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はじめに
私(清水正子:ききがきすと)と語り手 アイマコスとの出会いはガーナのケープコーストという街です。
2年ほど前、ガーナに滞在する機会があり、そのとき読んだインターネットの記事に『ガーナで活躍する女性たち』という見出しがあって、アイマコスは米国で手掛けていた仕事をやめてガーナに「帰ってきた」ひととして紹介されていました。
しかもケープコーストという歴史の長い土地でホテルを開いているという説明です。早速観光局に手紙を書いて紹介してくれるよう依頼すると首尾よく連絡がとれて、滞在していた首都アクラから200q離れた土地へと心勇んで出かけたのです。
ギニア湾に面した海岸の街へ着き、まずケープコースト城を訪ねました。ここは、反ヒューマニズムの意味で世界遺産に登録されており、貿易の拠点であり奴隷収容所でもあった場所です。その悲惨な説明を聴きながら城塞の内部を見て回った私は、絶句するばかりでした。
表紙の写真のとおり、城は音たてて荒波が打ち寄せるギニア湾に突き出た場所にあり、黄金や奴隷を積み出すのにこの上なく便利な立地だったのです。15世紀から19世紀前半までヨーロッパ各国はこの城の他にもガーナ海岸に20か所以上の砦を築き、植民地をめぐる覇権争いのため攻防を繰り返しました。
ただし「便利」というのは欧州諸国の軍人、貿易商にとっての意味です。この中に奴隷として閉じ込められた日々を想像すると、それだけで真っ暗な気持になりました。平和な暮らしから突然囚われの身となり、くびきに繋がれて長い間歩かされたあと、窓が高所にひとつしかない穴蔵のような部屋にギュー詰めに押し込められて何か月も過ごす。
そして奴隷運搬船が着くと、船底の棚にしばりつけられて寝たまま苦しい航海をし、その先は奴隷として買われて一生働かされる。そんな自分たちの運命を思い、どんなに絶望的な気持であったか想像にかたくありません。反抗的な囚人を餓死させるための部屋の扉には、ドクロのマークがありました。
打ちのめされた気持ちで見学を終え、再びクルマに乗って10分くらいで、訪問先のホテルに到着。しかし約束してあった アイマコスはおでかけで、ホテルの前庭にすごい波音で打ち寄せるギニア湾の海と、敷地のヤシの木の実をさおで落とす現地の人をぼーっと眺めて待ちました。
やっと帰ってきた彼女に、突然「あそこにミュージアムがあるから見て頂戴」と言われて訪ねたのが、タイトルでもある「記憶の壁博物館」です。これは10年ほど前に アイマコスが今は亡き夫とともに集めた写真を壁いっぱいに展示した自宅の一角を,そのまま資料館としてオープンしたものにすぎません。
さっき見てきた城塞の恐ろしい姿がしっかりと根をおろした私の心に、人間を奴隷という存在におとしめて、その人生をふみにじりながら繁栄した世界の実体がしみいるように理解され、逆にいかに黒人が人類の祖として誇らしい存在であるか、という アイマコスの主張に圧倒されて見学を終えました。
欧州各国がガーナ海岸に点々と築いた数多くの城塞。その中のケープコースト城とエルミナ城を湾の向こうににらみつけて、「二度とそんなことが出来ないよう、見張ってやる!」という心意気、これこそが、彼女がガーナに帰って、この土地を永住の地に選んだ理由なのです。彼女は「アフリカの黒人」とか「米国の黒人」という言い方はしません。「黒人」は人種でも国籍でもなく、ただの肌の色に過ぎない、アフリカにルーツを持つ人間は、世界中どこに住もうが「アフリカ人」だという主張なのです。
アフリカの人々の歴史民俗資料館としては、公の機関がもっと立派な公開の場をつくっているのかもしれません。しかし、 アイマコスという誇り高いアフリカ人が心を込めて公開に供している、この「記憶の壁博物館」を訪れることができた自分は、なんという好運に恵まれたのだろうと思うのです。
彼女の語りをビジュアルに補足する写真や絵をすべてここに掲げることができないのは残念ですが、館内に満ち満ちた「アフリカ人」の情熱を少しでも感じていただけたら、眼の回るような日程でこなしたインタビューの成果として、心から嬉しく思います。
ききがきすと・清水正子
ようこそ「記憶の壁博物館へ」
アフリカの人たちの記録――「奴隷売買の時代から現代まで」
この博物館は、アフリカ人ばかりでなく、世界中の人たちにアフリカの歴史を分かってもらうためにつくりました。ガーナも含めアフリカ諸国では、アメリカで生まれた一般のアフリカ人については知られてなくて、あっても間違った知識ということが多いの。
アメリカ生まれのアフリカ人自身でさえ、この博物館に展示された事実に触れたこともない人が圧倒的ですね。だから、この私設博物館にはできる限りの情報を集めました。規模は小さいけれど、奴隷売買の時代とそれ以降にアフリカ人がこうむった運命を少しでも知らせたい、というのが私の願いです。
家畜なみに扱われたアフリカ人
アフリカ人が北米、中南米に連れ去られたあと、どんな仕打ちを受けたか。この写真はオークション会場。町中に貼られたポスターがこれで、「黒人売ります。コットンと米の耕作用」。アフリカ人はここに連れてこられ、競りにかけられ、高値を付けた人間に買い取られた。
また、クー・クラックス・クラン団の手にかかることも…白いシーツを着た白人が私たちを脅迫し、生きたまま火を点け、殺し、強姦し、あらゆる残虐非道なことをしたのね。この写真は、農場でサトウキビを刈るアフリカ人がキビをかじらないように、顔に鉄格子のお面をかぶせたものよ。
「ニグロ売ります」「ニグロ在庫あり」の張り紙の実物がこれ。これを見た人がやって来てニグロを検分するわけね。例えばこの一枚には「ハムステッド州のスプリングヒルで競売開催、クレジットも可」と書いてあって、即金でなくても12か月の月賦で奴隷を手に入れることができたんだから。この横のポスターは「上物の9人の男と少年、12歳から27歳。洗濯と料理上手な43歳位の女」とうたっているもの。
ここにある写真は虐待されたアフリカ人…。背中に付けられた刻印は入れ墨ではないのよ、ムチで打たれてこうなったの。その傷に塩をすり込んだから傷口は治るどころか反り返って、こんなケロイドとなって残ったわけ。こうした数々の残虐なことが行われたのね。ここにも「黒人競り売り」の看板があります。今まさに売られようとしているアフリカ人の写真を見てくださいな。こんなアフリカ人の歴史を知ることこそ重要で、奴隷問題の真実を世界中の人たちとシェアする必要があると思うの。
私の神殿
このコーナーは先祖を祀るもので、私の「神殿」ね。ここに置いてある石はあの奴隷収容牢獄の壁から削り取られたもので、私は“涙の石”と呼んでいます。現在壁はきれいに削られてセメントと塗料で白く塗られています。あれはただの修復作業。伝えるための保存ではないわね。1993年にエルミナ城とケープコースト城でなされた工事で、遺跡の原型は失われてしまった。私はこれに抗議して「黒人の歴史を白塗りにして消し去るのか?」という論文を発表してやったわ。
アフリカ人先祖への鎮魂
このコーナーは、アメリカで生きて死んだ先祖への鎮魂なの。1995年、ニューヨークのフェデラル・プラザの跡地に高層ビルを建てるため、敷地を掘っていた作業員が一体の遺骨を発見、そこで掘り進んだところ500体を越える遺骨が出てきた。つまりこの地は墓地であったことが分かり、遺体はそのまま埋められたものや、箱や棺桶に入れて埋葬したものもあると判明したのです。
発掘後遺体はワシントンDCのハワード大学病院に運ばれ、検査の結果ほとんどの遺骨が、ガーナ、ナイジェリア、シェラレオネ、リベリア、ガンビア、ベニン、トーゴという7つの西アフリカ諸国のものと判定されました。
遺骨のふるさとが明らかになったところで、改めて埋葬が行われたのだけど、ガーナ出身でこの再埋葬に携わった若者は、棺桶を伝統的な民族の「アディンクラ」模様で飾ってあげたそうです。
*「アディンクラ」とは特別な意味をもつ伝統的な模様のこと(ghanaculturepolitics.com/より)
棺は地下祭室に収められ、この地下祭室が地面の下へ埋められて地上には低い丘が築かれたの。この写真にあるように、今では繁った木々や草花に彩られた丘に、さまざまな地下祭室が祀られているわ。ウォールストリートの高層ビルの下にはまだ20,000人を超えるアフリカ人奴隷が埋められているということだけど、この整備された墓地は本当に美しく、見る価値があると思うわ。ニューヨークを訪れる機会があったら、ぜひ行ってみてくださいな。
アフリカ人の才能――音楽、ダンス、そして文学も
展示はいろんなコーナーに分かれていて、ここにはボブ・マーレー、ビリー・ホリデー、エラ・フィッツジェラルド、ジェームス・ブラウン、といった歌手の写真が並んでいます。このニーナ・サイモンは米国の人種差別政策への抗議の歌を唄い、反対運動をしたため業界から干された人物。そしてマイケル・ジャクソン、ハリー・ベラフォンテは言うまでもないわね。
キャサリン・ダンカン、ジュディス・ジェイマーソンなどの舞踊家の写真もあります。皆米国の人種差別政策に抗議の声をあげたことで「共産主義者」のレッテルを貼られ、とくに大物のロブスンやボールドウィンはアメリカに居られなくなったの。
次のコーナーは、「偉大なアフリカの思想家」と呼ばれる人たち。自分自身奴隷であって、奴隷制度廃止論を唱え、奴隷制度反対運動のリーダーであったフレデリック・ダグラス、アフリカ人で初めて1967年に最高裁の判事となったサーウッド・マーシャル。ジョン・H・クラーク、財務大臣ウィリアムズ、ベン・ヨハナン博士。学者としてはポール・ロブソン、ラングストン・ヒュー、ジェームス・ボールドウィンなどの顔もあるでしょう?
そして私の夫ナナ・オコフと7歳になるひ孫のナナの写真がこれ。夫のナナと私は、1990年に同じアフリカ観をもってガーナに来たわ。私は彼を偉大なアフリカ思想家のひとりと言っています。残念なことに2000年に首都アクラで交通事故のため亡くなったけど、ナナのことは心から誇りに思っています。
注:ナナとは尊称で、当地の人に推されて首長となったためこの名称で呼ばれる。
米国社会で頭角を現した女性たち
初めて国務長官になったC・ライス、初めて国会議員になったB・ジョーダン、学校を創立したM・ベシューン。どの女性も誇らしいけど、ベシューンは白人が捨てたゴミを5ドルで買い取って、それを元手に現在あるベシューン・クックマン大学を創設したひとなの。
ここにあるのは、アフリカ人のパイロットたちの写真よ。「ツキギー・プロジェクト」から生まれた英雄たち。アメリカ合衆国はアフリカ人(黒人とも呼ばれたけど)が飛行機のメ ンテナンスはもちろん、操縦など絶対できないと考えていた。米国人は私たちアフリカ人が、精神的にも肉体的にも飛行機を扱う素養がないと考えていたの。そう、彼らは私たちの能力を否定していた。
ところが1941年に米国議会の正式な要請によって、合衆国戦時局が米国南部アラバマ州のツキギーに、後に伝説となるパイロット養成機関「ツキギー実験機関」を創設して、ここに全員が黒人である「オールブラック部隊」が結成されたわけ。これより前には、軍のパイロットにはただのひとりも黒人はいなかったそう。
1941年から5年間、ツキギーで992人が訓練を受け、そのうちの445人が海外に派遣されて、150人が戦死しました。この人たちはほとんどの白人パイロットよりも腕が立ち、あらゆる点で優れていたそう。
当時アフリカ人に供与された飛行機のコンディションはひどいもので、飛行機がバラバラにならないように噛んだチューインガムで接着していた、と言われたぐらいなの(笑)。こんな状態が長く続いたけど、最後にはちゃんとした飛行機が供与されたそうよ。よかったわ。
けれど、空軍として無敵の活躍をした約300名のメンバーに、合衆国が「議会名誉勲章」を授与して栄誉をたたえたのは、残念ながら、やっと2007年になってからのことでした。もうほとんどの隊員は亡くなっていて。だからこのコーナーは「ツキギーの空の男たち」にささげたものなの。
このように空を飛んでいた頃の写真、そして老後の姿もあわせて展示しています。彼らが実際に操縦していた飛行機の写真も、機体に残した自筆のサインの写真もあるの。そう、わたしは隊員たちをものすごーく誇りに思っているわ。こういう本物の歴史は皆に知ってもらいたいから、これからも写真を手に入れ次第展示に加えていくつもり。
そしてアフリカ大陸にも―――アフリカのリーダーたち
この壁一面はアフリカのリーダーたちの写真です。アフリカの女性で初めて大統領になったリベリアのエレノア・ジョンソン。それから私が会ったジンバブエのムガベ大統領、南アのムベキ大統領、ガーナのローリングス大統領、ジョン・ク フオ大統領にもジョン・ミルズ大統領にも会いました。
米国に居たときは大統領に会うどころか近づくこともできなかったけど、ここアフリカでは大統領と握手し、座っておしゃべりもしたものです。だから私はアフリカが好き…いえアフリカを愛しているということね。
*写真はエレノア・ジョンソン 大統領就任式で
心ふるえる画 「奴隷貿易」
この絵は、14歳の少年の作品で、アフリカ人が村から誘拐され、鎖にしばられ、数珠つなぎにされて何百マイルも歩かされ、地獄のような奴隷船に乗せられてアメリカに連れていかれる場面を描いたもの。もう一枚も彼が「大西洋アラブヨーロッパ奴隷貿易」を描いたもので、この画家の才能を物語っているでしょう?
