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2018年02月10日

幹太く、空高く 〜馬路の村に生きる〜

 かたりびと:岩城佳子(いわきよしこ)さん
 ききがきすと:鶴岡佳代
 編集担当:舘坂雪枝

朝鮮半島の平壌に生まれる


iwaki1.jpg 私の父・岩城勲(いさお)、母・遊亀(ゆうき)は二人とも、ここ馬路村の出身です。父はたいへんな勉強家だったようで、住友林業という、今もある会社ですけど、そこへ入社しました。当時としては、高知の田舎から入るというのは珍しかったと思いますよ。


父の最初の赴任地は平壌(ぴょんやん)でした。朝鮮半島へと言われて、事前にしっかり勉強をしてから行ったと聞いています。私はそこで昭和7年3月25日に長女として生まれました。でも、赤ん坊のころしかいませんでしたので、残念ながら平壌のことは何も覚えていません。


次の赴任地となった咸興(かんこう)では、小学校卒業までの10年ほどを過ごしました。李朝の文化が残ったとてもきれいな街で、人口は6万人くらいだったかと思います。朝鮮半島が日本の植民地だった時代です。日本の会社がたくさんあって、日本人がたくさん暮らしていましたね。


小学校のことはよく覚えています。制服のセーラー服を着て通学していました。1学年に4組、一つの組に50人ほどの生徒がいましたから、千人を超える大きな小学校でした。建物もそれは立派でしたよ。


北朝鮮の冬はとても寒いんですが、私たちの家にはオンドルがあり、ストーブの火も赤く燃え、部屋の中は温かく快適でした。そこでの私は、のんびりと気ままに、まぁお嬢さんで、何不自由なく暮らしていましたね。


大東亜戦争が始まった


小学校4年生のときに、大東亜戦争が始まりました。初めの1年くらいは、ものすごい戦果で、勝ち戦の大本営発表に街中が浮かれたような感じだったのを覚えています。


昭和19年に父が、今度は清津(せいしん)というソ連との国境近くの街に転勤になり、私は、そこで女学校に入りました。戦争はだんだんと厳しくなり、もう誰もかれもが召集されるという状況で、39歳になっていた父にも召集令状がきました。若い社員の方は先にみな兵隊にとられていましたから、住友林業の広い事務所が年を取った男性と女性の事務員さんだけになり、寂しく心細く思ったことでした。


ちょうどその頃、私たちのところへ「事務所を貸してくれ」と言って、暁部隊という30人くらいの小隊がやって来ました。「どうぞ、使ってください」ということで、見ましたら、その兵隊さんらは武器を持ってないんですよ。鉄砲とか、そんなのもないんです。30人もおいでますのにねぇ。学校では、日本の国は神様の国であるから神風が吹いて戦争には負けないという教育を受け、私自身も信じていました。だけど、兵隊さんが武器を持ってないのを見て、子ども心にも『これは・・』と思いましたよ。


家に父が大事にしていた日本刀が2振りありまして、母が「よかったら使ってください」と差し上げたところ、隊長さんは喜んで持っていかれました。今思えば、その隊長さんは学徒動員。早稲田大学に在学中に動員され、こちらに来ることになったということでした。横浜の青木さん。お名前はそこまでしか覚えていませんが、すっきりした容姿のりっぱな方でした。


今すぐ一歩でも南に逃げよ


その青木さんが、8月の9日に訪ねて来られて、「岩城さん、これは秘密だから公言できないことだが、ソ連が戦争に加わった。ここに居ては危ない。今すぐ一歩でも南に逃げなさい」と、言われたんですよね。


母はもうびっくりして、必要なものだけ持つと、私たちを連れ、会社のトラックで清津の駅まで走りました。その時、もうすでに沖にはソ連の艦隊がずらっと並んで、艦砲射撃をしていました。大砲の弾を打っている様をどう見たのか聞いたのか、ただ夢中でしたね。


清津の駅まで行きますと、そこはもう黒山の人。とても汽車に乗れるような状態ではありません。でも、駅長さんが父と非常に懇意な間柄の方で、「岩城さんのご家族でしたら、何としてでも最後のこの列車に乗せないかん」言うて、窓から放り込んでくれたんですよ。人の上に人が乗ったような状態でしたね。

頼れる知人のいる咸興までなんとかたどり着いて、私たちは汽車を降りました。そして、そこで終戦を迎えたんです。咸興では、いわゆる難民としての生活でした。それまで辛いことが多かった朝鮮の人々に取って代わるように、今度は日本人の私たちが非常に苦しく辛い目にあうようになりました。


だけど、中には人のいい朝鮮の人もいましたよ。その時、一番上の私がまだ12歳。下に8歳、4歳、2歳と、家には女の子ばかり4人の子どもがいました。かわいそうだと思ったんでしょうね。黙ってこっそり食べ物を持ってきてくれたりしました。ありがたかったですよ。


そんな状態ですから、私は母の相談相手になって、しっかりしないと事が足りません。とにかく頑張りました。北朝鮮の冬は零下10度。吐く息で睫毛が凍ったようになる。それぐらい寒いんです。敗戦後の凍える冬、家族5人が1枚のお布団で、こう抱きおうて、お互いの体温で温め合って過ごしました。


