2023年12月24日

二人の母への鎮魂歌 下

かたりびと:中野ミツヨさん
ききがきすと:鶴岡香代
編集担当:清水正子

二人の養父に想う

引っ越しする前のことを今も思い出す。お父さんは友達の家遊びに行くことを厳しく止めたけど、離婚後、お母さんに相談したら「いいよ。休みのとき、遊びに行って」って。ある日、友達の家で遊んでの帰り道のこと。お父さんは奥さんが連れてきた子どもに落花生を買っていた。昔は露天商が屋台の車の荷台に物を並べて、そこで落花生なんか売っていた。お父さんはすぐ私に気づいて、買った落花生を渡そうと、私の名前を呼んだ。でも、私はその子を見て、すぐ駆け出した。その場に居たくなくて、ただ走った。お父さんは、その子を置いたまま私を追いかけてきたけど、私はずっと走って止まらない。お父さんは後ろから私の名を呼ぶ。でも、私は止まらない。絶対止まらない。

家まで走り続けた。走る間、いろんな気持ちが湧いてくる。お父さんは私とお母さんのこと、いらない。あの子を連れて物を買いに来ていた。すごくお父さんのこと嫌という気持ち。でも、お父さんはあの子をそのまま置いて、私を追ってきた。いろんな気持ちがあった。走って家に帰ったら、お母さんが「どうしたの。もうハアハアしてる。なにがあったの」って。訊いても、私、何も答えない。お父さんがいたこと、なにも言わない。

引っ越してからは、お父さんに偶然会うなんてことはなくなった。でも、お父さん、たまに小学校に私を見に来た。教室の北側の窓から中を覗いて、私を見ていたことを覚えています。何げなく窓の方を見たら、そこにお父さんの顔が見えた。私はすぐ頭を振って見ないようにした。    ずっと年を経て考えたら、お父さんは私のことを気に入っていたから、たまに学校に来て私を見たかったのだろう。あの時は、落花生を渡したかった。今なら、そういうことをしたお父さんの心がよくわかります。

お母さんは再婚して、幸せになった。暴力は全然受けない。二番目の養父は給料を全部お母さんに渡して、お母さんが家の管理をした。炭鉱の仕事は給料が高いから、三人での暮らしは安定した。でも、いくら安定しても、前のお父さんと比べたら全然違う。自分のお父さんじゃないと感じる。

二番目の養父の炭鉱の仕事は危ない。だから、家の仕事はなんにもしない。全部お母さんがする。その頃、家に水道なくて、お金を払って、共同の取水場で桶に水を入れて天秤棒で運んだ。うちはその取水場からとても遠い。当時の私はちょっと背が低くて、中学校に入るときも、130センチしかない。お母さんは纏足。私もお母さんも、一人で天秤棒担ぐのは難しい。だから、棒の両端を、こっちを私、あっちをお母さんが持って、水を運んだ。ご飯作っても、洗濯しても、いっぱいお水がいる。冬になると、その周りは氷がいっぱい張って、滑りやすい。危ないけど、お母さんと二人でやる。

ある日、お父さんが言いました。「みんなの家見たら、子どもでも一人で水運びやっている。あの子にやらせればいい」と。でも、お母さん「ダメです。まだ小さい。今は身長が伸びるとき。あの子には、まだ無理です」って。お母さんは私にやらせたくない。「私は家の仕事だけ。私は大丈夫です。あなたは、よく勉強したらいいです」。いつも私にそう言いました。

養父は、お母さんは私のこと甘やかしすぎると思っていた。夜、私が寝たと思って、二人が話しています。でも、私はまだ寝ていない。お父さんの言うことが聞こえた。「この子は実の子じゃない。日本人の子です。なんでこんなに甘やかすのか」。このことは、私の心にずっと残っています。やはり私の最初のお父さんとは違う。全然違う気がします。

