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甘えん坊の「牛の子」
私は、昭和14年5月25日に父弘間経世(つねよ)と母好子(よしこ)の間に生まれました。郷(さと)は、高知市の鷲尾山(わしおやま)の麓にある吉野という集落です。父方の弘間の家には、神田村(現高知市神田)の百姓だった先祖が、安政の時代に山内家の西御屋敷の若君の辻売り(文末※1参照)を申し受け、その縁をいただいて足軽に抜擢されたという話が伝わっています。とは言え、実家は分家やったもんで、貧しい小作百姓でした。母は、よく「米俵を山と積んでも、方々へ供物を納め、お医者代を払うたら、もう食べ代がない。何袋も残らん」と言っていましたね。
私には14上の長兄と、7つ違いと4つ違いの二人の姉、2つ上の次兄がいて、名前どおり5人兄弟姉妹の末っ子。きっと皆に甘やかされて育ったのでしょう。幼い頃は世間の人に「牛の子や、牛の子や」と言われたものです。母親に付きまわる甘えん坊の牛の子、言うてね。田んぼへ行く言うちゃ付いて行き、そこで座ったり寝転んだり、母に付きまとって、いたずらもしたでしょうね。気が付いて親がいないと、大泣きする・・そんな子だったようです。
大型爆弾から始まる戦争の記憶
当時の吉野は40軒ほどの集落で、普段は静かで穏やかなところでした。でも、幼い私の記憶には、ただただ恐ろしい戦争の断片があるのです。それが、あまりにも鮮明で、怖い、悲しいというより、現実に見たということが、すごく重いのです。
今、ガザ地区やウクライナで辛く恐ろしい思いをしている人たちがたくさんいます。テレビで毎日のように見るでしょう。そしたら、たまらんなるのです。今はあまりにも情報が多すぎる。その一方で、戦争の体験は希薄になるばかりです。気を付けて観る、聴くということが難しくなっている。だからこそ、今、この高知で私自身が恐怖した戦争を伝えたい遺したいと思うのです。
昭和19年1月10日のことでした。母は、父方の親戚の結婚式に行くのに、お土産に卵でもと思うて、庭に取りに出たそうです。父から「飛行機の音がするが、外を見てみよ。どこを通りゆうか、早う見よ」と声をかけられた。その瞬間、ものすごい音とともに吹き付けられるような衝撃を受け、振り返ると、幾ところにも火柱が立っていた。空襲警報も鳴らず、やにわの夜の爆撃だったと、母がそう話していました。
爆弾は、家から東側に80mくらいのところと西側へ50mくらいのところ2ヶ所に落ち、大きな跡を残しました。私はただ恐ろしくて、家に入ってきた母にかきついたことを今も忘れることができません。4才の私の戦争の記憶の始まりです。
その日、吉野周辺に7発の爆弾が落とされたと聞いています。それが高知県内では最初やったそうで、あくる日は明け方から見物客がものすごかったようです。初の爆撃の跡を見ようと人の列が尽きず、それもまた、いつもは静かな里には、珍しいことの一つだったようです。
鷲尾山に敵機B29墜落す
翌年、20年6月22日には、敵機B29が鷲尾の山腹に落ちるという事件が起こりました。飛行機から2つの落下傘が吉野に舞い降りたのを、ちょうど病床におった私の祖父が見たものですから、襲撃してきたと受け止めたようで、「早うに防空壕に逃げないかん」と、大きな声で叫びました。4つ上の姉と慌てて行李を防空壕に引き込んだことを子ども心にも覚えております。
その後で、男の人らぁがみんな農道を竹やりや、なぎ鎌、サスマタなんかを担いで、どんどん、どんどん鷲尾の山向いて走っていきゆうのを目にしました。子どもには何とも異様な感じで、それもよう忘れんことの一つです。
それからしばらくすると、今度は目隠しされた二人の米兵を載せた荷車(かしゃ)(文末※2参照)が通り過ぎました。落下傘で降りる際に傷ついちょったようで、警備をする人が周りを取り巻いていました。親や兄弟、息子なんかが戦死した人は、なんとか敵を討ちたいという気持ちが逸るので、それを止めるためでもあったようです。その異様な光景が瞼から離れません。もう80年も昔のことですけど、今もよみがえります。
近所の子ども二人が犠牲に
後でわかったことですけど、B29が落ちたちょうどその時、4人の子どもが、その近くにおったようです。ヤマモモが美味しい頃でしたから、遊びがてら山へ採りに入ったのでしょう。飛行機が落下した、その飛び火で火事になった。二人は山を下へ逃げて助かった。けれど、ここへ隠れる言うて真向いの岩陰に隠れた二人は、黒焦げになってしもうてねぇ。それが、なんと両隣の家の子どもさん2人。13歳ばぁの男の子でした。二人を連れ帰って庭先に寝かせているのを、それもまた、目にしたことでしたね。
B29墜落のことは、当時の新聞(文末※3参照)にも載ったと思いますがねぇ。7つ上の姉の同窓生なら詳しいことを覚えちゅうろうと、先日、聴きに行ったんです。「パラシュートで降りた人は、捕虜として連れて行かれたが、死んだ兵隊さんもおった。7人くらいはおった」と言うてました。飛行機に乗ったまま亡くなっていた人たちを埋けるに、地域からも人を出したという話もしておりましたがねぇ。
「飛行機は、撃たれて平衡が保てず、落ちたのだろう。尾翼が2キロくらい離れたところで見つかった」とも話してくれました。今みたいに情報がない時代ですから、そのときに見聞きしたことは、すべて鮮明に残っているものなんですねぇ。
防空壕、灯火管制の記憶
そのうち連夜のように焼夷弾が落とされるようになりました。鷲尾山は小高い山で、海が見えるし、高知の町も見渡せる。監視施設もあったそうで、余計目当てになったのやろうかと、後で親なんかも話してましたがねぇ。朝倉に練兵場もあったので、そういったところを狙う敵機の軍事的な通り道になっていたのかもしれません。
空襲警報が鳴って、防空壕へ入ったときの鮮明な記憶があります。心細さに壕の中にあった稲わらに抱きつくと、恐ろしさで震えてカサコソカサコソ音がしたんです。その音が耳から離れませんでしたがねぇ。子ども心にもあれほどの恐怖を感じたことはなかったです。
夜でも警報が鳴ると、家族は皆、防空壕に入る。すると、病床にいる祖父が、淋しくなるのか、家族を呼ぶんです。母は避難どころじゃないですよね、舅の世話をせないかん。灯火管制が厳しく、暗幕みたいな袋を裸電球に着せちょりましたが、それでは視界が広がらず、世話するうちに、いつの間にか幕がずれたり、外れたりする。地域の者から「灯が外へ漏れゆうぞ」と大きな声で怒られたと、母が難儀がったものです。そんなこともあって、母は随分苦労がいたと思います。終戦を知らぬまま、祖父は亡くなりましたがね。
高知市大空襲
7月4日には大空襲がありました。戦争が終わるちょっと手前ですわね。高知の街に焼夷弾が次々と落とされて、ものすごくやられたのです。鷲尾山の山系が筆山に連なっており、その筆山の切れた当たりからが市街です。向こう側の潮江辺りからずっと焼けて、市街は全滅に近いくらいの被害があったようです。
翌朝すぐに、父は、お世話になった皆さん方が困っちゅうろう言うて、炊き出しをこしらえて届けに出ました。父は、農業一筋でもなくって、年末にはお餅をついたりする仕事もしており、お付き合いのある方々が町にいたのです。まぁ、普段は結構な暮らしをしておいでる方たちやったでしょうけど、被害のたいへんなあり様に、日ごろの恩返しとの思いだったようです。
ところが、市中の悲惨さは予想を上回るもので、届ける手前であげていたら、たちまち足らんなった言うて、帰ってきたのです。母が再度、握り飯など用意して、また父が出かけたことを記憶しております。それほど市中は戦火にやられて悲惨なことになっていたということです。
戦争が終わったぁ
そのうち飛行機が終戦を知らせるビラを撒くようになりました。どこが撒いたのか、何が書かれていたのか、まだ5つそこらだった私にはわからない。ビラを拾っても読めもしませんでしたから。けれど、大人たちの雰囲気で戦争が終わるとわかりました。解放されたという安心感が私にも伝わったんですよね。
その時分は、家にラジオがあっても1つです。それも音声の悪いラジオがかろうじて一つあって、それが唯一の娯楽であり、情報でした。そのラジオからの天皇陛下の玉音放送は私には覚えがありません。でも、親が話している「戦争が終わったぁ」という言葉を耳にして、私、万歳しました。負けて万歳じゃないけれど、子どもは純情なものですからね。安堵して、はしゃいだ言うたら不謹慎ですが、それが正直な気持ちでした。空襲警報が鳴ることのない日が、やっと来たのです。
小学校入学が社会進出の日
終戦の翌年の春、私は鴨田小学校へ入学しました。「牛の子」と呼ばれるほど甘えん坊の私は、また、吉野の里しか知らない「井の中の蛙」でもありました。やっと社会への進出となったわけです。入学式の前に親に連れられて初めて学校へ行くことがありました。鴨田小学校もおおかたは焼けてしまって、かろうじて残っちょった講堂で、私は生まれて初めて母親から離されて、遠い所へ連れて行かれました。
先生に「名前を書きなさい」言われて、渡された紙にカタカナで書きました。『ヒロマ』と書く最初のヒの字はこんなに大きく書いて、『スエコ』のコはもう書くところがなくなり、小さく小さくなっちょった。それをこうやって唾をつけて消して、書いて。子どもが最初に習うのがカタカナでしょう。それが、初めての字よね。自分でもよう忘れん。上の端の字は見事に大きくて、下の端の字はようよう目に入るくらい小さい。そっと覗いたら、母が心配そうに見ゆう。その顔が今も思い浮かびます。それぐらいの子やったんですよね。
校舎のほとんどが焼けてしまったので、1年生の勉強は分散で始まりました。公民館でやったり、寺社でやったりね。戦前は敷島紡績やったところが、今は高知国際高校になってますがね。そこの隣に鴨田消防署の小さな詰所があって、その2階が、私たちの最初の教室でした。ランドセルらぁ、もちろんない。鞄のことなんか記憶にもありませんが、多分姉からのお譲りだったでしょうね。服は、母が嫁入りに持ってきた帯で近くの人に縫うてもろうて、それが晴れ着でした。
家から鴨田小学校までは、2キロからは離れています。消防署の詰所は、さらに遠くて、一番遠い組じゃなかったかと思います。学校が遠くて、子どもにはしんどい。末っ子の私は泣くことが特権ですから、よく泣きました。上の姉が「もう」って言いながらも、負うて私を学校へ連れて行ってくれたこともありました。
また、長兄は父親の代行みたいなもので、学校の参観日なんかにも来てくれたものです。ほんと、小学生になっても私は、どうしようもない甘えん坊のままだったんですね。鴨田小学校の新校舎が落成したのは、2年生のときでしたろうか。言い切りができませんけど、落成の時のことは記憶しています。
囲炉裏端で聞く親の言葉
父はうんと義理を言う人やったもんで、小学4年のときに兄嫁が来た、その頃から「我儘言うたらいかん」とか、しきりに私に言うようになりました。昔は食事の時が、囲炉裏を囲んでの一家団欒の場で、親の話を聴く唯一の機会、まぁ、娯楽も教育も兼ねた場だったのだと思います。
「こんなことがあって、こうじゃけんど、あれではどうにもならんが・・」とか親が話すのを成長の過程でずっと聞いて、子ども心にも必然的に「どうにもならん」ということがいけないことだと段々と了見づいてきたように思います。
また、物のない時代、その中でも小作農家はみじめなものでしたから、母がよく「人間は上を見て暮らしたらほしだらけ」と言っていました。空の星と物が欲しいの二つの「ほし」をかけて、「ほしだらけや」と。それで、「下向いて暮らしたらほしはない」って、それが母の口癖やったんです。利口に回ってますよね、母も。それが母の言葉でした。
父は父で「人間は波といっしょじゃ。押してくることもありゃ、引いていくときもある。いっつも苦しいことはないきね、頑張らないかん」というのが口癖でした。また、父の教えの一つに「神様の前を通るときには、きちんとお辞儀ができるような生活をせよ」ということもありました。それは邪な心を持っていると神様には見透かされるということで、躾の一環であったと、この年になって思うのですよ。
おませな耳年増に育つ
そんな親の話や言葉が成長の過程で繰り返され、いつの間にか身に付いたのでしょう。私は、甘えん坊の「牛の子」からおませな「耳年増」になり、また、少々のことは苦とも思わないような人間に段々と育ったようです。
とは言え、小学生の頃は、何かといえば姉たちに寄りかかるくせに、口だけがおませで、よく皆に怒られていました。兄らぁに「おまえは口から先に生まれた」言うて茶化されて、『口から先って、どんなにして生まれるのやろう』なんて考える子どもでしたよ。
物が豊かでない時代に育ったので、小学校へ履いていく草履なんかも自分で作りました。藁でね。そりゃ、姉たちがしているから自分もというかかり意識もあったでしょうね。藁なんかたくさんあったもんで、縄もなうし、すべ箒いう昔ながらの手箒も作りました。
藁の穂の部分だけを引き抜いて、今は柄付きのもありますが、これぐらいのすべの上の方を曲げてこしらえて、穂先で掃くようにした箒です。子どもなりに見よう見まねで仕上げて、小学校の夏休みの工作に提出したこともあります。子どもの手なので締りも悪かったでしょうが、やれば何でもできるという気持ちになったものでした。
鉛筆なんかでも3センチまで使った記憶があります。必要にかられたら、いろいろ工夫してみることを覚えた貴重な時代だったと思いますね。
鴨田小学校卒業後は、城西中学校に通いました。仲良しの友達が、母親に私の名前を出して一緒に行くと言えば許可がでると言うので、「えぇ?なぜ?」って思ったことがありました。当時の私は、田舎の子どもの中では、ある程度言うことが大人びちょった・・・らしいですよ。末っ子ですきね、しっかりしてはないんですけど、おませな口立ちだったんですね。
母の生い立ち
母はよく、私らに自らの生い立ちを語って聞かせてくれました。母は明治から大正にかけての大変な時期を生き抜いた人で、朝のテレビドラマの「おしん」以上の苦労をしたようです。私の母は、父親が出稼ぎに行ったまま、捨てられたようなことになりましてねぇ。私の祖母になる者は、うんと苦労して母と弟になる者を育てたらしいです。母は赤ん坊の弟を負うて小学校へ行ったそうで、弟が泣くと、人の目が気になり、結局、学校へも行きどころじゃなかったと言うてました。
学校へ行くよりも、となって大阪の方へ女工に何年か行ったようです。その後、いつまでも女工というわけにもいかんと呼び戻されて、今度はありがたいことにお医者さんの家に女中に入れた言うてました。その頃のことを母は「お陰様をいただいた人生には箔が付いた」とよく言っていました。
人間は生活するところで、育てられるもんでしてね。母の言葉遣いはものすごく丁寧で、それが母の一番の自慢でした。そういうことは一生身から外れませんしね。「幸せなことに良いところで育ててもらった」って、母がいつも口にした感謝の言葉が忘れられません。
姉が開いた高校への道
高校は小津高校へ行きました。すぐ上の兄は中学出るとすぐ農業しましたけど、その上の中の姉は出来が良かったもので、学校の先生が是非高校へやれと勧めてくれて、追手前高校へ行ったのです。私は姉の開いた、その道を通らしてもらえたんです。当時は、誰もが高校へ行くという時代ではなかったし、親も経済的に余裕があるわけではなかった中、親にしたら、兄や兄嫁への義理立てもあっての選択やったと思います。
でもねぇ、姉は親がたいへんということがよくわかっているだけに、授業料のことでは難儀したようです。授業料を滞納すると、学校が名前を張り出したそうで、母に言うと、「この卵を持って行って売って、それで払うように」と卵を渡され、姉は卵を売って授業料を払ったと話していました。
幸い、私は、そこまではしなくてもよかったんです。滞納者の名前を張り出すなんてこともなくなっていましたし。でも、親が苦労していると、構わないことは自分の中で選択し、諦めました。例えば、修学旅行。親に言えば、またやらないかんと思う。それは気の毒やと思うて、私の中で消してしまう。そういうふうにしていましたね。
そうそう、私のときには、小津高校に無試験で入学できましたよ。入学試験がないなんて最高のときに生まれたぁと思ったことです。その後、私たち生徒が体育館へ集まって、入試制度について賛成か否かという議論をした記憶があります。2年くらい後で受験制度になったわけで、本当に幸運でした。
まじめな高校生ではありましたよ。くそまじめなくらい。「やっちゃりゆう」と言う親の言葉が頭にありますので、それが大きなブレーキになり、外れたことはできませんでした。もちろん、楽しいこともありましたよ。勉学よりは他の部分でですけどね。
夏休みには、上の姉の婚家先によく手伝いに行きました。姪たちの世話とか、お料理の手伝いとか、そんなこと。稲刈りの手伝いもしましたよ。まぁ、昔はそうやって兄弟の助けもしたし、また、誉められたら嬉しいもので、おだって行ったのかもしれません。向こうのお姑さんがなかなか利口もんで、誉めて使うてくれたんです。自分では、しっかり役立ったと思っていますがね。
クラブ活動の思い出
高校では社会研究部に入りました。いろんなことを勉強させてもらいましたが、一番の思い出は、校内弁論大会に出たことです。農村での女性の生き方についての思いを発表したんです。この頃から私の芯には農業があったのかなぁと思います。数十年経って、中学からの友達に「びっくりしたよと」打ち明けられ、笑ったことでした。
また、本が大好きだった私は、仲良し5名程で図書部を立ち上げて、読書会などもしました。そうそう、私が借りた本を父も読んで、時折その感想など話してくれたんです。私の卒業時には幼木を用意してくれ、みんなで図書室の前に植樹したのも良い思い出です。
もう一つ、家庭科が主専攻だった私は、家庭科クラブにも入っていました。部活というよりは、学習のためのクラブで、簡単なブラウスやスカートを作ったりしました。生地を買(こ)うてとは親には言いづらくて、自分が履かなくなったスカートをほどいて、それで縫うた記憶があります。人は皆きれいな布を持って来ている。自分の弱みを見せたくなくて、家でやっていくと、先生は『こんなの、自分でしたのではないろう』と評価したようです。自分でしたんですけどね、誰にも手を入れてはもらえなかったから。
ご指導いただいた家庭科の北村先生には、随分かわいがっていただきました。いつだったか、「東京で全国大会があるから、一緒に行きませんか」と言うてもらいましてね。旅費は学校から出るけど、お小遣いが必要でした。まぁ姉の家で働いた分もある。何とか親には負担かけんようにしようと考えたことを覚えています。
全国大会へは、先生と私と、もう一人、仲良くしていた友達との3人で行きました。会場は今の中央大学やったように思います。先生の息子さんの下宿が新宿にあり、そこに泊まりました。もちろん汽車での長旅も東京も初めてです。東京は今ほど繁華ではなかったように思いますが、先生に連れて行ってもらって、ただただ楽しかったですね。帰りに先生が買ってくださった白桃が美味しくて、その味を忘れれんのです。岡山の白桃、もうこんな大きいのをご馳走になりましてねぇ。生まれて初めてそんな美味しいのをいただいたようなものですよ。いい経験をさせてもらいました。
すぐ上の兄が、もう働いていたので、この時、私にお小遣いをもたせてくれましてねぇ。すごく優しくって、高校入学時にカバンを買うてくれたのも、その兄でした。自分は高校へも行かなかったのにね。皆、末っ子の私によくしてくれて、私、兄姉愛には本当に恵まれました。貧乏なりにも心豊かに育ててもらったなぁと、親はもちろん、兄姉にも今、心から感謝です。
遠い山奥へ嫁入り
兄姉だけでなく、それぞれの配偶者も良い人に恵まれたと思っています。農業者は農家との縁組が一番幸せになれるというのが父の理念でしてね。加えて、「女の子は一里四方に嫁げ」というのが、娘への結婚の条件でもありました。その父の言いつけを聞かざった者が、一人だけおります。それが私です。
この聞き書きのお話をいただいてから、よく昔のことを辿ってみるのですよ。本当にいろいろな方に出会って、お心をいただいてきたと思いましてねぇ。一里四方へという父の願いに反して、私は伊野の小野(この)という遠い山奥へ嫁入りし、二人の男の子、その下に女の子と、3人の子どもに恵まれました。ご縁があったということですよね。
夫、西内淳郎(あつお)は農家の跡取りでしたが、父親は軍人やったそうです。子どもの頃は、みなさんにちやほや大事にされて育ち、都会へ出ての教育も受けています。舅は戦犯になったとかで無理が祟ったのか、結婚したときにはすでに亡くなっていましたので、姑のヨネや結婚前の義妹や甥と一緒の新婚生活でしたね。
西内には山林もありましたので、夫は農家の仕事に加え、山の仕事もしていました。一緒に乳牛を飼ったりもしましたが、次男誕生の頃には、夫は農協に勤務するようになり、私が農作業の主な担い手となりました。子どもを姑に頼み、休日には夫に手伝ってもらいながらの農作業の日々でした。
そのうち小野の田のほかに、介良にも1町くらいの田んぼを借り、姉たち夫婦の手も借りて作り始めました。その頃は今より米の値が良かったもので、土方なんかに出るよりはとの姉の勧めもありましたし、1反言うても小さい田が何枚もあるような小野の棚田よりは条件が良いということもあったんです。
昭和50年の台風
あれは、昭和の50年でしたか。8月17日に5号台風に遭いましてね。17時までの一時間に伊野町成山(なるやま)で93ミリを観測。バケツでふりうつしたかと思うほどの大雨でした。
ちょうど早稲の取り入れがすんだところで、介良で収穫したモミのほとんどは姉の家の倉庫で乾燥させてもらってましたが、小野の家にもいくらかは持ち帰っていました。それに水が入るとたいへんだと家族総出で排水していたところが、俄かに谷が狂い出しました。これはいかんと、姑に子どもたちを頼んで、川向うの公民館へと避難させました。
昔の田舎の家は、そこに母屋があり、ここに納屋が、風呂場があるというように、広いものでした。お蚕さんを飼いよったので広い蚕室に、私たちが住んでいた小さな離れもありました。
また、暮には家を新築しようと夫と話し合い、その準備も進めていたんです。山育ちの夫は気に入った木を伐り出して自分で製材するような人で、農協へ勤めながらでも、納屋には、長尺物の柱など1軒分以上を積んでありました。それも濡らさんようにと積みかえ、それぞれの車も外へ出して。それが、何時間も経たないうちに、すべて濁流にのまれ、流されたんです。家屋敷もろとも、すべて失いました。
その様子を見ることの切なさというたら言いようがありませんでした。昔の家は、栗石の上へ乗せるという建築法で、今みたいにしっかりと土台に組み込んでない。全部ふいと上がっていき、水にのまれる。一つ一つの棟が流されていく様は、まるでマッチの軸が、こうポコンポコンと浮いて流れていくようでした。それを見ずにはおられなかったですね。あまりにも悲惨すぎて、惜しいいう気持ちにもなりませんでしたね。
さらに雨は降り続き、公民館にいても危ないということになりました。一緒に避難していた者全員で、高いところにあるお宅へ押しかけていき、そこへ避難させてもらいました。その時、夫が「せめて蔵ばぁでも残るろうか」って言ったのを思い出します。蔵が家の一番奥にあるので、そう思うてしもうたのです。残るはずはないんですけど。
夜になって、もう一度大きな音がしたと覚えています。朝行ってみたら、全部川原になってしもうて、家屋敷は跡形もありませんでした。土石流で埋まり、川の流れも入れ替わっていたんです。橋の上を水が流れ、4軒の家がずらっと並んであったのが、影も形もないあり様。ただ、新しく建て直し基礎がしっかりしていた隣の家の一棟が、下は全部打ちぬかれて二階だけ残っておりました。
昭和51年の台風
そんな状況でしたので、これではどうにも住めず、高知へ出るしかないとなりました。実家の父が、吉野に少しばかりの土地を私に遺してくれてましたので、公庫の方で割安くお金を借り、なんとかそこに家を建て引っ越したんです。51年2月のことで、ちょうど長男が中学1年、次男が5年生でしたか、末の娘はやっと小学1年生にあがったところでした。
ところが、その年9月の17号台風で、今度は新築の家に床上1mの浸水です。鏡川が決壊しての大洪水でした。それから10年程は台風という言葉を聞くと、私は体が硬直しましてね。とにかく、物を上へ上げないかんという気持ちになり、荷物を始めるんです。構わないものからボツボツ二階へ上げてみたりとか、そんな状態がしばらく続きました。ほとんどノイローゼですよね。
ただ、新築時に公庫でお金を借りたときに保険を掛けていたので、まとまったお金が入り、その点は救われました。実家の土地をもらって家を建てていましたので、それが父の気持ちだったとは言え、私には実家の兄や兄嫁への気兼ねがありました。また、夫も姑も、嫁の方へ付いてきてなんぼか切なかったろう、大変であったろうとの思いもあったんです。そこはちゃんとしたいと考えて、私はすぐに少しばかりを包んで、実家へ行きました。「これは僅かやけど、私が土地をもらったお礼にしたい」言うて差し出したら、母が泣き出してねぇ。兄も言葉に詰まったようでした。結局、受け取ってはもらえずで、せめてもの私の気持ちだったんですけどね。
実は、私のすぐ上の兄も実家近くに家を建てていました。そこは前年浸水し、嵩上げしたのに、また浸かってしまったんです。2年続きの異様な水害だったんですよね。実家の母は、この時、僅かばかりのお金を提げて来て「何もようしちゃらんから、このお金でこ兄やんく(次兄の家)も一緒に、なんぞ買うてきて食べてちょうだい」と、泣く泣く渡してくれました。切なかったんですよね、母も。近くに来たものの、子どもらがこんな苦労をする姿を見て・・・。親不幸の塊やと思い、私も辛かったです。
子育ての悩み、迷い
とにかく働かないかんと私は思っていました。子どもたちの世話は姑に任せ、朝星、夜星で働きに働きました。姑も心を込めて子どもたちを世話してくれていましたが、思わぬことで大きな心配を抱えることになったんです。娘の病気です。
鴨田小学校に転入した娘は、朝は集団登校でしたが、一人になった下校時に道に迷ったんです。家が流されて転居となり、小さな学校から大きな学校への転校。ストレスが続く中、迷子になったことが引き金となったのか、下校時に椅子から立てれんようになりました。
医者に連れて行ったら、甘えじゃと言われました。でも、娘は夜中に寝ていても飛び起きる。急に痛い言うてひせり出す。その繰り返しでした。頑張って仕事して、家を再建してという思いばかりの私でした。子育てを姑に放り任せにし、これほどになるまで娘のことを思いやることもできなかった。母親として失格だと、そう自分を責める辛い日もありました。
また、夫も、何もかも承知のうえで嫁の実家の方へ来たものの、養子じゃないという気持ちが頭をもたげ、お酒に逃げたいときもあったでしょう。近所に知った人の一人もいないところに来たのですき、まぁ、無理もないですわね。そんなときの娘の病。夫は娘をうんと可愛がってましたので、打ちのめされたようになりました。
なんとかしたいと病院を変えたところが、今度は幼い頃の風呂場での転倒が原因の後天性癲癇(てんかん)だと診断されて、お薬を飲み続けないかんと言われました。家族が皆、もう打ちひしがれましたわ。そんな中、たまたまご縁のあった宗教家の方が「大丈夫。良くなります。シャンシャンした子だから、羨ましがりゆう人がおるからやろうね」と言うてくれました。非科学的なこととわかっていますけど、信じてお願いしました。ありがたいことに、1年も経たないうちに娘はすっかり元に戻ることができたんです。
いろいろありはしましたが、3人の子どもが、それぞれしっかり育ってくれたことには、感謝するばかりです。
姑が「恍惚の人」に
元気で子育てを引き受けてくれていた姑が、娘が中学2年生になった頃から、ちょっとおかしゅうなり始めました。
姑も嫁の郷で苦労がいたかと思います。また、世話してきた子どもたちが成長して、手から放れたということもあったでしょう。今で言う認知症、昔は呆けと言うてました。ちょうど有吉佐和子の「恍惚の人」という小説が世に出て、呆けの話の時には、あの話をよく引き合いに出したものです。
姑の言動は、徐々におかしくなっていきまして、私は手が放せんようになったのです。家に居ても、興奮すると洗濯物も干せんようになり、そのうち、「帰る」という言葉が姑の口から出るようになりました。自分の心、ここにあらずというところですかね。年老いて住む場所を変えるということは、そういうことになりやすいらしいですね。帰ると言う姑に、舅さんの位牌を見せて「おばあちゃん、ここが家やき、ほら。お義父さんもここにおるろう」と言うと、あっと言うて拝むんですが、すぐ「それにしても帰る」と言う。もう口癖になっていましたね。
幸せなことに私は車に乗ったもんで、「そしたら、おばあちゃん、帰るかね」言うて、車で元居た小野へよく連れて行きましたよ。そこで会いたい人に会って話しても、帰りには「会えんかった。戻らないかん」と言い出すんです。姑の郷が鹿敷(かしき)にあり、まだ兄嫁さんが居たので、試しにそこへも連れて行きました。「おばあちゃん、おばあちゃんの出たところぞね」言うても、やっぱりだめ。どうやってみても心が定まることはなかったですね。
そのうち、私に「おまんは私の従妹やのに。おまんの頭は真っ黒いねぇ、私は真っ白うなったのに」などとしきりに言うようになりました。自分の嫁すらわからなくなってきたのです。枝川あたりで信号待ちしていたとき、こんなこともありました。キョロキョロするので、何を見ゆうと訊くと、「これほど車があるのに、うちの嫁はひとつも来ん」と言うのですよ。えぇと思って、「おばあちゃん、これこれ、これ、嫁」って私、言ったんです。すると、チラリと私を見てから、「それにしても帰る、帰らないかん」と、また同じことを繰返して、全然解決することはないんですよね。また、帰る、帰るが始まる。
姑の徘徊始まる
常時私が車で連れまわす、そんなことが何年か続く間に、今度は徘徊癖が出てきましてね。姑は、小柄でしたけど、健康な人で足腰は丈夫だったんです。夫もなんとかせないかんと言い出したんですが、今のように施設があるでなし、病院では自由に動けるなら精神科しかないと言われました。精神科では病棟に鍵を掛けると知り、夫は首を横に振りました。いわゆる老人病院も行ってみましたが、老人がベットに括り付けられている。そうせざるを得んのでしょうけど、「あんなところ嫌」と言う、その夫の気持ちも大事にしてあげたくて、まぁ、それならもうちょっと家で連れてみようと思いました。
実はねぇ、私は徘徊するというのが恐ろしかったのです。まだ小野に居る頃、成山でおばあさんが行方不明になって、7年目に白骨で見つかったということがあって、そのことが頭から離れませんでした。姑をそんなことだけには、させたらいかん。それだけは、どんなことがあってもという信念に近い思いでしたね。
私も今とは違い、まだまだ勢いのある頃で、奥歯にも力が入ったこともありました。長い年月の間には、何十回かの徘徊がありましたから、もっと優しゅうできたら良かったのにと思うんですよ。夫は勤めているので、私が姑となるべく一緒に寝るようにしていました。夜の夜中に姑がおらんことに気が付いて、「おばあちゃんがおらん」と告げても、「押し入れへでも入っちゃぁせんかよ」というのが夫の返事でした。
仕方なくそっと外へ出て、一人で居そうなところを探しました。夜だから大きな声では呼べないでしょう?近くに兄の事業所があって、そこの車が明りゆうからと近寄ると、その車におったりとか。そんなことがあっても、まぁ、なんとか見つかりよりました。
徘徊の果てに
ある晩のこと、姑の興奮が治まらなくて、寝ずにずっと話し相手になったんですよ。一番鶏が鳴き出した頃に、やっとスヤスヤと寝息が聞こえてきましたので、姑が動けばわかるように手と手とを紐で結んで、私も横になりました。気が緩んで私も寝入ってしまったようで、気が付くと、姑は紐を解いて、いなくなっています。これはたいへんだとなり、飛び起きました。
まず、家族総出で近隣を探しましたが、見つけられません。すぐに私の兄姉や義妹、警察など方々へ連絡して探してもらったのですが、やはり見つからないのです。夫は「今日は大事な会がある」と言いましたけど、行きどころじゃないですよね。親が行方不明になっているのに。とにかく皆で方々を探し回りましたよ。曲がってしまうと見えない、陰に隠れるとわからない。同じところに何回も行って探すものの、やはりいない。見つけられないんです。
ちょうどテレビで朝の人気ドラマ『おしん』をやっている頃に、私の甥が山の方へ3度目となる捜索に出てくれました。「こうしたおばあさんを知りませんかねぇ」言うて訊くと、「ここ通りよった」と山の入り口で教えてもらい、ちょうど春野へ抜ける農免道路ができたときで、そのトンネルの中を歩きゆう姑を見つけたそうです。
甥は姑を車で連れ帰り、「おばあちゃんが、前に山の向こうに私の娘がおるいうて言よったのを覚えちょったきね、僕。行ってみたら、トンネルの中で見つけた」と話してくれました。甥が言うに、家の近くまで来ると姑がここは来たことがある」と言うたそうです。自分の家を「見たことがある、来たことがある」そう言うたって。その日は家族の者はみんな、ぐったりで動けんようになりました。
夫は、結局「会はもうどうでもえい」言うて仕事は休んで、ハマートに買い物に行きました。窓からでも飛び出ていく姑のために、家中に鍵が掛かるようにしたんです。開ければリンと鳴るように鈴も取り付け、外へは戸詰めまでしたのを思い出します。私が「お父さん、もしうちから出火したら、家族まる焼けやねぇ」言うくらいの戸締りになりましたよ。
手前から烏帽子山、鷲尾山。姑を見つけたのは鷲尾トンネルでした。
まだまだ続く介護
そんなことが数えきれんくらい、まだ続きました。今は施設があり、認知症教育も支援の場所もありますが、その時分は、なにもありません。夫は、姑のこういう状況を知らなかったんですよね。朝仕事に出て、晩帰る。夜、姑が大人しければ、こんなもんじゃと安心したのだと思います。一度は、たまたま興奮した姑を義妹のつれあいが見て、「義姉さん、いっつもこんなかえ」とびっくりしたこともありました。
また、お風呂場や廊下の隅で、大といわず小といわず粗相することも度重なるようになりました。着替えを入れている箪笥がちょうどお腰の高さで、年よりはこうやっておしっこしてましたので、中身を全部除けてしもうて、そこにしたりねぇ。
今思うと、私に必要な知識も経験もなく、興奮させないよう適切に扱うことができなかったのですよね。姑が「ここに子どもが寝ゆうのに、あんた踏みゆう」と言うたりする。認知症には妄想や、幻覚幻視もあるということ、今はわかるんですけどね。
終いには、私も少し利口になってきて、「帰る、帰る」を繰り返す姑を「そうかね」と受け入れて、後を付いて行くことにしたのです。「そしたら気を付けてね」って送り出して、見え隠れしながら付いて行く。この足取りは、ちょっと疲れているなと思ったら、ぽっこり前へ出て行く。すると姑も「まぁ、迎えに来てくれたぁ」となりました。私も段々とノウハウを身につけたのですよね。
姑を看取る
そんな姑でしたが、だんだん足腰が弱ると徘徊の心配はなくなりました。最後の一か月くらいは、主治医が通ってきてくれました。亡くなった当日、師走の23日でしたか、主人は勤め先の忘年会がある、ちょうどそんな時期でしたが、先生が姑を診て「お正月は迎えられますよ」とおっしゃって帰られたんです。
けど、姑の弱り具合が気になりましてね。ずっと一緒に居る私には『先生は往診時の状況でしか判断してないもの、万一もある』と思えてならず、それで、夫の姉妹3人に電話しました。「先生は大丈夫と言われたけれど、お義母さんがわかるうちに、会いに来っちゃってくれん」と伝えたんです。下の義姉さんは朝倉病院の付き添いをしよったので無理でしたが、上の義姉と義妹は飛んで来てくれて、それから間もなく、本当に姑の最期が来ました。
姑の口が、最期の最後に動いたように見えました。それは、「ありがとう」と言うてくれよったのやと、自分でそう受け止めることにしたのですよ。自分が良い方に解釈したのかもしれませんけどね。義姉と義妹の二人も最期を見届けられたと喜び「死に水が取れたということは、こういうことや」と感謝されたことでした。
私と認知症の姑との7年半のお付き合いは、そんな風にして終わりました。夫は、朝は母親が亡くなるとは思いもせずに出かけたと思うのです。でも、部下を連れての忘年会でしたから、私も電話して呼び帰すことはしませんでした。もちろん残念がってましたけど、まぁ、夫は朝に夕にいつも見ていましたからね。
自分が姑の年になりましたから、当時の姑の気持ちがよくわかるんです。家を流され、住み慣れたところから新しい土地へ、ましてや嫁の実家の近くに来て、なんぼか切なかったろうと思います。私も今の心境で世話ができたら、もっと親身になれたのにと、そう思うて辛いときがありました。親しい人に話したら、「あんた、そりゃ大丈夫。お義母さんを車に載せて、よう世話したやんか。そんなに思うことはないわね」と言うてくれましてね。救われました。姑はうちの畳の上で、娘らに見守られて終えた・・・、それで上等やったと、今は自分にご褒美をやりたい気持ちです。
今も夫の姉妹とは良いお付き合いができています。特に義妹は、うちへもよう来てくれて、実の姉妹以上の良いお付き合いさせてもろうています。至らんことの多い、がさつな私ですよ。でも、嫁入り先の姉妹がこうして来てくれることは嬉しい限りやと思うて、娘にも「おばちゃんのこと、大事にしてね」と話しゆうことです。
夫の病
夫は、元々酒が好き、ことのほか好きな人でして、舅が酒好きで卒中でしたから、血圧や肝臓の疾患をずっと心配してきました。長い間のお酒で、肝臓も段々と悪くなっていたかと思います。ちょうどオイルショックの頃、夫は農協の営農関係の仕事をしていたんですが、もう夜の夜中でも組合員さんから肥料はどうなる、ビニールはいつ来ると、しょっちゅうの電話で多忙を極めていました。それでもまだ農作業も手伝ってくれよりましたので、夫も無理しよったんでしょうね。疲れからとうとう体調を崩してしまい、ひどい貧血になり、輸血を受けたこともありました。
健康に不安を抱えながらも、夫は農協の仕事を続けていましたが、子どもたちがそれぞれの生活をスタートさせた頃に、退職いたしました。その後は夫婦で一緒に農業をしながら、この穏やかな日がずっと続くと、そう思って暮らしていました。
そのうち、夫は腰が痛い痛いと言うようになりました。痛いながらも、農作業などできることはしてくれていましたが、痛みがどんどん強くなり、かかりつけであった後輩の個人病院に連れて行きました。ところが、すぐに「ここではいかん」となったんです。夫はまったくよう動かんもので、救急車を呼んでもらって、今度は近森病院へ行きました。
そこでレントゲンを撮ったところが、家族に来てくれいうことになりまして、ステージ4の癌、しかも、癌が肝臓から脊髄へ転移しており、脊髄の7番目と8番目の骨が潰れていると説明がありました。お腰が痛いのはその神経を圧迫していたせいでした。「ここではいかんので、医大の方を紹介します」と言われ、医大へ行ったところ、「脊髄、骨の手術をして腰が痛くないようにしましょう。癌の手術の手立てはありません」と言われました。
腰痛の解決策として、これくらいの釘で留めただけの手術でしたが、その後で下肢が麻痺し、寝たきりのようになりました。その上、余命は3ヶ月と宣言されたんですよ。「この体力では手術することはできません」と。すでに脊髄まで転移していましたのでね。瞬く間に頭の方へも行きました。
家での看取りを決めて
ホスピスも見に行きましたが、本人も希望したものですから、家で看病しようと決めました。幸せなことに、一階に12畳くらいの部屋があったもので、そこへベッドを据えました。下肢の麻痺があるので、車椅子へ移すためにリフトが必要で、家の改修もしました。車椅子で外の散策もしたいろうと思いましてねぇ。
主治医が訪問医療の医師を紹介してくれて、患者と医師とが合うか、まぁ、お見合いみたいなものまで献立ててくれました。この人ならと思えて、鴨田の診療所の先生にお世話になることにしました。ヘルパーさんも毎日来てくれ、週に1回の入浴などお世話になったことでした。そうやっていろんな人の手も借りて看病させてもらいました。
うんとお酒が好きな人やったけど、「一杯飲むかえ」と息子が言うても、初めのうちこそ「うん」と応えていましたが、そのうちその気もなくなりましたねぇ。痛さに耐えれんなると、神経を麻痺させるパッチを貼るようになりました。それが初め2センチ四方であったのが、だんだんに拡がって終いには8センチ四方になったんです。また、最後は、オプソを使用するようになりました。医療用の麻薬で、それを何時間か置きに服用するんです。初めのうちは本人が嫌がりましたが、嘘でも言わなしようがない。私は「大したことないのやと」と言い続けました。
あんまりうるさそうなので、ちょっとでも気分が変わるかなと、私がベッドの後ろへ回り抱いて座ると、少しの間だけでも耐えやすいこともありしましたね。また、楽に起き上がれるようベッドの足元へ紐を付けてもみました。「お父さん、これを引っ張って」と教えると、「えいこと考えてくれた」言うて喜んだことです。電話もすぐ取れるところに置きましたら、電話の応対も一つの生きがいみたいになりました。とは言え、次第に弱っていきましたけれどね。
夫の終いに思う
そんな私たちを傍でずっと見ていて、これはたいへんだと思ったのでしょう。嫁が、自分もヘルパーの仕事で忙しいのに、週に1回は、夜だけでも私が看ると言うてくれました。可愛らしい嫁で、ベッドの横に布団を敷いて「早うお母さん、体休めないかん、たいへんやき」って、私を労うてくれました。
そのうち、娘も子どもたちを連れて、ベッドの横に布団を構えて付き添ってくれるようになりました。夫には、やはり孫たちの姿が何よりの喜びで、楽しみにしていました。週1回は、そういうふうに家族が代わりおうて看たんですよ。
子どもたちが、相変わり日替わりして来てくれるのは、私にも大きな助けにも励みにもなりましたねぇ。それでも、夜トイレに起きたら、誰が看てくれよっても気になって、そっと様子を覗いたものです。夫が隙間から私を見たときは「おかあ呼んでくれ」「呼んでくれ言うても、お母さんは寝ゆう」「寝やせんが。そこから覗きゆう」と、そんな問答があったようで、「お母さん、お父さんがきかんがやき」と言われて、私も「そうかね。私も一寝入りしたから、代わるわ」と言うこともありました。
そのうち、オプソも効かんようになり、痰が出て、苦しむ時間が増えました。痰の吸引を、喉からしたり、鼻からもしてもみたり。それでも本当に苦しそうでした。小水を管を挿して取り、尿の量も測りよりました。苦しくてオプソを欲しがるけど麻薬性鎮痛剤ですので、服薬時間の決まりがあります。また、薬の管理は厳格で数の報告が必要でした。一度だけ私が寝呆けて空を飲ましてしまって、「一つ余ってますよ」と先生に言われたことがありました。間違えるなんて、とんでもないことと恐縮し、お断りしたことでした。
