2023年09月02日

戦場に立つ開拓団少女


戦場に立つ開拓団少女


       小原茂(おはらしげ)さん



うちは六人家族


 小原(おはら)茂(しげ)と申します。昭和8年2月15日に、父小原亀(かめ)治(じ)と母春(はる)恵(え)の長女として生まれました。国(くに)助(すけ)と言う6つ上の兄がいましたが、年が離れていたせいか、一緒に遊んだ記憶はあまりないですね。

満州に渡るまで住んでいたのは、高知県東部の町、安芸市の僧津(そうづ)です。母に手を引かれて、再々山へ行ったことを覚えています。手前に大きな池があったような。山で枯れ枝を拾うと、母がそれをこのくらいの小さな束にして私の背に負わせてくれた・・そんなことを覚えています。

2つ下に妹初子(はつこ)、5つ下に弟康夫(やすお)が生まれ、うちは6人家族になりました。父は九州に居る母の親戚のところへ出稼ぎに行っていたようで、あまり家に居なかったですね。母が一人で子ども4人の面倒をみていました。

兄と学校に行くようになると、毎朝母がご飯を炊いて、一人に一椀くれました。でも、おかずがない。ほんの少しおじゃこを買うてあって、それをご飯を炊いた後の火で炒って、それでご飯を食べました。あの頃は、ほら、みんなぁ、似たり寄ったり。貧乏が珍しい時代じゃなかったでしょう。中でも、うちはうんと貧乏やったようにも思うけど。

 

小原茂さん(R4.5.18撮影)

歓呼の声に送られて


その僧津から満州へ家族揃って出立したのは、私が小学2年生になろうという春のことでした。だから、そのときの様子は記憶しています。安芸の駅までは、近所の人やら親戚やら、一人ひとりは覚えてないけれど、たくさんの見送りがありました。それはよーく覚えている。駅のホームでみんな、私たちが汽車に乗るまで送ってくれた。そこに立ったまま、私らが見えなくなるまで、手を振り続けてくれた。私はそれを窓からずっと見ていた。なぜか今でもはっきりと覚えている。兄が14歳、私は8歳、妹は6歳。弟はまだ3歳でした。

九州から朝鮮に渡り、朝鮮でまた汽車に乗りました。私たちの汽車に乗り込んできた朝鮮の人がリンゴを籠いっぱい持っていて、私らみんなに一個ずつくれました。真っ赤なリンゴ。南国生まれの私にはリンゴが珍しくて、とても嬉しかった。あの赤い色。今も忘れられません。


柞木台開拓団協和郷に着いて


目指す北満州の千振の開拓団まで、私たちは毎日毎日汽車に乗って揺られ続けました。そうしてやっとソ連国境にほど近い『北満州三(さん)江(こう)省樺川(かせん)県千振(ちぶり)街柞(さく)木(もく)台(だい)開拓団協和(きょうわ)郷(ごう)』に辿り着いたのでした。冬は零下35度にもなる極寒の地でした。

はじめは二家族が一軒の家に入れられ、たいへんでした。そのうち開拓団の団地が建ち、うちにも大きな家が割り当てられました。団地は3列になっていて、うちは真ん中の列の東から2番目。同級生の横山知子さんの家が前の列の一番東で、すぐ近所でした。後ろの列には家が少なかったように思います。団地には安芸から来た人が集まっていましたね。


遠い千振の学校まで


柞木台協和郷は、千振の汽車の駅からは本当に遠かったですよ。しかも駅まで乗り物はなくて、歩くしかない。初めは近くに学校もなくて、子どもたちは千振の街の学校に入りました。月曜日に学校に行き、土曜日に家に帰る。家から離れて寮で暮らす子どもたちのために、開拓団のお母さんたちが交代で来て、炊事や洗濯をしてくれました。

私、母の記憶はあまりないんです。満州に渡った明くる年に36歳の若さで亡くなりましたから。だけど、母が寮へ来てご飯をつくってくれたことは覚えています。重篤の母を父は遠い佳木斯(じゃむす)の病院まで連れて行きました。でも手当のかいなく亡くなったんです。その後は、横山さんのお母さんが寮へ来てくれたのを覚えています。

兄はすぐ卒業したので、千振の学校には、ほとんど私一人で行かなくてはなりませんでした。一人が淋しくて、私はよう泣きましたよ。行くときはいいんです。起きて、ご飯を食べたら、開拓団の友達みんなと一緒だから。土曜日に学校が終わると、私は遅くまでみなを待つことができず、長い道のりを一人で帰る。段々と日が暮れていく。あの頃は通りに笛を吹きながら行く中国の盲目の人がいて、すれ違うと何か恐ろしく、泣きながら帰ったものです。

千振まで2年くらい通ったかなぁ。その後、近くに満人の家に手を入れた急ごしらえの学校ができて、そこに通っていました。


開拓団に学校ができた


 しばらくすると、うちの開拓団にも、やっと学校ができました。柞木台在満国民小学校。立派なレンガ造りの建物で、入り口に校名を書いた看板が立っている。一つの板には『柞木台』、もう一つの長い板には『在満国民小学校』と書かれていて、子ども心に誇らしく思いました。その看板は今でも目に浮かびます。

その新しい学校に私は妹と一緒に通いました。友達や妹と勉強したり遊んだり。でも、弟は入学したのが、終戦のあの年のことでしたから、勉強はほとんどできなかったと思います。

学校へは何を着て行ったかなぁ。食べるものでは苦労することはなかったけど、着るものは配給のものしかなかった。寒いところなので、冬は綿入れの上着に綿入れのズボン。母がいなかったから、着た切り雀で・・。おかしいけど仕方ない。特に弟はずーっと同じのを着ちょったなぁ。最後に中国の人にもらわれていくときも、擦り切れて薄うなった上着とズボンやった。ほら、配給ものはどれもミシンでざっと縫うたものやきねぇ。         

