2012年05月14日
現在活動中の「ききがきすと」のプロフィールです
学生時代、母の実家に遊びに行ったとき、祖父・斉藤甚右衛門(明治生まれ)が昔から語り伝えられているという「七曲がり家」の話を囲炉裏端でしてくれました。母から聞いたこともない話が祖父の頭の中に刻み込まれていました。これを書き留めて残しておければと、長年、脳裏に引っかかっていました。
昨年「ききがすと」の活動を知り参加しました。最初の作品は、祖父への思いを残したいと願う友人からの聞き書きです。
※海田の作品は「人が集まってくれる暮らしは楽しい」です。
松本すみ子(まつもとすみこ)
聞き書きの活動をしたいと思い始めたのは、今から5・6年も前です。
一度、講座らしきものを開催したこともあるのです。「ききがきすと」という名前だけは、その時に決めました。でも、アイデアが練れてなくて、続かず。今回、5名の仲間を得て、ようやく本格始動することができました。嬉しい!私自身はもの書きを主たる生業にしていますが、取材も執筆もまだまだ勉強が必要。
一人前の「ききがきすと」になるべく精進します!
※松本の作品は「満州で家族を失った女性の問わず語り」です。
清水正子(しみず まさこ)
長く生きてきた人たちはすべて素晴らしいストーリーの持ち主であるのに、「自分の人生なんてたいして面白くもない、平凡なもの」と思い込んでいる例が見受けられます。でも決してそんなことはなく、みんなが必ず大事なものを持っているのは驚くばかりであり、傾聴にはそれを引き出すこのうえない楽しみがあります。さらに、そのストーリーを書き留めることは、そのひとのアイデンティティーの『見える化』であり、それからも活き活きとした人生を送っていくツールとしてもらえると信じています。
※清水の作品は「アン 〜なんでも自分で〜」です。
菊井正彦(きくい まさひこ)
もともと、話すことより聞く、聴くことの方が私の持ち味です。「ひたすら聴く」役のボランティアなどもやっていましたので、比較的抵抗なく、この活動に参画しています。自分自身はまだ人に語れるほど人生はもっていませんが、その分、他人とは違うその人らしい人生や、その一端にふれながら、それを記録に残すことの意義や素晴らしさに関心をもっています。今ちょうど、知人の自分史作成のお手伝いに取り組んでいます。これからも、“貴方の人生に耳を傾けます”。
※菊井の作品は「人生に悔いなし、向学心に燃えて」です。
豊島道子(とよしま みちこ)
今から7年程前に、自分史ではなく、「家族史」的な本を自費出版した事から、個人や家族の生きた証を、それもその人の話した言葉で書き残すという「ききがきすと」に興味を持ち、活動を始めています。ぜひ、色々な方の人生の足跡の一部でも形に残すお手伝いをさせていただければと思っております。ききがきすと講座を受講していただき、一緒に活動して下さる方が増える事を期待しています。
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2012年05月04日
ききがきすとパンフレットと申込み用紙
Ryoma21では聞き書きができる人を養成し、その資格保持者を『ききがきすと』と呼びます。また、「ききがきすと養成講座」を受講して資格を取り、ご自分で活動したり、Ryoma21の仲間と一緒に活動することもできます。
詳細説明、システム、料金、申込みなどは、下のPDFをご利用ください。プリントアウトすることができます。
【聴き書きのシステムと料金.pdf】
【聴き書き申込用紙.pdf】
*「ききがきすと」に関するお問合わせは、 info@ryoma21.jp まで。
「ききがきすと」のホームページは http://kikigakist.ryoma21.jp/
Ryoma21のホームページは http://www.ryoma21.jp/
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2012年04月19日
ききがきすと合格者の作品
2011年に開催された第2回「ききがきすと養成講座」の合格者の卒業作品を掲載します。
語り手の都合で、掲載されない作品もあります。
◆卒業作品
1.アン 〜なんでも自分で〜
かたりびと:アン・M・ハロランさん ききがきすと:清水正子
http://kikigakist.ryoma21.jp/article/265419850.html

2.山を愛し、お酒を愛し、人を愛し
かたりびと:佐藤忠男さん ききがきすと:豊島道子
http://kikigakist.ryoma21.jp/article/265403383.html

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2012年04月18日
アン 〜なんでも自分で〜
かたりびと:アン・M・ハロラン
(東チモール民主共和国 外務省 地域協力統合局 顧問)
ききがきすと:清水正子
ニューサウスウェルズの小さな町に生まれて
生まれた町『ウォガ・ウォガ』はニューサウスウェルズ州の農業地帯の中心地で、今では人口4万のかなり大きな都市になっていますが、私の生まれた当時はごく小さな町でした。
気候は、現在、私の自宅がある所より北なので、もうちょっと暖かかったように思いますが、とにかく乾いて強烈な砂嵐の舞うところでした。あの砂嵐…、私の中ではそれが一番強い思い出です。何しろとても若い頃の印象ですもの。
教育者ファミリー
ものごころが付いたとき、自分の家は教師一家だわ・・・、と気づきました。両親とも教師で、とくに父親は5つの学校の校長を兼任しておりました。姉と私はのちに教師となり、妹も保育園の先生になりました。
自分も卒業・就職・結婚して独立して生きる年齢になったとき、当時女性にとって選択肢は2つ、保育園の先生か学校の先生になるかでしたが、保育園は苦手だったので、学校の先生になりました。
最初は中学校を終えた16歳で教え始め、資格は補助教員でした。このときはギリシャ語、フランス語まで教えたことがあります。それから教師養成学校へ行って正式に教師となりました。
教師になっても、最初の赴任先は小さな学校で、教師2人と30人余りの生徒という規模の学校でした。それで全科目を教えたものです。ウェールズでは当時教師が不足しており、ときどき要請されて他の科目を教えることは普通でした。のちに英語、歴史、地理の3教科のエクスパートとして教師を続けました。
自分の好きな生き方を選ぶ
16歳まで故郷ですごし、5〜6年間、教師として働いた後、南隣のビクトリア州に休暇で行って、そのまま郷里には帰りませんでした。
そこで結婚はしなかったけれど一児をもうけ、未婚をつらぬきました。ある男性と長い間暮らしたのですが、息子ひとりを産んだ後、欲しい子供の数で意見が合わなかったりして、結局、結婚しない生き方を選びました。
子供は可愛いけれど1人で充分、子供を産む経験は1回でいいと、周囲の視線にもめげず、「結婚しない」という自分の生き方を通したわけです。もちろん当時の世間はこんな生き方を認めるようなものではありませんでした。でも人は自分の好きな生き方を選ぶべきだと思います。
彼とは別れてから全然連絡をとっていません
教師はすてきな仕事
59年に教師として人生のキャリアをスタートし、82年まで23年とは、なんと長い年月でしょう! 働きました。今でも教え子が、私が昔教えた学校に通う子供を連れていくのに出会うことがありますよ。
ここ東チモールでも教え子の一人にばったり出会い、彼女が15歳のとき以来でしたが、すぐ分かって、友達として付き合い始めました。彼女は博士号をとって、今、管理職についています。他にもときどき「どこかでお会いしましたよね・・・」と言って、近寄ってくる人に出会うけれど、みんな教え子です。
昔教えた女性たちとは今でも会うと懐かしく、しかも、皆素敵な人になっており、女子校で教えたことが本当に良かった・・・。男子校では教えたいと思いませんでしたね。
教師から公的機関の仕事へ
82年に教職を離れたのは、ちょうど息子が中学・高校を終えて大学に行くなど、郷里を出て自立するときであり、もう大人だから、これ以上彼のそばに居て干渉しない方がいいと思ったからです。でもそのときは自分がこれから何をしたいかはっきりしませんでしたね。
しばらく教職とは関係ない仕事をした後、ビクトリア州の公的機関の仕事に就きました。83年の5月のスタートです。
常に上昇志向を持って行動することが、キャリアを積むためには必要ですが、そうするうちに、私の場合ラッキーなことに、望んだ仕事への道が開け、労務管理の仕事にかかわることができたのです。
ここでの仕事が、次のキャリアへのステップアップとしてとても役立ちました。ビクトリア州の大病院のひとつに労務管理部長として招かれ、この病院は公共セクターの一部門でしたから、公共部門のシステム理解が深まり、さらなる仕事へとつながっていきました。
キャリアアップを望むなら、考え過ぎずに、運を天に任せて、とにかくやってみることです。それが駄目なら他のことに目を向ければいい・・・、これが私の信条かしら。
旅がセットの楽しい仕事
産業法や労務管理の仕事を経て、10年ほどカソリックの学校で人事管理業務に関わりましたが、この仕事はビクトリア州のいろんな地方への旅が必須でした。おかげで実にさまざまな地方へ旅し、さまざまな興味深い人たちに会い、普通なら決して行かない所で素晴らしい経験をすることができました。いい仕事でしょ?
旅といえば、私の心を燃え立たせるものはヨーロッパへの旅ですね。
初めてヨーロッパに行ったのは、同僚のドイツ人教師とでした。彼女とは長期休暇を利用してスイスに行き、いわゆるホームステイをしながら勉強3週間、ヨーロッパ旅行3週間の6週間にわたる日程の旅行をしたのです。73年が1回目、そして75年が2回目です。 以来ヨーロッパにとりつかれています。
旅をして思うことは、国によって人間性が違うことはないが、文化はそれぞれ独自のものがあるということですね。私のお気に入りはイタリー・・・。これからも何度でも、出来るだけ行きたい国です。でもお金が問題!
息子と私
息子が16歳のとき3ケ月間のヨーロッパの旅に連れて行きました。バックパッキングの旅で、私は息子に私の目を通してヨーロッパを見せてやりたかったのです。私にとってギリシャ、ローマの歴史は実に興味深いものであり、このとき自分たちの文化的歴史的背景・事物をじっくり見ることができて嬉しかったですね。
息子の教育を目指して行った旅ですが、彼はいま、ビクトリア州ジーロン市にあるシェル石油の精製プラントで衛生保安管理部長として働いています。考えてみればまったくヨーロッパ文化と関係ない実際的な分野に行ってしまったんだわ。
東チモールでボランティアを
04年にこの地東チモールを訪れて、2〜3日滞在し、この地の人たちと接して、素敵な縁を感じたものです。みんな親しみこめて歓迎してくれ、本当にほっとする時間を楽しむことができました。
これは以前から考えていたことですが、弁護士の友人がアフリカのマラウィで、もうひとりはインドで、それぞれボランティアとして働いたときの素晴らしい経験を話してくれたのもあって、退職したらどこかで、ボランティアとして貢献しようという気持ちが固まったのです。
「オーストラリア・国際ボランティア協会」にボランティアの申込みをし、面接で特に東チモールに関心があることをアピールしました。その結果、いまの仕事を打診され、06年から始める予定でした。
でも、この年、東チモールで暴動騒ぎが起こって、政府はボランティア全員を引き揚げさせました。それで私も何か月か待たざるをえず、提案した計画もしばらく延期となりました。以前働いたことのある病院から声をかけられたものの続ける気になれず、断りました。
結局、08年になって私の希望が実現し、東チモール国立赤十字社で仕事を始めました。この国で18か月過ごし、国と国はほんとうに密な関係にあるという感想をもっています。現在ここの外務省で働いている印象は、トップの局長からスタッフたちまで素晴らしい人たちで、本当にたくさんの事を勉強しました。そう、まるで大家族のような雰囲気です。
さらに勉強をするとしたら
退職した今、新しく勉強するとしたらそうですねぇ、自分は信心深い人間ではないけれど、他の人の宗教に対する考えに興味があるから神学かしら。
私には、なぜ宗教心の強い人と反宗教的な人がいるのか、なぜ信仰のためにときには過激な(私から見れば否定的な)手段に出る人がいるのか・・・、こういうことに非常な興味があります。なぜ宗教心がひとの行動を左右するのか分からないのです。
それで、ときどき神学か心理学か、それともふたつとも勉強してみようかと思うのですが、まァ、多分無理でしょうね。
老化現象?気にしない、気にしない
この年になっても、頭脳は日々働いているのだから、鍛えなくては。
老いは心の持ちようで、例えば、物忘れがひどくなったのは何かの症状ではないかと怖がる前に、昔からいろんなことを忘れていたじゃないの、と考えたらどうかしら。年取って物忘れすることが年齢のせいかもしれないと思えるとき、今まででもずっと、同じようなことをやってきたじゃないか、と思い返せばいい。
たとえば、私は人の名前を憶えるのが苦手で、親しく話した人に再会しても、顔は憶えているのに、名前は絶対に頭に浮んでこないという確信があります。その意味で、大組織で働くことは都合がいいわね。私が元働いた病院に戻ったとき、20年来働いていた人たちがまだいました。
顔は分かるけれど、名前がぜんぜん思い出せない。でも、みんな胸に名札を付けているから誰の名前も聞く必要がないのね、本当に便利でよかった。あんな風に、みんな額かなんかに名前を“いれずみ”にしたら便利でしょうね。
オーストラリアのシニア
オーストラリアでは65歳ごろの、定年でリタイアした人たちのため、政府はそのまま職場にとどまってパートタイム的に働くことを奨励しています。年齢の制限はありません。長く働いていたシニアは、異なる観点から豊富な経験を若い人に伝え、分かち合うことができるということが認められたのだと思います。これによって、社会的にも考え方のバランスがとれ、役に立つという考えからです。
元の職場を辞めずに、フルタイムではなく、週に2〜3回とか、何日かおき位のペースで仕事をする人がだんだん増えています。オーストラリアでは当たり前のことになりつつある、と言えるでしょう。
家族の中のシニアの出番
家族の中のシニアの出番をせばめるものとしては、少子化問題がありますね。私の小さい頃は、自分たちは3人姉妹ですが、他は6人きょうだいが普通でした。女は子供の世話に生涯の長い時間をとられ、大家族ですから、老人たちも役割が多かったのです。でも、現在は子供2人が普通でしょ? 孫の数も激減しています。大家族がなくなって、今のような極小家族では老人たちの孫の世話という活躍の場がなくなったのですね。
私自身は2人の孫の世話で手いっぱいでした。息子夫婦の息抜きのため週末の1日か2日面倒をみてやるのが精々で、預かった週の終わりにはヘトヘトでした。私に言わせれば2人でも多いくらいという感じですよ。
でも、今ふたりはティーンエイジャーで、私がオーストラリアにいるときなど、学期中はたいていの週末をいっしょに過ごします。でも、彼女たちは勉強や下調べに忙しいので、読書ばかりで静かなものです。孫たちが来るのも、会いに行くのも楽しみです。
幸運なことに、現在、東チモールに姪と家族が住んでいて、その子供たちは3歳と5歳。可愛いくてなりません。ちょうどこの時期にこの国に来られて良かったと思いますし、これも滞在理由のひとつかもしれません。
何でも自分で
オ―ストラリア人は飛行機や汽車より車で移動するのが好きです。私もそう。
たとえばニューサウスウェルズ州の首都はシドニーですが、メルボルンから行くには飛行機なら1時間で着いてしまいます。でも、私は車で10時間かけて行く方が好き。旅のトラブルも怖いとは思いませんね。自分で解決を目指します。
私の信条は何でも自分ですること。他人に頼むのは苦手です。
*「アン 〜なんでも一人で〜」の英語版もあります。まもなく掲載予定です。
(完)
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2012年04月18日
山を愛し、お酒を愛し、人を愛し
かたりびと:加藤忠男 ききがきすと:豊島道子
先輩教員の誘いで始めた「山」に魅せられて
今年85歳になるけど、人生をあらためて思い起こしてみると、半分は山だったね。富士山にも事あるごとに登ったしね。
山をやるきっかけ? 高校の教員になってからだね。大学で山岳をならした人が私の同僚で。そうね、10歳くらい上だったかな。山好きな先輩で、手ほどきしてくれて、山の登り方とか、こんな山がいいとかを教えてくれたり。その人は拓殖大学の山岳部出身で、キャリアからいうと、南極探検隊なんかにも参加できたような人なんだけどね。
学校の教員だったから、学校が休みの夏・冬は少し遠出をして、二人だけで行った山はたくさんあるね。低い山は低い山なりの良さがあったし、高い山だけが名峯ではないし、1000mでもいいわけ。
田部井淳子さんも、福島県にもたくさんいい山があるので、好きな山をせっせと紹介して登ってるね。一度一緒に上った事もあるな。うーん、八ヶ岳はいい山だ! 彼女は福島出身だし、親近感があるね。彼女まだまだやれるし、テレビで見るにつけ、元気でいいねぇ。女性初のエベレストに登る候補の女性が、たまたま具合が悪かったので、次候補の彼女が選ばれて、それでどんどん頭角を表していったんだよ。まあ、世の中何かのきっかけというか、運もあるんだねぇ。
山を教えてくれた人の大怪我
そうそう、その先輩が、怪我をしたんだ、大怪我をね。運動会の後、慰労会があって、お酒を飲んで家に帰るのに、タクシーに乗ったらしいのね。降りた場所が川べりで、酔っぱらっていたし、狭いのでそのまま川に落ちてしまったとか。大変な事故で、頭打って、腰打って、脊髄損傷。入院して、そのままでついに復帰できなかったね。
私もがっかりしたけど、それからは一人で登るようになったね。みんなしてわいわい登るような事はなかったけど、好きだったね、山は。
山で道に迷ったという事はないかって? 地図とコンパスだけで登るけど、それは無かったね。
妻も山が好きだから、止められた事は無かったよ。「行くの? 気をつけて行ってらっしゃい」っていつも送りだしてくれたよ。
山は無理しちゃいけないというのを、いつも自分に言い聞かせてたよ。自分の技量を過信してはだめ。山は臆病ぐらいの方がいいんだ・・・。無理やり登ると、雷にあたったり。冬の山はいいね。厳冬期はやらなかったね。3月なると雪がかたまってくるので、アイゼンきかせて登るんだけど、そのあたりがいいね。
どんな山でも、冬山で雪崩はいつでもおきるから。クレパスはあるけど、危険性は少ない。幅が2m、深さ30mあって100m続くんだね。
大好きな山「剣岳」とその小説
一番好きな山?
