2012年01月09日

心の中の大手町、赤坂、月島

心の中の大手町、赤坂、月島

  かたりびと:長縄芳子   聴き書き:S.K

1.仕事一筋の人生でした

東京市外電話局に勤めました

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私は、大正五年一月二〇日生まれの九五歳。数えで九六歳になります。「仕事と結婚」して、これまでずっと一人で生きて来ました。今でいえばキャリアウーマンでしょうか。四〇年勤めました。私が就職した昭和五年の頃は、女性は結婚するのが当たり前で、一人でいるということはあまりありませんでした。その頃からちょっと変わっていたのかもしれません。

 
高等小学校を出て、聖心女学校の夜学を卒業し、昭和五年八月二三日に逓信省の電話の仕事につきました。東京市外電話局(東京中央電話局)(注1)といいました。全国を有線と通信(電信)で連絡をする通信士のような仕事です。学校を卒業するとき、学校の紹介で七人くらい試験を受けましたが、受かったのは三人でした。電話局は、大手町にありました。今の逓信総合博物館の南側で、通りをはさんで向かい側です。

三越を振りました

 
実は、学校を卒業したとき、三越と逓信省と両方に受かっていました。当時三越は、新宿の二幸という会社が就職や人事などを扱っていましたが―。

 
ところが、四月一日に電話局の採用通知がくると思ったら、なかなか採用日が決まらず、何だかんだして、八月二三日になって採用になりました。その頃市内電話が自動化されたということで、いろいろ忙しかったからだろうと思います。うちの母は、「そういうややこしいところには入らないで、三越にした方がいいわよ」と廻りから言われたようです。

 
あとから考えても、自分としては電話局に入ってよかったと思っています。というのは、三越は一日中立ちっぱなしですから、お客さんの機嫌を取っていてはくたびれてしまいます。私は大体、お客さんに会って、ニコニコ案内するような性格じゃないですから―。そういうことで、三越を振りました。

有線と通信で市外電話をつなぎました

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毎年一度、電信の試験と法規の試験があり、結果が報告されました。それが出鱈目だと「長縄さん、試験ダメでしたね」と怒られます。だから、一生懸命勉強しました。でもそれはいい思い出です。一生縣命やる、若いからやる、そういう気持ちだったと思います。

 
その頃、電話の仕事は、東京、大阪、名古屋、札幌など大きい局が全国を分担してやっていました。東京は、その中心ということで全国を管理していました。遠いところでは、朝鮮や、しばらくして有線になった沖縄、北海道などもやっていました。樺太は、まだありませんでした。

 
はじめのうちは、電話は市内も市外も全部人が手でつないでいて、自動ではありませんでした。私が電話局に入った昭和五年というのは、ちょうど初めて京橋の局が自動になった頃で、ダイヤルを回すと自動でつながると大騒ぎになっていたときでした。自動化は、都内で一番最初が京橋局で、その次は高輪の局でした(注2)。

 
市内の局はみな自動化されましたが、市外電話は長距離ですから手でつなぎました。今と違って、ダイヤルして大阪が出るというわけではありません。そこで、有線にもかかわらず、少しでも有線を無駄にしないようにということで、トツウ(電信)と有線の両方(注3)を使って、次のお客さんをこうという具合に、空かないようにやっていました。だから、一日の通話量がどれくらいあったかよくわかりません。

 
線が空いているときは、線をつないで大阪の局を呼びだし、「どこのお客さんをつないで下さい。そっちのお客さんをこっちへつないでください。」と、口でしゃべればわかります。しかし、お客さんを続けてつなぐようにするには、話を職員がやったのではしょうがないですから、線をつないだまま、トツウ・トツウで、向こうからくる信号を聞いて、こっちからも信号を送って・・、という具合にやりました。