父と子ども4人の暮らし


 母が亡くなって、子ども4人を連れた父の暮らしは、たいへんだったろうと思います。でも、私は学校から帰ると近所の友達と外でずっと遊んで、家の仕事や炊事を手伝うことはあまりなかったんです。兄は学校を卒業すると、父と百姓しながら、私らの面倒もみてくれました。怒るような人じゃなかったけど、私は遊んでばかりで言うこときかんでしょう。だから、時には叱られることもありました。

3度の食事は父が作ってくれたけど、作れるおかず言うたら煮物だけ。大根や人参やら、うちの畑で穫れる野菜の煮物。開拓団での仕事は、田畑を耕し家畜を飼うことだから、田んぼも畑もあって、秋にはたくさん収穫していました。米はたくさんあったし、野菜も何でも作っていたから、食べるものに困ることはなかったね。

でも、北満州は、とにかく寒い。秋が来たら大根もジャガイモも凍る。凍ってしまう。浅い穴を掘って、まずはそこへ置く。もっと寒い冬になれば、牛小屋へ移す。牛も2頭おったのよ。子牛も何頭か生まれて、豚も何頭もおったねぇ。初めは馬も。家ごとに馬をくれていたけど、後から軍隊にやろうか、取られてしもうて、それで、牛に替えたわね。牛を飼いよったねぇ。

鶏もいっぱいおったよ。鶏小屋は、開拓団が構えてくれた外の便所だったとこ。父は器用やったから、便所を別の場所に作って、使わなくなった外便所を鶏小屋にしていました。

だけど、卵や肉を食べた記憶はないんです。食べたのかなぁ。母が生きていたら、いろんな料理ができたろうけど、父は煮物ばっかり。食べ方を知らなかったのかもしれません。でも、味噌汁はありました。大きな鍋に野菜がいっぱいの味噌汁。

         鉛筆が.jpg 仕事のために苦力(くーりー)言うて、中国人の老人を一人雇っていました。毎朝、自分の家から来て、仕事をする。夕方になったら自分の家に帰り、また、翌朝来る。だから、うちで一緒にご飯を食べるようなことはなかったです。


終戦の年に兄も父も召集されて


 お正月言うても特別なことした思い出はないんです。ただ、餅つきはしました。うちの西隣に曽我さんって言うたか、そこにおばあちゃんがおってね。そのおばあちゃんに父が頼んで、お餅を作ってもろうた。父は搗くことはできても、餅にはようせん。だから、おばあちゃんが来て作ってくれた。父も兄弟も、みんなぁ揃って食べたことでした。

      でも、あの終戦の年には、お正月なんてなかった。餅つきもなく、何にもなかった・・。戦争がひどくなったせいか、普通の日と一緒やったような気がします。

兄国助、牡丹江の軍隊で

年の春先、18歳になった兄に赤紙が来て、すぐ入隊となりました。そして、その数ヶ月後の7月31日に戦病死したと知らせを受け、父が遺骨を引き取りに行きました。日本でするように家にお祀りして、家族だけで祈ったことを覚えています。

それからほんの10日ばかり後、今度は父に赤紙が来たんです。頼りの長男を亡くし、大きな家に母のない3人の子どもだけを残して戦地に向かわねばならなかった父。その胸の内は、どんなだったでしょう。

私たちも父との別れが辛くて、不安で、悲しくて・・ただただ姉弟で抱き合って泣くことしかできません。私が12歳で、妹は10歳、弟はまだ7歳。その3人の泣き声を背中で聞きながら、父は出て行きました。私たちから目を逸らしながら、手を振る父の姿は今も目に焼き付いています。終戦直前の8月10日の昼過ぎのことです。それが父との永遠の別れとなりました。

日本が戦争に負けた!!


子ども3人だけになった、その夜。同級生の横山知子さんが2つ上のお姉さんの操さんと二人でうちへ泊りに来てくれました。私ら姉弟3人は父の居ない心細さをその二人に慰められ、子どもらばかりの一夜がなんとか明けて行きました。

朝早く、誰かがガラス戸を叩いています。「茂ちゃん、茂ちゃん。早う起きなさい」って言う声も聞こえる。驚いて目を覚まして見ると、知子さんとこのおばちゃんです。飛び起きた私におばちゃんは「茂ちゃん、すぐみんなを起こしなさい。起こして、みんなぁでうちへ来るんよ」と言います。さらに、おばちゃんは「日本が戦争に負けたって。だから、みんなぁで日本へ帰るんよ。おばちゃんちへ早う来てね」と言って、帰って行きました。

私は慌ててみんなの名を呼んで起こし、横山さんの家へ急ぎました。前の列の一番東の端の家。すぐの近所です。家に入ると、中では大きな荷物をいっぱい作っています。いつもと違う状況に驚いて、私はどうしていいかわからず、泣き出しました。

すると、おばちゃんは「茂ちゃん、泣かんとってね。おばちゃんがご飯食べたら、あんたくへ行って荷物つくっちゃるきね。早うご飯食べて」と優しく言うてくれました。私は、そこでご飯をもらい、それからおばちゃんと一緒にうちへ帰りました。


リュックサックを縫う


うちへ入ると、おばちゃんは、「お母さんの箪笥を早う見て。何か生地がないかね?あったら出してきて」って。箪笥を開けると、白い生地がたくさんある。「おばちゃん、白いがはいっぱいあるで」と言うと、「白いがはいかん。黒い生地はないかね?見てみいや」とのこと。他の引き出しを探すと、新品の黒い生地が出てきた。ずっと前に開拓団に配給されて、母が箪笥にしまってあったものがそのまま残っていたんです。