真っ先に立山。「剱岳 点の記」という映画が最近あったでしょ?山のガイドで、山案内人が剱岳の高さを測ったんだね。あの頃、地理観測所が地図を作っていたと思うけど、その役所に勤めてたのかな。
本もあって、大好きな本(注)なんだけど、それが映画になってね。何度も見たよ。おもしろかった! 自分の知ってる山がたっぷり出てくるから。剱岳は、富山県になるのかな。立山の最高峰!立山から室堂平、バスとケーブルとトンネルの中はトロリーバス・・。扇沢からだとかなり時間はかかるね。剱岳を含むのが立山連邦。日本三霊山の一つとして今でも崇められている山山だ。
*注:本書は、日露戦争直後、北アルプスの劔岳登頂を命ぜられた測 量官・柴崎芳太郎をモデルにした小説である。当時、劔岳は前人未踏、弘法大師が草鞋3千足を使っても登れず、登ってはならない山と恐れられていた。その劔岳の踏破を草創期の山岳会が狙っていた。これを知った陸地測量部のトップ層が初登頂は譲れないと、命令した。
陸地測量部は30年間にわたって測量を続け、ほぼ日本の地図を作り上げていた。最後に残ったのが劔岳周辺。日本の山は、修験者など宗教上登頂された以外の山はほとんど陸地測量部員によって初登頂されている。絶対に山岳会に先を越されてはならない、上司がすべて陸軍将校の陸地測量部員にとって初登頂は至上命令だった。
困難を極めたが、剣岳と映らの大雪渓(現在、長次郎谷と呼ばれている)から山頂を極めた。しかし、山東三角点設置のための材料はとても背負い上げられない。やむなく四等三角点、それでも長さ10尺(3m)、切り口1寸5分(4.5cm)の丸太を担ぎ上げなければならなかった。ゆるぎない信念と使命感、部下への思い遣りあふれたマネジメントなど、リーダーの資質十分な柴崎と、確かな技をもった律儀な職人長次郎の組み合わせによって三角点設置のための劔岳登頂は、はじめて成しえた業績と云えるだろう。「文藝春秋社のコメントより一部抜粋」
秋田の兄も山好きだった
いろんな山に、秋田の兄貴も連れてったよ。孝吉兄も山を恐れない人だったから。山大好きだったけど、あの人も山にきのこ取りに行って、遭難し、急死に一生を得たね。新聞紙やらで寒さを凌いで、一昼夜、水だけで生き延びるとは、やっぱりたいしたもんだな。晩秋の秋田の山奥では氷点下だったろうし。
あの人は筆まめで、文筆家。たいした筆まめ。みんなに書いたものを送ってね。あの人は、小さい頃から絵は断トツに上手かったね。小さい頃に筆セットを買ってもらって、絵具もあの頃は高かったけど、養子に行ったから、待遇が良かったんだろう。よく風景画を描いていたのを覚えてますよ。私もそれなりに絵は好きだったけど、比べ物にはならないほど上手かったね。
本当は東京芸術大学に行きたかったけど、勉強の方で落ちちゃったんだ。それから仕事は日本生命やら転々として、絵は単なる趣味になっちゃったね。あのまま絵の世界に入っていたら、それなりに大成したかも知れないが。
日本の登山は信仰登山
剱岳というのは信仰の山。日本人の山登りと西洋人のそれとでは、考え方が違うんですよ。日本人は、昔から山には神様が宿っているという信仰をもって、祠(ほこら)を建てて、そこに参拝登山をするという感覚。信仰のために登るという歴史があった。
しかし、明治時代になって、近代登山といって、スポーツ登山というか、信仰がなくても、登山をするようになった。ところが、ヨーロッパ人は日本のそういう信仰登山に関心がなく、スポーツ登山が無いと考えて、日本の山を開発しようと、乗鞍岳とか穂高とかに登ったんですよ。宣教師たちが剱岳に登った。ヨーロッパ人は剣岳を未踏の山と勘違いして、まあ知識が無かったのかも知れないが、こぞって剱岳に登ったんだな。
日本では昔から富士講・何々村で、今度は立山に登るから年間計画を立てて、いついつ登るという風にして登る。参拝に行く・・・、富士山参拝・伊勢参拝・というのが講なんですね。富士講の講というのは、講和の講・・集団の事。富士山の神様を信じて登る集団は『講』、立山に登る集団は『立講』ってこと。
山に行くにも旅費がいるわけだね。講はみんなで旅費を積み立てて、村長は順番に村民を連れていくわけ。積み立てていれば、いつかは行けるわけだから。
日本の近代化でいろんな事がおきた
明治になって、日本も近代化するために、政府が出した廃仏棄却令・・・、仏を捨て去れってこと。日本は仏を信じてお寺を信じきたのに、近代化を急ぐために、古い物は悪い、西洋の物がいいと。
明治の初期はすべて日本の古いもの捨てて、幕府を全部悪い物にした。それを倒した朝帝はいいという風になってしまい、そういう風習が続いたんだね。日本はある部分、文明開化が行きすぎて、西洋文化は進んだけど、日本独自の文化を捨てた、という過去があるんですよ。
今はどうなんでしょうかね・・。
徳川幕府を倒さなくては、日本はついていけないという事で、捨てちゃったんだね。いいか悪いかは別として。大仏様の上に天皇を置いたわけ。前は天皇が下だったのに、江戸時代から仏様の上に天皇絶対主義になったんだ。現人神・天皇は生き神様。天皇はずっといたけど、政治から手を引いてしまったわけ。幕府に任せたわけ。権力はないけど、えらいものにしておこう、という事だね。
また山の話になるけど、今の世の中でも山女(注:山ガールのこと)とか流行ってるらしいけど、山に登ると崇高な気持ちになるとか、御来光を見るために富士山に登るとか、いつになっても日本人は信仰登山のような気がするけどね。
最近までやっていた「ウォーキングの会」
ずっと温めていた素人のための「ウォーキングの会」を主婦を中心に、楽しくやったのが最後だね。毎回鎌倉や、横浜のこの辺の旧所名跡を廻りながら、ゆっくり歩くという趣旨で近所の人に声をかけたら、それなりに集まってね。
毎回、自分で実際歩いてポイントを探して、計画を立てるのが、それは楽しかったね。もともと歴史も好きだし、歩くのも好きだから。ルートをあれやこれや考えている時が、それもお酒を飲みながら考えて。いやー、最高だったね。まあいつしか自然消滅して、その会も無くなったけど、晩年のいい思い出だ。
あとがき
私の父の兄弟である忠男叔父の「ききがき」をするには、あまりにも壮絶な人生を知っている私としては、非常に複雑な思いでした。しかし限られた3時間という範囲で、何か叔父の一番好きだった事の少しでも書き残す事ができれば、という思いでした。
私が小さな時から一番愉快で、物知りだった叔父は、私が上京してからも人がよく集まり、笑い声の絶えない家でしたので、叔父宅へは事あるごとに行っていたのが昨日の事のように思い出されます。
今は、体が思うようにならない叔母を介護しながら、自分も進みつつある認知症とむきあって穏やかな日々を過ごしています。かわいい孫が4人もいるのですから、まだまだお二人仲良くどうぞお元気でお暮らし下さい。
posted by ききがきすと at 22:40
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| ききがきすと作品
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2012年01月09日
2011年ききがきすと養成講座受講生の実習作品
2011年に開催された第2回「ききがきすと養成講座」の受講生の実習作品を掲載します。
第2回は6名の受講者があり、合格は3名でした。
そうなんです!座って話を聞けばいいという講座ではありません。実習が主体の厳しい講座です。作品を作る力をつけないことには意味がありません。だから、「ききがきすと」合格者はまだ、たった合計6名しか誕生していないのです。
それでも、合格した方々は自分の作品を見て、本当にうれしそうな顔をされます。「1人だったら、できなかった」「忙しくて作品を仕上げるのが大変だったけど、がんばってよかった」。そういう感想を寄せてくれます。
また、入居者の中から語り手を探してくださった中央区の高齢者施設「相生の里」さんからは、「こんなにいいものができるとは思っていなかった。ご本人やご家族、お世話するヘルパーさんなどもとても喜んでいます」「次回もぜひ、うちの入居者さんの話を聞いてまとめてください」という嬉しいコメントをいただいています。それを聞いた受講生の喜びもまた、格別でしょう。
6人の「ききがきすと」の力を活かすために、2011年は様々な活動をしかけていきたいと思います。そして、第3回養成講座も開催する予定です。関心のある方は、ぜひ、ご参加ください。開催要項が決まり次第、公開します。ただし、先に書きましたように、楽な講座ではありません。でも、素敵な活動です!
◆受講生実習作品
*卒業作品を未提出により資格取得までいかなかった受講生の
作品も掲載しました。
*2名1組で担当しましたので、同じかたりびとの作品があります。
完成作品は担当者それぞれに異なります。聴き手の個性が表れます。
*ききがきすと資格取得者3名の卒業作品は別途、掲載する予定です。
1.唄って踊って恋をして 〜清ちゃんのものがたり〜
かたりびと:木下清子さん ききがきすと:清水正子
http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245060398.html
2.人生に悔いなし、向学心に燃えて
〜「旅人(たびにん)さん」と言われ、各地を転勤する中で〜
かたりびと:大嶋みつよさん ききがきすと:菊井正彦
http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245068994.html
3.心の中の大手町、赤坂、月島
かたりびと:長縄芳子さん ききがきすと:S.K
http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245057800.html
4.市丸姉さんにあこがれて 〜95歳の今なお、どどいつを!〜
かたりびと:木下清子さん ききがきすと:豊島道子
http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245069307.html
5.転勤族の妻、60歳の大学生、趣味さまざま
〜振り返り、悔いない人生〜
かたりびと:大嶋みつよさん 聴き書き:H.K
http://kikigakist.ryoma21.jp/article/245065766.html
posted by ききがきすと at 04:49
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| ききがきすと講座
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2012年01月09日
唄って踊って恋をして
〜清ちゃんのものがたり〜
かたりびと:木下清子 ききがきすと:清水正子
生まれは東京の佃です
きょうだいは6人で、みんな字がうまいの。私だけが左ぎっちょ。それに私は字が書けない。読むことは読むんですよ、ただ字が書けない。そのために見ることを憶えました。字が書けないけど見れば覚えるじゃないですか。ああ、これは何だわ、これは何だわ、あ、これは私の苗字の木下ってもんだわ、っていうふうに目で覚えるの。尋常小学校はちゃんと6年出たのよ。読み書きって一応教わったんだけどねー。
きょうだいは全員生きています。で、私がこのホームに居るでしょ、長男が「清ちゃんお金を送ったよ」って電話してくるの。「あら、兄さん悪いわねぇ」って言うと「まァ良いじゃないか」って…たとえ少しでもお金を送ってくれるから、うれしいです。昔からみんな仲良しのきょうだいなの。
歌は寄席でおぼえたの
小さいころから寄席へ行ってたわ。知り合いじゃないんだけど下足番の小父さんに、「小父さんこんちは」って挨拶して、言われないのに「この下駄どこ入れんの?」って聞くと、「ああ○番に仕舞ってちょうだい」って言うから、「ハイ」って入れたりして。そう、まじめに働いてたもんだから可愛がってくれてね。
あの市丸姉さんて人いたでしょ? そう一流のいい芸者。私が大好きだったもんだから「あ、今日は市丸姉さん来るからお客の方に行ってね、お客のつもりで座って歌聞いた方がいいよ」って言ってくれた。
毎日学校から帰って来ると、勉強なんかしないで寄席へ行ってたの。そういうとこ行って字や歌や小唄憶えた。都都逸なんて教わらなくたって歌えたわ。私まだ十四、五歳だったけど、歌が好きだから、「よっぽど寄席へ出ようかしらん」て言ったら、親に「そんな思いしなくたっていいんじゃないか」って言われてやめたの。
魚拾いでお小遣い稼ぎ
そういうくだらないネ、生活をずーっとしてたの。ただ盗みだけは、しない。泥棒はしないのよ。ともだちにね、「魚市場の乞食やんない?」って言われたの。「いいわ」って返事して。なんだか分かる?乞食って?きったない恰好してネ、わらじ履いて籠しょって、下に魚が落っこてんのを拾うわけ。
それで朝4時に学校行かないで市場へ行くの。そして下に落っこってんのを「これいいかしら?」って聞くでしょ? すると、「あ、それ持ってっていいよ」とか「いいよいいよ、どうせ下に落っこてんだから」って言ってネ、ご主人が、私のしょってるこんな大きな籠の中にひょっと放り投げてくれて。
籠もう重たくてしょうがない、それを家へ持って帰ってきてネ、近所の御料理屋へ持って行って買ってもらうの。うん、お金よりも魚をとってくるのが楽しかったわ、同い年くらいの女の子と4〜5人で。仲間は今おでん屋さんをやってます。
左ぎっちょでも貝屋なら
それに若い時だから、お客さんが「清ちゃん、清ちゃん」て言ってくれたんですよ。料理屋の主人のほうは、泣き泣き暇を出すわけ。どうしても料理屋とかそういう商売がだめだったね。
左ぎっちょでもなんか向く処がないかってんでね、アサリとかハマグリとかの…貝ね! 貝なんて口開いているでしょ半分? だからちょっとのことで開けられるじゃないですか? それで貝屋へ奉公に行ったの。貝は、指入れてひねるとすぐはがれるから、ねッ?
