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2017年05月07日

囲碁から広がる光

かたりりびと:大町岑生(おおまちみねお)さん

ききがきすと:柳瀬晶子


姉のおかげで高校へ


oo1.jpg私は昭和十二年、中国の天津で生まれて、五歳のときに戦争で引き上げてきました。帰国後も空襲で家が丸焼けになって、疎開もしたり、苦しい時代を生きてきました。

八人兄弟の二人目で長男です。

やがて高校に入って、大学に行こうという思いがあったんですけど、家計が苦しいので、高校に行く事すらできない状況でした。

姉が中学を卒業して、いわゆる女工として働きはじめました。当時は集団就職といって、地域とか学校ぐるみでトラックとか列車に乗って、遠い岐阜県の大垣の紡績工場に行きました。

親友三人とのお別れ会での姉の涙が忘れられません。私は姉が働いてくれたおかげで、三池工業高校電気科へ奨学金で行けることになったのです。

私は高校を卒業しましたが、こんどは妹を高校に行かせられなくて、やはり中学まででした。

私は兄弟の中では成績が良くて、学校でもトップクラスで、それで高校に行きたいというのがあったんです。高校を卒業して、次は大学を目指したかったんです。

ところが、引き揚げてきたときには兄弟が四人だったのが、帰国して四人増えて、八人兄弟になったのです。家計はそれはもう大変で、大学なんてとてもじゃないけど行けませんでした。

学校に山崎という親友がいまして、彼も私も大学に行きたいけど、学費が出せないから行けない。せめて大学を受験して、合格したという満足感でがまんしようと思ったのです。受かっても大学には行かないということで受験しました。二人とも熊本大学に合格したんですよ。

最初から行かないことが前提でしたからね。それで就職したわけですね。


就職して、実家に援助


高校卒業後、北九州の八幡製鉄で働きはじめました。初任給は封を開けず、そのまま全額を親に送金しました。その後も月給の半分の仕送りを毎月続けました。

働いてみると学歴の差が歴然とあって、愕然としました。これは学校に行かなきゃだめだと思って、入社後一年目に「九州工業大学」の夜学を受験して合格しました。昼間は働いて、二部制の夜学に通ったのです。

ところが、入社後の学歴は認めないという厳しい時代。三年で短期大学の資格は取れたんですけど、四年制の資格を取りたくて、いったん短期大学を二年で辞めて、四年制を受験したんです。そうしたら落ちてしまって、夢がついえてしまいました。悔しい思いを胸に抱えて聴講生の資格で働きながら、二年間授業を受けました。

二十二歳か、二十三歳のころ、中学二年生の弟をみてくれと実家に頼まれました。当時私は独身寮に住んでいたんですが、弟の面倒みるため、家賃の安い会社の独身寮を出なくてはいけなくなってしまい、部屋を借りました。

弟はやっぱり寂しくなって、実家に帰りたいと言い出しました。それまでにも、妹が弟一人では大変だろうということで、手伝いにきてくれました。けれど、本人が高校進学は地元にしたいということなんです。

私は学校の進路相談にも保護者として行きましたが、弟は成績が悪いんですよ。私が勧める学校には行けないので、実家に戻って地元の高校に行くことになりました。


電車で運命の出会い


oo2.jpgちょうどそのころ、通勤電車で会社の事務員の女性と会うようになって、そんな苦しかった事情を聞いてくれました。彼女は私の状況を理解してくれる協力者でした。

当時、私は実家への仕送りを続けていましたが、それだけでは足りません。もし自分が結婚したら、女房の稼ぎの分を仕送りに回せるという考えもありました。そんな都合のいいこと理解してくれるはずはないと思っていましたところ、彼女に相談してみたら、事情を理解し、快諾してくれ、結婚することになりました。

そこで、親に紹介に行ったところ、親も兄弟七人もみんなが唖然として、白い眼で見るわけです。大事な稼ぎ手、一家の大黒柱と頼りにしていた長男の私が結婚してしまうというので、反対されてしまいました。

仕方なく一応紹介だけして戻ってきました。そうしたら、親が八幡製鉄の人事部長に「二人を別れさせてほしい」と手紙まで送って、私は人事部長に、どういうことなんだと呼び出されました。上司からも説得されましたが、結婚の意思は固いということで、結婚を決めました。

式の日取りを決めて、両親は来なくてもいいから、二人で神社で式を挙げることのお知らせだけをしました。そして、二人だけで神社で写真を撮ったりしようと思っていたところ、親がきたのです。びっくりしました。親が来たので、お嫁さんの方の親にもきちんとご挨拶が必要だということと、仲人さんを立てようということにもなって、ばたばたでした。

仲人さんになって下さった方に急きょお願いすると、事情を理解して引き受けて下さいました。そしてなんとか二日後に、両親四人と私たちと仲人さんの八人で式を挙げました。


仕送りは続く


結婚をした当初の部屋が狭かったので、十二月に大きいアパートに引っ越しましたが、翌年の二月に火災に遭ってしまいました。雪の降る強風の朝、洗濯しているときで、私が第一発見者でした。

消防車が来ても、火元は消さないで、消火活動は周りに火が移らないことに注力するんですね。私たちの部屋は炎の中。私は女房の貴重品や大事なものを取りに煙の中を入っていきました。しかし、後ろから女房に引っ張られてとどまりました。そこでもし、入ってしまっていたら、命はなかったと後で思いました。女房に命を救ってもらったのです。