その生地でおばちゃんは、縁側に座ったままリュックサックを縫い始めました。私に一つ、妹に一つ。私も学校でほんの少し裁縫は習ったので、ちょっとは縫うことができました。ミシンはない。おばちゃんを手伝って二人でリュックサックを手縫いして、逃避行用のリックを2つ仕上げました。

おばちゃんに言われて、そのリュックに自分らの着替えを入れました。「針と糸も入れちょきなさいよ。もし、どこかで破れたら使うきね、忘れんように」おばちゃんの言うとおり、私は針と糸を入れ、それからチリ紙もいっぱい入れました。日本人はチリ紙をいっぱい使うきね。四角いがをいっぱい入れて、背負ってねぇ。後から、こんなもん入れてって・・、アホなことをしたと思うたことよ。


逃避行始まる


それが父との涙の別れの翌日、8月11日の朝のことです。飼っていた牛や豚や鶏は、全部そこへ置いていくしかない。家にはお米もいっぱいあったし、キビもね、外の大きな木の箱にいっぱい入ってました。全部捨てて行くしかなかった。

今考えると、父は出征する時にきっと誰かにお金を頼んでいただろうけど、子どもだったからか、お金は一銭も持たされていませんでした。でも、その時は、そんなこと思いもしませんでしたね。


荷物は多いし、子どももいる。開拓団の皆が牛を出して、何台もの牛車を仕立てて、出発しました。幼い弟は牛車に座り、私は妹の手をしっかり握って、住み慣れた家に別れを告げ、なにもわからないまま、みんなと一緒に開拓団を後にしたのです。


 開拓団の男の人たちが相談して、まずは依(い)蘭(らん)県(けん)へ逃げようと決めていました。男の人と言っても開拓団に残った男性は、恒石のおんちゃん、田中のおんちゃんに横山のおんちゃんのわずか3人だけ。18歳から45歳までは兵隊に取られて、若い人はいないんです。だから開拓団は、子どもと、おじいちゃんやおばあちゃんといったお年寄りが多くて、お母さんたちが頑張ってました。うちは母も居ないでしょう。本当に心細かったです。

依蘭県を目指し、まずは汽車に乗ろうと千振の駅へ向かっていると、出会った満人らが、口々に「汽車は止まっている」「どこへも行けない」と言います。駅へ行ってもダメだとわかり、取りあえず車を休ませようと寄った近くの満人の部落で、一晩だったか二晩だったか、泊ることになったと記憶しています。

一行の中に、旦那さんが兵隊に行って、男の子ばかり3人連れた妊婦さんがいました。夜になって、なんとお産が始まり、赤ちゃんが生まれましたよ。よく覚えています。


 いったん我が家に帰るも・・


汽車では南下できないと頭を抱え、男の人たちが相談した結果、「このままでは命が危ない。汽車が無理なら、船しかない。松(しょう)花江(かこう)から船に乗って南へ逃げよう。いったん戻って、再出発だ」となり、私たちは元の開拓団まで引き返しました。

家に帰って、驚きました。なんと、雇っていた満人の苦力が家の中に居て、二人の男がそれぞれ、荷造りの最中だったんです。毛布を敷いて、その中へうちの布団や衣類、その他の家財道具、何か知らんけど全部包んで、大きな荷物を作っていました。横山のおばちゃんが作っていたみたいな大きな荷物。

私は恐ろしくて、もう泣きながら前の横山のおばちゃんの家に飛び込んで、涙声でおばちゃんに言いました。「苦力がうちのものを盗りゆう」と。おばちゃんは私を見て、「もうしようがないね。帰らずに、ここに居て」と言ってくれました。それで、もう家には帰らず、おばちゃんちでお世話になりました。その時、うちのものは何もかも、捨てて、盗られて・・全部なくなったと思い知りました。


依蘭県に向け再び発つ


私たちが依蘭県に向け再び出発したのは、一夜明けて14日の午前中でした。徳島、鳴門、愛媛、協和の4つの郷は出発し、土佐、東予の2郷は集団移動を避けて留まるとのことでした。

まず向かった大平鎮までは丘や谷の道ばかりでした。幼い弟は牛車に乗せてもらえたけど、私は妹の手を引いてずっと歩きました。道は険しいし、この時は雨もよく降って、いたるところで川が増水していました。道か川か見分けもつかないようなありさまの中、難儀しながらの前進でした。

鉛筆が2.jpgその日、私は恒石のおばちゃんとその娘さんと一緒の組になって歩いていました。恒石のおんちゃんは、うちの開拓団の責任者だったので、あの夜にお産をしたお母さんと子どもたちを乗せた牛車を守って、一番後ろを来ていたんです。

飲まず食わずで、すっかり疲れた私たちが道端で少し休んでいると、向こうから鎌を持った二人の満人がやってきました。すれ違い際に「後ろにまだ車があるのか」と訊いたので、私たちは何も思わず、「あります」と答えたんです。

恒石のおばちゃんと娘さんは、後からおんちゃんの車がなかなか来ないので心配になり、「私らぁ親子で迎えに行ってみる」と言うて、道を戻って行きました。行ってみると、車の傍にお父さんが倒れていて、顔も体も血だらけ。私らに車のことを尋ねた満人の二人がおんちゃんを殺して、車からお金やなにやかや全部盗ってしもうたってことでした。

車に乗っていたはずのお産した奥さんと子どもたちの姿は、どこにもない。人が殺されゆうところを見て、恐ろしくて逃げたのか、どこかへ連れて行かれたのか・・。自分らの荷物も何一つ持たず、なにもかも捨ててしもうて・・・。 

