2011年04月24日
定年後の仕事はカウンセラー
定年後の仕事はカウンセラー
〜ライフワークを見つけるまで〜
語り手:酒井正昭さん(70歳)ききがきすと:松本すみ子
聴き書き時期:2011年1月11日
60年代安保闘争のさなかに
卒業したのは横浜国立大学の経済学部。当時の国立は1期校、2期校といっていた。1期校の東大と2期校の横浜国大、それに駿台予備校を受けたが、東大は“桜が散った”。2期校と駿台の発表は同じ日で、どちらも受かっていて、どうしようかなと悩んだ。もう1年浪人して東大を受ければ、なんとかなるだろうという高校の先生もいたし。
でも、発表を見に行った時に、学校の坂の上から、2人で仲良く腕組んで歩いてきたカッコいい男女の学生が来て、やっぱりここにしちゃおうかなと。自分でも物理とか理科は自信がなかったし。横浜だと受験科目は3科目だけだったからね。
当時の2期校って、入ってもすぐやめて予備校に行ったり、この大学に入ったのは2度目だという学生がいたり、大変なところだった。地方にいる親には、東大とか一橋に入ったといって、実は予備校に通っていたとか、親からは4年間しか仕送りがこないから、バイトで稼いで卒業しなければならないなんていう学生もいたし。
入学したのは、ちょうど60年安保の時代。2年の時かな、国会のデモで樺美智子さんが亡くなったのは。1年の秋くらいから、当時の革新団体の安保阻止会が結成されて、羽田での座り込みがあったりした。学校にはほとんど行かなくて、デモをしに東京に来ているような毎日だった。
酒井正昭さん
安保条約は6月19日に自動的に法律で決まってしまうわけで、当時の岸総理大臣は当然、それを狙っていた。あの人もそれなりに大物だったわけだ。われわれは大きな政治の枠の中で流されていくような、どうしようもないような気持ちで、国会の周りに座り込んでいた。ほとんどの学生の指導部もぶっ壊れているから、動かす力もない。ただ、暗い街灯の下でひたすら座り込んでいるくらいしか、自分たちの意思表示の仕方がなかった。それがものすごく印象に残っている。
でも、僕らはみんな本を読んでいたよ、岩波文庫とか新書とか。こういうことは若い人に伝えたくなる。そんなことがあって、ちょうど去年が50年。時々、当時の高校や大学の友達なんかと会って話すと、そういう話題が出る。単なる思い出の一つに変わったなという人もいるけど。
学生運動が終わってから、勉強したいという気持ちがすごく湧いてきて、大学に残って経済学を勉強しようかなと思った。一方で、自分の能力がどのくらいかを試したいという気持ちもあった。革新だとか左翼だという方に入っていたから、企業の中に入っていくことにはためらいがあったけど、ぶきっちょみたいだし、学者っていうよりも実社会でいろんなことにぶつかって、どのくらいのものかやってみるのもいいかなんて。
そんなことで悩んでいるうちに、就職の募集は終わってしまった。でも、当時はプラスチック関係が新しい産業として生まれていて、三菱樹脂がまだ募集していた。ここは筆記試験もないから大丈夫だぞ、とか言われて入社した(笑)。
中心となる工場は滋賀県の長浜市。入社後、そこで集合教育があった時、「すごい田舎だ、こんなところは止めようか」なんて思ったけど、戦国時代の面影が残っている面白い町だった。それで、ここでやってみるかという気になって、そのままずっといたような感じ。
バブルを経てバブル崩壊へ
仕事は経理・会計だったが、私は会社というものを突き放してみていたような気がする。普通は偉くなってくるにつれて、企業の中にのめり込んでいって、人間関係なんかを築いていくのだろうけど。客観的に見ることを要請されていたかもしれないが、ポンと外れてみていたような気がする。上からの指示をあまり素直に聞けないようなところがあって、扱いにくかったかもしれない(笑)。それなりには一生懸命やっていたと思うけど。製品開発とか営業だったら、違ったのかな。