こうしたことを繰り返しながら、夫は5ヶ月の命をもらいました。その日は先生が一度朝来てくださって、容態が良くないと診て、「近いうちかと思います。気を付けちょってください」とおっしゃったんです。それで、家族の者みんなが夫の周りに集まっていました。夕方また先生が来てくださってね、「痛くないよう、薬をお腹にセットしましょう」って言うてくださいました。それは死を待つということやけど、穏やかにという気持ちで先生がやってくださりゆう最中のことでした。アッというような顔で夫が私を見たんです。痰の詰まりで、一瞬のことでした。先生も痰をよう取らんなっちょりましてね。それで苦しまずに、あれって言うような顔で亡くなっていきました。
そのときに孫たちが「おじいちゃん、頑張って。おじいちゃん、頑張って」って、みんなが励ますものですから、先生はびっくりされたようで「こんなこと、初めてです」とおっしゃっていました。
養子に行っている長男が、後で嫁に言うたそうです。「おやじばぁ幸せな死に方はない。おらもあればぁよう世話してくれ」って。そう言うて嫁に頼んだって。夫は自分の想像してなかった世界やったけれども、こんな最期を迎えれて、私は『お父さんの人徳やったね、良かったねぇ』と心から思いました。
夫ともこうして別れました。見送った後でね、一時はホッとしました。言い過ぎかもしれませんけど、夜も寝れんということがしょっちゅうでしたからね。主人は73歳で亡くなりましたから、もう15年になります。
農業体験で子どもたちと出会う
あっ、そう言えば、私はね、自分の田んぼで子どもたちに農業体験をさせたことがあるんです。行政が進める食育・農育の一環として、農業体験の依頼があったとき、団地近くのうちの畑に石を投げた子のことを思い出しました。親がその子を叱るのに「石放ったりしたら、おばちゃんに怒られるよ」と言うのを聞いて、私は、『そうじゃなくて、どうして怒るか、何が悪いのか、その意味をちゃんと教えないかん』と思ったんです。そのことが蘇りました。農作物の生育ということを子どもたちが身をもって知れば、おばちゃんが怒ることの意味がわかる。石を投げたらいかん理由も自ずと理解するやろうと考えて、私は引き受けることを決めました。
うちは鴨田でも介良でも田んぼしよりましたから、鴨田小学校と介良小学校の2校の3年生と2年生の子どもたちと一緒にやりました。平成13年頃から数年間のことで、当時は夫がまだ元気で、畑づくりや管理も手伝ってくれ、とても協力的でした。
やってみたら、子どもたちが可愛くってね。「おばちゃん。うちのお父さんとお母さんが喧嘩してね」とかって、いろんな話を作業しながらしてくれるんですよ。また、一緒に草引きしていると、「おばちゃん、草引きやけど、草は空気を浄化しゆうがでね。なんで役立つ草を引くが?」などと訊いてくる子もいました。「草引くのも考えないかんね」そんな会話もしましたよ。面白くて、豊かな人生経験させてもらいました。プラスαがあるがです。
コマーシャルでテレビデビューする
その時分にねぇ、私、テレビのコマーシャルにも出て、コマーシャルガールもしたんです。ちょうど食育の体験も盛んにやっている頃で、子どもたちが作った干し大根を学校給食に当ててもらったりしていました。お隣の美容室の先生が、「サンシャインがコマーシャルを企画中やと。出演者を募りゆうけど、やってみん?」と勧めてくれました。予選があって、畑で撮った私の写真を出すと、「審査に通ったよ。西内さん」言うて連絡がありました。
ひょっと聞いたことがおありやろうか。「その食事は1回きりぞね。しっかり食べんと」言うて、ほうれん草のお浸しやったか載った皿を、私が青年に差し出す。それが5年間も放映されました。息子がね「あのビデオならまだ残っちゅうで」と言うてくれて。今観たら恥ずかしいですけど。
まぁねぇ、これもいろいろな人との出会いでね。声をかけていただいたことは、本当にありがたい。友達が「コマーシャルガールの賃はなんぼもろうた」いうて訊くき、「1万円もろうた」言うたら、「5年も使うて1万円かえ」言うて、みんなで大笑いよね。ラジオでも流してましたから、本当に安うに使うたねぇ言うて、笑うたことでした。あの1万円は、美容室の先生やご近所の奥さんら4人で楽しくお茶して使いました。今も笑顔になる良い思い出です。考えてみたら、なかなか経験できないことをやらせてもらいましたね。
友とともにある幸せ
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉がありますでしょう。中学の一年のときの国語の先生に教えていただいた上杉鷹山の、この言葉を私は座右の銘としてずっと大事にしてきました。振り返ってもしようがない。いつどんなときも前を向く、そういう生き様でありたいと念じてきました。これでもかこれでもかと試練に見舞われた人生ではあったけれど、父が言ったとおり、波と一緒です。お陰様で今は、親しい人と過ごす豊かな時間があり、自分へのご褒美じゃと思うています。
横田美恵子さんという友達がいます。中学の2年のときにクラスが一緒になって、中学も高校も同じ。高校で図書部をつくった仲間の一人でもあります。田舎が好きやったのか、よく自転車で家まで遊びに来てくれて、私の両親も一目置く存在でしたね。今も変わりなく親しくしていいただき、70年来の付き合いなんです。この頃は母娘の旅に、娘さんが「西内さんも一緒に」と誘うてくれて、楽しく同行させてもらっています。
彼女は人生経験が豊富で、資格を取って保母さんになり、園長さんまで務めあげました。その一方で、茶道の指導や一弦琴もやられており、目の不自由な方のための朗読ボランティアは今もずっと続けています。お付き合いする方も裾野の拡がりがすごくて、私にはもったいないくらいの友達です。それぞれ人生には紆余曲折があり、お互いに随分苦労もしたわけですが、そうした赤裸々な話もできる友達を持てたことが、私には最高の財産だと思うています。
また、私は高知県高坂学園生涯大学に、もう10年ほど通っていて、そこでもいろんな方たちと交流が深まっています。喫茶タイムに誘い合ったりするうちに仲良くなり、市民劇場に誘ってもらったり、ほんの数日前でしたか、中国雑技団の公演がありまして、その券も世話してもらいました。職歴も住む場所も違う様々な方と知り合い、親しくお声がけしていただくことの喜びをしみじみと思いよります。
人は人中、木は木中
もう一つ、今の私が心のより所とも思い大事にしている宝物があります。農協婦人部の仲間たちであり、鴨田支所のふれあい朝市の笑顔です。姑が、結婚してすぐのときに、「人は人中、木は木中で育つ」と言って、私の背中を押してくれました。まだ伊野の奥で暮らしている若い時分のことです。社会教育学級の講演会や農協の集まりなど、いろんな場所に出て行きました。利口ものの姑やったから、私のことを『こりゃなんともならん』と思ったのでしょうけど、ありがたかったです。その中で、農協女性部とのつながりも生まれました。
伊野の農協の前に直販所をつくるというときに、知り合いの口利きもあり、その一員に加えてもらいました。当時はまだ直販所が珍しい状態で、全国からの視察の受け入れも随分しましたよ。高知へ出て来てからも女性部に続けて入り、姑を見送った頃からは、いろいろな役も引き受けるようになりました。
あれは私が鴨田支所女性部長になって何年目だったでしょうか。高知市17支所の集まりの中で、女性部の総力を結集して、高知市に道の駅のような直販所をこしらえようという話が出たんです。当時のJA高知市の女性部長は竹島愛子さんで、過去の直販所での実績を高く評価してくださり、私も設立委員の一員に加えていただいたんです。
無から有をなすということには大変な苦労がいきましたけれども、いつも前向きな竹島部長の「ファイタリティ」とでも呼びたい、何があってもやりぬくという気概の下で皆が動いたように思います。私たちは、その直売所に、女性部が女性部だけで打ち上げるとの心意気を込めて『(「)真心(まっこと)ファームラブ』と名付けたんです。そのラブがJA高知市本所の一角に誕生して、ちょうど20年になります。
私には農業が生き様そのもの、ずっと生活の足場なんです。その私が『ラブ』の設立に委員の一人として参加し、本当にいろんなことを学ばせていただきました。当時の私には充分な能力もなかっただろうと思いますけど、お陰様で、私の今につながる人との出会いをいただいたと感謝しています。
つなぎ、つながることの幸せ
今も私には、農業を中心にした生活が、そして、この鴨田の朝市があります。ここは物を売る市であると同時に、慣れ親しんだ皆さんとのコミュニケーションの場なんです。「元気かね」「あんたの声がせんき、心配しよったよ。元気にやりゆう?」と声をかけてくださる顔なじみのお客さん。「元気、元気。ありがとう」と応えながら、声をかけ合うことの幸せを感じて、またまた元気がでます。
お客さんだけじゃありません。この聞き書きのきっかけをつくってくれた山崎貴美子さんとも、ここで出会いましたわねぇ。新たに農業を始めた地域の方と知り合えるのも、ここがあるからこそです。朝市から帰ったら、息子が「だれたろう」言うて気遣うてくれる。それもほっこり嬉しくて、疲れを忘れさせてくれます。
人って繋がってしか生きていけませんし、人の繋がりによって磨かれるものでしてね。山上憶良ではないけど、「なんでもじゃない、一番大事なのは人とのお付き合いじゃ」と思うてます。振り返ると、社会的にも評価された夫と出会い、姑にも恵まれたことが私の勲章やったと思えます。姑のお陰で人中に出て、そこで育ててもらいましたから。
人様と出会い、つなぎ、つながる道を拓いてくれた姑に第一に感謝し、また苦楽を乗り越えることを教えてくれた両親にも感謝。いろいろと付き合ってくれ、今だに私を助けてくれる兄弟姉妹、家族にも感謝です。周りの人皆さんのお陰様で、今日の日があります。ありがたいですね。
朝市には末子さんのフキやイタドリ、ホウレンソウ等が並んでいます。
〈参 照〉
※1 辻売り:高知県の風習で、子どもが病気になったときなど辻に子どもを連れて行き通りかかった人に拾ってもらい仮親になってもらうというというもの。名前を付け替え、呼び名として使ったようで、高知県東部で昭和2年に生まれた私の父も、郷では戸籍上の名前でない別の名で呼ばれており、幼少時に重い病に罹ったが辻売りで救われたと聞かされた。
※2 荷車(かしゃ):荷物を運ぶために使われる、木製の車輪の付いた輸送用の道具を荷車(にぐるま)と言うが、4つの輪がついた大型のものを特に「カシャ」と呼んだとのこと。
※3 当時の新聞:昭和20年6月23日の高知新聞に『ざまァ見ろB29』という見出しの記事が掲載されており、前日、22日午前10時頃愛媛県から南進してきたB29の中の1機が神田の吉野部落へ墜落したと報じられている。5頁文中で『2つの落下傘が吉野に舞い降りたのを(祖父が見た)』とあるが、パラシュートで落下した米兵は4名、機中で亡くなっていた米兵の人数は7名と伝えた記事がある。
あ と が き
西内末子さんとは、私の中高時代の友人の紹介で出会い、幼い時の戦争体験から今日までのご自身の物語を聴かせていただくことができました。昭和、平成、そして令和と続く長い年月の間、ご家族をはじめ、多くの方々との出会いを丁寧に紡いでこられた方で、高知ならではの台風災害や、ご家族との別れなども織り込まれた、広く厚い人生の織物に触れた思いです。
この聞き書きに当たって、末子さんは事前にしっかり構成まで考え、準備くださっていて、そのよどみない話しぶりに私は驚かされました。でも、話が横道に逸れると、それはそれで面白くて、時には二人で大笑いしながらの聞き取りとなり、会話の引き出しの多さに、改めて末子さんの心の大きさ深さを感じたことでした。
お姑さんに背中を押されて人中へ出て、たくさんの方と出会い、つなぎ、つながる中で育てられたとの思いをそのまま、タイトル「つなぐ日々を生きる」といたしました。この「つなぐ」という思いは、私たち「ききがきすと」の思いでもあり、末子さんが生き抜いてきた日々が、一人でも多くの若い次世代の人たちに伝わるようにとの願いも込めています。
私たちの所属団体『新Ryoma21』は昨年秋に『Ryoma21』をリメイクして再出発しましたので、この作品が第一作となります。また、私が聞き書きを始めて今年でちょうど十年です。この節目に、末子さんと出会えたことに心から感謝するとともに、ご紹介の労をとっていただいた山崎貴美子さんに心からお礼申し上げます。(ききがきすと 鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 15:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | |
この春に語り手と出会い、久しぶりの聞き書きに取り組んでいます。同じ高知の女性であり、4〜5歳時の戦争の思い出から始まり、台風災害に翻弄された若い時期、姑の終いまでの長い年月、その後の夫の看取りへと続くお話でした。
でも、人生の苦労話ではないんです。人とのつながりが縦糸、農家の仕事が横糸のしっかりした布の上に鮮やかに織り込まれた二つとない人の生き様です。今、私は、冊子づくりへの作業途上ですが、この聞き書きとの出会いが何とも嬉しくて、感謝しかない思いです。
高知新聞の閑人調というコラムに、「やなせさん」という標題で、「アンパンマン」の作者であるやなせたかしさんのエピソードが紹介されていました。やなせさんは「人間が一番うれしいことは何だろう?」と長い間考え続けて、「人は人を喜ばせることが一番うれしい」との答えを見つけたと書かれていました。
私たち『ききがきすと』も、聞き書きで人を喜ばせたい。聴き手の私たちには「語ってくれて、ありがとう」、語り手には「聴いてくれて、ありがとう」と、お互いに『嬉しい、ありがたい』という気持ちの交換となるものでありたいと思っています。今回の聞き書きでも、私は、至福の時をいただいています。次は私が、冊子づくりで語り手に喜んでもらう番です。
このブログへも早ければ来月末頃、新たな聞き書き作品として掲載する予定です。
「読んでくれて、ありがとう」「伝えてくれて、ありがとう」の交換が、ここでもできるようになるのが、次の目標です。
posted by ききがきすと at 16:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | |
語る人と聞く人がいて、聞き書きになる。
高知県東部の北川村の遺族會舘に掲げられた英霊の遺影、その声を聴きたいという私の願いが、聞き書きの形で叶った。
もう10年余も前のこととなる。語り手は、英霊となった方々のご親族であり、川島博孝さんは、その中のお一人だ。
そのご縁で、川島さんの山の桜の木植樹に参加したことがある。
「もう花が咲きゆうで」と連絡をいただき、先日、久しぶりに北川村へ出かけた。
桜山に案内してもらうと、あったぁ、私の桜の木!!
私の下手な字で、『いつの日にか桜の名所に 川島公園💛』と表に、裏に『平成27年3月21日 TSURUOKA』と書いたタグの付いた桜の木!!
見上げるほど立派に育った私の桜、花も咲いている!!感無量!!
桜を植える人がいて、見る人がいる。時が経ち、誰が植えたとも知らず、この桜を見る人がいる。きっと、いる。
聞き書きは、誰とも知らぬ人に、伝わり、つながる。時や空間を超えて、伝わり、つながる。そう願っている。
posted by ききがきすと at 23:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | |
昨年秋のキルトとききがき冊子の展示会・・、その続報です。
会場で冊子を読みたいとおっしゃってくださった方がおいでました。
その方は、キルトづくりの友人のご近所さんで、しかも、私たち二人の高校の先輩。
素敵な出会いとなり、その場で冊子をお貸ししました。
後日、ご丁寧な読書感想をいただいくとともに、1冊の本をご紹介いただきました。
その方が同和地区の市民会館に勤められていた時、「今聞き取っておかないと聞きそびれる」との思いにかられ、その後、館事業として職員の皆さんとともに高齢者お一人おひとりのお話を聞き取り、集作成された本。 一気に読みました。
地域の歴史をベースに置きながらも、そこで暮らしてきた人々の息遣いまで聞こえてくるよう。生活の中の喜怒哀楽が語られています。読み書きから遠ざけられていた方々も暮らす地域でのかつての日々が、こうして私たちの貴重な財産として遺されたことをつくづくありがたく感じました。
読み終えて、聞き書きの持つ大きな可能性を再認識し、聞き書きで拡がる人の輪もまた、その魅力だと大いに感謝したことでした。
Ryoma21の聞き書きの生みの親である松本すみ子さんが急逝されて、はや二年になります。私が松本さん主宰の「ききがきすと養成講座」を受講して十年余りですが、聞き書きは、私の生活の一部となり、語り手との出会い、読んでくださる方々との出会いが、私の人生の彩となっています。
聞き書きというこの松本さんからの贈り物を、これからもっとたくさんの方々に届けたいとの思いで、新Ryoma21の「ききがきの会」を船出しました。
今はまだ、その具体策を模索する旅の途中ですが、途中ならではの思いを折に触れて、このコーナーでお届けできたらと考えています。
次回は、私がオンライン聞き書きをさせていただいている介護施設のことにも触れ、介護の現場での聞き書きのことなどご紹介できたらと思っています。
posted by ききがきすと at 10:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | |
二人の養父に想う
引っ越しする前のことを今も思い出す。お父さんは友達の家遊びに行くことを厳しく止めたけど、離婚後、お母さんに相談したら「いいよ。休みのとき、遊びに行って」って。ある日、友達の家で遊んでの帰り道のこと。お父さんは奥さんが連れてきた子どもに落花生を買っていた。昔は露天商が屋台の車の荷台に物を並べて、そこで落花生なんか売っていた。お父さんはすぐ私に気づいて、買った落花生を渡そうと、私の名前を呼んだ。でも、私はその子を見て、すぐ駆け出した。その場に居たくなくて、ただ走った。お父さんは、その子を置いたまま私を追いかけてきたけど、私はずっと走って止まらない。お父さんは後ろから私の名を呼ぶ。でも、私は止まらない。絶対止まらない。
家まで走り続けた。走る間、いろんな気持ちが湧いてくる。お父さんは私とお母さんのこと、いらない。あの子を連れて物を買いに来ていた。すごくお父さんのこと嫌という気持ち。でも、お父さんはあの子をそのまま置いて、私を追ってきた。いろんな気持ちがあった。走って家に帰ったら、お母さんが「どうしたの。もうハアハアしてる。なにがあったの」って。訊いても、私、何も答えない。お父さんがいたこと、なにも言わない。
引っ越してからは、お父さんに偶然会うなんてことはなくなった。でも、お父さん、たまに小学校に私を見に来た。教室の北側の窓から中を覗いて、私を見ていたことを覚えています。何げなく窓の方を見たら、そこにお父さんの顔が見えた。私はすぐ頭を振って見ないようにした。 ずっと年を経て考えたら、お父さんは私のことを気に入っていたから、たまに学校に来て私を見たかったのだろう。あの時は、落花生を渡したかった。今なら、そういうことをしたお父さんの心がよくわかります。
お母さんは再婚して、幸せになった。暴力は全然受けない。二番目の養父は給料を全部お母さんに渡して、お母さんが家の管理をした。炭鉱の仕事は給料が高いから、三人での暮らしは安定した。でも、いくら安定しても、前のお父さんと比べたら全然違う。自分のお父さんじゃないと感じる。
二番目の養父の炭鉱の仕事は危ない。だから、家の仕事はなんにもしない。全部お母さんがする。その頃、家に水道なくて、お金を払って、共同の取水場で桶に水を入れて天秤棒で運んだ。うちはその取水場からとても遠い。当時の私はちょっと背が低くて、中学校に入るときも、130センチしかない。お母さんは纏足。私もお母さんも、一人で天秤棒担ぐのは難しい。だから、棒の両端を、こっちを私、あっちをお母さんが持って、水を運んだ。ご飯作っても、洗濯しても、いっぱいお水がいる。冬になると、その周りは氷がいっぱい張って、滑りやすい。危ないけど、お母さんと二人でやる。
ある日、お父さんが言いました。「みんなの家見たら、子どもでも一人で水運びやっている。あの子にやらせればいい」と。でも、お母さん「ダメです。まだ小さい。今は身長が伸びるとき。あの子には、まだ無理です」って。お母さんは私にやらせたくない。「私は家の仕事だけ。私は大丈夫です。あなたは、よく勉強したらいいです」。いつも私にそう言いました。
養父は、お母さんは私のこと甘やかしすぎると思っていた。夜、私が寝たと思って、二人が話しています。でも、私はまだ寝ていない。お父さんの言うことが聞こえた。「この子は実の子じゃない。日本人の子です。なんでこんなに甘やかすのか」。このことは、私の心にずっと残っています。やはり私の最初のお父さんとは違う。全然違う気がします。
その時のお母さんの答えを私は今も忘れません。お母さんは普段は怒ることがない。養父が何をしても、言っても怒ることがない。でも、このことでお母さんすごく怒って言いました。「そういうこと絶対に言わないで。この子、私の子と変わりません。この子のために私はずっと生きている。この子がいなかったら、私はもっと早く死んでいますよ」。
盲腸の手術の時のことも覚えています。病院へ行くのが遅くなって、化膿して、ひどくなった。養父は私をおんぶして病院に連れて行ってくれたけれど、その後一度も私を見舞うことはなかった。私は一か月以上入院して、お母さんが毎日毎日、お見舞いの時間には必ず来る。私は毎日窓辺にいてお母さんを待った。
時々、二人の養父のことを比べて考えます。二番目の養父は炭鉱で働いて、お母さんと私の生活を支えてくれた。長く一緒に暮らして、ちゃんと家族になった。本当に感謝しかありません。ただ、最初の養父といた、あの幼い頃が、一番幸せだったと思うのです。お父さんとお母さんと私と、三人のあの日々が。
自立への思いから専門学校へ
昔、中国では小学校4年生までは初等小学校、5年生から2年間は高等小学校に通います。高等小学校は、前の小学校より少しだけ近くなりました。小学校6年のとき、私は成績も良いので、先生は家の近くの中学校に入学するように言いました。でも、どうしても同じクラスの人と同じ中学校に入りたい。この小学校の卒業生は全部、その中学校に行く。ただ、みんなは住むところが同じなのに、私だけ遠い。遠いので途中でバスに乗ります。その遠い中学校に私は3年間通いました。
中学三年生になって、進学希望に私は高校と書かず、師範学校に行って先生になるつもりで、専門学校と書いた。すると、担任の先生は成績も家の暮らしぶりも問題ないのに、どうしてと不思議に思って、私の家まで来ました。
その先生は自転車で初めてうちまで来て、こんな遠い道を3年間ずっと通っていたのかと、すごく感心したようです。「この子は3年間、遅刻することが一回もなく、本当に頑張った」と。そして、お母さんに「この子の成績なら、高校に入って、将来は大学に入ることができる。家の生活とか困ることはないのに、どうして高校に進学しないの?」と訊きました。お母さんは戸惑って、「私は字も読めない、一日も学校行ったことない。全然学校のこと知らない。この子がどう考えているのかも、全然わからない。帰ったら訊いてみます」と答えたそうです。
お母さんから先生が来たこと、そして進学のことを話したと聞きました。男の先生が自転車で来て、遠いからたいへんだったって。お母さんは言いました。「先生は、成績もいいのに、どうして高校に進学しないのかと言いました。どうして行かないの? お母さんは、あなたに勉強をたくさんさせてあげたい」。私はそれ聞いたら、先生がうちに来たわけも、お母さんの気持ちも、よくわかった。
お母さんに言いました。「お母さん、私ね、本当に自立したい。お父さんの炭鉱の仕事たいへんです。危ない仕事ずっとしている。私が学校へ行ったら、また迷惑ばかり。やっぱり自分が自立してお母さんに恩返ししたい。そういう気持ちいっぱいです」って。
お母さんは私に「かまん、かまん。好きにやったらいいの」って。「お母さんは字も読めない、なーんにもできない。あんたはよく勉強して、自分の人生と将来しっかり考えて。それが一番にすること」と。
高校と専門学校は学歴の点では一緒だし、専門学校なら卒業したら、すぐ仕事できる。そうすれば、お母さんが楽になる。私がそう言うと、お母さんは「私が楽できる、できないは関係ないの。自分のたいせつな人生、第一に考えて」と言いました。最後に私は、「そう。これは私の人生よ」と返して、お母さんを説得しました。そうして、1961年の秋、師範学校に入りました。
労働局から病院へ
私が小学校入るとき、お父さんが私に言いました。「これからいっぱい勉強して、知識あったらいい仕事できる。また、いい人に出会ったら一生幸せになれる」って。そのときは小さいから、そのこと全部は理解できてない。でも、言われたことはちゃんと覚えている。工場の労働者の仕事はやりたくない。その考えが私にずっとありました。
師範学校で3年間、小学校の先生になるための勉強をしました。でも、中国では、どこで何の仕事をするか自分で選ぶことはできません。だんだん考えも変わり、師範学校を卒業すると、私は学校ではなく、労働局の事務員の仕事に就きました。1964年、私は19歳になっていました。
労働局で働き始めても、もちろんお母さんとずっと一緒です。もらった給料も全部お母さんに渡しました。若い事務員で覚えることいっぱい。夢中で仕事していた1966年5月、文化大革命が始まりました。労働局のような役所は、すごく政治に敏感です。いたるところに大字報が貼られている。私はそれを見るだけ。どうしてこういう運動が起こったのか、将来どうなるのか、考えてもわからない。下放政策でみんな農村へ行く。不安がいっぱいでした。
私には2つの心配がありました。1つは、「自分は日本人。これから農村に行ったら、ちゃんと帰ってこられる?」。もう一つは、「お母さんと離れたくないのに、ずっと一緒に居られる?」。すごく悩んで、職場の主任に相談しました。私のことを自分の子どもみたいに大事にしてくれて、心から信頼している人でした。
主任は局長と相談して、農村には行かない方がいい、そのためには労働局を辞め、転職するしかない、と言いました。そして、「病院の仕事でいいですか?」と訊いてくれました。その時、私は22歳。どこへ行っても、どんなことでも、まだ勉強できる。私は主任に「ありがとうございます。将来のこと考えたら、それがいいと思います」と答えました。
病院も文化大革命の最中で、最初は「運動事務所」に配属になりました。なんのことやら、私には全然わからない。批判とか何も言えず、記録だけをしていました。毎日仕事に行くけど、患者さんは少なかった。
そのうち処置室での注射を習いました。でも、それは看護師の仕事。私は看護学校に行ってない。勉強しようにも何から勉強すればいいのかわからない。本屋に行って本を買いたい。でも、毛沢東の本とか政治関係の本ばかりで、私が買いたい本はない。病院の図書館があると聞いて、行ってみたけど、何もなかった。みんなが本を持ち去っていた。
仕方ない。私は薬箱を開けて、中の説明書を一枚一枚全部集めて、家に持ち帰り、「この薬はなんの作用、副作用は何?使う量は?」って勉強しました。どこにも勉強するところなくて、本当に困りましたよ。「この病気の注射は、この薬ですればいい。大人ならこの量で、子どもならこの量で」と、計算もして。わからないところは先生に訊いて、少しずつ覚えていきました。
元は工業局の病院でしたが、工業局が3つの部局に別れた1969年、そのうちの一つが機械局付属の総合病院となりました。病院に残った私に、漢方薬の先生が漢方の薬局に入り勉強するように言ってくれました。漢方薬の仕事に変わると、「これでしっかり勉強しなさい」と本ももらいました。漢方薬は製剤薬局でつくります。そこの薬剤師が私の仕事ぶりを見て、一緒に製剤をやるように言い、大きな病院での研修の機会も与えられました。初級から勉強を始め、頑張って続けていると、国の試験がありました。薬剤師の初級試験受けて、合格しましたよ。
その後、文化大革命の後期に入り、夜間の学校が始まりました。やっと勉強できるところができたんです。私はその学校に入りました。病院に転職した翌年結婚していた私には、その頃は娘も誕生し、毎日毎日の勉強は大変でした。娘の世話はお母さんに助けてもらい、頑張って勉強を続け、また国家試験を受験。薬剤師の資格を得ました。国も急いで様々な分野の専門家養成をしなくてはいけない、そんな時代だったのだと思います。
結婚と子育て、そしてお母さんの死
私は誰と結婚しても、お母さんと一緒に暮らすと決めていました。二人で、いつまでも一緒に暮らすと約束していましたから。主人には兄弟が6人います。うちに来てもかまわないというので、1968年、23歳で結婚してからもずっとお母さんと一緒に暮らしました。養父は、1970年5月、炭鉱事故で亡くなりました。お母さんが毎日心配していたことが最後に本当になってしまいました。
就職祝いに二番目の養父から贈られた
財布・・大切な思い出の品です
私の子どもは二人です。娘と息子です。仕事をずっとしていたし、上の娘のときは、夜間学校もあって、お母さんが全部面倒をみてくれました。お母さんはとてもきれい好き。家の中のことも、子どもの世話も本当によくしてくれました。
でも、その子が3歳のとき、お母さんは病気で倒れました。何度か入院もしましたが、家で療養するときは、先生の処方で私が薬を出したり、注射することもありました。仕事と子育て、そしてお母さんの看病。たいへんな1年余りの後、なんとかお母さんが持ち直したころ、私は下の子どもを妊娠していました。
妊娠何ヶ月かのとき、お母さんがまた倒れて、今度は病気がどんどん重くなりました。やはり昔の過労や苦労があったと思います。脊髄の結核で、もう手術もできないと言われました。私は勤め先の病院を休んで、お母さんの看病をしました。
妊娠後期に入るころには、お母さんはますます悪くなり、失禁も始まって。昔は大人用のオムツはないです。お母さんのために柔らかい布をいっぱい貯めて使いました。その頃は、家に水道がありました。暖房もあって、今と同じです。でも、日本のような保険はない。毎日の世話から医療費のことまで、全部、私がしました。入院のときも、家で看るときも、たった一人の娘として私が看病しました。最期は、家で看取りましたよ。お母さんが亡くなった時、息子が生まれて10日目でした。
お母さんの死、そして募る日本への想い
お母さんが亡くなったのは、1976年です。お母さんと30年一緒に暮らしました。どんなに悲しくても、その時、私は泣けませんでした。涙が出ない。心の中はすごく淋しい。お母さんだけが自分の親だから。お母さんが亡くなったら、自分の親戚はどこにもいない。誰もいない。毎日泣きたいけど、泣けるところがありません。
主人は家族、兄弟が多い。時々会うし、みんないい人。でも、自分の兄弟じゃない。そう考えて、すごく淋しくなった。その時、思いました。「私の日本の家はどこにあるの? 私のお父さん、お母さんはどこにいるの?」。毎日、考えました。
でも、まだ文化大革命は終結してない。どんなに自分が思っても、口に出すことできない。中国は政治運動が多いから、いろんなことを考えます。文化大革命でも私や家族には問題ない。日本人でも大きな問題はないと思います。でも、やはり普通の人とは全然違う。そう考えて、誰にも言えませんでした。
お母さんが元気なころ、考えました。もし、私が日本の家や家族を探して、本当の家族がわかったら、お母さんどうするかな。お母さんを日本へ連れて行けるなら、そうしたいと思う。でも、お母さんがどうしても一緒に行かないと言ったら、私も日本には帰らない。帰れない。そう考えました。お母さんの気持ちを一番大事にしたいと考えました。
お母さんが亡くなってから、自分の家族を探したい思いが湧きあがってきました。でも、誰にも言えない。自分の心の中に刻むように思っていること言える人はどこにもいない。うちの主人は、私が日本人の子だったことを知っている。でも、私のこういう気持ちは全然知らない。私が言わなかったから。
お母さんが亡くなってから、私は毎日毎日そういうことずっと思い続けていて、重い病気になった。黄疸性の肝炎でした。この辛い気持ち、どこで話しをする? 誰に話しする? 話すことも、泣くこともできず苦しい。自分のただ一人の母親が亡くなってから、だんだんこの病気が重くなって、入院しました。入院したとき、息子まだ1歳にもなってなかった。
日本の家族を探したい気持ちが誰にも言えないのは、文化大革命のことも確かにあった。その気持ちがすごく強くなっても、怖くて言えなかった。日本の家族のことは私は何も知らない。どこをどう探す? 何もわからない。探すことは難しい。自分の名前も知らない。親の名前も知らない。探しても身元が判明しなかったらどうなるの?そう考えて、怖い気持ちになりました。
再び公安局の呼び出しが
1979年になって間もなく春節という頃、公安局の外事科から私に一度来るようにという手紙がありました。不安でした。どうして私を呼ぶの?文化大革命が終わっても、すごく怖くって。でも、行かないわけにはいかない。
行くと、書類を渡された。自分の知っていること全部書くように言われたけど、名前や住所、仕事とか書いて、その下はと見ると、一つも書けない。いつ日本から中国へ来たのか、日本のお父さんとお母さんの名前は、居場所はどこ、親戚は誰か知ってるか、とか。私の全然知らないことばかり。なにも書けない。
「下の欄は全然書くことができません」と言うと、向こうは「あなたは自分が残留孤児だと知っているか」と訊いた。私は「知っている」と正直に答えた。嘘はつけない。「いつ、知ったの?」と訊かれて、1953年夏にお母さんと一緒に公安局行ったときのことを話しました。そのとき知りました、と。「そのとおりです。記録がある」と向こうも言いました。
「でも、その他の事は、私には記憶が全くないです。お母さんも亡くなった。お母さんは私が日本人だということは、まったく言わなかった。何も知らない」私は本当のことを言うほかなかったのです。
すると、向こうから「あんたは、日本のお父さんやお母さん、親戚とか探したい?」と訊いてきました。私は、探したくないと、その時、嘘をつきました。「探したくない、どうして?」「私はなんにも知らない。どんなに探しても無理です」。すると、今度は「この人知らない?」「あの人知らない?」と、いろんな日本人の名前を出してきて訊いてきました。私は「知りません」「知らない」・・。でも、最後に「この人はあなたのことを知ってる、と言ってます」って。「えっ、本当?それなら、その人の中国の名前を教えてください」と頼みました。
残留婦人が教えてくれた
そこで聞いたのは、中国人と結婚した残留婦人の中国名。その名前を聞いて、私はすぐに思い出しました。昔住んでいたお父さんの家の隣の人。この人は、私がもらわれて来たころ、隣のご主人と結婚した。来たときは、頭の髪が全部ない。坊主で、もう男みたいだったって。その時まだ20歳くらい。夫婦には10歳以上の年の差があった。
隣同士だから、多分よくわかっていた。この家には日本人の子がいる。自分も日本人。特別な関係で、お母さんとすごく仲がよくなった。お母さんの親友みたい。この人は、お母さんに家を貸してくれた李さんと親戚。だから、この人のことは、私もすぐわかった。
私と主人はすぐ李さんに会いに行って、この人のこと訊きました。家を教えてもらって、直接その家を訪ねました。「私は自分のことが全然わからない。知っていることあれば、教えてください」って。
そのおばさんは、「1972年に日中友好交流が始まって、私は1973年に初めて日本に帰りました。1年くらい向こうにいて、翌年こちらに帰ってすぐ、あんたのお母さんに会いに行ったよ」と話を始めました。その時、私は仕事で、お母さん一人が家にいて、何年ぶりかの再会をとっても喜んだそうです。
「でも、あなたのお母さん、すごく頑固だったよ」。おばさんは続けて話してくれました。「私は日本に帰り、1年間向こうにいて、今帰ったばかりです。あんたの娘、淑媛、日本の家族や家を探したいという気持ちがあるなら、私たちが手伝う」と、お母さんに来た目的を伝えたとたん、お母さんの態度が変わったそうです。すごく怒り出した。「もし、こんなことを言わなかったら、うちに来てくれたことはとても嬉しいです。こういうこと言うのは止めてください」って。おばさんは、そのまま帰るしかなかった。もう1回うちに来たけど、家にも入れてもらえなかったって。
私は、そういうことを全然知らなかった。お母さんは私には何にも言わなかった。でも、この人は私に会うことができなかったけど、公安局には私のこと話してくれてたんです。
「お母さんは、あんたのことなんにも言わなかった。なにか言ってくれたら、手伝うことができたけど、何にも言わん。あんたが日本人の子だと、近所の人は誰でも知っている。知っているけど、詳しいことを誰も知らない」。最後に私にそう言いました。おばさんは、ご主人が病気で重篤だからこっちにいるけど、日本にすぐ帰るつもりのようでした。私には、もうどうしようもない。
養父との再会・・そして、すべてわかった
私と主人は最初の養父の継母のところへも行きました。この人は、養父の弟のお母さん。私と主人はまず叔父さんのところへ行って「お願い、おばあさんのところ連れて行って」って頼みました。会えたけど、女の人の記憶はまた男の人と違う。覚えていることはあっても、資料をつくるのは難しい。
それで、最後は仕方がないので公安局に話して、「私の養父にはもう25年余り会ってない。全然連絡がない。今どこにいるかも知らない。お願いだから、養父の居場所探しを手伝ってください」って言いました。すると、3日後に連絡があった。養父は吉林省の奥さんの故郷にいた。向こうへ行ったことを私は全然知らなかった。
撫順市の公安局と吉林省の公安局が連絡し合って、養父のことをちゃんと調べてくれました。養父のところまで行って、私のことを初めからいろいろと訊いてくれ、養父は書類に必要なこと全部書いてくれた。それから、詳しい書類をつくって私に送ってくれました。
でも長年養父には会ってない。資料が信用できるかできないか、私はもらっても迷っていた。自分は全然覚えてない。今詳しいことを聴いておかなければ忘れるかもしれない。そんな心配もある。吉林省の公安局の人の名前は今も忘れない。于雷さん。この人が、撫順の公安局の人に連絡して、「何回聞いても同じことです。間違いない」って言ってくれました。
お父さんは私に手紙もくれました。手紙には、『あなたのことを捨てたという罪の心は、長年ずっと残っている。あなたのことを公安局の人から言われて、私はずっと泣いていた。私も年取った。淋しくなった。お母さんとあなたのこと、本当にごめんなさい。お母さんが亡くなったことも全然知らなかった』と書いてありました。
連絡すると、お父さんは早速うちに来て、詳しいことを話してくれました。お父さんはうちに来てからずっと泣いていた。そのとき、私は「お父さんのことをもう恨んでない。自分が結婚して、子ども産んで、あのときのお父さんのことは本当によく理解できた」と伝えました。
結婚と友達は違う。自分が好きじゃない人と一緒に暮らすのは本当に辛かっただろうと、自分が結婚して、私よくわかりました。お母さんは誰がどう見てもいい人です。でも、夫婦はいい人とか関係ない。もうお父さんのこと全然恨んでない。幼い日のお父さんはいつも私のこといろいろ考えてくれた。子供の考えることと大人の考えることとは全然違うんだ。
そのときお父さんは61歳。背が曲がって、とても年を取ったみたい。若いときに思っていた様子と全然違った。私のところに1週間くらい泊まったので、全部詳しく聴くことができました。私が「なにか間違っていることある?」って訊いたら、「絶対に間違っていることはない。あの当時の日本の家族にもし生きている人がいれば、絶対その資料で探すことができる」と言ってくれました。
「私がどうして自信を持って話せるのか。それは、このことがあんたの一生で一番大事なこととわかっているから。あんたをもらったことを私は後悔することはない。でも、あんたを捨てたことは一生後悔する。もらったときのこと、昨日のことのよう。頭の中はっきり覚えている」。お父さんの言葉です。後は一緒に書類を完成させて、公安局と日本の厚生省に提出しました。
初めて日本へ
私が日本の土を初めて踏んだのは、1985年(昭和60年)9月、「第8回肉親捜し」の時でした。厚生省に書類を提出してから、6年後のことです。この頃には、もう周囲にも知られていたので、どうしても日本の自分の故郷、家族を探したいという気持ちが強くなっていました。日本がどんな国になっているか、全然わからない、でも、家族に会いたい。強く願っていました。
ただ、本当に身元が判明するか、不安は大きかったです。残留孤児の中では、私は一番小さい。なんの記憶もないし、証拠の物もない。こちらにあるのは、私を引き取った日時と場所についてのお父さんの記憶、その資料だけ。
日本に来て、新聞報道もされ、テレビにも出ました。そして、すぐに身元は判明しました。私の資料と日本のおばさんが厚生省に提出した資料とが一致したのです。
私の日本のおばさん、山本芳子さんは、私の実母の兄の妻で、母とは従姉妹同士。このおばさんも、私の家族と一緒に江川崎開拓団として、夫や子どもたちと満州に渡っていたのです。
私が初めて山本のおばさんと会ったときのことは昨日のように覚えています。おばさん、なんかおかしい。私を見たら、すぐ涙がボロボロボロ。泣いていた。私の手元に厚生省からの資料が一冊ある。厚い資料を開けると、お父さん、お母さん、そして、お兄さんの写真とかが入っている。他にも、いろいろ書いてある。私の方には、中国から持って来た資料や写真が入っている。
おばさんから「どーう?あんたの親戚と認める?」って訊かれた。私、日本語わからない。通訳の人がそれを通訳する。資料を見ても、どうしていいかわからない。「わかりません」と言うしかない。私にはなんの記憶もないし、この資料も養父の記憶だけ。この人たちが自分の親戚かどうか、・・全然わからない。
私は言いました。「私にはわかりません。おばさんから私のこと見て、考えて、言ってください。それが一番正しいと思います」。
通訳の人がそれを通訳しました。資料の中の写真を見たら、なぜか私もすぐ涙が出て、泣いて泣いて、全然涙止まらなくなった。自分でもどうしてかわかりません。自然に涙が出ました。
おばさんは「この子、乙女(とめ)の娘に間違いない」そう言って、大きく頷いた。私にはわからなくても、おばさんは確信したみたい。東京に私の従姉妹が二人いて、そのお姉さんは私ととても似ている。お姉さんの顔と私を比べたらねぇ、本当に似ていて、親戚とわかる。
中国のお母さん!日本のお母さん!