そうすると主人が「あっ、清ちゃん、この汁飲みな」って言ってくれて、しょっちゅう赤貝の汁飲んだり、アサリの汁飲んだりしたの。貝って片っぽ生きてんですよね、それだけはちょっと気持ちわるかったけど、いっぱい貝の汁飲んでた。味はついてないけど美味しかった。
そう、左ぎっちょでも左で殻むいたりしても、いじめられない。楽しかったわ。店で可愛がられたってことだけど、勤めは、まじめにやんなくちゃね。
愛した人とは結婚して10年でお別れ
で、そこに大学出で、いいとこの息子なんだけど、親とケンカして、家を飛び出て独身の人がいたの。「私を嫁にもらってくれないかな」なんて簡単に言ったら、「まァ、清ちゃんならいいよ。もらってやる」って答えなの。それでちゃんと結婚式あげました。
でも、その人もう死んじゃったんですよネ。そうね私と結婚してから10年位一緒にいたかな。電気屋なの、店持ってて。それで私が奥さんになっちゃったの。まじめにやるときはまじめになりますよ。電気屋たって、私はなんにもできないから、家に居る人ね。その時分は赤坂に貸し屋がいっぱいあって、私はだんなと赤坂で暮らしてた。
仕事は若い人を雇うんだけど、その時分には「雇ってください」っていう人が多かったの。新築の家へ入って電気をつけたりなんかする工事をするわけです。男の“手下”の人がいっぱいいて、みんなコードをあっちへやったり、こっちやったりしてました。
だんなさん亡くなってから再婚もしないで、戦争の間ひとりでがんばったわ。電気屋を続けたんだけど私はできないから人を指図して。そういう人はちゃんと学校を出てたからね。
空襲のときは門前仲町に逃げて
、そこで川っぺりのね、胸まで水が入るとこで岸に掴まって、夜を明かしたりしたのよ。
恋人いっぱい
たとえば向島には『やおまつ』っていう料理旅館があるの。で、ちょうど永代橋の所からちっちゃい船が出てて、船頭がこうやってこいでね、『やおまつ』ってとこ行くの。
川っぷちにあってね、こーんな大きなきれいな石のうえにね、爺やが番傘をさして…雨降ってないのよ、それなのに、『やおまつ』って書いた番傘さして芝居みたいに待っててくれるの。私がもうじき船で来るってのが分かるから。身支度は普段のまんま、いい物何にも持ってないもの。まあ小奇麗にしてましたけど。
『やおまつ』はね素晴らしくいい御茶屋なの。”待合“ってのは芸者衆とかサそういう人が行くとこで、普通の素人の娘はそういうとこじゃなくて、いい御茶屋がいっぱいある向島へ行くのね。
わたしゃネ、今でも手を握るのが好きなの。でネ握らせないと食いつくの。アハハハ。だから男の人が逃げるの。こうしてこう握るとね、「何すんだ!」ってね。面白いんだ、すぐ食いついちゃうのよ。
藝とたしなみ
♪♪都都逸ゃ下手で〜も、やりくりゃ上手。今朝〜も、ななつやでほめられた♪♪ とか ♪♪逢いたいと思う矢先〜いに、来たよ〜と言われ、逢いたくないふり、見たい〜顔♪♪
歌によってね、声の高さは低音から出たり、高いところから出たり、その文句によって変わるの。だから声はね、気を付けてつぶさないようにしているのよ。三味線もひくわよ。ここへ(注:施設)二丁持ってきたわ。ひきたいんだけど足ケガしたから、正座して三味線をひざに乗せられないわけ。
年末の演芸会には大変な人が集まるでしょ?「だれか歌って」って言われると「ハイ!」って手を挙げるの。にぎやかな歌唄ったり、『かっぽれ』も『どじょうすくい』でもなんでもござれよ。
日本舞踊も先生です。親が習わせてくれたから、小さいころからお稽古して。3年前に転んでケガするまでは、すぐ『奴さん』を踊ったりなんかしたわ。
お裁縫も好きでね、左ぎっちょだけど、針はちゃんと右で持って縫うわよ。親がちゃんとお裁縫の先生のところへあげてくれたから。
踊って歌って 最高よ
踊れるように工夫したりしてます。
ずっと踊りが好きで踊りの写真も戦災のときは大事に持って逃げたくらい。昔は島田も自分の毛で結ってたの。ダンスもリードされているふりして、リードしちゃったりして。
歌と踊りは楽しい! 最高よ。
(完)
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2012年01月09日
人生に悔いなし、向学心に燃えて
〜「旅人さん」と言われ、各地を転勤する中で〜
かたりびと:大嶋みつよ ききがきすと:菊井正彦
私たちは転勤族
前は”勝どき“に居たんです。勝どき橋を建てていた会社が市に貸していた住宅があり、1年ぐらい住んでいたんですよ。
主人は日本生命に勤めていて転勤族だから、いろんな所へ行きましてね、「旅人さん(たびにんさん)」と言われたこともあるんですよ、「旅人さん」と言われて何のことかと思いましたら、転勤して歩くかららしいんです。やっぱり周りの人はそう思うんですよ。私は分からなかったんです。初めていわれたときは、年中動いているから「旅人さん」と言われたんだと思って。
転勤は、本当に日本国中ありましたね。東京都内は歩きましたよ! 特に、オリンピックの前は。最初は、子供がいましたから、庭がある一戸建てを借りていたんです。オリンピック近くになって埼玉県へ引越し、それから社宅になりました。
長かったのは渋谷、よかったですね。渋谷ではいろんなことができましたからね、主人は帰りが遅いし、子供達も大きくなっていたから。だから、碁なんかを習ったんですよ。腕はたいしたことはないですよ。四谷の駅前にある碁会所へも行きました。碁はこのホームでも教えていただくんです。いまでは、置碁してもらって、勝つか負けるかどっちかという感じです。
他には埼玉にも行きました。有名な鐘のある・・・川越です。チョット変わった町ですね。江戸への北の入り口で、お宮も神社も大きいし、情緒があるところで駄菓子屋さんなんか、一杯並んでいますよ。
どこへ行ってもなるべく、あまりよそ者にはならないようにと思いまして、その地区の方と一生懸命交流するようにしました。そういう苦労はありますね!
長く居たのは福島県で4年間です。4年間で長い方ですよ。大阪に転勤した時には1年ですぐ帰ってきたこともあるんです。これは会社の都合です。子供が高校生だったから、受験しなくてはいけなかったし・・・。そんな苦労もありました。
◆思い出の地「福島」
原発があんなに沢山できるとは思いませんでした。最初一つだけだと思っていました。「それじゃ、行ってみようか」って、観光気分でね。
あのとき、原発に反対すればよかった・・・。反対なんかできなかったんですけれどね。
だから、福島に一番思い出がありますね! 住んでいましたのは、福島市のちょうど真ん中、福島大学の前です。中通りですね。信夫山の麓です。あそこはよかったですよ! 今は大学の図書館になっていますけど、大学があってすごく楽しくて・・・。
福島では友達ができましてね、よく旅行にいったんですよ、車で。福島の裏磐梯の方、まだ雪のある内に。何というんでしょうか、雪の回廊ですか? それを見たんですよ、黒部立山で有名ですが、福島にもあるんですよ。
福島ではとっても楽しい思い出があります!。温泉に行ったときに、山の中で花火大会を見たんです。山の中で花火ってすごく綺麗なんですね! 温泉は何というところでしたかな? 温泉はいっぱいあるからね。
花火は海だと思うでしょ? 山の花火もとても綺麗でしたよ。山の花火ってあんまり見ないじゃないですか。山の平らな所で打ち上げるから、山の花火は綺麗ですね。夜空が綺麗だし。
福島の次は関西に行きました。あの頃は、子供はもう上が中学生になっていて、一番下の子供は小学生になっていましたでしょうか?
県が違うと教育も違いますね。一番困ったのは長男のことでしたね。いつも、違う学校へ行く時が、学年の途中に引っかかるんですよ。長女はうまくいきましたが、長男は2年生の時だったり、中学3年生の時にもあったり・・・。でも、今考えますと、子供達も悪くならずについてきてくれたからよかったですけれどね。
◆子供達のこと
今、長男は銀座で商売しているし、デザイナーの長女は電通に勤めていて、もう60歳になるかしら、部長なんですよ。キャリアウーマンというのかしら。
旦那さんが新聞記者をしているんですけれど、定年まで勤めて、その後、自分の兄弟のところへ行って、自分達のお婆ちゃんを診ているんですよ。90歳になるお婆ちゃんは足をガンで切っちゃって、片足になっちゃたんですけど。でも、長女の旦那さんがよく診てくれています。朝も6時にお婆ちゃんのところに行って、足を診て、食事をあげて、おむつもちゃんとやって・・・。だから、大変な時は大変なんですけれど。
今、主人は東京駅の前に住んでいます。家を買って勝鬨から引越したんです。マンションができて、そこがいいから一番下の子も買うというんで・・・。別個の家ですけどね。主人は家に居ます。おさんどんはやらないみたいですよ。やはり外で食べていた方が安心です。
主人は東京生まれなんです。目黒の駅前で商売をしていて、強制疎開で引越しして栃木県に。お爺ちゃん、お婆ちゃんの生まれたところへ行ったんです。もう、二人とも亡くなりました。私は小田原、浜っこです。どちらにしても都会っ子です。
主人が定年になったとき、相模原に家を建てました。大工さんをわざわざ福島から連れていって、建ててもらったんです。だから、越したくなかったんですけど。福島の大工はいいですからね。だけど、相模原がすごく寒いところなんです。湿気が多いところで、そういうことが影響して私がリウマチになっちゃたんです。それで、こっちに引越ししてきました。
あと思い出としては、大阪に居たときです。関西で野球の強い学校ありますね・・・、西宮にある学校です。その学校が近くてよく、野球場も見に行ったし、その球技場で体操もやりましたね。運動会も見に行った。
甲子園も行きました。招待してくれたことがありまして、一番高い所にある席で、上からガラスが入った特別席があるんですよ、よく観えるんです。1回だけそこへ行ったことありますよ。その代わり、一般席の人と一緒に物を買ったり、食べたりできない、むずかしいですよ。
◆転勤地での友達づくり
転勤した先の方と友達になったことはあります。大阪(西宮)に居たときに、私が皮工芸を習っていたんです。先生が名古屋の人でしたから、自分達も住んでいた名古屋で習っていたんですが、その時は、大阪まで一緒に習いにきて、展覧会などいろんなことやりました。
その人達とは今でも交流しています。この相生の里にも来てくださって。5人いて、2人はもう亡くなっちゃたんですが。元気な方が、つい2、3日前もチョット来てくれました。そういうお友達とは、私なんか少ないのですけれど、ずっと大事にしていて、旅行へ行ったり、何かして遊んでいます。もう長いんです。
刺繍は、みなさんもご存知かと思いますが、桜をやる先生がいましたでしょう、桜を黒い布地に刺繍する有名な先生、もう亡くなったですけどね。その先生のところへ習いに行ってたんです。
その5人グループで九州の、新しくできたハウステンボスへ行ってきましたよ。あそこを建てたのは清水建設だったと思いますが、会社の一番偉い人がご主人、という、その奥さんも友達なんです!。 で、こういう人達と遊びに行ったりして、そっちの家に行ったり、ずいぶんいろんなことをしましたね。
◆趣味あれこれ
東京に帰ってから刺繍をやっていたんですよ。そのほかに、皮工芸をやっていまして、たまたま、1個こっちに持ってきておいて、部屋に作品がありますのでそれを見せます。ブックエンドがあります。
皮を彫るんです。それも自分で。デザインは先生が持ってきて、その中から選んでやるんですけど、こういう細かい画は自分で考えて作ります。
家にはスリッパとかありましたけれど、みな捨てちゃいましたね。家にいくと、周りに皮工芸をした大きな鏡があるんですよ。あと、玄関のマットレスがあります。いま、家の玄関は小さいのでしまってあります。
◆リウマチを患う
習字もね、昔、習いに行ったときは、それで日展まで出せるところまでいったんですが、リウマチが起きたんです。それが悔しくて・・・。やっぱり練習はしていましたけれど、もう、片手になっちゃたから、だめですね。
ころんで、手をついて、それがきっかけでした。それで、聖路加病院の一番新しい先生に会いましてね、その日が土曜日か何かで、いつもの先生はいなかったんです。いつものの先生がもう脳梗塞やってるから、手術をしちやっちゃだめと言っているのに、その先生は若いから、手術するというんです。それで、手術をする、しない、する、しないで半日かかっちゃった。それが良くなかったんです。
そのときはついてなかったんですね。知らないから、もうここからここまでギブスはめられたから、てっきり直るものと思っていたから…。
結局、今住んでいるところの近所の人が「赤坂にいい病院がありますよ」と教えて下さって、そこへ通って直してもらったんですが、ギブスをはめることになっちゃって。ええ、泣いてね・・・。こんなになっちゃって、悔しいですね。
この間から習字を片手で始めました。常に何かやった方がいいかなあ。昔から何かは、やっていましたね。子供のセーター編んであげたり、チョッキを編んだり、こういうのは子供達もよく着ていました。
習字は下手ですけど、左手で書いたのがリビングホールに1枚だけ飾ってあります。画もあります。バナナの画と、あとザクロの画が・・・。
刺繍とか手先を使い根気がいる趣味がすきですね。でも、趣味というのはなかなか続けるというのは大変ですね。続けられたのは、お友達がいたからでしょうね。
憧れの大学へ行く
自分の時間が多く、主人の帰りが遅いし、子供達が全部大きくなってから、私が50から60歳の頃、大学に入ったんですよ! 法政大学に。
NHK学園がありますね、そこに入っていると大学にいけるんですよ。NHK学園に入れば大学に入れる、そういうずるい考えを持っていました。それで、法政大学の文学部歴史科に入って、歴史を勉強したんです。
史学科だから、卒論は二宮金次郎を書いたんですよ、小田原出身だからね。新しい本も手に入れやすいし、二宮金次郎も結構いろんな苦労しているから・・・。
卒論書くのは大変でしたよ。夕方から大学に行くのです。「お母さんに自分の時間ちょうだい」と、子供達に言って。そして、翌朝はまたきちんと起きるんですが、好きな勉強のためですから、そりゃ平気でしたよ、女性は強いですね。
それがね、ちょうど母が病気になっちゃって。2年間、休学して、また行って。だから、結局、NHK学園は4年・・・。10年のうち、2年が休学で残念でしただけれど、でも、母をちゃんと見送りましたからね、
私は常に何かにチャレンジしていないと気がすまないんでしょうね。大学に91歳のお婆さんがきていたんですよ、ホント。私なんか50、60代ですから、頑張らなきゃと。
振り返ると、向学心に燃えた人生に悔いなし、という感じ。いい人生だったなあ・・・と思います。
(完)
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2012年01月09日
心の中の大手町、赤坂、月島
かたりびと:長縄芳子 聴き書き:S.K
1.仕事一筋の人生でした
東京市外電話局に勤めました
高等小学校を出て、聖心女学校の夜学を卒業し、昭和五年八月二三日に逓信省の電話の仕事につきました。東京市外電話局(東京中央電話局)(注1)といいました。全国を有線と通信(電信)で連絡をする通信士のような仕事です。学校を卒業するとき、学校の紹介で七人くらい試験を受けましたが、受かったのは三人でした。電話局は、大手町にありました。今の逓信総合博物館の南側で、通りをはさんで向かい側です。
三越を振りました
実は、学校を卒業したとき、三越と逓信省と両方に受かっていました。当時三越は、新宿の二幸という会社が就職や人事などを扱っていましたが―。
ところが、四月一日に電話局の採用通知がくると思ったら、なかなか採用日が決まらず、何だかんだして、八月二三日になって採用になりました。その頃市内電話が自動化されたということで、いろいろ忙しかったからだろうと思います。うちの母は、「そういうややこしいところには入らないで、三越にした方がいいわよ」と廻りから言われたようです。
あとから考えても、自分としては電話局に入ってよかったと思っています。というのは、三越は一日中立ちっぱなしですから、お客さんの機嫌を取っていてはくたびれてしまいます。私は大体、お客さんに会って、ニコニコ案内するような性格じゃないですから―。そういうことで、三越を振りました。
有線と通信で市外電話をつなぎました
