2017年05月04日

高知の街をハイカラに生きる(下)

  かたりびと:鈴木章弘(あきひろ)さん
  ききがきすと:鶴岡香代

高知でのダンス三昧の日々


 su1.jpg『ユリヤ』が柳町に移った、その年の春に僕は明治大学を卒業して、高知へ帰ってきました。高知で踊ってましたよ。当時は高知にもダンスホールがあって、最初は上町の『山本ダンスホール』に通ったなぁ。これは、僕の姉が行ってたんよ。次は『中の橋ダンスホール』だったかな。それから得月楼のちょっと裏手の東の方、浦戸町に『ガーデン』っていうダンスホールがあって、もう、そこへは夜な夜な通いました。


けどね、高知のダンスはダサいと思いました。東京はね、例えば、五反田の『カサブランカ』とか、新橋の・・『フロリダ』だったかな、きれいなダンサーがいっぱいいたんです。しかも、生バンドでダンスが踊れたんですよ。


そのころ、ちょうどアメリカのフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を観たんです。いわゆるタップダンサーで、「トップハット」とか、「キャリオカ」とか、いろんな映画に出た人です。それで今度は、タップダンスを自己流で踏み始めたんですよ。まぁ、バカなことしたもんよね。高知には、そんな就職先はないし、それに、タップを教えるほどうまくはなかったし。


だけど、ジャズとリズムと、そして足を踏み鳴らして踊る、そのハーモニーが好きでした。こんな格好のいい、おしゃれな世界はないと思いました。今でも、僕はそういう世界に憧れています。もう80歳を超えて、とてもダンスはできなくなったけど。・・まぁ、社交ダンスなら、ちょっとしたジルバぐらいはできるかなぁ。うーん、もう複雑なステップはできないね。


何にしろ、好きなものがあるっていうのは、ありがたいですよ。学究肌の人は、研究とかね、頭をつかう。けど、僕らみたいなぼんくらは、要するに手足を動かして、耳から入る音楽、ジャズを聴いて、あるいはタンゴの調べを聴いて、かっこよく踊るというのが、そのころの青年たちの、不良の遊びだった。今の子は、どうしているのかなぁ。


要するに、このドラ息子ときたら高知に帰ってからも、ダンスが高じてずっとキャバレーに入れ込んでいたってわけです。家業の『ユリヤ』がうまくいっていることをいいことにね。


その当時ちゃんとしたバンドがいて、ダンスが踊れるのはキャバレー。『椿』とか『リラ』、『ABC』とかね。そういうところに限られていました。そこへ毎晩通ったんです。やっぱりキャバレーは高いわね。それに、一人ではよう行かんから、また不良の友達を連れて行くわけですよ。いいかっこしてね。


まぁ、随分、はちゃめちゃ遊んだよ、あの頃は。今考えると、僕しか、あぁいう遊びはできなかったろうね。一応、僕のダンスは東京じこみだから、キャバレーでも、あいつはダンスはうまいなと。そらそうや、おまえらみたいな田舎もんとちゃうぞ、ってなもんよね。


ホームバー『フランソワ』の誕生


どうも僕には喫茶店での仕事が性に合わなくてね。ぶらぶらしとったですよ。そのうちに今の『フランソワ』の土地を両親が買いました。そこにあったバラックを壊して建て直し、ここで住まいをしようと考えたんです。


まぁ、2階、3階は住まいでもいいけど、1階は貸店舗にしようかとなって、けんど、1階だけ貸すのはいかんなぁ、と言い始めた。それなら、僕がバーをやると言うと、親父がなんと言ったと思う?「バーなんて、止めておけ。そんなもの、商売にならん。ウナギ屋やれ」言うたんですよ。「ちょっと待って」と。


まぁね、ウナギを焼くぐらいは俺も、やってやれないことはない、と思いましたよ。親父はウナギが好きだったからね。けど、「あのニョロニョロ動くウナギをね、あれの腹を裂くなんて、そんなむごいことは俺はできん」って言ったんです。それで、「親父、やるかえ」って返すと、親父もなにも言わなかった。それで、ウナギ屋は終わりです。


親父やお袋から、キャバレーとかバーへ飲みに行かんようにとさんざん説教されて、もうしょうがないから、自分でバーをつくる、となったわけです。それが『フランソワ』の始まりですよ。外へ飲みに行かんように、ホームバーにした・・・、バカなことよねぇ。それが昭和40年のことです。


su5.jpgしかし、最初の頃は、まったく儲けなかったんです。友達はたくさん来るけど、僕のことだから全部貸しです。俗に言う貸倒れ。そのはずよ。みな、昼間は競輪競馬へ行ってやね、すっからかんで飲みに来るんだから、金はないよね。そんなのに貸して、何百万も貸倒れになりました。


