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2012年01月09日

2011年ききがきすと養成講座受講生の実習作品

2011年に開催された第2回「ききがきすと養成講座」の受講生の実習作品を掲載します。

第2回は6名の受講者があり、合格は3名でした。
そうなんです!座って話を聞けばいいという講座ではありません。実習が主体の厳しい講座です。作品を作る力をつけないことには意味がありません。だから、「ききがきすと」合格者はまだ、たった合計6名しか誕生していないのです。

それでも、合格した方々は自分の作品を見て、本当にうれしそうな顔をされます。「1人だったら、できなかった」「忙しくて作品を仕上げるのが大変だったけど、がんばってよかった」。そういう感想を寄せてくれます。

また、入居者の中から語り手を探してくださった中央区の高齢者施設「相生の里」さんからは、「こんなにいいものができるとは思っていなかった。ご本人やご家族、お世話するヘルパーさんなどもとても喜んでいます」「次回もぜひ、うちの入居者さんの話を聞いてまとめてください」という嬉しいコメントをいただいています。それを聞いた受講生の喜びもまた、格別でしょう。

6人の「ききがきすと」の力を活かすために、2011年は様々な活動をしかけていきたいと思います。そして、第3回養成講座も開催する予定です。関心のある方は、ぜひ、ご参加ください。開催要項が決まり次第、公開します。ただし、先に書きましたように、楽な講座ではありません。でも、素敵な活動です!

◆受講生実習作品

 *卒業作品を未提出により資格取得までいかなかった受講生の
  作品も掲載しました。
 *2名1組で担当しましたので、同じかたりびとの作品があります。
  完成作品は担当者それぞれに異なります。聴き手の個性が表れます。
 *ききがきすと資格取得者3名の卒業作品は別途、掲載する予定です。

1.唄って踊って恋をして 〜清ちゃんのものがたり〜
   かたりびと:木下清子さん   ききがきすと:清水正子
   http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245060398.html  
 

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2.人生に悔いなし、向学心に燃えて  
  〜「旅人(たびにん)さん」と言われ、各地を転勤する中で〜
   かたりびと:大嶋みつよさん  ききがきすと:菊井正彦
   http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245068994.html
   
   

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3.心の中の大手町、赤坂、月島
   かたりびと:長縄芳子さん   ききがきすと:S.K   
   http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245057800.html

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4.市丸姉さんにあこがれて 〜95歳の今なお、どどいつを!〜
   かたりびと:木下清子さん   ききがきすと:豊島道子
   http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245069307.html
   

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5.転勤族の妻、60歳の大学生、趣味さまざま  
  〜振り返り、悔いない人生〜
   かたりびと:大嶋みつよさん  聴き書き:H.K
   http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245065766.html

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2012年01月09日

唄って踊って恋をして

唄って踊って恋をして
  〜清ちゃんのものがたり〜

  かたりびと:
木下清子  ききがきすと:清水正子

生まれは東京の佃です

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大正4年生まれよ。年齢のわりにしっかりしてるっていわれても違うの。おっちょこちょいなの、江戸っ子でネ。東京の佃が実家、ここで生まれました。家は魚屋です。

 きょうだいは6人で、みんな字がうまいの。私だけが左ぎっちょ。
それに私は字が書けない。読むことは読むんですよ、ただ字が書けない。そのために見ることを憶えました。字が書けないけど見れば覚えるじゃないですか。ああ、これは何だわ、これは何だわ、あ、これは私の苗字の木下ってもんだわ、っていうふうに目で覚えるの。尋常小学校はちゃんと6年出たのよ。読み書きって一応教わったんだけどねー。

 
きょうだいは全員生きています。で、私がこのホームに居るでしょ、長男が「清ちゃんお金を送ったよ」って電話してくるの。「あら、兄さん悪いわねぇ」って言うと「まァ良いじゃないか」って…たとえ少しでもお金を送ってくれるから、うれしいです。昔からみんな仲良しのきょうだいなの。

歌は寄席でおぼえたの

 
小さいころから寄席へ行ってたわ。知り合いじゃないんだけど下足番の小父さんに、「小父さんこんちは」って挨拶して、言われないのに「この下駄どこ入れんの?」って聞くと、「ああ○番に仕舞ってちょうだい」って言うから、「ハイ」って入れたりして。そう、まじめに働いてたもんだから可愛がってくれてね。

 
あの市丸姉さんて人いたでしょ? そう一流のいい芸者。私が大好きだったもんだから「あ、今日は市丸姉さん来るからお客の方に行ってね、お客のつもりで座って歌聞いた方がいいよ」って言ってくれた。

 
毎日学校から帰って来ると、勉強なんかしないで寄席へ行ってたの。そういうとこ行って字や歌や小唄憶えた。都都逸なんて教わらなくたって歌えたわ。私まだ十四、五歳だったけど、歌が好きだから、「よっぽど寄席へ出ようかしらん」て言ったら、親に「そんな思いしなくたっていいんじゃないか」って言われてやめたの。

魚拾いでお小遣い稼ぎ

 
そういうくだらないネ、生活をずーっとしてたの。ただ盗みだけは、しない。泥棒はしないのよ。ともだちにね、「魚市場の乞食やんない?」って言われたの。「いいわ」って返事して。なんだか分かる?乞食って?きったない恰好してネ、わらじ履いて籠しょって、下に魚が落っこてんのを拾うわけ。

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その土地の魚市場のそば屋に入って、食べてるうちに隣の小父さんと仲良くなって「小父さん、下に落っこってるゴミ拾いたいんだけど」と言うと、「なにすんだ?」って言うから「お小遣い稼ぎだ」って。すると、「あ、じゃね、明日籠しょってくるといいよ」って。「その代り朝4時に来なきゃダメだよ」って言ってくれる。

 
それで朝4時に学校行かないで市場へ行くの。そして下に落っこってんのを「これいいかしら?」って聞くでしょ? すると、「あ、それ持ってっていいよ」とか「いいよいいよ、どうせ下に落っこてんだから」って言ってネ、ご主人が、私のしょってるこんな大きな籠の中にひょっと放り投げてくれて。

 
籠もう重たくてしょうがない、それを家へ持って帰ってきてネ、近所の御料理屋へ持って行って買ってもらうの。うん、お金よりも魚をとってくるのが楽しかったわ、同い年くらいの女の子と4〜5人で。仲間は今おでん屋さんをやってます。

左ぎっちょでも貝屋なら

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親はべつに働きになんか出しませんが、自分で働こうとして勤め先を探したんですよ。でも私は左ぎっちょでしょ? だからね、ろくな仕事につけなかったわけ。ほうぼうで清ちゃんみたいに左ぎっちょの人置くと、商売が左前になっちゃうから置いちゃいけませんよ。出しちゃったほうがいいですよってご主人に言う人がいて、それで出されちゃう、何も悪いことはしていないのに。

 
それに若い時だから、お客さんが「清ちゃん、清ちゃん」て言ってくれたんですよ。料理屋の主人のほうは、泣き泣き暇を出すわけ。どうしても料理屋とかそういう商売がだめだったね。

 
左ぎっちょでもなんか向く処がないかってんでね、アサリとかハマグリとかの…貝ね! 貝なんて口開いているでしょ半分? だからちょっとのことで開けられるじゃないですか? それで貝屋へ奉公に行ったの。貝は、指入れてひねるとすぐはがれるから、ねッ?