その時のお母さんの答えを私は今も忘れません。お母さんは普段は怒ることがない。養父が何をしても、言っても怒ることがない。でも、このことでお母さんすごく怒って言いました。「そういうこと絶対に言わないで。この子、私の子と変わりません。この子のために私はずっと生きている。この子がいなかったら、私はもっと早く死んでいますよ」。

盲腸の手術の時のことも覚えています。病院へ行くのが遅くなって、化膿して、ひどくなった。養父は私をおんぶして病院に連れて行ってくれたけれど、その後一度も私を見舞うことはなかった。私は一か月以上入院して、お母さんが毎日毎日、お見舞いの時間には必ず来る。私は毎日窓辺にいてお母さんを待った。 

時々、二人の養父のことを比べて考えます。二番目の養父は炭鉱で働いて、お母さんと私の生活を支えてくれた。長く一緒に暮らして、ちゃんと家族になった。本当に感謝しかありません。ただ、最初の養父といた、あの幼い頃が、一番幸せだったと思うのです。お父さんとお母さんと私と、三人のあの日々が。

自立への思いから専門学校へ

昔、中国では小学校4年生までは初等小学校、5年生から2年間は高等小学校に通います。高等小学校は、前の小学校より少しだけ近くなりました。小学校6年のとき、私は成績も良いので、先生は家の近くの中学校に入学するように言いました。でも、どうしても同じクラスの人と同じ中学校に入りたい。この小学校の卒業生は全部、その中学校に行く。ただ、みんなは住むところが同じなのに、私だけ遠い。遠いので途中でバスに乗ります。その遠い中学校に私は3年間通いました。

中学三年生になって、進学希望に私は高校と書かず、師範学校に行って先生になるつもりで、専門学校と書いた。すると、担任の先生は成績も家の暮らしぶりも問題ないのに、どうしてと不思議に思って、私の家まで来ました。

その先生は自転車で初めてうちまで来て、こんな遠い道を3年間ずっと通っていたのかと、すごく感心したようです。「この子は3年間、遅刻することが一回もなく、本当に頑張った」と。そして、お母さんに「この子の成績なら、高校に入って、将来は大学に入ることができる。家の生活とか困ることはないのに、どうして高校に進学しないの?」と訊きました。お母さんは戸惑って、「私は字も読めない、一日も学校行ったことない。全然学校のこと知らない。この子がどう考えているのかも、全然わからない。帰ったら訊いてみます」と答えたそうです。

中野7.jpg 17歳の時、養母(潘素珍さん)と

お母さんから先生が来たこと、そして進学のことを話したと聞きました。男の先生が自転車で来て、遠いからたいへんだったって。お母さんは言いました。「先生は、成績もいいのに、どうして高校に進学しないのかと言いました。どうして行かないの? お母さんは、あなたに勉強をたくさんさせてあげたい」。私はそれ聞いたら、先生がうちに来たわけも、お母さんの気持ちも、よくわかった。

お母さんに言いました。「お母さん、私ね、本当に自立したい。お父さんの炭鉱の仕事たいへんです。危ない仕事ずっとしている。私が学校へ行ったら、また迷惑ばかり。やっぱり自分が自立してお母さんに恩返ししたい。そういう気持ちいっぱいです」って。
お母さんは私に「かまん、かまん。好きにやったらいいの」って。「お母さんは字も読めない、なーんにもできない。あんたはよく勉強して、自分の人生と将来しっかり考えて。それが一番にすること」と。

高校と専門学校は学歴の点では一緒だし、専門学校なら卒業したら、すぐ仕事できる。そうすれば、お母さんが楽になる。私がそう言うと、お母さんは「私が楽できる、できないは関係ないの。自分のたいせつな人生、第一に考えて」と言いました。最後に私は、「そう。これは私の人生よ」と返して、お母さんを説得しました。そうして、1961年の秋、師範学校に入りました。