火災の後は、服も靴も全部燃えてしまって出勤できないので、いろんな人に助けていただきました。物をいただいたり、義援金を会社が募ってくれたりで、三日後には出社できました。

新婚はこんな感じで始まって、物もなにもなくなって、またゼロからのスタートでした。

そんな中でも、実家がやはり気になっていました。反対を押し切って結婚したものですから、「結婚したら嫁さんにぞっこんで、岑生は家のことを忘れた」と思われたくないという気持ちもあって、妻の給料そのままを送金し続けていました。

新婚であり火災にもあって、自分たちのものを揃えたいにもかかわらず、仕送りを続けました。でも、やはり私たちもぎりぎりだったので、途中仕送りが途絶えてしまうときもあったんです。

そのとき親父がわざわざ来て「なんとか仕送りを続けてほしい」と頼まれました。「通帳を見せてみろ」と言われ、通帳を見せたら、どうにもできないことがわかって帰っていきました。

親父は働けるのに、仕事をしても長続きしませんでした。南京では警察として働いていたので、その恩給があったのですが、子どもが八人もいたので生活は苦しかったのです。

私が大阪に転勤になったときに、働かない両親に就職を世話してあげました。母には有馬のほうのお金持ちのお手伝いさん。父には和歌山のつばき温泉。しかし、働いても半年しか続きませんでした。


今思うとくやしい・・・


oo3.jpg女房は五歳上なんです。結婚を反対されたのはそんなこともあったんですね。私が二十四歳で結婚したので、彼女は二十九歳。そういう年齢差もあって、家がこんなに大変なのに、お前は何を狂ったのかと言われました。だけど、私は家のことは忘れてないわけですよね。

どうして、寮に入って三年後の二十二歳の頃に、寮を出てまで弟を引き取って面倒みようとしたのか・・・。

今回、聞き書きをしていただくということで、自分なりにメモして自分の歴史を紐解いていきました。そうしたら重大なことに気が付いたのです。

親父がいわゆるDV、家庭内暴力で悲惨だったのです。子どもたちが食事していればそれをひっくり返したり、なげつけたり大変でした。母は恐怖にいつも震えて、死のうともしましたが、子どもたちのために生きなくてはいけない、そんな状況でした。

そんな母をいつも見ていて、母を助けなければと思っていました。そういうふうに幼い心が固まってしまった。母が言うことはどんなことでもしなくてはいけないと思った。だから、無理してでも平気で、自分のことより、優先してね。ふつうは断って、自分の将来のことをまず考えますね。育てられないくらい子どもを産んだ親の責任ですから。

それに気付かなかったことが、今思うと悔しくてしようがないと思いました。書いていて自分なりに涙がでてきました。

大阪にきて、両親に仕事を紹介した後にも、できる範囲で仕送りはしていたのです。しかしあるとき、両親が創価学会に入っていることが分かりました。活動の一つとして献金もあって、母は熱心に活動していたのです。

苦労して出したお金がそっちに回っているのかと悲しくなり、それからは仕送りするのはやめました。女房は仕送りについては何も言わずに我慢してくれて、生活のためお金が足りないと、女房の実家に助けてもらったりしました。僕はそのときはそれを知らなくて、あとで話してくれました。

しかし、兄弟は僕以外は創価学会に入ってしまい、両親の亡くなった後の家と土地の遺産相続で、意見の相違がありました。自分が身を削ってしていた仕送りに、理解と感謝がないことが分かり、非常に残念な思いがありました。

妹が中学を卒業して働きながら夜学の高校に通っていたころ、勉強がわからないということで、私は通信教育として毎日のように添削をしてあげました。私は九州工大の夜学に通いながら自分の勉強もして、添削もしてという毎日だったのです。

そんなこともしてあげたのに、こんな関係になってしまうなんて情けないです。創価学会に入っていないことも原因にされました。やはり両親の教育が悪かったんでしょうね

こんな実家の家族とのやるせない出来事や思いがあった私を、囲碁が救ってくれました。囲碁が浄化してリフレッシュさせてくれたのです。その話はこれからしますね。


第三の青春が始まった!


oo4.jpg福岡から大阪に転勤、同期入社第一号で係長に昇進し、八年間、夢中で働いていました。

それから三十四歳の時についに東京に転勤してきました。私の人生はそこから始まりました。第三の青春のはじまりです。

東京では仕事関係でいろんな人と知り合えるようになって、その中で三井物産の木村さんという方に出会いました。その方は囲碁が強い師範の方で、親しくなって教えてもらうようになりました。

そこから今の囲碁の人生が始まりました。それが四十五歳でした。異業種交流会木村教室を立ち上げて、木村師範に囲碁を習ったことで人生が開けました。また、触れ合い囲碁の安田敏春九段を紹介していただきました。

東京の本社から定年になる前に出向して、その出向先から再出向して働きました。最初の出向先はとてもよかったんです、私も思い存分働きました。

次の出向先では、お客様から会社にいろんなクレームがたくさんありました。そこで、品質管理、納期管理の改善を社長に提案したら、首になってしまいました。ちょうどそれが五十八歳でした。

退職して、これから先はどういう人生を描いていこうか考えました。

タイミングよく、東京都が主催のシニアボランティア研修会があって、参加することにしました。世の中にはどういうボランティアの活動があるのかとか、ボランティアの仕組みを勉強し、ボランティアの体験もあって、二年くらい勉強しました。