お前は言うことが早すぎる、まだ皆が分かっていないことを言っているといわれたこともある。例えば、あの部門は存在意味がないですよと言ってしまう。突拍子もないことを、得意になってしゃべっていると思われるらしい。その時、その部門は一生懸命やっているわけだし。でも、5年くらい経つとやっぱり、自分の言った通りになっていて、みんな、もう知らん顔して他のことをやっている。たぶん、こういう目も突き放して見ていた結果だと思う。
だけど、工場で課長とかをやっていた時に、新入社員が配属されると、お前のところで面倒見てくれと言われて、毎年、私が担当していた。新人を2・3年でそれなりにできるようにすると、どこかに転勤させる。それが面白かった。その仕事は一生懸命やった。だから、今でも結構、若い人と話ができる。
三菱という名前を背負った会社だけど、いくつもある企業の下の方だから、財務、資金関係、資金調達が大変だった。当時は高度成長期で、地方銀行が東京支店を開設する頃。当然、何億とか用意して出てくるので、そういうところから調達していた。メイン銀行は三菱だけど、新しい産業にはおっかなびっくりで貸さない。でも、他行の借入額が三菱の額を越したら、それはそれでだめ。そういう仕事は、ずいぶん面白がってやっていた。
そのうち間接金融から証券会社経由の直接金融の時代になってきた。企業の力がそのまま株式市場に反映されて、そこから資金が調達されるようになると、トップの政策と結びついてくる。新製品の開発をどのタイミングで新聞にバラして、いつ報道させるか。証券会社にはいつ時価発行のプランを出して、株価を上げられるかを考える。トップの意思決定と資金調達がリンクしないといけなくなった。変わり目の時代だった。
バブルの中でどんどん直接金融になっていったので、資金調達の金利もマイナスにできた。例えば、外国で債権を発行して、5年後の金利や返すお金を有利なレートで予約しておく。すると金利がマイナスになり、ずっと返すお金が少なくなるわけ。一時、財務の時代と言われたことがあったけど、たぶん、そんな理由からだろう。だから、工場で物なんか作っているよりも、投資で儲けたほうがいいじゃないかなんて。そういうのがバブルの絶頂期だった。
投融資は本体じゃできないから、どこも関係会社つくってやっていた。そういうことで稼いだお金をファンドなんかに投融資していたが、それが一度に弾けた。担当者は処分されたり、会社を辞めざるをえなかったり、ずいぶん傷ついた人が多かったと思う。でも、上は無責任だよね。やってる時は見て見ぬふりなんだよ。本来のマネジメントからすれば、定款で決めた本業は製品を作って、世の中に貢献するということだから、博打をやることではないと、ちゃんと締めないといけない。だけど、まあ利益を出すし、儲かっているし、それを配当すれば、株主からも文句をいわれないという構造だった。
本業での博打はビジネスとしてあると思う。こういうプラスチックの製品は当たるだろうから、それにお金を何十億を掛ける。これは、先見の明があったか、なかったかということ。ただ、株式での博打は証券会社がやることであって、普通の事業者がやることではない。弾けて当然だった。その後から、監査制度というのが重要視された。
定年後にカウンセリングを選んだ理由
会社での自分に対する評価に、人の話を聴き過ぎるというのがあった。例えば、プロジェクトの運営では、親分肌で引っ張っていっていいんだと言われた。お酒を飲み交わしながら、それなりに人がついていくんだと。
でも、仕事でいろんな発想が湧いてくるのは、会社で話を聴いている時が多かった。毎日指示を出さなればならないけど、話を聞けば得ることが多いし、部下も自分で気がついて自主的に動いていく。「うん、そうだよな、やってみな」と言えるし、その方がやる気が出る筈という気がした。だから、仕事はピラミッド型よりもサークル型のほうがやりやすいんじゃないかと思っていた。
