2015年04月06日

子らを守りて、生き抜いて

語り人  大寺一子(おおてら かずこさん)

隣村への嫁入


ootera1.jpg私は大正11625日の生まれですから、この6月で92歳になりました。学もなくて、呆けるのも早うて、この頃はとんと物忘れも多うて。こんなことでは、お話にはなりませんからと、聞き書きのお話も一度はお断りしたんですけど・・・。でも、ぜひに、とのことなら、聴いてもらいましょうか。

私たち夫婦の出会いから・・・ですか。あれは、昭和14年のことだったと思いますよ。私はまだ18歳と、本当に若かったですよ。隆さんは27歳。私より9つ年上でした。ちょうど応召が解かれて、戦争から帰ってきたところでした。

私の生まれは、北川村のすぐ隣、田野町の土生岡(はぶのおか)です。男ばかり7人の兄弟に囲まれた、ただ一人の娘でした。当時の遊びといえば、女の子は「おじゃみ(お手玉)」や「あやとり」。「陣取り」いうて、こっちとあっちに陣をつくって鬼が追いかけたり、大勢で「かくれんぼ」なんかもしました。男の子に交じって、よう「パン(メンコ)」もしたねぇ。男兄弟に随分鍛えられて育ちましたよ。里のすぐそこに小さな山がありましたので、「こぼて」を仕掛けて小鳥を取ったのは、楽しい思い出です。今は、そんなことして遊ぶ子は、もういませんけどね。

そんな男まさりに育った私でしたが、父親には本当にかわいがってもらいました。たった一人の娘を、なんとか幸せにしてやりたいと願った父の思いが、私を隆さんと結婚させたように思います。

当時は、若い男はみんな戦争に行っていましたから、嫁に行けないまま年を取る女の人も多かったんです。そんな女の人のことを「行かず後家」なんて陰で呼んだりしていました。ですから、父親は、私には何としてでも結婚させたいと念じていたようです。

それで、隆さんが戦争から帰ってすぐに、お隣の池田さんから見合いの話が出たときには、とんとん拍子に話が進んだようです。あっという間に仲人のおじさんを連れてくることになってね。

結婚までの付き合い・・・ですか。昔は今とは違いますよ。私は、どんな人やら見たこともないまま、結婚したようなものです。確かに、隆さんを実家へ連れてきて、いろいろ話はしましたよ。でも、話をしたのは父親で、私ではないんです。私は、まだほんの18ばかり。その時が見合いとも知らず、ほとんど相手の顔も見ていませんよ。上の学校へも行かず、一人で年取っていくのは可哀そうだという父親の思いが強かったんでしょうね。ただ一人の娘のために、その縁談をちゃんといい話にしたんです。

ootera2.jpgですから、あちらへ嫁いでから、やっとまともに顔を見たような調子でしたよ。言葉の一つ交わすでなく、なんの付き合いもないまま、ね。今の時代なら、若い人たちは自分たちで付き合いして、二人の気が合ったら結婚となるけれど、昔はそうじゃなかったですからね。見に来てくれたときにちらっと会うけれど、その時はそんな気もないでしょう、結婚するなんて。

だから、顔もわからないまま、親たちが話しして決めたとおりに、嫁いで行くんです。相手の家で顔を合わすまで、どんな男の人やらわからないで結婚する。当時は、それが普通でしたね。

結婚式は、嫁ぎ先の近くに星神社というお宮があって、そこでしましたね。あの当時は、花嫁は文金高島田でしたよ。田野にあった畑山という写真屋さんに、写真も撮ってもらいました。

その写真は、今もあるはずです。娘に渡してあると思います。親族全員で写したものも1枚あったと思いますよ。最近は見たことはないんですけど、言えば、出してきてくれると思います。


短くも穏やかで幸せだった親子の暮らし


隆さんは本当にやさしい人でした。翌年の6月には、女の子が生まれました。長女のお産は、土生岡の里でしまして、私の父親が「萬世子」と名付けました。実家は、二十三士の清岡道之助さんの家がすぐ近くで、道之助さんところのお姉さんに「まよさん(文末補足1参照)」という人がいて、立派な人だったそうです。あのような女の人になってくれたらと、あやかったのです。