 そうすると主人が「あっ、清ちゃん、この汁飲みな」って言ってくれて、しょっちゅう赤貝の汁飲んだり、アサリの汁飲んだりしたの。貝って片っぽ生きてんですよね、それだけはちょっと気持ちわるかったけど、いっぱい貝の汁飲んでた。味はついてないけど美味しかった。

 
そう、左ぎっちょでも左で殻むいたりしても、いじめられない。楽しかったわ。店で可愛がられたってことだけど、勤めは、まじめにやんなくちゃね。

愛した人とは結婚して10年でお別れ

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お嫁にいったのは遅かったわ。私は掃除はできるけども字が書けない、読めないでしょ。近所に料理屋じゃなくて、下駄屋じゃなくて…何だっけなー店があって、そこに毎日行っちゃ周りを掃いたりなんかするもんだから、小父さんが可愛がってくれて「ああ、清ちゃん、毎日来てくれよ」って言ってくれたの。

 
で、そこに大学出で、いいとこの息子なんだけど、親とケンカして、家を飛び出て独身の人がいたの。「私を嫁にもらってくれないかな」なんて簡単に言ったら、「まァ、清ちゃんならいいよ。もらってやる」って答えなの。それでちゃんと結婚式あげました。

 
でも、その人もう死んじゃったんですよネ。そうね私と結婚してから10年位一緒にいたかな。電気屋なの、店持ってて。それで私が奥さんになっちゃったの。まじめにやるときはまじめになりますよ。電気屋たって、私はなんにもできないから、家に居る人ね。その時分は赤坂に貸し屋がいっぱいあって、私はだんなと赤坂で暮らしてた。

 
仕事は若い人を雇うんだけど、その時分には「雇ってください」っていう人が多かったの。新築の家へ入って電気をつけたりなんかする工事をするわけです。男の“手下”の人がいっぱいいて、みんなコードをあっちへやったり、こっちやったりしてました。

 
だんなさん亡くなってから再婚もしないで、戦争の間ひとりでがんばったわ。電気屋を続けたんだけど私はできないから人を指図して。そういう人はちゃんと学校を出てたからね。

 
空襲のときは門前仲町に逃げて

、そこで川っぺりのね、胸まで水が入るとこで岸に掴まって、夜を明かしたりしたのよ。

恋人いっぱい

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私のくだらない話です。私ね、変な話だけど男が好きだったの。どんな男が好きだったかって? いい男でね、お金持ってればなおよかった、私はお金が無いけど、相手がお金を持ってればどこへでも行けるじゃないの。

 
たとえば向島には『やおまつ』っていう料理旅館があるの。で、ちょうど永代橋の所からちっちゃい船が出てて、船頭がこうやってこいでね、『やおまつ』ってとこ行くの。

 
川っぷちにあってね、こーんな大きなきれいな石のうえにね、爺やが番傘をさして…雨降ってないのよ、それなのに、『やおまつ』って書いた番傘さして芝居みたいに待っててくれるの。私がもうじき船で来るってのが分かるから。身支度は普段のまんま、いい物何にも持ってないもの。まあ小奇麗にしてましたけど。

 
『やおまつ』はね素晴らしくいい御茶屋なの。”待合“ってのは芸者衆とかサそういう人が行くとこで、普通の素人の娘はそういうとこじゃなくて、いい御茶屋がいっぱいある向島へ行くのね。

 
わたしゃネ、今でも手を握るのが好きなの。でネ握らせないと食いつくの。アハハハ。だから男の人が逃げるの。こうしてこう握るとね、「何すんだ!」ってね。面白いんだ、すぐ食いついちゃうのよ。

藝とたしなみ

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あこがれの市丸姉さんは浅草に出てた。私市丸姉さんにあこがれてね、ああこういう芸人になりたいと思って、しょっちゅう聞いてた。だから、今でも何か歌いなさいって言われるとすぐ歌うの、都都逸なんかこうよ。

♪♪都都逸ゃ下手で〜も、やりくりゃ上手。今朝〜も、ななつやでほめられた♪♪ とか ♪♪逢いたいと思う矢先〜いに、来たよ〜と言われ、逢いたくないふり、見たい〜顔♪♪

 
歌によってね、声の高さは低音から出たり、高いところから出たり、その文句によって変わるの。だから声はね、気を付けてつぶさないようにしているのよ。三味線もひくわよ。ここへ(注:施設)二丁持ってきたわ。ひきたいんだけど足ケガしたから、正座して三味線をひざに乗せられないわけ。

 
年末の演芸会には大変な人が集まるでしょ?「だれか歌って」って言われると「ハイ!」って手を挙げるの。にぎやかな歌唄ったり、『かっぽれ』も『どじょうすくい』でもなんでもござれよ。

 
日本舞踊も先生です。親が習わせてくれたから、小さいころからお稽古して。年前に転んでケガするまでは、すぐ『奴さん』を踊ったりなんかしたわ。

 
お裁縫も好きでね、左ぎっちょだけど、針はちゃんと右で持って縫うわよ。親がちゃんとお裁縫の先生のところへあげてくれたから。

踊って歌って 最高よ

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テレビでは歌番組を観るの。若い人の歌も好きですよ。歌が好き、踊りが好き、ダンスも好き。年前に転んでケガするまでは、ぴんぴんしてた。今は座れないからこういう車椅子に乗ってお嫁さんに後ろから押してもらうけど。ここの生活では着物は着てないから、踊りながらエプロンの端をくわえたり、こうやって“しな”をつくったりして、着物着ないでも

踊れるように工夫したりしてます。

ずっと踊りが好きで踊りの写真も戦災のときは大事に持って逃げたくらい。昔は島田も自分の毛で結ってたの。ダンスもリードされているふりして、リードしちゃったりして。

 
歌と踊りは楽しい!  最高よ。

(完)

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2012年01月09日

人生に悔いなし、向学心に燃えて

人生に悔いなし、向学心に燃えて
 〜「旅人さん」と言われ、各地を転勤する中で〜

 
かたりびと:大嶋みつよ  ききがきすと:菊井正彦

私たちは転勤族

face1.jpg 私がこのホームへ入居したのは5年前、「相生の里」ができてしばらくしてからです。主人は定年になって家にいたんですけれど、私がリウマチになって、子供達が、「こんなに遠くに居たんではだめだから、近くにいらっしゃい」、といいますので、引越してきました。

 前は”勝どき“に居たんです。勝どき橋を建てていた会社が市に貸していた住宅があり、1年ぐらい住んでいたんですよ。


 主人は日本生命に勤めていて転勤族だから、いろんな所へ行きましてね、「旅人さん(たびにんさん)」と言われたこともあるんですよ、「旅人さん」と言われて何のことかと思いましたら、転勤して歩くかららしいんです。やっぱり周りの人はそう思うんですよ。私は分からなかったんです。初めていわれたときは、年中動いているから「旅人さん」と言われたんだと思って。

 転勤は、本当に日本国中ありましたね。東京都内は歩きましたよ! 特に、オリンピックの前は。最初は、子供がいましたから、庭がある一戸建てを借りていたんです。オリンピック近くになって埼玉県へ引越し、それから社宅になりました。

 長かったのは渋谷、よかったですね。渋谷ではいろんなことができましたからね、主人は帰りが遅いし、子供達も大きくなっていたから。だから、碁なんかを習ったんですよ。腕はたいしたことはないですよ。四谷の駅前にある碁会所へも行きました。碁はこのホームでも教えていただくんです。いまでは、置碁してもらって、勝つか負けるかどっちかという感じです。

 他には埼玉にも行きました。有名な鐘のある・・・川越です。チョット変わった町ですね。江戸への北の入り口で、お宮も神社も大きいし、情緒があるところで駄菓子屋さんなんか、一杯並んでいますよ。

 どこへ行ってもなるべく、あまりよそ者にはならないようにと思いまして、その地区の方と一生懸命交流するようにしました。そういう苦労はありますね!