 
トツウ(電信)は、若いときからやりましたので、仕事で使ったことは今でも忘れません。おそらく、そういうふうにやっていたことは何にものっていないかもしれません。

 
韓国は有線だったと思いますが、線がつながっていて、たまたま通話が空いているときに、だれかうちの方の職員が「朝鮮人がいるわよ」と言ったらしいんです。それを聞かれてしまった。それで、監督さんと上の人たちが、問題が問題だからと大喧嘩になって大変でした。そのことは、職員が謝罪して、いいあんばいに治まりました。そういうことはあまり外には言えないことでした。

戦後、管理職に

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戦後は、月島の家から電話局に通いました。アメリカ軍が進駐して来て「特別運用課」の方に配置になりました。いろいろありましたが、日本語では言葉が通じないので、幼稚園の「ディス・イズ」を勉強して何とかやりました。

 
特別運用課で勉強させてもらい、確か三〇歳を過ぎた頃に管理職になりました。女性の管理職は多くはなかったですが、少なくもなかったように思います。

 
電話局は女性の職場ですが、隣の中央電気通信局(中電)は男性の職場でした。でも、戦後は、女性も入るようになったのを思い出します。

 
仕事の内容は、国にかかわることなので、あまり公表できません。でも、四〇年間何とかかんとかやって、お陰さまで最後はちゃんと年金もいただき、ご飯を食べることに困ることもなく、ありがたいと思っています。

2.大家族で大変でした

兄妹は九人

 
どうして一人でいたのか聞かれますが、何しろ兄妹が一二人でした。私が一番上で長女ですが、一つ下の弟が長男。その次が双子の女の子で、赤ん坊の時に二人とも肺炎で亡くなりました。

 
その次が次男で、震災当時四歳でした。母は、動物を見せて喜ばせたいと思ったらしく、その子を上野動物園に連れて行きました。そのとき体に風邪の状況があったのですが、わからなかったようです。

 
帰りに子どもがどうも普通じゃないと思って、浅草の叔父のところに寄り、良くしていただいていた先生に診てもらったらとんでもない状態でした。「熱がありますので、今晩一晩中大切にしないと大変なことになりますよ」と言われ、それで急いで叔父の家に戻ってきて介抱しましたが、一日か二日して、肺炎で亡くなりました。

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そういうことで三人亡くなって、残ったのが九人です。兄妹九人は、結婚したり、お嫁さんをもらうまでは皆うちにいました。女の子は、千葉とか神奈川とかに、皆嫁いで行きました。すぐ下の弟(長男)は、七三歳で早く亡くなりました。嫁もがっかりしたと思います。九人のうち一番下の弟も一昨年亡くなりました。

大変な思いをした買い出し

 
九人全員が揃っていた終戦後は、もののないときで、食事のときなど全員がお膳のところにずらっと並んで大騒ぎでした。貧乏でしたから、親は子どもを育てるのが大変だったと思います。

 
食べる米がないので、両国から汽車にのって、銚子のちょっと手前の駅のところに買い出しに行きました。何とか話しがついて、お米を一四キロ買いました。駅まで行く大通りには交番があり、ヤミ米が見つかると、とんでもないとつかまってしまいます。そこで海岸通りの砂浜を歩いていきました。そのうち、背負った米が重くて、くたびれてしまいました。どこかそのへんで休もうと思って腰を下ろしたが最後、今度は一四キロの米が持ち上がりません。

 
よっと持ち上げようとしても、下は砂ですから、ずるっと足がすべって立てないんです。しょうがないので、海苔や魚を干すやぐらに、えんやらやと米をかけて、一緒に行った長男の嫁にやっと立たせてもらいました。そういう辛い思いもしました。

 
帰りの汽車も大変でした。私が何べんも足をすべらせているので、「お姉さん、危ないから先に乗って」と嫁が言います。そこで先に汽車に乗りましたが、いつまでたっても嫁が来ません。窓から見たら、「お姉さん、まだ乗せてもらえない」と、泣き声を出しています。これは大変と思い、「すみません。あれはうちの嫁です。下から持ち上げてください」と周りのお客さんに頼み、やっと窓から乗っけてもらいました。

