2012年01月09日

転勤族の妻、60歳の大学生、趣味さまざま

転勤族の妻、六〇歳の大学生、趣味さまざま
  
〜振り返り、悔いない人生〜

 かたりびと:
大嶋みちよ  聴き書き:K.H

転勤・転勤 “たびにんさん”の苦労

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主人が保険会社の日本生命に勤めていたので、我が家は転勤族でした。ですから日本国中あらゆるところに行きましたよ。東京都内だけでも杉並や渋谷、埼玉の川越、あそこは大きなお宮や神社があって情緒のある街でしたね。

 
関西だと大阪や西宮が、今、思い出されます。どこに住んでも2年〜3年が多かったです。長いところで4年、大阪に転勤したときは1年で呼び戻されて、またどこかへ。それの繰り返し、会社の都合ですね。ちょうど長男が高校受験で苦労してしまいました。

 
ときには『たびにんさん』なんていわれましてねぇ。初め何のことかわからなかったんですが、「転勤して渡り歩くから」らしいんです。

 
ですから、なるべく“よそもの“にならないようにと思って、どこに住んでも地域の人と一生懸命交流するように努めました。自分では“たびにんさん”だなんて思ってませんからね。そういう面の苦労はありました。

“ふくしま”の思い出

 
一番思い出深いのは、やはり4年も住んだ福島ですね。家は福島市のちょうど真ん中あたり、信夫山の麓にありました。家の前がすぐ福島大学だったのです。なので景色も環境もとても良かったです。残念ながら福島大学は、今図書館になっているらしいですね。

お友達もたくさん出来て、楽しい出来事もたくさんありましたよ。家族旅行やドライブにもよくいきました。

 妹が車で来たときは裏磐梯から会津へ、まだ雪のあるうちに行くんです。特に雪景色が素晴らしかったです。
何て言うのでしょう、雪の積もった道をこうスパッと切りますよね・・・切り立った雪の壁が両側に出来て、黒部などでよく見かけますでしょ。高い雪の壁の真ん中の道をずっと通っていくんです。すばらしい景色ですよね。

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夏にも忘れられない思い出があります。温泉旅行に行ったとき山の中でね、花火大会を見たんです。山の花火ってあんまり見ないでしょ。山の中の花火ってそれはそれは綺麗なんですよ。夜空にくっきと見えて、いまでもハッキリ  思い出せますね。

 
今は原発が問題になっていますが、その頃は原発がちょうど建設される時でした。話を聞きつけて、お友達と「じゃあ見に行ってみようかしら」なんて、観光気分で行ったんです。当時は一棟だけで、まさかこんに何棟も建つとは思わなかったし、今みたいな問題になるなんて、考えられませんでしたね。

 
今考えると、あの時反対すれば良かったですよねぇ。

子供たちも頑張り屋

 
県が違うと教育も違うでしょ。転校では苦労しましたね。福島の時は、確か上の子が中学生、一番下の子は小学校2年3年でしたかね。ちょうど学校が変わる時に関西に転勤になりました。

 
一番困ったのが長男でしたね。小学校や中学校の変わり目に転勤だといいのですが、中学の途中だったり、高校の途中だったり、いつもひっかっかっちゃうんですよ。長女はうまくいくんですがねぇ。でも、今考えてみると、みんな悪くならずについてきてくれたから、ホントに良かったですね。

 
今は皆それぞれ独立しています。長男はデザイナーで銀座にいます。長女は電通に勤めてて、部長になってます。今で言うキャリアウーマンですね。旦那さんは新聞記者だったんですけど今は辞めて家にいます。娘は勤めながら頑張っていて、癌で足を切ってしまったおばあちゃんの面倒も見ているんです。朝6時におばあちゃんのところに行って、食事の支度や介護をして、それで会社に行くんですよ。だから大変なことは大変ですよね。

習いごとも私の歴史

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いろいろなところを回って、良かったところといえば、渋谷ですね。主人は帰りが遅いし、子供たちはもう大きくなっていたから、いろんなことを習ったり出来たんです。囲碁なんかも習っていたんですよ。四谷の駅前にある碁会所にも行きました(笑)

 
それから有名な先生について刺繍を習いました。習字はあと一息で日展に出せるまでいったんです。でもあそこで落ちちゃったので、悔しかったですねぇ。

 
西宮にいたときに始めたのが“革工芸”これはずいぶん長いあいだやりましたよ。スリッパ、玄関マット、ブックエンド、大きな鏡の周りにも革工芸で縁取りして、オリジナル作品にしました。出来上がるとワクワクしますね。細かい手仕事で、根気のいる趣味が好きですね。