フランソワの前に立つ鈴木さん →


また、当時のことなら、支払いは盆暮れにまとめて。そういう昔からの習慣がありましたからね。県庁の役人とかの公務員や商店街の旦那衆とかは、盆暮れが多かったんです。しかし、盆暮れにでも払ってくれる人はまだまし。さすがの僕も、ちょっと待てよ、これじゃいかんとなった。これは、現金商売にせんと、どうやってもいかんぞと。


だから、料金がもっと安くなるようにしました。舶来酒ばかりでなく、国産酒も入れたりね。もう現金だけで商売しようと考えたわけです。それでなんとか、『フランソワ』がもったわけですよ。そうなるまでに10年くらいはかかりましたね。


僕の自慢はね、貯金がないこと。けど、なんとか日銭は稼げる。なんとか食っていけるわけ。今、これで食っているからね。まぁ、赤字にならんように、現金商売で。それが、一つの転機だったね。これは、やっぱり商売の鉄則だろうね。


『フランソワ』でカクテルをつくる


お袋に「章弘、おまえ、これが帳面やけど、お客さん結構来てるけど、全然お金がないよ。仕入れのお金もない」と言われて、それなら、よし、これ売ろうかと思ったこともあります。けんど、さぁ、売ってどうするということもない。そしたらね、東京だけじゃなく京都でも随分遊んでいた、その僕の胸に漠々とでも浮かんだのは、カクテルだったんです。


東京から帰って、『ユリヤ』を嫌々でも手伝っていた9年の間に、よく京都で遊びました。姉が京都に嫁いでいたので、ゆっくり3年ほどは遊んだかなぁ。京都に『サンボア』というカクテルの店があって、寺町にその本家があるんですが、そこの中川古鹿(ころく)さんというおじいちゃんに本当にお世話になりました。とってもおしゃれな方でね、動作が実にきれいなんです。その古鹿さんに憧れて、その京都『サンボア』へ夜な夜な通うことになり、それで、弟子入りしたいとまで思いました。でも、そこは息子が6人、男ばかりいて、結局、無理だったけどね。


『サンボア』本家は長男が跡を継いで、そして、次男、三男は喫茶と、酒屋をやっていました。四男の志郎と僕とは同い年で、その志郎が祇園でやっていた店も成功して、今は孫の時代になっているはずです。それで、京都には『サンボア』が3軒あるんですよ。本家の寺町と祇園、もう一軒は六男の清が始めた木屋町。今でも交際が続いています。


ちょうど祇園表通りからひとつ南に下がったところに、今でも八坂中学という学校があります。その前辺りからお茶屋街がずーっとあって、そのお茶屋の一角に『祇園サンボア』があるんです。これは山口瞳が本に書いてもいますよ。


それがすこぶる美しい名文で、たいへんな評判を呼び、今や京都を代表するバーになっているんです。そこへ行くと、お茶屋街ですから、現役の芸子さんなんかがちょいちょいお座敷帰りにお客さんと飲みに来てますよ。あぁ、京都っていいなって思うね。


僕は、祇園は敷居が高くて入れなかったから、よく上七軒とかいったなぁ。もう一つランクが下のお茶屋街が上七軒と他にもあったけど、どこやったかな。そんなところで、お茶屋遊びらしいこともやってましたね。


東京とか京都で不良している間に、僕はこんなふうにカクテルバーへ出入りして、こんなハイカラな世界があるだろうかと思いました。普通のバーは、サントリーのウィスキーならそれを出すだけ。だけど、カクテルは、酒と酒、あるいは酒とほかの飲み物をベースに調和させる。そうして新たなものを生み出すものなんです。


また、高知にも、そういう先駆者がいましたよ。高井久五郎(きゅうごろう)という人で、戦前大阪のキャバレーでバーテンダーをやっていたと聞いています。この人は愛媛生まれだったけれども、縁があって高知へ来て、野村デパートの食堂主任なんかやっていたそうです。


戦後はね、今の京町の野村証券のところ、あそこに『シルバースター』というキャバレー第一号ができて、そこのマネージャーをしながら、バーテンダーもしていました。僕らの大先輩です。この人がやがて独立して、『555(スリーファイブ)』を始めました。この店は、今の中種の葉山、あそこの裏にある路地にありました。すばらしいバーでしたよ。


こういう商売は、おしゃれじゃないと駄目です。清潔感はもちろん必要だけれど、それだけではいけない。僕がいくらダンスが好きでも、ここで踊るわけにはいきません。せめて、シェーカー振ったり、お話しする中でかっこよく見せる。