 長く居たのは福島県で4年間です。4年間で長い方ですよ。大阪に転勤した時には1年ですぐ帰ってきたこともあるんです。これは会社の都合です。子供が高校生だったから、受験しなくてはいけなかったし・・・。そんな苦労もありました。

◆思い出の地「福島」

image2.jpg 福島には思い出があります! 今は原発がありますけど、・・・その頃はなかったですよ。「原発ってどんなものかしら? 見に行こう」といって、皆で見に行ったことがあるんです。まさか、こんなことになるとは・・・。

 原発があんなに沢山できるとは思いませんでした。最初一つだけだと思っていました。「それじゃ、行ってみようか」って、観光気分でね。

 あのとき、原発に反対すればよかった・・・。反対なんかできなかったんですけれどね。

 だから、福島に一番思い出がありますね! 住んでいましたのは、福島市のちょうど真ん中、福島大学の前です。中通りですね。信夫山の麓です。あそこはよかったですよ! 今は大学の図書館になっていますけど、大学があってすごく楽しくて・・・。

 福島では友達ができましてね、よく旅行にいったんですよ、車で。福島の裏磐梯の方、まだ雪のある内に。何というんでしょうか、雪の回廊ですか? それを見たんですよ、黒部立山で有名ですが、福島にもあるんですよ。

 福島ではとっても楽しい思い出があります!。温泉に行ったときに、山の中で花火大会を見たんです。山の中で花火ってすごく綺麗なんですね! 温泉は何というところでしたかな? 温泉はいっぱいあるからね。

 花火は海だと思うでしょ? 山の花火もとても綺麗でしたよ。山の花火ってあんまり見ないじゃないですか。山の平らな所で打ち上げるから、山の花火は綺麗ですね。夜空が綺麗だし。

 福島の次は関西に行きました。あの頃は、子供はもう上が中学生になっていて、一番下の子供は小学生になっていましたでしょうか?

 県が違うと教育も違いますね。一番困ったのは長男のことでしたね。いつも、違う学校へ行く時が、学年の途中に引っかかるんですよ。長女はうまくいきましたが、長男は2年生の時だったり、中学3年生の時にもあったり・・・。でも、今考えますと、子供達も悪くならずについてきてくれたからよかったですけれどね。

◆子供達のこと

 今、長男は銀座で商売しているし、デザイナーの長女は電通に勤めていて、もう60歳になるかしら、部長なんですよ。キャリアウーマンというのかしら。

 旦那さんが新聞記者をしているんですけれど、定年まで勤めて、その後、自分の兄弟のところへ行って、自分達のお婆ちゃんを診ているんですよ。90歳になるお婆ちゃんは足をガンで切っちゃって、片足になっちゃたんですけど。でも、長女の旦那さんがよく診てくれています。朝も6時にお婆ちゃんのところに行って、足を診て、食事をあげて、おむつもちゃんとやって・・・。だから、大変な時は大変なんですけれど。

 今、主人は東京駅の前に住んでいます。家を買って勝鬨から引越したんです。マンションができて、そこがいいから一番下の子も買うというんで・・・。別個の家ですけどね。主人は家に居ます。おさんどんはやらないみたいですよ。やはり外で食べていた方が安心です。

 主人は東京生まれなんです。目黒の駅前で商売をしていて、強制疎開で引越しして栃木県に。お爺ちゃん、お婆ちゃんの生まれたところへ行ったんです。もう、二人とも亡くなりました。私は小田原、浜っこです。どちらにしても都会っ子です。

 主人が定年になったとき、相模原に家を建てました。大工さんをわざわざ福島から連れていって、建ててもらったんです。だから、越したくなかったんですけど。福島の大工はいいですからね。だけど、相模原がすごく寒いところなんです。湿気が多いところで、そういうことが影響して私がリウマチになっちゃたんです。それで、こっちに引越ししてきました。

 あと思い出としては、大阪に居たときです。関西で野球の強い学校ありますね・・・、西宮にある学校です。その学校が近くてよく、野球場も見に行ったし、その球技場で体操もやりましたね。運動会も見に行った。

 甲子園も行きました。招待してくれたことがありまして、一番高い所にある席で、上からガラスが入った特別席があるんですよ、よく観えるんです。1回だけそこへ行ったことありますよ。その代わり、一般席の人と一緒に物を買ったり、食べたりできない、むずかしいですよ。

◆転勤地での友達づくり

 転勤した先の方と友達になったことはあります。大阪(西宮)に居たときに、私が皮工芸を習っていたんです。先生が名古屋の人でしたから、自分達も住んでいた名古屋で習っていたんですが、その時は、大阪まで一緒に習いにきて、展覧会などいろんなことやりました。

 その人達とは今でも交流しています。この相生の里にも来てくださって。5人いて、2人はもう亡くなっちゃたんですが。元気な方が、つい2、3日前もチョット来てくれました。そういうお友達とは、私なんか少ないのですけれど、ずっと大事にしていて、旅行へ行ったり、何かして遊んでいます。もう長いんです。

 刺繍は、みなさんもご存知かと思いますが、桜をやる先生がいましたでしょう、桜を黒い布地に刺繍する有名な先生、もう亡くなったですけどね。その先生のところへ習いに行ってたんです。

 その5人グループで九州の、新しくできたハウステンボスへ行ってきましたよ。あそこを建てたのは清水建設だったと思いますが、会社の一番偉い人がご主人、という、その奥さんも友達なんです!。 で、こういう人達と遊びに行ったりして、そっちの家に行ったり、ずいぶんいろんなことをしましたね。

◆趣味あれこれ

face2e.jpg 東京に帰ってから刺繍をやっていたんですよ。そのほかに、皮工芸をやっていまして、たまたま、1個こっちに持ってきておいて、部屋に作品がありますのでそれを見せます。ブックエンドがあります。

 皮を彫るんです。それも自分で。デザインは先生が持ってきて、その中から選んでやるんですけど、こういう細かい画は自分で考えて作ります。

 家にはスリッパとかありましたけれど、みな捨てちゃいましたね。家にいくと、周りに皮工芸をした大きな鏡があるんですよ。あと、玄関のマットレスがあります。いま、家の玄関は小さいのでしまってあります。


◆リウマチを患う

 習字もね、昔、習いに行ったときは、それで日展まで出せるところまでいったんですが、リウマチが起きたんです。それが悔しくて・・・。やっぱり練習はしていましたけれど、もう、片手になっちゃたから、だめですね。

 ころんで、手をついて、それがきっかけでした。それで、聖路加病院の一番新しい先生に会いましてね、その日が土曜日か何かで、いつもの先生はいなかったんです。いつものの先生がもう脳梗塞やってるから、手術をしちやっちゃだめと言っているのに、その先生は若いから、手術するというんです。それで、手術をする、しない、する、しないで半日かかっちゃった。それが良くなかったんです。

 そのときはついてなかったんですね。知らないから、もうここからここまでギブスはめられたから、てっきり直るものと思っていたから…。

 結局、今住んでいるところの近所の人が「赤坂にいい病院がありますよ」と教えて下さって、そこへ通って直してもらったんですが、ギブスをはめることになっちゃって。ええ、泣いてね・・・。こんなになっちゃって、悔しいですね。

image3.jpg この間から習字を片手で始めました。常に何かやった方がいいかなあ。昔から何かは、やっていましたね。子供のセーター編んであげたり、チョッキを編んだり、こういうのは子供達もよく着ていました。