机も席が決まっていて縦に並ぶよりは、丸い机でフリーアドレスがいいと思った。今はそういうのがあるけど、昔はあまりなかった。最後に関係会社に出向した時は、それを絶対やってみようと思った。大正時代創業の古い会社だったけど、丸いテーブルを入れ、フリーアドレスにして、書類はキャビネットだけにした。私は役員だから、秘密の書類があるので仕切りの向こうに行くことはあるけど、皆と同じ輪に入るからと。
それに一番抵抗したのは、プロパーの人だね。課長が最も抵抗した。「せっかく課長になって、家族とか親戚に自慢できるのに、この席がなくなるんですか」。そういうものかなあと思った。でも、じっくり話をした。こういう趣旨でやるし、本当に実力ある課長なら、席がどんなところでもちゃんと情報が集まってくると。そしたら、分かってくれて、「やりましょう!」と。その会社は今でも、このスタイルでやっている。
そんな経験があったから、定年後に何をしようかなと思った時、人の話を聴く心理関係の仕事があると聞いて、それならできるかなと結びついた。私のような職歴だと、税理士や会計士、ファイナンシャルプランナーのような仕事を考えると思うけど、そういうのは全然やる気がしなかった。
前にも言ったように、自分はのめり込めない、のめり込まない性格。それが欠点でもあったろうし、もっと自分を出すものがなかったのか、あるいはそれが分からなかったのか、怖くてできなかったのか。その辺はよくわからない。けど、時々、のめり込んでいくことがやっぱり怖かったのかなと思う。冷静ぶっているだけだったのかもしれない。
だから、カウンセリングをしていて、「自分が何をやったらいいのか分からないんです」なんていう話を聞いても、その気持ちがそれなりに分かる。見つけられないというよりも、見つけることをためらう気持ちもあるのかもしれないし。
今は、カウンセリングが自分に合っているし、自分の居場所かなっていう気がする。「どうも、ありがとうございました」と言って別れる時は、「ああ、よかったな」と思って、自分としてもやったなという気がする。これは会社のやったなとは違う。 会社員時代は有り難い時代で、給料の心配がなく、自動的に給料が入ってきていた気がする。今は、入ってくるお金の単位はものすごく少ないけど、それでも、そういうお金の方が、自分の仕事の成果だと思える。私が話を聞いた人のお金の何分の1かがここにきた。距離感がすごく近い。
いいカウンセラーに出会うには
カウンセリングをやってきて自分が変わったと思うことは、いろんなことを受け止められるようになったこと。これも人生、それも生き方だと。それに、日常の周りの細かいことが、人間の意識をかなり支配しているということも分かった。例えば、誰かと話していて、こういうことをいわれた時に、ものすごく辛い思いになったとか。そういう時に、自分をどう対処させるかということを考えていかないといけない。抽象的な話だけでは解決しない。具体的な場面を自分で思い浮かべることが大事だ。
また、時間を守ることの大切さを知った。カウンセリングでは1時間でぴたっと決める能力が必要だ。いいカウンセラーの見分け方の一つはこれかもしれない。特に、発達障害や人格障害の人と会う時は、1時間で相手が泣いていても終わらせることが大事。その時、相手はものすごく見捨てられたというらめしい顔をするかもしれないけど、それが逆に、人間同士の信頼感につながる。あそこにいけば、必ず私の時間が1時間あるという安定感。これが大切だと思う。そういうことが分かった人は、5分遅れる時でも必ず連絡をくれる。そういうところから人は変わる。
カウンセラーにもいろんな人がいる。会社なんかの縦の関係をそのまま持ち込んで、聞いてやるよという姿勢の人もいる。「あなたは自分のことに関しては専門家で、私は認知行動療法の専門家。専門家と専門家が、あなたの悩みや苦しさを解決するために、2人が対等に共同作業をするんですよ」という見方をする人が本当のカウンセラー。そういう人のほうが少ない。