その頃、電話の仕事は、東京、大阪、名古屋、札幌など大きい局が全国を分担してやっていました。東京は、その中心ということで全国を管理していました。遠いところでは、朝鮮や、しばらくして有線になった沖縄、北海道などもやっていました。樺太は、まだありませんでした。
はじめのうちは、電話は市内も市外も全部人が手でつないでいて、自動ではありませんでした。私が電話局に入った昭和五年というのは、ちょうど初めて京橋の局が自動になった頃で、ダイヤルを回すと自動でつながると大騒ぎになっていたときでした。自動化は、都内で一番最初が京橋局で、その次は高輪の局でした(注2)。
市内の局はみな自動化されましたが、市外電話は長距離ですから手でつなぎました。今と違って、ダイヤルして大阪が出るというわけではありません。そこで、有線にもかかわらず、少しでも有線を無駄にしないようにということで、トツウ(電信)と有線の両方(注3)を使って、次のお客さんをこうという具合に、空かないようにやっていました。だから、一日の通話量がどれくらいあったかよくわかりません。
線が空いているときは、線をつないで大阪の局を呼びだし、「どこのお客さんをつないで下さい。そっちのお客さんをこっちへつないでください。」と、口でしゃべればわかります。しかし、お客さんを続けてつなぐようにするには、話を職員がやったのではしょうがないですから、線をつないだまま、トツウ・トツウで、向こうからくる信号を聞いて、こっちからも信号を送って・・、という具合にやりました。
トツウ(電信)は、若いときからやりましたので、仕事で使ったことは今でも忘れません。おそらく、そういうふうにやっていたことは何にものっていないかもしれません。
韓国は有線だったと思いますが、線がつながっていて、たまたま通話が空いているときに、だれかうちの方の職員が「朝鮮人がいるわよ」と言ったらしいんです。それを聞かれてしまった。それで、監督さんと上の人たちが、問題が問題だからと大喧嘩になって大変でした。そのことは、職員が謝罪して、いいあんばいに治まりました。そういうことはあまり外には言えないことでした。
戦後、管理職に
特別運用課で勉強させてもらい、確か三〇歳を過ぎた頃に管理職になりました。女性の管理職は多くはなかったですが、少なくもなかったように思います。
電話局は女性の職場ですが、隣の中央電気通信局(中電)は男性の職場でした。でも、戦後は、女性も入るようになったのを思い出します。
仕事の内容は、国にかかわることなので、あまり公表できません。でも、四〇年間何とかかんとかやって、お陰さまで最後はちゃんと年金もいただき、ご飯を食べることに困ることもなく、ありがたいと思っています。
2.大家族で大変でした
兄妹は九人
どうして一人でいたのか聞かれますが、何しろ兄妹が一二人でした。私が一番上で長女ですが、一つ下の弟が長男。その次が双子の女の子で、赤ん坊の時に二人とも肺炎で亡くなりました。
その次が次男で、震災当時四歳でした。母は、動物を見せて喜ばせたいと思ったらしく、その子を上野動物園に連れて行きました。そのとき体に風邪の状況があったのですが、わからなかったようです。
帰りに子どもがどうも普通じゃないと思って、浅草の叔父のところに寄り、良くしていただいていた先生に診てもらったらとんでもない状態でした。「熱がありますので、今晩一晩中大切にしないと大変なことになりますよ」と言われ、それで急いで叔父の家に戻ってきて介抱しましたが、一日か二日して、肺炎で亡くなりました。
大変な思いをした買い出し
九人全員が揃っていた終戦後は、もののないときで、食事のときなど全員がお膳のところにずらっと並んで大騒ぎでした。貧乏でしたから、親は子どもを育てるのが大変だったと思います。
食べる米がないので、両国から汽車にのって、銚子のちょっと手前の駅のところに買い出しに行きました。何とか話しがついて、お米を一四キロ買いました。駅まで行く大通りには交番があり、ヤミ米が見つかると、とんでもないとつかまってしまいます。そこで海岸通りの砂浜を歩いていきました。そのうち、背負った米が重くて、くたびれてしまいました。どこかそのへんで休もうと思って腰を下ろしたが最後、今度は一四キロの米が持ち上がりません。
よっと持ち上げようとしても、下は砂ですから、ずるっと足がすべって立てないんです。しょうがないので、海苔や魚を干すやぐらに、えんやらやと米をかけて、一緒に行った長男の嫁にやっと立たせてもらいました。そういう辛い思いもしました。
帰りの汽車も大変でした。私が何べんも足をすべらせているので、「お姉さん、危ないから先に乗って」と嫁が言います。そこで先に汽車に乗りましたが、いつまでたっても嫁が来ません。窓から見たら、「お姉さん、まだ乗せてもらえない」と、泣き声を出しています。これは大変と思い、「すみません。あれはうちの嫁です。下から持ち上げてください」と周りのお客さんに頼み、やっと窓から乗っけてもらいました。
長男の嫁が元気だった時は、いつもこの話が出ていました。その嫁も一昨年の一二月に亡くなりました。よくできた嫁でした。
3.関東大震災で焼け出されました
赤坂で生まれました
大正一二年当時、私は一ッ木町の赤坂小学校(注4)の一年で、七歳でした。学校は、市電通り(青山通り)をはさんで、豊川稲荷のすぐ向かいにありました。九月一日は、学校は半日でした(注5)。昼前に家に帰って、母親に「ご飯まだ? おなかすいちゃった」と言うと、「今仕度してるから、どこか公園ででも遊んでらっしゃい」と言われました。
学校で、隣の席の河内さんに、ご飯を食べたら遊びに来てねと言われ、行くことにしていました。それで、ご飯前でも構わないだろうと思い、河内さんの家に行くことにしました。
河内さんの家は、歩いて一二・一三分ぐらいのところです。一ッ木通りをまっすぐ行ったところの交番から、左側に練兵場(注6)がある通りを乃木坂の方に五分ほど行って、通りから路地を二・三軒入ったところでした。
突然の地震。歩こうにも体がふらふら
私が「河内さん!」とちょうど呼んだときでした。突然「ぐらぐらっ、ぐらぐらっ」ときました。一一時五八分です。震度六か六強ぐらいでしょう。河内さんが、二階にいたか、階下にいたかはわかりません。危ないと思って、急いで河内さんの家の路地から表通りに出ました。
揺れるたびに煙がわあっと出て、いいお天気なのに空は煙で真っ暗。何にも見えません。通りにだれがいるかもわかりません。とにかく交番のところまで行かなきゃと思って、揺れで体がふわふわ・ふわふわ。何とか歩きました。年寄りだったらひっくり返っていたでしょう。まだ七つの子どもだったから立っていられたのかもしれません。
通りの真ん中へ出ろ
すると、「表へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ、通りの真ん中へ出ろ」と、おじいさんが怒鳴っているんです。怒鳴っているのがどんな人か、全然見えません。でも、その声を聞いて、道の真中にいるうちに、やっと地震が止みました。収まって見ると、何と空の煙は家の壁土だったのです。
通りのあちこちは、つぶれた家、二階がめちゃめちゃになった家、横倒しになった家といった状況になっていました。一ッ木通りのあたりの家は、溜池の方から出た火が廻ってきて、焼けてしまいました。あとになって私の家も焼けたことがわかりました。
お堀端に逃げる
両親は、私と弟と四歳の子の三人を連れて、荷車に、らっきょとかおにぎりなど食べ物や貴重品を載せて逃げました。夜は赤坂見附のお濠の公園で、父親が持ち出した畳に座って野宿しました。空が真っ赤な夕焼けで、きれいだったのを覚えています。
青山で避難生活
学校には一月ぐらい避難していたと思います。その後、青山の絵画館の前に避難所(仮住宅)ができて、江東や浅草や深川で焼け出された人と一緒に住んでいました。その仮住宅には四年いました。つまり都内の復興は四年かかったということでしょう。
避難住宅の前には青山連隊の練兵場があり、ラッパが聞こえてよかったことを思い出します。その後、小学校四年の一二月二三日に、月島に引っ越しました。
月島での苦労
当時、晴海のあたりはまだ海でした。この隅田川も洪水になるときがあったくらいでしたから、そのせいか、防空壕を掘ったら水がどんどん出てくるので、中で水の汲み出しをしなければなりませんでした。
そこで、木の樋(出し口)を作って、路地の土のうで囲ったところに水をため、柄杓で汲んで使うようにしていました。近所の人が、「水道が出ないので、築地の河岸までもらいに行かなきゃならないの。すみませんけど、お米研ぎと洗濯に使いたいんで、水いただけますか」と言っては、バケツを持ってきて汲んでいました。もっとも、水は臭いがするので、飲み水には使えませんでした。
4.おじいさんは命の恩人です
これまで第二次大戦もありましたし、いろんなことがありました。でも、繰り返しになりますが、関東大震災のとき、よく気がついて、「真ん中に!」って怒鳴ってくれたおじいさんは、命の恩人です。
あのおじいさんがいたおかげで、九五歳の今まで生きてこれたのです。その人にはとても感謝しています。どこの誰かもわかりませんが、ああいうときは神様みたいな人が出るんだなと思うのです。
そのおじいさんは、今はもう生きていないと思いますが、その当時、世の中が落ち着いていたら、表彰ものだったと思います。何人の人が通りにいたかわかりませんが、私一人じゃなくて、その人たちがみんな助かったわけですから。
あの状況で、怒鳴れたということは、東京の人ではなく、おそらく地震がたびたびある地方の人じゃないかと思います。そうでなければ、そういうことまで気がつかないでしょう。
長生きすると、命にかかわるようないろんなことがあります。でも今、命があるということは、この世に尽くせということだなと思います。だから、自分のことぐらいは自分で頑張らなきゃと思っています。
(平成23・6・4談)
(注)
1:明治23年12月に東京電話交換局が開設され、同25年7月に現在の千代田区大手町2丁目に移転し、同36年4月に東京中央電話局と改称された。東京市外電話局という名称になったのは、昭和24年6月、戦後の機構改革で逓信省が電気通信省に改められた時のことである。電気通信省はその後、昭和27年8月に日本電信電話公社となり、現在のNTTに受け継がれている。なお、東京市外電話局は、昭和60年に建物とともに、その歴史の幕を閉じている。
2:大正15年(昭和元年)に、東京中央電話局京橋分局で、日本で初めて自動交換方式が採用されている。
3:当時の電話交換で長距離線に用いられた「電信信号方式」といわれるもの。市外電話線を利用して作った電信回線を利用して電信符号で相手局を呼びだす。東京・大阪の両交換手が交換事務の連絡に使うために、電信電話双信法によって、通話中の電話回線に電信回線を乗せて、電信信号で交換上の打ち合わせや交換証の送受を行っていた
4:当時は東京市赤坂区一ッ木町(現在の港区赤坂4丁目・5丁目にあたる)という地番があったが、今は地名変更のため残っていない。なお、赤坂の「一ッ木通り」という通りの名称は、今も残っている。赤坂小学校は、明治6年に赤坂区一ッ木町に開校された学校で、同8年に赤坂小学校の名称となった。現在は赤坂8丁目にあるが、当時は青山通りをはさんで豊川稲荷の向かい側(今の赤坂4丁目のあたり)に校地・校舎があった。
5:9月1日は土曜日で2学期の始業式があり、子どもたちは昼前に下校している。
6:戦前、一ッ木町(現在の赤坂5丁目あたり)にあった「近衛歩兵第3連隊」ではないかと思われる。
(参考文献・写真出典)
○「写真でつづる八十八年―東京市外電話局」
(昭和53年 日本電信電話公社東京市外電話局)
○「市外電話交換業務提要」
(昭和7年 東京中央電話局)
○「東京の電話(上)」
(昭和33年 日本電信電話公社東京電気通信局)
○「赤坂小学校の一二〇年」
(平成4年 港区立赤坂小学校同窓会)
○「新修港区史」
(昭和54年 東京都港区役所)
○「関東大震災」
(平成17年 財団法人東京都慰霊協会)
○「語り継ぐ赤坂・青山 あの日あの頃」
(平成22年 赤坂・青山地区タウンミーティング『まちの歴史伝承分科会』)
(完)
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2012年01月09日
市丸姉さんにあこがれて
〜九十五歳のいまなお、どどいつを!〜
かたりびと:木下清子 ききがきすと:豊島道子
左ぎっちょでも楽しかったわ
尋常小学校はちゃんと6年間出たのよ。でも私左ぎっちょだから・・いまだに左ぎっちょで、みっともなくて困っちゃう。6人兄弟で、みんな字が上手いの。私だけが下手だったわ。だから、ろくな仕事にも就けなかった。女中に行っても、朋輩に馬鹿にされて追い出されたりして。親は別に働きに出したりしたわけではないけど、自分で出たのよ。
お店の主人は泣き泣き、私を辞めさせたの。お料理屋だったから、左ぎっちょでは、商売が左前になるから、と言われてね。お客には好かれたんだけど。それでも、どうしても料理屋とかは駄目で、左でやれるところがいいっていう事で、貝屋に奉公したの。左ぎっちょでも、貝って口を開いてるから、こうやりゃ割れるじゃない?
東京の佃よ、生まれて育ったのは。だから左ぎっちょだけど、左で殻むいたりして、楽しかったわ。いじめられないで。その主人が「そのつゆ、大事だから、飲んじゃいな!」って。貝がかたっぽ生きてるんでね、気持ち悪かったけどしょっちゅう、つゆ飲んでた。アサリだの赤貝だの・・・。
寄席に通って、市丸姉さんの真似
注)市丸姉さんは長野県松本市生まれ、16歳のとき、浅間温泉で半玉(芸者見習い)になり、19歳で上京して浅草で芸者になった。
浅草では一晩に何件ものお座敷を掛け持ちするほどの人気者。 噂を聞いたビクターが市丸姉さんを昭和6年に歌手としてデビューさせ、静岡鉄道のコマーシャルソング「茶切節」が全国的な大ヒットなった。
芸者1だったようです。
浅草のそういうところに行って、「小唄」とか「どどいつ」を覚えたりしてたわ。私、14歳位だったからよっぽど寄せにでも出ようかしら、って言ったら、親がそんな思いしなくていいってね。
寄席に出ない代わりに、学校の帰りには、寄せの下足番のおじさんの所に行って、おじさん知らないのに、「この下駄どこに入れたらいい?」って、言われないのにやるもんだから、かわいがられてね。だからね、「今日は、市丸姉さんくるから、お客の所に行って座って歌聞いた方がいいよ」って言ってくれたりして。
毎日学校から帰ってくると寄せに行って、そんな事してたのよ。楽しかったわ。
かごしょって、魚拾い?
ある日、友達に「魚市場でこじきやんない?」って言われたの。友達に。いいわって答えて。何だかわかる「こじき」って? 汚いかっこしてね、わらじはいて、かごしょってね。下におっこってるのを、ひろうわけ。そこの主人に何も言わないで、自分のかごに全部入れるわけ。家に持って帰ってきて、近所に持ってって売るのね、料理屋さんとかにね。
かごしょって、わらじはいてね、魚市場の中に入ってそばを食べるお金位は持ってたから、そこで食べて隣のおじさんと仲良くなって、「おじさん、下におっこってるごみ拾いたいんだけど」って言ったら、「そっか、小遣い稼ぎだな。かごしょって4時に来なくちゃダメだよ」って教えてもらってね。4時に行くから学校なんて行かないの。
ご主人がみんないい人で、いいよ、いいよって言ってくれるので、下に落ちてるの拾って。そのうち「この子か、清ちゃんてのは?」と言われて、すいませんって。でもね、私達は子供だったから、みんなかごに魚ほってくれたりして、楽しかったわ、子供のじぶんて。
結婚生活は短かったわね
お嫁に行ったところは、門前仲町ってとこで、借家だったわ。ある時、下駄やじゃなくて、ええとね、何やだったか? とにかく家から近いから毎日行って、その前の掃除したりなんかしてたのよ。
そこにいた人が、いいとこの息子なんだけど、親とけんかして、飛び出して、大学も出てたんだけど、その人が独身でそこに居候していたの。「私もらってくれないかしら」って言ったら、「いいよ、もらってやる」って。それでちゃんと結婚式もやって一緒になったの。
その人と結婚したんだけど、死んじゃったわね。結婚して10年位は一緒にいたんだけど。その人電気やさんでね。その時は、赤坂に貸家がたくさんあって、乃木大将の墓もあったわね。7・8人の弟子を連れては、コードをあっちやれ、こっちやれっていうふうな仕事をしてたわ。
戦争にもあったわね。門前仲町で逃げて、川っぺりにつかまって、夜をあかしたの。いろいろその間あったけど、戦争は早く終わったような気がするけど、今となりゃあんまり覚えてないね。
私、男の人が好きなの!
