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2014年05月11日

奈良に生まれ育って

語り手:梅村 和子(うめむら かずこ)さん

生家は猿沢池のすぐ近く、奈良公園で遊んで


梅村さん.jpg私の子どもの頃や学生時代のことといっても、特別なことはなにもなかったように思うんです。生れは昭和2年ですので、青春の真っただ中がちょうど戦争でしたけど、生まれ育ったのが奈良でしたから、幸せなことに戦災に遭うこともなかったんです。


 生家は猿沢池のすぐ近くでしたから、奈良公園の真ん中に住んでいたようなものです。

 旧姓は石井といいまして、四代くらい続いた墨を商う古い商家で、京都の鳩居堂さんとも取引があったことを覚えています。昔々は油屋だったらしくて、「油源」という屋号を染め抜いた古い暖簾が残っていました。

 私は次女で、4つ上に姉が一人います。姉はおとなしくて、本当に誰からも好かれていました。勉強もよくできたものですから、時にはコンプレックスを感じるほどでした。小学校の成績は、いつも一番。6年生の時には、卒業式の総代にと言われるくらいでした。でも、総代には男の子がなるものという時代でしたから、問題になりましてね。それくらい、よくできたんです。私にも優しくて、自慢の姉でした。

 奈良には奈良女子高等師範学校(以下、女高師という)があり、みんな一生懸命に勉強して、女高師に行くことが、一つの望みになっていました。あの辺りでは、女高師は最高学府で、いい学校だと思われていましたから。女高師には、附属の小学校からだと進学しやすかったんです。ですから、私も附属小学校へ入り、附属高等女学校から女高師へと進学しました。

 当時の高等女学校は5年制でしたが、師範学校には4年生から入ることができました。だから、私は1年早く女高師を受験したんですが、その時には、作文を書かされて、試験は国語、数学、歴史でした。でも、今みたいに受験で一生懸命勉強しているというようなことは、いっさいなかったですよね。

 優秀だったんですねって、よく言われますけど、勉強なんて本当にしてなくて、巡り合わせがよかっただけなんですよ。今は奈良女子大学になっていて、難しくて、なかなか入れないみたいなんですけどね。

 先日、当時のことを沼津の友達と話したんですけど、あの頃の私たちは、とにかくお腹がすいていて、学校からさつまいも作りに行ったよね、って言うんです。本当にそうなんです。黒髪山っていう、近くの山へ行って、みんなでさつまいもを植えたり、水やりをしたり、おいも掘りしたり、そんなことばかりしていたように思います。さつまいもをみんなで分けて食べたとかね。

 そういう思い出ばかりで、勉強したって思いは本当にないですねぇ。英語も、高等女学校の3年生の時になくなりました。敵国語だからだめという雰囲気にどんどんなっていったんです。当時のことをご存じでなければ、なかなかわからないでしょうけれどね。

 そんな時代でも、皇族のみなさまが橿原神宮へいらっしゃった時のことは、鮮やかに、印象深く覚えています。偉い方が橿原神宮へいらっしゃる折には、奈良を通って行かれるんです。昭和天皇の時も、学校からみんなで奈良駅へ行きまして、陛下のお召列車の通過を拝みました。そういう機会が多かったのは、やはり、奈良にいたからだなと思うんです。

 長い戦争の間も、奈良は空襲を受けなかったので、何も燃えていないんです。もちろん、私の家も。日本中のみなさんがたいへんな思いをしていた時に、そのような苦労は、何にもなかったんです。

 ただ、B29が向こうから来るというときには、こうやって指さしてました。「この指に真っ直ぐ向かって来たときは、気をつけなさい。指から離れて行くときは、大丈夫だから」と、日頃から言いきかされていましたから。そんなことは身についていましたね。

 後に移り住んだ静岡の友達からは、空襲で焼かれて、たくさんの死骸を見たとか、戦災の苦労話をいろいろ聞きました。でも、私にはそういう経験が全くないんです。幼い時に見て育った五重塔や松の木。それが、今もまったく同じところにあります。そういう点では、奈良ってところに生まれて、本当に幸せだったなぁと思うんです。

朝に夕に仏様を拝み、鹿と遊んで


 何度も言うようですが、私の生家は奈良公園の目と鼻の先なんです。ですから、奈良公園のことはもちろん、鹿のこと、神社のこと、仏様のこと、そういうことを訊いていただいたら、お話しできますが、他に特別なことはないんです。

奈良では、正倉をはじめ、どのお寺へ行っても、古い仏様がいらっしゃいます。小さい時から仏様を見ていますから、仏様のお顔のすばらしいのはよくわかっているんです。いいなあって、仏様のお顔に、惚れ惚れするんです。


奈良公園の鹿.jpg 唐招提寺の鑑真和尚様は、今は建物の奥に置かれていて、決められた日でないと一般には観せていただけませんけれど、あの頃は、廊下に置かれていたんです。鑑真和尚様の肩をさすって、その手を自分の肩に持っていくと肩の痛みが治ると言われていました。私も鑑真和尚様の肩ばかりさすっていたのを覚えていますよ。


 東大寺や興福寺、秋篠寺とか、あの辺りにたくさんお寺がありますでしょう。今では、仏様は宝物館など奥まったところに置かれているんですけど、あの頃は、どのお寺に行っても、ほとんどの仏様が手の届くところにいらっしゃって、学生さんが百済観音の前にずーっと座っていたなんて話もありましたね。百済観音がいいとか、あの観音が好きだとか、そんなお話をいっぱい聞きました。どうしてそんなにいいのかしらん、なんて子ども心に思ったことでした。


 五重塔や二重塔、三重塔とかもありますからね。そういうところへ行っては、いろいろな仏様を見ましたが、中でも、私は、漆黒の菩薩様が一番好きでした。中宮寺の半跏思惟菩薩様です。小さい頃は、年寄りがいましたので、よく連れって行ってもらったんです。子どもでも好きになるんですよね。手が届きそうなところに菩薩様がいらっしゃって、そばに行っても怒られることもありませんでした。だから、撫でたりなんかしてましたよ。


今でも、奈良の古いお寺や神社の写真を見ると、当時を思い出して、「ああ、あのお寺も、こんなに有名なんだなあ」なんて思ったりしますね。この頃は、奈良へ行くこともなくて、本当にご無沙汰なんですけど、仏様は、いつまでも忘れられないです。小さい頃に、よく行って拝見していましたから、そのお寺の名前を忘れることがあっても、仏様のお姿やお顔は、今でも目に見えるように覚えています。そして、思い出すと心が安らぐんです。眠る時にも仏様のお顔を思い浮かべると、すぐ眠れます。

私は、ラジオ体操も奈良公園でしましたよ。つくづく、奈良公園で大きくなったんだなあ、と思いますね。奈良公園といえば、鹿でしょう。何でこんなに鹿がいるのかなあ、と思うくらいたくさんいましたね。その鹿が、しょっちゅう草を食べてますでしょう。だから、草刈りしなくてもいいんです。ずーっと食べてくれているので、それであの広い公園が、あんなに青々しているんですよ。

