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2014年05月05日

エクマットラ 〜バングラデシュのストリートチルドレンと共に

語り手:渡辺大樹(わたなべ ひろき)さん

ヨットに夢中の4年間

watanabe1.jpg大学時代は地理学専攻でしたが、勉強は卒業のための単位をぎりぎり取ることだけやって、あとはヨットに全ての時間をそそぎました。ヨットのレースをいかに進めるか、いかにチームを勝たせるかですよね。本当に好きでした。

 高校時代に一生懸命やっていた野球は、ひたすら苦しい練習と、ときどき勝利するわずかな喜びの日々でしたが、ヨットは苦しい練習さえ楽しいものに思えるという、楽しさばかりだったと言えます。もちろん、つらいことも、大変なこともあったのですが、でもそれさえ全部楽しかったですねぇ。

 いかに人を巻き込んで、いかにチームを作って、いかにモチベートしていくか、もちろん自分もモチベーション上げながら、仲間とやっていくのが楽しい。人が見ているからこそ、仲間が見ているからこそ手を抜けないし、逆に個人競技だったら手を抜いてしまうこともあるかもしれない。とにかく団体競技がすごく向いていました。

 理科系ではないし、物理なんて苦手の自分なんですが、練習が終わって、みんな帰ってしまった後に、ひとりでヨットの艤装や帆の角度を、改善改良する試みをやっていました。この箇所を1oあげるとどうなるか、もう少し変えるとどうなるか…と、夢中になってヨットの帆走を有利にするために工夫し続けたんです。

自分を捧げたヨットがおわって

こうして、在学中にすべてをかけて臨んだヨットのインターカレッジ予選を通過、大学の創部以来初めての種目で、全国大会に出ることができて、自分をそっくり捧げてきたものが終わりました。

 この年末に、たまたま先輩に誘われてタイでの国際大会に参加したのですが、それも終わった後というのは、今まで自分が向ってきたものすべてが無くなって、カラッポになった状態でした。おまけに競技が終わると、周りはヨットを趣味とする人たちですから世界中の金持ちばかりで、豪華なパーティーに招待され、それこそめったにない世界を経験していたんです。

果物売りの少年.jpg まさにこのとき、大会行事の移動のため2階建てバスでスラム街を通り、ふと窓から見下ろした瞬間、貧しさの極みのタイの子供と眼が合ってしまったんです。その一瞬、自分は何をしているのだろう、と衝撃を受けました。自分はたまたま日本に生まれ、気の遠くなるほどの将来の選択肢にめぐまれている。片や、タイのスラムに生まれたばかりに、一生こういう生活から抜け出ることができない少年がいるという不公平さ。カラッポの心にスッと憤りが入り込んで、それが今の活動の原動力になったのじゃないか、と思います。

 もし自分という者が存在することが、そして、その自分が努力することが、たとえ何百人、何千人の子供たちの人生を変えることはできないにしても、ひとりでもふたりでも、その子供たちの人生を変えられるなら、素晴らしいことなんじゃないか、それこそ人生の意味があるんじゃないか、という思いが生まれてきました。
 そして、タイでのこの想いが、なぜかすぐ、「世界の最貧国のひとつバングラデシュ」 というイメージに結び付き、バングラデシュに来ることに決めました。小さい頃から「貧しい国」というイメージがあったのかもしれません。

家族の考えはちがった

もちろん、バングラデシュに来ることについては、かなり長いあいだ、家族との意見が食い違っていた時期がありました。両親は、「ひとりでバングラデシュに行って、他の人に迷惑かけずにやっていけるのか? 力になるどころか、周囲の助けを呼ぶような結果になるのではないか?」 という反応でした。これは、ただ反対するのとは違った「すすんだ心配」だったと思います。これに対して自分は、「行ってみなければ分からない、多分やり抜くことができると思う」 という主張を展開するしかなく、しばらくの間はこういった意見の対立が続きました。 

