前も、船が何にやられたのか、そのときの詳しいことやなんかは、もう忘れてしまいましたけんど、大方はそんなことでした。その話を聴いたときの、なんやら言いようがない気持ちは、よう忘れませんがね。そのほかのことは、なんちゃわからん。野市の散髪屋が言うくらいのことしかわからんです。


実は、正秀さんは、満州から九州に着けば、私が面会にくると思うちょったらしい。ちょうどその時分、私も兵役で善通寺へ行っちょたけんど、親が年老いちゅうき、1回は家へ帰って家の整理をしてから来いと言われて、ちょうど家へ帰っちょった。それで、九州へ行く間がないままに、正秀さんの船は博多を出てしもうた。今でも悔やまぁね、そのことは。


島へは来たことがあるかね。今度島へ来たら、自分の家へも寄ってよ。博孝の隣がうちよ。川島の家族とうちの家族とは、本当の兄弟以上よね。大家族みたいなもんじゃ。今でも、博孝に、うちの家からあれ取ってこい言うたら、自分の家と一緒で何でもわかっちゅう。親子も同然じゃ。本当の付き合いじゃ。


博孝もわしを親みたいに言うしね。うちの家内も博孝が5歳のときに背に負いまわって世話したきね。正秀さんが家族を頼むと、自分のところへ来た。それは、もうずっと昔のことじゃが、心にはずーっと残っちゅうわよ。



お や じ へ の 封 印 し た 思 い

語り人  川島博孝(長男)



暑い日の白い思い出


 おやじのことは、村がつくってくれた遺影の写真集にあるぐらいのことしか知らん。戦死したマカッサル海は、地図にはあったぞ。何回かは、わしも見た。けんど、それもずーっと昔のことや。その他のことは、わからん。乗っちょって沈んだという船の名前もわからん。




kawa6.jpg
機械仕事に精を出す川島博孝さんと妻の貴美子さん

 戦没者墓地のある野川口まで、初めて行ったときのことは、よう覚えちゅう。5つばぁのときやろう。その頃は、まだ奈半利川に今の橋はなかったき、手前のどこかから野友まで、ロープやったか、針金やったか引っ張っちゃったき、そんなもんを手繰って船で渡しよった。今の高速が走っちゅうところへんか、もうちょっと上やったろうか。加茂の方からね、向こうへ、野友の方へね。そんなにして、親父の遺骨を納めに行ったことよ。それは覚えちゅう。


夏の暑いときに、初めて渡しを渡って、流れがきつうて妙に怖かったなあ、っていうような感じも持っちょらぁ。白い布へ何か書いてもろうて、それを遺骨の箱へ巻くかなんかしたような・・・。それがなんやったか、わからんけんど、そんなものは遺骨へ巻くよりほかは、なかったと思うきね。


多分、初めての祀りということで、大勢で一緒に行ったんやろうと思う。前田の家におばさんがおったころで、そこで待たさいてもろうたと覚えちゅう。そのときの状況は、確かに出てくる。親戚の者に連れられて、そこまで行ったがや。誰と行ったかは、ようはわからんけど、島光則さんは確かにおったと記憶がある。その人は、上村の叔父の嫁さんの兄貴やき。

母の話は二又で遺骨を受け取ったということで、こっちは、戦没者墓地へ祀りに行った話や。二又でのことは、覚えちゃあせんけんど、遺骨を受け取ったあとの、ちゃんとつながった話や。遺骨いうても、おやじは船で沈んじゅうがやき、もろうたもんには、なにも入っちぁせん。本当に、なにもなかったし、なにもわからん。


誰にも話すこともない、遠いことよ。とにかく、暑かった。みんな白いもん着て、袖まくしあげるか、半袖か。あの頃は、夏着るもんいうたら、ワイシャツでもなんでも白いもんしかなかったき。変わった色はなかった。みんな白かった。なんせ、白一色よ・・・・。


ぷっつり切った・・辛い思い


おやじが死んだというようなことは、小学校の3年か4年ばぁからこっちは、ぷっつり切れた。手紙も昔々に何回か見たけんど、その後見るようなことはない。こうして残しちゅうだけのことや。


おやじのことは、正直言うて、思い出すのは辛いし、話しとうもない。戦争の話は、本当にせん。しとうない。わしら、おやじの顔も知らん。写真で残っちゅうだけで、わしらには、わからん。よう似ちゅうと言われるき、似ちゅうがやろう。わしは子どもの時分は、わりことし(いたづらっ子)やったぞ。この写真を見てみいや。わりことしの目をしちゅうが。


物づくりが好きで、機械のことやったら話すことはなんぼでもある。手づくりのこの庭や、山の木のことらぁも、話しはいっぱいあるき。また来たら、次は、そんな話をしちゃおう。時間が、なんぼあっても足らんぞ。



< お父ちゃんからの手紙 >


○川島 操 様(妻への手紙)

 操さん 子どもができたとのこと安心いたしました

 その後ひだちはいかがにございますか お伺い申し上げます

 女の子だとね 名前はなんとつけたのだ

 早く早くお便りくださいね

 次に家の方の秋、月谷らはちょっとは刈ったでしょうね

 自分の家の秋の様子も知らしてくれよ

 ウマイ物であればウント送ってくださいね

 ハハハハ

 では御身大切になさいませ



○川島博孝 様(長男への手紙)

 博孝よ 父も大変元気にて着いた故、安心致せよ 

一生懸命でやっているよ お前もまだ五つだ 

おばあ様やおじい様の言うことを良く聞いて元気で遊びおれ

母の言うことを第一にね 母にも良く言え

武重君には懸命で訓練をせよとね

まずは体を大切に

また次に さようなら



kawa7.jpg
博孝さんに満州から来た絵葉書


○上村 庄 様(妻の母への手紙)

 拝啓 時下厳寒の その後 ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません

 その後 母上様にはお変わりありませんか お伺い申し上げます

 次に私も元気にて懸命に働いて居ります故 ご安心くださいませ

 お手紙によりますれば島も今年は大変に寒いとのことですね

 また 長々の晴天で飲み水も大変少なくなったとのことですね

 お困りのことと思います

 お母様には毎日子供たちの守りをしていてくだされ

誠にお世話様にございます

 なお この上とも よろしくお頼み申し上げます

 本日は旧正月の元旦でありますよ

 お正月も博孝や満子は元気に遊んでおることと思います

 では 御身大切にお暮しくださいませ

 度々お便り待っております



○上村 産次 様(妻の父への手紙)

 拝啓 長々ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません

 その後 御父上様一同には お変わりございませんか お伺い申し上げます

 次に私も元気にて務めおりますれば 何とぞご安心くださいね

 さて昨日は慰問品をたくさんお送りくだされ 

誠に有難く厚くお礼申し上げます

 印も受取りました故 安心ください

 操の書面によると 早や野床をしているとのこと 早いものですね

 当満州も暖かくなって野原は青くなってきましたよ

 暖かくなるにつれて奈半利川の鮎も大分上がってきたですね

 島にも着ているでしょうね お伺いするよ

 では いつもながら操、子供をよろしくお頼み申し上げます

 皆様によろしく申してくださいね 書面にてお礼まで



あとがき



 仕事で出席した高知県北川村の戦没者慰霊祭で、会場である遺族會館にぐるりと掲げられた数多くの村の英霊の遺影に出会い、まっすぐに視線を投げてよこすその若さに、私は痛いほどの哀しさを感じました。そして、そのことは、私の中ですでに過去のこととなっていた戦争を、身近に引き寄せて考えるきっかけともなりました。


遺影となったみなさんに少しでも関わりたいと願いながら、もう十年近い年月が経ってしまいましたが、この度、やっと、遺影のお一人である川島正秀さんのご遺族に会い、お話を伺うことができました。


 若かりし日の結婚生活について、川島操さんは、「遊びには行きません。二人でしたのは仕事だけ」と教えてくれました。戦争は、花見や祭りなど、そんなささやかなエピソードも許さず、ほんの5年で逝ってしまった正秀さん。でも、「胸のここに、ずっと居る」と、手を胸に当てておっしゃった操さんの言葉が、私の耳にずっと残っています。


戦争とは、戦死された人々だけでなく、遺された家族のみなさんにも、耐え難い苦難を強いるものなのだとつくづく知らされました。重い心の蓋を外して話してくださった長男の博孝さんをはじめとするご遺族のみなさん、本当にありがとうございました。


また、今回の聴き書きには、北川村協会福祉協議会の西岡和会長さんをはじめ、多くの方にご協力いただきました。心から感謝申し上げます。


ききがき担当:鶴岡香代


(完)

続きを読む

posted by ききがきすと at 21:30 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月08日

少年飛行兵、八五歳の今思うこと

語り手:杉本 明(すぎもとあきら)さん



生い立ち


sugimoto1.jpg私は、昭和4年(1929年)、熊本県下益城郡小川町(現在は宇城市)で、8人兄弟(男7、女1)の5男として生まれました。家は精米業でした。

 

父親は明治12年生まれ。日露戦争に行って帰ってきて、その後、アメリカへ行きました。その頃、熊本・広島・和歌山では、移民に行くことが大変流行っていました。アメリカへ行って、そこで子供2人が生まれています。アメリカである程度金を稼いで、それを元手に国へ帰ってきて、精米業を始めたようです。

 

その頃、百姓は食うや食わずの状態で、日露戦争は、イギリスから金を借りて、あれ以上続けたら日本は破産していたという瀬戸際で勝った、そういう情勢でした。父親は、乃木大将の第三軍に所属して、例の203高地の戦いに参戦していましたから、よくまあ生き延びたと思います。帰ってきた頃は働き口がなく、農民はみんな兵隊に行ったのでしょう。長男だけが家に残った、そんなふうに推測しています。