いよいよ六十歳になってようやくそのときがきました。

ちょうど江東区にボランティア連絡会というのが発足した年で、私もそこに参加しました。会場にはボランティアに興味のある方々が来ていて、四十名くらいいました。それぞれどんなボランティアをしていきたいかを発表するのですが、賛同する人はグループを作っていくわけです。

私は「子どもに囲碁を教えたい」ということを提案して、「これに賛同する方は手を挙げてください」と言ったら、四名が手を挙げてくれました。

そこから「ホタルの碁」という団体を作って活動をはじめました。


「ホタルの碁」スタート!


oo5.jpg近隣の小学校や、幼稚園、保育園に囲碁を教えに行くというボランティア活動のはじまりです。最初はボランティアセンターの部屋を借りて、そこで開催しました。しかし、参加者は、最初はわりと来たのですが、だんだん減ってきました。

やはり待っているのはなく、ニーズのあるところに教えに行くのが大事だということになり、幼稚園や保育園、児童館、小学校に行って教えるということにしました。

「ホタルの碁」という名前は、そこに行って教える、飛んでいってあかりを灯すという意味でつけました。

最高では八つの学校に教えに行って大会もやりました。

私たちのグループで広げるだけでは、マンパワーが知れているので、江東区全体が学校単位で囲碁大会をやってくれるように、区長とか関連団体に呼びかけましたが、区はその提案に乗ってくれません。

江東区には加藤正夫という名誉九段という囲碁の名人がいて、その方のご協力で「こども囲碁大会」といって、参加したい子どもが申し込んで対戦するという催しがあるのです。それが十年目で、今年が十一年目。

私が提案したのは、区内の学校単位で対戦していく「江東区小学校対抗囲碁交流大会」です。学校ぐるみの取り組みには地域の人も応援したくなって、囲碁を地域の人が学校に教えにきてくれることになる。学校のみならず地域ぐるみで盛り上がって、高齢者とこどもたちのつながりもでき、生きがいにもなる。囲碁のまち江東区になっていくというのが夢で、その提案なのです。

そこで区の協働事業を提案できるシステムがあったので、そこに提案したのですが、採択されませんでした。では採択された事業はどんなものがあるのかと見てみたら、僕の提案も引けをとらないくらいいいのになぜだろうと。

提案しても採択されないのなら審査員になってみようと、ちょうど募集があったので応募しましたが、残念ながら落ちてしまいました。

そうやって続けてきているのです。

私はいま、幼稚園に教えに行くことに一番情熱が盛り上がっています。何も知らない子どもたちに、だけど一つ一つが新しくて、教えたことが芽になっていく。小学生より感受性が強いからどんどん吸収していきます。


六十歳過ぎて新しい仕事が


oo6.jpg私は六十歳からこのボランティアをはじめたのですが、同時に、六十歳になって失業保険をもらうためにハローワークに通って、仕事の紹介を受けました。

電検三種といって、私の高校でも一、二名しか受からないような難しい資格ですが、高校三年生のときに取っていたので、その資格のおかげで、仕事を紹介してもらいました。

行くつもりがなくて面接と試験を受けたのですが、採用が決まりました。では、同じ働くのならもっといい条件はないかと、それから積極的に探しました。比較検討して絞り込んで、行ってみた会社がとてもよかったので、その会社で七十六歳まで働くことになりました。

出先の仕事ではやりがいを感じていましたが、だんだんコンピューターを使っていく仕事になっていくので、若い人には追いつけなくなって、ストレスを感じながら働いていました。

女房からは「そんなに忙しいのならボランティアを辞めなさい」と言われましたが、「このボランティアがあるからこそ、仕事での辛さも乗り越えていけるんだ。もし、ボランティアを辞めるのなら仕事も辞めるよ」と言いました。

そして、会社からも毎年毎年、契約社員の更新を頼まれました。

私の人生は実家の貧乏があって苦労しましたが、東京にきてから人との出会いがあって、新たな人生が花開いたという感じです。

来年で八十歳になります。三月二十五日は電気の日で、はじめて日本が電気を灯した日ですね、電気に関するいろんな催しがあります。その電気の日に、八十歳になって電気事業に貢献した人を表彰する卒寿功労賞というのがあります。私は七十歳から七十六歳まで勤めた会社に推薦されまして、経歴書を出しました。だから三月二十五日はきっと表彰されます。


次の目標はオリンピック


私の次のターゲットはオリンピックです。一人で思っていてもだめなので、宣言することにしました。たまたまボランティアセンターのパンフレットを更新するというので、次なる計画はオリンピックで観光客に囲碁を教える文化交流をすることを載せました。

そのためにボランティアセンターや連絡協議会に協力をお願いしました。区会議員の川北議員がいるのですが、その活動報告を兼ねた忘年会に行ってきました。区長や東京都の議員も来ていたので話しました。東京オリンピックの際には、日本の伝統文化を紹介するコーナーをぜひ設営してほしい。そこで私は観光客に囲碁を教えたいと。

あとは、オリンピックの際に囲碁の会場が設営されても、いざ外国の方に教えようとしたときに話せないのでは困るということで、英語の勉強を始めました。

開催まであと二年あるので、それまでには話せるようになるのではと思っています。今も待ち時間に英会話の勉強をしていました。目下の目標はそれです。

妻が元気でいてくれて、私もそういう活動ができるような状況があるのが一番です。それを心配しながらでは、活動に打ち込めないですからね。


体験することが大事


oo7.jpg小学校の囲碁のボランティアでは年度の終わりのときに、子どもたちに感想文を書いてもらっています。自分たちの励みにもなります。

幼稚園や保育園では保護者の方にアンケートを書いてもらうのですが、保護者の一人から難しいので簡単に教えてほしいと意見がありました。

囲碁の教え方には二通りあります。囲ったら取れるというのと、最後は陣地の広い方が勝ちということで、陣地の広い方が勝ちというところに到着するためには、いろんな手法があります。