 最終的には、「両親がこういう自分を産んでくれたために、こういう自分の信念が出てきたのだから、この選択を認めて欲しい」という、いま思えば説得とは言えない説得で、なかば強引に押し切るようなかたちで、出発してしまいました。

 のどが渇いても飲み物は買わずにがまん、バスに乗るところも歩いていく、という節約に節約を重ねて、一生懸命貯めた80万円だけを懐に、ひとりバングラデシュに来てしまったわけです。NPOや海外青年協力隊の一員として、渡航する選択肢もあったとは思いますが、、まず最初は自分の眼で見てみたいと思ったんです。もしひとりでやって、何もできないと思ったら、そこで初めて団体に所属すればいい、と思いました。

ベンガル語をお茶を飲みながら学ぶ


街のお茶屋さん『チャドカン』.jpg バングラデシュに来てから1か月は、お茶を飲みながらベンガル語を勉強するのに費やしました。

 バングラデシュの街を歩くと、至る所に小さなお茶飲みの場所があります。たいていは屋台でお茶を沸かして人々に飲ませてくれる店ですが、中には地面に座って路上でお茶を売っている場所もあります。


 こういうお茶飲み場を「チャドカン」と言います。ここでお茶を飲みながら、皆で主人を囲んでおしゃべりを楽しむのがこの国の風習ですが、私もここでベンガル語を学びました。 一日に10か所も20か所もまわって、おしゃべりの中でベンガル語を習ったわけです。いわば活きた学習方法ですか。


ダッカ大学に強引入学

 無鉄砲だった私は、数年間滞在するつもりで、バングラデシュに来たにも関わらず、持っていたビザは3ヶ月の観光ビザという状態でした。国立ダッカ大学に入学すれば学生ビザが取れると知り、またベンガル語をしっかりと学びたいという気持ちもあってダッカ大学に入学することを決めました。ただその方法も、今から思えばまことに無鉄砲なやり方でした。

ダッカ大学クリムゾンホール.jpg もう学期はスタートしていたので、入学審査担当官は「学期の切り替えまで、1年くらい待つよりないだろう」と言うのですが、自分は「いや、待てない、どうしても今すぐ入学させて欲しい」と粘りました。自分の話すベンガル語を聞いていた担当官は「それだけ話せるなら講義についていけるだろうから、まァ、いいか」と承認してくれました。柔軟といえば柔軟、ちょっといい加減かなあ。お茶屋で鍛えたベンガル語が役に立ったわけです。こうして学生ビザもとることができ、ベンガル語もしっかりと学び始めることができました。2003年1月のことです。


エクマットラの誕生


 大学入学後は、勉強のためブツブツ単語を唱えながらキャンパスを歩いていて、話しかけられたり、青空のもと、楽しくギターと歌の演奏をしている学生たちと親しくなったりと、さまざまなかたちで友人が増えていきました。そのなかに、貧しいために悲惨な境遇にある、ストリートチルドレンの問題に心を痛め、何とかしようと考えている仲間がいることが分かってきました。

 その仲間たちと一緒に街に出て、半年ほど路上に住んでいる人たちと話をして、調査をしました。みんなで校庭の芝生にクルマ座になって座り、議論に議論を重ね、時間をかけて確実に、自分たちがやりたいことの絵を描いていきました。


バングラデシュ国旗.jpg これがekmattra(エクマットラ)の成り立ちです。「エクマットラ」とは「皆で共有する一本の線」という意味で、遠くはなれてしまっている貧困層と富裕層を限りなく近づけて、1本の線にすることを目指し、バングラデシュ国の問題は、バングラデシュの人たちがみずから直視し、解決を目指すのだ、という理念を表します。豊かな国の援助に頼るというかたちでは、 いつまで経っても国の自立は難しいものです。


 自国の問題を他の国任せにせず、自分たちで解決・改善できてこそ、その国の発展はある、という自明の論理の展開でした。他の団体が実施中の期限つきプロジェクトを見て、海外からの援助に頼ることの問題点に気づかされたのもこの頃です。


