2014年09月08日

少年飛行兵、八五歳の今思うこと

語り手:杉本 明(すぎもとあきら)さん



生い立ち


sugimoto1.jpg私は、昭和4年(1929年)、熊本県下益城郡小川町(現在は宇城市)で、8人兄弟(男7、女1)の5男として生まれました。家は精米業でした。

 

父親は明治12年生まれ。日露戦争に行って帰ってきて、その後、アメリカへ行きました。その頃、熊本・広島・和歌山では、移民に行くことが大変流行っていました。アメリカへ行って、そこで子供2人が生まれています。アメリカである程度金を稼いで、それを元手に国へ帰ってきて、精米業を始めたようです。

 

その頃、百姓は食うや食わずの状態で、日露戦争は、イギリスから金を借りて、あれ以上続けたら日本は破産していたという瀬戸際で勝った、そういう情勢でした。父親は、乃木大将の第三軍に所属して、例の203高地の戦いに参戦していましたから、よくまあ生き延びたと思います。帰ってきた頃は働き口がなく、農民はみんな兵隊に行ったのでしょう。長男だけが家に残った、そんなふうに推測しています。

 

精米業といっても、小作人相手ですから、肥料から農機具等の分まで自分たちで支払えない費用を前貸し、その分を作物ができてから米で物納してもらう、という仕組みでした。

 

sugimoto3.jpgただ、家族だけで間に合うわけにもいかない仕事でしたから、小作人のところまで行き来して米等を馬車やリヤカーで運搬する男衆(人夫)、そして家事全般を担う女中を雇っていました。ひたすら精米の仕事に専念する親父を、いわば工場長≠ニすれば、金庫番≠ノ相当するのがおふくろでした。

 

当時は義務教育制度もなかったこともあり、小学校にも行かず、ろくに読み書きもできないような父親に対し、高等小学校を出ている彼女はインテリ女性でもありました。小作人には誰にいくら貸したかを通帳〈かよいちょう〉に記帳しておき、収穫期には「あなたは米何表持ってきて…」と割り振りし、男衆や女中には必要な指示をだすなど、全体の采配をふるっていました。

 

米を集める時期は、家の中、蔵の中は米だらけという印象でした。米は一般の人にも売って商売にしていました。初めは貧乏だったと思いますが、私が育った時は比較的豊かでした。

 

その頃、まだ幼稚園なんかありませんでしたから、私が小学校へ入るまで、どういう生活をしたのか、写真もない、記録もないものですからわかりません。この前、自分史つくりのこともありますので、姉(91才でまだ存命)に「私が子供の頃、どういう子だったのか?」と聞きましたら「とっても大人しくていい子だったよ…」と言われましたが、あまり記憶はありません。




 

小学校時代

 

小学校へは昭和11年に入り、17年までいましたが、その間に2・26事件とか、支那事変とかいろいろあったわけですけれど、子供ですから、私はあまり身近に感じてはいませんでした。だけど、支那事変で戦死し、英霊として帰ってくる人がたまにいましたから、「ああ、戦争やっているのだなあ、中国と戦争やっているらしいよ…程度しか知りませんでした。

 

小学校では毎日の行事がありました。学校の門を入ると「奉安殿」(※注)というのがあり、最敬礼をしてから教室へはいりました。朝、全校生徒が校庭かまたは講堂に集まり、校長先生が「天皇陛下に挨拶、東方遥拝!」で始まる訓示がありました。もう一つ、元旦や紀元節の祭日にも学校に召集され、奉安殿から講堂の壇上に運び移した「教育勅語」が読み上げられ、その間、頭を下げて聞かされました。

 

奉安殿:戦時中、各学校に建設され、天皇、皇后の御真影と教育勅語などを納めていた建物で、職員生徒は、登下校時や単に前を通過する際には最敬礼するように定められていた。


 以前、戦友会で伊豆へいき、観光スポットになっている明治5年に建てられたという小学校を見学しましたが、そこに「奉安殿」があり、土産ものとして売っていた「教育勅語」を記念に買ってきましたよ。

 

小学校6年の時、昭和16128日に真珠湾攻撃がありましたね。なぜか、霜が降りてとても寒い朝だったことが記憶に残っています。ラジオで「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という放送を直に聞いて、何か大変な事になりそうだなあ、と感じていました。

 