奈良の人たちは、鹿を神様のお使いと思って、大事にしています。三作石子詰之旧跡と書かれた碑があって、鹿を殺したっていう話が残っています。お習字のお稽古をしていた三作という名の男の子が、お習字の紙を食べに来た鹿に文鎮を投げるんです。当たり所が悪く、鹿は死んじゃうんですよ。鹿は神のお使いと言われていますから、三作は、まだ小さな男の子だったのに罰を受けて、死んだ鹿と一緒に小石で生き埋めにされるんです。その碑が近くにありましてね。鹿を殺したら、あんなふうになっちゃうって、小さい頃から、言われたものです。


それから、奈良の人たちは、朝、早起きなんですよ。どうしてかっていうと、朝起きて、もし自分の家の前に鹿が死んでたら、たいへんな目に合うからです。万一そんなことがあれば、その鹿を隣の家に運ばなくてはいけないので、早起きするなんて言われていました。それくらい、鹿になにかあったら、たいへんなんです。それほど大事にしていたんです。


戦争中は、おいもぐらいしか鹿にあげられなかったですけど、食べ物がないからといって悪いことをするようなことはなかったですね。鹿は公園にいて、夕方になると鹿寄せの笛が吹かれます。とてもいい音でした。その笛で、鹿は集まってきて、餌をもらいます。寝るところはちゃんと囲いしてまして、そこで寝るんです。よく人に慣れていて、おとなしいですよ。そんな環境でしたから、私は奈良公園で鹿と一緒に大きくなったようなものです。


仕事も、結婚も、子育ても


女高師の頃は、ちょうど戦時中でしたから、学徒動員がありました。奈良には、動員先となるようなところがなかったので、舞鶴の海軍工廠に行きましたね。そこにはいろんなものをつくる工場があって、私たちは鉄板をぐーっと曲げて、丸くする作業をしていました。それは、魚雷の部品だったんですね。こんなふうに丸くしましてね。そのお手伝いですけれど。


終戦は舞鶴で迎えました。動員で舞鶴にいたのは、1年くらいだったと思います。それから猿沢池のそばの家に帰り、学校に戻ったんです。


女高師を卒業したのは、昭和21年だったかと思います。その後、学校の先生になったんです。当時は、高等師範学校を卒業すると、先生になるよう決まっていましたから。


また、先生になるためには、マッカーサーさんの試験を受けることも必要でした。終戦後は、マッカーサーさんが日本で一番偉い人でしたので、先生になれるかどうかっていう許可をもらうのもマッカーサーさんからだったんですね。女高師を卒業しているだけではなくて、この試験にも合格していましたから、就職の時は楽で、先生にはすぐなれました。


まず、奈良育英という私立の女学校の先生になりました。今は育英高校っていうんですけど。家から通えるところで、2年くらいは勤めたように思います。教えていたのは、家庭科で、衣食住の全てを教えましたよ。和裁も洋裁も、なんでもやらなくてはいけなかったんです。料理はもちろんです。私の専門は栄養の方でした。栄養や食の教育については、今ではテレビでもよくやっていますが、随分変わったように思います。


花嫁姿.jpg結婚したのは、昭和25年頃だったでしょうか。舞鶴の海軍工廠へ行った時に、海軍技術士官だった主人と出会いました。今では考えられないけど、その頃は海軍の兵隊さんが、一番格好良かったのよね。主人は海軍の制服でね、高等官食堂へ行くんです。私たちは学生ですから、もうボロボロの、豆の粕が入ったお弁当を食べているのに、高等官食堂を覗いてみたら、みなさんフォークで食べているのね。それほど違っていましたよ。すごいなあって思いました。私たちの先生も女高師だから、高等官なのよね。高等官食堂へいらっしゃるわけです。私たちはお弁当なのにね。


主人との馴れ初めは、長い話になりますよ。きっかけは、私が舞鶴に行って、一生懸命やっていたのを向こうが見て、それで、声をかけられた、ということですよ。主人は、私より4つ年上でした。


生家は古い家でしたから、親は私を奈良から遠いところへは出したくなかったし、私自身も出たくはなかったんです。嫁に行くとしても、奈良からは一歩も出たくないと思っていました。主人の実家は名古屋でしたが、戦災にあって、家も焼けていたんですよ。だから、私に名古屋へ来いというわけにはいかず、結婚について言い出せなかったようです。


主人は、終戦後は、しょっちゅう、名古屋から関西線で奈良へ来ていました。でも、親は、結婚なんてだめだめ、って。私も結婚なんてつもりもなかったし、向こうもそんなに急がなかったですね。ただ、通って来てたんですよ。


結婚したのは、舞鶴で出会ってから、ゆうに5年は経とうという頃でした。主人の粘りが実るかたちで、やっとでしたね。実家は、姉が酒屋から養子をとり、継いでくれていました。


その頃、主人は親戚のつてで犬山に家を借りて、勤め先だった三菱電機の名古屋製作所に通っていました。ですから、私は結婚して、犬山にある県立高等学校で先生になりました。働きながらの結婚生活でしたね。当時は、先生が足りなくて、来てくれ、来てくれと言われて、先生になったんです。


家族写真.jpg昭和27年に長男が、昭和30年に次男が生まれました。長男が生まれても、しばらくは先生を続けていましたね。でも、先生の給料は少なくて、主人が勤めていた三菱電機の方は給料が悪くなかったものですから、先生を辞めるように言われました。それで、教師を辞めて家に入りました。


その頃には、犬山の家も引き払って、主人の勤務先に近い名古屋市内の清明山に移っていましたね。


次男が生まれた翌年の昭和31年には、主人が静岡製作所に転勤になりました。それからは、ずーっと静岡で暮らしました。主人は49歳で亡くなりましたが、ちょうど長男が大学を卒業する年で、三菱電機から長男に、入社すれば静岡製作所に配属しますと話がありました。それで、長男も三菱電機に勤めることになったんです。

その後、長男は静岡製作所で所長まで務めたんですが、東京の本社に転勤になり、今もこちらにいます。次男は大学を出てから新聞記者になり、今は、こちらです。私は、しばらく孫と一緒に静岡にいたんですけど、身体の調子を悪くしてしまい、一昨年の7月にこちらの施設に移ってきました。


今、仏様とともに在る幸せ


戦争という時代ではあったけれど、振り返ってみると、私って苦労はしてないんですよね。友達の中には、あの時代は、これ以上はないほどの貧乏をして、お芋の茎ばかり食べていたと言う方もいます。私もお芋の茎は食べましたよ。でも、これ以上はない貧乏ってことではないんです。古い家でしたから、何でもやりたいことはやらせてもらいました。


また、しっかりしている姉がいてくれましたから。私が、今ここにいるのも、姉がずっといろいろアドバイスしてくれたからです。私がちょっと悪いことをすると、ああいうことをしてはだめよ、こうした方がいいのよ、とか言って、ずいぶん助けてもらったものです。


母も割合に長く元気でいてくれて、奈良から名古屋へ帰る私の汽車賃まで心配りしてくれました。母が亡くなって、姉の代になっても、それはちゃんと続けてくれました。姉が何かと気遣ってくれて、これで行きなさい、こうしなさい、って、お母さんがわり。姉のお蔭で、今があるなぁと感謝しているんです。