 エクマットラ創設者のうち9人が、今も変わらずこのプロジェクトを手がけ、絶えず議論をつづけて、より理想的な将来像を練り上げています。この仲間と出会えなかったら、おそらく1年か2年いただけで、自分は何もできないんだ、とシッポを巻いて帰ることになったんじゃないかと思います。          


まず「青空教室」


 20039月に青空教室を始めました。皆で路上調査をしてみて、子供たちの将来をふさいでいるものは、社会だけでなく、その親たちである場合もある、と分かりました。なぜかというと、親にとって子どもは「稼ぎ手」なんですね。子どもが1日ごみを拾ったり、鉄くずを拾ったりすると、わずかな額でも収入となります。だから子どもが学校へ行くようになると、この日銭がなくなってしまうので、親は子どもの教育には良い顔をしません。

 たとえばバングラデシュでは、非常に多くのNGOが活動していて、ストリートチルドレンに対しても、多くの支援がされています。しかし母親が娼婦だったり、父親がヘロイン中毒だったり、どちらかと言うと「社会の落ちこぼれ」のような親は、自分達のためだけに、子どもたちを収入源としてしっかり確保しておきたい、と考えがちです。そして、そういった親を持つ子どもたちは、こういうNGOの支援を受けられないことがあると分かりました。そこで、自分達としては、親が理由で支援を受けられない子どもたちを、何とかしていこうという方針が固まってきました。


 まずは親に対して話をすることから始めました。話を聴いて回った地域は「娼婦街」だったのですが、そんな地域で外国人の自分が話かけることは、とても危ないことで、最初は、リンチにあいそうになりました。娼婦の人たちは夜に仕事をして、昼間はみんな疲れて寝ているので、夕暮れ時しか話せないんですね。そうすると、結構、あたりが暗いし、怪しい人が集まってきたりということがありました。それから、今でもあるのですが、その頃は特に、外国人による「人身売買」が多かったようで、私も外国人ということで間違えられたことがありました。大人数に取り囲まれ、「二度とここに来るな。今度来たら、ただじゃおかないぞ」とリンチにあいそうになって。


 その時は「わかりました」と言って帰るのですが、そこで諦めたら何にもならないので、毎日毎日行きました。結局1ヵ月半くらい通いつめるうちに、本気だと分かってもらえたんです。特に、その地域のボス的な娼婦の人がいて、その人が皆に先立って理解してくれたのが大きいですね。それまでは自分の過去のこと、子どものこと、なぜ娼婦をしているか、などについて口を閉ざしていたのですが、だんだん話してくれるようになりました。「自分の娘にはこういった仕事(娼婦)はして欲しくない」「本当はもっと幸せな生き方を選んで欲しい」と。でも「そうするための方法は分からない」というのが本音でした。


親たちも巻き込んで


子どもたち.jpg そこで、私たちが青空教室をやっていることや、計画中のシェルターホームのことを話しました。たしかに日々の収入を得るためには、子どもを手元においた方がいいでしょうが、子どもたちが教育を受け、さらに技術訓練を受けることで、何年か後に仕事につけて生活できるようになったら、子どもにとってもあなたにとってもプラスではないですか、と説得したのです。


 とはいっても、やはり説明だけではなかなかピンと来ないようなので、「まずは、とりあえず子どもたちを青空教室に参加させてみたら?」「青空教室は週に3回、1日2時間だけだから、子どもがそこに参加するだけだったら、収入が減ってもそれほど問題ないでしょう?」といって参加してもらうようにしていきました。


その後、だんだん来る子どもたちが増えてきた時分、『親に対する青空教室』も始めたんです。「ここでどんなことを教えているのか、知りたくない?」と誘って、子どもを20人くらい座らせ、親もその周りに20人くらい座らせました。そこで、表向きは子どもたちに教えながら、実はその周りにいる親たちに対して、こちらの意図することが伝わるようにしたのです。親たちは青空教室の実際を見、私たちが真剣に教えているのを見、私たちの思いを肌で感じてくれるようになる。そうやって少しずつ変わっていきました。