労働局から病院へ

私が小学校入るとき、お父さんが私に言いました。「これからいっぱい勉強して、知識あったらいい仕事できる。また、いい人に出会ったら一生幸せになれる」って。そのときは小さいから、そのこと全部は理解できてない。でも、言われたことはちゃんと覚えている。工場の労働者の仕事はやりたくない。その考えが私にずっとありました。

師範学校で3年間、小学校の先生になるための勉強をしました。でも、中国では、どこで何の仕事をするか自分で選ぶことはできません。だんだん考えも変わり、師範学校を卒業すると、私は学校ではなく、労働局の事務員の仕事に就きました。1964年、私は19歳になっていました。

労働局で働き始めても、もちろんお母さんとずっと一緒です。もらった給料も全部お母さんに渡しました。若い事務員で覚えることいっぱい。夢中で仕事していた1966年5月、文化大革命が始まりました。労働局のような役所は、すごく政治に敏感です。いたるところに大字報が貼られている。私はそれを見るだけ。どうしてこういう運動が起こったのか、将来どうなるのか、考えてもわからない。下放政策でみんな農村へ行く。不安がいっぱいでした。

私には2つの心配がありました。1つは、「自分は日本人。これから農村に行ったら、ちゃんと帰ってこられる?」。もう一つは、「お母さんと離れたくないのに、ずっと一緒に居られる?」。すごく悩んで、職場の主任に相談しました。私のことを自分の子どもみたいに大事にしてくれて、心から信頼している人でした。

主任は局長と相談して、農村には行かない方がいい、そのためには労働局を辞め、転職するしかない、と言いました。そして、「病院の仕事でいいですか?」と訊いてくれました。その時、私は22歳。どこへ行っても、どんなことでも、まだ勉強できる。私は主任に「ありがとうございます。将来のこと考えたら、それがいいと思います」と答えました。

病院も文化大革命の最中で、最初は「運動事務所」に配属になりました。なんのことやら、私には全然わからない。批判とか何も言えず、記録だけをしていました。毎日仕事に行くけど、患者さんは少なかった。
そのうち処置室での注射を習いました。でも、それは看護師の仕事。私は看護学校に行ってない。勉強しようにも何から勉強すればいいのかわからない。本屋に行って本を買いたい。でも、毛沢東の本とか政治関係の本ばかりで、私が買いたい本はない。病院の図書館があると聞いて、行ってみたけど、何もなかった。みんなが本を持ち去っていた。
仕方ない。私は薬箱を開けて、中の説明書を一枚一枚全部集めて、家に持ち帰り、「この薬はなんの作用、副作用は何?使う量は?」って勉強しました。どこにも勉強するところなくて、本当に困りましたよ。「この病気の注射は、この薬ですればいい。大人ならこの量で、子どもならこの量で」と、計算もして。わからないところは先生に訊いて、少しずつ覚えていきました。

元は工業局の病院でしたが、工業局が3つの部局に別れた1969年、そのうちの一つが機械局付属の総合病院となりました。病院に残った私に、漢方薬の先生が漢方の薬局に入り勉強するように言ってくれました。漢方薬の仕事に変わると、「これでしっかり勉強しなさい」と本ももらいました。漢方薬は製剤薬局でつくります。そこの薬剤師が私の仕事ぶりを見て、一緒に製剤をやるように言い、大きな病院での研修の機会も与えられました。初級から勉強を始め、頑張って続けていると、国の試験がありました。薬剤師の初級試験受けて、合格しましたよ。

その後、文化大革命の後期に入り、夜間の学校が始まりました。やっと勉強できるところができたんです。私はその学校に入りました。病院に転職した翌年結婚していた私には、その頃は娘も誕生し、毎日毎日の勉強は大変でした。娘の世話はお母さんに助けてもらい、頑張って勉強を続け、また国家試験を受験。薬剤師の資格を得ました。国も急いで様々な分野の専門家養成をしなくてはいけない、そんな時代だったのだと思います。

