2017年04月08日

高知の街をハイカラに生きる(上)

   かたりびと:鈴木章弘(あきひろ)さん

ききがきすと:鶴岡香代


新京橋生まれの街育ち

su1.jpg昭和7年1222日、僕は父・正一郎(しょういちろう)と母・静(しず)の長男として、高知市新京橋35番地に生まれました。男の兄弟はなく、純子(すみこ)という2つ違いの姉がいます。


高知といえば、四国の中でも田舎には違いない、地理的には田舎に違いないけれど、その高知にあっても、戦前の新京橋(最終頁*1参照)といえば、まさに中心商店街。都会的というか、早くいえば、ハイカラな街で、そこでの暮らしぶりというのは、田舎とはまったく違うものでした。


今は中央公園になっているあの辺りを、戦前・戦中は、新京橋商店街と呼んでいました。新京橋の名称は今も若干残っていますが、もともとは、あの広い公園から堀詰へかけての一帯のことで、当時は新京橋という橋が本当に架かっていたんです。


 戦前の新京橋界隈を知っている人はもう少なくなりましたが、街とその外では、まるで別世界だったわけです。だから、当時、みなが街へ行くと言えば、それは特別なこと。ビルを見て、店を覗いて、洋食を食べる。それから活動写真、今の映画ですよね。もちろん、テレビはない時代ですから、活動写真を観て、おうどんを食べて帰るというのが娯楽であり、最大の楽しみだった時代です。


街のデパートにアドバルーンが上がっていて、市内ならどこからでも見えましたよ。戦前、戦後を通じて、昭和30年代までかなぁ。あれが街の一つの象徴、シンボルだったんですね。あそこがみなにとっての街、行ってみたい街だった。だけど、僕は子どものときから、その街で暮らしてきてますから、そういう生活しか知らんわけです。


 まぁ、小学校を卒業する昭和19年頃まで、僕はずっと新京橋に住んでいましたから、街っ子だし、今でいう「ぼんぼん育ち」ですよ。名が章弘ですから、子どもの頃はよく「あきちゃん」とか、「あっきん」とか、「ぼん」とも呼ばれてね。いやー、まぁ、ばかぼんですわ。


うちは商家でした。もともとの出は琴平なんですが、祖父の時代に博打で勘当をくらって、高知へ移ってきたそうです。祖父は鈴木時計店の看板を上げて、時計商をしてましてね。その棟並びで、僕の両親が鈴木写真館をやってました。


その時代の一番のお客さんというのは、やはり兵隊さんだったんです。高知には、今の高知大学になっているところ、あそこに陸軍の44連隊がございました。そこから戦地へ赴かれる兵隊さんが、新京橋で活動を観て、そして、腕時計を買って、記念写真を撮る。そうして戦地へ行ったのですよね。


だから、うちの商売というのは、兵隊さん相手に、まぁ、早くいえば、ぼろ儲けしたんです。あの頃は、軍人さんはたくさんいたし、金持ちでしたよ。だから、僕は何不自由なく育ちました。


ハイカラ感覚は幼少時から


 母の生家は高岡郡波介村岩戸、今の土佐市ですが、母の父、つまり僕の祖父は早くから街へ出て、鳳館(おおとりかん)という映画館をやっていました。これは、堀詰の電停前にあって、家からほんの数分とかからない。子どもに人気のチャンバラ映画ばっかりやっていましたよ。だから、学校から帰ってきたら、叔父の家へ遊びに行くか、鳳館で活動写真を観るか。そりゃ、恵まれていましたね。


それで、こういうどうしようもない男、ばかぼんが生まれたってわけ。でも、街育ちのばかぼんしか知らない世界、特別な世界がそこにあったんですよ。ちゃんとした家庭で育っていれば、・・・もっと不良になっていたかな。


だけど、僕は田舎の楽しさも知っていますよ。夏休みの楽しみは、母の生家へ遊びに行くことでしたから。そこで田舎での生活を満喫したものです。野や山で鳥を獲ったり、ウサギ狩りに行ったり。よその家の畑の桑の実をつまんで、食べたりもしたなぁ。その時分は、おおらかでした。秋に行けば、柿が生っているし、栗もたくさんあったしね。


su2.jpg 柳原幼稚園っていうのがありましてね。いいところのぼっちゃん、おじょうちゃんの行く幼稚園だったんですよ。この辺りにも幼稚園はありましたが、姉が行っていたから、僕もそこへ。当時も幼稚園というのは2年あったけれど、僕は1年だけ通いました。