主人も、それはいい人でしたからね。動員に舞鶴へ行って、一番得をしたのは私だって、友達から随分言われました。どうしてって尋ねると、ご主人と一緒になったから、いいって。羨ましがられていましたよ。


ここに来てからは、二人の息子が近くにいてくれますので、安心しています。みんなに、幸せねって言われますけど、本当に、そうですね。若い頃は、私には男の子しかいないので、女の子が欲しいなあって、よく思ったんですよ。でも、今は、次男がよく私のことを気遣ってくれて、身の回りのことはなんでもやってくれます。だから、何にも心配はないんです。


私は奈良の古い家に生まれて、なにも不自由に思うことなく育ててもらいました。また、子どもの頃から毎日のように拝んでいた仏様が、今も、すぐそこにいてくださいます。目を吊り上げたような仏様じゃないですからね。何でも受け入れてくださる優しい仏様の顔でしょう。いつまでも忘れられないですね。だから、本当によかったですよ。


主人も本当にやさしい仏様のような人でしたね。そう。だから、私もよかったんだと思います。幸せですよ。


あとがき


 相生の里のお部屋にお訪ねしたとき、和子さんは色白のお顔に優しい笑顔を浮かべて、私たちに声掛けをしてくださいました。そのふわりとした雰囲気に、初めての対面に強張っていた私の心の糸が、ゆるゆるとほどけたように思えます。にこやかで柔らかなお人柄が、今も心に印象深く残っています。


特別なことは何もなかったのよ、どんなことを話せばいいのかしらと、しきりに気にしてくださったのですが、お話が進みますと、奈良という特異な舞台ならではの思い出話が次々と披露されました。あの時代を思うと、たいへんな思いをされたことは間違いないのですが、それを苦になさってないのは、明るく、のびやかな性格で乗り切ってこられたからだろうと思います。そんな和子さんだから、ご主人も惹かれたのでしょうね。

また、和子さんは口癖のように「幸せなんですよ」「お陰様なんです」と繰り返しおっしゃいました。奈良での仏様との思い出が、いつまでも和子さんの心の拠り所となっているように感じました。そして、仏様を忘れず、人への感謝の思いをいつもお持ちになっていることが、心の支えともなり、ずっと和子さんをお守りしているように思えてなりません。


和子さん、これからもお元気でお過ごしくださいませ。ありがとうございました。


担当ききがきすと:鶴岡香代


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2014年05月11日

ペルーで変わった仕事の仕方 〜福祉の仕事をデザインする〜

語り手:三谷 求(みたに もとむ)さん

ペルーでの原体験が仕事の基本に


三谷さん.jpg 私は18歳で愛媛から大阪に出て働きながら、夜、デザインの専門学校に行きました。当時はデザイナーになりたくて、デザインの勉強をしてたんですけど、学校を卒業する前に就職が見つかったので、大阪の会社でアクセサリー・デザインの仕事をしてたんですね。会社でアクセサリーのデザインをしながら、東京への営業、イトキンとかエトワール海渡とかにも行っていました。

バブル崩壊の前だったので、ものすごく売れていて。その頃、海外旅行に一人で行くということを始めたんです。仕事は私の生きがいで、当時は面白くてしかたなかったですね。自分で売って、またデザインして、作って。小さな会社だったので、営業まで全部一人でさせてもらってました。


それがすごく楽しくて、もう少しスキルアップしたいという思いと、海外で生活したいという思いがありました。「兼高かおる世界の旅」を子どもの頃から見ていて、海外で生活したくて。ペルーか、中国か、トルコのどこかに行こうと思っていました。どこも細工ものが多いんですよね。宗教的なことでトルコはやめて、中国も当時は国交が正常化してなかったので、近いから年を取ってから行こうと。


結局、ペルーの銀細工を勉強しに行こうと。無謀にも知り合いもなく、言葉も知らないで行って、そこで2年半を過ごしたんです。内戦があっても、中の人たちは普通に生活していました。

ペルーの北部の町に銀細工の村があって、そこに学校があったんです。1年ぐらい経ったときに、そのことがわかって、その学校に入学をして、銀細工の勉強を1年ほどしました。


日本人は見たこともない、私が初めてというような小さな村だったんですが、そこでの生活が面白かったですね。仕事に対する思いが変わったのは、そこでです。それまでの日本はバブル崩壊前で、景気がよくて、時間に追われて、忙しいことが美徳のような流れでした。ペルーではお金もなくて、生活費もなくて。カナダ人の宣教師の教会だったんですが、そこに下宿させてもらって、子守してくれれば置いといてあげるって感じだったんです。


たまに、お手伝いで、その教会に来る貧しいおばあさんたちと一緒に仕事をするんです。日本だと1枚の型があれば、紙を5枚合わせて1回で切りますよね。そうしたらすごく怒られて、なんて怠け者なの、って言われて。早く終わらせた方が優秀なんじゃないのかって思っていたのが、明日の仕事がないじゃないの、って言われて。


そうか、仕事は長引かせないとお給料もらえないんだ、と気づいて。本当に目から鱗でした。「仕事っていうのは、早く終わらせるだけが全てではないんだな。家族のために、一つの仕事を三つに分けてでも引き延ばすことも仕事なんだ。この国のここでは、そうなんだ」って思いました。


マチュピチュ.jpgそれまで自分がやってきた「あぁ、忙しい、忙しい」という、早く次の仕事に移らなくてはいけないっていうような常識は、その国のそこだけに通用することだと思いました。で、仕事に対する見方が、そこで本当に変わったんです。Aさん、Bさん、Cさんのそれぞれに仕事のペースがあって違っているのに、自分の物差しでは計れないって、その時に思って、それから働く姿勢がすごく変わってきたんですよね。


福祉の仕事をデザインする


学校を卒業して1年経って、日本人は強制的に帰らなくてはいけない状況になりました。成田から妹がいる東京に帰る電車の中で、「なんでみんなこんな暗い顔しているんだろう。お金があって明らかにペルーよりいい生活しているのに、この疲れ切った様はなんなんだ」と思ったのが、福祉の仕事に入るきっかけになりました。ちょっと待てよ、人間って本当に面白いものじゃないかなって思ったんです。銀細工するにしても、いろんな器械が必要だったりするし。


まず、介護の仕事に就きました。当時は、まだホームヘルパー2級っていうのはなくて、要介護の家族を看る講習会っていうのがありました。そこから入っていって、知的障害者の施設とかで働いたりしたんです。視覚障害者のガイドヘルパー(以下、ガイドという)の資格も取りました。しばらくたって、足立区の社会福祉協議会が職員募集をしていたんで、受けたところ、採用に。そこで、コーディネーターとして2年間仕事しました。


そのうち、なんだ、このお役所的な仕事の仕方は、と思うことがありました。例えば、自然災害の場合には、いつガイドサービスをキャンセルしたら費用がかからないのかとか、積雪の時のキャンセルは雪の深さを測る必要があるのですが、目の見えない人がどうやって測るのかとか。使いやすいシステムに変えてくださいって言うと、自分でやればって言われました。やっていいのかなって思って、NPO法人についていろいろ調べて、自分で始めたんです。


