2012年04月18日

アン 〜なんでも自分で〜

アン 〜なんでも自分で〜

  かたりびと:アン・M・ハロラン
        (東チモール民主共和国 外務省 地域協力統合局 顧問)
  ききがきすと:清水正子

 *英語版「Anne ― A story of an Independent Lady ―」もあります。

ニューサウスウェルズの小さな町に生まれて

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生まれた町『ウォガ・ウォガ』はニューサウスウェルズ州の農業地帯の中心地で、今では人口4万のかなり大きな都市になっていますが、私の生まれた当時はごく小さな町でした。

 気候は、現在、私の自宅がある所より北なので、もうちょっと暖かかったように思いますが、とにかく乾いて強烈な砂嵐の舞うところでした。あの砂嵐…、私の中ではそれが一番強い思い出です。何しろとても若い頃の印象ですもの。

教育者ファミリー

 
ものごころが付いたとき、自分の家は教師一家だわ・・・、と気づきました。両親とも教師で、とくに父親は5つの学校の校長を兼任しておりました。姉と私はのちに教師となり、妹も保育園の先生になりました。

 
自分も卒業・就職・結婚して独立して生きる年齢になったとき、当時女性にとって選択肢は2つ、保育園の先生か学校の先生になるかでしたが、保育園は苦手だったので、学校の先生になりました。

 
最初は中学校を終えた16歳で教え始め、資格は補助教員でした。このときはギリシャ語、フランス語まで教えたことがあります。それから教師養成学校へ行って正式に教師となりました。

 
教師になっても、最初の赴任先は小さな学校で、教師2人と30人余りの生徒という規模の学校でした。それで全科目を教えたものです。ウェールズでは当時教師が不足しており、ときどき要請されて他の科目を教えることは普通でした。のちに英語、歴史、地理の3教科のエクスパートとして教師を続けました。

自分の好きな生き方を選ぶ

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16歳まで故郷ですごし、5〜6年間、教師として働いた後、南隣のビクトリア州に休暇で行って、そのまま郷里には帰りませんでした。

 
そこで結婚はしなかったけれど一児をもうけ、未婚をつらぬきました。ある男性と長い間暮らしたのですが、息子ひとりを産んだ後、欲しい子供の数で意見が合わなかったりして、結局、結婚しない生き方を選びました。

 
子供は可愛いけれど1人で充分、子供を産む経験は1回でいいと、周囲の視線にもめげず、「結婚しない」という自分の生き方を通したわけです。もちろん当時の世間はこんな生き方を認めるようなものではありませんでした。でも人は自分の好きな生き方を選ぶべきだと思います。

 
彼とは別れてから全然連絡をとっていません

教師はすてきな仕事

 
59年に教師として人生のキャリアをスタートし、82年まで23年とは、なんと長い年月でしょう! 働きました。今でも教え子が、私が昔教えた学校に通う子供を連れていくのに出会うことがありますよ。

 
ここ東チモールでも教え子の一人にばったり出会い、彼女が15歳のとき以来でしたが、すぐ分かって、友達として付き合い始めました。彼女は博士号をとって、今、管理職についています。他にもときどき「どこかでお会いしましたよね・・・」と言って、近寄ってくる人に出会うけれど、みんな教え子です。

 
昔教えた女性たちとは今でも会うと懐かしく、しかも、皆素敵な人になっており、女子校で教えたことが本当に良かった・・・。男子校では教えたいと思いませんでしたね。

教師から公的機関の仕事へ

 
82年に教職を離れたのは、ちょうど息子が中学・高校を終えて大学に行くなど、郷里を出て自立するときであり、もう大人だから、これ以上彼のそばに居て干渉しない方がいいと思ったからです。でもそのときは自分がこれから何をしたいかはっきりしませんでしたね。

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しばらく教職とは関係ない仕事をした後、ビクトリア州の公的機関の仕事に就きました。83年の5月のスタートです。