あの母子のこと、そして、開拓団の責任者として母子を守ろうとして命を取られた恒石のおんちゃんのことも、私はずっと忘れることができません。


両親の写真まで捨てて


匪賊や銃弾に度々脅かされながらも、先に出発した4つの郷はなんとか大平鎮の近くまで来ていました。早朝から銃撃され、連絡に来た満州警察と話し合っていた開拓団の何人かが拘留され、何時間も止められるということがありました。なんとか出発は許されたのですが、状況は、どんどん難しくなっていきました。

また、荷物を捨てるように命令が出ることもありました。これまでも「みんな、要らん物はできるだけ捨てなさい。牛もたいへんだから」と言われ、少しずつ荷を軽くしてきましたが、この時は皆、泣きながらさらに捨てていました。

私も持っているものをすべて捨てなくてはと思い、親の写真まで一枚残らず捨てました。なぜだか『こんなもの持ってきて』と思ってしまったんです。大事な写真をすべて捨ててしまったことを後では随分後悔したことでした。


苦力に車を盗られる


16日の夕方になってやっと依蘭県に入りました。町に入ろうというところで、雇いの中国人苦力が「車が動かんなった。故障した。ここで直すので、皆さん、持てるだけの荷物を持って、先に行って」と言ったんです。

それまでずっと私たちの荷車を守ってくれた苦力です。「仕方ない、大事なものだけ持って先に行こう」となりました。小さい子どもたちを車から降ろすと、皆、持てるものを持って歩き始めました。

でも、その時の私にはなにもない。初めからお金は持ってないし、親の写真ももうない。何が大事かもわからない。仕方なく、私は妹弟の手を引いて付いて歩き始めていました。

ところが、皆が車から少し離れたあたりで、なんと苦力が牛を追いたて、飛ぶようにその車を持って逃げたんです。アッと言う間の出来事でした。大事なものを全部取られて、皆が道淵で泣くことよ。持ち金全部を身に着けている人はいなかったと思います。皆、車の荷物の中に包んで置いていたそうですから。それも盗られて、ひどい目にあったんです。でも、仕様がない。逃げた苦力に、もう追いつくことはできません。泣いて諦めるしかなかったのでした。


依蘭橋の惨事


その日、私たちがやっと入った町は、何千何百人の難民でたいへんな混雑ぶりでした。北からソ連軍が入ってきて、東北の開拓団の人が皆、南へ南へと逃げ、依蘭県のこの町で一緒になっていましたから。本当にすごい人でした。私たちは木がたくさん植えられた、学校のような施設の広い庭に入り、大きな木の下で一晩を過ごしました。   

そして、あくる日、17日の朝、大勢の人がさらに南を目指して松花江を渡ろうと依蘭橋に向かって歩き出していました。松花江は満州では一番大きくて、川幅も広いんです。難民の長い列が、依蘭橋にさしかかった時、突然、ソ連機が飛んできました。居合わせた兵隊らが「これは、いかん。爆弾で橋がやられる。落ちてしまうぞ」と叫び、「後退!元へ戻れ!」と大声で繰り返します。しかし、橋の上はすでにいっぱいの人。それが皆、戻れと言われ、子どもは泣くは、親は叫ぶはのすごい混乱となりました。


私は妹弟と一緒に橋から100mくらい手前に居たと思います。周りは人、人、

人。人ばかりです。皆、今度は川沿いに南へ走る。走って船に乗り込み、川を渡ろうと、必死です。攻撃は飛行機からだけじゃない。水上にはソ連の軍艦もいる。あちらから、こちらから弾が飛んで来る。周りには匪賊もいて、怖い満人に叩かれる。

そんなひどい目に合いながらも、なんとか逃げて、船がそこに見えるところまで来ました。あの船に乗ればなんとかなると、妹弟の手を引いて走っている時のことです。私と並んで、一人の若い女の人が、背中に二人の子ども負うて走っていました。ピューンと弾が私の頭の真上を飛んだ・・次の瞬間、その女の人がバタンと倒れたんです。

流れ弾に当たり、子どもを背負ったまま倒れて血を流している。大量に流れる真っ赤な血。私はもう恐ろしゅうて、二人の子どもを見ることもできない。私だけじゃない。周囲は人がいっぱい。でも、幼い二人に手を差し出す者はない。みんな自分のことだけで精いっぱい。

私は急いで妹と弟の手を取り直し、船に向かい一目散に走りました。その時の私には「弾が当たらんかって、良かった」という思いしかなかったんです。「お母さんが私を助けてくれた」と。ただ恐ろしかった。頭の上を、耳の傍を弾がピュンピュン飛ぶんです。できることなら目を覆いたい。戦場と同じです。怖れ慄きながら、私は妹弟を連れ、その場からただただ逃げたのでした。


山を逃げる


なんとか船に乗り、向う岸へ渡りました。それからが、また、たいへんです。道から外れて、道なき道を行くんです。畑の中をあちこちしながら、山の上の方へ逃げました。留まることはできない。みんな必死です。開拓団にいた大勢の人たちが、皆、南へ南へと逃げる。日本へ帰ろうと。日本に帰りたいと。

山の中を逃げていた、ある朝のこと、道端で休んでいると、突然、弾が飛んできました。川竹さんの次男坊の巧ちゃんが、その弾に当たって、左足の指が二本吹き飛ばされました。功ちゃんは痛くて泣くし、お母さんは驚いて叫び、大騒ぎになりました。消毒も薬もない中で、包帯だけはあったのか、お母さんが何とかそれで手当しました。それからは、お母さんが功ちゃんを背負って逃げていました。