 17年元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃で、アメリカの軍艦が波しぶきを上げて沈んでゆく写真を見て、ああ、日本はすごいんだなあ、と強烈に思っていました。一方、熊本というところは、陸軍の第6師団という大変軍事色の強い環境にありましたので、「末は大将か、大臣か」というようにいわれたものでした。だから、親父も徹底した軍国主義者でしたから、国のために一生懸命やるんだ、という思いは強かったんですね。

 

sugimoto2.jpg 兄弟8人については、長男は中学をでましたけれど、姉は高等女学校へ、あとは皆、高等小学校へ。私だけが突然変異みたいな児で、自分で言うのもおかしいかもしれませんが頭がよかったのですよ。卒業する時は、成績優等賞、運動賞、そして6年間無欠席だったので、賞状を4種類もらったくらいでした。

 

 スポーツはバレーボールをやっていて、私のポジションはセッター、小学校の時から男50人くらいの学級の中で、私は一番背が高かった。初めはバスケットボールをやっていたのですが、なんか小学生にはキツイ、というわけで、6年になってからはバレーボールにかわったのです。

 

ドモリが障害になった面接試験

 

当然のように中学(今でいう高等学校)進学を志向しました。試験は筆記試験はなく、口頭試問だけがあり、先生が3人座っているところで話すわけです。私はボーット頭に血が昇って会話にならなかったのです。それで、中学入学試験は不合格。しょうがないから、ふつう、中学に落ちた人がそのまま進学する高等小学校1年に入りました。

 

頭のいいのは皆が中学へ行き、水呑み百姓で勉強ができないような連中が高等小学校に行くわけですから、自分としては志と違って心外、ずいぶんとショックでしたね! 私はイヤになっちゃったので、その当時陸軍には幼年学校というのがあり、いっそのことこっちの方がいいと、試験を受けました。学科試験は通りましたが、やはり面接で、ドモリが甚だしいということで合格に至りませんでした。

 

しょうがないと思って、高等科1年の時に改めて中学を受験しましたけれど、口頭試問でまた落っこちました。兄貴がドモリを始めて、それを私が面白がって真似ているうちに自分もそうなってしまったらしく、6年生になった時、自分がドモリだということをハッキリ意識するようになりました。だから、みんなの前でしゃべれなくなったのです。ドモリのことは、大学生になってからも、就職してからも引きずっていました。

 

少年飛行兵への道

 

 sugimoto4.jpg高等小学校には行きたくなかったけれど、そうは言っておられない。それで、『少年飛行学校』を受験したのです。ここでは、面接でドモリにならなくて合格できました。昭和1810月に立川にある『陸軍航空学校』へ入隊しました。その時は、担任の先生も喜んで、高等科2年生の生徒を自宅へ集めて私の送別会を開いてくれ、皆でさよならと駅まで送ってくれました。東京へ来る時は、ちょうど父の甥っ子、姪っ子が神戸や名古屋にいましたので、ついでに行こうというわけで、家がまだ裕福なこともあり両親もついてきました。昭和4年生まれの人だけの募集でしたが、多分3500人くらいが入隊したのではないかと思います。

 

 立川に集められて営兵生活をしていた時、我々グループの班長から「お前たち、生きて帰れるなんて思っていないだろうな、生きて帰りたいなら今すぐ帰れ!まだ入校式はやっていない、帰りたい奴は今すぐ帰れ!」こう言われたんです。生きて帰れない、なんて殆ど考えていませんでしたね。だから、生きて帰りたい、と思うけれど、歓呼の声に送られてやって来たのに、まさか、本音をいうわけにもいかない。結論的に言うと、自分は戦争で、弾が心臓でなく脚にあたって名誉の負傷をして、生きて家に帰りたいなあ、という思いがずっとありました。

 

 今、戦友会でそういう話をしても、他の連中はそういうことはなかったみたいですね。たまたま私の班長が言ったのであって、それも私と一緒に話を聞いたのは、1213名ぐらい。極端に言うと私だけが聞いた感じです。やはり建前と本音とは違う、国のため、故郷に錦を飾るとか、すごい憧れがあり、例えば、戦死して英霊として帰ってくるとか、そういうものに敬意を表することはありましたが、それと一個人として生きるという執念とは別問題だと、私だけは思っていたのでしょうね。

 