彼はいま首都アクラでグラフィックアートの世界で身を立てようとしています。この才能を支援したいなぁと思っているところ。もし作品を見る機会があれば、彼がディズニーと同レベルの腕をもっていることが分かると思うわ。いや、もっと上かも。スポンサーか支援者を見つけるのはむずかしいかもしれないけど、彼は一生懸命努力しているところね。
アフリカの子どもたち…その明るい笑顔を伝える
この壁にはアフリカの子どもたちの姿が集めてあるの。アフリカの子どもたちの紹介記事や写真は、たいてい戦争の最中のもので、餓えていたり、物乞いしていたり、口にハエがたかっていたり。そういう場面が多くて、アフリカ文化 に包まれた美しい姿や、幸せな表情を見ることができるものはほとんどないわ。
この有名な、瀕死の幼女とその死を待つハゲタカの写真を撮ったひとはピュリッツァー賞に輝いたけど、撮影の1、2年後に自殺してしまったわね。アフリカに関する報道はかならず悲劇的だったり悲哀に満ちたもので、本当のアフリカの姿をめったに発信してないのが普通だから、私はこの壁を幸せなアフリカの子どもたちに捧げたいの。
アフリカ人による発明の数々
――それを発見し世界に知らしめる
このコレクションはアフリカ人の発明を集めたものです。モップ、ちり取り、電球のフィラメント、ゴルフティー等々、すべて米国居住のアフリカ人が発明したものよ。私は、この写真の若い女性サラ・シャバスと協力し長い年月をかけてアフリカ人の発明品を探し、発掘してきました。サラは移動博物館の学芸員で、カリブ諸国、米国、ヨーロッパ、アフリカを回って、こういう情報を発掘し、発明者が暮らす国の人にも海外にもこの事実を発信してきた女性なの。
そうして集めた資料は500点にものぼり、発明者と発明品の等身大の写真がコレクションに収まりました。何年か前の調査では、ワシントンDCの特許・商標局に登録されたアフリカ人による発明登録は7,000点超だったけど、現在では確実にこれよりずっと多くなっていると思うわ。
アスリートたちの抵抗
このコーナーはアスリートの紹介です。米国メジャーリーグ初のアフリカ人選手ジャッキー・ロビンソン、ご存じのテニスコートの女王ウィリアムズ姉妹など。 そしてモハメド・アリ。元の名をカシアス・クレイと言いますね。
米国が彼を戦場に送ろうとしたとき、アリは「ベトナム人はだれも俺を“黒い奴”と呼んだことがない。もしベトナム人がここにやってきたら、俺は戦うさ。でも俺のほうからあの国に行くことはしない」と答えた。それで米国は彼からチャンピオンベルトを取り上げたわけ。
だけどいくらベルトを取り上げて5年間試合出場禁止にしたところで、彼が私たちのヒーローであることには変わりがないのよ。
メダルを賭した抗議
ここにあるのは1968年のメキシコオリンピックのときの写真です。このふたりはオリンピックの金・銅メダリストで、表彰台にあがったときの姿は、靴を脱ぎ、黒いソックスに黒い手袋をしていて、米国の人種差別政策に抗議する姿勢をアピールしたの。結果はメダル剥奪と国外追放でした。仕事にもつけないよう、本当にひどい扱いをしたのです。
注:世界記録で優勝したトミー・スミスと3位につけたジョン・カーロスが行ったこの「ブラックパワー・サリュート」は、近代オリンピックの歴史において、もっとも有名な政治行為として知られる。(ウィキペディアより)
米国の統合政策(学校への入学を人種の比率で割りあてるなど)は在米黒人に一番悪い結果をもたらしたと、私は思っています。差別は同じように残り、隔離された平等という社会になっただけ。だけど平等といっても白人は何もかも所有し、私たちには何もなし。あったとしてもごく僅かという状態です。
むかし米国中で起こった黒人社会の隆盛は、アフリカ人ないし米国生まれのアフリカ人が集まって自分たちの社会を作った成果で“ブラックウォールストリート”という言葉まで生みましたが、そこに白人がやって来て何もかも破壊したのです。懸命に働いて作り上げた銀行、教会、学校などあらゆるものを羨んで壊し、多くのアフリカ人を殺し、空から爆弾を落とすことまでやったのです。私たちは米国内で爆撃をうけた唯一のコミュニティですね、これが1921年に起こったことです。
注:20世紀初頭、オクラホマ州タルサのグリーンウッドは、当時、最も繁栄した、アフリカ系アメリカ人の裕福な街だった。白人との取引関係が一切ないこの商店街は、1910年の石油による好景気でさらに活発となり、やがて“黒人のウォール街”つまり「ブラック・ウォール・ストリート」と呼ばれるようになった。これを目にする白人系住民の差別感情、嫉妬心は爆発寸前だった。「タルサ暴動」として記録される暴動が発生したのは、1921年の5月31日と言われている。破壊されたのは、21の教会、21のレストラン、2つの映画館、30の食料品店、病院、銀行、郵便局、図書館、学校、法律事務所、バス、民間飛行機も。また黒人所有の飛行機が盗まれ、空から爆発物を投下するのに使われたとも言われている。(ウィキペディアより)
何事も成功に至るには、お金がかかります。他国の人間がやって来て資源をほとんど持ち去り、わずかなものしか残していかなかったとしたら、盗られた国の人間は生き残れると思いますか?それは本当に難しい、そう思うでしょう?
これが私たちの国アフリカに起こったことなんです。だから、いまだに私たちは経済のランクでいうなら最貧状態で、底辺にあえいでいる…これは私たちが知的レベルで劣っているからではない。この写真の少年は、子宮摘出の手術用に縫合器具を発明したのです、わずか14歳で。医者でもなんでもない普通の少年がですよ。資源ばかりでなく、奴隷売買のために人間が連れ去られることがなかったら、アフリカの国々は多くの才能を花咲かせて遥かに繁栄していたことでしょう。
アフリカこそが人類の起源
このコーナーは私の大好きなエジプト…その歴史はヌビア人としてのアフリカ人の歴史でもあり、エジプトではアフリカ人ではなくヌビア人と呼ばれています。墳墓に祀られた人たちは明らかにヨーロッパ人ではなく、多くが私たちアフリカ人の面影を宿していて、この有名なネフェティティ像も、ヨーロッパ人でもアジア人でもなくアフリカ人そのものの顔立ちでしょう?
私は経営しているホテルの各部屋のインテリアとして、アフリカ人歴史家のことばを飾っていますが、そのなかのジョン・H・クラーク博士のことば「わたしはピラミッドより老齢であり、人種そのものより歳を重ねている」は、「わたしは子孫ではなく先祖なのだ」という意味なのね。
人類の一番古い種は、ここアフリカの大地で発見された、つまり私たちアフリカ人はそもそもの初めからここにいた。そうして強大な力を持った王と王妃がいた。それがエジプトの歴史であり、さまざまな王朝が生まれたけれど、すべてアフリカ人が興したもので、これが3~4,000年も前にあったことだったんですから。
キリスト、そしてマリアの本当の姿は黒い肌だった
ここはキリストのコーナ。キリストがアフリカ人だったことの説明です。聖書や古書を読めばジーザスと呼ばれた「人の子」の説明があり、黙示録第一章に彼の髪は子羊の毛のようであり、濃い黄銅色、オーブンで焼かれた真鍮のような色であると表現されています。でも、この説明に沿った絵はまったく描かれることはなく、常に白人のイエスが茶色やブロンドの髪の毛で登場しているのです。
そこで私の夫が自ら、本当のイエスの姿をカレンダーに描いて『イエスは黒い肌のアフリカ人だった』と主張しているのがこの作品です。
ちょっと離れた、この壁にもアフリカ人のマドンナの肖像が掲げてあるでしょう?これが私たちの理解するマリアです。さきほどキリストのことでも説明したように、聖書の描写にきちんと基づいて描かれると、マリアはアフリカ人なのです。
博物館展示を見終わって
“敵はいつも二度殺す。二度目は無言で”
このことばは、ガーナでUNESCOが主催した「奴隷ルート会議」で配布された冊子に書かれていました。ガーナをはじめとするアフリカ諸国で、外国人がわずかな代金と引き換えに鉱物資源や土地を搾取していることの告発です。そう、私たちは一度殺されたうえに二度目(いま)も静かに殺されているようなものなのです。
ルーシーという命名に見られる西洋の傲慢
アフリカのナイル川沿いの谷で女性の遺骨が見つかったとき、発見者はそれをルーシーと名付けたわ。これを見ても西洋の人間がどんなに傲慢か分かるというものです。遺骨は古いアフリカの層でみつかったのよ、だれでもルーシーでなくてアフリカの名前を付けると思わない?ルーシーなんて、その遺骨の女性にはなんの関わりもないもの。
ハリケーンについてもそう。ハリケーンはアフリカの海で生まれて、奴隷船が通ったルートそのままにアメリカに向かう。ぜんぶアフリカ生まれのハリケーンなのに、トムとか、ジョージ、メアリー、シンディなんて名付けられる。そうじゃなくてコフィ、アマ、クヮベナみたいなアフリカの名前にすべきでしょう?なのにそれは絶対に無くて、みんなアングロサクソン系の名前よ。
「黒人」ではない--―大切な存在の私たち「アフリカ人」
白人は、肌の色や服装や宗教が自分たちと違っているというだけで、アフリカ人を劣っていると言うの。米国では「ブラック・アメリカン」と呼称されるけど、ブラックは肌の色に過ぎなくて人種や国籍を意味するものじゃない。どこで生まれようと、どこに住もうと、私たちはアフリカ人ですもの。
こういう西欧人の傲慢さはあらゆる点に見られるわ。そこで私たちは何をすべきか・・・私は世界中に訴えるなんてできないから、自分なりに発言するだけ。おのれを知り、自分の大切さを知ることが重要だと思うの。私たちはこの世界で大切な存在なの。もし自分が取るに足らない存在だと思ったら、他の人を尊敬することもできるはずないでしょう?
