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2011年03月23日

第2回ききがきすと養成講座開催決定!

第2回ききがきすと養成講座の開催が決定しました!

kadai1.jpg 昨年10月から12月まで開催した「ききがきすと養成講座」では、ききがきすと第1期生が誕生しました。このメンバーを核に、「ききがきすと」はさらに活発な活動を続けていきます。

 さて、ご要望にお応えして、第2回「ききがきすと」養成講座を開催することになりました。未曾有の災害・東北関東大地震を経験して、自然の中では人間の力がいかに弱いものかを思い知らされました。人間の営みも、自然にとってはアリのうごめきのようなものかもしれません。とはいえ、私たちは生きています。先祖から引き継いだ命と営みであり、今後も、子孫につなげていく命と営みです。非力とはいえ、生きた証を刻みたいと思います。

 そのために「ききがきすと」活動があります。「ききがきすと」は語り手の話にじっくり耳を傾け、その話を書きとめることによって、語り手に代わって「その人なりの自分史」を残すお手伝いをするための資格です。Ryoma21では、一定レベル以上の聞き書きができる人を育成し、活躍につなげるための「ききがきすと養成講座」を開催します。資格を取得すれば、Ryoma21の仲間と一緒に活動することができます。

【ききがきすと養成講座開催要領】

◆開催日:平成23年5月14日〜7月9日
   14:00〜17:00。いずれも土曜日6回

◆会 場:東京都中央区銀座近辺、中央区施設など

◆カリキュラム:下記のPDFをダウンロードしてご覧ください。
        詳細もこちらでご覧いただけます。
  【第2回ききがきすと講座受講生募集チラシ表.pdf
  【第2回ききがきすと講座受講生募集チラシ裏.pdf

◆定 員:10名限定

◆申込み締切日:5月10日(火)

◆受講料:正会員35,000円、賛助会員40,000円
             非会員45,000円
  *テキスト・資料代を含む。
  *正会員同時入会で、正会員価格で受講可。

◆申込み・お問合わせ方法
 下記の事項をFAXまたはメールにてお送りください。
 追って、詳細をご連絡します。
  @お名前
  A郵便番号/ご住所
  B電話番号
  Cメールアドレス
  D非会員で同時入会をご希望の方はその旨を記載。

◆申込み・お問合わせ先
  NPO法人シニアわーくすRyoma21
    「ききがきすと」グループ・松本へ。
  メール info@ryoma21.jp FAX:03-5537-5281  

以上 
 

posted by ききがきすと at 00:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがきすと養成講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月21日

作品:わが愛しの編集人生

わが愛しの編集人生 〜ミニコミ誌づくりに30数年〜

    この聞き書きは、第1回ききがきすと養成講座の課題として、
   受講者全員が取り組んだものです。代表して1作品を掲載します。
   語り手:川崎和子さん  聞き書き時期:2010年11月

主婦に納まっているのはいやだった 

kawasaki.jpg 私が住んでいる所は田園都市線の田奈。40年も住んでいます。今から20数年前に『あっとらんだむ』というタウン誌を立ちあげました。もちろん、簡単に立ち上げられたわけではありません。夫は海外出張が多く、留守がちでしたので、何かしたかったのです。人見知りも克服したいと考えました。

 きっかけは、子供のPTAなどで広報に身を置いたことです。でも、PTAだけでは納まらなくて、もうちょっと本格的なことをやりたいなと思っていました。そしたら、自宅の近くに『フレンズ』というミニコミ新聞を出しているところがあり、募集の張り紙があったんです。応募したところ、明日から来てくださいということになって、そこから、私のもの書きの第一歩が始まったわけです。

 家が近いので、保育園や小学校だったりする子供を自宅に置いて仕事をしていました。何かの都合で家に帰れないときは、外から子どもが「お母さん、まあだ?」と声をかける。社長はいやな顔をしていましたね(笑い)。そこには2年くらいいました。

wako4.jpg

 そのうち、営業成績抜群の女性がいまして、自分で新しく地域新聞を創るからといって、私を引き抜いたんです。その方は田園都市沿線のあざみ野に自宅がありまして、そこを事務所にして「まち」という4ページくらいのタブロイド版の新聞を立ち上げました。

