2017年05月07日
囲碁から広がる光
かたりりびと:大町岑生(おおまちみねお)さん
ききがきすと:柳瀬晶子
姉のおかげで高校へ
私は昭和十二年、中国の天津で生まれて、五歳のときに戦争で引き上げてきました。帰国後も空襲で家が丸焼けになって、疎開もしたり、苦しい時代を生きてきました。
八人兄弟の二人目で長男です。
やがて高校に入って、大学に行こうという思いがあったんですけど、家計が苦しいので、高校に行く事すらできない状況でした。
姉が中学を卒業して、いわゆる女工として働きはじめました。当時は集団就職といって、地域とか学校ぐるみでトラックとか列車に乗って、遠い岐阜県の大垣の紡績工場に行きました。
親友三人とのお別れ会での姉の涙が忘れられません。私は姉が働いてくれたおかげで、三池工業高校電気科へ奨学金で行けることになったのです。
私は高校を卒業しましたが、こんどは妹を高校に行かせられなくて、やはり中学まででした。
私は兄弟の中では成績が良くて、学校でもトップクラスで、それで高校に行きたいというのがあったんです。高校を卒業して、次は大学を目指したかったんです。
ところが、引き揚げてきたときには兄弟が四人だったのが、帰国して四人増えて、八人兄弟になったのです。家計はそれはもう大変で、大学なんてとてもじゃないけど行けませんでした。
学校に山崎という親友がいまして、彼も私も大学に行きたいけど、学費が出せないから行けない。せめて大学を受験して、合格したという満足感でがまんしようと思ったのです。受かっても大学には行かないということで受験しました。二人とも熊本大学に合格したんですよ。
最初から行かないことが前提でしたからね。それで就職したわけですね。
就職して、実家に援助
高校卒業後、北九州の八幡製鉄で働きはじめました。初任給は封を開けず、そのまま全額を親に送金しました。その後も月給の半分の仕送りを毎月続けました。
働いてみると学歴の差が歴然とあって、愕然としました。これは学校に行かなきゃだめだと思って、入社後一年目に「九州工業大学」の夜学を受験して合格しました。昼間は働いて、二部制の夜学に通ったのです。
ところが、入社後の学歴は認めないという厳しい時代。三年で短期大学の資格は取れたんですけど、四年制の資格を取りたくて、いったん短期大学を二年で辞めて、四年制を受験したんです。そうしたら落ちてしまって、夢がついえてしまいました。悔しい思いを胸に抱えて聴講生の資格で働きながら、二年間授業を受けました。
二十二歳か、二十三歳のころ、中学二年生の弟をみてくれと実家に頼まれました。当時私は独身寮に住んでいたんですが、弟の面倒みるため、家賃の安い会社の独身寮を出なくてはいけなくなってしまい、部屋を借りました。
弟はやっぱり寂しくなって、実家に帰りたいと言い出しました。それまでにも、妹が弟一人では大変だろうということで、手伝いにきてくれました。けれど、本人が高校進学は地元にしたいということなんです。
私は学校の進路相談にも保護者として行きましたが、弟は成績が悪いんですよ。私が勧める学校には行けないので、実家に戻って地元の高校に行くことになりました。
電車で運命の出会い
ちょうどそのころ、通勤電車で会社の事務員の女性と会うようになって、そんな苦しかった事情を聞いてくれました。彼女は私の状況を理解してくれる協力者でした。
当時、私は実家への仕送りを続けていましたが、それだけでは足りません。もし自分が結婚したら、女房の稼ぎの分を仕送りに回せるという考えもありました。そんな都合のいいこと理解してくれるはずはないと思っていましたところ、彼女に相談してみたら、事情を理解し、快諾してくれ、結婚することになりました。
そこで、親に紹介に行ったところ、親も兄弟七人もみんなが唖然として、白い眼で見るわけです。大事な稼ぎ手、一家の大黒柱と頼りにしていた長男の私が結婚してしまうというので、反対されてしまいました。