格好は、とても大事なことです。この世界で一流バーテンダーと言われる人は、みなおしゃれです。本当におしゃれ。おいしくつくるということは、おしゃれに振るということとイコールでなくちゃいけない。いわゆる、あちゃこちゃ、あっちへ走り、こっちへ走りすると、俗に言う「あいつは野暮だなぁ」ってことで、野暮ではできません。


おしゃれも、本物を知る第一級のおしゃれでないとね。僕が長年やってきたバーテンダーのスタイル。これは、世界共通です。ほら、外国のね、パリやロンドン、ニューヨークのバーマンは、本当におしゃれですよ。かっこいいんです。


カクテル西洋事情


ヨーロッバでは、カクテルは街中のバーではなくてね、ホテルバーなんです。日本とは違います。アメリカンバーという言葉があって、ヨーロッパでは、カクテルバーのことをこう呼ぶんです。


イギリスのアッパークラス、上流階級は、訪問客があったら、午後にシェリー酒を出すという習慣があったんですよ。まぁ、言わば、貴族の習わしですね。お茶とケーキを出すか、それに合わせて殿方にはシェリー酒を出す。それが高じて、カクテルも出すようになる。


だから、カクテルタイムとか、カクテルアワーというのは、まだ明るいうち、いわゆる午後から夜にかけてであり、カクテルはその時間帯に供する飲み物だったんです。


英国やフランス、パリでね、ホテルバーでカクテルを飲むというのは、その頃の有産階級の一つの象徴でしたよ。バーでカクテルを飲む、非常に贅沢な習慣だったわけで、それは、いまだにありますね。まぁ、ロンドンは別として、今でもパリの街中にカクテルバーは非常に少ないんです。あそこはワインバーか、あるいはホテルバーのどちらかでカクテルを飲む、そういうお国柄なんです。

アメリカ映画とか英国映画、フランス映画、イタリア映画などには、そういう酒を飲むシーンがふんだんに出てきて、僕は大いに感化されました。その一番いい例がアメリカの有名な「カサブランカ」という映画です。パリから亡命したアメリカ人、それがカサブランカの街でアメリカンバーをつくるんですよ。アメリカンバーというのは、カクテルバーのことです。そこで飲むのが、シャンパンでありワインであり、カクテルなんです。映画でそういう世界を観たんです。


それから、アメリカ映画でもう一つ、「花嫁の父」という映画がありました。その中で家の庭で娘の結婚式の披露宴をする、ガーデンパーティの場面がありました。それを観たのは高校1年くらいのときだったかな。そのときに、マティーニが出てきたんです。「マティーニには、まだ早いよ」というせりふがあって、なぜか僕はそういう文化に魅せられたんです。”It’s too early to drink a martini”「マティーニには、まだ早いよ」という、その謎が解けず、ずっと心に残りました。


なぜマティーニには早いよ、と言ったのか。マティーニというのは、いわゆるカクテルタイムで飲むには違いないけれど、非常にアルコール度数が強いんです。だから、早いうちに飲むと酔いつぶれるよという意味を兼ねてる・・。おそらくね。


これがいまでいう、アペリティーフ(aperitif)、食前酒です。マティーニは、食前酒ではあるけれど、ものすごく強い。ヤンキーとか西洋人は胃袋が丈夫だからいいけれど、日本人はあれをすきっ腹でやると、もう飯が食えなくなる。そういうシロモノ。人気はある。永遠のカクテルです。


マティーニで有名なのが、もう一つ。チャーチル・マティーニです。マティーニというのはね、ジンとベルモットだけ、それをミキシンググラスでこうしてつくるんです。チャーチル・マティーニというのはね、ジンだけ入れて、ベルモットをちらっと横目で見るだけで、ジン・マティーニをつくる。これがチャーチル・マティーニ。それだけ彼はドライが好きだったってことですよ。


一番のお宝、英国のカクテル・レシピ本


su6.jpgもう一つ、007マティーニ、これもまた面白い。有名な007の作者というのはね、日本へも何度も来たことがある、飲んべえのイアン・フレミングで、この作家はマティーニが大好きなんです。007マティーニ、これはスパイを意味します。英国人の地酒であるジンではなく、ウォッカをつかう、ウォッカ・マティーニなんです。また、マティーニいうと全部ステアー(*かきまぜる)なんですが、それをステアーでなくて、シェイクするんです。


けどね、それには訳がある。昔のロンドンカクテルの文献を見てみると、マティーニはステアーではないですね。1930年のサヴォイのカクテルブックにはシェイクとあるんです。ドライマティーニは、全部シェイクなんです。


