2025年09月20日

聞き書きの中の方言について

ここ3回は「戦争の記憶をつなぐ」として、過去作品中の戦争について紹介させていただいた。今回は聞き書きの中で使う方言について考えてみたい。

私は高知に住んでいる。語り手の皆さんも高知の方だ。高齢の方が多く、話し言葉に方言はよく出てくる。馴染みのない人には意味がとりにくい場合もあろうが、私は独特のリズムのある元気な土佐弁が大好きだ。聞き書きの中でも、その人ならではの語り口調とともに土佐弁を大切にしたいとの思いがある。

しかし、Ryoma21のききがきすとは、私の外は皆さん首都圏の人である。私の作品を編集チェックしてくださる方から意味を問われたり、もっとわかりやすくと訂正を求められることもあり、方言を正確にわかりやすく読み手に伝える工夫が必要となる。

私の過去作品の中の方言を拾ってみると、
〇方言をそのまま文中に使っているもの
・今みたいな結婚式もせんかったねぇ。寄りおうただけ。そうして一緒になりました。
 「はるかなる人に」
・これが昭和46年に高知でしたときのがじゃね。ここへ写っちゅう人も、もうみんなぁ、おらんなってしもうた。
 「遠い昭和の日々を辿る」
〇方言の意味を( )書きしたもの
・主人は、なかなかのりこもん(土佐の方言で利口者)でしたよ。
「遠く懐かしい、あの日を想う」
・こんまい(小さい)手でほんに器用に編んだって、目を細めて話してくれました。
「義母の想いをつなぐ〜昭和のあの日の我が家のこと〜」
〇最終頁の〈参照〉に説明を入れたもの
・まったく子やらい(〇頁※2参照)はしないで、女中さんとかいましたよ。
・子どもの僕らが野球をするのにぼっちり(〇頁※5参照)でね。
 最終頁  〈参  照〉 
 ※2 子やらい:子どもの養育の意。
 ※5 ぼっちり:土佐弁で、ちょうど、過不足がないの意。

改めて、耳慣れない土佐弁に戸惑ったり、説明書きを煩わしく思う方がいらっしゃるのではと思う。今後さらに、方言使用の場合の課題整理の必要性を感じる。例えば、参照での説明は読み手には煩雑であろう。短い説明の場合は、やはり( )書きにするなど工夫の余地があろう。

今期放映中のNHKの連続ドラマ「あんぱん」の中で土佐弁が好評だと聞き、なんとも嬉しい。
私の聞き書きの中でも、高知の言葉、土佐弁を元気に発信していきたいと思う。

ほいたらね。

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ドラマ「あんぱん」でお馴染みのシーソー。
この場面での崇とのぶの土佐弁もよかった。
毎朝の楽しみであったのに、今月末で終わってしまうのが、残念。

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2025年08月17日

戦後80年に戦争の記憶をつなぐ〜ミンダナオ島での戦争体験〜

終戦から80年が経ち、もはや太平洋戦争を肌感覚で知る人は僅かとなった。今年の戦没者追悼式でも天皇陛下はお言葉で「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」との新たな一節を加え「将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを願う」と続けられている。また、八月になり毎日のように先の大戦を経験した人の記事が新聞に載るが、その中に「歴史を伝えていかなければ」との語り手の言葉があり、改めて、戦争は今や語り継ぐべき歴史、私たちが忘れてはならない歴史になったのだと思う。

私の聞き書きは、高知県東部にある北川村の遺族会館で年若き多くの英霊のお写真を目にし、この人たちの声を聴きたいとの思いから始まった。北川村での聞き書きは遺族のご家族からのものがほとんどとなったが、お一人だけ、ご自身の戦争体験を語ってくださった方がいた。

それが、坂本武一さんであった。20歳で入営し平壌での訓練を経てフィリピンへ。ミンダナオ島での討伐の日々や、終戦後のレイテ島での捕虜生活などを詳しくお話しくださり、戦死された友人や知人などに関する話も聴かせていただいた。辛い思い出も多く、長い話になった。坂本さんは当時92歳とご高齢であったが、しっかり詳細まで記憶されており、語り口調も実に確かであったのを覚えている。

私が聞き書きでお会いした皆さんのお話には、戦争のことが必ず含まれている。この貴重な記憶を広く長く継承し、平和への礎としていくことが、求められていると感じる一方で、そのための一歩を自分が踏み出せてないことに忸怩たる思いもある。坂本さんの聞き書き作品「遠い昭和の日々を辿る」を読み返し、聞き書きの今後を再考したいと思う。また、一緒に一人でも多くの方にこの作品を読んでいただき、平和への祈りをつなぎたいと心から願っている。

遠い昭和の日々を辿る〜語り手 坂本武一さん(北川村)〜

   坂本.jpg


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2025年07月06日

戦後80年に戦争の記憶をつなぐ〜高知大空襲〜

前回ここに書いたように私のこれまでの聞き書き作品は戦争の記憶を伝えるものでもあります。今回は、このブログに掲載している私の作品の中から、太平洋戦争末期の7月4日、高知市上空に125機のB29が飛来し、18万発の焼夷弾が街を焼き尽くし、少なくても市民456人が犠牲になった高知大空襲について記述のある次の3作品を紹介します。

高知の街をハイカラに生きる〜語り手 鈴木章弘さん(高知市)〜   章弘さんは高知市の中心街、新京橋で写真館を営む家の「ぼん」として生まれ、何不自由なく育ちましたが、高知大空襲で住まいも店もすべて焼かれ、おじい様を亡くされています。また、その年の春に入学したばかりの土佐中学校の校舎も焼け、終戦後は大嶋校長のもとで校舎の再建に向け生徒も一緒に材木を運ぶなどともに働いたことを詳細に語ってくださいました。

遠く懐かしい、あの日を想う〜語り手 和田敏子さん(土佐町)〜   敏子さんは昭和20年に土佐町の保健婦になり、空襲後の高知市に救護班として入ったときのことを鮮明に覚えていて話してくださいました。

つなぐ日々を生きる    〜語り手 西内末子さん(高知市)〜   高知市吉野で子供時代を過ごした末子さんには、家のすぐ近くに落とされた大型爆弾や鷲尾山にB29が墜落した日の記憶があります。また、高知大空襲で被害にあった知り合いに父親が炊き出しを届けに出たこと、戦後の学校の様子なども詳しく聴かせてくださっています。

80年前の7月4日、人々が火災の熱さから逃れようと飛び込んだ鏡川。その河畔の大原町の、空襲の犠牲者を仮埋葬したという場所に高知市平和祈念の碑が建てられています。今年も、74日には平和祈念の碑に遺族らが黙とうをささげ、祈念の碑に献花したと新聞記事が伝え、遺族の証言も載せられていました。証言者は空襲で母と妹を亡くし、60歳を過ぎて「ようやく人に話せるようになった」と話されています。

私を含めて戦争を知らない者が大半となった今の時代、戦前、戦中、戦後を生き抜いてこられた語り手の聞き書き作品は、戦争の記憶を伝える証言としても貴重だと思います。改めて多くの方に読んでいただく工夫を考えたいものです。

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2025年06月02日

戦争の記憶をつなぐ〜戦後80年、聞き書きの役割を思う〜

戦後80年の今年、戦争体験の新聞記事が目に立つ。その中に、カンヌ国際映画祭に出された「遠い山なみの光」(石川慶監督)の原作者であるカズオ・イシグロ氏が共同通信のインタビューに応えたものがあった。作品の主な舞台は終戦間もない長崎であり、氏は幼少期まで過ごした故郷の記憶を残したかったと語っている。

原爆により焦土と化した長崎の記憶を人はどのように記憶し、また忘れ去るのか。母親が被爆者でもある氏は、戦争、特に核戦争の脅威が再び高まっているとの懸念を示し、「戦争や原爆を体験した人がどんどん亡くなっていることに危機感を抱いている。戦争を直接体験していないが親から話を聞いてきたわれわれの世代が若い人に伝える責任を担わなければならない」と語っている。

イシグロ氏と同世代である私は、この記事に改めて私自分の、また、聞き書きの『戦争の記憶』についての役割を考えさせられた。私は北川村の遺族会館を訪れ、そこに掲げられた多くの英霊の写真を拝見する機会を得た。その時の『この年若くして亡くなった人たちの声を聞きたい』との思いが消えず、10年後退職してから聞き書きを始めた。それから、また10余年が経つ。

当時すでに北川村で戦争体験を持つ人は少なく、かろうじてお一人からフィリピンでの戦争のことを、数人の遺族から戦死された夫や父親の思い出を聴かせていただいた。北川村以降は戦争に拘らず聞き書きを続けてきたが、これまで出会った語り手はみな私より10歳以上年上だったこともあり、胸の奥のそれぞれの戦争の記憶や思いを聴かせてくださった。

どの話にも戦争のもたらす苦痛に満ちた記憶がつまっており、それは遠い国のことではなく、私のすぐ傍らで生きてきた人たちの、またその家族の物語であった。今、世界は分断の様相を呈していることを思えば、この物語が明日は私の、あなたのものになるかもしれない。その懸念がぬぐえない現在、私はこれまでの聞き書き作品を戦争の記憶継承という目で捉え直し、このブログに書いてみようと思う。今年も終戦記念日の暑い夏が来る。

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この季節、高知のいたるところでドクダミの花を見かけるが、この八重の花は珍しい

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2025年04月17日

やなせ先生の『よろこばせごっこ』と『ききがき』

朝のNHK連ドラ「あんぱん」が、この春から始まった。高知県出身の漫画家やなせたかし先生ご夫妻の物語で、高知に住む私は朝の2度観が習慣になっている。実は、私には、やなせ先生についてとっておきの思い出がある。

  県の歯科保健の担当だった頃だから、とーんと昔の話だ。子どもたちの歯科予防について歯科衛生士さんらと話し合った。「子どもたちを惹きつけるキャラクターが欲しいね」と声があがると、「高知県にはアンパンマンのやなせ先生がおる!!」と盛り上がった。唐突な話は尻つぼみとなったものの、諦めきれない。

 香北町のアンパンマンミュージアムの館長さんにお願いして、東京のやなせスタジオの連絡先を教えてもらい、FAXした。「具体の計画も予算もない。でも、子どもたちに歯の大切さを伝えたい。歯のキャラクターをお願いできませんか」と。翌朝、出勤すると、FAXが届いていた。かわいいキャラクターが3人笑っていて、気に入ったのを使って良いと先生のメッセージが添えられている。どの子もかわいい。歯の3兄弟にすると、すぐ返信した。それは、私の職業人生の中で一番嬉しかった瞬間だ。

  アンパンマンを大好きだった私は、やなせ先生の大ファンになった。先生には「人生はよろこばせごっこ」という言葉がある。一番うれしいことはなんだろうと考え続け、「人をよろこばせること」だと思うようになったとおっしゃっている。だから、先生は人を喜ばせ続け、高知の子どもたちを、私をも・・あんなに喜ばせてくださったのだと思っている。『よろこばせごっこ』というからは、それは『お互いによろこばせる』ことだ。人を喜ばせる、その人から伝わってくる喜びをしっかり受け取り、それがまた嬉しいのだと思う。先生の心にはアンパンマンが飛ぶ大きな青空がある。先生は、その空に『よろこばせごっこ』の輪、人と人をつなぐ大きな輪をつくった。

  私の『よろこばせごっこ』・・・、それは『ききがき』だ。語り手との間には、聞いてもらう喜びが、聞かせてもらう喜びがある。双方の嬉しい気持ちが「ありがとう」の交換になる。やなせ先生の大きな『よろこばせごっこ』の輪に、私も『ききがき』で多くの人とつながりたいと夢を膨らませている。

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 アンパンマンミュージアムにて(R.6年6月)

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2025年03月13日

作品の訂正について

 昨年このブログに掲載いたしました「つなぐ日々を生きる」に誤りがあると、語り手の西内末子さんからご連絡をいただきました。西内さんの友人で『声と展示の図書館』の朗読ボランティアをなさっている方が、この冊子の朗読に取り組まれる中で、次の2つの間違いに気づいてくださったものです。

 一つは、小見出し「小学校入学が社会進出の日」の中にありました。小学一年生の折の教室の場所の説明部分に『戦前は敷島紡績やったところが、今は高知国際高校になってますがね』としていましたが、敷島紡績ではなく正しくは郡是製糸であるとの指摘でした。

 もう1点は、参照の「※1 辻売り」の説明の中の『仮親になってもらうというというもの』は、『いうもの』とした方が適切とのことでした。

 ともにご指摘のとおりであり、当ブログの作品を訂正いたしましたので、ここで報告させていただきます。私どもの聞き書きは、語り手のお話のとおり書き起こし作品に仕上げていきます。作品は語り手のものとの考えが基本です。しかし、作品は残ります。歴史的な事実については間違いのないように一定の調査をすることも大切にしています。今回、『敷島紡績』と誤ったのは、ききがきすとの私の思い込みから調査し確認する一手間を怠ったからです。これからは、この反省を生かし、精進してまいります。

 しかし、今回のことは、録音図書のことを知る素晴らしい機会ともなりました。録音の際には大きな意味を持つことになる漢字の読みや行間のとり方など、これまで以上に考えを巡らせたいと思っています。

 読書が困難な方々にも西内さんの「つなぐ日々を生きる」が届けられると思うと、朗読ボランティアのご友人に感謝せずにいられません。
 また、西内さんの『つなぐ思い』が、さらにたくさんの人たちをつなぎ、つながることを心から願っています。

 高知城梅の段の枝垂れ梅(R7年3月上旬) 高知城梅.jpg

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2025年02月08日

人生を語るということ〜聞き書きの魅力〜

高知県内の介護施設と聞き書きを通じたご縁をがあり、デイサービスの利用者さんのお話をオンラインで聴かせていただいています。1回が30分と短い時間ではありますが、自分より少しばかり年上の方のお話には、いつも「あぁ、そうなんですね」と発見あり、納得ありの連続です。素敵なお話の具体は、残念ながら守秘義務上できませんが、それは私の宝物になっています。

『ききがきすと』としての聞き書きも高齢者の方が多く、3時間足らずのお話の中に語り手の人生がぎゅっと詰まっている、そんな実感があります。一方で、デイの利用者さんのお話は、時間が短く、私からの問いかけも全く違うので、遠い日の記憶のかけらを拾い上げて話してくださっているように感じます。その時になにを見てなにをしたのか、どう感じたのか考えたのか、一つひとつ拾い上げて話してくださる。言葉を探しながら私に伝えてくださる。私はそれを、紛れもない、その方の人生の一部であるとして、深く受け止めています。

人はそれぞれの物語を生きています。この広い世の中に私の物語を生きているのは私だけ。あなたの物語を生きているのは、あなただけです。当たり前のことですが、聞き書きを通して、その当たり前のことに大きな感動をもらいます。

聞き書きすることで、語り手は越し方を振り返り、やはり自分には大事なことだったと認識を深めることもあるし、小さな忘れ物を見つけることもあるかもしれません。聞き書きには、いろんな形があるし、あっていい。

今年も、素敵な語り手に出会い、聞き書きの様々な可能性を探りたいと願っています。

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2025年01月06日

ワクワクドキドキのききがきを!!

明けまして、おめでとうございます。

昨年の後半はブログをお休みしてしまいました。

言い訳にはなりませんが、夫が帯状疱疹で入院。半年経ちなんとか通常の生活に戻ったものの、今も痛みや痺れが残り、服薬はまだ続いています。

夫の病に伴走しながら自らの老いや病を実感することも多く、ややもすると暗くなりがちだった暮のある日、ききがきの語り手だった方から嬉しいお知らせがありました。冊子を読んだご友人が、様々な場所での読み聞かせに使かってくださっているとのこと。

そうそう、そうでした。ききがきには、まず出会いの喜びが。そして、語り手と聴き手が共感でつながり、「聞いてくれて、ありがとう」「話してくれて、ありがとう」「読んでくれて、ありがとう」と、感謝の連鎖も生まれます。読み聞かせの人と人とにも、この共感と感謝の連鎖ができたようで、私の固く重くなっていた心にワクワクドキドキが溢れました。

「ききがき」が楽しい、もっともっと楽しもう・・・そんな思いでいっぱいになったんです。

今年のききがきの目標は、冊子づくりはもちろん、仲間づくりも楽しみながら進めること。

ききがきの会のブログもワクワクドキドキしながら楽しく続けます。


最後に、帯状疱疹について一言。高齢者の帯状疱疹は特に重症化しやすいので、ワクチンも、罹った場合の受診も、是非、早めに!!

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2024年07月06日

つなぐ日々を生きる

かたりびと:西内末子
ききがきすと:鶴岡香代
編集担当:豊島道子


甘えん坊の「牛の子」

私は、昭和14年5月25日に父弘間経世(つねよ)と母好子(よしこ)の間に生まれました。郷(さと)は、高知市の鷲尾山(わしおやま)の麓にある吉野という集落です。父方の弘間の家には、神田村(現高知市神田)の百姓だった先祖が、安政の時代に山内家の西御屋敷の若君の辻売り(文末1参照)を申し受け、その縁をいただいて足軽に抜擢されたという話が伝わっています。とは言え、実家は分家やったもんで、貧しい小作百姓でした。母は、よく「米俵を山と積んでも、方々へ供物を納め、お医者代を払うたら、もう食べ代がない。何袋も残らん」と言っていましたね。

私には14上の長兄と、7つ違いと4つ違いの二人の姉、2つ上の次兄がいて、名前どおり5人兄弟姉妹の末っ子。きっと皆に甘やかされて育ったのでしょう。幼い頃は世間の人に「牛の子や、牛の子や」と言われたものです。母親に付きまわる甘えん坊の牛の子、言うてね。田んぼへ行く言うちゃ付いて行き、そこで座ったり寝転んだり、母に付きまとって、いたずらもしたでしょうね。気が付いて親がいないと、大泣きする・・そんな子だったようです。

大型爆弾から始まる戦争の記憶

当時の吉野は40軒ほどの集落で、普段は静かで穏やかなところでした。でも、幼い私の記憶には、ただただ恐ろしい戦争の断片があるのです。それが、あまりにも鮮明で、怖い、悲しいというより、現実に見たということが、すごく重いのです。

今、ガザ地区やウクライナで辛く恐ろしい思いをしている人たちがたくさんいます。テレビで毎日のように見るでしょう。そしたら、たまらんなるのです。今はあまりにも情報が多すぎる。その一方で、戦争の体験は希薄になるばかりです。気を付けて観る、聴くということが難しくなっている。だからこそ、今、この高知で私自身が恐怖した戦争を伝えたい遺したいと思うのです。

昭和19年1月10日のことでした。母は、父方の親戚の結婚式に行くのに、お土産に卵でもと思うて、庭に取りに出たそうです。父から「飛行機の音がするが、外を見てみよ。どこを通りゆうか、早う見よ」と声をかけられた。その瞬間、ものすごい音とともに吹き付けられるような衝撃を受け、振り返ると、幾ところにも火柱が立っていた。空襲警報も鳴らず、やにわの夜の爆撃だったと、母がそう話していました。
爆弾は、家から東側に80mくらいのところと西側へ50mくらいのところ2ヶ所に落ち、大きな跡を残しました。私はただ恐ろしくて、家に入ってきた母にかきついたことを今も忘れることができません。4才の私の戦争の記憶の始まりです。

その日、吉野周辺に7発の爆弾が落とされたと聞いています。それが高知県内では最初やったそうで、あくる日は明け方から見物客がものすごかったようです。初の爆撃の跡を見ようと人の列が尽きず、それもまた、いつもは静かな里には、珍しいことの一つだったようです。

鷲尾山に敵機B29墜落す

翌年、20年6月22日には、敵機B29が鷲尾の山腹に落ちるという事件が起こりました。飛行機から2つの落下傘が吉野に舞い降りたのを、ちょうど病床におった私の祖父が見たものですから、襲撃してきたと受け止めたようで、「早うに防空壕に逃げないかん」と、大きな声で叫びました。4つ上の姉と慌てて行李を防空壕に引き込んだことを子ども心にも覚えております。

その後で、男の人らぁがみんな農道を竹やりや、なぎ鎌、サスマタなんかを担いで、どんどん、どんどん鷲尾の山向いて走っていきゆうのを目にしました。子どもには何とも異様な感じで、それもよう忘れんことの一つです。

それからしばらくすると、今度は目隠しされた二人の米兵を載せた荷車(かしゃ)(文末※2参照)が通り過ぎました。落下傘で降りる際に傷ついちょったようで、警備をする人が周りを取り巻いていました。親や兄弟、息子なんかが戦死した人は、なんとか敵を討ちたいという気持ちが逸るので、それを止めるためでもあったようです。その異様な光景が瞼から離れません。もう80年も昔のことですけど、今もよみがえります。

近所の子ども二人が犠牲に

後でわかったことですけど、B29が落ちたちょうどその時、4人の子どもが、その近くにおったようです。ヤマモモが美味しい頃でしたから、遊びがてら山へ採りに入ったのでしょう。飛行機が落下した、その飛び火で火事になった。二人は山を下へ逃げて助かった。けれど、ここへ隠れる言うて真向いの岩陰に隠れた二人は、黒焦げになってしもうてねぇ。それが、なんと両隣の家の子どもさん2人。13歳ばぁの男の子でした。二人を連れ帰って庭先に寝かせているのを、それもまた、目にしたことでしたね。

B29墜落のことは、当時の新聞(文末※3参照)にも載ったと思いますがねぇ。7つ上の姉の同窓生なら詳しいことを覚えちゅうろうと、先日、聴きに行ったんです。「パラシュートで降りた人は、捕虜として連れて行かれたが、死んだ兵隊さんもおった。7人くらいはおった」と言うてました。飛行機に乗ったまま亡くなっていた人たちを埋けるに、地域からも人を出したという話もしておりましたがねぇ。
「飛行機は、撃たれて平衡が保てず、落ちたのだろう。尾翼が2キロくらい離れたところで見つかった」とも話してくれました。今みたいに情報がない時代ですから、そのときに見聞きしたことは、すべて鮮明に残っているものなんですねぇ。

防空壕、灯火管制の記憶

そのうち連夜のように焼夷弾が落とされるようになりました。鷲尾山は小高い山で、海が見えるし、高知の町も見渡せる。監視施設もあったそうで、余計目当てになったのやろうかと、後で親なんかも話してましたがねぇ。朝倉に練兵場もあったので、そういったところを狙う敵機の軍事的な通り道になっていたのかもしれません。
空襲警報が鳴って、防空壕へ入ったときの鮮明な記憶があります。心細さに壕の中にあった稲わらに抱きつくと、恐ろしさで震えてカサコソカサコソ音がしたんです。その音が耳から離れませんでしたがねぇ。子ども心にもあれほどの恐怖を感じたことはなかったです。

夜でも警報が鳴ると、家族は皆、防空壕に入る。すると、病床にいる祖父が、淋しくなるのか、家族を呼ぶんです。母は避難どころじゃないですよね、舅の世話をせないかん。灯火管制が厳しく、暗幕みたいな袋を裸電球に着せちょりましたが、それでは視界が広がらず、世話するうちに、いつの間にか幕がずれたり、外れたりする。地域の者から「灯が外へ漏れゆうぞ」と大きな声で怒られたと、母が難儀がったものです。そんなこともあって、母は随分苦労がいたと思います。終戦を知らぬまま、祖父は亡くなりましたがね。

