この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。
以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。
・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。
終戦の年に生まれて
私の両親は、1943年5月、高知県幡多郡の江川崎村から開拓民として中国吉林省の大清溝(だいせいこう)に入植しました。2年後、8月15日
の終戦は、開拓団にすぐには知らされず、大きな不安と混乱の中で逃避行が始まりました。妊娠後期に入っていた母も、開拓団のみなと一緒に不眠不休で歩き走り、大清溝から90キロ離れた廟嶺(みょうれい)で私を産んだのです。
廟嶺から吉林市駅を目指して、さらに200キロ。みな、ずっと歩いたそうです。出産直後の身でも、ただただ歩くしかありませんでした。辿り着いた吉林市からは貨物列車に乗り、撫順市へ。大清溝を出て一ヶ月が経っていました。
撫順では発電所の宿舎が日本人の収容所でした。三階建ての建物の二階。コンクリート床に一人の赤ん坊。泣く声すごく弱くて、もう死にそうな感じあって・・それが私でした。
その収容所から程近いところに中国人の夫婦が住んでいました。9月に生まれた子どもが半月ほどで亡くなって、そのお母さんは母乳がいっぱい。前にも流産して、もう子どもができないと諦めかけていた時、隣の人から「今、北からの日本人いっぱい。子どもいらない人きっといるから、もらいに行ったらいいじゃない」と言われました。
産後で具合の悪いお母さんを家に置いて、お父さんはおばあさん(お父さんの継母)とその収容所に行きました。そして、すぐに一人の赤ん坊見つけました。もらっても生きることはできないと思うほど弱々しい泣き声。迷う気持ちあったけど、おばあさんが言いました。「可哀そうに。うちの嫁まだ母乳があるから命助けるかもしれません。もらって帰ろうや」と。
お父さんは、本当は男の子が欲しかったけど、この子が男の子か女の子か全然わからない。言葉通じないから。だけど、この母親を見たら、『この子をどうか助けて、助けて・・』と言っているよう。お父さんは女の人から手渡された赤ん坊を家に連れて帰りました。私の撫順での暮らしがここから始まりました。
終戦直後の中国で日本人の両親から生まれ、食べる物も着る物もなく、乳も出ない母親の手から、中国人の家族に渡された。そのことを私は何にも知らない。覚えてない。私が、日本の家族のこと、故郷のこと知るのは、40年後の1985年のことです。
中国のお父さんとお母さん
お父さんが連れて帰った赤ん坊は、赤い着物を一枚着てるだけ。その子を家のみなで見たら、着物の下はなんにもない。裸。裸で、もう肋骨がはっきり見える。お母さんからお乳を飲むと、腸ぐるぐる見えるよう。誰もが本当にこの子は生きられるかなと、心配で可哀そうに思ったって。
でも、お母さんは赤ん坊を見て、本当にもらったのだから大事に大事にせないかんと思って、毎日しっかりお乳飲ませました。3ヶ月経って、みんな本当にびっくりした。すっごく太って、前の様子は全然見えなくなった。とってもかわいい赤ちゃんになったって。その時、お父さんとお母さんは何よりも嬉しかった。
この頃のこと、もちろん私はなんにも覚えてないです。もらわれた時のこと、お父さんからずっと後になって聴くまで、なんにも知らない。お父さん、私に『淑媛(シューユァン)』と名前付けて、二人は私を自分らの子どもとして育てました。
でも、近所のみなさん、このことよく知っています。私はよく「この子は日本人の子」と言われた。小学校では友達から『チビの日本人』とか『小日本の鬼』とか呼ばれた。そう言われても私は全然信じない。私は、お父さんとお母さんの子ども。そのことは間違いない。だって、私はお母さんのお乳を4歳まで飲んでいたじゃない。私は養父母を「お父さん」「お母さん」とずっと呼んで、なんの疑いも抱かず二人の元で育ったの。
養父母は、共に山東省の出身です。親同士が知り合いで、二人がまだ小さいときに将来結婚させることを約束しました。昔は、自由恋愛じゃなくて、そういう婚姻いっぱいありました。