山本おばさんは、撫順市の発電所の2階で養父に私を渡したときのことをちゃんと覚えていて、話してくれました。養父は、発電所の2階で私の両親に会っている。その部屋は人がいっぱいで、誰と誰が一緒の家族か全然わからないくらい混雑していた。子どもをもらいに来た中国人の男女がいて、私のお母さん、私をその男に手渡した。おばさんは夫婦二人で来たと思っていたよ。養父の継母は養父より4つしか上じゃないから勘違いしていた。言葉もわからなかったから。
家族や親戚のこと、そのときはっきりわかりました。私の家族、みんな亡くなっていました。お母さんと二人の兄さんは収容所で。お父さんは、帰国して3年目に病死したって。会いたかった家族が、みんな亡くなっている。本当に悔しかったです。ずっとずっと会いたかったですから。
東京で身元が判明してから、高知県の江川崎の故郷に帰り、3日間過ごしました。それから、また東京に戻り、中国に帰りました。ほんの2週間の日本滞在でした。
私が日本に永住帰国したのは、その3年後のことです。日本に帰る前に、私は養父に自分が貯めた5百元を送りました。当時は、給料が安い。私の給料は毎月何十元くらいよ。5百元は、お父さんにとったら大金と考えて、『このお金、私が精いっぱい貯めました。自分でなにか好きなことに遣ってください』って手紙を添えました。お父さんは嬉しくて、あちこちに話をしたそうです。「私の日本の娘が送ってきた。こんな大金、見たことない」って。
永住帰国してから、私は中国の養父母への感謝の扶養費代を申請しました。もし、お母さん生きていたら、もちろんお母さんに出したい。でも、お母さん早く亡くなったから、お父さんに出しました。
お父さんが私をもらってくれた。そのことは私の心の中でとても大切なことです。日本のお母さんの手から中国のお母さんの手へ。二人の手がつながって、私を渡してくれた。
中国のお母さんは本当に優しい人。私は日本人の子で、あの戦争直後の中国人にとっては敵の国の子ども。その敵の国の子どもをどんな辛いときも悲しいときも手を離さず、大事に大事に育ててくれた。もし反対だったら、どうかと、この問題も繰り返し考えている。日本人の場合は敵の国の子ども育ててやることができるかなぁ?
一方で、日本のお母さん・・。自分の命の火すら消えそうになって、知らない中国人に我が子を手渡すしかなかったお母さん。どんな気持ちだったの?辛かったよね、悲しかったよね。
中国撫順市は、私が二人のお母さんといた特別な場所。そこでの暮らしは、二人のお母さんに始まり、支えられ、終わりました。でも、その終わりは、今の日本での生活の始まり。そう、ここで、私の中国での暮らしは終わり、そして、日本での暮らしが始まったんです。
今、私は高知市で家族に恵まれ、元気に暮らしています。
二人のお母さん、本当にありがとうございました。
あ と が き
中野ミツヨさんは、リズムのある明るい話しぶりの方です。お話の内容もしっかり構成されたわかりやすいもので、これまでも小学校などで講演されていらっしゃるとのことでした。また、ミツヨさんの帰国までの足跡は、津沼書院発行の『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)』にも詳細に記されています。ですので、この冊子はミツヨさんご本人のためにという思いで、語りの中の心の声を拾うことに努め、思い出の中の一つひとつのエピソードを大切に書き留めるようにしました。
ミツヨさんには二つの誕生日があります。中国で暮らしていた時は、養父母の実子が生まれた9月6日が彼女の誕生日とされてきましたが、実父の書き物には9月4日誕生と記されているそうです。戦争の影の残る時代に多くの苦難を乗り越えられたお話を伺いながら、人はどうしてこれほどの困難を乗り切れるのか、頑張れるのかと考えました。そして、日本のお母さんから生き抜くための賢さや粘り強さを、中国のお母さんから、どんな時も「この人のために頑張ろう」と思える絆をしっかり授かったミツヨさんのしなやかな強さに思い至りました。どんな困難も自分の力に換えて生きていく道もあるのだと、この冊子を読まれた方にお伝えできれば幸いです。
オーテピア高知図書館の八田裕子さん、高知県中国帰国者就労生活相談室の森洋子さんを通してミツヨさんと知り合うことができました。お二人に心よりお礼申し上げます。特に、森さんには戦中戦後の中国に関して教えていただくなど様々にお世話になりました。ありがとうございました。
さらに、この物語の最初の読者となり、6枚の挿絵を描いてくださった岡内富夫さん、お陰様で、中国での日々が鮮やかに蘇りました。また、私の孫の曼荼羅の塗り絵も利用して、陰影のある表紙にすることができました。衷心より敬意と感謝を表します。
ききがきすと 鶴岡 香代
posted by ききがきすと at 15:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがき作品 | |
終戦の年に生まれて
私の両親は、1943年5月、高知県幡多郡の江川崎村から開拓民として中国吉林省の大清溝(だいせいこう)に入植しました。2年後、8月15日
の終戦は、開拓団にすぐには知らされず、大きな不安と混乱の中で逃避行が始まりました。妊娠後期に入っていた母も、開拓団のみなと一緒に不眠不休で歩き走り、大清溝から90キロ離れた廟嶺(みょうれい)で私を産んだのです。
廟嶺から吉林市駅を目指して、さらに200キロ。みな、ずっと歩いたそうです。出産直後の身でも、ただただ歩くしかありませんでした。辿り着いた吉林市からは貨物列車に乗り、撫順市へ。大清溝を出て一ヶ月が経っていました。
撫順では発電所の宿舎が日本人の収容所でした。三階建ての建物の二階。コンクリート床に一人の赤ん坊。泣く声すごく弱くて、もう死にそうな感じあって・・それが私でした。
その収容所から程近いところに中国人の夫婦が住んでいました。9月に生まれた子どもが半月ほどで亡くなって、そのお母さんは母乳がいっぱい。前にも流産して、もう子どもができないと諦めかけていた時、隣の人から「今、北からの日本人いっぱい。子どもいらない人きっといるから、もらいに行ったらいいじゃない」と言われました。
産後で具合の悪いお母さんを家に置いて、お父さんはおばあさん(お父さんの継母)とその収容所に行きました。そして、すぐに一人の赤ん坊見つけました。もらっても生きることはできないと思うほど弱々しい泣き声。迷う気持ちあったけど、おばあさんが言いました。「可哀そうに。うちの嫁まだ母乳があるから命助けるかもしれません。もらって帰ろうや」と。
お父さんは、本当は男の子が欲しかったけど、この子が男の子か女の子か全然わからない。言葉通じないから。だけど、この母親を見たら、『この子をどうか助けて、助けて・・』と言っているよう。お父さんは女の人から手渡された赤ん坊を家に連れて帰りました。私の撫順での暮らしがここから始まりました。
終戦直後の中国で日本人の両親から生まれ、食べる物も着る物もなく、乳も出ない母親の手から、中国人の家族に渡された。そのことを私は何にも知らない。覚えてない。私が、日本の家族のこと、故郷のこと知るのは、40年後の1985年のことです。
中国のお父さんとお母さん
お父さんが連れて帰った赤ん坊は、赤い着物を一枚着てるだけ。その子を家のみなで見たら、着物の下はなんにもない。裸。裸で、もう肋骨がはっきり見える。お母さんからお乳を飲むと、腸ぐるぐる見えるよう。誰もが本当にこの子は生きられるかなと、心配で可哀そうに思ったって。
でも、お母さんは赤ん坊を見て、本当にもらったのだから大事に大事にせないかんと思って、毎日しっかりお乳飲ませました。3ヶ月経って、みんな本当にびっくりした。すっごく太って、前の様子は全然見えなくなった。とってもかわいい赤ちゃんになったって。その時、お父さんとお母さんは何よりも嬉しかった。
この頃のこと、もちろん私はなんにも覚えてないです。もらわれた時のこと、お父さんからずっと後になって聴くまで、なんにも知らない。お父さん、私に『淑媛(シューユァン)』と名前付けて、二人は私を自分らの子どもとして育てました。
でも、近所のみなさん、このことよく知っています。私はよく「この子は日本人の子」と言われた。小学校では友達から『チビの日本人』とか『小日本の鬼』とか呼ばれた。そう言われても私は全然信じない。私は、お父さんとお母さんの子ども。そのことは間違いない。だって、私はお母さんのお乳を4歳まで飲んでいたじゃない。私は養父母を「お父さん」「お母さん」とずっと呼んで、なんの疑いも抱かず二人の元で育ったの。
養父母は、共に山東省の出身です。親同士が知り合いで、二人がまだ小さいときに将来結婚させることを約束しました。昔は、自由恋愛じゃなくて、そういう婚姻いっぱいありました。
お父さんは、子どもの時山東省から撫順市に出て、学校に行き仕事を始め、家族みんなのために家も建てました。一方、お母さんは、ずっと山東省で育って、17歳のとき、山東省から撫順市のお父さんのところへ嫁に来ました。
婚礼前、二人は一度も会うことがない。顔をちらりと見ることもない。家に来たお母さんのこと、お父さんは全然気に入らんかったって。年は、お母さんが一つ上。お父さんはお母さんのこと気に入らん。嫌でたまらん。けど、親が決めたことは変えることができない。お父さん、どうしようもなかった。
お母さんは、結婚してから、毎日することが本当にたくさんありました。まず、家族の世話です。結婚したとき、お父さんの父と義母、祖母がいました。義母は、とても若くてお父さんより4歳だけ上。だから、結婚したとき、お父さんは16歳、お母さんは17歳で、おばあさんは20歳だったそうです。
おばあさんに男の子ができて、私の叔父さんね、その子が1歳のとき、おじいさん亡くなったって。おじいさん亡くなって何年か後、おばあさんは男の子をうちに置いたままで他の人と再婚しました。それで、うちのお母さん、ひばあちゃん(土佐弁で曾祖母のこと、ひいばあちゃん)の面倒をみながら、その子のことも全部育てました。お父さんの弟だけど、自分の本当の子みたいに。私をもらったとき、この子は9歳になっていました。
お父さんの仕事、お母さんの仕事
お父さんは運送の仕事。昔だから、車じゃなくて、馬車で運びます。馬車何台あったか、私はちゃんと覚えてないです、小さかったから。でも、馬も何頭か、雇っていた人も何人かいます。お父さんと一緒に仕事をする人が全部うちに一緒に暮らしていました。そして、その人たちの食事、洗濯などの家事は全部お母さんの仕事。
お母さん来る前は、その仕事する人がいたそうです。でも、お母さん来てからは、その人が辞めて、全部お母さんの仕事になったから、お母さん本当にたいへん苦労しました。
昔の女の人、纏足(てんそく)で足小さくて、歩けるけど長くは無理。それでも、家の仕事全部お母さん。朝3時か、4時頃には起きて、みんなのご飯をつくる。馬には餌をやって、面倒もみないかん。
私よく覚えていますよ。朝起きると、いつも、お母さんはもう私の隣には居ない。ずっとそのまま仕事です。毎日毎日、朝、お父さんと雇っていた人みんなに朝ご飯。みんなが仕事に行ったら、それから、ひばあちゃんの面倒、おじさんの面倒、私の面倒。朝ご飯食べさせて、それから、また、昼ご飯をやって。
家の掃除、片付け、洗濯、全部お母さん。夜は夜で、みんなが帰ってくる前に夕飯の準備です。ご飯食べたら、みんな寝ます。でも、お母さん、まだ馬の餌つくる。馬草の束を鋤刀で押し切る。固い大豆の枯れ枝を足に挟んで両手で切る。それに水を混ぜて、馬に食べさせる。このたいへんな仕事を毎日、朝と夜、夜中と3度もしなくちゃいけない。だから、また、朝早く起きる。
お父さんの仕事もたいへんだったと思います。撫順は北の寒いところです。高知とは全然違う。特に冬、馬車に乗ると冷える。指が凍傷になるくらい。たいへんだと思いますけど、でも、お母さんの家の仕事も本当にたいへん。私は隣でよく見てわかっています。
幼い日々のお父さんの思い出
お父さんは、清潔なこと大事にする人。とてもきれい好きで、帰ったら必ず、私の手を見て、顔を見て、服を見ました。もし汚れていたらお母さんのせい。怒って暴力をふるう。だから、お母さんは、どんなに忙しくてもお父さん帰る前に私をきれいにして、顔も、手も、爪まで洗います。爪が長いのもダメでした。そういうことも毎日、お母さんの仕事の一つ。
会った最初の時から、お父さんはお母さんのこと、全然気に入ってなかった。お母さんになんの原因なくても、お父さんは、自分の気持ちが悪くなったら、お母さんに当たった。私、それを見たら、本当に怖かった。暴力はいつもじゃない。時々。だけど、私、いつもお父さんが帰ってくるの心配でした。小さくても、今日はお母さんどうなるかって。お父さんの暴力がなかったら、安心しました。
そんなことがあっても、お母さんはなんにも言わん。お母さんは無口な人。なにがあっても、外で誰に会っても、なにも言わない。愚痴を言う人じゃなかった。隣の人にも誰にでも、すごく優しい。うちのひばあちゃんもお母さんのことを大好き。全部お母さんが面倒みるから。
私はお父さんとお母さんが自分の親だと思っていた。なんの疑いもない。お母さんがどんなに私の面倒みても、当たり前のことだと思っていた。お父さんはお母さんには厳しくするけど、私のことは本当に好き。例えば、家に帰って食事してから馬の散歩。お父さんは毎日、馬を連れて散歩する。そのとき私が馬の背中に乗って、お父さんが馬を引っ張って、ゆっくりゆっくり散歩する。そんなことちゃんと覚えている。
小学校2年生(8歳)の頃
あれは、私が4歳くらい。このときのこともよく覚えている。家の馬とか馬車とか全部国の会社に渡した。自分のものじゃなくなった。渡してから、お父さんは、その会社の職員になった。それからお父さんは自転車で通勤。だから、お母さんの家での仕事はずっと楽になった。雇ってる人いなくなって、馬の世話もなくなった。
お父さんは馬がいなくなったら、今度は自転車の後ろの荷台に私を乗せて、休みに時々遊びに行く。ある日、私を後ろに乗せているとき、お父さんはどうして自転車がこんなに重たくなったかと思った。止まって見ると、私の足が自転車の後ろの輪に巻き込まれて、足は血だらけ、骨が見えていた。
今でも、この右足にはっきり傷跡が残っています。そのとき、お父さんはびっくりしました。私は痛くて全身が震えている。そうなっても、私は全然泣かない。どうして泣かない? お父さんが怒ったら怖い。私のこと好きで大事にする。だけど、お母さんにすることを見ているから怖い。怖いから、全然泣かない。痛くても泣かない。その後のことがどうなったか、覚えてない。
私には小さいとき、友達が全然できない。誰の家にも遊びに行くことがない。「行ったらいかん」。お父さんが厳しく言ったから。やはり自分が日本人の子ということが、あったのかもしれません。うん。誰の家にも行くことなかった。
1952年の9月、私は小学一年生になりました。中国の学校は秋に始まるんです。入学前に、お父さんは馬蹄形の小さい時計を買って、毎日、私に時刻を教えました。私はすぐわかって早く覚えたから、お父さんすごく嬉しかったみたい。お父さんから時計の読み方習ったことは私の大事な思い出です。
小学校に入ると、お父さんが新しい本とかノートを買ってくれて、表に私の名前『宋 淑媛』と書いてくれました。そして、「よく勉強してね。知識あれば将来、良い仕事ができる。いい人と付き合って、幸せになれるようにね」と言いました。小さくてその意味はよく分からなかったけれど、とても幸せな気持ちを覚えています。幼い日の父の愛、母の愛・・心の中に刻まれています。
憲法が変わって、両親は離婚
1953年の春、中国は新しい憲法になって、婚姻がうまく行かなくなったら、離婚できる、そういうように変わりました。その頃、もう会社の課長になっていたお父さんは裁判所に行って、「どうしても離婚したい」と言いました。お母さんのこと、もうどんなにいい人でも、一緒に暮らすことできないと。
私が小学校入ってまだ半年くらいのときよ。お母さんは纏足で、どんな仕事もできない。離婚したら、これからの生活はどうすればいいの。お母さんは本当に困る。でも、お父さんは、初めからお母さんのことが気に入らんから、どうしても離婚したい。
この家に入ってから、お母さんがどんなに努力して頑張って仕事しても、お父さんは気に入らん。そのことで、お母さんとっても悔しかった。辛かった。もう、毎日、泣いて泣いて。でも、お父さんは裁判所に行って、諦めない。最後に、離婚の判決が出て、離婚することになった。
お父さんは離婚して、すぐ再婚した。奥さんは、昔の資産家の二番目の奥さん。新しい国ができる前は、二番目、三番目の奥さんがいた。中国に新しい国ができて一夫一婦制になったから、一番目の奥さんだけ残って、その人は元の主人とは離婚した。そういう人が、私と同じ年の娘連れて、お父さんと再婚した。
それで、お母さんは本当に悔しかった。昔の女の人には離婚ということ、すごく恥ずかしい。お母さんは、自分が何を悪いことしたか、いろんなことを考えて辛かった。
でも、周りの人は、お母さんがどういう人かよくわかっている。小さい私でも良くわかった。お母さんがどんなにこの家を大事にしてきたか。お母さんを見たら、本当にお母さんのことかわいそうと思う。それなのに、お父さんどうして、お母さんみたいないい人、気に入らん?もう私とお母さん、いらないの?
離婚したとき、裁判所から家の財産について通知来ました。東側の二つの部屋をひばあちゃんと叔父さんに、南向きの3つの部屋がある家全部を私とお母さんに。お父さんには、なんにもあげない。そのまま出て行け、って言うことでした。
でも、お父さん出て行ったら住むところがない。また、自分が建てた家だから、どうしても離れたくない。お母さんにお金出して、半分、お母さんから買いました。だから、その家の半分と物全部が私とお母さんの財産。そして、隣にお父さんの新しい家族が入りました。
私は日本人?日本はどこにある?
小学校1年生のとき、私には本当にたくさんのことがありました。夏には、公安局がうちのお母さんを呼び出しました。お母さんが私を連れて公安局に行くとき、私より5歳くらい上の女の子も一緒でした。その子も残留孤児だったことを、その時の私は全然知りませんでした。
途中でその子は私に「誰が何と言うても、行かないよね」って、言いました。私、なんのことか、わからない。「おかしいじゃない、お母さん。どこへ行くの、私?」お母さんに訊きました。お母さんはその子に「この子は小さいからなにも知らない。言わないで。言わないでおいて」って。その子はもう言わなくなったけど、私もう一回、「お母さん、私、どこへ行くの?」って訊いた。お母さんは、「どこへも行かない。あんたは、ずっとお母さんのそばにいるから」って答えた。
公安局に着くと、お母さんは大きな部屋のドアの前で私に「ここで待っててね。どこにも行かず、ここに居てね」と言って、中に一人で入った。私はドアの外にいる。ドアの隙間がちょっとだけ開いてる。覗くと、中は人がいっぱい。わわわわ、わわわわ。なにを話しているのか、全然わからない。
でも、なぜか確かに聞こえてきた、お母さんと警察官の話す声。お母さんが「この子を生まれたばかりでもらったの。今も8歳にもなってない。この子が日本帰っても、お父さん、お母さんが誰か知らない。家はどこかも知らない。どうする?私は今この子と二人で暮らしている。もしこの子が日本へ行ったら、私は死ぬ。絶対、行かしたくない」って、泣いたり、話したり。その警察官は最後にお母さんに「もういいから帰りなさい。この子のこと、もう何にも言わない。このまま帰って」と。それで、お母さん、すぐに出てきた。
そのこと聞いて、私はやっとわかった。近所の人や小学校でみんなが言ったこと、「日本人の子」とか、本当のことだった。お母さんは私の本当のお母さんじゃない。この国も自分の国じゃない。日本の国は、どこよ? そのとき、小さくても、いろいろ考えました。でも、心の中は、ただただ『お母さんと一緒に暮らしたい』でいっぱい。お母さんが自分の一番大事な人、そう思いました。
でも、頭の中こういうこともいっぱい。『どうして?みんな中国人、なぜ私だけ日本人なの?日本の国は、どこにあるの?私の本当の親、父と母はどういう人?どこにいる?』何もわからない。ただ、帰ったら、お母さんに訊いてみようと考えました。
でも、お母さんは家に帰っても、何にも言わない。私が知ってしまったことはお母さんもわかったはず。だけど、お母さん何にも言わない。私には訊いてみたいという気持ちがあったけど、やはり言えなかった。もう、よくわかったので。お母さんは実のお母さんじゃない。でも、一生懸命に私を育ててくれている。お母さんには私だけ。私にはお母さんだけ。
お母さんと二人ぼっち
お母さんは町内会のことで、夜に時々出かけることがありました。私は家に一人で怖かった。お父さんの方は、新しい奥さんと子どもがいる。向こうは、すごく幸せ。私一人で怖くて、お母さんを探しに外へ行きたい。「お母さん、どこ?お母さん、いない」。外でずっと泣いていた。
お母さんは帰って、すごく怒った。この子がこんなに泣いているのに、お父さんは出てこない。ずっと知らん顔した、と。多分、向こうはドア閉めていたから、気づかなかった。でも、お母さんはもうここには住みたくないと。お父さんのすぐ隣に住むことが嫌になって、残った半分の家も他の人に売って家から出ようと考え始めた。
11月になると、撫順はものすごく寒い。この頃はまだ朝鮮戦争のとき。飛行機が飛んできて危ないから、子どもたちは毎日、白いタオルを首に巻いて登校していた。家に帰ったら、そのタオルをお母さんは毎日洗って干す。冬は、炉子(ルーズ:竈ストーブ)で部屋を暖かくして上に干す。お母さんが朝の忙しいとき、私一人で干してあるタオル取ろうとした。私はとても背低くて、届かない。椅子にのって背伸びしたら、どーんと転んだよ。転んで、炉子に頭をひどく打ちつけて、血が出てきた。炉子は鉄でできている。血がたくさん流れて、どうしても止まらん。お母さん飛んで来たけど、どうしたらいいかわからない。とにかく血を止めないかん。手のひらに小麦粉を取って、それで頭の傷を押さえた。じっと押さえて、本当に血を止めた。今も頭のここに傷がある。今考えたら笑い話みたいだけど、お母さんは必死だった。病院には全然行かなかった。
昔はものがすごく安くて、家を売ったお金でなんとか生活できた。でも、どこまでやっていけるか、お母さん、毎日毎日そのことが不安。お金のこと、お母さんはずっと悩んでいた。近所の李さん、とても優しい人で、お母さんのことすごく可哀そうと思ってました。お母さんに「うちに空いてるとこあるから、どうぞ来て、住んでください。お金いらないから」と言いました。
結局、離婚から半年余りで、私とお母さんは、李さんのところに移りました。そこは、元の家にも近い。私たち引っ越したら、17歳になっていた叔父さんも職場の宿舎に移って、ひばあちゃんは前の家の東の部屋に一人になった。お父さんとは別れても、お母さんは、ひばあちゃんのこといつも気にしてる。お母さんは、そんな人よ。
李さんは、私たちを親戚の人みたいに扱ってくれて、「家賃とかいらない。1元ももらわない。家にあるものは何でも使ってください」と言ってくれました。昔は売店だったのを倉庫として使っていて、部屋は本当に広い。前は全部ドアみたいになっていて、後ろにもドアがひとつある。だけど、窓はない。夜は、ドア全部閉めて、お母さんと一つのオンドル(竈の熱を利用した床下暖房)のベッドで寝る。二人ぼっちのそんな暮らしが始まりました。
ジェンビンづくり
その広い部屋に一つ大きな石臼がありました。昔の中国では、食べ物は全部自分で作ります。その臼で、よくジェンビンを作りました。ジェンビンは、漢字で『煎餅』と書く、薄いクレープみたいなもの。まず、高粱米と大豆をたっぷりの水に一晩浸しておきます。翌朝、それを水と一緒に少しずつその大きな石臼の穴に入れて挽き、糊状のジェンビンの素を作ります。小さい石臼なら手で回すけど、それはとても大きくて、人が臼の手の部分を持ってグルグル周りを回って挽きます。田舎ならロバがこの仕事する。町にはロバがいないから人がしなくちゃいけない。この仕事を小さくても私はよくやりました。
そこは、元々こういう仕事もする場所だったから、近所の人がジェンビンを作るとき、必ず、うちに来ました。お母さんは誰がやっても手伝った。纏足もあって、外での仕事できなかったから、家での仕事をちゃんとやる人だった。
ジェンビン作れば、一日かかる。できた糊状のものを大きな鉄板で一枚一枚薄く焼いて、半径20センチくらいのクレープみたいな、春巻きの皮みたいなものを作ります。一枚一枚焼いて重ねて、20センチ以上になるくらい作るから、一日かかる。これを一人でずっとやると疲れるし、暑い。だから、みんな交代でやる。私、いつもお母さんと一緒に手伝いましたよ。
ジェンビンは、ご飯の代わりに食べる。作り方も食べ方もクレープみたい。大きい鉄板で焼いて、専用の棒でくるっと拡げて、野菜や卵を挟んで四つ折りで食べた。好みで辛い物やいろいろ入れる。これは、本当に美味しい。置いておくと固くなるから、また水を足して柔らかくして食べる。懐かしい味だけれ ど、今はもう私には作れません。
ある日、ジェンビンを作って、お母さんが私に柔らかいのを一枚持たせ、「ひばあちゃんに届けてね」って。お母さんは引っ越してからも、ご飯食べるときは、向こうのひばあちゃんの面倒をみていました。
そのジェンビンを持って行って、呼んでも呼んでも返事がない。『どうしたの?私が行ったら、いつもはひばあちゃん、ものすごく喜んでくれるのに』
私は走って、お母さんのところに帰った。「ひばあちゃん、呼んでも返事がない。どうしたのかな」って。お母さんと近所の人みんなでひばあちゃんのところへ行くと、亡くなっていた。お父さんの新しい奥さんはひばあちゃんの面倒をあまりみない。ひばあちゃん亡くなるまで何も気づいてなかった。
ひばあちゃんがいなくなって、本当に淋しくなった。また、撫順の冬は寒さが厳しい。部屋は広くて、すごく寒くなる。竈で火を使えば、オンドルで暖かくなる。李さんは石炭自由に使ってと言ってくれるけど、お母さんは気を遣う。夕飯の支度に少し使うだけ。オンドルの上に寝る時、ほんのちょっとしか暖かくない。
夜になると壁は全部真っ白になる。寒くて、家の中が霜で白くなる。小さい私が落ちないよう私を壁側に寝かせる。お母さんの隣で寝てても、夜が更けると、私の足がだんだん痛くなる。寒くて、痛くなる。多分、壁が冷た過ぎるから。床に足をつくと、もう痛くて歩くことができない。痛くても病院には行けない。どうしようもない。中国のお酒60度。お母さんはそれに火を点けて、毎日毎日マッサージしてくれて良くなった。
お母さん、死んだらいやや
こんなにつましく生活しても、段々お金は少なくなる。お母さんは離婚するとき裁判所から毎月私の扶養費をお父さんから12元もらうことになっていた。課長になっていたお父さんの給料は70元くらい。その中から12元。でも、そのお金を払ってもらえないことが多くて、いつも裁判所から催促してもらっていた。生活するのはなかなか難しい。
お母さんは不安がいっぱいでも、なにも言わない。小学校2年生の私は、まだまだ幼い。前と同じように毎日学校へ行って、帰ったらお母さんと一緒にご飯食べて、なにも知らない。いつもお母さんは家で私を待っていた。
いろいろ考えても、もうお母さんには前に進む道がなくなった。あの日、学校から帰ると、お母さんがいない。隣に訊くと、「お母さん、出かけて行ったよ」と言われて、私はお母さんをあちこち探しに行った。近所・・いない。もう少し遠くへ・・。
北の方に行くと、そこには、町内の世話役のおばさんの家がある。そのおばさんが私を見つけて、「来て、来て」って。行くと、お母さんがおばさんの家の中にいて、泣いている。私はお母さんの顔を覗いて、「お母さん、どうしたの?」と訊く。お母さん、なんにも言わない。応えない。ずーっと泣いて、泣いて。
おばさんが「今日、お母さん、川に入って自殺しようとしました。私が少し遅ければ、もう死んでいたで」と言う。その家のすぐ傍に大きくて深い川がある。そこで死んだ人もいる。お母さんはそこで自殺しようとした。おばさん「もし私が気付くのが遅ければ、お母さん、死んだで」って、もう一度、私に言って聞かせました。
私は、そのこと聞いて、びっくりしました。小さくても一番心配なのは、お母さんのこと。もし亡くなったら、私、どうする? 小さくても、これからのこと、よくわかるよ。私も泣いた。もう、すごく泣いた。「お父さんが私たちをもういらないと言った。お母さんも私をいらないってことなの?」って訊いて。
お母さんは私を見て、「わかりました。もう死なない。この子を見たら、死ねない」その言葉を聞いても、私はすごく怖かった。お母さんが死んでも、私はお父さんのところへは行きたくない。新しい奥さんが来て、子どもも連れてきて、私、そのことをすごく恨んでた。もうお父さんと一緒に暮らすことは嫌!できない!