なかには「私は取るに足らない人間で、この世のつまらない存在です」なんて言う人がいるけど、私は「自分はアフリカの母、大地の女王よ」と応えるわね。私の名前アイマコス(IMAHKÜS)のIは神とともにある私、Mはマザー、Aはアフリカ。だから私はアフリカの母というわけ。もちろん、そんなこと知らない人のほうが多いかもしれない。でも関係ないわ。
大好きなアフリカに帰って
そもそも夫と私を、ガーナ訪問のグループ旅行に誘ってくれた人はナナ・オサバリンバ5世というこのケープコーストの王様なの。彼は王位を継ぐために米国からガーナに戻った人で「私たちはアフリカの子どもたちであり、アフリカに来るべきなのだ」と言い、その通り私たちはアフリカに来ることになったのね。いわば私たちの父のような存在なので、彼の写真もここに掲げてあるのよ。
まぁそうはいっても、これはガーナに来る動機の一部であって、私は米国が好きじゃなくて、ほんとアフリカが大好き!これまで本を3冊出したけど、一番最初が「故郷に帰るのは生易しくない…でも、こんな幸せなことはない」よ。たしかに生易しくなかったわね。試練につぐ試練だったけど、後悔はしていません。この本の表紙の写真は、ココナツの木の間につるしたハンモックに寝そべって、人生を謳歌している私。そして夫がかたわらにいて…2人とも幸せいっぱいに生活を楽しんでいる光景にしたわ。
とにかくアフリカに住みたい!
1987年にひとりでガーナを訪れ、すっかり魅了された私は、その年の末の夫の誕生日に航空券をプレゼントしてひとりで旅してもらい、1988年、89年と今度はふたりでガーナへ行きました。この三回目の旅の終わりに夫は「みんながボクをチーフ(地域の王様)にしたいそうだ。王様になるってどういうことだと思う?」と私にたずねたのです。エルミナの村に滞在中、住人が抱えた問題の解決に手を貸したりして、皆が彼のチーフ就任を願ったと言うのです。こうして彼はチーフの座につきました。
私たちは当時ニューヨークで旅行代理店とタクシー会社を経営していました。3週間も他人に留守を任せていたので、私は夫のチーフ就任式のときまで居続けることはできず、「あなたがアメリカに戻る前に、どこか住むのに良い土地を見つけておいてちょうだい。海沿いがいいわ。山から海を見下ろすのはイヤだし海岸に暮らすのも好きじゃないな。海から少しあがったところで、毎日海を感じ、海を見、香りをかいで、海岸まで歩けるような場所を」と頼みました。彼は笑いながら「いいとも、海沿いの土地をさがしておくよ」と約束してくれたんです。
チーフになってアメリカに戻ってきたとき「土地が手に入ったよ。チーフになったら、村の人たちがくれたんだ」と言うではありませんか。なんとその土地とは、私が1987年にひとりで訪れたとき、心から住みたいと願って神様や仏様、あらゆるスーパーパワーに頼んで(笑)念じていた場所だったんです!この美しい海のそばの。そして1990年にやっとガーナへの永住が実現しました。私はここにホテルをつくり、毎日しっかり対岸の奴隷城塞をにらみつけ、二度とあのむごい奴隷売買が起こらないよう監視することにしたの。
私はこれまでずっと好きなことをやってきて、ラッキーだったと思うの。ここガーナという小さいけれど「ひとつのアフリカ」という、私にとってのパラダイスに居られて幸せ…先祖からの贈り物よ。
posted by ききがきすと at 17:28
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恋して結婚した両親
私は、高知県の北部中央、山に囲まれた土佐町の相川(あいかわ)、床鍋(とこなべ)というところで生まれました。父は西村兵喜(へいき)、母は森岡ときえといいます。二人は22歳のとき、昔のことではあったけれど、恋愛して結婚したんです。そう聞かされました。
父は、お膳を作っていたの。食事のときの箱膳とか、懐石のときにつかう膳ね。それです。母は紙を漉く仕事を、父の仕事場のちょうど川向でしていたそうです。川を挟んで、「おーい、元気かよ」というふうに声をかけあっていたんでしょうね。
結婚しても貧しかったと思いますよ。二人で一緒に、一から始めたんやからね。嫁ぐときに、母は祖父から、箪笥を一棹とお金をいくらか持たせてもらったそうです。でも、それだけ。父は次男坊で、そのお膳をつくるところへ奉公に来ていて、母と恋して一緒になったんですよね。
子ども時代はゆっくりゆったり
二人が24歳のとき、大正10年8月24日に、私は長女として生まれました。上には兄が1人おり、その後、弟妹5人が生まれて、兄弟姉妹7人。子どもが大勢で、親は貧乏しましたよ。でも、子どもの私たちは、ゆっくりゆったりしたもので、自由気ままに遊んだわ。
家がお膳つくりの仕事でしょう。母も、その頃は父を手伝って、漆を塗る仕事をしていました。だから、きれいな手仕事でしたよ。お百姓はしてなかったので、私たち子どもが、田畑へ行って手伝うなんてこともありませんでした。
私たちの頃は、お弁当を持って学校へ行きましたよ。山の子どもたちのお弁当には、お米の中へ粟や稗なんかの雑穀が入っていたのを覚えています。それを見られるのが恥ずかしいから言うて、裏山へ行って食べる子もいましたよ。
私の家はお百姓をしてないから、お米のご飯でしたけどね。それは貧富というのじゃなくて、親の仕事の関係なんですけどね。少しの土地でも田畑にして、土もつれになってやらんといかん時代は、もう少し後、戦争の足音がもっと確かになってからでしたね。
大好きだった兄の思い出
兄の淳一(じゅんいち)は、私より一つ上でした。東京で薬局をしている、母の姉がいて、暮らし向きはよいけれど、子どもがなかったの。そこへ欲しいと言われて養子に行ったんです。
兄の淳一さんと
子を産んだことのない伯母が安易に考えて、小学校を出たばかりの兄を連れて行ったけれど、田舎の子が都会の生活に慣れるのは簡単ではなかったんですよね。兄には辛いことが多かったようです。
馴染めなかったというだけでなく、伯母のところで兄は小使いのように働かされたとも聞いています。学校へやってくれるという約束も守られなかったからと、結局、兄は伯母の家を出ました。友達の家を転々として、軒下を借りるような苦労を重ねながらも、頑張り屋の兄は逓信省へ入ることができました。逓信省で勤めながら、杉並工業という学校(*後述1参照)を出ました。
その後、中国の大連にあったタイカ工業(*後述2参照)という大きな会社へ就職したんですが、1年後に召集されて、高知へ帰り朝倉の連隊へ入りました。そして今度は兵隊として満州へ渡ったんです。そこで風邪を悪化させて病死しています。満州のコリン(※後述3参照)というところでした。本当にいい兄でしたけどね、24歳で亡くなったんです。亡くなったときは上等兵でした。
東京で看護婦学校へ
私も学校がすむと、伯母を頼って東京へ出たの。きっかけは、婦人クラブのグラビアを見たことでね。陸軍病院だったか、赤十字病院だったか、看護婦の一日というのが写真で出ていたんです。それを見て、私は「いやー、看護婦やりたい」って言ったのね。とにかく看護婦になりたいって気持ちが高じて、東京へ行きたいとなったんです。
もちろん親は賛成しません。特に母親は大反対でしたよ。昔の看護婦というと医者のお妾さんだったりするって、田舎には、そういう噂もあったんです。だから、母には「家で、普通の娘さんのように裁縫でも習ったら」と言われました。
だけど、東京の伯母が若い頃に助産婦さんの学校へ入って、資格を持って仕事していたので、自分も何かそういう関係の仕事がいいと考えました。自分でなんとかしなくちゃいけないという気持ちもあったんです。
それで、上京してまず、逓信省を受けました。兄が逓信省に行っていたから、やっぱり私も固い仕事をしたいと考えましたから。でも、ダメでね。それで、やっぱり看護婦になろうと、試験を受けました。それで、神田神保町というところの看護婦学校へ行くことになりました。
その後すぐに大きな病院へ入れたので、私には兄のような苦労はなかったですね。東京での看護婦時代のことは、話すだけでも大変なくらい、いっぱいいろんなことがありましたよ。
でも、昔のことで、こんがらがっちゃいますね。まぁ、なるようになったと思うのよ、この年までね。
焼夷弾の東京から故郷へ
もうそろそろ引き上げて故郷へ帰ろうかと考え始めた、ちょうどそのころ、東京では空襲がどんどん激しくなっていました。昭和20年、焼夷弾が降り始めた東京から帰郷したとき、私は23歳になっていましたね。
看護婦時代、友人と(左が敏子さん)
帰郷早々、忙しいので是非にと依頼され、私は高知市内の病院で看護婦をしていました。でも、土佐町の役場から、今度は保健師になってほしいと頼まれたんです。町に保健婦を置かないと農業協同組合の活動にも支障がでるとか言われて、保健婦になれと矢のような催促でした。
昔はとにかく結核が多くて、私も肺浸潤みたいになって、咳が出ていました。だから、保健婦は嫌だと一度は断ったんですが、保健婦がいないと困るからと説き伏せられて、とうとう保健婦の試験を受けることになりました。
ほんの45日間くらいの講習を受けての試験だったんですけど、私は本当に具合が悪くて、最初はダメでした。何回かやって、そのうちに合格し、正式に保健婦になりましたね。
すぐに家庭訪問をしましたよ、保健婦としてね。赤ちゃんや、産後のお母さんのところへ行ったんです。救護班として高知市の方へ行ったこともあります。
空襲を受けてボンボン燃えゆうところへも、私たちは消防団の救急班として入りました。肩に救急袋をかけてね。大きな大きな倉庫へ、じゃーじゃー水をかけるなんてこともしましたよ。煙が出ると飛行機の的になるから、できるだけ早く消火する必要があったんです。保健婦だったからそういう仕事もしました。
高知空襲のときは、恐ろしいなんて気持ちはなくなっちゃってね。子どもを抱っこしたまま防空壕で亡くなっている人もいるし、鏡川の淵には死体が山と積まれてあるしね。「土佐町の救護班として来てるんじゃからね、他のどこへも行っちゃいけない」って言われました。だから、どこへも行かないで、そこで一生懸命救護活動をやりましたよ。
お見合いをして結婚
結婚は早い方じゃなかったですよ。友達とは「あんな人と結婚したい」とか言いながらもね。保健婦になって家庭訪問をするようになって、南川(みなみがわ)というところの学校を訪問することがあったんです。
校長先生が「あなたは、どちらの出身ですか」と訊かれるので、「土佐町の床鍋です」って答えました。それが主人との縁を結ぶことになったのです。その校長先生が、主人の姉の亭主だったんですよね。
花嫁姿の敏子さん
お見合いをして、結婚しました。主人は、私より6つ上の31歳、私は25歳になっていました。
主人は、なかなかのりこもん(土佐の方言で利口者のこと)でしたよ。私は、自分は知能も器量もたいしたことないと思っていたので、『頭のいい人』というのが結婚相手への条件でした。主人は、頭良かったよ、本当に。
主人は、女の中に一人きりの男の子でね、大事にされて育ったんです。なかなかしゃんとした人でした。お巡りさんになっていたんです。でも、戦争から帰ってからは、役場とかあっちこっちから「来てください」って頼まれても、「もう嫌じゃ」言うて断りました。「あの嫌な戦争をしてきて、もうたくさんじゃ」と言って、職には就かず好きなことを自由にやったんです。
居合やったり、剣道やったりね。だから、結婚しても、百姓をするのは少しだけで、現金収入はほとんどなかったですね。部落長の役をはじめ、なにかしら公のことはどんどんやったんですよ。お金にはならないことをね。
主人とニューギニアでの戦争
人や部落のお世話役っていうのを主人はずっとしました。戦争では、ニューギニアの方へ行ったんです。あそこでの戦いは本当にひどかったですからね。だから、自分が職に就くことよりか、もっと人の役に立ちたいという思いが、いっぱいあったんですね。部落のこと、町のことにね、腐心してやったわ。お金はもうないけどね、みんなに好かれてね。
私たちは、戦後すぐに結婚したでしょう。兵隊に行っていた人たちが、うちへ集まって、あそこで、ここでという戦争のときの話はよくしていましたね。友達がいっぱい来て、いつでもそういう話でしたねぇ。私にも戦争のことをよく話して聞かしてくれましたよ。でも、私はゆっくりは聴けないし、覚えてもなくて、戦争のことでお話しすることはありませんね。
