2018年03月08日
遠く懐かしい、あの日を想う
恋して結婚した両親
私は、高知県の北部中央、山に囲まれた土佐町の相川(あいかわ)、床鍋(とこなべ)というところで生まれました。父は西村兵喜(へいき)、母は森岡ときえといいます。二人は22歳のとき、昔のことではあったけれど、恋愛して結婚したんです。そう聞かされました。
父は、お膳を作っていたの。食事のときの箱膳とか、懐石のときにつかう膳ね。それです。母は紙を漉く仕事を、父の仕事場のちょうど川向でしていたそうです。川を挟んで、「おーい、元気かよ」というふうに声をかけあっていたんでしょうね。
結婚しても貧しかったと思いますよ。二人で一緒に、一から始めたんやからね。嫁ぐときに、母は祖父から、箪笥を一棹とお金をいくらか持たせてもらったそうです。でも、それだけ。父は次男坊で、そのお膳をつくるところへ奉公に来ていて、母と恋して一緒になったんですよね。
子ども時代はゆっくりゆったり
二人が24歳のとき、大正10年8月24日に、私は長女として生まれました。上には兄が1人おり、その後、弟妹5人が生まれて、兄弟姉妹7人。子どもが大勢で、親は貧乏しましたよ。でも、子どもの私たちは、ゆっくりゆったりしたもので、自由気ままに遊んだわ。
家がお膳つくりの仕事でしょう。母も、その頃は父を手伝って、漆を塗る仕事をしていました。だから、きれいな手仕事でしたよ。お百姓はしてなかったので、私たち子どもが、田畑へ行って手伝うなんてこともありませんでした。
私たちの頃は、お弁当を持って学校へ行きましたよ。山の子どもたちのお弁当には、お米の中へ粟や稗なんかの雑穀が入っていたのを覚えています。それを見られるのが恥ずかしいから言うて、裏山へ行って食べる子もいましたよ。
私の家はお百姓をしてないから、お米のご飯でしたけどね。それは貧富というのじゃなくて、親の仕事の関係なんですけどね。少しの土地でも田畑にして、土もつれになってやらんといかん時代は、もう少し後、戦争の足音がもっと確かになってからでしたね。
大好きだった兄の思い出
兄の淳一(じゅんいち)は、私より一つ上でした。東京で薬局をしている、母の姉がいて、暮らし向きはよいけれど、子どもがなかったの。そこへ欲しいと言われて養子に行ったんです。
兄の淳一さんと
子を産んだことのない伯母が安易に考えて、小学校を出たばかりの兄を連れて行ったけれど、田舎の子が都会の生活に慣れるのは簡単ではなかったんですよね。兄には辛いことが多かったようです。
馴染めなかったというだけでなく、伯母のところで兄は小使いのように働かされたとも聞いています。学校へやってくれるという約束も守られなかったからと、結局、兄は伯母の家を出ました。友達の家を転々として、軒下を借りるような苦労を重ねながらも、頑張り屋の兄は逓信省へ入ることができました。逓信省で勤めながら、杉並工業という学校(*後述1参照)を出ました。
その後、中国の大連にあったタイカ工業(*後述2参照)という大きな会社へ就職したんですが、1年後に召集されて、高知へ帰り朝倉の連隊へ入りました。そして今度は兵隊として満州へ渡ったんです。そこで風邪を悪化させて病死しています。満州のコリン(※後述3参照)というところでした。本当にいい兄でしたけどね、24歳で亡くなったんです。亡くなったときは上等兵でした。
東京で看護婦学校へ
私も学校がすむと、伯母を頼って東京へ出たの。きっかけは、婦人クラブのグラビアを見たことでね。陸軍病院だったか、赤十字病院だったか、看護婦の一日というのが写真で出ていたんです。それを見て、私は「いやー、看護婦やりたい」って言ったのね。とにかく看護婦になりたいって気持ちが高じて、東京へ行きたいとなったんです。
もちろん親は賛成しません。特に母親は大反対でしたよ。昔の看護婦というと医者のお妾さんだったりするって、田舎には、そういう噂もあったんです。だから、母には「家で、普通の娘さんのように裁縫でも習ったら」と言われました。
だけど、東京の伯母が若い頃に助産婦さんの学校へ入って、資格を持って仕事していたので、自分も何かそういう関係の仕事がいいと考えました。自分でなんとかしなくちゃいけないという気持ちもあったんです。
