2014年05月11日
奈良に生まれ育って
生家は猿沢池のすぐ近く、奈良公園で遊んで
私の子どもの頃や学生時代のことといっても、特別なことはなにもなかったように思うんです。生れは昭和2年ですので、青春の真っただ中がちょうど戦争でしたけど、生まれ育ったのが奈良でしたから、幸せなことに戦災に遭うこともなかったんです。
朝に夕に仏様を拝み、鹿と遊んで
奈良では、正倉をはじめ、どのお寺へ行っても、古い仏様がいらっしゃいます。小さい時から仏様を見ていますから、仏様のお顔のすばらしいのはよくわかっているんです。いいなあって、仏様のお顔に、惚れ惚れするんです。
唐招提寺の鑑真和尚様は、今は建物の奥に置かれていて、決められた日でないと一般には観せていただけませんけれど、あの頃は、廊下に置かれていたんです。鑑真和尚様の肩をさすって、その手を自分の肩に持っていくと肩の痛みが治ると言われていました。私も鑑真和尚様の肩ばかりさすっていたのを覚えていますよ。
東大寺や興福寺、秋篠寺とか、あの辺りにたくさんお寺がありますでしょう。今では、仏様は宝物館など奥まったところに置かれているんですけど、あの頃は、どのお寺に行っても、ほとんどの仏様が手の届くところにいらっしゃって、学生さんが百済観音の前にずーっと座っていたなんて話もありましたね。百済観音がいいとか、あの観音が好きだとか、そんなお話をいっぱい聞きました。どうしてそんなにいいのかしらん、なんて子ども心に思ったことでした。
五重塔や二重塔、三重塔とかもありますからね。そういうところへ行っては、いろいろな仏様を見ましたが、中でも、私は、漆黒の菩薩様が一番好きでした。中宮寺の半跏思惟菩薩様です。小さい頃は、年寄りがいましたので、よく連れって行ってもらったんです。子どもでも好きになるんですよね。手が届きそうなところに菩薩様がいらっしゃって、そばに行っても怒られることもありませんでした。だから、撫でたりなんかしてましたよ。
今でも、奈良の古いお寺や神社の写真を見ると、当時を思い出して、「ああ、あのお寺も、こんなに有名なんだなあ」なんて思ったりしますね。この頃は、奈良へ行くこともなくて、本当にご無沙汰なんですけど、仏様は、いつまでも忘れられないです。小さい頃に、よく行って拝見していましたから、そのお寺の名前を忘れることがあっても、仏様のお姿やお顔は、今でも目に見えるように覚えています。そして、思い出すと心が安らぐんです。眠る時にも仏様のお顔を思い浮かべると、すぐ眠れます。
私は、ラジオ体操も奈良公園でしましたよ。つくづく、奈良公園で大きくなったんだなあ、と思いますね。奈良公園といえば、鹿でしょう。何でこんなに鹿がいるのかなあ、と思うくらいたくさんいましたね。その鹿が、しょっちゅう草を食べてますでしょう。だから、草刈りしなくてもいいんです。ずーっと食べてくれているので、それであの広い公園が、あんなに青々しているんですよ。
奈良の人たちは、鹿を神様のお使いと思って、大事にしています。三作石子詰之旧跡と書かれた碑があって、鹿を殺したっていう話が残っています。お習字のお稽古をしていた三作という名の男の子が、お習字の紙を食べに来た鹿に文鎮を投げるんです。当たり所が悪く、鹿は死んじゃうんですよ。鹿は神のお使いと言われていますから、三作は、まだ小さな男の子だったのに罰を受けて、死んだ鹿と一緒に小石で生き埋めにされるんです。その碑が近くにありましてね。鹿を殺したら、あんなふうになっちゃうって、小さい頃から、言われたものです。
それから、奈良の人たちは、朝、早起きなんですよ。どうしてかっていうと、朝起きて、もし自分の家の前に鹿が死んでたら、たいへんな目に合うからです。万一そんなことがあれば、その鹿を隣の家に運ばなくてはいけないので、早起きするなんて言われていました。それくらい、鹿になにかあったら、たいへんなんです。それほど大事にしていたんです。
戦争中は、おいもぐらいしか鹿にあげられなかったですけど、食べ物がないからといって悪いことをするようなことはなかったですね。鹿は公園にいて、夕方になると鹿寄せの笛が吹かれます。とてもいい音でした。その笛で、鹿は集まってきて、餌をもらいます。寝るところはちゃんと囲いしてまして、そこで寝るんです。よく人に慣れていて、おとなしいですよ。そんな環境でしたから、私は奈良公園で鹿と一緒に大きくなったようなものです。
仕事も、結婚も、子育ても
女高師の頃は、ちょうど戦時中でしたから、学徒動員がありました。奈良には、動員先となるようなところがなかったので、舞鶴の海軍工廠に行きましたね。そこにはいろんなものをつくる工場があって、私たちは鉄板をぐーっと曲げて、丸くする作業をしていました。それは、魚雷の部品だったんですね。こんなふうに丸くしましてね。そのお手伝いですけれど。