たとえば、向島の方に、「やおまつ」という料理旅館があったの。「やおまつ」に行くのにね、永代橋から船が出てたの。船頭がいて、川っぺりに雨も降ってないのに、番傘さして出迎えてくれるのよ。
私、昔から市丸姉さんにあこがれて、歌いなさい、っていうと今でもすぐ歌うの。「どどいつぁ〜野暮でも、やりくりゃああ上手っ、けさも七つやでほめら〜れえぇぇ〜た」
くだらない、人生。男の人が好きなのよ。振られたことはないわね。
芸事が好きだったから、いろんな歌を歌ったわね。市丸さんが好きだったわ。浅草の芸者衆。勝太郎さんとかね。「端唄」とか、「どどいつ」だとか、持ち味があるでしょ、声に。私は低音で歌ったり、高い声で歌ったり。私は、芸者になりたかったけど、親がいけないって。
相生の里での今の生活
何年か前の暮の大みそかで、歌ったり、三味線弾いたり、みんなの前でやったのよ。何か歌ってって言われると、手を挙げて、はいって歌うのよ。
でもその後ころんで、大けがしたの。もう3年位前に、ころんで、大怪我をして、もう治らないのよ。医者がリハビリも駄目だし、無理しちゃだめって言うから。
お裁縫が好きだったけど、ここじゃ針と糸持ってきてはいけませんって、言われたの。お裁縫もするのよ、ちゃんと親が習いに通わせてくれて。
みんな兄弟元気ですよ。長男が、お金送ってくれてね。私が一番下だけど、みんな東京に住んでます。今じゃ、みんな年とって会う事もないけど・・・。
ここは一人部屋なの。テレビもあるの、こんな大きいテレビが届いたの。歌番組見るのよ。歌が好き、踊りが好き、ダンスが好き。足が悪くても踊っちゃうわよ。相手がリードしてくれれば、何でも踊っちゃうわよ。
時々ね、ここには芸人が来て、ダンスだの、いろなのをやってますよ。
日本舞踊の先生もしてたのよ。左ぎっちょで。ちっちゃい時から踊りは習わされて。
今でも声は大事にしてるわよ
唄えなくなったら困るから、今でも声は大事にしているわよ。喧嘩は嫌い、ここでも喧嘩は絶対しないわよ。
何にも顔には付けてないのよ。頭だって。足がこんなだから、買いに行けないでしょ。水で洗うだけよ。ずいぶん貝の汁を飲んだおかげだわ。今のこの年になって、悪いとこないもの、ただ転んだから足が悪いだけで。
なんたって、かっぽでも、やっこさんでも踊っちゃうわよ。なまけてるようだけど、ぼやっとしてるのは昔から嫌いだから、何やかにややってますよ。三味線は弾くし、今はこんな格好だけど、エプロンを変えてみたり、着物着ないでもできるようにやってね。
ドジョウすくいの手をしながら、あ、こりゃこりゃ!
で、ダンスは自己流なの。相手つかまえたら、私が歌っておどっちゃうの。おじいさんだろうが、誰だろうが。すぐ歌うのよ、楽しいわよ。
「会いたい〜ぃぃとっ、思う矢先にぃぃぃ、来たよぅ、と言われっ、会いたくないふぅぅり、見たいかぁぁぁお!」文句によって、高いところから出たり、低いところにいったり、歌はいいわよね。
◆あとがき
今回は、ある御縁で、木下清子さんのお話を伺う機会を持てました事、本当に感謝です。この相生の里という素晴らしい環境の中で、ご高齢者のお一人、お一人の人生を垣間見る機会をいただき、関係者の方々にも深く御礼申しあげます。
さて、清子さんとの初対面ですが、私の95歳の方のイメージと全く違う女性がそこにいました。しっかりした口調で、「木下です、こんにちは」と本当にお元気でお話好きな方だとわかる印象で、すぐ打ち解ける事ができました。
市丸姉さんにあこがれて踊り・歌・三味線にあけくれた人生・・・時代はさておき、本当に好きな事に没頭できた清子さんは幸せな人生を送られたと、確信しました。
お話中も、身振り・手振りで、踊りの話がはずみ、お怪我をなさる前のお元気な清子さんの踊りと三味線を是非拝聴したかったな、と返す返す残念に思った次第です。
お話を一通り伺った後、昔の写真はありますか?という問いに、「部屋にたくさんあるのでどうぞ」と快く招いて下さって、本冊子に載せました写真を撮る事ができました。どうぞ、これからも粋などどいつを、どうか唄い続けて続けて下さる事を願ってやみません。
〈注〉この聴き書きはご本人の語った言葉をそのまま書き起こしていますので、本文中に、差別的あるいは禁止用語に該当する言葉が出てくる場合もあります。聴き書きグループでは、ご本人が自分自身に関して語った内容や言葉は、特別な場合を除き、できるだけ忠実に記載する事にしています。
(完)
posted by ききがきすと at 01:13
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2012年01月09日
転勤族の妻、60歳の大学生、趣味さまざま
〜振り返り、悔いない人生〜
かたりびと:大嶋みちよ 聴き書き:K.H
転勤・転勤 “たびにんさん”の苦労
関西だと大阪や西宮が、今、思い出されます。どこに住んでも2年〜3年が多かったです。長いところで4年、大阪に転勤したときは1年で呼び戻されて、またどこかへ。それの繰り返し、会社の都合ですね。ちょうど長男が高校受験で苦労してしまいました。
ときには『たびにんさん』なんていわれましてねぇ。初め何のことかわからなかったんですが、「転勤して渡り歩くから」らしいんです。
ですから、なるべく“よそもの“にならないようにと思って、どこに住んでも地域の人と一生懸命交流するように努めました。自分では“たびにんさん”だなんて思ってませんからね。そういう面の苦労はありました。
“ふくしま”の思い出
一番思い出深いのは、やはり4年も住んだ福島ですね。家は福島市のちょうど真ん中あたり、信夫山の麓にありました。家の前がすぐ福島大学だったのです。なので景色も環境もとても良かったです。残念ながら福島大学は、今図書館になっているらしいですね。
お友達もたくさん出来て、楽しい出来事もたくさんありましたよ。家族旅行やドライブにもよくいきました。
妹が車で来たときは裏磐梯から会津へ、まだ雪のあるうちに行くんです。特に雪景色が素晴らしかったです。何て言うのでしょう、雪の積もった道をこうスパッと切りますよね・・・切り立った雪の壁が両側に出来て、黒部などでよく見かけますでしょ。高い雪の壁の真ん中の道をずっと通っていくんです。すばらしい景色ですよね。
今は原発が問題になっていますが、その頃は原発がちょうど建設される時でした。話を聞きつけて、お友達と「じゃあ見に行ってみようかしら」なんて、観光気分で行ったんです。当時は一棟だけで、まさかこんに何棟も建つとは思わなかったし、今みたいな問題になるなんて、考えられませんでしたね。
今考えると、あの時反対すれば良かったですよねぇ。
子供たちも頑張り屋
県が違うと教育も違うでしょ。転校では苦労しましたね。福島の時は、確か上の子が中学生、一番下の子は小学校2年3年でしたかね。ちょうど学校が変わる時に関西に転勤になりました。
一番困ったのが長男でしたね。小学校や中学校の変わり目に転勤だといいのですが、中学の途中だったり、高校の途中だったり、いつもひっかっかっちゃうんですよ。長女はうまくいくんですがねぇ。でも、今考えてみると、みんな悪くならずについてきてくれたから、ホントに良かったですね。
今は皆それぞれ独立しています。長男はデザイナーで銀座にいます。長女は電通に勤めてて、部長になってます。今で言うキャリアウーマンですね。旦那さんは新聞記者だったんですけど今は辞めて家にいます。娘は勤めながら頑張っていて、癌で足を切ってしまったおばあちゃんの面倒も見ているんです。朝6時におばあちゃんのところに行って、食事の支度や介護をして、それで会社に行くんですよ。だから大変なことは大変ですよね。
習いごとも私の歴史
それから有名な先生について刺繍を習いました。習字はあと一息で日展に出せるまでいったんです。でもあそこで落ちちゃったので、悔しかったですねぇ。
西宮にいたときに始めたのが“革工芸”これはずいぶん長いあいだやりましたよ。スリッパ、玄関マット、ブックエンド、大きな鏡の周りにも革工芸で縁取りして、オリジナル作品にしました。出来上がるとワクワクしますね。細かい手仕事で、根気のいる趣味が好きですね。
仲間あればこそ
その時一緒に習っていた人たちとは今でもお付き合いしています。当時、皆さん活動も活発で、名古屋からわざわざ東京まで習いに来たり、有名デパートで展覧会したり、そういえば刺繍もみんなで同じ先生についてやりましたね。習いものを一緒にしているという連帯感が生まれて、大切なお友達です。
長崎のハウステンボスが出来たときも、建設関係者の奥様がお友達だったので、みんなで遊びに行ったりして、ずいぶんいろんなことしましたねぇ。
今は5人組が2人欠けてしまいましたが、元気な人たちがつい2、3日前にもここまで来てくれました。昔からのお友達は少なくなっているので嬉しいですね。趣味というのは続けるのはなかなか大変なんです。でも、続けられたのはお友達がいたからだと思います。
六〇歳の大学生 卒論は二宮金次郎
常に何かをしていないと気が済まないでしょ、わたし! あるとき、はたと考えたら大学へ行っていないのは自分だけだと気づいたんです。大学ぐらいは行っておいた方がいいんじゃないかなぁと思って、子供が全部大きくなって、60歳になった頃、大学に行ったんですよ。法政大学!
初めはNHK学園に入りました。ここで勉強すると大学に行けるという話を聞いたんで、始めたんです。その頃は4年制でした。今は3年制ですね。それから法政大学の文学部・史学科に入って、歴史を専攻しました。20歳の子と一緒に勉強しましたよ。もちろん体育の授業もやりました。バレーやらされたりね、もう頑張りましたね!
だって、90幾つのおばあちゃんも来ていたんですよ。私なんか50歳や60歳じゃぁまだ若いですよね、頑張んなくちゃと思いました。
でも、ちょうど母が病気になって、2年間休学してしまったんです。だから卒業まで、NHK学園で4年、大学4年、休学があったから合計10年。長くかかったけど卒業できたし、母を家に呼んで、最後まできちんと世話して見送ることが出来たから良かったです。
卒論は、「二宮金次郎」を選びました。私も小田原出身なので、資料など手に入りやすいと思ったのです。でも卒論は大変、書き上げるにはさすがにだいぶ苦労しましたね。
学生生活は、主婦もやりながらなので、夕方からが大忙しです。主人は帰りが遅いのでよかったのですが、子供たちには夕食の支度をして、「お母さんの時間ちょうだいね」って言って通学したのです。もちろん次の朝はちゃんと起きて家のことやるんです。わりと平気でしたね、ええ、女は強いですね(笑)。
定年後もやっぱり移動
でも、相模原は寒いし湿気が多いので、体に良くなかったのですね。私にリュウマチが出て、子供たちが「そんなに遠くにいちゃだめだから、こっちにいらっしゃい」と言うので、それで、勝ちどきに引っ越してきたんです。勝ちどきで7年ぐらい暮らしました。
その後、わたしはこの“相生の里”に来たんです。ここにきて4、5年経ちました。ここは、すぐ前に隅田川が流れてて、眺めが最高ですよね。
主人は、いま新富町のマンションで一人暮らしです。離ればなれなので少しさみしいですね。主人の食事も心配ですが、適当に外食したりして、気ままにやっているようです。それに子どもが同じマンションにいるので安心です。
今なお盛ん チャレンジする心!
絵も描きます。この間描いたバナナやざくろの絵が、今も廊下に飾ってあるので、毎日眺めてますよ。それから囲碁も毎週習ってます、置き碁をしてもらってね。頭の体操になるでしょ(笑) 他にも何かできることがあればやりたいですねぇ。
振り返ると、ホント悔いのない人生だなぁと思います。
(完)
posted by ききがきすと at 00:12
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2011年07月19日
第2回ききがきすと養成講座が終了しました
5月14日からスタートした「第2回ききがきすと養成講座」が、7月9日に、全6回の日程を無事終えました。今回の受講生は6名。前回ご報告したように、中央区の高齢者施設「相生の里」の協力を得て、70代から90代のお年寄りの思い出をじっくりお聞きし、それをまとめるという実践を中心に講座を開催しました。
このページに掲載してある写真は、相生の里の中にある「相生文庫」で開催された講座の様子です。この日は、お年寄りからの聴き書きをパソコンで編集する実習です。受講者はよりよい作品に仕上げるべく、何度も自分の文章に推敲を重ねていました。
受講者からは、「楽しいお話を聞かせていただいた」、「書きものにまとめることが、こんなに大変だとは思わなかった」、「冊子ができてみると、やっぱり嬉しい!」などの声が聞かれました。大変ですが、成果が目に見える講座ですので、達成感は格別のようでした。それぞれ作り上げた冊子は、初めて作成したとは思えないほどの出来栄えでした。
とはいえ、これで終わりではありません。認定には、講座で学んだことを基に、1か月以内に、自分の力で、もう1冊の聴き書き冊子を作成して、提出する必要があるのです。それを審査して、初めて合格が決まります。なかなか厳しいのです。
でも、受講生の皆さんはやる気満々。さて、「だれのお話を聞こうかな」、「親戚のあのオジサンがいいかも」などと、課題作成に意欲的に取り掛かりはじめたようです。
合否は9月にはわかります。全員合格を祈っています。
この日は、講座終了後、講師も含め懇親会を開催しました。相生のある月島といえば、もんじゃ焼で有名なところ。皆でもんじゃ焼き屋さんに繰り出し、大いに食べ、飲み、歓談し、合格を誓い合いました。
この講座は、厳しくも楽しいがモットー。受講生が親睦を深めることは、合格後の活動のためにも大事なことなんです!
posted by ききがきすと at 12:34
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2011年06月14日
ききがきすと活動と相生文庫との出会い
その3日目、6月4日に開催された「実習」の報告です。
◆教室は「あいおい文庫」
この日の教室は、中央区の高齢者複合施設「相生の里」の中にある「あいおい文庫」。たくさんの本が並んだ図書室で、誰でも入室して本を読むことができます。こうした高齢者施設に、図書室があるのはとても珍しいこと。本をこよなく愛する職員の方の発案で設置されたそうです。
「相生の里」自体が、隅田川に面した気持ちのいい場所に建っていますが、「あいおい文庫」も対岸の街並みが望める見晴らし抜群な一角。目の前はテラスになっていて、犬と散歩の人がそぞろ歩きをしていたり、パン屋さんがお店を広げていたり、そのパンを買った人が、ベンチでコーヒーブレイクをしていたり。
そんな教室で開催された実習は、「相生の里」に入居されている方々のお話をうかがうことでした。70代から90代の3人の方々のお話を3組に分かれてお聞きしたのです。
早速の実習で、さて、どんな様子かと心配しましたが、そこは人生経験の多い受講者たち。1時間後には、「ああ、楽しかった」、「すごい話が聞けた」と、満面の笑みで戻ってきました。さすがです!
残りの実習3日で、お聞きしたものを文章化し、パソコンで編集し、冊子に作り上げます。かなりハードなスケジュールとなっていますが、みなさん、めげずに楽しんでいる様子。どんな作品ができあがるか、とても楽しみです。
実習で入居者さんのお話を聞けることも、「相生さんの里」のご厚意で実現したこと。これほどいい実習はありません。「相生の里」さんには本当に感謝です。
◆「あいおい文庫」との出会い
「あいおい文庫」を知ったきっかけは、アニカという出版社を経営している佃由美子さんからのメール。「あいおい文庫」という施設があり、本に関するイベントやセミナーを開催しているので、「ききがきすと養成講座」の教室として借りられるかもしれませんという内容でした。場所も中央区月島と近い。それなら、ぜひ、見学をさせていただきたいと訪問したのです。
担当の方も「ききがきすと」活動にとても興味を持ってくださり、「空いていれば、利用してもらっていいですよ」と言ってくださったのです。しかも、経験豊かな人生を送ってきた入居者の方々のお話をお聞きして、まとめさせていただけないかとお願いしたところ、これもOK。入居者の方々の記録として残すことも意味があると理解していただきました。
がんばって続けていれば、こうしたチャンスも来るのですね。本当に嬉しいことです。
次回の講習4日目は6月18日。会場はやはり「あいおい文庫」です。すがすがしく晴れることを期待しています。
また、ご報告しますね!
posted by ききがきすと at 00:04
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2011年05月15日
第2回ききがきすと養成講座が始まりました!
