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2024年07月06日

つなぐ日々を生きる

かたりびと:西内末子
ききがきすと:鶴岡香代
編集担当:豊島道子


甘えん坊の「牛の子」

私は、昭和14年5月25日に父弘間経世(つねよ)と母好子(よしこ)の間に生まれました。郷(さと)は、高知市の鷲尾山(わしおやま)の麓にある吉野という集落です。父方の弘間の家には、神田村(現高知市神田)の百姓だった先祖が、安政の時代に山内家の西御屋敷の若君の辻売り(文末1参照)を申し受け、その縁をいただいて足軽に抜擢されたという話が伝わっています。とは言え、実家は分家やったもんで、貧しい小作百姓でした。母は、よく「米俵を山と積んでも、方々へ供物を納め、お医者代を払うたら、もう食べ代がない。何袋も残らん」と言っていましたね。

私には14上の長兄と、7つ違いと4つ違いの二人の姉、2つ上の次兄がいて、名前どおり5人兄弟姉妹の末っ子。きっと皆に甘やかされて育ったのでしょう。幼い頃は世間の人に「牛の子や、牛の子や」と言われたものです。母親に付きまわる甘えん坊の牛の子、言うてね。田んぼへ行く言うちゃ付いて行き、そこで座ったり寝転んだり、母に付きまとって、いたずらもしたでしょうね。気が付いて親がいないと、大泣きする・・そんな子だったようです。

大型爆弾から始まる戦争の記憶

当時の吉野は40軒ほどの集落で、普段は静かで穏やかなところでした。でも、幼い私の記憶には、ただただ恐ろしい戦争の断片があるのです。それが、あまりにも鮮明で、怖い、悲しいというより、現実に見たということが、すごく重いのです。

今、ガザ地区やウクライナで辛く恐ろしい思いをしている人たちがたくさんいます。テレビで毎日のように見るでしょう。そしたら、たまらんなるのです。今はあまりにも情報が多すぎる。その一方で、戦争の体験は希薄になるばかりです。気を付けて観る、聴くということが難しくなっている。だからこそ、今、この高知で私自身が恐怖した戦争を伝えたい遺したいと思うのです。

昭和19年1月10日のことでした。母は、父方の親戚の結婚式に行くのに、お土産に卵でもと思うて、庭に取りに出たそうです。父から「飛行機の音がするが、外を見てみよ。どこを通りゆうか、早う見よ」と声をかけられた。その瞬間、ものすごい音とともに吹き付けられるような衝撃を受け、振り返ると、幾ところにも火柱が立っていた。空襲警報も鳴らず、やにわの夜の爆撃だったと、母がそう話していました。
爆弾は、家から東側に80mくらいのところと西側へ50mくらいのところ2ヶ所に落ち、大きな跡を残しました。私はただ恐ろしくて、家に入ってきた母にかきついたことを今も忘れることができません。4才の私の戦争の記憶の始まりです。

その日、吉野周辺に7発の爆弾が落とされたと聞いています。それが高知県内では最初やったそうで、あくる日は明け方から見物客がものすごかったようです。初の爆撃の跡を見ようと人の列が尽きず、それもまた、いつもは静かな里には、珍しいことの一つだったようです。

鷲尾山に敵機B29墜落す

翌年、20年6月22日には、敵機B29が鷲尾の山腹に落ちるという事件が起こりました。飛行機から2つの落下傘が吉野に舞い降りたのを、ちょうど病床におった私の祖父が見たものですから、襲撃してきたと受け止めたようで、「早うに防空壕に逃げないかん」と、大きな声で叫びました。4つ上の姉と慌てて行李を防空壕に引き込んだことを子ども心にも覚えております。

その後で、男の人らぁがみんな農道を竹やりや、なぎ鎌、サスマタなんかを担いで、どんどん、どんどん鷲尾の山向いて走っていきゆうのを目にしました。子どもには何とも異様な感じで、それもよう忘れんことの一つです。

それからしばらくすると、今度は目隠しされた二人の米兵を載せた荷車(かしゃ)(文末※2参照)が通り過ぎました。落下傘で降りる際に傷ついちょったようで、警備をする人が周りを取り巻いていました。親や兄弟、息子なんかが戦死した人は、なんとか敵を討ちたいという気持ちが逸るので、それを止めるためでもあったようです。その異様な光景が瞼から離れません。もう80年も昔のことですけど、今もよみがえります。

近所の子ども二人が犠牲に

後でわかったことですけど、B29が落ちたちょうどその時、4人の子どもが、その近くにおったようです。ヤマモモが美味しい頃でしたから、遊びがてら山へ採りに入ったのでしょう。飛行機が落下した、その飛び火で火事になった。二人は山を下へ逃げて助かった。けれど、ここへ隠れる言うて真向いの岩陰に隠れた二人は、黒焦げになってしもうてねぇ。それが、なんと両隣の家の子どもさん2人。13歳ばぁの男の子でした。二人を連れ帰って庭先に寝かせているのを、それもまた、目にしたことでしたね。

B29墜落のことは、当時の新聞(文末※3参照)にも載ったと思いますがねぇ。7つ上の姉の同窓生なら詳しいことを覚えちゅうろうと、先日、聴きに行ったんです。「パラシュートで降りた人は、捕虜として連れて行かれたが、死んだ兵隊さんもおった。7人くらいはおった」と言うてました。飛行機に乗ったまま亡くなっていた人たちを埋けるに、地域からも人を出したという話もしておりましたがねぇ。
「飛行機は、撃たれて平衡が保てず、落ちたのだろう。尾翼が2キロくらい離れたところで見つかった」とも話してくれました。今みたいに情報がない時代ですから、そのときに見聞きしたことは、すべて鮮明に残っているものなんですねぇ。

防空壕、灯火管制の記憶

そのうち連夜のように焼夷弾が落とされるようになりました。鷲尾山は小高い山で、海が見えるし、高知の町も見渡せる。監視施設もあったそうで、余計目当てになったのやろうかと、後で親なんかも話してましたがねぇ。朝倉に練兵場もあったので、そういったところを狙う敵機の軍事的な通り道になっていたのかもしれません。
空襲警報が鳴って、防空壕へ入ったときの鮮明な記憶があります。心細さに壕の中にあった稲わらに抱きつくと、恐ろしさで震えてカサコソカサコソ音がしたんです。その音が耳から離れませんでしたがねぇ。子ども心にもあれほどの恐怖を感じたことはなかったです。

夜でも警報が鳴ると、家族は皆、防空壕に入る。すると、病床にいる祖父が、淋しくなるのか、家族を呼ぶんです。母は避難どころじゃないですよね、舅の世話をせないかん。灯火管制が厳しく、暗幕みたいな袋を裸電球に着せちょりましたが、それでは視界が広がらず、世話するうちに、いつの間にか幕がずれたり、外れたりする。地域の者から「灯が外へ漏れゆうぞ」と大きな声で怒られたと、母が難儀がったものです。そんなこともあって、母は随分苦労がいたと思います。終戦を知らぬまま、祖父は亡くなりましたがね。