今の乗出しをまっすぐ南へ下がって、東の角。下がると坂でね、その西にある沈下橋の前に忠霊塔があって、その隣が柳原幼稚園でした。戦後は競輪の選手の宿舎になったと聞きました。


家は商売しているから、母は忙しい。まったく子やらい(最終頁*2参照)はしないで、女中さんとかいましたよ。だからってことじゃないけれど、僕はね、よく幼稚園をさぼりました。もう、そのころから、みなと一緒に授業受けるとか、遊戯するとか、そういうのがまったく嫌でね。


途中の山内神社のところへね、エビ玉や箱瓶(最終頁*3参照)を隠しといて、それでね、幼稚園行くと言って行かずに、日がな一日鏡川で魚獲ったり、エビ獲ったりして、それで帰ってきよったね。そんな家庭に育ったから、まぁ、なんともだらしのない少年だったわけです。


幼稚園の頃から自転車に乗ったりもしていました。おやじはオートバイに乗っていたしね。家のすぐ近所にデパートもあったんです。野村デパート。中央食堂へ上がるエレベーターがあって、僕は、その食堂へ行くのが楽しみでした。


今でいうハンバーグステーキね。あれを、僕ら子どもの頃はミンチボールって言っていました。ミンチ肉をボール状にしてね。僕は、お子様ランチなんて、あまり食わなかったな。ちゃんと大人の食べる洋食、例えば、ビフカツとか、あんなのが好きだったね。外でよく食べたものです。


当時にすれば、実にハイカラな生活ぶりです。その気持ちをね、いまだに僕は失ってないつもりです。別に田舎の子を差別するわけではないですよ。けれど、おれは街でハイカラにやっていこうと。それは、子どものときも今もいっしょです。だから、現在、こういう洋酒バーを家業にしているのも、そういうハイカラ趣味がそうさせたのかもしれませんね。


ぼん、高知女子師範の附属小学校に通う


小学校は、高知県女子師範学校の附属小学校に通いました。昔はね、先生を養成する師範学校というのがあったんです。今の高知大学の教育学部ね。当時の師範学校は男子と女子は別で、男子は今の附属小・中学校のある小津町に、女子は潮江にありました。女子師範は、第二高等女学校と附属小学校を併設していて、小学校から女学校、女子師範と教育を一括する学校だったんです。今は、潮江中学校になっています。


本来の校区は第三小学校、後の追手前小学校だったから、僕ら、ごく一部の子どもだけが、新京橋から潮江橋を渡って通学したわけです。今、帯屋町に大西時計店がありますよね。当時の大西は、東店と西店という兄弟の店でした。今残っているのは、西店のほうです。そこの息子たちと一緒に通ったものです。


近所のガキ友達はみな第三小学校だったし、女子師範なんて小学校の名前に女子が付くのも嫌だったなぁ。「お前はねぇ、ばかぼんで、えいし(良い衆の意味 最終頁※4参照)の子やったから、ほんで附属へ行ったんだ」と言われたものです。


学校から帰れば新京橋界隈のガキとも遊ぶけど、僕は遊びも飽きっぽいんで、もう馬鹿らしくなったら、一人で家へ帰って好きな本読んだりしてました。だんだんと遠く感じるようにもなってね。そうして自然と一人で遊ぶことが多くなっていったかなぁ。環境も大きかったですね。


附属小学校は、一学年に男子25人、女子が28人の、本当に少人数の学校でした。男女共学は1年・2年まででね。3年からは男子組、女子組と分かれて授業を受けたもんです。決められた制服がありましてね、制服、制帽、帽章で通いました。


ここには、いろんな地域から子どもたちが来ていましたから、いろんな友達に出会いました。いわゆる、えいしの子ばっかりで、国家公務員とか学校の先生の娘や息子とか、そういった感じでした。


その頃、今の高知大学の前身の旧制高知高校というのがあって、そこのドイツ語の教授であった米原先生の息子が、同じ組にいたんです。米原君と僕は仲が良くて、いろんな思い出がありますね。