お役所的な制度と実際が合ってないというところがずっと疑問で、そこで、おとなしく「はい、そうですか」って言っておけば、社協の職員でいられたのに、自分でやったがために忙しくなっちゃって。でも、仲間がいて、私もそう思うって言ってくれたガイドさんたちや、私も三谷さんとこへ行きたいっていう利用者さんがいてくれたので。社協からはすごく恨まれたんですけど、すぐ潰れるとかなんとか言われながら、結果として続けられてきたのは、不思議なんですけどね。


いつも私は、仕事の力は8割で、2割の力は余力として残しておかないと、いつも全力では折れちゃうと思っているんです。なので、しっかり遊び、気分転換も必要です。この頃では任せられる人もできてきたので、仲間のガイドさんたちと温泉に行ったり、栗拾いに行ったりとかそういうこともして、いい方向になってきたかなと思っています。

利用者さんについても、普通は利用者様って呼ばなくちゃいけないんですが、みなさん、名字で呼ぶし、その人たちのことも障害者扱いしないし、スタッフもみんな普通に接しています。だから、居心地がいいのか楽しみにきてくださっています。


組織での仕事で大事なのは、役割分担ですよね。高齢者の支援をやっている足立区の古い派遣センターで仕事をしたことがあったんです。その時、お役所にはすごく丁寧な言葉を使うんですけど、ホームヘルパーさんに対しては、自分の都合のいい人にしか派遣しないとか、おかしいんじゃないかなって思いました。


働く人も依頼する人も事務局も、同じだろうって思っているんですよね。仕事がなければ派遣はできない、派遣がなければ利用者さんが困るっていう堂々巡りです。だったら、立場は違っても、同じじゃないか。ただ、役割が違うだけだと。利用者さんからは仕事もらわなきゃいけないし、ホームヘルパーさんはホームヘルパーさんで、仕事に行ってもらわなきゃならないし。みんな同じですよね。


私は代表ではあるけれども、偉いわけでもなんでもない、ただの電話番だって言います。雑務は私がこなすし、けんかも私がするから、あなたたちは安心して仕事に行ってちょうだいって言うんです。


利用者さんにも、私がガイドさんを大事にするのは、あなた達のためなんだよ、って。三谷さんはガイドの味方なんだよなって言う人もいるけど、それはひいてはあなた達のためでしょう、ガイドさんが辞めたら困るでしょう、って言うんですよ。


私は役所からはすごく嫌われているかもしれない。でも、役所からの仕事も私は断らないんです。たいへんな人のところへお話に行ってという時にも、行きますって、できることは引き受けます。それに関しても実績をつんできたのかなと。言うだけのことを言うからには、やることはやらなくちゃいけない。


また、ガイドさんたちには、常に仕事として動いてもらわなくてはいけません。だから、うちではボランティアはやらない。お金は全部払います。たとえ、事業収入が入る仕事でなくても、ガイドさんには払うんです。赤字になっても払います。そうしないと生活は守れません。会社としては、べつに儲けなくていい。みんなが給料もらえればいいじゃないかと思っています。


収入は介護報酬に頼っているわけですが、国がこの仕事に理解を示さないんですよね。高齢者の方には理解があるんです。だけど、うちなんか高齢プラス障害があるので、ダブルでもらいたいくらいなんです。でも、今以上は事業所が増えないということは、利益が出ないからなんですよね。


仕事が段々増えてきてはいるんですけど、それは助成金を受けているとか、委託事業があるからです。だから、まるっきり民間で介護報酬だけでやっているところは増えません。もうちょっと、そこらへんのところを理解して欲しいんです。なんたって、視覚障碍者の支援をしているのは、民間ではうちぐらいしかないですから。他のところはすべて公的なところなので、うちは別に困っていないとなっちゃうんですよね。


当事者である視覚障害者の人たちが動かないと、国とかは動かせない。でも、その人たちには、常に必要な派遣はされていますから、別に困らないんです。わざと困らせるってできないですよね。ストライキってわけにもいきませんから。なので、仕方ないのかなぁ。

     

 また、頻繁に制度というか、名称が変わっちゃうんですよね。「移動支援」から「同行援護」になるとか。その度に定款を直すことに。私たちが頼んだわけではないのに、国が勝手に変えといて、定款変えなさいって言われて、本当に無駄が多い。まぁ、でも、仕事できているから、今のところ。


人はみ違う、だから面白い


だけど、後継者を探すのは難しい。だって、こんなたいへんなこと誰がやるの、そういう感じです。私が倒れたら、終わっちゃう。いざとなったら、今いる職員、スタッフが何とかしてくれるとは思うんですけどね。今、私の口からは言えないですが、多分動くとは思うんです。随分できるようになっていますから。それまでの様子見ですかね。


ガイドってマンツーマンでする仕事なんです。事務もマンツーマンでしているので、その事務も交代はできないんですよ。派遣の請求システムとして国がつくったものは、ものすごくややこしくなっていて、それを普段から皆に教えるのかっていうと、守秘義務もあり、なかなか難しい。あなたもできるようにしてねって、AさんにもBさんにも教えるってできないですよね。


今、事務的な仕事をしているのは、私ともう一人います。この人は事務的なことから派遣まではできるでしょうけど、そこからはこれからですね。周りもね、まだ動いているからいいだろう、三谷さんがいるからいいだろうと思っている。


やり方を変えれば、その人なりのカラーでできると思うんですよね。私のように、イノシシみたいにダーっと行かなくても、やんわりといけばいいと思うし、何とかなる。うちが辞めると、バーっと散らばっちゃう利用者さんたちを受け入れるところもないんで、それは区の方も困るのかもしれません。


問題山積みで、一つ終わったら、また新たな問題が出るのですが、その度に、仕事が人生じゃなくて、遊びも必要だし、気分を変えたいし、ってとこですね。ほんと、仕事づけは嫌だな。毎日が日曜日でなくてもいいから、たまには日曜日欲しいな、みたいなね。仕事は自分でやっているから、嫌いではありません。ただ、楽なことではないなって。年中無休の仕事ですから、私がこうしている間にも仕事している人がいるわけですよね。怪我がないようにとか願うだけだけど。


これまでのメンバーについて振り返ってみると、最初に立ち上げた時の人が合わなくて、出て行ったんです。制度を無視していたので注意をしたんですが、辞めてしまって。その時に、その人が連れてきた利用者さんが、ごっそりいなくなったんですよね。


でも、誰一人心配しなかったんです。大丈夫じゃない、って。だから、あんまりたいへんって感じもなかったんですけど。・・まぁ、常にたいへんでもあるんだけど、メンバーがよかったですよね。大丈夫よ、仕事少なくなってもいいからっていう感じでしたから。で、蓋開けてみたら、全然減らなくて、よかったです。