暑い夏のことです。包帯をお母さんが外した時に、傷口に白い虫が湧いているのが見えました。『痛いろう。恐いろう』と気の毒でたまりません。開拓団の逃避行にはお医者さんなんかいません。薬もない。なにもないんです。川竹のおんちゃんは、うちの父と一緒に兵隊に取られたきね。あの子のお母さんが、うんと苦労したわねぇ。


 雨がよく降りました。山道がぬかるみ、歩くのが辛くなる。子どもや年寄りは、足が止まる。でも、皆の列から遅れると、道端にそのまま置いて行かれます。だから、親も子も必死です。叱咤する親の声、子どもの泣き声。私は妹弟を連れて皆に付いて行くのに必死でした。

空腹も辛かったですよ。畑があれば、生のキビや大根、ニンジンなどを盗って食べる。水があれば、汚くても小さな虫がいても目を閉じて飲む。死にたい気持ちになったことも一度や二度ではありませんでした。


山中に日本軍の野営跡がありました。中にはお米や漬物など食べ物がある。でも、弾がピュンピュン飛んで来る。テントの前の道には若い女の人が倒れています。流れ弾に当たって、血だまりの中に仰向けに倒れています。息絶えたように見えました。

傍らに幼い二人の子どもがいて、その女の人の服を引っ張り、乳を引っ張りして、口へ持って行こうとしています。乳を飲みたかったんですよ。小さな子だからね。「母ちゃん、母ちゃん」言うて、泣きもってねぇ。

皆それを見ても、「かわいそう」と言いながら、通り過ぎていくだけ。二人の幼子を助けようとする人は誰もいません。あの二人の泣く声が、乳を求める指や口が、今も頭から離れません。眠れぬ夜には、あの後二人がどうなったのか、優しい中国人に助けられていたらいいなとか、いろいろと思うのです。

テントに入って何か食べたか、って?いやぁ、そんな恐ろしいところに、私らぁ、入ることはできません。もちろん何一つ口にすることはなかったですよ。


命がけの濁流渡り


再び河に出ました。松花江の支川でしたが、大雨の後で流れも速く、向こう岸を遠く感じました。濁った水が渦巻いています。渡るための船もありません。こちら岸の木から向こう岸の木に一本の針金を渡して括り付け、一人ひとり、それを握って渡るのです。

 たった一本の針金を命綱に大勢の人が行列をつくって次々と濁流に入って行きました。中には手が外れて「助けて、助けて」と叫びながら流れに吞まれる人もいます。それを見て、子どもらは恐ろしくて泣き叫んでいます。

 開拓団のお父さんは兵隊に取られ、お母さんが子どもや年寄りを連れているんです。大きな子どものいない家のお母さんは、幼子を抱えて濁流を前に途方にくれ、中には思い余って子どもを水中に投げる者もいました。しゃべれる年齢の子どもは「母ちゃん、捨てんとって、投げんとって」って。でも、お母さんも何人もの子どもを連れては渡れませんから。何十人の人がここで命を落としたでしょう。たまりかねて母親が子どもの後を追って流されるのも見ました。


私もおっかなびっくり渡り始めました。針金を掴み、一歩一歩。なんとか岸に近づいたところで、突然、波がざぶんと来て、手が針金から外れ、一瞬で水中に引き込まれました。先に渡って後の者を岸に引き上げてくれていた田中のおんちゃんが、一度沈んで再浮上してきた私に、大きな声で「茂ちゃん、早う手を上げて!沈んだらいかんよ!」って叫んでくれたんです。そして、水面に上げた私の手を力いっぱい引っ張ってくれました。田中のおんちゃんは、太い人で背も高く、手も長い。どっちの手やったか、上げた私の手を千切れるばぁ引っ張って、岸へ上げてくれました。その時は痛いこともわからない。私が岸に上がると、妹も付いて上がってきて、二人とも命拾いしました。

岸でしばらく弟を待ちました。弟は、木を繋いでつくった小さな筏に乗せてもらって、なんとか渡ることができました。私は田中のおんちゃんに命を救ってもらった。おんちゃんがいなければ、私はあそこで終わっていたと思います。私だけでなく、妹も弟も、開拓団の皆様のお陰で助かったんです。心から感謝しています。


美味しかったご飯


河を渡ると、また集団での逃避行です。ソ連兵も怖い、中国人も怖い。道を外れて歩いていくと、20軒くらいの小さな部落に入りました。家はあるのに、人はほとんど見かけません。特に女や子どもは一人もいない。日本人が大勢で逃げてくるのを恐れて、この部落では男の人をほんの数人だけ守りに残し、皆どこかに隠れたようでした。

私たちは、その部落で一晩泊ることになりました。そこで、お米を炊いて、白いご飯をみんなで食べました。逃避行が始まって以来、初めて食べたご飯の美味しかったこと。夏のことなら野菜は畑にいっぱい。キュウリやナスがいっぱいありました。もちろん他人(ひと)のお米や野菜です。どこでどう手に入れたものか私にはわかりません。でも、そこで家を出てから初めてお腹を満たし、ゆっくり休んだことを覚えています。


翌日、また山に入りましたが、どんなに歩いても道がわからず、同じところをグルグルグルグル回って、夕方また元の部落に帰ってきてしまいました。翌日、満人の道案内を得て、やっと部落のある山から出ることができました。

それからも逃避行はまだまだ続きます。道のない山の中を逃げていると、ソ連の車が来ました。鉄砲持ったソ連の兵隊がたくさん乗っていました。ロシア語で何か言うけれど、私らにはわかりません。私たちはコーリャン畑に隠れましたが、お年寄りの中には「ここで死ぬなら、それも

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いい」って、道淵に立ったままの人もいました。逃げるのもたいへんで嫌になったのでしょう。