38度線の突破を敢行


翌年の春が来て、ようよう暖かくなった頃・・5月になっていたかと思います。「ここに居ては飢え死にするだけだ。山に逃げよう。山道を南下して、38度線を突破するしかない」ということになりました。そのころは、すでに朝鮮半島の北と南を隔てる38度線が設けられ、行き来することはまったくできなくなっていたんです。


私たちは70人くらいの団体で、夜の闇に紛れ、山に入りました。「ソ連の兵隊は、若い女の人を連れて行って暴行する」と言われ、13歳になっていた私は、髪を切り顔へ炭をつけて、男の子になりました。母は2歳の香代子を背負い、味噌と米を入れた袋を腰へ巻いて・・・そうやって、私たちはみな、38度線を目指し、ただひたすら歩いたんです。


昼になると、私は米を鍋へ入れ、谷へ下り、米を洗いました。お水をいっぱい入れてご飯を炊きました。米が少ししかなかったですからね。お粥みたいなのを食べて、少し休んで、また歩いて。日が暮れたら、そこで野宿しました。


山の中で、道らしい道はありません。でも、同じように南を目指す人の通った跡があり、迷うことはなかったですね。中には、ぼろきれみたいなものを木の枝に結んで印をしてくれていたところもありました。


道中のいたるところに死体がゴロゴロありました。「連れて行って、連れて行って」って、すがるような、拝むような、そんな人たちもいっぱいいました。もう歩くこともできなくなって、行き倒れてしまった・・・・そんな人たち。あまり言いたくないことがたくさんあります。


私たちを追い抜いて行った若い人が、捕まって大きな木へ括り付けられて、叩かれているのも見ました。今でも忘れられません。叩いていたのは、ソ連兵ではなくて、朝鮮人の物取りみたいな人だったように思います。おいはぎみたいなものですね。


ようよう越えた38度線


38度線の辺りには歩哨って言うんでしょうか、見張りに立ってる人たちがいるんです。でも、「ここを越えたら」という思いでひたすら歩きました。そんな私たちをかわいそうにと思ったのか、ちょっと甘くみてくれたように思います。


板門店のあたりで、ようよう38度線を越えると、アメリカ人が来て何かしきりに話しかけてきました。でも、英語はわかりませんし、どうしていいのか途方に暮れたことでした。みなが一箇所に集められて、DDTという白い消毒の薬をかけられ、予防注射を打たれました。そこでもらった固い乾パンのこと、難民がそれはたくさんいたことなど、今も忘れられません。


それから、貨物列車に乗せられて、釜山まで。幼かった妹たちを母と二人して背負ったり、引っ張ったり、そうやって帰ってきたんです。その時の本当に辛かったことは、3人の妹たちも覚えています。


復員していた父との再会


召集されていた父は、終戦のとき38度線より南にいたんです。だから、難なく復員し、日本へ帰ってきていました。帰ってはきたものの、家族のことや母の苦労を思い、心配と気兼ねで居ても立ってもいられない気持ちだったろうと思いますよ。でも、どんなに気を揉んでも38度線を越えて北へ行くことはできなかったんです。父も和歌山県の田辺市で住友林業の所長をしながら苦しい思いで家族を待ったと思うんですよね。


母は、4人の娘を抱えて本当に苦労の連続でしたけど、釜山では運よく日本に帰る船に乗ることができました。下関行きのはずが船中に伝染病の方があったため、着いたのは仙崎港という小さな港でした。終戦の翌年、5月末のことだったと思います。


そこには、住友林業の方から連絡をもらった父が迎えに来ていました。母は、「お父さんは、私たちを朝鮮に残して、迎えにも来てくれんような薄情な人やから、もの言うたらいかん」って私たち子どもに言いましたよ。だけど、そんなことじゃないことはよくわかっていました。来たくても、北へは来られなかったんですからねぇ。


まずはふるさと馬路村へ帰る


帰国して、私たちはまず、馬路に帰りました。父方の祖父母はもういませんでしたが、母方の祖父母は元気で、「よう帰ってきた」言うて、それは喜んで迎えてくれました。それから、父の赴任先の田辺市に入り、家族での暮らしが始まりました。


でも、終戦後の食料不足で苦労しました。働いてお金をもらっても、家族のための食料を買うことができない。田舎へ行って、お百姓さんに米など分けてもらっても、帰る途中で押収されたりして、小さな子どもたちを抱えて、両親は本当に困ったようでした。


もうどうしようもなくなり、父は住友林業を諦めて、馬路へ帰る決意をしました。「馬路でなんとかする。製材でもやるか」と言うてました。でも、製材の仕事を始めることにはならず、森林組合に勤めたり、それから村議会にも1期は出たと思います。


そんな暮らしの中でも、私は勉強が好きで、学校へ行きたいという気持ちを強く持っていました。父もそんな私のことをよくわかっていて、「勉強して学校はちゃんと行け」と言ってくれました。