日々いろいろありですけどね。でも、後に根に持ってもしょうがないし、そんな性格でもなかったので、よかったのかな。メソメソしてたらやっていけない。


例えば、私だって、10人、20人いるガイドさんの中には、気の合わない人だっているわけですよ。でも、私と気が合う必要はないんですよね。利用者さんと合って、楽しく仕事に出てれば、どの人も必要な人材で、人が財産です。

よく、代表と気が合わなくて辞めたとかありますが、私と合う必要ないじゃない。利用者さんと合って、行ける人のところへ行ってくれたらいいって言っていると、その人はその人なりに働いてくれるし、すごくいいなと思うんですよね。


人って、パズルじゃないけど、必要なところにはめ込むっていうか、マッチングさせるのが、コーディネートの面白さじゃないですか。ガイドさん同士で気が合う必要もないし、合う人もいるだろうけど。そういう目で見ていると、苦手だなと思っていた人もなんとなく理解できてきて、あぁ、こういう人なんだなって思える。人間って面白いですよね。人間なんてみんな違うから面白い。自分みたいなのが、10人いてごらんなさい、って感じです。上の立場の人は、そこは認めないといけないと思います。


私も、いろんな国へ行って、いろんな人と会う中で、そう思ってきました。違ってないと面白くない。役所の中にも、すご

くいい人もいるし、親身になってくれる人もいます。基本、みなさんいい人で、制度の狭間でぶつかるだけです。

今度飲みにいきたいですね、って言ってくれる人もいますよ。実際には行くことはないですが、そんな中で仕事できるのは、自分でやっている醍醐味もあるなと思うんです。こういう仲間が増えてくれるといいなと思います。


福祉の仕事をデザインする


事業所をやりたいという相談があるんです。ぜひ、やってください、知っていることはみんな教えますよ、って言うんです。ノウハウには何の秘密もないので、やってください、って。でも、なかなかやってくれる人がいない。山形とか2〜3件、相談もあったんですけど。障害に限定しているので、競合も少ないんです。高齢者向けのサービスはたくさんありますが、障害者となると少なくなりますよね。だからこそ、必要だというのもある。


全国にそういうネットワークがあって、例えば、東京の人が高知県に行くので、高知県のガイドさんが高知の空港で待っているという場合もなくはないんですよ。だけど、そうするには両方に登録するとか、すごく手間がかかって、目の見えない人がどこまでできるのかっていうことが、すごく疑問です。


飛行機に乗せてくれれば、降りたところで、出迎えてもらえる。そういうシステムがあれば、もっと障害のある人も動きやすくなりますよね。独居でも動ける。若い人には、そういう人が多いですよ。いろんな活動をしている人もいるし。サッカーで、ブラジルに行ったり、ロッククライミングをやってる人もいるし。応援したいんですが、なかなか思うようにいきません。制度が問題です。


情報発信も大事で、もうちょっとパソコンも勉強しなくちゃいけない。やろうと思うと切りがないです。ブログとかフェイスブックはやっているんですけど、なかなか特定の人しか知らない。視覚障害者のガイドや制度については、詳しく書くんですけど、見たかなあ、って程度ですね。

地方によって制度が異なり、一人当たりの視覚障害者の使える時間も違っていて、全国統一してくれないと困るんです。


でも、うちの田舎なんか人口少なくて、しかも地域が山だとかだと、ガイドさんが行けないくらいの距離のところもあり、そうすると難しいですよね。そういうところの障害者って、もう引きこもっているしかないのかなぁ、って、心配なんです。できれば、少しでも楽しんでもらいたいですね。


まだまだ難しいところです。やっていくと面白いんですけど、一つ手をつけると終わらなくなっちゃうし、今あることで手いっぱいのところもあるし、ね。ちょっと過渡期っっていうのかな。もう一つってところです。


みなさんの歴史を書き留めておきたいという思いがあるんです。時々、すごく面白くて、私たちの意表をつく答えを言てくれる人とかもいるんですよね。だから、あぁ、こういう思いもあるのかなぁって知ったり、聴き出すことも勉強していきたいんです。表に立って喧嘩ばかりしてないでね。(笑)


あとがき


三谷さんと私は、ききがきすと養成講座で同じ受講者として出会いました。講座のワークショップの中で、「私と仕事」をテーマに、お互いの話を聴き書きし合った仲間です。聴き手の未熟さにも関わらず、三谷さんが語ってくださった仕事についての経緯や考え方は、日本の狭い枠から飛び出したような幅の広さや面白さがあるものでした。豊富な内容に、思わず「そうそう!」と頷きながら聞いていました。


ペルーの片田舎のおばあさんたちとの作業の中で、人も仕事もそれぞれでいいんだと気づき、仕事への姿勢が大きく変化したと話されていたことからも、NPO法人代表でありながら、仕事を管理するというより、仕事を楽しくデザインしているという印象を持ちました。人はみんな、違っていい。違っているから、面白い。当り前にそうおっしゃる、軽くて、明確な口調に、不思議な説得力があります。

私も、こんな上司と一緒に仕事したかったなぁ。 

  (聴き書き担当 鶴岡香代)


*この聞き書きは、2013年のききがきすと養成講座の受講生が、実習としてお互いの話を聞きあって仕上げた作品です。

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2014年05月05日

エクマットラ 〜バングラデシュのストリートチルドレンと共に

語り手:渡辺大樹(わたなべ ひろき)さん

ヨットに夢中の4年間

watanabe1.jpg大学時代は地理学専攻でしたが、勉強は卒業のための単位をぎりぎり取ることだけやって、あとはヨットに全ての時間をそそぎました。ヨットのレースをいかに進めるか、いかにチームを勝たせるかですよね。本当に好きでした。

 高校時代に一生懸命やっていた野球は、ひたすら苦しい練習と、ときどき勝利するわずかな喜びの日々でしたが、ヨットは苦しい練習さえ楽しいものに思えるという、楽しさばかりだったと言えます。もちろん、つらいことも、大変なこともあったのですが、でもそれさえ全部楽しかったですねぇ。

 いかに人を巻き込んで、いかにチームを作って、いかにモチベートしていくか、もちろん自分もモチベーション上げながら、仲間とやっていくのが楽しい。人が見ているからこそ、仲間が見ているからこそ手を抜けないし、逆に個人競技だったら手を抜いてしまうこともあるかもしれない。とにかく団体競技がすごく向いていました。

 理科系ではないし、物理なんて苦手の自分なんですが、練習が終わって、みんな帰ってしまった後に、ひとりでヨットの艤装や帆の角度を、改善改良する試みをやっていました。この箇所を1oあげるとどうなるか、もう少し変えるとどうなるか…と、夢中になってヨットの帆走を有利にするために工夫し続けたんです。

自分を捧げたヨットがおわって

こうして、在学中にすべてをかけて臨んだヨットのインターカレッジ予選を通過、大学の創部以来初めての種目で、全国大会に出ることができて、自分をそっくり捧げてきたものが終わりました。

 この年末に、たまたま先輩に誘われてタイでの国際大会に参加したのですが、それも終わった後というのは、今まで自分が向ってきたものすべてが無くなって、カラッポになった状態でした。おまけに競技が終わると、周りはヨットを趣味とする人たちですから世界中の金持ちばかりで、豪華なパーティーに招待され、それこそめったにない世界を経験していたんです。

