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家族にささげた青春時代
私は昭和12年11月11日、中国で生まれました。戦争が終わって5歳の時、福岡県へ引き揚げてきましたが、生活は苦しく厳しい時代でした。父は引き揚げ後、三池炭鉱に就職して社宅住まいでした。当時は姉、弟、妹の4人兄弟でしたが、その後4人増えて8人兄弟になりました。
私は生活のために、社宅内をリヤカーで貝を売りに回りました。中学校の修学旅行は旅費が出せず、行けなくて辛い思いをしましたが、仕方ありません。
高校に入ってからは大学へ行きたいという思いがありましたが、家庭が苦しいものだから、高校にすら行くこともむずかしかったんです。そのために、まず姉が中学を卒業した後、岐阜の大垣というところへ、紡績工場の女工として集団就職をしました。その時のお別れの会で、姉の涙が今でも忘れられません。姉のおかげで、私は高校に行けるようになりました。
後に姉は亡くなりましたが、ある社長さんに見染められて、2号さんみたいな生活をしていました。その後、そこを辞めて、お金をいただいて帰ってきました。それで土地と家を買ったので、実家のほうは生活ができるようになったのです。だから兄弟に、姉のことだけは忘れてはいけないよ、と言うのです。
親友のとの想い出
中学からの同級生で、山崎という親友がいました。お父さんは事故で亡くなり、お母さんは三池炭鉱の選炭婦として働いていて、彼の家もまた貧しくて大学へは行くことはできません。
成績が良くトップクラスだった私は、大学を目指したかったのですが、兄弟が多く貧しくて、いくことはできません。そこで山崎と一緒に大学の受験だけして、もし合格してもいかない・・・という条件で受験しました。二人とも見事に大学に合格しました。しかし、その満足感を残したままで、就職をしました。
当時は就職難で、私は就職試験の筆記試験では受かるけど、面接で何度も落ちました。先生から、面接でなにを聞かれて、何と返事しているのかと問われました。自衛隊は憲法違反かどうかという質問に、私は憲法違反だと答えていたのでした。それで、試験を3社も受けて、みな落ちてしまい、なかなか次の会社を受けられなくて、待機をしていました。
その時、八幡製鉄所を志望の友人が別の会社に合格したので、私が替え玉で、八幡製作所を受験して合格しました。その時の面接では、先生のアドバイスを受け、自衛隊の憲法違反のことは言いませんでした。これで、もし落ちたら、三池炭鉱に入る予定にしていました。
親友の山崎は三池炭鉱に就職しましたが、後に塵爆発事故がありまして約460名の犠牲者が出てしまい、彼もその中にいたのです。私がもし山崎と一緒に、三池炭鉱へ就職していたら、爆発事故に遭って、あの中にいたのか・・・と思いました。
学歴の差を感じた職場
北九州の八幡製鉄へ入社してからは、職場や待遇の面で、学歴の差を肌で感じて愕然としました。それで、九州工業大学の夜学を受験し、通い始めました。ところが、入社した後の学歴は認めない、というのです。後1年で卒業というときに、2部制大学(夜間5年)の設立を知り受験しましたが、落ちてしまい、夢は途絶えてしまいした。
その後、その悔しさを胸に抱え、聴講生の資格で2年間授業を受けました。それが22歳の時です。
当時は仕送りをしながら、会社の独身寮へ入っていました。しかし親が「中2の弟の面倒をみてくれ」といってきましたので、寮を出ていかなくてはならなくなり、アパートを探し移りました。そのうちに、弟1人では寂しいだろうと、妹まで来たんですよ。やがて弟が高校進学のころになり、進学相談にも保護者として、若い私が行きました。
妹が中学卒業後、住込みの店員をしながら夜学に通っていた時に、勉強が分からないので教えてと、手紙がきていました。それで、添削して返してあげる、通信教育が始まりました。そこ頃、私は仕事をしながら、大学の夜学へ通っていましたので、自分の勉強もしたかったのですが、妹の方を優先しました。睡眠時間も少なくて、過労状態でした。
反対されゼロからの結婚生活
実家への仕送りや兄弟の面倒をみながらの生活で、私も苦しかったんですよ。そんなとき、同じ会社の事務の女性の方と、通勤の電車で会う機会が増えるようになり、お互いの身の回りの事情を話すようになりました。私の仕送りだけでは足りないので、結婚したら女房の分がそっくり送れる、という気持ちもありました。
でもそういう条件では、プロポーズもできないと思っていたら、そのことを理解してくれて応援する、というので結婚することにしたんです。
それで、彼女を親に紹介するため実家に行きました。兄弟たちも集まりましたが、冷ややかな目で見て、唖然としていました。皆は、私を将来の大黒柱と思っていたんですね。私が24歳、女房は29歳。そういう年齢差もあって、反対されました。
その後、父親が会社の人事部長に、「この結婚は認めない、別れさせてくれ」と手紙を書いたんです。でも、周りが反対すると、ますます気持ちを通したくなりました、私の意志は固く、式を挙げる日のお知らせだけをして、二人だけの結婚式を実家に伝えました。
そうしましたら、両方の親がきてくれまして、もうびっくりしましたね。慌てて仲人さんもたてて、二日後に、私達と両親8人で式を挙げました。
結婚後は共稼ぎで、嫁さんの給料は全額を仕送りしました。大きいアパートに移りましたが、12月に越して、3ケ月後の風の強い日に、お隣から出火し全焼しました。その時、私も必死に消火活動をしましたが、消防車は私の家は消さないで、延焼しないようにと周りを消すんです。
私は妻の貴重品などを取りに、煙の中へ入って行ったんですね。そしたら、後ろでグイッとひっぱるので見たら、女房が「止めておきなさい」と言うんです。そのおかげで命が助かりました。入っていたら焼死ですものね。
3日後に夫婦共に出勤するようになりましたが、みな焼けてしまい何もないです。会社から社宅を借り、資金カンパを受け、服などもみなに貸してもらいました。そういうことで、新婚生活ということは勿論なく、本当にゼロからのスタートでしたね。
再三、実家より仕送りの催促
でも、実家の方は気になっていました。反対を押し切って結婚したものですから、嫁さんにぞっこんで家のことを忘れたのでは、と思われたくありませんでした。自分の物を揃える必要もあるけど、仕送りは続けていました。生活が大変で、途中で仕送りが途絶えたこともありました。
すると、親父が田舎から出てきて「何とか、もう少し仕送りできないか」と言うので、「できないと」答えました。「貯金通帳を見せて」と言われ、見せたら、残額がないのを見て納得し、帰って行きました。
なぜ苦しい生活の中でも、家族に送金していたのかというと、父親が仕事をしないからです。そのうえに、子供たちが食事をしていても、台をひっくりかえしたり、物を投げつけたりと、家庭内暴力で家の中はめちゃめちゃでした。
死のうとまで思ったけれども、子供たちがいるので生きていかなくてはいけない、という母親の耐えてきた姿を、ずっとみてきました。
だから、自分は無理してでも、母親を助けなくてはいけない。母にはどんなことでもしてあげよう、それが私の役割だ、という気持ちが、固まり強くなってしまったのです。自分のこれからの人生や、将来のことなどを考えることすらできませんでした。
父親は以前、警察勤務をしていた恩給が入っていたので、それで生活ができると思っていたのですね。引き揚げ後は三池炭鉱に勤めましたが、辞めたりして長続きしない。でも子供がたくさんいるから大変ですよ。
それで、父親を和歌山の椿温泉に、母親は芦屋でお手伝いさんと、仕事の世話をしました。でも、二人とも長続きしなくて、半年間で家に戻りましたので、また、できる範囲で送金していました。
実家の家族全員で入信
時々帰省する時がありましたが、あるとき、両親や兄弟は創価学会に入っているのが分かりました。その活動の一つとして、寄付をしていたのです。それも情熱を持って・・・。苦労して出したお金がそちらに回っているのかなと思って、支援を止めました。後に女房から聞いた話ですが、女房は生活費が足りないと実家へ行って、お金を借りていたとのことでした。
実家に帰るたびに、入会を進められましたので、もう行かなくなりました。私以外の兄弟は、全員入りました。私だけ入らなかったので、兄弟たちから非難されました。
両親が亡くなり、遺産相続の問題になりました。貧乏をしていて財産は無いけれども、家と土地を兄弟で等分しようと提案したのですが、納得してくれなかったのです。それは、私だけ学会に入っていなかったからですね。そこで、裁判にかけることになったのですが、そんな価値はないんですよ。
調停まで行っても結論がでなくて、裁判の時間も費用もかかるので止めました。そんなことがあり、その後、兄弟との縁を切ったのです。こんなひどい関係になるのかな・・・と、情けなくなりました。子供のころは面倒をみたのに、兄弟から感謝の気持ちや、恩義はあってもしかるべきだと思いましたがね。
新たな人生の始まりは囲碁
大阪勤務を経て、私が45歳のときに東京へ転勤になりました。そこで、囲碁のプロ級の腕前の三井物産の「木村さん」に出会い、囲碁を教えてもらいました。そのことが、人生の分岐点となり、私を救ってくれました。そして、その後のボランティア活動が、私を浄化してくれたのです。
やがて東京の本社も定年になり、いろいろな会社に出向となりました。ある会社で、お客様からのクレームがなくならないのは、ちゃんと品質管理をやっていないからだから、やらないといけない、ということを社長に言ったら、クビになってしまいました。58歳のときでした。
私は、ゆくゆく60歳からどのような人生を描いていこうか、と考えていました。その時に、東京都が主催する「シニアボランティアスクール」というがありまして、どのようなやり方や、どういう活動のエリアがあるのかを勉強し、ボランティアの体験を2年くらいやりました。いよいよ60歳になったので、その時がきた、という感じでした。
江東区で「ボランティア連絡会」が発足した年で、興味を持った人が40人くらいいました。やりたいことに賛同する人で、それぞれグループを作るんですね。そこで私は、子供たちに囲碁を教えることを提案しましたら、4名が賛同してくれました。2000年の「ホタルの碁」の誕生です。蛍が飛んでいってそこに灯りをともす、という意味です。
最初はボランティアセンターに部屋を借り、囲碁の会場を作って、案内を出しました。はじめのうちは来たんですけど、だんだん減っていくんですね。ここに来なさい、教えますよ、ということではなく、そういうニーズのあるところに行かなくては、と近隣の小学校や幼稚園、児童館に教えに行くようになりました。
江東区には、子供への普及を熱心にやっている加藤雅夫名誉9段が創設した、「江東区子供囲碁大会」があり、10年経って、もっと発展させようと活動しています。
それとは別に、江東区全体での「学校対抗囲碁大会」をやって欲しいのですよ。なぜなら、地域の人が学校に教えに行き、子供とのつながりを持てば、お年寄りが教えてくれることに喜びを感じ、より勉強するので良いことですね。
そういう提案を区長や関連部門に働きかけるけど、なかなか実現は難しいですね。そのようにして「囲碁の町・江東」を夢見ているんです。
60歳になり、失業保険をもらいにハローワークに行って、就職する気はなかったのですが、働く意欲を示さないといけないので、求人を申し込みました。「電検3種」の資格をもっていたので、仕事に就くことになり、76歳まで仕事とボランティアの両立で忙しくて、ストレスがたまっていました。
女房から「そんなに忙しいのならボランティアを辞めなさい」と言われました。しかし、ボランティアがあるから仕事ができていたのです。
囲碁でいきいきの子供たち
私は、幼稚園児に教えている時が一番情熱的になる時ですね。やり始めて、今年で7年目、60名の園児を8名の仲間で教えています。なにも知らないところに、ひとつひとつ入っていって覚えて行く。小学生より感受性が強いですね。
囲碁は難しいですけど、教え方は2通りあるんですよ。やさしいやり方は囲って取る方法で、難しい方は陣地を広げて行く方法です。やさしいやり方だけでいいのでは、という意見もありますが、囲碁の本当の事を理解してもらいたいので、私は両方のやり方を教えています。
よく理解していない子も、いざ対局になるといきいきしてきて、すごく盛り上がります。負けて泣き出す子もいますが、その時は皆の前で、悔しい気持ちを持つのは大事だよと誉めてあげると、その子は強くなりますね。
小学校では月に1回、学校が土曜日休みの時「ウイークエンドスクール」といって地域に開放して、子供たちに何かを教えるという制度があるんです。たとえば、料理、踊り、太鼓、サッカー等があります。そこで囲碁を2時間10回コースで教えています。
もう一つは「ゲンキッズ(元気な子供の意味)」といって、働いているお母さんが帰ってくるまでの放課後に教えています。子供たちに宿題を出し、成績、感想、出席などで総合評価を出して、級を決め認定書を渡すと、とても喜んでくれます。
何年も来ている子は物足りなくなりますが、それが狙いです。次の興味に向いて、いろんなことに挑んでもらいたいです。将来、大人になって囲碁をやりたくなったら、また、その時にやれば良いでしょう。いろんな事を体験させることが大事なのです。そして、日本を背負う子供たちが礼節を重んじ、生きる力を育むことができるようになることです。
オリンピック・パラリンピックに向けて
オリンピック・パラリンピックの時は、海外からスポーツも見たいが、日本の伝統文化を知りたい人達も来ます。だから、江東区に日本の伝統文化を紹介するコーナーを設け、そこに囲碁板を置いて教えたいと思っています。夢で終わるかもしれませんが、いま、それを働きかけています。
でも、いくらそう働きかけても、私が外国人に英語で話ができないと、何の意味もないわけですよ。まずは自分だということで、会話の勉強を始めました。もし、このことが実現しなくても、4年先には英語が話せるようになったら、私なりの収穫ですね。私の生きがいの囲碁の普及、指導のために見据えています。
生かされた命を大切に
振り返ってみると、これまで何度も死に遭遇する事件がありました。
電線に触れ、感電し、池では溺れ、火事で煙の中に入って行こうとして妻が止めてくれました。親友の山崎と三池炭鉱で働いていたら、爆発の事故にあっていたかもしれません。それが、私の人生最大のエピソードです。
今生かされている私は、大変運のいい男だと思い、彼の分まで生きなくてはと九州に行ったら、いつも山崎のお墓参りをします。
健康維持のために、水泳やピンポンも励んでいます。今年80歳になりますが、3月25日の「電気の日」には、日本電気協会から、長年電気に携わってきたということで、卒寿功労者表彰を受けます。
長い間、ここまで付いてきてくれた妻にたいしては、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです。5歳年上の妻は長年の苦労がたたり、体調不良が続いています。これから残りの人生を、妻のためにすべてを捧げたいと思います。
あとがき
大町さんは戦後の混乱した貧しい時代、家族のために働き、生活を支え続けてきた青春時代でした。それなのに、家族から報いられることはありませんでした。こんなに寂しく辛いことはないと思います。
しかし、それを理解し協力してこられた奥様と、囲碁との出合いがあったからこそ、苦難を乗り越えられ、今日があるのだと思います。そのような波乱万丈な道のりを、静かにたんたんと語られるお姿に感銘いたしました。
いまは、子供たちに囲碁を教えることを生きがいとし、また、世界の人達にも広めようと、そのために英会話の勉強を始められています。目標をたて努力を惜しまない、大町さんの頑張りを見習いたいと思います。
(ききがき担当 木村景子)
posted by ききがきすと at 18:16
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posted by ききがきすと at 08:56
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