 結婚と子育て、そしてお母さんの死

 私は誰と結婚しても、お母さんと一緒に暮らすと決めていました。二人で、いつまでも一緒に暮らすと約束していましたから。主人には兄弟が6人います。うちに来てもかまわないというので、1968年、23歳で結婚してからもずっとお母さんと一緒に暮らしました。養父は、1970年5月、炭鉱事故で亡くなりました。お母さんが毎日心配していたことが最後に本当になってしまいました。

 財布写真.jpg    就職祝いに二番目の養父から贈られた
               財布・・大切な思い出の品です

私の子どもは二人です。娘と息子です。仕事をずっとしていたし、上の娘のときは、夜間学校もあって、お母さんが全部面倒をみてくれました。お母さんはとてもきれい好き。家の中のことも、子どもの世話も本当によくしてくれました。
でも、その子が3歳のとき、お母さんは病気で倒れました。何度か入院もしましたが、家で療養するときは、先生の処方で私が薬を出したり、注射することもありました。仕事と子育て、そしてお母さんの看病。たいへんな1年余りの後、なんとかお母さんが持ち直したころ、私は下の子どもを妊娠していました。

妊娠何ヶ月かのとき、お母さんがまた倒れて、今度は病気がどんどん重くなりました。やはり昔の過労や苦労があったと思います。脊髄の結核で、もう手術もできないと言われました。私は勤め先の病院を休んで、お母さんの看病をしました。
妊娠後期に入るころには、お母さんはますます悪くなり、失禁も始まって。昔は大人用のオムツはないです。お母さんのために柔らかい布をいっぱい貯めて使いました。その頃は、家に水道がありました。暖房もあって、今と同じです。でも、日本のような保険はない。毎日の世話から医療費のことまで、全部、私がしました。入院のときも、家で看るときも、たった一人の娘として私が看病しました。最期は、家で看取りましたよ。お母さんが亡くなった時、息子が生まれて10日目でした。

お母さんの死、そして募る日本への想い

お母さんが亡くなったのは、1976年です。お母さんと30年一緒に暮らしました。どんなに悲しくても、その時、私は泣けませんでした。涙が出ない。心の中はすごく淋しい。お母さんだけが自分の親だから。お母さんが亡くなったら、自分の親戚はどこにもいない。誰もいない。毎日泣きたいけど、泣けるところがありません。
主人は家族、兄弟が多い。時々会うし、みんないい人。でも、自分の兄弟じゃない。そう考えて、すごく淋しくなった。その時、思いました。「私の日本の家はどこにあるの? 私のお父さん、お母さんはどこにいるの?」。毎日、考えました。

でも、まだ文化大革命は終結してない。どんなに自分が思っても、口に出すことできない。中国は政治運動が多いから、いろんなことを考えます。文化大革命でも私や家族には問題ない。日本人でも大きな問題はないと思います。でも、やはり普通の人とは全然違う。そう考えて、誰にも言えませんでした。

お母さんが元気なころ、考えました。もし、私が日本の家や家族を探して、本当の家族がわかったら、お母さんどうするかな。お母さんを日本へ連れて行けるなら、そうしたいと思う。でも、お母さんがどうしても一緒に行かないと言ったら、私も日本には帰らない。帰れない。そう考えました。お母さんの気持ちを一番大事にしたいと考えました。
お母さんが亡くなってから、自分の家族を探したい思いが湧きあがってきました。でも、誰にも言えない。自分の心の中に刻むように思っていること言える人はどこにもいない。うちの主人は、私が日本人の子だったことを知っている。でも、私のこういう気持ちは全然知らない。私が言わなかったから。

お母さんが亡くなってから、私は毎日毎日そういうことずっと思い続けていて、重い病気になった。黄疸性の肝炎でした。この辛い気持ち、どこで話しをする? 誰に話しする? 話すことも、泣くこともできず苦しい。自分のただ一人の母親が亡くなってから、だんだんこの病気が重くなって、入院しました。入院したとき、息子まだ1歳にもなってなかった。