高知市大空襲

7月4日には大空襲がありました。戦争が終わるちょっと手前ですわね。高知の街に焼夷弾が次々と落とされて、ものすごくやられたのです。鷲尾山の山系が筆山に連なっており、その筆山の切れた当たりからが市街です。向こう側の潮江辺りからずっと焼けて、市街は全滅に近いくらいの被害があったようです。

翌朝すぐに、父は、お世話になった皆さん方が困っちゅうろう言うて、炊き出しをこしらえて届けに出ました。父は、農業一筋でもなくって、年末にはお餅をついたりする仕事もしており、お付き合いのある方々が町にいたのです。まぁ、普段は結構な暮らしをしておいでる方たちやったでしょうけど、被害のたいへんなあり様に、日ごろの恩返しとの思いだったようです。

ところが、市中の悲惨さは予想を上回るもので、届ける手前であげていたら、たちまち足らんなった言うて、帰ってきたのです。母が再度、握り飯など用意して、また父が出かけたことを記憶しております。それほど市中は戦火にやられて悲惨なことになっていたということです。

戦争が終わったぁ

そのうち飛行機が終戦を知らせるビラを撒くようになりました。どこが撒いたのか、何が書かれていたのか、まだ5つそこらだった私にはわからない。ビラを拾っても読めもしませんでしたから。けれど、大人たちの雰囲気で戦争が終わるとわかりました。解放されたという安心感が私にも伝わったんですよね。

その時分は、家にラジオがあっても1つです。それも音声の悪いラジオがかろうじて一つあって、それが唯一の娯楽であり、情報でした。そのラジオからの天皇陛下の玉音放送は私には覚えがありません。でも、親が話している「戦争が終わったぁ」という言葉を耳にして、私、万歳しました。負けて万歳じゃないけれど、子どもは純情なものですからね。安堵して、はしゃいだ言うたら不謹慎ですが、それが正直な気持ちでした。空襲警報が鳴ることのない日が、やっと来たのです。

小学校入学が社会進出の日

終戦の翌年の春、私は鴨田小学校へ入学しました。「牛の子」と呼ばれるほど甘えん坊の私は、また、吉野の里しか知らない「井の中の蛙」でもありました。やっと社会への進出となったわけです。入学式の前に親に連れられて初めて学校へ行くことがありました。鴨田小学校もおおかたは焼けてしまって、かろうじて残っちょった講堂で、私は生まれて初めて母親から離されて、遠い所へ連れて行かれました。

先生に「名前を書きなさい」言われて、渡された紙にカタカナで書きました。『ヒロマ』と書く最初のヒの字はこんなに大きく書いて、『スエコ』のコはもう書くところがなくなり、小さく小さくなっちょった。それをこうやって唾をつけて消して、書いて。子どもが最初に習うのがカタカナでしょう。それが、初めての字よね。自分でもよう忘れん。上の端の字は見事に大きくて、下の端の字はようよう目に入るくらい小さい。そっと覗いたら、母が心配そうに見ゆう。その顔が今も思い浮かびます。それぐらいの子やったんですよね。

校舎のほとんどが焼けてしまったので、1年生の勉強は分散で始まりました。公民館でやったり、寺社でやったりね。戦前は敷島紡績やったところが、今は高知国際高校になってますがね。そこの隣に鴨田消防署の小さな詰所があって、その2階が、私たちの最初の教室でした。ランドセルらぁ、もちろんない。鞄のことなんか記憶にもありませんが、多分姉からのお譲りだったでしょうね。服は、母が嫁入りに持ってきた帯で近くの人に縫うてもろうて、それが晴れ着でした。
家から鴨田小学校までは、2キロからは離れています。消防署の詰所は、さらに遠くて、一番遠い組じゃなかったかと思います。学校が遠くて、子どもにはしんどい。末っ子の私は泣くことが特権ですから、よく泣きました。上の姉が「もう」って言いながらも、負うて私を学校へ連れて行ってくれたこともありました。
また、長兄は父親の代行みたいなもので、学校の参観日なんかにも来てくれたものです。ほんと、小学生になっても私は、どうしようもない甘えん坊のままだったんですね。鴨田小学校の新校舎が落成したのは、2年生のときでしたろうか。言い切りができませんけど、落成の時のことは記憶しています。

スエコ2.jpg 鷲尾山から吉野を望む

囲炉裏端で聞く親の言葉

父はうんと義理を言う人やったもんで、小学4年のときに兄嫁が来た、その頃から「我儘言うたらいかん」とか、しきりに私に言うようになりました。昔は食事の時が、囲炉裏を囲んでの一家団欒の場で、親の話を聴く唯一の機会、まぁ、娯楽も教育も兼ねた場だったのだと思います。

「こんなことがあって、こうじゃけんど、あれではどうにもならんが・・」とか親が話すのを成長の過程でずっと聞いて、子ども心にも必然的に「どうにもならん」ということがいけないことだと段々と了見づいてきたように思います。

また、物のない時代、その中でも小作農家はみじめなものでしたから、母がよく「人間は上を見て暮らしたらほしだらけ」と言っていました。空の星と物が欲しいの二つの「ほし」をかけて、「ほしだらけや」と。それで、「下向いて暮らしたらほしはない」って、それが母の口癖やったんです。利口に回ってますよね、母も。それが母の言葉でした。
父は父で「人間は波といっしょじゃ。押してくることもありゃ、引いていくときもある。いっつも苦しいことはないきね、頑張らないかん」というのが口癖でした。また、父の教えの一つに「神様の前を通るときには、きちんとお辞儀ができるような生活をせよ」ということもありました。それは邪な心を持っていると神様には見透かされるということで、躾の一環であったと、この年になって思うのですよ。

おませな耳年増に育つ

そんな親の話や言葉が成長の過程で繰り返され、いつの間にか身に付いたのでしょう。私は、甘えん坊の「牛の子」からおませな「耳年増」になり、また、少々のことは苦とも思わないような人間に段々と育ったようです。
とは言え、小学生の頃は、何かといえば姉たちに寄りかかるくせに、口だけがおませで、よく皆に怒られていました。兄らぁに「おまえは口から先に生まれた」言うて茶化されて、『口から先って、どんなにして生まれるのやろう』なんて考える子どもでしたよ。

物が豊かでない時代に育ったので、小学校へ履いていく草履なんかも自分で作りました。藁でね。そりゃ、姉たちがしているから自分もというかかり意識もあったでしょうね。藁なんかたくさんあったもんで、縄もなうし、すべ箒いう昔ながらの手箒も作りました。
藁の穂の部分だけを引き抜いて、今は柄付きのもありますが、これぐらいのすべの上の方を曲げてこしらえて、穂先で掃くようにした箒です。子どもなりに見よう見まねで仕上げて、小学校の夏休みの工作に提出したこともあります。子どもの手なので締りも悪かったでしょうが、やれば何でもできるという気持ちになったものでした。
鉛筆なんかでも3センチまで使った記憶があります。必要にかられたら、いろいろ工夫してみることを覚えた貴重な時代だったと思いますね。

スエコ3.jpg スエコさんお手製のすべ箒

鴨田小学校卒業後は、城西中学校に通いました。仲良しの友達が、母親に私の名前を出して一緒に行くと言えば許可がでると言うので、「えぇ?なぜ?」って思ったことがありました。当時の私は、田舎の子どもの中では、ある程度言うことが大人びちょった・・・らしいですよ。末っ子ですきね、しっかりしてはないんですけど、おませな口立ちだったんですね。