高知市大空襲

7月4日には大空襲がありました。戦争が終わるちょっと手前ですわね。高知の街に焼夷弾が次々と落とされて、ものすごくやられたのです。鷲尾山の山系が筆山に連なっており、その筆山の切れた当たりからが市街です。向こう側の潮江辺りからずっと焼けて、市街は全滅に近いくらいの被害があったようです。

翌朝すぐに、父は、お世話になった皆さん方が困っちゅうろう言うて、炊き出しをこしらえて届けに出ました。父は、農業一筋でもなくって、年末にはお餅をついたりする仕事もしており、お付き合いのある方々が町にいたのです。まぁ、普段は結構な暮らしをしておいでる方たちやったでしょうけど、被害のたいへんなあり様に、日ごろの恩返しとの思いだったようです。

ところが、市中の悲惨さは予想を上回るもので、届ける手前であげていたら、たちまち足らんなった言うて、帰ってきたのです。母が再度、握り飯など用意して、また父が出かけたことを記憶しております。それほど市中は戦火にやられて悲惨なことになっていたということです。

戦争が終わったぁ

そのうち飛行機が終戦を知らせるビラを撒くようになりました。どこが撒いたのか、何が書かれていたのか、まだ5つそこらだった私にはわからない。ビラを拾っても読めもしませんでしたから。けれど、大人たちの雰囲気で戦争が終わるとわかりました。解放されたという安心感が私にも伝わったんですよね。

その時分は、家にラジオがあっても1つです。それも音声の悪いラジオがかろうじて一つあって、それが唯一の娯楽であり、情報でした。そのラジオからの天皇陛下の玉音放送は私には覚えがありません。でも、親が話している「戦争が終わったぁ」という言葉を耳にして、私、万歳しました。負けて万歳じゃないけれど、子どもは純情なものですからね。安堵して、はしゃいだ言うたら不謹慎ですが、それが正直な気持ちでした。空襲警報が鳴ることのない日が、やっと来たのです。

小学校入学が社会進出の日

終戦の翌年の春、私は鴨田小学校へ入学しました。「牛の子」と呼ばれるほど甘えん坊の私は、また、吉野の里しか知らない「井の中の蛙」でもありました。やっと社会への進出となったわけです。入学式の前に親に連れられて初めて学校へ行くことがありました。鴨田小学校もおおかたは焼けてしまって、かろうじて残っちょった講堂で、私は生まれて初めて母親から離されて、遠い所へ連れて行かれました。

先生に「名前を書きなさい」言われて、渡された紙にカタカナで書きました。『ヒロマ』と書く最初のヒの字はこんなに大きく書いて、『スエコ』のコはもう書くところがなくなり、小さく小さくなっちょった。それをこうやって唾をつけて消して、書いて。子どもが最初に習うのがカタカナでしょう。それが、初めての字よね。自分でもよう忘れん。上の端の字は見事に大きくて、下の端の字はようよう目に入るくらい小さい。そっと覗いたら、母が心配そうに見ゆう。その顔が今も思い浮かびます。それぐらいの子やったんですよね。

校舎のほとんどが焼けてしまったので、1年生の勉強は分散で始まりました。公民館でやったり、寺社でやったりね。戦前は郡是製糸やったところが、今は高知国際高校になってますがね。そこの隣に鴨田消防署の小さな詰所があって、その2階が、私たちの最初の教室でした。ランドセルらぁ、もちろんない。鞄のことなんか記憶にもありませんが、多分姉からのお譲りだったでしょうね。服は、母が嫁入りに持ってきた帯で近くの人に縫うてもろうて、それが晴れ着でした。
家から鴨田小学校までは、2キロからは離れています。消防署の詰所は、さらに遠くて、一番遠い組じゃなかったかと思います。学校が遠くて、子どもにはしんどい。末っ子の私は泣くことが特権ですから、よく泣きました。上の姉が「もう」って言いながらも、負うて私を学校へ連れて行ってくれたこともありました。
また、長兄は父親の代行みたいなもので、学校の参観日なんかにも来てくれたものです。ほんと、小学生になっても私は、どうしようもない甘えん坊のままだったんですね。鴨田小学校の新校舎が落成したのは、2年生のときでしたろうか。言い切りができませんけど、落成の時のことは記憶しています。

スエコ2.jpg 鷲尾山から吉野を望む

囲炉裏端で聞く親の言葉

父はうんと義理を言う人やったもんで、小学4年のときに兄嫁が来た、その頃から「我儘言うたらいかん」とか、しきりに私に言うようになりました。昔は食事の時が、囲炉裏を囲んでの一家団欒の場で、親の話を聴く唯一の機会、まぁ、娯楽も教育も兼ねた場だったのだと思います。

「こんなことがあって、こうじゃけんど、あれではどうにもならんが・・」とか親が話すのを成長の過程でずっと聞いて、子ども心にも必然的に「どうにもならん」ということがいけないことだと段々と了見づいてきたように思います。

また、物のない時代、その中でも小作農家はみじめなものでしたから、母がよく「人間は上を見て暮らしたらほしだらけ」と言っていました。空の星と物が欲しいの二つの「ほし」をかけて、「ほしだらけや」と。それで、「下向いて暮らしたらほしはない」って、それが母の口癖やったんです。利口に回ってますよね、母も。それが母の言葉でした。
父は父で「人間は波といっしょじゃ。押してくることもありゃ、引いていくときもある。いっつも苦しいことはないきね、頑張らないかん」というのが口癖でした。また、父の教えの一つに「神様の前を通るときには、きちんとお辞儀ができるような生活をせよ」ということもありました。それは邪な心を持っていると神様には見透かされるということで、躾の一環であったと、この年になって思うのですよ。

おませな耳年増に育つ

そんな親の話や言葉が成長の過程で繰り返され、いつの間にか身に付いたのでしょう。私は、甘えん坊の「牛の子」からおませな「耳年増」になり、また、少々のことは苦とも思わないような人間に段々と育ったようです。
とは言え、小学生の頃は、何かといえば姉たちに寄りかかるくせに、口だけがおませで、よく皆に怒られていました。兄らぁに「おまえは口から先に生まれた」言うて茶化されて、『口から先って、どんなにして生まれるのやろう』なんて考える子どもでしたよ。

物が豊かでない時代に育ったので、小学校へ履いていく草履なんかも自分で作りました。藁でね。そりゃ、姉たちがしているから自分もというかかり意識もあったでしょうね。藁なんかたくさんあったもんで、縄もなうし、すべ箒いう昔ながらの手箒も作りました。
藁の穂の部分だけを引き抜いて、今は柄付きのもありますが、これぐらいのすべの上の方を曲げてこしらえて、穂先で掃くようにした箒です。子どもなりに見よう見まねで仕上げて、小学校の夏休みの工作に提出したこともあります。子どもの手なので締りも悪かったでしょうが、やれば何でもできるという気持ちになったものでした。
鉛筆なんかでも3センチまで使った記憶があります。必要にかられたら、いろいろ工夫してみることを覚えた貴重な時代だったと思いますね。

スエコ3.jpg スエコさんお手製のすべ箒

鴨田小学校卒業後は、城西中学校に通いました。仲良しの友達が、母親に私の名前を出して一緒に行くと言えば許可がでると言うので、「えぇ?なぜ?」って思ったことがありました。当時の私は、田舎の子どもの中では、ある程度言うことが大人びちょった・・・らしいですよ。末っ子ですきね、しっかりしてはないんですけど、おませな口立ちだったんですね。

母の生い立ち

母はよく、私らに自らの生い立ちを語って聞かせてくれました。母は明治から大正にかけての大変な時期を生き抜いた人で、朝のテレビドラマの「おしん」以上の苦労をしたようです。私の母は、父親が出稼ぎに行ったまま、捨てられたようなことになりましてねぇ。私の祖母になる者は、うんと苦労して母と弟になる者を育てたらしいです。母は赤ん坊の弟を負うて小学校へ行ったそうで、弟が泣くと、人の目が気になり、結局、学校へも行きどころじゃなかったと言うてました。

学校へ行くよりも、となって大阪の方へ女工に何年か行ったようです。その後、いつまでも女工というわけにもいかんと呼び戻されて、今度はありがたいことにお医者さんの家に女中に入れた言うてました。その頃のことを母は「お陰様をいただいた人生には箔が付いた」とよく言っていました。
人間は生活するところで、育てられるもんでしてね。母の言葉遣いはものすごく丁寧で、それが母の一番の自慢でした。そういうことは一生身から外れませんしね。「幸せなことに良いところで育ててもらった」って、母がいつも口にした感謝の言葉が忘れられません。

姉が開いた高校への道

高校は小津高校へ行きました。すぐ上の兄は中学出るとすぐ農業しましたけど、その上の中の姉は出来が良かったもので、学校の先生が是非高校へやれと勧めてくれて、追手前高校へ行ったのです。私は姉の開いた、その道を通らしてもらえたんです。当時は、誰もが高校へ行くという時代ではなかったし、親も経済的に余裕があるわけではなかった中、親にしたら、兄や兄嫁への義理立てもあっての選択やったと思います。
でもねぇ、姉は親がたいへんということがよくわかっているだけに、授業料のことでは難儀したようです。授業料を滞納すると、学校が名前を張り出したそうで、母に言うと、「この卵を持って行って売って、それで払うように」と卵を渡され、姉は卵を売って授業料を払ったと話していました。
幸い、私は、そこまではしなくてもよかったんです。滞納者の名前を張り出すなんてこともなくなっていましたし。でも、親が苦労していると、構わないことは自分の中で選択し、諦めました。例えば、修学旅行。親に言えば、またやらないかんと思う。それは気の毒やと思うて、私の中で消してしまう。そういうふうにしていましたね。

そうそう、私のときには、小津高校に無試験で入学できましたよ。入学試験がないなんて最高のときに生まれたぁと思ったことです。その後、私たち生徒が体育館へ集まって、入試制度について賛成か否かという議論をした記憶があります。2年くらい後で受験制度になったわけで、本当に幸運でした。
まじめな高校生ではありましたよ。くそまじめなくらい。「やっちゃりゆう」と言う親の言葉が頭にありますので、それが大きなブレーキになり、外れたことはできませんでした。もちろん、楽しいこともありましたよ。勉学よりは他の部分でですけどね。
夏休みには、上の姉の婚家先によく手伝いに行きました。姪たちの世話とか、お料理の手伝いとか、そんなこと。稲刈りの手伝いもしましたよ。まぁ、昔はそうやって兄弟の助けもしたし、また、誉められたら嬉しいもので、おだって行ったのかもしれません。向こうのお姑さんがなかなか利口もんで、誉めて使うてくれたんです。自分では、しっかり役立ったと思っていますがね。

クラブ活動の思い出

高校では社会研究部に入りました。いろんなことを勉強させてもらいましたが、一番の思い出は、校内弁論大会に出たことです。農村での女性の生き方についての思いを発表したんです。この頃から私の芯には農業があったのかなぁと思います。数十年経って、中学からの友達に「びっくりしたよと」打ち明けられ、笑ったことでした。
また、本が大好きだった私は、仲良し5名程で図書部を立ち上げて、読書会などもしました。そうそう、私が借りた本を父も読んで、時折その感想など話してくれたんです。私の卒業時には幼木を用意してくれ、みんなで図書室の前に植樹したのも良い思い出です。
もう一つ、家庭科が主専攻だった私は、家庭科クラブにも入っていました。部活というよりは、学習のためのクラブで、簡単なブラウスやスカートを作ったりしました。生地を買(こ)うてとは親には言いづらくて、自分が履かなくなったスカートをほどいて、それで縫うた記憶があります。人は皆きれいな布を持って来ている。自分の弱みを見せたくなくて、家でやっていくと、先生は『こんなの、自分でしたのではないろう』と評価したようです。自分でしたんですけどね、誰にも手を入れてはもらえなかったから。

ご指導いただいた家庭科の北村先生には、随分かわいがっていただきました。いつだったか、「東京で全国大会があるから、一緒に行きませんか」と言うてもらいましてね。旅費は学校から出るけど、お小遣いが必要でした。まぁ姉の家で働いた分もある。何とか親には負担かけんようにしようと考えたことを覚えています。
全国大会へは、先生と私と、もう一人、仲良くしていた友達との3人で行きました。会場は今の中央大学やったように思います。先生の息子さんの下宿が新宿にあり、そこに泊まりました。もちろん汽車での長旅も東京も初めてです。東京は今ほど繁華ではなかったように思いますが、先生に連れて行ってもらって、ただただ楽しかったですね。帰りに先生が買ってくださった白桃が美味しくて、その味を忘れれんのです。岡山の白桃、もうこんな大きいのをご馳走になりましてねぇ。生まれて初めてそんな美味しいのをいただいたようなものですよ。いい経験をさせてもらいました。
すぐ上の兄が、もう働いていたので、この時、私にお小遣いをもたせてくれましてねぇ。すごく優しくって、高校入学時にカバンを買うてくれたのも、その兄でした。自分は高校へも行かなかったのにね。皆、末っ子の私によくしてくれて、私、兄姉愛には本当に恵まれました。貧乏なりにも心豊かに育ててもらったなぁと、親はもちろん、兄姉にも今、心から感謝です。

遠い山奥へ嫁入り

兄姉だけでなく、それぞれの配偶者も良い人に恵まれたと思っています。農業者は農家との縁組が一番幸せになれるというのが父の理念でしてね。加えて、「女の子は一里四方に嫁げ」というのが、娘への結婚の条件でもありました。その父の言いつけを聞かざった者が、一人だけおります。それが私です。

この聞き書きのお話をいただいてから、よく昔のことを辿ってみるのですよ。本当にいろいろな方に出会って、お心をいただいてきたと思いましてねぇ。一里四方へという父の願いに反して、私は伊野の小野(この)という遠い山奥へ嫁入りし、二人の男の子、その下に女の子と、3人の子どもに恵まれました。ご縁があったということですよね。

夫、西内淳郎(あつお)は農家の跡取りでしたが、父親は軍人やったそうです。子どもの頃は、みなさんにちやほや大事にされて育ち、都会へ出ての教育も受けています。舅は戦犯になったとかで無理が祟ったのか、結婚したときにはすでに亡くなっていましたので、姑のヨネや結婚前の義妹や甥と一緒の新婚生活でしたね。
西内には山林もありましたので、夫は農家の仕事に加え、山の仕事もしていました。一緒に乳牛を飼ったりもしましたが、次男誕生の頃には、夫は農協に勤務するようになり、私が農作業の主な担い手となりました。子どもを姑に頼み、休日には夫に手伝ってもらいながらの農作業の日々でした。
そのうち小野の田のほかに、介良にも1町くらいの田んぼを借り、姉たち夫婦の手も借りて作り始めました。その頃は今より米の値が良かったもので、土方なんかに出るよりはとの姉の勧めもありましたし、1反言うても小さい田が何枚もあるような小野の棚田よりは条件が良いということもあったんです。

昭和50年の台風

あれは、昭和の50年でしたか。8月17日に5号台風に遭いましてね。17時までの一時間に伊野町成山(なるやま)で93ミリを観測。バケツでふりうつしたかと思うほどの大雨でした。
ちょうど早稲の取り入れがすんだところで、介良で収穫したモミのほとんどは姉の家の倉庫で乾燥させてもらってましたが、小野の家にもいくらかは持ち帰っていました。それに水が入るとたいへんだと家族総出で排水していたところが、俄かに谷が狂い出しました。これはいかんと、姑に子どもたちを頼んで、川向うの公民館へと避難させました。
昔の田舎の家は、そこに母屋があり、ここに納屋が、風呂場があるというように、広いものでした。お蚕さんを飼いよったので広い蚕室に、私たちが住んでいた小さな離れもありました。
また、暮には家を新築しようと夫と話し合い、その準備も進めていたんです。山育ちの夫は気に入った木を伐り出して自分で製材するような人で、農協へ勤めながらでも、納屋には、長尺物の柱など1軒分以上を積んでありました。それも濡らさんようにと積みかえ、それぞれの車も外へ出して。それが、何時間も経たないうちに、すべて濁流にのまれ、流されたんです。家屋敷もろとも、すべて失いました。

その様子を見ることの切なさというたら言いようがありませんでした。昔の家は、栗石の上へ乗せるという建築法で、今みたいにしっかりと土台に組み込んでない。全部ふいと上がっていき、水にのまれる。一つ一つの棟が流されていく様は、まるでマッチの軸が、こうポコンポコンと浮いて流れていくようでした。それを見ずにはおられなかったですね。あまりにも悲惨すぎて、惜しいいう気持ちにもなりませんでしたね。
さらに雨は降り続き、公民館にいても危ないということになりました。一緒に避難していた者全員で、高いところにあるお宅へ押しかけていき、そこへ避難させてもらいました。その時、夫が「せめて蔵ばぁでも残るろうか」って言ったのを思い出します。蔵が家の一番奥にあるので、そう思うてしもうたのです。残るはずはないんですけど。
夜になって、もう一度大きな音がしたと覚えています。朝行ってみたら、全部川原になってしもうて、家屋敷は跡形もありませんでした。土石流で埋まり、川の流れも入れ替わっていたんです。橋の上を水が流れ、4軒の家がずらっと並んであったのが、影も形もないあり様。ただ、新しく建て直し基礎がしっかりしていた隣の家の一棟が、下は全部打ちぬかれて二階だけ残っておりました。 

昭和51年の台風

そんな状況でしたので、これではどうにも住めず、高知へ出るしかないとなりました。実家の父が、吉野に少しばかりの土地を私に遺してくれてましたので、公庫の方で割安くお金を借り、なんとかそこに家を建て引っ越したんです。51年2月のことで、ちょうど長男が中学1年、次男が5年生でしたか、末の娘はやっと小学1年生にあがったところでした。
ところが、その年9月の17号台風で、今度は新築の家に床上1mの浸水です。鏡川が決壊しての大洪水でした。それから10年程は台風という言葉を聞くと、私は体が硬直しましてね。とにかく、物を上へ上げないかんという気持ちになり、荷物を始めるんです。構わないものからボツボツ二階へ上げてみたりとか、そんな状態がしばらく続きました。ほとんどノイローゼですよね。

ただ、新築時に公庫でお金を借りたときに保険を掛けていたので、まとまったお金が入り、その点は救われました。実家の土地をもらって家を建てていましたので、それが父の気持ちだったとは言え、私には実家の兄や兄嫁への気兼ねがありました。また、夫も姑も、嫁の方へ付いてきてなんぼか切なかったろう、大変であったろうとの思いもあったんです。そこはちゃんとしたいと考えて、私はすぐに少しばかりを包んで、実家へ行きました。「これは僅かやけど、私が土地をもらったお礼にしたい」言うて差し出したら、母が泣き出してねぇ。兄も言葉に詰まったようでした。結局、受け取ってはもらえずで、せめてもの私の気持ちだったんですけどね。

実は、私のすぐ上の兄も実家近くに家を建てていました。そこは前年浸水し、嵩上げしたのに、また浸かってしまったんです。2年続きの異様な水害だったんですよね。実家の母は、この時、僅かばかりのお金を提げて来て「何もようしちゃらんから、このお金でこ兄やんく(次兄の家)も一緒に、なんぞ買うてきて食べてちょうだい」と、泣く泣く渡してくれました。切なかったんですよね、母も。近くに来たものの、子どもらがこんな苦労をする姿を見て・・・。親不幸の塊やと思い、私も辛かったです。

子育ての悩み、迷い

とにかく働かないかんと私は思っていました。子どもたちの世話は姑に任せ、朝星、夜星で働きに働きました。姑も心を込めて子どもたちを世話してくれていましたが、思わぬことで大きな心配を抱えることになったんです。娘の病気です。
鴨田小学校に転入した娘は、朝は集団登校でしたが、一人になった下校時に道に迷ったんです。家が流されて転居となり、小さな学校から大きな学校への転校。ストレスが続く中、迷子になったことが引き金となったのか、下校時に椅子から立てれんようになりました。
医者に連れて行ったら、甘えじゃと言われました。でも、娘は夜中に寝ていても飛び起きる。急に痛い言うてひせり出す。その繰り返しでした。頑張って仕事して、家を再建してという思いばかりの私でした。子育てを姑に放り任せにし、これほどになるまで娘のことを思いやることもできなかった。母親として失格だと、そう自分を責める辛い日もありました。

また、夫も、何もかも承知のうえで嫁の実家の方へ来たものの、養子じゃないという気持ちが頭をもたげ、お酒に逃げたいときもあったでしょう。近所に知った人の一人もいないところに来たのですき、まぁ、無理もないですわね。そんなときの娘の病。夫は娘をうんと可愛がってましたので、打ちのめされたようになりました。
なんとかしたいと病院を変えたところが、今度は幼い頃の風呂場での転倒が原因の後天性癲癇(てんかん)だと診断されて、お薬を飲み続けないかんと言われました。家族が皆、もう打ちひしがれましたわ。そんな中、たまたまご縁のあった宗教家の方が「大丈夫。良くなります。シャンシャンした子だから、羨ましがりゆう人がおるからやろうね」と言うてくれました。非科学的なこととわかっていますけど、信じてお願いしました。ありがたいことに、1年も経たないうちに娘はすっかり元に戻ることができたんです。
いろいろありはしましたが、3人の子どもが、それぞれしっかり育ってくれたことには、感謝するばかりです。

姑が「恍惚の人」に

元気で子育てを引き受けてくれていた姑が、娘が中学2年生になった頃から、ちょっとおかしゅうなり始めました。
姑も嫁の郷で苦労がいたかと思います。また、世話してきた子どもたちが成長して、手から放れたということもあったでしょう。今で言う認知症、昔は呆けと言うてました。ちょうど有吉佐和子の「恍惚の人」という小説が世に出て、呆けの話の時には、あの話をよく引き合いに出したものです。
姑の言動は、徐々におかしくなっていきまして、私は手が放せんようになったのです。家に居ても、興奮すると洗濯物も干せんようになり、そのうち、「帰る」という言葉が姑の口から出るようになりました。自分の心、ここにあらずというところですかね。年老いて住む場所を変えるということは、そういうことになりやすいらしいですね。帰ると言う姑に、舅さんの位牌を見せて「おばあちゃん、ここが家やき、ほら。お義父さんもここにおるろう」と言うと、あっと言うて拝むんですが、すぐ「それにしても帰る」と言う。もう口癖になっていましたね。

幸せなことに私は車に乗ったもんで、「そしたら、おばあちゃん、帰るかね」言うて、車で元居た小野へよく連れて行きましたよ。そこで会いたい人に会って話しても、帰りには「会えんかった。戻らないかん」と言い出すんです。姑の郷が鹿敷(かしき)にあり、まだ兄嫁さんが居たので、試しにそこへも連れて行きました。「おばあちゃん、おばあちゃんの出たところぞね」言うても、やっぱりだめ。どうやってみても心が定まることはなかったですね。
そのうち、私に「おまんは私の従妹やのに。おまんの頭は真っ黒いねぇ、私は真っ白うなったのに」などとしきりに言うようになりました。自分の嫁すらわからなくなってきたのです。枝川あたりで信号待ちしていたとき、こんなこともありました。キョロキョロするので、何を見ゆうと訊くと、「これほど車があるのに、うちの嫁はひとつも来ん」と言うのですよ。えぇと思って、「おばあちゃん、これこれ、これ、嫁」って私、言ったんです。すると、チラリと私を見てから、「それにしても帰る、帰らないかん」と、また同じことを繰返して、全然解決することはないんですよね。また、帰る、帰るが始まる。