立川には1週間近くおりました。操縦、通信、整備と3つにわかれており、いろいろと適正検査がありましたが、私は通信に所属し、その後『大分陸軍少年飛行兵学校』に配属されました。

 

大分陸軍少年飛行兵学校

 

sugimoto5.jpg 大分少年飛行兵学校では榛名中隊4小隊7班に配属されて、1年間の教育を受けました。6時の起床ラッパでたたき起こされ、朝の点呼、午前は学科で、午後は有線通信、歩兵訓練、射撃、剣術、銃剣術の訓練です。

 

 有線通信訓練は、電話機とケーブル巻取器を背負って練兵場や大分市内に移動し、列車のレールの切れ目を利用して、バラスの上に通信ケーブルを敷設したり、橋桁の下を通す作業でした。電話機等を背負うとずっしりと重く肩に食い込んできましたが、市内に出て娑婆の匂いをかぐのはせめてもの楽しみになっていました。1日の訓練が終わっても、自分の班に戻れば、所有物の整理や洗濯で時間が足らず、夕食を食べ、風呂に入ってそのあとも90分の自習、10時の消灯ラッパとともにそのまま寝込んでしまうという、時間に追いまくられて日課をこなすだけで精一杯の毎日でした。

 

夏には歩行訓練を兼ね、別府の野外演習場まで、炎熱の中を背嚢の上に銃をかついで、軍歌を唄いながら歩く約4時間の演習がありました。肩に喰い込む銃を「左肩に変えろ」の指令でほっと一息ついて左に変えたり、また水筒の水もその都度チェックされ、演習場にたどり着くときには喉の渇きでフラフラになり、失神状態寸前の思いでした。

 

水戸航空通信学校

 

大分で1年たって、翌19年『水戸航空通信学校』へ行きました。10中隊あって、私は機上通信中隊に配属され、飛行機に乗る中隊に所属しました。空中勤務いわゆるヒコーキ乗り≠ヘ、気象とか整備とかに比べて一つ上に位置しており、それが大変誇りでした。

 

午前はトンツ―訓練=A乱数表を使い数字だけで(暗号処理により)通信するわけですが、毎日トン・ツー、トン・ツーの連続でものすごい量の訓練を受けました。学科としては通信機の構造理論教育があり、真空管の原理などの説明があっても、小学校出身で十分な基礎教育を受けていない私にはちんぷんかんぷんで、理解するまでは苦労しました。

 

sugimoto6.jpg午後は教練で、飛行機に搭乗して訓練を受けました。飛行機に乗った時のトンツー実地訓練≠ナは、電波が大きくなったり小さくなったりして、大変神経使う訓練でした。

 

機上訓練では、通信機とバッテリーを飛行機に乗せての訓練で、三層の通信機を繋ぐケーブルがときどき接触不良になることがありました。出発時間までに点検を終えなければならない、と時間との戦いに苦労しました。内容としては、練習機に4人搭乗して、地上との通信連絡、方位決定、爆弾投下が主な訓練でしたが、教官の指導でやっていてもミスすることが多く、いわゆる空中拳骨≠フ制裁がしばしば飛んできました。

 

朝の点呼が終わると飛行場を一周するのが日課でしたが、水戸の冬は寒く、霜柱が20センチほど立っている中、靴が埋まりながら走るのが大変でした。また10日に1回ぐらい、消灯ラッパが鳴る時刻、交代で兵舎入口に歩哨として立つ任務がありましたが、厳寒の中で1時間立ちっぱなしでいると、体が凍えて床についても眠れないことがしばしばでした。

 

20年に入って空襲が激しくなり、機上訓練が出来なくなってきたので、飛行場の周囲に塹壕を掘り、機関銃を据え付けて待機し空襲に備えました。しかし、敵のグラマン機襲来で機関銃を発射すると逆襲を受けることにもなるので、結果的には実際に機関銃を発射することは一度もありませんでした。

 

終戦

 

昭和20年になると、制空権がアメリカに抑えられ、水戸にも毎日のように敵のグラマン機がやってきて砲撃されました。310日の東京大空襲については、その日、東京の空がやけに明るいなあと思いましたが、何も知らされませんでした。6月、沖縄が占領された頃だと想像していますが、鳥取分隊へ移りました。現在の鳥取飛行場になっている砂丘の一部でしたが、ここは工場もなく空襲がありません。裏日本は真空地帯、そこへ敵が上陸するとは上層部も考えていませんでした。通信兵というのは大変貴重で、通信兵がいないと編隊を組んで誘導することができませんから、とにかく訓練できる場所を確保して継続する必要性があったのでしょう。