仲間あればこそ

 
その時一緒に習っていた人たちとは今でもお付き合いしています。当時、皆さん活動も活発で、名古屋からわざわざ東京まで習いに来たり、有名デパートで展覧会したり、そういえば刺繍もみんなで同じ先生についてやりましたね。習いものを一緒にしているという連帯感が生まれて、大切なお友達です。

 
長崎のハウステンボスが出来たときも、建設関係者の奥様がお友達だったので、みんなで遊びに行ったりして、ずいぶんいろんなことしましたねぇ。

 
今は5人組が2人欠けてしまいましたが、元気な人たちがつい2、3日前にもここまで来てくれました。昔からのお友達は少なくなっているので嬉しいですね。趣味というのは続けるのはなかなか大変なんです。でも、続けられたのはお友達がいたからだと思います。

六〇歳の大学生 卒論は二宮金次郎

 
常に何かをしていないと気が済まないでしょ、わたし! あるとき、はたと考えたら大学へ行っていないのは自分だけだと気づいたんです。大学ぐらいは行っておいた方がいいんじゃないかなぁと思って、子供が全部大きくなって、60歳になった頃、大学に行ったんですよ。法政大学!

 
初めはNHK学園に入りました。ここで勉強すると大学に行けるという話を聞いたんで、始めたんです。その頃は4年制でした。今は3年制ですね。それから法政大学の文学部・史学科に入って、歴史を専攻しました。20歳の子と一緒に勉強しましたよ。もちろん体育の授業もやりました。バレーやらされたりね、もう頑張りましたね!

 だって、90幾つのおばあちゃんも来ていたんですよ。私なんか50歳や60歳じゃぁまだ若いですよね、頑張んなくちゃと思いました。

 
でも、ちょうど母が病気になって、2年間休学してしまったんです。だから卒業まで、NHK学園で4年、大学4年、休学があったから合計10年。長くかかったけど卒業できたし、母を家に呼んで、最後まできちんと世話して見送ることが出来たから良かったです。

 
卒論は、「二宮金次郎」を選びました。私も小田原出身なので、資料など手に入りやすいと思ったのです。でも卒論は大変、書き上げるにはさすがにだいぶ苦労しましたね。

学生生活は、主婦もやりながらなので、夕方からが大忙しです。主人は帰りが遅いのでよかったのですが、子供たちには夕食の支度をして、「お母さんの時間ちょうだいね」って言って通学したのです。もちろん次の朝はちゃんと起きて家のことやるんです。わりと平気でしたね、ええ、女は強いですね(笑)。

定年後もやっぱり移動

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主人は東京生まれ、実家は目黒の駅前で商売をしていましてね。私は小田原の出身。浜っこではないですが、神奈川です。ですから東京と神奈川出身の夫婦なので、主人の定年後は相模原に家を建てたんです。わざわざ福島から大工さん、それも宮大工を呼んで建ててもらったんです。とてもいい家が出来て、気に入ってました。

 
でも、相模原は寒いし湿気が多いので、体に良くなかったのですね。私にリュウマチが出て、子供たちが「そんなに遠くにいちゃだめだから、こっちにいらっしゃい」と言うので、それで、勝ちどきに引っ越してきたんです。勝ちどきで7年ぐらい暮らしました。

 
その後、わたしはこの“相生の里”に来たんです。ここにきて4、5年経ちました。ここは、すぐ前に隅田川が流れてて、眺めが最高ですよね。

 
主人は、いま新富町のマンションで一人暮らしです。離ればなれなので少しさみしいですね。主人の食事も心配ですが、適当に外食したりして、気ままにやっているようです。それに子どもが同じマンションにいるので安心です。

今なお盛ん チャレンジする心!

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常に何かやってた方がいいかなぁと思う私なので、習字を少し前に再開したんです。左手だからなかなか思うようにいきませんけどね。

 絵も描きます。この間描いたバナナやざくろの絵が、今も廊下に飾ってあるので、毎日眺めてますよ。それから囲碁も毎週習ってます、置き碁をしてもらってね。頭の体操になるでしょ(笑) 他にも何かできることがあればやりたいですねぇ。

 振り返ると、ホント悔いのない人生だなぁと思います。

(完)


posted by ききがきすと at 00:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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