囲ったら取れるというのは簡単なので、それだけでいいのではという意見もありました。でも、せっかく囲碁を習って、幼稚園を卒業したときに「囲ったらとれる」というのだけでは、本当の囲碁を知っているとは言えません。もったいない。

どうしたらいいかと思って、保護者にアンケートをとりました。非常に楽しんでやっていて、「囲ったらとっただけでいい」という考えの方はほとんどいませんでした。陣地を広くとるというやり方は、守るための戦い方で、方法や作戦が広がって、ものすごくおもしろいのです。

幼稚園には六十名の園児がいて、「ホタルの碁」の仲間七人で教えていています。幼稚園のこどもたちは対局が楽しいのです。わからないなりに、対局すればわかってきます。三回戦では、最後には勝った子どもたちがみんなの前で対戦します。静かながら必死で、真剣な対戦を幼稚園児の皆で見ます。幼稚園で教えて今年で七年目です。

小学校で囲碁を教えていると、上手い子どもがいるんです。どこかで習ったのかと聞くと、大町先生に習ったと言うんです。嬉しいですね。幼稚園には一時間を年に三回教えに行っているんです。その三回だけですが、やりがいがあって楽しいです。

小学校に教えに行っているのは、土曜日に学校がお休みで、地域に開放しているときです。地域の方が先生になって、こどもたちに料理や太鼓、英語や中国語、サッカーなどを教えている「ウィークエンドスクール」というのが、年に十回あります。

もう一つ、放課後の一時間、学童保育でも教えています。教えたときは必ず宿題を出します。年度末には出席と成績と感想を書いて、級位を決めて、修了式に級位認定証をあげます。子どもたちの記念にもなりますし、思い出にもなればいいと思っています。

覚えてどんどんレベルが上がってくる子どもがいますが、その子に合わせて教えていると、ほかの子がついてこられなくなるので、常に同じレベルで教えています。一年目に教えて、二年目、三年目にも来る子もいれば来ない子もいます。

囲碁を理解して、もの足りなくなればこちらの狙い通りです。興味を次の興味に移してもらえればいいのです。

世の中には学ぶべきおもしろいことはたくさんありますから、囲碁はその中の一つでいいんです。将来大きくなったときに、また囲碁をやりたくなったときにやればいい。子どもの時にちょっと知識が入っているととっつきやすいんです。大人になって初めてだと考え込んでしまって、次の手が進まない、子どもは直感でぱっとできます。

要するに体験させることが大事なんです。勝ったりすると自分の自信にもつながります。また、負けて泣く子もいます。みんなの前で泣いてしまったら、ほめてあげるんです。

「この子は強くなる、悔しい気持ちが大事、こういう気持ちで打たないとだめなんだよ」とね。



あとがき


大町さんは、長身でおしゃれでダンディーで、七十九歳とは思えないほど若々しい印象の方です。落ち着いて丁寧に話してくださり、とてもエレガントな印象でした。

ご実家のことではご苦労が続いていらっしゃいましたが、それを乗り越えた強さと優しさがお話の中でずっと感じられました。

囲碁を通してのボランティアで与えること、貢献することをされています。子どもたちに囲碁を通して何を伝えていきたいかという思い、オリンピックや将来の夢を語る大町さんは輝いています。未来に輝く子ともだちのために、子どもたちの持っている力を信頼してじっくりその芽を育てていく取り組みは、大町さんの心をも豊かにしていくのだと思いました。

また、大町さんの奥様がずっと大町さんのことを支えていらっしゃることに、偉大さを感じました。

大町さんのチャレンジ精神と情熱は、聞いている私も、何か力が湧いてくるような気持になりました。ありがとうございました。


ききがきすと:柳瀬晶子




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2017年05月04日

高知の街をハイカラに生きる(下)

  かたりびと:鈴木章弘(あきひろ)さん
  ききがきすと:鶴岡香代

高知でのダンス三昧の日々


 su1.jpg『ユリヤ』が柳町に移った、その年の春に僕は明治大学を卒業して、高知へ帰ってきました。高知で踊ってましたよ。当時は高知にもダンスホールがあって、最初は上町の『山本ダンスホール』に通ったなぁ。これは、僕の姉が行ってたんよ。次は『中の橋ダンスホール』だったかな。それから得月楼のちょっと裏手の東の方、浦戸町に『ガーデン』っていうダンスホールがあって、もう、そこへは夜な夜な通いました。


けどね、高知のダンスはダサいと思いました。東京はね、例えば、五反田の『カサブランカ』とか、新橋の・・『フロリダ』だったかな、きれいなダンサーがいっぱいいたんです。しかも、生バンドでダンスが踊れたんですよ。


そのころ、ちょうどアメリカのフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を観たんです。いわゆるタップダンサーで、「トップハット」とか、「キャリオカ」とか、いろんな映画に出た人です。それで今度は、タップダンスを自己流で踏み始めたんですよ。まぁ、バカなことしたもんよね。高知には、そんな就職先はないし、それに、タップを教えるほどうまくはなかったし。