 習字は下手ですけど、左手で書いたのがリビングホールに1枚だけ飾ってあります。画もあります。バナナの画と、あとザクロの画が・・・。

 刺繍とか手先を使い根気がいる趣味がすきですね。でも、趣味というのはなかなか続けるというのは大変ですね。続けられたのは、お友達がいたからでしょうね。

憧れの大学へ行く

image4.jpg 自分の時間が多く、主人の帰りが遅いし、子供達が全部大きくなってから、私が50から60歳の頃、大学に入ったんですよ! 法政大学に。

 NHK学園がありますね、そこに入っていると大学にいけるんですよ。NHK学園に入れば大学に入れる、そういうずるい考えを持っていました。それで、法政大学の文学部歴史科に入って、歴史を勉強したんです。

 史学科だから、卒論は二宮金次郎を書いたんですよ、小田原出身だからね。新しい本も手に入れやすいし、二宮金次郎も結構いろんな苦労しているから・・・。

 卒論書くのは大変でしたよ。夕方から大学に行くのです。「お母さんに自分の時間ちょうだい」と、子供達に言って。そして、翌朝はまたきちんと起きるんですが、好きな勉強のためですから、そりゃ平気でしたよ、女性は強いですね。

 それがね、ちょうど母が病気になっちゃって。2年間、休学して、また行って。だから、結局、NHK学園は4年・・・。10年のうち、2年が休学で残念でしただけれど、でも、母をちゃんと見送りましたからね、

 私は常に何かにチャレンジしていないと気がすまないんでしょうね。大学に91歳のお婆さんがきていたんですよ、ホント。私なんか5060代ですから、頑張らなきゃと。

 振り返ると、向学心に燃えた人生に悔いなし、という感じ。いい人生だったなあ・・・と思います。

(完)

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2012年01月09日

心の中の大手町、赤坂、月島

心の中の大手町、赤坂、月島

  かたりびと:長縄芳子   聴き書き:S.K

1.仕事一筋の人生でした

東京市外電話局に勤めました

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私は、大正五年一月二〇日生まれの九五歳。数えで九六歳になります。「仕事と結婚」して、これまでずっと一人で生きて来ました。今でいえばキャリアウーマンでしょうか。四〇年勤めました。私が就職した昭和五年の頃は、女性は結婚するのが当たり前で、一人でいるということはあまりありませんでした。その頃からちょっと変わっていたのかもしれません。

 
高等小学校を出て、聖心女学校の夜学を卒業し、昭和五年八月二三日に逓信省の電話の仕事につきました。東京市外電話局(東京中央電話局)(注1)といいました。全国を有線と通信(電信)で連絡をする通信士のような仕事です。学校を卒業するとき、学校の紹介で七人くらい試験を受けましたが、受かったのは三人でした。電話局は、大手町にありました。今の逓信総合博物館の南側で、通りをはさんで向かい側です。

三越を振りました

 
実は、学校を卒業したとき、三越と逓信省と両方に受かっていました。当時三越は、新宿の二幸という会社が就職や人事などを扱っていましたが―。

 
ところが、四月一日に電話局の採用通知がくると思ったら、なかなか採用日が決まらず、何だかんだして、八月二三日になって採用になりました。その頃市内電話が自動化されたということで、いろいろ忙しかったからだろうと思います。うちの母は、「そういうややこしいところには入らないで、三越にした方がいいわよ」と廻りから言われたようです。

 
あとから考えても、自分としては電話局に入ってよかったと思っています。というのは、三越は一日中立ちっぱなしですから、お客さんの機嫌を取っていてはくたびれてしまいます。私は大体、お客さんに会って、ニコニコ案内するような性格じゃないですから―。そういうことで、三越を振りました。

有線と通信で市外電話をつなぎました

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毎年一度、電信の試験と法規の試験があり、結果が報告されました。それが出鱈目だと「長縄さん、試験ダメでしたね」と怒られます。だから、一生懸命勉強しました。でもそれはいい思い出です。一生縣命やる、若いからやる、そういう気持ちだったと思います。

 
その頃、電話の仕事は、東京、大阪、名古屋、札幌など大きい局が全国を分担してやっていました。東京は、その中心ということで全国を管理していました。遠いところでは、朝鮮や、しばらくして有線になった沖縄、北海道などもやっていました。樺太は、まだありませんでした。

 
はじめのうちは、電話は市内も市外も全部人が手でつないでいて、自動ではありませんでした。私が電話局に入った昭和五年というのは、ちょうど初めて京橋の局が自動になった頃で、ダイヤルを回すと自動でつながると大騒ぎになっていたときでした。自動化は、都内で一番最初が京橋局で、その次は高輪の局でした(注2)。

 
市内の局はみな自動化されましたが、市外電話は長距離ですから手でつなぎました。今と違って、ダイヤルして大阪が出るというわけではありません。そこで、有線にもかかわらず、少しでも有線を無駄にしないようにということで、トツウ(電信)と有線の両方(注3)を使って、次のお客さんをこうという具合に、空かないようにやっていました。だから、一日の通話量がどれくらいあったかよくわかりません。

 
線が空いているときは、線をつないで大阪の局を呼びだし、「どこのお客さんをつないで下さい。そっちのお客さんをこっちへつないでください。」と、口でしゃべればわかります。しかし、お客さんを続けてつなぐようにするには、話を職員がやったのではしょうがないですから、線をつないだまま、トツウ・トツウで、向こうからくる信号を聞いて、こっちからも信号を送って・・、という具合にやりました。

 
トツウ(電信)は、若いときからやりましたので、仕事で使ったことは今でも忘れません。おそらく、そういうふうにやっていたことは何にものっていないかもしれません。

 
韓国は有線だったと思いますが、線がつながっていて、たまたま通話が空いているときに、だれかうちの方の職員が「朝鮮人がいるわよ」と言ったらしいんです。それを聞かれてしまった。それで、監督さんと上の人たちが、問題が問題だからと大喧嘩になって大変でした。そのことは、職員が謝罪して、いいあんばいに治まりました。そういうことはあまり外には言えないことでした。

戦後、管理職に

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戦後は、月島の家から電話局に通いました。アメリカ軍が進駐して来て「特別運用課」の方に配置になりました。いろいろありましたが、日本語では言葉が通じないので、幼稚園の「ディス・イズ」を勉強して何とかやりました。

 
特別運用課で勉強させてもらい、確か三〇歳を過ぎた頃に管理職になりました。女性の管理職は多くはなかったですが、少なくもなかったように思います。

 
電話局は女性の職場ですが、隣の中央電気通信局(中電)は男性の職場でした。でも、戦後は、女性も入るようになったのを思い出します。

 
仕事の内容は、国にかかわることなので、あまり公表できません。でも、四〇年間何とかかんとかやって、お陰さまで最後はちゃんと年金もいただき、ご飯を食べることに困ることもなく、ありがたいと思っています。

2.大家族で大変でした

兄妹は九人

 
どうして一人でいたのか聞かれますが、何しろ兄妹が一二人でした。私が一番上で長女ですが、一つ下の弟が長男。その次が双子の女の子で、赤ん坊の時に二人とも肺炎で亡くなりました。

 
その次が次男で、震災当時四歳でした。母は、動物を見せて喜ばせたいと思ったらしく、その子を上野動物園に連れて行きました。そのとき体に風邪の状況があったのですが、わからなかったようです。