姑の徘徊始まる

常時私が車で連れまわす、そんなことが何年か続く間に、今度は徘徊癖が出てきましてね。姑は、小柄でしたけど、健康な人で足腰は丈夫だったんです。夫もなんとかせないかんと言い出したんですが、今のように施設があるでなし、病院では自由に動けるなら精神科しかないと言われました。精神科では病棟に鍵を掛けると知り、夫は首を横に振りました。いわゆる老人病院も行ってみましたが、老人がベットに括り付けられている。そうせざるを得んのでしょうけど、「あんなところ嫌」と言う、その夫の気持ちも大事にしてあげたくて、まぁ、それならもうちょっと家で連れてみようと思いました。

実はねぇ、私は徘徊するというのが恐ろしかったのです。まだ小野に居る頃、成山でおばあさんが行方不明になって、7年目に白骨で見つかったということがあって、そのことが頭から離れませんでした。姑をそんなことだけには、させたらいかん。それだけは、どんなことがあってもという信念に近い思いでしたね。
私も今とは違い、まだまだ勢いのある頃で、奥歯にも力が入ったこともありました。長い年月の間には、何十回かの徘徊がありましたから、もっと優しゅうできたら良かったのにと思うんですよ。夫は勤めているので、私が姑となるべく一緒に寝るようにしていました。夜の夜中に姑がおらんことに気が付いて、「おばあちゃんがおらん」と告げても、「押し入れへでも入っちゃぁせんかよ」というのが夫の返事でした。
仕方なくそっと外へ出て、一人で居そうなところを探しました。夜だから大きな声では呼べないでしょう?近くに兄の事業所があって、そこの車が明りゆうからと近寄ると、その車におったりとか。そんなことがあっても、まぁ、なんとか見つかりよりました。

徘徊の果てに

ある晩のこと、姑の興奮が治まらなくて、寝ずにずっと話し相手になったんですよ。一番鶏が鳴き出した頃に、やっとスヤスヤと寝息が聞こえてきましたので、姑が動けばわかるように手と手とを紐で結んで、私も横になりました。気が緩んで私も寝入ってしまったようで、気が付くと、姑は紐を解いて、いなくなっています。これはたいへんだとなり、飛び起きました。
まず、家族総出で近隣を探しましたが、見つけられません。すぐに私の兄姉や義妹、警察など方々へ連絡して探してもらったのですが、やはり見つからないのです。夫は「今日は大事な会がある」と言いましたけど、行きどころじゃないですよね。親が行方不明になっているのに。とにかく皆で方々を探し回りましたよ。曲がってしまうと見えない、陰に隠れるとわからない。同じところに何回も行って探すものの、やはりいない。見つけられないんです。

ちょうどテレビで朝の人気ドラマ『おしん』をやっている頃に、私の甥が山の方へ3度目となる捜索に出てくれました。「こうしたおばあさんを知りませんかねぇ」言うて訊くと、「ここ通りよった」と山の入り口で教えてもらい、ちょうど春野へ抜ける農免道路ができたときで、そのトンネルの中を歩きゆう姑を見つけたそうです。
甥は姑を車で連れ帰り、「おばあちゃんが、前に山の向こうに私の娘がおるいうて言よったのを覚えちょったきね、僕。行ってみたら、トンネルの中で見つけた」と話してくれました。甥が言うに、家の近くまで来ると姑がここは来たことがある」と言うたそうです。自分の家を「見たことがある、来たことがある」そう言うたって。その日は家族の者はみんな、ぐったりで動けんようになりました。
夫は、結局「会はもうどうでもえい」言うて仕事は休んで、ハマートに買い物に行きました。窓からでも飛び出ていく姑のために、家中に鍵が掛かるようにしたんです。開ければリンと鳴るように鈴も取り付け、外へは戸詰めまでしたのを思い出します。私が「お父さん、もしうちから出火したら、家族まる焼けやねぇ」言うくらいの戸締りになりましたよ。


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手前から烏帽子山、鷲尾山。姑を見つけたのは鷲尾トンネルでした。

まだまだ続く介護

そんなことが数えきれんくらい、まだ続きました。今は施設があり、認知症教育も支援の場所もありますが、その時分は、なにもありません。夫は、姑のこういう状況を知らなかったんですよね。朝仕事に出て、晩帰る。夜、姑が大人しければ、こんなもんじゃと安心したのだと思います。一度は、たまたま興奮した姑を義妹のつれあいが見て、「義姉さん、いっつもこんなかえ」とびっくりしたこともありました。
また、お風呂場や廊下の隅で、大といわず小といわず粗相することも度重なるようになりました。着替えを入れている箪笥がちょうどお腰の高さで、年よりはこうやっておしっこしてましたので、中身を全部除けてしもうて、そこにしたりねぇ。

今思うと、私に必要な知識も経験もなく、興奮させないよう適切に扱うことができなかったのですよね。姑が「ここに子どもが寝ゆうのに、あんた踏みゆう」と言うたりする。認知症には妄想や、幻覚幻視もあるということ、今はわかるんですけどね。

終いには、私も少し利口になってきて、「帰る、帰る」を繰り返す姑を「そうかね」と受け入れて、後を付いて行くことにしたのです。「そしたら気を付けてね」って送り出して、見え隠れしながら付いて行く。この足取りは、ちょっと疲れているなと思ったら、ぽっこり前へ出て行く。すると姑も「まぁ、迎えに来てくれたぁ」となりました。私も段々とノウハウを身につけたのですよね。

姑を看取る

そんな姑でしたが、だんだん足腰が弱ると徘徊の心配はなくなりました。最後の一か月くらいは、主治医が通ってきてくれました。亡くなった当日、師走の23日でしたか、主人は勤め先の忘年会がある、ちょうどそんな時期でしたが、先生が姑を診て「お正月は迎えられますよ」とおっしゃって帰られたんです。
けど、姑の弱り具合が気になりましてね。ずっと一緒に居る私には『先生は往診時の状況でしか判断してないもの、万一もある』と思えてならず、それで、夫の姉妹3人に電話しました。「先生は大丈夫と言われたけれど、お義母さんがわかるうちに、会いに来っちゃってくれん」と伝えたんです。下の義姉さんは朝倉病院の付き添いをしよったので無理でしたが、上の義姉と義妹は飛んで来てくれて、それから間もなく、本当に姑の最期が来ました。
姑の口が、最期の最後に動いたように見えました。それは、「ありがとう」と言うてくれよったのやと、自分でそう受け止めることにしたのですよ。自分が良い方に解釈したのかもしれませんけどね。義姉と義妹の二人も最期を見届けられたと喜び「死に水が取れたということは、こういうことや」と感謝されたことでした。
私と認知症の姑との7年半のお付き合いは、そんな風にして終わりました。夫は、朝は母親が亡くなるとは思いもせずに出かけたと思うのです。でも、部下を連れての忘年会でしたから、私も電話して呼び帰すことはしませんでした。もちろん残念がってましたけど、まぁ、夫は朝に夕にいつも見ていましたからね。

自分が姑の年になりましたから、当時の姑の気持ちがよくわかるんです。家を流され、住み慣れたところから新しい土地へ、ましてや嫁の実家の近くに来て、なんぼか切なかったろうと思います。私も今の心境で世話ができたら、もっと親身になれたのにと、そう思うて辛いときがありました。親しい人に話したら、「あんた、そりゃ大丈夫。お義母さんを車に載せて、よう世話したやんか。そんなに思うことはないわね」と言うてくれましてね。救われました。姑はうちの畳の上で、娘らに見守られて終えた・・・、それで上等やったと、今は自分にご褒美をやりたい気持ちです。

今も夫の姉妹とは良いお付き合いができています。特に義妹は、うちへもよう来てくれて、実の姉妹以上の良いお付き合いさせてもろうています。至らんことの多い、がさつな私ですよ。でも、嫁入り先の姉妹がこうして来てくれることは嬉しい限りやと思うて、娘にも「おばちゃんのこと、大事にしてね」と話しゆうことです。

夫の病

夫は、元々酒が好き、ことのほか好きな人でして、舅が酒好きで卒中でしたから、血圧や肝臓の疾患をずっと心配してきました。長い間のお酒で、肝臓も段々と悪くなっていたかと思います。ちょうどオイルショックの頃、夫は農協の営農関係の仕事をしていたんですが、もう夜の夜中でも組合員さんから肥料はどうなる、ビニールはいつ来ると、しょっちゅうの電話で多忙を極めていました。それでもまだ農作業も手伝ってくれよりましたので、夫も無理しよったんでしょうね。疲れからとうとう体調を崩してしまい、ひどい貧血になり、輸血を受けたこともありました。
健康に不安を抱えながらも、夫は農協の仕事を続けていましたが、子どもたちがそれぞれの生活をスタートさせた頃に、退職いたしました。その後は夫婦で一緒に農業をしながら、この穏やかな日がずっと続くと、そう思って暮らしていました。

そのうち、夫は腰が痛い痛いと言うようになりました。痛いながらも、農作業などできることはしてくれていましたが、痛みがどんどん強くなり、かかりつけであった後輩の個人病院に連れて行きました。ところが、すぐに「ここではいかん」となったんです。夫はまったくよう動かんもので、救急車を呼んでもらって、今度は近森病院へ行きました。
そこでレントゲンを撮ったところが、家族に来てくれいうことになりまして、ステージ4の癌、しかも、癌が肝臓から脊髄へ転移しており、脊髄の7番目と8番目の骨が潰れていると説明がありました。お腰が痛いのはその神経を圧迫していたせいでした。「ここではいかんので、医大の方を紹介します」と言われ、医大へ行ったところ、「脊髄、骨の手術をして腰が痛くないようにしましょう。癌の手術の手立てはありません」と言われました。
腰痛の解決策として、これくらいの釘で留めただけの手術でしたが、その後で下肢が麻痺し、寝たきりのようになりました。その上、余命は3ヶ月と宣言されたんですよ。「この体力では手術することはできません」と。すでに脊髄まで転移していましたのでね。瞬く間に頭の方へも行きました。

家での看取りを決めて

ホスピスも見に行きましたが、本人も希望したものですから、家で看病しようと決めました。幸せなことに、一階に12畳くらいの部屋があったもので、そこへベッドを据えました。下肢の麻痺があるので、車椅子へ移すためにリフトが必要で、家の改修もしました。車椅子で外の散策もしたいろうと思いましてねぇ。
主治医が訪問医療の医師を紹介してくれて、患者と医師とが合うか、まぁ、お見合いみたいなものまで献立ててくれました。この人ならと思えて、鴨田の診療所の先生にお世話になることにしました。ヘルパーさんも毎日来てくれ、週に1回の入浴などお世話になったことでした。そうやっていろんな人の手も借りて看病させてもらいました。

うんとお酒が好きな人やったけど、「一杯飲むかえ」と息子が言うても、初めのうちこそ「うん」と応えていましたが、そのうちその気もなくなりましたねぇ。痛さに耐えれんなると、神経を麻痺させるパッチを貼るようになりました。それが初め2センチ四方であったのが、だんだんに拡がって終いには8センチ四方になったんです。また、最後は、オプソを使用するようになりました。医療用の麻薬で、それを何時間か置きに服用するんです。初めのうちは本人が嫌がりましたが、嘘でも言わなしようがない。私は「大したことないのやと」と言い続けました。

あんまりうるさそうなので、ちょっとでも気分が変わるかなと、私がベッドの後ろへ回り抱いて座ると、少しの間だけでも耐えやすいこともありしましたね。また、楽に起き上がれるようベッドの足元へ紐を付けてもみました。「お父さん、これを引っ張って」と教えると、「えいこと考えてくれた」言うて喜んだことです。電話もすぐ取れるところに置きましたら、電話の応対も一つの生きがいみたいになりました。とは言え、次第に弱っていきましたけれどね。

夫の終いに思う

そんな私たちを傍でずっと見ていて、これはたいへんだと思ったのでしょう。嫁が、自分もヘルパーの仕事で忙しいのに、週に1回は、夜だけでも私が看ると言うてくれました。可愛らしい嫁で、ベッドの横に布団を敷いて「早うお母さん、体休めないかん、たいへんやき」って、私を労うてくれました。
そのうち、娘も子どもたちを連れて、ベッドの横に布団を構えて付き添ってくれるようになりました。夫には、やはり孫たちの姿が何よりの喜びで、楽しみにしていました。週1回は、そういうふうに家族が代わりおうて看たんですよ。

子どもたちが、相変わり日替わりして来てくれるのは、私にも大きな助けにも励みにもなりましたねぇ。それでも、夜トイレに起きたら、誰が看てくれよっても気になって、そっと様子を覗いたものです。夫が隙間から私を見たときは「おかあ呼んでくれ」「呼んでくれ言うても、お母さんは寝ゆう」「寝やせんが。そこから覗きゆう」と、そんな問答があったようで、「お母さん、お父さんがきかんがやき」と言われて、私も「そうかね。私も一寝入りしたから、代わるわ」と言うこともありました。
そのうち、オプソも効かんようになり、痰が出て、苦しむ時間が増えました。痰の吸引を、喉からしたり、鼻からもしてもみたり。それでも本当に苦しそうでした。小水を管を挿して取り、尿の量も測りよりました。苦しくてオプソを欲しがるけど麻薬性鎮痛剤ですので、服薬時間の決まりがあります。また、薬の管理は厳格で数の報告が必要でした。一度だけ私が寝呆けて空を飲ましてしまって、「一つ余ってますよ」と先生に言われたことがありました。間違えるなんて、とんでもないことと恐縮し、お断りしたことでした。

こうしたことを繰り返しながら、夫は5ヶ月の命をもらいました。その日は先生が一度朝来てくださって、容態が良くないと診て、「近いうちかと思います。気を付けちょってください」とおっしゃったんです。それで、家族の者みんなが夫の周りに集まっていました。夕方また先生が来てくださってね、「痛くないよう、薬をお腹にセットしましょう」って言うてくださいました。それは死を待つということやけど、穏やかにという気持ちで先生がやってくださりゆう最中のことでした。アッというような顔で夫が私を見たんです。痰の詰まりで、一瞬のことでした。先生も痰をよう取らんなっちょりましてね。それで苦しまずに、あれって言うような顔で亡くなっていきました。
そのときに孫たちが「おじいちゃん、頑張って。おじいちゃん、頑張って」って、みんなが励ますものですから、先生はびっくりされたようで「こんなこと、初めてです」とおっしゃっていました。

養子に行っている長男が、後で嫁に言うたそうです。「おやじばぁ幸せな死に方はない。おらもあればぁよう世話してくれ」って。そう言うて嫁に頼んだって。夫は自分の想像してなかった世界やったけれども、こんな最期を迎えれて、私は『お父さんの人徳やったね、良かったねぇ』と心から思いました。

夫ともこうして別れました。見送った後でね、一時はホッとしました。言い過ぎかもしれませんけど、夜も寝れんということがしょっちゅうでしたからね。主人は73歳で亡くなりましたから、もう15年になります。

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ご家族のみなさんと末子さん(中央)、令和3年正月

農業体験で子どもたちと出会う

あっ、そう言えば、私はね、自分の田んぼで子どもたちに農業体験をさせたことがあるんです。行政が進める食育・農育の一環として、農業体験の依頼があったとき、団地近くのうちの畑に石を投げた子のことを思い出しました。親がその子を叱るのに「石放ったりしたら、おばちゃんに怒られるよ」と言うのを聞いて、私は、『そうじゃなくて、どうして怒るか、何が悪いのか、その意味をちゃんと教えないかん』と思ったんです。そのことが蘇りました。農作物の生育ということを子どもたちが身をもって知れば、おばちゃんが怒ることの意味がわかる。石を投げたらいかん理由も自ずと理解するやろうと考えて、私は引き受けることを決めました。

うちは鴨田でも介良でも田んぼしよりましたから、鴨田小学校と介良小学校の2校の3年生と2年生の子どもたちと一緒にやりました。平成13年頃から数年間のことで、当時は夫がまだ元気で、畑づくりや管理も手伝ってくれ、とても協力的でした。
やってみたら、子どもたちが可愛くってね。「おばちゃん。うちのお父さんとお母さんが喧嘩してね」とかって、いろんな話を作業しながらしてくれるんですよ。また、一緒に草引きしていると、「おばちゃん、草引きやけど、草は空気を浄化しゆうがでね。なんで役立つ草を引くが?」などと訊いてくる子もいました。「草引くのも考えないかんね」そんな会話もしましたよ。面白くて、豊かな人生経験させてもらいました。プラスαがあるがです。

コマーシャルでテレビデビューする

その時分にねぇ、私、テレビのコマーシャルにも出て、コマーシャルガールもしたんです。ちょうど食育の体験も盛んにやっている頃で、子どもたちが作った干し大根を学校給食に当ててもらったりしていました。お隣の美容室の先生が、「サンシャインがコマーシャルを企画中やと。出演者を募りゆうけど、やってみん?」と勧めてくれました。予選があって、畑で撮った私の写真を出すと、「審査に通ったよ。西内さん」言うて連絡がありました。
ひょっと聞いたことがおありやろうか。「その食事は1回きりぞね。しっかり食べんと」言うて、ほうれん草のお浸しやったか載った皿を、私が青年に差し出す。それが5年間も放映されました。息子がね「あのビデオならまだ残っちゅうで」と言うてくれて。今観たら恥ずかしいですけど。

まぁねぇ、これもいろいろな人との出会いでね。声をかけていただいたことは、本当にありがたい。友達が「コマーシャルガールの賃はなんぼもろうた」いうて訊くき、「1万円もろうた」言うたら、「5年も使うて1万円かえ」言うて、みんなで大笑いよね。ラジオでも流してましたから、本当に安うに使うたねぇ言うて、笑うたことでした。あの1万円は、美容室の先生やご近所の奥さんら4人で楽しくお茶して使いました。今も笑顔になる良い思い出です。考えてみたら、なかなか経験できないことをやらせてもらいましたね。

友とともにある幸せ

「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉がありますでしょう。中学の一年のときの国語の先生に教えていただいた上杉鷹山の、この言葉を私は座右の銘としてずっと大事にしてきました。振り返ってもしようがない。いつどんなときも前を向く、そういう生き様でありたいと念じてきました。これでもかこれでもかと試練に見舞われた人生ではあったけれど、父が言ったとおり、波と一緒です。お陰様で今は、親しい人と過ごす豊かな時間があり、自分へのご褒美じゃと思うています。

スエコ6.jpg横田さん母娘との旅(青森にて、令和元年)

横田美恵子さんという友達がいます。中学の2年のときにクラスが一緒になって、中学も高校も同じ。高校で図書部をつくった仲間の一人でもあります。田舎が好きやったのか、よく自転車で家まで遊びに来てくれて、私の両親も一目置く存在でしたね。今も変わりなく親しくしていいただき、70年来の付き合いなんです。この頃は母娘の旅に、娘さんが「西内さんも一緒に」と誘うてくれて、楽しく同行させてもらっています。
彼女は人生経験が豊富で、資格を取って保母さんになり、園長さんまで務めあげました。その一方で、茶道の指導や一弦琴もやられており、目の不自由な方のための朗読ボランティアは今もずっと続けています。お付き合いする方も裾野の拡がりがすごくて、私にはもったいないくらいの友達です。それぞれ人生には紆余曲折があり、お互いに随分苦労もしたわけですが、そうした赤裸々な話もできる友達を持てたことが、私には最高の財産だと思うています。

また、私は高知県高坂学園生涯大学に、もう10年ほど通っていて、そこでもいろんな方たちと交流が深まっています。喫茶タイムに誘い合ったりするうちに仲良くなり、市民劇場に誘ってもらったり、ほんの数日前でしたか、中国雑技団の公演がありまして、その券も世話してもらいました。職歴も住む場所も違う様々な方と知り合い、親しくお声がけしていただくことの喜びをしみじみと思いよります。

人は人中、木は木中

もう一つ、今の私が心のより所とも思い大事にしている宝物があります。農協婦人部の仲間たちであり、鴨田支所のふれあい朝市の笑顔です。姑が、結婚してすぐのときに、「人は人中、木は木中で育つ」と言って、私の背中を押してくれました。まだ伊野の奥で暮らしている若い時分のことです。社会教育学級の講演会や農協の集まりなど、いろんな場所に出て行きました。利口ものの姑やったから、私のことを『こりゃなんともならん』と思ったのでしょうけど、ありがたかったです。その中で、農協女性部とのつながりも生まれました。
伊野の農協の前に直販所をつくるというときに、知り合いの口利きもあり、その一員に加えてもらいました。当時はまだ直販所が珍しい状態で、全国からの視察の受け入れも随分しましたよ。高知へ出て来てからも女性部に続けて入り、姑を見送った頃からは、いろいろな役も引き受けるようになりました。

あれは私が鴨田支所女性部長になって何年目だったでしょうか。高知市17支所の集まりの中で、女性部の総力を結集して、高知市に道の駅のような直販所をこしらえようという話が出たんです。当時のJA高知市の女性部長は竹島愛子さんで、過去の直販所での実績を高く評価してくださり、私も設立委員の一員に加えていただいたんです。
無から有をなすということには大変な苦労がいきましたけれども、いつも前向きな竹島部長の「ファイタリティ」とでも呼びたい、何があってもやりぬくという気概の下で皆が動いたように思います。私たちは、その直売所に、女性部が女性部だけで打ち上げるとの心意気を込めて『(「)真心(まっこと)ファームラブ』と名付けたんです。そのラブがJA高知市本所の一角に誕生して、ちょうど20年になります。

私には農業が生き様そのもの、ずっと生活の足場なんです。その私が『ラブ』の設立に委員の一人として参加し、本当にいろんなことを学ばせていただきました。当時の私には充分な能力もなかっただろうと思いますけど、お陰様で、私の今につながる人との出会いをいただいたと感謝しています。

つなぎ、つながることの幸せ

今も私には、農業を中心にした生活が、そして、この鴨田の朝市があります。ここは物を売る市であると同時に、慣れ親しんだ皆さんとのコミュニケーションの場なんです。「元気かね」「あんたの声がせんき、心配しよったよ。元気にやりゆう?」と声をかけてくださる顔なじみのお客さん。「元気、元気。ありがとう」と応えながら、声をかけ合うことの幸せを感じて、またまた元気がでます。
お客さんだけじゃありません。この聞き書きのきっかけをつくってくれた山崎貴美子さんとも、ここで出会いましたわねぇ。新たに農業を始めた地域の方と知り合えるのも、ここがあるからこそです。朝市から帰ったら、息子が「だれたろう」言うて気遣うてくれる。それもほっこり嬉しくて、疲れを忘れさせてくれます。