主人は写真屋をやったこともあったけれど、それよりなにより、公益のことをうんと考えて、人のためになることをうんと熱心にやったねぇ。まぁ、男前やし、頭はいいし、他人のことをしっかり考えられる人で、いい人でしたよ。けんど、経済ということを除けての人でしたから、私は、やっぱりね、男性として見るには、腑に落ちんところはありました。
子育てと仕事の日々
子どもは3人います。女が一人と男が二人ね。長女の節(せつ)が一番上で、昭和22年10月26日に生まれています。その下の長男が24年2月16日に。主人が清(きよし)なので、清人(きよと)と名付けたのよね。次男の正根(まさね)は26年11月1日に誕生しました。それがね、みんな誕生日が木曜日なのよ。私も、ね。なんだか不思議でしょう。
結婚して、10年は家で子育てをしました。その間、主人はちょいちょい農協へも勤めたりはしましたけど、なかなかお給料もいただいてこないのよ。困った人がいればあげるような人でしたからね。終戦後でみんなたいへんだったでしょう。生活に困るような人がいればあげたいのよね。自分ところはお米もあって何とでもなると思っているの。経済に執着する人ではなかったんです。
だから、子育てが一段落したら、私が就職して、勤めなくてはしようがないと思いましたね。田畑があったから、えいっと思って、それを全部売り払って、主人には好きなように生きてもらったんです。
ご主人と仲睦まじく
私はまた、看護婦の仕事に戻りましたよ。本山の中央病院に20年いて、それから大杉の中央病院で10年、いや12年だったかな。生活の面では、私がやるしかなかったんですよね。苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ、やっぱりね。
看護婦として勤務した30余年
その頃の看護婦の仕事は、今とは全然違いますよ。我々のときは、結核が多かったし、赤痢や疫痢という伝染病も珍しくありませんでした。それに、昔は付添いさんがちゃんと患者さんには付いていました。国がそれを認めていましたからね。そこが今と全然違います。
今の看護婦は新しいことをどんどん勉強しなくちゃいけないでしょう。カメラはもちろん、いろいろ新しい機械もどんどんできるし、横文字も使えなくてはね。私たちが東京で看護婦やってる時代は、そんなことの勉強は必要なかっ
たんですから。
あの時代なりに、まぁ、私たちも、やることはやったよね。腸注って、肛門から栄養を入れるなんてことはやりました。注入したんです。口から食べなくなったら、今は胃に穴を開けてやるでしょう。それみたいに肛門から注入する。胃ろうも点滴もなかったですからね、昔は。静脈注射はありましたけどね。
まぁ、勤務した病院は、どちらも入院設備のある大きな病院で、もう点滴とか注射とか、そういうのは普通にしました。でも、今とは治療方法も違うし、今はもうついていけないと思いますよ。なにもかも、どんどん進歩してね。私なんか、横文字も知らないんですから。
ニューギニアへの最後の旅
主人は75歳のときだったか、戦友らのお骨を拾いにニューギニアへ行ったんです。なんとしてでも行きたくて、痛い腰を治療してまで、やっと行ったんですよね。ちょうどその頃、私も股関節で、たいへんな手術をしたんですけど、どうしても行きたいからって。ニューギニアには特別な思いがあったんでしょうね。
旧陸軍支給の鞄(岡内富夫さん作品)
でも、そこから帰るとすぐ、具合が悪くなって、入院したんです。なんとか退院にはなりましたが、もうずっと調子が悪いままでしたね。心臓発作を起こし、救急車で高知市の近森病院へ搬送されました。いったんは快方へ向かっていたんですけど、見舞客を送ったあとで急変し、心筋梗塞で亡くなりました。
あれほど気にしていたニューギニアへも、もう二度と行くこともできなくなって・・・。他にもやりたいことがあったでしょうにね。いろいろ本も書いているんですけど、何もかも昔の思い出になってしまいました。酒は飲まない人だったけど、タバコだけは吸っていましたよ、主人は、ね。
今の私の幸せ、これからの時代へ
夫が亡くなってからも、私はずっと本山で一人暮らしを続けていました。年金があるから、食べていくくらいのことは困りません。でも、90歳を過ぎた私のことを子どもたちが心配するので、3年前に高知市内のマンションに移ってきたんです。今は、次男と一緒に暮らしています。
長男はアメリカにいて、レストランをやっています。私はアメリカには行ったことはないけれど、向こうには孫も一人いるんですよ。
今日はたまたま、次男が家族のいる東京へ行って留守なので、こちらのケア施設にショートステイに来てお世話になっています。長女も私の近くにいてくれていますから、子どもらの世話になりながら、こうしてやっていけてます。
子どもらがこうして私のことを気にかけてくれて、ありがたいと感謝しています。だけど、子どものことになると、それは私の話ではなくて、他人の話です。子どもには子どもの人生がある。そう思っています。だから、子どもの話はこれくらいにしておきます。子どもらにも失礼になると困りますから。
私は、今、週4日はここのデイサービスへ来て、お風呂へ入れていただいたり、本当によくしてもらっていますよ。致せり尽くせりなの。ここは障害がある人がほとんどでしょう。昔は、家で看るしかなった、そういう人たちを、ここでは大事にしてくれます。本当に大変じゃなぁと思うけどね。
ここへ来て見ていると、みんなが老人を大事に大事にしてくれています。私たちは幸せじゃけど、次の時代はどうなるかわからない。国の介護保険や医療保険があって、やれているんでしょうが、老人がどんどん増えると、これもあれもはできなくなるでしょう。次の時代はどんなになるか、わかりませんね。今が続いて欲しい気持ちはあるけど、どんな時代にも、もう終わりというときはあります。それは仕方のないことですよね。
〈 参 照 〉
※1 杉並工業という学校:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。
※2 タイカ工業:詳細不明のため確認できず、聞き取ったとおり記載。
※3 コリン:詳細不明のため確認できず、聞き取ったまま『コリン』と記載。現在の中国東北部黒竜江省の虎林のことかと推測される。虎林は、ロシアとの国境近く、第二次大戦末期、砲声とどろく激戦地となった地でもある。
あとがき
和田さんとは、私たちNPO法人シニアわーくすRyoma21の高知支部メンバーが、この春から訪問させていただいている本山町の通所介護施設「デイサービス長老大学」で出会いました。今は高知市にお住いの和田さんが、たまたま本山町に帰られており、デイに来られていたのです。
戦病死されたお兄様のことや東京での若い頃のお話を伺い、もっと聴かせていただきたいと願ったことが実現し、この冊子につながりました。本当にありがいご縁であったと感謝しています。
和田さんは、この年代の方には珍しく土佐弁をあまり使わず、落ち着いた低いトーンで話されます。説得力のある話しぶりは、あの戦争を挟んだ大変な時代を、看護婦という専門性の高い仕事を持ちながら、子ども三人を育てる母として生き抜いてこられたからこそのものと思えます。
また、お話のそこここに、しっかり生きてこられた和田さんならではの言葉が散りばめられています。例えば、『苦い水も甘い水として飲まなくてはいけないときもあるわよ』というところ。思うようにものごとが進まず、自分の周りがなんともほの暗く見えてしまうときなどは、私も、この言葉を思い出して、顔を上げて歩こうと思います。
素敵なお話を聴かせていただき、本当にありがとうございました。
なお、相川の美しい棚田風景の表紙絵と、本文中の鞄のカットは、Ryoma21高知支部の岡内富夫さんに描いていただきました。彩を添えてくださいましたことに、心から感謝いたします。
(ききがきすと:鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 21:30
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朝鮮半島の平壌に生まれる
私の父・岩城勲(いさお)、母・遊亀(ゆうき)は二人とも、ここ馬路村の出身です。父はたいへんな勉強家だったようで、住友林業という、今もある会社ですけど、そこへ入社しました。当時としては、高知の田舎から入るというのは珍しかったと思いますよ。
父の最初の赴任地は平壌(ぴょんやん)でした。朝鮮半島へと言われて、事前にしっかり勉強をしてから行ったと聞いています。私はそこで昭和7年3月25日に長女として生まれました。でも、赤ん坊のころしかいませんでしたので、残念ながら平壌のことは何も覚えていません。
次の赴任地となった咸興(かんこう)では、小学校卒業までの10年ほどを過ごしました。李朝の文化が残ったとてもきれいな街で、人口は6万人くらいだったかと思います。朝鮮半島が日本の植民地だった時代です。日本の会社がたくさんあって、日本人がたくさん暮らしていましたね。
小学校のことはよく覚えています。制服のセーラー服を着て通学していました。1学年に4組、一つの組に50人ほどの生徒がいましたから、千人を超える大きな小学校でした。建物もそれは立派でしたよ。
北朝鮮の冬はとても寒いんですが、私たちの家にはオンドルがあり、ストーブの火も赤く燃え、部屋の中は温かく快適でした。そこでの私は、のんびりと気ままに、まぁお嬢さんで、何不自由なく暮らしていましたね。
大東亜戦争が始まった
小学校4年生のときに、大東亜戦争が始まりました。初めの1年くらいは、ものすごい戦果で、勝ち戦の大本営発表に街中が浮かれたような感じだったのを覚えています。
昭和19年に父が、今度は清津(せいしん)というソ連との国境近くの街に転勤になり、私は、そこで女学校に入りました。戦争はだんだんと厳しくなり、もう誰もかれもが召集されるという状況で、39歳になっていた父にも召集令状がきました。若い社員の方は先にみな兵隊にとられていましたから、住友林業の広い事務所が年を取った男性と女性の事務員さんだけになり、寂しく心細く思ったことでした。
ちょうどその頃、私たちのところへ「事務所を貸してくれ」と言って、暁部隊という30人くらいの小隊がやって来ました。「どうぞ、使ってください」ということで、見ましたら、その兵隊さんらは武器を持ってないんですよ。鉄砲とか、そんなのもないんです。30人もおいでますのにねぇ。学校では、日本の国は神様の国であるから神風が吹いて戦争には負けないという教育を受け、私自身も信じていました。だけど、兵隊さんが武器を持ってないのを見て、子ども心にも『これは・・』と思いましたよ。
家に父が大事にしていた日本刀が2振りありまして、母が「よかったら使ってください」と差し上げたところ、隊長さんは喜んで持っていかれました。今思えば、その隊長さんは学徒動員。早稲田大学に在学中に動員され、こちらに来ることになったということでした。横浜の青木さん。お名前はそこまでしか覚えていませんが、すっきりした容姿のりっぱな方でした。
今すぐ一歩でも南に逃げよ
その青木さんが、8月の9日に訪ねて来られて、「岩城さん、これは秘密だから公言できないことだが、ソ連が戦争に加わった。ここに居ては危ない。今すぐ一歩でも南に逃げなさい」と、言われたんですよね。
母はもうびっくりして、必要なものだけ持つと、私たちを連れ、会社のトラックで清津の駅まで走りました。その時、もうすでに沖にはソ連の艦隊がずらっと並んで、艦砲射撃をしていました。大砲の弾を打っている様をどう見たのか聞いたのか、ただ夢中でしたね。
清津の駅まで行きますと、そこはもう黒山の人。とても汽車に乗れるような状態ではありません。でも、駅長さんが父と非常に懇意な間柄の方で、「岩城さんのご家族でしたら、何としてでも最後のこの列車に乗せないかん」言うて、窓から放り込んでくれたんですよ。人の上に人が乗ったような状態でしたね。
頼れる知人のいる咸興までなんとかたどり着いて、私たちは汽車を降りました。そして、そこで終戦を迎えたんです。咸興では、いわゆる難民としての生活でした。それまで辛いことが多かった朝鮮の人々に取って代わるように、今度は日本人の私たちが非常に苦しく辛い目にあうようになりました。
だけど、中には人のいい朝鮮の人もいましたよ。その時、一番上の私がまだ12歳。下に8歳、4歳、2歳と、家には女の子ばかり4人の子どもがいました。かわいそうだと思ったんでしょうね。黙ってこっそり食べ物を持ってきてくれたりしました。ありがたかったですよ。
