2012年01月09日
人生に悔いなし、向学心に燃えて
〜「旅人さん」と言われ、各地を転勤する中で〜
かたりびと:大嶋みつよ ききがきすと:菊井正彦
私たちは転勤族
私がこのホームへ入居したのは5年前、「相生の里」ができてしばらくしてからです。主人は定年になって家にいたんですけれど、私がリウマチになって、子供達が、「こんなに遠くに居たんではだめだから、近くにいらっしゃい」、といいますので、引越してきました。
前は”勝どき“に居たんです。勝どき橋を建てていた会社が市に貸していた住宅があり、1年ぐらい住んでいたんですよ。
主人は日本生命に勤めていて転勤族だから、いろんな所へ行きましてね、「旅人さん(たびにんさん)」と言われたこともあるんですよ、「旅人さん」と言われて何のことかと思いましたら、転勤して歩くかららしいんです。やっぱり周りの人はそう思うんですよ。私は分からなかったんです。初めていわれたときは、年中動いているから「旅人さん」と言われたんだと思って。
転勤は、本当に日本国中ありましたね。東京都内は歩きましたよ! 特に、オリンピックの前は。最初は、子供がいましたから、庭がある一戸建てを借りていたんです。オリンピック近くになって埼玉県へ引越し、それから社宅になりました。
長かったのは渋谷、よかったですね。渋谷ではいろんなことができましたからね、主人は帰りが遅いし、子供達も大きくなっていたから。だから、碁なんかを習ったんですよ。腕はたいしたことはないですよ。四谷の駅前にある碁会所へも行きました。碁はこのホームでも教えていただくんです。いまでは、置碁してもらって、勝つか負けるかどっちかという感じです。
他には埼玉にも行きました。有名な鐘のある・・・川越です。チョット変わった町ですね。江戸への北の入り口で、お宮も神社も大きいし、情緒があるところで駄菓子屋さんなんか、一杯並んでいますよ。
どこへ行ってもなるべく、あまりよそ者にはならないようにと思いまして、その地区の方と一生懸命交流するようにしました。そういう苦労はありますね!
長く居たのは福島県で4年間です。4年間で長い方ですよ。大阪に転勤した時には1年ですぐ帰ってきたこともあるんです。これは会社の都合です。子供が高校生だったから、受験しなくてはいけなかったし・・・。そんな苦労もありました。
◆思い出の地「福島」
福島には思い出があります! 今は原発がありますけど、・・・その頃はなかったですよ。「原発ってどんなものかしら? 見に行こう」といって、皆で見に行ったことがあるんです。まさか、こんなことになるとは・・・。
原発があんなに沢山できるとは思いませんでした。最初一つだけだと思っていました。「それじゃ、行ってみようか」って、観光気分でね。
あのとき、原発に反対すればよかった・・・。反対なんかできなかったんですけれどね。
だから、福島に一番思い出がありますね! 住んでいましたのは、福島市のちょうど真ん中、福島大学の前です。中通りですね。信夫山の麓です。あそこはよかったですよ! 今は大学の図書館になっていますけど、大学があってすごく楽しくて・・・。
福島では友達ができましてね、よく旅行にいったんですよ、車で。福島の裏磐梯の方、まだ雪のある内に。何というんでしょうか、雪の回廊ですか? それを見たんですよ、黒部立山で有名ですが、福島にもあるんですよ。
福島ではとっても楽しい思い出があります!。温泉に行ったときに、山の中で花火大会を見たんです。山の中で花火ってすごく綺麗なんですね! 温泉は何というところでしたかな? 温泉はいっぱいあるからね。
花火は海だと思うでしょ? 山の花火もとても綺麗でしたよ。山の花火ってあんまり見ないじゃないですか。山の平らな所で打ち上げるから、山の花火は綺麗ですね。夜空が綺麗だし。
福島の次は関西に行きました。あの頃は、子供はもう上が中学生になっていて、一番下の子供は小学生になっていましたでしょうか?