でも、私には、父が裸一貫で帰ってきて、お金がないということが嫌というほどわかっていました。帰国後に、また一人妹が増え娘5人になっていましたので、私が無理を通して学校へ行けば、下の妹たちの教育ができない。そんなことは、言われなくても理解していたんです。


姑となる人に「嫁に来い」と望まれて


自分の行き先をどうしようかと悩んでいたちょうどその頃、岩城の本家から嫁入りの話が出ました。私は旧姓も岩城で、私の生まれた家は何代か前の分家になります。岩城の本家のお母さん、私の姑になる人が、なぜか私を非常に気に入って、「嫁に来い、来てくれんか」って。私のことを朝鮮から苦労して帰ってきたから、仕込んでみたいと思ったようですねぇ。


私の主人は3人兄弟の末っ子ですが、長兄はフィリピンで戦死し、次兄も結核で亡くなっていました。男の私の主人だけが、東京の陸軍士官学校の学生のまま終戦を迎え、村に帰っていましたので、母親にしてみると、『この息子に早く嫁をもらって、家を継がさんと。さもないと、家が絶える』という想いがものすごく強かったんだと思います。


また、嫁さんを仕込むには若いうちがいい。そんな気持ちもあったかと思います。安芸高等女学校の寄宿舎にいた私が夏休みに帰ると、毎晩のように家に来て「学校へは行くよばん(行かなくていい、という意味の土佐弁)。来てくれんか」ってしょっちゅう言ってきました。


そのとき、私はまだ、1415でしたよ。仲人まで立てて、どんどん話を進めるんです。私はただただ困ってしまいました。むげに断って本家の機嫌を損ねたら、父がやりにくいんじゃないろうかとか、いろいろ気に病んだことでした。


女学校の担任の先生にも「どうしたらいいろう」と相談しました。「私は学校へ行きたいんですけど」と。先生は、「そりゃ勉強も大事よ。けど、あなたを見てると、相手の人がいい人だったら、結婚も悪いとは思わんよ」とおっしゃってくださいました。


主人からの手紙で決めた嫁入り


iwaki3.jpgそれでも決心できずにフラフラしていた私のところに、ある日、手紙がきたんです。私宛の封筒で、裏には『岩城勲』と父の名があります。でも、筆跡が違うんです。父の字は知っていますから『あら、これはおかしい』と思いながら封を切ると、主人からのものでした。


若き日の岩城ご夫妻


男女共学が始まったとはいえ、当時は、親以外の男の人からの手紙なんてとんでもないことです。中を見ると、こういうことで、どんどん話が進んでいるということが書かれていて、『でも、おまえは勉強がしたいということで悩んでいることと思う。本当に勉強をしたければ、その道へ進め。けど、もし嫁に来てくれるなら、俺には異存はない。来てもらいたい』とありました。


その後に、『もし来てくれるなら、岩城の家風に沿うてくれ』とか、『親を大事にせよ』とか、まぁ、五箇条の御誓文みたいなことを書いていましたね。それを読んだときに、私は『あぁ、この人は素晴らしい人や。この人に賭けてみよう』と思ったんです。すぐに決心がつきました。


その頃、主人は馬路の農協に勤めていましたので、夏休みに帰ったとき、『あぁ、あの人やな』というように、ちらっと顔を見たことはありました。でも、話をしたことはなかったですよ。後から聞いたところでは、主人は私の妹たちになにかに買うちゃって、なつけていたようです。私への気持ちはあっても、今の人のようにそれを直接伝えるということはできなかったんでしょう。


年は6つ上です。この人はいい人かもしれない。少なくても私の本当の気持ちはわかってくれている。そう思えて、結婚することを決心しました。


先生にお話しすると、「岩城さん、おめでとう。でも、運動会のときまでは、おってや」ということでした。それで、秋の運動会の後、安芸高女を中退しました。勉強はしたかったんですけど、断念してね。


お義母さんはもう喜んで、とにかく来てくれ、すぐ来てくれでした。岩城は庄屋も務めた馬路でも古い家系ですから、本家としては、『ここで絶えたらおおごと』という思いが強かったんですね。それで、翌年の1月にすぐ結婚となりました。新郎、岩城敏郎は22歳。私は、まだ16歳の花嫁でした。


初めての農家での生活、そして百姓仕事


私には百姓の経験はありません。麦や粟、稗なんか見たこともなかったんです。だから、初めは辛いことも多かったですよ。でも、私には5人姉妹の長女だという自覚がありましたからね。婚家から帰るということは絶対にいかんこと。私がそのいかんことをしたら、下々の妹にも影響する。そのような教育を受けたとも思いませんが、やっぱり心の中にそういう一本の芯があったんでしょうね。どんなに辛くても帰られん。ここで頑張るしかない。そう思っていました。


したことがない百姓ですから、どうやっていいかさっぱりわかりません。お義母さんが、こうやれ、ああやれといちいち教えてくれるんですよね。朝は5時に起きてご飯をたかんといかん。


そんな中で、その年の12月には長男の立郎(たつお)が生まれました。子どもを育てながらの慣れない百姓です。初めは、疲れて疲れて。本当にようやったと自分でも思います。