そんな状態ですから、私は母の相談相手になって、しっかりしないと事が足りません。とにかく頑張りました。北朝鮮の冬は零下10度。吐く息で睫毛が凍ったようになる。それぐらい寒いんです。敗戦後の凍える冬、家族5人が1枚のお布団で、こう抱きおうて、お互いの体温で温め合って過ごしました。
38度線の突破を敢行
翌年の春が来て、ようよう暖かくなった頃・・5月になっていたかと思います。「ここに居ては飢え死にするだけだ。山に逃げよう。山道を南下して、38度線を突破するしかない」ということになりました。そのころは、すでに朝鮮半島の北と南を隔てる38度線が設けられ、行き来することはまったくできなくなっていたんです。
私たちは70人くらいの団体で、夜の闇に紛れ、山に入りました。「ソ連の兵隊は、若い女の人を連れて行って暴行する」と言われ、13歳になっていた私は、髪を切り顔へ炭をつけて、男の子になりました。母は2歳の香代子を背負い、味噌と米を入れた袋を腰へ巻いて・・・そうやって、私たちはみな、38度線を目指し、ただひたすら歩いたんです。
昼になると、私は米を鍋へ入れ、谷へ下り、米を洗いました。お水をいっぱい入れてご飯を炊きました。米が少ししかなかったですからね。お粥みたいなのを食べて、少し休んで、また歩いて。日が暮れたら、そこで野宿しました。
山の中で、道らしい道はありません。でも、同じように南を目指す人の通った跡があり、迷うことはなかったですね。中には、ぼろきれみたいなものを木の枝に結んで印をしてくれていたところもありました。
道中のいたるところに死体がゴロゴロありました。「連れて行って、連れて行って」って、すがるような、拝むような、そんな人たちもいっぱいいました。もう歩くこともできなくなって、行き倒れてしまった・・・・そんな人たち。あまり言いたくないことがたくさんあります。
私たちを追い抜いて行った若い人が、捕まって大きな木へ括り付けられて、叩かれているのも見ました。今でも忘れられません。叩いていたのは、ソ連兵ではなくて、朝鮮人の物取りみたいな人だったように思います。おいはぎみたいなものですね。
ようよう越えた38度線
38度線の辺りには歩哨って言うんでしょうか、見張りに立ってる人たちがいるんです。でも、「ここを越えたら」という思いでひたすら歩きました。そんな私たちをかわいそうにと思ったのか、ちょっと甘くみてくれたように思います。
板門店のあたりで、ようよう38度線を越えると、アメリカ人が来て何かしきりに話しかけてきました。でも、英語はわかりませんし、どうしていいのか途方に暮れたことでした。みなが一箇所に集められて、DDTという白い消毒の薬をかけられ、予防注射を打たれました。そこでもらった固い乾パンのこと、難民がそれはたくさんいたことなど、今も忘れられません。
それから、貨物列車に乗せられて、釜山まで。幼かった妹たちを母と二人して背負ったり、引っ張ったり、そうやって帰ってきたんです。その時の本当に辛かったことは、3人の妹たちも覚えています。
復員していた父との再会
召集されていた父は、終戦のとき38度線より南にいたんです。だから、難なく復員し、日本へ帰ってきていました。帰ってはきたものの、家族のことや母の苦労を思い、心配と気兼ねで居ても立ってもいられない気持ちだったろうと思いますよ。でも、どんなに気を揉んでも38度線を越えて北へ行くことはできなかったんです。父も和歌山県の田辺市で住友林業の所長をしながら、苦しい思いで家族を待ったと思うんですよね。
母は、4人の娘を抱えて本当に苦労の連続でしたけど、釜山では運よく日本に帰る船に乗ることができました。下関行きのはずが、船中に伝染病の方があったため、着いたのは仙崎港という小さな港でした。終戦の翌年、5月末のことだったと思います。
そこには、住友林業の方から連絡をもらった父が迎えに来ていました。母は、「お父さんは、私たちを朝鮮に残して、迎えにも来てくれんような薄情な人やから、もの言うたらいかん」って私たち子どもに言いましたよ。だけど、そんなことじゃないことはよくわかっていました。来たくても、北へは来られなかったんですからねぇ。
まずはふるさと馬路村へ帰る
帰国して、私たちはまず、馬路に帰りました。父方の祖父母はもういませんでしたが、母方の祖父母は元気で、「よう帰ってきた」言うて、それは喜んで迎えてくれました。それから、父の赴任先の田辺市に入り、家族での暮らしが始まりました。
でも、終戦後の食料不足で苦労しました。働いてお金をもらっても、家族のための食料を買うことができない。田舎へ行って、お百姓さんに米など分けてもらっても、帰る途中で押収されたりして、小さな子どもたちを抱えて、両親は本当に困ったようでした。
もうどうしようもなくなり、父は住友林業を諦めて、馬路へ帰る決意をしました。「馬路でなんとかする。製材でもやるか」と言うてました。でも、製材の仕事を始めることにはならず、森林組合に勤めたり、それから村議会にも1期は出たと思います。
そんな暮らしの中でも、私は勉強が好きで、学校へ行きたいという気持ちを強く持っていました。父もそんな私のことをよくわかっていて、「勉強して学校はちゃんと行け」と言ってくれました。
でも、私には、父が裸一貫で帰ってきて、お金がないということが嫌というほどわかっていました。帰国後に、また一人妹が増え娘5人になっていましたので、私が無理を通して学校へ行けば、下の妹たちの教育ができない。そんなことは、言われなくても理解していたんです。
姑となる人に「嫁に来い」と望まれて
自分の行き先をどうしようかと、悩んでいたちょうどその頃、岩城の本家から嫁入りの話が出ました。私は旧姓も岩城で、私の生まれた家は何代か前の分家になります。岩城の本家のお母さん、私の姑になる人が、なぜか私を非常に気に入って、「嫁に来い、来てくれんか」って。私のことを朝鮮から苦労して帰ってきたから、仕込んでみたいと思ったようですねぇ。
私の主人は3人兄弟の末っ子ですが、長兄はフィリピンで戦死し、次兄も結核で亡くなっていました。三男の私の主人だけが、東京の陸軍士官学校の学生のまま終戦を迎え、村に帰っていましたので、母親にしてみると、『この息子に早く嫁をもらって、家を継がさんと。さもないと、家が絶える』という想いがものすごく強かったんだと思います。
また、嫁さんを仕込むには若いうちがいい。そんな気持ちもあったかと思います。安芸高等女学校の寄宿舎にいた私が夏休みに帰ると、毎晩のように家に来て「学校へは行くよばん(行かなくていい、という意味の土佐弁)。来てくれんか」ってしょっちゅう言ってきました。
そのとき、私はまだ、14か15でしたよ。仲人まで立てて、どんどん話を進めるんです。私はただただ困ってしまいました。むげに断って本家の機嫌を損ねたら、父がやりにくいんじゃないろうかとか、いろいろ気に病んだことでした。
女学校の担任の先生にも「どうしたらいいろう」と相談しました。「私は学校へ行きたいんですけど」と。先生は、「そりゃ勉強も大事よ。けど、あなたを見てると、相手の人がいい人だったら、結婚も悪いとは思わんよ」とおっしゃってくださいました。
主人からの手紙で決めた嫁入り
それでも決心できずにフラフラしていた私のところに、ある日、手紙がきたんです。私宛の封筒で、裏には『岩城勲』と父の名があります。でも、筆跡が違うんです。父の字は知っていますから『あら、これはおかしい』と思いながら封を切ると、主人からのものでした。
若き日の岩城ご夫妻
男女共学が始まったとはいえ、当時は、親以外の男の人からの手紙なんてとんでもないことです。中を見ると、こういうことで、どんどん話が進んでいるということが書かれていて、『でも、おまえは勉強がしたいということで悩んでいることと思う。本当に勉強をしたければ、その道へ進め。けど、もし嫁に来てくれるなら、俺には異存はない。来てもらいたい』とありました。
その後に、『もし来てくれるなら、岩城の家風に沿うてくれ』とか、『親を大事にせよ』とか、まぁ、五箇条の御誓文みたいなことを書いていましたね。それを読んだときに、私は『あぁ、この人は素晴らしい人や。この人に賭けてみよう』と思ったんです。すぐに決心がつきました。
その頃、主人は馬路の農協に勤めていましたので、夏休みに帰ったとき、『あぁ、あの人やな』というように、ちらっと顔を見たことはありました。でも、話をしたことはなかったですよ。後から聞いたところでは、主人は私の妹たちになにかに買うちゃって、なつけていたようです。私への気持ちはあっても、今の人のようにそれを直接伝えるということはできなかったんでしょう。
年は6つ上です。この人はいい人かもしれない。少なくても私の本当の気持ちはわかってくれている。そう思えて、結婚することを決心しました。
先生にお話しすると、「岩城さん、おめでとう。でも、運動会のときまでは、おってや」ということでした。それで、秋の運動会の後、安芸高女を中退しました。勉強はしたかったんですけど、断念してね。
お義母さんはもう喜んで、とにかく来てくれ、すぐ来てくれでした。岩城は庄屋も務めた馬路でも古い家系ですから、本家としては、『ここで絶えたらおおごと』という思いが強かったんですね。それで、翌年の1月にすぐ結婚となりました。新郎、岩城敏郎は22歳。私は、まだ16歳の花嫁でした。
初めての農家での生活、そして百姓仕事
私には百姓の経験はありません。麦や粟、稗なんか見たこともなかったんです。だから、初めは辛いことも多かったですよ。でも、私には5人姉妹の長女だという自覚がありましたからね。婚家から帰るということは絶対にいかんこと。私がそのいかんことをしたら、下々の妹にも影響する。そのような教育を受けたとも思いませんが、やっぱり心の中にそういう一本の芯があったんでしょうね。どんなに辛くても帰られん。ここで頑張るしかない。そう思っていました。
したことがない百姓ですから、どうやっていいかさっぱりわかりません。お義母さんが、こうやれ、ああやれといちいち教えてくれるんですよね。朝は5時に起きてご飯をたかんといかん。
そんな中で、その年の12月には長男の立郎(たつお)が生まれました。子どもを育てながらの慣れない百姓です。初めは、疲れて疲れて。本当にようやったと自分でも思います。
当時、主人は農協に勤めてました。でも、その時分の男の人が給料を妻に渡すということはあまりなかったですね。私も主人からお金をもらったなんて記憶はほとんどありません。嫁ぎ先の両親に支えられて、なんとかやれたんです。
今考えてみれば、よく私にいろんなことを教えてくれたと感謝しています。両親は二人とも立派な人でした。
百姓仕事をしながらも子育てに一生懸命だった日々
19歳のときに次男の弘幸(ひろゆき)が、23歳のときに長女の昌子(まさこ)が生まれ、私は二十歳代を2男1女の母として過ごしました。いつの時代も子どもの世話はしんどくて、母親はたいへんなものです。私も同じでした。百姓が忙しゅうてたまらん。けんど、子どもがお腹がすいちゅうにちがいないと思う。お乳も張ってきてたまらんなる。とにかく早く帰っちゃらないかんと思って、山の畑からだんだん走りながら帰る。お乳を飲ましたら、子どもの顔を見る間もなく、また、仕事に戻る。その繰り返しでしたね。
どんなときも絶えず子どものことがあって、頭から離れない、そんな感じでした。それを子どもは見ていますので、お母さんっていうのは本当に苦労しながらやっていると、子どもにだってわかっていたと思います。
今のお母さんは自分が大事で、よう捨てん。だから、お母さんも辛いし、子どもの不満も大きくなるように思えます。親子で居るのに、母親がずっと携帯電話をつついてばかりだったりするでしょう。私には、そんなふうに思えるときがありますね。
一番辛かったのは次男の病気
辛いなと思ったことはいっぱいありますけど、なんといっても一番辛かったのは次男の病気のときでした。弘幸は勉強もできる、世話のない子でしたけど、5年生のとき、腎臓を患ったんです。このときは、顔が腫れたので、あれっと思って、すぐ病院にかかりました。近所にも何人か同じように発病したお子さんがいて、扁桃腺からの菌が原因だと言われました。
その時は、ちゃんと治療し、きれいに治しました。いえ、治し切ったと思っていました。だけど、それから1年ほど経ったとき、また悪くなりました。『なにかしんどそうやな』と思ったくらいで、再発とは夢にも思いません。どこも痛いわけではないので、おかしいと気づいた頃には、病気は随分進んでいました。治療しましたが、結局、慢性腎炎という病名を付けられ、高知赤十字病院に入院となりました。病院内の学校へ通うこととなり、本当に可哀そうなことでした。