 
長男の嫁が元気だった時は、いつもこの話が出ていました。その嫁も一昨年の一二月に亡くなりました。よくできた嫁でした。

3.関東大震災で焼け出されました

赤坂で生まれました

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私が生まれた家は、赤坂の一ッ木通りの傍にありました。父は建築屋でした。その頃は、通りのあたりは二階建ての家が多く、ほとんどが木造家屋でした。

 
大正一二年当時、私は一ッ木町の赤坂小学校(注4)の一年で、七歳でした。学校は、市電通り(青山通り)をはさんで、豊川稲荷のすぐ向かいにありました。九月一日は、学校は半日でした(注5)。昼前に家に帰って、母親に「ご飯まだ? おなかすいちゃった」と言うと、「今仕度してるから、どこか公園ででも遊んでらっしゃい」と言われました。

 
学校で、隣の席の河内さんに、ご飯を食べたら遊びに来てねと言われ、行くことにしていました。それで、ご飯前でも構わないだろうと思い、河内さんの家に行くことにしました。

 
河内さんの家は、歩いて一二・一三分ぐらいのところです。一ッ木通りをまっすぐ行ったところの交番から、左側に練兵場(注6)がある通りを乃木坂の方に五分ほど行って、通りから路地を二・三軒入ったところでした。

突然の地震。歩こうにも体がふらふら

 
私が「河内さん!」とちょうど呼んだときでした。突然「ぐらぐらっ、ぐらぐらっ」ときました。一一時五八分です。震度六か六強ぐらいでしょう。河内さんが、二階にいたか、階下にいたかはわかりません。危ないと思って、急いで河内さんの家の路地から表通りに出ました。

 
揺れるたびに煙がわあっと出て、いいお天気なのに空は煙で真っ暗。何にも見えません。通りにだれがいるかもわかりません。とにかく交番のところまで行かなきゃと思って、揺れで体がふわふわ・ふわふわ。何とか歩きました。年寄りだったらひっくり返っていたでしょう。まだ七つの子どもだったから立っていられたのかもしれません。

通りの真ん中へ出ろ

 
すると、「表へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ」と、おじいさんが怒鳴っているんです。怒鳴っているのがどんな人か、全然見えません。でも、その声を聞いて、道の真中にいるうちに、やっと地震が止みました。収まって見ると、何と空の煙は家の壁土だったのです。

 
通りのあちこちは、つぶれた家、二階がめちゃめちゃになった家、横倒しになった家といった状況になっていました。一ッ木通りのあたりの家は、溜池の方から出た火が廻ってきて、焼けてしまいました。あとになって私の家も焼けたことがわかりました。

お堀端に逃げる

 
両親は、私と弟と四歳の子の三人を連れて、荷車に、らっきょとかおにぎりなど食べ物や貴重品を載せて逃げました。夜は赤坂見附のお濠の公園で、父親が持ち出した畳に座って野宿しました。空が真っ赤な夕焼けで、きれいだったのを覚えています。

青山で避難生活

 
学校には一月ぐらい避難していたと思います。その後、青山の絵画館の前に避難所(仮住宅)ができて、江東や浅草や深川で焼け出された人と一緒に住んでいました。その仮住宅には四年いました。つまり都内の復興は四年かかったということでしょう。

 
避難住宅の前には青山連隊の練兵場があり、ラッパが聞こえてよかったことを思い出します。その後、小学校四年の一二月二三日に、月島に引っ越しました。

月島での苦労

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震災後、月島へ来たわけですが、家は六畳と三畳でした。家族五人には狭いので、二畳建て増しし、隣にちょっぴりだけど庭も作りました。二畳の下に防空壕を掘りました。

 
当時、晴海のあたりはまだ海でした。この隅田川も洪水になるときがあったくらいでしたから、そのせいか、防空壕を掘ったら水がどんどん出てくるので、中で水の汲み出しをしなければなりませんでした。