 
帰りに子どもがどうも普通じゃないと思って、浅草の叔父のところに寄り、良くしていただいていた先生に診てもらったらとんでもない状態でした。「熱がありますので、今晩一晩中大切にしないと大変なことになりますよ」と言われ、それで急いで叔父の家に戻ってきて介抱しましたが、一日か二日して、肺炎で亡くなりました。

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そういうことで三人亡くなって、残ったのが九人です。兄妹九人は、結婚したり、お嫁さんをもらうまでは皆うちにいました。女の子は、千葉とか神奈川とかに、皆嫁いで行きました。すぐ下の弟(長男)は、七三歳で早く亡くなりました。嫁もがっかりしたと思います。九人のうち一番下の弟も一昨年亡くなりました。

大変な思いをした買い出し

 
九人全員が揃っていた終戦後は、もののないときで、食事のときなど全員がお膳のところにずらっと並んで大騒ぎでした。貧乏でしたから、親は子どもを育てるのが大変だったと思います。

 
食べる米がないので、両国から汽車にのって、銚子のちょっと手前の駅のところに買い出しに行きました。何とか話しがついて、お米を一四キロ買いました。駅まで行く大通りには交番があり、ヤミ米が見つかると、とんでもないとつかまってしまいます。そこで海岸通りの砂浜を歩いていきました。そのうち、背負った米が重くて、くたびれてしまいました。どこかそのへんで休もうと思って腰を下ろしたが最後、今度は一四キロの米が持ち上がりません。

 
よっと持ち上げようとしても、下は砂ですから、ずるっと足がすべって立てないんです。しょうがないので、海苔や魚を干すやぐらに、えんやらやと米をかけて、一緒に行った長男の嫁にやっと立たせてもらいました。そういう辛い思いもしました。

 
帰りの汽車も大変でした。私が何べんも足をすべらせているので、「お姉さん、危ないから先に乗って」と嫁が言います。そこで先に汽車に乗りましたが、いつまでたっても嫁が来ません。窓から見たら、「お姉さん、まだ乗せてもらえない」と、泣き声を出しています。これは大変と思い、「すみません。あれはうちの嫁です。下から持ち上げてください」と周りのお客さんに頼み、やっと窓から乗っけてもらいました。

 
長男の嫁が元気だった時は、いつもこの話が出ていました。その嫁も一昨年の一二月に亡くなりました。よくできた嫁でした。

3.関東大震災で焼け出されました

赤坂で生まれました

face3.jpg 
私が生まれた家は、赤坂の一ッ木通りの傍にありました。父は建築屋でした。その頃は、通りのあたりは二階建ての家が多く、ほとんどが木造家屋でした。

 
大正一二年当時、私は一ッ木町の赤坂小学校(注4)の一年で、七歳でした。学校は、市電通り(青山通り)をはさんで、豊川稲荷のすぐ向かいにありました。九月一日は、学校は半日でした(注5)。昼前に家に帰って、母親に「ご飯まだ? おなかすいちゃった」と言うと、「今仕度してるから、どこか公園ででも遊んでらっしゃい」と言われました。

 
学校で、隣の席の河内さんに、ご飯を食べたら遊びに来てねと言われ、行くことにしていました。それで、ご飯前でも構わないだろうと思い、河内さんの家に行くことにしました。

 
河内さんの家は、歩いて一二・一三分ぐらいのところです。一ッ木通りをまっすぐ行ったところの交番から、左側に練兵場(注6)がある通りを乃木坂の方に五分ほど行って、通りから路地を二・三軒入ったところでした。

突然の地震。歩こうにも体がふらふら

 
私が「河内さん!」とちょうど呼んだときでした。突然「ぐらぐらっ、ぐらぐらっ」ときました。一一時五八分です。震度六か六強ぐらいでしょう。河内さんが、二階にいたか、階下にいたかはわかりません。危ないと思って、急いで河内さんの家の路地から表通りに出ました。

 
揺れるたびに煙がわあっと出て、いいお天気なのに空は煙で真っ暗。何にも見えません。通りにだれがいるかもわかりません。とにかく交番のところまで行かなきゃと思って、揺れで体がふわふわ・ふわふわ。何とか歩きました。年寄りだったらひっくり返っていたでしょう。まだ七つの子どもだったから立っていられたのかもしれません。

通りの真ん中へ出ろ

 
すると、「表へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ」と、おじいさんが怒鳴っているんです。怒鳴っているのがどんな人か、全然見えません。でも、その声を聞いて、道の真中にいるうちに、やっと地震が止みました。収まって見ると、何と空の煙は家の壁土だったのです。

 
通りのあちこちは、つぶれた家、二階がめちゃめちゃになった家、横倒しになった家といった状況になっていました。一ッ木通りのあたりの家は、溜池の方から出た火が廻ってきて、焼けてしまいました。あとになって私の家も焼けたことがわかりました。

お堀端に逃げる

 
両親は、私と弟と四歳の子の三人を連れて、荷車に、らっきょとかおにぎりなど食べ物や貴重品を載せて逃げました。夜は赤坂見附のお濠の公園で、父親が持ち出した畳に座って野宿しました。空が真っ赤な夕焼けで、きれいだったのを覚えています。

青山で避難生活

 
学校には一月ぐらい避難していたと思います。その後、青山の絵画館の前に避難所(仮住宅)ができて、江東や浅草や深川で焼け出された人と一緒に住んでいました。その仮住宅には四年いました。つまり都内の復興は四年かかったということでしょう。

 
避難住宅の前には青山連隊の練兵場があり、ラッパが聞こえてよかったことを思い出します。その後、小学校四年の一二月二三日に、月島に引っ越しました。

月島での苦労

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震災後、月島へ来たわけですが、家は六畳と三畳でした。家族五人には狭いので、二畳建て増しし、隣にちょっぴりだけど庭も作りました。二畳の下に防空壕を掘りました。

 
当時、晴海のあたりはまだ海でした。この隅田川も洪水になるときがあったくらいでしたから、そのせいか、防空壕を掘ったら水がどんどん出てくるので、中で水の汲み出しをしなければなりませんでした。

 
そこで、木の樋(出し口)を作って、路地の土のうで囲ったところに水をため、柄杓で汲んで使うようにしていました。近所の人が、「水道が出ないので、築地の河岸までもらいに行かなきゃならないの。すみませんけど、お米研ぎと洗濯に使いたいんで、水いただけますか」と言っては、バケツを持ってきて汲んでいました。もっとも、水は臭いがするので、飲み水には使えませんでした。

4.おじいさんは命の恩人です

 
これまで第二次大戦もありましたし、いろんなことがありました。でも、繰り返しになりますが、関東大震災のとき、よく気がついて、「真ん中に!」って怒鳴ってくれたおじいさんは、命の恩人です。

 
あのおじいさんがいたおかげで、九五歳の今まで生きてこれたのです。その人にはとても感謝しています。どこの誰かもわかりませんが、ああいうときは神様みたいな人が出るんだなと思うのです。

 
そのおじいさんは、今はもう生きていないと思いますが、その当時、世の中が落ち着いていたら、表彰ものだったと思います。何人の人が通りにいたかわかりませんが、私一人じゃなくて、その人たちがみんな助かったわけですから。

 
あの状況で、怒鳴れたということは、東京の人ではなく、おそらく地震がたびたびある地方の人じゃないかと思います。そうでなければ、そういうことまで気がつかないでしょう。

 
長生きすると、命にかかわるようないろんなことがあります。でも今、命があるということは、この世に尽くせということだなと思います。だから、自分のことぐらいは自分で頑張らなきゃと思っています。

