2015年06月29日

ひとすじの道

語り人 山口益宏(やまぐち ますひろ)さん


長嶋茂雄氏と同年同月同日生まれです


yama2.jpg私の生年月日は、二二六事件のあった昭和11年の2月20日です。実は、あの長嶋茂雄さんと同年同月同日の生まれです。今日の交わりに呼んで頂いたのもそうですが、2月は私の生れ月でもあり、いろいろなご縁がある月のようです。(山口さんにお会いしたのは2月18日)

私が、小学校の4年生だったでしょうか。昭和20年8月15日に、日本は戦争に負けてしまいました。


当時、テレビは無くラジオの時代でしたが、ラジオからはキリスト教の伝道というような放送が流されていて、ドラフトも配られていました。


私は、なんにでも好奇心のある年頃でした。アメリカという国はキリスト教と関係があり、日本は神の国だから絶対に戦争に負けるはずはないと思っていました。なのに、その日本がアメリカに負けたということは、アメリカという国は素晴らしい国ではないかと思いました。また、ラジオではルーテルアワーという放送があって、「関屋五十二の聖書通信講座」がありました。その受講を終えると、誓詞をくださったのです。


そんなことから、私はキリスト教に関心を持ちました。そして高校二年で受洗し、それからずっとキリスト教に関連した仕事をしてきました。現在もルーテル教会に所属しています。


当時は大らかな時代でもありました。私の両親は仏教で、私自身はクリスチャンですから、きれいさっぱりと仏教は捨てれば良いと思うのですが、いちおう長年のご先祖ということもあります。だから捨てるということはなく、今日まできています。現在、唯一、私の跡を継いでくれているのは長男で、牧師の道を選んでいます。


クリスチャンとなり教師の道へ


yama1.jpgクリスチャンとなり、キリスト教の学校に43年間勤めることになりました。東京都北区にある、「聖」と書いて「聖学院(せいがくいん)」というところです。似たような名前の学校が玉川にもあって、先般イスラムで話題となった「後藤健二」さんは、玉川の聖学院の方でお話されたりしていました。彼は、田園調布の日本キリスト教会の信徒でした。


私の父親は教員であり、私は一人っ子でした。反抗したい気持ちも多少あって、免許は取っても教師だけにはなりたくないと思いながらも、いちおう教師の免許を取りました。


高校は都立青山高校でした。後輩には、俳優の「橋爪功」がいます。大学は東京理科大学です。当時一番やさしいと思われた数学科の数学の教師の免許を取り、ついでに理科の教師の免許も取りました。


今は、理科といったら細かな専門分野があって、一つ一つ分野ごとに資格を取らないといけないらしいです。でも、私の時は、同時に取るのは難しかったのですが、数学をやりながら、理科の免許取得に必要な実験2単位である生物のカエルの解剖を、夏休み期間中にやって取得できました。おかげで、中学と高校の数学と理科の分野、全部を教えることができました。


由緒ある聖学院に勤務


聖学院は、幼稚園から大学まで小中一貫校ですが、中学と高校だけが男子と女子に分かれます。私は中学と高校で男子校(東京都北区中里)を教えました。最寄り駅はJR駒込駅です。


聖学院の中に中里幼稚園というところがあるのですが「芥川龍之介」の二人の息子さんのうちのどちらかが卒業されています。聖大学(埼玉県上尾市)は、東大の教授だった「羮尚中(かんさんじゅん)」氏が、つい最近まで学長をされていました。学院は、そんな由緒あるところです。


私が所属するのは、日本キリスト教会の中のプロテスタントです。カソリックもそうですが、宣教師の人たちは船で日本にやってきました。東京は築地から入り、横浜や神戸からも入りました。


そして、田端に神学校を創ったのが始まりとなり、聖学院は現在100年が経っています。神学校から、普通の学校に移行したのですが、生徒数は現在おおよそ1000人弱かと思います。


YMCAでの活動


キリスト教の関連で「YMCA」(キリスト教青年会)という団体があります。聖学院はそちらの活動もしていました。戦時中には「YMCA」という言葉が使えませんでした。先生たちの間では、日本名の「日本キリスト教青年会」よりは「ベリアン会」という名前をつけようではないかということになりました。