それで、上京してまず、逓信省を受けました。兄が逓信省に行っていたから、やっぱり私も固い仕事をしたいと考えましたから。でも、ダメでね。それで、やっぱり看護婦になろうと、試験を受けました。それで、神田神保町というところの看護婦学校へ行くことになりました。
その後すぐに大きな病院へ入れたので、私には兄のような苦労はなかったですね。東京での看護婦時代のことは、話すだけでも大変なくらい、いっぱいいろんなことがありましたよ。
でも、昔のことで、こんがらがっちゃいますね。まぁ、なるようになったと思うのよ、この年までね。
焼夷弾の東京から故郷へ
もうそろそろ引き上げて故郷へ帰ろうかと考え始めた、ちょうどそのころ、東京では空襲がどんどん激しくなっていました。昭和20年、焼夷弾が降り始めた東京から帰郷したとき、私は23歳になっていましたね。
看護婦時代、友人と(左が敏子さん)
帰郷早々、忙しいので是非にと依頼され、私は高知市内の病院で看護婦をしていました。でも、土佐町の役場から、今度は保健師になってほしいと頼まれたんです。町に保健婦を置かないと農業協同組合の活動にも支障がでるとか言われて、保健婦になれと矢のような催促でした。
昔はとにかく結核が多くて、私も肺浸潤みたいになって、咳が出ていました。だから、保健婦は嫌だと一度は断ったんですが、保健婦がいないと困るからと説き伏せられて、とうとう保健婦の試験を受けることになりました。
ほんの45日間くらいの講習を受けての試験だったんですけど、私は本当に具合が悪くて、最初はダメでした。何回かやって、そのうちに合格し、正式に保健婦になりましたね。
すぐに家庭訪問をしましたよ、保健婦としてね。赤ちゃんや、産後のお母さんのところへ行ったんです。救護班として高知市の方へ行ったこともあります。
空襲を受けてボンボン燃えゆうところへも、私たちは消防団の救急班として入りました。肩に救急袋をかけてね。大きな大きな倉庫へ、じゃーじゃー水をかけるなんてこともしましたよ。煙が出ると飛行機の的になるから、できるだけ早く消火する必要があったんです。保健婦だったからそういう仕事もしました。
高知空襲のときは、恐ろしいなんて気持ちはなくなっちゃってね。子どもを抱っこしたまま防空壕で亡くなっている人もいるし、鏡川の淵には死体が山と積まれてあるしね。「土佐町の救護班として来てるんじゃからね、他のどこへも行っちゃいけない」って言われました。だから、どこへも行かないで、そこで一生懸命救護活動をやりましたよ。
お見合いをして結婚
結婚は早い方じゃなかったですよ。友達とは「あんな人と結婚したい」とか言いながらもね。保健婦になって家庭訪問をするようになって、南川(みなみがわ)というところの学校を訪問することがあったんです。
校長先生が「あなたは、どちらの出身ですか」と訊かれるので、「土佐町の床鍋です」って答えました。それが主人との縁を結ぶことになったのです。その校長先生が、主人の姉の亭主だったんですよね。
花嫁姿の敏子さん
お見合いをして、結婚しました。主人は、私より6つ上の31歳、私は25歳になっていました。
主人は、なかなかのりこもん(土佐の方言で利口者のこと)でしたよ。私は、自分は知能も器量もたいしたことないと思っていたので、『頭のいい人』というのが結婚相手への条件でした。主人は、頭良かったよ、本当に。
主人は、女の中に一人きりの男の子でね、大事にされて育ったんです。なかなかしゃんとした人でした。お巡りさんになっていたんです。でも、戦争から帰ってからは、役場とかあっちこっちから「来てください」って頼まれても、「もう嫌じゃ」言うて断りました。「あの嫌な戦争をしてきて、もうたくさんじゃ」と言って、職には就かず好きなことを自由にやったんです。
居合やったり、剣道やったりね。だから、結婚しても、百姓をするのは少しだけで、現金収入はほとんどなかったですね。部落長の役をはじめ、なにかしら公のことはどんどんやったんですよ。お金にはならないことをね。
主人とニューギニアでの戦争
人や部落のお世話役っていうのを主人はずっとしました。戦争では、ニューギニアの方へ行ったんです。あそこでの戦いは本当にひどかったですからね。だから、自分が職に就くことよりか、もっと人の役に立ちたいという思いが、いっぱいあったんですね。部落のこと、町のことにね、腐心してやったわ。お金はもうないけどね、みんなに好かれてね。