附小はね、やはり模範学校ですから、子どもの遊びで、これはやっちゃいけないというのがいくつかあったわけですよ。普通メンコといいますが、高知ではパンという、ボール紙のカードをパンパンたたいてけ落とす遊びよね。あれはだめ。ビー玉がだめ、コマ回しもだめというように、子どもが好きな遊びは、ほとんど学校ではできませんでした。


あとね、日月いう、けん玉。あれは、学校でやりましたよ。基本的には、けん玉を持っていくのも、禁止されていましてね。それをカバンの隅っこに入れて、昼休みなんかに米原君とよくやっていましたねぇ。


米原君の家は旧制高知高校の官舎で、小津町にありました。新京橋からそこまで歩いて遊びに行きました。その当時の高校生が盛んにやっていたのはラグビー、相撲とボート。それから、テニスもよくやっていましたね。なかなかハイカラでしたよ。僕らはテニスのボールをね、よくかっぱらいに行きました。


子どもの僕らが野球をするのにぼっちり(最終頁※5参照)でね。今も小津町には官舎がありますよ、附属小学校・中学校の北にね。


『へなちょこ』ぼんの中学受験


僕らの中学受験は、昭和20年の春、終戦の直前でした。僕ら男子は、城東、海南か、市商へ行くものが多かったね。25人のうち、一番できるやつは城東中学校、今の追手前高校です。それから軍人の息子たちは海南中学へ行く。今の小津高校ですね。商売人の息子は、市商、高知商業ね。


それから、器用な子は高知工業。女子は第一高女。これは丸の内高校ですよ、今の。それから私立の土佐高女、今の土佐女子ですね。ほとんどがそこへ行きましたね。


僕はね、叔父が海南へ行っていたこともあり、ぜひ海南を受けたいと思っていました。将来、軍人になるという気持ちはまったくなかったけれど、海南が男らしくていいと言ったら、叔父が「おい、あっきん。君は海南、無理や」と言う。なんで無理かと問うと、そこは軍人学校でね、教練がきついぞと。おまえのへなちょこやったら、それこそ付いていけんぞ、言うて脅されてね。


じゃ、教練の一番やさしい中学校はどこかと問うと、叔父はしばらく考えて「それは土佐中くらいのもんやな」って答えたんです。土佐中は僕が通っていた附属小学校のすぐ東やから、よく見かけたし、じゃ、土佐中を受けようかとなりました。


この叔父は、母の一番下の弟で、山本幸雄(ゆきお)といいます。昭和2年生まれでしたから、僕とは5歳しか違わない。僕の一番の遊び相手で、子どものころから「叔父さん」なんて呼んだことはない。「幸雄さん、幸雄さん」と呼んで、兄弟のように育ちました。高知新聞に長く勤めて、80歳で亡くなりました。


結局のところ、土佐中学校を受験し、なんとか滑り込みましたよ。僕たちの小学校の秀才二人は、学校推薦で入ったんですけどね。昔は、そんなこともあったんです。その同級生二人はね、土佐中、土佐高と出て、東大へ行きました。やっぱり頭のいい子は違うなぁと思いました。


僕らは推薦組じゃなくて、土佐中学校を勝手に受けたんです。そうして、終戦直前の土佐中に入ったんです。


高知市大空襲で、すべて焼けて


土佐中学校に入学した年の7月4日に高知市は大空襲にあいました。高知駅からはりまや橋、桟橋まで、また、上町までの電車通り沿いはことごとく焼け野原になって、全部見通せました。住まいも店も、学校も全焼しました。


夜が明け始めたころ、空襲が始まりました。夏の夜明けですからね、4時か、5時頃。父母は新京橋にいましたが、僕はじいさんのいわゆる寓居というか、土佐中のすぐ近所にある別宅にいました。


じいさん、ばあさんと一緒に逃げたわけだけど、じいさんというのがへそ曲がりで、絶対に防空壕に入らない。僕は、いったん、ばあさんと防空壕の中に避難したんです。出たときには、じいさんは大やけどしていて、子ども心にも『これは、いかんな』と思いました。


しかし、それを介抱する手立てもなく、そのまま置いて、高見の方へ逃げるしかありませんでした。どんどん焼夷弾が落ちてくるからね。高見まで行くと、空襲はまったくありませんでした。ほんの2ブロック、その差でしたね。