 

米機動部隊を探知する『索敵』訓練は、米軍のレーダーに探知されないように電波発信は最小限にとどめ、空母=1、戦艦=2、駆逐艦=3ときめておき、艦数だけを本部に発信する厳しい訓錬でした。実は、通信兵は海外の放送を聞こうと思えばできたのです。傍受は厳罰ものでしたが、ある時ダイヤルをまわしていたら、たまたま「ソ連が満州へ進軍した…」という電波が聞こえました。「これはどうなるのだろうか?」と思いましたが、勿論、そんなこと誰にも言えませんでした。

 

815日、「今日は飛行機が飛ばないから…」と全員集合し、『玉音放送』を聞きましたが、ザーという音が耳に付き、天皇の声ともよくわかりませんでした。そして、夕方上官から「日本は戦争に負けた」と聞かされました。

 

阿南陸軍大臣の自決の報を聞かされたりして部隊は混乱していましたが、しばらくして本隊があった加古川(兵庫県)に集合して本隊長の訓示があり、「いざ鎌倉まで自宅待機!」の訓令が出て、復員が確定しました。郷里の熊本へ帰る途中、超満員の列車で広島駅を通過したとき、巨木の幹だけが白い肌をむきだしにしている夜景を見て、特殊爆弾が落ちたらしいと聞きましたが、原爆だったのですね。

 

子供だから、戦争に負けた、という意味がよくわかりません。生きて家に帰れる、ああ、万歳!おふくろのいるところへ帰れるというのがただ嬉しい、という思いでした。家に帰った時は、両親と姉と弟二人、それに疎開していた親戚が数人同居しており、家の中は家財道具やなんかで大変でした。

 

あまりにも混沌としているから、私は船乗りにでもなろうか?兵隊に行っていまさら中学へゆけるか?という大人っぽい自負もありました。けれども、問い合わせたら、「陸軍少年飛行学校生なら、中学3年生の資格がある…」ということがわかりましたので、証明書をだして、私は同級生より下のクラスに編入しました。中学に入ったけれど、皆は英語、物理などを勉強しているけれど、こっちは何にもやっていない、特に英語は全くチンプンカンプンで大変苦労しましたね。

 

熊本の中学へ復帰しますと、クラブ活動が始まるというわけで、バレーボール部を結成し一生懸命練習しました。県大会に参加したら、奇しくも優勝してしまい、第2回国民体育大会の県代表として金沢大会に出場することになりました。入場行進が始まりメインスタンドを行進していたとき、主賓席にMPに護衛された天皇陛下のお姿を拝謁しました。戦前、戦中ではとてもかなわなかった現人神〈あらひとがみ〉を見たわけですから、感激のあまり目がしらが熱くなり涙がこぼれてきました。

 

大学に入ったけれど

 

sugimoto7.jpg 大学に志望を出すとき、郷里出身で大学の理事をしていた先輩に挨拶にいきました。「聞けば優秀な運動選手らしいから…」とバレーボール部入部を条件に推薦してくれたようです。しかし、現状は食べるものがない、日々生きることが先決で、運動するどころではなかったので、実際には入部しませんでした。当時のバレーボールは9人制で国際試合はありませんでしたが、もし国際試合のチャンスでも予想できていましたら、入部を考えたかもしれませんね。

 

 早稲田大学の入学式の時に、挨拶に立った教授からは「戦時中は軍事教練で大変だった…」という話を聞きました。「東大、明治とかは早々と軍事教練を承諾したけれど、早稲田は拒否していた。ある時、陸軍大佐がやってきて、壇上に登り軍事教練の必要性を説き、『諸君!』と言い出したら、『大佐!その胸についている勲章は人を殺した功績の勲章ではないか!そんな軍事教練なんかやれるか!』と学生がわあわあと騒ぎ出したので、大佐はしゃべれなくなってしまった。そういうのが早稲田精神だ」。それを聞いた時私はビックリしちゃいました。1年前、少年兵として天皇陛下万歳を叫んでいたあれは何だったのか?そう思いました。それを今でもずっと引きずっています。

 