私たちは、戦後すぐに結婚したでしょう。兵隊に行っていた人たちが、うちへ集まって、あそこで、ここでという戦争のときの話はよくしていましたね。友達がいっぱい来て、いつでもそういう話でしたねぇ。私にも戦争のことをよく話して聞かしてくれましたよ。でも、私はゆっくりは聴けないし、覚えてもなくて、戦争のことでお話しすることはありませんね。
主人は写真屋をやったこともあったけれど、それよりなにより、公益のことをうんと考えて、人のためになることをうんと熱心にやったねぇ。まぁ、男前やし、頭はいいし、他人のことをしっかり考えられる人で、いい人でしたよ。けんど、経済ということを除けての人でしたから、私は、やっぱりね、男性として見るには、腑に落ちんところはありました。
子育てと仕事の日々
子どもは3人います。女が一人と男が二人ね。長女の節(せつ)が一番上で、昭和22年10月26日に生まれています。その下の長男が24年2月16日に。主人が清(きよし)なので、清人(きよと)と名付けたのよね。次男の正根(まさね)は26年11月1日に誕生しました。それがね、みんな誕生日が木曜日なのよ。私も、ね。なんだか不思議でしょう。
結婚して、10年は家で子育てをしました。その間、主人はちょいちょい農協へも勤めたりはしましたけど、なかなかお給料もいただいてこないのよ。困った人がいればあげるような人でしたからね。終戦後でみんなたいへんだったでしょう。生活に困るような人がいればあげたいのよね。自分ところはお米もあって何とでもなると思っているの。経済に執着する人ではなかったんです。
だから、子育てが一段落したら、私が就職して、勤めなくてはしようがないと思いましたね。田畑があったから、えいっと思って、それを全部売り払って、主人には好きなように生きてもらったんです。
ご主人と仲睦まじく
私はまた、看護婦の仕事に戻りましたよ。本山の中央病院に20年いて、それから大杉の中央病院で10年、いや12年だったかな。生活の面では、私がやるしかなかったんですよね。苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ、やっぱりね。
看護婦として勤務した30余年
その頃の看護婦の仕事は、今とは全然違いますよ。我々のときは、結核が多かったし、赤痢や疫痢という伝染病も珍しくありませんでした。それに、昔は付添いさんがちゃんと患者さんには付いていました。国がそれを認めていましたからね。そこが今と全然違います。
今の看護婦は新しいことをどんどん勉強しなくちゃいけないでしょう。カメラはもちろん、いろいろ新しい機械もどんどんできるし、横文字も使えなくてはね。私たちが東京で看護婦やってる時代は、そんなことの勉強は必要なかっ
たんですから。
あの時代なりに、まぁ、私たちも、やることはやったよね。腸注って、肛門から栄養を入れるなんてことはやりました。注入したんです。口から食べなくなったら、今は胃に穴を開けてやるでしょう。それみたいに肛門から注入する。胃ろうも点滴もなかったですからね、昔は。静脈注射はありましたけどね。
まぁ、勤務した病院は、どちらも入院設備のある大きな病院で、もう点滴とか注射とか、そういうのは普通にしました。でも、今とは治療方法も違うし、今はもうついていけないと思いますよ。なにもかも、どんどん進歩してね。私なんか、横文字も知らないんですから。
ニューギニアへの最後の旅
主人は75歳のときだったか、戦友らのお骨を拾いにニューギニアへ行ったんです。なんとしてでも行きたくて、痛い腰を治療してまで、やっと行ったんですよね。ちょうどその頃、私も股関節で、たいへんな手術をしたんですけど、どうしても行きたいからって。ニューギニアには特別な思いがあったんでしょうね。
旧陸軍支給の鞄(岡内富夫さん作品)
でも、そこから帰るとすぐ、具合が悪くなって、入院したんです。なんとか退院にはなりましたが、もうずっと調子が悪いままでしたね。心臓発作を起こし、救急車で高知市の近森病院へ搬送されました。いったんは快方へ向かっていたんですけど、見舞客を送ったあとで急変し、心筋梗塞で亡くなりました。
あれほど気にしていたニューギニアへも、もう二度と行くこともできなくなって・・・。他にもやりたいことがあったでしょうにね。いろいろ本も書いているんですけど、何もかも昔の思い出になってしまいました。酒は飲まない人だったけど、タバコだけは吸っていましたよ、主人は、ね。