当時、主人は農協に勤めてました。でも、その時分の男の人が給料を妻に渡すということはあまりなかったですね。私も主人からお金をもらったなんて記憶はほとんどありません。嫁ぎ先の両親に支えられて、なんとかやれたんです。


今考えてみれば、よく私にいろんなことを教えてくれたと感謝しています。両親は二人とも立派な人でした。


百姓仕事をしながらも子育てに一生懸命だった日々


19歳のときに次男の弘幸(ひろゆき)が、23歳のときに長女の昌子(まさこ)が生まれ、私は二十歳代を2男1女の母として過ごしました。いつの時代も子どもの世話はしんどくて、母親はたいへんなものです。私も同じでした。百姓が忙しゅうてたまらん。けんど、子どもがお腹がすいちゅうにちがいないと思う。お乳も張ってきてたまらんなる。とにかく早く帰っちゃらないかんと思って、山の畑からだんだん走りながら帰る。お乳を飲ましたら、子どもの顔を見る間もなく、また、仕事に戻る。その繰り返しでしたね。


どんなときも絶えず子どものことがあって、頭から離れない、そんな感じでした。それを子どもは見ていますので、お母さんっていうのは本当に苦労しながらやっていると、子どもにだってわかっていたと思います。


今のお母さんは自分が大事で、よう捨てん。だから、お母さんも辛いし、子どもの不満も大きくなるように思えます。親子で居るのに、母親がずっと携帯電話をつついてばかりだったりするでしょう。私には、そんなふうに思えるときがありますね。


一番辛かったのは次男の病気


辛いなと思ったことはいっぱいありますけど、なんといっても一番辛かったのは次男の病気のときでした。弘幸は勉強もできる、世話のない子でしたけど、5年生のとき、腎臓を患ったんです。このときは、顔が腫れたので、あれっと思って、すぐ病院にかかりました。近所にも何人か同じように発病したお子さんがいて、扁桃腺からの菌が原因だと言われました。


その時は、ちゃんと治療し、きれいに治しました。いえ、治し切ったと思っていました。だけど、それから1年ほど経ったとき、また悪くなりました。『なにかしんどそうやな』と思ったくらいで、再発とは夢にも思いません。どこも痛いわけではないので、おかしいと気づいた頃には、病気は随分進んでいました。治療しましたが、結局、慢性腎炎という病名を付けられ、高知赤十字病院に入院となりました。病院内の学校へ通うこととなり、本当に可哀そうなことでした。


それから、高知医大の病院へ、次に岡山大学病院へと転院したんですが、なかなか結果が出ず、家へ帰されました。そして、人工透析を考えなくてはならないと宣告されたんです。昭和50年だったと思います。当時は、まだ透析の技術が今ほど良くなくて、水分や食べ物の制限はひどかったし、体力的にもたいへんな状況になると聞かされていました。


私の腎臓を一つやれんもんやろうか


私は次男のことが心配で、可哀そうで、なんとかならないかと随分悩んだし、考えました。考えるうちに、『自分の腎臓は2つある。一つを弘幸にやれんもんやろうか』と思いいたりました。移植は、それまでにも例はありましたが、まだまだ一般的ではなかった時代です。


岡山大学病院の桑原先生に、「先生、私の腎臓がもしも使えるなら、子どもにやっちゃってくれんろうか」ってお願いしました。「それなら、調べてみる」と言ってくれて、すぐ検査をしてくださいました。ところが、弘幸の血液はA型、私のはO型で、合いません。移植はできないと言われた、その時、そこでじっと聴いていた主人が、「俺の腎臓は、どうやろうか」と、こう言うてくれたんです。


ところが、主人の両親からは「孫は一人じゃない」と言われました。二人にとっては、主人はたった一人生き残っている息子です。そりゃ、無理はないですよね。「孫は一人じゃない」と。板挟みになって、私は居ても立っても居られないような気持ちでした。


でも、主人は「とにかく、調べてもらいたい」と譲らず、検査してみると、血液型は同じA型で、機能的にもよく似ているという結果でした。これなら移植できると、先生が乗り気になってくださったんです。


その時の私は、『移植して、もし主人に何かあったらどうしよう。腎臓をやったために主人が長生きようせんかったとしたら、それは私の責任や。お義父さん、お義母さんに申し訳ない』と考え、もう本当に、たまらんように思いました。


でも、主人が、「これほど組織が似ているということを知りながら、俺は、この子にやらずにはようおらん。この子が苦しみながら死ぬるがを、俺は、よう見ん」と、こう言いました。優しい、しっかりした人でしたね。


家族だから乗り越えられた試練


iwaki4.jpgそれで、昭和50年に岡山大学病院で移植手術を受けることができたんです。手術は成功して、次男はその腎臓で元気に過ごすことができ、結婚もしました。主治医だった桑原先生が次男の結婚をとても喜んでくださって、『術後10年目のゴールイン』として高知新聞に掲載もしていただきました。これがその新聞です。昭和60年の古いものですけど、私はよう捨てんと持っていました。