それから、高知医大の病院へ、次に岡山大学病院へと転院したんですが、なかなか結果が出ず、家へ帰されました。そして、人工透析を考えなくてはならないと宣告されたんです。昭和50年だったと思います。当時は、まだ透析の技術が今ほど良くなくて、水分や食べ物の制限はひどかったし、体力的にもたいへんな状況になると聞かされていました。
私の腎臓を一つやれんもんやろうか
私は次男のことが心配で、可哀そうで、なんとかならないかと随分悩んだし、考えました。考えるうちに、『自分の腎臓は2つある。一つを弘幸にやれんもんやろうか』と思いいたりました。移植は、それまでにも例はありましたが、まだまだ一般的ではなかった時代です。
岡山大学病院の桑原先生に、「先生、私の腎臓がもしも使えるなら、子どもにやっちゃってくれんろうか」ってお願いしました。「それなら、調べてみる」と言ってくれて、すぐ検査をしてくださいました。ところが、弘幸の血液はA型、私のはO型で、合いません。移植はできないと言われた、その時、そこでじっと聴いていた主人が、「俺の腎臓は、どうやろうか」と、こう言うてくれたんです。
ところが、主人の両親からは「孫は一人じゃない」と言われました。二人にとっては、主人はたった一人生き残っている息子です。そりゃ、無理はないですよね。「孫は一人じゃない」と。板挟みになって、私は居ても立っても居られないような気持ちでした。
でも、主人は「とにかく、調べてもらいたい」と譲らず、検査してみると、血液型は同じA型で、機能的にもよく似ているという結果でした。これなら移植できると、先生が乗り気になってくださったんです。
その時の私は、『移植して、もし主人に何かあったらどうしよう。腎臓をやったために主人が長生きようせんかったとしたら、それは私の責任や。お義父さん、お義母さんに申し訳ない』と考え、もう本当に、たまらんように思いました。
でも、主人が、「これほど組織が似ているということを知りながら、俺は、この子にやらずにはようおらん。この子が苦しみながら死ぬるがを、俺は、よう見ん」と、こう言いました。優しい、しっかりした人でしたね。
家族だから乗り越えられた試練
それで、昭和50年に岡山大学病院で移植手術を受けることができたんです。手術は成功して、次男はその腎臓で元気に過ごすことができ、結婚もしました。主治医だった桑原先生が次男の結婚をとても喜んでくださって、『術後10年目のゴールイン』として高知新聞に掲載もしていただきました。これがその新聞です。昭和60年の古いものですけど、私はよう捨てんと持っていました。
次男は3人の男の子にも恵まれました。移植手術から15年後に、透析するようにはなりましたけど、今も元気で、幸せにやっています。主人の健康を心配しましたが、お義父さん、お義母さんより後まで元気に生きてくれて、83の歳を迎えてから亡くなりました。
そのことが本当にありがたく思えます。私たちは、次男の病気という大きな試練を家族で乗り越えた、いえ、家族だからこそ乗り越えられたと思っています。
二人の義兄との絆
先にお話したように、夫は岩城の家の三男でした。主人の一番上の兄は航空兵で、フィリピンのレイテで戦死しています。フィリピンへ行く直前に、お兄さんは、東京の主人のところに寄ったそうです。その時のお兄さんの話を私に聴かせてくれたことがあります。
それまで長兄は中支那にいたようで、重慶だったか、爆撃に出たときのことを「爆弾を落とすときは、ちょっと下へ降りて落とす。後は、すぐすーっと上まで上がらないかんがやけんど、飛行機の性能がようないき、まだよう上がらんうちに爆発してしまう。その爆風でもういかんと思ったことが何回もあった」と話したそうです。
今度はフィリピンへ行けと言われたと告げた後で、長兄は主人に、「絶対に飛行機には乗るな。地を這え。そしたら、ひょっと助かるということもある。お前が死んだら、岩城の家は絶えるぞ。岩城の家を守ってくれ」と言ったそうです。やっぱり、家というものを大事にしたんですね、昔は。子どもであっても、そういう考えをしっかり持っていたんです。
先祖があって、自分がある。それは、決して古い考えではないと思いますよ。今の若い人にも伝えたい。自分の命は自分だけのものではない。これは、本当のことです。テレビでやっている『ファミリーヒストリー』を観ると、みなが感激しているじゃないですか。やっぱりね、と思います。
陸軍士官学校の最後の61期生だった主人は、結局、戦争には行きませんでした。でも、もう少し戦争が長引いたらどうなっていたのか。日本は「本土決戦」を声高に言っていましたし、当時の陸軍の将校なんかには、そういう考えの人も大勢いたようですからね。
次兄は、警官だったそうです。上司に結核の人がいて、お世話をしていて、うつったようです。その当時は、ペニシリンとかの薬もありませんでした。この兄は文学の好きな優しい性格で、上の兄は激しい気性だったと聞いています。
私の長男は夫の長兄にそっくりです。法事のときの写真を見て、みなが「気持ちが悪いぐらい似てる」って言います。だから、私は飛行機乗りだった長兄がこの長男に、また、次兄は次男に生まれ変わったんじゃないかと思うんです。二人が私の子どもとして生まれ変わって生きてくれている。守ってくれゆうと思います。だから、ご飯を炊いた時には必ず仏様にお祀りしています。お陰様で、今があります。本当にありがたいことです。
主人の一大転機に義父が石割技術を教える
このあたりで岩城組のことを話さないといきませんね。結婚して3年くらい経ったころやったと思います。お義父さんが怖い顔して、「おまえら、来い」って呼ぶんです。何の心当たりもない私は、どうしたのやろうとびっくりしました。
当時、青年団というのがあり、井上満さんという、なかなか行動力のある方が会長で、主人も一緒に活躍していました。その青年団の幹部らが、公民館を建てたいと考えて、資金稼ぎに映画やお芝居をやとって、木戸銭を集めたりしてたんです。でも、なかなからちがあかん。それで、農協に古い肥料があるが、あれはいらんもんやから、あれを売って資金にしようとなったらしいんです。
もちろん、それは農協の物ですから、隠れて売ったりはできないわけですよね。告げ口した人があって、そのことが露見し、問題になったわけです。元をただせば、公民館を建てる資金を集めたかった。
義父(立吉)と義母(松猪)
それだけでしたが、舅は村長も務めた人でしたから、岩城の家に泥を塗った言うて、主人と私の二人を据えて怒りましたよ。私はなにがなにやらさっぱりわからんまま叱られたんです。
まぁ、それは仕方がないとしても、一応けじめとして主人は農協を首になり、仕事を失ってしまいました。「何かして働かないかんが、誰にも頼めん」と困っていたときに、お義父さんが「おれが石割りを教える」と言ってくれました。若いときに、石割りの技術を持っていたのです。
石にも目があり、その目に穴をあけて、かすがいみたいなものを当ててパンと打つと石が割れる。主人はやったこともない石割りの技術を自分の親から教わったんです。辛かったと思います。手にまめができて、血を流しながらやっている主人を見たら、何とかして助けたい、力になりたいと思いました。
岩城組の看板をあげる
それからの私は慣れない百姓を続けながらも、主人を傍らでじっと見ていました。主人は前へ前へと仕事をつくっていく人です。石を割ることから始めて、そのうち田んぼの淵がつえたので直してくれとか、道を拡げてくれとか頼まれるようになりました。
一人で何役もはできません。人を1人雇い、それが2人になり3人になり、田の畔や道の補修、拡幅などの工事をするようになると、県の土木事務所から土木事業者の資格を取るように話がありました。資格を取ると、土木工事の入札に参加できるようになり、主人はさらに入札に必要な積算ができるよう勉強したんです。そうやって土木管理施工技術者1級の資格も取り、昭和38年には岩城組の看板をあげたんです。
一方で、主人は帳簿をつくるとか、そういう細かいことはしない人でした。主人の仕事ぶりを見て、私は『帳簿づけなど事務の仕事をちゃんとせんといかんなぁ』と思うようになり、自分が岩城組の会計をやろうと考えました。百姓をしながら、簿記の勉強をし、百姓と両道かけて頑張ったんです。簿記の資格を得た後で、衛生管理者の資格も取りました。あの頃は、本当に寝る間もないように働いたことでした。
土木の仕事はどんどん膨らんで人は増え、失業保険とか労災とか、そんな制度も新しくどんどん入ってきます。
昭和の頃の、今は懐かしい岩城組の仲間たち
どうしていいかわからず、関係役所へ、「初めてでわからんのですが、手続きはどうしたらいいですか」って習いに行きました。そうやって取り込んで、進めていきました。すぐ行って習う。わかる。後はまじめにやっていく。だから、信用してくれたんですよね。
最後には、事務に女の人を一人雇いました。けんど、まぁ、ほとんどは私が自分でやりましたよ。病気をしたこともありますが、これはという大病はなく、頑張って続けることができたことに感謝しています。
当時はまだ珍しかった自動車の運転免許を取る
入札に行く機会が増えてくると、取るつもりがないときなどは、主人から「おまえが行ってくれ」と言われることが多くなりました。入札は安芸市で行われることが多かったのですが、馬路からは片道30q以上の山道です。『これじゃあ車に乗らんとどうにもならん』と思い始めて、車の免許を取ったのは、31歳のときでした。
その当時はまだ、免許を持つ人は村にほとんどいなかったですよ。主人曰く、「おまえ、自転車にもよう乗らんのに」。その時は、私も若かったよねぇ。「お父さん、自転車は輪が2つやけど、車は4つあるき、安定しちゅう。間違っても、ひっくり返ることはないき、大丈夫。私は車の免許を取りたい」そう言い張ったことでした。主人はけたけた笑って、「言い出したらきかんき、まぁ、行って取ってこい」って言うてくれました。
免許は一発で取りましたよ。試験のコースがいくつかあるんですが、どのコースになるか本番までわからんので、全部のコースを覚えました。中には、間違ってね、先生にAコースへ行けと言われたのに、Bコースへ入った人もいました。その後部座席に次に受ける私は乗っているんですよね。
先生が「おまえ、どこへ行きよりゃ」言うと、「僕は、郵便局へ行きよります」って。すっかりあがって、コースを間違ったことすら気づかないんですよ。その人は郵便局の職員さんでね、先生が笑って、「コースを間違ごうちゅうぞ」って、ね。自動車学校は、奈半利にありました。奈半利までせっせと通いましたよ。今は懐かしい思い出です。
生きがいとなった地域のお世話役
百姓仕事に子育て、土木の仕事も加わって大忙しの20代が過ぎ、30代半ばになったとき、ふっと『私には青春がなかったなぁ』って思ったことがありました。『青春はなかったけれど、この世にせっかく生まれてきたんやもの。なにかしたい。なにかやりたい』と、そんな気持ちがむらむらと沸き起こってきました。
他の人が結婚して今から子育てというときに、私はもう子どもたちに手がかからなくなっていました。また、家のことも百姓仕事も要領がわかって能率も上がっていましたからね。
地域のみなさんのお世話役を少しずつするようになったのは、ちょうどそんなころからです。村の農協婦人部のお手伝いをしていたところ、次の会長をやってほしいと頼まれ、引き受けました。それが、昭和48年4月のことで、その4年後からは民生児童委員にもなり、地域のみなさんのお世話役を20年ほどさせていただきましたね。
若いときから主人も、そのことには理解がありましたよ。私がカレーを作っていると、「また、出張か」と訊くんです。「今度は、どこへ行くのか」と、笑いながらね。一緒に暮らしていれば、わかったんでしょうね。また、どこかへいくがやなと。
平成に入ってからも、村の婦人会長をはじめ、社会福祉協議会の評議員や健康づくり推進協議会委員、食生活改善推進協議会委員など務めさせていただきました。ボランティアというのは、無報酬でするということで、地域のみなさんの協力がないと、何も形にはならないんですよね。でも、みんなで力を合わせる、その過程が、また楽しかったんです。