 
常に上昇志向を持って行動することが、キャリアを積むためには必要ですが、そうするうちに、私の場合ラッキーなことに、望んだ仕事への道が開け、労務管理の仕事にかかわることができたのです。

 
ここでの仕事が、次のキャリアへのステップアップとしてとても役立ちました。ビクトリア州の大病院のひとつに労務管理部長として招かれ、この病院は公共セクターの一部門でしたから、公共部門のシステム理解が深まり、さらなる仕事へとつながっていきました。

 
キャリアアップを望むなら、考え過ぎずに、運を天に任せて、とにかくやってみることです。それが駄目なら他のことに目を向ければいい・・・、これが私の信条かしら。


旅がセットの楽しい仕事

 
産業法や労務管理の仕事を経て、10年ほどカソリックの学校で人事管理業務に関わりましたが、この仕事はビクトリア州のいろんな地方への旅が必須でした。おかげで実にさまざまな地方へ旅し、さまざまな興味深い人たちに会い、普通なら決して行かない所で素晴らしい経験をすることができました。いい仕事でしょ?

 
旅といえば、私の心を燃え立たせるものはヨーロッパへの旅ですね。

 
初めてヨーロッパに行ったのは、同僚のドイツ人教師とでした。彼女とは長期休暇を利用してスイスに行き、いわゆるホームステイをしながら勉強3週間、ヨーロッパ旅行3週間の6週間にわたる日程の旅行をしたのです。73年が1回目、そして75年が2回目です。 以来ヨーロッパにとりつかれています。

 
旅をして思うことは、国によって人間性が違うことはないが、文化はそれぞれ独自のものがあるということですね。私のお気に入りはイタリー・・・。これからも何度でも、出来るだけ行きたい国です。でもお金が問題

息子と私

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息子が16歳のとき3ケ月間のヨーロッパの旅に連れて行きました。バックパッキングの旅で、私は息子に私の目を通してヨーロッパを見せてやりたかったのです。私にとってギリシャ、ローマの歴史は実に興味深いものであり、このとき自分たちの文化的歴史的背景・事物をじっくり見ることができて嬉しかったですね。

 
息子の教育を目指して行った旅ですが、彼はいま、ビクトリア州ジーロン市にあるシェル石油の精製プラントで衛生保安管理部長として働いています。考えてみればまったくヨーロッパ文化と関係ない実際的な分野に行ってしまったんだわ。

東チモールでボランティアを

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04年にこの地東チモールを訪れて、2〜3日滞在し、この地の人たちと接して、素敵な縁を感じたものです。みんな親しみこめて歓迎してくれ、本当にほっとする時間を楽しむことができました。

 
これは以前から考えていたことですが、弁護士の友人がアフリカのマラウィで、もうひとりはインドで、それぞれボランティアとして働いたときの素晴らしい経験を話してくれたのもあって、退職したらどこかで、ボランティアとして貢献しようという気持ちが固まったのです。

 
「オーストラリア・国際ボランティア協会」にボランティアの申込みをし、面接で特に東チモールに関心があることをアピールしました。その結果、いまの仕事を打診され、06年から始める予定でした。

 でも、この年、東チモールで暴動騒ぎが起こって、政府はボランティア全員を引き揚げさせました。それで私も何か月か待たざるをえず、提案した計画もしばらく延期となりました。以前働いたことのある病院から声をかけられたものの続ける気になれず、断りました。

 
結局、08年になって私の希望が実現し、東チモール国立赤十字社で仕事を始めました。この国で18か月過ごし、国と国はほんとうに密な関係にあるという感想をもっています。現在ここの外務省で働いている印象は、トップの局長からスタッフたちまで素晴らしい人たちで、本当にたくさんの事を勉強しました。そう、まるで大家族のような雰囲気です。