次男は3人の男の子にも恵まれました。移植手術から15年後に、透析するようにはなりましたけど、今も元気で、幸せにやっています。主人の健康を心配しましたが、お義父さん、お義母さんより後まで元気に生きてくれて、83の歳を迎えてから亡くなりました。


そのことが本当にありがたく思えます。私たちは、次男の病気という大きな試練を家族で乗り越えた、いえ、家族だからこそ乗り越えられたと思っています。


二人の義兄との絆


先にお話したように、夫は岩城の家の三男でした。主人の一番上の兄は航空兵で、フィリピンのレイテで戦死しています。フィリピンへ行く直前に、お兄さんは、東京の主人のところに寄ったそうです。その時のお兄さんの話を私に聴かせてくれたことがあります。


それまで長兄は中支那にいたようで、重慶だったか、爆撃に出たときのことを「爆弾を落とすときは、ちょっと下へ降りて落とす。後は、すぐすーっと上まで上がらないかんがやけんど、飛行機の性能がようないき、まだよう上がらんうちに爆発してしまう。その爆風でもういかんと思ったことが何回もあった」と話したそうです。


今度はフィリピンへ行けと言われたと告げた後で、長兄は主人に、「絶対に飛行機には乗るな。地を這え。そしたら、ひょっと助かるということもある。お前が死んだら、岩城の家は絶えるぞ。岩城の家を守ってくれ」と言ったそうです。やっぱり、家というものを大事にしたんですね、昔は。子どもであっても、そういう考えをしっかり持っていたんです。


先祖があって、自分がある。それは、決して古い考えではないと思いますよ。今の若い人にも伝えたい。自分の命は自分だけのものではない。これは、本当のことです。テレビでやっている『ファミリーヒストリー』を観ると、みなが感激しているじゃないですか。やっぱりね、と思います。


陸軍士官学校の最後の61期生だった主人は、結局、戦争には行きませんでした。でも、もう少し戦争が長引いたらどうなっていたのか。日本は「本土決戦」を声高に言っていましたし、当時の陸軍の将校なんかには、そういう考えの人も大勢いたようですからね。


次兄は、警官だったそうです。上司に結核の人がいて、お世話をしていて、うつったようです。その当時は、ペニシリンとかの薬もありませんでした。この兄は文学の好きな優しい性格で、上の兄は激しい気性だったと聞いています。


私の長男は夫の長兄にそっくりです。法事のときの写真を見て、みなが「気持ちが悪いぐらい似てる」って言います。だから、私は飛行機乗りだった長兄がこの長男に、また、次兄は次男に生まれ変わったんじゃないかと思うんです。二人が私の子どもとして生まれ変わって生きてくれている。守ってくれゆうと思います。だから、ご飯を炊いた時には必ず仏様にお祀りしています。お陰様で、今があります。本当にありがたいことです。


主人の一大転機に義父が石割技術を教える


このあたりで岩城組のことを話さないといきませんね。結婚して3年くらい経ったころやったと思います。お義父さんが怖い顔して、「おまえら、来い」って呼ぶんです。何の心当たりもない私は、どうしたのやろうとびっくりしました。


当時、青年団というのがあり、井上満さんという、なかなか行動力のある方が会長で、主人も一緒に活躍していました。その青年団の幹部らが、公民館を建てたいと考えて、資金稼ぎに映画やお芝居をやとって、木戸銭を集めたりしてたんです。でも、なかなからちがあかん。それで、農協に古い肥料があるが、あれはいらんもんやから、あれを売って資金にしようとなったらしいんです。


iwaki5.jpgもちろん、それは農協の物ですから、隠れて売ったりはできないわけですよね。告げ口した人があって、そのことが露見し、問題になったわけです。元をただせば、公民館を建てる資金を集めたかった。


義父(立吉)と義母(松猪


それだけでしたが、舅は村長も務めた人でしたから、岩城の家に泥を塗った言うて、主人と私の二人を据えて怒りましたよ。私はなにがなにやらさっぱりわからんまま叱られたんです。


まぁ、それは仕方がないとしても、一応けじめとして主人は農協を首になり、仕事を失ってしまいました。「何かして働かないかんが、誰にも頼めん」と困っていたときに、お義父さんが「おれが石割りを教える」と言ってくれました。若いときに、石割りの技術を持っていたのです。



石にも目があり、その目に穴をあけて、かすがいみたいなものを当ててパンと打つと石が割れる。主人はやったこともない石割りの技術を自分の親から教わったんです。辛かったと思います。手にまめができて、血を流しながらやっている主人を見たら、何とかして助けたい、力になりたいと思いました。


岩城組の看板をあげる


それからの私は慣れない百姓を続けながらも、主人を傍らでじっと見ていました。主人は前へ前へと仕事をつくっていく人です。石を割ることから始めて、そのうち田んぼの淵がつえたので直してくれとか、道を拡げてくれとか頼まれるようになりました。