帰ってみると別宅は全焼。仕方なく与力町に住んでいる叔父を訪ねましたが、そこもまる焼けでした。その叔父と僕と姉と、あと2人の親戚の子を連れて、その5人で、その日のうちに波介村、今の土佐市にある母静の生家まで歩いて行きました。


親父やお袋がどうなっているか、わからんままね。じいさんも心配でした。親父がオートバイで探し回って、なんとか見つけたものの、じいさんはもう大やけどで、結局、その日のうちに病院で亡くなったって。これは後から聞いたことです。


大嶋校長のもと、土佐中学校の再建


7月4日の高知市空襲で、住まいだけでなく土佐中の校舎も焼けました。木造でしたから、ほぼ全焼です。4月に入学して、学徒動員で6月に麦刈りに行って、その後すぐ焼けてしまったものですから、たいへんでしたわ。しかし、その当時の大嶋光次校長というのは、これはすごい方やったね。


もともと土佐中学校は、宇田、川崎という両財閥が私財を投じて創った学校です。幕末から明治にかけて、高知県は龍馬をはじめ、谷干城らいろんな素晴らしい秀才を輩出してきました。そういう傑出した人物を育てる、英才教育に特に力を入れるということで、宇田家と川崎家がお金を出して創った学校なんですよ。


ところが、敗戦になり財閥が解体されて、もう川崎家、宇田家からはお金が出なくなりました。大嶋校長は、当時の進駐軍、GHQね、これは県庁にあったんですが、そこへ行って、高知県の総司令官と面会し、土佐中学校の再建への支援を願い出たんです。

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旧校舎、後方に女子師範も見える →


当時、浦戸の航空隊というのがありました。それから、今の高知龍馬空港、あれは、当時、海軍の飛行場だったんです。それらをアメリカ軍が占領し管理していました。その瓦、材木でよければ、大嶋さん、君にあげる。ただし、それを持ち運び、建てるのは学校でやってくれ、となりました。


その作業に僕たち生徒も動員されたんです。あの当時は4年生が最上級でしたが、みなね、農人町から大きい木造の船に乗って、日章まで取りに行ったんです。太平洋に出て、そうして瓦や木材を運んで、農人町へ荷揚げして、農人町からはトラックへ移しかえて。そうやって土佐中まで運んだものです。


それを僕らは、3年ほどやらされた。自分たちで棟材、瓦運びをやって、バラック校舎を建てたわけです。大嶋校長のもとでね。


当時の『悪りことし』中学生


土佐中学校は、僕たちから1年あとの27回生までは男子校でしたが、28回生からは男女共学になり、女子も入るようになりました。いろんな人に入ってもらって、入学金も取り、授業料も上げたんです。それまでの僕らの授業料は非常に安かったですよ。


というのは、宇田・川崎の財閥が運営していたからね。お金のない頭のいい子を寮へ入れて面倒をみていました。学費だけでなく、寮生活させて食べさせ、すべてをみたんですよね。そういうよき時代でした。僕ら、悪りことしは別で、ちゃんと授業料を払ってましたけどね。


中学生の悪りことしというのはね、まず不良の真似をするんです。不良はなにをしているかというと、詰襟のボタンを外して、帽子をちょっと斜めにかぶる。それからタバコを吸うんです。これが不良のしぐさです。それにみな憧れていました。これは、アメリカ映画の影響も大きいね。アメリカ人が、うまそうにタバコを吸うんですよ。


高知へもアメリカやイギリス、オーストラリアから進駐軍が来てたでしょう。そこから親父がタバコを買ってくるわけですよ。キャメルなんかね。その親父が買ってくるタバコをよく盗み取りして、僕は中学3年から吸ってたんです。まさに不良だね。だけど、秀才面してタバコ吸うのも、結構いましたよ。僕は、勉強せん、ぼんくらだったけれども、真似だけは一応やった。


後は女学生とね、ほとんどが土佐女子だったけれども、一緒に鏡川でボートに乗ったりしてね。今でいうデートです。うん、楽しかったですよ。土佐女子の女の子なんか、これも不良ですよ。まじめな生徒は来ないからね。


美味しいお汁粉屋があるとか、あそこのあんみつがうまいとか言って、よくその女の子たちと食べに行ったものですよ。僕も甘いものが好きだったから。不良っていっても、かわいいもんです。懐かしい思い出です。