仕方なく一応紹介だけして戻ってきました。そうしたら、親が八幡製鉄の人事部長に「二人を別れさせてほしい」と手紙まで送って、私は人事部長に、どういうことなんだと呼び出されました。上司からも説得されましたが、結婚の意思は固いということで、結婚を決めました。
式の日取りを決めて、両親は来なくてもいいから、二人で神社で式を挙げることのお知らせだけをしました。そして、二人だけで神社で写真を撮ったりしようと思っていたところ、親がきたのです。びっくりしました。親が来たので、お嫁さんの方の親にもきちんとご挨拶が必要だということと、仲人さんを立てようということにもなって、ばたばたでした。
仲人さんになって下さった方に急きょお願いすると、事情を理解して引き受けて下さいました。そしてなんとか二日後に、両親四人と私たちと仲人さんの八人で式を挙げました。
仕送りは続く
結婚をした当初の部屋が狭かったので、十二月に大きいアパートに引っ越しましたが、翌年の二月に火災に遭ってしまいました。雪の降る強風の朝、洗濯しているときで、私が第一発見者でした。
消防車が来ても、火元は消さないで、消火活動は周りに火が移らないことに注力するんですね。私たちの部屋は炎の中。私は女房の貴重品や大事なものを取りに煙の中を入っていきました。しかし、後ろから女房に引っ張られてとどまりました。そこでもし、入ってしまっていたら、命はなかったと後で思いました。女房に命を救ってもらったのです。
火災の後は、服も靴も全部燃えてしまって出勤できないので、いろんな人に助けていただきました。物をいただいたり、義援金を会社が募ってくれたりで、三日後には出社できました。
新婚はこんな感じで始まって、物もなにもなくなって、またゼロからのスタートでした。
そんな中でも、実家がやはり気になっていました。反対を押し切って結婚したものですから、「結婚したら嫁さんにぞっこんで、岑生は家のことを忘れた」と思われたくないという気持ちもあって、妻の給料そのままを送金し続けていました。
新婚であり火災にもあって、自分たちのものを揃えたいにもかかわらず、仕送りを続けました。でも、やはり私たちもぎりぎりだったので、途中仕送りが途絶えてしまうときもあったんです。
そのとき親父がわざわざ来て「なんとか仕送りを続けてほしい」と頼まれました。「通帳を見せてみろ」と言われ、通帳を見せたら、どうにもできないことがわかって帰っていきました。
親父は働けるのに、仕事をしても長続きしませんでした。南京では警察として働いていたので、その恩給があったのですが、子どもが八人もいたので生活は苦しかったのです。
私が大阪に転勤になったときに、働かない両親に就職を世話してあげました。母には有馬のほうのお金持ちのお手伝いさん。父には和歌山のつばき温泉。しかし、働いても半年しか続きませんでした。
今思うとくやしい・・・
女房は五歳上なんです。結婚を反対されたのはそんなこともあったんですね。私が二十四歳で結婚したので、彼女は二十九歳。そういう年齢差もあって、家がこんなに大変なのに、お前は何を狂ったのかと言われました。だけど、私は家のことは忘れてないわけですよね。
どうして、寮に入って三年後の二十二歳の頃に、寮を出てまで弟を引き取って面倒みようとしたのか・・・。
今回、聞き書きをしていただくということで、自分なりにメモして自分の歴史を紐解いていきました。そうしたら重大なことに気が付いたのです。
親父がいわゆるDV、家庭内暴力で悲惨だったのです。子どもたちが食事していればそれをひっくり返したり、なげつけたり大変でした。母は恐怖にいつも震えて、死のうともしましたが、子どもたちのために生きなくてはいけない、そんな状況でした。