また、こちらの舅は萬太郎といいましたから、萬太郎のような世渡りができたら上等じゃきに、萬太郎の萬をとって「萬世子」と、そう言っていました。里の父親の願いがこもっているんですよ。

萬世子が1歳になったばかりの昭和167月、隆さんは再び応召され、満州牡丹江の部隊に入隊しましたが、そのときは、2年程で元気に帰って来てくれました。

帰っても、家では戦争のことはまったく話しませんでしたね。今ね、新聞によく戦争から帰ってきた人の話が載っているでしょう。それを見て、おっとたまるか(なんてひどい)、お父さんもなんぼか辛い目におうたろう、と思うんですよ。

前歯を傷めて治療していたのを覚えています。あれも、軍隊で叩かれたのではないろうかと、今ごろになって、戦争の話を読んだり聴いたりして思うんです。軍が厳しいということもあって、家では軍隊でのことは何も言えなかったんでしょうね。嬉しいことは何もなくて、なんぼか苦しかっただろうと思いますよ。

ootera3.jpg体格は大きかったけんど、気持ちはやさしい、おとなしい人でした。きびきびとはよう動かんで、苦労したがやろう。新聞読むと、当時の軍では、暴力なんて日常茶飯事やもんね。けど、お父さんは前歯のことも、何も、戦争の話は、ほんの少しも言いませんでした。よく考えた、やさしい人でしたから。

長女の萬世子が、お父さんに似ています。性格のやさしいところが、そっくりです。この子には、お父さんの記憶がありますよ。3歳、数えの4歳の頃のことです。お父ちゃんにね、高法寺(こんぽうじ)さまへ連れて行ってもろうて、リリアン編みの袋を買うてもろうた、そう言うてます。

また、その時分、隆さんは奈半利の営林署の方へ勤めており、自転車で通勤していました。お父ちゃんが晩方帰るときに、自転車に乗せてもろうた、とも言います。萬世子に食べさせたいと、よく赤物の鯛とかをお土産に買って帰っていましたね。その時だったかどうかはわからないけど、笑ったときに、金歯がきらっと光る口元であったなと、そんなこともおぼろげに覚えているようです。

でも、そうした平穏な生活は短くて、ほんの半年で終わりました。昭和18年末に、4度目の応召となり、濠北派遣の部隊に入隊しましたから。私は、その時に4カ月になる次の子を身ごもっていました。もうそれきり、行ったきりになるとも思わず、見送ったことですよ。

その頃には、萬世子はカタカナをちゃんと書いていましたから、私はお父さんに手紙を書かせたりもしましたよ。本も空で読み、ちゃんと大人に聞かせるので、隆さんにも知らせたいと思いました。

でも、今度は遠い遠いニューギニアで、便りもなかなか難しくて、翌年7月に生まれた次女のことも届かぬままだったのでは、と思っています。

いっしょに世渡りして夫婦の形をつくるには、あまりに間がなかったですよ。だから、隆さんについては、やさしい、いい人だったという思いだけです。


この子らと生きると決めて


最後の応召では、ずっと南へ行ったんです。昭和19104日、ニューギニア島ヤカチにおいて戦死(行年32歳)したと、知らせて来ました。でもね、遺骨一つ帰るでなし、ただ名前が入っただけの箱が来たんです。それっきり。

あの時代は、そんなもんでしたぞね。四角い箱には、なーんにも入っていません。名前だけ。木の札だったか、紙の札だったかは、もう忘れましたけどね。

私は「お父さん、軍服といっしょにお祀りしますからね。暖かく着て、静かに眠ってくださいね」と言いました。もう軍服が要ることもないと思い、一緒に埋めましたよ。

当時は、そんなことでした。そんな辛い思いをしたのは、私一人ではなかったですから。若い人はみんな、そう。今の若い人は、本当に幸せですよ。

私は、まだ22歳でしたから、里の父親は随分心配し、気を揉んだことでした。「おまえ、まだ将来は長いぞ。これからが人生じゃ」と言うて。「今から一人で暮らすということは、たいへんじゃ。子どもを連れちょってもかまんきに言うて、世話してくれる人が来たが、一つ考えてみたらどうか。ここにおってもなんじゃが」言うて、来てくれましたわ。