一人で何役もはできません。人を1人雇い、それが2人になり3人になり、田の畔や道の補修、拡幅などの工事をするようになると、県の土木事務所から土木事業者の資格を取るように話がありました。資格を取ると、土木工事の入札に参加できるようになり、主人はさらに入札に必要な積算ができるよう勉強したんです。そうやって土木管理施工技術者1級の資格も取り、昭和38年には岩城組の看板をあげたんです。


一方で、主人は帳簿をつくるとか、そういう細かいことはしない人でした。主人の仕事ぶりを見て、私は『帳簿づけなど事務の仕事をちゃんとせんといかんなぁ』と思うようになり、自分が岩城組の会計をやろうと考えました。百姓をしながら、簿記の勉強をし、百姓と両道かけて頑張ったんです。簿記の資格を得た後で、衛生管理者の資格も取りました。あの頃は、本当に寝る間もないように働いたことでした。


iwaki6.jpg土木の仕事はどんどん膨らんで人は増え、失業保険とか労災とか、そんな制度も新しくどんどん入ってきます。


昭和の頃の、今は懐かしい岩城組の仲間たち


どうしていいかわからず、関係役所へ、「初めてでわからんのですが、手続きはどうしたらいいですか」って習いに行きました。そうやって取り込んで、進めていきました。すぐ行って習う。わかる。後はまじめにやっていく。だから、信用してくれたんですよね。

最後には、事務に女の人を一人雇いました。けんど、まぁ、ほとんどは私が自分でやりましたよ。病気をしたこともありますが、これはという大病はなく、頑張って続けることができたことに感謝しています。


当時はまだ珍しかった自動車の運転免許を取る


入札に行く機会が増えてくると、取るつもりがないときなどは、主人から「おまえが行ってくれ」と言われることが多くなりました。入札は安芸市で行われることが多かったのですが、馬路からは片道30q以上の山道です。『これじゃあ車に乗らんとどうにもならん』と思い始めて、車の免許を取ったのは、31歳のときでした。


その当時はまだ、免許を持つ人は村にほとんどいなかったですよ。主人曰く、「おまえ、自転車にもよう乗らんのに」。その時は、私も若かったよねぇ。「お父さん、自転車は輪が2つやけど、車は4つあるき、安定しちゅう。間違っても、ひっくり返ることはないき、大丈夫。私は車の免許を取りたい」そう言い張ったことでした。主人はけたけた笑って、「言い出したらきかんき、まぁ、行って取ってこい」って言うてくれました。


免許は一発で取りましたよ。試験のコースがいくつかあるんですが、どのコースになるか本番までわからんので、全部のコースを覚えました。中には、間違ってね、先生にAコースへ行けと言われたのに、Bコースへ入った人もいました。その後部座席に次に受ける私は乗っているんですよね。


先生が「おまえ、どこへ行きよりゃ」言うと、「僕は、郵便局へ行きよります」って。すっかりあがって、コースを間違ったことすら気づかないんですよ。その人は郵便局の職員さんでね、先生が笑って、「コースを間違ごうちゅうぞ」って、ね。自動車学校は、奈半利にありました。奈半利までせっせと通いましたよ。今は懐かしい思い出です。


生きがいとなった地域のお世話役


百姓仕事に子育て、土木の仕事も加わって大忙しの20代が過ぎ、30代半ばになったとき、ふっと『私には青春がなかったなぁ』って思ったことがありました。『青春はなかったけれど、この世にせっかく生まれてきたんやもの。なにかしたい。なにかやりたい』と、そんな気持ちがむらむらと沸き起こってきました。


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母を囲み、妹らと和やかに食事会

他の人が結婚して今から子育てというときに、私はもう子どもたちに手がかからなくなっていました。また、家のことも百姓仕事も要領がわかって能率も上がっていましたからね。


地域のみなさんのお世話役を少しずつするようになったのは、ちょうどそんなころからです。村の農協婦人部のお手伝いをしていたところ、次の会長をやってほしいと頼まれ、引き受けました。それが、昭和48年4月のことで、その4年後からは民生児童委員にもなり、地域のみなさんのお世話役を20年ほどさせていただきましたね。


若いときから主人も、そのことには理解がありましたよ。私がカレーを作っていると、「また、出張か」と訊くんです。「今度は、どこへ行くのか」と、笑いながらね。一緒に暮らしていれば、わかったんでしょうね。また、どこかへいくがやなと。


平成に入ってからも、村の婦人会長をはじめ、社会福祉協議会の評議員や健康づくり推進協議会委員、食生活改善推進協議会委員など務めさせていただきました。ボランティアというのは、無報酬でするということで、地域のみなさんの協力がないと、何も形にはならないんですよね。でも、みんなで力を合わせる、その過程が、また楽しかったんです。


馬路村には『おらが村・心臓やぶりフルマラソン大会』というのがありました。もう随分前のことになりますけど、あれを始める時に、ちょうど私は村の婦人会長をしていました。前夜祭をやろうとなったんですが、企画段階では暗中模索です。村の教育委員会の担当職員と何度も話し合いました。