だから、その007の作者、イアン・フレミングは、ソ連側のスパイというのでドライ・ジンをウォッカに替え、しかも、シェイクというので、非常に新鮮に映ったんです。けれど、実は、時代は繰り返すで、戦前は、マティーニはステアーでなくて、全部シェイクだったんです。その文献がね、これですよ。


『ザ サヴォイ カクテル ブック』って本でね、これは、たいへんな貴重品です。僕の一番のお宝なんです。ザ・サヴォイというのは、ロンドン・サヴォイ・ホテルのことで、僕はここへ2回行っています。


1930年ということは昭和5年ですね。昭和5年に、この本が刊行されたんですよ。そのときのマティーニは、・・(本に目を通しながら)・・いいですか、マティーニ(ドライ)は、フレンチバムース・・これはベルモットのことです。英語読みしたらバムースになるんですね。フレンチバムース1/3に、ドライジン2/3。これを、Shake well と書いてある。つまり、シェイクなんです。しかし、今はね、マティーニいうと全部ステアーなんですよ。


シェイクとステアーの違いは、シェイクの場合は、カクテル・シェイカーへ氷入れてシェイクしますわね。シェイクというのは、揺るがすということです。これは何を意味しているかというと、空気を入れるということです。


ステアーというのは、逆に空気を入れない。液体だけの澄み切ったもので供するためにステアーするんです。シェイクは、酸素を入れる。そこに違いがある。大きな違いです。これが今から80数年前に、もうすでにシェイクだったんですよ。マティーニは全部シェイクで、ステアーではなかったんですよ。


例えば、(本を見ながら)マンハッタンなんかね、これもシェイクでしょう。この頃は、全部シェイクなんですよ。ここに、ステアーが出ている。マンハッタン・カクテル・スウィート。ステアー、ウェル。これですね。ステアー。マンハッタンは1930年代にすでにステアーやっていた。


カクテルの酒を替えると、カクテル名が変わってくるんです。これは、ライオウ・カナディアン・クラブという。ライはライ・ウィスキーのこと。ライ麦のウィスキー。あるいは、カナディアン・クラブ。カナディアンというのは、ライ・ウィスキーのこと。こういうレシピがちゃんと出ている。


また、この本は石版刷りですよ。石へ絵をかいて色付けして、それを印刷に用いたものです。非常に貴重な文献ですよ。面白いでしょう。これが、サヴォイで、いまだに現存しています。ロンドンへ行く機会があれば、ぜひとも、サヴォイホテルへ寄ることを勧めますよ。


こちらの本はね、カフェ・ロワイヤル。これは、ピカデリーサーカスの近所にある大きなレストランです。バーレストラン。このカクテル文献も素晴らしいですよ。


ここに面白いことを書いてある。これ、ターリングという、その当時のバーテンダーが書いた本なんですよ。W・J・ターリング、カフェ・ロワイヤル。これがね、1937年。ここにコロネーションってあるでしょう。いわゆる戴冠式のことですよ。今のエリザベス女王のお父様、つまり、ジョージ6世の戴冠式の年に発行したカクテルブックということです。


これには、その当時の風俗画が描かれています。例えば、これはいわゆるレビューですよね。こういう世界とカクテルというのは、歓楽の世界感と交わるところにある。つまり、こういう世界だったんですよね、80年前はね。面白いでしょう。


さらに、面白いことにね、ここ見てください。『ツー ブラザー ジョセフ・ベッツ』。ブラザーというのは兄弟だけど、まぁ言わば弟分、彼の弟子だったんですね。『ウィズ エターナル ベストウィッシュ、フロム オーサー ターリング』。作家からベストウィッシュを持って君に贈ると、直筆で書いていますよね。1946年。これは、昭和21年ですよ。


カフェ・ロワイヤル。これはフランス語読みですよね。向こうでも、フランス語読みがハイカラだった。人品卑しからぬジェントルマンが出入りするバーレストラン。これも、ロンドンです。

この2冊を僕は、神田の古本屋で見つけました。いくらで買ったか忘れたけれど、結構高かったですよ。ここに神田・田村とあるでしょう。神田の神保町にある田村という古本屋。今でも神田にあると思いますよ。


『フランソワ』の灯りをつなぐ


今の高知にも、いいバーテンダーはたくさんいます。この頃は、女性のバーテンダーもいて、チェコのプラハの世界大会で優勝した高橋直美さん。彼女は高知で頑張り続けて、何回もチャレンジしてね、やっと栄冠を仕留めたんです。素晴らしい。今は銀座の八丁目あたりの外堀通りの『ガスライト・イヴ』というところで働いています、店長で。