けんどね、私には2人子どもがありましたろう。私は、どんな生活ができるにしても、子どもとはよう替えません。「ここでどんな地獄して苦労してもかまん。ここで子どもを、親のない子にしとうないきに。子どものために、私は頑張って生きていくから」と、父親に言いました。「だから、お父さん、もうそんなことは、今後はいっさい話を持って来たらいかん」言うて、私は頑張りましたわ。

隆さんが出征してからできた子も女の子でした。妹の方は、嫁ぎ先で生みましたから、こちらのおじいさんが「照喜」という名前つける言うてね。私はもがりゃしません(反対はしません)。おじいさんにつけてもろうたがね。男の子のような名前じゃけんど、ね。ほんで、萬世子と照喜の2人です。



ootera4.jpg
萬世子さんと照喜さん


家族には恵まれちょったと思います。お姑さんも、がいな(我意を張る)こと言う訳でなし、おとなしい人でした。

隆さんには、お兄さんが1人、姉さんが5人おりましたが、私が嫁いだときには、お兄さんは亡くなっちょって、男は隆さん1人でした。お兄さんには女の子が1人あって、女の子じゃから高等小学校出してもろうたらいいきに言うてましたけど、お義父さんが全部ちゃんと構えて、あの子も安芸の女学校にやりました。

また、一番上のお姉さんは大阪へ嫁いで、警察へいきゆう人と一緒になっちょりました。ところが、旦那さんが亡くなってしもうて、戦争当時は、子どもさん2人を連れて、うちの隠居いうて離れがあった、そこへ帰っちょった。まぁ、長い間には、いろんなことがありましたよ。

あの時分のことは、食べるものがなくて、みんな不自由したと言いますが、私のところはたくさん田畑を作っちょったから、食料に困ることはなかったですわね。でも、労働はたいへんやった。1町5反という田んぼを作っていました。

おじいさんがようせんようになってからは、私が女の人を5人も6人も雇うてやりました。その時分は、人に田んぼを貸すと、自分でよう作らんから貸しちゅうということで、農地委員会に安く取り上げられました。私は、こんな頑固な性分でしょう。ご先祖様から預かった田畑を失うことが嫌で、どうでもして頑張りとおして、ずーっと守ってきました。

萬世子は、高校卒業するとき、進学コースで勉強していて、「お母ちゃん、大学やってちょうだい」と言うたけんどね、月々の収入がなかった。百姓じゃきね。あの子は大学行きとうて、私は「役場が奨学資金貸してくれるいうき、行って相談してくるわね」言うて、役場へ行きましたわ。でも、なんともならんかった。どういう訳でいかんという説明もないまま、「こりゃ、いかん。できん」言うだけで、私は、いまだに納得がいきません。

後でみんなに話したら、そりゃ、食べるだけの財産があったからじゃろう、と言われたけど、それならそう言ってくれんとね。ただ、いかん、できんで、私は戻って来たぞね、言うたことよ。大学へ行きたがったのに、私はようやらんかった。人を雇うて百姓をしてましたき、それを払うたら残りはありゃしませんでした。そうやって頑張ってきました。


ありがたい、今の幸せ


でも、そのお蔭で、今日(こんにち)は、幸せですよ。こればぁの、文句もありません。

 萬世子は、何度も言うようやけど、ほんまにお父さんに似ちょって、人間が温厚です。小さい時から私が育ててきまして、今はもう70余る年ですが、今だに私に「けんど、おかあちゃん」言うて、口答え一つ言うたことはないですぞね。

今、北川村の婦人会の会長をしています。自分は事務所の仕事ばっかりして婦人会の方へ携わってないから、とても無理ですと言いましたけんどね、みなさんが、私たちができることはみんなで協力して助けますから、やってください言うてくださってね。とうとう自分も断りかねたかしらん、ね。十分なことはできてないやろうけど、みなさん全員でよう協力してくれて、お蔭でどうにか、保っていきゆうらしいです。

本当に、この子は、私に似ず、お父さんに似ちゅうの。お父さんとは、ほんの3年ばぁしか連れだっていませんでしたけど、人間は本当いい人と思いましたからね。

妹の方は、私に似てね、さっぱりした性格ですわ。この子には、お父ちゃんの思い出はいっさいない。なんにも知らん。まだ、お腹にいたときに、行ってしもうたんやから、仕方ない。戦争をもう1、2年早く止めてくれちょったらね。そう思うこともあるわね。可哀そうで。