そのうち弟は足が痛くて歩けなくなりました。皆に置いて行かれることが怖くて、私は妹だけを連れて歩き出しました。後ろから弟の泣き声が「お姉ちゃん、置いて行かんで。連れて行って」と私を追いかけてきます。それでも歩いていると、亡き母が「茂、お前以外の誰が弟の面倒を見る?妹と弟の二人をしっかり連れていかんで、どうする!」と叱る声が聞こえたような気がしました。結局、妹と泣きながら引き返し、弟の手を取っていました。その後、前を行く皆になんとか追いつくことができました。

方正県で収容所に入る


空腹を抱えての山河越えの後、8月末に、やっと方正県まで辿りつきました。私たち同様に日本に帰ろうとたくさんの人がここに集まっています。しかし、ソ連軍に阻まれ、方正の街には入れません。

街の東の高い丘に日本軍の居住跡があり、そこには毛布や鉄兜、靴下、雨靴、冬の暖かな靴など、様々なものが山積みされていました。日本人の兵隊が来て、「自分で持てるだけ持って行きなさい」とみんなに言いました。誰もができるだけたくさん持って行きました。

でも、私には、どれも重い。幼い弟妹の手を引き、歩いて付いていくだけがようようの私には、何も持てない。誰かに「夜どこで泊まることになるかわからん。これを一枚でも持って行きなさい」と言われて、毛布を一枚だけもらいました。寒い夜に必要かと思ったのです。

結局、私たちは方正の街には入れず、方正県の東の伊漢通(いかんつう)の倉庫のようなとこに落ち着きました。そこは日本人難民の収容所で、中国の人が「ここは沖縄の人たちの開拓団だった」と教えてくれました。いつまでここに居るんだろう。お父さんには会えるんだろうか。いつになれば日本に帰れるんだろう。不安だけがどんどん膨らみました。

私たちの団は東の端にある二つの大きな倉庫に分かれて入ることになりましたが、そこでの苦労も、また、一とおりではありません。倉庫の土の床に敷くものは何もない。あるのは、筵(むしろ)、お米を入れるあの編んだ筵だけです。それを開いて敷布団にしました。

倉庫の中は、外よりいくらかましという程度で、秋になると、夜の寒さが一段と厳しくなりました。とても眠ることはできません。横山のおばさんが「このままでは、寒くて冬越えできんよ。この毛布でズボンを縫いなさい」と言ってくれました。それで、私は持ってきた毛布で三人のズボンを縫いました。妹に一枚、弟に一枚、私に一枚。すると、今度は掛ける布団がありません。仕方なく筵を被って、弟妹と寄り添うように寝たことでした。

衣類も夜具もない。食料もない。そこにはお年寄りがまだたくさんいましたので、10月になると、飢えや栄養失調などで毎日のように人が亡くなりました。11月になり寒さが一段と厳しくなると、凍死する人も出るようになりました。大きな穴を掘って、その中へ亡くなった人を捨てるように埋けているのを見ました。亡くなった人を祀るどころか、並べる場所さえなかったんです。

神様からの贈り物


弟の指に出来物ができて、爪が落ちたことがありました。その頃には、収容所にも簡易の診療所ができて、日本の軍医さんが診てくれました。お金は要らない。只で診てくれたんです。それで私、弟を連れてそこへ行って治療してもらいました。

ある日、治療を終えて診療所から出ると、目の前に財布が一つ落ちてるんです。周りには誰もいません。目の前の財布。これは神様が置いてくれたとしか思えませんでした。拾って開けてみると、十円札が一枚入っています。

私にはお金はありません。一銭も持たされてなかったんです。最初は収容所でもお米の配給が少しありましたが、すぐに皮がまだ残ったコーリャンに替わりました。それを炊いて食べると本当に渋いんです。それでも食べないとひもじい。配給のものはどんなものでも食べました。

そんな時の十円。神様の恵みです。食べ物を買えるところはあったんです。日本の難民がたくさんいるので、中国の人が売りに来るんです。日曜市みたいなところ。遠くから売りに来る人もいましたよ。美味しいものいっぱい持ってね。ふかふかの中華まん、今はスーパーでも売りゆうでしょう?それから、トウモロコシの粉を蒸したファゴウや、白い豆の粉を蒸したチェゴウ。鍋の中で膨らんでフワフワに蒸しあがっているのを切り分けて売ってくれるんです。蒸しパンや餅に似て、本当に美味しかった。お金のある人は、買うて食べているけど、私には買えなかった。でも、あの10円で、私ら3人が何日か食べることができました。

収容所の中には中国人のところへ働きに行く人もいました。若い女の人たちは、働いてお金をもらっていました。子どもや親のためにね。配給だけでは、全然足りないから。働いて、そこで残ったご飯やおかずを貰ってくる人もいました。


ある寒い日の真夜中に


 横山のおばさんは、いつも私ら3人を気遣って、何かと声をかけてくれました。おじさんは45歳を超えていたのか、兵隊には行かず、家族と一緒にいましたよ。でもある寒い夜、たいへんなことが起こりました。突然、中国の国民党の人らが私たちの倉庫に入ってきて、鉄砲で脅しながら横山さんの4番目の娘さん、操ちゃんを無理やり外へ連れ出そうとしたんです。

真夜中のことで、操ちゃんは「行かんきね」と泣き叫び、おじさんは娘を中へ引き戻そうと必死です。操ちゃんが「お父さん、早く殺して!私は行かない。殺して!」と泣いて訴える。お父さんは娘を引っ張る。あちらの兵隊は諦めずに、さらに外へと引っ張る。

みんな目は覚めているのに、操ちゃんやおじさんを助けようとする人はいません。誰も声一つ上げないんです。最後には、兵隊が天井向けて二発拳銃を撃って、出て行きました。それで、操ちゃんは何とか助かりました。操ちゃんが北の入り口から一番外側に、私は、そのすぐ横の列に寝ていましたから、全部目にしたんです。