自分が家にある、お漬物とかを持ってきて、「これ食べてやろうよ」と言うこともありましたよ。ああしよう、こうしようと、それぞれが意見を出し合う。決まれば、みながパッと協力する。それには、まずは自分が動くということが何より大事だと学びました。まぁ、みんな本当に気持ちよく仕事してくれましたね。


自分は本当に世話好きやったと思うんですね。で、村会議員も平成11年から3期やらせていただきました。議会へ出たいとかまったく思っていませんでしたけど、「出てや、出てや」言うていただいてね。本当に選挙運動なんかしないまま、挙がらせてもらったんです。


あんなこともこんなことも、できることはさせていただきました。それが私の生きがいやったなぁとつくづく思います。お陰様で、自分としては生きがいのある幸せな人生を送ることができました。そんなふうに思っています。


ほんの最近まで、村の老人会長もやっていました。まだできないことはなかったんですが、娘が心配して高知市での会などには付いてきてくれるんです。それも申し訳なくて、自分の年齢を考え、昨年で辞めました。人には引き時が肝心です。これからは、若い人の縁の下の力持ちになって、育てる方に回ります。年を取ったら、このことを忘れないようにしたいですね。


神様が助けてくれて今がある


主人が亡くなってから、もう10年ほどになります。昭和24年に結婚して、ほぼ60年という長い月日を一緒に暮らしました。体格も良くて、まぁ、侍でしたね。男らしいというか、全然、損得を言う人ではなかったんです。筋が一本ぽんと通っていました。初対面の人には、ちょっと怖いような取っ付きにくい感じの人でしたが、慣れたらそんなことは全然ありません。仕事が好きで、現場と人を大事にする人やったなぁと思います。


今は長男が、岩城の家も岩城組も引き継いでしっかりやってくれています。次男は高知市で元気に暮らしていますし、長女は安芸市に嫁ぎましたので、今は家のことで私が心配することはなにもありません。これまでを振り返ると、『どんな困りごとも、なんとかなる。神様が助けてくれたなぁ』と、ありがたく感謝するばかりです。


これからの私の目標と願い


今の日本の国は、みなが長命になり高齢者が増えましたよね。いいことやと思いますけど、若い人は少なくなり、その若い人への負担が大きくなっています。だから、健康寿命を延ばして、なんとか最後まで自分のことは自分でできるような状態で一生を終えたいなと願っています。それが、私の今の気持ちだし、これから先の私の目標でもあります。また、それを自分一人でというのではなく、地域のみなで助け合いながら一緒に実現していけたらと思っています。そうしないと、日本の国もたいへんですよね。


これまでに私は、アメリカとかヨーロッパへも行きました。それぞれに素晴らしい国だとは思いましたけれど、日本の素晴らしさを再認識する機会にもなりました。日本人は、すごい。だから、自分の国に自信を持とうって。


iwaki8.jpg今の若い人には、よその国に憧れすぎて、よくわからないまま、例えばアメリカの方が良いというように思っているところがあります。もう一度、日本のことを考えて、もう少し日本の国のことも、外国のことも勉強してほしい。そう思っています。


アメリカで暮らす孫一家


私には今、孫が6人、ひ孫が7人いますよ。孫の一人はアメリカ人と一緒になり、私に本当にいろんなことを体験させてくれています。世界がひろがった思いです。だから、平和でないと困るんです。心から、みんなに平和でいてほしいと祈っています。


あとがき


岩城さんとは、馬路で初めてお会いし、北朝鮮から始まる長いご自身の物語を聴かせていただきました。わかりやすく正確に、しかもよどみのない話しぶりと、起伏に富み人の情けに溢れた話の中身に、思わず引き込まれました。物腰の柔らかな小柄な女性ですが、芯の通った強さ、人を包む大きさを感じます。


空に大きく枝を伸ばした一本の木のような方・・そう思って、主題を『幹太く、空高く〜馬路の村に生きる〜』とさせていただきました。


38度線越えを目指した山中での出来事やご結婚までのいきさつ、ご主人の一大転機と、お若い頃の一つひとつのエピソードが、地中深く根を張り成長していく一本の木と重なります。若い世代のみなさんにも是非、読んでいただきたいと思います。貴重なお話をありがとうございました。

(ききがきすと:鶴岡香代)

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2013年08月04日

「ききがきすと」とは?

 「ききがきすと」は、NPO法人シニアわーくすRyoma21の活動のひとつです。

「聞き書き」は、語り手の話を聴いてまとめることを言います。Ryoma21では、単にお話を聞いてまとめるだけでなく、語り手の話にじっくり耳を傾け、見出しや写真を加えて文章化し、それを冊子にしてお渡ししています。ご本人だけでなく、ご家族にも喜んでいただいています。そうした語り手に代わって「その人なりの自分史」を残すお手伝いをする活動を、私たちは「ききがきすと活動」と言っています。

そして、、聞き書きする人のことを『ききがきすと』と呼んでいます。「ききがきすと」はRyoma21の登録商標です。

「ききがきすと」はこんな方々に利用していただくことを目指しています。
・親孝行のために:高齢な親や親しい方の生きてきた道や歴史を、今のうちに聞いて残しておきたいという方々に。
・私の記念に:定年退職や人生の節目の記念などに、自分の歩いてきた道を記録したいという団塊/リタイア世代などに。
・自分史/家族史として:自分が体験した特別な出来事や生きてきた道を、次の世代に記録として残しておきたい方々に。