 そのころの沿線には畑とか山林とか大きな竹林などがまだあったのですが、東急電鉄がどんどん開発していって、風情ある風景がなくなっていく、ちょうどそういう時だったんです。で、オーナーから「この辺は昔話がたくさんあるの。私、おじいさんたちを知っているから、川崎さん、あざみ野の今昔物語をやってくれない?」と言われました。そして、月に1回、古老のところに紙と鉛筆を持って取材にいく仕事が始まったわけです。

 田舎のおじいちゃん、おばあちゃんたちのところに行きますと、かっこいい若い女がオレのところに来てくれたというので、酒と肴を山のように用意してくれることもありました。そこで、話を聞くのは面白かったですよ。

 例えば、あざみ野の奥に「船頭」という地名があります。どうして山に船頭?と不思議に思っていましたら、本当に船頭がいたんだというんです。日照りの年、上流で水を取ってしまうので下流は水が細くなり、水争いがあったそうです。川下の百姓が怒って、下流に土のうを積んで堰き止めてしまった。ある年、雨がすごく降って、大きな池ができた。その池を渡るのには、船がないといけない。そこで、地主か大百姓の家に、船を作って貧乏な百姓たちの足の便を作ってくれないかという話が出た。それが船頭という地名になったそうなんです。

 あるいは、十三夜とか二十三夜も、神に祈る祭りとして、酒と肴を持って集まっていたという話も聞きました。そんな話を『まち』に連載していきました。オーナーが、ペンネームがあったほうがいいのではないかと吉岡すみ子と付けてくれまして、20回くらい連載しました。私は原稿を保存してなかったもので、後からほしいと思ったのですが、オーナーが早くになくなってしまって、残っていません。

燃え立つようなエネルギーを感じながら 

 『あっとらんだむ』を立ち上げる前に、もうひとつ別の会社で働きました。それも女性経営者で、真四角な大判の雑誌形式で『マイタウン田園都市』といいました。季刊誌です。取材のほかに営業をやってみないかと言われました。時代の波なんですね。高度成長期に向かってだんだんよくなっていく時期だったので、結構、営業がうまくいきました。割合、気楽に営業をやっていったので、それなりに成績が上がっていくわけです。面白かったですね。表と裏がカラーで、いい広告料を取っていました。

和子さん2mini.jpg 取材では美術館特集が印象に残っています。街の人をインタビューアーとして連れて行って、その人が取材したような形で美術館の特徴を聞きだして記事にするんです。街をあちこち飛び歩いて、いろんな方にお会いして、とても勉強になりました。自分のタウン誌を立ち上げる時には、この仕事がとても参考になりました。でも、3年未満で辞めました。もう人に使われるのはいやだという思いがあり、だったら、もう自分でやるっきゃないという感じです。その後、1年くらいのブランクを置いて自分で始めました。

 立ちあげた時、私はちょうど50歳だったんです。若いのか、歳とっているのか、自分ではそんなことは全然考えませんでした。どういう形の雑誌にするのか。りっぱな考えは思いつかずに、とにかく自分が今やれることをやればいいと、タウン誌づくり以外には考えられませんでした。今までの仕事で、地元に結構な知り合いができてましたので、そういう方たちを頼って、自分で雑誌を出しますので、よろしくと挨拶に参りました。主婦で何ができるんだとバカにされたりしたこともあります。

 自分で何かを立ち上げるという時は、やはり崖から飛ぶような気持ちになるんですけれども、一方で、燃え立つようなエネルギーのようなものが湧いてもきます。恥ずかしいとか、家族に迷惑をかけるとか、そんなことは全然考えられなかった。とにかく、前に飛べって感じでやってしまったんです。

 ところが、2年目、3年目のころ、リバウンドがきまして、しんどいなと思うこともありました。2番目の娘の高校の先生から、「3号雑誌といいうのがあるからね」と言われたんです。その時、「え〜、3号で辞めるなんて、とんでもない」と思ったんですけど、やはり、3号目を出すのは大変でした。

 12号目は義理で広告を出してくれるんです。でも、3号目になると「うち、いいよ」「うちもいいわ」となって、どんどん減っていきました。ここで辞めたら3号雑誌。辞めてなるものかという気持ちがムラムラと湧きました。だから、本気になって頑張りだしたのは、3号・4号あたりからかもしれません。2年目、3年目は胸突き八丁の一番苦しい時期だったと思います。