第2回ききがきすと養成講座が、5月14日にスタートしました。東日本大震災があり、はたして受講生が集まるのかと心配しましたが、定員10名のところ、最低催行人数の6名が集まり、無事、開催となりました。年齢も30代から60代まで様々です。今回は、内容はもちろん、会場もなかなか面白いところを確保できました。第1日目5月14日の会場は、なんと!銀座4丁目の交差点に面したビルの8F。三越、和光、晴海通り、ちょうど歩行者天国が実施されている銀座大通りが見渡せる景色抜群の会議室です。(右の写真)
とはいえ、景色をゆっくり眺めている時間はあまりありません。1日目は早速、「語りを聴き出す技術」と実習をみっちり行いました。
今回はこのほかに、中央区月島にある中央区の高齢者支援施設「相生の里」内にある図書施設『相生文庫』も、ご厚意で使わせていただくことになりました。隅田川に面した気持ちのいい施設です(下の写真は相生の里から眺めた隅田川)。
実習では、相生の里の入居者のみなさんのお話をうかがう予定です。実りある実習になるのではないでしょうか。

◆今回のカリキュラム
第2回養成講座は7月6日まで続きます。次回は、来年2月の予定。決定次第、このブログにてお知らせします。
今回のカリキュラムを掲載しますので、関心のある方はご覧ください。
第2回ききがきすと講座カリキュラム.pdf
◆参加募集協力団体
今回の受講生募集にあたっては、下記の3団体に協力をいただきました。
●関東シニアライフアドバイザー協会
会報誌「ビバシニア」4月30日号の裏表紙に、募集内容を掲載していただきました。
http://kanto-sla.com/vivaSenior/index.html


●シニアウィングス
会員の皆様に、メールにてご案内いただきました。
http://seniorwings.jpn.org/sw/
●クラブ・ウィルビー
会員の活動を紹介するWebサイトに掲載していただきました。掲載個所は、ページをスクロールしてご覧ください。
http://www.club-willbe.jp/bbs/index.html
ご協力いただいた団体の皆さま、ありがとうございました。「ききがきすと」2期生の誕生を、楽しみにお待ち願います。
お問い合わせは、info@ryoma21.jp まで。
posted by ききがきすと at 18:29
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2011年04月24日
定年後の仕事はカウンセラー
〜ライフワークを見つけるまで〜
語り手:酒井正昭さん(70歳)ききがきすと:松本すみ子
聴き書き時期:2011年1月11日
60年代安保闘争のさなかに
卒業したのは横浜国立大学の経済学部。当時の国立は1期校、2期校といっていた。1期校の東大と2期校の横浜国大、それに駿台予備校を受けたが、東大は“桜が散った”。2期校と駿台の発表は同じ日で、どちらも受かっていて、どうしようかなと悩んだ。もう1年浪人して東大を受ければ、なんとかなるだろうという高校の先生もいたし。でも、発表を見に行った時に、学校の坂の上から、2人で仲良く腕組んで歩いてきたカッコいい男女の学生が来て、やっぱりここにしちゃおうかなと。自分でも物理とか理科は自信がなかったし。横浜だと受験科目は3科目だけだったからね。
当時の2期校って、入ってもすぐやめて予備校に行ったり、この大学に入ったのは2度目だという学生がいたり、大変なところだった。地方にいる親には、東大とか一橋に入ったといって、実は予備校に通っていたとか、親からは4年間しか仕送りがこないから、バイトで稼いで卒業しなければならないなんていう学生もいたし。
入学したのは、ちょうど60年安保の時代。2年の時かな、国会のデモで樺美智子さんが亡くなったのは。1年の秋くらいから、当時の革新団体の安保阻止会が結成されて、羽田での座り込みがあったりした。学校にはほとんど行かなくて、デモをしに東京に来ているような毎日だった。

安保条約は6月19日に自動的に法律で決まってしまうわけで、当時の岸総理大臣は当然、それを狙っていた。あの人もそれなりに大物だったわけだ。われわれは大きな政治の枠の中で流されていくような、どうしようもないような気持ちで、国会の周りに座り込んでいた。ほとんどの学生の指導部もぶっ壊れているから、動かす力もない。ただ、暗い街灯の下でひたすら座り込んでいるくらいしか、自分たちの意思表示の仕方がなかった。それがものすごく印象に残っている。
でも、僕らはみんな本を読んでいたよ、岩波文庫とか新書とか。こういうことは若い人に伝えたくなる。そんなことがあって、ちょうど去年が50年。時々、当時の高校や大学の友達なんかと会って話すと、そういう話題が出る。単なる思い出の一つに変わったなという人もいるけど。
学生運動が終わってから、勉強したいという気持ちがすごく湧いてきて、大学に残って経済学を勉強しようかなと思った。一方で、自分の能力がどのくらいかを試したいという気持ちもあった。革新だとか左翼だという方に入っていたから、企業の中に入っていくことにはためらいがあったけど、ぶきっちょみたいだし、学者っていうよりも実社会でいろんなことにぶつかって、どのくらいのものかやってみるのもいいかなんて。
そんなことで悩んでいるうちに、就職の募集は終わってしまった。でも、当時はプラスチック関係が新しい産業として生まれていて、三菱樹脂がまだ募集していた。ここは筆記試験もないから大丈夫だぞ、とか言われて入社した(笑)。
中心となる工場は滋賀県の長浜市。入社後、そこで集合教育があった時、「すごい田舎だ、こんなところは止めようか」なんて思ったけど、戦国時代の面影が残っている面白い町だった。それで、ここでやってみるかという気になって、そのままずっといたような感じ。
バブルを経てバブル崩壊へ
仕事は経理・会計だったが、私は会社というものを突き放してみていたような気がする。普通は偉くなってくるにつれて、企業の中にのめり込んでいって、人間関係なんかを築いていくのだろうけど。客観的に見ることを要請されていたかもしれないが、ポンと外れてみていたような気がする。上からの指示をあまり素直に聞けないようなところがあって、扱いにくかったかもしれない(笑)。それなりには一生懸命やっていたと思うけど。製品開発とか営業だったら、違ったのかな。 お前は言うことが早すぎる、まだ皆が分かっていないことを言っているといわれたこともある。例えば、あの部門は存在意味がないですよと言ってしまう。突拍子もないことを、得意になってしゃべっていると思われるらしい。その時、その部門は一生懸命やっているわけだし。でも、5年くらい経つとやっぱり、自分の言った通りになっていて、みんな、もう知らん顔して他のことをやっている。たぶん、こういう目も突き放して見ていた結果だと思う。
だけど、工場で課長とかをやっていた時に、新入社員が配属されると、お前のところで面倒見てくれと言われて、毎年、私が担当していた。新人を2・3年でそれなりにできるようにすると、どこかに転勤させる。それが面白かった。その仕事は一生懸命やった。だから、今でも結構、若い人と話ができる。
三菱という名前を背負った会社だけど、いくつもある企業の下の方だから、財務、資金関係、資金調達が大変だった。当時は高度成長期で、地方銀行が東京支店を開設する頃。当然、何億とか用意して出てくるので、そういうところから調達していた。メイン銀行は三菱だけど、新しい産業にはおっかなびっくりで貸さない。でも、他行の借入額が三菱の額を越したら、それはそれでだめ。そういう仕事は、ずいぶん面白がってやっていた。
そのうち間接金融から証券会社経由の直接金融の時代になってきた。企業の力がそのまま株式市場に反映されて、そこから資金が調達されるようになると、トップの政策と結びついてくる。新製品の開発をどのタイミングで新聞にバラして、いつ報道させるか。証券会社にはいつ時価発行のプランを出して、株価を上げられるかを考える。トップの意思決定と資金調達がリンクしないといけなくなった。変わり目の時代だった。
バブルの中でどんどん直接金融になっていったので、資金調達の金利もマイナスにできた。例えば、外国で債権を発行して、5年後の金利や返すお金を有利なレートで予約しておく。すると金利がマイナスになり、ずっと返すお金が少なくなるわけ。一時、財務の時代と言われたことがあったけど、たぶん、そんな理由からだろう。だから、工場で物なんか作っているよりも、投資で儲けたほうがいいじゃないかなんて。そういうのがバブルの絶頂期だった。
投融資は本体じゃできないから、どこも関係会社つくってやっていた。そういうことで稼いだお金をファンドなんかに投融資していたが、それが一度に弾けた。担当者は処分されたり、会社を辞めざるをえなかったり、ずいぶん傷ついた人が多かったと思う。でも、上は無責任だよね。やってる時は見て見ぬふりなんだよ。本来のマネジメントからすれば、定款で決めた本業は製品を作って、世の中に貢献するということだから、博打をやることではないと、ちゃんと締めないといけない。だけど、まあ利益を出すし、儲かっているし、それを配当すれば、株主からも文句をいわれないという構造だった。本業での博打はビジネスとしてあると思う。こういうプラスチックの製品は当たるだろうから、それにお金を何十億を掛ける。これは、先見の明があったか、なかったかということ。ただ、株式での博打は証券会社がやることであって、普通の事業者がやることではない。弾けて当然だった。その後から、監査制度というのが重要視された。
定年後にカウンセリングを選んだ理由
会社での自分に対する評価に、人の話を聴き過ぎるというのがあった。例えば、プロジェクトの運営では、親分肌で引っ張っていっていいんだと言われた。お酒を飲み交わしながら、それなりに人がついていくんだと。
でも、仕事でいろんな発想が湧いてくるのは、会社で話を聴いている時が多かった。毎日指示を出さなればならないけど、話を聞けば得ることが多いし、部下も自分で気がついて自主的に動いていく。「うん、そうだよな、やってみな」と言えるし、その方がやる気が出る筈という気がした。だから、仕事はピラミッド型よりもサークル型のほうがやりやすいんじゃないかと思っていた。
机も席が決まっていて縦に並ぶよりは、丸い机でフリーアドレスがいいと思った。今はそういうのがあるけど、昔はあまりなかった。最後に関係会社に出向した時は、それを絶対やってみようと思った。大正時代創業の古い会社だったけど、丸いテーブルを入れ、フリーアドレスにして、書類はキャビネットだけにした。私は役員だから、秘密の書類があるので仕切りの向こうに行くことはあるけど、皆と同じ輪に入るからと。
それに一番抵抗したのは、プロパーの人だね。課長が最も抵抗した。「せっかく課長になって、家族とか親戚に自慢できるのに、この席がなくなるんですか」。そういうものかなあと思った。でも、じっくり話をした。こういう趣旨でやるし、本当に実力ある課長なら、席がどんなところでもちゃんと情報が集まってくると。そしたら、分かってくれて、「やりましょう!」と。その会社は今でも、このスタイルでやっている。
そんな経験があったから、定年後に何をしようかなと思った時、人の話を聴く心理関係の仕事があると聞いて、それならできるかなと結びついた。私のような職歴だと、税理士や会計士、ファイナンシャルプランナーのような仕事を考えると思うけど、そういうのは全然やる気がしなかった。
前にも言ったように、自分はのめり込めない、のめり込まない性格。それが欠点でもあったろうし、もっと自分を出すものがなかったのか、あるいはそれが分からなかったのか、怖くてできなかったのか。その辺はよくわからない。けど、時々、のめり込んでいくことがやっぱり怖かったのかなと思う。冷静ぶっているだけだったのかもしれない。だから、カウンセリングをしていて、「自分が何をやったらいいのか分からないんです」なんていう話を聞いても、その気持ちがそれなりに分かる。見つけられないというよりも、見つけることをためらう気持ちもあるのかもしれないし。
今は、カウンセリングが自分に合っているし、自分の居場所かなっていう気がする。「どうも、ありがとうございました」と言って別れる時は、「ああ、よかったな」と思って、自分としてもやったなという気がする。これは会社のやったなとは違う。 会社員時代は有り難い時代で、給料の心配がなく、自動的に給料が入ってきていた気がする。今は、入ってくるお金の単位はものすごく少ないけど、それでも、そういうお金の方が、自分の仕事の成果だと思える。私が話を聞いた人のお金の何分の1かがここにきた。距離感がすごく近い。
いいカウンセラーに出会うには
カウンセリングをやってきて自分が変わったと思うことは、いろんなことを受け止められるようになったこと。これも人生、それも生き方だと。それに、日常の周りの細かいことが、人間の意識をかなり支配しているということも分かった。例えば、誰かと話していて、こういうことをいわれた時に、ものすごく辛い思いになったとか。そういう時に、自分をどう対処させるかということを考えていかないといけない。抽象的な話だけでは解決しない。具体的な場面を自分で思い浮かべることが大事だ。
また、時間を守ることの大切さを知った。カウンセリングでは1時間でぴたっと決める能力が必要だ。いいカウンセラーの見分け方の一つはこれかもしれない。特に、発達障害や人格障害の人と会う時は、1時間で相手が泣いていても終わらせることが大事。その時、相手はものすごく見捨てられたというらめしい顔をするかもしれないけど、それが逆に、人間同士の信頼感につながる。あそこにいけば、必ず私の時間が1時間あるという安定感。これが大切だと思う。そういうことが分かった人は、5分遅れる時でも必ず連絡をくれる。そういうところから人は変わる。
カウンセラーにもいろんな人がいる。会社なんかの縦の関係をそのまま持ち込んで、聞いてやるよという姿勢の人もいる。「あなたは自分のことに関しては専門家で、私は認知行動療法の専門家。専門家と専門家が、あなたの悩みや苦しさを解決するために、2人が対等に共同作業をするんですよ」という見方をする人が本当のカウンセラー。そういう人のほうが少ない。
企業人はなかなか変われない。会社で仕事ができる資質と、人として生きていく資質は少し違う。企業の縦の人間関係しか見られない人とか、会社で自分が達成できなかったことを抱え込んでいる人が、ボランティアの組織なんかに入り込んでくると危ない。もっと違う価値観や見方でやっていくことが大事だと、気づけばいいんだけど。
地域活動に入る人のための講座があるけど、ソフトランディングできるように、おだてるように組み立てられているような気がする。人間それぞれ違いがあることを認め合いながら運営していくことがボランティアであり、地域活動だということをもっと伝わるような仕組みが必要じゃないかな。

これからのカウンセリング
これからは個室の中で、1対1でやっていくカウンセリングって、どうなんだろう。疲れている人や問題を持っている人が3人とか4人で、共同作業というスタイルもあると思う。芸術療法の話を聞くと、絵を描く、コラージュを作るということは、一人でやるよりも集団でやった方が、他の人の刺激を受けて物語が開けていくそうだ。
同じように、うつで休職していて、ようやく出社できるようになった人なんかは、グループディスカッションをすれば考えがしっかりし、それが出社への準備になっていくはず。それにはファシリテーターの技量がものすごく問われるけど。人間は社会の中で存在しているのに、1対1でしかカウンセリングをやらないのはおかしい。今、取り調べとカウンセリングくらいでしょう、個室でやるのは。
一緒に活動しているカウンセリングのNPOにも、机を丸いものにしようと提案している。いつの間にか、古手から順に奥に座ると決まってしまっている。これもおかしい。古い考え方からの脱皮が必要だよ。もしかして、机なんかなくてもいいかも。
最近は体が辛くなってきたから、カウンセリングもそろそろ辞めようかなと思うんだけど、結構、やりだすと終わらない。逆に、増えていったりしてね(笑い)。
完
posted by ききがきすと at 23:47