そんな母をいつも見ていて、母を助けなければと思っていました。そういうふうに幼い心が固まってしまった。母が言うことはどんなことでもしなくてはいけないと思った。だから、無理してでも平気で、自分のことより、優先してね。ふつうは断って、自分の将来のことをまず考えますね。育てられないくらい子どもを産んだ親の責任ですから。
それに気付かなかったことが、今思うと悔しくてしようがないと思いました。書いていて自分なりに涙がでてきました。
大阪にきて、両親に仕事を紹介した後にも、できる範囲で仕送りはしていたのです。しかしあるとき、両親が創価学会に入っていることが分かりました。活動の一つとして献金もあって、母は熱心に活動していたのです。
苦労して出したお金がそっちに回っているのかと悲しくなり、それからは仕送りするのはやめました。女房は仕送りについては何も言わずに我慢してくれて、生活のためお金が足りないと、女房の実家に助けてもらったりしました。僕はそのときはそれを知らなくて、あとで話してくれました。
しかし、兄弟は僕以外は創価学会に入ってしまい、両親の亡くなった後の家と土地の遺産相続で、意見の相違がありました。自分が身を削ってしていた仕送りに、理解と感謝がないことが分かり、非常に残念な思いがありました。
妹が中学を卒業して働きながら夜学の高校に通っていたころ、勉強がわからないということで、私は通信教育として毎日のように添削をしてあげました。私は九州工大の夜学に通いながら自分の勉強もして、添削もしてという毎日だったのです。
そんなこともしてあげたのに、こんな関係になってしまうなんて情けないです。創価学会に入っていないことも原因にされました。やはり両親の教育が悪かったんでしょうね
こんな実家の家族とのやるせない出来事や思いがあった私を、囲碁が救ってくれました。囲碁が浄化してリフレッシュさせてくれたのです。その話はこれからしますね。
第三の青春が始まった!
福岡から大阪に転勤、同期入社第一号で係長に昇進し、八年間、夢中で働いていました。
それから三十四歳の時についに東京に転勤してきました。私の人生はそこから始まりました。第三の青春のはじまりです。
東京では仕事関係でいろんな人と知り合えるようになって、その中で三井物産の木村さんという方に出会いました。その方は囲碁が強い師範の方で、親しくなって教えてもらうようになりました。
そこから今の囲碁の人生が始まりました。それが四十五歳でした。異業種交流会木村教室を立ち上げて、木村師範に囲碁を習ったことで人生が開けました。また、触れ合い囲碁の安田敏春九段を紹介していただきました。
東京の本社から定年になる前に出向して、その出向先から再出向して働きました。最初の出向先はとてもよかったんです、私も思い存分働きました。
次の出向先では、お客様から会社にいろんなクレームがたくさんありました。そこで、品質管理、納期管理の改善を社長に提案したら、首になってしまいました。ちょうどそれが五十八歳でした。
退職して、これから先はどういう人生を描いていこうか考えました。
タイミングよく、東京都が主催のシニアボランティア研修会があって、参加することにしました。世の中にはどういうボランティアの活動があるのかとか、ボランティアの仕組みを勉強し、ボランティアの体験もあって、二年くらい勉強しました。
いよいよ六十歳になってようやくそのときがきました。
ちょうど江東区にボランティア連絡会というのが発足した年で、私もそこに参加しました。会場にはボランティアに興味のある方々が来ていて、四十名くらいいました。それぞれどんなボランティアをしていきたいかを発表するのですが、賛同する人はグループを作っていくわけです。
私は「子どもに囲碁を教えたい」ということを提案して、「これに賛同する方は手を挙げてください」と言ったら、四名が手を挙げてくれました。
そこから「ホタルの碁」という団体を作って活動をはじめました。
「ホタルの碁」スタート!