 大学にいきましたが、食糧難で腹が減って腹が減って…。当時は下宿もない、食事つきの下宿に入るなら米を半分出せ、と言われて実家から米をもらって、出したこともありました。自炊のできる部屋がないので、米を持っていてもそれを炊いて食べる所がない。要するに部屋だけ借りるしかありません。食べるものと言えば、例えばお湯をいれると団子みたいなものが出来る(そばがき?)とか、また、実家から米を送ってもらい、当時1升230円で寿司屋に売って、その金でコッペパンとかを買って飢えをしのいでいました。

 

  当時は国民、皆がそうだったと思います。1年くらいは、日々の暮らしに追われて勉強する雰囲気には全くなりませんでした。だから春・夏・正月と大学の休みになると、真っ先に私は熊本の実家に帰って腹を満たそうとしました。その後、同郷の友人一家が住んでいた社宅に、2畳の部屋を間借りして、自炊も出来るからといってやっと落ち着きました。そこで、奥さんが夕食の支度を終えてから、私が飯を炊いて、コンブか佃煮に魚を少し買ってきてご飯にするというわけでした。

 

 学校へ行っても、校舎は戦災でやられたのもあったし、暖房もなかった。大学は出席すれば単位はくれましたから、出席だけはちゃんとしていました。5年(旧制で1年、新制で4年)経過する中で世の中もだんだんと落ち着いてきましたが、それでもやっぱり食べること、住むことの不安がつきまとっていました。友達のところへ行くと、そのお母さんが「腹一杯食べなさい」と、また、郷土の先輩をたよって会社を訪ねていくと、ビフテキを食べさせてくれたりして、今でも思い出しますね。

 

 私の友達といえば同郷の2、3人ぐらい。本当はクラブ活動のどこかへ入っていれば、友達ももっとできてよかったのでしょうけれど、つきあうとやはり金が要りますし、金がないからつい遠慮しちゃう、みじめな思いはしたくない、というプライドもあったかもしれません。だから、大学の友達は殆どいませんでした。このあたりのせつなさは身にしみていましたから、自分の子供には、大学へ入ったら授業はいいからクラブ活動をやって友達を多く作っておけよ、と言っています。戦後の杉本家の経済事情からすれば、私が東京へきて大学へ行くなんてもともと無理なことだったのです。

 

 実家のことですが、戦時中、村には精米業が我が家を含めて4軒ありました。国の食糧統制という事情もあったのでしょう、食糧営団≠ノするという動きに沿って、2軒を廃止しようということになり4軒で話し合いしました。1軒は後継ぎがいないから決まりました。母は「絶対営団には入るなよ…」と言い張っていましたがどうしても話がまとまらない。最後には父の判断で、結局実家も営団に入ることになり統合され、廃業になりました。戦後食糧難になりましたら、精米業を継続したところは、精米する時に1割くらいピンハネしてその分を闇米で売り、その儲けで蔵が立っていましたよ。

 

 そんなことで、兄貴たちは復員したが仕事はない。家はごちゃごちゃしていて親は本当に苦労していましたね。当時、長男は満州からシベリアに抑留されており、次男が米屋を引き継いでいました。だからあてになるのは次男。私が休暇で実家に帰ると、次男は「金なんかないのに、明の大学の月謝を出すなんて…」と、父といつも大喧嘩ですよ。それでも父は次男から無理やりむしり取って、私に金を渡してくれました。いやでしたね!

 

 でも、杉本家から大学へ行く子供がいる、というのはあんな田舎では大変な名誉と思われていましたから、父は「明だけは、なんとかして…」という思いがあり、そのことについては兄弟たちも誇りにしたようですね。今思えば、私一人が大学まで行かしてもらえたこと感謝しなければいけませんね!