人って繋がってしか生きていけませんし、人の繋がりによって磨かれるものでしてね。山上憶良ではないけど、「なんでもじゃない、一番大事なのは人とのお付き合いじゃ」と思うてます。振り返ると、社会的にも評価された夫と出会い、姑にも恵まれたことが私の勲章やったと思えます。姑のお陰で人中に出て、そこで育ててもらいましたから。  

人様と出会い、つなぎ、つながる道を拓いてくれた姑に第一に感謝し、また苦楽を乗り越えることを教えてくれた両親にも感謝。いろいろと付き合ってくれ、今だに私を助けてくれる兄弟姉妹、家族にも感謝です。周りの人皆さんのお陰様で、今日の日があります。ありがたいですね。

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自宅近くの畑は末子さんが精魂込めて育てた野菜でいっぱい。

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朝市には末子さんのフキやイタドリ、ホウレンソウ等が並んでいます。


〈参     照〉

※1 辻売り:高知県の風習で、子どもが病気になったときなど辻に子どもを連れて行き通りかかった人に拾ってもらい仮親になってもらうというもの。名前を付け替え、呼び名として使ったようで、高知県東部で昭和2年に生まれた私の父も、郷では戸籍上の名前でない別の名で呼ばれており、幼少時に重い病に罹ったが辻売りで救われたと聞かされた。

※2 荷車(かしゃ):荷物を運ぶために使われる、木製の車輪の付いた輸送用の道具を荷車(にぐるま)と言うが、4つの輪がついた大型のものを特に「カシャ」と呼んだとのこと。

※3 当時の新聞:昭和20年6月23日の高知新聞に『ざまァ見ろB29』という見出しの記事が掲載されており、前日、22日午前10時頃愛媛県から南進してきたB29の中の1機が神田の吉野部落へ墜落したと報じられている。5頁文中で『2つの落下傘が吉野に舞い降りたのを(祖父が見た)』とあるが、パラシュートで落下した米兵は4名、機中で亡くなっていた米兵の人数は7名と伝えた記事がある。


あ と が き

西内末子さんとは、私の中高時代の友人の紹介で出会い、幼い時の戦争体験から今日までのご自身の物語を聴かせていただくことができました。昭和、平成、そして令和と続く長い年月の間、ご家族をはじめ、多くの方々との出会いを丁寧に紡いでこられた方で、高知ならではの台風災害や、ご家族との別れなども織り込まれた、広く厚い人生の織物に触れた思いです。
この聞き書きに当たって、末子さんは事前にしっかり構成まで考え、準備くださっていて、そのよどみない話しぶりに私は驚かされました。でも、話が横道に逸れると、それはそれで面白くて、時には二人で大笑いしながらの聞き取りとなり、会話の引き出しの多さに、改めて末子さんの心の大きさ深さを感じたことでした。
お姑さんに背中を押されて人中へ出て、たくさんの方と出会い、つなぎ、つながる中で育てられたとの思いをそのまま、タイトル「つなぐ日々を生きる」といたしました。この「つなぐ」という思いは、私たち「ききがきすと」の思いでもあり、末子さんが生き抜いてきた日々が、一人でも多くの若い次世代の人たちに伝わるようにとの願いも込めています。
私たちの所属団体『新Ryoma21』は昨年秋に『Ryoma21』をリメイクして再出発しましたので、この作品が第一作となります。また、私が聞き書きを始めて今年でちょうど十年です。この節目に、末子さんと出会えたことに心から感謝するとともに、ご紹介の労をとっていただいた山崎貴美子さんに心からお礼申し上げます。(ききがきすと 鶴岡香代)









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2024年05月20日

「語ってくれて、ありがとう」「聴いてくれて、ありがとう」       〜聞き書きは、ありがとうの交換〜

この春に語り手と出会い、久しぶりの聞き書きに取り組んでいます。同じ高知の女性であり、4〜5歳時の戦争の思い出から始まり、台風災害に翻弄された若い時期、姑の終いまでの長い年月、その後の夫の看取りへと続くお話でした。

でも、人生の苦労話ではないんです。人とのつながりが縦糸、農家の仕事が横糸のしっかりした布の上に鮮やかに織り込まれた二つとない人の生き様です。今、私は、冊子づくりへの作業途上ですが、この聞き書きとの出会いが何とも嬉しくて、感謝しかない思いです。

高知新聞の閑人調というコラムに、「やなせさん」という標題で、「アンパンマン」の作者であるやなせたかしさんのエピソードが紹介されていました。やなせさんは「人間が一番うれしいことは何だろう?」と長い間考え続けて、「人は人を喜ばせることが一番うれしい」との答えを見つけたと書かれていました。

私たち『ききがきすと』も、聞き書きで人を喜ばせたい。聴き手の私たちには「語ってくれて、ありがとう」、語り手には「聴いてくれて、ありがとう」と、お互いに『嬉しい、ありがたい』という気持ちの交換となるものでありたいと思っています。今回の聞き書きでも、私は、至福の時をいただいています。次は私が、冊子づくりで語り手に喜んでもらう番です。

このブログへも早ければ来月末頃、新たな聞き書き作品として掲載する予定です。
「読んでくれて、ありがとう」「伝えてくれて、ありがとう」の交換が、ここでもできるようになるのが、次の目標です。

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2024年04月11日

山の春に思う 〜桜のこと、聞き書きのこと〜

語る人と聞く人がいて、聞き書きになる。
高知県東部の北川村の遺族會舘に掲げられた英霊の遺影、その声を聴きたいという私の願いが、聞き書きの形で叶った。
もう10年余も前のこととなる。語り手は、英霊となった方々のご親族であり、川島博孝さんは、その中のお一人だ。

そのご縁で、川島さんの山の桜の木植樹に参加したことがある。
「もう花が咲きゆうで」と連絡をいただき、先日、久しぶりに北川村へ出かけた。
桜山に案内してもらうと、あったぁ、私の桜の木!!
私の下手な字で、『いつの日にか桜の名所に 川島公園💛』と表に、裏に『平成27年3月21日 TSURUOKA』と書いたタグの付いた桜の木!!
見上げるほど立派に育った私の桜、花も咲いている!!感無量!!

桜を植える人がいて、見る人がいる。時が経ち、誰が植えたとも知らず、この桜を見る人がいる。きっと、いる。
聞き書きは、誰とも知らぬ人に、伝わり、つながる。時や空間を超えて、伝わり、つながる。そう願っている。

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2024年01月31日

ききがき冊子のミニミニ展示会・・その続報                   〜ききがきという贈り物〜

昨年秋のキルトとききがき冊子の展示会・・、その続報です。
会場で冊子を読みたいとおっしゃってくださった方がおいでました。
その方は、キルトづくりの友人のご近所さんで、しかも、私たち二人の高校の先輩。

素敵な出会いとなり、その場で冊子をお貸ししました。
後日、ご丁寧な読書感想をいただいくとともに、1冊の本をご紹介いただきました。

その方が同和地区の市民会館に勤められていた時、「今聞き取っておかないと聞きそびれる」との思いにかられ、その後、館事業として職員の皆さんとともに高齢者お一人おひとりのお話を聞き取り、集作成された本。 一気に読みました。

地域の歴史をベースに置きながらも、そこで暮らしてきた人々の息遣いまで聞こえてくるよう。生活の中の喜怒哀楽が語られています。読み書きから遠ざけられていた方々も暮らす地域でのかつての日々が、こうして私たちの貴重な財産として遺されたことをつくづくありがたく感じました。

読み終えて、聞き書きの持つ大きな可能性を再認識し、聞き書きで拡がる人の輪もまた、その魅力だと大いに感謝したことでした。

Ryoma21の聞き書きの生みの親である松本すみ子さんが急逝されて、はや二年になります。私が松本さん主宰の「ききがきすと養成講座」を受講して十年余りですが、聞き書きは、私の生活の一部となり、語り手との出会い、読んでくださる方々との出会いが、私の人生の彩となっています。

聞き書きというこの松本さんからの贈り物を、これからもっとたくさんの方々に届けたいとの思いで、新Ryoma21の「ききがきの会」を船出しました。

今はまだ、その具体策を模索する旅の途中ですが、途中ならではの思いを折に触れて、このコーナーでお届けできたらと考えています。


次回は、私がオンライン聞き書きをさせていただいている介護施設のことにも触れ、介護の現場での聞き書きのことなどご紹介できたらと思っています。

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2023年12月24日

二人の母への鎮魂歌 下

かたりびと:中野ミツヨさん
ききがきすと:鶴岡香代
編集担当:清水正子

二人の養父に想う

引っ越しする前のことを今も思い出す。お父さんは友達の家遊びに行くことを厳しく止めたけど、離婚後、お母さんに相談したら「いいよ。休みのとき、遊びに行って」って。ある日、友達の家で遊んでの帰り道のこと。お父さんは奥さんが連れてきた子どもに落花生を買っていた。昔は露天商が屋台の車の荷台に物を並べて、そこで落花生なんか売っていた。お父さんはすぐ私に気づいて、買った落花生を渡そうと、私の名前を呼んだ。でも、私はその子を見て、すぐ駆け出した。その場に居たくなくて、ただ走った。お父さんは、その子を置いたまま私を追いかけてきたけど、私はずっと走って止まらない。お父さんは後ろから私の名を呼ぶ。でも、私は止まらない。絶対止まらない。

家まで走り続けた。走る間、いろんな気持ちが湧いてくる。お父さんは私とお母さんのこと、いらない。あの子を連れて物を買いに来ていた。すごくお父さんのこと嫌という気持ち。でも、お父さんはあの子をそのまま置いて、私を追ってきた。いろんな気持ちがあった。走って家に帰ったら、お母さんが「どうしたの。もうハアハアしてる。なにがあったの」って。訊いても、私、何も答えない。お父さんがいたこと、なにも言わない。

引っ越してからは、お父さんに偶然会うなんてことはなくなった。でも、お父さん、たまに小学校に私を見に来た。教室の北側の窓から中を覗いて、私を見ていたことを覚えています。何げなく窓の方を見たら、そこにお父さんの顔が見えた。私はすぐ頭を振って見ないようにした。    ずっと年を経て考えたら、お父さんは私のことを気に入っていたから、たまに学校に来て私を見たかったのだろう。あの時は、落花生を渡したかった。今なら、そういうことをしたお父さんの心がよくわかります。

お母さんは再婚して、幸せになった。暴力は全然受けない。二番目の養父は給料を全部お母さんに渡して、お母さんが家の管理をした。炭鉱の仕事は給料が高いから、三人での暮らしは安定した。でも、いくら安定しても、前のお父さんと比べたら全然違う。自分のお父さんじゃないと感じる。

二番目の養父の炭鉱の仕事は危ない。だから、家の仕事はなんにもしない。全部お母さんがする。その頃、家に水道なくて、お金を払って、共同の取水場で桶に水を入れて天秤棒で運んだ。うちはその取水場からとても遠い。当時の私はちょっと背が低くて、中学校に入るときも、130センチしかない。お母さんは纏足。私もお母さんも、一人で天秤棒担ぐのは難しい。だから、棒の両端を、こっちを私、あっちをお母さんが持って、水を運んだ。ご飯作っても、洗濯しても、いっぱいお水がいる。冬になると、その周りは氷がいっぱい張って、滑りやすい。危ないけど、お母さんと二人でやる。

ある日、お父さんが言いました。「みんなの家見たら、子どもでも一人で水運びやっている。あの子にやらせればいい」と。でも、お母さん「ダメです。まだ小さい。今は身長が伸びるとき。あの子には、まだ無理です」って。お母さんは私にやらせたくない。「私は家の仕事だけ。私は大丈夫です。あなたは、よく勉強したらいいです」。いつも私にそう言いました。

養父は、お母さんは私のこと甘やかしすぎると思っていた。夜、私が寝たと思って、二人が話しています。でも、私はまだ寝ていない。お父さんの言うことが聞こえた。「この子は実の子じゃない。日本人の子です。なんでこんなに甘やかすのか」。このことは、私の心にずっと残っています。やはり私の最初のお父さんとは違う。全然違う気がします。

その時のお母さんの答えを私は今も忘れません。お母さんは普段は怒ることがない。養父が何をしても、言っても怒ることがない。でも、このことでお母さんすごく怒って言いました。「そういうこと絶対に言わないで。この子、私の子と変わりません。この子のために私はずっと生きている。この子がいなかったら、私はもっと早く死んでいますよ」。

盲腸の手術の時のことも覚えています。病院へ行くのが遅くなって、化膿して、ひどくなった。養父は私をおんぶして病院に連れて行ってくれたけれど、その後一度も私を見舞うことはなかった。私は一か月以上入院して、お母さんが毎日毎日、お見舞いの時間には必ず来る。私は毎日窓辺にいてお母さんを待った。 

時々、二人の養父のことを比べて考えます。二番目の養父は炭鉱で働いて、お母さんと私の生活を支えてくれた。長く一緒に暮らして、ちゃんと家族になった。本当に感謝しかありません。ただ、最初の養父といた、あの幼い頃が、一番幸せだったと思うのです。お父さんとお母さんと私と、三人のあの日々が。

自立への思いから専門学校へ

昔、中国では小学校4年生までは初等小学校、5年生から2年間は高等小学校に通います。高等小学校は、前の小学校より少しだけ近くなりました。小学校6年のとき、私は成績も良いので、先生は家の近くの中学校に入学するように言いました。でも、どうしても同じクラスの人と同じ中学校に入りたい。この小学校の卒業生は全部、その中学校に行く。ただ、みんなは住むところが同じなのに、私だけ遠い。遠いので途中でバスに乗ります。その遠い中学校に私は3年間通いました。

中学三年生になって、進学希望に私は高校と書かず、師範学校に行って先生になるつもりで、専門学校と書いた。すると、担任の先生は成績も家の暮らしぶりも問題ないのに、どうしてと不思議に思って、私の家まで来ました。

その先生は自転車で初めてうちまで来て、こんな遠い道を3年間ずっと通っていたのかと、すごく感心したようです。「この子は3年間、遅刻することが一回もなく、本当に頑張った」と。そして、お母さんに「この子の成績なら、高校に入って、将来は大学に入ることができる。家の生活とか困ることはないのに、どうして高校に進学しないの?」と訊きました。お母さんは戸惑って、「私は字も読めない、一日も学校行ったことない。全然学校のこと知らない。この子がどう考えているのかも、全然わからない。帰ったら訊いてみます」と答えたそうです。

中野7.jpg 17歳の時、養母(潘素珍さん)と

お母さんから先生が来たこと、そして進学のことを話したと聞きました。男の先生が自転車で来て、遠いからたいへんだったって。お母さんは言いました。「先生は、成績もいいのに、どうして高校に進学しないのかと言いました。どうして行かないの? お母さんは、あなたに勉強をたくさんさせてあげたい」。私はそれ聞いたら、先生がうちに来たわけも、お母さんの気持ちも、よくわかった。

お母さんに言いました。「お母さん、私ね、本当に自立したい。お父さんの炭鉱の仕事たいへんです。危ない仕事ずっとしている。私が学校へ行ったら、また迷惑ばかり。やっぱり自分が自立してお母さんに恩返ししたい。そういう気持ちいっぱいです」って。
お母さんは私に「かまん、かまん。好きにやったらいいの」って。「お母さんは字も読めない、なーんにもできない。あんたはよく勉強して、自分の人生と将来しっかり考えて。それが一番にすること」と。

高校と専門学校は学歴の点では一緒だし、専門学校なら卒業したら、すぐ仕事できる。そうすれば、お母さんが楽になる。私がそう言うと、お母さんは「私が楽できる、できないは関係ないの。自分のたいせつな人生、第一に考えて」と言いました。最後に私は、「そう。これは私の人生よ」と返して、お母さんを説得しました。そうして、1961年の秋、師範学校に入りました。

労働局から病院へ

私が小学校入るとき、お父さんが私に言いました。「これからいっぱい勉強して、知識あったらいい仕事できる。また、いい人に出会ったら一生幸せになれる」って。そのときは小さいから、そのこと全部は理解できてない。でも、言われたことはちゃんと覚えている。工場の労働者の仕事はやりたくない。その考えが私にずっとありました。

師範学校で3年間、小学校の先生になるための勉強をしました。でも、中国では、どこで何の仕事をするか自分で選ぶことはできません。だんだん考えも変わり、師範学校を卒業すると、私は学校ではなく、労働局の事務員の仕事に就きました。1964年、私は19歳になっていました。

労働局で働き始めても、もちろんお母さんとずっと一緒です。もらった給料も全部お母さんに渡しました。若い事務員で覚えることいっぱい。夢中で仕事していた1966年5月、文化大革命が始まりました。労働局のような役所は、すごく政治に敏感です。いたるところに大字報が貼られている。私はそれを見るだけ。どうしてこういう運動が起こったのか、将来どうなるのか、考えてもわからない。下放政策でみんな農村へ行く。不安がいっぱいでした。

私には2つの心配がありました。1つは、「自分は日本人。これから農村に行ったら、ちゃんと帰ってこられる?」。もう一つは、「お母さんと離れたくないのに、ずっと一緒に居られる?」。すごく悩んで、職場の主任に相談しました。私のことを自分の子どもみたいに大事にしてくれて、心から信頼している人でした。

主任は局長と相談して、農村には行かない方がいい、そのためには労働局を辞め、転職するしかない、と言いました。そして、「病院の仕事でいいですか?」と訊いてくれました。その時、私は22歳。どこへ行っても、どんなことでも、まだ勉強できる。私は主任に「ありがとうございます。将来のこと考えたら、それがいいと思います」と答えました。

病院も文化大革命の最中で、最初は「運動事務所」に配属になりました。なんのことやら、私には全然わからない。批判とか何も言えず、記録だけをしていました。毎日仕事に行くけど、患者さんは少なかった。
そのうち処置室での注射を習いました。でも、それは看護師の仕事。私は看護学校に行ってない。勉強しようにも何から勉強すればいいのかわからない。本屋に行って本を買いたい。でも、毛沢東の本とか政治関係の本ばかりで、私が買いたい本はない。病院の図書館があると聞いて、行ってみたけど、何もなかった。みんなが本を持ち去っていた。
仕方ない。私は薬箱を開けて、中の説明書を一枚一枚全部集めて、家に持ち帰り、「この薬はなんの作用、副作用は何?使う量は?」って勉強しました。どこにも勉強するところなくて、本当に困りましたよ。「この病気の注射は、この薬ですればいい。大人ならこの量で、子どもならこの量で」と、計算もして。わからないところは先生に訊いて、少しずつ覚えていきました。

元は工業局の病院でしたが、工業局が3つの部局に別れた1969年、そのうちの一つが機械局付属の総合病院となりました。病院に残った私に、漢方薬の先生が漢方の薬局に入り勉強するように言ってくれました。漢方薬の仕事に変わると、「これでしっかり勉強しなさい」と本ももらいました。漢方薬は製剤薬局でつくります。そこの薬剤師が私の仕事ぶりを見て、一緒に製剤をやるように言い、大きな病院での研修の機会も与えられました。初級から勉強を始め、頑張って続けていると、国の試験がありました。薬剤師の初級試験受けて、合格しましたよ。

その後、文化大革命の後期に入り、夜間の学校が始まりました。やっと勉強できるところができたんです。私はその学校に入りました。病院に転職した翌年結婚していた私には、その頃は娘も誕生し、毎日毎日の勉強は大変でした。娘の世話はお母さんに助けてもらい、頑張って勉強を続け、また国家試験を受験。薬剤師の資格を得ました。国も急いで様々な分野の専門家養成をしなくてはいけない、そんな時代だったのだと思います。

 結婚と子育て、そしてお母さんの死

 私は誰と結婚しても、お母さんと一緒に暮らすと決めていました。二人で、いつまでも一緒に暮らすと約束していましたから。主人には兄弟が6人います。うちに来てもかまわないというので、1968年、23歳で結婚してからもずっとお母さんと一緒に暮らしました。養父は、1970年5月、炭鉱事故で亡くなりました。お母さんが毎日心配していたことが最後に本当になってしまいました。

 財布写真.jpg    就職祝いに二番目の養父から贈られた
               財布・・大切な思い出の品です

私の子どもは二人です。娘と息子です。仕事をずっとしていたし、上の娘のときは、夜間学校もあって、お母さんが全部面倒をみてくれました。お母さんはとてもきれい好き。家の中のことも、子どもの世話も本当によくしてくれました。
でも、その子が3歳のとき、お母さんは病気で倒れました。何度か入院もしましたが、家で療養するときは、先生の処方で私が薬を出したり、注射することもありました。仕事と子育て、そしてお母さんの看病。たいへんな1年余りの後、なんとかお母さんが持ち直したころ、私は下の子どもを妊娠していました。

妊娠何ヶ月かのとき、お母さんがまた倒れて、今度は病気がどんどん重くなりました。やはり昔の過労や苦労があったと思います。脊髄の結核で、もう手術もできないと言われました。私は勤め先の病院を休んで、お母さんの看病をしました。
妊娠後期に入るころには、お母さんはますます悪くなり、失禁も始まって。昔は大人用のオムツはないです。お母さんのために柔らかい布をいっぱい貯めて使いました。その頃は、家に水道がありました。暖房もあって、今と同じです。でも、日本のような保険はない。毎日の世話から医療費のことまで、全部、私がしました。入院のときも、家で看るときも、たった一人の娘として私が看病しました。最期は、家で看取りましたよ。お母さんが亡くなった時、息子が生まれて10日目でした。

お母さんの死、そして募る日本への想い

お母さんが亡くなったのは、1976年です。お母さんと30年一緒に暮らしました。どんなに悲しくても、その時、私は泣けませんでした。涙が出ない。心の中はすごく淋しい。お母さんだけが自分の親だから。お母さんが亡くなったら、自分の親戚はどこにもいない。誰もいない。毎日泣きたいけど、泣けるところがありません。
主人は家族、兄弟が多い。時々会うし、みんないい人。でも、自分の兄弟じゃない。そう考えて、すごく淋しくなった。その時、思いました。「私の日本の家はどこにあるの? 私のお父さん、お母さんはどこにいるの?」。毎日、考えました。

でも、まだ文化大革命は終結してない。どんなに自分が思っても、口に出すことできない。中国は政治運動が多いから、いろんなことを考えます。文化大革命でも私や家族には問題ない。日本人でも大きな問題はないと思います。でも、やはり普通の人とは全然違う。そう考えて、誰にも言えませんでした。

お母さんが元気なころ、考えました。もし、私が日本の家や家族を探して、本当の家族がわかったら、お母さんどうするかな。お母さんを日本へ連れて行けるなら、そうしたいと思う。でも、お母さんがどうしても一緒に行かないと言ったら、私も日本には帰らない。帰れない。そう考えました。お母さんの気持ちを一番大事にしたいと考えました。
お母さんが亡くなってから、自分の家族を探したい思いが湧きあがってきました。でも、誰にも言えない。自分の心の中に刻むように思っていること言える人はどこにもいない。うちの主人は、私が日本人の子だったことを知っている。でも、私のこういう気持ちは全然知らない。私が言わなかったから。

お母さんが亡くなってから、私は毎日毎日そういうことずっと思い続けていて、重い病気になった。黄疸性の肝炎でした。この辛い気持ち、どこで話しをする? 誰に話しする? 話すことも、泣くこともできず苦しい。自分のただ一人の母親が亡くなってから、だんだんこの病気が重くなって、入院しました。入院したとき、息子まだ1歳にもなってなかった。