だけど、ジャズとリズムと、そして足を踏み鳴らして踊る、そのハーモニーが好きでした。こんな格好のいい、おしゃれな世界はないと思いました。今でも、僕はそういう世界に憧れています。もう80歳を超えて、とてもダンスはできなくなったけど。・・まぁ、社交ダンスなら、ちょっとしたジルバぐらいはできるかなぁ。うーん、もう複雑なステップはできないね。


何にしろ、好きなものがあるっていうのは、ありがたいですよ。学究肌の人は、研究とかね、頭をつかう。けど、僕らみたいなぼんくらは、要するに手足を動かして、耳から入る音楽、ジャズを聴いて、あるいはタンゴの調べを聴いて、かっこよく踊るというのが、そのころの青年たちの、不良の遊びだった。今の子は、どうしているのかなぁ。


要するに、このドラ息子ときたら高知に帰ってからも、ダンスが高じてずっとキャバレーに入れ込んでいたってわけです。家業の『ユリヤ』がうまくいっていることをいいことにね。


その当時ちゃんとしたバンドがいて、ダンスが踊れるのはキャバレー。『椿』とか『リラ』、『ABC』とかね。そういうところに限られていました。そこへ毎晩通ったんです。やっぱりキャバレーは高いわね。それに、一人ではよう行かんから、また不良の友達を連れて行くわけですよ。いいかっこしてね。


まぁ、随分、はちゃめちゃ遊んだよ、あの頃は。今考えると、僕しか、あぁいう遊びはできなかったろうね。一応、僕のダンスは東京じこみだから、キャバレーでも、あいつはダンスはうまいなと。そらそうや、おまえらみたいな田舎もんとちゃうぞ、ってなもんよね。


ホームバー『フランソワ』の誕生


どうも僕には喫茶店での仕事が性に合わなくてね。ぶらぶらしとったですよ。そのうちに今の『フランソワ』の土地を両親が買いました。そこにあったバラックを壊して建て直し、ここで住まいをしようと考えたんです。


まぁ、2階、3階は住まいでもいいけど、1階は貸店舗にしようかとなって、けんど、1階だけ貸すのはいかんなぁ、と言い始めた。それなら、僕がバーをやると言うと、親父がなんと言ったと思う?「バーなんて、止めておけ。そんなもの、商売にならん。ウナギ屋やれ」言うたんですよ。「ちょっと待って」と。


まぁね、ウナギを焼くぐらいは俺も、やってやれないことはない、と思いましたよ。親父はウナギが好きだったからね。けど、「あのニョロニョロ動くウナギをね、あれの腹を裂くなんて、そんなむごいことは俺はできん」って言ったんです。それで、「親父、やるかえ」って返すと、親父もなにも言わなかった。それで、ウナギ屋は終わりです。


親父やお袋から、キャバレーとかバーへ飲みに行かんようにとさんざん説教されて、もうしょうがないから、自分でバーをつくる、となったわけです。それが『フランソワ』の始まりですよ。外へ飲みに行かんように、ホームバーにした・・・、バカなことよねぇ。それが昭和40年のことです。


su5.jpgしかし、最初の頃は、まったく儲けなかったんです。友達はたくさん来るけど、僕のことだから全部貸しです。俗に言う貸倒れ。そのはずよ。みな、昼間は競輪競馬へ行ってやね、すっからかんで飲みに来るんだから、金はないよね。そんなのに貸して、何百万も貸倒れになりました。


フランソワの前に立つ鈴木さん →


また、当時のことなら、支払いは盆暮れにまとめて。そういう昔からの習慣がありましたからね。県庁の役人とかの公務員や商店街の旦那衆とかは、盆暮れが多かったんです。しかし、盆暮れにでも払ってくれる人はまだまし。さすがの僕も、ちょっと待てよ、これじゃいかんとなった。これは、現金商売にせんと、どうやってもいかんぞと。


だから、料金がもっと安くなるようにしました。舶来酒ばかりでなく、国産酒も入れたりね。もう現金だけで商売しようと考えたわけです。それでなんとか、『フランソワ』がもったわけですよ。そうなるまでに10年くらいはかかりましたね。


僕の自慢はね、貯金がないこと。けど、なんとか日銭は稼げる。なんとか食っていけるわけ。今、これで食っているからね。まぁ、赤字にならんように、現金商売で。それが、一つの転機だったね。これは、やっぱり商売の鉄則だろうね。


『フランソワ』でカクテルをつくる


お袋に「章弘、おまえ、これが帳面やけど、お客さん結構来てるけど、全然お金がないよ。仕入れのお金もない」と言われて、それなら、よし、これ売ろうかと思ったこともあります。けんど、さぁ、売ってどうするということもない。そしたらね、東京だけじゃなく京都でも随分遊んでいた、その僕の胸に漠々とでも浮かんだのは、カクテルだったんです。


東京から帰って、『ユリヤ』を嫌々でも手伝っていた9年の間に、よく京都で遊びました。姉が京都に嫁いでいたので、ゆっくり3年ほどは遊んだかなぁ。京都に『サンボア』というカクテルの店があって、寺町にその本家があるんですが、そこの中川古鹿(ころく)さんというおじいちゃんに本当にお世話になりました。とってもおしゃれな方でね、動作が実にきれいなんです。その古鹿さんに憧れて、その京都『サンボア』へ夜な夜な通うことになり、それで、弟子入りしたいとまで思いました。でも、そこは息子が6人、男ばかりいて、結局、無理だったけどね。