 その間、スタッフは常に2人くらいいましたが、営業はまったくできません。書いてくる文章も手を入れないと掲載できない。でも、やっぱりスタッフがいたほうがいいんです。みんなで、こうよね、ああよねと雑談をしていると、いいアイデアが出てきます。スタッフが「いいと思います」と言ってくれると、すごい勇気がわくんです。企画の段階ではスタッフが必要でした。

 20年前、スタッフがひとりになったので、募集したんです。そしたら、優秀な女性が来てくれました。春ですから、美容関係の特集を組みましょうかと言うと、4つくらいの広告を取って来てくれるんです。次はカルチャーでいきましょうかというと、それも取ってくる。あの頃が一番のピークでした。私は、本当は広告営業は向いていないんですが、広告がないと雑誌がさせませんから、書きたい一心でやっていました。彼女には本当に助けられました。 

文化の香りのあるタウン誌を目指して 

wako1.jpg 田園都市沿線にはミニコミ誌がたくさんあるんです。『あっとらんだむ』は文化の香りのあるタウン誌を目指していました。田園都市線に移住してくる人たちは、生活レベルが高いので、そういう人たちに満足してもらえるようなものを作らなければなりません。目玉は文化人。人脈を頼って、文化人を紹介してもらって、雑誌の巻頭に入れます。それに、ちょっといいレストラン、素敵な雑貨を於いている店、ギャラリーなど、質のいい店を紹介していきました。

 私が参入した時はTBSの緑山スタジオにいたプロデューサーが、今度、こういう番組を放送しますので、ミニコミ誌で記事を書いてくれませんかという記者会見をしたり。そういうところでも人脈ができました。TBSにも定期的にお伺いして、ニュースをいただいたりしました。

 そうしているうちに、TBSでやっている事業の広告を出してもらえるようになりました。
ミニコミ誌というのは、草の根的に地面をはうように街を歩いて、記事や広告を探し出すのが宿命なんです。そんなこんなで11年。37号まで続けることができました。 

タウン誌から自費出版本へ 

 私にとって自費出版本を作るということも、取材の延長線上にあります。最初のきっかけはバブルが弾けて景気が悪くなったことでした。こんな小さなタウン誌にも不景気の影響が及んできて、広告が入らないんです。それまでは、粘り強く営業すればもらえたんですが、もらえないんですね。

 雑誌を作る時は、最初にダミーを作ります。最初に固定の広告主さんを入れて、空いた広告スペースはそれ持って営業をするわけです。ところが、常連だったブティックやお花屋さんに行ってみると、お店がなかったりする。困ったな、どうしよう。
50代後半になると営業するのもくたびれてきて、なにか楽してできることはないかとやましいことを考えてしまいます。

 それじゃあと、「自費出版のお手伝いをいたします。10万円から本が出せます」」という広告を打ってみました。
普通、自費出版というと100万円以上なんですが、私が使っていた印刷屋さんはアルバムなどを手掛ける学校関係専門の印刷屋さん。カラー印刷もお手のもので、とても安かったんです。話したら、「まあ、いいだろう。10万円は10万円の本を作るから」と。私は、あまり効果を期待してなくて、ただ空白を埋めるつもりで出したんです。

 そしたら、引き合いがきたんですよ! ちょっと慌ててしまいました。
その方は、NHKの自分史講座で勉強をした人です。先生にあなたのはいいですよと言われたそうなんです。100枚くらいの原稿を持っていました。原稿は私がワープロで打ちだして、レイアウトを付けて、印刷屋に出しました。大きな自作農で、それが自慢のようでした。だから、中に写真のページを作り、屋敷の見取り図も入れました。これが作品第一号の『かなめの子』。100冊作りました。

wako3.jpg

 次が『いつかくる日』。これは大変でした。「原稿は書けないけど、本を作りたい。何も考えもありません。お金はあります」と。「えっ〜」と思いましたが、できるという予感がありました。とはいえ、まるでヘレンケラーとサリバンの関係。「私は、文章は書けないけど、いろんなことがこの胸の中にあるんです。その思いを引き出してもらいたい」というんです。