さらに勉強をするとしたら

 
退職した今、新しく勉強するとしたらそうですねぇ、自分は信心深い人間ではないけれど、他の人の宗教に対する考えに興味があるから神学かしら。

 
私には、なぜ宗教心の強い人と反宗教的な人がいるのか、なぜ信仰のためにときには過激な(私から見れば否定的な)手段に出る人がいるのか・・・、こういうことに非常な興味があります。なぜ宗教心がひとの行動を左右するのか分からないのです。

 
それで、ときどき神学か心理学か、それともふたつとも勉強してみようかと思うのですが、まァ、多分無理でしょうね。

老化現象?気にしない、気にしない

 
この年になっても、頭脳は日々働いているのだから、鍛えなくては。

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老いは心の持ちようで、例えば、物忘れがひどくなったのは何かの症状ではないかと怖がる前に、昔からいろんなことを忘れていたじゃないの、と考えたらどうかしら。年取って物忘れすることが年齢のせいかもしれないと思えるとき、今まででもずっと、同じようなことをやってきたじゃないか、と思い返せばいい。

 
たとえば、私は人の名前を憶えるのが苦手で、親しく話した人に再会しても、顔は憶えているのに、名前は絶対に頭に浮んでこないという確信があります。その意味で、大組織で働くことは都合がいいわね。私が元働いた病院に戻ったとき、20年来働いていた人たちがまだいました。

 
顔は分かるけれど、名前がぜんぜん思い出せない。でも、みんな胸に名札を付けているから誰の名前も聞く必要がないのね、本当に便利でよかった。あんな風に、みんな額かなんかに名前を“いれずみ”にしたら便利でしょうね。

オーストラリアのシニア

 
オーストラリアでは65歳ごろの、定年でリタイアした人たちのため、政府はそのまま職場にとどまってパートタイム的に働くことを奨励しています。年齢の制限はありません。長く働いていたシニアは、異なる観点から豊富な経験を若い人に伝え、分かち合うことができるということが認められたのだと思います。これによって、社会的にも考え方のバランスがとれ、役に立つという考えからです。

 
元の職場を辞めずに、フルタイムではなく、週に2〜3回とか、何日かおき位のペースで仕事をする人がだんだん増えています。オーストラリアでは当たり前のことになりつつある、と言えるでしょう。

家族の中のシニアの出番

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家族の中のシニアの出番をせばめるものとしては、少子化問題がありますね。私の小さい頃は、自分たちは3人姉妹ですが、他は6人きょうだいが普通でした。女は子供の世話に生涯の長い時間をとられ、大家族ですから、老人たちも役割が多かったのです。でも、現在は子供2人が普通でしょ? 孫の数も激減しています。大家族がなくなって、今のような極小家族では老人たちの孫の世話という活躍の場がなくなったのですね。

 
私自身は2人の孫の世話で手いっぱいでした。息子夫婦の息抜きのため週末の1日か2日面倒をみてやるのが精々で、預かった週の終わりにはヘトヘトでした。私に言わせれば2人でも多いくらいという感じですよ。

 
でも、今ふたりはティーンエイジャーで、私がオーストラリアにいるときなど、学期中はたいていの週末をいっしょに過ごします。でも、彼女たちは勉強や下調べに忙しいので、読書ばかりで静かなものです。孫たちが来るのも、会いに行くのも楽しみです。

 
幸運なことに、現在、東チモールに姪と家族が住んでいて、その子供たちは3歳と5歳。可愛いくてなりません。ちょうどこの時期にこの国に来られて良かったと思いますし、これも滞在理由のひとつかもしれません。

何でも自分で

オ―ストラリア人は飛行機や汽車より車で移動するのが好きです。私もそう。

たとえばニューサウスウェルズ州の首都はシドニーですが、メルボルンから行くには飛行機なら1時間で着いてしまいます。でも、私は車で10時間かけて行く方が好き。旅のトラブルも怖いとは思いませんね。自分で解決を目指します。

 私の信条は何でも自分ですること。他人に頼むのは苦手です。



*「アン 〜なんでも一人で〜」の英語版もあります。まもなく掲載予定です。

(完)

posted by ききがきすと at 23:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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