母の生い立ち

母はよく、私らに自らの生い立ちを語って聞かせてくれました。母は明治から大正にかけての大変な時期を生き抜いた人で、朝のテレビドラマの「おしん」以上の苦労をしたようです。私の母は、父親が出稼ぎに行ったまま、捨てられたようなことになりましてねぇ。私の祖母になる者は、うんと苦労して母と弟になる者を育てたらしいです。母は赤ん坊の弟を負うて小学校へ行ったそうで、弟が泣くと、人の目が気になり、結局、学校へも行きどころじゃなかったと言うてました。

学校へ行くよりも、となって大阪の方へ女工に何年か行ったようです。その後、いつまでも女工というわけにもいかんと呼び戻されて、今度はありがたいことにお医者さんの家に女中に入れた言うてました。その頃のことを母は「お陰様をいただいた人生には箔が付いた」とよく言っていました。
人間は生活するところで、育てられるもんでしてね。母の言葉遣いはものすごく丁寧で、それが母の一番の自慢でした。そういうことは一生身から外れませんしね。「幸せなことに良いところで育ててもらった」って、母がいつも口にした感謝の言葉が忘れられません。

姉が開いた高校への道

高校は小津高校へ行きました。すぐ上の兄は中学出るとすぐ農業しましたけど、その上の中の姉は出来が良かったもので、学校の先生が是非高校へやれと勧めてくれて、追手前高校へ行ったのです。私は姉の開いた、その道を通らしてもらえたんです。当時は、誰もが高校へ行くという時代ではなかったし、親も経済的に余裕があるわけではなかった中、親にしたら、兄や兄嫁への義理立てもあっての選択やったと思います。
でもねぇ、姉は親がたいへんということがよくわかっているだけに、授業料のことでは難儀したようです。授業料を滞納すると、学校が名前を張り出したそうで、母に言うと、「この卵を持って行って売って、それで払うように」と卵を渡され、姉は卵を売って授業料を払ったと話していました。
幸い、私は、そこまではしなくてもよかったんです。滞納者の名前を張り出すなんてこともなくなっていましたし。でも、親が苦労していると、構わないことは自分の中で選択し、諦めました。例えば、修学旅行。親に言えば、またやらないかんと思う。それは気の毒やと思うて、私の中で消してしまう。そういうふうにしていましたね。

そうそう、私のときには、小津高校に無試験で入学できましたよ。入学試験がないなんて最高のときに生まれたぁと思ったことです。その後、私たち生徒が体育館へ集まって、入試制度について賛成か否かという議論をした記憶があります。2年くらい後で受験制度になったわけで、本当に幸運でした。
まじめな高校生ではありましたよ。くそまじめなくらい。「やっちゃりゆう」と言う親の言葉が頭にありますので、それが大きなブレーキになり、外れたことはできませんでした。もちろん、楽しいこともありましたよ。勉学よりは他の部分でですけどね。
夏休みには、上の姉の婚家先によく手伝いに行きました。姪たちの世話とか、お料理の手伝いとか、そんなこと。稲刈りの手伝いもしましたよ。まぁ、昔はそうやって兄弟の助けもしたし、また、誉められたら嬉しいもので、おだって行ったのかもしれません。向こうのお姑さんがなかなか利口もんで、誉めて使うてくれたんです。自分では、しっかり役立ったと思っていますがね。

クラブ活動の思い出

高校では社会研究部に入りました。いろんなことを勉強させてもらいましたが、一番の思い出は、校内弁論大会に出たことです。農村での女性の生き方についての思いを発表したんです。この頃から私の芯には農業があったのかなぁと思います。数十年経って、中学からの友達に「びっくりしたよと」打ち明けられ、笑ったことでした。
また、本が大好きだった私は、仲良し5名程で図書部を立ち上げて、読書会などもしました。そうそう、私が借りた本を父も読んで、時折その感想など話してくれたんです。私の卒業時には幼木を用意してくれ、みんなで図書室の前に植樹したのも良い思い出です。
もう一つ、家庭科が主専攻だった私は、家庭科クラブにも入っていました。部活というよりは、学習のためのクラブで、簡単なブラウスやスカートを作ったりしました。生地を買(こ)うてとは親には言いづらくて、自分が履かなくなったスカートをほどいて、それで縫うた記憶があります。人は皆きれいな布を持って来ている。自分の弱みを見せたくなくて、家でやっていくと、先生は『こんなの、自分でしたのではないろう』と評価したようです。自分でしたんですけどね、誰にも手を入れてはもらえなかったから。

ご指導いただいた家庭科の北村先生には、随分かわいがっていただきました。いつだったか、「東京で全国大会があるから、一緒に行きませんか」と言うてもらいましてね。旅費は学校から出るけど、お小遣いが必要でした。まぁ姉の家で働いた分もある。何とか親には負担かけんようにしようと考えたことを覚えています。
全国大会へは、先生と私と、もう一人、仲良くしていた友達との3人で行きました。会場は今の中央大学やったように思います。先生の息子さんの下宿が新宿にあり、そこに泊まりました。もちろん汽車での長旅も東京も初めてです。東京は今ほど繁華ではなかったように思いますが、先生に連れて行ってもらって、ただただ楽しかったですね。帰りに先生が買ってくださった白桃が美味しくて、その味を忘れれんのです。岡山の白桃、もうこんな大きいのをご馳走になりましてねぇ。生まれて初めてそんな美味しいのをいただいたようなものですよ。いい経験をさせてもらいました。
すぐ上の兄が、もう働いていたので、この時、私にお小遣いをもたせてくれましてねぇ。すごく優しくって、高校入学時にカバンを買うてくれたのも、その兄でした。自分は高校へも行かなかったのにね。皆、末っ子の私によくしてくれて、私、兄姉愛には本当に恵まれました。貧乏なりにも心豊かに育ててもらったなぁと、親はもちろん、兄姉にも今、心から感謝です。

遠い山奥へ嫁入り

兄姉だけでなく、それぞれの配偶者も良い人に恵まれたと思っています。農業者は農家との縁組が一番幸せになれるというのが父の理念でしてね。加えて、「女の子は一里四方に嫁げ」というのが、娘への結婚の条件でもありました。その父の言いつけを聞かざった者が、一人だけおります。それが私です。

この聞き書きのお話をいただいてから、よく昔のことを辿ってみるのですよ。本当にいろいろな方に出会って、お心をいただいてきたと思いましてねぇ。一里四方へという父の願いに反して、私は伊野の小野(この)という遠い山奥へ嫁入りし、二人の男の子、その下に女の子と、3人の子どもに恵まれました。ご縁があったということですよね。