お父さんは、子どもの時山東省から撫順市に出て、学校に行き仕事を始め、家族みんなのために家も建てました。一方、お母さんは、ずっと山東省で育って、17歳のとき、山東省から撫順市のお父さんのところへ嫁に来ました。
婚礼前、二人は一度も会うことがない。顔をちらりと見ることもない。家に来たお母さんのこと、お父さんは全然気に入らんかったって。年は、お母さんが一つ上。お父さんはお母さんのこと気に入らん。嫌でたまらん。けど、親が決めたことは変えることができない。お父さん、どうしようもなかった。
お母さんは、結婚してから、毎日することが本当にたくさんありました。まず、家族の世話です。結婚したとき、お父さんの父と義母、祖母がいました。義母は、とても若くてお父さんより4歳だけ上。だから、結婚したとき、お父さんは16歳、お母さんは17歳で、おばあさんは20歳だったそうです。
おばあさんに男の子ができて、私の叔父さんね、その子が1歳のとき、おじいさん亡くなったって。おじいさん亡くなって何年か後、おばあさんは男の子をうちに置いたままで他の人と再婚しました。それで、うちのお母さん、ひばあちゃん(土佐弁で曾祖母のこと、ひいばあちゃん)の面倒をみながら、その子のことも全部育てました。お父さんの弟だけど、自分の本当の子みたいに。私をもらったとき、この子は9歳になっていました。
お父さんの仕事、お母さんの仕事
お父さんは運送の仕事。昔だから、車じゃなくて、馬車で運びます。馬車何台あったか、私はちゃんと覚えてないです、小さかったから。でも、馬も何頭か、雇っていた人も何人かいます。お父さんと一緒に仕事をする人が全部うちに一緒に暮らしていました。そして、その人たちの食事、洗濯などの家事は全部お母さんの仕事。
お母さん来る前は、その仕事する人がいたそうです。でも、お母さん来てからは、その人が辞めて、全部お母さんの仕事になったから、お母さん本当にたいへん苦労しました。
昔の女の人、纏足(てんそく)で足小さくて、歩けるけど長くは無理。それでも、家の仕事全部お母さん。朝3時か、4時頃には起きて、みんなのご飯をつくる。馬には餌をやって、面倒もみないかん。
私よく覚えていますよ。朝起きると、いつも、お母さんはもう私の隣には居ない。ずっとそのまま仕事です。毎日毎日、朝、お父さんと雇っていた人みんなに朝ご飯。みんなが仕事に行ったら、それから、ひばあちゃんの面倒、おじさんの面倒、私の面倒。朝ご飯食べさせて、それから、また、昼ご飯をやって。
家の掃除、片付け、洗濯、全部お母さん。夜は夜で、みんなが帰ってくる前に夕飯の準備です。ご飯食べたら、みんな寝ます。でも、お母さん、まだ馬の餌つくる。馬草の束を鋤刀で押し切る。固い大豆の枯れ枝を足に挟んで両手で切る。それに水を混ぜて、馬に食べさせる。このたいへんな仕事を毎日、朝と夜、夜中と3度もしなくちゃいけない。だから、また、朝早く起きる。
お父さんの仕事もたいへんだったと思います。撫順は北の寒いところです。高知とは全然違う。特に冬、馬車に乗ると冷える。指が凍傷になるくらい。たいへんだと思いますけど、でも、お母さんの家の仕事も本当にたいへん。私は隣でよく見てわかっています。
幼い日々のお父さんの思い出
お父さんは、清潔なこと大事にする人。とてもきれい好きで、帰ったら必ず、私の手を見て、顔を見て、服を見ました。もし汚れていたらお母さんのせい。怒って暴力をふるう。だから、お母さんは、どんなに忙しくてもお父さん帰る前に私をきれいにして、顔も、手も、爪まで洗います。爪が長いのもダメでした。そういうことも毎日、お母さんの仕事の一つ。
会った最初の時から、お父さんはお母さんのこと、全然気に入ってなかった。お母さんになんの原因なくても、お父さんは、自分の気持ちが悪くなったら、お母さんに当たった。私、それを見たら、本当に怖かった。暴力はいつもじゃない。時々。だけど、私、いつもお父さんが帰ってくるの心配でした。小さくても、今日はお母さんどうなるかって。お父さんの暴力がなかったら、安心しました。
そんなことがあっても、お母さんはなんにも言わん。お母さんは無口な人。なにがあっても、外で誰に会っても、なにも言わない。愚痴を言う人じゃなかった。隣の人にも誰にでも、すごく優しい。うちのひばあちゃんもお母さんのことを大好き。全部お母さんが面倒みるから。