 

精米業といっても、小作人相手ですから、肥料から農機具等の分まで自分たちで支払えない費用を前貸し、その分を作物ができてから米で物納してもらう、という仕組みでした。

 

sugimoto3.jpgただ、家族だけで間に合うわけにもいかない仕事でしたから、小作人のところまで行き来して米等を馬車やリヤカーで運搬する男衆(人夫)、そして家事全般を担う女中を雇っていました。ひたすら精米の仕事に専念する親父を、いわば工場長≠ニすれば、金庫番≠ノ相当するのがおふくろでした。

 

当時は義務教育制度もなかったこともあり、小学校にも行かず、ろくに読み書きもできないような父親に対し、高等小学校を出ている彼女はインテリ女性でもありました。小作人には誰にいくら貸したかを通帳〈かよいちょう〉に記帳しておき、収穫期には「あなたは米何表持ってきて…」と割り振りし、男衆や女中には必要な指示をだすなど、全体の采配をふるっていました。

 

米を集める時期は、家の中、蔵の中は米だらけという印象でした。米は一般の人にも売って商売にしていました。初めは貧乏だったと思いますが、私が育った時は比較的豊かでした。

 

その頃、まだ幼稚園なんかありませんでしたから、私が小学校へ入るまで、どういう生活をしたのか、写真もない、記録もないものですからわかりません。この前、自分史つくりのこともありますので、姉(91才でまだ存命)に「私が子供の頃、どういう子だったのか?」と聞きましたら「とっても大人しくていい子だったよ…」と言われましたが、あまり記憶はありません。




 

小学校時代

 

小学校へは昭和11年に入り、17年までいましたが、その間に2・26事件とか、支那事変とかいろいろあったわけですけれど、子供ですから、私はあまり身近に感じてはいませんでした。だけど、支那事変で戦死し、英霊として帰ってくる人がたまにいましたから、「ああ、戦争やっているのだなあ、中国と戦争やっているらしいよ…程度しか知りませんでした。

 

小学校では毎日の行事がありました。学校の門を入ると「奉安殿」(※注)というのがあり、最敬礼をしてから教室へはいりました。朝、全校生徒が校庭かまたは講堂に集まり、校長先生が「天皇陛下に挨拶、東方遥拝!」で始まる訓示がありました。もう一つ、元旦や紀元節の祭日にも学校に召集され、奉安殿から講堂の壇上に運び移した「教育勅語」が読み上げられ、その間、頭を下げて聞かされました。

 

奉安殿:戦時中、各学校に建設され、天皇、皇后の御真影と教育勅語などを納めていた建物で、職員生徒は、登下校時や単に前を通過する際には最敬礼するように定められていた。


 以前、戦友会で伊豆へいき、観光スポットになっている明治5年に建てられたという小学校を見学しましたが、そこに「奉安殿」があり、土産ものとして売っていた「教育勅語」を記念に買ってきましたよ。

 

小学校6年の時、昭和16128日に真珠湾攻撃がありましたね。なぜか、霜が降りてとても寒い朝だったことが記憶に残っています。ラジオで「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という放送を直に聞いて、何か大変な事になりそうだなあ、と感じていました。

 

 17年元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃で、アメリカの軍艦が波しぶきを上げて沈んでゆく写真を見て、ああ、日本はすごいんだなあ、と強烈に思っていました。一方、熊本というところは、陸軍の第6師団という大変軍事色の強い環境にありましたので、「末は大将か、大臣か」というようにいわれたものでした。だから、親父も徹底した軍国主義者でしたから、国のために一生懸命やるんだ、という思いは強かったんですね。

 

sugimoto2.jpg 兄弟8人については、長男は中学をでましたけれど、姉は高等女学校へ、あとは皆、高等小学校へ。私だけが突然変異みたいな児で、自分で言うのもおかしいかもしれませんが頭がよかったのですよ。卒業する時は、成績優等賞、運動賞、そして6年間無欠席だったので、賞状を4種類もらったくらいでした。

 

 スポーツはバレーボールをやっていて、私のポジションはセッター、小学校の時から男50人くらいの学級の中で、私は一番背が高かった。初めはバスケットボールをやっていたのですが、なんか小学生にはキツイ、というわけで、6年になってからはバレーボールにかわったのです。

 

ドモリが障害になった面接試験

 

当然のように中学(今でいう高等学校)進学を志向しました。試験は筆記試験はなく、口頭試問だけがあり、先生が3人座っているところで話すわけです。私はボーット頭に血が昇って会話にならなかったのです。それで、中学入学試験は不合格。しょうがないから、ふつう、中学に落ちた人がそのまま進学する高等小学校1年に入りました。

 

頭のいいのは皆が中学へ行き、水呑み百姓で勉強ができないような連中が高等小学校に行くわけですから、自分としては志と違って心外、ずいぶんとショックでしたね! 私はイヤになっちゃったので、その当時陸軍には幼年学校というのがあり、いっそのことこっちの方がいいと、試験を受けました。学科試験は通りましたが、やはり面接で、ドモリが甚だしいということで合格に至りませんでした。

 

しょうがないと思って、高等科1年の時に改めて中学を受験しましたけれど、口頭試問でまた落っこちました。兄貴がドモリを始めて、それを私が面白がって真似ているうちに自分もそうなってしまったらしく、6年生になった時、自分がドモリだということをハッキリ意識するようになりました。だから、みんなの前でしゃべれなくなったのです。ドモリのことは、大学生になってからも、就職してからも引きずっていました。

 

少年飛行兵への道

 

 sugimoto4.jpg高等小学校には行きたくなかったけれど、そうは言っておられない。それで、『少年飛行学校』を受験したのです。ここでは、面接でドモリにならなくて合格できました。昭和1810月に立川にある『陸軍航空学校』へ入隊しました。その時は、担任の先生も喜んで、高等科2年生の生徒を自宅へ集めて私の送別会を開いてくれ、皆でさよならと駅まで送ってくれました。東京へ来る時は、ちょうど父の甥っ子、姪っ子が神戸や名古屋にいましたので、ついでに行こうというわけで、家がまだ裕福なこともあり両親もついてきました。昭和4年生まれの人だけの募集でしたが、多分3500人くらいが入隊したのではないかと思います。

 

 立川に集められて営兵生活をしていた時、我々グループの班長から「お前たち、生きて帰れるなんて思っていないだろうな、生きて帰りたいなら今すぐ帰れ!まだ入校式はやっていない、帰りたい奴は今すぐ帰れ!」こう言われたんです。生きて帰れない、なんて殆ど考えていませんでしたね。だから、生きて帰りたい、と思うけれど、歓呼の声に送られてやって来たのに、まさか、本音をいうわけにもいかない。結論的に言うと、自分は戦争で、弾が心臓でなく脚にあたって名誉の負傷をして、生きて家に帰りたいなあ、という思いがずっとありました。

 

 今、戦友会でそういう話をしても、他の連中はそういうことはなかったみたいですね。たまたま私の班長が言ったのであって、それも私と一緒に話を聞いたのは、1213名ぐらい。極端に言うと私だけが聞いた感じです。やはり建前と本音とは違う、国のため、故郷に錦を飾るとか、すごい憧れがあり、例えば、戦死して英霊として帰ってくるとか、そういうものに敬意を表することはありましたが、それと一個人として生きるという執念とは別問題だと、私だけは思っていたのでしょうね。

 

立川には1週間近くおりました。操縦、通信、整備と3つにわかれており、いろいろと適正検査がありましたが、私は通信に所属し、その後『大分陸軍少年飛行兵学校』に配属されました。

 

大分陸軍少年飛行兵学校

 

sugimoto5.jpg 大分少年飛行兵学校では榛名中隊4小隊7班に配属されて、1年間の教育を受けました。6時の起床ラッパでたたき起こされ、朝の点呼、午前は学科で、午後は有線通信、歩兵訓練、射撃、剣術、銃剣術の訓練です。

 

 有線通信訓練は、電話機とケーブル巻取器を背負って練兵場や大分市内に移動し、列車のレールの切れ目を利用して、バラスの上に通信ケーブルを敷設したり、橋桁の下を通す作業でした。電話機等を背負うとずっしりと重く肩に食い込んできましたが、市内に出て娑婆の匂いをかぐのはせめてもの楽しみになっていました。1日の訓練が終わっても、自分の班に戻れば、所有物の整理や洗濯で時間が足らず、夕食を食べ、風呂に入ってそのあとも90分の自習、10時の消灯ラッパとともにそのまま寝込んでしまうという、時間に追いまくられて日課をこなすだけで精一杯の毎日でした。

 

夏には歩行訓練を兼ね、別府の野外演習場まで、炎熱の中を背嚢の上に銃をかついで、軍歌を唄いながら歩く約4時間の演習がありました。肩に喰い込む銃を「左肩に変えろ」の指令でほっと一息ついて左に変えたり、また水筒の水もその都度チェックされ、演習場にたどり着くときには喉の渇きでフラフラになり、失神状態寸前の思いでした。

 

水戸航空通信学校

 

大分で1年たって、翌19年『水戸航空通信学校』へ行きました。10中隊あって、私は機上通信中隊に配属され、飛行機に乗る中隊に所属しました。空中勤務いわゆるヒコーキ乗り≠ヘ、気象とか整備とかに比べて一つ上に位置しており、それが大変誇りでした。

 

午前はトンツ―訓練=A乱数表を使い数字だけで(暗号処理により)通信するわけですが、毎日トン・ツー、トン・ツーの連続でものすごい量の訓練を受けました。学科としては通信機の構造理論教育があり、真空管の原理などの説明があっても、小学校出身で十分な基礎教育を受けていない私にはちんぷんかんぷんで、理解するまでは苦労しました。