日本の家族を探したい気持ちが誰にも言えないのは、文化大革命のことも確かにあった。その気持ちがすごく強くなっても、怖くて言えなかった。日本の家族のことは私は何も知らない。どこをどう探す? 何もわからない。探すことは難しい。自分の名前も知らない。親の名前も知らない。探しても身元が判明しなかったらどうなるの?そう考えて、怖い気持ちになりました。

再び公安局の呼び出しが

1979年になって間もなく春節という頃、公安局の外事科から私に一度来るようにという手紙がありました。不安でした。どうして私を呼ぶの?文化大革命が終わっても、すごく怖くって。でも、行かないわけにはいかない。
行くと、書類を渡された。自分の知っていること全部書くように言われたけど、名前や住所、仕事とか書いて、その下はと見ると、一つも書けない。いつ日本から中国へ来たのか、日本のお父さんとお母さんの名前は、居場所はどこ、親戚は誰か知ってるか、とか。私の全然知らないことばかり。なにも書けない。
「下の欄は全然書くことができません」と言うと、向こうは「あなたは自分が残留孤児だと知っているか」と訊いた。私は「知っている」と正直に答えた。嘘はつけない。「いつ、知ったの?」と訊かれて、1953年夏にお母さんと一緒に公安局行ったときのことを話しました。そのとき知りました、と。「そのとおりです。記録がある」と向こうも言いました。
「でも、その他の事は、私には記憶が全くないです。お母さんも亡くなった。お母さんは私が日本人だということは、まったく言わなかった。何も知らない」私は本当のことを言うほかなかったのです。

すると、向こうから「あんたは、日本のお父さんやお母さん、親戚とか探したい?」と訊いてきました。私は、探したくないと、その時、嘘をつきました。「探したくない、どうして?」「私はなんにも知らない。どんなに探しても無理です」。すると、今度は「この人知らない?」「あの人知らない?」と、いろんな日本人の名前を出してきて訊いてきました。私は「知りません」「知らない」・・。でも、最後に「この人はあなたのことを知ってる、と言ってます」って。「えっ、本当?それなら、その人の中国の名前を教えてください」と頼みました。

残留婦人が教えてくれた

そこで聞いたのは、中国人と結婚した残留婦人の中国名。その名前を聞いて、私はすぐに思い出しました。昔住んでいたお父さんの家の隣の人。この人は、私がもらわれて来たころ、隣のご主人と結婚した。来たときは、頭の髪が全部ない。坊主で、もう男みたいだったって。その時まだ20歳くらい。夫婦には10歳以上の年の差があった。
隣同士だから、多分よくわかっていた。この家には日本人の子がいる。自分も日本人。特別な関係で、お母さんとすごく仲がよくなった。お母さんの親友みたい。この人は、お母さんに家を貸してくれた李さんと親戚。だから、この人のことは、私もすぐわかった。

私と主人はすぐ李さんに会いに行って、この人のこと訊きました。家を教えてもらって、直接その家を訪ねました。「私は自分のことが全然わからない。知っていることあれば、教えてください」って。
そのおばさんは、「1972年に日中友好交流が始まって、私は1973年に初めて日本に帰りました。1年くらい向こうにいて、翌年こちらに帰ってすぐ、あんたのお母さんに会いに行ったよ」と話を始めました。その時、私は仕事で、お母さん一人が家にいて、何年ぶりかの再会をとっても喜んだそうです。

「でも、あなたのお母さん、すごく頑固だったよ」。おばさんは続けて話してくれました。「私は日本に帰り、1年間向こうにいて、今帰ったばかりです。あんたの娘、淑媛、日本の家族や家を探したいという気持ちがあるなら、私たちが手伝う」と、お母さんに来た目的を伝えたとたん、お母さんの態度が変わったそうです。すごく怒り出した。「もし、こんなことを言わなかったら、うちに来てくれたことはとても嬉しいです。こういうこと言うのは止めてください」って。おばさんは、そのまま帰るしかなかった。もう1回うちに来たけど、家にも入れてもらえなかったって。

私は、そういうことを全然知らなかった。お母さんは私には何にも言わなかった。でも、この人は私に会うことができなかったけど、公安局には私のこと話してくれてたんです。
「お母さんは、あんたのことなんにも言わなかった。なにか言ってくれたら、手伝うことができたけど、何にも言わん。あんたが日本人の子だと、近所の人は誰でも知っている。知っているけど、詳しいことを誰も知らない」。最後に私にそう言いました。おばさんは、ご主人が病気で重篤だからこっちにいるけど、日本にすぐ帰るつもりのようでした。私には、もうどうしようもない。

養父との再会・・そして、すべてわかった

私と主人は最初の養父の継母のところへも行きました。この人は、養父の弟のお母さん。私と主人はまず叔父さんのところへ行って「お願い、おばあさんのところ連れて行って」って頼みました。会えたけど、女の人の記憶はまた男の人と違う。覚えていることはあっても、資料をつくるのは難しい。

それで、最後は仕方がないので公安局に話して、「私の養父にはもう25年余り会ってない。全然連絡がない。今どこにいるかも知らない。お願いだから、養父の居場所探しを手伝ってください」って言いました。すると、3日後に連絡があった。養父は吉林省の奥さんの故郷にいた。向こうへ行ったことを私は全然知らなかった。

撫順市の公安局と吉林省の公安局が連絡し合って、養父のことをちゃんと調べてくれました。養父のところまで行って、私のことを初めからいろいろと訊いてくれ、養父は書類に必要なこと全部書いてくれた。それから、詳しい書類をつくって私に送ってくれました。
でも長年養父には会ってない。資料が信用できるかできないか、私はもらっても迷っていた。自分は全然覚えてない。今詳しいことを聴いておかなければ忘れるかもしれない。そんな心配もある。吉林省の公安局の人の名前は今も忘れない。于雷さん。この人が、撫順の公安局の人に連絡して、「何回聞いても同じことです。間違いない」って言ってくれました。

お父さんは私に手紙もくれました。手紙には、『あなたのことを捨てたという罪の心は、長年ずっと残っている。あなたのことを公安局の人から言われて、私はずっと泣いていた。私も年取った。淋しくなった。お母さんとあなたのこと、本当にごめんなさい。お母さんが亡くなったことも全然知らなかった』と書いてありました。
連絡すると、お父さんは早速うちに来て、詳しいことを話してくれました。お父さんはうちに来てからずっと泣いていた。そのとき、私は「お父さんのことをもう恨んでない。自分が結婚して、子ども産んで、あのときのお父さんのことは本当によく理解できた」と伝えました。

結婚と友達は違う。自分が好きじゃない人と一緒に暮らすのは本当に辛かっただろうと、自分が結婚して、私よくわかりました。お母さんは誰がどう見てもいい人です。でも、夫婦はいい人とか関係ない。もうお父さんのこと全然恨んでない。幼い日のお父さんはいつも私のこといろいろ考えてくれた。子供の考えることと大人の考えることとは全然違うんだ。
そのときお父さんは61歳。背が曲がって、とても年を取ったみたい。若いときに思っていた様子と全然違った。私のところに1週間くらい泊まったので、全部詳しく聴くことができました。私が「なにか間違っていることある?」って訊いたら、「絶対に間違っていることはない。あの当時の日本の家族にもし生きている人がいれば、絶対その資料で探すことができる」と言ってくれました。

「私がどうして自信を持って話せるのか。それは、このことがあんたの一生で一番大事なこととわかっているから。あんたをもらったことを私は後悔することはない。でも、あんたを捨てたことは一生後悔する。もらったときのこと、昨日のことのよう。頭の中はっきり覚えている」。お父さんの言葉です。後は一緒に書類を完成させて、公安局と日本の厚生省に提出しました。

初めて日本へ

私が日本の土を初めて踏んだのは、1985年(昭和60年)9月、「第8回肉親捜し」の時でした。厚生省に書類を提出してから、6年後のことです。この頃には、もう周囲にも知られていたので、どうしても日本の自分の故郷、家族を探したいという気持ちが強くなっていました。日本がどんな国になっているか、全然わからない、でも、家族に会いたい。強く願っていました。
ただ、本当に身元が判明するか、不安は大きかったです。残留孤児の中では、私は一番小さい。なんの記憶もないし、証拠の物もない。こちらにあるのは、私を引き取った日時と場所についてのお父さんの記憶、その資料だけ。

日本に来て、新聞報道もされ、テレビにも出ました。そして、すぐに身元は判明しました。私の資料と日本のおばさんが厚生省に提出した資料とが一致したのです。
私の日本のおばさん、山本芳子さんは、私の実母の兄の妻で、母とは従姉妹同士。このおばさんも、私の家族と一緒に江川崎開拓団として、夫や子どもたちと満州に渡っていたのです。

 中野3−1.jpg 永住帰国時、山本のおばさんと関西空港で

私が初めて山本のおばさんと会ったときのことは昨日のように覚えています。おばさん、なんかおかしい。私を見たら、すぐ涙がボロボロボロ。泣いていた。私の手元に厚生省からの資料が一冊ある。厚い資料を開けると、お父さん、お母さん、そして、お兄さんの写真とかが入っている。他にも、いろいろ書いてある。私の方には、中国から持って来た資料や写真が入っている。

おばさんから「どーう?あんたの親戚と認める?」って訊かれた。私、日本語わからない。通訳の人がそれを通訳する。資料を見ても、どうしていいかわからない。「わかりません」と言うしかない。私にはなんの記憶もないし、この資料も養父の記憶だけ。この人たちが自分の親戚かどうか、・・全然わからない。
私は言いました。「私にはわかりません。おばさんから私のこと見て、考えて、言ってください。それが一番正しいと思います」。

通訳の人がそれを通訳しました。資料の中の写真を見たら、なぜか私もすぐ涙が出て、泣いて泣いて、全然涙止まらなくなった。自分でもどうしてかわかりません。自然に涙が出ました。
おばさんは「この子、乙女(とめ)の娘に間違いない」そう言って、大きく頷いた。私にはわからなくても、おばさんは確信したみたい。東京に私の従姉妹が二人いて、そのお姉さんは私ととても似ている。お姉さんの顔と私を比べたらねぇ、本当に似ていて、親戚とわかる。

中国のお母さん!日本のお母さん!

山本おばさんは、撫順市の発電所の2階で養父に私を渡したときのことをちゃんと覚えていて、話してくれました。養父は、発電所の2階で私の両親に会っている。その部屋は人がいっぱいで、誰と誰が一緒の家族か全然わからないくらい混雑していた。子どもをもらいに来た中国人の男女がいて、私のお母さん、私をその男に手渡した。おばさんは夫婦二人で来たと思っていたよ。養父の継母は養父より4つしか上じゃないから勘違いしていた。言葉もわからなかったから。

家族や親戚のこと、そのときはっきりわかりました。私の家族、みんな亡くなっていました。お母さんと二人の兄さんは収容所で。お父さんは、帰国して3年目に病死したって。会いたかった家族が、みんな亡くなっている。本当に悔しかったです。ずっとずっと会いたかったですから。
東京で身元が判明してから、高知県の江川崎の故郷に帰り、3日間過ごしました。それから、また東京に戻り、中国に帰りました。ほんの2週間の日本滞在でした。

私が日本に永住帰国したのは、その3年後のことです。日本に帰る前に、私は養父に自分が貯めた5百元を送りました。当時は、給料が安い。私の給料は毎月何十元くらいよ。5百元は、お父さんにとったら大金と考えて、『このお金、私が精いっぱい貯めました。自分でなにか好きなことに遣ってください』って手紙を添えました。お父さんは嬉しくて、あちこちに話をしたそうです。「私の日本の娘が送ってきた。こんな大金、見たことない」って。

永住帰国してから、私は中国の養父母への感謝の扶養費代を申請しました。もし、お母さん生きていたら、もちろんお母さんに出したい。でも、お母さん早く亡くなったから、お父さんに出しました。
お父さんが私をもらってくれた。そのことは私の心の中でとても大切なことです。日本のお母さんの手から中国のお母さんの手へ。二人の手がつながって、私を渡してくれた。

中国のお母さんは本当に優しい人。私は日本人の子で、あの戦争直後の中国人にとっては敵の国の子ども。その敵の国の子どもをどんな辛いときも悲しいときも手を離さず、大事に大事に育ててくれた。もし反対だったら、どうかと、この問題も繰り返し考えている。日本人の場合は敵の国の子ども育ててやることができるかなぁ?

一方で、日本のお母さん・・。自分の命の火すら消えそうになって、知らない中国人に我が子を手渡すしかなかったお母さん。どんな気持ちだったの?辛かったよね、悲しかったよね。

     中野6−1.jpg 母、中野乙女(19歳の頃)  

中国撫順市は、私が二人のお母さんといた特別な場所。そこでの暮らしは、二人のお母さんに始まり、支えられ、終わりました。でも、その終わりは、今の日本での生活の始まり。そう、ここで、私の中国での暮らしは終わり、そして、日本での暮らしが始まったんです。

今、私は高知市で家族に恵まれ、元気に暮らしています。

二人のお母さん、本当にありがとうございました。

   中野さん1.jpg 中野ミツヨさん(令和3年6月12日撮影)    


あ と が き

中野ミツヨさんは、リズムのある明るい話しぶりの方です。お話の内容もしっかり構成されたわかりやすいもので、これまでも小学校などで講演されていらっしゃるとのことでした。また、ミツヨさんの帰国までの足跡は、津沼書院発行の『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)』にも詳細に記されています。ですので、この冊子はミツヨさんご本人のためにという思いで、語りの中の心の声を拾うことに努め、思い出の中の一つひとつのエピソードを大切に書き留めるようにしました。

ミツヨさんには二つの誕生日があります。中国で暮らしていた時は、養父母の実子が生まれた9月6日が彼女の誕生日とされてきましたが、実父の書き物には9月4日誕生と記されているそうです。戦争の影の残る時代に多くの苦難を乗り越えられたお話を伺いながら、人はどうしてこれほどの困難を乗り切れるのか、頑張れるのかと考えました。そして、日本のお母さんから生き抜くための賢さや粘り強さを、中国のお母さんから、どんな時も「この人のために頑張ろう」と思える絆をしっかり授かったミツヨさんのしなやかな強さに思い至りました。どんな困難も自分の力に換えて生きていく道もあるのだと、この冊子を読まれた方にお伝えできれば幸いです。

オーテピア高知図書館の八田裕子さん、高知県中国帰国者就労生活相談室の森洋子さんを通してミツヨさんと知り合うことができました。お二人に心よりお礼申し上げます。特に、森さんには戦中戦後の中国に関して教えていただくなど様々にお世話になりました。ありがとうございました。

さらに、この物語の最初の読者となり、6枚の挿絵を描いてくださった岡内富夫さん、お陰様で、中国での日々が鮮やかに蘇りました。また、私の孫の曼荼羅の塗り絵も利用して、陰影のある表紙にすることができました。衷心より敬意と感謝を表します。

                                     ききがきすと  鶴岡 香代

    母子.jpg                


  

        

     


                                                                                              





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2023年11月29日

二人の母への鎮魂歌 上

かたりびと:中野ミツヨさん
ききがきすと:鶴岡香代
編集担当:清水正子

終戦の年に生まれて

私の両親は、1943年5月、高知県幡多郡の江川崎村から開拓民として中国吉林省の大清溝(だいせいこう)に入植しました。2年後、8月15日
の終戦は、開拓団にすぐには知らされず、大きな不安と混乱の中で逃避行が始まりました。妊娠後期に入っていた母も、開拓団のみなと一緒に不眠不休で歩き走り、大清溝から90キロ離れた廟嶺(みょうれい)で私を産んだのです。

廟嶺から吉林市駅を目指して、さらに200キロ。みな、ずっと歩いたそうです。出産直後の身でも、ただただ歩くしかありませんでした。辿り着いた吉林市からは貨物列車に乗り、撫順市へ。大清溝を出て一ヶ月が経っていました。

撫順では発電所の宿舎が日本人の収容所でした。三階建ての建物の二階。コンクリート床に一人の赤ん坊。泣く声すごく弱くて、もう死にそうな感じあって・・それが私でした。

その収容所から程近いところに中国人の夫婦が住んでいました。9月に生まれた子どもが半月ほどで亡くなって、そのお母さんは母乳がいっぱい。前にも流産して、もう子どもができないと諦めかけていた時、隣の人から「今、北からの日本人いっぱい。子どもいらない人きっといるから、もらいに行ったらいいじゃない」と言われました。

産後で具合の悪いお母さんを家に置いて、お父さんはおばあさん(お父さんの継母)とその収容所に行きました。そして、すぐに一人の赤ん坊見つけました。もらっても生きることはできないと思うほど弱々しい泣き声。迷う気持ちあったけど、おばあさんが言いました。「可哀そうに。うちの嫁まだ母乳があるから命助けるかもしれません。もらって帰ろうや」と。

お父さんは、本当は男の子が欲しかったけど、この子が男の子か女の子か全然わからない。言葉通じないから。だけど、この母親を見たら、『この子をどうか助けて、助けて・・』と言っているよう。お父さんは女の人から手渡された赤ん坊を家に連れて帰りました。私の撫順での暮らしがここから始まりました。

終戦直後の中国で日本人の両親から生まれ、食べる物も着る物もなく、乳も出ない母親の手から、中国人の家族に渡された。そのことを私は何にも知らない。覚えてない。私が、日本の家族のこと、故郷のこと知るのは、40年後の1985年のことです。

親子.jpg

中国のお父さんとお母さん

お父さんが連れて帰った赤ん坊は、赤い着物を一枚着てるだけ。その子を家のみなで見たら、着物の下はなんにもない。裸。裸で、もう肋骨がはっきり見える。お母さんからお乳を飲むと、腸ぐるぐる見えるよう。誰もが本当にこの子は生きられるかなと、心配で可哀そうに思ったって。

でも、お母さんは赤ん坊を見て、本当にもらったのだから大事に大事にせないかんと思って、毎日しっかりお乳飲ませました。3ヶ月経って、みんな本当にびっくりした。すっごく太って、前の様子は全然見えなくなった。とってもかわいい赤ちゃんになったって。その時、お父さんとお母さんは何よりも嬉しかった。

この頃のこと、もちろん私はなんにも覚えてないです。もらわれた時のこと、お父さんからずっと後になって聴くまで、なんにも知らない。お父さん、私に『淑媛(シューユァン)』と名前付けて、二人は私を自分らの子どもとして育てました。

でも、近所のみなさん、このことよく知っています。私はよく「この子は日本人の子」と言われた。小学校では友達から『チビの日本人』とか『小日本の鬼』とか呼ばれた。そう言われても私は全然信じない。私は、お父さんとお母さんの子ども。そのことは間違いない。だって、私はお母さんのお乳を4歳まで飲んでいたじゃない。私は養父母を「お父さん」「お母さん」とずっと呼んで、なんの疑いも抱かず二人の元で育ったの。

養父母は、共に山東省の出身です。親同士が知り合いで、二人がまだ小さいときに将来結婚させることを約束しました。昔は、自由恋愛じゃなくて、そういう婚姻いっぱいありました。

お父さんは、子どもの時山東省から撫順市に出て、学校に行き仕事を始め、家族みんなのために家も建てました。一方、お母さんは、ずっと山東省で育って、17歳のとき、山東省から撫順市のお父さんのところへ嫁に来ました。

婚礼前、二人は一度も会うことがない。顔をちらりと見ることもない。家に来たお母さんのこと、お父さんは全然気に入らんかったって。年は、お母さんが一つ上。お父さんはお母さんのこと気に入らん。嫌でたまらん。けど、親が決めたことは変えることができない。お父さん、どうしようもなかった。

お母さんは、結婚してから、毎日することが本当にたくさんありました。まず、家族の世話です。結婚したとき、お父さんの父と義母、祖母がいました。義母は、とても若くてお父さんより4歳だけ上。だから、結婚したとき、お父さんは16歳、お母さんは17歳で、おばあさんは20歳だったそうです。

おばあさんに男の子ができて、私の叔父さんね、その子が1歳のとき、おじいさん亡くなったって。おじいさん亡くなって何年か後、おばあさんは男の子をうちに置いたままで他の人と再婚しました。それで、うちのお母さん、ひばあちゃん(土佐弁で曾祖母のこと、ひいばあちゃん)の面倒をみながら、その子のことも全部育てました。お父さんの弟だけど、自分の本当の子みたいに。私をもらったとき、この子は9歳になっていました。

お父さんの仕事、お母さんの仕事

お父さんは運送の仕事。昔だから、車じゃなくて、馬車で運びます。馬車何台あったか、私はちゃんと覚えてないです、小さかったから。でも、馬も何頭か、雇っていた人も何人かいます。お父さんと一緒に仕事をする人が全部うちに一緒に暮らしていました。そして、その人たちの食事、洗濯などの家事は全部お母さんの仕事。

お母さん来る前は、その仕事する人がいたそうです。でも、お母さん来てからは、その人が辞めて、全部お母さんの仕事になったから、お母さん本当にたいへん苦労しました。

昔の女の人、纏足(てんそく)で足小さくて、歩けるけど長くは無理。それでも、家の仕事全部お母さん。朝3時か、4時頃には起きて、みんなのご飯をつくる。馬には餌をやって、面倒もみないかん。

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私よく覚えていますよ。朝起きると、いつも、お母さんはもう私の隣には居ない。ずっとそのまま仕事です。毎日毎日、朝、お父さんと雇っていた人みんなに朝ご飯。みんなが仕事に行ったら、それから、ひばあちゃんの面倒、おじさんの面倒、私の面倒。朝ご飯食べさせて、それから、また、昼ご飯をやって。

家の掃除、片付け、洗濯、全部お母さん。夜は夜で、みんなが帰ってくる前に夕飯の準備です。ご飯食べたら、みんな寝ます。でも、お母さん、まだ馬の餌つくる。馬草の束を鋤刀で押し切る。固い大豆の枯れ枝を足に挟んで両手で切る。それに水を混ぜて、馬に食べさせる。このたいへんな仕事を毎日、朝と夜、夜中と3度もしなくちゃいけない。だから、また、朝早く起きる。

お父さんの仕事もたいへんだったと思います。撫順は北の寒いところです。高知とは全然違う。特に冬、馬車に乗ると冷える。指が凍傷になるくらい。たいへんだと思いますけど、でも、お母さんの家の仕事も本当にたいへん。私は隣でよく見てわかっています。

幼い日々のお父さんの思い出

お父さんは、清潔なこと大事にする人。とてもきれい好きで、帰ったら必ず、私の手を見て、顔を見て、服を見ました。もし汚れていたらお母さんのせい。怒って暴力をふるう。だから、お母さんは、どんなに忙しくてもお父さん帰る前に私をきれいにして、顔も、手も、爪まで洗います。爪が長いのもダメでした。そういうことも毎日、お母さんの仕事の一つ。

