2012年01月09日
市丸姉さんにあこがれて
市丸姉さんにあこがれて
〜九十五歳のいまなお、どどいつを!〜
かたりびと:木下清子 ききがきすと:豊島道子
左ぎっちょでも楽しかったわ
私は、大正4年生まれの95歳。おっちょこちょいなの。江戸っ子よ。私はね、字が書けない、読む事は読むんだけど、字が書けない。そのために見る事を覚えた。字が書けないから、見ると覚えるじゃないですか。これは「きのした」って、読むんだわ、とかね。
尋常小学校はちゃんと6年間出たのよ。でも私左ぎっちょだから・・いまだに左ぎっちょで、みっともなくて困っちゃう。6人兄弟で、みんな字が上手いの。私だけが下手だったわ。だから、ろくな仕事にも就けなかった。女中に行っても、朋輩に馬鹿にされて追い出されたりして。親は別に働きに出したりしたわけではないけど、自分で出たのよ。
お店の主人は泣き泣き、私を辞めさせたの。お料理屋だったから、左ぎっちょでは、商売が左前になるから、と言われてね。お客には好かれたんだけど。それでも、どうしても料理屋とかは駄目で、左でやれるところがいいっていう事で、貝屋に奉公したの。左ぎっちょでも、貝って口を開いてるから、こうやりゃ割れるじゃない?
東京の佃よ、生まれて育ったのは。だから左ぎっちょだけど、左で殻むいたりして、楽しかったわ。いじめられないで。その主人が「そのつゆ、大事だから、飲んじゃいな!」って。貝がかたっぽ生きてるんでね、気持ち悪かったけどしょっちゅう、つゆ飲んでた。アサリだの赤貝だの・・・。
寄席に通って、市丸姉さんの真似
字は書けない、ただしゃべることは、覚えたいんで、*市丸姉さんって人いたでしょ。
注)市丸姉さんは長野県松本市生まれ、16歳のとき、浅間温泉で半玉(芸者見習い)になり、19歳で上京して浅草で芸者になった。
浅草では一晩に何件ものお座敷を掛け持ちするほどの人気者。 噂を聞いたビクターが市丸姉さんを昭和6年に歌手としてデビューさせ、静岡鉄道のコマーシャルソング「茶切節」が全国的な大ヒットなった。
芸者1だったようです。
浅草のそういうところに行って、「小唄」とか「どどいつ」を覚えたりしてたわ。私、14歳位だったからよっぽど寄せにでも出ようかしら、って言ったら、親がそんな思いしなくていいってね。
寄席に出ない代わりに、学校の帰りには、寄せの下足番のおじさんの所に行って、おじさん知らないのに、「この下駄どこに入れたらいい?」って、言われないのにやるもんだから、かわいがられてね。だからね、「今日は、市丸姉さんくるから、お客の所に行って座って歌聞いた方がいいよ」って言ってくれたりして。
毎日学校から帰ってくると寄せに行って、そんな事してたのよ。楽しかったわ。
かごしょって、魚拾い?
ある日、友達に「魚市場でこじきやんない?」って言われたの。友達に。いいわって答えて。何だかわかる「こじき」って? 汚いかっこしてね、わらじはいて、かごしょってね。下におっこってるのを、ひろうわけ。そこの主人に何も言わないで、自分のかごに全部入れるわけ。家に持って帰ってきて、近所に持ってって売るのね、料理屋さんとかにね。
かごしょって、わらじはいてね、魚市場の中に入ってそばを食べるお金位は持ってたから、そこで食べて隣のおじさんと仲良くなって、「おじさん、下におっこってるごみ拾いたいんだけど」って言ったら、「そっか、小遣い稼ぎだな。かごしょって4時に来なくちゃダメだよ」って教えてもらってね。4時に行くから学校なんて行かないの。
ご主人がみんないい人で、いいよ、いいよって言ってくれるので、下に落ちてるの拾って。そのうち「この子か、清ちゃんてのは?」と言われて、すいませんって。でもね、私達は子供だったから、みんなかごに魚ほってくれたりして、楽しかったわ、子供のじぶんて。
結婚生活は短かったわね
お嫁に行ったところは、門前仲町ってとこで、借家だったわ。ある時、下駄やじゃなくて、ええとね、何やだったか? とにかく家から近いから毎日行って、その前の掃除したりなんかしてたのよ。
そこにいた人が、いいとこの息子なんだけど、親とけんかして、飛び出して、大学も出てたんだけど、その人が独身でそこに居候していたの。「私もらってくれないかしら」って言ったら、「いいよ、もらってやる」って。それでちゃんと結婚式もやって一緒になったの。
その人と結婚したんだけど、死んじゃったわね。結婚して10年位は一緒にいたんだけど。その人電気やさんでね。その時は、赤坂に貸家がたくさんあって、乃木大将の墓もあったわね。7・8人の弟子を連れては、コードをあっちやれ、こっちやれっていうふうな仕事をしてたわ。
戦争にもあったわね。門前仲町で逃げて、川っぺりにつかまって、夜をあかしたの。いろいろその間あったけど、戦争は早く終わったような気がするけど、今となりゃあんまり覚えてないね。
私、男の人が好きなの!