 

sugimoto6.jpg午後は教練で、飛行機に搭乗して訓練を受けました。飛行機に乗った時のトンツー実地訓練≠ナは、電波が大きくなったり小さくなったりして、大変神経使う訓練でした。

 

機上訓練では、通信機とバッテリーを飛行機に乗せての訓練で、三層の通信機を繋ぐケーブルがときどき接触不良になることがありました。出発時間までに点検を終えなければならない、と時間との戦いに苦労しました。内容としては、練習機に4人搭乗して、地上との通信連絡、方位決定、爆弾投下が主な訓練でしたが、教官の指導でやっていてもミスすることが多く、いわゆる空中拳骨≠フ制裁がしばしば飛んできました。

 

朝の点呼が終わると飛行場を一周するのが日課でしたが、水戸の冬は寒く、霜柱が20センチほど立っている中、靴が埋まりながら走るのが大変でした。また10日に1回ぐらい、消灯ラッパが鳴る時刻、交代で兵舎入口に歩哨として立つ任務がありましたが、厳寒の中で1時間立ちっぱなしでいると、体が凍えて床についても眠れないことがしばしばでした。

 

20年に入って空襲が激しくなり、機上訓練が出来なくなってきたので、飛行場の周囲に塹壕を掘り、機関銃を据え付けて待機し空襲に備えました。しかし、敵のグラマン機襲来で機関銃を発射すると逆襲を受けることにもなるので、結果的には実際に機関銃を発射することは一度もありませんでした。

 

終戦

 

昭和20年になると、制空権がアメリカに抑えられ、水戸にも毎日のように敵のグラマン機がやってきて砲撃されました。310日の東京大空襲については、その日、東京の空がやけに明るいなあと思いましたが、何も知らされませんでした。6月、沖縄が占領された頃だと想像していますが、鳥取分隊へ移りました。現在の鳥取飛行場になっている砂丘の一部でしたが、ここは工場もなく空襲がありません。裏日本は真空地帯、そこへ敵が上陸するとは上層部も考えていませんでした。通信兵というのは大変貴重で、通信兵がいないと編隊を組んで誘導することができませんから、とにかく訓練できる場所を確保して継続する必要性があったのでしょう。

 

米機動部隊を探知する『索敵』訓練は、米軍のレーダーに探知されないように電波発信は最小限にとどめ、空母=1、戦艦=2、駆逐艦=3ときめておき、艦数だけを本部に発信する厳しい訓錬でした。実は、通信兵は海外の放送を聞こうと思えばできたのです。傍受は厳罰ものでしたが、ある時ダイヤルをまわしていたら、たまたま「ソ連が満州へ進軍した…」という電波が聞こえました。「これはどうなるのだろうか?」と思いましたが、勿論、そんなこと誰にも言えませんでした。

 

815日、「今日は飛行機が飛ばないから…」と全員集合し、『玉音放送』を聞きましたが、ザーという音が耳に付き、天皇の声ともよくわかりませんでした。そして、夕方上官から「日本は戦争に負けた」と聞かされました。

 

阿南陸軍大臣の自決の報を聞かされたりして部隊は混乱していましたが、しばらくして本隊があった加古川(兵庫県)に集合して本隊長の訓示があり、「いざ鎌倉まで自宅待機!」の訓令が出て、復員が確定しました。郷里の熊本へ帰る途中、超満員の列車で広島駅を通過したとき、巨木の幹だけが白い肌をむきだしにしている夜景を見て、特殊爆弾が落ちたらしいと聞きましたが、原爆だったのですね。

 

子供だから、戦争に負けた、という意味がよくわかりません。生きて家に帰れる、ああ、万歳!おふくろのいるところへ帰れるというのがただ嬉しい、という思いでした。家に帰った時は、両親と姉と弟二人、それに疎開していた親戚が数人同居しており、家の中は家財道具やなんかで大変でした。

 

あまりにも混沌としているから、私は船乗りにでもなろうか?兵隊に行っていまさら中学へゆけるか?という大人っぽい自負もありました。けれども、問い合わせたら、「陸軍少年飛行学校生なら、中学3年生の資格がある…」ということがわかりましたので、証明書をだして、私は同級生より下のクラスに編入しました。中学に入ったけれど、皆は英語、物理などを勉強しているけれど、こっちは何にもやっていない、特に英語は全くチンプンカンプンで大変苦労しましたね。

 

熊本の中学へ復帰しますと、クラブ活動が始まるというわけで、バレーボール部を結成し一生懸命練習しました。県大会に参加したら、奇しくも優勝してしまい、第2回国民体育大会の県代表として金沢大会に出場することになりました。入場行進が始まりメインスタンドを行進していたとき、主賓席にMPに護衛された天皇陛下のお姿を拝謁しました。戦前、戦中ではとてもかなわなかった現人神〈あらひとがみ〉を見たわけですから、感激のあまり目がしらが熱くなり涙がこぼれてきました。

 

大学に入ったけれど

 

sugimoto7.jpg 大学に志望を出すとき、郷里出身で大学の理事をしていた先輩に挨拶にいきました。「聞けば優秀な運動選手らしいから…」とバレーボール部入部を条件に推薦してくれたようです。しかし、現状は食べるものがない、日々生きることが先決で、運動するどころではなかったので、実際には入部しませんでした。当時のバレーボールは9人制で国際試合はありませんでしたが、もし国際試合のチャンスでも予想できていましたら、入部を考えたかもしれませんね。

 

 早稲田大学の入学式の時に、挨拶に立った教授からは「戦時中は軍事教練で大変だった…」という話を聞きました。「東大、明治とかは早々と軍事教練を承諾したけれど、早稲田は拒否していた。ある時、陸軍大佐がやってきて、壇上に登り軍事教練の必要性を説き、『諸君!』と言い出したら、『大佐!その胸についている勲章は人を殺した功績の勲章ではないか!そんな軍事教練なんかやれるか!』と学生がわあわあと騒ぎ出したので、大佐はしゃべれなくなってしまった。そういうのが早稲田精神だ」。それを聞いた時私はビックリしちゃいました。1年前、少年兵として天皇陛下万歳を叫んでいたあれは何だったのか?そう思いました。それを今でもずっと引きずっています。

 

 大学にいきましたが、食糧難で腹が減って腹が減って…。当時は下宿もない、食事つきの下宿に入るなら米を半分出せ、と言われて実家から米をもらって、出したこともありました。自炊のできる部屋がないので、米を持っていてもそれを炊いて食べる所がない。要するに部屋だけ借りるしかありません。食べるものと言えば、例えばお湯をいれると団子みたいなものが出来る(そばがき?)とか、また、実家から米を送ってもらい、当時1升230円で寿司屋に売って、その金でコッペパンとかを買って飢えをしのいでいました。

 

  当時は国民、皆がそうだったと思います。1年くらいは、日々の暮らしに追われて勉強する雰囲気には全くなりませんでした。だから春・夏・正月と大学の休みになると、真っ先に私は熊本の実家に帰って腹を満たそうとしました。その後、同郷の友人一家が住んでいた社宅に、2畳の部屋を間借りして、自炊も出来るからといってやっと落ち着きました。そこで、奥さんが夕食の支度を終えてから、私が飯を炊いて、コンブか佃煮に魚を少し買ってきてご飯にするというわけでした。

 

 学校へ行っても、校舎は戦災でやられたのもあったし、暖房もなかった。大学は出席すれば単位はくれましたから、出席だけはちゃんとしていました。5年(旧制で1年、新制で4年)経過する中で世の中もだんだんと落ち着いてきましたが、それでもやっぱり食べること、住むことの不安がつきまとっていました。友達のところへ行くと、そのお母さんが「腹一杯食べなさい」と、また、郷土の先輩をたよって会社を訪ねていくと、ビフテキを食べさせてくれたりして、今でも思い出しますね。

 

 私の友達といえば同郷の2、3人ぐらい。本当はクラブ活動のどこかへ入っていれば、友達ももっとできてよかったのでしょうけれど、つきあうとやはり金が要りますし、金がないからつい遠慮しちゃう、みじめな思いはしたくない、というプライドもあったかもしれません。だから、大学の友達は殆どいませんでした。このあたりのせつなさは身にしみていましたから、自分の子供には、大学へ入ったら授業はいいからクラブ活動をやって友達を多く作っておけよ、と言っています。戦後の杉本家の経済事情からすれば、私が東京へきて大学へ行くなんてもともと無理なことだったのです。

 

 実家のことですが、戦時中、村には精米業が我が家を含めて4軒ありました。国の食糧統制という事情もあったのでしょう、食糧営団≠ノするという動きに沿って、2軒を廃止しようということになり4軒で話し合いしました。1軒は後継ぎがいないから決まりました。母は「絶対営団には入るなよ…」と言い張っていましたがどうしても話がまとまらない。最後には父の判断で、結局実家も営団に入ることになり統合され、廃業になりました。戦後食糧難になりましたら、精米業を継続したところは、精米する時に1割くらいピンハネしてその分を闇米で売り、その儲けで蔵が立っていましたよ。

 

 そんなことで、兄貴たちは復員したが仕事はない。家はごちゃごちゃしていて親は本当に苦労していましたね。当時、長男は満州からシベリアに抑留されており、次男が米屋を引き継いでいました。だからあてになるのは次男。私が休暇で実家に帰ると、次男は「金なんかないのに、明の大学の月謝を出すなんて…」と、父といつも大喧嘩ですよ。それでも父は次男から無理やりむしり取って、私に金を渡してくれました。いやでしたね!