会った最初の時から、お父さんはお母さんのこと、全然気に入ってなかった。お母さんになんの原因なくても、お父さんは、自分の気持ちが悪くなったら、お母さんに当たった。私、それを見たら、本当に怖かった。暴力はいつもじゃない。時々。だけど、私、いつもお父さんが帰ってくるの心配でした。小さくても、今日はお母さんどうなるかって。お父さんの暴力がなかったら、安心しました。

そんなことがあっても、お母さんはなんにも言わん。お母さんは無口な人。なにがあっても、外で誰に会っても、なにも言わない。愚痴を言う人じゃなかった。隣の人にも誰にでも、すごく優しい。うちのひばあちゃんもお母さんのことを大好き。全部お母さんが面倒みるから。

私はお父さんとお母さんが自分の親だと思っていた。なんの疑いもない。お母さんがどんなに私の面倒みても、当たり前のことだと思っていた。お父さんはお母さんには厳しくするけど、私のことは本当に好き。例えば、家に帰って食事してから馬の散歩。お父さんは毎日、馬を連れて散歩する。そのとき私が馬の背中に乗って、お父さんが馬を引っ張って、ゆっくりゆっくり散歩する。そんなことちゃんと覚えている。

小学校2年生(8歳)の頃

上3.jpg

あれは、私が4歳くらい。このときのこともよく覚えている。家の馬とか馬車とか全部国の会社に渡した。自分のものじゃなくなった。渡してから、お父さんは、その会社の職員になった。それからお父さんは自転車で通勤。だから、お母さんの家での仕事はずっと楽になった。雇ってる人いなくなって、馬の世話もなくなった。

お父さんは馬がいなくなったら、今度は自転車の後ろの荷台に私を乗せて、休みに時々遊びに行く。ある日、私を後ろに乗せているとき、お父さんはどうして自転車がこんなに重たくなったかと思った。止まって見ると、私の足が自転車の後ろの輪に巻き込まれて、足は血だらけ、骨が見えていた。

今でも、この右足にはっきり傷跡が残っています。そのとき、お父さんはびっくりしました。私は痛くて全身が震えている。そうなっても、私は全然泣かない。どうして泣かない? お父さんが怒ったら怖い。私のこと好きで大事にする。だけど、お母さんにすることを見ているから怖い。怖いから、全然泣かない。痛くても泣かない。その後のことがどうなったか、覚えてない。

私には小さいとき、友達が全然できない。誰の家にも遊びに行くことがない。「行ったらいかん」。お父さんが厳しく言ったから。やはり自分が日本人の子ということが、あったのかもしれません。うん。誰の家にも行くことなかった。

1952年の9月、私は小学一年生になりました。中国の学校は秋に始まるんです。入学前に、お父さんは馬蹄形の小さい時計を買って、毎日、私に時刻を教えました。私はすぐわかって早く覚えたから、お父さんすごく嬉しかったみたい。お父さんから時計の読み方習ったことは私の大事な思い出です。

小学校に入ると、お父さんが新しい本とかノートを買ってくれて、表に私の名前『宋 淑媛』と書いてくれました。そして、「よく勉強してね。知識あれば将来、良い仕事ができる。いい人と付き合って、幸せになれるようにね」と言いました。小さくてその意味はよく分からなかったけれど、とても幸せな気持ちを覚えています。幼い日の父の愛、母の愛・・心の中に刻まれています。

憲法が変わって、両親は離婚

1953年の春、中国は新しい憲法になって、婚姻がうまく行かなくなったら、離婚できる、そういうように変わりました。その頃、もう会社の課長になっていたお父さんは裁判所に行って、「どうしても離婚したい」と言いました。お母さんのこと、もうどんなにいい人でも、一緒に暮らすことできないと。

私が小学校入ってまだ半年くらいのときよ。お母さんは纏足で、どんな仕事もできない。離婚したら、これからの生活はどうすればいいの。お母さんは本当に困る。でも、お父さんは、初めからお母さんのことが気に入らんから、どうしても離婚したい。

この家に入ってから、お母さんがどんなに努力して頑張って仕事しても、お父さんは気に入らん。そのことで、お母さんとっても悔しかった。辛かった。もう、毎日、泣いて泣いて。でも、お父さんは裁判所に行って、諦めない。最後に、離婚の判決が出て、離婚することになった。

お父さんは離婚して、すぐ再婚した。奥さんは、昔の資産家の二番目の奥さん。新しい国ができる前は、二番目、三番目の奥さんがいた。中国に新しい国ができて一夫一婦制になったから、一番目の奥さんだけ残って、その人は元の主人とは離婚した。そういう人が、私と同じ年の娘連れて、お父さんと再婚した。

それで、お母さんは本当に悔しかった。昔の女の人には離婚ということ、すごく恥ずかしい。お母さんは、自分が何を悪いことしたか、いろんなことを考えて辛かった。

でも、周りの人は、お母さんがどういう人かよくわかっている。小さい私でも良くわかった。お母さんがどんなにこの家を大事にしてきたか。お母さんを見たら、本当にお母さんのことかわいそうと思う。それなのに、お父さんどうして、お母さんみたいないい人、気に入らん?もう私とお母さん、いらないの?

離婚したとき、裁判所から家の財産について通知来ました。東側の二つの部屋をひばあちゃんと叔父さんに、南向きの3つの部屋がある家全部を私とお母さんに。お父さんには、なんにもあげない。そのまま出て行け、って言うことでした。

でも、お父さん出て行ったら住むところがない。また、自分が建てた家だから、どうしても離れたくない。お母さんにお金出して、半分、お母さんから買いました。だから、その家の半分と物全部が私とお母さんの財産。そして、隣にお父さんの新しい家族が入りました。

私は日本人?日本はどこにある?

小学校1年生のとき、私には本当にたくさんのことがありました。夏には、公安局がうちのお母さんを呼び出しました。お母さんが私を連れて公安局に行くとき、私より5歳くらい上の女の子も一緒でした。その子も残留孤児だったことを、その時の私は全然知りませんでした。

途中でその子は私に「誰が何と言うても、行かないよね」って、言いました。私、なんのことか、わからない。「おかしいじゃない、お母さん。どこへ行くの、私?」お母さんに訊きました。お母さんはその子に「この子は小さいからなにも知らない。言わないで。言わないでおいて」って。その子はもう言わなくなったけど、私もう一回、「お母さん、私、どこへ行くの?」って訊いた。お母さんは、「どこへも行かない。あんたは、ずっとお母さんのそばにいるから」って答えた。

公安局に着くと、お母さんは大きな部屋のドアの前で私に「ここで待っててね。どこにも行かず、ここに居てね」と言って、中に一人で入った。私はドアの外にいる。ドアの隙間がちょっとだけ開いてる。覗くと、中は人がいっぱい。わわわわ、わわわわ。なにを話しているのか、全然わからない。

でも、なぜか確かに聞こえてきた、お母さんと警察官の話す声。お母さんが「この子を生まれたばかりでもらったの。今も8歳にもなってない。この子が日本帰っても、お父さん、お母さんが誰か知らない。家はどこかも知らない。どうする?私は今この子と二人で暮らしている。もしこの子が日本へ行ったら、私は死ぬ。絶対、行かしたくない」って、泣いたり、話したり。その警察官は最後にお母さんに「もういいから帰りなさい。この子のこと、もう何にも言わない。このまま帰って」と。それで、お母さん、すぐに出てきた。

そのこと聞いて、私はやっとわかった。近所の人や小学校でみんなが言ったこと、「日本人の子」とか、本当のことだった。お母さんは私の本当のお母さんじゃない。この国も自分の国じゃない。日本の国は、どこよ? そのとき、小さくても、いろいろ考えました。でも、心の中は、ただただ『お母さんと一緒に暮らしたい』でいっぱい。お母さんが自分の一番大事な人、そう思いました。

でも、頭の中こういうこともいっぱい。『どうして?みんな中国人、なぜ私だけ日本人なの?日本の国は、どこにあるの?私の本当の親、父と母はどういう人?どこにいる?』何もわからない。ただ、帰ったら、お母さんに訊いてみようと考えました。

でも、お母さんは家に帰っても、何にも言わない。私が知ってしまったことはお母さんもわかったはず。だけど、お母さん何にも言わない。私には訊いてみたいという気持ちがあったけど、やはり言えなかった。もう、よくわかったので。お母さんは実のお母さんじゃない。でも、一生懸命に私を育ててくれている。お母さんには私だけ。私にはお母さんだけ。

お母さんと二人ぼっち

お母さんは町内会のことで、夜に時々出かけることがありました。私は家に一人で怖かった。お父さんの方は、新しい奥さんと子どもがいる。向こうは、すごく幸せ。私一人で怖くて、お母さんを探しに外へ行きたい。「お母さん、どこ?お母さん、いない」。外でずっと泣いていた。

お母さんは帰って、すごく怒った。この子がこんなに泣いているのに、お父さんは出てこない。ずっと知らん顔した、と。多分、向こうはドア閉めていたから、気づかなかった。でも、お母さんはもうここには住みたくないと。お父さんのすぐ隣に住むことが嫌になって、残った半分の家も他の人に売って家から出ようと考え始めた。

11月になると、撫順はものすごく寒い。この頃はまだ朝鮮戦争のとき。飛行機が飛んできて危ないから、子どもたちは毎日、白いタオルを首に巻いて登校していた。家に帰ったら、そのタオルをお母さんは毎日洗って干す。冬は、炉子(ルーズ:竈ストーブ)で部屋を暖かくして上に干す。お母さんが朝の忙しいとき、私一人で干してあるタオル取ろうとした。私はとても背低くて、届かない。椅子にのって背伸びしたら、どーんと転んだよ。転んで、炉子に頭をひどく打ちつけて、血が出てきた。炉子は鉄でできている。血がたくさん流れて、どうしても止まらん。お母さん飛んで来たけど、どうしたらいいかわからない。とにかく血を止めないかん。手のひらに小麦粉を取って、それで頭の傷を押さえた。じっと押さえて、本当に血を止めた。今も頭のここに傷がある。今考えたら笑い話みたいだけど、お母さんは必死だった。病院には全然行かなかった。

昔はものがすごく安くて、家を売ったお金でなんとか生活できた。でも、どこまでやっていけるか、お母さん、毎日毎日そのことが不安。お金のこと、お母さんはずっと悩んでいた。近所の李さん、とても優しい人で、お母さんのことすごく可哀そうと思ってました。お母さんに「うちに空いてるとこあるから、どうぞ来て、住んでください。お金いらないから」と言いました。

結局、離婚から半年余りで、私とお母さんは、李さんのところに移りました。そこは、元の家にも近い。私たち引っ越したら、17歳になっていた叔父さんも職場の宿舎に移って、ひばあちゃんは前の家の東の部屋に一人になった。お父さんとは別れても、お母さんは、ひばあちゃんのこといつも気にしてる。お母さんは、そんな人よ。

李さんは、私たちを親戚の人みたいに扱ってくれて、「家賃とかいらない。1元ももらわない。家にあるものは何でも使ってください」と言ってくれました。昔は売店だったのを倉庫として使っていて、部屋は本当に広い。前は全部ドアみたいになっていて、後ろにもドアがひとつある。だけど、窓はない。夜は、ドア全部閉めて、お母さんと一つのオンドル(竈の熱を利用した床下暖房)のベッドで寝る。二人ぼっちのそんな暮らしが始まりました。

ジェンビンづくり

その広い部屋に一つ大きな石臼がありました。昔の中国では、食べ物は全部自分で作ります。その臼で、よくジェンビンを作りました。ジェンビンは、漢字で『煎餅』と書く、薄いクレープみたいなもの。まず、高粱米と大豆をたっぷりの水に一晩浸しておきます。翌朝、それを水と一緒に少しずつその大きな石臼の穴に入れて挽き、糊状のジェンビンの素を作ります。小さい石臼なら手で回すけど、それはとても大きくて、人が臼の手の部分を持ってグルグル周りを回って挽きます。田舎ならロバがこの仕事する。町にはロバがいないから人がしなくちゃいけない。この仕事を小さくても私はよくやりました。

そこは、元々こういう仕事もする場所だったから、近所の人がジェンビンを作るとき、必ず、うちに来ました。お母さんは誰がやっても手伝った。纏足もあって、外での仕事できなかったから、家での仕事をちゃんとやる人だった。

ジェンビン作れば、一日かかる。できた糊状のものを大きな鉄板で一枚一枚薄く焼いて、半径20センチくらいのクレープみたいな、春巻きの皮みたいなものを作ります。一枚一枚焼いて重ねて、20センチ以上になるくらい作るから、一日かかる。これを一人でずっとやると疲れるし、暑い。だから、みんな交代でやる。私、いつもお母さんと一緒に手伝いましたよ。

上4.jpg

ジェンビンは、ご飯の代わりに食べる。作り方も食べ方もクレープみたい。大きい鉄板で焼いて、専用の棒でくるっと拡げて、野菜や卵を挟んで四つ折りで食べた。好みで辛い物やいろいろ入れる。これは、本当に美味しい。置いておくと固くなるから、また水を足して柔らかくして食べる。懐かしい味だけれ ど、今はもう私には作れません。

ある日、ジェンビンを作って、お母さんが私に柔らかいのを一枚持たせ、「ひばあちゃんに届けてね」って。お母さんは引っ越してからも、ご飯食べるときは、向こうのひばあちゃんの面倒をみていました。
そのジェンビンを持って行って、呼んでも呼んでも返事がない。『どうしたの?私が行ったら、いつもはひばあちゃん、ものすごく喜んでくれるのに』

私は走って、お母さんのところに帰った。「ひばあちゃん、呼んでも返事がない。どうしたのかな」って。お母さんと近所の人みんなでひばあちゃんのところへ行くと、亡くなっていた。お父さんの新しい奥さんはひばあちゃんの面倒をあまりみない。ひばあちゃん亡くなるまで何も気づいてなかった。

ひばあちゃんがいなくなって、本当に淋しくなった。また、撫順の冬は寒さが厳しい。部屋は広くて、すごく寒くなる。竈で火を使えば、オンドルで暖かくなる。李さんは石炭自由に使ってと言ってくれるけど、お母さんは気を遣う。夕飯の支度に少し使うだけ。オンドルの上に寝る時、ほんのちょっとしか暖かくない。

夜になると壁は全部真っ白になる。寒くて、家の中が霜で白くなる。小さい私が落ちないよう私を壁側に寝かせる。お母さんの隣で寝てても、夜が更けると、私の足がだんだん痛くなる。寒くて、痛くなる。多分、壁が冷た過ぎるから。床に足をつくと、もう痛くて歩くことができない。痛くても病院には行けない。どうしようもない。中国のお酒60度。お母さんはそれに火を点けて、毎日毎日マッサージしてくれて良くなった。

お母さん、死んだらいやや

こんなにつましく生活しても、段々お金は少なくなる。お母さんは離婚するとき裁判所から毎月私の扶養費をお父さんから12元もらうことになっていた。課長になっていたお父さんの給料は70元くらい。その中から12元。でも、そのお金を払ってもらえないことが多くて、いつも裁判所から催促してもらっていた。生活するのはなかなか難しい。

お母さんは不安がいっぱいでも、なにも言わない。小学校2年生の私は、まだまだ幼い。前と同じように毎日学校へ行って、帰ったらお母さんと一緒にご飯食べて、なにも知らない。いつもお母さんは家で私を待っていた。

いろいろ考えても、もうお母さんには前に進む道がなくなった。あの日、学校から帰ると、お母さんがいない。隣に訊くと、「お母さん、出かけて行ったよ」と言われて、私はお母さんをあちこち探しに行った。近所・・いない。もう少し遠くへ・・。

北の方に行くと、そこには、町内の世話役のおばさんの家がある。そのおばさんが私を見つけて、「来て、来て」って。行くと、お母さんがおばさんの家の中にいて、泣いている。私はお母さんの顔を覗いて、「お母さん、どうしたの?」と訊く。お母さん、なんにも言わない。応えない。ずーっと泣いて、泣いて。

おばさんが「今日、お母さん、川に入って自殺しようとしました。私が少し遅ければ、もう死んでいたで」と言う。その家のすぐ傍に大きくて深い川がある。そこで死んだ人もいる。お母さんはそこで自殺しようとした。おばさん「もし私が気付くのが遅ければ、お母さん、死んだで」って、もう一度、私に言って聞かせました。

私は、そのこと聞いて、びっくりしました。小さくても一番心配なのは、お母さんのこと。もし亡くなったら、私、どうする? 小さくても、これからのこと、よくわかるよ。私も泣いた。もう、すごく泣いた。「お父さんが私たちをもういらないと言った。お母さんも私をいらないってことなの?」って訊いて。

お母さんは私を見て、「わかりました。もう死なない。この子を見たら、死ねない」その言葉を聞いても、私はすごく怖かった。お母さんが死んでも、私はお父さんのところへは行きたくない。新しい奥さんが来て、子どもも連れてきて、私、そのことをすごく恨んでた。もうお父さんと一緒に暮らすことは嫌!できない!

そのことをお母さんに言った。お母さんはずーっとずーっと泣いて、これからの生活どうすればいいの、って。最後に、「もう帰ろう。私はもう死なないから、心配しないで」と、私を連れて帰った。帰る前に、おばさんは私の名前呼んで、「お母さんのこと、ちゃんと見てね。こういう気持ちあったら、なかなか止まらんよ」って。私の心配はどんどん膨らんだ。

家に帰っても、ずーっとお母さんのそばにいる。どこにも行かない。小さいから、考えることは、お母さんのことばかり。お母さんのそばにいたら、一番安全だと思う。学校も行かない。絶対、お母さんから離れない。離れたくない。夜になっても、寝てはいかん。寝たくても寝れない。寝たら、また、お母さんどこか行ってしまう。死んだら、どうする? ずーっとお母さんの手をつないで寝る。お母さんのことが心配で心配で、眠いのに、急に目が覚める。『お母さんいる?』『うん、いる、いる』。また、眠る。また、急に覚めて。そうして、朝が来る。

お母さんは私のことを見て、ずっと泣いている。お母さんがどんなに言っても、私は学校行かない。ずっと家にいる。お母さん、私を見て、「安心して。お母さん、絶対死なない。もう大丈夫。あんたのこと考えて、私、死んだらいかん」。そう言っても、私は信じない。でも、近所の人たちは私に「学校、どうぞ行ってちょうだい。昼は私たちみんな、お母さんと一緒にいるから大丈夫」って言って聞かせて、お母さんも「どうか学校行ってちょうだい」と言う。その時から私、学校にまた行くようになりました。

学校行っても、『今日、帰ったら、お母さんいるかな』とずっと考えている。帰ったら、『お母さんいた』。やっと安心する。どのくらい学校へ行かなかったのか、もうわからないけど、どう言われても学校行かなかったことは忘れません。子どもだから、どんなに心配でも、眠いときは寝ます。寝たら、急に目が覚めて、お母さん見たらホッとする。お母さんもそんな私のことを見て、この子は本当に心配で心配でたまらないのだと思う。そして、ずっと泣いていたお母さんのことを覚えてます。

お母さんの再婚

その頃、みんながお母さんに「生活困っているなら、いい人あれば、再婚して」って言いました。でも、お母さんはどうしても再婚したくない。「この子のために再婚したくない。再婚相手がどういう人か分からない。お金は私が節約するから」って言う。

近所の人、なおもお母さんに言います。「離婚しても、再婚しても、恥ずかしいことじゃない。あんたのせいじゃない。仕方ないことよ。だから、生活するため、この子のため、再婚考えたらいい」って。

もう、どうすればいいの。お母さんいっぱい悩んで、私が9歳のとき、再婚しました。2番目の養父は、炭鉱の労働者。結婚しないで、ずっと一人だった人。お母さん、離婚したとき34歳。再婚したときは、36歳。このときは、同じ撫順だけど、ちょっと遠いところへ引っ越しました。

再婚するとき、私は幼くても、すごく複雑だったよ。最初のお父さんのことを憎んでいても、まだ時々は思い出して、心の中では自分のお父さんと思っていた。お父さんのしたことは憎い。でも、お父さんが私をもらって、大事に育ててくれた8年間のこと、ずうっと忘れない。だから、お母さん再婚しても、私はずっと、お父さんが付けてくれた名前と姓のまま、変わらなかった。

引っ越しして、小学校とても遠くなった。お母さんは、近くに小学校があるから、転校したらいい、と言いました。でも、私は転校しない。したくない。どうして、したくない? 自分がよくわかった。自分は日本人の子。そのことをここの学校のみんな知っている。でも、それはもういいの。転校したら、また向こうでも知られる。それはいかん。拡がることはしたくない。それで、転校したくないと。最後にはお母さん「もういいわ。自分が好きにしたらいい」って。

はじめは家から学校への道がわからない。お母さんが私送って行く。片道で一時間半くらいかかる。途中に高い階段がある。お母さんは、その階段の上に座って、私をずっと見ている。私は学校までまっすぐの道を行って、左に曲がる。私が見えなくなると、お母さんは帰る。私は走って走って行く。段々と道がわかってきたら、お母さんは送らなくなった。その小学校には、そうやって4年生の終わりまで1年半くらい通った。        (下巻に続く)
                  ききがきすと  鶴岡 香代



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2023年10月02日

ききがき冊子の展示 in 高知 〜知ってください「ききがき」のこと〜

素敵なキルトを作り続けている友人がいます。
彼女の初めての展示会に相乗りする形で、こちらも初めてのききがき冊子の展示をしました。

今年は私が高知でたった一人の「ききがきすと」として活動を始めて、ちょうど10年の節目。
一年に1〜2冊のペースで作ってきた冊子も、12冊になりました。
首都圏で活動している仲間の冊子や、「ききがきすと」グループによる『あの日を忘れない 東日本大震災を語る』の宮城編、岩手編の2冊とともに、読んでいただけるように小さなテーブルに並べて、『ききがきコーナー』のでき上りです。

  冊子展示3.jpg


9月30日(土)と10月1日(日)の2日だけ、会場は高知市、JR入明駅近くのイベント会場です。
手づくりのチラシと友人知人の口コミだけが頼りというミニミニ展示会で、どれだけの人がいらっしゃってくださるか不安でしたが、当日は暑い中でも人が途切れることなく、楽しい時間を過ごすことができました。

もちろん、華やかなキルトが来場者の関心の的ですが、ききがきにも興味を持ってコーナーに寄ってくださる方には、ききがきの説明等のチラシもお渡しして、私がききがきを始めるきっかけとなった北川村遺族会館のことや高知県市合同図書館『オーテピア』での私の冊子貸出の紹介もさせていただきました。ききがきを知っていれば、亡くなられたお母様の話を聞くことができたかもと話してくださった方もおいでました。

冊子展示1.jpg  冊子展示2.jpg

小さなききがきの活動も継続することで大きな力につながるということ、また、ききがきを知っていただく、冊子を読んでいただくことが、大切な一歩であるということを認識した2日間となりました。展示会に手助けくださった方、ご来場いただいた方、本当にありがとうございました。
                 (ききがきすと🄬 鶴岡香代)