私はお父さんとお母さんが自分の親だと思っていた。なんの疑いもない。お母さんがどんなに私の面倒みても、当たり前のことだと思っていた。お父さんはお母さんには厳しくするけど、私のことは本当に好き。例えば、家に帰って食事してから馬の散歩。お父さんは毎日、馬を連れて散歩する。そのとき私が馬の背中に乗って、お父さんが馬を引っ張って、ゆっくりゆっくり散歩する。そんなことちゃんと覚えている。
小学校2年生(8歳)の頃
あれは、私が4歳くらい。このときのこともよく覚えている。家の馬とか馬車とか全部国の会社に渡した。自分のものじゃなくなった。渡してから、お父さんは、その会社の職員になった。それからお父さんは自転車で通勤。だから、お母さんの家での仕事はずっと楽になった。雇ってる人いなくなって、馬の世話もなくなった。
お父さんは馬がいなくなったら、今度は自転車の後ろの荷台に私を乗せて、休みに時々遊びに行く。ある日、私を後ろに乗せているとき、お父さんはどうして自転車がこんなに重たくなったかと思った。止まって見ると、私の足が自転車の後ろの輪に巻き込まれて、足は血だらけ、骨が見えていた。
今でも、この右足にはっきり傷跡が残っています。そのとき、お父さんはびっくりしました。私は痛くて全身が震えている。そうなっても、私は全然泣かない。どうして泣かない? お父さんが怒ったら怖い。私のこと好きで大事にする。だけど、お母さんにすることを見ているから怖い。怖いから、全然泣かない。痛くても泣かない。その後のことがどうなったか、覚えてない。
私には小さいとき、友達が全然できない。誰の家にも遊びに行くことがない。「行ったらいかん」。お父さんが厳しく言ったから。やはり自分が日本人の子ということが、あったのかもしれません。うん。誰の家にも行くことなかった。
1952年の9月、私は小学一年生になりました。中国の学校は秋に始まるんです。入学前に、お父さんは馬蹄形の小さい時計を買って、毎日、私に時刻を教えました。私はすぐわかって早く覚えたから、お父さんすごく嬉しかったみたい。お父さんから時計の読み方習ったことは私の大事な思い出です。
小学校に入ると、お父さんが新しい本とかノートを買ってくれて、表に私の名前『宋 淑媛』と書いてくれました。そして、「よく勉強してね。知識あれば将来、良い仕事ができる。いい人と付き合って、幸せになれるようにね」と言いました。小さくてその意味はよく分からなかったけれど、とても幸せな気持ちを覚えています。幼い日の父の愛、母の愛・・心の中に刻まれています。
憲法が変わって、両親は離婚
1953年の春、中国は新しい憲法になって、婚姻がうまく行かなくなったら、離婚できる、そういうように変わりました。その頃、もう会社の課長になっていたお父さんは裁判所に行って、「どうしても離婚したい」と言いました。お母さんのこと、もうどんなにいい人でも、一緒に暮らすことできないと。
私が小学校入ってまだ半年くらいのときよ。お母さんは纏足で、どんな仕事もできない。離婚したら、これからの生活はどうすればいいの。お母さんは本当に困る。でも、お父さんは、初めからお母さんのことが気に入らんから、どうしても離婚したい。
この家に入ってから、お母さんがどんなに努力して頑張って仕事しても、お父さんは気に入らん。そのことで、お母さんとっても悔しかった。辛かった。もう、毎日、泣いて泣いて。でも、お父さんは裁判所に行って、諦めない。最後に、離婚の判決が出て、離婚することになった。
お父さんは離婚して、すぐ再婚した。奥さんは、昔の資産家の二番目の奥さん。新しい国ができる前は、二番目、三番目の奥さんがいた。中国に新しい国ができて一夫一婦制になったから、一番目の奥さんだけ残って、その人は元の主人とは離婚した。そういう人が、私と同じ年の娘連れて、お父さんと再婚した。
それで、お母さんは本当に悔しかった。昔の女の人には離婚ということ、すごく恥ずかしい。お母さんは、自分が何を悪いことしたか、いろんなことを考えて辛かった。
でも、周りの人は、お母さんがどういう人かよくわかっている。小さい私でも良くわかった。お母さんがどんなにこの家を大事にしてきたか。お母さんを見たら、本当にお母さんのことかわいそうと思う。それなのに、お父さんどうして、お母さんみたいないい人、気に入らん?もう私とお母さん、いらないの?