 

社会人時代

 

大学を出るころは就職難で八方手を尽くして職を探しました。熊本県出身の先輩に芝浦精糖鰍フ重役を紹介してもらって入社試験を受け、運よく入社することができました。初任給9,800円でしたが貧乏生活の学卒にとっては感謝々々でした。(昭和28年)

 

当時外貨不足で原糖輸入が割当制度になっていて、砂糖会社は斤10円*ラけている時代でした。私たちはその第一期生として採用されましたが、先輩たちは戦前の砂糖会社出身ということもあり、会社の体をなしてはいませんでした。始めは私のドモリ≠ヨの印象から判断されたのでしょうか、総務部へ配属されました。が、そこでの地味な仕事が正直イヤでした。そのうち開発部へ移り、部長が取締役であったことや、会社の環境にも慣れてきたこと、生来の進取の気性にもマッチして伸び伸びと仕事することができました。

 

そして時代は変り砂糖も自由化され、独占体制はくずれて人員整理や会社統合(芝浦精糖、横浜精糖、大阪製糖)が始まり、私たちは清涼飲料(商品名シナルコ)を販売する会社を作って頑張りました。しかし、うまくいかず、三井製糖統合とともに三井物産林業に移ることになりました。

 

三井物産では相模湖町に所有していた山林(100万坪)の処理に困り、自然公園をつくり社会貢献をしようと、三井物産林業に委託することになり、その担当になりました。自然公園の先進国であるアメリカなどを視察して開園にこぎつけましたが、結果はうまくいかず、独立会社(現名称 さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト)運営に切り替えることになり、その後『学校法人 大乗淑徳学園』に転職しました。(昭和62年)

 

大乗淑徳学園は幼稚園から大学院まで当時1万人を擁する学園でした。しかし、やがて到来する若年層の減少を見込んで、企業経営のノウハウを採り入れることを志向していましたので、紹介されて私が採用されることになりました。担当したのは、知的資源を社会に貢献する『エクステンションセンター』と、傘下の女子高生の1年留学を受け入れる『英国カレッジ』の設立でした。

 

そのころ文部省は『生涯学習』に力を入れる方針に変わり、社会教育局を生涯学習局に切り替えたりした時でした。担当官もまだ不慣れなこともあり、われわれ民間と共同研究をして、全国各地で『生涯学習フェスティバル』を企画開催して、センターの所長である私自身もその講師になったりもしました。学園の新規事業についてはほとんど任されていました。『エクステンションセンター』の設立という点では、業界でも草分けだったと思いますが、学園主催の講座では受講者が集まりにくいと判断し、板橋区と提携して区の公開講座に切り換え、区の広報紙にも掲載したりして集客に努め会場を一杯にして理事長に感謝されたりしました。

 

sugimoto8.jpgまた、当時は子女の海外留学が盛んで各高等学校(女子高3校)はその実現に苦慮していました。そこで、学園として英国にカレッジをつくって留学生を迎える『淑徳チェルトナムカレッジ』を設立し、1年後には淑徳短大英文学科に編入する制度をつくり、その担当(副校長)になりました。

 

美しい田園風景で知られるコッツウォルズ地方のチェルトナム市に3階建ての邸宅を購入し、校長以下イギリス人教師を採用する一方、留学した生徒にはイギリス人の家庭でホームスティを経験してもらう、という仕組みを作りました。授業はイギリス人、生活指導は日本人(淑徳高校の男女教師)という役割分担で学校運営を進めました。ホームスティをしながらの生活には、カルチァーショックでホームシックにかかる学生もいて、授業よりむしろ生活指導が大変で、母親、子ともども気持ちの動揺を収めるために、日本と現地を遠隔操作しながらの仕事でした。

 

当時はいわゆるサッチャーの時代=B失業率が高い頃で、優秀な教師さえ失業している時代で、教師採用には苦労しませんでした。やっとありついた仕事という教師の平身低頭ぶりに、七つの海を支配したイギリス人を日本人が雇用して、黄色人種が白色人種の上に立って飯を食わせたという優越感が正直ありましたね。

 

戦友会への入会

 

sugimoto10.jpg年後は、自治会の役員などボランティア活動に張り切って関わっていましたが、それらをやめるとしばらくポッカリ穴が開いたような時期がありました。私は少年飛行兵学校に入校して67年経つまで、戦友に会いたいという気持ちはさほど起こりませんでしたが、80歳を超えた時、戦友に会いたい気持ちが湧き出てきました。

 

何か手かがりはないか?とパソコンでインターネット検索をしていたところ、偶然、古本屋のサイトがあり、『大分少年飛行兵学校』で使用されていた『国語』と『歴史』の教科書が委託販売されていることを見つけました。

 

委託者が戦友会の会長だということがわかり、連絡して戦友会の存在を確認し、『大分少年飛行兵17期生の会』に入会ました。やがて私の入会の知らせが戦友会の会報に掲載されると「杉本、お前!元気でいたのか?」と何人かから矢継ぎ早に連絡がありましたが、67年前の戦友の名前と顔が一致せず、すっかり浦島太郎になり会話になりませんでした。