でも、まあ、高校までしかようやらんかったけど、なんとか2人を育てあげました。思い出すと、涙が出らあね。本当に、その時分の辛かったことは、話にならんきね。若かったからこそ、辛抱ができたの。でも、2人の娘は、母親が苦労する姿をずっと見てきて、ようわかってくれちゅう。だから、苦労した甲斐があって、今の私には、幸せが戻ってきています。

もう40年以上も前のことになりますが、今の婿が私んく(私の家)へ萬世子をもらいに来てくれました。けんど、話を聴きよったら、婿のところには男の兄弟が5人もあるいうき、こちらへもろうてくれんか言うことになってね。仲人さんが「そりゃ仲人の口が立たんが」言うて、頭掻いてね。

けんど、私の兄の口添えもあって、仲人さんも最後に、まあ一つ、この話を向こうへ持って帰る言うてくれました。帰ったところで、今度はいい話にしてくれて、まとまったことですわ。

この婿がおとなしい、温厚な人でね。私はこの口じゃきに、言うてきかんと承知しませんわ。でも、婿はちゃんと考えちゅうき、取り合わんことは取り合わん。ちゃんと夫婦2人が考えてくれちゅうが。ほんで、今、私は90過ぎて、こんなにしてもらって幸せで。よう子どもを捨てなんだと思うてね。

だから言うことですよ、「これほどにしてもらいゆう姑ばんばがあるろうかね。私は、こればあの文句もない。これで文句言いよったら罰が当たる」と。そしたら、「本人が、そう思うちょったら、それでえいわよ」言うて返ってきます。若い時に頑張った甲斐があったいうことやろうけど、いろいろ話を聴くに、若い時に頑張ってきても、みなみなそうはいかんでしょう。

「ご先祖様、本当にいろいろありましたけんど、預かった田畑は一つも失うことなく今日まできました。子どもも無事に退職しました。田畑は全部、もう子どもに渡しますので」言うてね、私は、仏様、ご先祖様を拝みましたぞね。あと何年生きるか知らんけど、こんなにしてもらったら、もう何にも言うことはない。幸せよ。苦労したことは、なんにも思いません。


これからも忘れることなく


ootera5.jpg隆さんのことも、忘れんと、こうして聞いてもろうて、ありがたいことです。遺影集のこの写真は、おじいさんが好きやった。

満州の寒いところへ行っちょったき、こんな服装よねぇ。おじいさんが、この写真を選んで、村の遺族会へ出しちょったがよ。私には全然話ないまま、おじいさんの気に入った写真を、ね。

 戦地から来た手紙もいっぱいありましたけんど、ほかして(捨てて)しもうたろうかね。こんなもの置いちょいても、いかん思うて。けど、ひょっとしたら、まだ一つ、二つはあるかもしれん。子どもに来たがも、あればぁあったきね。もう、わからんね。何十年も見んもん。お父さんの肩章とか、いろんなものと一緒に、萬世子に渡したように思うけどね。

最期については、わかりません。軍の方からは、直接にはなんも言うてこざったし、あの時分には、訊くこともできざった。赤道直下のどこいらまで行ちょったらしい、言うくらいのことでね。本当に苦労したろう、厳しいところで・・。私は、もう誰にも、そんな思いはしてもらいとうありません。もう二度と戦争は嫌ですね。

あの戦争から70年近い年月が経って、この頃は私らぁも、大方のことは、忘れてしまいだした。こうして遺影集に残してくれちゅうことは、本当にありがたいです。先輩の浜渦武雄さん(文末補足2参照)いうかね、あの方がこうやってお世話してくださったから、遺影集もできたし、遺族會館もね、ああして残りましたよね。

この北川という村は、先に立ってやってくれる人たちが、こういう心掛けでやってくれるから、後へ後へと残りますがね。お陰様で、隆さんのことも忘れられんと、後の人につながっていくと思うて、感謝しています。


< お父ちゃんからの手紙 >


◆大寺 一子 様(妻への手紙)