あの頃の懐かしい映画の数々


母方の祖父がすぐ近所で映画館をやってたせいで、幼少時から映画は僕の生活の一部でした。まずは、鳳館のチャンバラ映画ね。僕の好きな俳優は、雲井龍之介とか、大乗寺八郎だったね。紅トカゲといって、覆面して、白地に紅のトカゲの柄の着物を着て、それでチャンバラする。その真似をしたもんや。それが僕の日課だったよ。


戦前は映画を活動写真といってました。おもに大都映画で、日活なんかもチャンバラ映画が主体だったなぁ。あと、松竹、東宝の現代ものがありましたね。いわゆる新派です。


昭和13年、映画を観に初めて叔母と行きました。それが『愛染かつら』で、僕にはちっとも面白くない。もう金輪際、新派の映画は観ないぞと思ったね。当時は、『旅の夜風』という主題歌と、上原謙と田中絹代が演じた津村浩三、高石かつ枝の恋物語が大評判だったけど、僕はまだ小学校へ上がる前。子どもが観たって面白くないわね。


でも、映画館へあんなに行列して入ったのは、初めてでした。それが、今の高知大丸のところにあった世界館という松竹の封切館だった。僕は、それまで、ほら、チャンバラばっかり観ているでしょう。上原謙や佐分利信は、後で知るんですけど、そんな現代ものなんか面白くないわけよ

けど、その当時、桑野通子という女優さんがいてね。子ども心にね、素晴らしくきれいな女優さんやなぁって思ったんです。この人は、東京のダンスホールでダンサーやってて、そこで映画界の方にスカウトされたと言われていました。非常にモダーンで、いわゆるスーツ、帽子の似合う女優さんでしたね。


そのあとが、高峰三枝子とか小暮美千代とか、あのクラスです。その時代になると、みなさん、よく知っていますよね。


戦後になると、外国映画もよく観るようになるんですが、子どもの頃からずっと、僕はこんなふうに映画三昧の生活でした。


初めて上京、そこで見たのは・・


昭和26年に、僕は初めて東京へ出ました。土佐高校(最終頁※6参照)は私学だから、公立より早く卒業式があって、大学受験するからと2月に東京へね。けど、僕は全然勉強してなくて、受かるわけないんですよ。友人はみな、東大とか京大とか、私立では慶応や早稲田とかに行きましたけど、僕はそんなの通るわけはない。親には受験すると嘘をついて、東京へ遊びに行ったんです

僕はやはり日本人ですから、上京してまずしたことは、皇居遥拝でした。東京へ着いた翌日、皇居へ行って、二重橋の前で最敬礼しましたよ。その帰り道、日比谷公園のほうで、人がバタバタと走っている。なんのこっちゃと思って、追っかけていくと、「マッカーサーが出てくるぞ」と言う。


極東軍最高司令官ジェネラル・ダグラス・マッカーサー。天皇陛下よりも偉かった人ですよ、当時は。僕も走って見に行きましたよ。


ちょうど昼ご飯の時間帯、GHQ、今の第一生命ホールのところでした。昼は家族と一緒にランチをとるので、車で出てくるわけです。家族はアメリカ大使館に住んでいましたからね。今の第一生命ビルを見てもわかるように、柱がそびえ立ち、石段もかなり高い。その両脇でGIが捧げ銃をしてね、そこにマッカーサーが出てくるんです。


マッカーサーは朝鮮動乱で北爆をやると言って、トルーマンと喧嘩して、首になる。ちょうど、その時期なんですよ。その証拠には、それからすぐ後の3月か4月に、彼は解任されて、アメリカへ帰るわけです。


そのマッカーサーが出てくるって、ものすごい人でした。僕はすばやかったから、一番前へ行ってね、手持ちのカメラでマッカーサーの写真を撮りました。初めての東京見物の第一の収穫は、このことでしたね。


もう一つの収穫は、お堀端に今もある帝国劇場で観た『もるがんお雪』です。帝国劇場は、今は改装されてくだらん建物になっていますけど、昔の帝国劇場は立派だったですよ。


『モルガンお雪』は、アメリカ人のJ・P・モルガン、いわゆる銀行家の金持ちと日本の芸者との恋物語を菊田一夫が脚色、演出したものでした。僕はそのころ、菊田一夫は知らなかった。でも、モルガンを演じたのが古川ロッパ、お雪さんが宝塚を退団したばかりの越路吹雪で、それは楽しかったですよ。