 

 でも、杉本家から大学へ行く子供がいる、というのはあんな田舎では大変な名誉と思われていましたから、父は「明だけは、なんとかして…」という思いがあり、そのことについては兄弟たちも誇りにしたようですね。今思えば、私一人が大学まで行かしてもらえたこと感謝しなければいけませんね!

 

社会人時代

 

大学を出るころは就職難で八方手を尽くして職を探しました。熊本県出身の先輩に芝浦精糖鰍フ重役を紹介してもらって入社試験を受け、運よく入社することができました。初任給9,800円でしたが貧乏生活の学卒にとっては感謝々々でした。(昭和28年)

 

当時外貨不足で原糖輸入が割当制度になっていて、砂糖会社は斤10円*ラけている時代でした。私たちはその第一期生として採用されましたが、先輩たちは戦前の砂糖会社出身ということもあり、会社の体をなしてはいませんでした。始めは私のドモリ≠ヨの印象から判断されたのでしょうか、総務部へ配属されました。が、そこでの地味な仕事が正直イヤでした。そのうち開発部へ移り、部長が取締役であったことや、会社の環境にも慣れてきたこと、生来の進取の気性にもマッチして伸び伸びと仕事することができました。

 

そして時代は変り砂糖も自由化され、独占体制はくずれて人員整理や会社統合(芝浦精糖、横浜精糖、大阪製糖)が始まり、私たちは清涼飲料(商品名シナルコ)を販売する会社を作って頑張りました。しかし、うまくいかず、三井製糖統合とともに三井物産林業に移ることになりました。

 

三井物産では相模湖町に所有していた山林(100万坪)の処理に困り、自然公園をつくり社会貢献をしようと、三井物産林業に委託することになり、その担当になりました。自然公園の先進国であるアメリカなどを視察して開園にこぎつけましたが、結果はうまくいかず、独立会社(現名称 さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト)運営に切り替えることになり、その後『学校法人 大乗淑徳学園』に転職しました。(昭和62年)

 

大乗淑徳学園は幼稚園から大学院まで当時1万人を擁する学園でした。しかし、やがて到来する若年層の減少を見込んで、企業経営のノウハウを採り入れることを志向していましたので、紹介されて私が採用されることになりました。担当したのは、知的資源を社会に貢献する『エクステンションセンター』と、傘下の女子高生の1年留学を受け入れる『英国カレッジ』の設立でした。

 

そのころ文部省は『生涯学習』に力を入れる方針に変わり、社会教育局を生涯学習局に切り替えたりした時でした。担当官もまだ不慣れなこともあり、われわれ民間と共同研究をして、全国各地で『生涯学習フェスティバル』を企画開催して、センターの所長である私自身もその講師になったりもしました。学園の新規事業についてはほとんど任されていました。『エクステンションセンター』の設立という点では、業界でも草分けだったと思いますが、学園主催の講座では受講者が集まりにくいと判断し、板橋区と提携して区の公開講座に切り換え、区の広報紙にも掲載したりして集客に努め会場を一杯にして理事長に感謝されたりしました。

 

sugimoto8.jpgまた、当時は子女の海外留学が盛んで各高等学校(女子高3校)はその実現に苦慮していました。そこで、学園として英国にカレッジをつくって留学生を迎える『淑徳チェルトナムカレッジ』を設立し、1年後には淑徳短大英文学科に編入する制度をつくり、その担当(副校長)になりました。

 

美しい田園風景で知られるコッツウォルズ地方のチェルトナム市に3階建ての邸宅を購入し、校長以下イギリス人教師を採用する一方、留学した生徒にはイギリス人の家庭でホームスティを経験してもらう、という仕組みを作りました。授業はイギリス人、生活指導は日本人(淑徳高校の男女教師)という役割分担で学校運営を進めました。ホームスティをしながらの生活には、カルチァーショックでホームシックにかかる学生もいて、授業よりむしろ生活指導が大変で、母親、子ともども気持ちの動揺を収めるために、日本と現地を遠隔操作しながらの仕事でした。

 

当時はいわゆるサッチャーの時代=B失業率が高い頃で、優秀な教師さえ失業している時代で、教師採用には苦労しませんでした。やっとありついた仕事という教師の平身低頭ぶりに、七つの海を支配したイギリス人を日本人が雇用して、黄色人種が白色人種の上に立って飯を食わせたという優越感が正直ありましたね。

 

戦友会への入会

 

sugimoto10.jpg年後は、自治会の役員などボランティア活動に張り切って関わっていましたが、それらをやめるとしばらくポッカリ穴が開いたような時期がありました。私は少年飛行兵学校に入校して67年経つまで、戦友に会いたいという気持ちはさほど起こりませんでしたが、80歳を超えた時、戦友に会いたい気持ちが湧き出てきました。

 

何か手かがりはないか?とパソコンでインターネット検索をしていたところ、偶然、古本屋のサイトがあり、『大分少年飛行兵学校』で使用されていた『国語』と『歴史』の教科書が委託販売されていることを見つけました。

 

委託者が戦友会の会長だということがわかり、連絡して戦友会の存在を確認し、『大分少年飛行兵17期生の会』に入会ました。やがて私の入会の知らせが戦友会の会報に掲載されると「杉本、お前!元気でいたのか?」と何人かから矢継ぎ早に連絡がありましたが、67年前の戦友の名前と顔が一致せず、すっかり浦島太郎になり会話になりませんでした。

 

入会してからは機会あるごとに戦友と一献傾けていますが、40数年前から顔を突き合わせている戦友たちの話に私の記憶がついていけず、少年飛行兵時代の苦労話がよみがえるのに時間がかかりました。

 

戦友会に入会してからはまめに参加してきましたものの、それほど親しい人はいません。でも、実は唯一の戦友、ともいえる人が一人います。それは鳥取に転任したとき隣のベッドにいた紺谷君です。

 

私ははっきり覚えていなかったのですが、彼が体調を崩して、当時常食だった米に高粱を混ぜた飯が食べられなくなり、このままでは死ぬかもしれないと思っていたらしいのです。ある日たまたま私が炊事当番で食事の分配役でしたので、大きな調理窯でできる焦げ飯をこっそり#゙に分けてやったところ、米の飯にありついてやっと食欲が出てきた…、ということがあったようです。

 

戦友会に入会したとき紺谷君から「杉本!どうしていたんだお前!…」とすぐ電話がかかってきて、「あの時お前には、本当に助けられた…」と言ってくれました。想い出して、やはり懐かしく嬉しかったですね。彼は今、北海道の旭川にいますが、互いに何時どうなるかわかりませんので、できれば今年の夏にでも会いにいこうか、と考えています。

 

85歳の今思うこと

 

熊本の私の家の隣には大邸宅の隠居家があり、当時農家では養蚕が盛んで、製糸工場を2つも持っているご隠居さんでした。そのご隠居さんは高齢でも学のある人で、社交的な親父はご機嫌伺いにおりおり訪ねていました。私が大学に進学してご隠居さん宅に挨拶に行ったとき「いまこの小川町には優秀な若者が居ない。大学を出たら小川に還って郷里の発展に手を貸してくれ」と言われました。ところが、私はご隠居さんの期待に反し、大学を卒業してそのまま東京の会社に就職し、東京育ちのかみさんと職場結婚をしたので、小川町は遠い故郷になってしまいました。

 

父は私の結婚には反対しませんでしたが、私に託した父の夢はこれで終わりだと思ったかも知れません。いつか隣のご隠居さんから「いい息子を育ててくれた…」と言われること、その日を夢に見て、無理を承知で大学まで出してくれたのかもしれないと、今、私も親父が亡くなった同じ年齢を迎えて、そんなことを思うようになりました。

 

8人いた私の兄弟も、いまでは姉と末弟の3人になってしまい、また、私と似たような境遇の6人兄妹の中で育った妻も、最近は「一人になってさびしい…」と言っています。父は神棚に向かってひとりごとを言い、母は仏壇の前で南無阿弥陀仏を唱えていたのを思い出します。父は84歳、母は81歳でそれぞれ亡くなりましたが、今では両親の気持ちが少しわかるようになってきました。

 

sugimoto12.jpg最近、興味が湧くままに本を手にとって読み始めてみますと、あたかも渇いた砂が水を吸い込むように′サ在の心境や気持ちに響いてくるものがあり、自分で自分に驚いている昨今です。

 

例えば、生命≠ノ興味が出てきて遺伝学や免疫学に関心を持つようになりました。60兆の細胞が、細胞分裂を繰り返しながら生命を維持したり、菌を撃退するために免疫作用で自己防衛をしたりして、人間の叡智を超えた自然現象、生命の不思議・神秘に、今、科学者は驚嘆して『サムシング・グレード(村上和雄著)』とか『スーパーシステム(多田富雄著:生命の意味論)』とか、神の領域を暗示するようなことばを使っています。

 

また、親鸞は『教行心証』に、極楽浄土で終わるのではなく、また現生に還ってくるという、二種回向の教えを書き残しています。兵役に服しながら犬死にしたくないと悩み続けた哲学者の梅原猛も「だから自分は親鸞が好きなのだ、また、『山川草木悉皆成仏』(最澄)こそ世界平和の教えなのだ」と有識者に呼びかけていることに、私は今共鳴しています。

 

ボランティア活動に関わっていた頃、「実は、私の兄も少年飛行兵でした」という人と出逢い、話が盛り上がり、その方が仲立ちして、予備役陸軍中尉だったあるお寺の和尚さん(92歳)と会い、戦争体験を聞く機会がありました。話の中で「自分の任務は知覧に派遣され特攻機の整備だったが、出陣する特攻機のエンジン調整をしたあと、自分が座っていた操縦席に若い隊員が搭乗し、それを見送る時の耐えがたい気持ちは、とても他人に語る気持ちにはなれない」と述懐されていたことに、とても共感できました。