 カリキュラムを作ったとき、最初は教室につきもののイメージとして「読み・書き・計算」からというのがあったので、まずはベンガル語の「あいうえお」、英語の「ABCD」、数字「1、2、3、4、5」を教えていきました。ところが、子どもたちは親に言われて出席しているので、あまり興味がないんですよね。本当につまらなさそうにしていて。こんなやり方で1、2週間くらい教えましたが、とうとうこれはダメだ、と思いました。


 そこで、遊びや歌や踊りや劇といった内容に変えていったところ、子どもたちが少しずつ興味を持ってくれるようになりました。歌、詩の朗読、踊り、遊び、工作などを通じて心を動かされ、笑ってくれるようになり、これを私たちはさらに、モラルやチームワークを教える方向に導いていきました。


青空教室の転機


 青空教室はそれこそ天井も壁も無いスペースでやっているので、出席しやすい代わりに、さぼりやすいということがありました。いろいろな子どもたちがやって来てはいなくなり、ということを繰り返していました。それでも、青空教室を始めて1ヵ月半ほど経った頃から、15人位の子どもたちがずっと参加するようになってきました。これが半年程続いた頃、この子どもたちに、もう少し大きな飛躍の機会を作ってあげたいと思いました。


 そんな折、たまたま日本大使館が主催するスピーチコンテストがあり、この子どもたちが発表する場をもらって、それまで覚えてきた歌や踊りや詩の朗読を披露させてもらいました。20分程度のささやかな出番でしたが、急病のふりをする子がいるほどおじけづいていた子どもたちが発表を終えた瞬間、500人を超える大観衆が全員立ち上って、割れるような拍手で応えてくれたんです。


私もその場にいて鳥肌が立つ思いがしたのですが、なにより子どもたちが、目を見張るほど表情が変わりました。それまで世間から隠れるように暮らしてきた子どもたちが、自分でも他の人たちに認められることがあるんだ!他の人に賞賛をもらうことができるんだ!という驚きと歓びだったのでしょう。


 そこで初めて、自分たちが続けてきたことは間違ってなかったのだ、と思いました。それまでは、最初の教育方法がダメで歌や踊りを取り入れたりしたものの、「本当にこれでいいのか、本当に彼らを変えていけるのか」という思いがありましたが、その発表会後の子どもたちの顔を見て、大きな自信を持つことができました。翌日、多少斜めに構えていた子どもたちを含め、全員が「兄ちゃん昨日はすごかったねーっ!!」と抱きついてきました。15人という少数の子どもたちではあるけれど、自分たちがやってきたことは見当はずれではなかった、少しずつ何かを変えていけるんだと、彼らの変わりようを見て自分たちの迷いはふっ切れました。これが2004年2月の出来事でした。


シェルター設立


 以前から青空教室の次の段階として、子どもたちを養育し、通常教育を受けさせるシェルターホームを作りたいという思いがあったのですが、発表会の成功によって弾みがつき、2か月後、ホームを設立しました。この設備つくりの資金については、前年から実業家や一流企業で働いている人などに援助依頼をしに行ったのですが、「そういうことは先進国に頼めば?」と言って、誰も見向きもしてくれなかったという経験があります。外国の援助を頼むのが当然という体質の表れなのです。


 私たちの思いは、バングラデシュの人たちを巻き込み、その援助で活動を行っていきたいというものです。というのも、バングラデシュの人から寄付金やサポートを受けることによって、彼ら自身にこの活動を知ってもらい、そして自分たちの国のことに意識を持ってもらうという狙いが活動の根底にあります。


たとえ日本など外国からの暖かい支援を頂いたとしても、そこに依存しないという姿勢を維持する、だから最初から、なんとか自分たちでお金をまわしてやっていこう、という考えでした。本当に子どもたちを変えていきたかったら、親を含めて周りの大人たちを変えていかなければいけないんですよね。