離婚したとき、裁判所から家の財産について通知来ました。東側の二つの部屋をひばあちゃんと叔父さんに、南向きの3つの部屋がある家全部を私とお母さんに。お父さんには、なんにもあげない。そのまま出て行け、って言うことでした。
でも、お父さん出て行ったら住むところがない。また、自分が建てた家だから、どうしても離れたくない。お母さんにお金出して、半分、お母さんから買いました。だから、その家の半分と物全部が私とお母さんの財産。そして、隣にお父さんの新しい家族が入りました。
私は日本人?日本はどこにある?
小学校1年生のとき、私には本当にたくさんのことがありました。夏には、公安局がうちのお母さんを呼び出しました。お母さんが私を連れて公安局に行くとき、私より5歳くらい上の女の子も一緒でした。その子も残留孤児だったことを、その時の私は全然知りませんでした。
途中でその子は私に「誰が何と言うても、行かないよね」って、言いました。私、なんのことか、わからない。「おかしいじゃない、お母さん。どこへ行くの、私?」お母さんに訊きました。お母さんはその子に「この子は小さいからなにも知らない。言わないで。言わないでおいて」って。その子はもう言わなくなったけど、私もう一回、「お母さん、私、どこへ行くの?」って訊いた。お母さんは、「どこへも行かない。あんたは、ずっとお母さんのそばにいるから」って答えた。
公安局に着くと、お母さんは大きな部屋のドアの前で私に「ここで待っててね。どこにも行かず、ここに居てね」と言って、中に一人で入った。私はドアの外にいる。ドアの隙間がちょっとだけ開いてる。覗くと、中は人がいっぱい。わわわわ、わわわわ。なにを話しているのか、全然わからない。
でも、なぜか確かに聞こえてきた、お母さんと警察官の話す声。お母さんが「この子を生まれたばかりでもらったの。今も8歳にもなってない。この子が日本帰っても、お父さん、お母さんが誰か知らない。家はどこかも知らない。どうする?私は今この子と二人で暮らしている。もしこの子が日本へ行ったら、私は死ぬ。絶対、行かしたくない」って、泣いたり、話したり。その警察官は最後にお母さんに「もういいから帰りなさい。この子のこと、もう何にも言わない。このまま帰って」と。それで、お母さん、すぐに出てきた。
そのこと聞いて、私はやっとわかった。近所の人や小学校でみんなが言ったこと、「日本人の子」とか、本当のことだった。お母さんは私の本当のお母さんじゃない。この国も自分の国じゃない。日本の国は、どこよ? そのとき、小さくても、いろいろ考えました。でも、心の中は、ただただ『お母さんと一緒に暮らしたい』でいっぱい。お母さんが自分の一番大事な人、そう思いました。
でも、頭の中こういうこともいっぱい。『どうして?みんな中国人、なぜ私だけ日本人なの?日本の国は、どこにあるの?私の本当の親、父と母はどういう人?どこにいる?』何もわからない。ただ、帰ったら、お母さんに訊いてみようと考えました。
でも、お母さんは家に帰っても、何にも言わない。私が知ってしまったことはお母さんもわかったはず。だけど、お母さん何にも言わない。私には訊いてみたいという気持ちがあったけど、やはり言えなかった。もう、よくわかったので。お母さんは実のお母さんじゃない。でも、一生懸命に私を育ててくれている。お母さんには私だけ。私にはお母さんだけ。
お母さんと二人ぼっち
お母さんは町内会のことで、夜に時々出かけることがありました。私は家に一人で怖かった。お父さんの方は、新しい奥さんと子どもがいる。向こうは、すごく幸せ。私一人で怖くて、お母さんを探しに外へ行きたい。「お母さん、どこ?お母さん、いない」。外でずっと泣いていた。
お母さんは帰って、すごく怒った。この子がこんなに泣いているのに、お父さんは出てこない。ずっと知らん顔した、と。多分、向こうはドア閉めていたから、気づかなかった。でも、お母さんはもうここには住みたくないと。お父さんのすぐ隣に住むことが嫌になって、残った半分の家も他の人に売って家から出ようと考え始めた。