 

先日も、NHKのTV番組で放送された『最後の挑戦・柿右衛門窯の一子相伝・豪華列車を飾る有田焼』を視聴しましたが、体調を崩した十四代柿右衛門が長男に託する思いこそ、先祖に対する十四代柿右衛門の親孝行ではないかと思ったことでした。

 

梅原猛は、「母親が子どもを産んで無心に可愛がり守り抜こうとする愛情が道徳の基本だ、中国で生まれた儒教は親に孝行と言っているが、もともと親を思う気持ちと子どもへの愛情では少し違いがあるようで、子どもへの愛情が先になるのは仕方がないこと…子どもに愛情をかけ立派に育てることが親孝行なのだ」と説いています。

 

うちのかみさんは「子供たちから最近ちっとも電話がない…」と嘆いていますが、わが身に照らして思うとき親孝行したいときには親はなし≠ナ悔いることしきりです。先祖から頂いた命を子孫へ引き継ぐことが自分の使命だと理解し、私も、自分の息子や娘が近況を知らせてこないのは寂しい、と思うときもありますが、彼らがそれなりに孫たちを一生懸命育てているのをみると、褒めてやりたいと心掛けています。

 

 

あとがき

 

担当ききがきすと:菊井 正彦


杉本明さんとは、NPO法人 関東シニアライフアドバイザーの会員同士です。


協会へ入会されたのは4年前だったと思いますが、特に親しく語る機会はありませんでした。3月初旬に神奈川地区会員が集まるイベントがあり、病気の私の体調が良くなりましたので「私の顔をみせたい、仲間の顔をみたい」と参加したときに、しぶりにお会いました。なんとなく自分史を書きたいと思っていた杉本さんは、私が「聞き書き」という活動をしていることに関心を持っていただき、私より10歳上の先輩ですが、同じ大学・同じ学部を卒業したということもあり、話が進みました。


 品の良いロマンスグレイの老紳士という印象の杉本さんが、見出しにもあるようなご自分のコンプレックスの部分や、ひもじい思いだけだったとも言える大学時代等を赤裸々に語ってくれたことはとても印象に残りました。


 たまたま、「聞き書き」していた期間中に放送された「ラジオ深夜便」で、立花隆が「自分史≠ナ豊かなセカンドステージを」と話しています。そのなかで、「自分史を作り始めると自分がわかってくる…」と言っていますが、同感されたようでした。自分の記憶だけではハッキリしないことも、戦友と想い出話を楽しんだり、また語りを聞き手に傾聴してもらうことで、より浮かび上がり活字にもまとまってくるということに、私も改めて気づかされました。


 後日談でなく途中談≠ノなりますが、自分史作りを進めるなかで、近く鹿児島の知覧≠ナ戦友会があり、杉本さんも参加申し込みをしている、ということを知りました。知覧≠ニいえば特攻隊の基地、戦争に関わりない私もいつか訪れたい所と思っていました。「そうだ、どうせなら戦争に関わった人たちが傍にいるという状況の中で見学できたほうがいい…」と気がつきました。


 「私でも参加できますか?」とききましたところ、世話人の方からも快く了解を得ることができ、521日と22日に「少飛17期特攻観音詣での集い」に参加同行することになりました。知覧″sきは3回目になるという杉本さんも今回新しい発見があったとききましたが、杉本さんの自分史作りの内容に裏づけがとれ、役立ったことはいうまでもありません。また、私にとっても貴重な旅になりました。


posted by ききがきすと at 18:32 | Comment(2) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月05日

エクマットラ 〜バングラデシュのストリートチルドレンと共に

語り手:渡辺大樹(わたなべ ひろき)さん

ヨットに夢中の4年間

watanabe1.jpg大学時代は地理学専攻でしたが、勉強は卒業のための単位をぎりぎり取ることだけやって、あとはヨットに全ての時間をそそぎました。ヨットのレースをいかに進めるか、いかにチームを勝たせるかですよね。本当に好きでした。

 高校時代に一生懸命やっていた野球は、ひたすら苦しい練習と、ときどき勝利するわずかな喜びの日々でしたが、ヨットは苦しい練習さえ楽しいものに思えるという、楽しさばかりだったと言えます。もちろん、つらいことも、大変なこともあったのですが、でもそれさえ全部楽しかったですねぇ。

 いかに人を巻き込んで、いかにチームを作って、いかにモチベートしていくか、もちろん自分もモチベーション上げながら、仲間とやっていくのが楽しい。人が見ているからこそ、仲間が見ているからこそ手を抜けないし、逆に個人競技だったら手を抜いてしまうこともあるかもしれない。とにかく団体競技がすごく向いていました。

 理科系ではないし、物理なんて苦手の自分なんですが、練習が終わって、みんな帰ってしまった後に、ひとりでヨットの艤装や帆の角度を、改善改良する試みをやっていました。この箇所を1oあげるとどうなるか、もう少し変えるとどうなるか…と、夢中になってヨットの帆走を有利にするために工夫し続けたんです。

自分を捧げたヨットがおわって

こうして、在学中にすべてをかけて臨んだヨットのインターカレッジ予選を通過、大学の創部以来初めての種目で、全国大会に出ることができて、自分をそっくり捧げてきたものが終わりました。

 この年末に、たまたま先輩に誘われてタイでの国際大会に参加したのですが、それも終わった後というのは、今まで自分が向ってきたものすべてが無くなって、カラッポになった状態でした。おまけに競技が終わると、周りはヨットを趣味とする人たちですから世界中の金持ちばかりで、豪華なパーティーに招待され、それこそめったにない世界を経験していたんです。

果物売りの少年.jpg まさにこのとき、大会行事の移動のため2階建てバスでスラム街を通り、ふと窓から見下ろした瞬間、貧しさの極みのタイの子供と眼が合ってしまったんです。その一瞬、自分は何をしているのだろう、と衝撃を受けました。自分はたまたま日本に生まれ、気の遠くなるほどの将来の選択肢にめぐまれている。片や、タイのスラムに生まれたばかりに、一生こういう生活から抜け出ることができない少年がいるという不公平さ。カラッポの心にスッと憤りが入り込んで、それが今の活動の原動力になったのじゃないか、と思います。

 もし自分という者が存在することが、そして、その自分が努力することが、たとえ何百人、何千人の子供たちの人生を変えることはできないにしても、ひとりでもふたりでも、その子供たちの人生を変えられるなら、素晴らしいことなんじゃないか、それこそ人生の意味があるんじゃないか、という思いが生まれてきました。
 そして、タイでのこの想いが、なぜかすぐ、「世界の最貧国のひとつバングラデシュ」 というイメージに結び付き、バングラデシュに来ることに決めました。小さい頃から「貧しい国」というイメージがあったのかもしれません。

家族の考えはちがった

もちろん、バングラデシュに来ることについては、かなり長いあいだ、家族との意見が食い違っていた時期がありました。両親は、「ひとりでバングラデシュに行って、他の人に迷惑かけずにやっていけるのか? 力になるどころか、周囲の助けを呼ぶような結果になるのではないか?」 という反応でした。これは、ただ反対するのとは違った「すすんだ心配」だったと思います。これに対して自分は、「行ってみなければ分からない、多分やり抜くことができると思う」 という主張を展開するしかなく、しばらくの間はこういった意見の対立が続きました。 

 最終的には、「両親がこういう自分を産んでくれたために、こういう自分の信念が出てきたのだから、この選択を認めて欲しい」という、いま思えば説得とは言えない説得で、なかば強引に押し切るようなかたちで、出発してしまいました。

 のどが渇いても飲み物は買わずにがまん、バスに乗るところも歩いていく、という節約に節約を重ねて、一生懸命貯めた80万円だけを懐に、ひとりバングラデシュに来てしまったわけです。NPOや海外青年協力隊の一員として、渡航する選択肢もあったとは思いますが、、まず最初は自分の眼で見てみたいと思ったんです。もしひとりでやって、何もできないと思ったら、そこで初めて団体に所属すればいい、と思いました。

ベンガル語をお茶を飲みながら学ぶ


街のお茶屋さん『チャドカン』.jpg バングラデシュに来てから1か月は、お茶を飲みながらベンガル語を勉強するのに費やしました。

 バングラデシュの街を歩くと、至る所に小さなお茶飲みの場所があります。たいていは屋台でお茶を沸かして人々に飲ませてくれる店ですが、中には地面に座って路上でお茶を売っている場所もあります。


 こういうお茶飲み場を「チャドカン」と言います。ここでお茶を飲みながら、皆で主人を囲んでおしゃべりを楽しむのがこの国の風習ですが、私もここでベンガル語を学びました。 一日に10か所も20か所もまわって、おしゃべりの中でベンガル語を習ったわけです。いわば活きた学習方法ですか。


ダッカ大学に強引入学

 無鉄砲だった私は、数年間滞在するつもりで、バングラデシュに来たにも関わらず、持っていたビザは3ヶ月の観光ビザという状態でした。国立ダッカ大学に入学すれば学生ビザが取れると知り、またベンガル語をしっかりと学びたいという気持ちもあってダッカ大学に入学することを決めました。ただその方法も、今から思えばまことに無鉄砲なやり方でした。