名前の由来ですが、新約聖書の中に『人言行録(ひとげんこうろく)』といってお弟子さんたちのことを書いたものがあります。その中に、イスラエルで布教されていたパウロという方の記録に、異教徒の人たち(キリスト教の前の時代ですので、ユダヤ教の信徒)が一生懸命キリスト教の勉強会をしていて、ベリアン会=平理安会という名前で活動していたという内容がありました。それで「YMCA」を日本語的に「平理安会」と呼ぼうとなったようです。


私は数学を教えていたけれど、クラブ活動として「ハイYMCA」(ハイスクールYMCA)の活動を在職の後半にやり、退職前の二〇年くらいその活動をしていました。私が引き継いだ時「ハイYMCA」は、私の受け持っていた子供たちにお年寄りの施設だとか、北区にある社会福祉協議会と連携して奉仕活動をさせたりしていました。


生徒についてですが、聖学院は、もちろんキリスト教の学校として礼拝の授業はありますが、生徒は皆必ずしもキリスト教徒という訳ではありません。ですが、やはりクリスチャンの学校ですので、道徳の授業の提出課題が二つあります。一つは、教会に行って礼拝を受けて、週報にその感想を載せなさい。もう一つはキリスト教の本、例えば『塩狩峠』(三浦綾子著)などの本を読んで、感想を述べなさいというのがあります。


「YMCA」の活動は、国内だけでなく世界に広めるという役割があります。イギリスでスタート(現在はイギリスではなくなっています)し、アメリカでは費用の安いホテルなどの施設を利用して活動しています。


日本の「YMCA」は健在ですが、借金を抱えたことがあります。富士山のふもとの「山中湖」とか長野県の「野尻湖」など湖にある施設を売却しようとしたけれど売れませんでした。東京神田の美土代町の会館を、たしか住友不動産だったと思いますが買い取ってもらったこともあります。


その一方で、御殿場に「東山荘」というのがありますが、「東山荘」は東京とか山梨とか神戸とかの「YMCA」で同盟(皆でまとまって)して、売却せずにキャンプ地として守ったというようなこともありました。


なんと、クモ膜下を発症する      


yama3.jpg 神奈川県伊勢原市にある小田急線の愛甲石田という駅の近くに、父が住んでいた家があります。父は九十六歳で亡くなっていますが、家も土地もそのままに残っています。私は、現在東京の江東区に住居はありますが、江東区の住まいは趣味の書道をやるには狭いので、教会で日曜礼拝が終わると、夕方父が住んでいた家に行ったりしています。


その時も、日曜の礼拝が終わった後、夕方六時くらいに父の住んでいた神奈川の家に行き、次の水曜日の朝に、小田急線で新宿までむかいました。


私は普段、交通費を節約する意味から、2種類の回数券を使っています。一つは「時差回数券」。12枚綴りで、10時から16時までの間に改札を通るものです。もう一つは「土・休日回数券」。14枚綴りで、土・日・祭日乗車できるものです。両方を使いこなしながら、愛甲石田から新宿まで乗車しています。


3年前の6月6日水曜日午前9時58分、小田急の愛甲石田発の電車三両目のシルバー席のところに荷物を載せ、新宿にむかって約3分くらいの間にクモ膜下を起こしました。自分で荷物を載せたまでは憶えていたのですが、次の本厚木駅までに意識が無くなりました。


時間との闘いですから、すぐに本厚木の救急病院に搬送されましたが、クモ膜下ということで「東海大学病院」へ移されました。


でも幸いにも、脳に動脈瘤が無かったことで、手術をすることなく自然のうちに助かったようです。電車の中ではなく、一人でいる時に起こしていたらどうなっていたか分かりません。奇跡だと思います。


牧師の資格は神学校で


 私の長男は、神奈川の鵠沼(くげぬま)で牧師をして3年になります。日本ルーテル教会は、東京では飯田橋・六本木・池上・竹ノ塚・西東京・杉並など、神奈川では鵠沼・横浜・大船・戸塚などの分区があります。私は六本木教会の信徒ですが、今年のデータですと、これら全部の分区で牧師が決まったようです。六本木では新卒で20歳後半の若い人が採用されました。