毎日忙しい日を送っていることと思います

ご健勝で今頃麦の手入れに懸命のことでありましょう

節句ですが 鯉幟もどこを見ても見えず ただ異郷の風景のみ

洋君の幟を見て 萬世ちゃんが喜んでいることと想像いたしておりますよ

節句に送金をいたしたが受取りしてください

返信は航空便にて書留にし返信を願いする

健吾で郷土にあるときより元気で働いている故あんしんしてください

皆々様によろしく 体にくれぐれも注意する様に


◆大寺萬世子 様(長女への手紙)


毎度の便りの健勝の報 嬉しく喜んで居ります

氏神様のお祭りも楽しくすんだようで誠に結構のことと思います

刈取りもそろそろ始めているようだが、豊年で何より喜ばしいことでありましょう

また近年にない柿の豊年のようにて美しい実を垣根にぶら下げていることとて子供等もほしがることでありましょう

蜜柑も又たくさんなったようで菓子の少ない昨今とて何より副食のことでありましょう

土生の方から棒峯様の御守様送ってくれました

お礼を言ってくれ 

麦蒔を待とう

体に十分気を付けて

皆様によろしく サヨウナラ



ootera6.jpg
幼い萬世子さんをはじめ家族への気遣いがあふれる隆さんの手紙


<補足1>

清岡まよ:清岡道之助は、田野町土生の岡の郷士であり、武市半平太とともに投獄された土佐勤王党員の助命嘆願を岩佐の関所に出したその足で脱藩しようとして、捕らわれ、処刑された安芸郡の二十三烈士の首領として知られる。今も残るその生家の床の間に家系図が掛けられているが、「まよ」という名の姉は確認できなかった。


<補足2>

浜渦武雄:大正4年、北川村野友に生まれる。傷痍軍人となり、昭和13年に兵役免除となって以降、北川村に帰り、戦中・戦後の多難な時代を村職員や村議会議員として活躍した。遺族会においては、歴代の会長をよく支えながら、遺族會館の建設や英魂堂の再建に尽力。また、遺族會館内部に戦没者の写真を掲げ、英魂堂内部には神仏両様にお祀りができる設備を仕上げるなど施設の充実を図るとともに、村の英霊の遺影写真集「国敗れて山川あり」の編纂出版を行った。平成4年没。


あとがき


 北川村遺族會館に掲げられた数多くの英霊の遺影。この英霊たちの声を聴きたい、確かにここで生きていたという証しを記したい、という私の思いに応えて、大寺一子さんが、夫隆さんとの思い出を語ってくださいました。

戦争のことは思い出すのも、ましてや語ることはもっと辛かったかと思われます。本当に、ありがとうございました。

 一子さんの、ご高齢とは思えない明快な語り口で、隆さんとの出会いや当時の結婚の様子が、生き生きと伝わり、暖かな気持ちになった一方で、戦争の厳しさを突き付けられ、改めて深く考える機会ともなりました。

頑張り屋の一子さんが築かれた今の幸せも、平和な日々の中だからこそです。戦争を知らない世代の私たちも、平和のありがたさを肝に銘じたいと思います。


ききがきすと担当:鶴岡香代





posted by ききがきすと at 22:59 | Comment(2) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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大寺一子さんのお話は、家族の絆と夫隆さんと過ごした短い期間の中に凝縮されていると思います。戦争の悲惨さがよく判ります。第二次大戦で無駄に失った命が余りにも多過ぎますし、ニューギニアで本当に悲惨な最期を迎えさぞ無念だったことでしょう。私の父は無事戻ってきてくれたことで、自分はこの世に生を受けました。ですから心から感謝しています。大寺さんはきっとご主人に見守られて今日があるのでしょう。だから一日でも長く生きて欲しいと思います。 Posted by 加藤 敏明 at 2015年04月07日 17:03

「こういう時代だったのだから・・・」と周りや社会を憎むでもなく、与えられた人生に必死で取り組んでいった方の話に、このうえなく正直な、強靭なひとの姿を見ました。甘えとなげやりの生き方に程遠い、真摯な姿勢を教えてくださる作品です。読んでよかった。 Posted by 清水正子 at 2015年04月08日 15:55

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