果物売りの少年.jpg まさにこのとき、大会行事の移動のため2階建てバスでスラム街を通り、ふと窓から見下ろした瞬間、貧しさの極みのタイの子供と眼が合ってしまったんです。その一瞬、自分は何をしているのだろう、と衝撃を受けました。自分はたまたま日本に生まれ、気の遠くなるほどの将来の選択肢にめぐまれている。片や、タイのスラムに生まれたばかりに、一生こういう生活から抜け出ることができない少年がいるという不公平さ。カラッポの心にスッと憤りが入り込んで、それが今の活動の原動力になったのじゃないか、と思います。

 もし自分という者が存在することが、そして、その自分が努力することが、たとえ何百人、何千人の子供たちの人生を変えることはできないにしても、ひとりでもふたりでも、その子供たちの人生を変えられるなら、素晴らしいことなんじゃないか、それこそ人生の意味があるんじゃないか、という思いが生まれてきました。
 そして、タイでのこの想いが、なぜかすぐ、「世界の最貧国のひとつバングラデシュ」 というイメージに結び付き、バングラデシュに来ることに決めました。小さい頃から「貧しい国」というイメージがあったのかもしれません。

家族の考えはちがった

もちろん、バングラデシュに来ることについては、かなり長いあいだ、家族との意見が食い違っていた時期がありました。両親は、「ひとりでバングラデシュに行って、他の人に迷惑かけずにやっていけるのか? 力になるどころか、周囲の助けを呼ぶような結果になるのではないか?」 という反応でした。これは、ただ反対するのとは違った「すすんだ心配」だったと思います。これに対して自分は、「行ってみなければ分からない、多分やり抜くことができると思う」 という主張を展開するしかなく、しばらくの間はこういった意見の対立が続きました。 

 最終的には、「両親がこういう自分を産んでくれたために、こういう自分の信念が出てきたのだから、この選択を認めて欲しい」という、いま思えば説得とは言えない説得で、なかば強引に押し切るようなかたちで、出発してしまいました。

 のどが渇いても飲み物は買わずにがまん、バスに乗るところも歩いていく、という節約に節約を重ねて、一生懸命貯めた80万円だけを懐に、ひとりバングラデシュに来てしまったわけです。NPOや海外青年協力隊の一員として、渡航する選択肢もあったとは思いますが、、まず最初は自分の眼で見てみたいと思ったんです。もしひとりでやって、何もできないと思ったら、そこで初めて団体に所属すればいい、と思いました。

ベンガル語をお茶を飲みながら学ぶ


街のお茶屋さん『チャドカン』.jpg バングラデシュに来てから1か月は、お茶を飲みながらベンガル語を勉強するのに費やしました。

 バングラデシュの街を歩くと、至る所に小さなお茶飲みの場所があります。たいていは屋台でお茶を沸かして人々に飲ませてくれる店ですが、中には地面に座って路上でお茶を売っている場所もあります。


 こういうお茶飲み場を「チャドカン」と言います。ここでお茶を飲みながら、皆で主人を囲んでおしゃべりを楽しむのがこの国の風習ですが、私もここでベンガル語を学びました。 一日に10か所も20か所もまわって、おしゃべりの中でベンガル語を習ったわけです。いわば活きた学習方法ですか。


ダッカ大学に強引入学

 無鉄砲だった私は、数年間滞在するつもりで、バングラデシュに来たにも関わらず、持っていたビザは3ヶ月の観光ビザという状態でした。国立ダッカ大学に入学すれば学生ビザが取れると知り、またベンガル語をしっかりと学びたいという気持ちもあってダッカ大学に入学することを決めました。ただその方法も、今から思えばまことに無鉄砲なやり方でした。

ダッカ大学クリムゾンホール.jpg もう学期はスタートしていたので、入学審査担当官は「学期の切り替えまで、1年くらい待つよりないだろう」と言うのですが、自分は「いや、待てない、どうしても今すぐ入学させて欲しい」と粘りました。自分の話すベンガル語を聞いていた担当官は「それだけ話せるなら講義についていけるだろうから、まァ、いいか」と承認してくれました。柔軟といえば柔軟、ちょっといい加減かなあ。お茶屋で鍛えたベンガル語が役に立ったわけです。こうして学生ビザもとることができ、ベンガル語もしっかりと学び始めることができました。2003年1月のことです。


エクマットラの誕生


 大学入学後は、勉強のためブツブツ単語を唱えながらキャンパスを歩いていて、話しかけられたり、青空のもと、楽しくギターと歌の演奏をしている学生たちと親しくなったりと、さまざまなかたちで友人が増えていきました。そのなかに、貧しいために悲惨な境遇にある、ストリートチルドレンの問題に心を痛め、何とかしようと考えている仲間がいることが分かってきました。

 その仲間たちと一緒に街に出て、半年ほど路上に住んでいる人たちと話をして、調査をしました。みんなで校庭の芝生にクルマ座になって座り、議論に議論を重ね、時間をかけて確実に、自分たちがやりたいことの絵を描いていきました。


バングラデシュ国旗.jpg これがekmattra(エクマットラ)の成り立ちです。「エクマットラ」とは「皆で共有する一本の線」という意味で、遠くはなれてしまっている貧困層と富裕層を限りなく近づけて、1本の線にすることを目指し、バングラデシュ国の問題は、バングラデシュの人たちがみずから直視し、解決を目指すのだ、という理念を表します。豊かな国の援助に頼るというかたちでは、 いつまで経っても国の自立は難しいものです。


 自国の問題を他の国任せにせず、自分たちで解決・改善できてこそ、その国の発展はある、という自明の論理の展開でした。他の団体が実施中の期限つきプロジェクトを見て、海外からの援助に頼ることの問題点に気づかされたのもこの頃です。


 エクマットラ創設者のうち9人が、今も変わらずこのプロジェクトを手がけ、絶えず議論をつづけて、より理想的な将来像を練り上げています。この仲間と出会えなかったら、おそらく1年か2年いただけで、自分は何もできないんだ、とシッポを巻いて帰ることになったんじゃないかと思います。          


まず「青空教室」


 20039月に青空教室を始めました。皆で路上調査をしてみて、子供たちの将来をふさいでいるものは、社会だけでなく、その親たちである場合もある、と分かりました。なぜかというと、親にとって子どもは「稼ぎ手」なんですね。子どもが1日ごみを拾ったり、鉄くずを拾ったりすると、わずかな額でも収入となります。だから子どもが学校へ行くようになると、この日銭がなくなってしまうので、親は子どもの教育には良い顔をしません。

 たとえばバングラデシュでは、非常に多くのNGOが活動していて、ストリートチルドレンに対しても、多くの支援がされています。しかし母親が娼婦だったり、父親がヘロイン中毒だったり、どちらかと言うと「社会の落ちこぼれ」のような親は、自分達のためだけに、子どもたちを収入源としてしっかり確保しておきたい、と考えがちです。そして、そういった親を持つ子どもたちは、こういうNGOの支援を受けられないことがあると分かりました。そこで、自分達としては、親が理由で支援を受けられない子どもたちを、何とかしていこうという方針が固まってきました。