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2011年04月08日
作品:人が集まってくれる暮らしは楽しい
〜夢は持ち続ければ叶う〜
語りびと:藤田敏子 ききがきすと:海田廣子
聞き書き時期:2011年1月
夫の母親との出会いがご縁
新幹線のホームで私の前に夫の母親がいたの。たくさん荷物を持っていたから、一つお持ちしましょうかと声をかけて新幹線に乗ったのがご縁だった。一度遊びに来てくださいといわれて、住所、場所を書いてもらった。そのとき私は、婚約していたのを断りに名古屋から静岡へ行く時だった。帰ってきて、またお見合い写真でも撮るかと写真を撮りに行く途中で、そういえばこの近くだったのじゃないかと思い出して夫の母親のところに立ち寄った。たまたま私が行った日に夫もそこにいたの。会ったとき、すごいオジサンがいるわって(笑)。9才も違うので若いときの年の離れってそう感じるじゃない?。
まさかその人と結婚するとは思わなかった。デートもしないうちに話が決まったの。
一度だけどこへ行きたいと聞かれて、名古屋の東山動物園に行って、二人でゴリラの前で笑った。デートはそれ1回だけ。おじさんだからこの人なら間違いないのじゃないかなっていう気はしたの。でも私の親は心配して、興信所に頼んで調べましたね。真面目な人だと言うのがわかったからOKがでたのだと思う。恋愛感情もないし、手をつないだわけでもないし、ただゴリラの前で笑っただけなのに・・。思い切りがいいでしょ。
義母は、嫁はこうでなきゃいけないとの思いが強く、気が強い人。結婚したときは、それはものすごく大変な思いをした。子育ての時もそれはそれは大変だった。ホントにつらい事って思い出すのもいやでしょ。だからあまり人に言わないの。
結婚して最初の頃はずっと主婦だった。夫は退職するまで、専門書の大手外資系出版社の日本代表だった。大学の教科書、美術書、医学書、経済学の本など。本の著者がたくさんいたのでその接待があった。家に呼んで接待するだけならいいのだけど、ちゃんとお話を合わせられるように著者の方の本を一応読んだ。私は英語はダメだから日本語に訳されている本を買って、わかりもしないのに読んでいたのでとても忙しかった。小説だったらいいのだけど・・・。今その反動で簡単な本ばかり読んでるけど(笑)。
外国からのお客さまだから和服を着て行かなきゃいけないじゃない。だから和服をまず着ることから。何となく着ることはできたのだけど、月に2回くらい先生に家に来てもらって、着崩れしない帯の結び方を教えてもらった。とにかく早く覚えなきゃと、先生が帰ると教えてもらったことを全部メモしてその通りに自分でやってみた。3ヶ月くらいでびしっと帯が一人で結べるようになった。結婚したときは主人が外資系企業に勤めていることは知っていたけど、そこまで大変だとは思わなかった。
敏子さんを見ていると「幸せそうな絵を描いているし、なんの苦労もなく幸せな人ね」とずっと言われ続けている。「はいはい」と返事しているけども、気持ちの中では実はそうじゃない。好きな本を読んでその世界に入ったり、アトリエに行ったり、お友達に会っておしゃべりしたりとか、それを上手に解消する方法があるの。
アトリエで絵を描き始める
結婚してしばらくして、子どもが中学生になったらカルチャースクールではなくて、ちゃんとしたところに絵を習いに行きたいと思っていたのよね。たまたま、ホテルオークラのレディーズサークルでアトリエのオーナーの奥さまと一緒になりお友達になった。「実は恵比寿に主人がアトリエを開くのでよかったら来てくださいね」と言われて、じゃ見に行こうかなと軽い気持ちで見に行って、ここなら大丈夫かなと。ちょうど息子が中学生になるタイミングだった。アトリエに行きだしてからは長いですよ。もう化石になっちゃって・・・(笑)。月曜と水曜の午前中のクラスは、みなさんめちゃくちゃ真面目な人ばかり。真剣でね。それこそ話もしないで黙々と描く人ばかり。入りたいと思う人が見学に来ても、その真剣さを見て恐れをなして、このクラスは入れませんというの。とけ込めないと思うみたい。描いてないときは和気藹々でいい人ばかりなのだけどね。
義母はあの時代の人だから家庭の主婦が毎日外に出るなんてとんでもないという考えが強い。義母は4時に夕飯を食べるの。だから、朝9時ごろまでにきちんと片付けをして、お昼ご飯と夕飯の準備をしてから出かけて行く。文句を言われないように家のことは完璧にした。そこが私の強いところ。やりくりがうまくなったわね。何十年もかかって編み出したことだから。義母も何年かするうちにだんだん私のやり方に慣れて、諦めちゃって・・・(笑)。でも長かったわ。これで大丈夫だと思ったのはおじいちゃんが亡くなってから。
外に出かけることはできなかったけど、恵比寿のアトリエだけは行っていた。私のストレス解消の場かな。今でもそうだけど・・・。自分でもよく耐えてきたと思う。 アトリエでは大きい絵を描いて、家では小さい絵を描く。毎年テーマを決めて、シリーズではがきに水彩画を描いている。お花、野菜やケーキなど。小さい絵をちょこちょこと描いているのは楽しいわよ。ハーブのシリーズもあった。ハーブは自分で育てて花が咲くまで待って描く。プランテーションに行っていろんなハーブを買ってきて、種から育てる。毎年16枚描いて印刷してもらうの。何年もやっているからどんどん原画がたまる。原画だけでも展覧会ができそうな気がする。長細い額に入れてもいいかな。
あと、綱島のギャラリーで毎年9月に5人でグループ展をやっている。だれかが辞めた時点で辞めることになっているのだけど。去年そういえば17回忌だと言ってみんなで笑ったわ。それから毎年クリスマス近くに、親しくしている織物の先生が生徒のために展示会を催すの。その先生から「展覧会だから小さな絵を出して」と頼まれるので、5、6枚小さな絵を出すの。水彩はがきや絵が欲しい方には、安くおわけしている。
母方の実家は代々画家だった
私が生まれたのは金沢。両親ともに金沢の人。母の実家は佐々木というの。私の兄弟は弟が二人。私は長女なのだけど、私の母は後妻で腹違いの姉がいる。姉たちはおじいさん、おばあさんに育てられていたので一緒に住まなかった。姉は金沢に住んでいるけどちゃんと行き来している。時々遊びに行ったりしている。
私の母の父は、佐々木三六(さんろく)という画家。雅号は「長江」。母が遺産分けでもらった絵がたくさんあった。私たちでは保管できないのでもったいないからと金沢の近代美術館に相談したら、そこの館長さんが預からせてもらうと言って保管してくれることになった。そのかわり美術館で企画展する時は使わせてくださいという条件で。全部持っていかれるのもなんだしと思い、その中から絵を数枚もらった。額に入れて居間に飾ってる。三六さんのスケッチ帳は貴重なものだから私が欲しいといって母からもらってきた。日本髪の人、着物を着た子どもや男の人などを鉛筆でデッサンしたり、風景を水彩でスケッチしてる。でも、シミだらけでもったいない。今みたいなスケッチブックがあったらどんなによかったでしょうね。
昭和52年に福井県立美術館で『福井の明治美術展』が開催された。三六さんの絵が図録の表紙に使われている。ルーベンスとかフェルメールのような絵ね。イタリアの美術学校留学の時に描いたのではないかしら。図録に『洋画留学の最も早い人の一人。トリノ留学。コンクール で一等賞をとった作品』と書いてある。 三六さんの父、佐々木長淳(ながあつ)さんも絵を描いていた。図録に『ペ リーが来たときに、軍艦の中に絵図を描いた。養蚕学もやっていて近代製糸業にも尽くした。橋本左内肖像画を残した』とある。母は実家が代々画家だったことを私に一切話さなかったので、大きくなるまでおじいさんが絵を描く人だったことは知らなかった。母はちょこちょこといたずら描きするのだけど、絵がうまい人だわと高校生くらいの時に思った。多分、絵を描くのは当たり前だと思っていた人だと思う。 福井の美術館ではじめておじいさんの絵の実物を見た。さすがにイタリアに留学していただけあって、他の人の絵よりむちゃくちゃ色がきれいなの。富士山の絵のブルーがすごくきれいだった。大きい作品だったので感動したわ。油絵も水彩画もたくさんあった。母にもらった絵やスケッチ帳は、いままで誰にも見せたことがない。はじめて人に見せた。おじいさんはきっと喜んでいるわ。

孫の私は絵を描くのが好きなだけ。あと、いとこ(三六さんの三男の子)が人形作家。ご主人が外科のお医者さまだった。私より2才年上で71才。富山に住んでいて人形作りを教えている。彼女の人形はコレクターがたくさんいて海外では全部売り切れてしまう。今度パリに出展するらしい。日本の人形展で賞を総なめにしているの。この人が一番おじいさんの影響を受けている。
私の絵が欲しいというので絵を送ったら、紙粘土で作った人形を送ってきたの。身体の骨組みから全部わかってないとこういう作品はできないと思う。孫たちが見るとリアルすぎて怖いというの。ものすごく霊感が強い人だから人形に魂が全部はいっていく。粗末にできない。ほこりかぶっているけど(笑)。そのうちに二人展をしたい。 優しくて女性的ねと言われるけど・・・
20代の頃、父の転勤で松本に3年くらい住んでいたことがある。長いことスキーにのめりこんでいた。そのころはお弁当を持って板を担いでバスに乗り、毎週一人で滑りに行っていた。赤倉、妙高、御岳高原、美ヶ原とか。私は一人でいるのが好きな人なの。気を遣わなくていいから。好きなようにできるじゃない。
3月くらいかな、アイスバーンのところを直滑降で滑っていて顔からダダっーと、ずりずりにけがをして骨折した。家に帰ったら母にもう懲りたでしょと言われた。でも次の年からまた出かけて行った。好きなように滑って楽しいのよ、これがまた。
みなさん女性的で優しくていい人ねと言ってくれるけど、すごい男勝りかもしれない。さばさばしている。子どもは男の子一人で、女の子がいないので体育会系かも知れない。
でも、身体は弱かったのよ。ものすごく弱くてね。熱出してアトリエを休んだりした。
海外旅行で成田を出たとたんに具合が悪くなって、下血が始まった。びっくりしてね。どうしようと。下血が止まらなくて、このまま続いたら生きて帰れないかも知れないと思った。そのときは息子と一緒のツアーだった。みんなに迷惑をかけてはいけないという気持ちが強いものだから我慢したの。ギリシャに着くちょっと前に、添乗員さんにギリシャから帰りますと言ってホテルまで連れて行ってもらった。ホテルでお医者さんに見てもらったらすぐ病院に行かなきゃダメだと言われて、国立の病院に連れて行かれた。こんな病院はじめて見たわと思うようなすごいところ。汚ならしいし、不潔だし、患者さんがいっぱい溢れるようにいた。そこでとにかく応急の処置受けて、下血が多かったので輸血してもらった。エイズが流行っている頃で心配だったけど・・・。
輸血をしてもらったら身体がふわ〜と暖かくなってきてなんともいえないよい気分になったの。そのときのことは忘れられない。それだけ血が少なくなっていたのね。それから腸の検査を受け、入院しないとダメだと言われて、しょうがなく入院した。
一週間後に検査の結果がわかりましたと、いろんな先生が入ってきてわいわいやってるの。すごい大きい声でわめくように何か言っているけど、こちらは何かわからない。何言ってるのと息子に聞いたら「この検査は失敗に終わりました」と。「うそ〜」(笑)。
「失敗したから1週間後にもう1回検査させてくれ」と言うの。息子が「こんな所にいたら殺される。すぐ引き上げるっ」と怒って、飛行機の手配や退院手続きして、その日の夜の便で帰国した。私の病気のことを先生は何か言っていたのと息子に聞いたら「癌です」と言われたって。ああ、やっぱりねと思った。なぜかシラ〜とした感じで「そう」と返事した。
日本に帰ってから検査を受けたら「別にこれといったことがありません」と。あの出血は何だったのと狐につままれたような感じ。ストレスとか気圧の変化とかで腸に穴が開いて出血したらしい。1週間ギリシャで入院している間にすっかり穴がふさがって、日本で検査受けたときはどうってことなくなっていた。癌なんてとんでもない。ギリシャにいたらきっとどこか切られていたわ。息子は命の恩人。そのときにギリシャ人の血をかなりもらったのね。それからすごく元気になった。ものすごく元気な人の血をもらったみたい。熱も出さなくなったし、寝込むこともあまりなくなった。不思議ですね。そこから私は生まれ変わったのだと思う。でも心配だから毎年エイズの検査を受けていましたよ。
ギリシャは2回目だった。病院に運ばれるとき、タクシーの中で横になってアクロポリスを見ながら「あ、アクロポリスだ」と。じたばたすること一つもなかった。不安は不安なのだけど、ものすごく冷静な自分がそこにいた。息子も冷静なの。添乗員に、こんなすごいことになっているのに冷静になっている人たちは始めてみましたと言われた。それもきっと無事で帰ってこられることがわかってたのじゃないかな。内心、こんなところで死んでたまるか、ばからしいと思っていたのね。
いろんな人とつながりを持っている幸せ
昔、テニスをしていたの。夫も一緒に。そのときの仲間はみな辞めてしまっているのだけども、今も行き来している。1月3日は必ずわが家に来て私のお料理を食べて、飲み会をやるの。8人くらいなので足の踏み場もないくらい。午後3時に来て、帰るのは夜の11時過ぎ。今年で22年よと言われて、そんなに続いていたのとびっくりしたのだけど・・・。お菓子を作るのも好き。月に1回、5名くらい来てもらって、はがきに水彩で絵を描いてもらう。そのあとに「アフタヌーンコーヒー」の会をしている。絵は小学校以来描いたことがない人ばかりで、ケーキだけ食べたいと言う人ばかりだったけど、絵を描き始めたらおもしろくなって楽しみにしているみたい。
主婦なので、2、3回でやめるだろうと思っていたら、お弁当持ちで参加する。お弁当食べて、1時から4時までやるの。このグループは編み物や織物をする人たち。作品展をなさるのでそのときに買わせてもらうの。
外に出かけているちょっとおもしろいグループがある。お医者さんの奥さん5人グループ。ホテルオークラのサークルでご一緒になった方々で、20〜30年の長いつきあい。皆さん70才以上で、超ハイクラスの人たち。音楽のお仕事をしている方は、ニューヨークに別宅を持っていて、お稽古のある日に合わせて帰ってきて「夕べ、ニューヨークから帰ってきたところ」と、名古屋や大阪から帰ってきたような言い方なの。私は背伸びもしないし、このままの人間を見てもらえばいいと思って気楽につきあわせていただいている。想像もつかないような知らない世界をいっぱい聞けて、それは楽しい。

月に1回「アフタヌーンコーヒーの会」というのをしてるでしょ。それがね、若いときからの夢だった。この会では、私も楽しませてもらっている。私より10歳くらい若い人が多くて、若い人の考えを聞ける。いろんなお話が出てくるわよ。こんどはどこに旅行に行きたいとか、お料理のレシピなんか主婦感覚で、すごく勉強になり大助かり。
女性でもいろんな趣味を持っている人たちはおもしろい。みなさんに共通しているのは何かしている人は若々しいということ。生き生きしてる。家の中に閉じこもって孫の世話だけしている人とはちょっと違う。そういうネットワークを持っていることは、この年では幸せかなと思う。
幸せは自分で作っていかないとね。ほんの小さいことでも嬉しいとか、幸せと思うようにしてる。そんなに上を見ないようにしているけども、夢はちゃんと持ってる。若いときから年を取ったらこういうことをしたいという夢があったら、自然にそこまでたどり着くというのがこういうことなんだなってね。
夢はちゃんと持ち続けないとだめだなということがよくわかった。このごろ大事なところの感動がちょっと薄れているのじゃないかなと感じることがあるの。情けなくて・・・(笑)。ま、これも自然の流れに年相応にいけばいいのだなって。そこで無理をしようと思うと身体にも影響がでると思うので自然体がいい。
完
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2011年03月23日
第2回ききがきすと養成講座開催決定!