企業人はなかなか変われない。会社で仕事ができる資質と、人として生きていく資質は少し違う。企業の縦の人間関係しか見られない人とか、会社で自分が達成できなかったことを抱え込んでいる人が、ボランティアの組織なんかに入り込んでくると危ない。もっと違う価値観や見方でやっていくことが大事だと、気づけばいいんだけど。
地域活動に入る人のための講座があるけど、ソフトランディングできるように、おだてるように組み立てられているような気がする。人間それぞれ違いがあることを認め合いながら運営していくことがボランティアであり、地域活動だということをもっと伝わるような仕組みが必要じゃないかな。
これからのカウンセリング
これからは個室の中で、1対1でやっていくカウンセリングって、どうなんだろう。疲れている人や問題を持っている人が3人とか4人で、共同作業というスタイルもあると思う。芸術療法の話を聞くと、絵を描く、コラージュを作るということは、一人でやるよりも集団でやった方が、他の人の刺激を受けて物語が開けていくそうだ。
同じように、うつで休職していて、ようやく出社できるようになった人なんかは、グループディスカッションをすれば考えがしっかりし、それが出社への準備になっていくはず。それにはファシリテーターの技量がものすごく問われるけど。人間は社会の中で存在しているのに、1対1でしかカウンセリングをやらないのはおかしい。今、取り調べとカウンセリングくらいでしょう、個室でやるのは。
一緒に活動しているカウンセリングのNPOにも、机を丸いものにしようと提案している。いつの間にか、古手から順に奥に座ると決まってしまっている。これもおかしい。古い考え方からの脱皮が必要だよ。もしかして、机なんかなくてもいいかも。
最近は体が辛くなってきたから、カウンセリングもそろそろ辞めようかなと思うんだけど、結構、やりだすと終わらない。逆に、増えていったりしてね(笑い)。
完
〜ライフワークを見つけるまで〜
語り手:酒井正昭さん(70歳)ききがきすと:松本すみ子
聴き書き時期:2011年1月11日
60年代安保闘争のさなかに
卒業したのは横浜国立大学の経済学部。当時の国立は1期校、2期校といっていた。1期校の東大と2期校の横浜国大、それに駿台予備校を受けたが、東大は“桜が散った”。2期校と駿台の発表は同じ日で、どちらも受かっていて、どうしようかなと悩んだ。もう1年浪人して東大を受ければ、なんとかなるだろうという高校の先生もいたし。
でも、発表を見に行った時に、学校の坂の上から、2人で仲良く腕組んで歩いてきたカッコいい男女の学生が来て、やっぱりここにしちゃおうかなと。自分でも物理とか理科は自信がなかったし。横浜だと受験科目は3科目だけだったからね。
当時の2期校って、入ってもすぐやめて予備校に行ったり、この大学に入ったのは2度目だという学生がいたり、大変なところだった。地方にいる親には、東大とか一橋に入ったといって、実は予備校に通っていたとか、親からは4年間しか仕送りがこないから、バイトで稼いで卒業しなければならないなんていう学生もいたし。
入学したのは、ちょうど60年安保の時代。2年の時かな、国会のデモで樺美智子さんが亡くなったのは。1年の秋くらいから、当時の革新団体の安保阻止会が結成されて、羽田での座り込みがあったりした。学校にはほとんど行かなくて、デモをしに東京に来ているような毎日だった。
酒井正昭さん
安保条約は6月19日に自動的に法律で決まってしまうわけで、当時の岸総理大臣は当然、それを狙っていた。あの人もそれなりに大物だったわけだ。われわれは大きな政治の枠の中で流されていくような、どうしようもないような気持ちで、国会の周りに座り込んでいた。ほとんどの学生の指導部もぶっ壊れているから、動かす力もない。ただ、暗い街灯の下でひたすら座り込んでいるくらいしか、自分たちの意思表示の仕方がなかった。それがものすごく印象に残っている。