そのことをお母さんに言った。お母さんはずーっとずーっと泣いて、これからの生活どうすればいいの、って。最後に、「もう帰ろう。私はもう死なないから、心配しないで」と、私を連れて帰った。帰る前に、おばさんは私の名前呼んで、「お母さんのこと、ちゃんと見てね。こういう気持ちあったら、なかなか止まらんよ」って。私の心配はどんどん膨らんだ。
家に帰っても、ずーっとお母さんのそばにいる。どこにも行かない。小さいから、考えることは、お母さんのことばかり。お母さんのそばにいたら、一番安全だと思う。学校も行かない。絶対、お母さんから離れない。離れたくない。夜になっても、寝てはいかん。寝たくても寝れない。寝たら、また、お母さんどこか行ってしまう。死んだら、どうする? ずーっとお母さんの手をつないで寝る。お母さんのことが心配で心配で、眠いのに、急に目が覚める。『お母さんいる?』『うん、いる、いる』。また、眠る。また、急に覚めて。そうして、朝が来る。
お母さんは私のことを見て、ずっと泣いている。お母さんがどんなに言っても、私は学校行かない。ずっと家にいる。お母さん、私を見て、「安心して。お母さん、絶対死なない。もう大丈夫。あんたのこと考えて、私、死んだらいかん」。そう言っても、私は信じない。でも、近所の人たちは私に「学校、どうぞ行ってちょうだい。昼は私たちみんな、お母さんと一緒にいるから大丈夫」って言って聞かせて、お母さんも「どうか学校行ってちょうだい」と言う。その時から私、学校にまた行くようになりました。
学校行っても、『今日、帰ったら、お母さんいるかな』とずっと考えている。帰ったら、『お母さんいた』。やっと安心する。どのくらい学校へ行かなかったのか、もうわからないけど、どう言われても学校行かなかったことは忘れません。子どもだから、どんなに心配でも、眠いときは寝ます。寝たら、急に目が覚めて、お母さん見たらホッとする。お母さんもそんな私のことを見て、この子は本当に心配で心配でたまらないのだと思う。そして、ずっと泣いていたお母さんのことを覚えてます。
お母さんの再婚
その頃、みんながお母さんに「生活困っているなら、いい人あれば、再婚して」って言いました。でも、お母さんはどうしても再婚したくない。「この子のために再婚したくない。再婚相手がどういう人か分からない。お金は私が節約するから」って言う。
近所の人、なおもお母さんに言います。「離婚しても、再婚しても、恥ずかしいことじゃない。あんたのせいじゃない。仕方ないことよ。だから、生活するため、この子のため、再婚考えたらいい」って。
もう、どうすればいいの。お母さんいっぱい悩んで、私が9歳のとき、再婚しました。2番目の養父は、炭鉱の労働者。結婚しないで、ずっと一人だった人。お母さん、離婚したとき34歳。再婚したときは、36歳。このときは、同じ撫順だけど、ちょっと遠いところへ引っ越しました。
再婚するとき、私は幼くても、すごく複雑だったよ。最初のお父さんのことを憎んでいても、まだ時々は思い出して、心の中では自分のお父さんと思っていた。お父さんのしたことは憎い。でも、お父さんが私をもらって、大事に育ててくれた8年間のこと、ずうっと忘れない。だから、お母さん再婚しても、私はずっと、お父さんが付けてくれた名前と姓のまま、変わらなかった。
引っ越しして、小学校とても遠くなった。お母さんは、近くに小学校があるから、転校したらいい、と言いました。でも、私は転校しない。したくない。どうして、したくない? 自分がよくわかった。自分は日本人の子。そのことをここの学校のみんな知っている。でも、それはもういいの。転校したら、また向こうでも知られる。それはいかん。拡がることはしたくない。それで、転校したくないと。最後にはお母さん「もういいわ。自分が好きにしたらいい」って。
はじめは家から学校への道がわからない。お母さんが私送って行く。片道で一時間半くらいかかる。途中に高い階段がある。お母さんは、その階段の上に座って、私をずっと見ている。私は学校までまっすぐの道を行って、左に曲がる。私が見えなくなると、お母さんは帰る。私は走って走って行く。段々と道がわかってきたら、お母さんは送らなくなった。その小学校には、そうやって4年生の終わりまで1年半くらい通った。 (下巻に続く)
ききがきすと 鶴岡 香代
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〰娘夫婦と山梨の地で暮らして〰
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―昭和のあの日の我が家のこと
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3. 市丸姉さんにあこがれて
2012-01-09
2011-04-24
2011-03
以下の4作品はききがきの原点ともいうべき優れた作品ですが、
惜しむらくは新HPの様式を変えたことにより、継続しての掲載が
技術上困難なためタイトル、ききがき担当者名、完成年と月だけを
記載します。
・元助産婦が語る戦中・戦後の青春
ききが き担当 青木由美子 2009年3月
・八十九年生きて、いまがいちばん幸せ
ききがき担当 寺坂瑞恵 2009年3月
・74歳。音楽大好きおじさんのつぶやき
担当ききがきすと 中尾堯 2009年1月
・満州で家族を失った女性の問わず語り
担当ききがきすと ☆松本すみ子 2007年9月
☆NPO法人シニアわーくすRyoma21の元理事長である
故松本すみ子氏が、『ききがきすと』の生みの親です。
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ききがき作品についてのご意見・ご感想等お寄せくださる場合は、次の2点をあらかじめご了承のうえ、「ききがき」担当の鶴岡(e‐mail:tsuruoka@ryoma21.jp)までご送信くださいますようお願い申し上げます。
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2. ご質問や苦情等のすべてへの回答をお約束するものではありません。
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戦場に立つ開拓団少女
小原茂(おはらしげ)さん
うちは六人家族
小原(おはら)茂(しげ)と申します。昭和8年2月15日に、父小原亀(かめ)治(じ)と母春(はる)恵(え)の長女として生まれました。国(くに)助(すけ)と言う6つ上の兄がいましたが、年が離れていたせいか、一緒に遊んだ記憶はあまりないですね。
満州に渡るまで住んでいたのは、高知県東部の町、安芸市の僧津(そうづ)です。母に手を引かれて、再々山へ行ったことを覚えています。手前に大きな池があったような。山で枯れ枝を拾うと、母がそれをこのくらいの小さな束にして私の背に負わせてくれた・・そんなことを覚えています。
2つ下に妹初子(はつこ)、5つ下に弟康夫(やすお)が生まれ、うちは6人家族になりました。父は九州に居る母の親戚のところへ出稼ぎに行っていたようで、あまり家に居なかったですね。母が一人で子ども4人の面倒をみていました。
兄と学校に行くようになると、毎朝母がご飯を炊いて、一人に一椀くれました。でも、おかずがない。ほんの少しおじゃこを買うてあって、それをご飯を炊いた後の火で炒って、それでご飯を食べました。あの頃は、ほら、みんなぁ、似たり寄ったり。貧乏が珍しい時代じゃなかったでしょう。中でも、うちはうんと貧乏やったようにも思うけど。
小原茂さん(R4.5.18撮影)
歓呼の声に送られて
その僧津から満州へ家族揃って出立したのは、私が小学2年生になろうという春のことでした。だから、そのときの様子は記憶しています。安芸の駅までは、近所の人やら親戚やら、一人ひとりは覚えてないけれど、たくさんの見送りがありました。それはよーく覚えている。駅のホームでみんな、私たちが汽車に乗るまで送ってくれた。そこに立ったまま、私らが見えなくなるまで、手を振り続けてくれた。私はそれを窓からずっと見ていた。なぜか今でもはっきりと覚えている。兄が14歳、私は8歳、妹は6歳。弟はまだ3歳でした。
九州から朝鮮に渡り、朝鮮でまた汽車に乗りました。私たちの汽車に乗り込んできた朝鮮の人がリンゴを籠いっぱい持っていて、私らみんなに一個ずつくれました。真っ赤なリンゴ。南国生まれの私にはリンゴが珍しくて、とても嬉しかった。あの赤い色。今も忘れられません。
柞木台開拓団協和郷に着いて
目指す北満州の千振の開拓団まで、私たちは毎日毎日汽車に乗って揺られ続けました。そうしてやっとソ連国境にほど近い『北満州三(さん)江(こう)省樺川(かせん)県千振(ちぶり)街柞(さく)木(もく)台(だい)開拓団協和(きょうわ)郷(ごう)』に辿り着いたのでした。冬は零下35度にもなる極寒の地でした。
はじめは二家族が一軒の家に入れられ、たいへんでした。そのうち開拓団の団地が建ち、うちにも大きな家が割り当てられました。団地は3列になっていて、うちは真ん中の列の東から2番目。同級生の横山知子さんの家が前の列の一番東で、すぐ近所でした。後ろの列には家が少なかったように思います。団地には安芸から来た人が集まっていましたね。
遠い千振の学校まで
柞木台協和郷は、千振の汽車の駅からは本当に遠かったですよ。しかも駅まで乗り物はなくて、歩くしかない。初めは近くに学校もなくて、子どもたちは千振の街の学校に入りました。月曜日に学校に行き、土曜日に家に帰る。家から離れて寮で暮らす子どもたちのために、開拓団のお母さんたちが交代で来て、炊事や洗濯をしてくれました。
私、母の記憶はあまりないんです。満州に渡った明くる年に36歳の若さで亡くなりましたから。だけど、母が寮へ来てご飯をつくってくれたことは覚えています。重篤の母を父は遠い佳木斯(じゃむす)の病院まで連れて行きました。でも手当のかいなく亡くなったんです。その後は、横山さんのお母さんが寮へ来てくれたのを覚えています。
兄はすぐ卒業したので、千振の学校には、ほとんど私一人で行かなくてはなりませんでした。一人が淋しくて、私はよう泣きましたよ。行くときはいいんです。起きて、ご飯を食べたら、開拓団の友達みんなと一緒だから。土曜日に学校が終わると、私は遅くまでみなを待つことができず、長い道のりを一人で帰る。段々と日が暮れていく。あの頃は通りに笛を吹きながら行く中国の盲目の人がいて、すれ違うと何か恐ろしく、泣きながら帰ったものです。
千振まで2年くらい通ったかなぁ。その後、近くに満人の家に手を入れた急ごしらえの学校ができて、そこに通っていました。
開拓団に学校ができた
しばらくすると、うちの開拓団にも、やっと学校ができました。柞木台在満国民小学校。立派なレンガ造りの建物で、入り口に校名を書いた看板が立っている。一つの板には『柞木台』、もう一つの長い板には『在満国民小学校』と書かれていて、子ども心に誇らしく思いました。その看板は今でも目に浮かびます。
その新しい学校に私は妹と一緒に通いました。友達や妹と勉強したり遊んだり。でも、弟は入学したのが、終戦のあの年のことでしたから、勉強はほとんどできなかったと思います。
学校へは何を着て行ったかなぁ。食べるものでは苦労することはなかったけど、着るものは配給のものしかなかった。寒いところなので、冬は綿入れの上着に綿入れのズボン。母がいなかったから、着た切り雀で・・。おかしいけど仕方ない。特に弟はずーっと同じのを着ちょったなぁ。最後に中国の人にもらわれていくときも、擦り切れて薄うなった上着とズボンやった。ほら、配給ものはどれもミシンでざっと縫うたものやきねぇ。
父と子ども4人の暮らし
母が亡くなって、子ども4人を連れた父の暮らしは、たいへんだったろうと思います。でも、私は学校から帰ると近所の友達と外でずっと遊んで、家の仕事や炊事を手伝うことはあまりなかったんです。兄は学校を卒業すると、父と百姓しながら、私らの面倒もみてくれました。怒るような人じゃなかったけど、私は遊んでばかりで言うこときかんでしょう。だから、時には叱られることもありました。
3度の食事は父が作ってくれたけど、作れるおかず言うたら煮物だけ。大根や人参やら、うちの畑で穫れる野菜の煮物。開拓団での仕事は、田畑を耕し家畜を飼うことだから、田んぼも畑もあって、秋にはたくさん収穫していました。米はたくさんあったし、野菜も何でも作っていたから、食べるものに困ることはなかったね。
でも、北満州は、とにかく寒い。秋が来たら大根もジャガイモも凍る。凍ってしまう。浅い穴を掘って、まずはそこへ置く。もっと寒い冬になれば、牛小屋へ移す。牛も2頭おったのよ。子牛も何頭か生まれて、豚も何頭もおったねぇ。初めは馬も。家ごとに馬をくれていたけど、後から軍隊にやろうか、取られてしもうて、それで、牛に替えたわね。牛を飼いよったねぇ。
鶏もいっぱいおったよ。鶏小屋は、開拓団が構えてくれた外の便所だったとこ。父は器用やったから、便所を別の場所に作って、使わなくなった外便所を鶏小屋にしていました。
だけど、卵や肉を食べた記憶はないんです。食べたのかなぁ。母が生きていたら、いろんな料理ができたろうけど、父は煮物ばっかり。食べ方を知らなかったのかもしれません。でも、味噌汁はありました。大きな鍋に野菜がいっぱいの味噌汁。
仕事のために苦力(くーりー)言うて、中国人の老人を一人雇っていました。毎朝、自分の家から来て、仕事をする。夕方になったら自分の家に帰り、また、翌朝来る。だから、うちで一緒にご飯を食べるようなことはなかったです。
終戦の年に兄も父も召集されて
お正月言うても特別なことした思い出はないんです。ただ、餅つきはしました。うちの西隣に曽我さんって言うたか、そこにおばあちゃんがおってね。そのおばあちゃんに父が頼んで、お餅を作ってもろうた。父は搗くことはできても、餅にはようせん。だから、おばあちゃんが来て作ってくれた。父も兄弟も、みんなぁ揃って食べたことでした。
でも、あの終戦の年には、お正月なんてなかった。餅つきもなく、何にもなかった・・。戦争がひどくなったせいか、普通の日と一緒やったような気がします。
兄国助、牡丹江の軍隊で
それからほんの10日ばかり後、今度は父に赤紙が来たんです。頼りの長男を亡くし、大きな家に母のない3人の子どもだけを残して戦地に向かわねばならなかった父。その胸の内は、どんなだったでしょう。
私たちも父との別れが辛くて、不安で、悲しくて・・ただただ姉弟で抱き合って泣くことしかできません。私が12歳で、妹は10歳、弟はまだ7歳。その3人の泣き声を背中で聞きながら、父は出て行きました。私たちから目を逸らしながら、手を振る父の姿は今も目に焼き付いています。終戦直前の8月10日の昼過ぎのことです。それが父との永遠の別れとなりました。
日本が戦争に負けた!!
子ども3人だけになった、その夜。同級生の横山知子さんが2つ上のお姉さんの操さんと二人でうちへ泊りに来てくれました。私ら姉弟3人は父の居ない心細さをその二人に慰められ、子どもらばかりの一夜がなんとか明けて行きました。
朝早く、誰かがガラス戸を叩いています。「茂ちゃん、茂ちゃん。早う起きなさい」って言う声も聞こえる。驚いて目を覚まして見ると、知子さんとこのおばちゃんです。飛び起きた私におばちゃんは「茂ちゃん、すぐみんなを起こしなさい。起こして、みんなぁでうちへ来るんよ」と言います。さらに、おばちゃんは「日本が戦争に負けたって。だから、みんなぁで日本へ帰るんよ。おばちゃんちへ早う来てね」と言って、帰って行きました。
私は慌ててみんなの名を呼んで起こし、横山さんの家へ急ぎました。前の列の一番東の端の家。すぐの近所です。家に入ると、中では大きな荷物をいっぱい作っています。いつもと違う状況に驚いて、私はどうしていいかわからず、泣き出しました。
すると、おばちゃんは「茂ちゃん、泣かんとってね。おばちゃんがご飯食べたら、あんたくへ行って荷物つくっちゃるきね。早うご飯食べて」と優しく言うてくれました。私は、そこでご飯をもらい、それからおばちゃんと一緒にうちへ帰りました。
リュックサックを縫う
うちへ入ると、おばちゃんは、「お母さんの箪笥を早う見て。何か生地がないかね?あったら出してきて」って。箪笥を開けると、白い生地がたくさんある。「おばちゃん、白いがはいっぱいあるで」と言うと、「白いがはいかん。黒い生地はないかね?見てみいや」とのこと。他の引き出しを探すと、新品の黒い生地が出てきた。ずっと前に開拓団に配給されて、母が箪笥にしまってあったものがそのまま残っていたんです。
その生地でおばちゃんは、縁側に座ったままリュックサックを縫い始めました。私に一つ、妹に一つ。私も学校でほんの少し裁縫は習ったので、ちょっとは縫うことができました。ミシンはない。おばちゃんを手伝って二人でリュックサックを手縫いして、逃避行用のリックを2つ仕上げました。
おばちゃんに言われて、そのリュックに自分らの着替えを入れました。「針と糸も入れちょきなさいよ。もし、どこかで破れたら使うきね、忘れんように」おばちゃんの言うとおり、私は針と糸を入れ、それからチリ紙もいっぱい入れました。日本人はチリ紙をいっぱい使うきね。四角いがをいっぱい入れて、背負ってねぇ。後から、こんなもん入れてって・・、アホなことをしたと思うたことよ。
逃避行始まる
それが父との涙の別れの翌日、8月11日の朝のことです。飼っていた牛や豚や鶏は、全部そこへ置いていくしかない。家にはお米もいっぱいあったし、キビもね、外の大きな木の箱にいっぱい入ってました。全部捨てて行くしかなかった。
今考えると、父は出征する時にきっと誰かにお金を頼んでいただろうけど、子どもだったからか、お金は一銭も持たされていませんでした。でも、その時は、そんなこと思いもしませんでしたね。
荷物は多いし、子どももいる。開拓団の皆が牛を出して、何台もの牛車を仕立てて、出発しました。幼い弟は牛車に座り、私は妹の手をしっかり握って、住み慣れた家に別れを告げ、なにもわからないまま、みんなと一緒に開拓団を後にしたのです。
開拓団の男の人たちが相談して、まずは依(い)蘭(らん)県(けん)へ逃げようと決めていました。男の人と言っても開拓団に残った男性は、恒石のおんちゃん、田中のおんちゃんに横山のおんちゃんのわずか3人だけ。18歳から45歳までは兵隊に取られて、若い人はいないんです。だから開拓団は、子どもと、おじいちゃんやおばあちゃんといったお年寄りが多くて、お母さんたちが頑張ってました。うちは母も居ないでしょう。本当に心細かったです。
依蘭県を目指し、まずは汽車に乗ろうと千振の駅へ向かっていると、出会った満人らが、口々に「汽車は止まっている」「どこへも行けない」と言います。駅へ行ってもダメだとわかり、取りあえず車を休ませようと寄った近くの満人の部落で、一晩だったか二晩だったか、泊ることになったと記憶しています。
一行の中に、旦那さんが兵隊に行って、男の子ばかり3人連れた妊婦さんがいました。夜になって、なんとお産が始まり、赤ちゃんが生まれましたよ。よく覚えています。
いったん我が家に帰るも・・
汽車では南下できないと頭を抱え、男の人たちが相談した結果、「このままでは命が危ない。汽車が無理なら、船しかない。松(しょう)花江(かこう)から船に乗って南へ逃げよう。いったん戻って、再出発だ」となり、私たちは元の開拓団まで引き返しました。
家に帰って、驚きました。なんと、雇っていた満人の苦力が家の中に居て、二人の男がそれぞれ、荷造りの最中だったんです。毛布を敷いて、その中へうちの布団や衣類、その他の家財道具、何か知らんけど全部包んで、大きな荷物を作っていました。横山のおばちゃんが作っていたみたいな大きな荷物。
私は恐ろしくて、もう泣きながら前の横山のおばちゃんの家に飛び込んで、涙声でおばちゃんに言いました。「苦力がうちのものを盗りゆう」と。おばちゃんは私を見て、「もうしようがないね。帰らずに、ここに居て」と言ってくれました。それで、もう家には帰らず、おばちゃんちでお世話になりました。その時、うちのものは何もかも、捨てて、盗られて・・全部なくなったと思い知りました。
依蘭県に向け再び発つ
私たちが依蘭県に向け再び出発したのは、一夜明けて14日の午前中でした。徳島、鳴門、愛媛、協和の4つの郷は出発し、土佐、東予の2郷は集団移動を避けて留まるとのことでした。
まず向かった大平鎮までは丘や谷の道ばかりでした。幼い弟は牛車に乗せてもらえたけど、私は妹の手を引いてずっと歩きました。道は険しいし、この時は雨もよく降って、いたるところで川が増水していました。道か川か見分けもつかないようなありさまの中、難儀しながらの前進でした。その日、私は恒石のおばちゃんとその娘さんと一緒の組になって歩いていました。恒石のおんちゃんは、うちの開拓団の責任者だったので、あの夜にお産をしたお母さんと子どもたちを乗せた牛車を守って、一番後ろを来ていたんです。
飲まず食わずで、すっかり疲れた私たちが道端で少し休んでいると、向こうから鎌を持った二人の満人がやってきました。すれ違い際に「後ろにまだ車があるのか」と訊いたので、私たちは何も思わず、「あります」と答えたんです。
恒石のおばちゃんと娘さんは、後からおんちゃんの車がなかなか来ないので心配になり、「私らぁ親子で迎えに行ってみる」と言うて、道を戻って行きました。行ってみると、車の傍にお父さんが倒れていて、顔も体も血だらけ。私らに車のことを尋ねた満人の二人がおんちゃんを殺して、車からお金やなにやかや全部盗ってしもうたってことでした。
車に乗っていたはずのお産した奥さんと子どもたちの姿は、どこにもない。人が殺されゆうところを見て、恐ろしくて逃げたのか、どこかへ連れて行かれたのか・・。自分らの荷物も何一つ持たず、なにもかも捨ててしもうて・・・。
あの母子のこと、そして、開拓団の責任者として母子を守ろうとして命を取られた恒石のおんちゃんのことも、私はずっと忘れることができません。
両親の写真まで捨てて
匪賊や銃弾に度々脅かされながらも、先に出発した4つの郷はなんとか大平鎮の近くまで来ていました。早朝から銃撃され、連絡に来た満州警察と話し合っていた開拓団の何人かが拘留され、何時間も止められるということがありました。なんとか出発は許されたのですが、状況は、どんどん難しくなっていきました。
また、荷物を捨てるように命令が出ることもありました。これまでも「みんな、要らん物はできるだけ捨てなさい。牛もたいへんだから」と言われ、少しずつ荷を軽くしてきましたが、この時は皆、泣きながらさらに捨てていました。
私も持っているものをすべて捨てなくてはと思い、親の写真まで一枚残らず捨てました。なぜだか『こんなもの持ってきて』と思ってしまったんです。大事な写真をすべて捨ててしまったことを後では随分後悔したことでした。
苦力に車を盗られる
16日の夕方になってやっと依蘭県に入りました。町に入ろうというところで、雇いの中国人苦力が「車が動かんなった。故障した。ここで直すので、皆さん、持てるだけの荷物を持って、先に行って」と言ったんです。
それまでずっと私たちの荷車を守ってくれた苦力です。「仕方ない、大事なものだけ持って先に行こう」となりました。小さい子どもたちを車から降ろすと、皆、持てるものを持って歩き始めました。
でも、その時の私にはなにもない。初めからお金は持ってないし、親の写真ももうない。何が大事かもわからない。仕方なく、私は妹弟の手を引いて付いて歩き始めていました。
ところが、皆が車から少し離れたあたりで、なんと苦力が牛を追いたて、飛ぶようにその車を持って逃げたんです。アッと言う間の出来事でした。大事なものを全部取られて、皆が道淵で泣くことよ。持ち金全部を身に着けている人はいなかったと思います。皆、車の荷物の中に包んで置いていたそうですから。それも盗られて、ひどい目にあったんです。でも、仕様がない。逃げた苦力に、もう追いつくことはできません。泣いて諦めるしかなかったのでした。
依蘭橋の惨事
その日、私たちがやっと入った町は、何千何百人の難民でたいへんな混雑ぶりでした。北からソ連軍が入ってきて、東北の開拓団の人が皆、南へ南へと逃げ、依蘭県のこの町で一緒になっていましたから。本当にすごい人でした。私たちは木がたくさん植えられた、学校のような施設の広い庭に入り、大きな木の下で一晩を過ごしました。
そして、あくる日、17日の朝、大勢の人がさらに南を目指して松花江を渡ろうと依蘭橋に向かって歩き出していました。松花江は満州では一番大きくて、川幅も広いんです。難民の長い列が、依蘭橋にさしかかった時、突然、ソ連機が飛んできました。居合わせた兵隊らが「これは、いかん。爆弾で橋がやられる。落ちてしまうぞ」と叫び、「後退!元へ戻れ!」と大声で繰り返します。しかし、橋の上はすでにいっぱいの人。それが皆、戻れと言われ、子どもは泣くは、親は叫ぶはのすごい混乱となりました。
私は妹弟と一緒に橋から100mくらい手前に居たと思います。周りは人、人、
人。人ばかりです。皆、今度は川沿いに南へ走る。走って船に乗り込み、川を渡ろうと、必死です。攻撃は飛行機からだけじゃない。水上にはソ連の軍艦もいる。あちらから、こちらから弾が飛んで来る。周りには匪賊もいて、怖い満人に叩かれる。
そんなひどい目に合いながらも、なんとか逃げて、船がそこに見えるところまで来ました。あの船に乗ればなんとかなると、妹弟の手を引いて走っている時のことです。私と並んで、一人の若い女の人が、背中に二人の子ども負うて走っていました。ピューンと弾が私の頭の真上を飛んだ・・次の瞬間、その女の人がバタンと倒れたんです。
流れ弾に当たり、子どもを背負ったまま倒れて血を流している。大量に流れる真っ赤な血。私はもう恐ろしゅうて、二人の子どもを見ることもできない。私だけじゃない。周囲は人がいっぱい。でも、幼い二人に手を差し出す者はない。みんな自分のことだけで精いっぱい。
私は急いで妹と弟の手を取り直し、船に向かい一目散に走りました。その時の私には「弾が当たらんかって、良かった」という思いしかなかったんです。「お母さんが私を助けてくれた」と。ただ恐ろしかった。頭の上を、耳の傍を弾がピュンピュン飛ぶんです。できることなら目を覆いたい。戦場と同じです。怖れ慄きながら、私は妹弟を連れ、その場からただただ逃げたのでした。
山を逃げる
なんとか船に乗り、向う岸へ渡りました。それからが、また、たいへんです。道から外れて、道なき道を行くんです。畑の中をあちこちしながら、山の上の方へ逃げました。留まることはできない。みんな必死です。開拓団にいた大勢の人たちが、皆、南へ南へと逃げる。日本へ帰ろうと。日本に帰りたいと。
山の中を逃げていた、ある朝のこと、道端で休んでいると、突然、弾が飛んできました。川竹さんの次男坊の巧ちゃんが、その弾に当たって、左足の指が二本吹き飛ばされました。功ちゃんは痛くて泣くし、お母さんは驚いて叫び、大騒ぎになりました。消毒も薬もない中で、包帯だけはあったのか、お母さんが何とかそれで手当しました。それからは、お母さんが功ちゃんを背負って逃げていました。
暑い夏のことです。包帯をお母さんが外した時に、傷口に白い虫が湧いているのが見えました。『痛いろう。恐いろう』と気の毒でたまりません。開拓団の逃避行にはお医者さんなんかいません。薬もない。なにもないんです。川竹のおんちゃんは、うちの父と一緒に兵隊に取られたきね。あの子のお母さんが、うんと苦労したわねぇ。
雨がよく降りました。山道がぬかるみ、歩くのが辛くなる。子どもや年寄りは、足が止まる。でも、皆の列から遅れると、道端にそのまま置いて行かれます。だから、親も子も必死です。叱咤する親の声、子どもの泣き声。私は妹弟を連れて皆に付いて行くのに必死でした。
空腹も辛かったですよ。畑があれば、生のキビや大根、ニンジンなどを盗って食べる。水があれば、汚くても小さな虫がいても目を閉じて飲む。死にたい気持ちになったことも一度や二度ではありませんでした。
山中に日本軍の野営跡がありました。中にはお米や漬物など食べ物がある。でも、弾がピュンピュン飛んで来る。テントの前の道には若い女の人が倒れています。流れ弾に当たって、血だまりの中に仰向けに倒れています。息絶えたように見えました。
傍らに幼い二人の子どもがいて、その女の人の服を引っ張り、乳を引っ張りして、口へ持って行こうとしています。乳を飲みたかったんですよ。小さな子だからね。「母ちゃん、母ちゃん」言うて、泣きもってねぇ。
皆それを見ても、「かわいそう」と言いながら、通り過ぎていくだけ。二人の幼子を助けようとする人は誰もいません。あの二人の泣く声が、乳を求める指や口が、今も頭から離れません。眠れぬ夜には、あの後二人がどうなったのか、優しい中国人に助けられていたらいいなとか、いろいろと思うのです。
テントに入って何か食べたか、って?いやぁ、そんな恐ろしいところに、私らぁ、入ることはできません。もちろん何一つ口にすることはなかったですよ。
命がけの濁流渡り
再び河に出ました。松花江の支川でしたが、大雨の後で流れも速く、向こう岸を遠く感じました。濁った水が渦巻いています。渡るための船もありません。こちら岸の木から向こう岸の木に一本の針金を渡して括り付け、一人ひとり、それを握って渡るのです。
たった一本の針金を命綱に大勢の人が行列をつくって次々と濁流に入って行きました。中には手が外れて「助けて、助けて」と叫びながら流れに吞まれる人もいます。それを見て、子どもらは恐ろしくて泣き叫んでいます。
開拓団のお父さんは兵隊に取られ、お母さんが子どもや年寄りを連れているんです。大きな子どものいない家のお母さんは、幼子を抱えて濁流を前に途方にくれ、中には思い余って子どもを水中に投げる者もいました。しゃべれる年齢の子どもは「母ちゃん、捨てんとって、投げんとって」って。でも、お母さんも何人もの子どもを連れては渡れませんから。何十人の人がここで命を落としたでしょう。たまりかねて母親が子どもの後を追って流されるのも見ました。
私もおっかなびっくり渡り始めました。針金を掴み、一歩一歩。なんとか岸に近づいたところで、突然、波がざぶんと来て、手が針金から外れ、一瞬で水中に引き込まれました。先に渡って後の者を岸に引き上げてくれていた田中のおんちゃんが、一度沈んで再浮上してきた私に、大きな声で「茂ちゃん、早う手を上げて!沈んだらいかんよ!」って叫んでくれたんです。そして、水面に上げた私の手を力いっぱい引っ張ってくれました。田中のおんちゃんは、太い人で背も高く、手も長い。どっちの手やったか、上げた私の手を千切れるばぁ引っ張って、岸へ上げてくれました。その時は痛いこともわからない。私が岸に上がると、妹も付いて上がってきて、二人とも命拾いしました。
岸でしばらく弟を待ちました。弟は、木を繋いでつくった小さな筏に乗せてもらって、なんとか渡ることができました。私は田中のおんちゃんに命を救ってもらった。おんちゃんがいなければ、私はあそこで終わっていたと思います。私だけでなく、妹も弟も、開拓団の皆様のお陰で助かったんです。心から感謝しています。
美味しかったご飯
河を渡ると、また集団での逃避行です。ソ連兵も怖い、中国人も怖い。道を外れて歩いていくと、20軒くらいの小さな部落に入りました。家はあるのに、人はほとんど見かけません。特に女や子どもは一人もいない。日本人が大勢で逃げてくるのを恐れて、この部落では男の人をほんの数人だけ守りに残し、皆どこかに隠れたようでした。
私たちは、その部落で一晩泊ることになりました。そこで、お米を炊いて、白いご飯をみんなで食べました。逃避行が始まって以来、初めて食べたご飯の美味しかったこと。夏のことなら野菜は畑にいっぱい。キュウリやナスがいっぱいありました。もちろん他人(ひと)のお米や野菜です。どこでどう手に入れたものか私にはわかりません。でも、そこで家を出てから初めてお腹を満たし、ゆっくり休んだことを覚えています。
翌日、また山に入りましたが、どんなに歩いても道がわからず、同じところをグルグルグルグル回って、夕方また元の部落に帰ってきてしまいました。翌日、満人の道案内を得て、やっと部落のある山から出ることができました。
それからも逃避行はまだまだ続きます。道のない山の中を逃げていると、ソ連の車が来ました。鉄砲持ったソ連の兵隊がたくさん乗っていました。ロシア語で何か言うけれど、私らにはわかりません。私たちはコーリャン畑に隠れましたが、お年寄りの中には「ここで死ぬなら、それも
いい」って、道淵に立ったままの人もいました。逃げるのもたいへんで嫌になったのでしょう。
そのうち弟は足が痛くて歩けなくなりました。皆に置いて行かれることが怖くて、私は妹だけを連れて歩き出しました。後ろから弟の泣き声が「お姉ちゃん、置いて行かんで。連れて行って」と私を追いかけてきます。それでも歩いていると、亡き母が「茂、お前以外の誰が弟の面倒を見る?妹と弟の二人をしっかり連れていかんで、どうする!」と叱る声が聞こえたような気がしました。結局、妹と泣きながら引き返し、弟の手を取っていました。その後、前を行く皆になんとか追いつくことができました。
方正県で収容所に入る
空腹を抱えての山河越えの後、8月末に、やっと方正県まで辿りつきました。私たち同様に日本に帰ろうとたくさんの人がここに集まっています。しかし、ソ連軍に阻まれ、方正の街には入れません。
街の東の高い丘に日本軍の居住跡があり、そこには毛布や鉄兜、靴下、雨靴、冬の暖かな靴など、様々なものが山積みされていました。日本人の兵隊が来て、「自分で持てるだけ持って行きなさい」とみんなに言いました。誰もができるだけたくさん持って行きました。
でも、私には、どれも重い。幼い弟妹の手を引き、歩いて付いていくだけがようようの私には、何も持てない。誰かに「夜どこで泊まることになるかわからん。これを一枚でも持って行きなさい」と言われて、毛布を一枚だけもらいました。寒い夜に必要かと思ったのです。
結局、私たちは方正の街には入れず、方正県の東の伊漢通(いかんつう)の倉庫のようなとこに落ち着きました。そこは日本人難民の収容所で、中国の人が「ここは沖縄の人たちの開拓団だった」と教えてくれました。いつまでここに居るんだろう。お父さんには会えるんだろうか。いつになれば日本に帰れるんだろう。不安だけがどんどん膨らみました。
私たちの団は東の端にある二つの大きな倉庫に分かれて入ることになりましたが、そこでの苦労も、また、一とおりではありません。倉庫の土の床に敷くものは何もない。あるのは、筵(むしろ)、お米を入れるあの編んだ筵だけです。それを開いて敷布団にしました。
倉庫の中は、外よりいくらかましという程度で、秋になると、夜の寒さが一段と厳しくなりました。とても眠ることはできません。横山のおばさんが「このままでは、寒くて冬越えできんよ。この毛布でズボンを縫いなさい」と言ってくれました。それで、私は持ってきた毛布で三人のズボンを縫いました。妹に一枚、弟に一枚、私に一枚。すると、今度は掛ける布団がありません。仕方なく筵を被って、弟妹と寄り添うように寝たことでした。
衣類も夜具もない。食料もない。そこにはお年寄りがまだたくさんいましたので、10月になると、飢えや栄養失調などで毎日のように人が亡くなりました。11月になり寒さが一段と厳しくなると、凍死する人も出るようになりました。大きな穴を掘って、その中へ亡くなった人を捨てるように埋けているのを見ました。亡くなった人を祀るどころか、並べる場所さえなかったんです。
神様からの贈り物
弟の指に出来物ができて、爪が落ちたことがありました。その頃には、収容所にも簡易の診療所ができて、日本の軍医さんが診てくれました。お金は要らない。只で診てくれたんです。それで私、弟を連れてそこへ行って治療してもらいました。
ある日、治療を終えて診療所から出ると、目の前に財布が一つ落ちてるんです。周りには誰もいません。目の前の財布。これは神様が置いてくれたとしか思えませんでした。拾って開けてみると、十円札が一枚入っています。
私にはお金はありません。一銭も持たされてなかったんです。最初は収容所でもお米の配給が少しありましたが、すぐに皮がまだ残ったコーリャンに替わりました。それを炊いて食べると本当に渋いんです。それでも食べないとひもじい。配給のものはどんなものでも食べました。
そんな時の十円。神様の恵みです。食べ物を買えるところはあったんです。日本の難民がたくさんいるので、中国の人が売りに来るんです。日曜市みたいなところ。遠くから売りに来る人もいましたよ。美味しいものいっぱい持ってね。ふかふかの中華まん、今はスーパーでも売りゆうでしょう?それから、トウモロコシの粉を蒸したファゴウや、白い豆の粉を蒸したチェゴウ。鍋の中で膨らんでフワフワに蒸しあがっているのを切り分けて売ってくれるんです。蒸しパンや餅に似て、本当に美味しかった。お金のある人は、買うて食べているけど、私には買えなかった。でも、あの10円で、私ら3人が何日か食べることができました。
収容所の中には中国人のところへ働きに行く人もいました。若い女の人たちは、働いてお金をもらっていました。子どもや親のためにね。配給だけでは、全然足りないから。働いて、そこで残ったご飯やおかずを貰ってくる人もいました。
ある寒い日の真夜中に
横山のおばさんは、いつも私ら3人を気遣って、何かと声をかけてくれました。おじさんは45歳を超えていたのか、兵隊には行かず、家族と一緒にいましたよ。でもある寒い夜、たいへんなことが起こりました。突然、中国の国民党の人らが私たちの倉庫に入ってきて、鉄砲で脅しながら横山さんの4番目の娘さん、操ちゃんを無理やり外へ連れ出そうとしたんです。
真夜中のことで、操ちゃんは「行かんきね」と泣き叫び、おじさんは娘を中へ引き戻そうと必死です。操ちゃんが「お父さん、早く殺して!私は行かない。殺して!」と泣いて訴える。お父さんは娘を引っ張る。あちらの兵隊は諦めずに、さらに外へと引っ張る。