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2023年09月13日

ききがき作品リスト

    2024-7-18

    2023-12-24  

           2023-11-29   

    2023-08-23

     〰娘夫婦と山梨の地で暮らして〰

    2021-06-24

    2018-11-04

    2018-03-08

   19幹太く、空高く〰馬路の村に生きる〰

    2018-02-10

    2017-04-08

    2017-04-08

    2016-05-22

          ―昭和のあの日の我が家のこと

        2016-04-08

    2016-03-17

    2015-04

    2015-04

    2014-09

    〰バングラデシュのストリートチルドレンとともに〰

    2014-05-05

    2013-01-12

             2013-01-07 

      7.  Anne-A story of an independent lady

              2013-1-11  

      2012-04-18

              2012-04-18

        2012-01-09

      3. 市丸姉さんにあこがれて

      2012-01-09

      2011-04-24

    1. 人が集まってくれる暮らしは楽しい

             2011-03


以下の4作品はききがきの原点ともいうべき優れた作品ですが、

惜しむらくはHPの様式を変えたことにより、継続しての掲載が

技術上困難なためタイトル、ききがき担当者名、完成年と月だけを

記載します。


・元助産婦が語る戦中・戦後の青春
  ききが き担当 青木由美子 2009年3月

・八十九年生きて、いまがいちばん幸せ
  ききがき担当 寺坂瑞恵 20093

74歳。音楽大好きおじさんのつぶやき
  担当ききがきすと 中尾堯 20091

・満州で家族を失った女性の問わず語り
  担当ききがきすと ☆松本すみ子 20079

  ☆NPO法人シニアわーくすRyoma21の元理事長である

        故松本すみ子氏が、『ききがきすと』の生みの親です。




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2023年09月07日

ききがき作品についてのご意見・ご感想等

ききがき作品についてのご意見・ご感想等お寄せくださる場合は、次の2点をあらかじめご了承のうえ、「ききがき」担当の鶴岡(e‐mailtsuruoka@ryoma21.jp)までご送信くださいますようお願い申し上げます。


1. ご意見・ご感想等は、HPにてご紹介させていただくことがあります。
2. ご質問や苦情等のすべてへの回答をお約束するものではありません。


posted by ききがきすと at 09:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | ご意見・ご感想コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月02日

戦場に立つ開拓団少女


戦場に立つ開拓団少女


       小原茂(おはらしげ)さん



うちは六人家族


 小原(おはら)茂(しげ)と申します。昭和8年2月15日に、父小原亀(かめ)治(じ)と母春(はる)恵(え)の長女として生まれました。国(くに)助(すけ)と言う6つ上の兄がいましたが、年が離れていたせいか、一緒に遊んだ記憶はあまりないですね。

満州に渡るまで住んでいたのは、高知県東部の町、安芸市の僧津(そうづ)です。母に手を引かれて、再々山へ行ったことを覚えています。手前に大きな池があったような。山で枯れ枝を拾うと、母がそれをこのくらいの小さな束にして私の背に負わせてくれた・・そんなことを覚えています。

2つ下に妹初子(はつこ)、5つ下に弟康夫(やすお)が生まれ、うちは6人家族になりました。父は九州に居る母の親戚のところへ出稼ぎに行っていたようで、あまり家に居なかったですね。母が一人で子ども4人の面倒をみていました。

兄と学校に行くようになると、毎朝母がご飯を炊いて、一人に一椀くれました。でも、おかずがない。ほんの少しおじゃこを買うてあって、それをご飯を炊いた後の火で炒って、それでご飯を食べました。あの頃は、ほら、みんなぁ、似たり寄ったり。貧乏が珍しい時代じゃなかったでしょう。中でも、うちはうんと貧乏やったようにも思うけど。

 

小原茂さん(R4.5.18撮影)

歓呼の声に送られて


その僧津から満州へ家族揃って出立したのは、私が小学2年生になろうという春のことでした。だから、そのときの様子は記憶しています。安芸の駅までは、近所の人やら親戚やら、一人ひとりは覚えてないけれど、たくさんの見送りがありました。それはよーく覚えている。駅のホームでみんな、私たちが汽車に乗るまで送ってくれた。そこに立ったまま、私らが見えなくなるまで、手を振り続けてくれた。私はそれを窓からずっと見ていた。なぜか今でもはっきりと覚えている。兄が14歳、私は8歳、妹は6歳。弟はまだ3歳でした。

九州から朝鮮に渡り、朝鮮でまた汽車に乗りました。私たちの汽車に乗り込んできた朝鮮の人がリンゴを籠いっぱい持っていて、私らみんなに一個ずつくれました。真っ赤なリンゴ。南国生まれの私にはリンゴが珍しくて、とても嬉しかった。あの赤い色。今も忘れられません。


柞木台開拓団協和郷に着いて


目指す北満州の千振の開拓団まで、私たちは毎日毎日汽車に乗って揺られ続けました。そうしてやっとソ連国境にほど近い『北満州三(さん)江(こう)省樺川(かせん)県千振(ちぶり)街柞(さく)木(もく)台(だい)開拓団協和(きょうわ)郷(ごう)』に辿り着いたのでした。冬は零下35度にもなる極寒の地でした。

はじめは二家族が一軒の家に入れられ、たいへんでした。そのうち開拓団の団地が建ち、うちにも大きな家が割り当てられました。団地は3列になっていて、うちは真ん中の列の東から2番目。同級生の横山知子さんの家が前の列の一番東で、すぐ近所でした。後ろの列には家が少なかったように思います。団地には安芸から来た人が集まっていましたね。


遠い千振の学校まで


柞木台協和郷は、千振の汽車の駅からは本当に遠かったですよ。しかも駅まで乗り物はなくて、歩くしかない。初めは近くに学校もなくて、子どもたちは千振の街の学校に入りました。月曜日に学校に行き、土曜日に家に帰る。家から離れて寮で暮らす子どもたちのために、開拓団のお母さんたちが交代で来て、炊事や洗濯をしてくれました。

私、母の記憶はあまりないんです。満州に渡った明くる年に36歳の若さで亡くなりましたから。だけど、母が寮へ来てご飯をつくってくれたことは覚えています。重篤の母を父は遠い佳木斯(じゃむす)の病院まで連れて行きました。でも手当のかいなく亡くなったんです。その後は、横山さんのお母さんが寮へ来てくれたのを覚えています。

兄はすぐ卒業したので、千振の学校には、ほとんど私一人で行かなくてはなりませんでした。一人が淋しくて、私はよう泣きましたよ。行くときはいいんです。起きて、ご飯を食べたら、開拓団の友達みんなと一緒だから。土曜日に学校が終わると、私は遅くまでみなを待つことができず、長い道のりを一人で帰る。段々と日が暮れていく。あの頃は通りに笛を吹きながら行く中国の盲目の人がいて、すれ違うと何か恐ろしく、泣きながら帰ったものです。

千振まで2年くらい通ったかなぁ。その後、近くに満人の家に手を入れた急ごしらえの学校ができて、そこに通っていました。


開拓団に学校ができた


 しばらくすると、うちの開拓団にも、やっと学校ができました。柞木台在満国民小学校。立派なレンガ造りの建物で、入り口に校名を書いた看板が立っている。一つの板には『柞木台』、もう一つの長い板には『在満国民小学校』と書かれていて、子ども心に誇らしく思いました。その看板は今でも目に浮かびます。

その新しい学校に私は妹と一緒に通いました。友達や妹と勉強したり遊んだり。でも、弟は入学したのが、終戦のあの年のことでしたから、勉強はほとんどできなかったと思います。

学校へは何を着て行ったかなぁ。食べるものでは苦労することはなかったけど、着るものは配給のものしかなかった。寒いところなので、冬は綿入れの上着に綿入れのズボン。母がいなかったから、着た切り雀で・・。おかしいけど仕方ない。特に弟はずーっと同じのを着ちょったなぁ。最後に中国の人にもらわれていくときも、擦り切れて薄うなった上着とズボンやった。ほら、配給ものはどれもミシンでざっと縫うたものやきねぇ。         

父と子ども4人の暮らし


 母が亡くなって、子ども4人を連れた父の暮らしは、たいへんだったろうと思います。でも、私は学校から帰ると近所の友達と外でずっと遊んで、家の仕事や炊事を手伝うことはあまりなかったんです。兄は学校を卒業すると、父と百姓しながら、私らの面倒もみてくれました。怒るような人じゃなかったけど、私は遊んでばかりで言うこときかんでしょう。だから、時には叱られることもありました。

3度の食事は父が作ってくれたけど、作れるおかず言うたら煮物だけ。大根や人参やら、うちの畑で穫れる野菜の煮物。開拓団での仕事は、田畑を耕し家畜を飼うことだから、田んぼも畑もあって、秋にはたくさん収穫していました。米はたくさんあったし、野菜も何でも作っていたから、食べるものに困ることはなかったね。

でも、北満州は、とにかく寒い。秋が来たら大根もジャガイモも凍る。凍ってしまう。浅い穴を掘って、まずはそこへ置く。もっと寒い冬になれば、牛小屋へ移す。牛も2頭おったのよ。子牛も何頭か生まれて、豚も何頭もおったねぇ。初めは馬も。家ごとに馬をくれていたけど、後から軍隊にやろうか、取られてしもうて、それで、牛に替えたわね。牛を飼いよったねぇ。

鶏もいっぱいおったよ。鶏小屋は、開拓団が構えてくれた外の便所だったとこ。父は器用やったから、便所を別の場所に作って、使わなくなった外便所を鶏小屋にしていました。

だけど、卵や肉を食べた記憶はないんです。食べたのかなぁ。母が生きていたら、いろんな料理ができたろうけど、父は煮物ばっかり。食べ方を知らなかったのかもしれません。でも、味噌汁はありました。大きな鍋に野菜がいっぱいの味噌汁。

         鉛筆が.jpg 仕事のために苦力(くーりー)言うて、中国人の老人を一人雇っていました。毎朝、自分の家から来て、仕事をする。夕方になったら自分の家に帰り、また、翌朝来る。だから、うちで一緒にご飯を食べるようなことはなかったです。


終戦の年に兄も父も召集されて


 お正月言うても特別なことした思い出はないんです。ただ、餅つきはしました。うちの西隣に曽我さんって言うたか、そこにおばあちゃんがおってね。そのおばあちゃんに父が頼んで、お餅を作ってもろうた。父は搗くことはできても、餅にはようせん。だから、おばあちゃんが来て作ってくれた。父も兄弟も、みんなぁ揃って食べたことでした。

      でも、あの終戦の年には、お正月なんてなかった。餅つきもなく、何にもなかった・・。戦争がひどくなったせいか、普通の日と一緒やったような気がします。

兄国助、牡丹江の軍隊で

年の春先、18歳になった兄に赤紙が来て、すぐ入隊となりました。そして、その数ヶ月後の7月31日に戦病死したと知らせを受け、父が遺骨を引き取りに行きました。日本でするように家にお祀りして、家族だけで祈ったことを覚えています。

それからほんの10日ばかり後、今度は父に赤紙が来たんです。頼りの長男を亡くし、大きな家に母のない3人の子どもだけを残して戦地に向かわねばならなかった父。その胸の内は、どんなだったでしょう。

私たちも父との別れが辛くて、不安で、悲しくて・・ただただ姉弟で抱き合って泣くことしかできません。私が12歳で、妹は10歳、弟はまだ7歳。その3人の泣き声を背中で聞きながら、父は出て行きました。私たちから目を逸らしながら、手を振る父の姿は今も目に焼き付いています。終戦直前の8月10日の昼過ぎのことです。それが父との永遠の別れとなりました。

日本が戦争に負けた!!


子ども3人だけになった、その夜。同級生の横山知子さんが2つ上のお姉さんの操さんと二人でうちへ泊りに来てくれました。私ら姉弟3人は父の居ない心細さをその二人に慰められ、子どもらばかりの一夜がなんとか明けて行きました。

朝早く、誰かがガラス戸を叩いています。「茂ちゃん、茂ちゃん。早う起きなさい」って言う声も聞こえる。驚いて目を覚まして見ると、知子さんとこのおばちゃんです。飛び起きた私におばちゃんは「茂ちゃん、すぐみんなを起こしなさい。起こして、みんなぁでうちへ来るんよ」と言います。さらに、おばちゃんは「日本が戦争に負けたって。だから、みんなぁで日本へ帰るんよ。おばちゃんちへ早う来てね」と言って、帰って行きました。

私は慌ててみんなの名を呼んで起こし、横山さんの家へ急ぎました。前の列の一番東の端の家。すぐの近所です。家に入ると、中では大きな荷物をいっぱい作っています。いつもと違う状況に驚いて、私はどうしていいかわからず、泣き出しました。

すると、おばちゃんは「茂ちゃん、泣かんとってね。おばちゃんがご飯食べたら、あんたくへ行って荷物つくっちゃるきね。早うご飯食べて」と優しく言うてくれました。私は、そこでご飯をもらい、それからおばちゃんと一緒にうちへ帰りました。


リュックサックを縫う


うちへ入ると、おばちゃんは、「お母さんの箪笥を早う見て。何か生地がないかね?あったら出してきて」って。箪笥を開けると、白い生地がたくさんある。「おばちゃん、白いがはいっぱいあるで」と言うと、「白いがはいかん。黒い生地はないかね?見てみいや」とのこと。他の引き出しを探すと、新品の黒い生地が出てきた。ずっと前に開拓団に配給されて、母が箪笥にしまってあったものがそのまま残っていたんです。

その生地でおばちゃんは、縁側に座ったままリュックサックを縫い始めました。私に一つ、妹に一つ。私も学校でほんの少し裁縫は習ったので、ちょっとは縫うことができました。ミシンはない。おばちゃんを手伝って二人でリュックサックを手縫いして、逃避行用のリックを2つ仕上げました。

おばちゃんに言われて、そのリュックに自分らの着替えを入れました。「針と糸も入れちょきなさいよ。もし、どこかで破れたら使うきね、忘れんように」おばちゃんの言うとおり、私は針と糸を入れ、それからチリ紙もいっぱい入れました。日本人はチリ紙をいっぱい使うきね。四角いがをいっぱい入れて、背負ってねぇ。後から、こんなもん入れてって・・、アホなことをしたと思うたことよ。


逃避行始まる


それが父との涙の別れの翌日、8月11日の朝のことです。飼っていた牛や豚や鶏は、全部そこへ置いていくしかない。家にはお米もいっぱいあったし、キビもね、外の大きな木の箱にいっぱい入ってました。全部捨てて行くしかなかった。

今考えると、父は出征する時にきっと誰かにお金を頼んでいただろうけど、子どもだったからか、お金は一銭も持たされていませんでした。でも、その時は、そんなこと思いもしませんでしたね。


荷物は多いし、子どももいる。開拓団の皆が牛を出して、何台もの牛車を仕立てて、出発しました。幼い弟は牛車に座り、私は妹の手をしっかり握って、住み慣れた家に別れを告げ、なにもわからないまま、みんなと一緒に開拓団を後にしたのです。


 開拓団の男の人たちが相談して、まずは依(い)蘭(らん)県(けん)へ逃げようと決めていました。男の人と言っても開拓団に残った男性は、恒石のおんちゃん、田中のおんちゃんに横山のおんちゃんのわずか3人だけ。18歳から45歳までは兵隊に取られて、若い人はいないんです。だから開拓団は、子どもと、おじいちゃんやおばあちゃんといったお年寄りが多くて、お母さんたちが頑張ってました。うちは母も居ないでしょう。本当に心細かったです。

依蘭県を目指し、まずは汽車に乗ろうと千振の駅へ向かっていると、出会った満人らが、口々に「汽車は止まっている」「どこへも行けない」と言います。駅へ行ってもダメだとわかり、取りあえず車を休ませようと寄った近くの満人の部落で、一晩だったか二晩だったか、泊ることになったと記憶しています。

一行の中に、旦那さんが兵隊に行って、男の子ばかり3人連れた妊婦さんがいました。夜になって、なんとお産が始まり、赤ちゃんが生まれましたよ。よく覚えています。


 いったん我が家に帰るも・・


汽車では南下できないと頭を抱え、男の人たちが相談した結果、「このままでは命が危ない。汽車が無理なら、船しかない。松(しょう)花江(かこう)から船に乗って南へ逃げよう。いったん戻って、再出発だ」となり、私たちは元の開拓団まで引き返しました。

家に帰って、驚きました。なんと、雇っていた満人の苦力が家の中に居て、二人の男がそれぞれ、荷造りの最中だったんです。毛布を敷いて、その中へうちの布団や衣類、その他の家財道具、何か知らんけど全部包んで、大きな荷物を作っていました。横山のおばちゃんが作っていたみたいな大きな荷物。

私は恐ろしくて、もう泣きながら前の横山のおばちゃんの家に飛び込んで、涙声でおばちゃんに言いました。「苦力がうちのものを盗りゆう」と。おばちゃんは私を見て、「もうしようがないね。帰らずに、ここに居て」と言ってくれました。それで、もう家には帰らず、おばちゃんちでお世話になりました。その時、うちのものは何もかも、捨てて、盗られて・・全部なくなったと思い知りました。


依蘭県に向け再び発つ


私たちが依蘭県に向け再び出発したのは、一夜明けて14日の午前中でした。徳島、鳴門、愛媛、協和の4つの郷は出発し、土佐、東予の2郷は集団移動を避けて留まるとのことでした。

まず向かった大平鎮までは丘や谷の道ばかりでした。幼い弟は牛車に乗せてもらえたけど、私は妹の手を引いてずっと歩きました。道は険しいし、この時は雨もよく降って、いたるところで川が増水していました。道か川か見分けもつかないようなありさまの中、難儀しながらの前進でした。

鉛筆が2.jpgその日、私は恒石のおばちゃんとその娘さんと一緒の組になって歩いていました。恒石のおんちゃんは、うちの開拓団の責任者だったので、あの夜にお産をしたお母さんと子どもたちを乗せた牛車を守って、一番後ろを来ていたんです。

飲まず食わずで、すっかり疲れた私たちが道端で少し休んでいると、向こうから鎌を持った二人の満人がやってきました。すれ違い際に「後ろにまだ車があるのか」と訊いたので、私たちは何も思わず、「あります」と答えたんです。

恒石のおばちゃんと娘さんは、後からおんちゃんの車がなかなか来ないので心配になり、「私らぁ親子で迎えに行ってみる」と言うて、道を戻って行きました。行ってみると、車の傍にお父さんが倒れていて、顔も体も血だらけ。私らに車のことを尋ねた満人の二人がおんちゃんを殺して、車からお金やなにやかや全部盗ってしもうたってことでした。

車に乗っていたはずのお産した奥さんと子どもたちの姿は、どこにもない。人が殺されゆうところを見て、恐ろしくて逃げたのか、どこかへ連れて行かれたのか・・。自分らの荷物も何一つ持たず、なにもかも捨ててしもうて・・・。 

あの母子のこと、そして、開拓団の責任者として母子を守ろうとして命を取られた恒石のおんちゃんのことも、私はずっと忘れることができません。


両親の写真まで捨てて


匪賊や銃弾に度々脅かされながらも、先に出発した4つの郷はなんとか大平鎮の近くまで来ていました。早朝から銃撃され、連絡に来た満州警察と話し合っていた開拓団の何人かが拘留され、何時間も止められるということがありました。なんとか出発は許されたのですが、状況は、どんどん難しくなっていきました。

また、荷物を捨てるように命令が出ることもありました。これまでも「みんな、要らん物はできるだけ捨てなさい。牛もたいへんだから」と言われ、少しずつ荷を軽くしてきましたが、この時は皆、泣きながらさらに捨てていました。

私も持っているものをすべて捨てなくてはと思い、親の写真まで一枚残らず捨てました。なぜだか『こんなもの持ってきて』と思ってしまったんです。大事な写真をすべて捨ててしまったことを後では随分後悔したことでした。


苦力に車を盗られる


16日の夕方になってやっと依蘭県に入りました。町に入ろうというところで、雇いの中国人苦力が「車が動かんなった。故障した。ここで直すので、皆さん、持てるだけの荷物を持って、先に行って」と言ったんです。

それまでずっと私たちの荷車を守ってくれた苦力です。「仕方ない、大事なものだけ持って先に行こう」となりました。小さい子どもたちを車から降ろすと、皆、持てるものを持って歩き始めました。

でも、その時の私にはなにもない。初めからお金は持ってないし、親の写真ももうない。何が大事かもわからない。仕方なく、私は妹弟の手を引いて付いて歩き始めていました。

ところが、皆が車から少し離れたあたりで、なんと苦力が牛を追いたて、飛ぶようにその車を持って逃げたんです。アッと言う間の出来事でした。大事なものを全部取られて、皆が道淵で泣くことよ。持ち金全部を身に着けている人はいなかったと思います。皆、車の荷物の中に包んで置いていたそうですから。それも盗られて、ひどい目にあったんです。でも、仕様がない。逃げた苦力に、もう追いつくことはできません。泣いて諦めるしかなかったのでした。


依蘭橋の惨事


その日、私たちがやっと入った町は、何千何百人の難民でたいへんな混雑ぶりでした。北からソ連軍が入ってきて、東北の開拓団の人が皆、南へ南へと逃げ、依蘭県のこの町で一緒になっていましたから。本当にすごい人でした。私たちは木がたくさん植えられた、学校のような施設の広い庭に入り、大きな木の下で一晩を過ごしました。   

そして、あくる日、17日の朝、大勢の人がさらに南を目指して松花江を渡ろうと依蘭橋に向かって歩き出していました。松花江は満州では一番大きくて、川幅も広いんです。難民の長い列が、依蘭橋にさしかかった時、突然、ソ連機が飛んできました。居合わせた兵隊らが「これは、いかん。爆弾で橋がやられる。落ちてしまうぞ」と叫び、「後退!元へ戻れ!」と大声で繰り返します。しかし、橋の上はすでにいっぱいの人。それが皆、戻れと言われ、子どもは泣くは、親は叫ぶはのすごい混乱となりました。


私は妹弟と一緒に橋から100mくらい手前に居たと思います。周りは人、人、

人。人ばかりです。皆、今度は川沿いに南へ走る。走って船に乗り込み、川を渡ろうと、必死です。攻撃は飛行機からだけじゃない。水上にはソ連の軍艦もいる。あちらから、こちらから弾が飛んで来る。周りには匪賊もいて、怖い満人に叩かれる。

そんなひどい目に合いながらも、なんとか逃げて、船がそこに見えるところまで来ました。あの船に乗ればなんとかなると、妹弟の手を引いて走っている時のことです。私と並んで、一人の若い女の人が、背中に二人の子ども負うて走っていました。ピューンと弾が私の頭の真上を飛んだ・・次の瞬間、その女の人がバタンと倒れたんです。

流れ弾に当たり、子どもを背負ったまま倒れて血を流している。大量に流れる真っ赤な血。私はもう恐ろしゅうて、二人の子どもを見ることもできない。私だけじゃない。周囲は人がいっぱい。でも、幼い二人に手を差し出す者はない。みんな自分のことだけで精いっぱい。

私は急いで妹と弟の手を取り直し、船に向かい一目散に走りました。その時の私には「弾が当たらんかって、良かった」という思いしかなかったんです。「お母さんが私を助けてくれた」と。ただ恐ろしかった。頭の上を、耳の傍を弾がピュンピュン飛ぶんです。できることなら目を覆いたい。戦場と同じです。怖れ慄きながら、私は妹弟を連れ、その場からただただ逃げたのでした。