日本の家族を探したい気持ちが誰にも言えないのは、文化大革命のことも確かにあった。その気持ちがすごく強くなっても、怖くて言えなかった。日本の家族のことは私は何も知らない。どこをどう探す? 何もわからない。探すことは難しい。自分の名前も知らない。親の名前も知らない。探しても身元が判明しなかったらどうなるの?そう考えて、怖い気持ちになりました。

再び公安局の呼び出しが

1979年になって間もなく春節という頃、公安局の外事科から私に一度来るようにという手紙がありました。不安でした。どうして私を呼ぶの?文化大革命が終わっても、すごく怖くって。でも、行かないわけにはいかない。
行くと、書類を渡された。自分の知っていること全部書くように言われたけど、名前や住所、仕事とか書いて、その下はと見ると、一つも書けない。いつ日本から中国へ来たのか、日本のお父さんとお母さんの名前は、居場所はどこ、親戚は誰か知ってるか、とか。私の全然知らないことばかり。なにも書けない。
「下の欄は全然書くことができません」と言うと、向こうは「あなたは自分が残留孤児だと知っているか」と訊いた。私は「知っている」と正直に答えた。嘘はつけない。「いつ、知ったの?」と訊かれて、1953年夏にお母さんと一緒に公安局行ったときのことを話しました。そのとき知りました、と。「そのとおりです。記録がある」と向こうも言いました。
「でも、その他の事は、私には記憶が全くないです。お母さんも亡くなった。お母さんは私が日本人だということは、まったく言わなかった。何も知らない」私は本当のことを言うほかなかったのです。

すると、向こうから「あんたは、日本のお父さんやお母さん、親戚とか探したい?」と訊いてきました。私は、探したくないと、その時、嘘をつきました。「探したくない、どうして?」「私はなんにも知らない。どんなに探しても無理です」。すると、今度は「この人知らない?」「あの人知らない?」と、いろんな日本人の名前を出してきて訊いてきました。私は「知りません」「知らない」・・。でも、最後に「この人はあなたのことを知ってる、と言ってます」って。「えっ、本当?それなら、その人の中国の名前を教えてください」と頼みました。

残留婦人が教えてくれた

そこで聞いたのは、中国人と結婚した残留婦人の中国名。その名前を聞いて、私はすぐに思い出しました。昔住んでいたお父さんの家の隣の人。この人は、私がもらわれて来たころ、隣のご主人と結婚した。来たときは、頭の髪が全部ない。坊主で、もう男みたいだったって。その時まだ20歳くらい。夫婦には10歳以上の年の差があった。
隣同士だから、多分よくわかっていた。この家には日本人の子がいる。自分も日本人。特別な関係で、お母さんとすごく仲がよくなった。お母さんの親友みたい。この人は、お母さんに家を貸してくれた李さんと親戚。だから、この人のことは、私もすぐわかった。

私と主人はすぐ李さんに会いに行って、この人のこと訊きました。家を教えてもらって、直接その家を訪ねました。「私は自分のことが全然わからない。知っていることあれば、教えてください」って。
そのおばさんは、「1972年に日中友好交流が始まって、私は1973年に初めて日本に帰りました。1年くらい向こうにいて、翌年こちらに帰ってすぐ、あんたのお母さんに会いに行ったよ」と話を始めました。その時、私は仕事で、お母さん一人が家にいて、何年ぶりかの再会をとっても喜んだそうです。

「でも、あなたのお母さん、すごく頑固だったよ」。おばさんは続けて話してくれました。「私は日本に帰り、1年間向こうにいて、今帰ったばかりです。あんたの娘、淑媛、日本の家族や家を探したいという気持ちがあるなら、私たちが手伝う」と、お母さんに来た目的を伝えたとたん、お母さんの態度が変わったそうです。すごく怒り出した。「もし、こんなことを言わなかったら、うちに来てくれたことはとても嬉しいです。こういうこと言うのは止めてください」って。おばさんは、そのまま帰るしかなかった。もう1回うちに来たけど、家にも入れてもらえなかったって。