11月になると、撫順はものすごく寒い。この頃はまだ朝鮮戦争のとき。飛行機が飛んできて危ないから、子どもたちは毎日、白いタオルを首に巻いて登校していた。家に帰ったら、そのタオルをお母さんは毎日洗って干す。冬は、炉子(ルーズ:竈ストーブ)で部屋を暖かくして上に干す。お母さんが朝の忙しいとき、私一人で干してあるタオル取ろうとした。私はとても背低くて、届かない。椅子にのって背伸びしたら、どーんと転んだよ。転んで、炉子に頭をひどく打ちつけて、血が出てきた。炉子は鉄でできている。血がたくさん流れて、どうしても止まらん。お母さん飛んで来たけど、どうしたらいいかわからない。とにかく血を止めないかん。手のひらに小麦粉を取って、それで頭の傷を押さえた。じっと押さえて、本当に血を止めた。今も頭のここに傷がある。今考えたら笑い話みたいだけど、お母さんは必死だった。病院には全然行かなかった。
昔はものがすごく安くて、家を売ったお金でなんとか生活できた。でも、どこまでやっていけるか、お母さん、毎日毎日そのことが不安。お金のこと、お母さんはずっと悩んでいた。近所の李さん、とても優しい人で、お母さんのことすごく可哀そうと思ってました。お母さんに「うちに空いてるとこあるから、どうぞ来て、住んでください。お金いらないから」と言いました。
結局、離婚から半年余りで、私とお母さんは、李さんのところに移りました。そこは、元の家にも近い。私たち引っ越したら、17歳になっていた叔父さんも職場の宿舎に移って、ひばあちゃんは前の家の東の部屋に一人になった。お父さんとは別れても、お母さんは、ひばあちゃんのこといつも気にしてる。お母さんは、そんな人よ。
李さんは、私たちを親戚の人みたいに扱ってくれて、「家賃とかいらない。1元ももらわない。家にあるものは何でも使ってください」と言ってくれました。昔は売店だったのを倉庫として使っていて、部屋は本当に広い。前は全部ドアみたいになっていて、後ろにもドアがひとつある。だけど、窓はない。夜は、ドア全部閉めて、お母さんと一つのオンドル(竈の熱を利用した床下暖房)のベッドで寝る。二人ぼっちのそんな暮らしが始まりました。
ジェンビンづくり
その広い部屋に一つ大きな石臼がありました。昔の中国では、食べ物は全部自分で作ります。その臼で、よくジェンビンを作りました。ジェンビンは、漢字で『煎餅』と書く、薄いクレープみたいなもの。まず、高粱米と大豆をたっぷりの水に一晩浸しておきます。翌朝、それを水と一緒に少しずつその大きな石臼の穴に入れて挽き、糊状のジェンビンの素を作ります。小さい石臼なら手で回すけど、それはとても大きくて、人が臼の手の部分を持ってグルグル周りを回って挽きます。田舎ならロバがこの仕事する。町にはロバがいないから人がしなくちゃいけない。この仕事を小さくても私はよくやりました。
そこは、元々こういう仕事もする場所だったから、近所の人がジェンビンを作るとき、必ず、うちに来ました。お母さんは誰がやっても手伝った。纏足もあって、外での仕事できなかったから、家での仕事をちゃんとやる人だった。
ジェンビン作れば、一日かかる。できた糊状のものを大きな鉄板で一枚一枚薄く焼いて、半径20センチくらいのクレープみたいな、春巻きの皮みたいなものを作ります。一枚一枚焼いて重ねて、20センチ以上になるくらい作るから、一日かかる。これを一人でずっとやると疲れるし、暑い。だから、みんな交代でやる。私、いつもお母さんと一緒に手伝いましたよ。
ジェンビンは、ご飯の代わりに食べる。作り方も食べ方もクレープみたい。大きい鉄板で焼いて、専用の棒でくるっと拡げて、野菜や卵を挟んで四つ折りで食べた。好みで辛い物やいろいろ入れる。これは、本当に美味しい。置いておくと固くなるから、また水を足して柔らかくして食べる。懐かしい味だけれ ど、今はもう私には作れません。