山を逃げる


なんとか船に乗り、向う岸へ渡りました。それからが、また、たいへんです。道から外れて、道なき道を行くんです。畑の中をあちこちしながら、山の上の方へ逃げました。留まることはできない。みんな必死です。開拓団にいた大勢の人たちが、皆、南へ南へと逃げる。日本へ帰ろうと。日本に帰りたいと。

山の中を逃げていた、ある朝のこと、道端で休んでいると、突然、弾が飛んできました。川竹さんの次男坊の巧ちゃんが、その弾に当たって、左足の指が二本吹き飛ばされました。功ちゃんは痛くて泣くし、お母さんは驚いて叫び、大騒ぎになりました。消毒も薬もない中で、包帯だけはあったのか、お母さんが何とかそれで手当しました。それからは、お母さんが功ちゃんを背負って逃げていました。

暑い夏のことです。包帯をお母さんが外した時に、傷口に白い虫が湧いているのが見えました。『痛いろう。恐いろう』と気の毒でたまりません。開拓団の逃避行にはお医者さんなんかいません。薬もない。なにもないんです。川竹のおんちゃんは、うちの父と一緒に兵隊に取られたきね。あの子のお母さんが、うんと苦労したわねぇ。


 雨がよく降りました。山道がぬかるみ、歩くのが辛くなる。子どもや年寄りは、足が止まる。でも、皆の列から遅れると、道端にそのまま置いて行かれます。だから、親も子も必死です。叱咤する親の声、子どもの泣き声。私は妹弟を連れて皆に付いて行くのに必死でした。

空腹も辛かったですよ。畑があれば、生のキビや大根、ニンジンなどを盗って食べる。水があれば、汚くても小さな虫がいても目を閉じて飲む。死にたい気持ちになったことも一度や二度ではありませんでした。


山中に日本軍の野営跡がありました。中にはお米や漬物など食べ物がある。でも、弾がピュンピュン飛んで来る。テントの前の道には若い女の人が倒れています。流れ弾に当たって、血だまりの中に仰向けに倒れています。息絶えたように見えました。

傍らに幼い二人の子どもがいて、その女の人の服を引っ張り、乳を引っ張りして、口へ持って行こうとしています。乳を飲みたかったんですよ。小さな子だからね。「母ちゃん、母ちゃん」言うて、泣きもってねぇ。

皆それを見ても、「かわいそう」と言いながら、通り過ぎていくだけ。二人の幼子を助けようとする人は誰もいません。あの二人の泣く声が、乳を求める指や口が、今も頭から離れません。眠れぬ夜には、あの後二人がどうなったのか、優しい中国人に助けられていたらいいなとか、いろいろと思うのです。

テントに入って何か食べたか、って?いやぁ、そんな恐ろしいところに、私らぁ、入ることはできません。もちろん何一つ口にすることはなかったですよ。


命がけの濁流渡り


再び河に出ました。松花江の支川でしたが、大雨の後で流れも速く、向こう岸を遠く感じました。濁った水が渦巻いています。渡るための船もありません。こちら岸の木から向こう岸の木に一本の針金を渡して括り付け、一人ひとり、それを握って渡るのです。

 たった一本の針金を命綱に大勢の人が行列をつくって次々と濁流に入って行きました。中には手が外れて「助けて、助けて」と叫びながら流れに吞まれる人もいます。それを見て、子どもらは恐ろしくて泣き叫んでいます。

 開拓団のお父さんは兵隊に取られ、お母さんが子どもや年寄りを連れているんです。大きな子どものいない家のお母さんは、幼子を抱えて濁流を前に途方にくれ、中には思い余って子どもを水中に投げる者もいました。しゃべれる年齢の子どもは「母ちゃん、捨てんとって、投げんとって」って。でも、お母さんも何人もの子どもを連れては渡れませんから。何十人の人がここで命を落としたでしょう。たまりかねて母親が子どもの後を追って流されるのも見ました。


私もおっかなびっくり渡り始めました。針金を掴み、一歩一歩。なんとか岸に近づいたところで、突然、波がざぶんと来て、手が針金から外れ、一瞬で水中に引き込まれました。先に渡って後の者を岸に引き上げてくれていた田中のおんちゃんが、一度沈んで再浮上してきた私に、大きな声で「茂ちゃん、早う手を上げて!沈んだらいかんよ!」って叫んでくれたんです。そして、水面に上げた私の手を力いっぱい引っ張ってくれました。田中のおんちゃんは、太い人で背も高く、手も長い。どっちの手やったか、上げた私の手を千切れるばぁ引っ張って、岸へ上げてくれました。その時は痛いこともわからない。私が岸に上がると、妹も付いて上がってきて、二人とも命拾いしました。

岸でしばらく弟を待ちました。弟は、木を繋いでつくった小さな筏に乗せてもらって、なんとか渡ることができました。私は田中のおんちゃんに命を救ってもらった。おんちゃんがいなければ、私はあそこで終わっていたと思います。私だけでなく、妹も弟も、開拓団の皆様のお陰で助かったんです。心から感謝しています。


美味しかったご飯


河を渡ると、また集団での逃避行です。ソ連兵も怖い、中国人も怖い。道を外れて歩いていくと、20軒くらいの小さな部落に入りました。家はあるのに、人はほとんど見かけません。特に女や子どもは一人もいない。日本人が大勢で逃げてくるのを恐れて、この部落では男の人をほんの数人だけ守りに残し、皆どこかに隠れたようでした。

私たちは、その部落で一晩泊ることになりました。そこで、お米を炊いて、白いご飯をみんなで食べました。逃避行が始まって以来、初めて食べたご飯の美味しかったこと。夏のことなら野菜は畑にいっぱい。キュウリやナスがいっぱいありました。もちろん他人(ひと)のお米や野菜です。どこでどう手に入れたものか私にはわかりません。でも、そこで家を出てから初めてお腹を満たし、ゆっくり休んだことを覚えています。


翌日、また山に入りましたが、どんなに歩いても道がわからず、同じところをグルグルグルグル回って、夕方また元の部落に帰ってきてしまいました。翌日、満人の道案内を得て、やっと部落のある山から出ることができました。

それからも逃避行はまだまだ続きます。道のない山の中を逃げていると、ソ連の車が来ました。鉄砲持ったソ連の兵隊がたくさん乗っていました。ロシア語で何か言うけれど、私らにはわかりません。私たちはコーリャン畑に隠れましたが、お年寄りの中には「ここで死ぬなら、それも

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いい」って、道淵に立ったままの人もいました。逃げるのもたいへんで嫌になったのでしょう。

そのうち弟は足が痛くて歩けなくなりました。皆に置いて行かれることが怖くて、私は妹だけを連れて歩き出しました。後ろから弟の泣き声が「お姉ちゃん、置いて行かんで。連れて行って」と私を追いかけてきます。それでも歩いていると、亡き母が「茂、お前以外の誰が弟の面倒を見る?妹と弟の二人をしっかり連れていかんで、どうする!」と叱る声が聞こえたような気がしました。結局、妹と泣きながら引き返し、弟の手を取っていました。その後、前を行く皆になんとか追いつくことができました。

方正県で収容所に入る


空腹を抱えての山河越えの後、8月末に、やっと方正県まで辿りつきました。私たち同様に日本に帰ろうとたくさんの人がここに集まっています。しかし、ソ連軍に阻まれ、方正の街には入れません。

街の東の高い丘に日本軍の居住跡があり、そこには毛布や鉄兜、靴下、雨靴、冬の暖かな靴など、様々なものが山積みされていました。日本人の兵隊が来て、「自分で持てるだけ持って行きなさい」とみんなに言いました。誰もができるだけたくさん持って行きました。

でも、私には、どれも重い。幼い弟妹の手を引き、歩いて付いていくだけがようようの私には、何も持てない。誰かに「夜どこで泊まることになるかわからん。これを一枚でも持って行きなさい」と言われて、毛布を一枚だけもらいました。寒い夜に必要かと思ったのです。

結局、私たちは方正の街には入れず、方正県の東の伊漢通(いかんつう)の倉庫のようなとこに落ち着きました。そこは日本人難民の収容所で、中国の人が「ここは沖縄の人たちの開拓団だった」と教えてくれました。いつまでここに居るんだろう。お父さんには会えるんだろうか。いつになれば日本に帰れるんだろう。不安だけがどんどん膨らみました。

私たちの団は東の端にある二つの大きな倉庫に分かれて入ることになりましたが、そこでの苦労も、また、一とおりではありません。倉庫の土の床に敷くものは何もない。あるのは、筵(むしろ)、お米を入れるあの編んだ筵だけです。それを開いて敷布団にしました。

倉庫の中は、外よりいくらかましという程度で、秋になると、夜の寒さが一段と厳しくなりました。とても眠ることはできません。横山のおばさんが「このままでは、寒くて冬越えできんよ。この毛布でズボンを縫いなさい」と言ってくれました。それで、私は持ってきた毛布で三人のズボンを縫いました。妹に一枚、弟に一枚、私に一枚。すると、今度は掛ける布団がありません。仕方なく筵を被って、弟妹と寄り添うように寝たことでした。

衣類も夜具もない。食料もない。そこにはお年寄りがまだたくさんいましたので、10月になると、飢えや栄養失調などで毎日のように人が亡くなりました。11月になり寒さが一段と厳しくなると、凍死する人も出るようになりました。大きな穴を掘って、その中へ亡くなった人を捨てるように埋けているのを見ました。亡くなった人を祀るどころか、並べる場所さえなかったんです。

神様からの贈り物


弟の指に出来物ができて、爪が落ちたことがありました。その頃には、収容所にも簡易の診療所ができて、日本の軍医さんが診てくれました。お金は要らない。只で診てくれたんです。それで私、弟を連れてそこへ行って治療してもらいました。

ある日、治療を終えて診療所から出ると、目の前に財布が一つ落ちてるんです。周りには誰もいません。目の前の財布。これは神様が置いてくれたとしか思えませんでした。拾って開けてみると、十円札が一枚入っています。

私にはお金はありません。一銭も持たされてなかったんです。最初は収容所でもお米の配給が少しありましたが、すぐに皮がまだ残ったコーリャンに替わりました。それを炊いて食べると本当に渋いんです。それでも食べないとひもじい。配給のものはどんなものでも食べました。

そんな時の十円。神様の恵みです。食べ物を買えるところはあったんです。日本の難民がたくさんいるので、中国の人が売りに来るんです。日曜市みたいなところ。遠くから売りに来る人もいましたよ。美味しいものいっぱい持ってね。ふかふかの中華まん、今はスーパーでも売りゆうでしょう?それから、トウモロコシの粉を蒸したファゴウや、白い豆の粉を蒸したチェゴウ。鍋の中で膨らんでフワフワに蒸しあがっているのを切り分けて売ってくれるんです。蒸しパンや餅に似て、本当に美味しかった。お金のある人は、買うて食べているけど、私には買えなかった。でも、あの10円で、私ら3人が何日か食べることができました。

収容所の中には中国人のところへ働きに行く人もいました。若い女の人たちは、働いてお金をもらっていました。子どもや親のためにね。配給だけでは、全然足りないから。働いて、そこで残ったご飯やおかずを貰ってくる人もいました。


ある寒い日の真夜中に


 横山のおばさんは、いつも私ら3人を気遣って、何かと声をかけてくれました。おじさんは45歳を超えていたのか、兵隊には行かず、家族と一緒にいましたよ。でもある寒い夜、たいへんなことが起こりました。突然、中国の国民党の人らが私たちの倉庫に入ってきて、鉄砲で脅しながら横山さんの4番目の娘さん、操ちゃんを無理やり外へ連れ出そうとしたんです。

真夜中のことで、操ちゃんは「行かんきね」と泣き叫び、おじさんは娘を中へ引き戻そうと必死です。操ちゃんが「お父さん、早く殺して!私は行かない。殺して!」と泣いて訴える。お父さんは娘を引っ張る。あちらの兵隊は諦めずに、さらに外へと引っ張る。

みんな目は覚めているのに、操ちゃんやおじさんを助けようとする人はいません。誰も声一つ上げないんです。最後には、兵隊が天井向けて二発拳銃を撃って、出て行きました。それで、操ちゃんは何とか助かりました。操ちゃんが北の入り口から一番外側に、私は、そのすぐ横の列に寝ていましたから、全部目にしたんです。


そんなことがあった後、おじさんは重い病に倒れて、亡くなりました。後を追うように長女の初さん、初さんの子どもさんと、横山家では3人が次々に急逝するという不幸に見舞われました。

春に別れる

家族.jpg

横 山 家 の 皆 さ ん

(おばさんは上の左端、知子さんは下の中央)

収容所に子どもをもらいに来たり、お嫁さんを探しに来る中国人がいました。ろくに食べることもできず、日本へ帰る目途も立たない暮らしの中で、皆と別れて中国人と一緒に出ていく人も多かったんです。

お金のある日本人は、なんとしてでも帰ろうと、ハルピンを目指して収容所を出ていきました。ハルピンまで行けば、なんとかして日本に帰れる。ただ、ハルピンまでは車もなく歩いて行くしかないんです。たいへんな苦労です。でも、横山のおばさんは、娘を収容所に置くのが怖くて、次女と四女の二人を先にハルピンに発たせ、二人の娘と末の息子と四人で残っていました。

4月になり、ようよう方正にも遅い春が来た、ある日のこと。横山のおばさんが「おばちゃん、茂ちゃんに話があるんよ」と、部屋にいた私を炊事場に呼びました。そして、言ったんです。「うちも、お父さんが亡くなったでしょう。生きていれば、私たちが日本へ帰るとき、何としてでも、茂ちゃんたち姉弟3人も連れて帰る。けど、おばちゃん一人では、その力もお金もない」と・・。その先は聞かなくても、おばさんの言いたいことがわかりました。

おばさんは一息ついて続けました。「おばちゃんだけで、うちの3人を連れて帰らないかんのよ。そのお金もない。中国の人が毎日子どもをもらいに来よるの、知ってるよね?あんたらぁも、ここにおっても食べ物がないきね、中国の人に助けてもらいなさい。おばちゃんが日本に帰れてお父さんに会えたら、迎えに来るように必ず話すから。それまで、とにかく頑張って欲しい。生きていて欲しい」

泣き崩れる私をおばさんは胸に抱きしめてくれました。そのおばさんの目にも涙が溢れています。おばさんも辛かったんです。二人で抱き合って、しばらく涙にくれました。その時のおばさんの胸の柔らかな温もりを私は一生忘れることはありません。

昭和21年4月、こうして私たち姉弟3人は中国の人にもらわれて行くことになり、数日後、中国人のおじさんが牛車で迎えに来ました。川竹のおばさんとその息子二人と姪一人の家族4人に、恒石のお姉さんも一緒です。8人が、皆に泣きながら別れを告げました。行先は誰も知りません。悲しみと不安に胸が押しつぶされそうで、誰の目にも涙が溢れていました。


夕方やっと方正県の隣の延寿(えんじゅ)県にある加信(かしん)鎮(ちん)という小さな田舎町に着きました。大勢の人が私たちを待っていて、それぞれの引き取られる家が決まっていきます。なすすべもなく、私は妹弟と泣く泣く別れるしかありませんでした。

私たちを収容所に迎えにきたおじさんは世話役で、私たちは中国人から中国人へと品物のように売買されたのでした。でも、そのことを知ったのは、ずっと後になってからのこと。このときの私は、何もわからず、運命の波にただ飲み込まれるだけでした。


妹弟とも別れて


妹と弟は子どものない夫婦に一緒に引き取られましたが、そこのお父さんは間もなく弟を遠い田舎の方へまた売ってしまいました。だから、妹と弟も、結局は別れ別れになりました。お金で人をやり取りすることが、当時は当たり前のように行われていたんです。

それでも、妹は夫婦に娘として大切にされ、幸せに暮らしたようです。妹の家の近くにいたころは、遊んでいる妹を見かけることもありましたが、中国語のできない私は、周りの目も気になって、声をかけることはできませんでした。

その後、妹は病気になり手を尽くしても治らず、16歳で亡くなりました。後で、お父さんが私を訪ねて来て、妹の死を知らせてくれました。「お金をつかって、できる治療はすべてした。でも、治すことができなくて。残念でならない」って話してくれました。お父さんは妹を本当の娘のように思ってくれていたと思います。

妹にも弟にも、別れてから会いに行くことは一度もできませんでした。それっきり・・。言葉も地理もわからず、人も知らない。たとえ近所でも、出歩くことは難しかったんです。だから、遠いところにやられてからの弟の消息は、まったくわからず、病気で亡くなったことを何年も経ってから聞かされました。まだ27歳の若さでした。


その後、私も転々とし、3度目に売られた家で、結婚することになりました。私は14歳、夫の劉(りゅう)宝庫(ほうこう)は15歳と、若過ぎる夫婦でした。暮らしは貧しく苦労がありましたが、夫との出会いに救われ、2人の息子と3人の娘をもうけました。

帰国の夢叶い、父を想う


二人の娘の病死など辛いこと哀しいこともありましたが、その都度、主人と一緒に乗り越え、いつかは日本に帰りたいとの思いをずっと持ち続けていました。長い年月をじっと待ち続け、友人である川竹さんのお陰で高知の身内のことがわかりました。そして、昭和51年の第2次訪日調査団のお陰で「一時帰国」がやっと許されました。でも、帰ってみると会いたいと夢見ていた父はすでに病死していて、墓前であいさつするしかありませんでした。幼い日を過ごした安芸市で私は親族の皆さまにお世話になって、また中国へ戻りました。

 それから再び長い年月を待って、やっと永住許可を得て、平成5年5月28日に私は次男一家3人とともに帰国しました。ここから、皆さまの暖かいご支援やご協力をいただき、私の高知での生活が始まったのでした。

墓参り.jpg

帰国が叶い父の墓参りに

 私の母方の従兄弟に、安芸の市役所に勤務している和田精郎さんという人がいて、帰国した私の世話をうんとしてくれました。その人が父の牡丹江の軍隊に入ってからのことをよう知っていて、私に話してくれました。

父が牡丹江にやっと着いて、兵舎に入り、軍服に着替えた・・その直後に上官から「戦争は終わった。すぐに帰りなさい」と言われたそうです。その時、父はお金は一銭も持ってなかったと言います。遠い道のりをどうやって帰る?帰るまでにした苦労は一とおりじゃなかったと話したようです。

牡丹江から私たちの柞木台開拓団までは本当に遠いんです。汽車に乗るお金がないから、駅の傍で仕事を探して、お金ができたら行けるところまで汽車に乗る。また降りて、仕事を探し、そこで働いて・・。そんな苦労を重ねながら、私ら子どもに会おうと必死で帰ったそうです。

でも、帰ってみたら、空っぽ。家には誰もいない。荷物も何もない。盗られてしまって、何もなかったって。頑張って頑張ってやっと開拓団まで、家まで帰ったのに、子どもたちは誰一人いない。会えないまま。父は何もかも無くし、仕方なく、また駅へと引き帰したって。


父が日本に帰って来たのは、昭和32年か33年と聞きました。たった一人で帰って来たって。終戦から随分経ってますよね。日本へ帰るお金がなくて、こんなに時間がかかったんでしょうね。仕事して、お金ができたら乗り物乗って、無くなったらまた降りて仕事探して、そうして大連から日本へ帰ってきたんでしょう。

「お父さんもたいへんな苦労をしたんだなぁ」と思いました。私らぁに会いたくて、開拓団まで帰ってきてくれたのにね。どんなに無念な気持ちだったでしょうね。私も父には本当に会いたかった。残念でたまりません。


そして、横山のおばさんのこと


 父と同様に、横山のおばさんのこともずっと気にかかっていました。無事に日本に着いただろうか。いつか会える日が来るだろうか、と。だから、帰国して同級生の横山知子さんや操さん、鶴子さんと会うことができたときは、横山のおばさんのことを尋ねました。

私たちと別れた後、おばさんは、先に発った二人の娘が待つハルピンへ向かったそうです。ハルピンに着いて、おばさんは操さんらと会うことができました。でも、おばさんがもう動けないくらい疲れた様子だったので、娘さんらが気遣って、「お母さん、ちょっと待っていてね。何か食べるものを買ってくるから」と、おばさんをそこに休ませて買いに行った・・・その短い間に、おばさんの息がなくなっていたと聞きました。

「ようやっと会えて、何の話もしないうちにねぇ・・」と娘さんらは辛い悲しい話をしてくれました。ハルピンで娘らにやっと会えたのに、おばさんはそこで亡くなっていたって。おばさんに私はうんとお世話になりました。とてもやさしい人で、辛い苦しい時にいつも助けてもらった。今も夜眠れないとき、あの時々のおばちゃんが目の前に出てくるんです。自分の母親みたいに。忘れることはできません。


家族を想い、家族を祀る


今は、こうして日本に帰り、郷里の高知で暮らしています。言葉の問題もあったし、病気がちで思うように仕事もできず、苦労はずっとありました。でも、給付金の新たな制度ができて、今は生活の不安もなくなりました。本当にありがたいことだと思っています。

満州に渡った時は6人家族だったのに、今こうして生きているのは私だけです。よう生きてきたわねぇと、自分でも思うんです。戦争さえなかったらと考えますよ。戦争になって家族がバラバラになり、した苦労は一とおりのものではなかったですから。

亡き母の写真.jpg

ありし日の母

家族を祀ることが今の私の役割です。高知市に来てから、お世話してくださる方がいて、筆山にお墓を構え、安芸からこっちへ連れてきました。とは言っても、中国で亡くなった母や兄や・・お骨は持って帰ることはできませんから、何もないんですけどね。私が足が不自由で墓参りが難しくなったので、今は代りに息子が行ってくれています。

 家ではこうして父と母の遺影を置き、お祀りしています。この母の写真は、大坪の叔母が持っていたものを借りて、私が新たに作りました。叔母は父の妹で、写真の母はとても若いんです。これを見ると、生きてきた、生きているという気持ちになる。もうここで終わりと思うことがいっぱいありましたよ。60の時も、ここまでと思ったのに、もう90に手が届くところまで生きて来た。ずっと母が、若くて亡くなった母が私のことを守ってくれた・・そう思って感謝しています。


あとがき

私の母と同世代の小原茂さん。満州移民という国策がなければ、日本で終戦を迎え、戦後の国難の時代を、ご家族とともに懸命に生きたことでしょう。でも北満州の開拓団の少女は、戦場同様の山中を、弟妹の手を取って逃げ惑わねばなりませんでした。今も夢にうつつに見る悲惨な体験は、辛く苦しいことばかりでした。時に涙ぐみ、苦笑いしながらも、丁寧にしっかり語り伝えてくださった小原さん。本当に、ありがとうございました。

「ウクライナでの戦争を毎日、テレビで観ています。心配して観ています。早く終わるようにと祈りながら観ています」小原さんが、お会いする度におっしゃっていた言葉です。この祈りが冊子を読んでくださる方々に届き、平和への一歩ともなりますように。

最後に、小原さん紹介の労をとり、貴重なアドバイスの数々をくださった中野ミツヨさんと、素敵な挿絵で彩を添えてくださった岡内富夫さんのお二人に、心から感謝申し上げます。

                     ききがきすと 鶴岡香代





       






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2023年08月28日

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