くだらない話が一杯あるのよ。していいかしら? 私ね、男が好きだったの。どんな男って、お金を持ってたら、どこへでも行ったの。私はお金持ってなかったから、お金があったらどこへでも行けるでしょ?
たとえば、向島の方に、「やおまつ」という料理旅館があったの。「やおまつ」に行くのにね、永代橋から船が出てたの。船頭がいて、川っぺりに雨も降ってないのに、番傘さして出迎えてくれるのよ。
私、昔から市丸姉さんにあこがれて、歌いなさい、っていうと今でもすぐ歌うの。「どどいつぁ〜野暮でも、やりくりゃああ上手っ、けさも七つやでほめら〜れえぇぇ〜た」
くだらない、人生。男の人が好きなのよ。振られたことはないわね。
芸事が好きだったから、いろんな歌を歌ったわね。市丸さんが好きだったわ。浅草の芸者衆。勝太郎さんとかね。「端唄」とか、「どどいつ」だとか、持ち味があるでしょ、声に。私は低音で歌ったり、高い声で歌ったり。私は、芸者になりたかったけど、親がいけないって。
相生の里での今の生活
三味線も2丁もってきてるの。足をけがしてね、座れないし、三味線は、車椅子ではひけないのよ。私、ここでは今車椅子の生活だから、すわれないでしょ、三味線がのらないでしょ、この肘掛がじゃまして。だらしない持ち方になるからやれないわ。ここへ(膝の上に)のせないとね、浅く腰かけないと、三味線がのらないでしょ(今にも三味線があれば引き出しそうな雰囲気で)。いつでも三味線ひけるように、ここに(相生の里)持ってきてるの。
何年か前の暮の大みそかで、歌ったり、三味線弾いたり、みんなの前でやったのよ。何か歌ってって言われると、手を挙げて、はいって歌うのよ。
でもその後ころんで、大けがしたの。もう3年位前に、ころんで、大怪我をして、もう治らないのよ。医者がリハビリも駄目だし、無理しちゃだめって言うから。
お裁縫が好きだったけど、ここじゃ針と糸持ってきてはいけませんって、言われたの。お裁縫もするのよ、ちゃんと親が習いに通わせてくれて。
みんな兄弟元気ですよ。長男が、お金送ってくれてね。私が一番下だけど、みんな東京に住んでます。今じゃ、みんな年とって会う事もないけど・・・。
私ね、西瓜が好きなの。で冷蔵庫買ったのね。去年すいか出なかったでしょ。真半分のすいか、大きな西瓜を冷蔵庫に入れておいて、食べるの。今年は美味しいすいかたくさん食べなくちゃ。お酒は飲まないし、たばこ吸わないから私。西瓜が一番好き。
ここは一人部屋なの。テレビもあるの、こんな大きいテレビが届いたの。歌番組見るのよ。歌が好き、踊りが好き、ダンスが好き。足が悪くても踊っちゃうわよ。相手がリードしてくれれば、何でも踊っちゃうわよ。
時々ね、ここには芸人が来て、ダンスだの、いろなのをやってますよ。
日本舞踊の先生もしてたのよ。左ぎっちょで。ちっちゃい時から踊りは習わされて。
今でも声は大事にしてるわよ
唄えなくなったら困るから、今でも声は大事にしているわよ。喧嘩は嫌い、ここでも喧嘩は絶対しないわよ。
何にも顔には付けてないのよ。頭だって。足がこんなだから、買いに行けないでしょ。水で洗うだけよ。ずいぶん貝の汁を飲んだおかげだわ。今のこの年になって、悪いとこないもの、ただ転んだから足が悪いだけで。
なんたって、かっぽでも、やっこさんでも踊っちゃうわよ。なまけてるようだけど、ぼやっとしてるのは昔から嫌いだから、何やかにややってますよ。三味線は弾くし、今はこんな格好だけど、エプロンを変えてみたり、着物着ないでもできるようにやってね。
ドジョウすくいの手をしながら、あ、こりゃこりゃ!