 

入会してからは機会あるごとに戦友と一献傾けていますが、40数年前から顔を突き合わせている戦友たちの話に私の記憶がついていけず、少年飛行兵時代の苦労話がよみがえるのに時間がかかりました。

 

戦友会に入会してからはまめに参加してきましたものの、それほど親しい人はいません。でも、実は唯一の戦友、ともいえる人が一人います。それは鳥取に転任したとき隣のベッドにいた紺谷君です。

 

私ははっきり覚えていなかったのですが、彼が体調を崩して、当時常食だった米に高粱を混ぜた飯が食べられなくなり、このままでは死ぬかもしれないと思っていたらしいのです。ある日たまたま私が炊事当番で食事の分配役でしたので、大きな調理窯でできる焦げ飯をこっそり#゙に分けてやったところ、米の飯にありついてやっと食欲が出てきた…、ということがあったようです。

 

戦友会に入会したとき紺谷君から「杉本!どうしていたんだお前!…」とすぐ電話がかかってきて、「あの時お前には、本当に助けられた…」と言ってくれました。想い出して、やはり懐かしく嬉しかったですね。彼は今、北海道の旭川にいますが、互いに何時どうなるかわかりませんので、できれば今年の夏にでも会いにいこうか、と考えています。

 

85歳の今思うこと

 

熊本の私の家の隣には大邸宅の隠居家があり、当時農家では養蚕が盛んで、製糸工場を2つも持っているご隠居さんでした。そのご隠居さんは高齢でも学のある人で、社交的な親父はご機嫌伺いにおりおり訪ねていました。私が大学に進学してご隠居さん宅に挨拶に行ったとき「いまこの小川町には優秀な若者が居ない。大学を出たら小川に還って郷里の発展に手を貸してくれ」と言われました。ところが、私はご隠居さんの期待に反し、大学を卒業してそのまま東京の会社に就職し、東京育ちのかみさんと職場結婚をしたので、小川町は遠い故郷になってしまいました。

 

父は私の結婚には反対しませんでしたが、私に託した父の夢はこれで終わりだと思ったかも知れません。いつか隣のご隠居さんから「いい息子を育ててくれた…」と言われること、その日を夢に見て、無理を承知で大学まで出してくれたのかもしれないと、今、私も親父が亡くなった同じ年齢を迎えて、そんなことを思うようになりました。

 

8人いた私の兄弟も、いまでは姉と末弟の3人になってしまい、また、私と似たような境遇の6人兄妹の中で育った妻も、最近は「一人になってさびしい…」と言っています。父は神棚に向かってひとりごとを言い、母は仏壇の前で南無阿弥陀仏を唱えていたのを思い出します。父は84歳、母は81歳でそれぞれ亡くなりましたが、今では両親の気持ちが少しわかるようになってきました。

 

sugimoto12.jpg最近、興味が湧くままに本を手にとって読み始めてみますと、あたかも渇いた砂が水を吸い込むように′サ在の心境や気持ちに響いてくるものがあり、自分で自分に驚いている昨今です。

 

例えば、生命≠ノ興味が出てきて遺伝学や免疫学に関心を持つようになりました。60兆の細胞が、細胞分裂を繰り返しながら生命を維持したり、菌を撃退するために免疫作用で自己防衛をしたりして、人間の叡智を超えた自然現象、生命の不思議・神秘に、今、科学者は驚嘆して『サムシング・グレード(村上和雄著)』とか『スーパーシステム(多田富雄著:生命の意味論)』とか、神の領域を暗示するようなことばを使っています。

 

また、親鸞は『教行心証』に、極楽浄土で終わるのではなく、また現生に還ってくるという、二種回向の教えを書き残しています。兵役に服しながら犬死にしたくないと悩み続けた哲学者の梅原猛も「だから自分は親鸞が好きなのだ、また、『山川草木悉皆成仏』(最澄)こそ世界平和の教えなのだ」と有識者に呼びかけていることに、私は今共鳴しています。

 