ある日、ジェンビンを作って、お母さんが私に柔らかいのを一枚持たせ、「ひばあちゃんに届けてね」って。お母さんは引っ越してからも、ご飯食べるときは、向こうのひばあちゃんの面倒をみていました。
そのジェンビンを持って行って、呼んでも呼んでも返事がない。『どうしたの?私が行ったら、いつもはひばあちゃん、ものすごく喜んでくれるのに』
私は走って、お母さんのところに帰った。「ひばあちゃん、呼んでも返事がない。どうしたのかな」って。お母さんと近所の人みんなでひばあちゃんのところへ行くと、亡くなっていた。お父さんの新しい奥さんはひばあちゃんの面倒をあまりみない。ひばあちゃん亡くなるまで何も気づいてなかった。
ひばあちゃんがいなくなって、本当に淋しくなった。また、撫順の冬は寒さが厳しい。部屋は広くて、すごく寒くなる。竈で火を使えば、オンドルで暖かくなる。李さんは石炭自由に使ってと言ってくれるけど、お母さんは気を遣う。夕飯の支度に少し使うだけ。オンドルの上に寝る時、ほんのちょっとしか暖かくない。
夜になると壁は全部真っ白になる。寒くて、家の中が霜で白くなる。小さい私が落ちないよう私を壁側に寝かせる。お母さんの隣で寝てても、夜が更けると、私の足がだんだん痛くなる。寒くて、痛くなる。多分、壁が冷た過ぎるから。床に足をつくと、もう痛くて歩くことができない。痛くても病院には行けない。どうしようもない。中国のお酒60度。お母さんはそれに火を点けて、毎日毎日マッサージしてくれて良くなった。
お母さん、死んだらいやや
こんなにつましく生活しても、段々お金は少なくなる。お母さんは離婚するとき裁判所から毎月私の扶養費をお父さんから12元もらうことになっていた。課長になっていたお父さんの給料は70元くらい。その中から12元。でも、そのお金を払ってもらえないことが多くて、いつも裁判所から催促してもらっていた。生活するのはなかなか難しい。
お母さんは不安がいっぱいでも、なにも言わない。小学校2年生の私は、まだまだ幼い。前と同じように毎日学校へ行って、帰ったらお母さんと一緒にご飯食べて、なにも知らない。いつもお母さんは家で私を待っていた。
いろいろ考えても、もうお母さんには前に進む道がなくなった。あの日、学校から帰ると、お母さんがいない。隣に訊くと、「お母さん、出かけて行ったよ」と言われて、私はお母さんをあちこち探しに行った。近所・・いない。もう少し遠くへ・・。
北の方に行くと、そこには、町内の世話役のおばさんの家がある。そのおばさんが私を見つけて、「来て、来て」って。行くと、お母さんがおばさんの家の中にいて、泣いている。私はお母さんの顔を覗いて、「お母さん、どうしたの?」と訊く。お母さん、なんにも言わない。応えない。ずーっと泣いて、泣いて。
おばさんが「今日、お母さん、川に入って自殺しようとしました。私が少し遅ければ、もう死んでいたで」と言う。その家のすぐ傍に大きくて深い川がある。そこで死んだ人もいる。お母さんはそこで自殺しようとした。おばさん「もし私が気付くのが遅ければ、お母さん、死んだで」って、もう一度、私に言って聞かせました。
私は、そのこと聞いて、びっくりしました。小さくても一番心配なのは、お母さんのこと。もし亡くなったら、私、どうする? 小さくても、これからのこと、よくわかるよ。私も泣いた。もう、すごく泣いた。「お父さんが私たちをもういらないと言った。お母さんも私をいらないってことなの?」って訊いて。
お母さんは私を見て、「わかりました。もう死なない。この子を見たら、死ねない」その言葉を聞いても、私はすごく怖かった。お母さんが死んでも、私はお父さんのところへは行きたくない。新しい奥さんが来て、子どもも連れてきて、私、そのことをすごく恨んでた。もうお父さんと一緒に暮らすことは嫌!できない!