そんなことがあった後、おじさんは重い病に倒れて、亡くなりました。後を追うように長女の初さん、初さんの子どもさんと、横山家では3人が次々に急逝するという不幸に見舞われました。

春に別れる

家族.jpg

横 山 家 の 皆 さ ん

(おばさんは上の左端、知子さんは下の中央)

収容所に子どもをもらいに来たり、お嫁さんを探しに来る中国人がいました。ろくに食べることもできず、日本へ帰る目途も立たない暮らしの中で、皆と別れて中国人と一緒に出ていく人も多かったんです。

お金のある日本人は、なんとしてでも帰ろうと、ハルピンを目指して収容所を出ていきました。ハルピンまで行けば、なんとかして日本に帰れる。ただ、ハルピンまでは車もなく歩いて行くしかないんです。たいへんな苦労です。でも、横山のおばさんは、娘を収容所に置くのが怖くて、次女と四女の二人を先にハルピンに発たせ、二人の娘と末の息子と四人で残っていました。

4月になり、ようよう方正にも遅い春が来た、ある日のこと。横山のおばさんが「おばちゃん、茂ちゃんに話があるんよ」と、部屋にいた私を炊事場に呼びました。そして、言ったんです。「うちも、お父さんが亡くなったでしょう。生きていれば、私たちが日本へ帰るとき、何としてでも、茂ちゃんたち姉弟3人も連れて帰る。けど、おばちゃん一人では、その力もお金もない」と・・。その先は聞かなくても、おばさんの言いたいことがわかりました。

おばさんは一息ついて続けました。「おばちゃんだけで、うちの3人を連れて帰らないかんのよ。そのお金もない。中国の人が毎日子どもをもらいに来よるの、知ってるよね?あんたらぁも、ここにおっても食べ物がないきね、中国の人に助けてもらいなさい。おばちゃんが日本に帰れてお父さんに会えたら、迎えに来るように必ず話すから。それまで、とにかく頑張って欲しい。生きていて欲しい」

泣き崩れる私をおばさんは胸に抱きしめてくれました。そのおばさんの目にも涙が溢れています。おばさんも辛かったんです。二人で抱き合って、しばらく涙にくれました。その時のおばさんの胸の柔らかな温もりを私は一生忘れることはありません。

昭和21年4月、こうして私たち姉弟3人は中国の人にもらわれて行くことになり、数日後、中国人のおじさんが牛車で迎えに来ました。川竹のおばさんとその息子二人と姪一人の家族4人に、恒石のお姉さんも一緒です。8人が、皆に泣きながら別れを告げました。行先は誰も知りません。悲しみと不安に胸が押しつぶされそうで、誰の目にも涙が溢れていました。


夕方やっと方正県の隣の延寿(えんじゅ)県にある加信(かしん)鎮(ちん)という小さな田舎町に着きました。大勢の人が私たちを待っていて、それぞれの引き取られる家が決まっていきます。なすすべもなく、私は妹弟と泣く泣く別れるしかありませんでした。

私たちを収容所に迎えにきたおじさんは世話役で、私たちは中国人から中国人へと品物のように売買されたのでした。でも、そのことを知ったのは、ずっと後になってからのこと。このときの私は、何もわからず、運命の波にただ飲み込まれるだけでした。


妹弟とも別れて


妹と弟は子どものない夫婦に一緒に引き取られましたが、そこのお父さんは間もなく弟を遠い田舎の方へまた売ってしまいました。だから、妹と弟も、結局は別れ別れになりました。お金で人をやり取りすることが、当時は当たり前のように行われていたんです。

それでも、妹は夫婦に娘として大切にされ、幸せに暮らしたようです。妹の家の近くにいたころは、遊んでいる妹を見かけることもありましたが、中国語のできない私は、周りの目も気になって、声をかけることはできませんでした。

その後、妹は病気になり手を尽くしても治らず、16歳で亡くなりました。後で、お父さんが私を訪ねて来て、妹の死を知らせてくれました。「お金をつかって、できる治療はすべてした。でも、治すことができなくて。残念でならない」って話してくれました。お父さんは妹を本当の娘のように思ってくれていたと思います。

妹にも弟にも、別れてから会いに行くことは一度もできませんでした。それっきり・・。言葉も地理もわからず、人も知らない。たとえ近所でも、出歩くことは難しかったんです。だから、遠いところにやられてからの弟の消息は、まったくわからず、病気で亡くなったことを何年も経ってから聞かされました。まだ27歳の若さでした。


その後、私も転々とし、3度目に売られた家で、結婚することになりました。私は14歳、夫の劉(りゅう)宝庫(ほうこう)は15歳と、若過ぎる夫婦でした。暮らしは貧しく苦労がありましたが、夫との出会いに救われ、2人の息子と3人の娘をもうけました。

帰国の夢叶い、父を想う


二人の娘の病死など辛いこと哀しいこともありましたが、その都度、主人と一緒に乗り越え、いつかは日本に帰りたいとの思いをずっと持ち続けていました。長い年月をじっと待ち続け、友人である川竹さんのお陰で高知の身内のことがわかりました。そして、昭和51年の第2次訪日調査団のお陰で「一時帰国」がやっと許されました。でも、帰ってみると会いたいと夢見ていた父はすでに病死していて、墓前であいさつするしかありませんでした。幼い日を過ごした安芸市で私は親族の皆さまにお世話になって、また中国へ戻りました。

 それから再び長い年月を待って、やっと永住許可を得て、平成5年5月28日に私は次男一家3人とともに帰国しました。ここから、皆さまの暖かいご支援やご協力をいただき、私の高知での生活が始まったのでした。