馬路村には『おらが村・心臓やぶりフルマラソン大会』というのがありました。もう随分前のことになりますけど、あれを始める時に、ちょうど私は村の婦人会長をしていました。前夜祭をやろうとなったんですが、企画段階では暗中模索です。村の教育委員会の担当職員と何度も話し合いました。
自分が家にある、お漬物とかを持ってきて、「これ食べてやろうよ」と言うこともありましたよ。ああしよう、こうしようと、それぞれが意見を出し合う。決まれば、みながパッと協力する。それには、まずは自分が動くということが何より大事だと学びました。まぁ、みんな本当に気持ちよく仕事してくれましたね。
自分は本当に世話好きやったと思うんですね。で、村会議員も平成11年から3期やらせていただきました。議会へ出たいとかまったく思っていませんでしたけど、「出てや、出てや」言うていただいてね。本当に選挙運動なんかしないまま、挙がらせてもらったんです。
あんなこともこんなことも、できることはさせていただきました。それが私の生きがいやったなぁとつくづく思います。お陰様で、自分としては生きがいのある幸せな人生を送ることができました。そんなふうに思っています。
ほんの最近まで、村の老人会長もやっていました。まだできないことはなかったんですが、娘が心配して高知市での会などには付いてきてくれるんです。それも申し訳なくて、自分の年齢を考え、昨年で辞めました。人には引き時が肝心です。これからは、若い人の縁の下の力持ちになって、育てる方に回ります。年を取ったら、このことを忘れないようにしたいですね。
神様が助けてくれて今がある
主人が亡くなってから、もう10年ほどになります。昭和24年に結婚して、ほぼ60年という長い月日を一緒に暮らしました。体格も良くて、まぁ、侍でしたね。男らしいというか、全然、損得を言う人ではなかったんです。筋が一本ぽんと通っていました。初対面の人には、ちょっと怖いような取っ付きにくい感じの人でしたが、慣れたらそんなことは全然ありません。仕事が好きで、現場と人を大事にする人やったなぁと思います。
今は長男が、岩城の家も岩城組も引き継いでしっかりやってくれています。次男は高知市で元気に暮らしていますし、長女は安芸市に嫁ぎましたので、今は家のことで私が心配することはなにもありません。これまでを振り返ると、『どんな困りごとも、なんとかなる。神様が助けてくれたなぁ』と、ありがたく感謝するばかりです。
これからの私の目標と願い
今の日本の国は、みなが長命になり高齢者が増えましたよね。いいことやと思いますけど、若い人は少なくなり、その若い人への負担が大きくなっています。だから、健康寿命を延ばして、なんとか最後まで自分のことは自分でできるような状態で一生を終えたいなと願っています。それが、私の今の気持ちだし、これから先の私の目標でもあります。また、それを自分一人でというのではなく、地域のみなで助け合いながら一緒に実現していけたらと思っています。そうしないと、日本の国もたいへんですよね。
これまでに私は、アメリカとかヨーロッパへも行きました。それぞれに素晴らしい国だとは思いましたけれど、日本の素晴らしさを再認識する機会にもなりました。日本人は、すごい。だから、自分の国に自信を持とうって。
今の若い人には、よその国に憧れすぎて、よくわからないまま、例えばアメリカの方が良いというように思っているところがあります。もう一度、日本のことを考えて、もう少し日本の国のことも、外国のことも勉強してほしい。そう思っています。
アメリカで暮らす孫一家
私には今、孫が6人、ひ孫が7人いますよ。孫の一人はアメリカ人と一緒になり、私に本当にいろんなことを体験させてくれています。世界がひろがった思いです。だから、平和でないと困るんです。心から、みんなに平和でいてほしいと祈っています。
あとがき
岩城さんとは、馬路で初めてお会いし、北朝鮮から始まる長いご自身の物語を聴かせていただきました。わかりやすく正確に、しかもよどみのない話しぶりと、起伏に富み人の情けに溢れた話の中身に、思わず引き込まれました。物腰の柔らかな小柄な女性ですが、芯の通った強さ、人を包む大きさを感じます。
空に大きく枝を伸ばした一本の木のような方・・そう思って、主題を『幹太く、空高く〜馬路の村に生きる〜』とさせていただきました。
38度線越えを目指した山中での出来事やご結婚までのいきさつ、ご主人の一大転機と、お若い頃の一つひとつのエピソードが、地中深く根を張り成長していく一本の木と重なります。若い世代のみなさんにも是非、読んでいただきたいと思います。貴重なお話をありがとうございました。
(ききがきすと:鶴岡香代)
posted by ききがきすと at 22:51
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posted by ききがきすと at 20:39
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NPO法人「津波太郎」(旧NPO名は「立ち上がるぞ!宮古市田老」)の理事長・大棒秀一さんから、被災地の状況や復興への取り組みをお話いただく報告会を開催します。
大棒さんとそのお仲間には、ききがきすとのメンバーが2015年に岩手・田老での震災聞き書きをした際に、お世話になりました。
年末に上京されるのを機に、田老での聞き書きに参加したメンバーと懇親会でも開きたいなと思っていましたが、せっかくの機会、大棒さんたちの活動と復興の様子、被災地の方々の頑張りをお聞きする場を設けたいと思いました。
大棒さんは快諾してくださり、12月上旬にアメリカのフィラデルフィアで開催される日米草の根交流プログラムに参加したり、田老の名勝地・三王岩を観光地として発信しようと、岩手県立大学と共同研究で取り組んでいたりしますので、興味深いお話が聞けると思います。スライドを使って、映像もたくさん見せてくださるようです。
さらに、高知県黒潮町から、出来立てのNPO法人「タクローの会」の理事長・浜田英外さんも参加予定です。
「タクローの会」は、津波防災の町として津波対策を先頭に立って行ってきた田老と連携して活動するNPOで、田老のタローと黒潮町のクロを繋ぎ合わせた名称にしたとか。浜田さんからもお話をいただきましょう。
ということで、今回は、報告会と懇親会&忘年会がセット。もちろん、どちらか一つでも参加OK。会員の参加費は無料です。
慌ただしい年末の1日ですが、お友達やご家族を誘ってのご参加をお待ちしています。会場の関係で16名限定。お申し込みはお早めに!
【岩手・田老の震災聞き書き、その後の復興と活動を語る
◆開催日時:2017年12月28日(木)15:30〜17:00
◆会 場:銀座風月堂ビル5階
銀座ビジネスセンター・セミナールーム
*地図はこちら
→ http://www.ryoma21.jp/message/about/office.html
◆報告会:「被災地の復興への取り組みと現状(仮)」
スピーカー:NPO法人「津波太郎(NPO田老)」
理事長 大棒秀一さん
NPO法人「タクローの会」
理事長 M田英外さん
◆参加人数:最大16名
*会場の関係で16名までです。
人数に達し次第、締め切ります。
*キャンセル待ちをお受けします。
キャンセルが出れば、ご連絡します。
◆参加費:Ryoma21会員無料、非会員500円
◆懇親会&忘年会:18:00頃より、銀座近辺で開催予定
会場決定後、参加者に連絡、参加費自己負担5〜6千円程度予定
◆申し込みと問い合わせ
・申し込み締め切りは12月15日(金)
・ご希望の方は、以下の内容を明記して、松本(matsumoto@ryoma21.jp)まで申し込んでください。
・折り返し、受けつけた旨の返信をします。
返信がない場合は、ご連絡を。
@参加する方のお名前(全員)
A代表者のメールアドレスと携帯電話番号
B報告会と懇親会の両方に参加するか、
どれか一方の参加かを必ず記載
C満席になった場合のキャンセルを希望するかどうか
質問は遠慮なく、松本までどうぞ。以上です。
posted by ききがきすと at 13:15
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かたりりびと:大町岑生(おおまちみねお)さん
ききがきすと:柳瀬晶子
姉のおかげで高校へ
私は昭和十二年、中国の天津で生まれて、五歳のときに戦争で引き上げてきました。帰国後も空襲で家が丸焼けになって、疎開もしたり、苦しい時代を生きてきました。
八人兄弟の二人目で長男です。
やがて高校に入って、大学に行こうという思いがあったんですけど、家計が苦しいので、高校に行く事すらできない状況でした。
姉が中学を卒業して、いわゆる女工として働きはじめました。当時は集団就職といって、地域とか学校ぐるみでトラックとか列車に乗って、遠い岐阜県の大垣の紡績工場に行きました。
親友三人とのお別れ会での姉の涙が忘れられません。私は姉が働いてくれたおかげで、三池工業高校電気科へ奨学金で行けることになったのです。
私は高校を卒業しましたが、こんどは妹を高校に行かせられなくて、やはり中学まででした。
私は兄弟の中では成績が良くて、学校でもトップクラスで、それで高校に行きたいというのがあったんです。高校を卒業して、次は大学を目指したかったんです。
ところが、引き揚げてきたときには兄弟が四人だったのが、帰国して四人増えて、八人兄弟になったのです。家計はそれはもう大変で、大学なんてとてもじゃないけど行けませんでした。
学校に山崎という親友がいまして、彼も私も大学に行きたいけど、学費が出せないから行けない。せめて大学を受験して、合格したという満足感でがまんしようと思ったのです。受かっても大学には行かないということで受験しました。二人とも熊本大学に合格したんですよ。
最初から行かないことが前提でしたからね。それで就職したわけですね。
就職して、実家に援助
高校卒業後、北九州の八幡製鉄で働きはじめました。初任給は封を開けず、そのまま全額を親に送金しました。その後も月給の半分の仕送りを毎月続けました。
働いてみると学歴の差が歴然とあって、愕然としました。これは学校に行かなきゃだめだと思って、入社後一年目に「九州工業大学」の夜学を受験して合格しました。昼間は働いて、二部制の夜学に通ったのです。
ところが、入社後の学歴は認めないという厳しい時代。三年で短期大学の資格は取れたんですけど、四年制の資格を取りたくて、いったん短期大学を二年で辞めて、四年制を受験したんです。そうしたら落ちてしまって、夢がついえてしまいました。悔しい思いを胸に抱えて聴講生の資格で働きながら、二年間授業を受けました。
二十二歳か、二十三歳のころ、中学二年生の弟をみてくれと実家に頼まれました。当時私は独身寮に住んでいたんですが、弟の面倒みるため、家賃の安い会社の独身寮を出なくてはいけなくなってしまい、部屋を借りました。
弟はやっぱり寂しくなって、実家に帰りたいと言い出しました。それまでにも、妹が弟一人では大変だろうということで、手伝いにきてくれました。けれど、本人が高校進学は地元にしたいということなんです。
私は学校の進路相談にも保護者として行きましたが、弟は成績が悪いんですよ。私が勧める学校には行けないので、実家に戻って地元の高校に行くことになりました。
電車で運命の出会い
ちょうどそのころ、通勤電車で会社の事務員の女性と会うようになって、そんな苦しかった事情を聞いてくれました。彼女は私の状況を理解してくれる協力者でした。
当時、私は実家への仕送りを続けていましたが、それだけでは足りません。もし自分が結婚したら、女房の稼ぎの分を仕送りに回せるという考えもありました。そんな都合のいいこと理解してくれるはずはないと思っていましたところ、彼女に相談してみたら、事情を理解し、快諾してくれ、結婚することになりました。
そこで、親に紹介に行ったところ、親も兄弟七人もみんなが唖然として、白い眼で見るわけです。大事な稼ぎ手、一家の大黒柱と頼りにしていた長男の私が結婚してしまうというので、反対されてしまいました。
仕方なく一応紹介だけして戻ってきました。そうしたら、親が八幡製鉄の人事部長に「二人を別れさせてほしい」と手紙まで送って、私は人事部長に、どういうことなんだと呼び出されました。上司からも説得されましたが、結婚の意思は固いということで、結婚を決めました。