やはりファッションの生まれる街といえば東京だろうけど、高知だって「しゃれもの」は結構いますよ。高知は高知らしいファッションが生まれて当然だと思います。その高知で、『フランソワ』のネオンを消さずにいきたい。その願いをかなえてくれたのは、三好誠さんです。


彼はね、広島県の福山生まれで、高知大学の学生だったんですよ。学生時代にバイトでうちに2年か3年いたかなぁ。それから、いったん就職したんだけれど、その後ちょっと体を壊して、高知へ遊びに来たんです。


su7.jpg「どうしてるんだい」と訊くと、「今は何もしてません」と言うから、「じゃ、うちを手伝ってくれ」となったわけです。それからもう20年近くになるかなぁ。


     フランソワの店内 →


僕はやっぱりね、ちっぽけな店ですけど、この『フランソワ』、大好きなんですよ。だって、僕のホームバーだもの。僕は、ここでね、文章書いたり、手紙書いたり、本読んだりするんですよ。ちょっと一杯やりながらね。


店は、昭和40年に建てた当時と、ほとんど変わっていません。窓に『フランソワ』と描いてますわね。あれは実は、金文字なんです。表から見るとわかるけどね。これは、金紙を貼っています。これは僕の自慢でね。今から25年ほど前に改装するときに、つくってもらいました。でも、改装は入り口や窓の部分だけで、基本的な部分はいっしょです。カウンターやこの棚の辺りの感じもね。50年前と変わってないんです。


あの当時は、いわゆるデコラの時代でね。つまり、材木だけでは大工賃が高くつくから、デコラを張ったんです。カウンターも全部、デコラを張っています。デコラが流行ったのは、工賃が安いわりに耐久力が強いからなんですが、これは面白くない。と言うのは、いくら年が経っても古さがでないんですよ。まったくない。


この枠なんかもデコラですよ。木材に樹脂を張っている。変わらなくていいとも言えるけど、僕は面白くない。大失敗。本物をつくりたかったからね。けどね。まあ、それも仕方ない。これも、そうした時代を象徴する一つの工材だったからね。


大好きな高知の街、生き生きと自由であれ


我ながら、僕は恵まれてるなと思いますよ。やはり、家族、特に両親を思うとね。これくらい不良のドラ息子を長い目で見てくだすった。それから、姉は姉で、またそれを承知のうえで、僕によくアドバイスする。それはそれで、ありがたい。やっぱり姉弟愛だなぁと思うんですね。


それと、今の家内はね、こんな水商売なんか、まったく向かない女です。まったく酒も飲まないし、おしゃべりもできないしね。それでもなんとかやってきてくれました。だって、ほかの仕事しろと言われても、僕にはほかの仕事はできない。


これはもう私の天職ですよ。それは今、この年になって初めて言える言葉かもわかりませんね。若いときは、そんなこと関係なく、夢中でやってたからね。


ずっと暮らしてきた、この高知の街、僕、大好きでね。でも、今の高知は、僕らみたいな不良には、ちょっと住みにくくなった気がするね。不良は良きにあらずですが、その反面、ほかにない自由を感じる。これが不良だと思っています。


したいことをする、見たいものを見て、聴きたいものを聴く。あの自由な感覚ですよ。まぁ、これから世の中がどんなに変わっていくかわかりませんが、高知には、生き生きと自由な、そういう本物の文化が根付いて欲しいね。



あ と が き


 鈴木さんは、軽く洒脱な語り口で、昔の新京橋界隈の暮らしや、青春の日々、東京や京都での経験について生き生きと聴かせてくださいました。私も同じ高知県に生まれ育った者ですが、遠くにアドバルーンを見ながら、あそこがお街と憧れた田舎の子。ハイカラな街っ子のエピソードの一つひとつを物語のように面白く聴かせていただきました。


明るい話しぶりに、戦争を挟むたいへんな時代だったことも忘れ、笑いを誘われることも度々で、こういう方が戦後の日本を楽しく、魅力的に色付けしてくださったのだと改めて思ったことです。昭和一桁生まれのモダンボーイの魅力を、少しでもお伝えできれば幸いです。


また、今回、岡内富夫さんが、この冊子の表紙にと、『フランソワ』を描いてくださいました。街のやわらかな風まで感じさせる2枚の素敵な絵に、心から感謝いたします。


なお、昔日のバーテンダーの方々については、資料の入手が難しく、確認できないまま記載させていただいた部分があることをお断り申し上げます。


ききがきすと:鶴岡香代


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posted by ききがきすと at 22:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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