2015年03月27日
はるかなる人に 〜川島正秀さんのこと〜
語り人 川島操さん(妻)
語り人 上村繁樹さん(義弟)
語り人 川島博孝(長男)
今 も 胸 の こ こ に
語り人 川島操さん(妻)
遠いあの日、寄りおうて一緒になって
よう来てくれましたね。でも、夫のこととゆうても、すべて昔のことになってしもうて、わからんようになりました。私は大正9年の生まれで、もう94歳になります。こんな年寄りですきねぇ。
正秀さんと結婚したのは、私が数えの19歳の時。正秀さんは3つ年上でした。結婚前から互いに知り合っていたというような、そんなことはありません。同じ部落でしたから、もちろん顔は見知っていましたが、今の人たちのように好きになってというようなことではないんです。あんまり昔のことになりましたき、細かいことは忘れてしもうて・・。もう遠い遠いことです。
今みたいな結婚式もせんかったねぇ。寄りおうただけ。そうして一緒になりました。そのときに、こんな話をしたというような記憶もないです。特にはなんの話もなかったねぇ。昔のことやもんね。今とは違う。
(川島正秀さんは大正6年8月25日生まれ。昭和17年8月、大東亜戦争に応召。昭和19年4月、博多を発ち、南太平洋方面に出征。昭和19年8月4日、マッカサル海にて戦死。)
結婚してからも、どっかへ遊びに行くというようなことはなかったですよ。遊びには行きません。貧乏暇なしです。時代も時代だったから、楽しいことは全然ない。二人でしたのは、本当に仕事だけでね。いいようがないほど、仕事ばっかりしました。家は百姓で、田畑の仕事ばっかり。山での仕事もあって、これがなかなかしんどかった。昔のことは今とは違うから、仕方ないと思いますよ。
それに、一緒に暮らした年月は、今思うても本当に短かった。結婚の翌年、昭和13年10月に生まれた長男の博孝が、ようよう4つになった年の夏に、出征しましたもんね。ほんの5年くらいですかね、結婚して一緒におったがは・・・。そんなもんじゃろねぇ。短いもんやった。
長男の下には、2つ違いで長女の満子が生まれていました。応召されたときには、二女の惇美も腹の中にいましたき、正秀さんは気にかかってしょうがなかったろうねぇ。結局、昭和17年の8月に行ったきりになって・・・、一番上の博孝の小学校への入学も、よう見んと行ってしもうたわねぇ。
泣いて、泣いて、それから精一杯仕事して
戦死の知らせを受けたのは、山で仕事していたときでした。弟の嫁が呼びにきてくれたのを今でもよう覚えちょります。暑い日でした。そりゃもう、泣いて、泣いて。ほんとう目も腫れちょった。家へは誰が言うてきてくれたもんか、そんなことは忘れました。役場やったろうかねぇ。
遺骨は、長らく来んかったように覚えています。まぁ、遺骨いうても、木の札だけで、他にはなんにも来ざった。遺骨が帰って来たときには、ガソ(森林鉄道)で途中の二又まで来たのを、もろうてもどったと思います。それから、みんなに来てもろうて、ちゃんと葬式をしました。いつとははっきり覚えてないけんど、鮎が取れるときやったように思うきね。夏の終わり・・やったろうかねぇ。
昭和19年の8月4日に、正秀さんはマカッサル海(※地図参照)で亡くなったということでした。28歳の若さで、ねぇ。戦後しばらくして、野市に復員してきた人が、正秀さんと同じ船に乗っていたと知らされました。その人は、沈没した同じ船に乗っていて、助かったということでした。夫の最期がどうだったか、話を聞かせてもらいたくても、私には3人の子どもがいて行くことができず、弟に行って話を聞いてきてもらいました。弟なら、その話ができると思います。ぜひ、弟からその話を聴いてみてください。お願いします。
夫の出征後に子どもがもう一人できて、3人になっていましたから、生活は、それはもうたいへんでした。その苦労は戦後もずっと続きましたよ。短い結婚生活で戦争に行かれて、男手なしに農業をしながら、3人の子どもを育てたんです。並たいていのことではありませんでした。でも、あの当時は、みんな同じ。そういう時代でした。
私は、自分の親の家の隣に住んで、両親に助けてもらいました。弟夫婦と一緒に、大家族の生活でしたが、子どもたちの世話は親や弟嫁に頼み、私は精一杯仕事しました。
お陰様で、子どもたちは健康に育ってくれました。でも、中学校を卒業した長男を、生活のために、すぐに山の仕事に行かせなくてはならなくて・・・。私は、なんとか工業高校に進学させてやりたかったんです。そのことは、今思い出しても辛いし、心残りなことです。下の娘2人は、田野の親戚の家から中芸高校へ行かせることができて、それぞれに巣立っていきました。みなが助けてくれて、頑張ってくれて、お陰様で、今日の日があります。