でも、僕らはみんな本を読んでいたよ、岩波文庫とか新書とか。こういうことは若い人に伝えたくなる。そんなことがあって、ちょうど去年が50年。時々、当時の高校や大学の友達なんかと会って話すと、そういう話題が出る。単なる思い出の一つに変わったなという人もいるけど。
学生運動が終わってから、勉強したいという気持ちがすごく湧いてきて、大学に残って経済学を勉強しようかなと思った。一方で、自分の能力がどのくらいかを試したいという気持ちもあった。革新だとか左翼だという方に入っていたから、企業の中に入っていくことにはためらいがあったけど、ぶきっちょみたいだし、学者っていうよりも実社会でいろんなことにぶつかって、どのくらいのものかやってみるのもいいかなんて。
そんなことで悩んでいるうちに、就職の募集は終わってしまった。でも、当時はプラスチック関係が新しい産業として生まれていて、三菱樹脂がまだ募集していた。ここは筆記試験もないから大丈夫だぞ、とか言われて入社した(笑)。
中心となる工場は滋賀県の長浜市。入社後、そこで集合教育があった時、「すごい田舎だ、こんなところは止めようか」なんて思ったけど、戦国時代の面影が残っている面白い町だった。それで、ここでやってみるかという気になって、そのままずっといたような感じ。
バブルを経てバブル崩壊へ
仕事は経理・会計だったが、私は会社というものを突き放してみていたような気がする。普通は偉くなってくるにつれて、企業の中にのめり込んでいって、人間関係なんかを築いていくのだろうけど。客観的に見ることを要請されていたかもしれないが、ポンと外れてみていたような気がする。上からの指示をあまり素直に聞けないようなところがあって、扱いにくかったかもしれない(笑)。それなりには一生懸命やっていたと思うけど。製品開発とか営業だったら、違ったのかな。
お前は言うことが早すぎる、まだ皆が分かっていないことを言っているといわれたこともある。例えば、あの部門は存在意味がないですよと言ってしまう。突拍子もないことを、得意になってしゃべっていると思われるらしい。その時、その部門は一生懸命やっているわけだし。でも、5年くらい経つとやっぱり、自分の言った通りになっていて、みんな、もう知らん顔して他のことをやっている。たぶん、こういう目も突き放して見ていた結果だと思う。
だけど、工場で課長とかをやっていた時に、新入社員が配属されると、お前のところで面倒見てくれと言われて、毎年、私が担当していた。新人を2・3年でそれなりにできるようにすると、どこかに転勤させる。それが面白かった。その仕事は一生懸命やった。だから、今でも結構、若い人と話ができる。
三菱という名前を背負った会社だけど、いくつもある企業の下の方だから、財務、資金関係、資金調達が大変だった。当時は高度成長期で、地方銀行が東京支店を開設する頃。当然、何億とか用意して出てくるので、そういうところから調達していた。メイン銀行は三菱だけど、新しい産業にはおっかなびっくりで貸さない。でも、他行の借入額が三菱の額を越したら、それはそれでだめ。そういう仕事は、ずいぶん面白がってやっていた。
そのうち間接金融から証券会社経由の直接金融の時代になってきた。企業の力がそのまま株式市場に反映されて、そこから資金が調達されるようになると、トップの政策と結びついてくる。新製品の開発をどのタイミングで新聞にバラして、いつ報道させるか。証券会社にはいつ時価発行のプランを出して、株価を上げられるかを考える。トップの意思決定と資金調達がリンクしないといけなくなった。変わり目の時代だった。
バブルの中でどんどん直接金融になっていったので、資金調達の金利もマイナスにできた。例えば、外国で債権を発行して、5年後の金利や返すお金を有利なレートで予約しておく。すると金利がマイナスになり、ずっと返すお金が少なくなるわけ。一時、財務の時代と言われたことがあったけど、たぶん、そんな理由からだろう。だから、工場で物なんか作っているよりも、投資で儲けたほうがいいじゃないかなんて。そういうのがバブルの絶頂期だった。