夫、西内淳郎(あつお)は農家の跡取りでしたが、父親は軍人やったそうです。子どもの頃は、みなさんにちやほや大事にされて育ち、都会へ出ての教育も受けています。舅は戦犯になったとかで無理が祟ったのか、結婚したときにはすでに亡くなっていましたので、姑のヨネや結婚前の義妹や甥と一緒の新婚生活でしたね。
西内には山林もありましたので、夫は農家の仕事に加え、山の仕事もしていました。一緒に乳牛を飼ったりもしましたが、次男誕生の頃には、夫は農協に勤務するようになり、私が農作業の主な担い手となりました。子どもを姑に頼み、休日には夫に手伝ってもらいながらの農作業の日々でした。
そのうち小野の田のほかに、介良にも1町くらいの田んぼを借り、姉たち夫婦の手も借りて作り始めました。その頃は今より米の値が良かったもので、土方なんかに出るよりはとの姉の勧めもありましたし、1反言うても小さい田が何枚もあるような小野の棚田よりは条件が良いということもあったんです。

昭和50年の台風

あれは、昭和の50年でしたか。8月17日に5号台風に遭いましてね。17時までの一時間に伊野町成山(なるやま)で93ミリを観測。バケツでふりうつしたかと思うほどの大雨でした。
ちょうど早稲の取り入れがすんだところで、介良で収穫したモミのほとんどは姉の家の倉庫で乾燥させてもらってましたが、小野の家にもいくらかは持ち帰っていました。それに水が入るとたいへんだと家族総出で排水していたところが、俄かに谷が狂い出しました。これはいかんと、姑に子どもたちを頼んで、川向うの公民館へと避難させました。
昔の田舎の家は、そこに母屋があり、ここに納屋が、風呂場があるというように、広いものでした。お蚕さんを飼いよったので広い蚕室に、私たちが住んでいた小さな離れもありました。
また、暮には家を新築しようと夫と話し合い、その準備も進めていたんです。山育ちの夫は気に入った木を伐り出して自分で製材するような人で、農協へ勤めながらでも、納屋には、長尺物の柱など1軒分以上を積んでありました。それも濡らさんようにと積みかえ、それぞれの車も外へ出して。それが、何時間も経たないうちに、すべて濁流にのまれ、流されたんです。家屋敷もろとも、すべて失いました。

その様子を見ることの切なさというたら言いようがありませんでした。昔の家は、栗石の上へ乗せるという建築法で、今みたいにしっかりと土台に組み込んでない。全部ふいと上がっていき、水にのまれる。一つ一つの棟が流されていく様は、まるでマッチの軸が、こうポコンポコンと浮いて流れていくようでした。それを見ずにはおられなかったですね。あまりにも悲惨すぎて、惜しいいう気持ちにもなりませんでしたね。
さらに雨は降り続き、公民館にいても危ないということになりました。一緒に避難していた者全員で、高いところにあるお宅へ押しかけていき、そこへ避難させてもらいました。その時、夫が「せめて蔵ばぁでも残るろうか」って言ったのを思い出します。蔵が家の一番奥にあるので、そう思うてしもうたのです。残るはずはないんですけど。
夜になって、もう一度大きな音がしたと覚えています。朝行ってみたら、全部川原になってしもうて、家屋敷は跡形もありませんでした。土石流で埋まり、川の流れも入れ替わっていたんです。橋の上を水が流れ、4軒の家がずらっと並んであったのが、影も形もないあり様。ただ、新しく建て直し基礎がしっかりしていた隣の家の一棟が、下は全部打ちぬかれて二階だけ残っておりました。 

昭和51年の台風

そんな状況でしたので、これではどうにも住めず、高知へ出るしかないとなりました。実家の父が、吉野に少しばかりの土地を私に遺してくれてましたので、公庫の方で割安くお金を借り、なんとかそこに家を建て引っ越したんです。51年2月のことで、ちょうど長男が中学1年、次男が5年生でしたか、末の娘はやっと小学1年生にあがったところでした。
ところが、その年9月の17号台風で、今度は新築の家に床上1mの浸水です。鏡川が決壊しての大洪水でした。それから10年程は台風という言葉を聞くと、私は体が硬直しましてね。とにかく、物を上へ上げないかんという気持ちになり、荷物を始めるんです。構わないものからボツボツ二階へ上げてみたりとか、そんな状態がしばらく続きました。ほとんどノイローゼですよね。

ただ、新築時に公庫でお金を借りたときに保険を掛けていたので、まとまったお金が入り、その点は救われました。実家の土地をもらって家を建てていましたので、それが父の気持ちだったとは言え、私には実家の兄や兄嫁への気兼ねがありました。また、夫も姑も、嫁の方へ付いてきてなんぼか切なかったろう、大変であったろうとの思いもあったんです。そこはちゃんとしたいと考えて、私はすぐに少しばかりを包んで、実家へ行きました。「これは僅かやけど、私が土地をもらったお礼にしたい」言うて差し出したら、母が泣き出してねぇ。兄も言葉に詰まったようでした。結局、受け取ってはもらえずで、せめてもの私の気持ちだったんですけどね。

実は、私のすぐ上の兄も実家近くに家を建てていました。そこは前年浸水し、嵩上げしたのに、また浸かってしまったんです。2年続きの異様な水害だったんですよね。実家の母は、この時、僅かばかりのお金を提げて来て「何もようしちゃらんから、このお金でこ兄やんく(次兄の家)も一緒に、なんぞ買うてきて食べてちょうだい」と、泣く泣く渡してくれました。切なかったんですよね、母も。近くに来たものの、子どもらがこんな苦労をする姿を見て・・・。親不幸の塊やと思い、私も辛かったです。

子育ての悩み、迷い

とにかく働かないかんと私は思っていました。子どもたちの世話は姑に任せ、朝星、夜星で働きに働きました。姑も心を込めて子どもたちを世話してくれていましたが、思わぬことで大きな心配を抱えることになったんです。娘の病気です。
鴨田小学校に転入した娘は、朝は集団登校でしたが、一人になった下校時に道に迷ったんです。家が流されて転居となり、小さな学校から大きな学校への転校。ストレスが続く中、迷子になったことが引き金となったのか、下校時に椅子から立てれんようになりました。
医者に連れて行ったら、甘えじゃと言われました。でも、娘は夜中に寝ていても飛び起きる。急に痛い言うてひせり出す。その繰り返しでした。頑張って仕事して、家を再建してという思いばかりの私でした。子育てを姑に放り任せにし、これほどになるまで娘のことを思いやることもできなかった。母親として失格だと、そう自分を責める辛い日もありました。

また、夫も、何もかも承知のうえで嫁の実家の方へ来たものの、養子じゃないという気持ちが頭をもたげ、お酒に逃げたいときもあったでしょう。近所に知った人の一人もいないところに来たのですき、まぁ、無理もないですわね。そんなときの娘の病。夫は娘をうんと可愛がってましたので、打ちのめされたようになりました。
なんとかしたいと病院を変えたところが、今度は幼い頃の風呂場での転倒が原因の後天性癲癇(てんかん)だと診断されて、お薬を飲み続けないかんと言われました。家族が皆、もう打ちひしがれましたわ。そんな中、たまたまご縁のあった宗教家の方が「大丈夫。良くなります。シャンシャンした子だから、羨ましがりゆう人がおるからやろうね」と言うてくれました。非科学的なこととわかっていますけど、信じてお願いしました。ありがたいことに、1年も経たないうちに娘はすっかり元に戻ることができたんです。
いろいろありはしましたが、3人の子どもが、それぞれしっかり育ってくれたことには、感謝するばかりです。