「ききがきすと」のご用命は、こちらをご覧ください
 → http://kikigakist.ryoma21.jp/category/6951596-1.html

「ききがきすと」の作品一覧は下をご覧ください 
 → http://kikigakist.ryoma21.jp/article/126369772.html

さらに、Ryoma21では「ききがきすと養成講座」の開催をしています。一定以上の「聞く/書く」という技術を持った、優れた『ききがきすと』を養成するためのもので、庶民の歴史を次の時代につなげていく担い手として活動していただきます。Ryoma21だけが認定できる資格です。

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2013年08月03日

ききがきすと活動の原点 〜生きている間、もっと母の話を聴きたかった〜

◆母の人生を親戚が教えてくれた

自分の親がどんな人生を送ってきたか。大筋では知っていても、面と向かって話を聞いたことのある人は少ないのではないでしょうか。私(ききがきすとリーダー:松本すみ子)もそうでした。

towazu.jpg私の両親は再婚です。二人の子を残して妻に病死された父は、親戚の紹介で、満州から引き揚げてきた母と再婚します。母は最初、満州に渡るという男性と結婚し、子供を二人生み、現地でそれなりに幸せに暮らしていました。そのうちに戦争が起き、夫は戦争に駆り出され、病死します。そうしているうちに、ソ連軍が進行し、逃げ回るうちに男の子は栄養失調で、女の子は引き揚げの船の中で亡くなってしまったそうです。

満州から引き揚げてきたこと、再婚だということはうすうす知っていました。しかし、それ以外のことはほとんど知りませんでした。母も自ら語ることはなかったからです。

そして、母はまもなく90歳という時に、乳がんになりました。医者からは余命3か月と言われました。そんな時、お見舞いにくる母の兄弟姉妹や親戚の人たちから、母が満州でどんなに苦労したかを聞かせてもらうことになったのです。そうだったんだ...。皆は、私のまったく知らない出来事をたくさん話してくれました。そういう話を聞くたびに、なぜ、元気なうちに、母の話を聞いてあげなかったのかと後悔の思いが込み上げてきました。母の気持ちをもっと汲みとってあげることはできなかったのかと。夫が亡くなった後の生活、逃げる時の状況、二人の子を亡くした時の気持ち。

◆後悔しないために

しかし、家族とは不思議なものです。一番身近にいながら、肝心な話はしていない。気恥しさもあり、家族に面と向かって話をすることは難しいのです。そういう家族がきっとたくさんいるはず。でも、聴けるときに聴いておかないと、もう遅いといこともあるのです。私のように。

私は文章を書くことも仕事にしていますので、聞き書きのような活動には以前から関心を持ってきました。ただ、それほど熱心ではなかった。母の死と、その人生をより深く知ることで、この活動を本格的に始めようと思いました。仕事の合間の活動でもあり、まだまだ小さな活動ですが、理解してくださる仲間も少しずつ増てきました。この活動は末永く続けていきたいと思っています。

母の人生は、私は直接聴くことはできませんでしたが、母が問わず語りに病床で話した内容を、姉が録音しており、それをまとめたものは私の「ききがきすと」としての(実際は聞き書きではありませんが)第一号作品です。こちらにありますので、読んでみてください。

「ききがきすと」活動の対象は、母のような高齢者だけでなく、日本をここまで成長させた団塊世代などのリタイア組の話も積極的にまとめていきます。人は生きていく過程で多くのこと経験し、学びます。それは日本の宝、後世の人たちにとって、かけがえのない宝だと思うのです。また、東日本大震災の被災地を訪問し、被災者の方々のお話をうかがって、まとめる活動もしています。

◆ききがきすと作品一覧 → http://kikigakist.ryoma21.jp/category/6933386-1.html
◆聴き書きのお申し込み → http://kikigakist.ryoma21.jp/category/6951596-1.html
◆ききがきすと養成講座 → http://kikigakist.ryoma21.jp/article/371124421.html

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2009年04月07日

ききがきすと活動リーダーの松本です

ききがきすと活動のリーダー、Ryoma21理事の松本すみ子です。

聞き書きは、語る人にとっては記憶を呼び覚まし、過ごしてきた長い年月を整理する手段であり、
聞く人にとっては、語る人の幾星霜に寄り添い、もうひとつの人生を体験する作業です。

多くの方々のかけがえのない人生を記録していきたいと思っています。

そんな活動を行っていく人を養成し、将来的にはビジネスにまで展開させたいと考えています。
そのために、「ききがきすと養成講座」を開催しています。
講座の内容は、こちらをご覧ください。

興味のある方は、どうぞ仲間に加わってください。一緒にプロジェクトを推進していきましょう!
ご連絡をお待ちしています! ご連絡・お問い合わせは、info@ryoma21.jp へ。

 *「ききがきすと」は、NPO法人シニアわーくすRyoma21の活動のひとつです。

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