 
そこで、木の樋(出し口)を作って、路地の土のうで囲ったところに水をため、柄杓で汲んで使うようにしていました。近所の人が、「水道が出ないので、築地の河岸までもらいに行かなきゃならないの。すみませんけど、お米研ぎと洗濯に使いたいんで、水いただけますか」と言っては、バケツを持ってきて汲んでいました。もっとも、水は臭いがするので、飲み水には使えませんでした。

4.おじいさんは命の恩人です

 
これまで第二次大戦もありましたし、いろんなことがありました。でも、繰り返しになりますが、関東大震災のとき、よく気がついて、「真ん中に!」って怒鳴ってくれたおじいさんは、命の恩人です。

 
あのおじいさんがいたおかげで、九五歳の今まで生きてこれたのです。その人にはとても感謝しています。どこの誰かもわかりませんが、ああいうときは神様みたいな人が出るんだなと思うのです。

 
そのおじいさんは、今はもう生きていないと思いますが、その当時、世の中が落ち着いていたら、表彰ものだったと思います。何人の人が通りにいたかわかりませんが、私一人じゃなくて、その人たちがみんな助かったわけですから。

 
あの状況で、怒鳴れたということは、東京の人ではなく、おそらく地震がたびたびある地方の人じゃないかと思います。そうでなければ、そういうことまで気がつかないでしょう。

 
長生きすると、命にかかわるようないろんなことがあります。でも今、命があるということは、この世に尽くせということだなと思います。だから、自分のことぐらいは自分で頑張らなきゃと思っています。

              (平成23・6・4談)

(注)

1:明治2312月に東京電話交換局が開設され、同25年7月に現在の千代田区大手町2丁目に移転し、同36年4月に東京中央電話局と改称された。東京市外電話局という名称になったのは、昭和24年6月、戦後の機構改革で逓信省が電気通信省に改められた時のことである。電気通信省はその後、昭和27年8月に日本電信電話公社となり、現在のNTTに受け継がれている。なお、東京市外電話局は、昭和60年に建物とともに、その歴史の幕を閉じている。

2:大正15年(昭和元年)に、東京中央電話局京橋分局で、日本で初めて自動交換方式が採用されている。

3:当時の電話交換で長距離線に用いられた「電信信号方式」といわれるもの。市外電話線を利用して作った電信回線を利用して電信符号で相手局を呼びだす。東京・大阪の両交換手が交換事務の連絡に使うために、電信電話双信法によって、通話中の電話回線に電信回線を乗せて、電信信号で交換上の打ち合わせや交換証の送受を行っていた

4:当時は東京市赤坂区一ッ木町(現在の港区赤坂4丁目・5丁目にあたる)という地番があったが、今は地名変更のため残っていない。なお、赤坂の「一ッ木通り」という通りの名称は、今も残っている。赤坂小学校は、明治6年に赤坂区一ッ木町に開校された学校で、同8年に赤坂小学校の名称となった。現在は赤坂8丁目にあるが、当時は青山通りをはさんで豊川稲荷の向かい側(今の赤坂4丁目のあたり)に校地・校舎があった。

5:9月1日は土曜日で2学期の始業式があり、子どもたちは昼前に下校している。

6:戦前、一ッ木町(現在の赤坂5丁目あたり)にあった「近衛歩兵第3連隊」ではないかと思われる。

(参考文献・写真出典)

○「写真でつづる八十八年―東京市外電話局」
 (昭和53年 日本電信電話公社東京市外電話局)
○「市外電話交換業務提要」
 
(昭和7年 東京中央電話局)
○「東京の電話(上)」
 
(昭和33年 日本電信電話公社東京電気通信局)
○「赤坂小学校の一二〇年」
 (平成4年 港区立赤坂小学校同窓会)
○「新修港区史」
 
(昭和54年 東京都港区役所)
○「関東大震災」
 
(平成17年 財団法人東京都慰霊協会)
○「語り継ぐ赤坂・青山 あの日あの頃」
 
(平成22年 赤坂・青山地区タウンミーティング『まちの歴史伝承分科会』)

(完)

posted by ききがきすと at 02:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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