終戦は舞鶴で迎えました。動員で舞鶴にいたのは、1年くらいだったと思います。それから猿沢池のそばの家に帰り、学校に戻ったんです。
女高師を卒業したのは、昭和21年だったかと思います。その後、学校の先生になったんです。当時は、高等師範学校を卒業すると、先生になるよう決まっていましたから。
また、先生になるためには、マッカーサーさんの試験を受けることも必要でした。終戦後は、マッカーサーさんが日本で一番偉い人でしたので、先生になれるかどうかっていう許可をもらうのもマッカーサーさんからだったんですね。女高師を卒業しているだけではなくて、この試験にも合格していましたから、就職の時は楽で、先生にはすぐなれました。
まず、奈良育英という私立の女学校の先生になりました。今は育英高校っていうんですけど。家から通えるところで、2年くらいは勤めたように思います。教えていたのは、家庭科で、衣食住の全てを教えましたよ。和裁も洋裁も、なんでもやらなくてはいけなかったんです。料理はもちろんです。私の専門は栄養の方でした。栄養や食の教育については、今ではテレビでもよくやっていますが、随分変わったように思います。
結婚したのは、昭和25年頃だったでしょうか。舞鶴の海軍工廠へ行った時に、海軍技術士官だった主人と出会いました。今では考えられないけど、その頃は海軍の兵隊さんが、一番格好良かったのよね。主人は海軍の制服でね、高等官食堂へ行くんです。私たちは学生ですから、もうボロボロの、豆の粕が入ったお弁当を食べているのに、高等官食堂を覗いてみたら、みなさんフォークで食べているのね。それほど違っていましたよ。すごいなあって思いました。私たちの先生も女高師だから、高等官なのよね。高等官食堂へいらっしゃるわけです。私たちはお弁当なのにね。
主人との馴れ初めは、長い話になりますよ。きっかけは、私が舞鶴に行って、一生懸命やっていたのを向こうが見て、それで、声をかけられた、ということですよ。主人は、私より4つ年上でした。
生家は古い家でしたから、親は私を奈良から遠いところへは出したくなかったし、私自身も出たくはなかったんです。嫁に行くとしても、奈良からは一歩も出たくないと思っていました。主人の実家は名古屋でしたが、戦災にあって、家も焼けていたんですよ。だから、私に名古屋へ来いというわけにはいかず、結婚について言い出せなかったようです。
主人は、終戦後は、しょっちゅう、名古屋から関西線で奈良へ来ていました。でも、親は、結婚なんてだめだめ、って。私も結婚なんてつもりもなかったし、向こうもそんなに急がなかったですね。ただ、通って来てたんですよ。
結婚したのは、舞鶴で出会ってから、ゆうに5年は経とうという頃でした。主人の粘りが実るかたちで、やっとでしたね。実家は、姉が酒屋から養子をとり、継いでくれていました。
その頃、主人は親戚のつてで犬山に家を借りて、勤め先だった三菱電機の名古屋製作所に通っていました。ですから、私は結婚して、犬山にある県立高等学校で先生になりました。働きながらの結婚生活でしたね。当時は、先生が足りなくて、来てくれ、来てくれと言われて、先生になったんです。
昭和27年に長男が、昭和30年に次男が生まれました。長男が生まれても、しばらくは先生を続けていましたね。でも、先生の給料は少なくて、主人が勤めていた三菱電機の方は給料が悪くなかったものですから、先生を辞めるように言われました。それで、教師を辞めて家に入りました。
その頃には、犬山の家も引き払って、主人の勤務先に近い名古屋市内の清明山に移っていましたね。
次男が生まれた翌年の昭和31年には、主人が静岡製作所に転勤になりました。それからは、ずーっと静岡で暮らしました。主人は49歳で亡くなりましたが、ちょうど長男が大学を卒業する年で、三菱電機から長男に、入社すれば静岡製作所に配属しますと話がありました。それで、長男も三菱電機に勤めることになったんです。
その後、長男は静岡製作所で所長まで務めたんですが、東京の本社に転勤になり、今もこちらにいます。次男は大学を出てから新聞記者になり、今は、こちらです。私は、しばらく孫と一緒に静岡にいたんですけど、身体の調子を悪くしてしまい、一昨年の7月にこちらの施設に移ってきました。
今、仏様とともに在る幸せ
戦争という時代ではあったけれど、振り返ってみると、私って苦労はしてないんですよね。友達の中には、あの時代は、これ以上はないほどの貧乏をして、お芋の茎ばかり食べていたと言う方もいます。私もお芋の茎は食べましたよ。でも、これ以上はない貧乏ってことではないんです。古い家でしたから、何でもやりたいことはやらせてもらいました。