『サンボア』本家は長男が跡を継いで、そして、次男、三男は喫茶と、酒屋をやっていました。四男の志郎と僕とは同い年で、その志郎が祇園でやっていた店も成功して、今は孫の時代になっているはずです。それで、京都には『サンボア』が3軒あるんですよ。本家の寺町と祇園、もう一軒は六男の清が始めた木屋町。今でも交際が続いています。


ちょうど祇園表通りからひとつ南に下がったところに、今でも八坂中学という学校があります。その前辺りからお茶屋街がずーっとあって、そのお茶屋の一角に『祇園サンボア』があるんです。これは山口瞳が本に書いてもいますよ。


それがすこぶる美しい名文で、たいへんな評判を呼び、今や京都を代表するバーになっているんです。そこへ行くと、お茶屋街ですから、現役の芸子さんなんかがちょいちょいお座敷帰りにお客さんと飲みに来てますよ。あぁ、京都っていいなって思うね。


僕は、祇園は敷居が高くて入れなかったから、よく上七軒とかいったなぁ。もう一つランクが下のお茶屋街が上七軒と他にもあったけど、どこやったかな。そんなところで、お茶屋遊びらしいこともやってましたね。


東京とか京都で不良している間に、僕はこんなふうにカクテルバーへ出入りして、こんなハイカラな世界があるだろうかと思いました。普通のバーは、サントリーのウィスキーならそれを出すだけ。だけど、カクテルは、酒と酒、あるいは酒とほかの飲み物をベースに調和させる。そうして新たなものを生み出すものなんです。


また、高知にも、そういう先駆者がいましたよ。高井久五郎(きゅうごろう)という人で、戦前大阪のキャバレーでバーテンダーをやっていたと聞いています。この人は愛媛生まれだったけれども、縁があって高知へ来て、野村デパートの食堂主任なんかやっていたそうです。


戦後はね、今の京町の野村証券のところ、あそこに『シルバースター』というキャバレー第一号ができて、そこのマネージャーをしながら、バーテンダーもしていました。僕らの大先輩です。この人がやがて独立して、『555(スリーファイブ)』を始めました。この店は、今の中種の葉山、あそこの裏にある路地にありました。すばらしいバーでしたよ。


こういう商売は、おしゃれじゃないと駄目です。清潔感はもちろん必要だけれど、それだけではいけない。僕がいくらダンスが好きでも、ここで踊るわけにはいきません。せめて、シェーカー振ったり、お話しする中でかっこよく見せる。


格好は、とても大事なことです。この世界で一流バーテンダーと言われる人は、みなおしゃれです。本当におしゃれ。おいしくつくるということは、おしゃれに振るということとイコールでなくちゃいけない。いわゆる、あちゃこちゃ、あっちへ走り、こっちへ走りすると、俗に言う「あいつは野暮だなぁ」ってことで、野暮ではできません。


おしゃれも、本物を知る第一級のおしゃれでないとね。僕が長年やってきたバーテンダーのスタイル。これは、世界共通です。ほら、外国のね、パリやロンドン、ニューヨークのバーマンは、本当におしゃれですよ。かっこいいんです。


カクテル西洋事情


ヨーロッバでは、カクテルは街中のバーではなくてね、ホテルバーなんです。日本とは違います。アメリカンバーという言葉があって、ヨーロッパでは、カクテルバーのことをこう呼ぶんです。


イギリスのアッパークラス、上流階級は、訪問客があったら、午後にシェリー酒を出すという習慣があったんですよ。まぁ、言わば、貴族の習わしですね。お茶とケーキを出すか、それに合わせて殿方にはシェリー酒を出す。それが高じて、カクテルも出すようになる。


だから、カクテルタイムとか、カクテルアワーというのは、まだ明るいうち、いわゆる午後から夜にかけてであり、カクテルはその時間帯に供する飲み物だったんです。


英国やフランス、パリでね、ホテルバーでカクテルを飲むというのは、その頃の有産階級の一つの象徴でしたよ。バーでカクテルを飲む、非常に贅沢な習慣だったわけで、それは、いまだにありますね。まぁ、ロンドンは別として、今でもパリの街中にカクテルバーは非常に少ないんです。あそこはワインバーか、あるいはホテルバーのどちらかでカクテルを飲む、そういうお国柄なんです。

アメリカ映画とか英国映画、フランス映画、イタリア映画などには、そういう酒を飲むシーンがふんだんに出てきて、僕は大いに感化されました。その一番いい例がアメリカの有名な「カサブランカ」という映画です。パリから亡命したアメリカ人、それがカサブランカの街でアメリカンバーをつくるんですよ。アメリカンバーというのは、カクテルバーのことです。そこで飲むのが、シャンパンでありワインであり、カクテルなんです。映画でそういう世界を観たんです。


それから、アメリカ映画でもう一つ、「花嫁の父」という映画がありました。その中で家の庭で娘の結婚式の披露宴をする、ガーデンパーティの場面がありました。それを観たのは高校1年くらいのときだったかな。そのときに、マティーニが出てきたんです。「マティーニには、まだ早いよ」というせりふがあって、なぜか僕はそういう文化に魅せられたんです。”It’s too early to drink a martini”「マティーニには、まだ早いよ」という、その謎が解けず、ずっと心に残りました。