              (平成23・6・4談)

(注)

1:明治2312月に東京電話交換局が開設され、同25年7月に現在の千代田区大手町2丁目に移転し、同36年4月に東京中央電話局と改称された。東京市外電話局という名称になったのは、昭和24年6月、戦後の機構改革で逓信省が電気通信省に改められた時のことである。電気通信省はその後、昭和27年8月に日本電信電話公社となり、現在のNTTに受け継がれている。なお、東京市外電話局は、昭和60年に建物とともに、その歴史の幕を閉じている。

2:大正15年(昭和元年)に、東京中央電話局京橋分局で、日本で初めて自動交換方式が採用されている。

3:当時の電話交換で長距離線に用いられた「電信信号方式」といわれるもの。市外電話線を利用して作った電信回線を利用して電信符号で相手局を呼びだす。東京・大阪の両交換手が交換事務の連絡に使うために、電信電話双信法によって、通話中の電話回線に電信回線を乗せて、電信信号で交換上の打ち合わせや交換証の送受を行っていた

4:当時は東京市赤坂区一ッ木町(現在の港区赤坂4丁目・5丁目にあたる)という地番があったが、今は地名変更のため残っていない。なお、赤坂の「一ッ木通り」という通りの名称は、今も残っている。赤坂小学校は、明治6年に赤坂区一ッ木町に開校された学校で、同8年に赤坂小学校の名称となった。現在は赤坂8丁目にあるが、当時は青山通りをはさんで豊川稲荷の向かい側(今の赤坂4丁目のあたり)に校地・校舎があった。

5:9月1日は土曜日で2学期の始業式があり、子どもたちは昼前に下校している。

6:戦前、一ッ木町(現在の赤坂5丁目あたり)にあった「近衛歩兵第3連隊」ではないかと思われる。

(参考文献・写真出典)

○「写真でつづる八十八年―東京市外電話局」
 (昭和53年 日本電信電話公社東京市外電話局)
○「市外電話交換業務提要」
 
(昭和7年 東京中央電話局)
○「東京の電話(上)」
 
(昭和33年 日本電信電話公社東京電気通信局)
○「赤坂小学校の一二〇年」
 (平成4年 港区立赤坂小学校同窓会)
○「新修港区史」
 
(昭和54年 東京都港区役所)
○「関東大震災」
 
(平成17年 財団法人東京都慰霊協会)
○「語り継ぐ赤坂・青山 あの日あの頃」
 
(平成22年 赤坂・青山地区タウンミーティング『まちの歴史伝承分科会』)

(完)

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2012年01月09日

市丸姉さんにあこがれて

市丸姉さんにあこがれて
 〜九十五歳のいまなお、どどいつを!〜

 かたりびと:木下清子  ききがきすと:豊島道子

左ぎっちょでも楽しかったわ

face3b.jpg 私は、大正4年生まれの95歳。おっちょこちょいなの。江戸っ子よ。私はね、字が書けない、読む事は読むんだけど、字が書けない。そのために見る事を覚えた。字が書けないから、見ると覚えるじゃないですか。これは「きのした」って、読むんだわ、とかね。

 尋常小学校はちゃんと6年間出たのよ。でも私左ぎっちょだから・・いまだに左ぎっちょで、みっともなくて困っちゃう。6人兄弟で、みんな字が上手いの。私だけが下手だったわ。だから、ろくな仕事にも就けなかった。女中に行っても、朋輩に馬鹿にされて追い出されたりして。親は別に働きに出したりしたわけではないけど、自分で出たのよ。

 お店の主人は泣き泣き、私を辞めさせたの。お料理屋だったから、左ぎっちょでは、商売が左前になるから、と言われてね。お客には好かれたんだけど。それでも、どうしても料理屋とかは駄目で、左でやれるところがいいっていう事で、貝屋に奉公したの。左ぎっちょでも、貝って口を開いてるから、こうやりゃ割れるじゃない?

 東京の佃よ、生まれて育ったのは。だから左ぎっちょだけど、左で殻むいたりして、楽しかったわ。いじめられないで。その主人が「そのつゆ、大事だから、飲んじゃいな!」って。貝がかたっぽ生きてるんでね、気持ち悪かったけどしょっちゅう、つゆ飲んでた。アサリだの赤貝だの・・・


寄席に通って、市丸姉さんの真似

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 字は書けない、ただしゃべることは、覚えたいんで、*市丸姉さんって人いたでしょ。

注)市丸姉さんは長野県松本市生まれ、16歳のとき、浅間温泉で半玉(芸者見習い)になり、19歳で上京して浅草で芸者になった。
浅草では一晩に何件ものお座敷を掛け持ちするほどの人気者。 噂を聞いたビクターが市丸姉さんを昭和6年に歌手としてデビューさせ、静岡鉄道のコマーシャルソング「茶切節」が全国的な大ヒットなった。
芸者1だったようです。

 浅草のそういうところに行って、「小唄」とか「どどいつ」を覚えたりしてたわ。私、14歳位だったからよっぽど寄せにでも出ようかしら、って言ったら、親がそんな思いしなくていいってね。

 寄席に出ない代わりに、学校の帰りには、寄せの下足番のおじさんの所に行って、おじさん知らないのに、「この下駄どこに入れたらいい?」って、言われないのにやるもんだから、かわいがられてね。だからね、「今日は、市丸姉さんくるから、お客の所に行って座って歌聞いた方がいいよ」って言ってくれたりして。

 毎日学校から帰ってくると寄せに行って、そんな事してたのよ。楽しかったわ。

かごしょって、魚拾い?

 ある日、友達に「魚市場でこじきやんない?」って言われたの。友達に。いいわって答えて。何だかわかる「こじき」って? 汚いかっこしてね、わらじはいて、かごしょってね。下におっこってるのを、ひろうわけ。そこの主人に何も言わないで、自分のかごに全部入れるわけ。家に持って帰ってきて、近所に持ってって売るのね、料理屋さんとかにね。

 かごしょって、わらじはいてね、魚市場の中に入ってそばを食べるお金位は持ってたから、そこで食べて隣のおじさんと仲良くなって、「おじさん、下におっこってるごみ拾いたいんだけど」って言ったら、「そっか、小遣い稼ぎだな。かごしょって4時に来なくちゃダメだよ」って教えてもらってね。4時に行くから学校なんて行かないの。

 ご主人がみんないい人で、いいよ、いいよって言ってくれるので、下に落ちてるの拾って。そのうち「この子か、清ちゃんてのは?」と言われて、すいませんって。でもね、私達は子供だったから、みんなかごに魚ほってくれたりして、楽しかったわ、子供のじぶんて。

結婚生活は短かったわね

 お嫁に行ったところは、門前仲町ってとこで、借家だったわ。ある時、下駄やじゃなくて、ええとね、何やだったか? とにかく家から近いから毎日行って、その前の掃除したりなんかしてたのよ。

 そこにいた人が、いいとこの息子なんだけど、親とけんかして、飛び出して、大学も出てたんだけど、その人が独身でそこに居候していたの。「私もらってくれないかしら」って言ったら、「いいよ、もらってやる」って。それでちゃんと結婚式もやって一緒になったの。

 その人と結婚したんだけど、死んじゃったわね。結婚して10年位は一緒にいたんだけど。その人電気やさんでね。その時は、赤坂に貸家がたくさんあって、乃木大将の墓もあったわね。7・8人の弟子を連れては、コードをあっちやれ、こっちやれっていうふうな仕事をしてたわ。

 戦争にもあったわね。門前仲町で逃げて、川っぺりにつかまって、夜をあかしたの。いろいろその間あったけど、戦争は早く終わったような気がするけど、今となりゃあんまり覚えてないね。

私、男の人が好きなの!