 牧師は65歳定年(65歳以上の方もおられますが)です。仏教などと違って会社組織のようになっていて、給料などは信徒との契約で取り決められています。


 私の所属するルーテル教会は、アメリカから入ってきましたので、第二次大戦中は布教していませんでした。(フィンランドとかヨーロッパ系のルーテルもありますので、そちらは戦時中も布教しています)戦後、日本ルーテル教会と福音ルーテル教会が合体して、三鷹に神学校をつくりました。


 牧師になるためには、三鷹の神学校で勉強して資格を取ります。新卒の人が牧師になる場合は、担当者の相談の上で選ばれることになります。現在、牧師さんのなり手はあまりないのが現状です。


教団は収益事業も手掛けます


教会の信徒は、どんどんお年を召してきて、年金で暮らしている方が多くなり、昔みたいには献金ができなくなっています。教会としてもお金が無いと、牧師さんの給料が払えないということがあります。そのため、日本ルーテル教会は事業をしています。具体的に六本木教会でいうと、森ビルに地上権を貸しています。またファミレスのようなところに土地を貸して、収益事業をやったりしています。利益は教団に入り、教団から教会に援助をするというようなかたちになります。


六本木教会の収益事業についてですが、森ビルの人は、私たちの教会を仲間に入れることで、森ビルの中にも教会を取り込みたいと思ったようです。近くには霊南坂教会や鳥居坂教会などがありましたが、唯一、私たちの教会が一緒にやりましょうと言われました。でも、教会は、この誘いには乗りませんでした。


森ビルのある土地の名義は教団の持ち物で、そこに建っているビルは、三階までがアメリカンスクールの幼稚園、4階〜7階くらいまでが賃貸マンションです。収益事業として森ビルは利益を上げ、その利益の半分を教団に還元してもらっています。


それで私たちの教会は、一銭も出さないで三億の教会を建ててもらいました。ホリエモン、村上ファンドの社長などが住む建物の近くにうちの教会はあります。


貸している土地というのは、もともとは終戦後にアメリカの宣教師たちが、自分たちのお金を持ってきて買った土地です。しばらく名義は宣教師たちでしたが、その後に、教団に移し替えられたのです。ですので、他の教会と違って、私たちは自分たちで献金をして土地を買ったのではなく、アメリカの宣教師の方が出して下さったという優雅な状況がありました。


 牧師さんたちを支えるのは信徒の献金だけでは賄えないので、いろいろな場所を貸したりしている訳です。英語を話すようなアメリカの子供たちの施設として貸したり、ハンドベルの演奏会に使ってもらったりしています。税金の関係もありますので、献金という形で教団に収益を入れています。


東日本大震災のあった日


yama4.jpg東日本大震災のあった3月11日のことをお話します。その日は金曜日でした。


北区王子の「北とぴあ(ほくとぴあ)」で書道のお稽古がありました。他の用も少しありましたので、私の作品が「褒賞」という賞に入り、池袋のサンシャインで展示されていたので、次の日の土曜日に、それを見に行く予定でした。


でも、これは神さまが教えてくれたのでしょうか。


11日の金曜は、予定を変えて、午前中にサンシャインに作品を見に行き、「北とぴあ」へは午後二時くらいに着きました。地震で揺れた時は、「北とぴあ」にいました。私の後でサンシャインに行った人たちは、地震で崩れて作品を見ることはできなかったのです。


「北とぴあ」でもエレベーターは動かず、歩いて階段を下りました。その後、六本木教会で鵠沼から招くつもりの牧師さんと、午後4時くらいに会う約束をしていました。でも、地震のため王子から六本木まで電車は動かず、タクシーを待つのに5時間、乗って四時間もかかってたどりついた記憶があります。


趣味は書道とコーラス

私は43年間聖学院に勤めて、2001年3月に退職し、その後は年金生活です。

趣味としては書道をやっています。読売系のものですが、一度「秀逸」という賞を取ったものですから、その後は会費を納めながら、会の評議員になっています。評議員の作品は、都の美術館に展示されます。


 書道は退職する2年前くらいに、勧められて始めました。展覧会に出品するのには、大体1回で5万円かかります。その費用はランクが上がるごとにかかり、最高ランクの日展では100万くらいかかるらしいですが、作品は六本木の新国立美術館に展示されます。私の所属している会では、池袋サンシャインや都立美術館に作品は展示されます。