投融資は本体じゃできないから、どこも関係会社つくってやっていた。そういうことで稼いだお金をファンドなんかに投融資していたが、それが一度に弾けた。担当者は処分されたり、会社を辞めざるをえなかったり、ずいぶん傷ついた人が多かったと思う。でも、上は無責任だよね。やってる時は見て見ぬふりなんだよ。本来のマネジメントからすれば、定款で決めた本業は製品を作って、世の中に貢献するということだから、博打をやることではないと、ちゃんと締めないといけない。だけど、まあ利益を出すし、儲かっているし、それを配当すれば、株主からも文句をいわれないという構造だった。
本業での博打はビジネスとしてあると思う。こういうプラスチックの製品は当たるだろうから、それにお金を何十億を掛ける。これは、先見の明があったか、なかったかということ。ただ、株式での博打は証券会社がやることであって、普通の事業者がやることではない。弾けて当然だった。その後から、監査制度というのが重要視された。
定年後にカウンセリングを選んだ理由
会社での自分に対する評価に、人の話を聴き過ぎるというのがあった。例えば、プロジェクトの運営では、親分肌で引っ張っていっていいんだと言われた。お酒を飲み交わしながら、それなりに人がついていくんだと。
でも、仕事でいろんな発想が湧いてくるのは、会社で話を聴いている時が多かった。毎日指示を出さなればならないけど、話を聞けば得ることが多いし、部下も自分で気がついて自主的に動いていく。「うん、そうだよな、やってみな」と言えるし、その方がやる気が出る筈という気がした。だから、仕事はピラミッド型よりもサークル型のほうがやりやすいんじゃないかと思っていた。
机も席が決まっていて縦に並ぶよりは、丸い机でフリーアドレスがいいと思った。今はそういうのがあるけど、昔はあまりなかった。最後に関係会社に出向した時は、それを絶対やってみようと思った。大正時代創業の古い会社だったけど、丸いテーブルを入れ、フリーアドレスにして、書類はキャビネットだけにした。私は役員だから、秘密の書類があるので仕切りの向こうに行くことはあるけど、皆と同じ輪に入るからと。
それに一番抵抗したのは、プロパーの人だね。課長が最も抵抗した。「せっかく課長になって、家族とか親戚に自慢できるのに、この席がなくなるんですか」。そういうものかなあと思った。でも、じっくり話をした。こういう趣旨でやるし、本当に実力ある課長なら、席がどんなところでもちゃんと情報が集まってくると。そしたら、分かってくれて、「やりましょう!」と。その会社は今でも、このスタイルでやっている。
そんな経験があったから、定年後に何をしようかなと思った時、人の話を聴く心理関係の仕事があると聞いて、それならできるかなと結びついた。私のような職歴だと、税理士や会計士、ファイナンシャルプランナーのような仕事を考えると思うけど、そういうのは全然やる気がしなかった。
前にも言ったように、自分はのめり込めない、のめり込まない性格。それが欠点でもあったろうし、もっと自分を出すものがなかったのか、あるいはそれが分からなかったのか、怖くてできなかったのか。その辺はよくわからない。けど、時々、のめり込んでいくことがやっぱり怖かったのかなと思う。冷静ぶっているだけだったのかもしれない。
だから、カウンセリングをしていて、「自分が何をやったらいいのか分からないんです」なんていう話を聞いても、その気持ちがそれなりに分かる。見つけられないというよりも、見つけることをためらう気持ちもあるのかもしれないし。
今は、カウンセリングが自分に合っているし、自分の居場所かなっていう気がする。「どうも、ありがとうございました」と言って別れる時は、「ああ、よかったな」と思って、自分としてもやったなという気がする。これは会社のやったなとは違う。 会社員時代は有り難い時代で、給料の心配がなく、自動的に給料が入ってきていた気がする。今は、入ってくるお金の単位はものすごく少ないけど、それでも、そういうお金の方が、自分の仕事の成果だと思える。私が話を聞いた人のお金の何分の1かがここにきた。距離感がすごく近い。