姑が「恍惚の人」に

元気で子育てを引き受けてくれていた姑が、娘が中学2年生になった頃から、ちょっとおかしゅうなり始めました。
姑も嫁の郷で苦労がいたかと思います。また、世話してきた子どもたちが成長して、手から放れたということもあったでしょう。今で言う認知症、昔は呆けと言うてました。ちょうど有吉佐和子の「恍惚の人」という小説が世に出て、呆けの話の時には、あの話をよく引き合いに出したものです。
姑の言動は、徐々におかしくなっていきまして、私は手が放せんようになったのです。家に居ても、興奮すると洗濯物も干せんようになり、そのうち、「帰る」という言葉が姑の口から出るようになりました。自分の心、ここにあらずというところですかね。年老いて住む場所を変えるということは、そういうことになりやすいらしいですね。帰ると言う姑に、舅さんの位牌を見せて「おばあちゃん、ここが家やき、ほら。お義父さんもここにおるろう」と言うと、あっと言うて拝むんですが、すぐ「それにしても帰る」と言う。もう口癖になっていましたね。

幸せなことに私は車に乗ったもんで、「そしたら、おばあちゃん、帰るかね」言うて、車で元居た小野へよく連れて行きましたよ。そこで会いたい人に会って話しても、帰りには「会えんかった。戻らないかん」と言い出すんです。姑の郷が鹿敷(かしき)にあり、まだ兄嫁さんが居たので、試しにそこへも連れて行きました。「おばあちゃん、おばあちゃんの出たところぞね」言うても、やっぱりだめ。どうやってみても心が定まることはなかったですね。
そのうち、私に「おまんは私の従妹やのに。おまんの頭は真っ黒いねぇ、私は真っ白うなったのに」などとしきりに言うようになりました。自分の嫁すらわからなくなってきたのです。枝川あたりで信号待ちしていたとき、こんなこともありました。キョロキョロするので、何を見ゆうと訊くと、「これほど車があるのに、うちの嫁はひとつも来ん」と言うのですよ。えぇと思って、「おばあちゃん、これこれ、これ、嫁」って私、言ったんです。すると、チラリと私を見てから、「それにしても帰る、帰らないかん」と、また同じことを繰返して、全然解決することはないんですよね。また、帰る、帰るが始まる。

姑の徘徊始まる

常時私が車で連れまわす、そんなことが何年か続く間に、今度は徘徊癖が出てきましてね。姑は、小柄でしたけど、健康な人で足腰は丈夫だったんです。夫もなんとかせないかんと言い出したんですが、今のように施設があるでなし、病院では自由に動けるなら精神科しかないと言われました。精神科では病棟に鍵を掛けると知り、夫は首を横に振りました。いわゆる老人病院も行ってみましたが、老人がベットに括り付けられている。そうせざるを得んのでしょうけど、「あんなところ嫌」と言う、その夫の気持ちも大事にしてあげたくて、まぁ、それならもうちょっと家で連れてみようと思いました。

実はねぇ、私は徘徊するというのが恐ろしかったのです。まだ小野に居る頃、成山でおばあさんが行方不明になって、7年目に白骨で見つかったということがあって、そのことが頭から離れませんでした。姑をそんなことだけには、させたらいかん。それだけは、どんなことがあってもという信念に近い思いでしたね。
私も今とは違い、まだまだ勢いのある頃で、奥歯にも力が入ったこともありました。長い年月の間には、何十回かの徘徊がありましたから、もっと優しゅうできたら良かったのにと思うんですよ。夫は勤めているので、私が姑となるべく一緒に寝るようにしていました。夜の夜中に姑がおらんことに気が付いて、「おばあちゃんがおらん」と告げても、「押し入れへでも入っちゃぁせんかよ」というのが夫の返事でした。
仕方なくそっと外へ出て、一人で居そうなところを探しました。夜だから大きな声では呼べないでしょう?近くに兄の事業所があって、そこの車が明りゆうからと近寄ると、その車におったりとか。そんなことがあっても、まぁ、なんとか見つかりよりました。

徘徊の果てに

ある晩のこと、姑の興奮が治まらなくて、寝ずにずっと話し相手になったんですよ。一番鶏が鳴き出した頃に、やっとスヤスヤと寝息が聞こえてきましたので、姑が動けばわかるように手と手とを紐で結んで、私も横になりました。気が緩んで私も寝入ってしまったようで、気が付くと、姑は紐を解いて、いなくなっています。これはたいへんだとなり、飛び起きました。
まず、家族総出で近隣を探しましたが、見つけられません。すぐに私の兄姉や義妹、警察など方々へ連絡して探してもらったのですが、やはり見つからないのです。夫は「今日は大事な会がある」と言いましたけど、行きどころじゃないですよね。親が行方不明になっているのに。とにかく皆で方々を探し回りましたよ。曲がってしまうと見えない、陰に隠れるとわからない。同じところに何回も行って探すものの、やはりいない。見つけられないんです。

ちょうどテレビで朝の人気ドラマ『おしん』をやっている頃に、私の甥が山の方へ3度目となる捜索に出てくれました。「こうしたおばあさんを知りませんかねぇ」言うて訊くと、「ここ通りよった」と山の入り口で教えてもらい、ちょうど春野へ抜ける農免道路ができたときで、そのトンネルの中を歩きゆう姑を見つけたそうです。
甥は姑を車で連れ帰り、「おばあちゃんが、前に山の向こうに私の娘がおるいうて言よったのを覚えちょったきね、僕。行ってみたら、トンネルの中で見つけた」と話してくれました。甥が言うに、家の近くまで来ると姑がここは来たことがある」と言うたそうです。自分の家を「見たことがある、来たことがある」そう言うたって。その日は家族の者はみんな、ぐったりで動けんようになりました。
夫は、結局「会はもうどうでもえい」言うて仕事は休んで、ハマートに買い物に行きました。窓からでも飛び出ていく姑のために、家中に鍵が掛かるようにしたんです。開ければリンと鳴るように鈴も取り付け、外へは戸詰めまでしたのを思い出します。私が「お父さん、もしうちから出火したら、家族まる焼けやねぇ」言うくらいの戸締りになりましたよ。


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手前から烏帽子山、鷲尾山。姑を見つけたのは鷲尾トンネルでした。

まだまだ続く介護

そんなことが数えきれんくらい、まだ続きました。今は施設があり、認知症教育も支援の場所もありますが、その時分は、なにもありません。夫は、姑のこういう状況を知らなかったんですよね。朝仕事に出て、晩帰る。夜、姑が大人しければ、こんなもんじゃと安心したのだと思います。一度は、たまたま興奮した姑を義妹のつれあいが見て、「義姉さん、いっつもこんなかえ」とびっくりしたこともありました。
また、お風呂場や廊下の隅で、大といわず小といわず粗相することも度重なるようになりました。着替えを入れている箪笥がちょうどお腰の高さで、年よりはこうやっておしっこしてましたので、中身を全部除けてしもうて、そこにしたりねぇ。

今思うと、私に必要な知識も経験もなく、興奮させないよう適切に扱うことができなかったのですよね。姑が「ここに子どもが寝ゆうのに、あんた踏みゆう」と言うたりする。認知症には妄想や、幻覚幻視もあるということ、今はわかるんですけどね。