胸のここにずっと居る人
正秀さんの思い出というても、もうこれくらいのもんです。百年近くも生きちゅうと、たいがいのことは忘れてしまうもんよ。笑いゆうけど、みんなぁそうよね。遠い遠いことになって、忘れていくもんよ。
そうそう、手紙を持って来てくれちょったがやねぇ。正秀さんは、手紙をよく書いて寄こしましたから、それはこの缶にいれてずっと大事にしてきました。筆まめな人で、満州から私にきたものや、博孝に当てたもの、私の両親へのもの・・いろいろとたくさんきました。書くことは、なんでも書けるき、手紙にはやさしいことばっかり書いて寄こしちゅう。
字は上手で、よく近所の人の手紙も書いてやったりしていました。几帳面な人でしたし、手紙のとおり、やさしいことは、やさしい人やった。私はもう目も見えんなって、長いこと読むこともないままですき、今はもうどんなことが書かれちょったか、ようは覚えてはいません。
けど、書く字が博孝と似いちゅうように、顔や性格も、二人がそっくり。よう似いちゅうと思う。今でも、胸のここに、ここにずっと居る。だから、すぐに思い出せるんよね。短かったけど、忘れることはありません。いつまでも、ここにいます。
正 秀 さ ん か ら 託 さ れ て
語り人 上村繁樹さん(義弟)
ともに島で育って
正秀さんは、私の姉の亭主で、義理の兄になります。私とは、7つ違いじゃったけんど、同じ島(北川村の地名)の出身で、子どものころから知り合いでした。島には、小学校があったですよ。小島小学校の分校で、その当時は、島にあるような分校が奥に7つあった。年が離れちゅうき小学校で顔合すことはなかったけんど、狭いとこじゃき、みんなぁが顔なじみよね。
よう山で遊んだね。冬が来たら、こんな棒を引かいて、その向こうにタネを置く仕掛けをつくって、小さい鳥をおさえた・・・。それが一番の遊びやったね。メジロなんかの小鳥が多かったけんど、太いのはハトなんかもおったなぁ。焼いて食ったろうかね。食べたことは、よう覚えてないけんど。まあ、遊びごとよね。男の子は、毎日、山ばっかしで遊んだね。
夏は川へ、ね。かなつき持っていって、鮎をついた。冬は、アメゴとイダや。チチブは石にひっついちゅうがをおさえた。どれも美味しいわよ。いたどりなんかの山菜も取ったりしたけんど、それは一時のことよ。
子どもの頃は、あんまり家の手伝いはせんかったね。大事にしてもろうた。上級生になったときは、荷運びをやったがね。昔は物を運搬するには、全部、背負いというもんで、背中に負うて運んだわね。家の手伝いは、そんなことくらいで、家族があんまり手伝いはさせんかったように思うがね。私も親の手伝いをしたというような思いはあんまりなかった。
正秀さんとは年が離れちょったきに、一緒に遊ぶことは少なかったけんど、なんかのときには大事にしてくれたと覚えちゅう。自分は姉二人じゃき、いい兄貴、いい話し相手で、ありがたかった。
正秀さんが、兵隊に行くときには、家族みんなぁを預かっていてくれと言うて頼みにきたがよ。それで、家へみんなぁが来て、11人の大家族で暮らしたことよ。姉さんの子どもたちとは、実の親子と一緒、家族同然じゃ。
長男の博孝は、そのとき、まだ5歳じゃった。まだ自分らぁには子どもがない時分じゃったが、妻が背におうて、よう守りしたもんよ。その下に女の子もおって、同じように育てたねぇ。姉の操が3人目を生むようになっちょって、出産に、奈半利の病院に来ちゅうときに、ちょうど正秀さんが召集になって、兵隊に行ったと思う。それが最後になってしもうたなぁ。
戦場から自分の親のところへ、よう便りがあった。正秀さんの手紙はたくさん残ちゅう。こんな箱に入れて、今は川島の嫁が大事に持っちゅうと思うが。字は上等。上手やったと覚えちゅう。
海に沈んだ最期
戦後になって、姉の代わりに、野市へ復員した人を訪ねていったときのことは、よう忘れん。今のと昔のとは野市の道路も、多少違いはせんろうかと思うが、東から高知向いて行ったところの北側に散髪屋があって、そこの人が、正秀さんが戦死したとき乗っちょった、ちょうどその船に一緒におったということやった。