みんな目は覚めているのに、操ちゃんやおじさんを助けようとする人はいません。誰も声一つ上げないんです。最後には、兵隊が天井向けて二発拳銃を撃って、出て行きました。それで、操ちゃんは何とか助かりました。操ちゃんが北の入り口から一番外側に、私は、そのすぐ横の列に寝ていましたから、全部目にしたんです。
そんなことがあった後、おじさんは重い病に倒れて、亡くなりました。後を追うように長女の初さん、初さんの子どもさんと、横山家では3人が次々に急逝するという不幸に見舞われました。
春に別れる
横 山 家 の 皆 さ ん
(おばさんは上の左端、知子さんは下の中央)
収容所に子どもをもらいに来たり、お嫁さんを探しに来る中国人がいました。ろくに食べることもできず、日本へ帰る目途も立たない暮らしの中で、皆と別れて中国人と一緒に出ていく人も多かったんです。
お金のある日本人は、なんとしてでも帰ろうと、ハルピンを目指して収容所を出ていきました。ハルピンまで行けば、なんとかして日本に帰れる。ただ、ハルピンまでは車もなく歩いて行くしかないんです。たいへんな苦労です。でも、横山のおばさんは、娘を収容所に置くのが怖くて、次女と四女の二人を先にハルピンに発たせ、二人の娘と末の息子と四人で残っていました。
4月になり、ようよう方正にも遅い春が来た、ある日のこと。横山のおばさんが「おばちゃん、茂ちゃんに話があるんよ」と、部屋にいた私を炊事場に呼びました。そして、言ったんです。「うちも、お父さんが亡くなったでしょう。生きていれば、私たちが日本へ帰るとき、何としてでも、茂ちゃんたち姉弟3人も連れて帰る。けど、おばちゃん一人では、その力もお金もない」と・・。その先は聞かなくても、おばさんの言いたいことがわかりました。
おばさんは一息ついて続けました。「おばちゃんだけで、うちの3人を連れて帰らないかんのよ。そのお金もない。中国の人が毎日子どもをもらいに来よるの、知ってるよね?あんたらぁも、ここにおっても食べ物がないきね、中国の人に助けてもらいなさい。おばちゃんが日本に帰れてお父さんに会えたら、迎えに来るように必ず話すから。それまで、とにかく頑張って欲しい。生きていて欲しい」
泣き崩れる私をおばさんは胸に抱きしめてくれました。そのおばさんの目にも涙が溢れています。おばさんも辛かったんです。二人で抱き合って、しばらく涙にくれました。その時のおばさんの胸の柔らかな温もりを私は一生忘れることはありません。
昭和21年4月、こうして私たち姉弟3人は中国の人にもらわれて行くことになり、数日後、中国人のおじさんが牛車で迎えに来ました。川竹のおばさんとその息子二人と姪一人の家族4人に、恒石のお姉さんも一緒です。8人が、皆に泣きながら別れを告げました。行先は誰も知りません。悲しみと不安に胸が押しつぶされそうで、誰の目にも涙が溢れていました。
夕方やっと方正県の隣の延寿(えんじゅ)県にある加信(かしん)鎮(ちん)という小さな田舎町に着きました。大勢の人が私たちを待っていて、それぞれの引き取られる家が決まっていきます。なすすべもなく、私は妹弟と泣く泣く別れるしかありませんでした。
私たちを収容所に迎えにきたおじさんは世話役で、私たちは中国人から中国人へと品物のように売買されたのでした。でも、そのことを知ったのは、ずっと後になってからのこと。このときの私は、何もわからず、運命の波にただ飲み込まれるだけでした。
妹弟とも別れて
妹と弟は子どものない夫婦に一緒に引き取られましたが、そこのお父さんは間もなく弟を遠い田舎の方へまた売ってしまいました。だから、妹と弟も、結局は別れ別れになりました。お金で人をやり取りすることが、当時は当たり前のように行われていたんです。
それでも、妹は夫婦に娘として大切にされ、幸せに暮らしたようです。妹の家の近くにいたころは、遊んでいる妹を見かけることもありましたが、中国語のできない私は、周りの目も気になって、声をかけることはできませんでした。
その後、妹は病気になり手を尽くしても治らず、16歳で亡くなりました。後で、お父さんが私を訪ねて来て、妹の死を知らせてくれました。「お金をつかって、できる治療はすべてした。でも、治すことができなくて。残念でならない」って話してくれました。お父さんは妹を本当の娘のように思ってくれていたと思います。
妹にも弟にも、別れてから会いに行くことは一度もできませんでした。それっきり・・。言葉も地理もわからず、人も知らない。たとえ近所でも、出歩くことは難しかったんです。だから、遠いところにやられてからの弟の消息は、まったくわからず、病気で亡くなったことを何年も経ってから聞かされました。まだ27歳の若さでした。
その後、私も転々とし、3度目に売られた家で、結婚することになりました。私は14歳、夫の劉(りゅう)宝庫(ほうこう)は15歳と、若過ぎる夫婦でした。暮らしは貧しく苦労がありましたが、夫との出会いに救われ、2人の息子と3人の娘をもうけました。
帰国の夢叶い、父を想う
二人の娘の病死など辛いこと哀しいこともありましたが、その都度、主人と一緒に乗り越え、いつかは日本に帰りたいとの思いをずっと持ち続けていました。長い年月をじっと待ち続け、友人である川竹さんのお陰で高知の身内のことがわかりました。そして、昭和51年の第2次訪日調査団のお陰で「一時帰国」がやっと許されました。でも、帰ってみると会いたいと夢見ていた父はすでに病死していて、墓前であいさつするしかありませんでした。幼い日を過ごした安芸市で私は親族の皆さまにお世話になって、また中国へ戻りました。
それから再び長い年月を待って、やっと永住許可を得て、平成5年5月28日に私は次男一家3人とともに帰国しました。ここから、皆さまの暖かいご支援やご協力をいただき、私の高知での生活が始まったのでした。
帰国が叶い父の墓参りに
私の母方の従兄弟に、安芸の市役所に勤務している和田精郎さんという人がいて、帰国した私の世話をうんとしてくれました。その人が父の牡丹江の軍隊に入ってからのことをよう知っていて、私に話してくれました。
父が牡丹江にやっと着いて、兵舎に入り、軍服に着替えた・・その直後に上官から「戦争は終わった。すぐに帰りなさい」と言われたそうです。その時、父はお金は一銭も持ってなかったと言います。遠い道のりをどうやって帰る?帰るまでにした苦労は一とおりじゃなかったと話したようです。
牡丹江から私たちの柞木台開拓団までは本当に遠いんです。汽車に乗るお金がないから、駅の傍で仕事を探して、お金ができたら行けるところまで汽車に乗る。また降りて、仕事を探し、そこで働いて・・。そんな苦労を重ねながら、私ら子どもに会おうと必死で帰ったそうです。
でも、帰ってみたら、空っぽ。家には誰もいない。荷物も何もない。盗られてしまって、何もなかったって。頑張って頑張ってやっと開拓団まで、家まで帰ったのに、子どもたちは誰一人いない。会えないまま。父は何もかも無くし、仕方なく、また駅へと引き帰したって。
父が日本に帰って来たのは、昭和32年か33年と聞きました。たった一人で帰って来たって。終戦から随分経ってますよね。日本へ帰るお金がなくて、こんなに時間がかかったんでしょうね。仕事して、お金ができたら乗り物乗って、無くなったらまた降りて仕事探して、そうして大連から日本へ帰ってきたんでしょう。
「お父さんもたいへんな苦労をしたんだなぁ」と思いました。私らぁに会いたくて、開拓団まで帰ってきてくれたのにね。どんなに無念な気持ちだったでしょうね。私も父には本当に会いたかった。残念でたまりません。
そして、横山のおばさんのこと
父と同様に、横山のおばさんのこともずっと気にかかっていました。無事に日本に着いただろうか。いつか会える日が来るだろうか、と。だから、帰国して同級生の横山知子さんや操さん、鶴子さんと会うことができたときは、横山のおばさんのことを尋ねました。
私たちと別れた後、おばさんは、先に発った二人の娘が待つハルピンへ向かったそうです。ハルピンに着いて、おばさんは操さんらと会うことができました。でも、おばさんがもう動けないくらい疲れた様子だったので、娘さんらが気遣って、「お母さん、ちょっと待っていてね。何か食べるものを買ってくるから」と、おばさんをそこに休ませて買いに行った・・・その短い間に、おばさんの息がなくなっていたと聞きました。
「ようやっと会えて、何の話もしないうちにねぇ・・」と娘さんらは辛い悲しい話をしてくれました。ハルピンで娘らにやっと会えたのに、おばさんはそこで亡くなっていたって。おばさんに私はうんとお世話になりました。とてもやさしい人で、辛い苦しい時にいつも助けてもらった。今も夜眠れないとき、あの時々のおばちゃんが目の前に出てくるんです。自分の母親みたいに。忘れることはできません。
家族を想い、家族を祀る
今は、こうして日本に帰り、郷里の高知で暮らしています。言葉の問題もあったし、病気がちで思うように仕事もできず、苦労はずっとありました。でも、給付金の新たな制度ができて、今は生活の不安もなくなりました。本当にありがたいことだと思っています。
満州に渡った時は6人家族だったのに、今こうして生きているのは私だけです。よう生きてきたわねぇと、自分でも思うんです。戦争さえなかったらと考えますよ。戦争になって家族がバラバラになり、した苦労は一とおりのものではなかったですから。
ありし日の母
家族を祀ることが今の私の役割です。高知市に来てから、お世話してくださる方がいて、筆山にお墓を構え、安芸からこっちへ連れてきました。とは言っても、中国で亡くなった母や兄や・・お骨は持って帰ることはできませんから、何もないんですけどね。私が足が不自由で墓参りが難しくなったので、今は代りに息子が行ってくれています。
家ではこうして父と母の遺影を置き、お祀りしています。この母の写真は、大坪の叔母が持っていたものを借りて、私が新たに作りました。叔母は父の妹で、写真の母はとても若いんです。これを見ると、生きてきた、生きているという気持ちになる。もうここで終わりと思うことがいっぱいありましたよ。60の時も、ここまでと思ったのに、もう90に手が届くところまで生きて来た。ずっと母が、若くて亡くなった母が私のことを守ってくれた・・そう思って感謝しています。
あとがき
私の母と同世代の小原茂さん。満州移民という国策がなければ、日本で終戦を迎え、戦後の国難の時代を、ご家族とともに懸命に生きたことでしょう。でも北満州の開拓団の少女は、戦場同様の山中を、弟妹の手を取って逃げ惑わねばなりませんでした。今も夢にうつつに見る悲惨な体験は、辛く苦しいことばかりでした。時に涙ぐみ、苦笑いしながらも、丁寧にしっかり語り伝えてくださった小原さん。本当に、ありがとうございました。
「ウクライナでの戦争を毎日、テレビで観ています。心配して観ています。早く終わるようにと祈りながら観ています」小原さんが、お会いする度におっしゃっていた言葉です。この祈りが冊子を読んでくださる方々に届き、平和への一歩ともなりますように。
最後に、小原さん紹介の労をとり、貴重なアドバイスの数々をくださった中野ミツヨさんと、素敵な挿絵で彩を添えてくださった岡内富夫さんのお二人に、心から感謝申し上げます。
ききがきすと 鶴岡香代
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posted by ききがきすと at 09:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがきすと養成講座 | |
―語り手と聴き手でつくる喜びと感謝の時間ー
私たちの『ききがき』は、「身近な人たちがそれぞれの時代をどのように生き抜き、また、次の世代にどのような思いをつなごうとしてきたのか、それを書き残しておきたい」という切なる思いを出発点に、語り手の話にじっくり耳を傾け、語り手に代わって「その人なりの自分史」を遺す活動です。
活動の担い手である「ききがきすと」は、話をしたいという方のご意向を受け、伺ったお話を手づくりのA5判冊子にするなどの形で、庶民の歴史として遺すお手伝いをします。
歴史は賢人や偉人だけが創るものではなく、市井に生きる普通の人々の生きた歴史も、日本の、世界の宝です。「ききがきすと」の私たちが大切にしているのは、語り手と聴き手が「聞いてくれて、ありがとう」「語ってくれて、ありがとう」とお互いに感謝の気持ちとなる一時です。
私たちのききがき活動の目的は、大きくは次の3つです。
1. 傾聴により語り手に生じるいやし。さらに冊子にすることでその記憶
を鮮明にし、生涯の心のよりどころの一部にしていただく(個人対象
のもの)
2. 個人の体験の持つ社会的意義を改めて書きとめることで、将来への警
鐘、参照にしていただく(社会対象のもの)
3. 過去の話を今に伝え、未来に遺す=時をつなぐ意義
「ききがきすと」の名称は、当会の前身である「NPO法人シニアわーくすRyoma21」が2011年に商標権設定登録し、2021年にはその更新登録を行っています。今回の新Ryoma21発足にともない、「ききがきすと」の商標権は当会理事長である豊島道子に移転されました。これからも、ききがきすと養成講座を修了した者は、🄬マークを付した「ききがきすと」の名刺を持ち、「ききがきすと」として活動していきます。
posted by ききがきすと at 15:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | ききがきとは | |
posted by ききがきすと at 15:33 | Comment(0) | ききがき作品 | |
はじめに
私(清水正子:ききがきすと)と語り手 アイマコスとの出会いはガーナのケープコーストという街です。
2年ほど前、ガーナに滞在する機会があり、そのとき読んだインターネットの記事に『ガーナで活躍する女性たち』という見出しがあって、アイマコスは米国で手掛けていた仕事をやめてガーナに「帰ってきた」ひととして紹介されていました。
しかもケープコーストという歴史の長い土地でホテルを開いているという説明です。早速観光局に手紙を書いて紹介してくれるよう依頼すると首尾よく連絡がとれて、滞在していた首都アクラから200q離れた土地へと心勇んで出かけたのです。
ギニア湾に面した海岸の街へ着き、まずケープコースト城を訪ねました。ここは、反ヒューマニズムの意味で世界遺産に登録されており、貿易の拠点であり奴隷収容所でもあった場所です。その悲惨な説明を聴きながら城塞の内部を見て回った私は、絶句するばかりでした。
表紙の写真のとおり、城は音たてて荒波が打ち寄せるギニア湾に突き出た場所にあり、黄金や奴隷を積み出すのにこの上なく便利な立地だったのです。15世紀から19世紀前半までヨーロッパ各国はこの城の他にもガーナ海岸に20か所以上の砦を築き、植民地をめぐる覇権争いのため攻防を繰り返しました。
ただし「便利」というのは欧州諸国の軍人、貿易商にとっての意味です。この中に奴隷として閉じ込められた日々を想像すると、それだけで真っ暗な気持になりました。平和な暮らしから突然囚われの身となり、くびきに繋がれて長い間歩かされたあと、窓が高所にひとつしかない穴蔵のような部屋にギュー詰めに押し込められて何か月も過ごす。
そして奴隷運搬船が着くと、船底の棚にしばりつけられて寝たまま苦しい航海をし、その先は奴隷として買われて一生働かされる。そんな自分たちの運命を思い、どんなに絶望的な気持であったか想像にかたくありません。反抗的な囚人を餓死させるための部屋の扉には、ドクロのマークがありました。
打ちのめされた気持ちで見学を終え、再びクルマに乗って10分くらいで、訪問先のホテルに到着。しかし約束してあった アイマコスはおでかけで、ホテルの前庭にすごい波音で打ち寄せるギニア湾の海と、敷地のヤシの木の実をさおで落とす現地の人をぼーっと眺めて待ちました。
やっと帰ってきた彼女に、突然「あそこにミュージアムがあるから見て頂戴」と言われて訪ねたのが、タイトルでもある「記憶の壁博物館」です。これは10年ほど前に アイマコスが今は亡き夫とともに集めた写真を壁いっぱいに展示した自宅の一角を,そのまま資料館としてオープンしたものにすぎません。
さっき見てきた城塞の恐ろしい姿がしっかりと根をおろした私の心に、人間を奴隷という存在におとしめて、その人生をふみにじりながら繁栄した世界の実体がしみいるように理解され、逆にいかに黒人が人類の祖として誇らしい存在であるか、という アイマコスの主張に圧倒されて見学を終えました。
欧州各国がガーナ海岸に点々と築いた数多くの城塞。その中のケープコースト城とエルミナ城を湾の向こうににらみつけて、「二度とそんなことが出来ないよう、見張ってやる!」という心意気、これこそが、彼女がガーナに帰って、この土地を永住の地に選んだ理由なのです。彼女は「アフリカの黒人」とか「米国の黒人」という言い方はしません。「黒人」は人種でも国籍でもなく、ただの肌の色に過ぎない、アフリカにルーツを持つ人間は、世界中どこに住もうが「アフリカ人」だという主張なのです。
アフリカの人々の歴史民俗資料館としては、公の機関がもっと立派な公開の場をつくっているのかもしれません。しかし、 アイマコスという誇り高いアフリカ人が心を込めて公開に供している、この「記憶の壁博物館」を訪れることができた自分は、なんという好運に恵まれたのだろうと思うのです。
彼女の語りをビジュアルに補足する写真や絵をすべてここに掲げることができないのは残念ですが、館内に満ち満ちた「アフリカ人」の情熱を少しでも感じていただけたら、眼の回るような日程でこなしたインタビューの成果として、心から嬉しく思います。
ききがきすと・清水正子
ようこそ「記憶の壁博物館へ」
アフリカの人たちの記録――「奴隷売買の時代から現代まで」
この博物館は、アフリカ人ばかりでなく、世界中の人たちにアフリカの歴史を分かってもらうためにつくりました。ガーナも含めアフリカ諸国では、アメリカで生まれた一般のアフリカ人については知られてなくて、あっても間違った知識ということが多いの。
アメリカ生まれのアフリカ人自身でさえ、この博物館に展示された事実に触れたこともない人が圧倒的ですね。だから、この私設博物館にはできる限りの情報を集めました。規模は小さいけれど、奴隷売買の時代とそれ以降にアフリカ人がこうむった運命を少しでも知らせたい、というのが私の願いです。
家畜なみに扱われたアフリカ人
アフリカ人が北米、中南米に連れ去られたあと、どんな仕打ちを受けたか。この写真はオークション会場。町中に貼られたポスターがこれで、「黒人売ります。コットンと米の耕作用」。アフリカ人はここに連れてこられ、競りにかけられ、高値を付けた人間に買い取られた。
また、クー・クラックス・クラン団の手にかかることも…白いシーツを着た白人が私たちを脅迫し、生きたまま火を点け、殺し、強姦し、あらゆる残虐非道なことをしたのね。この写真は、農場でサトウキビを刈るアフリカ人がキビをかじらないように、顔に鉄格子のお面をかぶせたものよ。
「ニグロ売ります」「ニグロ在庫あり」の張り紙の実物がこれ。これを見た人がやって来てニグロを検分するわけね。例えばこの一枚には「ハムステッド州のスプリングヒルで競売開催、クレジットも可」と書いてあって、即金でなくても12か月の月賦で奴隷を手に入れることができたんだから。この横のポスターは「上物の9人の男と少年、12歳から27歳。洗濯と料理上手な43歳位の女」とうたっているもの。
ここにある写真は虐待されたアフリカ人…。背中に付けられた刻印は入れ墨ではないのよ、ムチで打たれてこうなったの。その傷に塩をすり込んだから傷口は治るどころか反り返って、こんなケロイドとなって残ったわけ。こうした数々の残虐なことが行われたのね。ここにも「黒人競り売り」の看板があります。今まさに売られようとしているアフリカ人の写真を見てくださいな。こんなアフリカ人の歴史を知ることこそ重要で、奴隷問題の真実を世界中の人たちとシェアする必要があると思うの。
私の神殿
このコーナーは先祖を祀るもので、私の「神殿」ね。ここに置いてある石はあの奴隷収容牢獄の壁から削り取られたもので、私は“涙の石”と呼んでいます。現在壁はきれいに削られてセメントと塗料で白く塗られています。あれはただの修復作業。伝えるための保存ではないわね。1993年にエルミナ城とケープコースト城でなされた工事で、遺跡の原型は失われてしまった。私はこれに抗議して「黒人の歴史を白塗りにして消し去るのか?」という論文を発表してやったわ。
アフリカ人先祖への鎮魂
このコーナーは、アメリカで生きて死んだ先祖への鎮魂なの。1995年、ニューヨークのフェデラル・プラザの跡地に高層ビルを建てるため、敷地を掘っていた作業員が一体の遺骨を発見、そこで掘り進んだところ500体を越える遺骨が出てきた。つまりこの地は墓地であったことが分かり、遺体はそのまま埋められたものや、箱や棺桶に入れて埋葬したものもあると判明したのです。
発掘後遺体はワシントンDCのハワード大学病院に運ばれ、検査の結果ほとんどの遺骨が、ガーナ、ナイジェリア、シェラレオネ、リベリア、ガンビア、ベニン、トーゴという7つの西アフリカ諸国のものと判定されました。
遺骨のふるさとが明らかになったところで、改めて埋葬が行われたのだけど、ガーナ出身でこの再埋葬に携わった若者は、棺桶を伝統的な民族の「アディンクラ」模様で飾ってあげたそうです。
*「アディンクラ」とは特別な意味をもつ伝統的な模様のこと(ghanaculturepolitics.com/より)
棺は地下祭室に収められ、この地下祭室が地面の下へ埋められて地上には低い丘が築かれたの。この写真にあるように、今では繁った木々や草花に彩られた丘に、さまざまな地下祭室が祀られているわ。ウォールストリートの高層ビルの下にはまだ20,000人を超えるアフリカ人奴隷が埋められているということだけど、この整備された墓地は本当に美しく、見る価値があると思うわ。ニューヨークを訪れる機会があったら、ぜひ行ってみてくださいな。
アフリカ人の才能――音楽、ダンス、そして文学も
展示はいろんなコーナーに分かれていて、ここにはボブ・マーレー、ビリー・ホリデー、エラ・フィッツジェラルド、ジェームス・ブラウン、といった歌手の写真が並んでいます。このニーナ・サイモンは米国の人種差別政策への抗議の歌を唄い、反対運動をしたため業界から干された人物。そしてマイケル・ジャクソン、ハリー・ベラフォンテは言うまでもないわね。
キャサリン・ダンカン、ジュディス・ジェイマーソンなどの舞踊家の写真もあります。皆米国の人種差別政策に抗議の声をあげたことで「共産主義者」のレッテルを貼られ、とくに大物のロブスンやボールドウィンはアメリカに居られなくなったの。
次のコーナーは、「偉大なアフリカの思想家」と呼ばれる人たち。自分自身奴隷であって、奴隷制度廃止論を唱え、奴隷制度反対運動のリーダーであったフレデリック・ダグラス、アフリカ人で初めて1967年に最高裁の判事となったサーウッド・マーシャル。ジョン・H・クラーク、財務大臣ウィリアムズ、ベン・ヨハナン博士。学者としてはポール・ロブソン、ラングストン・ヒュー、ジェームス・ボールドウィンなどの顔もあるでしょう?
そして私の夫ナナ・オコフと7歳になるひ孫のナナの写真がこれ。夫のナナと私は、1990年に同じアフリカ観をもってガーナに来たわ。私は彼を偉大なアフリカ思想家のひとりと言っています。残念なことに2000年に首都アクラで交通事故のため亡くなったけど、ナナのことは心から誇りに思っています。
注:ナナとは尊称で、当地の人に推されて首長となったためこの名称で呼ばれる。
米国社会で頭角を現した女性たち
初めて国務長官になったC・ライス、初めて国会議員になったB・ジョーダン、学校を創立したM・ベシューン。どの女性も誇らしいけど、ベシューンは白人が捨てたゴミを5ドルで買い取って、それを元手に現在あるベシューン・クックマン大学を創設したひとなの。
ここにあるのは、アフリカ人のパイロットたちの写真よ。「ツキギー・プロジェクト」から生まれた英雄たち。アメリカ合衆国はアフリカ人(黒人とも呼ばれたけど)が飛行機のメ ンテナンスはもちろん、操縦など絶対できないと考えていた。米国人は私たちアフリカ人が、精神的にも肉体的にも飛行機を扱う素養がないと考えていたの。そう、彼らは私たちの能力を否定していた。
ところが1941年に米国議会の正式な要請によって、合衆国戦時局が米国南部アラバマ州のツキギーに、後に伝説となるパイロット養成機関「ツキギー実験機関」を創設して、ここに全員が黒人である「オールブラック部隊」が結成されたわけ。これより前には、軍のパイロットにはただのひとりも黒人はいなかったそう。
1941年から5年間、ツキギーで992人が訓練を受け、そのうちの445人が海外に派遣されて、150人が戦死しました。この人たちはほとんどの白人パイロットよりも腕が立ち、あらゆる点で優れていたそう。
当時アフリカ人に供与された飛行機のコンディションはひどいもので、飛行機がバラバラにならないように噛んだチューインガムで接着していた、と言われたぐらいなの(笑)。こんな状態が長く続いたけど、最後にはちゃんとした飛行機が供与されたそうよ。よかったわ。
けれど、空軍として無敵の活躍をした約300名のメンバーに、合衆国が「議会名誉勲章」を授与して栄誉をたたえたのは、残念ながら、やっと2007年になってからのことでした。もうほとんどの隊員は亡くなっていて。だからこのコーナーは「ツキギーの空の男たち」にささげたものなの。
このように空を飛んでいた頃の写真、そして老後の姿もあわせて展示しています。彼らが実際に操縦していた飛行機の写真も、機体に残した自筆のサインの写真もあるの。そう、わたしは隊員たちをものすごーく誇りに思っているわ。こういう本物の歴史は皆に知ってもらいたいから、これからも写真を手に入れ次第展示に加えていくつもり。
そしてアフリカ大陸にも―――アフリカのリーダーたち
この壁一面はアフリカのリーダーたちの写真です。アフリカの女性で初めて大統領になったリベリアのエレノア・ジョンソン。それから私が会ったジンバブエのムガベ大統領、南アのムベキ大統領、ガーナのローリングス大統領、ジョン・ク フオ大統領にもジョン・ミルズ大統領にも会いました。
米国に居たときは大統領に会うどころか近づくこともできなかったけど、ここアフリカでは大統領と握手し、座っておしゃべりもしたものです。だから私はアフリカが好き…いえアフリカを愛しているということね。
*写真はエレノア・ジョンソン 大統領就任式で
心ふるえる画 「奴隷貿易」
この絵は、14歳の少年の作品で、アフリカ人が村から誘拐され、鎖にしばられ、数珠つなぎにされて何百マイルも歩かされ、地獄のような奴隷船に乗せられてアメリカに連れていかれる場面を描いたもの。もう一枚も彼が「大西洋アラブヨーロッパ奴隷貿易」を描いたもので、この画家の才能を物語っているでしょう?
彼はいま首都アクラでグラフィックアートの世界で身を立てようとしています。この才能を支援したいなぁと思っているところ。もし作品を見る機会があれば、彼がディズニーと同レベルの腕をもっていることが分かると思うわ。いや、もっと上かも。スポンサーか支援者を見つけるのはむずかしいかもしれないけど、彼は一生懸命努力しているところね。
アフリカの子どもたち…その明るい笑顔を伝える
この壁にはアフリカの子どもたちの姿が集めてあるの。アフリカの子どもたちの紹介記事や写真は、たいてい戦争の最中のもので、餓えていたり、物乞いしていたり、口にハエがたかっていたり。そういう場面が多くて、アフリカ文化 に包まれた美しい姿や、幸せな表情を見ることができるものはほとんどないわ。
この有名な、瀕死の幼女とその死を待つハゲタカの写真を撮ったひとはピュリッツァー賞に輝いたけど、撮影の1、2年後に自殺してしまったわね。アフリカに関する報道はかならず悲劇的だったり悲哀に満ちたもので、本当のアフリカの姿をめったに発信してないのが普通だから、私はこの壁を幸せなアフリカの子どもたちに捧げたいの。
アフリカ人による発明の数々
――それを発見し世界に知らしめる
このコレクションはアフリカ人の発明を集めたものです。モップ、ちり取り、電球のフィラメント、ゴルフティー等々、すべて米国居住のアフリカ人が発明したものよ。私は、この写真の若い女性サラ・シャバスと協力し長い年月をかけてアフリカ人の発明品を探し、発掘してきました。サラは移動博物館の学芸員で、カリブ諸国、米国、ヨーロッパ、アフリカを回って、こういう情報を発掘し、発明者が暮らす国の人にも海外にもこの事実を発信してきた女性なの。
そうして集めた資料は500点にものぼり、発明者と発明品の等身大の写真がコレクションに収まりました。何年か前の調査では、ワシントンDCの特許・商標局に登録されたアフリカ人による発明登録は7,000点超だったけど、現在では確実にこれよりずっと多くなっていると思うわ。
アスリートたちの抵抗
このコーナーはアスリートの紹介です。米国メジャーリーグ初のアフリカ人選手ジャッキー・ロビンソン、ご存じのテニスコートの女王ウィリアムズ姉妹など。 そしてモハメド・アリ。元の名をカシアス・クレイと言いますね。
米国が彼を戦場に送ろうとしたとき、アリは「ベトナム人はだれも俺を“黒い奴”と呼んだことがない。もしベトナム人がここにやってきたら、俺は戦うさ。でも俺のほうからあの国に行くことはしない」と答えた。それで米国は彼からチャンピオンベルトを取り上げたわけ。
だけどいくらベルトを取り上げて5年間試合出場禁止にしたところで、彼が私たちのヒーローであることには変わりがないのよ。
メダルを賭した抗議
ここにあるのは1968年のメキシコオリンピックのときの写真です。このふたりはオリンピックの金・銅メダリストで、表彰台にあがったときの姿は、靴を脱ぎ、黒いソックスに黒い手袋をしていて、米国の人種差別政策に抗議する姿勢をアピールしたの。結果はメダル剥奪と国外追放でした。仕事にもつけないよう、本当にひどい扱いをしたのです。
注:世界記録で優勝したトミー・スミスと3位につけたジョン・カーロスが行ったこの「ブラックパワー・サリュート」は、近代オリンピックの歴史において、もっとも有名な政治行為として知られる。(ウィキペディアより)
米国の統合政策(学校への入学を人種の比率で割りあてるなど)は在米黒人に一番悪い結果をもたらしたと、私は思っています。差別は同じように残り、隔離された平等という社会になっただけ。だけど平等といっても白人は何もかも所有し、私たちには何もなし。あったとしてもごく僅かという状態です。
むかし米国中で起こった黒人社会の隆盛は、アフリカ人ないし米国生まれのアフリカ人が集まって自分たちの社会を作った成果で“ブラックウォールストリート”という言葉まで生みましたが、そこに白人がやって来て何もかも破壊したのです。懸命に働いて作り上げた銀行、教会、学校などあらゆるものを羨んで壊し、多くのアフリカ人を殺し、空から爆弾を落とすことまでやったのです。私たちは米国内で爆撃をうけた唯一のコミュニティですね、これが1921年に起こったことです。
注:20世紀初頭、オクラホマ州タルサのグリーンウッドは、当時、最も繁栄した、アフリカ系アメリカ人の裕福な街だった。白人との取引関係が一切ないこの商店街は、1910年の石油による好景気でさらに活発となり、やがて“黒人のウォール街”つまり「ブラック・ウォール・ストリート」と呼ばれるようになった。これを目にする白人系住民の差別感情、嫉妬心は爆発寸前だった。「タルサ暴動」として記録される暴動が発生したのは、1921年の5月31日と言われている。破壊されたのは、21の教会、21のレストラン、2つの映画館、30の食料品店、病院、銀行、郵便局、図書館、学校、法律事務所、バス、民間飛行機も。また黒人所有の飛行機が盗まれ、空から爆発物を投下するのに使われたとも言われている。(ウィキペディアより)
何事も成功に至るには、お金がかかります。他国の人間がやって来て資源をほとんど持ち去り、わずかなものしか残していかなかったとしたら、盗られた国の人間は生き残れると思いますか?それは本当に難しい、そう思うでしょう?
これが私たちの国アフリカに起こったことなんです。だから、いまだに私たちは経済のランクでいうなら最貧状態で、底辺にあえいでいる…これは私たちが知的レベルで劣っているからではない。この写真の少年は、子宮摘出の手術用に縫合器具を発明したのです、わずか14歳で。医者でもなんでもない普通の少年がですよ。資源ばかりでなく、奴隷売買のために人間が連れ去られることがなかったら、アフリカの国々は多くの才能を花咲かせて遥かに繁栄していたことでしょう。
アフリカこそが人類の起源
このコーナーは私の大好きなエジプト…その歴史はヌビア人としてのアフリカ人の歴史でもあり、エジプトではアフリカ人ではなくヌビア人と呼ばれています。墳墓に祀られた人たちは明らかにヨーロッパ人ではなく、多くが私たちアフリカ人の面影を宿していて、この有名なネフェティティ像も、ヨーロッパ人でもアジア人でもなくアフリカ人そのものの顔立ちでしょう?
私は経営しているホテルの各部屋のインテリアとして、アフリカ人歴史家のことばを飾っていますが、そのなかのジョン・H・クラーク博士のことば「わたしはピラミッドより老齢であり、人種そのものより歳を重ねている」は、「わたしは子孫ではなく先祖なのだ」という意味なのね。
人類の一番古い種は、ここアフリカの大地で発見された、つまり私たちアフリカ人はそもそもの初めからここにいた。そうして強大な力を持った王と王妃がいた。それがエジプトの歴史であり、さまざまな王朝が生まれたけれど、すべてアフリカ人が興したもので、これが3~4,000年も前にあったことだったんですから。
キリスト、そしてマリアの本当の姿は黒い肌だった
ここはキリストのコーナ。キリストがアフリカ人だったことの説明です。聖書や古書を読めばジーザスと呼ばれた「人の子」の説明があり、黙示録第一章に彼の髪は子羊の毛のようであり、濃い黄銅色、オーブンで焼かれた真鍮のような色であると表現されています。でも、この説明に沿った絵はまったく描かれることはなく、常に白人のイエスが茶色やブロンドの髪の毛で登場しているのです。
そこで私の夫が自ら、本当のイエスの姿をカレンダーに描いて『イエスは黒い肌のアフリカ人だった』と主張しているのがこの作品です。
ちょっと離れた、この壁にもアフリカ人のマドンナの肖像が掲げてあるでしょう?これが私たちの理解するマリアです。さきほどキリストのことでも説明したように、聖書の描写にきちんと基づいて描かれると、マリアはアフリカ人なのです。
博物館展示を見終わって
“敵はいつも二度殺す。二度目は無言で”
このことばは、ガーナでUNESCOが主催した「奴隷ルート会議」で配布された冊子に書かれていました。ガーナをはじめとするアフリカ諸国で、外国人がわずかな代金と引き換えに鉱物資源や土地を搾取していることの告発です。そう、私たちは一度殺されたうえに二度目(いま)も静かに殺されているようなものなのです。
ルーシーという命名に見られる西洋の傲慢
アフリカのナイル川沿いの谷で女性の遺骨が見つかったとき、発見者はそれをルーシーと名付けたわ。これを見ても西洋の人間がどんなに傲慢か分かるというものです。遺骨は古いアフリカの層でみつかったのよ、だれでもルーシーでなくてアフリカの名前を付けると思わない?ルーシーなんて、その遺骨の女性にはなんの関わりもないもの。
ハリケーンについてもそう。ハリケーンはアフリカの海で生まれて、奴隷船が通ったルートそのままにアメリカに向かう。ぜんぶアフリカ生まれのハリケーンなのに、トムとか、ジョージ、メアリー、シンディなんて名付けられる。そうじゃなくてコフィ、アマ、クヮベナみたいなアフリカの名前にすべきでしょう?なのにそれは絶対に無くて、みんなアングロサクソン系の名前よ。
「黒人」ではない--―大切な存在の私たち「アフリカ人」
白人は、肌の色や服装や宗教が自分たちと違っているというだけで、アフリカ人を劣っていると言うの。米国では「ブラック・アメリカン」と呼称されるけど、ブラックは肌の色に過ぎなくて人種や国籍を意味するものじゃない。どこで生まれようと、どこに住もうと、私たちはアフリカ人ですもの。
こういう西欧人の傲慢さはあらゆる点に見られるわ。そこで私たちは何をすべきか・・・私は世界中に訴えるなんてできないから、自分なりに発言するだけ。おのれを知り、自分の大切さを知ることが重要だと思うの。私たちはこの世界で大切な存在なの。もし自分が取るに足らない存在だと思ったら、他の人を尊敬することもできるはずないでしょう?
なかには「私は取るに足らない人間で、この世のつまらない存在です」なんて言う人がいるけど、私は「自分はアフリカの母、大地の女王よ」と応えるわね。私の名前アイマコス(IMAHKÜS)のIは神とともにある私、Mはマザー、Aはアフリカ。だから私はアフリカの母というわけ。もちろん、そんなこと知らない人のほうが多いかもしれない。でも関係ないわ。
大好きなアフリカに帰って
そもそも夫と私を、ガーナ訪問のグループ旅行に誘ってくれた人はナナ・オサバリンバ5世というこのケープコーストの王様なの。彼は王位を継ぐために米国からガーナに戻った人で「私たちはアフリカの子どもたちであり、アフリカに来るべきなのだ」と言い、その通り私たちはアフリカに来ることになったのね。いわば私たちの父のような存在なので、彼の写真もここに掲げてあるのよ。
まぁそうはいっても、これはガーナに来る動機の一部であって、私は米国が好きじゃなくて、ほんとアフリカが大好き!これまで本を3冊出したけど、一番最初が「故郷に帰るのは生易しくない…でも、こんな幸せなことはない」よ。たしかに生易しくなかったわね。試練につぐ試練だったけど、後悔はしていません。この本の表紙の写真は、ココナツの木の間につるしたハンモックに寝そべって、人生を謳歌している私。そして夫がかたわらにいて…2人とも幸せいっぱいに生活を楽しんでいる光景にしたわ。
とにかくアフリカに住みたい!