終いには、私も少し利口になってきて、「帰る、帰る」を繰り返す姑を「そうかね」と受け入れて、後を付いて行くことにしたのです。「そしたら気を付けてね」って送り出して、見え隠れしながら付いて行く。この足取りは、ちょっと疲れているなと思ったら、ぽっこり前へ出て行く。すると姑も「まぁ、迎えに来てくれたぁ」となりました。私も段々とノウハウを身につけたのですよね。

姑を看取る

そんな姑でしたが、だんだん足腰が弱ると徘徊の心配はなくなりました。最後の一か月くらいは、主治医が通ってきてくれました。亡くなった当日、師走の23日でしたか、主人は勤め先の忘年会がある、ちょうどそんな時期でしたが、先生が姑を診て「お正月は迎えられますよ」とおっしゃって帰られたんです。
けど、姑の弱り具合が気になりましてね。ずっと一緒に居る私には『先生は往診時の状況でしか判断してないもの、万一もある』と思えてならず、それで、夫の姉妹3人に電話しました。「先生は大丈夫と言われたけれど、お義母さんがわかるうちに、会いに来っちゃってくれん」と伝えたんです。下の義姉さんは朝倉病院の付き添いをしよったので無理でしたが、上の義姉と義妹は飛んで来てくれて、それから間もなく、本当に姑の最期が来ました。
姑の口が、最期の最後に動いたように見えました。それは、「ありがとう」と言うてくれよったのやと、自分でそう受け止めることにしたのですよ。自分が良い方に解釈したのかもしれませんけどね。義姉と義妹の二人も最期を見届けられたと喜び「死に水が取れたということは、こういうことや」と感謝されたことでした。
私と認知症の姑との7年半のお付き合いは、そんな風にして終わりました。夫は、朝は母親が亡くなるとは思いもせずに出かけたと思うのです。でも、部下を連れての忘年会でしたから、私も電話して呼び帰すことはしませんでした。もちろん残念がってましたけど、まぁ、夫は朝に夕にいつも見ていましたからね。

自分が姑の年になりましたから、当時の姑の気持ちがよくわかるんです。家を流され、住み慣れたところから新しい土地へ、ましてや嫁の実家の近くに来て、なんぼか切なかったろうと思います。私も今の心境で世話ができたら、もっと親身になれたのにと、そう思うて辛いときがありました。親しい人に話したら、「あんた、そりゃ大丈夫。お義母さんを車に載せて、よう世話したやんか。そんなに思うことはないわね」と言うてくれましてね。救われました。姑はうちの畳の上で、娘らに見守られて終えた・・・、それで上等やったと、今は自分にご褒美をやりたい気持ちです。

今も夫の姉妹とは良いお付き合いができています。特に義妹は、うちへもよう来てくれて、実の姉妹以上の良いお付き合いさせてもろうています。至らんことの多い、がさつな私ですよ。でも、嫁入り先の姉妹がこうして来てくれることは嬉しい限りやと思うて、娘にも「おばちゃんのこと、大事にしてね」と話しゆうことです。

夫の病

夫は、元々酒が好き、ことのほか好きな人でして、舅が酒好きで卒中でしたから、血圧や肝臓の疾患をずっと心配してきました。長い間のお酒で、肝臓も段々と悪くなっていたかと思います。ちょうどオイルショックの頃、夫は農協の営農関係の仕事をしていたんですが、もう夜の夜中でも組合員さんから肥料はどうなる、ビニールはいつ来ると、しょっちゅうの電話で多忙を極めていました。それでもまだ農作業も手伝ってくれよりましたので、夫も無理しよったんでしょうね。疲れからとうとう体調を崩してしまい、ひどい貧血になり、輸血を受けたこともありました。
健康に不安を抱えながらも、夫は農協の仕事を続けていましたが、子どもたちがそれぞれの生活をスタートさせた頃に、退職いたしました。その後は夫婦で一緒に農業をしながら、この穏やかな日がずっと続くと、そう思って暮らしていました。

そのうち、夫は腰が痛い痛いと言うようになりました。痛いながらも、農作業などできることはしてくれていましたが、痛みがどんどん強くなり、かかりつけであった後輩の個人病院に連れて行きました。ところが、すぐに「ここではいかん」となったんです。夫はまったくよう動かんもので、救急車を呼んでもらって、今度は近森病院へ行きました。
そこでレントゲンを撮ったところが、家族に来てくれいうことになりまして、ステージ4の癌、しかも、癌が肝臓から脊髄へ転移しており、脊髄の7番目と8番目の骨が潰れていると説明がありました。お腰が痛いのはその神経を圧迫していたせいでした。「ここではいかんので、医大の方を紹介します」と言われ、医大へ行ったところ、「脊髄、骨の手術をして腰が痛くないようにしましょう。癌の手術の手立てはありません」と言われました。
腰痛の解決策として、これくらいの釘で留めただけの手術でしたが、その後で下肢が麻痺し、寝たきりのようになりました。その上、余命は3ヶ月と宣言されたんですよ。「この体力では手術することはできません」と。すでに脊髄まで転移していましたのでね。瞬く間に頭の方へも行きました。

家での看取りを決めて

ホスピスも見に行きましたが、本人も希望したものですから、家で看病しようと決めました。幸せなことに、一階に12畳くらいの部屋があったもので、そこへベッドを据えました。下肢の麻痺があるので、車椅子へ移すためにリフトが必要で、家の改修もしました。車椅子で外の散策もしたいろうと思いましてねぇ。
主治医が訪問医療の医師を紹介してくれて、患者と医師とが合うか、まぁ、お見合いみたいなものまで献立ててくれました。この人ならと思えて、鴨田の診療所の先生にお世話になることにしました。ヘルパーさんも毎日来てくれ、週に1回の入浴などお世話になったことでした。そうやっていろんな人の手も借りて看病させてもらいました。

うんとお酒が好きな人やったけど、「一杯飲むかえ」と息子が言うても、初めのうちこそ「うん」と応えていましたが、そのうちその気もなくなりましたねぇ。痛さに耐えれんなると、神経を麻痺させるパッチを貼るようになりました。それが初め2センチ四方であったのが、だんだんに拡がって終いには8センチ四方になったんです。また、最後は、オプソを使用するようになりました。医療用の麻薬で、それを何時間か置きに服用するんです。初めのうちは本人が嫌がりましたが、嘘でも言わなしようがない。私は「大したことないのやと」と言い続けました。

あんまりうるさそうなので、ちょっとでも気分が変わるかなと、私がベッドの後ろへ回り抱いて座ると、少しの間だけでも耐えやすいこともありしましたね。また、楽に起き上がれるようベッドの足元へ紐を付けてもみました。「お父さん、これを引っ張って」と教えると、「えいこと考えてくれた」言うて喜んだことです。電話もすぐ取れるところに置きましたら、電話の応対も一つの生きがいみたいになりました。とは言え、次第に弱っていきましたけれどね。