で、ダンスは自己流なの。相手つかまえたら、私が歌っておどっちゃうの。おじいさんだろうが、誰だろうが。すぐ歌うのよ、楽しいわよ。
「会いたい〜ぃぃとっ、思う矢先にぃぃぃ、来たよぅ、と言われっ、会いたくないふぅぅり、見たいかぁぁぁお!」文句によって、高いところから出たり、低いところにいったり、歌はいいわよね。
◆あとがき
今回は、ある御縁で、木下清子さんのお話を伺う機会を持てました事、本当に感謝です。この相生の里という素晴らしい環境の中で、ご高齢者のお一人、お一人の人生を垣間見る機会をいただき、関係者の方々にも深く御礼申しあげます。
さて、清子さんとの初対面ですが、私の95歳の方のイメージと全く違う女性がそこにいました。しっかりした口調で、「木下です、こんにちは」と本当にお元気でお話好きな方だとわかる印象で、すぐ打ち解ける事ができました。
市丸姉さんにあこがれて踊り・歌・三味線にあけくれた人生・・・時代はさておき、本当に好きな事に没頭できた清子さんは幸せな人生を送られたと、確信しました。
お話中も、身振り・手振りで、踊りの話がはずみ、お怪我をなさる前のお元気な清子さんの踊りと三味線を是非拝聴したかったな、と返す返す残念に思った次第です。
お話を一通り伺った後、昔の写真はありますか?という問いに、「部屋にたくさんあるのでどうぞ」と快く招いて下さって、本冊子に載せました写真を撮る事ができました。どうぞ、これからも粋などどいつを、どうか唄い続けて続けて下さる事を願ってやみません。
〈注〉この聴き書きはご本人の語った言葉をそのまま書き起こしていますので、本文中に、差別的あるいは禁止用語に該当する言葉が出てくる場合もあります。聴き書きグループでは、ご本人が自分自身に関して語った内容や言葉は、特別な場合を除き、できるだけ忠実に記載する事にしています。
(完)
〜九十五歳のいまなお、どどいつを!〜
かたりびと:木下清子 ききがきすと:豊島道子
左ぎっちょでも楽しかったわ
私は、大正4年生まれの95歳。おっちょこちょいなの。江戸っ子よ。私はね、字が書けない、読む事は読むんだけど、字が書けない。そのために見る事を覚えた。字が書けないから、見ると覚えるじゃないですか。これは「きのした」って、読むんだわ、とかね。
尋常小学校はちゃんと6年間出たのよ。でも私左ぎっちょだから・・いまだに左ぎっちょで、みっともなくて困っちゃう。6人兄弟で、みんな字が上手いの。私だけが下手だったわ。だから、ろくな仕事にも就けなかった。女中に行っても、朋輩に馬鹿にされて追い出されたりして。親は別に働きに出したりしたわけではないけど、自分で出たのよ。
お店の主人は泣き泣き、私を辞めさせたの。お料理屋だったから、左ぎっちょでは、商売が左前になるから、と言われてね。お客には好かれたんだけど。それでも、どうしても料理屋とかは駄目で、左でやれるところがいいっていう事で、貝屋に奉公したの。左ぎっちょでも、貝って口を開いてるから、こうやりゃ割れるじゃない?
東京の佃よ、生まれて育ったのは。だから左ぎっちょだけど、左で殻むいたりして、楽しかったわ。いじめられないで。その主人が「そのつゆ、大事だから、飲んじゃいな!」って。貝がかたっぽ生きてるんでね、気持ち悪かったけどしょっちゅう、つゆ飲んでた。アサリだの赤貝だの・・・。
寄席に通って、市丸姉さんの真似
字は書けない、ただしゃべることは、覚えたいんで、*市丸姉さんって人いたでしょ。
注)市丸姉さんは長野県松本市生まれ、16歳のとき、浅間温泉で半玉(芸者見習い)になり、19歳で上京して浅草で芸者になった。
浅草では一晩に何件ものお座敷を掛け持ちするほどの人気者。 噂を聞いたビクターが市丸姉さんを昭和6年に歌手としてデビューさせ、静岡鉄道のコマーシャルソング「茶切節」が全国的な大ヒットなった。
芸者1だったようです。
浅草のそういうところに行って、「小唄」とか「どどいつ」を覚えたりしてたわ。私、14歳位だったからよっぽど寄せにでも出ようかしら、って言ったら、親がそんな思いしなくていいってね。
寄席に出ない代わりに、学校の帰りには、寄せの下足番のおじさんの所に行って、おじさん知らないのに、「この下駄どこに入れたらいい?」って、言われないのにやるもんだから、かわいがられてね。だからね、「今日は、市丸姉さんくるから、お客の所に行って座って歌聞いた方がいいよ」って言ってくれたりして。
毎日学校から帰ってくると寄せに行って、そんな事してたのよ。楽しかったわ。
かごしょって、魚拾い?