 まずは親に対して話をすることから始めました。話を聴いて回った地域は「娼婦街」だったのですが、そんな地域で外国人の自分が話かけることは、とても危ないことで、最初は、リンチにあいそうになりました。娼婦の人たちは夜に仕事をして、昼間はみんな疲れて寝ているので、夕暮れ時しか話せないんですね。そうすると、結構、あたりが暗いし、怪しい人が集まってきたりということがありました。それから、今でもあるのですが、その頃は特に、外国人による「人身売買」が多かったようで、私も外国人ということで間違えられたことがありました。大人数に取り囲まれ、「二度とここに来るな。今度来たら、ただじゃおかないぞ」とリンチにあいそうになって。


 その時は「わかりました」と言って帰るのですが、そこで諦めたら何にもならないので、毎日毎日行きました。結局1ヵ月半くらい通いつめるうちに、本気だと分かってもらえたんです。特に、その地域のボス的な娼婦の人がいて、その人が皆に先立って理解してくれたのが大きいですね。それまでは自分の過去のこと、子どものこと、なぜ娼婦をしているか、などについて口を閉ざしていたのですが、だんだん話してくれるようになりました。「自分の娘にはこういった仕事(娼婦)はして欲しくない」「本当はもっと幸せな生き方を選んで欲しい」と。でも「そうするための方法は分からない」というのが本音でした。


親たちも巻き込んで


子どもたち.jpg そこで、私たちが青空教室をやっていることや、計画中のシェルターホームのことを話しました。たしかに日々の収入を得るためには、子どもを手元においた方がいいでしょうが、子どもたちが教育を受け、さらに技術訓練を受けることで、何年か後に仕事につけて生活できるようになったら、子どもにとってもあなたにとってもプラスではないですか、と説得したのです。


 とはいっても、やはり説明だけではなかなかピンと来ないようなので、「まずは、とりあえず子どもたちを青空教室に参加させてみたら?」「青空教室は週に3回、1日2時間だけだから、子どもがそこに参加するだけだったら、収入が減ってもそれほど問題ないでしょう?」といって参加してもらうようにしていきました。


その後、だんだん来る子どもたちが増えてきた時分、『親に対する青空教室』も始めたんです。「ここでどんなことを教えているのか、知りたくない?」と誘って、子どもを20人くらい座らせ、親もその周りに20人くらい座らせました。そこで、表向きは子どもたちに教えながら、実はその周りにいる親たちに対して、こちらの意図することが伝わるようにしたのです。親たちは青空教室の実際を見、私たちが真剣に教えているのを見、私たちの思いを肌で感じてくれるようになる。そうやって少しずつ変わっていきました。


 カリキュラムを作ったとき、最初は教室につきもののイメージとして「読み・書き・計算」からというのがあったので、まずはベンガル語の「あいうえお」、英語の「ABCD」、数字「1、2、3、4、5」を教えていきました。ところが、子どもたちは親に言われて出席しているので、あまり興味がないんですよね。本当につまらなさそうにしていて。こんなやり方で1、2週間くらい教えましたが、とうとうこれはダメだ、と思いました。


 そこで、遊びや歌や踊りや劇といった内容に変えていったところ、子どもたちが少しずつ興味を持ってくれるようになりました。歌、詩の朗読、踊り、遊び、工作などを通じて心を動かされ、笑ってくれるようになり、これを私たちはさらに、モラルやチームワークを教える方向に導いていきました。


青空教室の転機


 青空教室はそれこそ天井も壁も無いスペースでやっているので、出席しやすい代わりに、さぼりやすいということがありました。いろいろな子どもたちがやって来てはいなくなり、ということを繰り返していました。それでも、青空教室を始めて1ヵ月半ほど経った頃から、15人位の子どもたちがずっと参加するようになってきました。これが半年程続いた頃、この子どもたちに、もう少し大きな飛躍の機会を作ってあげたいと思いました。


 そんな折、たまたま日本大使館が主催するスピーチコンテストがあり、この子どもたちが発表する場をもらって、それまで覚えてきた歌や踊りや詩の朗読を披露させてもらいました。20分程度のささやかな出番でしたが、急病のふりをする子がいるほどおじけづいていた子どもたちが発表を終えた瞬間、500人を超える大観衆が全員立ち上って、割れるような拍手で応えてくれたんです。


私もその場にいて鳥肌が立つ思いがしたのですが、なにより子どもたちが、目を見張るほど表情が変わりました。それまで世間から隠れるように暮らしてきた子どもたちが、自分でも他の人たちに認められることがあるんだ!他の人に賞賛をもらうことができるんだ!という驚きと歓びだったのでしょう。


 そこで初めて、自分たちが続けてきたことは間違ってなかったのだ、と思いました。それまでは、最初の教育方法がダメで歌や踊りを取り入れたりしたものの、「本当にこれでいいのか、本当に彼らを変えていけるのか」という思いがありましたが、その発表会後の子どもたちの顔を見て、大きな自信を持つことができました。翌日、多少斜めに構えていた子どもたちを含め、全員が「兄ちゃん昨日はすごかったねーっ!!」と抱きついてきました。15人という少数の子どもたちではあるけれど、自分たちがやってきたことは見当はずれではなかった、少しずつ何かを変えていけるんだと、彼らの変わりようを見て自分たちの迷いはふっ切れました。これが2004年2月の出来事でした。


シェルター設立


 以前から青空教室の次の段階として、子どもたちを養育し、通常教育を受けさせるシェルターホームを作りたいという思いがあったのですが、発表会の成功によって弾みがつき、2か月後、ホームを設立しました。この設備つくりの資金については、前年から実業家や一流企業で働いている人などに援助依頼をしに行ったのですが、「そういうことは先進国に頼めば?」と言って、誰も見向きもしてくれなかったという経験があります。外国の援助を頼むのが当然という体質の表れなのです。


 私たちの思いは、バングラデシュの人たちを巻き込み、その援助で活動を行っていきたいというものです。というのも、バングラデシュの人から寄付金やサポートを受けることによって、彼ら自身にこの活動を知ってもらい、そして自分たちの国のことに意識を持ってもらうという狙いが活動の根底にあります。


たとえ日本など外国からの暖かい支援を頂いたとしても、そこに依存しないという姿勢を維持する、だから最初から、なんとか自分たちでお金をまわしてやっていこう、という考えでした。本当に子どもたちを変えていきたかったら、親を含めて周りの大人たちを変えていかなければいけないんですよね。

 このシェルターでは、通常の教育をしています。青空教室でも読み書きは教えられますが、しっかりとしたものとは言えないので、子どもたちにとっては、ここに来て初めてちゃんとした読み書きが始まります。あとは、刺繍や、紙工作など、技術教育の基礎的なものですが、ただ、一番大切なのは「モラル」を教えることです。限られた空間の中で他の人間と共同生活をすることで、社会性を身につけるということがとても重要です。子どもたちには、路上生活が象徴する自由しか経験が無いわけですから。