 また、私はコーラスにも入っています。聖学院の男子の卒業生のグループに首を突っ込んでいて、女子の卒業生グループと混声合唱団を組み、月1回練習しています。毎年11月の最後の金曜日に、市ヶ谷のルーテル教会で発表会があります。


皆さんご存知の六文銭の「小室等」は私の教え子ですが、この発表会に私(わたくし=個人的)で参加してくれたりしています。彼は、聖学院の時はなんと体操部でした。なぜ体操部だったかというと、女子生徒が見てくれるからだった…そうですよ(笑)。その後、彼は多摩美術大学を出て、スカウトされたのでしょうか、歌の道へ進みました。


混声合唱団では、キリスト教ということで、メサイアやワルツの唄などを歌います。英語で歌いますが、ぼろが出ないよう?…、今度歌うのは、独特のなまりのある二グロソングの予定です。


メンバーは女性の方が多く、全部で30人くらいでしょうか。年代は一番上が80歳に近くて、先生も80歳を超えています。先生は、私と同じ鵠沼教会に居られたり、聖学院で教えられたりしていて、私の結婚式でもお世話になったり、なにかとご縁のある方です。


イースター(復活祭)の卵


 少し余談になりますが、キリスト教ではイースター(復活祭)の時には卵が配られます。クリスマスや、クリスマスイブは毎年同じ日に決まっていますが、イースターは毎年違い、春分の日の後の満月の直後の日曜日になります。(4月の第一日曜日)


 いきさつは、キリストが十字架に架けられ命を落とした時、昼なのに真っ暗やみになり、その3日後に復活されました。殺されたのは金曜日で、死から蘇り復活されたのは日曜日となります。ひよこは卵から蘇るということから、イースターでゆで卵が使われるようになりました。

枯れていた草木が芽を出してくる、死から蘇る時期にうまく合わせているのです。しかし、オリエントや東洋には合いますが、南半球ではこれとは時期的に合わなくて、うまくないように思います…が。


教会には今も通っています


 定年後の活動としては、教会にずっと通っています。私は信徒の代表にもなっています。誰も引き受け手がいないということもあってやっていますが、牧師さんの代行をすることもあります。説教も証(あかし)といって、体験話などを「平理安会」や「人言行録」の十七章などキリスト教に合わせて話しています。


 平日は、6時28分の朝一番のバスに乗って、旧葛西橋から秋葉原に行きます。休日は、6時35分に出かけ、清澄白川に7時前に着いて、大江戸線始発6時52分で六本木の教会に行きます。一番乗りなので、自分で教会を開けています。日曜礼拝には、だいたい10人前後の人がやって来ます。


5人の子どもたちが支えてくれます


 私には5人のこどもたちがいます。長男は結婚して、鵠沼で牧師として働いています。


次の子の長女は、生まれながらに心臓に疾患がありました。当時、長女は学校の健康診断で結核だと言われたため、家族全員が結核を疑われ、結核予防法の適用で6ヶ月間は薬を投与しなければなりませんでした。私の親族にも医者がおりましたので、「ストレプトマイシン」は耳が聞こえなくなるからやめなさいということで投与しませんでしたが、「パス」と「ヒドラー」という薬は6ヶ月投与しました。


長女は、X線の写真で肺に影があったので結核を疑われても仕方がなかったのですが、生まれながらに「心房中核欠損」といって、心臓に穴が開いていました。うちのかみさんがその当時、風疹にかかったのが原因かもしれません。


長女は心臓の手術を2回していて、1回目は心臓の穴をふさぎ、6ヶ月後に再手術で、「僧帽弁」を取り付ける手術をしました。最初は穴をふさいだら大丈夫と言われたのに、弁も働いていなくて、再手術では成功率五分五分の確率でした。輸血が必要なため、私が勤めていた学院の生徒さん30人くらいを集めてお願いし、「順天堂大学病院」で人工弁の僧帽弁を入れて助かることができました。今は、社会人として「三菱商事」で働いています。


長男と長女は短期ですが、私の勤めていた聖学院で学びました。長男は高校の3年間。長女は、今は消滅しましたが、短大の2年間です。


次女は女子の聖学院で6ヶ年、次男は男子部で六ヶ年学びましたが、二人とも社会人としてのルートに乗りそこない、今は私の扶養者になっています。親父が教員である学校に子どもたちを入れ、しかも、思春期の複雑な時に入れたことを、私自身はその時は良いと思っていました。けれども、次男は反抗して、文系に進むように言ったのに、理系に進んで失敗してしまいました。