そのことをお母さんに言った。お母さんはずーっとずーっと泣いて、これからの生活どうすればいいの、って。最後に、「もう帰ろう。私はもう死なないから、心配しないで」と、私を連れて帰った。帰る前に、おばさんは私の名前呼んで、「お母さんのこと、ちゃんと見てね。こういう気持ちあったら、なかなか止まらんよ」って。私の心配はどんどん膨らんだ。
家に帰っても、ずーっとお母さんのそばにいる。どこにも行かない。小さいから、考えることは、お母さんのことばかり。お母さんのそばにいたら、一番安全だと思う。学校も行かない。絶対、お母さんから離れない。離れたくない。夜になっても、寝てはいかん。寝たくても寝れない。寝たら、また、お母さんどこか行ってしまう。死んだら、どうする? ずーっとお母さんの手をつないで寝る。お母さんのことが心配で心配で、眠いのに、急に目が覚める。『お母さんいる?』『うん、いる、いる』。また、眠る。また、急に覚めて。そうして、朝が来る。
お母さんは私のことを見て、ずっと泣いている。お母さんがどんなに言っても、私は学校行かない。ずっと家にいる。お母さん、私を見て、「安心して。お母さん、絶対死なない。もう大丈夫。あんたのこと考えて、私、死んだらいかん」。そう言っても、私は信じない。でも、近所の人たちは私に「学校、どうぞ行ってちょうだい。昼は私たちみんな、お母さんと一緒にいるから大丈夫」って言って聞かせて、お母さんも「どうか学校行ってちょうだい」と言う。その時から私、学校にまた行くようになりました。
学校行っても、『今日、帰ったら、お母さんいるかな』とずっと考えている。帰ったら、『お母さんいた』。やっと安心する。どのくらい学校へ行かなかったのか、もうわからないけど、どう言われても学校行かなかったことは忘れません。子どもだから、どんなに心配でも、眠いときは寝ます。寝たら、急に目が覚めて、お母さん見たらホッとする。お母さんもそんな私のことを見て、この子は本当に心配で心配でたまらないのだと思う。そして、ずっと泣いていたお母さんのことを覚えてます。
お母さんの再婚
その頃、みんながお母さんに「生活困っているなら、いい人あれば、再婚して」って言いました。でも、お母さんはどうしても再婚したくない。「この子のために再婚したくない。再婚相手がどういう人か分からない。お金は私が節約するから」って言う。
近所の人、なおもお母さんに言います。「離婚しても、再婚しても、恥ずかしいことじゃない。あんたのせいじゃない。仕方ないことよ。だから、生活するため、この子のため、再婚考えたらいい」って。
もう、どうすればいいの。お母さんいっぱい悩んで、私が9歳のとき、再婚しました。2番目の養父は、炭鉱の労働者。結婚しないで、ずっと一人だった人。お母さん、離婚したとき34歳。再婚したときは、36歳。このときは、同じ撫順だけど、ちょっと遠いところへ引っ越しました。
再婚するとき、私は幼くても、すごく複雑だったよ。最初のお父さんのことを憎んでいても、まだ時々は思い出して、心の中では自分のお父さんと思っていた。お父さんのしたことは憎い。でも、お父さんが私をもらって、大事に育ててくれた8年間のこと、ずうっと忘れない。だから、お母さん再婚しても、私はずっと、お父さんが付けてくれた名前と姓のまま、変わらなかった。
引っ越しして、小学校とても遠くなった。お母さんは、近くに小学校があるから、転校したらいい、と言いました。でも、私は転校しない。したくない。どうして、したくない? 自分がよくわかった。自分は日本人の子。そのことをここの学校のみんな知っている。でも、それはもういいの。転校したら、また向こうでも知られる。それはいかん。拡がることはしたくない。それで、転校したくないと。最後にはお母さん「もういいわ。自分が好きにしたらいい」って。
はじめは家から学校への道がわからない。お母さんが私送って行く。片道で一時間半くらいかかる。途中に高い階段がある。お母さんは、その階段の上に座って、私をずっと見ている。私は学校までまっすぐの道を行って、左に曲がる。私が見えなくなると、お母さんは帰る。私は走って走って行く。段々と道がわかってきたら、お母さんは送らなくなった。その小学校には、そうやって4年生の終わりまで1年半くらい通った。 (下巻に続く)
ききがきすと 鶴岡 香代
posted by ききがきすと at 13:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | |