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2015年06月29日

いのち輝かせ、また明日

語り人 庄司菊江(しょうじ きくえ)さん


このままでは絶対死ねない   

syo2.jpg私が地域活動やボランティアにすごく興味を持ったのは、60代の初めの頃でした。その頃、まだフルタイムで勤めていたのですが、ものすごく疲れて疲れて、どうしようもなくて、病院でいろいろ精密検査を受けたら「慢性肝炎」と診断されました。医師から「だいぶ進んでますよ」って言われたのです。


勤め先が福祉関係の仕事だったので、3月いっぱいは勤めなければなりません。でも本当にひどく疲れて、もう定年でうちにいた主人に送り迎えをやってもらって、なんとか331日まで勤めて、やめさせてもらったのです。


それで病院に行ったら、「即入院」。一週間ぐらいの入院といわれ、たいしたことないなんて思っていたら、とんでもない・・。一ヶ月入院して、そのあとまた一日おきに注射しにいかねばならないという大変な病気でした。インターフェロンの注射がきつく、また、いろいろな薬も飲まなければならず、薬漬けで食欲も体力も全くなくなりました。 


うちの主人がまだ仕事があったので、朝は見送らなければと玄関まで行くと、「おまえ、幽霊は夜出てくるものだぞ。 昼間やめろよ」と言われたのは、ちょっときつかったです。朝の私の姿をみるとぞっとして仕事へ行く気もなくなっちゃうって。それから朝は出ないようにしました。要するに、それほどひどかったということです。


顔の色がまっ白で、あのころは今よりすこし肥ってましたが、食べられないのでどんどん痩せてゆき、パジャマのズボンが歩くとずるずる下がってしまうくらいでした。ご飯も食べられない、匂いも駄目、果物をすこし食べられたくらいで、体中痛くなって、寝てもいられないのです。


主人に叩いてもらってもどうにもならなくて、寝てても起きていてもつらくて、テレビだって見る気はしない、音楽だって聞く気がしない。もうどうにもならなかったです。お見舞いに来てくれた友達にも、後から言われました。「庄司さん、このまま何ヶ月もつのかね、死ぬんじゃないかしらと思った」と。 そのくらい重症でした。


私は近くの「江東病院」にかかり、一日おきに注射をしに行きました。元旦の日も注射しに行くのです。すると、守衛さんや看護婦さんが私たちを待っていてくれるんです。それから一年くらい、一日おきに注射している間は、薬が強くって髪は真っ白。髪の毛はとかすたび、洗うたびに、お岩さんみたいに抜けていきました。ですから、かつらを三つも変えました。今はもう使ってないですが。


そんな大病に耐えられたのは、「私はこのままでは絶対死ねない。私が『生きた証』としてやりたい事はまだいっぱいあるんだ」という思いでした。それに、皆さんにいろんなご迷惑かけてきたから、治ったら、何か皆さんのお役に立つことをしたいと思ったんです。そういう気持ちって、とても大事ですね。「病は気から」と申しますでしょ。私はどんなつらいことでも、治るためにいいことだったら、なんでもやりました。ただただ自分で「夢」と「希望」をもっていただけだったんですよ。


一緒に入院していた方が通院にこなくなったので、私が大分よくなってからその方のお宅まで行きました。もうなんにもしないで家で寝たっきり、ご主人がみんなやってくれていたようです。そして、「もうあんな思いするなら死んでもいい」と言うんです。それで私は「あなただめよ」って言ってやりました。


その時、ご主人はいらっしゃらなかったので、また、帰ってくるころを見計らって訪ねて、ご主人に直談判しました。「私は、あなたの奥様と同じ頃入院して、やっと少し元気になりました。それは、ただこれで死にたくないという気持ちでいたからなのです。だから、ご主人、協力してあげてください」ってね。


本人の気持ちはもうめげちゃっているから、電車に乗って行くのがつらいのです。わたしわかりますよ。自分だって青白い幽霊みたいな顔して、バスや電車に乗ったりするのは嫌ですから。紅茶もコーヒーの匂いも駄目で。通院している間は熱っぽくもなりますし、疲れもします。だから、なにしろ送って行ってくれるだけでもよいわけです。


ご主人は奥さんの苦しい様子を毎日みているから、結局、「あんたの好きなようにしろ」って言っていたようです。一日中お布団も敷きっぱなしの彼女に「私は横になるのは夜寝るときだけにして、昼はつらくても起きていましたよ」って、厳しいけど言いました。病人らしい病人にはなっちゃいけないと、自分で心に決めていましたから。


それからは一日おきの通院に、ご主人がちゃん車と送ってくれるようになり、終わるまでずっと待っていてくれていました。病院は、順番があるし、注射したり検査したりで、二時間で終われば御の字です。三時間以上かかることもあり、その間起きているわけだから、気分のよい時はともかく、つらくて大変です。でも、ご主人は終わるまで他所でお茶して待ってくれていましたし、私もできるかぎり、彼女と一緒にお話するようにしていたので、彼女もなんとか乗り越えられました。今では、大好きなカラオケを毎日やるほど元気になりました。


「生きた証」へのチャレンジ 65


元気になった時、心に決めた「生きた証」の実現のため、一番先に「ボランティアコーディネーター」の講座と資格試験を受けました。40人くらい受けて、多少落ちた人もいましたが、私は受かりました。その後、以前福祉の仕事をしていたものですから、江東区の方から人手が足りないので、アルバイトをしてくれないかというお話をいただききました。私以外にもたくさん受かった方はいたので、始めは断りました。うちの主人にも相談したら、「あまり無理して、また体を壊されたら困るし・・」と。でも、向こうがとても熱心に言ってくれたのでやる気になりました。やっぱりこの年で仕事のラブコールがかかるなんてうれしいですから。


その時65歳でしたが、やったらこれがまた楽しいんです、楽しくって、一年ごとの切り替えのたびに、またやってくれって言われると、それがまたうれしくて、毎年更新されていきました。

私が一番担当したのは、耳の不自由な方に手話士をセッティングする仕事でした。その他に、ボランティアをやりたい方の窓口相談をやらせていただき、自分と逆の立場なので、とても勉強になりました。


ボランティアをやりたいという人はけっこうお見えになるので、その方を適材適所のかたちで紹介できるよう、しっかり見抜いてくださいと上司に言われました。女性はわりとスムーズにボランティアに入ることができるのですが、定年になって来る男性の方は、難しいです。肩書がいっぱいありますでしょ。「こういう態度は絶対ダメです」「肩書とか全部とっぱらって、ご自分を無地にしてください」などと、充分話をして、くれぐれも心がけるよういったんですがねえ。


あんまりにも熱心に「大丈夫。私にやらせてくれ」とおっしゃるので、先方の老人ホームに紹介すると、先方も「いいですよ」と言われたので紹介しました。ですが、その日の夕方ホームから「二度とうちによこさないでください」って言われました。


やはり大手の会社の部長をしていた方で、頭でわかっていても、それから抜けられない。威張って、これは違うとか、どうのこうのって。それでは相手の方もおもしろくないでしょう。


それでは別の仕事をと、月に2回ぐらいある切手を切る仕事をやってもらったら、「こんなバカげたことを」と言われました。だけど、ボランティアはそういうものなんです。いろんなイベントの仕事もやってもらったんですが、人に使われることがお嫌いな方なので、自分流にやられるからどうしても失敗が多いのです。


そうすると、他にもいろいろ不都合が出てきて、二度とお願いされないし。きっと不向きなんですね。結局、上司から言ってもらいましたが、割り当てできる仕事はだんだんなくなって、その人のこと考えると頭が痛くなりました。「いいからやらせてくれ」といっても、また同じことになると思うとね。


syo1.jpgですが、そこを見抜くのが私たちの責任なんです。今まで大きな失敗はその方のケースで、あとはだいたい成功しました。もっとやりたいのに少し仕事が足りないとかいう方はいらっしゃいましたが、それは苦情でなく、もっとやりたいということですから、むしろうれしいことだと思います。


あと、一人暮らしの男性から、部屋のお掃除や、車いすなので一緒にタクシーで映画を観に行ってほしいとの要望がありました。それが女性がよいというのです。


何かあると困るので、上司と相談して男の人に行ってもらったのですが、その男のボランティアは家に入れてもくれないで帰されました。そんな人のところに女の人は出せやしませんよ。


そういう人のボランティア紹介も私の仕事なんです。どうして男性ではダメなのですか?と聞くと、女の人の方が心細やかでよいというのです。女の人は結構忙しいので、男の方でとっても優しく、気が利く人がいますから、どうですか?といっても、「駄目だ。女性がよい」というのです。


こういう方がまれにいますが、私のほうからは、お断りしますとは言えないので、この場合も上司に断ってもらいました。


つらかった共働き奮戦記―20代〜50


実は、私は63歳で大病するまで、独身の時からずっと働いてきました。はじめは幼稚園に勤めていたのですが、結婚して、子育てもあったので、仕事は辞めました。


実家が鉄工所やっていたので、簡単な事務の手伝いをしていたのですが、そのうち借家でなく、どうしても家が欲しくなりました。家を買うために働きたいと主人に相談すると、「俺は一生アパート暮らしでかまわないから、家にいろ」と言うんです。でも、どうしても働きたいというと、「お前が勤めるのならば、俺はいっさい家事は手伝わない」と言われました。だから、長女にはとても可哀そうな思いをさせました。


姉のところには長女より小さな子供がいたのですが、姉の家の2階が空いていたので、そこに住まわせてもらいました。保育園から帰ってきた長女を姉にみてもらいながら、大きな会計事務所のタイピストになりました。


たくさんの会計士さんが働いていましたが、タイピストは私をいれて女性二人でした。私が行かないと、もう一人のタイピストの人に迷惑かけちゃうので、長女に「ごめんね」といって、お弁当とポットを置き、「行ってくるね」と言って家を出ました。「行ってらっしゃい」と言ってくれるのですが、もう一度そっと戸を開けてみると、ふとんをかぶってひとりで泣いているんです。もうね、あれはつらかったですね。


会計事務所の月末は忙しいので、帰りも遅くなります。すると長女が表で待っている、その後姿が不憫で、今でも心に残っています。私が「なにしていたの?」と声かけると喜んで、「おかあさんまだかなぁって思って、星を見てたの」っていうんです。「なにかつらいことあったの?」と聞くと、黙っているんです。


後から姉がいうのには、一緒に遊んでいた姉の子が、なにか気に入らなくて泣きだしたとき、「あけみちゃん(娘の名)、またいじめたの?」って言ったんですって。長女は「そうじゃない」といっても聞いてくれない。だから、「お母さん、まだかなぁって、お星さまとお話したの」って言うのです。


だから、子供が二人になったらば、やめよう、やめようと思っていました。仕事も今みたいなワープロやパソコンと違って和文タイプですから、失敗すると最初からやり直しになったりして、大変でした。会計事務所では最後の仕上げの部署にいたので、月末は何10件も打ちますから、どうしても残業になってしまいます。結局、二人目の妊娠でそこは辞めました。


その時、一番喜んだのは長女でした。いつも送りはしていましたが、お迎えは近所のお友達のおかあさんにお願いしていました。辞めたその日からは、私が園にお迎えにいきましたら、とてもうれしかったみたいで、「この人が私のおかあさんよ、おかあさんよ」って、みんなに私を紹介したんです。   


いまだに私の心に残っているのですが、長女はさびしくて、すごくまわりに気を使っていたと思うんです。口に出さない分、毎日おねしょしていました。主人は怒って、お尻にお灸するとか言ってましたが、私は幼稚園で先生をしていましたから、どうしてそうなるのか、心の病の方が多いと判っていた。どんなに新しい布団を作ってやっても、その日からおねしょをしちゃうんです。それが驚いたことには、私が仕事を辞めたその日から、ピタッとしなくなったのです。長女が学校に入る前でした。


そして二人目を出産、二人目も女の子でした。二人とも帝王切開なので、その時の輸血で慢性の肝炎になったようです。あのころは、お金がない人が血を売る時代でしたので、とんでもない血がいろいろとあったみたいです。その症状が20年くらい経たないと出ないんですね。


syo3.jpg長女が学校に行ってからは、次女を保育園に入れて、再び働きだしました。今の様にパートはなく、正社員です。経理課だったので、どうしても残業が多いのですが、みんなに迷惑かけられないので、残業もしっかりやりました。迎えに行く時間はいつも遅くて、遅番の時は、お迎えを人にお願いしていました。次女にもずいぶんかわいそうな思いをさせました。


次女が、まだ年中さんくらいの時に、「はしか」で保育園を休ませ、悩みましたが、仕事に行きました。そしたら、担任の先生が、保育園が終わって来てくれたらしいんです。「まさこちゃん(次女の名)のお見舞いに行ったら、おかあさんは、なんと一人だけ残して仕事に行ったのですか?なんと冷たい。鬼のお母さんです!」と言われた時はどんなにつらかったか。


次女はとくに気を回す、人の心を読む子でしたから、「おかあさん、お仕事だからいいのよ」と言ってくれるんです。「おかあさん、大丈夫だから、行って、行って」って言うんです。「行かないで」って、ダダこねないんです、まだ四歳の頃ですよ。そんな話をすると今でも、涙が出てしまいます。


小さな子供がいたのだから、その子が病気だからといえば休めたでしょう。でも、あの時、結婚して子供がいたのは私一人でしたから。周りは独身の人ばかりで、結婚すると辞める時代でした。「だから所帯持ちは、子持ちは駄目だ」と言われたら、後の人にがらないと思って休めませんでした。


保育園の先生にしてみれば、こんな時くらい休んであげないと、いつ休むんですか?という、うちの子供を思う気持ちから言って下さったのでしょうが、その時は「私の気持なんかわかるもんか!」と歯を食いしばりました。私も頑張りましたが、子供たちが一番頑張ってくれました。お陰様で、二人とも素直で、本当によい子に育ってくれました。


世界でひとつの絵本つくり


syo4.jpg上の子の成人式の少し前に、手作り絵本の講座を受けて、この子のために、私にしかわからない、この子の本を作ろうと思いたちました。講座が12月に終わったので、翌年の成人式に間に合ったんですよ。


絵本を読むと、長女はきょとんとして、「これ本当だったの? おかあさん、私ちっともさびしくなかったんだよ」というんです。「いつもおかあさんがかばってくれたから平気だった、お母さんはそんなに悪いと思っていてくれたの?」とあっけらかんと言うんです。「でも、おかあさん、これ一生の宝物にするからね」って言ってくれました。 


絵本つくりはそれがはじまりで、それから次女にも、そして孫にも絵本を作ってあげました。大きくなって保育園や幼稚園に入ると、「これ、ぼくの絵本だよ。僕の名前が入っているんだよ、僕が主役なんだよ」と、お友達に見せびらかしていました。


全部オリジナルです。絵も文章も私が書き、写真は切り抜いて貼るんです。表紙も全部、私が作ります。あのころカラーコピーもなかったので、本当に世界に一冊の本でした。


絵本つくりは、最初は働きながら趣味でやっていたのですが、ボランティアセンターで働き始めた頃、近所の小学校以下のお子さんと、独身のお年を召した方と、お子さんのいないご夫婦のための交流も兼ねて、教室みたいにしてやり始めました。


小学生は卒業すれば終わるのですが、大人の生徒さんは「孫と一緒にやっているみたいで楽しい」とすごく喜んでくださっていました。ある独身の高齢の女の方は亡くなるまで、ずっと続けてくださいました。とても器用な方だったので、たくさん作品を残していってくれました。


几帳面な方で、ずっと日記を書いておられました。亡くなられた時に、ご兄弟があいさつにいらして、「姉は一人ぼっちのさびしい人生かと思っていましたが、そうじゃなかったんですね。日記にすべて書いてありました。残った作品をお子さんたちにプレゼントしてあげていただけますか?」とおっしゃって、大変感謝されました。そういう方たちもたくさんいらして、一生のお付き合いをさせていただいています。


ある年、たまたま小学生が男の子ばかり集まってしまって、あまりに元気がよすぎ、にぎやかすぎて、お年寄りが驚いてしまいました。そして、「今回でやめますから」とボランティアセンターに申し出ました。すると、「それでしたら、お年寄りだけでやったらどうですか?」と言われ、平成21年から高齢者向けのサークルにして、「さざんか」と名前を変えました。


ライフワーク「さざんか」の始動―70


創設当初に受講されたお年寄りが、いまだに来ていらっしゃいます。でも、毎年のように亡くなる方もいて、今年は94歳のおばあちゃんが亡くなりました。それでもみなさん大変お元気で、遠くは豊洲からバスを乗り継いで来られる八十歳くらいのおじいさまもいらっしゃって、この会が一番楽しいと楽しみにしておられます。


私は病気の時にやりたいと夢みていたことが、こういうかたちで、実現できてすごくうれしいです。


今「さざんか」では、脳のためにどんなことがいいのか考えて、1分間スピーチを全員にやってもらっています。初めはやだやだという人に限って、5分もお話するので、こちらがストップかけるんですよ(笑)。


少し時間が余れば、「あと二分だけ話したい人は?」というと、豊洲のおじいさまなどが積極的に話されます。「ここに来るのはなにしろ楽しい。ここほど楽しいところはない」とおっしゃいます。今日も雨の中を来ていらっしゃってました。


お話し会とか、ゲームとか、脳トレのため、幼稚園に勤めた経験も活かし、いろいろ工夫しています。童謡を歌いながら指の体操をやってみたり 「これ脳トレです」なんて言わないで、自然にやってもらえるように心がけています。

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地域クリスマスパーティーで庄司さんが焼いたパイ

童謡の「むすんでひらいて」を歌いながら、肩を叩いたりしてコミュニケーションをはかったり、最後にプレゼントをするために、お手玉をまわしながらのゲーム。「ずいずいずっころばし」や「とうりゃんせ」、「てまり歌」などを歌い、お手玉が止まった人に何か手作りのものを差し上げるんです。そうすると、見学に来た方たちが「私も入れてください」と、一緒に輪の中に入ってらしたりします。


毎月、変わったことを計画します。昨年の一年間は必ず「折り紙」をやりました。あれも脳トレに良いのです。季節の風物や行事にあった作品を考え、難しいところはあらかじめ作っておき、残りをみなさんに作って仕上げてもらいます。


今年は「粘土」やろうかなと思っています。私はいまだに児童館などに来てくれと呼ばれるんですが、それには飛び出すカードとか粘土を持っていきます。その季節にあったもので、来月は桜のマグネットを作ろうかなぁなんて考えています。白やピンク色の桜を樹脂粘土で作り、表面にラメを入れますと、とてもきれいなんですよ。 


いつも私たちが「さざんか」でやるのは二時間単位なのですが、児童館の場合は、お母さんとお子さんが一緒に参加しますから、一時間か長くて一時間半くらいで仕上げられるようにします。どんなに短くても、仕上げて帰さなければなりませんからね。決めるまで大変ですが、それも楽しいんです


今日は1ヶ月に1回の病院でしたから、朝八時すぎに家を出ました。注射もしないといけないので。いまだに病院にかかっているんですよ。でも、それをやっているおかげで、私はこんなに元気でいられるんです。


郷土愛から生まれた絵本「亀戸物語」


今日はそのあと、亀戸文化センターへ行き、十時からは「絵本同好会」でした。今、区から頼まれて、「亀戸物語 NO3」という「亀戸天神社」さんの本を作っているんです。私ひとりが作るのでなく、参加者を募集してみんなで作ります。みんなから集めた文章は最初はバラバラなので、それを私がまとめていきます。だいたい大雑把にまとめて、それを再度みんなに見せてこねていき、ストーリーにしていきます。


それを天神社の宮司さんに何度もみてもらいます。宮司さんも忙しい方で、時間がなかなか合わないので、この間なんか朝の八時五十分に待ちあわせました。早い時間でないと、宮司さんも時間がとれないのです。


私たちにはわからない言葉の使い方などを教えていただいたり、宝物殿の中に区の文化財などもいっぱいありますから、その中から、ふたつぐらい書かせてもらうのを一緒に選んでいただいたりします。


今回は図書館にも贈呈するため、プロの画家の方に書いてもらうので、その方にも一緒に行ってもらいます。区との共催の形で、文化センターでやるものですから、プロの画家さんには、区からお金が出ますが、私たちは無料奉仕です。生徒さんには、材料費など多少出るのですが。


今日は、だいたいどこに字を入れるかとかを決める仕事でした。来週からは、絵に文章を付けてゆき、最終的にはちゃんと糊で貼って、最後は表紙を付けたりして完成。結構立派なものが出来るんですよ。


亀戸九丁目の浅間神社の宮司さんも、町会長さんも、こういう本がお好きな方々です。私たちが作った原稿をそっくりお渡しして、同じ町会の印刷屋さんに1冊300円で小さくして作ってもらい、皆さんにお配りしました。


初め、私が提案したのは江東区で一番古い「香取神社」だったのです。「香取神社」は、藤原鎌足がまだ亀戸が島だった頃に、日本統一のために香取大神に戦勝祈願して、大勝したのが起因。665年に創建された由緒ある神社です。菅原道真公をお祀りする亀戸天神社は1646年だから約千年も違うのです。


私は郷土愛から、一番古い「香取神社」からと思ったのですが、「亀戸天神が一番有名だから、やはり亀戸天神がよい」という意見も多く、絵をかく先生も「ぼくは亀戸天神を書きたいとおっしゃったので、最終的には多数決で「亀戸天神」に決めました。


ひっぱりだこの江東区観光ガイド


私、江東区の観光ガイドもしています。旅行会社から頼まれてやるのもありますし、区主催のイベントとしてもやります。一月はお正月ですから、「七福神めぐり」も企画したりしています。

区の観光課の講座を六か月受講して、観光ガイドになりました。試験は現場でありましたが、私はずうずうしいのか、全然上がらずに合格できました。


今は、年に1819回くらいやっています。ただ歩くのでなく、いろいろ勉強できて楽しいじゃないですか。班の中では私が一番多いようで、うれしいことに、私がボランティアしている社会教育団体の利用者さんがご指名で来られるので、たくさん私に回ってくるのです。楽しかったからといって、千葉の方が再び観光バスでいらしたりもして。


だいたい「亀戸天神様」のあたりと「銭座」だけでも2時間か2時間半かかります。「銭座」は、銀座が銀貨を作っていたのに対し、銅銭を作っていたので「亀戸銭座」と言われました。銭形平次が投げた「寛永通宝」の投げ銭が有名ですね。だから、私も実物を買っておいて、ガイドの時にお見せするとみなさん大変喜ばれます。


今が一番しあわせ― 75歳


今が生まれてから一番しあわせだと思っています。主人には悪いけれど、恋をしていた時より幸せ!主人が「お前は、毎日誰か恋人に会いに行くみたいに出かけるな」って、ちょっとやきもちを焼くくらいです。行先は全部カレンダーに書いて出かけます。時間で動いているようなスケジュールですが、でも、それができるしあわせってあるじゃないですか。声をかけてもらえるしあわせも。


今は活動を13に減らしました。それでもほとんど毎日のように出かけてます。観光ガイドなどは、月回ということはありませんからね。勉強会もありますし、班ごとの反省会や集まりもあります。夜は出ませんが、昼間はフル回転。それでも、遅くなると主人がいらいらして、キリンさんのように角がでるんです。私、愛されているんで・・(笑)


子供が小さな時から「手伝わないぞ!」って宣言されて50年。やっと最近、お風呂は自分で沸かすようになってくれました。なぜかというと、彼は「時から男」で、時になると、まっさきにお風呂に入りたい人なんです。でも、私の帰宅が時を過ぎたらうるさいんです。毎日五時までは好きなテレビ番組があるので安心なんですが。


主人が退屈して、いらいらされると健康にも良くないし、認知症の始まりにもなりますから、なるべく1週間に1度は時間をつくって、一緒にでかけます。それも朝10時からお昼まで。なぜかというと午後は主人のお昼寝の時間なので、お買いものとお茶を飲むだけのデートです。


普段は、昼頃はなるべく帰って、一緒にお食事をするようにしています。そうは言っても、買い物をして帰る時に亀戸に寄ったりして、たまに時頃になってしまうこともあります。主人は先に食べていますが、角が生えています。 愛されているんですから、しようがないですよ()

そう思わないとできないし、主人が元気でいてくれればこそ今の私ができることなので、それは感謝をしないといけないと思っています。


私が、今これだけのことができるエネルギーの源は、皆さんが喜んでくれるということ、そして、それがうれしくて余計楽しくなる、今度はなにをしょうと考えると、また楽しくなる、その繰り返しです。


区から頼まれて児童館でやる「ママさんチャレンジ」も、回につき、打ち合わせに回は行きます。行くとみなさんが喜んでくれるんです。子供たちも喜んでくれて、私の似顔絵を書いて、「これ、庄司先生プレゼント!」と寄ってきてくれる。絵を見ると、頭でっかちで眼鏡かけて、口をくっとしている。そんなことがとても嬉しいのです。今のすべてが大事な私の宝物なんです。


あとがき


昭和14510日生まれの庄司菊江さんは、現在75歳。

60歳過ぎまで、働きながら家事や子育てをしてこられたキャリアウーマンのさきがけ的存在です。やがて大病を患い、つらい1年間の闘病生活を経験されます。そのことが庄司さんのその後の生き方に大きな影響を与えました。


健康を回復した後、現在に至るまでの12年、毎日フル回転で、江東区の観光ガイドや、63歳から始めたボランティアコーディネーター、そして35年間続けてきた絵本つくり、「江東絵本同好会」、平成21年発足のシニアサークル「さざんか」の主宰、保育士の経験を活かした児童館の「ママさんチャレンジ」のサポート等。現在も13の活動をしながら元気いっぱいに飛び回っておられます。


そうした庄司さんの姿や行動は、眼前に迫る高齢化社会のとてもよいお手本となりましょう。過去の思い出に浸る暇もなく、アクティブに今日を生きる庄司さんにとって、今が一番輝いて心身ともにお元気なのかもしれません。


「いまが一番しあわせ!」と素敵な笑顔でお話をされる庄司さんに、こうしてはおられないと、私も猛省させられました。これからもどうかお元気で、地域の健やかなるスーパーウーマンとしてご活躍されることをこころよりお祈りしております。 本当にありがとうございました。


ききがき担当:池内 伸子



posted by ききがきすと at 23:02 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月16日

『あの日を忘れない』が国立国会図書館と岩手県立図書館に収蔵されました

宮城・岩手写真a.jpg『あの日をわすれない 東日本大震災を語る・岩手編』の完成に伴い、国立国会図書館に宮城編と岩手編を、岩手県立図書館には岩手編を寄贈しました。そして、このほど、両方の図書館から受領書をいただきました。

国立国会図書館からは、蔵書検索システム(NDL-OPAC)で検索することが可能になるとのお知らせがありました。6月20日頃の予定。
URLはこちらです。 http://ndlopac.ndl.go.jp

国民共有の文化的遺産として、長く保存していただけるそうです。多くの目に触れるようになれば、辛い経験をお話くださった語り手の方々の思いも伝わる機会も増えます。ききがきすとの役割が少しは果たせるものと感じています。

なお、宮城編はすでに宮城県図書館に収蔵され、近々、デジタル化されて全内容が公開されることになっています。ただ今、準備中です。

冊子は、次の福島編作成の資金とするために、どちらも1冊1,500円で販売しています。皆様のご協力をお願いします。
お問い合わせは、ききがきすとグループ・リーダー 松本(matsumoto@ryoma21.jp)まで。


posted by ききがきすと at 12:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災聞き書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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