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 くだらない話が一杯あるのよ。していいかしら? 私ね、男が好きだったの。どんな男って、お金を持ってたら、どこへでも行ったの。私はお金持ってなかったから、お金があったらどこへでも行けるでしょ?

 たとえば、向島の方に、「やおまつ」という料理旅館があったの。「やおまつ」に行くのにね、永代橋から船が出てたの。船頭がいて、川っぺりに雨も降ってないのに、番傘さして出迎えてくれるのよ。

 私、昔から市丸姉さんにあこがれて、歌いなさい、っていうと今でもすぐ歌うの。「どどいつぁ〜野暮でも、やりくりゃああ上手っ、けさも七つやでほめら〜れえぇぇ〜た」

 くだらない、人生。男の人が好きなのよ。振られたことはないわね。

 芸事が好きだったから、いろんな歌を歌ったわね。市丸さんが好きだったわ。浅草の芸者衆。勝太郎さんとかね。「端唄」とか、「どどいつ」だとか、持ち味があるでしょ、声に。私は低音で歌ったり、高い声で歌ったり。私は、芸者になりたかったけど、親がいけないって。

相生の里での今の生活

image3b.jpg 三味線も2丁もってきてるの。足をけがしてね、座れないし、三味線は、車椅子ではひけないのよ。私、ここでは今車椅子の生活だから、すわれないでしょ、三味線がのらないでしょ、この肘掛がじゃまして。だらしない持ち方になるからやれないわ。ここへ(膝の上に)のせないとね、浅く腰かけないと、三味線がのらないでしょ(今にも三味線があれば引き出しそうな雰囲気で)。いつでも三味線ひけるように、ここに(相生の里)持ってきてるの。

 何年か前の暮の大みそかで、歌ったり、三味線弾いたり、みんなの前でやったのよ。何か歌ってって言われると、手を挙げて、はいって歌うのよ。

 でもその後ころんで、大けがしたの。もう3年位前に、ころんで、大怪我をして、もう治らないのよ。医者がリハビリも駄目だし、無理しちゃだめって言うから。

 お裁縫が好きだったけど、ここじゃ針と糸持ってきてはいけませんって、言われたの。お裁縫もするのよ、ちゃんと親が習いに通わせてくれて。

 みんな兄弟元気ですよ。長男が、お金送ってくれてね。私が一番下だけど、みんな東京に住んでます。今じゃ、みんな年とって会う事もないけど・・・。

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 私ね、西瓜が好きなの。で冷蔵庫買ったのね。去年すいか出なかったでしょ。真半分のすいか、大きな西瓜を冷蔵庫に入れておいて、食べるの。今年は美味しいすいかたくさん食べなくちゃ。お酒は飲まないし、たばこ吸わないから私。西瓜が一番好き。

 ここは一人部屋なの。テレビもあるの、こんな大きいテレビが届いたの。歌番組見るのよ。歌が好き、踊りが好き、ダンスが好き。足が悪くても踊っちゃうわよ。相手がリードしてくれれば、何でも踊っちゃうわよ。

 時々ね、ここには芸人が来て、ダンスだの、いろなのをやってますよ。

 日本舞踊の先生もしてたのよ。左ぎっちょで。ちっちゃい時から踊りは習わされて。

今でも声は大事にしてるわよ

 唄えなくなったら困るから、今でも声は大事にしているわよ。喧嘩は嫌い、ここでも喧嘩は絶対しないわよ。

 何にも顔には付けてないのよ。頭だって。足がこんなだから、買いに行けないでしょ。水で洗うだけよ。ずいぶん貝の汁を飲んだおかげだわ。今のこの年になって、悪いとこないもの、ただ転んだから足が悪いだけで。

 なんたって、かっぽでも、やっこさんでも踊っちゃうわよ。なまけてるようだけど、ぼやっとしてるのは昔から嫌いだから、何やかにややってますよ。三味線は弾くし、今はこんな格好だけど、エプロンを変えてみたり、着物着ないでもできるようにやってね。


 ドジョウすくいの手をしながら、あ、こりゃこりゃ!

 で、ダンスは自己流なの。相手つかまえたら、私が歌っておどっちゃうの。おじいさんだろうが、誰だろうが。すぐ歌うのよ、楽しいわよ。

 「会いたい〜ぃぃとっ、思う矢先にぃぃぃ、来たよぅ、と言われっ、会いたくないふぅぅり、見たいかぁぁぁお!」文句によって、高いところから出たり、低いところにいったり、歌はいいわよね。


◆あとがき


 今回は、ある御縁で、木下清子さんのお話を伺う機会を持てました事、本当に感謝です。この相生の里という素晴らしい環境の中で、ご高齢者のお一人、お一人の人生を垣間見る機会をいただき、関係者の方々にも深く御礼申しあげます。

 さて、清子さんとの初対面ですが、私の95歳の方のイメージと全く違う女性がそこにいました。しっかりした口調で、「木下です、こんにちは」と本当にお元気でお話好きな方だとわかる印象で、すぐ打ち解ける事ができました。

 市丸姉さんにあこがれて踊り・歌・三味線にあけくれた人生・・・時代はさておき、本当に好きな事に没頭できた清子さんは幸せな人生を送られたと、確信しました。

 お話中も、身振り・手振りで、踊りの話がはずみ、お怪我をなさる前のお元気な清子さんの踊りと三味線を是非拝聴したかったな、と返す返す残念に思った次第です。

 お話を一通り伺った後、昔の写真はありますか?という問いに、「部屋にたくさんあるのでどうぞ」と快く招いて下さって、本冊子に載せました写真を撮る事ができました。どうぞ、これからも粋などどいつを、どうか唄い続けて続けて下さる事を願ってやみません。

〈注〉この聴き書きはご本人の語った言葉をそのまま書き起こしていますので、本文中に、差別的あるいは禁止用語に該当する言葉が出てくる場合もあります。聴き書きグループでは、ご本人が自分自身に関して語った内容や言葉は、特別な場合を除き、できるだけ忠実に記載する事にしています。


(完)


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2012年01月09日

転勤族の妻、60歳の大学生、趣味さまざま

転勤族の妻、六〇歳の大学生、趣味さまざま
  
〜振り返り、悔いない人生〜

 かたりびと:
大嶋みちよ  聴き書き:K.H

転勤・転勤 “たびにんさん”の苦労

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主人が保険会社の日本生命に勤めていたので、我が家は転勤族でした。ですから日本国中あらゆるところに行きましたよ。東京都内だけでも杉並や渋谷、埼玉の川越、あそこは大きなお宮や神社があって情緒のある街でしたね。

 
関西だと大阪や西宮が、今、思い出されます。どこに住んでも2年〜3年が多かったです。長いところで4年、大阪に転勤したときは1年で呼び戻されて、またどこかへ。それの繰り返し、会社の都合ですね。ちょうど長男が高校受験で苦労してしまいました。

 
ときには『たびにんさん』なんていわれましてねぇ。初め何のことかわからなかったんですが、「転勤して渡り歩くから」らしいんです。

 
ですから、なるべく“よそもの“にならないようにと思って、どこに住んでも地域の人と一生懸命交流するように努めました。自分では“たびにんさん”だなんて思ってませんからね。そういう面の苦労はありました。