ダッカ大学クリムゾンホール.jpg もう学期はスタートしていたので、入学審査担当官は「学期の切り替えまで、1年くらい待つよりないだろう」と言うのですが、自分は「いや、待てない、どうしても今すぐ入学させて欲しい」と粘りました。自分の話すベンガル語を聞いていた担当官は「それだけ話せるなら講義についていけるだろうから、まァ、いいか」と承認してくれました。柔軟といえば柔軟、ちょっといい加減かなあ。お茶屋で鍛えたベンガル語が役に立ったわけです。こうして学生ビザもとることができ、ベンガル語もしっかりと学び始めることができました。2003年1月のことです。


エクマットラの誕生


 大学入学後は、勉強のためブツブツ単語を唱えながらキャンパスを歩いていて、話しかけられたり、青空のもと、楽しくギターと歌の演奏をしている学生たちと親しくなったりと、さまざまなかたちで友人が増えていきました。そのなかに、貧しいために悲惨な境遇にある、ストリートチルドレンの問題に心を痛め、何とかしようと考えている仲間がいることが分かってきました。

 その仲間たちと一緒に街に出て、半年ほど路上に住んでいる人たちと話をして、調査をしました。みんなで校庭の芝生にクルマ座になって座り、議論に議論を重ね、時間をかけて確実に、自分たちがやりたいことの絵を描いていきました。


バングラデシュ国旗.jpg これがekmattra(エクマットラ)の成り立ちです。「エクマットラ」とは「皆で共有する一本の線」という意味で、遠くはなれてしまっている貧困層と富裕層を限りなく近づけて、1本の線にすることを目指し、バングラデシュ国の問題は、バングラデシュの人たちがみずから直視し、解決を目指すのだ、という理念を表します。豊かな国の援助に頼るというかたちでは、 いつまで経っても国の自立は難しいものです。


 自国の問題を他の国任せにせず、自分たちで解決・改善できてこそ、その国の発展はある、という自明の論理の展開でした。他の団体が実施中の期限つきプロジェクトを見て、海外からの援助に頼ることの問題点に気づかされたのもこの頃です。


 エクマットラ創設者のうち9人が、今も変わらずこのプロジェクトを手がけ、絶えず議論をつづけて、より理想的な将来像を練り上げています。この仲間と出会えなかったら、おそらく1年か2年いただけで、自分は何もできないんだ、とシッポを巻いて帰ることになったんじゃないかと思います。          


まず「青空教室」


 20039月に青空教室を始めました。皆で路上調査をしてみて、子供たちの将来をふさいでいるものは、社会だけでなく、その親たちである場合もある、と分かりました。なぜかというと、親にとって子どもは「稼ぎ手」なんですね。子どもが1日ごみを拾ったり、鉄くずを拾ったりすると、わずかな額でも収入となります。だから子どもが学校へ行くようになると、この日銭がなくなってしまうので、親は子どもの教育には良い顔をしません。

 たとえばバングラデシュでは、非常に多くのNGOが活動していて、ストリートチルドレンに対しても、多くの支援がされています。しかし母親が娼婦だったり、父親がヘロイン中毒だったり、どちらかと言うと「社会の落ちこぼれ」のような親は、自分達のためだけに、子どもたちを収入源としてしっかり確保しておきたい、と考えがちです。そして、そういった親を持つ子どもたちは、こういうNGOの支援を受けられないことがあると分かりました。そこで、自分達としては、親が理由で支援を受けられない子どもたちを、何とかしていこうという方針が固まってきました。


 まずは親に対して話をすることから始めました。話を聴いて回った地域は「娼婦街」だったのですが、そんな地域で外国人の自分が話かけることは、とても危ないことで、最初は、リンチにあいそうになりました。娼婦の人たちは夜に仕事をして、昼間はみんな疲れて寝ているので、夕暮れ時しか話せないんですね。そうすると、結構、あたりが暗いし、怪しい人が集まってきたりということがありました。それから、今でもあるのですが、その頃は特に、外国人による「人身売買」が多かったようで、私も外国人ということで間違えられたことがありました。大人数に取り囲まれ、「二度とここに来るな。今度来たら、ただじゃおかないぞ」とリンチにあいそうになって。


 その時は「わかりました」と言って帰るのですが、そこで諦めたら何にもならないので、毎日毎日行きました。結局1ヵ月半くらい通いつめるうちに、本気だと分かってもらえたんです。特に、その地域のボス的な娼婦の人がいて、その人が皆に先立って理解してくれたのが大きいですね。それまでは自分の過去のこと、子どものこと、なぜ娼婦をしているか、などについて口を閉ざしていたのですが、だんだん話してくれるようになりました。「自分の娘にはこういった仕事(娼婦)はして欲しくない」「本当はもっと幸せな生き方を選んで欲しい」と。でも「そうするための方法は分からない」というのが本音でした。


親たちも巻き込んで


子どもたち.jpg そこで、私たちが青空教室をやっていることや、計画中のシェルターホームのことを話しました。たしかに日々の収入を得るためには、子どもを手元においた方がいいでしょうが、子どもたちが教育を受け、さらに技術訓練を受けることで、何年か後に仕事につけて生活できるようになったら、子どもにとってもあなたにとってもプラスではないですか、と説得したのです。


 とはいっても、やはり説明だけではなかなかピンと来ないようなので、「まずは、とりあえず子どもたちを青空教室に参加させてみたら?」「青空教室は週に3回、1日2時間だけだから、子どもがそこに参加するだけだったら、収入が減ってもそれほど問題ないでしょう?」といって参加してもらうようにしていきました。


その後、だんだん来る子どもたちが増えてきた時分、『親に対する青空教室』も始めたんです。「ここでどんなことを教えているのか、知りたくない?」と誘って、子どもを20人くらい座らせ、親もその周りに20人くらい座らせました。そこで、表向きは子どもたちに教えながら、実はその周りにいる親たちに対して、こちらの意図することが伝わるようにしたのです。親たちは青空教室の実際を見、私たちが真剣に教えているのを見、私たちの思いを肌で感じてくれるようになる。そうやって少しずつ変わっていきました。


 カリキュラムを作ったとき、最初は教室につきもののイメージとして「読み・書き・計算」からというのがあったので、まずはベンガル語の「あいうえお」、英語の「ABCD」、数字「1、2、3、4、5」を教えていきました。ところが、子どもたちは親に言われて出席しているので、あまり興味がないんですよね。本当につまらなさそうにしていて。こんなやり方で1、2週間くらい教えましたが、とうとうこれはダメだ、と思いました。


 そこで、遊びや歌や踊りや劇といった内容に変えていったところ、子どもたちが少しずつ興味を持ってくれるようになりました。歌、詩の朗読、踊り、遊び、工作などを通じて心を動かされ、笑ってくれるようになり、これを私たちはさらに、モラルやチームワークを教える方向に導いていきました。


青空教室の転機


 青空教室はそれこそ天井も壁も無いスペースでやっているので、出席しやすい代わりに、さぼりやすいということがありました。いろいろな子どもたちがやって来てはいなくなり、ということを繰り返していました。それでも、青空教室を始めて1ヵ月半ほど経った頃から、15人位の子どもたちがずっと参加するようになってきました。これが半年程続いた頃、この子どもたちに、もう少し大きな飛躍の機会を作ってあげたいと思いました。


 そんな折、たまたま日本大使館が主催するスピーチコンテストがあり、この子どもたちが発表する場をもらって、それまで覚えてきた歌や踊りや詩の朗読を披露させてもらいました。20分程度のささやかな出番でしたが、急病のふりをする子がいるほどおじけづいていた子どもたちが発表を終えた瞬間、500人を超える大観衆が全員立ち上って、割れるような拍手で応えてくれたんです。


私もその場にいて鳥肌が立つ思いがしたのですが、なにより子どもたちが、目を見張るほど表情が変わりました。それまで世間から隠れるように暮らしてきた子どもたちが、自分でも他の人たちに認められることがあるんだ!他の人に賞賛をもらうことができるんだ!という驚きと歓びだったのでしょう。


 そこで初めて、自分たちが続けてきたことは間違ってなかったのだ、と思いました。それまでは、最初の教育方法がダメで歌や踊りを取り入れたりしたものの、「本当にこれでいいのか、本当に彼らを変えていけるのか」という思いがありましたが、その発表会後の子どもたちの顔を見て、大きな自信を持つことができました。翌日、多少斜めに構えていた子どもたちを含め、全員が「兄ちゃん昨日はすごかったねーっ!!」と抱きついてきました。15人という少数の子どもたちではあるけれど、自分たちがやってきたことは見当はずれではなかった、少しずつ何かを変えていけるんだと、彼らの変わりようを見て自分たちの迷いはふっ切れました。これが2004年2月の出来事でした。


シェルター設立


 以前から青空教室の次の段階として、子どもたちを養育し、通常教育を受けさせるシェルターホームを作りたいという思いがあったのですが、発表会の成功によって弾みがつき、2か月後、ホームを設立しました。この設備つくりの資金については、前年から実業家や一流企業で働いている人などに援助依頼をしに行ったのですが、「そういうことは先進国に頼めば?」と言って、誰も見向きもしてくれなかったという経験があります。外国の援助を頼むのが当然という体質の表れなのです。


 私たちの思いは、バングラデシュの人たちを巻き込み、その援助で活動を行っていきたいというものです。というのも、バングラデシュの人から寄付金やサポートを受けることによって、彼ら自身にこの活動を知ってもらい、そして自分たちの国のことに意識を持ってもらうという狙いが活動の根底にあります。


たとえ日本など外国からの暖かい支援を頂いたとしても、そこに依存しないという姿勢を維持する、だから最初から、なんとか自分たちでお金をまわしてやっていこう、という考えでした。本当に子どもたちを変えていきたかったら、親を含めて周りの大人たちを変えていかなければいけないんですよね。