近隣の小学校や、幼稚園、保育園に囲碁を教えに行くというボランティア活動のはじまりです。最初はボランティアセンターの部屋を借りて、そこで開催しました。しかし、参加者は、最初はわりと来たのですが、だんだん減ってきました。
やはり待っているのはなく、ニーズのあるところに教えに行くのが大事だということになり、幼稚園や保育園、児童館、小学校に行って教えるということにしました。
「ホタルの碁」という名前は、そこに行って教える、飛んでいってあかりを灯すという意味でつけました。
最高では八つの学校に教えに行って大会もやりました。
私たちのグループで広げるだけでは、マンパワーが知れているので、江東区全体が学校単位で囲碁大会をやってくれるように、区長とか関連団体に呼びかけましたが、区はその提案に乗ってくれません。
江東区には加藤正夫という名誉九段という囲碁の名人がいて、その方のご協力で「こども囲碁大会」といって、参加したい子どもが申し込んで対戦するという催しがあるのです。それが十年目で、今年が十一年目。
私が提案したのは、区内の学校単位で対戦していく「江東区小学校対抗囲碁交流大会」です。学校ぐるみの取り組みには地域の人も応援したくなって、囲碁を地域の人が学校に教えにきてくれることになる。学校のみならず地域ぐるみで盛り上がって、高齢者とこどもたちのつながりもでき、生きがいにもなる。囲碁のまち江東区になっていくというのが夢で、その提案なのです。
そこで区の協働事業を提案できるシステムがあったので、そこに提案したのですが、採択されませんでした。では採択された事業はどんなものがあるのかと見てみたら、僕の提案も引けをとらないくらいいいのになぜだろうと。
提案しても採択されないのなら審査員になってみようと、ちょうど募集があったので応募しましたが、残念ながら落ちてしまいました。
そうやって続けてきているのです。
私はいま、幼稚園に教えに行くことに一番情熱が盛り上がっています。何も知らない子どもたちに、だけど一つ一つが新しくて、教えたことが芽になっていく。小学生より感受性が強いからどんどん吸収していきます。
六十歳過ぎて新しい仕事が
私は六十歳からこのボランティアをはじめたのですが、同時に、六十歳になって失業保険をもらうためにハローワークに通って、仕事の紹介を受けました。
電検三種といって、私の高校でも一、二名しか受からないような難しい資格ですが、高校三年生のときに取っていたので、その資格のおかげで、仕事を紹介してもらいました。
行くつもりがなくて面接と試験を受けたのですが、採用が決まりました。では、同じ働くのならもっといい条件はないかと、それから積極的に探しました。比較検討して絞り込んで、行ってみた会社がとてもよかったので、その会社で七十六歳まで働くことになりました。
出先の仕事ではやりがいを感じていましたが、だんだんコンピューターを使っていく仕事になっていくので、若い人には追いつけなくなって、ストレスを感じながら働いていました。
女房からは「そんなに忙しいのならボランティアを辞めなさい」と言われましたが、「このボランティアがあるからこそ、仕事での辛さも乗り越えていけるんだ。もし、ボランティアを辞めるのなら仕事も辞めるよ」と言いました。
そして、会社からも毎年毎年、契約社員の更新を頼まれました。
私の人生は実家の貧乏があって苦労しましたが、東京にきてから人との出会いがあって、新たな人生が花開いたという感じです。
来年で八十歳になります。三月二十五日は電気の日で、はじめて日本が電気を灯した日ですね、電気に関するいろんな催しがあります。その電気の日に、八十歳になって電気事業に貢献した人を表彰する卒寿功労賞というのがあります。私は七十歳から七十六歳まで勤めた会社に推薦されまして、経歴書を出しました。だから三月二十五日はきっと表彰されます。
次の目標はオリンピック
私の次のターゲットはオリンピックです。一人で思っていてもだめなので、宣言することにしました。たまたまボランティアセンターのパンフレットを更新するというので、次なる計画はオリンピックで観光客に囲碁を教える文化交流をすることを載せました。
そのためにボランティアセンターや連絡協議会に協力をお願いしました。区会議員の川北議員がいるのですが、その活動報告を兼ねた忘年会に行ってきました。区長や東京都の議員も来ていたので話しました。東京オリンピックの際には、日本の伝統文化を紹介するコーナーをぜひ設営してほしい。そこで私は観光客に囲碁を教えたいと。
あとは、オリンピックの際に囲碁の会場が設営されても、いざ外国の方に教えようとしたときに話せないのでは困るということで、英語の勉強を始めました。