県が違うと教育も違いますね。一番困ったのは長男のことでしたね。いつも、違う学校へ行く時が、学年の途中に引っかかるんですよ。長女はうまくいきましたが、長男は2年生の時だったり、中学3年生の時にもあったり・・・。でも、今考えますと、子供達も悪くならずについてきてくれたからよかったですけれどね。
◆子供達のこと
今、長男は銀座で商売しているし、デザイナーの長女は電通に勤めていて、もう60歳になるかしら、部長なんですよ。キャリアウーマンというのかしら。
旦那さんが新聞記者をしているんですけれど、定年まで勤めて、その後、自分の兄弟のところへ行って、自分達のお婆ちゃんを診ているんですよ。90歳になるお婆ちゃんは足をガンで切っちゃって、片足になっちゃたんですけど。でも、長女の旦那さんがよく診てくれています。朝も6時にお婆ちゃんのところに行って、足を診て、食事をあげて、おむつもちゃんとやって・・・。だから、大変な時は大変なんですけれど。
今、主人は東京駅の前に住んでいます。家を買って勝鬨から引越したんです。マンションができて、そこがいいから一番下の子も買うというんで・・・。別個の家ですけどね。主人は家に居ます。おさんどんはやらないみたいですよ。やはり外で食べていた方が安心です。
主人は東京生まれなんです。目黒の駅前で商売をしていて、強制疎開で引越しして栃木県に。お爺ちゃん、お婆ちゃんの生まれたところへ行ったんです。もう、二人とも亡くなりました。私は小田原、浜っこです。どちらにしても都会っ子です。
主人が定年になったとき、相模原に家を建てました。大工さんをわざわざ福島から連れていって、建ててもらったんです。だから、越したくなかったんですけど。福島の大工はいいですからね。だけど、相模原がすごく寒いところなんです。湿気が多いところで、そういうことが影響して私がリウマチになっちゃたんです。それで、こっちに引越ししてきました。
あと思い出としては、大阪に居たときです。関西で野球の強い学校ありますね・・・、西宮にある学校です。その学校が近くてよく、野球場も見に行ったし、その球技場で体操もやりましたね。運動会も見に行った。
甲子園も行きました。招待してくれたことがありまして、一番高い所にある席で、上からガラスが入った特別席があるんですよ、よく観えるんです。1回だけそこへ行ったことありますよ。その代わり、一般席の人と一緒に物を買ったり、食べたりできない、むずかしいですよ。
◆転勤地での友達づくり
転勤した先の方と友達になったことはあります。大阪(西宮)に居たときに、私が皮工芸を習っていたんです。先生が名古屋の人でしたから、自分達も住んでいた名古屋で習っていたんですが、その時は、大阪まで一緒に習いにきて、展覧会などいろんなことやりました。
その人達とは今でも交流しています。この相生の里にも来てくださって。5人いて、2人はもう亡くなっちゃたんですが。元気な方が、つい2、3日前もチョット来てくれました。そういうお友達とは、私なんか少ないのですけれど、ずっと大事にしていて、旅行へ行ったり、何かして遊んでいます。もう長いんです。
刺繍は、みなさんもご存知かと思いますが、桜をやる先生がいましたでしょう、桜を黒い布地に刺繍する有名な先生、もう亡くなったですけどね。その先生のところへ習いに行ってたんです。
その5人グループで九州の、新しくできたハウステンボスへ行ってきましたよ。あそこを建てたのは清水建設だったと思いますが、会社の一番偉い人がご主人、という、その奥さんも友達なんです!。 で、こういう人達と遊びに行ったりして、そっちの家に行ったり、ずいぶんいろんなことをしましたね。
◆趣味あれこれ
東京に帰ってから刺繍をやっていたんですよ。そのほかに、皮工芸をやっていまして、たまたま、1個こっちに持ってきておいて、部屋に作品がありますのでそれを見せます。ブックエンドがあります。
皮を彫るんです。それも自分で。デザインは先生が持ってきて、その中から選んでやるんですけど、こういう細かい画は自分で考えて作ります。
家にはスリッパとかありましたけれど、みな捨てちゃいましたね。家にいくと、周りに皮工芸をした大きな鏡があるんですよ。あと、玄関のマットレスがあります。いま、家の玄関は小さいのでしまってあります。
◆リウマチを患う
習字もね、昔、習いに行ったときは、それで日展まで出せるところまでいったんですが、リウマチが起きたんです。それが悔しくて・・・。やっぱり練習はしていましたけれど、もう、片手になっちゃたから、だめですね。
ころんで、手をついて、それがきっかけでした。それで、聖路加病院の一番新しい先生に会いましてね、その日が土曜日か何かで、いつもの先生はいなかったんです。いつものの先生がもう脳梗塞やってるから、手術をしちやっちゃだめと言っているのに、その先生は若いから、手術するというんです。それで、手術をする、しない、する、しないで半日かかっちゃった。それが良くなかったんです。
そのときはついてなかったんですね。知らないから、もうここからここまでギブスはめられたから、てっきり直るものと思っていたから…。
結局、今住んでいるところの近所の人が「赤坂にいい病院がありますよ」と教えて下さって、そこへ通って直してもらったんですが、ギブスをはめることになっちゃって。ええ、泣いてね・・・。こんなになっちゃって、悔しいですね。
この間から習字を片手で始めました。常に何かやった方がいいかなあ。昔から何かは、やっていましたね。子供のセーター編んであげたり、チョッキを編んだり、こういうのは子供達もよく着ていました。
習字は下手ですけど、左手で書いたのがリビングホールに1枚だけ飾ってあります。画もあります。バナナの画と、あとザクロの画が・・・。
刺繍とか手先を使い根気がいる趣味がすきですね。でも、趣味というのはなかなか続けるというのは大変ですね。続けられたのは、お友達がいたからでしょうね。
憧れの大学へ行く
自分の時間が多く、主人の帰りが遅いし、子供達が全部大きくなってから、私が50から60歳の頃、大学に入ったんですよ! 法政大学に。
NHK学園がありますね、そこに入っていると大学にいけるんですよ。NHK学園に入れば大学に入れる、そういうずるい考えを持っていました。それで、法政大学の文学部歴史科に入って、歴史を勉強したんです。
史学科だから、卒論は二宮金次郎を書いたんですよ、小田原出身だからね。新しい本も手に入れやすいし、二宮金次郎も結構いろんな苦労しているから・・・。
卒論書くのは大変でしたよ。夕方から大学に行くのです。「お母さんに自分の時間ちょうだい」と、子供達に言って。そして、翌朝はまたきちんと起きるんですが、好きな勉強のためですから、そりゃ平気でしたよ、女性は強いですね。
それがね、ちょうど母が病気になっちゃって。2年間、休学して、また行って。だから、結局、NHK学園は4年・・・。10年のうち、2年が休学で残念でしただけれど、でも、母をちゃんと見送りましたからね、
私は常に何かにチャレンジしていないと気がすまないんでしょうね。大学に91歳のお婆さんがきていたんですよ、ホント。私なんか50、60代ですから、頑張らなきゃと。
振り返ると、向学心に燃えた人生に悔いなし、という感じ。いい人生だったなあ・・・と思います。
(完)
posted by ききがきすと at 03:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | |
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