 そのため、まずは青空教室を入り口として、そこで最低半年間、私たちとの信頼関係を築けた子どもたちの中で、強い意欲を持った者がいれば、親を説得してシェルターに連れてくることにしています。 当初6人だった子どもは、現在30人に増えて共同生活を送り、近くの学校に通っています。この年には、新聞がエクマットラのことを記事にしてくれ、バングラデシュのひとたちの協力が集まるようになりました。子どもたちの里親になってくれる人も出はじめたのは、とても嬉しいことです。


最終目標は技術訓練センター(アカデミー)の創設


 さらに、現在のシェルターの規模では本格的な技術教育はできないので、技術支援センターを設立する構想を立てました。2008年9月に、ダッカから170`離れたマイメンシン県に、建設予定地として3.5エーカー(約4300坪に相当)の土地を購入しました。ここに建物を作って、最終的な技術訓練センターとして、子ども達が技術を身に付けて社会に出て行く場とする、というプロセスを考えています。つまり第1のステップは青空教室、第2のステップにシェルターがあり、その後もうすぐオープンするアカデミーで技術を学んで、1618歳になったときに社会に出て行く、という仕組みです。社会に出て行くときに、他の企業に就職してもかまいませんが、私たちとしては、彼らが身につけた技術が、私たちの収益となる事業につながる仕組みにしていきたいと考えています。


 具体的には、現在も簡単な「お菓子作り」をやっているんですが、アカデミーではオーブンなどを設置して、本格的にお菓子作りを実現していきたいと思います。彼らが技術を身につけて卒業する時に、ekmattraとしてお菓子屋さんを開くことができれば、子ども達の就職先にもなりますし、そうすれば、そこでの収益を次の子ども達への支援に回すことができます。

 この最終目標実現のめの資金作りとして、さまざまなことを試みてきました。2006年には映画制作の構想がスタート、20094月に『アリ地獄のような街』が完成しました。いまエクマットラの代表者になっている、映画監督Shubhashish Roy(シュボシシュ・ロイ)が監督した映画です。完成後、バングラデシュでも日本でも上映会を開き、チケット売上はセンター建設資金の一部に加えられました。これは、それこそ、はい上がるのがむずかしい場所に生まれたストリートチルドレンの絶望的な生活を、実際に起こった事件をもとに作ったもので、観るひとたちに現実を知ってもらうよき手段となっています。

 一番大口の建物建設資金については、バングラ・ダッチ銀行と何度も何度も話を詰め、やっと審査が通って、とうとう2010年、アカデミー建設資金が寄付されることになりました。これを知らされたとき、あまりの嬉しさに銀行を出たとたん、大声で「やったァ、寄付が受けられる!!」と叫んでしまい、びっくりした通りがかりの人までが、なんだか分からないけどおめでとう、と声をかけてくれた思い出があります。このおかげで翌年からアカデミー建設が始められたんです。


レストラン「ロシャヨン」のオープン


レストラン 「ロシャヨン」内装はエスニックな木彫で.jpg そして20114月には、レストラン「ロシャヨン」のオープンにこぎつけました。タイ、バングラ、日本料理のミックスの店で、焼き鳥もメニューにあります。単なる、資金集めのためだけでなく、店の名前「ロシャヨン」が意味するところは「化学反応」であり、いろんな人が寄り集まって和気あいあいと食事することで、互いの気持ちや考え方が自然に「反応」し合って変化し、より広い視野と暖かな心が生まれることを目的としています。同時にこのレストランそのものが、ストリートチルドレンの職場となり、自立して職につくための研修の機会となるよう考えて作りました、


 開店準備のためには、日本の焼き鳥屋で1週間見習いさせてもらい、作り方はもちろん、資金、仕込み、その他、店というものの経営全般について勉強させてもらいました。この焼き鳥屋さん、そして、イスラム教国であるバングラデシュなので、お酒やミリンが使えない点をカバーしてくれた友人には本当に感謝しています。


両親も見てくれた


 バングラデシュでの活動について、はっきりした承諾も得ずに日本から出てきてしまった自分ですが、青空教室をオープンして間もなく、両親が「本当に他人に迷惑かけずにやっているのか?」と調べにやってきて、エクマットラ活動の大学以来の仲間と、子供たちの大歓迎を受けました。いつものように、みんなで楽しく学習している様子をつぶさに見た父母は、心配や疑問もなくなった様子で帰国の途につきました。その機内で、父親が詠んだ句がこれです。


『ストリートチルドレン 胸に抱きたる わが息子 

    我が人生 意義ありと謝す』

父親がメールで送ってきてくれたこの句を読んだとき、言い尽くせない感動でいっぱいになりました。自分のやりたいことのために、勝手に日本から飛び出して、ろくに日本に帰ることもなく、プロジェクトに打ち込んできた自分なのに、そしてこれからも、人並みの親孝行もできないかもしれないのに、こんなにも分かってくれて、こんなにも自分の側に立ってくれたんだ、という泣きたいくらいの喜びでした。


世界でいちばん幸せな自分


watanabe2.jpg 2014年完成予定の技術支援センターは、子供たちが社会に出て、自立した生活を営むために必要な専門的技術・知識を身に付けるための全寮制の技術訓練学校となります。これを本格的なアカデミーとして運営し、卒業生に資格を与え、小規模な店舗、たとえば屋台みたいなものを持たせてやり、自分で営業させる。そして自分たちの後輩をかれら自身が指導するというかたちで、次の世代へのバトンタッチを実現する。ここまでやれたら、自分は日本に帰れるかもしれません。10年後か15年後か分からないけれど。


 素晴らしい仲間との出会い、数限りなく受けた親切、こういうことに恵まれた自分の人生はなんと幸せなのだろう。たしかに同世代の日本人と比べたら収入は極端に少ないでしょう。でも、誰よりも今を楽しんでいるという自信があります。いま、私は一人のバングラデシュ人として活動できている心情であり、このことを本当に誇りに思います。


最初は確かに「かわいそうだから」という気持ちがあったかもしれません。でも今はこの国のために何かできるということが、このうえなく誇らしい気持ちです。そして何よりも自分は世界でいちばん幸せな人間だと思えます。


あとがき


 渡辺さんは情熱の人、誠意の人です。インタビューの約束当日は、政治的な問題から、政府の反対派が全国で道路封鎖を実施し、わたしたち一般の在留邦人は、大使館から外出を控えるよう指示が出されていたため、動くことができませんでした。


 その危険なときに、遠くからバイクで、安全に注意を払いつつ、時間をかけて会いに来てくださいました。そんな苦労をなんでもないように笑って説明し、インタビューの約束をしっかり守ってくださったのです。

さわやかな日本男子。


 こういう方を育て、信頼して、バングラデシュという難しい国での活動を、応援しておいでのご家族は、なんと素敵な皆さんだろうと、ひときわ強く印象付けられました。


 たまたまバングラデシュに滞在したことによって、立派に、『外向きな活動』をつづけている若い人にお話しを聞くことができたのは、本当に幸運なことでした。


 担当ききがきすと:清水正子 


posted by ききがきすと at 15:34 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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