1987年にひとりでガーナを訪れ、すっかり魅了された私は、その年の末の夫の誕生日に航空券をプレゼントしてひとりで旅してもらい、1988年、89年と今度はふたりでガーナへ行きました。この三回目の旅の終わりに夫は「みんながボクをチーフ(地域の王様)にしたいそうだ。王様になるってどういうことだと思う?」と私にたずねたのです。エルミナの村に滞在中、住人が抱えた問題の解決に手を貸したりして、皆が彼のチーフ就任を願ったと言うのです。こうして彼はチーフの座につきました。
私たちは当時ニューヨークで旅行代理店とタクシー会社を経営していました。3週間も他人に留守を任せていたので、私は夫のチーフ就任式のときまで居続けることはできず、「あなたがアメリカに戻る前に、どこか住むのに良い土地を見つけておいてちょうだい。海沿いがいいわ。山から海を見下ろすのはイヤだし海岸に暮らすのも好きじゃないな。海から少しあがったところで、毎日海を感じ、海を見、香りをかいで、海岸まで歩けるような場所を」と頼みました。彼は笑いながら「いいとも、海沿いの土地をさがしておくよ」と約束してくれたんです。
チーフになってアメリカに戻ってきたとき「土地が手に入ったよ。チーフになったら、村の人たちがくれたんだ」と言うではありませんか。なんとその土地とは、私が1987年にひとりで訪れたとき、心から住みたいと願って神様や仏様、あらゆるスーパーパワーに頼んで(笑)念じていた場所だったんです!この美しい海のそばの。そして1990年にやっとガーナへの永住が実現しました。私はここにホテルをつくり、毎日しっかり対岸の奴隷城塞をにらみつけ、二度とあのむごい奴隷売買が起こらないよう監視することにしたの。
私はこれまでずっと好きなことをやってきて、ラッキーだったと思うの。ここガーナという小さいけれど「ひとつのアフリカ」という、私にとってのパラダイスに居られて幸せ…先祖からの贈り物よ。
posted by ききがきすと at 17:28 | Comment(1) | ききがき作品 | |
恋して結婚した両親
私は、高知県の北部中央、山に囲まれた土佐町の相川(あいかわ)、床鍋(とこなべ)というところで生まれました。父は西村兵喜(へいき)、母は森岡ときえといいます。二人は22歳のとき、昔のことではあったけれど、恋愛して結婚したんです。そう聞かされました。
父は、お膳を作っていたの。食事のときの箱膳とか、懐石のときにつかう膳ね。それです。母は紙を漉く仕事を、父の仕事場のちょうど川向でしていたそうです。川を挟んで、「おーい、元気かよ」というふうに声をかけあっていたんでしょうね。
結婚しても貧しかったと思いますよ。二人で一緒に、一から始めたんやからね。嫁ぐときに、母は祖父から、箪笥を一棹とお金をいくらか持たせてもらったそうです。でも、それだけ。父は次男坊で、そのお膳をつくるところへ奉公に来ていて、母と恋して一緒になったんですよね。
子ども時代はゆっくりゆったり
二人が24歳のとき、大正10年8月24日に、私は長女として生まれました。上には兄が1人おり、その後、弟妹5人が生まれて、兄弟姉妹7人。子どもが大勢で、親は貧乏しましたよ。でも、子どもの私たちは、ゆっくりゆったりしたもので、自由気ままに遊んだわ。
家がお膳つくりの仕事でしょう。母も、その頃は父を手伝って、漆を塗る仕事をしていました。だから、きれいな手仕事でしたよ。お百姓はしてなかったので、私たち子どもが、田畑へ行って手伝うなんてこともありませんでした。
私たちの頃は、お弁当を持って学校へ行きましたよ。山の子どもたちのお弁当には、お米の中へ粟や稗なんかの雑穀が入っていたのを覚えています。それを見られるのが恥ずかしいから言うて、裏山へ行って食べる子もいましたよ。
私の家はお百姓をしてないから、お米のご飯でしたけどね。それは貧富というのじゃなくて、親の仕事の関係なんですけどね。少しの土地でも田畑にして、土もつれになってやらんといかん時代は、もう少し後、戦争の足音がもっと確かになってからでしたね。
大好きだった兄の思い出
兄の淳一(じゅんいち)は、私より一つ上でした。東京で薬局をしている、母の姉がいて、暮らし向きはよいけれど、子どもがなかったの。そこへ欲しいと言われて養子に行ったんです。
兄の淳一さんと
子を産んだことのない伯母が安易に考えて、小学校を出たばかりの兄を連れて行ったけれど、田舎の子が都会の生活に慣れるのは簡単ではなかったんですよね。兄には辛いことが多かったようです。
馴染めなかったというだけでなく、伯母のところで兄は小使いのように働かされたとも聞いています。学校へやってくれるという約束も守られなかったからと、結局、兄は伯母の家を出ました。友達の家を転々として、軒下を借りるような苦労を重ねながらも、頑張り屋の兄は逓信省へ入ることができました。逓信省で勤めながら、杉並工業という学校(*後述1参照)を出ました。
その後、中国の大連にあったタイカ工業(*後述2参照)という大きな会社へ就職したんですが、1年後に召集されて、高知へ帰り朝倉の連隊へ入りました。そして今度は兵隊として満州へ渡ったんです。そこで風邪を悪化させて病死しています。満州のコリン(※後述3参照)というところでした。本当にいい兄でしたけどね、24歳で亡くなったんです。亡くなったときは上等兵でした。
東京で看護婦学校へ
私も学校がすむと、伯母を頼って東京へ出たの。きっかけは、婦人クラブのグラビアを見たことでね。陸軍病院だったか、赤十字病院だったか、看護婦の一日というのが写真で出ていたんです。それを見て、私は「いやー、看護婦やりたい」って言ったのね。とにかく看護婦になりたいって気持ちが高じて、東京へ行きたいとなったんです。
もちろん親は賛成しません。特に母親は大反対でしたよ。昔の看護婦というと医者のお妾さんだったりするって、田舎には、そういう噂もあったんです。だから、母には「家で、普通の娘さんのように裁縫でも習ったら」と言われました。
だけど、東京の伯母が若い頃に助産婦さんの学校へ入って、資格を持って仕事していたので、自分も何かそういう関係の仕事がいいと考えました。自分でなんとかしなくちゃいけないという気持ちもあったんです。
それで、上京してまず、逓信省を受けました。兄が逓信省に行っていたから、やっぱり私も固い仕事をしたいと考えましたから。でも、ダメでね。それで、やっぱり看護婦になろうと、試験を受けました。それで、神田神保町というところの看護婦学校へ行くことになりました。
その後すぐに大きな病院へ入れたので、私には兄のような苦労はなかったですね。東京での看護婦時代のことは、話すだけでも大変なくらい、いっぱいいろんなことがありましたよ。
でも、昔のことで、こんがらがっちゃいますね。まぁ、なるようになったと思うのよ、この年までね。
焼夷弾の東京から故郷へ
もうそろそろ引き上げて故郷へ帰ろうかと考え始めた、ちょうどそのころ、東京では空襲がどんどん激しくなっていました。昭和20年、焼夷弾が降り始めた東京から帰郷したとき、私は23歳になっていましたね。
看護婦時代、友人と(左が敏子さん)
帰郷早々、忙しいので是非にと依頼され、私は高知市内の病院で看護婦をしていました。でも、土佐町の役場から、今度は保健師になってほしいと頼まれたんです。町に保健婦を置かないと農業協同組合の活動にも支障がでるとか言われて、保健婦になれと矢のような催促でした。
昔はとにかく結核が多くて、私も肺浸潤みたいになって、咳が出ていました。だから、保健婦は嫌だと一度は断ったんですが、保健婦がいないと困るからと説き伏せられて、とうとう保健婦の試験を受けることになりました。
ほんの45日間くらいの講習を受けての試験だったんですけど、私は本当に具合が悪くて、最初はダメでした。何回かやって、そのうちに合格し、正式に保健婦になりましたね。
すぐに家庭訪問をしましたよ、保健婦としてね。赤ちゃんや、産後のお母さんのところへ行ったんです。救護班として高知市の方へ行ったこともあります。
空襲を受けてボンボン燃えゆうところへも、私たちは消防団の救急班として入りました。肩に救急袋をかけてね。大きな大きな倉庫へ、じゃーじゃー水をかけるなんてこともしましたよ。煙が出ると飛行機の的になるから、できるだけ早く消火する必要があったんです。保健婦だったからそういう仕事もしました。
高知空襲のときは、恐ろしいなんて気持ちはなくなっちゃってね。子どもを抱っこしたまま防空壕で亡くなっている人もいるし、鏡川の淵には死体が山と積まれてあるしね。「土佐町の救護班として来てるんじゃからね、他のどこへも行っちゃいけない」って言われました。だから、どこへも行かないで、そこで一生懸命救護活動をやりましたよ。
お見合いをして結婚
結婚は早い方じゃなかったですよ。友達とは「あんな人と結婚したい」とか言いながらもね。保健婦になって家庭訪問をするようになって、南川(みなみがわ)というところの学校を訪問することがあったんです。
校長先生が「あなたは、どちらの出身ですか」と訊かれるので、「土佐町の床鍋です」って答えました。それが主人との縁を結ぶことになったのです。その校長先生が、主人の姉の亭主だったんですよね。
花嫁姿の敏子さん
お見合いをして、結婚しました。主人は、私より6つ上の31歳、私は25歳になっていました。
主人は、なかなかのりこもん(土佐の方言で利口者のこと)でしたよ。私は、自分は知能も器量もたいしたことないと思っていたので、『頭のいい人』というのが結婚相手への条件でした。主人は、頭良かったよ、本当に。
主人は、女の中に一人きりの男の子でね、大事にされて育ったんです。なかなかしゃんとした人でした。お巡りさんになっていたんです。でも、戦争から帰ってからは、役場とかあっちこっちから「来てください」って頼まれても、「もう嫌じゃ」言うて断りました。「あの嫌な戦争をしてきて、もうたくさんじゃ」と言って、職には就かず好きなことを自由にやったんです。
居合やったり、剣道やったりね。だから、結婚しても、百姓をするのは少しだけで、現金収入はほとんどなかったですね。部落長の役をはじめ、なにかしら公のことはどんどんやったんですよ。お金にはならないことをね。
主人とニューギニアでの戦争
人や部落のお世話役っていうのを主人はずっとしました。戦争では、ニューギニアの方へ行ったんです。あそこでの戦いは本当にひどかったですからね。だから、自分が職に就くことよりか、もっと人の役に立ちたいという思いが、いっぱいあったんですね。部落のこと、町のことにね、腐心してやったわ。お金はもうないけどね、みんなに好かれてね。
私たちは、戦後すぐに結婚したでしょう。兵隊に行っていた人たちが、うちへ集まって、あそこで、ここでという戦争のときの話はよくしていましたね。友達がいっぱい来て、いつでもそういう話でしたねぇ。私にも戦争のことをよく話して聞かしてくれましたよ。でも、私はゆっくりは聴けないし、覚えてもなくて、戦争のことでお話しすることはありませんね。
主人は写真屋をやったこともあったけれど、それよりなにより、公益のことをうんと考えて、人のためになることをうんと熱心にやったねぇ。まぁ、男前やし、頭はいいし、他人のことをしっかり考えられる人で、いい人でしたよ。けんど、経済ということを除けての人でしたから、私は、やっぱりね、男性として見るには、腑に落ちんところはありました。
子育てと仕事の日々
子どもは3人います。女が一人と男が二人ね。長女の節(せつ)が一番上で、昭和22年10月26日に生まれています。その下の長男が24年2月16日に。主人が清(きよし)なので、清人(きよと)と名付けたのよね。次男の正根(まさね)は26年11月1日に誕生しました。それがね、みんな誕生日が木曜日なのよ。私も、ね。なんだか不思議でしょう。
結婚して、10年は家で子育てをしました。その間、主人はちょいちょい農協へも勤めたりはしましたけど、なかなかお給料もいただいてこないのよ。困った人がいればあげるような人でしたからね。終戦後でみんなたいへんだったでしょう。生活に困るような人がいればあげたいのよね。自分ところはお米もあって何とでもなると思っているの。経済に執着する人ではなかったんです。
だから、子育てが一段落したら、私が就職して、勤めなくてはしようがないと思いましたね。田畑があったから、えいっと思って、それを全部売り払って、主人には好きなように生きてもらったんです。
ご主人と仲睦まじく
私はまた、看護婦の仕事に戻りましたよ。本山の中央病院に20年いて、それから大杉の中央病院で10年、いや12年だったかな。生活の面では、私がやるしかなかったんですよね。苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ、やっぱりね。
看護婦として勤務した30余年
その頃の看護婦の仕事は、今とは全然違いますよ。我々のときは、結核が多かったし、赤痢や疫痢という伝染病も珍しくありませんでした。それに、昔は付添いさんがちゃんと患者さんには付いていました。国がそれを認めていましたからね。そこが今と全然違います。
今の看護婦は新しいことをどんどん勉強しなくちゃいけないでしょう。カメラはもちろん、いろいろ新しい機械もどんどんできるし、横文字も使えなくてはね。私たちが東京で看護婦やってる時代は、そんなことの勉強は必要なかっ
たんですから。
あの時代なりに、まぁ、私たちも、やることはやったよね。腸注って、肛門から栄養を入れるなんてことはやりました。注入したんです。口から食べなくなったら、今は胃に穴を開けてやるでしょう。それみたいに肛門から注入する。胃ろうも点滴もなかったですからね、昔は。静脈注射はありましたけどね。
まぁ、勤務した病院は、どちらも入院設備のある大きな病院で、もう点滴とか注射とか、そういうのは普通にしました。でも、今とは治療方法も違うし、今はもうついていけないと思いますよ。なにもかも、どんどん進歩してね。私なんか、横文字も知らないんですから。
ニューギニアへの最後の旅
主人は75歳のときだったか、戦友らのお骨を拾いにニューギニアへ行ったんです。なんとしてでも行きたくて、痛い腰を治療してまで、やっと行ったんですよね。ちょうどその頃、私も股関節で、たいへんな手術をしたんですけど、どうしても行きたいからって。ニューギニアには特別な思いがあったんでしょうね。
旧陸軍支給の鞄(岡内富夫さん作品)
でも、そこから帰るとすぐ、具合が悪くなって、入院したんです。なんとか退院にはなりましたが、もうずっと調子が悪いままでしたね。心臓発作を起こし、救急車で高知市の近森病院へ搬送されました。いったんは快方へ向かっていたんですけど、見舞客を送ったあとで急変し、心筋梗塞で亡くなりました。
あれほど気にしていたニューギニアへも、もう二度と行くこともできなくなって・・・。他にもやりたいことがあったでしょうにね。いろいろ本も書いているんですけど、何もかも昔の思い出になってしまいました。酒は飲まない人だったけど、タバコだけは吸っていましたよ、主人は、ね。
今の私の幸せ、これからの時代へ
夫が亡くなってからも、私はずっと本山で一人暮らしを続けていました。年金があるから、食べていくくらいのことは困りません。でも、90歳を過ぎた私のことを子どもたちが心配するので、3年前に高知市内のマンションに移ってきたんです。今は、次男と一緒に暮らしています。
長男はアメリカにいて、レストランをやっています。私はアメリカには行ったことはないけれど、向こうには孫も一人いるんですよ。
今日はたまたま、次男が家族のいる東京へ行って留守なので、こちらのケア施設にショートステイに来てお世話になっています。長女も私の近くにいてくれていますから、子どもらの世話になりながら、こうしてやっていけてます。
子どもらがこうして私のことを気にかけてくれて、ありがたいと感謝しています。だけど、子どものことになると、それは私の話ではなくて、他人の話です。子どもには子どもの人生がある。そう思っています。だから、子どもの話はこれくらいにしておきます。子どもらにも失礼になると困りますから。
私は、今、週4日はここのデイサービスへ来て、お風呂へ入れていただいたり、本当によくしてもらっていますよ。致せり尽くせりなの。ここは障害がある人がほとんどでしょう。昔は、家で看るしかなった、そういう人たちを、ここでは大事にしてくれます。本当に大変じゃなぁと思うけどね。
ここへ来て見ていると、みんなが老人を大事に大事にしてくれています。私たちは幸せじゃけど、次の時代はどうなるかわからない。国の介護保険や医療保険があって、やれているんでしょうが、老人がどんどん増えると、これもあれもはできなくなるでしょう。次の時代はどんなになるか、わかりませんね。今が続いて欲しい気持ちはあるけど、どんな時代にも、もう終わりというときはあります。それは仕方のないことですよね。
〈 参 照 〉
※1 杉並工業という学校:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。
※2 タイカ工業:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。
※3 コリン:詳細不明のため確認できず、聞き取ったまま『コリン』と記載。現在の中国東北部黒竜江省の虎林のことかと推測される。虎林は、ロシアとの国境近く、第二次大戦末期、砲声とどろく激戦地となった地でもある。
あとがき
和田さんとは、私たちNPO法人シニアわーくすRyoma21の高知支部メンバーが、この春から訪問させていただいている本山町の通所介護施設「デイサービス長老大学」で出会いました。今は高知市にお住いの和田さんが、たまたま本山町に帰られており、デイに来られていたのです。
戦病死されたお兄様のことや東京での若い頃のお話を伺い、もっと聴かせていただきたいと願ったことが実現し、この冊子につながりました。本当にありがいご縁であったと感謝しています。
和田さんは、この年代の方には珍しく土佐弁をあまり使わず、落ち着いた低いトーンで話されます。説得力のある話しぶりは、あの戦争を挟んだ大変な時代を、看護婦という専門性の高い仕事を持ちながら、子ども三人を育てる母として生き抜いてこられたからこそのものと思えます。
また、お話のそこここに、しっかり生きてこられた和田さんならではの言葉が散りばめられています。例えば、『苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ』というところ。思うようにものごとが進まず、自分の周りがなんともほの暗く見えてしまうときなどは、私も、この言葉を思い出して、顔を上げて歩こうと思います。
素敵なお話を聴かせていただき、本当にありがとうございました。
なお、相川の美しい棚田風景の表紙絵と、本文中の鞄のカットは、Ryoma21高知支部の岡内富夫さんに描いていただきました。彩を添えてくださいましたことに、心から感謝いたします。
(ききがきすと:鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 21:30 | Comment(0) | ききがき作品 | |
朝鮮半島の平壌に生まれる
私の父・岩城勲(いさお)、母・遊亀(ゆうき)は二人とも、ここ馬路村の出身です。父はたいへんな勉強家だったようで、住友林業という、今もある会社ですけど、そこへ入社しました。当時としては、高知の田舎から入るというのは珍しかったと思いますよ。
父の最初の赴任地は平壌(ぴょんやん)でした。朝鮮半島へと言われて、事前にしっかり勉強をしてから行ったと聞いています。私はそこで昭和7年3月25日に長女として生まれました。でも、赤ん坊のころしかいませんでしたので、残念ながら平壌のことは何も覚えていません。
次の赴任地となった咸興(かんこう)では、小学校卒業までの10年ほどを過ごしました。李朝の文化が残ったとてもきれいな街で、人口は6万人くらいだったかと思います。朝鮮半島が日本の植民地だった時代です。日本の会社がたくさんあって、日本人がたくさん暮らしていましたね。
小学校のことはよく覚えています。制服のセーラー服を着て通学していました。1学年に4組、一つの組に50人ほどの生徒がいましたから、千人を超える大きな小学校でした。建物もそれは立派でしたよ。
北朝鮮の冬はとても寒いんですが、私たちの家にはオンドルがあり、ストーブの火も赤く燃え、部屋の中は温かく快適でした。そこでの私は、のんびりと気ままに、まぁお嬢さんで、何不自由なく暮らしていましたね。
大東亜戦争が始まった
小学校4年生のときに、大東亜戦争が始まりました。初めの1年くらいは、ものすごい戦果で、勝ち戦の大本営発表に街中が浮かれたような感じだったのを覚えています。
昭和19年に父が、今度は清津(せいしん)というソ連との国境近くの街に転勤になり、私は、そこで女学校に入りました。戦争はだんだんと厳しくなり、もう誰もかれもが召集されるという状況で、39歳になっていた父にも召集令状がきました。若い社員の方は先にみな兵隊にとられていましたから、住友林業の広い事務所が年を取った男性と女性の事務員さんだけになり、寂しく心細く思ったことでした。
ちょうどその頃、私たちのところへ「事務所を貸してくれ」と言って、暁部隊という30人くらいの小隊がやって来ました。「どうぞ、使ってください」ということで、見ましたら、その兵隊さんらは武器を持ってないんですよ。鉄砲とか、そんなのもないんです。30人もおいでますのにねぇ。学校では、日本の国は神様の国であるから神風が吹いて戦争には負けないという教育を受け、私自身も信じていました。だけど、兵隊さんが武器を持ってないのを見て、子ども心にも『これは・・』と思いましたよ。
家に父が大事にしていた日本刀が2振りありまして、母が「よかったら使ってください」と差し上げたところ、隊長さんは喜んで持っていかれました。今思えば、その隊長さんは学徒動員。早稲田大学に在学中に動員され、こちらに来ることになったということでした。横浜の青木さん。お名前はそこまでしか覚えていませんが、すっきりした容姿のりっぱな方でした。
今すぐ一歩でも南に逃げよ
その青木さんが、8月の9日に訪ねて来られて、「岩城さん、これは秘密だから公言できないことだが、ソ連が戦争に加わった。ここに居ては危ない。今すぐ一歩でも南に逃げなさい」と、言われたんですよね。
母はもうびっくりして、必要なものだけ持つと、私たちを連れ、会社のトラックで清津の駅まで走りました。その時、もうすでに沖にはソ連の艦隊がずらっと並んで、艦砲射撃をしていました。大砲の弾を打っている様をどう見たのか聞いたのか、ただ夢中でしたね。
清津の駅まで行きますと、そこはもう黒山の人。とても汽車に乗れるような状態ではありません。でも、駅長さんが父と非常に懇意な間柄の方で、「岩城さんのご家族でしたら、何としてでも最後のこの列車に乗せないかん」言うて、窓から放り込んでくれたんですよ。人の上に人が乗ったような状態でしたね。
頼れる知人のいる咸興までなんとかたどり着いて、私たちは汽車を降りました。そして、そこで終戦を迎えたんです。咸興では、いわゆる難民としての生活でした。それまで辛いことが多かった朝鮮の人々に取って代わるように、今度は日本人の私たちが非常に苦しく辛い目にあうようになりました。
だけど、中には人のいい朝鮮の人もいましたよ。その時、一番上の私がまだ12歳。下に8歳、4歳、2歳と、家には女の子ばかり4人の子どもがいました。かわいそうだと思ったんでしょうね。黙ってこっそり食べ物を持ってきてくれたりしました。ありがたかったですよ。
そんな状態ですから、私は母の相談相手になって、しっかりしないと事が足りません。とにかく頑張りました。北朝鮮の冬は零下10度。吐く息で睫毛が凍ったようになる。それぐらい寒いんです。敗戦後の凍える冬、家族5人が1枚のお布団で、こう抱きおうて、お互いの体温で温め合って過ごしました。
38度線の突破を敢行
翌年の春が来て、ようよう暖かくなった頃・・5月になっていたかと思います。「ここに居ては飢え死にするだけだ。山に逃げよう。山道を南下して、38度線を突破するしかない」ということになりました。そのころは、すでに朝鮮半島の北と南を隔てる38度線が設けられ、行き来することはまったくできなくなっていたんです。
私たちは70人くらいの団体で、夜の闇に紛れ、山に入りました。「ソ連の兵隊は、若い女の人を連れて行って暴行する」と言われ、13歳になっていた私は、髪を切り顔へ炭をつけて、男の子になりました。母は2歳の香代子を背負い、味噌と米を入れた袋を腰へ巻いて・・・そうやって、私たちはみな、38度線を目指し、ただひたすら歩いたんです。
昼になると、私は米を鍋へ入れ、谷へ下り、米を洗いました。お水をいっぱい入れてご飯を炊きました。米が少ししかなかったですからね。お粥みたいなのを食べて、少し休んで、また歩いて。日が暮れたら、そこで野宿しました。
山の中で、道らしい道はありません。でも、同じように南を目指す人の通った跡があり、迷うことはなかったですね。中には、ぼろきれみたいなものを木の枝に結んで印をしてくれていたところもありました。
道中のいたるところに死体がゴロゴロありました。「連れて行って、連れて行って」って、すがるような、拝むような、そんな人たちもいっぱいいました。もう歩くこともできなくなって、行き倒れてしまった・・・・そんな人たち。あまり言いたくないことがたくさんあります。
私たちを追い抜いて行った若い人が、捕まって大きな木へ括り付けられて、叩かれているのも見ました。今でも忘れられません。叩いていたのは、ソ連兵ではなくて、朝鮮人の物取りみたいな人だったように思います。おいはぎみたいなものですね。
ようよう越えた38度線
38度線の辺りには歩哨って言うんでしょうか、見張りに立ってる人たちがいるんです。でも、「ここを越えたら」という思いでひたすら歩きました。そんな私たちをかわいそうにと思ったのか、ちょっと甘くみてくれたように思います。
板門店のあたりで、ようよう38度線を越えると、アメリカ人が来て何かしきりに話しかけてきました。でも、英語はわかりませんし、どうしていいのか途方に暮れたことでした。みなが一箇所に集められて、DDTという白い消毒の薬をかけられ、予防注射を打たれました。そこでもらった固い乾パンのこと、難民がそれはたくさんいたことなど、今も忘れられません。
それから、貨物列車に乗せられて、釜山まで。幼かった妹たちを母と二人して背負ったり、引っ張ったり、そうやって帰ってきたんです。その時の本当に辛かったことは、3人の妹たちも覚えています。
復員していた父との再会
召集されていた父は、終戦のとき38度線より南にいたんです。だから、難なく復員し、日本へ帰ってきていました。帰ってはきたものの、家族のことや母の苦労を思い、心配と気兼ねで居ても立ってもいられない気持ちだったろうと思いますよ。でも、どんなに気を揉んでも38度線を越えて北へ行くことはできなかったんです。父も和歌山県の田辺市で住友林業の所長をしながら、苦しい思いで家族を待ったと思うんですよね。
母は、4人の娘を抱えて本当に苦労の連続でしたけど、釜山では運よく日本に帰る船に乗ることができました。下関行きのはずが、船中に伝染病の方があったため、着いたのは仙崎港という小さな港でした。終戦の翌年、5月末のことだったと思います。
そこには、住友林業の方から連絡をもらった父が迎えに来ていました。母は、「お父さんは、私たちを朝鮮に残して、迎えにも来てくれんような薄情な人やから、もの言うたらいかん」って私たち子どもに言いましたよ。だけど、そんなことじゃないことはよくわかっていました。来たくても、北へは来られなかったんですからねぇ。
まずはふるさと馬路村へ帰る
帰国して、私たちはまず、馬路に帰りました。父方の祖父母はもういませんでしたが、母方の祖父母は元気で、「よう帰ってきた」言うて、それは喜んで迎えてくれました。それから、父の赴任先の田辺市に入り、家族での暮らしが始まりました。
でも、終戦後の食料不足で苦労しました。働いてお金をもらっても、家族のための食料を買うことができない。田舎へ行って、お百姓さんに米など分けてもらっても、帰る途中で押収されたりして、小さな子どもたちを抱えて、両親は本当に困ったようでした。
もうどうしようもなくなり、父は住友林業を諦めて、馬路へ帰る決意をしました。「馬路でなんとかする。製材でもやるか」と言うてました。でも、製材の仕事を始めることにはならず、森林組合に勤めたり、それから村議会にも1期は出たと思います。
そんな暮らしの中でも、私は勉強が好きで、学校へ行きたいという気持ちを強く持っていました。父もそんな私のことをよくわかっていて、「勉強して学校はちゃんと行け」と言ってくれました。
でも、私には、父が裸一貫で帰ってきて、お金がないということが嫌というほどわかっていました。帰国後に、また一人妹が増え娘5人になっていましたので、私が無理を通して学校へ行けば、下の妹たちの教育ができない。そんなことは、言われなくても理解していたんです。
姑となる人に「嫁に来い」と望まれて
自分の行き先をどうしようかと、悩んでいたちょうどその頃、岩城の本家から嫁入りの話が出ました。私は旧姓も岩城で、私の生まれた家は何代か前の分家になります。岩城の本家のお母さん、私の姑になる人が、なぜか私を非常に気に入って、「嫁に来い、来てくれんか」って。私のことを朝鮮から苦労して帰ってきたから、仕込んでみたいと思ったようですねぇ。
私の主人は3人兄弟の末っ子ですが、長兄はフィリピンで戦死し、次兄も結核で亡くなっていました。三男の私の主人だけが、東京の陸軍士官学校の学生のまま終戦を迎え、村に帰っていましたので、母親にしてみると、『この息子に早く嫁をもらって、家を継がさんと。さもないと、家が絶える』という想いがものすごく強かったんだと思います。
また、嫁さんを仕込むには若いうちがいい。そんな気持ちもあったかと思います。安芸高等女学校の寄宿舎にいた私が夏休みに帰ると、毎晩のように家に来て「学校へは行くよばん(行かなくていい、という意味の土佐弁)。来てくれんか」ってしょっちゅう言ってきました。
そのとき、私はまだ、14か15でしたよ。仲人まで立てて、どんどん話を進めるんです。私はただただ困ってしまいました。むげに断って本家の機嫌を損ねたら、父がやりにくいんじゃないろうかとか、いろいろ気に病んだことでした。
女学校の担任の先生にも「どうしたらいいろう」と相談しました。「私は学校へ行きたいんですけど」と。先生は、「そりゃ勉強も大事よ。けど、あなたを見てると、相手の人がいい人だったら、結婚も悪いとは思わんよ」とおっしゃってくださいました。
主人からの手紙で決めた嫁入り
それでも決心できずにフラフラしていた私のところに、ある日、手紙がきたんです。私宛の封筒で、裏には『岩城勲』と父の名があります。でも、筆跡が違うんです。父の字は知っていますから『あら、これはおかしい』と思いながら封を切ると、主人からのものでした。
若き日の岩城ご夫妻
男女共学が始まったとはいえ、当時は、親以外の男の人からの手紙なんてとんでもないことです。中を見ると、こういうことで、どんどん話が進んでいるということが書かれていて、『でも、おまえは勉強がしたいということで悩んでいることと思う。本当に勉強をしたければ、その道へ進め。けど、もし嫁に来てくれるなら、俺には異存はない。来てもらいたい』とありました。
その後に、『もし来てくれるなら、岩城の家風に沿うてくれ』とか、『親を大事にせよ』とか、まぁ、五箇条の御誓文みたいなことを書いていましたね。それを読んだときに、私は『あぁ、この人は素晴らしい人や。この人に賭けてみよう』と思ったんです。すぐに決心がつきました。
その頃、主人は馬路の農協に勤めていましたので、夏休みに帰ったとき、『あぁ、あの人やな』というように、ちらっと顔を見たことはありました。でも、話をしたことはなかったですよ。後から聞いたところでは、主人は私の妹たちになにかに買うちゃって、なつけていたようです。私への気持ちはあっても、今の人のようにそれを直接伝えるということはできなかったんでしょう。
年は6つ上です。この人はいい人かもしれない。少なくても私の本当の気持ちはわかってくれている。そう思えて、結婚することを決心しました。
先生にお話しすると、「岩城さん、おめでとう。でも、運動会のときまでは、おってや」ということでした。それで、秋の運動会の後、安芸高女を中退しました。勉強はしたかったんですけど、断念してね。
お義母さんはもう喜んで、とにかく来てくれ、すぐ来てくれでした。岩城は庄屋も務めた馬路でも古い家系ですから、本家としては、『ここで絶えたらおおごと』という思いが強かったんですね。それで、翌年の1月にすぐ結婚となりました。新郎、岩城敏郎は22歳。私は、まだ16歳の花嫁でした。
初めての農家での生活、そして百姓仕事
私には百姓の経験はありません。麦や粟、稗なんか見たこともなかったんです。だから、初めは辛いことも多かったですよ。でも、私には5人姉妹の長女だという自覚がありましたからね。婚家から帰るということは絶対にいかんこと。私がそのいかんことをしたら、下々の妹にも影響する。そのような教育を受けたとも思いませんが、やっぱり心の中にそういう一本の芯があったんでしょうね。どんなに辛くても帰られん。ここで頑張るしかない。そう思っていました。
したことがない百姓ですから、どうやっていいかさっぱりわかりません。お義母さんが、こうやれ、ああやれといちいち教えてくれるんですよね。朝は5時に起きてご飯をたかんといかん。
そんな中で、その年の12月には長男の立郎(たつお)が生まれました。子どもを育てながらの慣れない百姓です。初めは、疲れて疲れて。本当にようやったと自分でも思います。
当時、主人は農協に勤めてました。でも、その時分の男の人が給料を妻に渡すということはあまりなかったですね。私も主人からお金をもらったなんて記憶はほとんどありません。嫁ぎ先の両親に支えられて、なんとかやれたんです。
今考えてみれば、よく私にいろんなことを教えてくれたと感謝しています。両親は二人とも立派な人でした。
百姓仕事をしながらも子育てに一生懸命だった日々
19歳のときに次男の弘幸(ひろゆき)が、23歳のときに長女の昌子(まさこ)が生まれ、私は二十歳代を2男1女の母として過ごしました。いつの時代も子どもの世話はしんどくて、母親はたいへんなものです。私も同じでした。百姓が忙しゅうてたまらん。けんど、子どもがお腹がすいちゅうにちがいないと思う。お乳も張ってきてたまらんなる。とにかく早く帰っちゃらないかんと思って、山の畑からだんだん走りながら帰る。お乳を飲ましたら、子どもの顔を見る間もなく、また、仕事に戻る。その繰り返しでしたね。
どんなときも絶えず子どものことがあって、頭から離れない、そんな感じでした。それを子どもは見ていますので、お母さんっていうのは本当に苦労しながらやっていると、子どもにだってわかっていたと思います。
今のお母さんは自分が大事で、よう捨てん。だから、お母さんも辛いし、子どもの不満も大きくなるように思えます。親子で居るのに、母親がずっと携帯電話をつついてばかりだったりするでしょう。私には、そんなふうに思えるときがありますね。
一番辛かったのは次男の病気
辛いなと思ったことはいっぱいありますけど、なんといっても一番辛かったのは次男の病気のときでした。弘幸は勉強もできる、世話のない子でしたけど、5年生のとき、腎臓を患ったんです。このときは、顔が腫れたので、あれっと思って、すぐ病院にかかりました。近所にも何人か同じように発病したお子さんがいて、扁桃腺からの菌が原因だと言われました。
その時は、ちゃんと治療し、きれいに治しました。いえ、治し切ったと思っていました。だけど、それから1年ほど経ったとき、また悪くなりました。『なにかしんどそうやな』と思ったくらいで、再発とは夢にも思いません。どこも痛いわけではないので、おかしいと気づいた頃には、病気は随分進んでいました。治療しましたが、結局、慢性腎炎という病名を付けられ、高知赤十字病院に入院となりました。病院内の学校へ通うこととなり、本当に可哀そうなことでした。
それから、高知医大の病院へ、次に岡山大学病院へと転院したんですが、なかなか結果が出ず、家へ帰されました。そして、人工透析を考えなくてはならないと宣告されたんです。昭和50年だったと思います。当時は、まだ透析の技術が今ほど良くなくて、水分や食べ物の制限はひどかったし、体力的にもたいへんな状況になると聞かされていました。
私の腎臓を一つやれんもんやろうか
私は次男のことが心配で、可哀そうで、なんとかならないかと随分悩んだし、考えました。考えるうちに、『自分の腎臓は2つある。一つを弘幸にやれんもんやろうか』と思いいたりました。移植は、それまでにも例はありましたが、まだまだ一般的ではなかった時代です。
岡山大学病院の桑原先生に、「先生、私の腎臓がもしも使えるなら、子どもにやっちゃってくれんろうか」ってお願いしました。「それなら、調べてみる」と言ってくれて、すぐ検査をしてくださいました。ところが、弘幸の血液はA型、私のはO型で、合いません。移植はできないと言われた、その時、そこでじっと聴いていた主人が、「俺の腎臓は、どうやろうか」と、こう言うてくれたんです。
ところが、主人の両親からは「孫は一人じゃない」と言われました。二人にとっては、主人はたった一人生き残っている息子です。そりゃ、無理はないですよね。「孫は一人じゃない」と。板挟みになって、私は居ても立っても居られないような気持ちでした。
でも、主人は「とにかく、調べてもらいたい」と譲らず、検査してみると、血液型は同じA型で、機能的にもよく似ているという結果でした。これなら移植できると、先生が乗り気になってくださったんです。
その時の私は、『移植して、もし主人に何かあったらどうしよう。腎臓をやったために主人が長生きようせんかったとしたら、それは私の責任や。お義父さん、お義母さんに申し訳ない』と考え、もう本当に、たまらんように思いました。
でも、主人が、「これほど組織が似ているということを知りながら、俺は、この子にやらずにはようおらん。この子が苦しみながら死ぬるがを、俺は、よう見ん」と、こう言いました。優しい、しっかりした人でしたね。
家族だから乗り越えられた試練
それで、昭和50年に岡山大学病院で移植手術を受けることができたんです。手術は成功して、次男はその腎臓で元気に過ごすことができ、結婚もしました。主治医だった桑原先生が次男の結婚をとても喜んでくださって、『術後10年目のゴールイン』として高知新聞に掲載もしていただきました。これがその新聞です。昭和60年の古いものですけど、私はよう捨てんと持っていました。
次男は3人の男の子にも恵まれました。移植手術から15年後に、透析するようにはなりましたけど、今も元気で、幸せにやっています。主人の健康を心配しましたが、お義父さん、お義母さんより後まで元気に生きてくれて、83の歳を迎えてから亡くなりました。
そのことが本当にありがたく思えます。私たちは、次男の病気という大きな試練を家族で乗り越えた、いえ、家族だからこそ乗り越えられたと思っています。
二人の義兄との絆
先にお話したように、夫は岩城の家の三男でした。主人の一番上の兄は航空兵で、フィリピンのレイテで戦死しています。フィリピンへ行く直前に、お兄さんは、東京の主人のところに寄ったそうです。その時のお兄さんの話を私に聴かせてくれたことがあります。
それまで長兄は中支那にいたようで、重慶だったか、爆撃に出たときのことを「爆弾を落とすときは、ちょっと下へ降りて落とす。後は、すぐすーっと上まで上がらないかんがやけんど、飛行機の性能がようないき、まだよう上がらんうちに爆発してしまう。その爆風でもういかんと思ったことが何回もあった」と話したそうです。
今度はフィリピンへ行けと言われたと告げた後で、長兄は主人に、「絶対に飛行機には乗るな。地を這え。そしたら、ひょっと助かるということもある。お前が死んだら、岩城の家は絶えるぞ。岩城の家を守ってくれ」と言ったそうです。やっぱり、家というものを大事にしたんですね、昔は。子どもであっても、そういう考えをしっかり持っていたんです。
先祖があって、自分がある。それは、決して古い考えではないと思いますよ。今の若い人にも伝えたい。自分の命は自分だけのものではない。これは、本当のことです。テレビでやっている『ファミリーヒストリー』を観ると、みなが感激しているじゃないですか。やっぱりね、と思います。
陸軍士官学校の最後の61期生だった主人は、結局、戦争には行きませんでした。でも、もう少し戦争が長引いたらどうなっていたのか。日本は「本土決戦」を声高に言っていましたし、当時の陸軍の将校なんかには、そういう考えの人も大勢いたようですからね。
次兄は、警官だったそうです。上司に結核の人がいて、お世話をしていて、うつったようです。その当時は、ペニシリンとかの薬もありませんでした。この兄は文学の好きな優しい性格で、上の兄は激しい気性だったと聞いています。
私の長男は夫の長兄にそっくりです。法事のときの写真を見て、みなが「気持ちが悪いぐらい似てる」って言います。だから、私は飛行機乗りだった長兄がこの長男に、また、次兄は次男に生まれ変わったんじゃないかと思うんです。二人が私の子どもとして生まれ変わって生きてくれている。守ってくれゆうと思います。だから、ご飯を炊いた時には必ず仏様にお祀りしています。お陰様で、今があります。本当にありがたいことです。