開催まであと二年あるので、それまでには話せるようになるのではと思っています。今も待ち時間に英会話の勉強をしていました。目下の目標はそれです。
妻が元気でいてくれて、私もそういう活動ができるような状況があるのが一番です。それを心配しながらでは、活動に打ち込めないですからね。
体験することが大事
小学校の囲碁のボランティアでは年度の終わりのときに、子どもたちに感想文を書いてもらっています。自分たちの励みにもなります。
幼稚園や保育園では保護者の方にアンケートを書いてもらうのですが、保護者の一人から難しいので簡単に教えてほしいと意見がありました。
囲碁の教え方には二通りあります。囲ったら取れるというのと、最後は陣地の広い方が勝ちということで、陣地の広い方が勝ちというところに到着するためには、いろんな手法があります。
囲ったら取れるというのは簡単なので、それだけでいいのではという意見もありました。でも、せっかく囲碁を習って、幼稚園を卒業したときに「囲ったらとれる」というのだけでは、本当の囲碁を知っているとは言えません。もったいない。
どうしたらいいかと思って、保護者にアンケートをとりました。非常に楽しんでやっていて、「囲ったらとっただけでいい」という考えの方はほとんどいませんでした。陣地を広くとるというやり方は、守るための戦い方で、方法や作戦が広がって、ものすごくおもしろいのです。
幼稚園には六十名の園児がいて、「ホタルの碁」の仲間七人で教えていています。幼稚園のこどもたちは対局が楽しいのです。わからないなりに、対局すればわかってきます。三回戦では、最後には勝った子どもたちがみんなの前で対戦します。静かながら必死で、真剣な対戦を幼稚園児の皆で見ます。幼稚園で教えて今年で七年目です。
小学校で囲碁を教えていると、上手い子どもがいるんです。どこかで習ったのかと聞くと、大町先生に習ったと言うんです。嬉しいですね。幼稚園には一時間を年に三回教えに行っているんです。その三回だけですが、やりがいがあって楽しいです。
小学校に教えに行っているのは、土曜日に学校がお休みで、地域に開放しているときです。地域の方が先生になって、こどもたちに料理や太鼓、英語や中国語、サッカーなどを教えている「ウィークエンドスクール」というのが、年に十回あります。
もう一つ、放課後の一時間、学童保育でも教えています。教えたときは必ず宿題を出します。年度末には出席と成績と感想を書いて、級位を決めて、修了式に級位認定証をあげます。子どもたちの記念にもなりますし、思い出にもなればいいと思っています。
覚えてどんどんレベルが上がってくる子どもがいますが、その子に合わせて教えていると、ほかの子がついてこられなくなるので、常に同じレベルで教えています。一年目に教えて、二年目、三年目にも来る子もいれば来ない子もいます。
囲碁を理解して、もの足りなくなればこちらの狙い通りです。興味を次の興味に移してもらえればいいのです。
世の中には学ぶべきおもしろいことはたくさんありますから、囲碁はその中の一つでいいんです。将来大きくなったときに、また囲碁をやりたくなったときにやればいい。子どもの時にちょっと知識が入っているととっつきやすいんです。大人になって初めてだと考え込んでしまって、次の手が進まない、子どもは直感でぱっとできます。
要するに体験させることが大事なんです。勝ったりすると自分の自信にもつながります。また、負けて泣く子もいます。みんなの前で泣いてしまったら、ほめてあげるんです。
「この子は強くなる、悔しい気持ちが大事、こういう気持ちで打たないとだめなんだよ」とね。
あとがき
大町さんは、長身でおしゃれでダンディーで、七十九歳とは思えないほど若々しい印象の方です。落ち着いて丁寧に話してくださり、とてもエレガントな印象でした。
ご実家のことではご苦労が続いていらっしゃいましたが、それを乗り越えた強さと優しさがお話の中でずっと感じられました。
囲碁を通してのボランティアで与えること、貢献することをされています。子どもたちに囲碁を通して何を伝えていきたいかという思い、オリンピックや将来の夢を語る大町さんは輝いています。未来に輝く子ともだちのために、子どもたちの持っている力を信頼してじっくりその芽を育てていく取り組みは、大町さんの心をも豊かにしていくのだと思いました。
また、大町さんの奥様がずっと大町さんのことを支えていらっしゃることに、偉大さを感じました。
大町さんのチャレンジ精神と情熱は、聞いている私も、何か力が湧いてくるような気持になりました。ありがとうございました。
ききがきすと:柳瀬晶子
posted by ききがきすと at 20:54
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