私は、そういうことを全然知らなかった。お母さんは私には何にも言わなかった。でも、この人は私に会うことができなかったけど、公安局には私のこと話してくれてたんです。
「お母さんは、あんたのことなんにも言わなかった。なにか言ってくれたら、手伝うことができたけど、何にも言わん。あんたが日本人の子だと、近所の人は誰でも知っている。知っているけど、詳しいことを誰も知らない」。最後に私にそう言いました。おばさんは、ご主人が病気で重篤だからこっちにいるけど、日本にすぐ帰るつもりのようでした。私には、もうどうしようもない。

養父との再会・・そして、すべてわかった

私と主人は最初の養父の継母のところへも行きました。この人は、養父の弟のお母さん。私と主人はまず叔父さんのところへ行って「お願い、おばあさんのところ連れて行って」って頼みました。会えたけど、女の人の記憶はまた男の人と違う。覚えていることはあっても、資料をつくるのは難しい。

それで、最後は仕方がないので公安局に話して、「私の養父にはもう25年余り会ってない。全然連絡がない。今どこにいるかも知らない。お願いだから、養父の居場所探しを手伝ってください」って言いました。すると、3日後に連絡があった。養父は吉林省の奥さんの故郷にいた。向こうへ行ったことを私は全然知らなかった。

撫順市の公安局と吉林省の公安局が連絡し合って、養父のことをちゃんと調べてくれました。養父のところまで行って、私のことを初めからいろいろと訊いてくれ、養父は書類に必要なこと全部書いてくれた。それから、詳しい書類をつくって私に送ってくれました。
でも長年養父には会ってない。資料が信用できるかできないか、私はもらっても迷っていた。自分は全然覚えてない。今詳しいことを聴いておかなければ忘れるかもしれない。そんな心配もある。吉林省の公安局の人の名前は今も忘れない。于雷さん。この人が、撫順の公安局の人に連絡して、「何回聞いても同じことです。間違いない」って言ってくれました。

お父さんは私に手紙もくれました。手紙には、『あなたのことを捨てたという罪の心は、長年ずっと残っている。あなたのことを公安局の人から言われて、私はずっと泣いていた。私も年取った。淋しくなった。お母さんとあなたのこと、本当にごめんなさい。お母さんが亡くなったことも全然知らなかった』と書いてありました。
連絡すると、お父さんは早速うちに来て、詳しいことを話してくれました。お父さんはうちに来てからずっと泣いていた。そのとき、私は「お父さんのことをもう恨んでない。自分が結婚して、子ども産んで、あのときのお父さんのことは本当によく理解できた」と伝えました。

結婚と友達は違う。自分が好きじゃない人と一緒に暮らすのは本当に辛かっただろうと、自分が結婚して、私よくわかりました。お母さんは誰がどう見てもいい人です。でも、夫婦はいい人とか関係ない。もうお父さんのこと全然恨んでない。幼い日のお父さんはいつも私のこといろいろ考えてくれた。子供の考えることと大人の考えることとは全然違うんだ。
そのときお父さんは61歳。背が曲がって、とても年を取ったみたい。若いときに思っていた様子と全然違った。私のところに1週間くらい泊まったので、全部詳しく聴くことができました。私が「なにか間違っていることある?」って訊いたら、「絶対に間違っていることはない。あの当時の日本の家族にもし生きている人がいれば、絶対その資料で探すことができる」と言ってくれました。

「私がどうして自信を持って話せるのか。それは、このことがあんたの一生で一番大事なこととわかっているから。あんたをもらったことを私は後悔することはない。でも、あんたを捨てたことは一生後悔する。もらったときのこと、昨日のことのよう。頭の中はっきり覚えている」。お父さんの言葉です。後は一緒に書類を完成させて、公安局と日本の厚生省に提出しました。