また、しっかりしている姉がいてくれましたから。私が、今ここにいるのも、姉がずっといろいろアドバイスしてくれたからです。私がちょっと悪いことをすると、ああいうことをしてはだめよ、こうした方がいいのよ、とか言って、ずいぶん助けてもらったものです。
母も割合に長く元気でいてくれて、奈良から名古屋へ帰る私の汽車賃まで心配りしてくれました。母が亡くなって、姉の代になっても、それはちゃんと続けてくれました。姉が何かと気遣ってくれて、これで行きなさい、こうしなさい、って、お母さんがわり。姉のお蔭で、今があるなぁと感謝しているんです。
主人も、それはいい人でしたからね。動員に舞鶴へ行って、一番得をしたのは私だって、友達から随分言われました。どうしてって尋ねると、ご主人と一緒になったから、いいって。羨ましがられていましたよ。
ここに来てからは、二人の息子が近くにいてくれますので、安心しています。みんなに、幸せねって言われますけど、本当に、そうですね。若い頃は、私には男の子しかいないので、女の子が欲しいなあって、よく思ったんですよ。でも、今は、次男がよく私のことを気遣ってくれて、身の回りのことはなんでもやってくれます。だから、何にも心配はないんです。
私は奈良の古い家に生まれて、なにも不自由に思うことなく育ててもらいました。また、子どもの頃から毎日のように拝んでいた仏様が、今も、すぐそこにいてくださいます。目を吊り上げたような仏様じゃないですからね。何でも受け入れてくださる優しい仏様の顔でしょう。いつまでも忘れられないですね。だから、本当によかったですよ。
主人も本当にやさしい仏様のような人でしたね。そう。だから、私もよかったんだと思います。幸せですよ。
あとがき
相生の里のお部屋にお訪ねしたとき、和子さんは色白のお顔に優しい笑顔を浮かべて、私たちに声掛けをしてくださいました。そのふわりとした雰囲気に、初めての対面に強張っていた私の心の糸が、ゆるゆるとほどけたように思えます。にこやかで柔らかなお人柄が、今も心に印象深く残っています。
特別なことは何もなかったのよ、どんなことを話せばいいのかしらと、しきりに気にしてくださったのですが、お話が進みますと、奈良という特異な舞台ならではの思い出話が次々と披露されました。あの時代を思うと、たいへんな思いをされたことは間違いないのですが、それを苦になさってないのは、明るく、のびやかな性格で乗り切ってこられたからだろうと思います。そんな和子さんだから、ご主人も惹かれたのでしょうね。
また、和子さんは口癖のように「幸せなんですよ」「お陰様なんです」と繰り返しおっしゃいました。奈良での仏様との思い出が、いつまでも和子さんの心の拠り所となっているように感じました。そして、仏様を忘れず、人への感謝の思いをいつもお持ちになっていることが、心の支えともなり、ずっと和子さんをお守りしているように思えてなりません。
和子さん、これからもお元気でお過ごしくださいませ。ありがとうございました。
担当ききがきすと:鶴岡香代
posted by ききがきすと at 14:38
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コメント一覧
この聞き書きは、第4回養成講座の受講生です。講座の中での実習作品として仕上げました。講座の中でも、このような素晴らしい作品を仕上げることができます。 Posted by 松本すみ子 at 2014年10月01日 15:17
昨年10月24日救急で出先から入院し、検査の結果、生きているのが不思議、と言われるほどの心臓疾患で12月15日慶應病院にて手術をしました。1月末に退院しましたが、まだ介護を受けている状態です。お願いしたまま連絡出来ず、済みませんでした。取り敢えず連絡です。 Posted by 関 久江(久栄) at 2015年05月17日 18:10
梅村和子 さま
昨年10月24日救急で出先から入院し、検査の結果、生きているのが不思議、と言われるほどの心臓疾患で12月15日慶應病院にて手術をしました。1月末に退院しましたが、まだ介護を受けている状態です。お願いしたまま連絡出来ず、済みませんでした。取り敢えず連絡です。
Posted by 関 久江(久栄) at 2015年05月17日 18:12
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