 このシェルターでは、通常の教育をしています。青空教室でも読み書きは教えられますが、しっかりとしたものとは言えないので、子どもたちにとっては、ここに来て初めてちゃんとした読み書きが始まります。あとは、刺繍や、紙工作など、技術教育の基礎的なものですが、ただ、一番大切なのは「モラル」を教えることです。限られた空間の中で他の人間と共同生活をすることで、社会性を身につけるということがとても重要です。子どもたちには、路上生活が象徴する自由しか経験が無いわけですから。


 そのため、まずは青空教室を入り口として、そこで最低半年間、私たちとの信頼関係を築けた子どもたちの中で、強い意欲を持った者がいれば、親を説得してシェルターに連れてくることにしています。 当初6人だった子どもは、現在30人に増えて共同生活を送り、近くの学校に通っています。この年には、新聞がエクマットラのことを記事にしてくれ、バングラデシュのひとたちの協力が集まるようになりました。子どもたちの里親になってくれる人も出はじめたのは、とても嬉しいことです。


最終目標は技術訓練センター(アカデミー)の創設


 さらに、現在のシェルターの規模では本格的な技術教育はできないので、技術支援センターを設立する構想を立てました。2008年9月に、ダッカから170`離れたマイメンシン県に、建設予定地として3.5エーカー(約4300坪に相当)の土地を購入しました。ここに建物を作って、最終的な技術訓練センターとして、子ども達が技術を身に付けて社会に出て行く場とする、というプロセスを考えています。つまり第1のステップは青空教室、第2のステップにシェルターがあり、その後もうすぐオープンするアカデミーで技術を学んで、1618歳になったときに社会に出て行く、という仕組みです。社会に出て行くときに、他の企業に就職してもかまいませんが、私たちとしては、彼らが身につけた技術が、私たちの収益となる事業につながる仕組みにしていきたいと考えています。


 具体的には、現在も簡単な「お菓子作り」をやっているんですが、アカデミーではオーブンなどを設置して、本格的にお菓子作りを実現していきたいと思います。彼らが技術を身につけて卒業する時に、ekmattraとしてお菓子屋さんを開くことができれば、子ども達の就職先にもなりますし、そうすれば、そこでの収益を次の子ども達への支援に回すことができます。

 この最終目標実現のめの資金作りとして、さまざまなことを試みてきました。2006年には映画制作の構想がスタート、20094月に『アリ地獄のような街』が完成しました。いまエクマットラの代表者になっている、映画監督Shubhashish Roy(シュボシシュ・ロイ)が監督した映画です。完成後、バングラデシュでも日本でも上映会を開き、チケット売上はセンター建設資金の一部に加えられました。これは、それこそ、はい上がるのがむずかしい場所に生まれたストリートチルドレンの絶望的な生活を、実際に起こった事件をもとに作ったもので、観るひとたちに現実を知ってもらうよき手段となっています。

 一番大口の建物建設資金については、バングラ・ダッチ銀行と何度も何度も話を詰め、やっと審査が通って、とうとう2010年、アカデミー建設資金が寄付されることになりました。これを知らされたとき、あまりの嬉しさに銀行を出たとたん、大声で「やったァ、寄付が受けられる!!」と叫んでしまい、びっくりした通りがかりの人までが、なんだか分からないけどおめでとう、と声をかけてくれた思い出があります。このおかげで翌年からアカデミー建設が始められたんです。


レストラン「ロシャヨン」のオープン


レストラン 「ロシャヨン」内装はエスニックな木彫で.jpg そして20114月には、レストラン「ロシャヨン」のオープンにこぎつけました。タイ、バングラ、日本料理のミックスの店で、焼き鳥もメニューにあります。単なる、資金集めのためだけでなく、店の名前「ロシャヨン」が意味するところは「化学反応」であり、いろんな人が寄り集まって和気あいあいと食事することで、互いの気持ちや考え方が自然に「反応」し合って変化し、より広い視野と暖かな心が生まれることを目的としています。同時にこのレストランそのものが、ストリートチルドレンの職場となり、自立して職につくための研修の機会となるよう考えて作りました、