 このシェルターでは、通常の教育をしています。青空教室でも読み書きは教えられますが、しっかりとしたものとは言えないので、子どもたちにとっては、ここに来て初めてちゃんとした読み書きが始まります。あとは、刺繍や、紙工作など、技術教育の基礎的なものですが、ただ、一番大切なのは「モラル」を教えることです。限られた空間の中で他の人間と共同生活をすることで、社会性を身につけるということがとても重要です。子どもたちには、路上生活が象徴する自由しか経験が無いわけですから。


 そのため、まずは青空教室を入り口として、そこで最低半年間、私たちとの信頼関係を築けた子どもたちの中で、強い意欲を持った者がいれば、親を説得してシェルターに連れてくることにしています。 当初6人だった子どもは、現在30人に増えて共同生活を送り、近くの学校に通っています。この年には、新聞がエクマットラのことを記事にしてくれ、バングラデシュのひとたちの協力が集まるようになりました。子どもたちの里親になってくれる人も出はじめたのは、とても嬉しいことです。


最終目標は技術訓練センター(アカデミー)の創設


 さらに、現在のシェルターの規模では本格的な技術教育はできないので、技術支援センターを設立する構想を立てました。2008年9月に、ダッカから170`離れたマイメンシン県に、建設予定地として3.5エーカー(約4300坪に相当)の土地を購入しました。ここに建物を作って、最終的な技術訓練センターとして、子ども達が技術を身に付けて社会に出て行く場とする、というプロセスを考えています。つまり第1のステップは青空教室、第2のステップにシェルターがあり、その後もうすぐオープンするアカデミーで技術を学んで、1618歳になったときに社会に出て行く、という仕組みです。社会に出て行くときに、他の企業に就職してもかまいませんが、私たちとしては、彼らが身につけた技術が、私たちの収益となる事業につながる仕組みにしていきたいと考えています。


 具体的には、現在も簡単な「お菓子作り」をやっているんですが、アカデミーではオーブンなどを設置して、本格的にお菓子作りを実現していきたいと思います。彼らが技術を身につけて卒業する時に、ekmattraとしてお菓子屋さんを開くことができれば、子ども達の就職先にもなりますし、そうすれば、そこでの収益を次の子ども達への支援に回すことができます。

 この最終目標実現のめの資金作りとして、さまざまなことを試みてきました。2006年には映画制作の構想がスタート、20094月に『アリ地獄のような街』が完成しました。いまエクマットラの代表者になっている、映画監督Shubhashish Roy(シュボシシュ・ロイ)が監督した映画です。完成後、バングラデシュでも日本でも上映会を開き、チケット売上はセンター建設資金の一部に加えられました。これは、それこそ、はい上がるのがむずかしい場所に生まれたストリートチルドレンの絶望的な生活を、実際に起こった事件をもとに作ったもので、観るひとたちに現実を知ってもらうよき手段となっています。

 一番大口の建物建設資金については、バングラ・ダッチ銀行と何度も何度も話を詰め、やっと審査が通って、とうとう2010年、アカデミー建設資金が寄付されることになりました。これを知らされたとき、あまりの嬉しさに銀行を出たとたん、大声で「やったァ、寄付が受けられる!!」と叫んでしまい、びっくりした通りがかりの人までが、なんだか分からないけどおめでとう、と声をかけてくれた思い出があります。このおかげで翌年からアカデミー建設が始められたんです。


レストラン「ロシャヨン」のオープン


レストラン 「ロシャヨン」内装はエスニックな木彫で.jpg そして20114月には、レストラン「ロシャヨン」のオープンにこぎつけました。タイ、バングラ、日本料理のミックスの店で、焼き鳥もメニューにあります。単なる、資金集めのためだけでなく、店の名前「ロシャヨン」が意味するところは「化学反応」であり、いろんな人が寄り集まって和気あいあいと食事することで、互いの気持ちや考え方が自然に「反応」し合って変化し、より広い視野と暖かな心が生まれることを目的としています。同時にこのレストランそのものが、ストリートチルドレンの職場となり、自立して職につくための研修の機会となるよう考えて作りました、


 開店準備のためには、日本の焼き鳥屋で1週間見習いさせてもらい、作り方はもちろん、資金、仕込み、その他、店というものの経営全般について勉強させてもらいました。この焼き鳥屋さん、そして、イスラム教国であるバングラデシュなので、お酒やミリンが使えない点をカバーしてくれた友人には本当に感謝しています。


両親も見てくれた


 バングラデシュでの活動について、はっきりした承諾も得ずに日本から出てきてしまった自分ですが、青空教室をオープンして間もなく、両親が「本当に他人に迷惑かけずにやっているのか?」と調べにやってきて、エクマットラ活動の大学以来の仲間と、子供たちの大歓迎を受けました。いつものように、みんなで楽しく学習している様子をつぶさに見た父母は、心配や疑問もなくなった様子で帰国の途につきました。その機内で、父親が詠んだ句がこれです。


『ストリートチルドレン 胸に抱きたる わが息子 

    我が人生 意義ありと謝す』

父親がメールで送ってきてくれたこの句を読んだとき、言い尽くせない感動でいっぱいになりました。自分のやりたいことのために、勝手に日本から飛び出して、ろくに日本に帰ることもなく、プロジェクトに打ち込んできた自分なのに、そしてこれからも、人並みの親孝行もできないかもしれないのに、こんなにも分かってくれて、こんなにも自分の側に立ってくれたんだ、という泣きたいくらいの喜びでした。


世界でいちばん幸せな自分


watanabe2.jpg 2014年完成予定の技術支援センターは、子供たちが社会に出て、自立した生活を営むために必要な専門的技術・知識を身に付けるための全寮制の技術訓練学校となります。これを本格的なアカデミーとして運営し、卒業生に資格を与え、小規模な店舗、たとえば屋台みたいなものを持たせてやり、自分で営業させる。そして自分たちの後輩をかれら自身が指導するというかたちで、次の世代へのバトンタッチを実現する。ここまでやれたら、自分は日本に帰れるかもしれません。10年後か15年後か分からないけれど。


 素晴らしい仲間との出会い、数限りなく受けた親切、こういうことに恵まれた自分の人生はなんと幸せなのだろう。たしかに同世代の日本人と比べたら収入は極端に少ないでしょう。でも、誰よりも今を楽しんでいるという自信があります。いま、私は一人のバングラデシュ人として活動できている心情であり、このことを本当に誇りに思います。


最初は確かに「かわいそうだから」という気持ちがあったかもしれません。でも今はこの国のために何かできるということが、このうえなく誇らしい気持ちです。そして何よりも自分は世界でいちばん幸せな人間だと思えます。


あとがき


 渡辺さんは情熱の人、誠意の人です。インタビューの約束当日は、政治的な問題から、政府の反対派が全国で道路封鎖を実施し、わたしたち一般の在留邦人は、大使館から外出を控えるよう指示が出されていたため、動くことができませんでした。


 その危険なときに、遠くからバイクで、安全に注意を払いつつ、時間をかけて会いに来てくださいました。そんな苦労をなんでもないように笑って説明し、インタビューの約束をしっかり守ってくださったのです。

さわやかな日本男子。


 こういう方を育て、信頼して、バングラデシュという難しい国での活動を、応援しておいでのご家族は、なんと素敵な皆さんだろうと、ひときわ強く印象付けられました。


 たまたまバングラデシュに滞在したことによって、立派に、『外向きな活動』をつづけている若い人にお話しを聞くことができたのは、本当に幸運なことでした。


 担当ききがきすと:清水正子 


posted by ききがきすと at 15:34 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月12日

夢を実現した幸運人生 〜写真で巡る自分史〜

夢を実現した幸運人生 〜写真で巡る自分史〜

       かたりびと:工藤隆英
       ききがきすと:菊井正彦
       発行日:2012年12月1日

kudo.jpgこれは、Ryoma21ききがきすとグループが初めて手がけた本格的な書籍です。
B5版100ページで作りました。

依頼者の工藤隆英さんが話してくださった子供時代から定年後の生活までが、思い出の写真とともに掲載されています。
また、大好きだという旅行に関しては、奥様や友人と訪問した世界各地の写真が盛りだくさんです。

聴き書きの基本料金では、約20ページ程度、写真も数枚という手作り冊子になりますが、こうした個別のご希望、書籍づくりにもお応えすることができます。

お気軽にご相談ください。 → info@ryoma21.jp

kudo2a.jpg

posted by ききがきすと at 14:35 | Comment(2) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月11日

Anne ― A story of an Independent Lady ―

Anne A story of an Independent Lady


    *この聴き書きは「アン 〜なんでも自分で〜」の英語版です。

   Anne Margaret Halloran

     Advisor
    
Regional Cooperation and Integration
     The Ministry of Foreign Affairs,

     The Democratic Republic of East Timor

                         Kikigakist: Shimizu Masako


Born in New South Wales, Australia

ann1.jpg I was born in a town called  ” Wagga Wagga”  in New South Wales, Australia.


 I have been there until 16.  Now it is quite a large town, but when I was born it was rather a small place.  It’s a ruralcenter for a farming area in the south of New South Wales.  I suppose it would have been warmer than it would be in present Southern part where I live now. As for the climate, relatively mild in my memory but was very dry and with strong and dusty wind.  “Dust storm” was the strongest in my memory.  And I was quite young in those days.

The teachers’Family,indeed


 When I was very young, I realized that I came from a family of school teachers. As my parents were teachers and my father was the Principal 5 of 5 schools. Two of my sisters were teachers and myyoungest sister was a nurse.