主人の一大転機に義父が石割技術を教える
このあたりで岩城組のことを話さないといきませんね。結婚して3年くらい経ったころやったと思います。お義父さんが怖い顔して、「おまえら、来い」って呼ぶんです。何の心当たりもない私は、どうしたのやろうとびっくりしました。
当時、青年団というのがあり、井上満さんという、なかなか行動力のある方が会長で、主人も一緒に活躍していました。その青年団の幹部らが、公民館を建てたいと考えて、資金稼ぎに映画やお芝居をやとって、木戸銭を集めたりしてたんです。でも、なかなからちがあかん。それで、農協に古い肥料があるが、あれはいらんもんやから、あれを売って資金にしようとなったらしいんです。
もちろん、それは農協の物ですから、隠れて売ったりはできないわけですよね。告げ口した人があって、そのことが露見し、問題になったわけです。元をただせば、公民館を建てる資金を集めたかった。
義父(立吉)と義母(松猪)
それだけでしたが、舅は村長も務めた人でしたから、岩城の家に泥を塗った言うて、主人と私の二人を据えて怒りましたよ。私はなにがなにやらさっぱりわからんまま叱られたんです。
まぁ、それは仕方がないとしても、一応けじめとして主人は農協を首になり、仕事を失ってしまいました。「何かして働かないかんが、誰にも頼めん」と困っていたときに、お義父さんが「おれが石割りを教える」と言ってくれました。若いときに、石割りの技術を持っていたのです。
石にも目があり、その目に穴をあけて、かすがいみたいなものを当ててパンと打つと石が割れる。主人はやったこともない石割りの技術を自分の親から教わったんです。辛かったと思います。手にまめができて、血を流しながらやっている主人を見たら、何とかして助けたい、力になりたいと思いました。
岩城組の看板をあげる
それからの私は慣れない百姓を続けながらも、主人を傍らでじっと見ていました。主人は前へ前へと仕事をつくっていく人です。石を割ることから始めて、そのうち田んぼの淵がつえたので直してくれとか、道を拡げてくれとか頼まれるようになりました。
一人で何役もはできません。人を1人雇い、それが2人になり3人になり、田の畔や道の補修、拡幅などの工事をするようになると、県の土木事務所から土木事業者の資格を取るように話がありました。資格を取ると、土木工事の入札に参加できるようになり、主人はさらに入札に必要な積算ができるよう勉強したんです。そうやって土木管理施工技術者1級の資格も取り、昭和38年には岩城組の看板をあげたんです。
一方で、主人は帳簿をつくるとか、そういう細かいことはしない人でした。主人の仕事ぶりを見て、私は『帳簿づけなど事務の仕事をちゃんとせんといかんなぁ』と思うようになり、自分が岩城組の会計をやろうと考えました。百姓をしながら、簿記の勉強をし、百姓と両道かけて頑張ったんです。簿記の資格を得た後で、衛生管理者の資格も取りました。あの頃は、本当に寝る間もないように働いたことでした。
土木の仕事はどんどん膨らんで人は増え、失業保険とか労災とか、そんな制度も新しくどんどん入ってきます。
昭和の頃の、今は懐かしい岩城組の仲間たち
どうしていいかわからず、関係役所へ、「初めてでわからんのですが、手続きはどうしたらいいですか」って習いに行きました。そうやって取り込んで、進めていきました。すぐ行って習う。わかる。後はまじめにやっていく。だから、信用してくれたんですよね。
最後には、事務に女の人を一人雇いました。けんど、まぁ、ほとんどは私が自分でやりましたよ。病気をしたこともありますが、これはという大病はなく、頑張って続けることができたことに感謝しています。
当時はまだ珍しかった自動車の運転免許を取る
入札に行く機会が増えてくると、取るつもりがないときなどは、主人から「おまえが行ってくれ」と言われることが多くなりました。入札は安芸市で行われることが多かったのですが、馬路からは片道30q以上の山道です。『これじゃあ車に乗らんとどうにもならん』と思い始めて、車の免許を取ったのは、31歳のときでした。
その当時はまだ、免許を持つ人は村にほとんどいなかったですよ。主人曰く、「おまえ、自転車にもよう乗らんのに」。その時は、私も若かったよねぇ。「お父さん、自転車は輪が2つやけど、車は4つあるき、安定しちゅう。間違っても、ひっくり返ることはないき、大丈夫。私は車の免許を取りたい」そう言い張ったことでした。主人はけたけた笑って、「言い出したらきかんき、まぁ、行って取ってこい」って言うてくれました。
免許は一発で取りましたよ。試験のコースがいくつかあるんですが、どのコースになるか本番までわからんので、全部のコースを覚えました。中には、間違ってね、先生にAコースへ行けと言われたのに、Bコースへ入った人もいました。その後部座席に次に受ける私は乗っているんですよね。
先生が「おまえ、どこへ行きよりゃ」言うと、「僕は、郵便局へ行きよります」って。すっかりあがって、コースを間違ったことすら気づかないんですよ。その人は郵便局の職員さんでね、先生が笑って、「コースを間違ごうちゅうぞ」って、ね。自動車学校は、奈半利にありました。奈半利までせっせと通いましたよ。今は懐かしい思い出です。
生きがいとなった地域のお世話役
百姓仕事に子育て、土木の仕事も加わって大忙しの20代が過ぎ、30代半ばになったとき、ふっと『私には青春がなかったなぁ』って思ったことがありました。『青春はなかったけれど、この世にせっかく生まれてきたんやもの。なにかしたい。なにかやりたい』と、そんな気持ちがむらむらと沸き起こってきました。
他の人が結婚して今から子育てというときに、私はもう子どもたちに手がかからなくなっていました。また、家のことも百姓仕事も要領がわかって能率も上がっていましたからね。
地域のみなさんのお世話役を少しずつするようになったのは、ちょうどそんなころからです。村の農協婦人部のお手伝いをしていたところ、次の会長をやってほしいと頼まれ、引き受けました。それが、昭和48年4月のことで、その4年後からは民生児童委員にもなり、地域のみなさんのお世話役を20年ほどさせていただきましたね。
若いときから主人も、そのことには理解がありましたよ。私がカレーを作っていると、「また、出張か」と訊くんです。「今度は、どこへ行くのか」と、笑いながらね。一緒に暮らしていれば、わかったんでしょうね。また、どこかへいくがやなと。
平成に入ってからも、村の婦人会長をはじめ、社会福祉協議会の評議員や健康づくり推進協議会委員、食生活改善推進協議会委員など務めさせていただきました。ボランティアというのは、無報酬でするということで、地域のみなさんの協力がないと、何も形にはならないんですよね。でも、みんなで力を合わせる、その過程が、また楽しかったんです。
馬路村には『おらが村・心臓やぶりフルマラソン大会』というのがありました。もう随分前のことになりますけど、あれを始める時に、ちょうど私は村の婦人会長をしていました。前夜祭をやろうとなったんですが、企画段階では暗中模索です。村の教育委員会の担当職員と何度も話し合いました。
自分が家にある、お漬物とかを持ってきて、「これ食べてやろうよ」と言うこともありましたよ。ああしよう、こうしようと、それぞれが意見を出し合う。決まれば、みながパッと協力する。それには、まずは自分が動くということが何より大事だと学びました。まぁ、みんな本当に気持ちよく仕事してくれましたね。
自分は本当に世話好きやったと思うんですね。で、村会議員も平成11年から3期やらせていただきました。議会へ出たいとかまったく思っていませんでしたけど、「出てや、出てや」言うていただいてね。本当に選挙運動なんかしないまま、挙がらせてもらったんです。
あんなこともこんなことも、できることはさせていただきました。それが私の生きがいやったなぁとつくづく思います。お陰様で、自分としては生きがいのある幸せな人生を送ることができました。そんなふうに思っています。
ほんの最近まで、村の老人会長もやっていました。まだできないことはなかったんですが、娘が心配して高知市での会などには付いてきてくれるんです。それも申し訳なくて、自分の年齢を考え、昨年で辞めました。人には引き時が肝心です。これからは、若い人の縁の下の力持ちになって、育てる方に回ります。年を取ったら、このことを忘れないようにしたいですね。
神様が助けてくれて今がある
主人が亡くなってから、もう10年ほどになります。昭和24年に結婚して、ほぼ60年という長い月日を一緒に暮らしました。体格も良くて、まぁ、侍でしたね。男らしいというか、全然、損得を言う人ではなかったんです。筋が一本ぽんと通っていました。初対面の人には、ちょっと怖いような取っ付きにくい感じの人でしたが、慣れたらそんなことは全然ありません。仕事が好きで、現場と人を大事にする人やったなぁと思います。
今は長男が、岩城の家も岩城組も引き継いでしっかりやってくれています。次男は高知市で元気に暮らしていますし、長女は安芸市に嫁ぎましたので、今は家のことで私が心配することはなにもありません。これまでを振り返ると、『どんな困りごとも、なんとかなる。神様が助けてくれたなぁ』と、ありがたく感謝するばかりです。
これからの私の目標と願い
今の日本の国は、みなが長命になり高齢者が増えましたよね。いいことやと思いますけど、若い人は少なくなり、その若い人への負担が大きくなっています。だから、健康寿命を延ばして、なんとか最後まで自分のことは自分でできるような状態で一生を終えたいなと願っています。それが、私の今の気持ちだし、これから先の私の目標でもあります。また、それを自分一人でというのではなく、地域のみなで助け合いながら一緒に実現していけたらと思っています。そうしないと、日本の国もたいへんですよね。
これまでに私は、アメリカとかヨーロッパへも行きました。それぞれに素晴らしい国だとは思いましたけれど、日本の素晴らしさを再認識する機会にもなりました。日本人は、すごい。だから、自分の国に自信を持とうって。
今の若い人には、よその国に憧れすぎて、よくわからないまま、例えばアメリカの方が良いというように思っているところがあります。もう一度、日本のことを考えて、もう少し日本の国のことも、外国のことも勉強してほしい。そう思っています。
アメリカで暮らす孫一家
私には今、孫が6人、ひ孫が7人いますよ。孫の一人はアメリカ人と一緒になり、私に本当にいろんなことを体験させてくれています。世界がひろがった思いです。だから、平和でないと困るんです。心から、みんなに平和でいてほしいと祈っています。
あとがき
岩城さんとは、馬路で初めてお会いし、北朝鮮から始まる長いご自身の物語を聴かせていただきました。わかりやすく正確に、しかもよどみのない話しぶりと、起伏に富み人の情けに溢れた話の中身に、思わず引き込まれました。物腰の柔らかな小柄な女性ですが、芯の通った強さ、人を包む大きさを感じます。
空に大きく枝を伸ばした一本の木のような方・・そう思って、主題を『幹太く、空高く〜馬路の村に生きる〜』とさせていただきました。
38度線越えを目指した山中での出来事やご結婚までのいきさつ、ご主人の一大転機と、お若い頃の一つひとつのエピソードが、地中深く根を張り成長していく一本の木と重なります。若い世代のみなさんにも是非、読んでいただきたいと思います。貴重なお話をありがとうございました。
(ききがきすと:鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 22:51 | Comment(0) | ききがき作品 | |
高知でのダンス三昧の日々
『ユリヤ』が柳町に移った、その年の春に僕は明治大学を卒業して、高知へ帰ってきました。高知で踊ってましたよ。当時は高知にもダンスホールがあって、最初は上町の『山本ダンスホール』に通ったなぁ。これは、僕の姉が行ってたんよ。次は『中の橋ダンスホール』だったかな。それから得月楼のちょっと裏手の東の方、浦戸町に『ガーデン』っていうダンスホールがあって、もう、そこへは夜な夜な通いました。
けどね、高知のダンスはダサいと思いました。東京はね、例えば、五反田の『カサブランカ』とか、新橋の・・『フロリダ』だったかな、きれいなダンサーがいっぱいいたんです。しかも、生バンドでダンスが踊れたんですよ。
そのころ、ちょうどアメリカのフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を観たんです。いわゆるタップダンサーで、「トップハット」とか、「キャリオカ」とか、いろんな映画に出た人です。それで今度は、タップダンスを自己流で踏み始めたんですよ。まぁ、バカなことしたもんよね。高知には、そんな就職先はないし、それに、タップを教えるほどうまくはなかったし。
だけど、ジャズとリズムと、そして足を踏み鳴らして踊る、そのハーモニーが好きでした。こんな格好のいい、おしゃれな世界はないと思いました。今でも、僕はそういう世界に憧れています。もう80歳を超えて、とてもダンスはできなくなったけど。・・まぁ、社交ダンスなら、ちょっとしたジルバぐらいはできるかなぁ。うーん、もう複雑なステップはできないね。
何にしろ、好きなものがあるっていうのは、ありがたいですよ。学究肌の人は、研究とかね、頭をつかう。けど、僕らみたいなぼんくらは、要するに手足を動かして、耳から入る音楽、ジャズを聴いて、あるいはタンゴの調べを聴いて、かっこよく踊るというのが、そのころの青年たちの、不良の遊びだった。今の子は、どうしているのかなぁ。
要するに、このドラ息子ときたら高知に帰ってからも、ダンスが高じてずっとキャバレーに入れ込んでいたってわけです。家業の『ユリヤ』がうまくいっていることをいいことにね。
その当時ちゃんとしたバンドがいて、ダンスが踊れるのはキャバレー。『椿』とか『リラ』、『ABC』とかね。そういうところに限られていました。そこへ毎晩通ったんです。やっぱりキャバレーは高いわね。それに、一人ではよう行かんから、また不良の友達を連れて行くわけですよ。いいかっこしてね。
まぁ、随分、はちゃめちゃ遊んだよ、あの頃は。今考えると、僕しか、あぁいう遊びはできなかったろうね。一応、僕のダンスは東京じこみだから、キャバレーでも、あいつはダンスはうまいなと。そらそうや、おまえらみたいな田舎もんとちゃうぞ、ってなもんよね。
ホームバー『フランソワ』の誕生
どうも僕には喫茶店での仕事が性に合わなくてね。ぶらぶらしとったですよ。そのうちに今の『フランソワ』の土地を両親が買いました。そこにあったバラックを壊して建て直し、ここで住まいをしようと考えたんです。
まぁ、2階、3階は住まいでもいいけど、1階は貸店舗にしようかとなって、けんど、1階だけ貸すのはいかんなぁ、と言い始めた。それなら、僕がバーをやると言うと、親父がなんと言ったと思う?「バーなんて、止めておけ。そんなもの、商売にならん。ウナギ屋やれ」言うたんですよ。「ちょっと待って」と。
まぁね、ウナギを焼くぐらいは俺も、やってやれないことはない、と思いましたよ。親父はウナギが好きだったからね。けど、「あのニョロニョロ動くウナギをね、あれの腹を裂くなんて、そんなむごいことは俺はできん」って言ったんです。それで、「親父、やるかえ」って返すと、親父もなにも言わなかった。それで、ウナギ屋は終わりです。
親父やお袋から、キャバレーとかバーへ飲みに行かんようにとさんざん説教されて、もうしょうがないから、自分でバーをつくる、となったわけです。それが『フランソワ』の始まりですよ。外へ飲みに行かんように、ホームバーにした・・・、バカなことよねぇ。それが昭和40年のことです。
しかし、最初の頃は、まったく儲けなかったんです。友達はたくさん来るけど、僕のことだから全部貸しです。俗に言う貸倒れ。そのはずよ。みな、昼間は競輪競馬へ行ってやね、すっからかんで飲みに来るんだから、金はないよね。そんなのに貸して、何百万も貸倒れになりました。
フランソワの前に立つ鈴木さん →
また、当時のことなら、支払いは盆暮れにまとめて。そういう昔からの習慣がありましたからね。県庁の役人とかの公務員や商店街の旦那衆とかは、盆暮れが多かったんです。しかし、盆暮れにでも払ってくれる人はまだまし。さすがの僕も、ちょっと待てよ、これじゃいかんとなった。これは、現金商売にせんと、どうやってもいかんぞと。
だから、料金がもっと安くなるようにしました。舶来酒ばかりでなく、国産酒も入れたりね。もう現金だけで商売しようと考えたわけです。それでなんとか、『フランソワ』がもったわけですよ。そうなるまでに10年くらいはかかりましたね。
僕の自慢はね、貯金がないこと。けど、なんとか日銭は稼げる。なんとか食っていけるわけ。今、これで食っているからね。まぁ、赤字にならんように、現金商売で。それが、一つの転機だったね。これは、やっぱり商売の鉄則だろうね。
『フランソワ』でカクテルをつくる
お袋に「章弘、おまえ、これが帳面やけど、お客さん結構来てるけど、全然お金がないよ。仕入れのお金もない」と言われて、それなら、よし、これ売ろうかと思ったこともあります。けんど、さぁ、売ってどうするということもない。そしたらね、東京だけじゃなく京都でも随分遊んでいた、その僕の胸に漠々とでも浮かんだのは、カクテルだったんです。
東京から帰って、『ユリヤ』を嫌々でも手伝っていた9年の間に、よく京都で遊びました。姉が京都に嫁いでいたので、ゆっくり3年ほどは遊んだかなぁ。京都に『サンボア』というカクテルの店があって、寺町にその本家があるんですが、そこの中川古鹿(ころく)さんというおじいちゃんに本当にお世話になりました。とってもおしゃれな方でね、動作が実にきれいなんです。その古鹿さんに憧れて、その京都『サンボア』へ夜な夜な通うことになり、それで、弟子入りしたいとまで思いました。でも、そこは息子が6人、男ばかりいて、結局、無理だったけどね。
『サンボア』本家は長男が跡を継いで、そして、次男、三男は喫茶と、酒屋をやっていました。四男の志郎と僕とは同い年で、その志郎が祇園でやっていた店も成功して、今は孫の時代になっているはずです。それで、京都には『サンボア』が3軒あるんですよ。本家の寺町と祇園、もう一軒は六男の清が始めた木屋町。今でも交際が続いています。
ちょうど祇園表通りからひとつ南に下がったところに、今でも八坂中学という学校があります。その前辺りからお茶屋街がずーっとあって、そのお茶屋の一角に『祇園サンボア』があるんです。これは山口瞳が本に書いてもいますよ。
それがすこぶる美しい名文で、たいへんな評判を呼び、今や京都を代表するバーになっているんです。そこへ行くと、お茶屋街ですから、現役の芸子さんなんかがちょいちょいお座敷帰りにお客さんと飲みに来てますよ。あぁ、京都っていいなって思うね。
僕は、祇園は敷居が高くて入れなかったから、よく上七軒とかいったなぁ。もう一つランクが下のお茶屋街が上七軒と他にもあったけど、どこやったかな。そんなところで、お茶屋遊びらしいこともやってましたね。
東京とか京都で不良している間に、僕はこんなふうにカクテルバーへ出入りして、こんなハイカラな世界があるだろうかと思いました。普通のバーは、サントリーのウィスキーならそれを出すだけ。だけど、カクテルは、酒と酒、あるいは酒とほかの飲み物をベースに調和させる。そうして新たなものを生み出すものなんです。
また、高知にも、そういう先駆者がいましたよ。高井久五郎(きゅうごろう)という人で、戦前大阪のキャバレーでバーテンダーをやっていたと聞いています。この人は愛媛生まれだったけれども、縁があって高知へ来て、野村デパートの食堂主任なんかやっていたそうです。
戦後はね、今の京町の野村証券のところ、あそこに『シルバースター』というキャバレー第一号ができて、そこのマネージャーをしながら、バーテンダーもしていました。僕らの大先輩です。この人がやがて独立して、『555(スリーファイブ)』を始めました。この店は、今の中種の葉山、あそこの裏にある路地にありました。すばらしいバーでしたよ。
こういう商売は、おしゃれじゃないと駄目です。清潔感はもちろん必要だけれど、それだけではいけない。僕がいくらダンスが好きでも、ここで踊るわけにはいきません。せめて、シェーカー振ったり、お話しする中でかっこよく見せる。
格好は、とても大事なことです。この世界で一流バーテンダーと言われる人は、みなおしゃれです。本当におしゃれ。おいしくつくるということは、おしゃれに振るということとイコールでなくちゃいけない。いわゆる、あちゃこちゃ、あっちへ走り、こっちへ走りすると、俗に言う「あいつは野暮だなぁ」ってことで、野暮ではできません。
おしゃれも、本物を知る第一級のおしゃれでないとね。僕が長年やってきたバーテンダーのスタイル。これは、世界共通です。ほら、外国のね、パリやロンドン、ニューヨークのバーマンは、本当におしゃれですよ。かっこいいんです。
カクテル西洋事情
ヨーロッバでは、カクテルは街中のバーではなくてね、ホテルバーなんです。日本とは違います。アメリカンバーという言葉があって、ヨーロッパでは、カクテルバーのことをこう呼ぶんです。
イギリスのアッパークラス、上流階級は、訪問客があったら、午後にシェリー酒を出すという習慣があったんですよ。まぁ、言わば、貴族の習わしですね。お茶とケーキを出すか、それに合わせて殿方にはシェリー酒を出す。それが高じて、カクテルも出すようになる。
だから、カクテルタイムとか、カクテルアワーというのは、まだ明るいうち、いわゆる午後から夜にかけてであり、カクテルはその時間帯に供する飲み物だったんです。
英国やフランス、パリでね、ホテルバーでカクテルを飲むというのは、その頃の有産階級の一つの象徴でしたよ。バーでカクテルを飲む、非常に贅沢な習慣だったわけで、それは、いまだにありますね。まぁ、ロンドンは別として、今でもパリの街中にカクテルバーは非常に少ないんです。あそこはワインバーか、あるいはホテルバーのどちらかでカクテルを飲む、そういうお国柄なんです。
アメリカ映画とか英国映画、フランス映画、イタリア映画などには、そういう酒を飲むシーンがふんだんに出てきて、僕は大いに感化されました。その一番いい例がアメリカの有名な「カサブランカ」という映画です。パリから亡命したアメリカ人、それがカサブランカの街でアメリカンバーをつくるんですよ。アメリカンバーというのは、カクテルバーのことです。そこで飲むのが、シャンパンでありワインであり、カクテルなんです。映画でそういう世界を観たんです。
それから、アメリカ映画でもう一つ、「花嫁の父」という映画がありました。その中で家の庭で娘の結婚式の披露宴をする、ガーデンパーティの場面がありました。それを観たのは高校1年くらいのときだったかな。そのときに、マティーニが出てきたんです。「マティーニには、まだ早いよ」というせりふがあって、なぜか僕はそういう文化に魅せられたんです。”It’s too early to drink a martini”「マティーニには、まだ早いよ」という、その謎が解けず、ずっと心に残りました。
なぜマティーニには早いよ、と言ったのか。マティーニというのは、いわゆるカクテルタイムで飲むには違いないけれど、非常にアルコール度数が強いんです。だから、早いうちに飲むと酔いつぶれるよという意味を兼ねてる・・。おそらくね。
これがいまでいう、アペリティーフ(aperitif)、食前酒です。マティーニは、食前酒ではあるけれど、ものすごく強い。ヤンキーとか西洋人は胃袋が丈夫だからいいけれど、日本人はあれをすきっ腹でやると、もう飯が食えなくなる。そういうシロモノ。人気はある。永遠のカクテルです。
マティーニで有名なのが、もう一つ。チャーチル・マティーニです。マティーニというのはね、ジンとベルモットだけ、それをミキシンググラスでこうしてつくるんです。チャーチル・マティーニというのはね、ジンだけ入れて、ベルモットをちらっと横目で見るだけで、ジン・マティーニをつくる。これがチャーチル・マティーニ。それだけ彼はドライが好きだったってことですよ。
一番のお宝、英国のカクテル・レシピ本
もう一つ、007マティーニ、これもまた面白い。有名な007の作者というのはね、日本へも何度も来たことがある、飲んべえのイアン・フレミングで、この作家はマティーニが大好きなんです。007マティーニ、これはスパイを意味します。英国人の地酒であるジンではなく、ウォッカをつかう、ウォッカ・マティーニなんです。また、マティーニいうと全部ステアー(*かきまぜる)なんですが、それをステアーでなくて、シェイクするんです。
けどね、それには訳がある。昔のロンドンカクテルの文献を見てみると、マティーニはステアーではないですね。1930年のサヴォイのカクテルブックにはシェイクとあるんです。ドライマティーニは、全部シェイクなんです。
だから、その007の作者、イアン・フレミングは、ソ連側のスパイというのでドライ・ジンをウォッカに替え、しかも、シェイクというので、非常に新鮮に映ったんです。けれど、実は、時代は繰り返すで、戦前は、マティーニはステアーでなくて、全部シェイクだったんです。その文献がね、これですよ。
『ザ サヴォイ カクテル ブック』って本でね、これは、たいへんな貴重品です。僕の一番のお宝なんです。ザ・サヴォイというのは、ロンドン・サヴォイ・ホテルのことで、僕はここへ2回行っています。
1930年ということは昭和5年ですね。昭和5年に、この本が刊行されたんですよ。そのときのマティーニは、・・(本に目を通しながら)・・いいですか、マティーニ(ドライ)は、フレンチバムース・・これはベルモットのことです。英語読みしたらバムースになるんですね。フレンチバムース1/3に、ドライジン2/3。これを、Shake well と書いてある。つまり、シェイクなんです。しかし、今はね、マティーニいうと全部ステアーなんですよ。
シェイクとステアーの違いは、シェイクの場合は、カクテル・シェイカーへ氷入れてシェイクしますわね。シェイクというのは、揺るがすということです。これは何を意味しているかというと、空気を入れるということです。
ステアーというのは、逆に空気を入れない。液体だけの澄み切ったもので供するためにステアーするんです。シェイクは、酸素を入れる。そこに違いがある。大きな違いです。これが今から80数年前に、もうすでにシェイクだったんですよ。マティーニは全部シェイクで、ステアーではなかったんですよ。
例えば、(本を見ながら)マンハッタンなんかね、これもシェイクでしょう。この頃は、全部シェイクなんですよ。ここに、ステアーが出ている。マンハッタン・カクテル・スウィート。ステアー、ウェル。これですね。ステアー。マンハッタンは1930年代にすでにステアーやっていた。
カクテルの酒を替えると、カクテル名が変わってくるんです。これは、ライオウ・カナディアン・クラブという。ライはライ・ウィスキーのこと。ライ麦のウィスキー。あるいは、カナディアン・クラブ。カナディアンというのは、ライ・ウィスキーのこと。こういうレシピがちゃんと出ている。
また、この本は石版刷りですよ。石へ絵をかいて色付けして、それを印刷に用いたものです。非常に貴重な文献ですよ。面白いでしょう。これが、サヴォイで、いまだに現存しています。ロンドンへ行く機会があれば、ぜひとも、サヴォイホテルへ寄ることを勧めますよ。
こちらの本はね、カフェ・ロワイヤル。これは、ピカデリーサーカスの近所にある大きなレストランです。バーレストラン。このカクテル文献も素晴らしいですよ。
ここに面白いことを書いてある。これ、ターリングという、その当時のバーテンダーが書いた本なんですよ。W・J・ターリング、カフェ・ロワイヤル。これがね、1937年。ここにコロネーションってあるでしょう。いわゆる戴冠式のことですよ。今のエリザベス女王のお父様、つまり、ジョージ6世の戴冠式の年に発行したカクテルブックということです。
これには、その当時の風俗画が描かれています。例えば、これはいわゆるレビューですよね。こういう世界とカクテルというのは、歓楽の世界感と交わるところにある。つまり、こういう世界だったんですよね、80年前はね。面白いでしょう。
さらに、面白いことにね、ここ見てください。『ツー ブラザー ジョセフ・ベッツ』。ブラザーというのは兄弟だけど、まぁ言わば弟分、彼の弟子だったんですね。『ウィズ エターナル ベストウィッシュ、フロム オーサー ターリング』。作家からベストウィッシュを持って君に贈ると、直筆で書いていますよね。1946年。これは、昭和21年ですよ。
カフェ・ロワイヤル。これはフランス語読みですよね。向こうでも、フランス語読みがハイカラだった。人品卑しからぬジェントルマンが出入りするバーレストラン。これも、ロンドンです。
この2冊を僕は、神田の古本屋で見つけました。いくらで買ったか忘れたけれど、結構高かったですよ。ここに神田・田村とあるでしょう。神田の神保町にある田村という古本屋。今でも神田にあると思いますよ。
『フランソワ』の灯りをつなぐ
今の高知にも、いいバーテンダーはたくさんいます。この頃は、女性のバーテンダーもいて、チェコのプラハの世界大会で優勝した高橋直美さん。彼女は高知で頑張り続けて、何回もチャレンジしてね、やっと栄冠を仕留めたんです。素晴らしい。今は銀座の八丁目あたりの外堀通りの『ガスライト・イヴ』というところで働いています、店長で。
やはりファッションの生まれる街といえば東京だろうけど、高知だって「しゃれもの」は結構いますよ。高知は高知らしいファッションが生まれて当然だと思います。その高知で、『フランソワ』のネオンを消さずにいきたい。その願いをかなえてくれたのは、三好誠さんです。
彼はね、広島県の福山生まれで、高知大学の学生だったんですよ。学生時代にバイトでうちに2年か3年いたかなぁ。それから、いったん就職したんだけれど、その後ちょっと体を壊して、高知へ遊びに来たんです。
「どうしてるんだい」と訊くと、「今は何もしてません」と言うから、「じゃ、うちを手伝ってくれ」となったわけです。それからもう20年近くになるかなぁ。
フランソワの店内 →
僕はやっぱりね、ちっぽけな店ですけど、この『フランソワ』、大好きなんですよ。だって、僕のホームバーだもの。僕は、ここでね、文章書いたり、手紙書いたり、本読んだりするんですよ。ちょっと一杯やりながらね。
店は、昭和40年に建てた当時と、ほとんど変わっていません。窓に『フランソワ』と描いてますわね。あれは実は、金文字なんです。表から見るとわかるけどね。これは、金紙を貼っています。これは僕の自慢でね。今から25年ほど前に改装するときに、つくってもらいました。でも、改装は入り口や窓の部分だけで、基本的な部分はいっしょです。カウンターやこの棚の辺りの感じもね。50年前と変わってないんです。
あの当時は、いわゆるデコラの時代でね。つまり、材木だけでは大工賃が高くつくから、デコラを張ったんです。カウンターも全部、デコラを張っています。デコラが流行ったのは、工賃が安いわりに耐久力が強いからなんですが、これは面白くない。と言うのは、いくら年が経っても古さがでないんですよ。まったくない。
この枠なんかもデコラですよ。木材に樹脂を張っている。変わらなくていいとも言えるけど、僕は面白くない。大失敗。本物をつくりたかったからね。けどね。まあ、それも仕方ない。これも、そうした時代を象徴する一つの工材だったからね。
大好きな高知の街、生き生きと自由であれ
我ながら、僕は恵まれてるなと思いますよ。やはり、家族、特に両親を思うとね。これくらい不良のドラ息子を長い目で見てくだすった。それから、姉は姉で、またそれを承知のうえで、僕によくアドバイスする。それはそれで、ありがたい。やっぱり姉弟愛だなぁと思うんですね。
それと、今の家内はね、こんな水商売なんか、まったく向かない女です。まったく酒も飲まないし、おしゃべりもできないしね。それでもなんとかやってきてくれました。だって、ほかの仕事しろと言われても、僕にはほかの仕事はできない。
これはもう私の天職ですよ。それは今、この年になって初めて言える言葉かもわかりませんね。若いときは、そんなこと関係なく、夢中でやってたからね。
ずっと暮らしてきた、この高知の街、僕、大好きでね。でも、今の高知は、僕らみたいな不良には、ちょっと住みにくくなった気がするね。不良は良きにあらずですが、その反面、ほかにない自由を感じる。これが不良だと思っています。
したいことをする、見たいものを見て、聴きたいものを聴く。あの自由な感覚ですよ。まぁ、これから世の中がどんなに変わっていくかわかりませんが、高知には、生き生きと自由な、そういう本物の文化が根付いて欲しいね。
あ と が き
鈴木さんは、軽く洒脱な語り口で、昔の新京橋界隈の暮らしや、青春の日々、東京や京都での経験について生き生きと聴かせてくださいました。私も同じ高知県に生まれ育った者ですが、遠くにアドバルーンを見ながら、あそこがお街と憧れた田舎の子。ハイカラな街っ子のエピソードの一つひとつを物語のように面白く聴かせていただきました。
明るい話しぶりに、戦争を挟むたいへんな時代だったことも忘れ、笑いを誘われることも度々で、こういう方が戦後の日本を楽しく、魅力的に色付けしてくださったのだと改めて思ったことです。昭和一桁生まれのモダンボーイの魅力を、少しでもお伝えできれば幸いです。
また、今回、岡内富夫さんが、この冊子の表紙にと、『フランソワ』を描いてくださいました。街のやわらかな風まで感じさせる2枚の素敵な絵に、心から感謝いたします。
なお、昔日のバーテンダーの方々については、資料の入手が難しく、確認できないまま記載させていただいた部分があることをお断り申し上げます。
ききがきすと:鶴岡香代
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かたりびと:鈴木章弘(あきひろ)さん
ききがきすと:鶴岡香代
昭和7年12月22日、僕は父・正一郎(しょういちろう)と母・静(しず)の長男として、高知市新京橋35番地に生まれました。男の兄弟はなく、純子(すみこ)という2つ違いの姉がいます。
高知といえば、四国の中でも田舎には違いない、地理的には田舎に違いないけれど、その高知にあっても、戦前の新京橋(最終頁*1参照)といえば、まさに中心商店街。都会的というか、早くいえば、ハイカラな街で、そこでの暮らしぶりというのは、田舎とはまったく違うものでした。
今は中央公園になっているあの辺りを、戦前・戦中は、新京橋商店街と呼んでいました。新京橋の名称は今も若干残っていますが、もともとは、あの広い公園から堀詰へかけての一帯のことで、当時は新京橋という橋が本当に架かっていたんです。
戦前の新京橋界隈を知っている人はもう少なくなりましたが、街とその外では、まるで別世界だったわけです。だから、当時、みなが街へ行くと言えば、それは特別なこと。ビルを見て、店を覗いて、洋食を食べる。それから活動写真、今の映画ですよね。もちろん、テレビはない時代ですから、活動写真を観て、おうどんを食べて帰るというのが娯楽であり、最大の楽しみだった時代です。
街のデパートにアドバルーンが上がっていて、市内ならどこからでも見えましたよ。戦前、戦後を通じて、昭和30年代までかなぁ。あれが街の一つの象徴、シンボルだったんですね。あそこがみなにとっての街、行ってみたい街だった。だけど、僕は子どものときから、その街で暮らしてきてますから、そういう生活しか知らんわけです。
まぁ、小学校を卒業する昭和19年頃まで、僕はずっと新京橋に住んでいましたから、街っ子だし、今でいう「ぼんぼん育ち」ですよ。名が章弘ですから、子どもの頃はよく「あきちゃん」とか、「あっきん」とか、「ぼん」とも呼ばれてね。いやー、まぁ、ばかぼんですわ。
うちは商家でした。もともとの出は琴平なんですが、祖父の時代に博打で勘当をくらって、高知へ移ってきたそうです。祖父は鈴木時計店の看板を上げて、時計商をしてましてね。その棟並びで、僕の両親が鈴木写真館をやってました。
その時代の一番のお客さんというのは、やはり兵隊さんだったんです。高知には、今の高知大学になっているところ、あそこに陸軍の44連隊がございました。そこから戦地へ赴かれる兵隊さんが、新京橋で活動を観て、そして、腕時計を買って、記念写真を撮る。そうして戦地へ行ったのですよね。
だから、うちの商売というのは、兵隊さん相手に、まぁ、早くいえば、ぼろ儲けしたんです。あの頃は、軍人さんはたくさんいたし、金持ちでしたよ。だから、僕は何不自由なく育ちました。
ハイカラ感覚は幼少時から
母の生家は高岡郡波介村岩戸、今の土佐市ですが、母の父、つまり僕の祖父は早くから街へ出て、鳳館(おおとりかん)という映画館をやっていました。これは、堀詰の電停前にあって、家からほんの数分とかからない。子どもに人気のチャンバラ映画ばっかりやっていましたよ。だから、学校から帰ってきたら、叔父の家へ遊びに行くか、鳳館で活動写真を観るか。そりゃ、恵まれていましたね。
それで、こういうどうしようもない男、ばかぼんが生まれたってわけ。でも、街育ちのばかぼんしか知らない世界、特別な世界がそこにあったんですよ。ちゃんとした家庭で育っていれば、・・・もっと不良になっていたかな。
だけど、僕は田舎の楽しさも知っていますよ。夏休みの楽しみは、母の生家へ遊びに行くことでしたから。そこで田舎での生活を満喫したものです。野や山で鳥を獲ったり、ウサギ狩りに行ったり。よその家の畑の桑の実をつまんで、食べたりもしたなぁ。その時分は、おおらかでした。秋に行けば、柿が生っているし、栗もたくさんあったしね。
柳原幼稚園っていうのがありましてね。いいところのぼっちゃん、おじょうちゃんの行く幼稚園だったんですよ。この辺りにも幼稚園はありましたが、姉が行っていたから、僕もそこへ。当時も幼稚園というのは2年あったけれど、僕は1年だけ通いました。
今の乗出しをまっすぐ南へ下がって、東の角。下がると坂でね、その西にある沈下橋の前に忠霊塔があって、その隣が柳原幼稚園でした。戦後は競輪の選手の宿舎になったと聞きました。
家は商売しているから、母は忙しい。まったく子やらい(最終頁*2参照)はしないで、女中さんとかいましたよ。だからってことじゃないけれど、僕はね、よく幼稚園をさぼりました。もう、そのころから、みなと一緒に授業受けるとか、遊戯するとか、そういうのがまったく嫌でね。
途中の山内神社のところへね、エビ玉や箱瓶(最終頁*3参照)を隠しといて、それでね、幼稚園行くと言って行かずに、日がな一日鏡川で魚獲ったり、エビ獲ったりして、それで帰ってきよったね。そんな家庭に育ったから、まぁ、なんともだらしのない少年だったわけです。
幼稚園の頃から自転車に乗ったりもしていました。おやじはオートバイに乗っていたしね。家のすぐ近所にデパートもあったんです。野村デパート。中央食堂へ上がるエレベーターがあって、僕は、その食堂へ行くのが楽しみでした。
今でいうハンバーグステーキね。あれを、僕ら子どもの頃はミンチボールって言っていました。ミンチ肉をボール状にしてね。僕は、お子様ランチなんて、あまり食わなかったな。ちゃんと大人の食べる洋食、例えば、ビフカツとか、あんなのが好きだったね。外でよく食べたものです。
当時にすれば、実にハイカラな生活ぶりです。その気持ちをね、いまだに僕は失ってないつもりです。別に田舎の子を差別するわけではないですよ。けれど、おれは街でハイカラにやっていこうと。それは、子どものときも今もいっしょです。だから、現在、こういう洋酒バーを家業にしているのも、そういうハイカラ趣味がそうさせたのかもしれませんね。
ぼん、高知女子師範の附属小学校に通う
小学校は、高知県女子師範学校の附属小学校に通いました。昔はね、先生を養成する師範学校というのがあったんです。今の高知大学の教育学部ね。当時の師範学校は男子と女子は別で、男子は今の附属小・中学校のある小津町に、女子は潮江にありました。女子師範は、第二高等女学校と附属小学校を併設していて、小学校から女学校、女子師範と教育を一括する学校だったんです。今は、潮江中学校になっています。
本来の校区は第三小学校、後の追手前小学校だったから、僕ら、ごく一部の子どもだけが、新京橋から潮江橋を渡って通学したわけです。今、帯屋町に大西時計店がありますよね。当時の大西は、東店と西店という兄弟の店でした。今残っているのは、西店のほうです。そこの息子たちと一緒に通ったものです。
近所のガキ友達はみな第三小学校だったし、女子師範なんて小学校の名前に女子が付くのも嫌だったなぁ。「お前はねぇ、ばかぼんで、えいし(良い衆の意味 最終頁※4参照)の子やったから、ほんで附属へ行ったんだ」と言われたものです。
学校から帰れば新京橋界隈のガキとも遊ぶけど、僕は遊びも飽きっぽいんで、もう馬鹿らしくなったら、一人で家へ帰って好きな本読んだりしてました。だんだんと遠く感じるようにもなってね。そうして自然と一人で遊ぶことが多くなっていったかなぁ。環境も大きかったですね。
附属小学校は、一学年に男子25人、女子が28人の、本当に少人数の学校でした。男女共学は1年・2年まででね。3年からは男子組、女子組と分かれて授業を受けたもんです。決められた制服がありましてね、制服、制帽、帽章で通いました。
ここには、いろんな地域から子どもたちが来ていましたから、いろんな友達に出会いました。いわゆる、えいしの子ばっかりで、国家公務員とか学校の先生の娘や息子とか、そういった感じでした。