なぜマティーニには早いよ、と言ったのか。マティーニというのは、いわゆるカクテルタイムで飲むには違いないけれど、非常にアルコール度数が強いんです。だから、早いうちに飲むと酔いつぶれるよという意味を兼ねてる・・。おそらくね。


これがいまでいう、アペリティーフ(aperitif)、食前酒です。マティーニは、食前酒ではあるけれど、ものすごく強い。ヤンキーとか西洋人は胃袋が丈夫だからいいけれど、日本人はあれをすきっ腹でやると、もう飯が食えなくなる。そういうシロモノ。人気はある。永遠のカクテルです。


マティーニで有名なのが、もう一つ。チャーチル・マティーニです。マティーニというのはね、ジンとベルモットだけ、それをミキシンググラスでこうしてつくるんです。チャーチル・マティーニというのはね、ジンだけ入れて、ベルモットをちらっと横目で見るだけで、ジン・マティーニをつくる。これがチャーチル・マティーニ。それだけ彼はドライが好きだったってことですよ。


一番のお宝、英国のカクテル・レシピ本


su6.jpgもう一つ、007マティーニ、これもまた面白い。有名な007の作者というのはね、日本へも何度も来たことがある、飲んべえのイアン・フレミングで、この作家はマティーニが大好きなんです。007マティーニ、これはスパイを意味します。英国人の地酒であるジンではなく、ウォッカをつかう、ウォッカ・マティーニなんです。また、マティーニいうと全部ステアー(*かきまぜる)なんですが、それをステアーでなくて、シェイクするんです。


けどね、それには訳がある。昔のロンドンカクテルの文献を見てみると、マティーニはステアーではないですね。1930年のサヴォイのカクテルブックにはシェイクとあるんです。ドライマティーニは、全部シェイクなんです。


だから、その007の作者、イアン・フレミングは、ソ連側のスパイというのでドライ・ジンをウォッカに替え、しかも、シェイクというので、非常に新鮮に映ったんです。けれど、実は、時代は繰り返すで、戦前は、マティーニはステアーでなくて、全部シェイクだったんです。その文献がね、これですよ。


『ザ サヴォイ カクテル ブック』って本でね、これは、たいへんな貴重品です。僕の一番のお宝なんです。ザ・サヴォイというのは、ロンドン・サヴォイ・ホテルのことで、僕はここへ2回行っています。


1930年ということは昭和5年ですね。昭和5年に、この本が刊行されたんですよ。そのときのマティーニは、・・(本に目を通しながら)・・いいですか、マティーニ(ドライ)は、フレンチバムース・・これはベルモットのことです。英語読みしたらバムースになるんですね。フレンチバムース1/3に、ドライジン2/3。これを、Shake well と書いてある。つまり、シェイクなんです。しかし、今はね、マティーニいうと全部ステアーなんですよ。


シェイクとステアーの違いは、シェイクの場合は、カクテル・シェイカーへ氷入れてシェイクしますわね。シェイクというのは、揺るがすということです。これは何を意味しているかというと、空気を入れるということです。


ステアーというのは、逆に空気を入れない。液体だけの澄み切ったもので供するためにステアーするんです。シェイクは、酸素を入れる。そこに違いがある。大きな違いです。これが今から80数年前に、もうすでにシェイクだったんですよ。マティーニは全部シェイクで、ステアーではなかったんですよ。


例えば、(本を見ながら)マンハッタンなんかね、これもシェイクでしょう。この頃は、全部シェイクなんですよ。ここに、ステアーが出ている。マンハッタン・カクテル・スウィート。ステアー、ウェル。これですね。ステアー。マンハッタンは1930年代にすでにステアーやっていた。


カクテルの酒を替えると、カクテル名が変わってくるんです。これは、ライオウ・カナディアン・クラブという。ライはライ・ウィスキーのこと。ライ麦のウィスキー。あるいは、カナディアン・クラブ。カナディアンというのは、ライ・ウィスキーのこと。こういうレシピがちゃんと出ている。


また、この本は石版刷りですよ。石へ絵をかいて色付けして、それを印刷に用いたものです。非常に貴重な文献ですよ。面白いでしょう。これが、サヴォイで、いまだに現存しています。ロンドンへ行く機会があれば、ぜひとも、サヴォイホテルへ寄ることを勧めますよ。


こちらの本はね、カフェ・ロワイヤル。これは、ピカデリーサーカスの近所にある大きなレストランです。バーレストラン。このカクテル文献も素晴らしいですよ。


ここに面白いことを書いてある。これ、ターリングという、その当時のバーテンダーが書いた本なんですよ。W・J・ターリング、カフェ・ロワイヤル。これがね、1937年。ここにコロネーションってあるでしょう。いわゆる戴冠式のことですよ。今のエリザベス女王のお父様、つまり、ジョージ6世の戴冠式の年に発行したカクテルブックということです。


これには、その当時の風俗画が描かれています。例えば、これはいわゆるレビューですよね。こういう世界とカクテルというのは、歓楽の世界感と交わるところにある。つまり、こういう世界だったんですよね、80年前はね。面白いでしょう。


さらに、面白いことにね、ここ見てください。『ツー ブラザー ジョセフ・ベッツ』。ブラザーというのは兄弟だけど、まぁ言わば弟分、彼の弟子だったんですね。『ウィズ エターナル ベストウィッシュ、フロム オーサー ターリング』。作家からベストウィッシュを持って君に贈ると、直筆で書いていますよね。1946年。これは、昭和21年ですよ。