僕、ほやほやの高卒の18歳でしょう。入場券は結構高かったと思うけど、そこで『モルガンお雪』を観て、わぁ、東京やなぁと思いました。


次に有楽町へ行くと、日劇ミュージックホールというのがありました。日本劇場という、円形のホールの中にね。映画とレビューを交互にやっていて、ものすごくいいダンサーがいました。


ちょっと外人ばりの、手足の長い、日本人離れしたダンサー。それで、僕も、今度は一生懸命ダンスを練習しようなんて思いましたよ。


高知へ帰ると、お袋が「どうだった」って訊くから、「いやー、受からんかった」って。受からんわけよ、受験してないんやから。それだけね、ひどい息子だったんです。お袋は、随分悲しくて、頼りなく思っただろうねぇ。


学生時代はダンスとバイトに明け暮れて


この後、東京の予備校へ行くからと嘘をついて、また、東京へ出ました。駿河台予備校と言う有名な予備校。今でもあると思います。行く言うて、行かずに、また、遊んでいたわけ。昭和26年から27年にかけてです。


でも、そのあくる年に、今度はちゃんと明治大学を受験しました。受けに行っただけじゃなくて、明治大学商学部へ入学したんです。早稲田へ行きたかったけど、早稲田、慶応はお金がたくさん要るから。明治も学費は要ったけどね。


それが不思議なことに、受験の半年くらい前に、明大の春日井教授・・だったかな、その先生と電車の中で偶然、向かい合わせになってね。「君は今、どうしているか」って訊かれて、「僕は今、高校出て浪人中です」と答えたんです。そしたらね、「今度、うちの明治へ来たまえ、そして、僕のゼミを受けたまえ」って。


僕は、教授がそう言ってくれたら、もう無試験で入れるもんとばっかり思って、世田谷のその教授宅を訪ねたんです。すると、「バカ言っちゃいけないよ。ちゃんと受験してもらわなくては困る。合格したら、僕のゼミを受けに来なさい」と言われました。


それで、なんとか滑り込んで、『よし、春日井教授のゼミ受けるぞ』と。だけど、ゼミに入るには試験があったんですよ。20人くらいしか採らないから、試験するんです。受かるわけないわ。そりゃ、難しかった。


春日井教授は、経済学の先生。いわゆる近代経済です。教授のゼミを受けた者は、その当時の一流銀行、第一銀行とか三井、三菱銀行とか、野村證券とかへ採用になるというわけよ。俺なんかが通るわけない。ゼミの試験で入れんのだから。やはり、大学はすごいなぁと思ったね。


それで、僕の学生生活は、麻雀と玉突き、それと音楽で始まりました。レコード喫茶というのがあってね。ジャズ、タンゴ、シャンソン。もう、いろんなところへ行きましたね。楽しかった。明治大の先輩にハイカラな遊び人がいて、レストランとか洋酒バーとか、それからダンスホールにも連れて行ってもらって、不良を仕込まれたわけ。まぁ、素質もあったんだけどね。


そのかわりアルバイトもしましたよ、キャバレーでね。その当時、銀座のキャバレーは、昼間はダンスホールになっていました。だから、昼はダンスを覚えて、夜はキャバレーでウェイターのバイトをやったりしました。


そのうちに、バーテンダーの空きができたんです。ある先輩がとんずらしていなくなってね。「お前、まぁちょっとやってみろ」となって、それで、バーへ配属され、そこでまねごとを覚えました。


今思い起こすと、銀座に『機関車』というバーがあって、そこへ先輩が連れて行ってくれたんです。そこで生まれて初めてカクテルを飲みました。後から知ったことだけれど、その時のバーテンダーが鈴木雋三(しゅんぞう)という、後の日本バーテンダー協会の会長になった人です。僕のお袋と同じ明治43年生まれのバーテンダーでね、もちろん故人になっています。有名な『クール』の古川緑郎(ふるかわろくろう)とかね、名だたるバーテンダーが活躍していた頃の銀座。『機関車』も、あの時代を代表する銀座のバーの一つでしたね。


ちょうど朝鮮動乱のあとで、所得倍増の時代が始まろうとしていた頃ですよ。景気はずっと右上がりで、キャバレーにみなよく来ました。有名人も悪も、金持ちもね。僕はバイトをしながら、なんとか食いつないでいました。昼間はダンスホールに行って、夜はキャバレーで働いてという、そういう生活を続けて、ダンスの腕は上がりました。


母の商才で喫茶店『ユリヤ』開業


家業の方はというと、戦後も写真屋を続けていましたよ。進駐軍のヤンキーがフィルムを欲しがって、物々交換が始まったんです。ヤンキーも金がないものだから、タバコ1カートンをおやじのとこに持ってきて、それと撮影用のフィルムを交換するんです。


ちょうど中学生の生意気盛りの頃でね、僕も下手な英語を使ってやってみましたよ。ところが、全然通じないんよね。テン、ツエンティと言うと、テンはテンですけど、20をツエンティとヤンキーは言わない。トニー、トニー言うんよね。俺、なんでトニーって言うんやろうと不思議でね。20円だから「ツエンティ円」って言うと、「テン、トニー?」って訊いてくるわけですよ。そんな思い出がありますね。


進駐軍からもらったものは、タバコだけじゃなかったんです。オーストラリア人なんかは、バターとかチーズを持って来ていました。これも田舎の子は知らんわけで、「おまえ、チーズ食ったことあるか」って言うと、「いやー、ない」。それで、俺がチーズの缶詰を渡してやると、なんか旨いような、不味いような顔して食ってましたよ。


そんなわけで、我が家には、コーヒーの缶詰、MJBとかヒルス&ブロス、それにハーシのチョコレートとかまでが山のようにありました。すべてフィルム欲しさに進駐軍が持ってきたものだったんです。その一方で、日本人はまだカメラとか、写真を写すとかいう余裕がなかった時代で、家業の写真屋はじり貧になるばかりでした。


そんな中、うちのお袋は商才に長けてたものだから、『よし、これで喫茶店やろう』となったんです。それが『ユリヤ喫茶店』の始まりで、まずは上町4丁目に立ち上げました。昭和22年だったかな。これは大当たりでした。


su4.jpg昔の新京橋大西時計店辺り →


その後、焼けた新京橋の店の辺り一帯を中央公園にすることになり、代替地として帯屋町をくれたんです。今は『池田洋装店』と紳士服の『原』になっています。2店とも大きな店舗ですよね。2ヶ所に分かれたのをもらったけれど、どうしようか。喫茶店をするには帯屋町は向かんだろうと考えているとき、柳町の角っこに売地が出たんです。だから、帯屋町の替地を売って、そこを買い、喫茶店を上町から移して、そこで新たに始めました。


それが、昭和31年だった。『ユリヤ』では、親父がコーヒーを焙煎して、お袋がパンケーキ焼いたり、おぜんざいつくったりね。夏は氷が評判でしたよ。クリームぜんざいとか、ピーチアイスクリーム。当時はまだまだ珍しかったからね。お袋も親父もハイカラ好きだったから。まぁ、今考えたら、特にお袋はえらかったと思うね。

(下巻に続く)


<参  照>


※1 新京橋:

新京橋は現在の高知大丸前に架かっていた橋で、この橋のすぐ西に当時の高知を代表する繁華街の一つである新京橋通りがありました。鈴木時計店と鈴木写真館は軒を連ねて通りの南側にあり、堀詰電停前だった鈴木さんの母方祖父の映画館鳳館も、すぐ近所でした。当時はみな、堀詰で電車を降り、新京橋、京町と歩き、映画を観たり買い物をして、はりまや橋からまた電車に乗って帰ったそうです。


※2 子やらい:子どもの養育の意


※3 エビ玉や箱瓶:

エビ玉は直径約12pで柄の長さ約20pの小さな玉網。箱瓶は底にガラス板を嵌め込んだ木製の箱型のもので、蓋はなく、これを水中眼鏡のように使って川底を見ながら魚を獲った。


※4 えいし:良い衆の意。土佐弁では、「良い」を「えー」「えい」と言う。


※5 ぼっちり:土佐弁で、ちょうど・過不足がないの意。


※6 土佐高校:

鈴木さんが入学した土佐中学校は、昭和22年4月1日に新制中学校を併設、昭和23年4月1日には新制高校に昇格し、校名を土佐高等学校、土佐中学校と改めた。

posted by ききがきすと at 22:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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