 開店準備のためには、日本の焼き鳥屋で1週間見習いさせてもらい、作り方はもちろん、資金、仕込み、その他、店というものの経営全般について勉強させてもらいました。この焼き鳥屋さん、そして、イスラム教国であるバングラデシュなので、お酒やミリンが使えない点をカバーしてくれた友人には本当に感謝しています。


両親も見てくれた


 バングラデシュでの活動について、はっきりした承諾も得ずに日本から出てきてしまった自分ですが、青空教室をオープンして間もなく、両親が「本当に他人に迷惑かけずにやっているのか?」と調べにやってきて、エクマットラ活動の大学以来の仲間と、子供たちの大歓迎を受けました。いつものように、みんなで楽しく学習している様子をつぶさに見た父母は、心配や疑問もなくなった様子で帰国の途につきました。その機内で、父親が詠んだ句がこれです。


『ストリートチルドレン 胸に抱きたる わが息子 

    我が人生 意義ありと謝す』

父親がメールで送ってきてくれたこの句を読んだとき、言い尽くせない感動でいっぱいになりました。自分のやりたいことのために、勝手に日本から飛び出して、ろくに日本に帰ることもなく、プロジェクトに打ち込んできた自分なのに、そしてこれからも、人並みの親孝行もできないかもしれないのに、こんなにも分かってくれて、こんなにも自分の側に立ってくれたんだ、という泣きたいくらいの喜びでした。


世界でいちばん幸せな自分


watanabe2.jpg 2014年完成予定の技術支援センターは、子供たちが社会に出て、自立した生活を営むために必要な専門的技術・知識を身に付けるための全寮制の技術訓練学校となります。これを本格的なアカデミーとして運営し、卒業生に資格を与え、小規模な店舗、たとえば屋台みたいなものを持たせてやり、自分で営業させる。そして自分たちの後輩をかれら自身が指導するというかたちで、次の世代へのバトンタッチを実現する。ここまでやれたら、自分は日本に帰れるかもしれません。10年後か15年後か分からないけれど。


 素晴らしい仲間との出会い、数限りなく受けた親切、こういうことに恵まれた自分の人生はなんと幸せなのだろう。たしかに同世代の日本人と比べたら収入は極端に少ないでしょう。でも、誰よりも今を楽しんでいるという自信があります。いま、私は一人のバングラデシュ人として活動できている心情であり、このことを本当に誇りに思います。


最初は確かに「かわいそうだから」という気持ちがあったかもしれません。でも今はこの国のために何かできるということが、このうえなく誇らしい気持ちです。そして何よりも自分は世界でいちばん幸せな人間だと思えます。


あとがき


 渡辺さんは情熱の人、誠意の人です。インタビューの約束当日は、政治的な問題から、政府の反対派が全国で道路封鎖を実施し、わたしたち一般の在留邦人は、大使館から外出を控えるよう指示が出されていたため、動くことができませんでした。


 その危険なときに、遠くからバイクで、安全に注意を払いつつ、時間をかけて会いに来てくださいました。そんな苦労をなんでもないように笑って説明し、インタビューの約束をしっかり守ってくださったのです。

さわやかな日本男子。


 こういう方を育て、信頼して、バングラデシュという難しい国での活動を、応援しておいでのご家族は、なんと素敵な皆さんだろうと、ひときわ強く印象付けられました。


 たまたまバングラデシュに滞在したことによって、立派に、『外向きな活動』をつづけている若い人にお話しを聞くことができたのは、本当に幸運なことでした。


 担当ききがきすと:清水正子 


posted by ききがきすと at 15:34 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがき作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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