2021年06月24日
百寿の今が一番幸せ! 〜娘夫婦と山梨の地に暮らして〜
ききがきすと:豊島道子
編集担当:鶴岡香代
生まれは姫路、若い頃の父は相撲取り
私は大正10年7月5日、姫路の網干(あぼし)に生まれました。今年で百歳になります。
何年か前に主人が亡くなり、一人暮らしに自信がなくなり、娘のいるこの山梨にお世話になっています。今はもう何の心配もなく、水墨画を描いたり、デイサービスにお世話になる毎日です。
父親の実家は、網干でも南部の海のそばで、もともとは船大工の家だったようです。でも、私の父親は相撲が好きで好きで、結局相撲取りになったと聞いています。体が大きく、ハンサムでした。時津風部屋に入ったそうです。「ふんどし担ぎ」とかいうのはやらないで、十両までいったらし
いです。四股名は「大浜」。昔は相撲部屋は関東と関西に分かれていて、関西の方の時津風部屋にいたそうです。子供ができてから関取をやめてし
まったらしいですが。
この写真は、父親が亡くなった後に、追善相撲が営まれた時のものらしいです。私の叔父である父の兄が、主催し行ったみたいです。姫路の小さな町にその時の超人気横綱を二人呼び、追善相撲を開催するなんて、母ともども兄弟で遣り手だったんだと思いますよ。この写真に両横綱のサインでも貰っとけば、お宝になったのにね。
当時の化粧まわしをずっと大切に置いていたのを、つい最近、甥っ子が処分してしまったそうです。お見せできなくて残念。
時の両横綱 双葉山と羽黒山
実家は料亭、やさしかった兄
相撲取りをやめた後に、両親二人で料亭を始めて、そこの中庭でいとこ達と撮った写真が次頁のものです。一階には中庭をぐるりと取り巻くように八室ほどの部屋がありましたね。
お兄ちゃんと二人でいつもその一室で朝ごはんを食べて、学校へ行ってました。両親が遅くまで働いているので、朝はお兄ちゃんが世話してくれていました。時間割のこととか、帯紐を結んでくれたりと。その頃はまだ着物で学校へ通っていた時代です。でも、料亭をやっていたからか派手な家だったので、たまに洋服で行くこともありました。兄は本当にやさしい人でした。
朝起きると、何かしらは用意してあるのを二人で食べて学校に行ってました。枕元にシュークリームなんかの珍しいお菓子が置かれていたことも。夜のご飯は父親が作ってくれていた記憶があります。今考えるとチャンコで鍛えられたからかも知れませんね。
住み込みの仲居さんが二人ほどいましたが、私たち子供の世話は一切してくれませんでした。でも、その頃は特にさびしいとか思ったことはなかったです。
その料亭はほとんど母親が切り盛りしていました。料亭とは別に、父親が道楽で始めた芝居小屋もありました。父親が50歳で亡くなってからも、赤字だったその芝居小屋をたたむわけにもいかず、母は一人で続けて、さらには建て直して大きくしたんですよ。芝居小屋といってもそれなりにきちんとした舞台があって、大衆娯楽の場となっていたのよね。でも結局、戦争で閉めてしまいました。
料亭の方も、戦争が始まると材料の調達とかが難しくなり、結局止めざるを得なくなりましたね。
神戸の料亭で行儀見習い
私は結婚して東京に出てきましたが、それまで何をしてたかというと、尋常小学校へ6年、高等小学校へ2年と通った後、女学校の受験には落ちて、専門学校に入りました。当時は青年学校と言ったかと。2年ほど行きました。
その後、知り合いの神戸の由緒ある大きな料亭に行儀見習いで1年間ほどかな、行かされました。西郷さんとかも通っていたような、それは格式ある料亭でしたね。そこでは、仲居さんのようにお部屋に入っての仕事はしませんでした。なので、実際にお客様と会うことはなかったです。
兄が撮ってくれた1枚 →
そこで覚えているのは、大きな何十畳もあるようなお部屋の床の間を磨いている時にね、大きな塗のサイン帳みたいなのを見つけたときのことです。開けてみたら、すごい人の名前がいっぱい書かれていて、それでびっくりしました! 誰の名があったかというのは今となっては覚えてないけど、とにかくすごい人の名前がずらーっと。
兄は、神戸の方で、質屋の番頭をしたり、ダンスホールで働いたりと、いろんなことをやっていました。質屋の番頭をしていた時に質流れのいいカメラを手に入れ、私を撮ってくれました。その写真が前頁のものです。そのカメラは家が一軒買えるくらいとか言っていました。
いとこ同士で結婚! 夫は近衛騎兵