墓参り.jpg

帰国が叶い父の墓参りに

 私の母方の従兄弟に、安芸の市役所に勤務している和田精郎さんという人がいて、帰国した私の世話をうんとしてくれました。その人が父の牡丹江の軍隊に入ってからのことをよう知っていて、私に話してくれました。

父が牡丹江にやっと着いて、兵舎に入り、軍服に着替えた・・その直後に上官から「戦争は終わった。すぐに帰りなさい」と言われたそうです。その時、父はお金は一銭も持ってなかったと言います。遠い道のりをどうやって帰る?帰るまでにした苦労は一とおりじゃなかったと話したようです。

牡丹江から私たちの柞木台開拓団までは本当に遠いんです。汽車に乗るお金がないから、駅の傍で仕事を探して、お金ができたら行けるところまで汽車に乗る。また降りて、仕事を探し、そこで働いて・・。そんな苦労を重ねながら、私ら子どもに会おうと必死で帰ったそうです。

でも、帰ってみたら、空っぽ。家には誰もいない。荷物も何もない。盗られてしまって、何もなかったって。頑張って頑張ってやっと開拓団まで、家まで帰ったのに、子どもたちは誰一人いない。会えないまま。父は何もかも無くし、仕方なく、また駅へと引き帰したって。


父が日本に帰って来たのは、昭和32年か33年と聞きました。たった一人で帰って来たって。終戦から随分経ってますよね。日本へ帰るお金がなくて、こんなに時間がかかったんでしょうね。仕事して、お金ができたら乗り物乗って、無くなったらまた降りて仕事探して、そうして大連から日本へ帰ってきたんでしょう。

「お父さんもたいへんな苦労をしたんだなぁ」と思いました。私らぁに会いたくて、開拓団まで帰ってきてくれたのにね。どんなに無念な気持ちだったでしょうね。私も父には本当に会いたかった。残念でたまりません。


そして、横山のおばさんのこと


 父と同様に、横山のおばさんのこともずっと気にかかっていました。無事に日本に着いただろうか。いつか会える日が来るだろうか、と。だから、帰国して同級生の横山知子さんや操さん、鶴子さんと会うことができたときは、横山のおばさんのことを尋ねました。

私たちと別れた後、おばさんは、先に発った二人の娘が待つハルピンへ向かったそうです。ハルピンに着いて、おばさんは操さんらと会うことができました。でも、おばさんがもう動けないくらい疲れた様子だったので、娘さんらが気遣って、「お母さん、ちょっと待っていてね。何か食べるものを買ってくるから」と、おばさんをそこに休ませて買いに行った・・・その短い間に、おばさんの息がなくなっていたと聞きました。

「ようやっと会えて、何の話もしないうちにねぇ・・」と娘さんらは辛い悲しい話をしてくれました。ハルピンで娘らにやっと会えたのに、おばさんはそこで亡くなっていたって。おばさんに私はうんとお世話になりました。とてもやさしい人で、辛い苦しい時にいつも助けてもらった。今も夜眠れないとき、あの時々のおばちゃんが目の前に出てくるんです。自分の母親みたいに。忘れることはできません。


家族を想い、家族を祀る


今は、こうして日本に帰り、郷里の高知で暮らしています。言葉の問題もあったし、病気がちで思うように仕事もできず、苦労はずっとありました。でも、給付金の新たな制度ができて、今は生活の不安もなくなりました。本当にありがたいことだと思っています。

満州に渡った時は6人家族だったのに、今こうして生きているのは私だけです。よう生きてきたわねぇと、自分でも思うんです。戦争さえなかったらと考えますよ。戦争になって家族がバラバラになり、した苦労は一とおりのものではなかったですから。

亡き母の写真.jpg

ありし日の母

家族を祀ることが今の私の役割です。高知市に来てから、お世話してくださる方がいて、筆山にお墓を構え、安芸からこっちへ連れてきました。とは言っても、中国で亡くなった母や兄や・・お骨は持って帰ることはできませんから、何もないんですけどね。私が足が不自由で墓参りが難しくなったので、今は代りに息子が行ってくれています。

 家ではこうして父と母の遺影を置き、お祀りしています。この母の写真は、大坪の叔母が持っていたものを借りて、私が新たに作りました。叔母は父の妹で、写真の母はとても若いんです。これを見ると、生きてきた、生きているという気持ちになる。もうここで終わりと思うことがいっぱいありましたよ。60の時も、ここまでと思ったのに、もう90に手が届くところまで生きて来た。ずっと母が、若くて亡くなった母が私のことを守ってくれた・・そう思って感謝しています。


あとがき

私の母と同世代の小原茂さん。満州移民という国策がなければ、日本で終戦を迎え、戦後の国難の時代を、ご家族とともに懸命に生きたことでしょう。でも北満州の開拓団の少女は、戦場同様の山中を、弟妹の手を取って逃げ惑わねばなりませんでした。今も夢にうつつに見る悲惨な体験は、辛く苦しいことばかりでした。時に涙ぐみ、苦笑いしながらも、丁寧にしっかり語り伝えてくださった小原さん。本当に、ありがとうございました。

「ウクライナでの戦争を毎日、テレビで観ています。心配して観ています。早く終わるようにと祈りながら観ています」小原さんが、お会いする度におっしゃっていた言葉です。この祈りが冊子を読んでくださる方々に届き、平和への一歩ともなりますように。

最後に、小原さん紹介の労をとり、貴重なアドバイスの数々をくださった中野ミツヨさんと、素敵な挿絵で彩を添えてくださった岡内富夫さんのお二人に、心から感謝申し上げます。

                     ききがきすと 鶴岡香代





       






posted by ききがきすと at 17:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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