その人の話では、まずは満州の方へ行っちょったらしい。満州のどこまで行っちょったかは、わからんがね。その満州から乗った船が内地へ向かったもんで、兵隊のみんなぁは、これで帰れると考えちょったようです。ところが、いったんは九州の博多へ着いたものの、船は南方へ向こうた。もう忘れましたが、ずっと南のなんとかいう島から船に乗ったところで、船がやられてしもうたと聞きました。
野市の人が言うことには、「私は、船に酔わんけれど、川島の正秀は船に弱いから、船の底に入ると言って、下へ降りて行った。それが最後で、船がやられてしもうて・・・。私は船から降りることができて助かった」と。それで、終戦になり、家へ無事に戻ることができた、ということじゃった。
野市の散髪屋の人の名前も、船が何にやられたのか、そのときの詳しいことやなんかは、もう忘れてしまいましたけんど、大方はそんなことでした。その話を聴いたときの、なんやら言いようがない気持ちは、よう忘れませんがね。そのほかのことは、なんちゃわからん。野市の散髪屋が言うくらいのことしかわからんです。
実は、正秀さんは、満州から九州に着けば、私が面会にくると思うちょったらしい。ちょうどその時分、私も兵役で善通寺へ行っちょたけんど、親が年老いちゅうき、1回は家へ帰って家の整理をしてから来いと言われて、ちょうど家へ帰っちょった。それで、九州へ行く間がないままに、正秀さんの船は博多を出てしもうた。今でも悔やまぁね、そのことは。
島へは来たことがあるかね。今度島へ来たら、自分の家へも寄ってよ。博孝の隣がうちよ。川島の家族とうちの家族とは、本当の兄弟以上よね。大家族みたいなもんじゃ。今でも、博孝に、うちの家からあれ取ってこい言うたら、自分の家と一緒で何でもわかっちゅう。親子も同然じゃ。本当の付き合いじゃ。
博孝もわしを親みたいに言うしね。うちの家内も博孝が5歳のときに背に負いまわって世話したきね。正秀さんが家族を頼むと、自分のところへ来た。それは、もうずっと昔のことじゃが、心にはずーっと残っちゅうわよ。
お や じ へ の 封 印 し た 思 い
語り人 川島博孝(長男)
暑い日の白い思い出
おやじのことは、村がつくってくれた遺影の写真集にあるぐらいのことしか知らん。戦死したマカッサル海は、地図にはあったぞ。何回かは、わしも見た。けんど、それもずーっと昔のことや。その他のことは、わからん。乗っちょって沈んだという船の名前もわからん。
戦没者墓地のある野川口まで、初めて行ったときのことは、よう覚えちゅう。5つばぁのときやろう。その頃は、まだ奈半利川に今の橋はなかったき、手前のどこかから野友まで、ロープやったか、針金やったか引っ張っちゃったき、そんなもんを手繰って船で渡しよった。今の高速が走っちゅうところへんか、もうちょっと上やったろうか。加茂の方からね、向こうへ、野友の方へね。そんなにして、親父の遺骨を納めに行ったことよ。それは覚えちゅう。
夏の暑いときに、初めて渡しを渡って、流れがきつうて妙に怖かったなあ、っていうような感じも持っちょらぁ。白い布へ何か書いてもろうて、それを遺骨の箱へ巻くかなんかしたような・・・。それがなんやったか、わからんけんど、そんなものは遺骨へ巻くよりほかは、なかったと思うきね。
多分、初めての祀りということで、大勢で一緒に行ったんやろうと思う。前田の家におばさんがおったころで、そこで待たさいてもろうたと覚えちゅう。そのときの状況は、確かに出てくる。親戚の者に連れられて、そこまで行ったがや。誰と行ったかは、ようはわからんけど、島光則さんは確かにおったと記憶がある。その人は、上村の叔父の嫁さんの兄貴やき。
母の話は二又で遺骨を受け取ったということで、こっちは、戦没者墓地へ祀りに行った話や。二又でのことは、覚えちゃあせんけんど、遺骨を受け取ったあとの、ちゃんとつながった話や。遺骨いうても、おやじは船で沈んじゅうがやき、もろうたもんには、なにも入っちぁせん。本当に、なにもなかったし、なにもわからん。
誰にも話すこともない、遠いことよ。とにかく、暑かった。みんな白いもん着て、袖まくしあげるか、半袖か。あの頃は、夏着るもんいうたら、ワイシャツでもなんでも白いもんしかなかったき。変わった色はなかった。みんな白かった。なんせ、白一色よ・・・・。
ぷっつり切った・・辛い思い
おやじが死んだというようなことは、小学校の3年か4年ばぁからこっちは、ぷっつり切れた。手紙も昔々に何回か見たけんど、その後見るようなことはない。こうして残しちゅうだけのことや。
おやじのことは、正直言うて、思い出すのは辛いし、話しとうもない。戦争の話は、本当にせん。しとうない。わしら、おやじの顔も知らん。写真で残っちゅうだけで、わしらには、わからん。よう似ちゅうと言われるき、似ちゅうがやろう。わしは子どもの時分は、わりことし(いたづらっ子)やったぞ。この写真を見てみいや。わりことしの目をしちゅうが。