 When it was a time that girls go in a few years before you leave schools and get married and having her family, most common career was teaching or nursing. But nursing was not interest for me. So I became a teacher.


 I started as a teacher’s assistant after graduating from school and before going to teachers training. school, I taught even Latin and French.

  When I started to teach at school, I taught every subject, because it was a very
small school with only two teachers and thirty students.  And occasionally we were called up to teach something else because there was a shortage in teachers.


 Later on I have been teaching at a school where I specialized in teaching English, History and Geography.

Choose what is better for you

 
Began to teach in New South Wales, and for around 5-6 years then went down to settle in Victoria, South of Australia.  I’d taken a holiday and I stayed.  I didn’t ever go back to live in New South Wales.
ann8.jpg
 I did not actually get married. I have chosen not to get married but I got one child.

 Plainly not, it was not something like community approved of, but it was what a matter to do, and I haven’t worried about it. Then I have chosen never to marry.

I did have relationships with this man for a very long time, but I didn’t want to have children further.  Sometimes it’s a problem.  I was very happy to have my son of course, but I sometimes say it was perfectly right for the first time. I didn’t have to do it again.  Since then I had no correspondence with the father of my son.

Wonderful days of teaching

 So teaching was my first career. Officially I started in 1959. And I did that until 1982. It’s a long time.  Now I meet some of my students with their children going to the same school where I last taught.

 Even in this country, I met one of students I taught.  I haven’t seen her since she was my student when she was fifteen. But we remembered each other again soon. We have become friends here. And while working she obtained Ph.D. and became the manager.

 I occasionally run into people who say ” I know you somewhere, right?.”  One of my students.

 
Yes, I am proud of my teaching experience and also students. They become friendly when we meet, and most of them are very very amazing women. I thought it was nice for my career having taught in girls school, so I didn’t want to teach in boys’.

To the new work at the public sector

 ann2.jpg
I left teaching in 1982.  At that time my son was finishing.  As he was in his last stage at school, I thought I better let him give more freedom as far as time was concerned, I didn’t need to be around so much.  He was grown up and was going to leave town to go to University anyway.  I planned to change careers but didn’t quite know what I wanted to do.

 
For a while, I just worked in a quite different position from what I did while teaching and then I got into a public sector related.  I joined Victorian public service in May of 1983 and began working.

 
When I changed my work, I was so fortunate that things happened for me. The position became available that I applied for, and I began working in the industrial relations. That was a very good career step for me, as it gave me the knowledge that helped me go to the next stage of my career.

 
In 1999 I was invited by one of major hospitals in Victoria to apply to be the industrial relations manager at that hospital.That was my next career step.

 
As the hospital was still very closely linked with public service in Victoria, those
works gave me the range of very good context of public sector services, that’s very helpful.

 I dare say, you must be ambitious about to rise up, for your career. It is important not to be too cautious, just try. Leave it to God--That is my thinking of try.  If it doesn’t work at doing this, do something else.

My happy days of working

 
For the rest of my working life ---I left the hospital with the 10 years working in the field of industrial laws and industrial relations. Then I worked for the Catholic schools in Victoria that looked for the person in charge of human resources.

 
It was like a consultancy or advisory service for the Catholic schools for human resources functions.  Because they had small resources department,  I virtually worked for different systems to assist them about social functions.

 
And it involved lots of wonderful travel to every part of Victoria!  I was very happy to work with such a lot of travelling opportunities. The travel to the parts of Victoria that otherwise I would not have opportunity to visit.   It was interesting, very interesting work with people---with very interesting people, more than that, I could have  touring!

Trip –My favorite thing–

 
One of the other things along with the line is a passion of travelling to Europe.

 
I went to Europe for the first time with another teacher. She was a German teacher and we went to Switzerland for 3 weeks of study and 3 weeks of travel in Europe during  the long school holidays. We enjoyed what-do-you-call-it “home stay” there for 3 weeks and went to school with the family we stayed. We did that twice, in 1973 and in 1975. For me, that was the beginning of my travel, after that now I really in love with Europe.

 
My impression of the travel was that no much difference were in between countries. People, the individual people is the same, but they have own culture. Indeed cosmopolitan. Now I think my favorite place in the world is Italy, I really
like to go as far as I can, but there’s problem of money!

My son and I

ann3.jpgWhen my son was 16, I took him out of school and went to Europe and travelled for 3 months, in what they call “back packing” style.

 
I wanted to show him Europe through my eyes. And for me, there was great interest inhistory, the Roman and Greek history. We were fortunate to spend a lot of time visiting to various historical remains and works in terms of the Roman history in Italy and also in Greece.  Again a lot of the cultural background and history bases where we derived from. Again some understanding in an appreci- ation of that time.

 
My son is now in an occupation of health and safety manager, and up the current time his contract is with the Shell Oil Refinery in Geelong in Victoria. So he didn’t go into European culture. He went to something much more practical related.

Working in Timor Leste

ann4.jpgI came here for my first visit to see my niece in 2004 for  a holiday for a couple of weeks.  I just, I felt that I had a connection with people here that so nice.

 
They were so friendly welcoming and I really enjoyed my time here.

 
As I decided that when I retired, I would be volunteer somewhere for a while. In this term, I have been considering having discussion with a lawyer I knew who had been in Malawi.  And I knew another young lady who had been in India as a volunteer. They both talked to me the wonderful experiences they had had.

 
After my visit here I sought an opportunity and contacted with AVI: Australian Volunteers International.  And when I was asked for, in an interview I indicated that I’m particularly interested in Timor Leste and I was offered this position which was supposed to have started in 2006.

 
But a lot of trouble occurred at that time in this country. So they had to take all the volunteers out of the country. So my assignment was cancelled indefinitely at that time.

 
Then I was invited by a hospital that I worked previously to go back and they wanted me to stay on, but I didn’t want to. 

 
When the time came again, I came up here in 2008 and started my assignment with the National Society of the Red Cross for 18 months.

 
In February of 2011, I came again to Timor Leste to work as an advisor at Ministry of Foreign Affairs.

International society was very close---that was of my impression born in working with amazing people. 

ann6.jpg


 Everybody from the secretary general down through every level of staffs is just wonderful. I learned so much from them. It was like a part of large family.

If I study further

ann5.jpg If I study now--- well I have thought I would have to do something when I retire.

 
I have a thought of study. Not though I am a religious person but I am interested in other peoples’ religious thinking. And I have thought about studying Theology.

 Because it was just interesting for me why some people are deeply religious and others are anti-religious. Some people take a way to extremist at (what I think is) the negative way because of the religious believes. 

 I don’t understand why these --- the religious believes can make people act or think as they lead. So sometimes I think to try studying.

 
Theology, Philosophy and the mix. I might understand some of those things that multi-life people to live for.

 
Some people have a comfortable conversation with you without trying to convince you or to make you believe like all the people. Sometimes some people take very desperate methods to make others like a sort of violence, if you say, absolutely fanaticism. 

 
Therefore, sometimes I think when I retire, I might just to satisfy my curiosity, study Theology, Philosophy or combination to understand why people have no religious for this place or have religious for that place. But probably it’s impossible.

The fear of losing memory?  Forget it  

 As the brain is still working, we should keep it busy.

 
People sometimes are afraid of forgetting names or loosing things. But we have done it all our lives, only when we get older, we began to wonder if it is because of you are losing a memory.  Yet probably during all your life you are losing things already.  

 
You know I used to worry because I can’t remember people’s names.   I would always remember your face to see you again, but probably have no idea about what is your name.

In this term, it’s good when you work in an organization. As I returned to work in the hospital, there were still people there from 20 years before.  I recognized the faces but no names.  Fortunately they wear all name tag so you never have to ask anybody the name. It’s very good. It’s very handy. So I may wish that all the people in the world do have the name tattooed in their forehead.

Elders in Australia

 ann7.jpg
What is happening in Australia recent years although there is a retirement age which, I think upper age of 65, people are now encouraged to stay on at work. There is no limit. You can stay on after that age. 

 I think it’s an appreciation of the facts that people with more ages at work have lot of experiences that would be shared with younger ages from different view.  So you get the balance of younger view and older view.

 
And more and more, now you see older people staying on, not necessarily full time at work, but working 2 or 3 days a week or some other each day. That’s
quite common thing in Australia now.
 

About the Role of Elders at home

 
I had three sisters so the family were six. But many families then had six or
more children. Today an average family has two children, different from a woman
in the past who would have children to look after for quite a long time. Two children only leads to very very few grand-children. Compared with a big family or a big extended family, now is very much smaller, and for older generation less things to do.

 
I myself didn’t look after my grand-children so well. For more than day or two in the weekend, I took care of them for their parent taking a break.  I have to say two was plenty. I wouldn’t have an energy to look after more than two.  And by the end of the week end I would be exhausted. 

 
Now that my grand-daughters are teenagers, we spend time with, during a school year and most of the week end, when I am back in Australia.  As they are studying or doing researches for their homework, they are very quiet.  It’s lovely to see them at my home, lovely to visit them.

 
Now I am very fortunate that my niece and her husband and their children are here. One is 5 and the other is 3.  And just they lovely. This is very good timing
to come near- by, and this is another reason to continue staying here.

I’m not good at asking for help

 
 I think the Australian travel more by car than by train/airplane and so do I. For
example, to go to the Northern city of Sydney which is the capital city of New south Wales from Melbourne, it’s about ten hours driving time, but one hour in a plane. I prefer driving to taking a plane, because I like to have a long travel.

 
If an accident happened?  I would try myself to solve it. I would like to be able to do myself. I’m very independent.   I’m not good at asking for help.

posted by ききがきすと at 18:55 | Comment(3) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

  1 2 >>