その頃、今の高知大学の前身の旧制高知高校というのがあって、そこのドイツ語の教授であった米原先生の息子が、同じ組にいたんです。米原君と僕は仲が良くて、いろんな思い出がありますね。
附小はね、やはり模範学校ですから、子どもの遊びで、これはやっちゃいけないというのがいくつかあったわけですよ。普通メンコといいますが、高知ではパンという、ボール紙のカードをパンパンたたいてけ落とす遊びよね。あれはだめ。ビー玉がだめ、コマ回しもだめというように、子どもが好きな遊びは、ほとんど学校ではできませんでした。
あとね、日月いう、けん玉。あれは、学校でやりましたよ。基本的には、けん玉を持っていくのも、禁止されていましてね。それをカバンの隅っこに入れて、昼休みなんかに米原君とよくやっていましたねぇ。
米原君の家は旧制高知高校の官舎で、小津町にありました。新京橋からそこまで歩いて遊びに行きました。その当時の高校生が盛んにやっていたのはラグビー、相撲とボート。それから、テニスもよくやっていましたね。なかなかハイカラでしたよ。僕らはテニスのボールをね、よくかっぱらいに行きました。
子どもの僕らが野球をするのにぼっちり(最終頁※5参照)でね。今も小津町には官舎がありますよ、附属小学校・中学校の北にね。
『へなちょこ』ぼんの中学受験
僕らの中学受験は、昭和20年の春、終戦の直前でした。僕ら男子は、城東、海南か、市商へ行くものが多かったね。25人のうち、一番できるやつは城東中学校、今の追手前高校です。それから軍人の息子たちは海南中学へ行く。今の小津高校ですね。商売人の息子は、市商、高知商業ね。
それから、器用な子は高知工業。女子は第一高女。これは丸の内高校ですよ、今の。それから私立の土佐高女、今の土佐女子ですね。ほとんどがそこへ行きましたね。
僕はね、叔父が海南へ行っていたこともあり、ぜひ海南を受けたいと思っていました。将来、軍人になるという気持ちはまったくなかったけれど、海南が男らしくていいと言ったら、叔父が「おい、あっきん。君は海南、無理や」と言う。なんで無理かと問うと、そこは軍人学校でね、教練がきついぞと。おまえのへなちょこやったら、それこそ付いていけんぞ、言うて脅されてね。
じゃ、教練の一番やさしい中学校はどこかと問うと、叔父はしばらく考えて「それは土佐中くらいのもんやな」って答えたんです。土佐中は僕が通っていた附属小学校のすぐ東やから、よく見かけたし、じゃ、土佐中を受けようかとなりました。
この叔父は、母の一番下の弟で、山本幸雄(ゆきお)といいます。昭和2年生まれでしたから、僕とは5歳しか違わない。僕の一番の遊び相手で、子どものころから「叔父さん」なんて呼んだことはない。「幸雄さん、幸雄さん」と呼んで、兄弟のように育ちました。高知新聞に長く勤めて、80歳で亡くなりました。
結局のところ、土佐中学校を受験し、なんとか滑り込みましたよ。僕たちの小学校の秀才二人は、学校推薦で入ったんですけどね。昔は、そんなこともあったんです。その同級生二人はね、土佐中、土佐高と出て、東大へ行きました。やっぱり頭のいい子は違うなぁと思いました。
僕らは推薦組じゃなくて、土佐中学校を勝手に受けたんです。そうして、終戦直前の土佐中に入ったんです。
高知市大空襲で、すべて焼けて
土佐中学校に入学した年の7月4日に高知市は大空襲にあいました。高知駅からはりまや橋、桟橋まで、また、上町までの電車通り沿いはことごとく焼け野原になって、全部見通せました。住まいも店も、学校も全焼しました。
夜が明け始めたころ、空襲が始まりました。夏の夜明けですからね、4時か、5時頃。父母は新京橋にいましたが、僕はじいさんのいわゆる寓居というか、土佐中のすぐ近所にある別宅にいました。
じいさん、ばあさんと一緒に逃げたわけだけど、じいさんというのがへそ曲がりで、絶対に防空壕に入らない。僕は、いったん、ばあさんと防空壕の中に避難したんです。出たときには、じいさんは大やけどしていて、子ども心にも『これは、いかんな』と思いました。
しかし、それを介抱する手立てもなく、そのまま置いて、高見の方へ逃げるしかありませんでした。どんどん焼夷弾が落ちてくるからね。高見まで行くと、空襲はまったくありませんでした。ほんの2ブロック、その差でしたね。
帰ってみると別宅は全焼。仕方なく与力町に住んでいる叔父を訪ねましたが、そこもまる焼けでした。その叔父と僕と姉と、あと2人の親戚の子を連れて、その5人で、その日のうちに波介村、今の土佐市にある母静の生家まで歩いて行きました。
親父やお袋がどうなっているか、わからんままね。じいさんも心配でした。親父がオートバイで探し回って、なんとか見つけたものの、じいさんはもう大やけどで、結局、その日のうちに病院で亡くなったって。これは後から聞いたことです。
大嶋校長のもと、土佐中学校の再建
7月4日の高知市空襲で、住まいだけでなく土佐中の校舎も焼けました。木造でしたから、ほぼ全焼です。4月に入学して、学徒動員で6月に麦刈りに行って、その後すぐ焼けてしまったものですから、たいへんでしたわ。しかし、その当時の大嶋光次校長というのは、これはすごい方やったね。
もともと土佐中学校は、宇田、川崎という両財閥が私財を投じて創った学校です。幕末から明治にかけて、高知県は龍馬をはじめ、谷干城らいろんな素晴らしい秀才を輩出してきました。そういう傑出した人物を育てる、英才教育に特に力を入れるということで、宇田家と川崎家がお金を出して創った学校なんですよ。
ところが、敗戦になり財閥が解体されて、もう川崎家、宇田家からはお金が出なくなりました。大嶋校長は、当時の進駐軍、GHQね、これは県庁にあったんですが、そこへ行って、高知県の総司令官と面会し、土佐中学校の再建への支援を願い出たんです。
旧校舎、後方に女子師範も見える →
当時、浦戸の航空隊というのがありました。それから、今の高知龍馬空港、あれは、当時、海軍の飛行場だったんです。それらをアメリカ軍が占領し管理していました。その瓦、材木でよければ、大嶋さん、君にあげる。ただし、それを持ち運び、建てるのは学校でやってくれ、となりました。
その作業に僕たち生徒も動員されたんです。あの当時は4年生が最上級でしたが、みなね、農人町から大きい木造の船に乗って、日章まで取りに行ったんです。太平洋に出て、そうして瓦や木材を運んで、農人町へ荷揚げして、農人町からはトラックへ移しかえて。そうやって土佐中まで運んだものです。
それを僕らは、3年ほどやらされた。自分たちで棟材、瓦運びをやって、バラック校舎を建てたわけです。大嶋校長のもとでね。
当時の『悪りことし』中学生
土佐中学校は、僕たちから1年あとの27回生までは男子校でしたが、28回生からは男女共学になり、女子も入るようになりました。いろんな人に入ってもらって、入学金も取り、授業料も上げたんです。それまでの僕らの授業料は非常に安かったですよ。
というのは、宇田・川崎の財閥が運営していたからね。お金のない頭のいい子を寮へ入れて面倒をみていました。学費だけでなく、寮生活させて食べさせ、すべてをみたんですよね。そういうよき時代でした。僕ら、悪りことしは別で、ちゃんと授業料を払ってましたけどね。
中学生の悪りことしというのはね、まず不良の真似をするんです。不良はなにをしているかというと、詰襟のボタンを外して、帽子をちょっと斜めにかぶる。それからタバコを吸うんです。これが不良のしぐさです。それにみな憧れていました。これは、アメリカ映画の影響も大きいね。アメリカ人が、うまそうにタバコを吸うんですよ。
高知へもアメリカやイギリス、オーストラリアから進駐軍が来てたでしょう。そこから親父がタバコを買ってくるわけですよ。キャメルなんかね。その親父が買ってくるタバコをよく盗み取りして、僕は中学3年から吸ってたんです。まさに不良だね。だけど、秀才面してタバコ吸うのも、結構いましたよ。僕は、勉強せん、ぼんくらだったけれども、真似だけは一応やった。
後は女学生とね、ほとんどが土佐女子だったけれども、一緒に鏡川でボートに乗ったりしてね。今でいうデートです。うん、楽しかったですよ。土佐女子の女の子なんか、これも不良ですよ。まじめな生徒は来ないからね。
美味しいお汁粉屋があるとか、あそこのあんみつがうまいとか言って、よくその女の子たちと食べに行ったものですよ。僕も甘いものが好きだったから。不良っていっても、かわいいもんです。懐かしい思い出です。
あの頃の懐かしい映画の数々
母方の祖父がすぐ近所で映画館をやってたせいで、幼少時から映画は僕の生活の一部でした。まずは、鳳館のチャンバラ映画ね。僕の好きな俳優は、雲井龍之介とか、大乗寺八郎だったね。紅トカゲといって、覆面して、白地に紅のトカゲの柄の着物を着て、それでチャンバラする。その真似をしたもんや。それが僕の日課だったよ。
戦前は映画を活動写真といってました。おもに大都映画で、日活なんかもチャンバラ映画が主体だったなぁ。あと、松竹、東宝の現代ものがありましたね。いわゆる新派です。
昭和13年、映画を観に初めて叔母と行きました。それが『愛染かつら』で、僕にはちっとも面白くない。もう金輪際、新派の映画は観ないぞと思ったね。当時は、『旅の夜風』という主題歌と、上原謙と田中絹代が演じた津村浩三、高石かつ枝の恋物語が大評判だったけど、僕はまだ小学校へ上がる前。子どもが観たって面白くないわね。
でも、映画館へあんなに行列して入ったのは、初めてでした。それが、今の高知大丸のところにあった世界館という松竹の封切館だった。僕は、それまで、ほら、チャンバラばっかり観ているでしょう。上原謙や佐分利信は、後で知るんですけど、そんな現代ものなんか面白くないわけよ
。
けど、その当時、桑野通子という女優さんがいてね。子ども心にね、素晴らしくきれいな女優さんやなぁって思ったんです。この人は、東京のダンスホールでダンサーやってて、そこで映画界の方にスカウトされたと言われていました。非常にモダーンで、いわゆるスーツ、帽子の似合う女優さんでしたね。
そのあとが、高峰三枝子とか小暮美千代とか、あのクラスです。その時代になると、みなさん、よく知っていますよね。
戦後になると、外国映画もよく観るようになるんですが、子どもの頃からずっと、僕はこんなふうに映画三昧の生活でした。
初めて上京、そこで見たのは・・
昭和26年に、僕は初めて東京へ出ました。土佐高校(最終頁※6参照)は私学だから、公立より早く卒業式があって、大学受験するからと2月に東京へね。けど、僕は全然勉強してなくて、受かるわけないんですよ。友人はみな、東大とか京大とか、私立では慶応や早稲田とかに行きましたけど、僕はそんなの通るわけはない。親には受験すると嘘をついて、東京へ遊びに行ったんです
。
僕はやはり日本人ですから、上京してまずしたことは、皇居遥拝でした。東京へ着いた翌日、皇居へ行って、二重橋の前で最敬礼しましたよ。その帰り道、日比谷公園のほうで、人がバタバタと走っている。なんのこっちゃと思って、追っかけていくと、「マッカーサーが出てくるぞ」と言う。
極東軍最高司令官ジェネラル・ダグラス・マッカーサー。天皇陛下よりも偉かった人ですよ、当時は。僕も走って見に行きましたよ。
ちょうど昼ご飯の時間帯、GHQ、今の第一生命ホールのところでした。昼は家族と一緒にランチをとるので、車で出てくるわけです。家族はアメリカ大使館に住んでいましたからね。今の第一生命ビルを見てもわかるように、柱がそびえ立ち、石段もかなり高い。その両脇でGIが捧げ銃をしてね、そこにマッカーサーが出てくるんです。
マッカーサーは朝鮮動乱で北爆をやると言って、トルーマンと喧嘩して、首になる。ちょうど、その時期なんですよ。その証拠には、それからすぐ後の3月か4月に、彼は解任されて、アメリカへ帰るわけです。
そのマッカーサーが出てくるって、ものすごい人でした。僕はすばやかったから、一番前へ行ってね、手持ちのカメラでマッカーサーの写真を撮りました。初めての東京見物の第一の収穫は、このことでしたね。
もう一つの収穫は、お堀端に今もある帝国劇場で観た『もるがんお雪』です。帝国劇場は、今は改装されてくだらん建物になっていますけど、昔の帝国劇場は立派だったですよ。
『モルガンお雪』は、アメリカ人のJ・P・モルガン、いわゆる銀行家の金持ちと日本の芸者との恋物語を菊田一夫が脚色、演出したものでした。僕はそのころ、菊田一夫は知らなかった。でも、モルガンを演じたのが古川ロッパ、お雪さんが宝塚を退団したばかりの越路吹雪で、それは楽しかったですよ。
僕、ほやほやの高卒の18歳でしょう。入場券は結構高かったと思うけど、そこで『モルガンお雪』を観て、わぁ、東京やなぁと思いました。
次に有楽町へ行くと、日劇ミュージックホールというのがありました。日本劇場という、円形のホールの中にね。映画とレビューを交互にやっていて、ものすごくいいダンサーがいました。
ちょっと外人ばりの、手足の長い、日本人離れしたダンサー。それで、僕も、今度は一生懸命ダンスを練習しようなんて思いましたよ。
高知へ帰ると、お袋が「どうだった」って訊くから、「いやー、受からんかった」って。受からんわけよ、受験してないんやから。それだけね、ひどい息子だったんです。お袋は、随分悲しくて、頼りなく思っただろうねぇ。
学生時代はダンスとバイトに明け暮れて
この後、東京の予備校へ行くからと嘘をついて、また、東京へ出ました。駿河台予備校と言う有名な予備校。今でもあると思います。行く言うて、行かずに、また、遊んでいたわけ。昭和26年から27年にかけてです。
でも、そのあくる年に、今度はちゃんと明治大学を受験しました。受けに行っただけじゃなくて、明治大学商学部へ入学したんです。早稲田へ行きたかったけど、早稲田、慶応はお金がたくさん要るから。明治も学費は要ったけどね。
それが不思議なことに、受験の半年くらい前に、明大の春日井教授・・だったかな、その先生と電車の中で偶然、向かい合わせになってね。「君は今、どうしているか」って訊かれて、「僕は今、高校出て浪人中です」と答えたんです。そしたらね、「今度、うちの明治へ来たまえ、そして、僕のゼミを受けたまえ」って。
僕は、教授がそう言ってくれたら、もう無試験で入れるもんとばっかり思って、世田谷のその教授宅を訪ねたんです。すると、「バカ言っちゃいけないよ。ちゃんと受験してもらわなくては困る。合格したら、僕のゼミを受けに来なさい」と言われました。
それで、なんとか滑り込んで、『よし、春日井教授のゼミ受けるぞ』と。だけど、ゼミに入るには試験があったんですよ。20人くらいしか採らないから、試験するんです。受かるわけないわ。そりゃ、難しかった。
春日井教授は、経済学の先生。いわゆる近代経済です。教授のゼミを受けた者は、その当時の一流銀行、第一銀行とか三井、三菱銀行とか、野村證券とかへ採用になるというわけよ。俺なんかが通るわけない。ゼミの試験で入れんのだから。やはり、大学はすごいなぁと思ったね。
それで、僕の学生生活は、麻雀と玉突き、それと音楽で始まりました。レコード喫茶というのがあってね。ジャズ、タンゴ、シャンソン。もう、いろんなところへ行きましたね。楽しかった。明治大の先輩にハイカラな遊び人がいて、レストランとか洋酒バーとか、それからダンスホールにも連れて行ってもらって、不良を仕込まれたわけ。まぁ、素質もあったんだけどね。
そのかわりアルバイトもしましたよ、キャバレーでね。その当時、銀座のキャバレーは、昼間はダンスホールになっていました。だから、昼はダンスを覚えて、夜はキャバレーでウェイターのバイトをやったりしました。
そのうちに、バーテンダーの空きができたんです。ある先輩がとんずらしていなくなってね。「お前、まぁちょっとやってみろ」となって、それで、バーへ配属され、そこでまねごとを覚えました。
今思い起こすと、銀座に『機関車』というバーがあって、そこへ先輩が連れて行ってくれたんです。そこで生まれて初めてカクテルを飲みました。後から知ったことだけれど、その時のバーテンダーが鈴木雋三(しゅんぞう)という、後の日本バーテンダー協会の会長になった人です。僕のお袋と同じ明治43年生まれのバーテンダーでね、もちろん故人になっています。有名な『クール』の古川緑郎(ふるかわろくろう)とかね、名だたるバーテンダーが活躍していた頃の銀座。『機関車』も、あの時代を代表する銀座のバーの一つでしたね。
ちょうど朝鮮動乱のあとで、所得倍増の時代が始まろうとしていた頃ですよ。景気はずっと右上がりで、キャバレーにみなよく来ました。有名人も悪も、金持ちもね。僕はバイトをしながら、なんとか食いつないでいました。昼間はダンスホールに行って、夜はキャバレーで働いてという、そういう生活を続けて、ダンスの腕は上がりました。
母の商才で喫茶店『ユリヤ』開業
家業の方はというと、戦後も写真屋を続けていましたよ。進駐軍のヤンキーがフィルムを欲しがって、物々交換が始まったんです。ヤンキーも金がないものだから、タバコ1カートンをおやじのとこに持ってきて、それと撮影用のフィルムを交換するんです。
ちょうど中学生の生意気盛りの頃でね、僕も下手な英語を使ってやってみましたよ。ところが、全然通じないんよね。テン、ツエンティと言うと、テンはテンですけど、20をツエンティとヤンキーは言わない。トニー、トニー言うんよね。俺、なんでトニーって言うんやろうと不思議でね。20円だから「ツエンティ円」って言うと、「テン、トニー?」って訊いてくるわけですよ。そんな思い出がありますね。
進駐軍からもらったものは、タバコだけじゃなかったんです。オーストラリア人なんかは、バターとかチーズを持って来ていました。これも田舎の子は知らんわけで、「おまえ、チーズ食ったことあるか」って言うと、「いやー、ない」。それで、俺がチーズの缶詰を渡してやると、なんか旨いような、不味いような顔して食ってましたよ。
そんなわけで、我が家には、コーヒーの缶詰、MJBとかヒルス&ブロス、それにハーシのチョコレートとかまでが山のようにありました。すべてフィルム欲しさに進駐軍が持ってきたものだったんです。その一方で、日本人はまだカメラとか、写真を写すとかいう余裕がなかった時代で、家業の写真屋はじり貧になるばかりでした。
そんな中、うちのお袋は商才に長けてたものだから、『よし、これで喫茶店やろう』となったんです。それが『ユリヤ喫茶店』の始まりで、まずは上町4丁目に立ち上げました。昭和22年だったかな。これは大当たりでした。
昔の新京橋大西時計店辺り →
その後、焼けた新京橋の店の辺り一帯を中央公園にすることになり、代替地として帯屋町をくれたんです。今は『池田洋装店』と紳士服の『原』になっています。2店とも大きな店舗ですよね。2ヶ所に分かれたのをもらったけれど、どうしようか。喫茶店をするには帯屋町は向かんだろうと考えているとき、柳町の角っこに売地が出たんです。だから、帯屋町の替地を売って、そこを買い、喫茶店を上町から移して、そこで新たに始めました。
それが、昭和31年だった。『ユリヤ』では、親父がコーヒーを焙煎して、お袋がパンケーキ焼いたり、おぜんざいつくったりね。夏は氷が評判でしたよ。クリームぜんざいとか、ピーチアイスクリーム。当時はまだまだ珍しかったからね。お袋も親父もハイカラ好きだったから。まぁ、今考えたら、特にお袋はえらかったと思うね。
(下巻に続く)
<参 照>
※1 新京橋:
新京橋は現在の高知大丸前に架かっていた橋で、この橋のすぐ西に当時の高知を代表する繁華街の一つである新京橋通りがありました。鈴木時計店と鈴木写真館は軒を連ねて通りの南側にあり、堀詰電停前だった鈴木さんの母方祖父の映画館鳳館も、すぐ近所でした。当時はみな、堀詰で電車を降り、新京橋、京町と歩き、映画を観たり買い物をして、はりまや橋からまた電車に乗って帰ったそうです。
※2 子やらい:子どもの養育の意
※3 エビ玉や箱瓶:
エビ玉は直径約12pで柄の長さ約20pの小さな玉網。箱瓶は底にガラス板を嵌め込んだ木製の箱型のもので、蓋はなく、これを水中眼鏡のように使って川底を見ながら魚を獲った。
※4 えいし:良い衆の意。土佐弁では、「良い」を「えー」「えい」と言う。
※5 ぼっちり:土佐弁で、ちょうど・過不足がないの意。
※6 土佐高校:
鈴木さんが入学した土佐中学校は、昭和22年4月1日に新制中学校を併設、昭和23年4月1日には新制高校に昇格し、校名を土佐高等学校、土佐中学校と改めた。
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ふるさと長野から上京する
私は、昭和9年3月30日、長野県長野市で生まれました。82歳になります。昭和の時代は長く続きましたが、もう少し後で生まれたら、昭和二桁生まれで多少若く見られて良かったんじゃないかといわれたりもします。
いまは、東京で暮らしています。思い返してみると、私も若い頃にはいろいろありました。若さにまかせ、若さゆえに、いたずらごころでやってしまったことなど、当時は楽しいと思ってやったことですが、良くも悪くも数々あります。
私の父親は三男でしたが、その当時は、長男が家の跡を継いで、下の弟たちは財産をもらうこともなく、小僧に出るようなそんな時代でした。おふくろは、財産を持たないそんなおやじの所に嫁いできた訳です。
私はというと、三人兄弟の長男でしたが、長男だから財産をもらって家の跡を継ぐということもなく、自分でも長野に住み続けようという気もなかったのです。高校を卒業したら、食いっぱぐれる心配のない公務員になろうと思い、公務員の二次面接試験を受けるために、一度東京に出てきました。
でも結局、二次の試験には受かることができなくて、公務員になる道は開けませんでした。その当時、造船疑獄事件が起きていて、そんなことが私の試験にも影響したのかもしれません。
それでも、高校を終える時に私が志望した学校は早稲田でした。早稲田大学を受験しようと思っていました。その時はすでに、昼間の学校に通うことはあきらめていましたが、早稲田の受験チャンスを狙っていました。
狙ってはいたんだけど、1年浪人して入ったのは、お茶の水にある明治の短期大学です。そして、大学に通うために下宿として、母親の弟の叔父の家に世話になったのが、東京へ出てくる始まりでした。叔父の家は、最初は台東区浅草の竜泉というところにあって、鷲神社・(おおとりさん)のそばでした。小さい家で、風呂もドラム缶を改造したようなものでしたが、しばらくして、吉野町に家を建てて移っています。
私は、中学生のころからみんなに「おっさん。おっさん」と呼ばれていました。若ものらしくなかったんでしょうかね。母方の実家で法事か何かがあって、母親の兄弟たちが集まってお墓に行ったことがありました。お墓は、三十分近くも山の方に歩いていくような所にあったのですが、大勢でだらだらと歩いていく時に、中学生だった私が、みんなへの気配りをしたり、誰それが居なくなってはいないかなどと、気を利かしたりしたようです。
その様子を見ていた叔父さんが、「おまえは大人だな」といったことがあります。そんなことから、「おっさん」といわれだしたようですが、当時から、なんとなく大人びてはいたようです。私も「おっさん」といわれても、とくべつ悪い気はしなくて、それからもずっとそんなふうに言われ続けてきています。
伝統ある長野北高校へ進む
私は、長野県立長野北高校の出身です。北高校は長野県でも伝統のある学校でした。高校1年の時には、生物班に入り、顕微鏡で精子を見るなんてこともやっていましたよ。大人になってから、2〜3回、この時の生物班の同好会に出ています。10年ほど前に、当時の生物班の会を新たに作るからと届いた発起人の名前は、京都大学で研究をしているような人でした。生物班に入っていた人たちの大半は、その後農林省に入ったり大学の教授になったりしています。
北高校は、長野でも下宿させても行かせたいと親が思うような学校で、もともとは男子校でしたが、女性が一人初めて入ってくる、そんな時代でもありました。同級生の3分の2くらいは大学に進学し、いじめなどは無く、北高校に通っていると、皆から一目置かれるようなそんな学校でした。
大蔵省の証券局長(次官級)になった優秀なやつがいたり、慶応大学を出て、地方紙ながら信濃毎日新聞という長野県民の大半が取って見るような新聞社の社長になる人。そして、500人ほどの生徒の中で成績が1番か2番ながら、父親が早くに亡くなってしまい、当時の校長先生が保証人になって、高卒で富士銀行(現:みずほ銀行)に入ることができた優秀なやつもいます。叔父の仕事の関係で、富士銀行の行員名簿を見る機会があった時に、中に彼の名前も見つけました。大卒でなく、高卒で入ると最初からラインが違ってしまうのですが。
私が尋常小学校2年の時に、学校の制度が国民学校へと変わり、また高等小学校高等科が新制中学へ、というように、学校の区割りも制度も大きく切り変わる時でした。私が通う頃は、戦争が終わって間もない時だったので、将来のことは何も分からないし考えられないような状況でもあったのです。でも、中学の時の友達は、ガキ友達でずっと続いています。
高校の友達は大学を出た人が多く、同級会に行って自己紹介すると、すごいやつが多くて、おれみたいに靴屋になったというと、「ふ〜ん」というような雰囲気になることもあります。中には大学へいかないでも、出世した仲間もたくさんいるんですけどね。
多感だった高校時代
高校時代の私は、コルホーズとかいうような社会主義に憧れていました。でもしばらくして、みんな平等で、やってもやらなくても取り分が変わらないというシステムに面白みを感じなくなりました。そして、労働貴族である連合や組合長などのトップになるのは、東大出の頭の良い人たちばかりだし、資本家のトップの連中もまた、利口なやつがうまく上に立つのだと分かってくると、どっちがどっちともいえないなと思うようになりました。
そんなふうに生半可に世の中を見てしまって、将来これで生きていこうとかいう計画が立たなくなっていたように思います。その都度その都度の生き方で、そんなに望み高くしなくても良いのでは・・・。そんな考えになりました。
小学校6年の時、先生からいわれた、鶏頭(にわとりの頭)と牛のしっぽという話を思い出します。しっぽでも、でかい所に就いて生きていくか。小さくても鶏の頭のようになって人の上に立つか。二つの生き方があるよと言われ、自分でよく考えなさいと教えられました。
時代はだんだん競争社会へとなっていきましたが、私はというと、人を蹴落として何が何でも一番にならなくても、自分なりの目標を定めていけば良いと、割合にのんびり考えるようになっていました。
加えて、高校生の時に蓄膿症にかかったことで、授業が散漫になってしまいました。蓄膿症は、結局、東京に出てから手術することになるのですが、今思えば、早くに手術しておけば良かった。その時は手術するのが嫌だったのです。そんなこんなで、重い蓄膿症では優秀な人たちと互角に競争するのは大変だなとも思っていました。
社会もだんだん変わってきているし、資格を取ってトップばかりをねらうのではなく、職人的な考えで生きていくこと。職人的な生き方をすれば、いつの時代でも人に世話をかけないで生きていけると思うようになっていました。
靴メーカーとして生きていくことに
私は学校を出てからは、叔父さんの店で、問屋から革を買ってきて、靴メーカーにそれを売るというようなことを仕事としてやっていました。叔父さんのところには、娘1人息子2人がいました。
いつか、息子のどっちかが店の跡を継ぐようになるかもしれない。そんな時に、私のような親戚が店にいつまでも居るというのはどうだろう・・・という話が出てきて、私は、違う商売を始めるか、独立した方が良いのではないかと考え始めました。当時私は、他の人とは違うものを作って靴メーカーから喜ばれていたので、靴屋の仕事としては、同業の人よりも勝てていました。
お金は無かったんだけど、他の靴屋さんと違ったことをすればやっていけそうでした。だったら、独立しても良いかなと考えました。腹を決め、五年くらいそのための修行をして、独立するきっかけを待ちました。
芝浦の屠場(屠殺場)から三輪車で皮を持ってくるのですが、皮といっても、豚の皮をはいですぐのものなので、内臓は付いてないのだけれど、多少の肉だとか耳だとかしっぽだとかがまだ付いています。お得意さんの所へそれを持っていっては、みそ汁の中へ豚の鼻をスライスして入れたりして食べました。それを見ていた小僧さんたちが、東京のちくわは穴が二つあるのかなどといったり・・・。思えば、楽しい青春時代だったですよ。
そうこうしているうちに、行きつけのお得意さんの靴屋が、勘定が払えなくなったから「50坪ほどの自分の店を供出するがどうだろう。」という話を持ってきたのです。その話のお得意さんと、靴作りは一人職人を引っ張ってくることにして、おれが靴を売れば良いじゃないかと考え、そのことがきっかけとなって、3人で靴屋を始めようと思いました。
それまで叔父さんの店に対して、自分としてはそこそこに稼ぎもできた方だから、おれが独立する時には、叔父さんも資金を出してやるからといってくれていました。叔父さんからは100万円くらいは出してもらえるかと思っていました。それを資金として、他の2人がいくらか出し、有限会社「大倉製靴」が始められると思いました。
でも実際に、叔父さんのところを辞めることになった日の最後の最後、挨拶して店を出る時になっても、叔父さんからは何ももらえなかったのです。あの時は裏切られた気がして、店から帰る道々涙が止まりませんでした。3人でやろうと、他の2人は上座におれの席を用意して、おれがお金を持っていくのを待っていてくれたのに・・・、お金はもらえなかった。それでは話が違うからと皆で考え直そうと相談しました。
すると程なく、20万円の定期証書を貸してくれるという人がいて、すぐにそれを換金することができ、また他の2人からもお金を出してもらうことができ、どうにかこうにか、ようやく工場をスタートすることができました。
叔父さんの店を辞める時、そこで働いていたおばちゃんたちは、どうせまた、大倉さんはすぐに頭を下げて戻ってくるだろうと話していたようです。叔父さんの方も、そう簡単にはうまくいかないだろうから戻ってくるに違いないと思っていたのかもしれない。後で考えると、どうやらおふくろともそんな話になっていたようですが。
スタートした当初は、借り受けた工場はおんぼろ靴工場で、雑然としていて、まず初めに便所の掃除から始めましたよ。残っていた従業員も、あまり良い人はいなかった。
そこも1年して3人でやるのは解消しました。おれが主流だとみんな思ってしまうので、私も、共同でやるのは早くにやめた方が良いとは思っていたのですが。
順調だったが、波乱も
叔父の店で働いていた頃に、ある靴屋に材料を売りに行った時のこと。顔見知りの問屋さんが来ていて、おれが靴屋をやるつもりだといったら、もし、あなたがうちに売り込めるような靴を作れば、どこでも買ってくれるはずだから頑張れと言ってくれました。また、浅草の橋場というところで工場を紹介してくれる人も出てきました。家賃は10万円ほどで、丁度良かったので貸してくれるように頼みに行こうと思いました。
当時の浅草の橋場というと、バカでかい御屋敷があって、たいそうなお金持ちが集まっているような場所でしたよ。工場を貸してくれるように頼みに行った所では、おれの顔を見て、この人は家賃を滞納しそうにないと思ったそうで、すぐに仕事場として貸してもらえることになりました。私は、その時はまだ独り身でした。貸してくれたその人には恩もあるもんだから、その後もえらいご奉仕することになるのですが。
しばらくして、大家さんから、そこの場所を正和自動車という北千住のタクシー会社に売りたいので、大倉さん違う所へ工場を作るから移ってくれないかと言われました。自分たちはそれでも仕事はできると思ったので、移りました。
仕事は順調でした。家賃もだんだんに上げて、最後は四十万くらいだったように思うのですが、毎月、北千住の大家さんの所へ持って行く、そんなことを張り合いにして喜んで働いていました。
それから、ちょうどバブルの時代になっていきます。不動産屋さんが「借りていても何だから、その場所を買わないか」という話を持ってきたのです。そして、バカ高い買い物をしてしまい、多額の借金をしょい込んでしまうことになりました。私が50代半ば頃です。そんな金があれば他の場所へ移っても良かったのに。
当時、私の家には風呂がありませんでした。風呂好きの私のかみさんは、毎日3時か4時になると近所の風呂屋に行って、一番風呂に入るのがなによりの楽しみだったんですね。そのことを理由にしたら、かみさんは怒るだろうけど、その場所にすっかりなじんでいたので、その場所から簡単には離れられなかったこともあります。
工場は、建てつけが良いとは言えないのですが、貸し工場ではあっても、大家さんから新築で建ててもらっていたし、感謝して住んでいました。そこを安住の地と思って、家賃も働いていれば払えていたのが、結果として転落の道を選んでしまいました。私の工場でしか創れないというような靴もできていたのに。
そして、バブルの影響で商売をたたまなければいけないという経験もしました。うまくやれば家1軒くらいは残してつぶれることもできたのですが、私のために財産を取りっぱぐれてしまったとかいうことがないように、銀行の方だけは法的に整理して、あとはなし崩し的に支払いを全部きれいにしました。助けてくれた人もいましたよ。
それだから、今でもうちのかみさんは、大手を振って浅草の仲間のところに遊びに行けたりしていますよ。
いろいろな種も蒔きました
こどもは娘1人です。そこに婿がきてくれて大倉姓になってくれました。娘たちは、椿山荘で式を挙げましたよ。婿は東洋エンジニアリングに勤めていましたが、そこをやめて靴屋になってくれて、10年くらい私と一緒に靴屋をやりました。2人には子どもは授からなかったんだけど。
大倉製靴制作の靴
娘は銀座の三越の食品売り場に勤めていたことがあります。三越とはなにかとご縁があって、面白い話もあるんですよ。私が最初に世話になった叔父さんの革屋の名は「三越商店」というのですが、叔父さんが「越 三郎」という名前だったから付けた名前なのです。
当時の三越デパートへ叔父さんが靴の革を売りに行った時に、商標登録に違反するから名前を変えるようにといわれ、「光越商事」にかえたという経緯があります。叔父さんの会社も、そこそこに大きくやっていたからということでもあったようですが。
ちなみに、私の靴屋は「大丸商店」(後に「大丸製靴」→「大倉製靴」へと変わる)という名前でしたが、あの「大丸」からは特別クレームはつきませんでしたよ。
私の所で作った靴の写真を見て下さい。当時、新聞社が業界紙に載せるからと、私の「大丸製靴」が創った靴を撮った写真です。
この他の一般全国紙や雑誌にも出たり、昭和48年頃、松島トモ子が履いて週刊誌にも載ったりしたこともあります。一足、5万円です。「パンタロンも走る」などといってパンタロンが流行っていた時代でした。ハイヒールでは歩きにくかったけど、私の靴はストーム底が厚いのでよく売れました。底の高さは二寸(5〜6センチ)で、この時の靴が元になって、いまだにヒールの厚い靴を若い人が履いてくれています。
今、業界からズバッと足を洗うということは、生半可にしていると、どっかへ迷惑をかけることがあっちゃいけないとの思いもあるんです。
あの山田洋次監督の「男はつらいよ」の映画の中でも、私の工場の靴が使われたんです。シリーズの48作目「寅次郎紅の花」の時です。満男の就職がどうのこうのというストーリーで、葛飾の靴職人役で、私も、私の靴と一緒に出ました。山田監督に、ふだん通りの言葉でしゃべって下さいと言われましたが、結局、緊張して何もしゃべれなくて・・・。頭が真っ白な状態でしたよ。
この映画の関係で、今でも葛飾区の寅さん記念館共催の「寅さんよもやま川柳」というものにも参加しているのですが・・・。
そこで選に入った私の川柳です。
・生きてます三途の川に寅の顔
・チャブ台と寅とさくらとおばちゃんと
愉しんで、社会活動もやっています
仕事を離れた今は、平成23年から、葛飾区の地区センターで「回想法」を始めました。やり始めてからもう5年になります。
注)回想法とは:おもに高齢者を対象とし、その人の歴史や思い出を、共感しながら聞くことを基本とする心理療法の一つ。世代間交流や地域活動として利用されることが多く、葛飾区では全国に先駆けて活発に行われています。
回想法を始めたのは、婿のお父さんが超音波の「ミューマ」という器械を作っていたことからです。「ミューマ」で頭に電極をあてて、超音波で脳に刺激を与えると、認知証のリスクがうんと減るということなのです。
ちょうど葛飾区の高齢者支援センターから「回想法」の案内がきたこともあって、イメージとして「ミューマ」と「回想法」は認知症予防に関連があると思ったので始めました。その時の区役所の担当者が同郷の長野県出身だったということで、のせられてしまったようで、会の代表にもなっています。
毎月与えられるテーマに添って、地区の仲間と集まってやっています。毎回手作りで、個人的にその時の「回想法」のテーマに合ったポスターを作っては、会の時に持っていっています。ポスターの絵文字やイラストなどは、いろんな新聞などのチラシを参考にしています。武田双雲さんの妹さんや、金澤翔子さんの文字などからイメージを膨らませ、作っています。
画家の池田満寿夫氏とは長野北高校時代の知り合いで、彼直筆のサイン入りの本も持っているのですが、時々参考?にさせてもらいながら作っていますよ。でも、やつの絵は、彼の母親がいうように近所にはちょっと配れないような絵が多いですけどね。(笑)彼についてはいろいろなエピソードがあるんですよ。
こんな回想法の時のポスターもそうですが、私も絵は下手なりに描いたりしています。中学3年の時の担任の先生で、途中で教員を退職し、陶芸の道に入られた先生がいるのですが、いまだにその方とも続いていて、その先生の所に顔を出しては、皿を作ったりして、うまいへた関係なくいたずら書きなどしています。
「ディベート」にも参加しています。ディベートは、全国的に広まっているもので、例えば、その時に関心が持たれているような「結婚したらどちらの姓を名のるか」など一つのテーマを研究し勉強します。そして、賛成反対に分かれて議論し、相手の弱点についてテーマを深めながら討論していくもので、最終的には審判を受けることになります。
これは、全国的には創価大学が伝統的に強いのですが、葛飾区シニア支援センターで募集があったことをきっかけに、最初は何が何だか分からなかったけど、面白そうだったので入り、今は三十人くらいで続けています。
注)ディベートとは:その時話題になっているテーマについて、賛成反対の立場に分かれ議論すること。討論(会)とも呼ばれているもの。
娘たちと暮らすこの頃です
今は、娘たちと暮らしていて、娘たちに食わしてもらっているようなもんです。年齢的にも、自分の身体が動けなくなるのも、もうすぐ近くに来ているから、いろいろ、考え方の切替えが必要かなと思っています。
うちのかみさんは、腰の具合は良くないが、元気にやっていて、月に2〜3回ほど、自分が信じる横浜の宗教法人に通っています。その宗教法人は、あれよあれよという間に大きくなっていって驚くばかりですが、かみさんはかみさんなりにやっているようです。かみさんの姉はアメリカに、妹はカナダに住んでいます。
私は、特別な宗教だけにのめり込む方ではないのですが、宗教がらみの繋がりもたくさんあって、創価学会の山口(代表)さんの選挙の応援なんかをしたりしています。宗教は分からない所もたくさんあるけど、宗教がらみでは民主音楽協会とも交流があります。ここには、東大出などの優秀な人が多くいて、たいしたものです。こんなような、多くの人とのつながりは、私なりに大事にしています。
娘たちは、一生懸命やっていることだし、まぁ、今は平穏に暮らしています。婿は、もと勤めていた、東洋エンジニアリングにまた勤めることができました。
中途半端を絵に描いたような私の人生だけど、悪い方にはいってないなと自分では思っています。笑っちゃうくらい、くそ真面目な道を選んでしまった。今は、靴屋はやっていませんが、そんな人生です。
願うことといったら、何度か大病も経験しましたし、出来る限り健康でこどもたちの世話にならない身体をつくることですね。
あとがき
大倉さんとは、平成27年の秋に葛飾区の「回想法」の講座でお会いしたのが始まりですので、まだ日の浅いお付き合になります。お会いした当初より、風格があり、講座の中でも存在感を示されていたお一人でした。ご出身が長野県とのことで、お隣の新潟出身の私としては勝手に親近感を覚えたりしていました。
この度の「ききがきすと」の話し手としてお願いしたのは、大倉さんの包み込むようなお人柄にひかれたからのように思います。「ききがきすと」については、最初は馴染みがなく戸惑われたことと思いますが、私の問いかけにいつも「そうだね。」とまず応じて下さって、楽しいお話ばかりではなかったはずですが終始明るいお話振りでした。
人の恩を忘れることなく、人とのつながりを大切にされてきたこれまでの生き方は、今現在の人脈の多さや、穏やかなご家庭の在り方に現れているように思います。
お忙しい中、あたたかな時間の共有に感謝しつつ、これからも宜しくお願い致します。
posted by ききがきすと at 22:39 | Comment(1) | TrackBack(0) | ききがき作品 | |