物づくりが好きで、機械のことやったら話すことはなんぼでもある。手づくりのこの庭や、山の木のことらぁも、話しはいっぱいあるき。また来たら、次は、そんな話をしちゃおう。時間が、なんぼあっても足らんぞ。
< お父ちゃんからの手紙 >
○川島 操 様(妻への手紙)
操さん 子どもができたとのこと安心いたしました
その後ひだちはいかがにございますか お伺い申し上げます
女の子だとね 名前はなんとつけたのだ
早く早くお便りくださいね
次に家の方の秋、月谷らはちょっとは刈ったでしょうね
自分の家の秋の様子も知らしてくれよ
ウマイ物であればウント送ってくださいね
ハハハハ
では御身大切になさいませ
○川島博孝 様(長男への手紙)
博孝よ 父も大変元気にて着いた故、安心致せよ
一生懸命でやっているよ お前もまだ五つだ
おばあ様やおじい様の言うことを良く聞いて元気で遊びおれ
母の言うことを第一にね 母にも良く言え
武重君には懸命で訓練をせよとね
まずは体を大切に
また次に さようなら
○上村 庄 様(妻の母への手紙)
拝啓 時下厳寒の その後 ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません
その後 母上様にはお変わりありませんか お伺い申し上げます
次に私も元気にて懸命に働いて居ります故 ご安心くださいませ
お手紙によりますれば島も今年は大変に寒いとのことですね
また 長々の晴天で飲み水も大変少なくなったとのことですね
お困りのことと思います
お母様には毎日子供たちの守りをしていてくだされ
誠にお世話様にございます
なお この上とも よろしくお頼み申し上げます
本日は旧正月の元旦でありますよ
お正月も博孝や満子は元気に遊んでおることと思います
では 御身大切にお暮しくださいませ
度々お便り待っております
○上村 産次 様(妻の父への手紙)
拝啓 長々ご無音に打ち過ぎ申し訳もありません
その後 御父上様一同には お変わりございませんか お伺い申し上げます
次に私も元気にて務めおりますれば 何とぞご安心くださいね
さて昨日は慰問品をたくさんお送りくだされ
誠に有難く厚くお礼申し上げます
印も受取りました故 安心ください
操の書面によると 早や野床をしているとのこと 早いものですね
当満州も暖かくなって野原は青くなってきましたよ
暖かくなるにつれて奈半利川の鮎も大分上がってきたですね
島にも着ているでしょうね お伺いするよ
では いつもながら操、子供をよろしくお頼み申し上げます
皆様によろしく申してくださいね 書面にてお礼まで
あとがき
仕事で出席した高知県北川村の戦没者慰霊祭で、会場である遺族會館にぐるりと掲げられた数多くの村の英霊の遺影に出会い、まっすぐに視線を投げてよこすその若さに、私は痛いほどの哀しさを感じました。そして、そのことは、私の中ですでに過去のこととなっていた戦争を、身近に引き寄せて考えるきっかけともなりました。
遺影となったみなさんに少しでも関わりたいと願いながら、もう十年近い年月が経ってしまいましたが、この度、やっと、遺影のお一人である川島正秀さんのご遺族に会い、お話を伺うことができました。
若かりし日の結婚生活について、川島操さんは、「遊びには行きません。二人でしたのは仕事だけ」と教えてくれました。戦争は、花見や祭りなど、そんなささやかなエピソードも許さず、ほんの5年で逝ってしまった正秀さん。でも、「胸のここに、ずっと居る」と、手を胸に当てておっしゃった操さんの言葉が、私の耳にずっと残っています。
戦争とは、戦死された人々だけでなく、遺された家族のみなさんにも、耐え難い苦難を強いるものなのだとつくづく知らされました。重い心の蓋を外して話してくださった長男の博孝さんをはじめとするご遺族のみなさん、本当にありがとうございました。
また、今回の聴き書きには、北川村協会福祉協議会の西岡和会長さんをはじめ、多くの方にご協力いただきました。心から感謝申し上げます。
ききがき担当:鶴岡香代
(完)
posted by ききがきすと at 21:30 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがき作品 | |
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