いいカウンセラーに出会うには
カウンセリングをやってきて自分が変わったと思うことは、いろんなことを受け止められるようになったこと。これも人生、それも生き方だと。それに、日常の周りの細かいことが、人間の意識をかなり支配しているということも分かった。例えば、誰かと話していて、こういうことをいわれた時に、ものすごく辛い思いになったとか。そういう時に、自分をどう対処させるかということを考えていかないといけない。抽象的な話だけでは解決しない。具体的な場面を自分で思い浮かべることが大事だ。
また、時間を守ることの大切さを知った。カウンセリングでは1時間でぴたっと決める能力が必要だ。いいカウンセラーの見分け方の一つはこれかもしれない。特に、発達障害や人格障害の人と会う時は、1時間で相手が泣いていても終わらせることが大事。その時、相手はものすごく見捨てられたというらめしい顔をするかもしれないけど、それが逆に、人間同士の信頼感につながる。あそこにいけば、必ず私の時間が1時間あるという安定感。これが大切だと思う。そういうことが分かった人は、5分遅れる時でも必ず連絡をくれる。そういうところから人は変わる。
カウンセラーにもいろんな人がいる。会社なんかの縦の関係をそのまま持ち込んで、聞いてやるよという姿勢の人もいる。「あなたは自分のことに関しては専門家で、私は認知行動療法の専門家。専門家と専門家が、あなたの悩みや苦しさを解決するために、2人が対等に共同作業をするんですよ」という見方をする人が本当のカウンセラー。そういう人のほうが少ない。
企業人はなかなか変われない。会社で仕事ができる資質と、人として生きていく資質は少し違う。企業の縦の人間関係しか見られない人とか、会社で自分が達成できなかったことを抱え込んでいる人が、ボランティアの組織なんかに入り込んでくると危ない。もっと違う価値観や見方でやっていくことが大事だと、気づけばいいんだけど。
地域活動に入る人のための講座があるけど、ソフトランディングできるように、おだてるように組み立てられているような気がする。人間それぞれ違いがあることを認め合いながら運営していくことがボランティアであり、地域活動だということをもっと伝わるような仕組みが必要じゃないかな。
これからのカウンセリング
これからは個室の中で、1対1でやっていくカウンセリングって、どうなんだろう。疲れている人や問題を持っている人が3人とか4人で、共同作業というスタイルもあると思う。芸術療法の話を聞くと、絵を描く、コラージュを作るということは、一人でやるよりも集団でやった方が、他の人の刺激を受けて物語が開けていくそうだ。
同じように、うつで休職していて、ようやく出社できるようになった人なんかは、グループディスカッションをすれば考えがしっかりし、それが出社への準備になっていくはず。それにはファシリテーターの技量がものすごく問われるけど。人間は社会の中で存在しているのに、1対1でしかカウンセリングをやらないのはおかしい。今、取り調べとカウンセリングくらいでしょう、個室でやるのは。
一緒に活動しているカウンセリングのNPOにも、机を丸いものにしようと提案している。いつの間にか、古手から順に奥に座ると決まってしまっている。これもおかしい。古い考え方からの脱皮が必要だよ。もしかして、机なんかなくてもいいかも。
最近は体が辛くなってきたから、カウンセリングもそろそろ辞めようかなと思うんだけど、結構、やりだすと終わらない。逆に、増えていったりしてね(笑い)。
完
posted by ききがきすと at 23:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | |
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