 そこで、心の中の思いや思いついた言葉をランダムに書きだしてもらいました。そうしたら、センスのいい言葉を次から次と持ってくるんです。びっくりしました。
彼女のことばを拾いながら、私のイメージの中で膨らませます。行きつ戻りつしつつ、私が文章や自由詩の形にして、彼女と2人3脚で本を作りました。彼女の言葉に刺激されながら、私自身が試されているような気がして、一生懸命作りました。

 その頃は、聞き書きという観念はなかったのですが、これがそうなんだなと思いましたね。今日、電車の中で読んでみたら、当時のことがありありと浮かんできました。もっと顔が赤くなるようなものかと思っていましたが、案外、悪くないなと思っています。

 もうひとつは、自分のパソコンで作った本です。岐阜県の田舎のおばちゃんの依頼なんです。「自分は“おしん”よりも苦労した、おしんには母ちゃんがいたが、私にはいなかった。4歳で死んだ」というようなことが書いていある。旅先の五平餅屋でなんとなく気が合って、店で話をしていたら「あんた、何なさるひとかね」と聞かれました。私は地元でちっちゃな新聞を出してるもの書きの端くれよと答えたら、「私、今、原稿を書いてるんだけど、本にしたいんよ。本にしてもらえんかね」と言われました。

 ものすごくパワフルで、神経が太い、田舎のどっしりしたおばちゃんという感じの人。私はそういう人に弱いんです(笑)。なんとなく取材モードに入ったら、あんた、今夜はうちに泊まっていけっていうんです。いやいや、帰らないと父ちゃんに家に入れてもらえないといって、その時は振り切るようにして帰りました。

 でも、自分史に作れるんだったらと思って、しばらくして電話をしたんです。そしたら、「まっとるよ」と大きな声。で、下呂温泉1泊の招待がきました。原稿を見たら、すごい字だし、じっくり腰を据えて読まないと読めないような内容。原稿用紙ではなくて、裏紙だし。バラしたパズルみたいな内容で、電話で聴いても、全然、答えになりません。この方は小学校しか出てないんです。「私は学問がないから、バカだから、苦労の連続だった」とおっしゃる。聴いてもしょうがないんで、自分のできる範囲で文章に直して、送りました。

 このおばちゃんの旦那さんはシベリアで4年くらい抑留されていたそうです。その時代の過酷な経験をした男の方は、体は頑丈でも、どこか精神が傷めつけられたり、洗脳されたりしたのではないかと思うんですが、おばちゃんはそのあたりがあまり理解できないような人ですね。結局、旦那さんは自殺をされたと書いてある。地域の人には、そんな話はできないと言うんですよ。そんなおばちゃんの聴き役になったわけですが、それもいい勉強だったと思います。

 印刷屋に出すつもりで、それなりの金額を提示したら、うちもいろいろと金がいってねという話になって、じゃあ、私がパソコンで本にしますがそれでいいですかと。10万円で10冊作って収めました。この『伊藤ふさの生き方』が、私が最初に創ったパソコン仕上げの本になります。

wako2.jpg

 本を作るのは、そのおばちゃんに限らず、誰にでも花道で花火を打ち上げるようなものですよね。田舎の人ですから、ましてや、あんた何ものと言われたんじゃないかと思います。

 ききがきは取材と同じですね。でも、話すことに慣れていない人もいます。社会の表に出ていないような人は引いてしまいます。それなりに、傾聴する気持ちで聴かないと、答えは返ってきません。逆に、偉い人だと、こちらが恐縮して、肝心なことを聴き逃すこともあります。聞き書きは難しいですね。

 私は自分よりもレベルの高い人を取材したことで自分が育ったと思います。自分では経験することができない過程や苦労を追体験することができます。素敵に生きてきた人に出会える、またとないチャンスでした。有り難いな、すばらしい仕事だなと思います。
 

 今、ちょっと刺激がなくて、停滞気味かな。私は趣味で日本地図の渚ドライブをしています。今年は九州を一周して帰ってくる計画を立てていたんですが、それができませんでした。来年の春にそれをやりたい。女の伊能忠孝みたい?(笑)。とにかく動けるうちには行動したいと思っています。

posted by ききがきすと at 17:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがきすと作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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