初めて日本へ

私が日本の土を初めて踏んだのは、1985年(昭和60年)9月、「第8回肉親捜し」の時でした。厚生省に書類を提出してから、6年後のことです。この頃には、もう周囲にも知られていたので、どうしても日本の自分の故郷、家族を探したいという気持ちが強くなっていました。日本がどんな国になっているか、全然わからない、でも、家族に会いたい。強く願っていました。
ただ、本当に身元が判明するか、不安は大きかったです。残留孤児の中では、私は一番小さい。なんの記憶もないし、証拠の物もない。こちらにあるのは、私を引き取った日時と場所についてのお父さんの記憶、その資料だけ。

日本に来て、新聞報道もされ、テレビにも出ました。そして、すぐに身元は判明しました。私の資料と日本のおばさんが厚生省に提出した資料とが一致したのです。
私の日本のおばさん、山本芳子さんは、私の実母の兄の妻で、母とは従姉妹同士。このおばさんも、私の家族と一緒に江川崎開拓団として、夫や子どもたちと満州に渡っていたのです。

 中野3−1.jpg 永住帰国時、山本のおばさんと関西空港で

私が初めて山本のおばさんと会ったときのことは昨日のように覚えています。おばさん、なんかおかしい。私を見たら、すぐ涙がボロボロボロ。泣いていた。私の手元に厚生省からの資料が一冊ある。厚い資料を開けると、お父さん、お母さん、そして、お兄さんの写真とかが入っている。他にも、いろいろ書いてある。私の方には、中国から持って来た資料や写真が入っている。

おばさんから「どーう?あんたの親戚と認める?」って訊かれた。私、日本語わからない。通訳の人がそれを通訳する。資料を見ても、どうしていいかわからない。「わかりません」と言うしかない。私にはなんの記憶もないし、この資料も養父の記憶だけ。この人たちが自分の親戚かどうか、・・全然わからない。
私は言いました。「私にはわかりません。おばさんから私のこと見て、考えて、言ってください。それが一番正しいと思います」。

通訳の人がそれを通訳しました。資料の中の写真を見たら、なぜか私もすぐ涙が出て、泣いて泣いて、全然涙止まらなくなった。自分でもどうしてかわかりません。自然に涙が出ました。
おばさんは「この子、乙女(とめ)の娘に間違いない」そう言って、大きく頷いた。私にはわからなくても、おばさんは確信したみたい。東京に私の従姉妹が二人いて、そのお姉さんは私ととても似ている。お姉さんの顔と私を比べたらねぇ、本当に似ていて、親戚とわかる。

中国のお母さん!日本のお母さん!

山本おばさんは、撫順市の発電所の2階で養父に私を渡したときのことをちゃんと覚えていて、話してくれました。養父は、発電所の2階で私の両親に会っている。その部屋は人がいっぱいで、誰と誰が一緒の家族か全然わからないくらい混雑していた。子どもをもらいに来た中国人の男女がいて、私のお母さん、私をその男に手渡した。おばさんは夫婦二人で来たと思っていたよ。養父の継母は養父より4つしか上じゃないから勘違いしていた。言葉もわからなかったから。

家族や親戚のこと、そのときはっきりわかりました。私の家族、みんな亡くなっていました。お母さんと二人の兄さんは収容所で。お父さんは、帰国して3年目に病死したって。会いたかった家族が、みんな亡くなっている。本当に悔しかったです。ずっとずっと会いたかったですから。
東京で身元が判明してから、高知県の江川崎の故郷に帰り、3日間過ごしました。それから、また東京に戻り、中国に帰りました。ほんの2週間の日本滞在でした。