“ふくしま”の思い出

 
一番思い出深いのは、やはり4年も住んだ福島ですね。家は福島市のちょうど真ん中あたり、信夫山の麓にありました。家の前がすぐ福島大学だったのです。なので景色も環境もとても良かったです。残念ながら福島大学は、今図書館になっているらしいですね。

お友達もたくさん出来て、楽しい出来事もたくさんありましたよ。家族旅行やドライブにもよくいきました。

 妹が車で来たときは裏磐梯から会津へ、まだ雪のあるうちに行くんです。特に雪景色が素晴らしかったです。
何て言うのでしょう、雪の積もった道をこうスパッと切りますよね・・・切り立った雪の壁が両側に出来て、黒部などでよく見かけますでしょ。高い雪の壁の真ん中の道をずっと通っていくんです。すばらしい景色ですよね。

face1e.jpg 
夏にも忘れられない思い出があります。温泉旅行に行ったとき山の中でね、花火大会を見たんです。山の花火ってあんまり見ないでしょ。山の中の花火ってそれはそれは綺麗なんですよ。夜空にくっきと見えて、いまでもハッキリ  思い出せますね。

 
今は原発が問題になっていますが、その頃は原発がちょうど建設される時でした。話を聞きつけて、お友達と「じゃあ見に行ってみようかしら」なんて、観光気分で行ったんです。当時は一棟だけで、まさかこんに何棟も建つとは思わなかったし、今みたいな問題になるなんて、考えられませんでしたね。

 
今考えると、あの時反対すれば良かったですよねぇ。

子供たちも頑張り屋

 
県が違うと教育も違うでしょ。転校では苦労しましたね。福島の時は、確か上の子が中学生、一番下の子は小学校2年3年でしたかね。ちょうど学校が変わる時に関西に転勤になりました。

 
一番困ったのが長男でしたね。小学校や中学校の変わり目に転勤だといいのですが、中学の途中だったり、高校の途中だったり、いつもひっかっかっちゃうんですよ。長女はうまくいくんですがねぇ。でも、今考えてみると、みんな悪くならずについてきてくれたから、ホントに良かったですね。

 
今は皆それぞれ独立しています。長男はデザイナーで銀座にいます。長女は電通に勤めてて、部長になってます。今で言うキャリアウーマンですね。旦那さんは新聞記者だったんですけど今は辞めて家にいます。娘は勤めながら頑張っていて、癌で足を切ってしまったおばあちゃんの面倒も見ているんです。朝6時におばあちゃんのところに行って、食事の支度や介護をして、それで会社に行くんですよ。だから大変なことは大変ですよね。

習いごとも私の歴史

face4e.jpg 
いろいろなところを回って、良かったところといえば、渋谷ですね。主人は帰りが遅いし、子供たちはもう大きくなっていたから、いろんなことを習ったり出来たんです。囲碁なんかも習っていたんですよ。四谷の駅前にある碁会所にも行きました(笑)

 
それから有名な先生について刺繍を習いました。習字はあと一息で日展に出せるまでいったんです。でもあそこで落ちちゃったので、悔しかったですねぇ。

 
西宮にいたときに始めたのが“革工芸”これはずいぶん長いあいだやりましたよ。スリッパ、玄関マット、ブックエンド、大きな鏡の周りにも革工芸で縁取りして、オリジナル作品にしました。出来上がるとワクワクしますね。細かい手仕事で、根気のいる趣味が好きですね。

仲間あればこそ

 
その時一緒に習っていた人たちとは今でもお付き合いしています。当時、皆さん活動も活発で、名古屋からわざわざ東京まで習いに来たり、有名デパートで展覧会したり、そういえば刺繍もみんなで同じ先生についてやりましたね。習いものを一緒にしているという連帯感が生まれて、大切なお友達です。

 
長崎のハウステンボスが出来たときも、建設関係者の奥様がお友達だったので、みんなで遊びに行ったりして、ずいぶんいろんなことしましたねぇ。

 
今は5人組が2人欠けてしまいましたが、元気な人たちがつい2、3日前にもここまで来てくれました。昔からのお友達は少なくなっているので嬉しいですね。趣味というのは続けるのはなかなか大変なんです。でも、続けられたのはお友達がいたからだと思います。

六〇歳の大学生 卒論は二宮金次郎

 
常に何かをしていないと気が済まないでしょ、わたし! あるとき、はたと考えたら大学へ行っていないのは自分だけだと気づいたんです。大学ぐらいは行っておいた方がいいんじゃないかなぁと思って、子供が全部大きくなって、60歳になった頃、大学に行ったんですよ。法政大学!

 
初めはNHK学園に入りました。ここで勉強すると大学に行けるという話を聞いたんで、始めたんです。その頃は4年制でした。今は3年制ですね。それから法政大学の文学部・史学科に入って、歴史を専攻しました。20歳の子と一緒に勉強しましたよ。もちろん体育の授業もやりました。バレーやらされたりね、もう頑張りましたね!

 だって、90幾つのおばあちゃんも来ていたんですよ。私なんか50歳や60歳じゃぁまだ若いですよね、頑張んなくちゃと思いました。

 
でも、ちょうど母が病気になって、2年間休学してしまったんです。だから卒業まで、NHK学園で4年、大学4年、休学があったから合計10年。長くかかったけど卒業できたし、母を家に呼んで、最後まできちんと世話して見送ることが出来たから良かったです。

 
卒論は、「二宮金次郎」を選びました。私も小田原出身なので、資料など手に入りやすいと思ったのです。でも卒論は大変、書き上げるにはさすがにだいぶ苦労しましたね。

学生生活は、主婦もやりながらなので、夕方からが大忙しです。主人は帰りが遅いのでよかったのですが、子供たちには夕食の支度をして、「お母さんの時間ちょうだいね」って言って通学したのです。もちろん次の朝はちゃんと起きて家のことやるんです。わりと平気でしたね、ええ、女は強いですね(笑)。

定年後もやっぱり移動

face3e.jpg 
主人は東京生まれ、実家は目黒の駅前で商売をしていましてね。私は小田原の出身。浜っこではないですが、神奈川です。ですから東京と神奈川出身の夫婦なので、主人の定年後は相模原に家を建てたんです。わざわざ福島から大工さん、それも宮大工を呼んで建ててもらったんです。とてもいい家が出来て、気に入ってました。

 
でも、相模原は寒いし湿気が多いので、体に良くなかったのですね。私にリュウマチが出て、子供たちが「そんなに遠くにいちゃだめだから、こっちにいらっしゃい」と言うので、それで、勝ちどきに引っ越してきたんです。勝ちどきで7年ぐらい暮らしました。

 
その後、わたしはこの“相生の里”に来たんです。ここにきて4、5年経ちました。ここは、すぐ前に隅田川が流れてて、眺めが最高ですよね。

 
主人は、いま新富町のマンションで一人暮らしです。離ればなれなので少しさみしいですね。主人の食事も心配ですが、適当に外食したりして、気ままにやっているようです。それに子どもが同じマンションにいるので安心です。

今なお盛ん チャレンジする心!

fece5e.jpg 
常に何かやってた方がいいかなぁと思う私なので、習字を少し前に再開したんです。左手だからなかなか思うようにいきませんけどね。

 絵も描きます。この間描いたバナナやざくろの絵が、今も廊下に飾ってあるので、毎日眺めてますよ。それから囲碁も毎週習ってます、置き碁をしてもらってね。頭の体操になるでしょ(笑) 他にも何かできることがあればやりたいですねぇ。

 振り返ると、ホント悔いのない人生だなぁと思います。

(完)


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