ボランティア活動に関わっていた頃、「実は、私の兄も少年飛行兵でした」という人と出逢い、話が盛り上がり、その方が仲立ちして、予備役陸軍中尉だったあるお寺の和尚さん(92歳)と会い、戦争体験を聞く機会がありました。話の中で「自分の任務は知覧に派遣され特攻機の整備だったが、出陣する特攻機のエンジン調整をしたあと、自分が座っていた操縦席に若い隊員が搭乗し、それを見送る時の耐えがたい気持ちは、とても他人に語る気持ちにはなれない」と述懐されていたことに、とても共感できました。

 

先日も、NHKのTV番組で放送された『最後の挑戦・柿右衛門窯の一子相伝・豪華列車を飾る有田焼』を視聴しましたが、体調を崩した十四代柿右衛門が長男に託する思いこそ、先祖に対する十四代柿右衛門の親孝行ではないかと思ったことでした。

 

梅原猛は、「母親が子どもを産んで無心に可愛がり守り抜こうとする愛情が道徳の基本だ、中国で生まれた儒教は親に孝行と言っているが、もともと親を思う気持ちと子どもへの愛情では少し違いがあるようで、子どもへの愛情が先になるのは仕方がないこと…子どもに愛情をかけ立派に育てることが親孝行なのだ」と説いています。

 

うちのかみさんは「子供たちから最近ちっとも電話がない…」と嘆いていますが、わが身に照らして思うとき親孝行したいときには親はなし≠ナ悔いることしきりです。先祖から頂いた命を子孫へ引き継ぐことが自分の使命だと理解し、私も、自分の息子や娘が近況を知らせてこないのは寂しい、と思うときもありますが、彼らがそれなりに孫たちを一生懸命育てているのをみると、褒めてやりたいと心掛けています。

 

 

あとがき

 

担当ききがきすと:菊井 正彦


杉本明さんとは、NPO法人 関東シニアライフアドバイザーの会員同士です。


協会へ入会されたのは4年前だったと思いますが、特に親しく語る機会はありませんでした。3月初旬に神奈川地区会員が集まるイベントがあり、病気の私の体調が良くなりましたので「私の顔をみせたい、仲間の顔をみたい」と参加したときに、しぶりにお会いました。なんとなく自分史を書きたいと思っていた杉本さんは、私が「聞き書き」という活動をしていることに関心を持っていただき、私より10歳上の先輩ですが、同じ大学・同じ学部を卒業したということもあり、話が進みました。


 品の良いロマンスグレイの老紳士という印象の杉本さんが、見出しにもあるようなご自分のコンプレックスの部分や、ひもじい思いだけだったとも言える大学時代等を赤裸々に語ってくれたことはとても印象に残りました。


 たまたま、「聞き書き」していた期間中に放送された「ラジオ深夜便」で、立花隆が「自分史≠ナ豊かなセカンドステージを」と話しています。そのなかで、「自分史を作り始めると自分がわかってくる…」と言っていますが、同感されたようでした。自分の記憶だけではハッキリしないことも、戦友と想い出話を楽しんだり、また語りを聞き手に傾聴してもらうことで、より浮かび上がり活字にもまとまってくるということに、私も改めて気づかされました。


 後日談でなく途中談≠ノなりますが、自分史作りを進めるなかで、近く鹿児島の知覧≠ナ戦友会があり、杉本さんも参加申し込みをしている、ということを知りました。知覧≠ニいえば特攻隊の基地、戦争に関わりない私もいつか訪れたい所と思っていました。「そうだ、どうせなら戦争に関わった人たちが傍にいるという状況の中で見学できたほうがいい…」と気がつきました。


 「私でも参加できますか?」とききましたところ、世話人の方からも快く了解を得ることができ、521日と22日に「少飛17期特攻観音詣での集い」に参加同行することになりました。知覧″sきは3回目になるという杉本さんも今回新しい発見があったとききましたが、杉本さんの自分史作りの内容に裏づけがとれ、役立ったことはいうまでもありません。また、私にとっても貴重な旅になりました。


posted by ききがきすと at 18:32 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コメントを書く

お名前

E-mail

コメント

表示されるのは「お名前」と「コメント」のみです。

ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

コメント一覧

語り手は80代、担当した「ききがきすと」は70代。時代を共有する部分も多く、だからこそ、できた聞き書きかもしれません。聞き書きは相手に関心を持つことから始まる、究極のコミュニケーションです。 Posted by 松本すみ子 at 2014年10月01日 15:21

トラックバック一覧