私と主人はいとこ同士です。でも、住んでいた所が関西と東京だったから、年頃になるまで会った事はなかったのね。話には出たことがあったので、そういういとこがいるのは知ってるって程度でした。そんな二人がなぜ結婚ということになったかと言うと・・・。
新婚時代の二人
主人は立教大学に入って弓道部のキャプテンになったんです。その遠征なんかで京都に来たりすると、私の姫路の家に寄るんですよ。それが知り合うきっかけだったわね。
二人をとりもったのは、母の妹で、東京で造り酒屋をやっていたおばさんなんです。このおばさんは、夫の母と私の母と三姉妹だったんですよ。そして、おばさんは、どうしても私を東京に呼びたかったわけ。
それで東京にいた良ちゃん(ご主人)を勧めたわけ。本当に上手く勧めてくれたのよ。たまたま私のおばあちゃんがお風呂で滑って怪我して、それが東京のそのおばさんの耳に入ったのね。それで慌てて会いに来た時に、良ちゃんが八重ちゃんのことを嫁に欲しいって言ってる、と告げられたの。
その一方で、良ちゃんには、八重ちゃんが東京に出てきたいって言ってると、上手く話を作ってそれで何とはなしに一緒になる事になったわけ。だから、両想いとか、本当に好きで好きで、とかいうのとはちょっと違ってたわね。
近衛兵時代の夫・良之助さん →
近衛騎兵というのは、きちんとした家柄でないとなれなかったのに、なぜ主人がそれになれたかというと、顔がでかくて立派に見えたからだ、とみんなして言っては笑っていたのよ。でも、本当だと思うわ。背は低かったけれど、顔は大きくて堂々としてたからね。主人の父は象牙の彫刻家で、その息子では絶対なれないはず、と周りは言ってたわね。
近衛騎兵を辞めた後は・・・
戦争が終わってから、主人が仕事をいくつ変わったか覚えてないくらい。看板はいいんだけど、内容が悪いから続かなくてね。しょっちゅう仕事は変えてたわね。
まずは、聖跡桜ヶ丘という所で、喫茶店を始めたの。駅を降りてすぐの所に家を買ってね。私達の縁結びのおばさんの造り酒屋がつぶれたのね。おじさんが空襲で亡くなったので、商売を止めて全部売ったのね。そのお金を少し援助してもらい、おばさんの家の近くの土地を買って喫茶店をやりながら3人の子育てをしたわ。主人のもとへ両親も来たから、ずっと7人暮らしでしたね。主人は一人っ子だったから。喫茶店はほとんど私がやっていたの、主人はお勤め。
主人は今の帝国データバンクの前身となった興信所にも勤めていました。採用にはなったんだけど、顔が大きいから尾行なんかしてても、すぐばれちゃって、それでたぶん首になったんでしょうね。上司と喧嘩したとかも言ってた気がする。その片手間に喫茶店をたまには手伝ってもいましたね、当時は。
その喫茶店も結局儲からなかったわ。主人は元々浅草の人なので、下町に帰りたくて仕方がなかったみたいです。それで、そこを売って、荒川に戻ったわけ。そこで、また違う仕事をするわけね。今の東京女子医大の第二病院そばで、中学時代の友達に担がれて運送会社を始めたのね。三人くらいでの共同経営だったと思う。一人っ子だったから、貧乏人のおぼっちゃまだったのね。この運送会社も長くは続かなかったと思う。潰れたというより、まあ解散したのかな。
その後、また運送会社を、今度は一人で始めたのよ。出資者がいたからやれたんだと思うけど、それも長くは続かなかったわね。事故があったのが発端で、それで傾いてしまったの。
根付師だった義父の事
でも、いつも食べるには困らなかったわよ。おじいちゃんがいたから。主人の父は象牙の彫り師で、根付とか彫っていました。その当時は海外にも輸出していましたから、貿易商人でもあったのね。それなりにお金があった人だから、一緒に暮らすようになってからも、ちょくちょく援助はしてくれました。
お義母さんは、もともと知っている親戚のおばさんだから、喧嘩なんかしたことなかったわね。おっとり屋さんで、のんきな人でしたね。お義父さんにお妾さんがいても、周りや私達が気づいているのに、お義母さんだけ気がつかないの。
お義父さんは一晩だけ泊まって、必ず翌日には帰ってくるんです。手編みの赤いマフラーをして帰って来た時は、みんなわかってるから黙ってるんですが、お義母さんは「あら、素敵なマフラーね。買ったの?」とか言うんです。だから私はその場に居づらくなって、お勝手に逃げ込んだりする事もあったわね。その次の時は、今度は手袋。あらあらと、またお勝手へと逃げたわ。