夫の終いに思う

そんな私たちを傍でずっと見ていて、これはたいへんだと思ったのでしょう。嫁が、自分もヘルパーの仕事で忙しいのに、週に1回は、夜だけでも私が看ると言うてくれました。可愛らしい嫁で、ベッドの横に布団を敷いて「早うお母さん、体休めないかん、たいへんやき」って、私を労うてくれました。
そのうち、娘も子どもたちを連れて、ベッドの横に布団を構えて付き添ってくれるようになりました。夫には、やはり孫たちの姿が何よりの喜びで、楽しみにしていました。週1回は、そういうふうに家族が代わりおうて看たんですよ。

子どもたちが、相変わり日替わりして来てくれるのは、私にも大きな助けにも励みにもなりましたねぇ。それでも、夜トイレに起きたら、誰が看てくれよっても気になって、そっと様子を覗いたものです。夫が隙間から私を見たときは「おかあ呼んでくれ」「呼んでくれ言うても、お母さんは寝ゆう」「寝やせんが。そこから覗きゆう」と、そんな問答があったようで、「お母さん、お父さんがきかんがやき」と言われて、私も「そうかね。私も一寝入りしたから、代わるわ」と言うこともありました。
そのうち、オプソも効かんようになり、痰が出て、苦しむ時間が増えました。痰の吸引を、喉からしたり、鼻からもしてもみたり。それでも本当に苦しそうでした。小水を管を挿して取り、尿の量も測りよりました。苦しくてオプソを欲しがるけど麻薬性鎮痛剤ですので、服薬時間の決まりがあります。また、薬の管理は厳格で数の報告が必要でした。一度だけ私が寝呆けて空を飲ましてしまって、「一つ余ってますよ」と先生に言われたことがありました。間違えるなんて、とんでもないことと恐縮し、お断りしたことでした。

こうしたことを繰り返しながら、夫は5ヶ月の命をもらいました。その日は先生が一度朝来てくださって、容態が良くないと診て、「近いうちかと思います。気を付けちょってください」とおっしゃったんです。それで、家族の者みんなが夫の周りに集まっていました。夕方また先生が来てくださってね、「痛くないよう、薬をお腹にセットしましょう」って言うてくださいました。それは死を待つということやけど、穏やかにという気持ちで先生がやってくださりゆう最中のことでした。アッというような顔で夫が私を見たんです。痰の詰まりで、一瞬のことでした。先生も痰をよう取らんなっちょりましてね。それで苦しまずに、あれって言うような顔で亡くなっていきました。
そのときに孫たちが「おじいちゃん、頑張って。おじいちゃん、頑張って」って、みんなが励ますものですから、先生はびっくりされたようで「こんなこと、初めてです」とおっしゃっていました。

養子に行っている長男が、後で嫁に言うたそうです。「おやじばぁ幸せな死に方はない。おらもあればぁよう世話してくれ」って。そう言うて嫁に頼んだって。夫は自分の想像してなかった世界やったけれども、こんな最期を迎えれて、私は『お父さんの人徳やったね、良かったねぇ』と心から思いました。

夫ともこうして別れました。見送った後でね、一時はホッとしました。言い過ぎかもしれませんけど、夜も寝れんということがしょっちゅうでしたからね。主人は73歳で亡くなりましたから、もう15年になります。

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ご家族のみなさんと末子さん(中央)、令和3年正月

農業体験で子どもたちと出会う

あっ、そう言えば、私はね、自分の田んぼで子どもたちに農業体験をさせたことがあるんです。行政が進める食育・農育の一環として、農業体験の依頼があったとき、団地近くのうちの畑に石を投げた子のことを思い出しました。親がその子を叱るのに「石放ったりしたら、おばちゃんに怒られるよ」と言うのを聞いて、私は、『そうじゃなくて、どうして怒るか、何が悪いのか、その意味をちゃんと教えないかん』と思ったんです。そのことが蘇りました。農作物の生育ということを子どもたちが身をもって知れば、おばちゃんが怒ることの意味がわかる。石を投げたらいかん理由も自ずと理解するやろうと考えて、私は引き受けることを決めました。

うちは鴨田でも介良でも田んぼしよりましたから、鴨田小学校と介良小学校の2校の3年生と2年生の子どもたちと一緒にやりました。平成13年頃から数年間のことで、当時は夫がまだ元気で、畑づくりや管理も手伝ってくれ、とても協力的でした。
やってみたら、子どもたちが可愛くってね。「おばちゃん。うちのお父さんとお母さんが喧嘩してね」とかって、いろんな話を作業しながらしてくれるんですよ。また、一緒に草引きしていると、「おばちゃん、草引きやけど、草は空気を浄化しゆうがでね。なんで役立つ草を引くが?」などと訊いてくる子もいました。「草引くのも考えないかんね」そんな会話もしましたよ。面白くて、豊かな人生経験させてもらいました。プラスαがあるがです。

コマーシャルでテレビデビューする

その時分にねぇ、私、テレビのコマーシャルにも出て、コマーシャルガールもしたんです。ちょうど食育の体験も盛んにやっている頃で、子どもたちが作った干し大根を学校給食に当ててもらったりしていました。お隣の美容室の先生が、「サンシャインがコマーシャルを企画中やと。出演者を募りゆうけど、やってみん?」と勧めてくれました。予選があって、畑で撮った私の写真を出すと、「審査に通ったよ。西内さん」言うて連絡がありました。
ひょっと聞いたことがおありやろうか。「その食事は1回きりぞね。しっかり食べんと」言うて、ほうれん草のお浸しやったか載った皿を、私が青年に差し出す。それが5年間も放映されました。息子がね「あのビデオならまだ残っちゅうで」と言うてくれて。今観たら恥ずかしいですけど。

まぁねぇ、これもいろいろな人との出会いでね。声をかけていただいたことは、本当にありがたい。友達が「コマーシャルガールの賃はなんぼもろうた」いうて訊くき、「1万円もろうた」言うたら、「5年も使うて1万円かえ」言うて、みんなで大笑いよね。ラジオでも流してましたから、本当に安うに使うたねぇ言うて、笑うたことでした。あの1万円は、美容室の先生やご近所の奥さんら4人で楽しくお茶して使いました。今も笑顔になる良い思い出です。考えてみたら、なかなか経験できないことをやらせてもらいましたね。

友とともにある幸せ

「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉がありますでしょう。中学の一年のときの国語の先生に教えていただいた上杉鷹山の、この言葉を私は座右の銘としてずっと大事にしてきました。振り返ってもしようがない。いつどんなときも前を向く、そういう生き様でありたいと念じてきました。これでもかこれでもかと試練に見舞われた人生ではあったけれど、父が言ったとおり、波と一緒です。お陰様で今は、親しい人と過ごす豊かな時間があり、自分へのご褒美じゃと思うています。

スエコ6.jpg横田さん母娘との旅(青森にて、令和元年)

横田美恵子さんという友達がいます。中学の2年のときにクラスが一緒になって、中学も高校も同じ。高校で図書部をつくった仲間の一人でもあります。田舎が好きやったのか、よく自転車で家まで遊びに来てくれて、私の両親も一目置く存在でしたね。今も変わりなく親しくしていいただき、70年来の付き合いなんです。この頃は母娘の旅に、娘さんが「西内さんも一緒に」と誘うてくれて、楽しく同行させてもらっています。
彼女は人生経験が豊富で、資格を取って保母さんになり、園長さんまで務めあげました。その一方で、茶道の指導や一弦琴もやられており、目の不自由な方のための朗読ボランティアは今もずっと続けています。お付き合いする方も裾野の拡がりがすごくて、私にはもったいないくらいの友達です。それぞれ人生には紆余曲折があり、お互いに随分苦労もしたわけですが、そうした赤裸々な話もできる友達を持てたことが、私には最高の財産だと思うています。

