2025年07月06日
戦後80年に戦争の記憶をつなぐ〜高知大空襲〜
前回ここに書いたように私のこれまでの聞き書き作品は戦争の記憶を伝えるものでもあります。今回は、このブログに掲載している私の作品の中から、太平洋戦争末期の7月4日、高知市上空に125機のB29が飛来し、18万発の焼夷弾が街を焼き尽くし、少なくても市民456人が犠牲になった高知大空襲について記述のある次の3作品を紹介します。
高知の街をハイカラに生きる〜語り手 鈴木章弘さん(高知市)〜 章弘さんは高知市の中心街、新京橋で写真館を営む家の「ぼん」として生まれ、何不自由なく育ちましたが、高知大空襲で住まいも店もすべて焼かれ、おじい様を亡くされています。また、その年の春に入学したばかりの土佐中学校の校舎も焼け、終戦後は大嶋校長のもとで校舎の再建に向け生徒も一緒に材木を運ぶなどともに働いたことを詳細に語ってくださいました。
遠く懐かしい、あの日を想う〜語り手 和田敏子さん(土佐町)〜 敏子さんは昭和20年に土佐町の保健婦になり、空襲後の高知市に救護班として入ったときのことを鮮明に覚えていて話してくださいました。
つなぐ日々を生きる 〜語り手 西内末子さん(高知市)〜 高知市吉野で子供時代を過ごした末子さんには、家のすぐ近くに落とされた大型爆弾や鷲尾山にB29が墜落した日の記憶があります。また、高知大空襲で被害にあった知り合いに父親が炊き出しを届けに出たこと、戦後の学校の様子なども詳しく聴かせてくださっています。
80年前の7月4日、人々が火災の熱さから逃れようと飛び込んだ鏡川。その河畔の大原町の、空襲の犠牲者を仮埋葬したという場所に高知市平和祈念の碑が建てられています。今年も、7月4日には平和祈念の碑に遺族らが黙とうをささげ、祈念の碑に献花したと新聞記事が伝え、遺族の証言も載せられていました。証言者は空襲で母と妹を亡くし、60歳を過ぎて「ようやく人に話せるようになった」と話されています。
私を含めて戦争を知らない者が大半となった今の時代、戦前、戦中、戦後を生き抜いてこられた語り手の聞き書き作品は、戦争の記憶を伝える証言としても貴重だと思います。改めて多くの方に読んでいただく工夫を考えたいものです。
posted by ききがきすと at 11:20
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