昨年10月から12月まで開催した「ききがきすと養成講座」では、ききがきすと第1期生が誕生しました。このメンバーを核に、「ききがきすと」はさらに活発な活動を続けていきます。さて、ご要望にお応えして、第2回「ききがきすと」養成講座を開催することになりました。未曾有の災害・東北関東大地震を経験して、自然の中では人間の力がいかに弱いものかを思い知らされました。人間の営みも、自然にとってはアリのうごめきのようなものかもしれません。とはいえ、私たちは生きています。先祖から引き継いだ命と営みであり、今後も、子孫につなげていく命と営みです。非力とはいえ、生きた証を刻みたいと思います。
そのために「ききがきすと」活動があります。「ききがきすと」は語り手の話にじっくり耳を傾け、その話を書きとめることによって、語り手に代わって「その人なりの自分史」を残すお手伝いをするための資格です。Ryoma21では、一定レベル以上の聞き書きができる人を育成し、活躍につなげるための「ききがきすと養成講座」を開催します。資格を取得すれば、Ryoma21の仲間と一緒に活動することができます。
【ききがきすと養成講座開催要領】
◆開催日:平成23年5月14日〜7月9日
14:00〜17:00。いずれも土曜日6回
◆会 場:東京都中央区銀座近辺、中央区施設など
◆カリキュラム:下記のPDFをダウンロードしてご覧ください。
詳細もこちらでご覧いただけます。
【第2回ききがきすと講座受講生募集チラシ表.pdf】
【第2回ききがきすと講座受講生募集チラシ裏.pdf】
◆定 員:10名限定
◆申込み締切日:5月10日(火)
◆受講料:正会員35,000円、賛助会員40,000円
非会員45,000円
*テキスト・資料代を含む。
*正会員同時入会で、正会員価格で受講可。
◆申込み・お問合わせ方法
下記の事項をFAXまたはメールにてお送りください。
追って、詳細をご連絡します。
@お名前
A郵便番号/ご住所
B電話番号
Cメールアドレス
D非会員で同時入会をご希望の方はその旨を記載。
◆申込み・お問合わせ先
NPO法人シニアわーくすRyoma21
「ききがきすと」グループ・松本へ。
メール info@ryoma21.jp FAX:03-5537-5281
以上
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2011年03月21日
作品:わが愛しの編集人生
この聞き書きは、第1回ききがきすと養成講座の課題として、
受講者全員が取り組んだものです。代表して1作品を掲載します。
語り手:川崎和子さん 聞き書き時期:2010年11月
主婦に納まっているのはいやだった
私が住んでいる所は田園都市線の田奈。40年も住んでいます。今から20数年前に『あっとらんだむ』というタウン誌を立ちあげました。もちろん、簡単に立ち上げられたわけではありません。夫は海外出張が多く、留守がちでしたので、何かしたかったのです。人見知りも克服したいと考えました。きっかけは、子供のPTAなどで広報に身を置いたことです。でも、PTAだけでは納まらなくて、もうちょっと本格的なことをやりたいなと思っていました。そしたら、自宅の近くに『フレンズ』というミニコミ新聞を出しているところがあり、募集の張り紙があったんです。応募したところ、明日から来てくださいということになって、そこから、私のもの書きの第一歩が始まったわけです。
家が近いので、保育園や小学校だったりする子供を自宅に置いて仕事をしていました。何かの都合で家に帰れないときは、外から子どもが「お母さん、まあだ?」と声をかける。社長はいやな顔をしていましたね(笑い)。そこには2年くらいいました。

そのうち、営業成績抜群の女性がいまして、自分で新しく地域新聞を創るからといって、私を引き抜いたんです。その方は田園都市沿線のあざみ野に自宅がありまして、そこを事務所にして「まち」という4ページくらいのタブロイド版の新聞を立ち上げました。
そのころの沿線には畑とか山林とか大きな竹林などがまだあったのですが、東急電鉄がどんどん開発していって、風情ある風景がなくなっていく、ちょうどそういう時だったんです。で、オーナーから「この辺は昔話がたくさんあるの。私、おじいさんたちを知っているから、川崎さん、あざみ野の今昔物語をやってくれない?」と言われました。そして、月に1回、古老のところに紙と鉛筆を持って取材にいく仕事が始まったわけです。
田舎のおじいちゃん、おばあちゃんたちのところに行きますと、かっこいい若い女がオレのところに来てくれたというので、酒と肴を山のように用意してくれることもありました。そこで、話を聞くのは面白かったですよ。
例えば、あざみ野の奥に「船頭」という地名があります。どうして山に船頭?と不思議に思っていましたら、本当に船頭がいたんだというんです。日照りの年、上流で水を取ってしまうので下流は水が細くなり、水争いがあったそうです。川下の百姓が怒って、下流に土のうを積んで堰き止めてしまった。ある年、雨がすごく降って、大きな池ができた。その池を渡るのには、船がないといけない。そこで、地主か大百姓の家に、船を作って貧乏な百姓たちの足の便を作ってくれないかという話が出た。それが船頭という地名になったそうなんです。
あるいは、十三夜とか二十三夜も、神に祈る祭りとして、酒と肴を持って集まっていたという話も聞きました。そんな話を『まち』に連載していきました。オーナーが、ペンネームがあったほうがいいのではないかと吉岡すみ子と付けてくれまして、20回くらい連載しました。私は原稿を保存してなかったもので、後からほしいと思ったのですが、オーナーが早くになくなってしまって、残っていません。
燃え立つようなエネルギーを感じながら
『あっとらんだむ』を立ち上げる前に、もうひとつ別の会社で働きました。それも女性経営者で、真四角な大判の雑誌形式で『マイタウン田園都市』といいました。季刊誌です。取材のほかに営業をやってみないかと言われました。時代の波なんですね。高度成長期に向かってだんだんよくなっていく時期だったので、結構、営業がうまくいきました。割合、気楽に営業をやっていったので、それなりに成績が上がっていくわけです。面白かったですね。表と裏がカラーで、いい広告料を取っていました。
取材では美術館特集が印象に残っています。街の人をインタビューアーとして連れて行って、その人が取材したような形で美術館の特徴を聞きだして記事にするんです。街をあちこち飛び歩いて、いろんな方にお会いして、とても勉強になりました。自分のタウン誌を立ち上げる時には、この仕事がとても参考になりました。でも、3年未満で辞めました。もう人に使われるのはいやだという思いがあり、だったら、もう自分でやるっきゃないという感じです。その後、1年くらいのブランクを置いて自分で始めました。 立ちあげた時、私はちょうど50歳だったんです。若いのか、歳とっているのか、自分ではそんなことは全然考えませんでした。どういう形の雑誌にするのか。りっぱな考えは思いつかずに、とにかく自分が今やれることをやればいいと、タウン誌づくり以外には考えられませんでした。今までの仕事で、地元に結構な知り合いができてましたので、そういう方たちを頼って、自分で雑誌を出しますので、よろしくと挨拶に参りました。主婦で何ができるんだとバカにされたりしたこともあります。
自分で何かを立ち上げるという時は、やはり崖から飛ぶような気持ちになるんですけれども、一方で、燃え立つようなエネルギーのようなものが湧いてもきます。恥ずかしいとか、家族に迷惑をかけるとか、そんなことは全然考えられなかった。とにかく、前に飛べって感じでやってしまったんです。
ところが、2年目、3年目のころ、リバウンドがきまして、しんどいなと思うこともありました。2番目の娘の高校の先生から、「3号雑誌といいうのがあるからね」と言われたんです。その時、「え〜、3号で辞めるなんて、とんでもない」と思ったんですけど、やはり、3号目を出すのは大変でした。
1・2号目は義理で広告を出してくれるんです。でも、3号目になると「うち、いいよ」「うちもいいわ」となって、どんどん減っていきました。ここで辞めたら3号雑誌。辞めてなるものかという気持ちがムラムラと湧きました。だから、本気になって頑張りだしたのは、3号・4号あたりからかもしれません。2年目、3年目は胸突き八丁の一番苦しい時期だったと思います。
その間、スタッフは常に2人くらいいましたが、営業はまったくできません。書いてくる文章も手を入れないと掲載できない。でも、やっぱりスタッフがいたほうがいいんです。みんなで、こうよね、ああよねと雑談をしていると、いいアイデアが出てきます。スタッフが「いいと思います」と言ってくれると、すごい勇気がわくんです。企画の段階ではスタッフが必要でした。
20年前、スタッフがひとりになったので、募集したんです。そしたら、優秀な女性が来てくれました。春ですから、美容関係の特集を組みましょうかと言うと、4つくらいの広告を取って来てくれるんです。次はカルチャーでいきましょうかというと、それも取ってくる。あの頃が一番のピークでした。私は、本当は広告営業は向いていないんですが、広告がないと雑誌がさせませんから、書きたい一心でやっていました。彼女には本当に助けられました。
文化の香りのあるタウン誌を目指して
田園都市沿線にはミニコミ誌がたくさんあるんです。『あっとらんだむ』は文化の香りのあるタウン誌を目指していました。田園都市線に移住してくる人たちは、生活レベルが高いので、そういう人たちに満足してもらえるようなものを作らなければなりません。目玉は文化人。人脈を頼って、文化人を紹介してもらって、雑誌の巻頭に入れます。それに、ちょっといいレストラン、素敵な雑貨を於いている店、ギャラリーなど、質のいい店を紹介していきました。私が参入した時はTBSの緑山スタジオにいたプロデューサーが、今度、こういう番組を放送しますので、ミニコミ誌で記事を書いてくれませんかという記者会見をしたり。そういうところでも人脈ができました。TBSにも定期的にお伺いして、ニュースをいただいたりしました。
そうしているうちに、TBSでやっている事業の広告を出してもらえるようになりました。ミニコミ誌というのは、草の根的に地面をはうように街を歩いて、記事や広告を探し出すのが宿命なんです。そんなこんなで11年。37号まで続けることができました。
タウン誌から自費出版本へ
私にとって自費出版本を作るということも、取材の延長線上にあります。最初のきっかけはバブルが弾けて景気が悪くなったことでした。こんな小さなタウン誌にも不景気の影響が及んできて、広告が入らないんです。それまでは、粘り強く営業すればもらえたんですが、もらえないんですね。
雑誌を作る時は、最初にダミーを作ります。最初に固定の広告主さんを入れて、空いた広告スペースはそれ持って営業をするわけです。ところが、常連だったブティックやお花屋さんに行ってみると、お店がなかったりする。困ったな、どうしよう。50代後半になると営業するのもくたびれてきて、なにか楽してできることはないかとやましいことを考えてしまいます。
それじゃあと、「自費出版のお手伝いをいたします。10万円から本が出せます」」という広告を打ってみました。普通、自費出版というと100万円以上なんですが、私が使っていた印刷屋さんはアルバムなどを手掛ける学校関係専門の印刷屋さん。カラー印刷もお手のもので、とても安かったんです。話したら、「まあ、いいだろう。10万円は10万円の本を作るから」と。私は、あまり効果を期待してなくて、ただ空白を埋めるつもりで出したんです。
そしたら、引き合いがきたんですよ! ちょっと慌ててしまいました。その方は、NHKの自分史講座で勉強をした人です。先生にあなたのはいいですよと言われたそうなんです。100枚くらいの原稿を持っていました。原稿は私がワープロで打ちだして、レイアウトを付けて、印刷屋に出しました。大きな自作農で、それが自慢のようでした。だから、中に写真のページを作り、屋敷の見取り図も入れました。これが作品第一号の『かなめの子』。100冊作りました。

次が『いつかくる日』。これは大変でした。「原稿は書けないけど、本を作りたい。何も考えもありません。お金はあります」と。「えっ〜」と思いましたが、できるという予感がありました。とはいえ、まるでヘレンケラーとサリバンの関係。「私は、文章は書けないけど、いろんなことがこの胸の中にあるんです。その思いを引き出してもらいたい」というんです。
そこで、心の中の思いや思いついた言葉をランダムに書きだしてもらいました。そうしたら、センスのいい言葉を次から次と持ってくるんです。びっくりしました。彼女のことばを拾いながら、私のイメージの中で膨らませます。行きつ戻りつしつつ、私が文章や自由詩の形にして、彼女と2人3脚で本を作りました。彼女の言葉に刺激されながら、私自身が試されているような気がして、一生懸命作りました。
その頃は、聞き書きという観念はなかったのですが、これがそうなんだなと思いましたね。今日、電車の中で読んでみたら、当時のことがありありと浮かんできました。もっと顔が赤くなるようなものかと思っていましたが、案外、悪くないなと思っています。
もうひとつは、自分のパソコンで作った本です。岐阜県の田舎のおばちゃんの依頼なんです。「自分は“おしん”よりも苦労した、おしんには母ちゃんがいたが、私にはいなかった。4歳で死んだ」というようなことが書いていある。旅先の五平餅屋でなんとなく気が合って、店で話をしていたら「あんた、何なさるひとかね」と聞かれました。私は地元でちっちゃな新聞を出してるもの書きの端くれよと答えたら、「私、今、原稿を書いてるんだけど、本にしたいんよ。本にしてもらえんかね」と言われました。
ものすごくパワフルで、神経が太い、田舎のどっしりしたおばちゃんという感じの人。私はそういう人に弱いんです(笑)。なんとなく取材モードに入ったら、あんた、今夜はうちに泊まっていけっていうんです。いやいや、帰らないと父ちゃんに家に入れてもらえないといって、その時は振り切るようにして帰りました。
でも、自分史に作れるんだったらと思って、しばらくして電話をしたんです。そしたら、「まっとるよ」と大きな声。で、下呂温泉1泊の招待がきました。原稿を見たら、すごい字だし、じっくり腰を据えて読まないと読めないような内容。原稿用紙ではなくて、裏紙だし。バラしたパズルみたいな内容で、電話で聴いても、全然、答えになりません。この方は小学校しか出てないんです。「私は学問がないから、バカだから、苦労の連続だった」とおっしゃる。聴いてもしょうがないんで、自分のできる範囲で文章に直して、送りました。
このおばちゃんの旦那さんはシベリアで4年くらい抑留されていたそうです。その時代の過酷な経験をした男の方は、体は頑丈でも、どこか精神が傷めつけられたり、洗脳されたりしたのではないかと思うんですが、おばちゃんはそのあたりがあまり理解できないような人ですね。結局、旦那さんは自殺をされたと書いてある。地域の人には、そんな話はできないと言うんですよ。そんなおばちゃんの聴き役になったわけですが、それもいい勉強だったと思います。
印刷屋に出すつもりで、それなりの金額を提示したら、うちもいろいろと金がいってねという話になって、じゃあ、私がパソコンで本にしますがそれでいいですかと。10万円で10冊作って収めました。この『伊藤ふさの生き方』が、私が最初に創ったパソコン仕上げの本になります。

本を作るのは、そのおばちゃんに限らず、誰にでも花道で花火を打ち上げるようなものですよね。田舎の人ですから、ましてや、あんた何ものと言われたんじゃないかと思います。
ききがきは取材と同じですね。でも、話すことに慣れていない人もいます。社会の表に出ていないような人は引いてしまいます。それなりに、傾聴する気持ちで聴かないと、答えは返ってきません。逆に、偉い人だと、こちらが恐縮して、肝心なことを聴き逃すこともあります。聞き書きは難しいですね。
私は自分よりもレベルの高い人を取材したことで自分が育ったと思います。自分では経験することができない過程や苦労を追体験することができます。素敵に生きてきた人に出会える、またとないチャンスでした。有り難いな、すばらしい仕事だなと思います。
今、ちょっと刺激がなくて、停滞気味かな。私は趣味で日本地図の渚ドライブをしています。今年は九州を一周して帰ってくる計画を立てていたんですが、それができませんでした。来年の春にそれをやりたい。女の伊能忠孝みたい?(笑)。とにかく動けるうちには行動したいと思っています。
完
posted by ききがきすと at 17:44
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2011年03月21日
ききがきすと作品例目次
11.アン 〜なんでも自分で〜
10.山を愛し、お酒を愛し、人を愛し
9.定年後の仕事はカウンセラー
〜ライフワークを見つけるまで〜
8.人が集まってくれる暮らしは楽しい
〜夢は持ち続けていれば叶う〜
7.わが愛しの編集人生
〜ミニコミ誌づくりに30数年〜
6.「友の会」と共に60余年
〜「友の会」に育てられた私〜
5.元助産婦が語る戦中・戦後の青春
〜好きな人がいたんだよ〜
4.八十九年生きて、いまがいちばん幸せ
〜白内障の手術を経て視力を取り戻す〜
〜ずっと歌い続けたい第九〜
2.満州で家族を失った女性の問わず語り
〜誰だって一回くらい幸せにならなくちゃ〜
1.楽しかった昭和・ビルマから見た戦争
〜元従軍看護婦の回想録〜
posted by ききがきすと at 12:08
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| 作品目次
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