そんなこんなで、私がお妾さんのことを知ってるものだから、お義父さんはぐうの音も出なかったと思うわよ。おかしかったわよ、いろいろ(笑)。
でも、お義父さんは、子どもの頃には神童と言われていたくらい、本当に頭のいい人でした。私は、いじわるされたこともなく、苦労もなかったわね。
もし私に文才があれば、こういう事を本にしたかったと思うこともあります。それを主人に言ったら、「すごい恋愛をしたとか、ものすごく面白い事がない限り、本なんか書けるものではないんだぞ」と叱られたことがあるのね。それはすごく良く覚えているの。
一番好きなのは、日本舞踊
6歳から習い始めた日本舞踊が一番好きでした。何故かって言うと、お三味線も歌も習ったけど、そんなに上手くなかったからなのよ。踊りだけはお師匠さんに褒められた事もあり、好きでしたね。姫路の方に習いに通ってたけど、やめたり、また通いだしたりして、そのうち戦争が広がって断念したと思います。
でも今でも踊りは大好きで、NHKの「古典芸能」なんかたまに観てますよ。
水墨画は今も描き続けています
それから趣味で続けているのは、水墨画ね。60歳で始めて、東京の方では、ずっとお花を描いていたけど、こちらに来てからは先生がお花は描かないのよ。景色っていうか風景画よね。週2日、隣町の須玉の方まで送ってもらって習っているんだけど、初めて出展した時は「大賞」をいただきました。上から4番目の賞だけど、この辺では生徒さんが80名位しかいないから、大した事ないのよ。東京では生徒さんがもっと大勢いて、一度だけかな、賞をいただいたのは。あまり大きな声じゃ言えないけどね。
2度目の展覧会では下から4番目の賞で、前より落ちちゃったのよ。でも描いていると気持ちも落ち着くし、夢中になれるから好きで続けてるの。
水墨画も習いに行けて、本当にもったいないくらいの生活をさせてもらってます。最後にこんな風に静かに幸せに過ごせるとは思ってもいなかったですよ、本当に。
娘夫婦には本当に感謝しています。私のために建て増しをして、日当たりのいいこの部屋も用意してくれたし、幸せ者ですよ。長生きして本当に良かったです。
あとがき
鈴木八重子さんの聞き書きをさせていただいたのは、 かれこれ5年前になります。彼女は、私の山梨の別荘近くに住む友人のお母さまで、頭のしっかりされたかわいいおばあちゃまです。こちらからお願いしたのにもかかわらず、仕上げる事もないまま月日が経ち、今年百歳になられる八重子さんの「祝百寿」を記念して完成させるに至りました。
ご近所の方がたくさん集まる賑やかな家で、来客があると自らお部屋の方から出てらして、端の方にすわって、ニコニコしてはみんなと会話を楽しんでいたのが印象的でした。猫好きで、娘さんがもともと飼っている猫をご自分の部屋に呼ぶのですが、なかなか長居をしてくれないのが寂しいのよ、とおっしゃるところなどは、とてもおちゃめでかわいく、私もこんな風に歳が取れたらと思いました。
絵がご趣味で、居間には彼女の日本画が季節ごとに飾られていて、その説明をされる時が少女の目になって生き生きとされていたのを思い出します。
ちなみに今回の表紙は、八重子さんの作品の中の一枚ですが、偶然ご本人、娘さん、私の三人揃って一番好きな絵でしたので、この「ひなげし」を背景に入れました。ちなみに、「日本南画院展」で入選した80代の時の作品だそうです。
左から、豊島・八重子さん・娘の麻里さん
後日改めて撮らせていただいた次頁の写真の後ろの壁に貼ってある水墨画は、現在進行形のもので、ご自分の部屋から外の景色を描いたものだそうです。百歳になられても意欲満々なのには脱帽です。
大正・昭和・平成・令和という激動の中を生きてこられ、大変なご苦労もされているかと思いきや、のんびり穏やかな話しぶりで、「私の話なんか何も面白い事なんかないし、そんな記録に残す事なんか・・」とはじめのうちは謙遜されていましたが、次から次へ興味深い話が飛び出してあっという間の2時間でした。
今年の夏の八重子さんのお誕生日には、町の小さなイベント会場で、水墨画の展覧会を開く計画をしているそうです。もちろん八重子さんには内緒で着々と進めているそうですが、私も是非駆けつけたいと思っています、この冊子をお祝いに持って。
令和3年5月吉日 ききがきすと 豊島道子
posted by ききがきすと at 15:33 | Comment(0) | ききがき作品 | |
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