次女も、理数系が得意だから、長女の身体が弱かったので、医療関係、今でいう看護師が良いかと私は思いました。でも、看護師は文系だったのですね。わけの分からない物理や微分、積分などやらせてしまい、それでも看護学校で2年間は頑張ってくれましたが、看護師にはなれませんでした。本人は他に好きなことがあったようです。次男、次女二人とも、六年も私の学校に入れてしまいました。


現在、私の世話は、江東区の住まいで、この次男と次女が見てくれています。


三女は、いのしし年でたくましく、セーラー服の制服を着るような学校は嫌だといって、王子に近い桜ケ丘という高校で商業を学びました。大学にも行きたいということでしたが入れなくて、消防自動車のポンプを作っている会社にしばらく居ましたが、トラバーユしています。

経理が得意なので、高卒で社会人になり、今は有楽町の交通会館ビルの中で働いています。私の経理は、この三女が見てくれています。私はパソコンができないので、確定申告も彼女に頼んでいます。


私は、聖学院やルーテル教会、ユニセフなどにずっと寄付を続けているのですが、いつまでも勤めていた学校に義理立てしなくても良いのではないかと、彼女には言われています。口が達者な子なので、仕事場では男の上司とバトルをやっているようです。 


住まいが狭いということもあり、現在はこの三女と長女が、かみさんの面倒を見ながら、別に生活しています。


聖学院があったから今がある


yama5.jpgこうしてみると、聖学院の43年間は失敗のように思えたりもしますが、やはり聖学院でのことが人生で一番思い出深く、楽しかったように思います。

今でも聖学院があったからこそ続いているものがあって、例えば書道やコーラス、またつい先日もあったのですが、1年に4〜5回ご父兄の集まりにも呼んでいただいて、いつまでも若い方たちとお話できることは、とても有り難く、ぼけ防止にもつながっているように思います。


ちょっと自慢話を


 教え子たちの中にもさまざまな人が居り、各界で活躍されています。「小室等」もそうですし、人間国宝の「坂東玉三郎」も少しのあいだ接触したことがあります。直接教えてはいないのですが、将棋で竜王を取られたプロ棋士の「渡辺明」というような方も居られたりします。


日本キリスト教団というのはマンモスですので、時にはもめごとなどもあります。現在、そのマンモス教団の議長をされている石橋秀雄氏(越谷教会の牧師)は、学生時代に手品部で教えていたのですよ。手品の腹話術を使って、伝道されていたこともあります。また、教会で講談をやる資格を持っている方に「神田ナザレ」という方がいて、聖書の世界を、講談で語りながらうまく布教されています。


私と同じく聖学院を卒業した人の中には、芸術部門で現在活躍している「金子國義」という画家や、アメリカでも有名な写真家の「タッド若松」といった方が居られます。


私ばかりお話をしてしまいましたが、私にとって縁の深い二月に、皆様にお会いできて良かったと思っています。


あとがき


雪が舞うかと思われるような寒い日でしたが、山口さんとお会いし、お話をお伺い致しました。山口さんにとって、二月は何かとご縁のある月とのことでしたが、お話をされている間中、終始笑みを絶やさず、静かに語って下さいました。


戦中・戦後の混乱の中、キリスト教の洗礼を若くして受けられ、キリスト教徒として教職に就かれました。退職されるまでの長い道のりには、困難なこともたくさんおありだったと思われます。その年月を、ひとすじに歩まれてきた山口さんでした。数々の教え子さんたちと同じく、私も、人生の先輩として敬意を払いたい気持ちです。


多くの知人や友人の中には、芸術関係で有名な方々も居られ、この冊子の表紙に使わせて頂いた絵も、本文の中でも少し触れましたが、聖学園の卒業生の「金子國義」さんの作品です。山口さんも時々展覧会などに足を運ばれている方とのことです。


中にはお話にくい内容もあったかもしれません。失礼をお詫びしつつ、今後とも健康に留意され、どうぞ、ひとすじに道を歩まれますことを願っております。


ききがき担当:桑原雪枝

posted by ききがきすと at 22:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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