私が日本に永住帰国したのは、その3年後のことです。日本に帰る前に、私は養父に自分が貯めた5百元を送りました。当時は、給料が安い。私の給料は毎月何十元くらいよ。5百元は、お父さんにとったら大金と考えて、『このお金、私が精いっぱい貯めました。自分でなにか好きなことに遣ってください』って手紙を添えました。お父さんは嬉しくて、あちこちに話をしたそうです。「私の日本の娘が送ってきた。こんな大金、見たことない」って。

永住帰国してから、私は中国の養父母への感謝の扶養費代を申請しました。もし、お母さん生きていたら、もちろんお母さんに出したい。でも、お母さん早く亡くなったから、お父さんに出しました。
お父さんが私をもらってくれた。そのことは私の心の中でとても大切なことです。日本のお母さんの手から中国のお母さんの手へ。二人の手がつながって、私を渡してくれた。

中国のお母さんは本当に優しい人。私は日本人の子で、あの戦争直後の中国人にとっては敵の国の子ども。その敵の国の子どもをどんな辛いときも悲しいときも手を離さず、大事に大事に育ててくれた。もし反対だったら、どうかと、この問題も繰り返し考えている。日本人の場合は敵の国の子ども育ててやることができるかなぁ?

一方で、日本のお母さん・・。自分の命の火すら消えそうになって、知らない中国人に我が子を手渡すしかなかったお母さん。どんな気持ちだったの?辛かったよね、悲しかったよね。

     中野6−1.jpg 母、中野乙女(19歳の頃)  

中国撫順市は、私が二人のお母さんといた特別な場所。そこでの暮らしは、二人のお母さんに始まり、支えられ、終わりました。でも、その終わりは、今の日本での生活の始まり。そう、ここで、私の中国での暮らしは終わり、そして、日本での暮らしが始まったんです。

今、私は高知市で家族に恵まれ、元気に暮らしています。

二人のお母さん、本当にありがとうございました。

   中野さん1.jpg 中野ミツヨさん(令和3年6月12日撮影)    


あ と が き

中野ミツヨさんは、リズムのある明るい話しぶりの方です。お話の内容もしっかり構成されたわかりやすいもので、これまでも小学校などで講演されていらっしゃるとのことでした。また、ミツヨさんの帰国までの足跡は、津沼書院発行の『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)』にも詳細に記されています。ですので、この冊子はミツヨさんご本人のためにという思いで、語りの中の心の声を拾うことに努め、思い出の中の一つひとつのエピソードを大切に書き留めるようにしました。

ミツヨさんには二つの誕生日があります。中国で暮らしていた時は、養父母の実子が生まれた9月6日が彼女の誕生日とされてきましたが、実父の書き物には9月4日誕生と記されているそうです。戦争の影の残る時代に多くの苦難を乗り越えられたお話を伺いながら、人はどうしてこれほどの困難を乗り切れるのか、頑張れるのかと考えました。そして、日本のお母さんから生き抜くための賢さや粘り強さを、中国のお母さんから、どんな時も「この人のために頑張ろう」と思える絆をしっかり授かったミツヨさんのしなやかな強さに思い至りました。どんな困難も自分の力に換えて生きていく道もあるのだと、この冊子を読まれた方にお伝えできれば幸いです。

オーテピア高知図書館の八田裕子さん、高知県中国帰国者就労生活相談室の森洋子さんを通してミツヨさんと知り合うことができました。お二人に心よりお礼申し上げます。特に、森さんには戦中戦後の中国に関して教えていただくなど様々にお世話になりました。ありがとうございました。

さらに、この物語の最初の読者となり、6枚の挿絵を描いてくださった岡内富夫さん、お陰様で、中国での日々が鮮やかに蘇りました。また、私の孫の曼荼羅の塗り絵も利用して、陰影のある表紙にすることができました。衷心より敬意と感謝を表します。

                                     ききがきすと  鶴岡 香代

    母子.jpg                


  

        

     


                                                                                              





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