今の私の幸せ、これからの時代へ
夫が亡くなってからも、私はずっと本山で一人暮らしを続けていました。年金があるから、食べていくくらいのことは困りません。でも、90歳を過ぎた私のことを子どもたちが心配するので、3年前に高知市内のマンションに移ってきたんです。今は、次男と一緒に暮らしています。
長男はアメリカにいて、レストランをやっています。私はアメリカには行ったことはないけれど、向こうには孫も一人いるんですよ。
今日はたまたま、次男が家族のいる東京へ行って留守なので、こちらのケア施設にショートステイに来てお世話になっています。長女も私の近くにいてくれていますから、子どもらの世話になりながら、こうしてやっていけてます。
子どもらがこうして私のことを気にかけてくれて、ありがたいと感謝しています。だけど、子どものことになると、それは私の話ではなくて、他人の話です。子どもには子どもの人生がある。そう思っています。だから、子どもの話はこれくらいにしておきます。子どもらにも失礼になると困りますから。
私は、今、週4日はここのデイサービスへ来て、お風呂へ入れていただいたり、本当によくしてもらっていますよ。致せり尽くせりなの。ここは障害がある人がほとんどでしょう。昔は、家で看るしかなった、そういう人たちを、ここでは大事にしてくれます。本当に大変じゃなぁと思うけどね。
ここへ来て見ていると、みんなが老人を大事に大事にしてくれています。私たちは幸せじゃけど、次の時代はどうなるかわからない。国の介護保険や医療保険があって、やれているんでしょうが、老人がどんどん増えると、これもあれもはできなくなるでしょう。次の時代はどんなになるか、わかりませんね。今が続いて欲しい気持ちはあるけど、どんな時代にも、もう終わりというときはあります。それは仕方のないことですよね。
〈 参 照 〉
※1 杉並工業という学校:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。
※2 タイカ工業:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。
※3 コリン:詳細不明のため確認できず、聞き取ったまま『コリン』と記載。現在の中国東北部黒竜江省の虎林のことかと推測される。虎林は、ロシアとの国境近く、第二次大戦末期、砲声とどろく激戦地となった地でもある。
あとがき
和田さんとは、私たちNPO法人シニアわーくすRyoma21の高知支部メンバーが、この春から訪問させていただいている本山町の通所介護施設「デイサービス長老大学」で出会いました。今は高知市にお住いの和田さんが、たまたま本山町に帰られており、デイに来られていたのです。
戦病死されたお兄様のことや東京での若い頃のお話を伺い、もっと聴かせていただきたいと願ったことが実現し、この冊子につながりました。本当にありがいご縁であったと感謝しています。
和田さんは、この年代の方には珍しく土佐弁をあまり使わず、落ち着いた低いトーンで話されます。説得力のある話しぶりは、あの戦争を挟んだ大変な時代を、看護婦という専門性の高い仕事を持ちながら、子ども三人を育てる母として生き抜いてこられたからこそのものと思えます。
また、お話のそこここに、しっかり生きてこられた和田さんならではの言葉が散りばめられています。例えば、『苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ』というところ。思うようにものごとが進まず、自分の周りがなんともほの暗く見えてしまうときなどは、私も、この言葉を思い出して、顔を上げて歩こうと思います。
素敵なお話を聴かせていただき、本当にありがとうございました。
なお、相川の美しい棚田風景の表紙絵と、本文中の鞄のカットは、Ryoma21高知支部の岡内富夫さんに描いていただきました。彩を添えてくださいましたことに、心から感謝いたします。
(ききがきすと:鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 21:30 | Comment(0) | ききがき作品 | |
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