2012年04月18日

山を愛し、お酒を愛し、人を愛し

山を愛し、お酒を愛し、人を愛し

 
 かたりびと:加藤忠男   ききがきすと:豊島道子

先輩教員の誘いで始めた「山」に魅せられて

t1.jpg 
今年85歳になるけど、人生をあらためて思い起こしてみると、半分は山だったね。富士山にも事あるごとに登ったしね。

山をやるきっかけ? 高校の教員になってからだね。大学で山岳をならした人が私の同僚で。そうね、10歳くらい上だったかな。山好きな先輩で、手ほどきしてくれて、山の登り方とか、こんな山がいいとかを教えてくれたり。その人は拓殖大学の山岳部出身で、キャリアからいうと、南極探検隊なんかにも参加できたような人なんだけどね。

 
学校の教員だったから、学校が休みの夏・冬は少し遠出をして、二人だけで行った山はたくさんあるね。低い山は低い山なりの良さがあったし、高い山だけが名峯ではないし、1000mでもいいわけ。

 
田部井淳子さんも、福島県にもたくさんいい山があるので、好きな山をせっせと紹介して登ってるね。一度一緒に上った事もあるな。うーん、八ヶ岳はいい山だ! 彼女は福島出身だし、親近感があるね。彼女まだまだやれるし、テレビで見るにつけ、元気でいいねぇ。女性初のエベレストに登る候補の女性が、たまたま具合が悪かったので、次候補の彼女が選ばれて、それでどんどん頭角を表していったんだよ。まあ、世の中何かのきっかけというか、運もあるんだねぇ。

山を教えてくれた人の大怪我

t2.jpg 
そうそう、その先輩が、怪我をしたんだ、大怪我をね。運動会の後、慰労会があって、お酒を飲んで家に帰るのに、タクシーに乗ったらしいのね。降りた場所が川べりで、酔っぱらっていたし、狭いのでそのまま川に落ちてしまったとか。大変な事故で、頭打って、腰打って、脊髄損傷。入院して、そのままでついに復帰できなかったね。

 
私もがっかりしたけど、それからは一人で登るようになったね。みんなしてわいわい登るような事はなかったけど、好きだったね、山は。

 
山で道に迷ったという事はないかって? 地図とコンパスだけで登るけど、それは無かったね。

 
妻も山が好きだから、止められた事は無かったよ。「行くの? 気をつけて行ってらっしゃい」っていつも送りだしてくれたよ。

 
山は無理しちゃいけないというのを、いつも自分に言い聞かせてたよ。自分の技量を過信してはだめ。山は臆病ぐらいの方がいいんだ・・・。無理やり登ると、雷にあたったり。冬の山はいいね。厳冬期はやらなかったね。3月なると雪がかたまってくるので、アイゼンきかせて登るんだけど、そのあたりがいいね。

 どんな山でも、冬山で雪崩はいつでもおきるから。クレパスはあるけど、危険性は少ない。幅が2m、深さ30mあって100m続くんだね。

大好きな山「剣岳」とその小説

 
一番好きな山?

 
真っ先に立山。「剱岳 点の記」という映画が最近あったでしょ?山のガイドで、山案内人が剱岳の高さを測ったんだね。あの頃、地理観測所が地図を作っていたと思うけど、その役所に勤めてたのかな。

t3.jpg 
本もあって、大好きな本(注)なんだけど、それが映画になってね。何度も見たよ。おもしろかった! 自分の知ってる山がたっぷり出てくるから。剱岳は、富山県になるのかな。立山の最高峰!立山から室堂平、バスとケーブルとトンネルの中はトロリーバス・・。扇沢からだとかなり時間はかかるね。剱岳を含むのが立山連邦。日本三霊山の一つとして今でも崇められている山山だ。

*注:本書は、日露戦争直後、北アルプスの劔岳登頂を命ぜられた測 量官・柴崎芳太郎をモデルにした小説である。当時、劔岳は前人未踏、弘法大師が草鞋3千足を使っても登れず、登ってはならない山と恐れられていた。その劔岳の踏破を草創期の山岳会が狙っていた。これを知った陸地測量部のトップ層が初登頂は譲れないと、命令した。

 陸地測量部は30年間にわたって測量を続け、ほぼ日本の地図を作り上げていた。最後に残ったのが劔岳周辺。日本の山は、修験者など宗教上登頂された以外の山はほとんど陸地測量部員によって初登頂されている。絶対に山岳会に先を越されてはならない、上司がすべて陸軍将校の陸地測量部員にとって初登頂は至上命令だった。

 困難を極めたが、剣岳と映らの大雪渓(現在、長次郎谷と呼ばれている)から山頂を極めた。しかし、山東三角点設置のための材料はとても背負い上げられない。やむなく四等三角点、それでも長さ10(3m)、切り口1寸5分(4.5cm)の丸太を担ぎ上げなければ
ならなかった。ゆるぎない信念と使命感、部下への思い遣りあふれたマネジメントなど、リーダーの資質十分な柴崎と、確かな技をもった律儀な職人長次郎の組み合わせによって三角点設置のための劔岳登頂は、はじめて成しえた業績と云えるだろう。「文藝春秋社のコメントより一部抜粋」

秋田の兄も山好きだった

孝吉兄の米寿の祝いの席.jpg 
いろんな山に、秋田の兄貴も連れてったよ。孝吉兄も山を恐れない人だったから。山大好きだったけど、あの人も山にきのこ取りに行って、遭難し、急死に一生を得たね。新聞紙やらで寒さを凌いで、一昼夜、水だけで生き延びるとは、やっぱりたいしたもんだな。晩秋の秋田の山奥では氷点下だったろうし。

 
あの人は筆まめで、文筆家。たいした筆まめ。みんなに書いたものを送ってね。あの人は、小さい頃から絵は断トツに上手かったね。小さい頃に筆セットを買ってもらって、絵具もあの頃は高かったけど、養子に行ったから、待遇が良かったんだろう。よく風景画を描いていたのを覚えてますよ。私もそれなりに絵は好きだったけど、比べ物にはならないほど上手かったね。

 
本当は東京芸術大学に行きたかったけど、勉強の方で落ちちゃったんだ。それから仕事は日本生命やら転々として、絵は単なる趣味になっちゃったね。あのまま絵の世界に入っていたら、それなりに大成したかも知れないが。

 
日本の登山は信仰登山

 
剱岳というのは信仰の山。日本人の山登りと西洋人のそれとでは、考え方が違うんですよ。日本人は、昔から山には神様が宿っているという信仰をもって、祠(ほこら)を建てて、そこに参拝登山をするという感覚。信仰のために登るという歴史があった。

 
しかし、明治時代になって、近代登山といって、スポーツ登山というか、信仰がなくても、登山をするようになった。ところが、ヨーロッパ人は日本のそういう信仰登山に関心がなく、スポーツ登山が無いと考えて、日本の山を開発しようと、乗鞍岳とか穂高とかに登ったんですよ。宣教師たちが剱岳に登った。ヨーロッパ人は剣岳を未踏の山と勘違いして、まあ知識が無かったのかも知れないが、こぞって剱岳に登ったんだな。

 
日本では昔から富士講・何々村で、今度は立山に登るから年間計画を立てて、いついつ登るという風にして登る。参拝に行く・・・、富士山参拝・伊勢参拝・というのが講なんですね。富士講の講というのは、講和の講・・集団の事。富士山の神様を信じて登る集団は『講』、立山に登る集団は『立講』ってこと。

 
山に行くにも旅費がいるわけだね。講はみんなで旅費を積み立てて、村長は順番に村民を連れていくわけ。積み立てていれば、いつかは行けるわけだから。

 
日本の近代化でいろんな事がおきた

まだ車も運転されて元気だった頃.jpg 
明治になって、日本も近代化するために、政府が出した廃仏棄却令・・・、仏を捨て去れってこと。日本は仏を信じてお寺を信じきたのに、近代化を急ぐために、古い物は悪い、西洋の物がいいと。

 
明治の初期はすべて日本の古いもの捨てて、幕府を全部悪い物にした。それを倒した朝帝はいいという風になってしまい、そういう風習が続いたんだね。日本はある部分、文明開化が行きすぎて、西洋文化は進んだけど、日本独自の文化を捨てた、という過去があるんですよ。

 
今はどうなんでしょうかね・・。

 
徳川幕府を倒さなくては、日本はついていけないという事で、捨てちゃったんだね。いいか悪いかは別として。大仏様の上に天皇を置いたわけ。前は天皇が下だったのに、江戸時代から仏様の上に天皇絶対主義になったんだ。現人神・天皇は生き神様。天皇はずっといたけど、政治から手を引いてしまったわけ。幕府に任せたわけ。権力はないけど、えらいものにしておこう、という事だね。

 
また山の話になるけど、今の世の中でも山女(注:山ガールのこと)とか流行ってるらしいけど、山に登ると崇高な気持ちになるとか、御来光を見るために富士山に登るとか、いつになっても日本人は信仰登山のような気がするけどね。

 
最近までやっていた「ウォーキングの会」

数年前までリーダーを務めていた『歩こう会』.jpg 
ずっと温めていた素人のための「ウォーキングの会」を主婦を中心に、楽しくやったのが最後だね。毎回鎌倉や、横浜のこの辺の旧所名跡を廻りながら、ゆっくり歩くという趣旨で近所の人に声をかけたら、それなりに集まってね。

 
毎回、自分で実際歩いてポイントを探して、計画を立てるのが、それは楽しかったね。もともと歴史も好きだし、歩くのも好きだから。ルートをあれやこれや考えている時が、それもお酒を飲みながら考えて。いやー、最高だったね。まあいつしか自然消滅して、その会も無くなったけど、晩年のいい思い出だ。

あとがき

 
私の父の兄弟である忠男叔父の「ききがき」をするには、あまりにも壮絶な人生を知っている私としては、非常に複雑な思いでした。しかし限られた3時間という範囲で、何か叔父の一番好きだった事の少しでも書き残す事ができれば、という思いでした。

 
私が小さな時から一番愉快で、物知りだった叔父は、私が上京してからも人がよく集まり、笑い声の絶えない家でしたので、叔父宅へは事あるごとに行っていたのが昨日の事のように思い出されます。

 
今は、体が思うようにならない叔母を介護しながら、自分も進みつつある認知症とむきあって穏やかな日々を過ごしています。かわいい孫が4人もいるのですから、まだまだお二人仲良くどうぞお元気でお暮らし下さい。

posted by ききがきすと at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コメントを書く

お名前

E-mail

コメント

表示されるのは「お名前」と「コメント」のみです。

ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

コメント一覧

トラックバック一覧