また、私は高知県高坂学園生涯大学に、もう10年ほど通っていて、そこでもいろんな方たちと交流が深まっています。喫茶タイムに誘い合ったりするうちに仲良くなり、市民劇場に誘ってもらったり、ほんの数日前でしたか、中国雑技団の公演がありまして、その券も世話してもらいました。職歴も住む場所も違う様々な方と知り合い、親しくお声がけしていただくことの喜びをしみじみと思いよります。

人は人中、木は木中

もう一つ、今の私が心のより所とも思い大事にしている宝物があります。農協婦人部の仲間たちであり、鴨田支所のふれあい朝市の笑顔です。姑が、結婚してすぐのときに、「人は人中、木は木中で育つ」と言って、私の背中を押してくれました。まだ伊野の奥で暮らしている若い時分のことです。社会教育学級の講演会や農協の集まりなど、いろんな場所に出て行きました。利口ものの姑やったから、私のことを『こりゃなんともならん』と思ったのでしょうけど、ありがたかったです。その中で、農協女性部とのつながりも生まれました。
伊野の農協の前に直販所をつくるというときに、知り合いの口利きもあり、その一員に加えてもらいました。当時はまだ直販所が珍しい状態で、全国からの視察の受け入れも随分しましたよ。高知へ出て来てからも女性部に続けて入り、姑を見送った頃からは、いろいろな役も引き受けるようになりました。

あれは私が鴨田支所女性部長になって何年目だったでしょうか。高知市17支所の集まりの中で、女性部の総力を結集して、高知市に道の駅のような直販所をこしらえようという話が出たんです。当時のJA高知市の女性部長は竹島愛子さんで、過去の直販所での実績を高く評価してくださり、私も設立委員の一員に加えていただいたんです。
無から有をなすということには大変な苦労がいきましたけれども、いつも前向きな竹島部長の「ファイタリティ」とでも呼びたい、何があってもやりぬくという気概の下で皆が動いたように思います。私たちは、その直売所に、女性部が女性部だけで打ち上げるとの心意気を込めて『(「)真心(まっこと)ファームラブ』と名付けたんです。そのラブがJA高知市本所の一角に誕生して、ちょうど20年になります。

私には農業が生き様そのもの、ずっと生活の足場なんです。その私が『ラブ』の設立に委員の一人として参加し、本当にいろんなことを学ばせていただきました。当時の私には充分な能力もなかっただろうと思いますけど、お陰様で、私の今につながる人との出会いをいただいたと感謝しています。

つなぎ、つながることの幸せ

今も私には、農業を中心にした生活が、そして、この鴨田の朝市があります。ここは物を売る市であると同時に、慣れ親しんだ皆さんとのコミュニケーションの場なんです。「元気かね」「あんたの声がせんき、心配しよったよ。元気にやりゆう?」と声をかけてくださる顔なじみのお客さん。「元気、元気。ありがとう」と応えながら、声をかけ合うことの幸せを感じて、またまた元気がでます。
お客さんだけじゃありません。この聞き書きのきっかけをつくってくれた山崎貴美子さんとも、ここで出会いましたわねぇ。新たに農業を始めた地域の方と知り合えるのも、ここがあるからこそです。朝市から帰ったら、息子が「だれたろう」言うて気遣うてくれる。それもほっこり嬉しくて、疲れを忘れさせてくれます。

人って繋がってしか生きていけませんし、人の繋がりによって磨かれるものでしてね。山上憶良ではないけど、「なんでもじゃない、一番大事なのは人とのお付き合いじゃ」と思うてます。振り返ると、社会的にも評価された夫と出会い、姑にも恵まれたことが私の勲章やったと思えます。姑のお陰で人中に出て、そこで育ててもらいましたから。  

人様と出会い、つなぎ、つながる道を拓いてくれた姑に第一に感謝し、また苦楽を乗り越えることを教えてくれた両親にも感謝。いろいろと付き合ってくれ、今だに私を助けてくれる兄弟姉妹、家族にも感謝です。周りの人皆さんのお陰様で、今日の日があります。ありがたいですね。

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自宅近くの畑は末子さんが精魂込めて育てた野菜でいっぱい。

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朝市には末子さんのフキやイタドリ、ホウレンソウ等が並んでいます。


〈参     照〉

※1 辻売り:高知県の風習で、子どもが病気になったときなど辻に子どもを連れて行き通りかかった人に拾ってもらい仮親になってもらうというというもの。名前を付け替え、呼び名として使ったようで、高知県東部で昭和2年に生まれた私の父も、郷では戸籍上の名前でない別の名で呼ばれており、幼少時に重い病に罹ったが辻売りで救われたと聞かされた。

※2 荷車(かしゃ):荷物を運ぶために使われる、木製の車輪の付いた輸送用の道具を荷車(にぐるま)と言うが、4つの輪がついた大型のものを特に「カシャ」と呼んだとのこと。

※3 当時の新聞:昭和20年6月23日の高知新聞に『ざまァ見ろB29』という見出しの記事が掲載されており、前日、22日午前10時頃愛媛県から南進してきたB29の中の1機が神田の吉野部落へ墜落したと報じられている。5頁文中で『2つの落下傘が吉野に舞い降りたのを(祖父が見た)』とあるが、パラシュートで落下した米兵は4名、機中で亡くなっていた米兵の人数は7名と伝えた記事がある。


あ と が き

西内末子さんとは、私の中高時代の友人の紹介で出会い、幼い時の戦争体験から今日までのご自身の物語を聴かせていただくことができました。昭和、平成、そして令和と続く長い年月の間、ご家族をはじめ、多くの方々との出会いを丁寧に紡いでこられた方で、高知ならではの台風災害や、ご家族との別れなども織り込まれた、広く厚い人生の織物に触れた思いです。
この聞き書きに当たって、末子さんは事前にしっかり構成まで考え、準備くださっていて、そのよどみない話しぶりに私は驚かされました。でも、話が横道に逸れると、それはそれで面白くて、時には二人で大笑いしながらの聞き取りとなり、会話の引き出しの多さに、改めて末子さんの心の大きさ深さを感じたことでした。
お姑さんに背中を押されて人中へ出て、たくさんの方と出会い、つなぎ、つながる中で育てられたとの思いをそのまま、タイトル「つなぐ日々を生きる」といたしました。この「つなぐ」という思いは、私たち「ききがきすと」の思いでもあり、末子さんが生き抜いてきた日々が、一人でも多くの若い次世代の人たちに伝わるようにとの願いも込めています。
私たちの所属団体『新Ryoma21』は昨年秋に『Ryoma21』をリメイクして再出発しましたので、この作品が第一作となります。また、私が聞き書きを始めて今年でちょうど十年です。この節目に、末子さんと出会えたことに心から感謝するとともに、ご紹介の労をとっていただいた山崎貴美子さんに心からお礼申し上げます。(ききがきすと 鶴岡香代)









posted by ききがきすと at 15:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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