カフェ・ロワイヤル。これはフランス語読みですよね。向こうでも、フランス語読みがハイカラだった。人品卑しからぬジェントルマンが出入りするバーレストラン。これも、ロンドンです。

この2冊を僕は、神田の古本屋で見つけました。いくらで買ったか忘れたけれど、結構高かったですよ。ここに神田・田村とあるでしょう。神田の神保町にある田村という古本屋。今でも神田にあると思いますよ。


『フランソワ』の灯りをつなぐ


今の高知にも、いいバーテンダーはたくさんいます。この頃は、女性のバーテンダーもいて、チェコのプラハの世界大会で優勝した高橋直美さん。彼女は高知で頑張り続けて、何回もチャレンジしてね、やっと栄冠を仕留めたんです。素晴らしい。今は銀座の八丁目あたりの外堀通りの『ガスライト・イヴ』というところで働いています、店長で。


やはりファッションの生まれる街といえば東京だろうけど、高知だって「しゃれもの」は結構いますよ。高知は高知らしいファッションが生まれて当然だと思います。その高知で、『フランソワ』のネオンを消さずにいきたい。その願いをかなえてくれたのは、三好誠さんです。


彼はね、広島県の福山生まれで、高知大学の学生だったんですよ。学生時代にバイトでうちに2年か3年いたかなぁ。それから、いったん就職したんだけれど、その後ちょっと体を壊して、高知へ遊びに来たんです。


su7.jpg「どうしてるんだい」と訊くと、「今は何もしてません」と言うから、「じゃ、うちを手伝ってくれ」となったわけです。それからもう20年近くになるかなぁ。


     フランソワの店内 →


僕はやっぱりね、ちっぽけな店ですけど、この『フランソワ』、大好きなんですよ。だって、僕のホームバーだもの。僕は、ここでね、文章書いたり、手紙書いたり、本読んだりするんですよ。ちょっと一杯やりながらね。


店は、昭和40年に建てた当時と、ほとんど変わっていません。窓に『フランソワ』と描いてますわね。あれは実は、金文字なんです。表から見るとわかるけどね。これは、金紙を貼っています。これは僕の自慢でね。今から25年ほど前に改装するときに、つくってもらいました。でも、改装は入り口や窓の部分だけで、基本的な部分はいっしょです。カウンターやこの棚の辺りの感じもね。50年前と変わってないんです。


あの当時は、いわゆるデコラの時代でね。つまり、材木だけでは大工賃が高くつくから、デコラを張ったんです。カウンターも全部、デコラを張っています。デコラが流行ったのは、工賃が安いわりに耐久力が強いからなんですが、これは面白くない。と言うのは、いくら年が経っても古さがでないんですよ。まったくない。


この枠なんかもデコラですよ。木材に樹脂を張っている。変わらなくていいとも言えるけど、僕は面白くない。大失敗。本物をつくりたかったからね。けどね。まあ、それも仕方ない。これも、そうした時代を象徴する一つの工材だったからね。


大好きな高知の街、生き生きと自由であれ


我ながら、僕は恵まれてるなと思いますよ。やはり、家族、特に両親を思うとね。これくらい不良のドラ息子を長い目で見てくだすった。それから、姉は姉で、またそれを承知のうえで、僕によくアドバイスする。それはそれで、ありがたい。やっぱり姉弟愛だなぁと思うんですね。


それと、今の家内はね、こんな水商売なんか、まったく向かない女です。まったく酒も飲まないし、おしゃべりもできないしね。それでもなんとかやってきてくれました。だって、ほかの仕事しろと言われても、僕にはほかの仕事はできない。


これはもう私の天職ですよ。それは今、この年になって初めて言える言葉かもわかりませんね。若いときは、そんなこと関係なく、夢中でやってたからね。


ずっと暮らしてきた、この高知の街、僕、大好きでね。でも、今の高知は、僕らみたいな不良には、ちょっと住みにくくなった気がするね。不良は良きにあらずですが、その反面、ほかにない自由を感じる。これが不良だと思っています。


したいことをする、見たいものを見て、聴きたいものを聴く。あの自由な感覚ですよ。まぁ、これから世の中がどんなに変わっていくかわかりませんが、高知には、生き生きと自由な、そういう本物の文化が根付いて欲しいね。



あ と が き


 鈴木さんは、軽く洒脱な語り口で、昔の新京橋界隈の暮らしや、青春の日々、東京や京都での経験について生き生きと聴かせてくださいました。私も同じ高知県に生まれ育った者ですが、遠くにアドバルーンを見ながら、あそこがお街と憧れた田舎の子。ハイカラな街っ子のエピソードの一つひとつを物語のように面白く聴かせていただきました。


明るい話しぶりに、戦争を挟むたいへんな時代だったことも忘れ、笑いを誘われることも度々で、こういう方が戦後の日本を楽しく、魅力的に色付けしてくださったのだと改めて思ったことです。昭和一桁生まれのモダンボーイの魅力を、少しでもお伝えできれば幸いです。


また、今回、岡内富夫さんが、この冊子の表紙にと、『フランソワ』を描いてくださいました。街のやわらかな風まで感じさせる2枚の素敵な絵に、心から感謝いたします。


なお、昔日のバーテンダーの方々については、資料の入手が難しく、確認できないまま記載させていただいた部分があることをお断り申し上げます。


ききがきすと:鶴岡香代


posted by ききがきすと at 22:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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