ある日、友達に「魚市場でこじきやんない?」って言われたの。友達に。いいわって答えて。何だかわかる「こじき」って? 汚いかっこしてね、わらじはいて、かごしょってね。下におっこってるのを、ひろうわけ。そこの主人に何も言わないで、自分のかごに全部入れるわけ。家に持って帰ってきて、近所に持ってって売るのね、料理屋さんとかにね。
かごしょって、わらじはいてね、魚市場の中に入ってそばを食べるお金位は持ってたから、そこで食べて隣のおじさんと仲良くなって、「おじさん、下におっこってるごみ拾いたいんだけど」って言ったら、「そっか、小遣い稼ぎだな。かごしょって4時に来なくちゃダメだよ」って教えてもらってね。4時に行くから学校なんて行かないの。
ご主人がみんないい人で、いいよ、いいよって言ってくれるので、下に落ちてるの拾って。そのうち「この子か、清ちゃんてのは?」と言われて、すいませんって。でもね、私達は子供だったから、みんなかごに魚ほってくれたりして、楽しかったわ、子供のじぶんて。
結婚生活は短かったわね
お嫁に行ったところは、門前仲町ってとこで、借家だったわ。ある時、下駄やじゃなくて、ええとね、何やだったか? とにかく家から近いから毎日行って、その前の掃除したりなんかしてたのよ。
そこにいた人が、いいとこの息子なんだけど、親とけんかして、飛び出して、大学も出てたんだけど、その人が独身でそこに居候していたの。「私もらってくれないかしら」って言ったら、「いいよ、もらってやる」って。それでちゃんと結婚式もやって一緒になったの。
その人と結婚したんだけど、死んじゃったわね。結婚して10年位は一緒にいたんだけど。その人電気やさんでね。その時は、赤坂に貸家がたくさんあって、乃木大将の墓もあったわね。7・8人の弟子を連れては、コードをあっちやれ、こっちやれっていうふうな仕事をしてたわ。
戦争にもあったわね。門前仲町で逃げて、川っぺりにつかまって、夜をあかしたの。いろいろその間あったけど、戦争は早く終わったような気がするけど、今となりゃあんまり覚えてないね。
私、男の人が好きなの!
くだらない話が一杯あるのよ。していいかしら? 私ね、男が好きだったの。どんな男って、お金を持ってたら、どこへでも行ったの。私はお金持ってなかったから、お金があったらどこへでも行けるでしょ?
たとえば、向島の方に、「やおまつ」という料理旅館があったの。「やおまつ」に行くのにね、永代橋から船が出てたの。船頭がいて、川っぺりに雨も降ってないのに、番傘さして出迎えてくれるのよ。
私、昔から市丸姉さんにあこがれて、歌いなさい、っていうと今でもすぐ歌うの。「どどいつぁ〜野暮でも、やりくりゃああ上手っ、けさも七つやでほめら〜れえぇぇ〜た」
くだらない、人生。男の人が好きなのよ。振られたことはないわね。
芸事が好きだったから、いろんな歌を歌ったわね。市丸さんが好きだったわ。浅草の芸者衆。勝太郎さんとかね。「端唄」とか、「どどいつ」だとか、持ち味があるでしょ、声に。私は低音で歌ったり、高い声で歌ったり。私は、芸者になりたかったけど、親がいけないって。
相生の里での今の生活
三味線も2丁もってきてるの。足をけがしてね、座れないし、三味線は、車椅子ではひけないのよ。私、ここでは今車椅子の生活だから、すわれないでしょ、三味線がのらないでしょ、この肘掛がじゃまして。だらしない持ち方になるからやれないわ。ここへ(膝の上に)のせないとね、浅く腰かけないと、三味線がのらないでしょ(今にも三味線があれば引き出しそうな雰囲気で)。いつでも三味線ひけるように、ここに(相生の里)持ってきてるの。
何年か前の暮の大みそかで、歌ったり、三味線弾いたり、みんなの前でやったのよ。何か歌ってって言われると、手を挙げて、はいって歌うのよ。
でもその後ころんで、大けがしたの。もう3年位前に、ころんで、大怪我をして、もう治らないのよ。医者がリハビリも駄目だし、無理しちゃだめって言うから。
お裁縫が好きだったけど、ここじゃ針と糸持ってきてはいけませんって、言われたの。お裁縫もするのよ、ちゃんと親が習いに通わせてくれて。
みんな兄弟元気ですよ。長男が、お金送ってくれてね。私が一番下だけど、みんな東京に住んでます。今じゃ、みんな年とって会う事もないけど・・・。
私ね、西瓜が好きなの。で冷蔵庫買ったのね。去年すいか出なかったでしょ。真半分のすいか、大きな西瓜を冷蔵庫に入れておいて、食べるの。今年は美味しいすいかたくさん食べなくちゃ。お酒は飲まないし、たばこ吸わないから私。西瓜が一番好き。
ここは一人部屋なの。テレビもあるの、こんな大きいテレビが届いたの。歌番組見るのよ。歌が好き、踊りが好き、ダンスが好き。足が悪くても踊っちゃうわよ。相手がリードしてくれれば、何でも踊っちゃうわよ。
時々ね、ここには芸人が来て、ダンスだの、いろなのをやってますよ。
日本舞踊の先生もしてたのよ。左ぎっちょで。ちっちゃい時から踊りは習わされて。
今でも声は大事にしてるわよ
唄えなくなったら困るから、今でも声は大事にしているわよ。喧嘩は嫌い、ここでも喧嘩は絶対しないわよ。
何にも顔には付けてないのよ。頭だって。足がこんなだから、買いに行けないでしょ。水で洗うだけよ。ずいぶん貝の汁を飲んだおかげだわ。今のこの年になって、悪いとこないもの、ただ転んだから足が悪いだけで。
なんたって、かっぽでも、やっこさんでも踊っちゃうわよ。なまけてるようだけど、ぼやっとしてるのは昔から嫌いだから、何やかにややってますよ。三味線は弾くし、今はこんな格好だけど、エプロンを変えてみたり、着物着ないでもできるようにやってね。
ドジョウすくいの手をしながら、あ、こりゃこりゃ!
で、ダンスは自己流なの。相手つかまえたら、私が歌っておどっちゃうの。おじいさんだろうが、誰だろうが。すぐ歌うのよ、楽しいわよ。
「会いたい〜ぃぃとっ、思う矢先にぃぃぃ、来たよぅ、と言われっ、会いたくないふぅぅり、見たいかぁぁぁお!」文句によって、高いところから出たり、低いところにいったり、歌はいいわよね。
◆あとがき
今回は、ある御縁で、木下清子さんのお話を伺う機会を持てました事、本当に感謝です。この相生の里という素晴らしい環境の中で、ご高齢者のお一人、お一人の人生を垣間見る機会をいただき、関係者の方々にも深く御礼申しあげます。
さて、清子さんとの初対面ですが、私の95歳の方のイメージと全く違う女性がそこにいました。しっかりした口調で、「木下です、こんにちは」と本当にお元気でお話好きな方だとわかる印象で、すぐ打ち解ける事ができました。
市丸姉さんにあこがれて踊り・歌・三味線にあけくれた人生・・・時代はさておき、本当に好きな事に没頭できた清子さんは幸せな人生を送られたと、確信しました。
お話中も、身振り・手振りで、踊りの話がはずみ、お怪我をなさる前のお元気な清子さんの踊りと三味線を是非拝聴したかったな、と返す返す残念に思った次第です。
お話を一通り伺った後、昔の写真はありますか?という問いに、「部屋にたくさんあるのでどうぞ」と快く招いて下さって、本冊子に載せました写真を撮る事ができました。どうぞ、これからも粋などどいつを、どうか唄い続けて続けて下さる事を願ってやみません。
〈注〉この聴き書きはご本人の語った言葉をそのまま書き起こしていますので、本文中に、差別的あるいは禁止用語に該当する言葉が出てくる場合もあります。聴き書きグループでは、ご本人が自分自身に関して語った内容や言葉は、特別な場合を除き、できるだけ忠実に記載する事にしています。
(完)
posted by ききがきすと at 01:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | |
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