式の日取りを決めて、両親は来なくてもいいから、二人で神社で式を挙げることのお知らせだけをしました。そして、二人だけで神社で写真を撮ったりしようと思っていたところ、親がきたのです。びっくりしました。親が来たので、お嫁さんの方の親にもきちんとご挨拶が必要だということと、仲人さんを立てようということにもなって、ばたばたでした。
仲人さんになって下さった方に急きょお願いすると、事情を理解して引き受けて下さいました。そしてなんとか二日後に、両親四人と私たちと仲人さんの八人で式を挙げました。
仕送りは続く
結婚をした当初の部屋が狭かったので、十二月に大きいアパートに引っ越しましたが、翌年の二月に火災に遭ってしまいました。雪の降る強風の朝、洗濯しているときで、私が第一発見者でした。
消防車が来ても、火元は消さないで、消火活動は周りに火が移らないことに注力するんですね。私たちの部屋は炎の中。私は女房の貴重品や大事なものを取りに煙の中を入っていきました。しかし、後ろから女房に引っ張られてとどまりました。そこでもし、入ってしまっていたら、命はなかったと後で思いました。女房に命を救ってもらったのです。
火災の後は、服も靴も全部燃えてしまって出勤できないので、いろんな人に助けていただきました。物をいただいたり、義援金を会社が募ってくれたりで、三日後には出社できました。
新婚はこんな感じで始まって、物もなにもなくなって、またゼロからのスタートでした。
そんな中でも、実家がやはり気になっていました。反対を押し切って結婚したものですから、「結婚したら嫁さんにぞっこんで、岑生は家のことを忘れた」と思われたくないという気持ちもあって、妻の給料そのままを送金し続けていました。
新婚であり火災にもあって、自分たちのものを揃えたいにもかかわらず、仕送りを続けました。でも、やはり私たちもぎりぎりだったので、途中仕送りが途絶えてしまうときもあったんです。
そのとき親父がわざわざ来て「なんとか仕送りを続けてほしい」と頼まれました。「通帳を見せてみろ」と言われ、通帳を見せたら、どうにもできないことがわかって帰っていきました。
親父は働けるのに、仕事をしても長続きしませんでした。南京では警察として働いていたので、その恩給があったのですが、子どもが八人もいたので生活は苦しかったのです。
私が大阪に転勤になったときに、働かない両親に就職を世話してあげました。母には有馬のほうのお金持ちのお手伝いさん。父には和歌山のつばき温泉。しかし、働いても半年しか続きませんでした。
今思うとくやしい・・・
女房は五歳上なんです。結婚を反対されたのはそんなこともあったんですね。私が二十四歳で結婚したので、彼女は二十九歳。そういう年齢差もあって、家がこんなに大変なのに、お前は何を狂ったのかと言われました。だけど、私は家のことは忘れてないわけですよね。
どうして、寮に入って三年後の二十二歳の頃に、寮を出てまで弟を引き取って面倒みようとしたのか・・・。
今回、聞き書きをしていただくということで、自分なりにメモして自分の歴史を紐解いていきました。そうしたら重大なことに気が付いたのです。
親父がいわゆるDV、家庭内暴力で悲惨だったのです。子どもたちが食事していればそれをひっくり返したり、なげつけたり大変でした。母は恐怖にいつも震えて、死のうともしましたが、子どもたちのために生きなくてはいけない、そんな状況でした。
そんな母をいつも見ていて、母を助けなければと思っていました。そういうふうに幼い心が固まってしまった。母が言うことはどんなことでもしなくてはいけないと思った。だから、無理してでも平気で、自分のことより、優先してね。ふつうは断って、自分の将来のことをまず考えますね。育てられないくらい子どもを産んだ親の責任ですから。
それに気付かなかったことが、今思うと悔しくてしようがないと思いました。書いていて自分なりに涙がでてきました。
大阪にきて、両親に仕事を紹介した後にも、できる範囲で仕送りはしていたのです。しかしあるとき、両親が創価学会に入っていることが分かりました。活動の一つとして献金もあって、母は熱心に活動していたのです。
苦労して出したお金がそっちに回っているのかと悲しくなり、それからは仕送りするのはやめました。女房は仕送りについては何も言わずに我慢してくれて、生活のためお金が足りないと、女房の実家に助けてもらったりしました。僕はそのときはそれを知らなくて、あとで話してくれました。
しかし、兄弟は僕以外は創価学会に入ってしまい、両親の亡くなった後の家と土地の遺産相続で、意見の相違がありました。自分が身を削ってしていた仕送りに、理解と感謝がないことが分かり、非常に残念な思いがありました。
妹が中学を卒業して働きながら夜学の高校に通っていたころ、勉強がわからないということで、私は通信教育として毎日のように添削をしてあげました。私は九州工大の夜学に通いながら自分の勉強もして、添削もしてという毎日だったのです。
そんなこともしてあげたのに、こんな関係になってしまうなんて情けないです。創価学会に入っていないことも原因にされました。やはり両親の教育が悪かったんでしょうね
こんな実家の家族とのやるせない出来事や思いがあった私を、囲碁が救ってくれました。囲碁が浄化してリフレッシュさせてくれたのです。その話はこれからしますね。
第三の青春が始まった!
福岡から大阪に転勤、同期入社第一号で係長に昇進し、八年間、夢中で働いていました。
それから三十四歳の時についに東京に転勤してきました。私の人生はそこから始まりました。第三の青春のはじまりです。
東京では仕事関係でいろんな人と知り合えるようになって、その中で三井物産の木村さんという方に出会いました。その方は囲碁が強い師範の方で、親しくなって教えてもらうようになりました。
そこから今の囲碁の人生が始まりました。それが四十五歳でした。異業種交流会木村教室を立ち上げて、木村師範に囲碁を習ったことで人生が開けました。また、触れ合い囲碁の安田敏春九段を紹介していただきました。
東京の本社から定年になる前に出向して、その出向先から再出向して働きました。最初の出向先はとてもよかったんです、私も思い存分働きました。
次の出向先では、お客様から会社にいろんなクレームがたくさんありました。そこで、品質管理、納期管理の改善を社長に提案したら、首になってしまいました。ちょうどそれが五十八歳でした。
退職して、これから先はどういう人生を描いていこうか考えました。
タイミングよく、東京都が主催のシニアボランティア研修会があって、参加することにしました。世の中にはどういうボランティアの活動があるのかとか、ボランティアの仕組みを勉強し、ボランティアの体験もあって、二年くらい勉強しました。
いよいよ六十歳になってようやくそのときがきました。
ちょうど江東区にボランティア連絡会というのが発足した年で、私もそこに参加しました。会場にはボランティアに興味のある方々が来ていて、四十名くらいいました。それぞれどんなボランティアをしていきたいかを発表するのですが、賛同する人はグループを作っていくわけです。
私は「子どもに囲碁を教えたい」ということを提案して、「これに賛同する方は手を挙げてください」と言ったら、四名が手を挙げてくれました。
そこから「ホタルの碁」という団体を作って活動をはじめました。
「ホタルの碁」スタート!
近隣の小学校や、幼稚園、保育園に囲碁を教えに行くというボランティア活動のはじまりです。最初はボランティアセンターの部屋を借りて、そこで開催しました。しかし、参加者は、最初はわりと来たのですが、だんだん減ってきました。
やはり待っているのはなく、ニーズのあるところに教えに行くのが大事だということになり、幼稚園や保育園、児童館、小学校に行って教えるということにしました。
「ホタルの碁」という名前は、そこに行って教える、飛んでいってあかりを灯すという意味でつけました。
最高では八つの学校に教えに行って大会もやりました。
私たちのグループで広げるだけでは、マンパワーが知れているので、江東区全体が学校単位で囲碁大会をやってくれるように、区長とか関連団体に呼びかけましたが、区はその提案に乗ってくれません。
江東区には加藤正夫という名誉九段という囲碁の名人がいて、その方のご協力で「こども囲碁大会」といって、参加したい子どもが申し込んで対戦するという催しがあるのです。それが十年目で、今年が十一年目。
私が提案したのは、区内の学校単位で対戦していく「江東区小学校対抗囲碁交流大会」です。学校ぐるみの取り組みには地域の人も応援したくなって、囲碁を地域の人が学校に教えにきてくれることになる。学校のみならず地域ぐるみで盛り上がって、高齢者とこどもたちのつながりもでき、生きがいにもなる。囲碁のまち江東区になっていくというのが夢で、その提案なのです。
そこで区の協働事業を提案できるシステムがあったので、そこに提案したのですが、採択されませんでした。では採択された事業はどんなものがあるのかと見てみたら、僕の提案も引けをとらないくらいいいのになぜだろうと。
提案しても採択されないのなら審査員になってみようと、ちょうど募集があったので応募しましたが、残念ながら落ちてしまいました。
そうやって続けてきているのです。
私はいま、幼稚園に教えに行くことに一番情熱が盛り上がっています。何も知らない子どもたちに、だけど一つ一つが新しくて、教えたことが芽になっていく。小学生より感受性が強いからどんどん吸収していきます。
六十歳過ぎて新しい仕事が
私は六十歳からこのボランティアをはじめたのですが、同時に、六十歳になって失業保険をもらうためにハローワークに通って、仕事の紹介を受けました。
電検三種といって、私の高校でも一、二名しか受からないような難しい資格ですが、高校三年生のときに取っていたので、その資格のおかげで、仕事を紹介してもらいました。
行くつもりがなくて面接と試験を受けたのですが、採用が決まりました。では、同じ働くのならもっといい条件はないかと、それから積極的に探しました。比較検討して絞り込んで、行ってみた会社がとてもよかったので、その会社で七十六歳まで働くことになりました。
出先の仕事ではやりがいを感じていましたが、だんだんコンピューターを使っていく仕事になっていくので、若い人には追いつけなくなって、ストレスを感じながら働いていました。
女房からは「そんなに忙しいのならボランティアを辞めなさい」と言われましたが、「このボランティアがあるからこそ、仕事での辛さも乗り越えていけるんだ。もし、ボランティアを辞めるのなら仕事も辞めるよ」と言いました。
そして、会社からも毎年毎年、契約社員の更新を頼まれました。
私の人生は実家の貧乏があって苦労しましたが、東京にきてから人との出会いがあって、新たな人生が花開いたという感じです。
来年で八十歳になります。三月二十五日は電気の日で、はじめて日本が電気を灯した日ですね、電気に関するいろんな催しがあります。その電気の日に、八十歳になって電気事業に貢献した人を表彰する卒寿功労賞というのがあります。私は七十歳から七十六歳まで勤めた会社に推薦されまして、経歴書を出しました。だから三月二十五日はきっと表彰されます。
次の目標はオリンピック
私の次のターゲットはオリンピックです。一人で思っていてもだめなので、宣言することにしました。たまたまボランティアセンターのパンフレットを更新するというので、次なる計画はオリンピックで観光客に囲碁を教える文化交流をすることを載せました。
そのためにボランティアセンターや連絡協議会に協力をお願いしました。区会議員の川北議員がいるのですが、その活動報告を兼ねた忘年会に行ってきました。区長や東京都の議員も来ていたので話しました。東京オリンピックの際には、日本の伝統文化を紹介するコーナーをぜひ設営してほしい。そこで私は観光客に囲碁を教えたいと。
あとは、オリンピックの際に囲碁の会場が設営されても、いざ外国の方に教えようとしたときに話せないのでは困るということで、英語の勉強を始めました。
開催まであと二年あるので、それまでには話せるようになるのではと思っています。今も待ち時間に英会話の勉強をしていました。目下の目標はそれです。
妻が元気でいてくれて、私もそういう活動ができるような状況があるのが一番です。それを心配しながらでは、活動に打ち込めないですからね。
体験することが大事
小学校の囲碁のボランティアでは年度の終わりのときに、子どもたちに感想文を書いてもらっています。自分たちの励みにもなります。
幼稚園や保育園では保護者の方にアンケートを書いてもらうのですが、保護者の一人から難しいので簡単に教えてほしいと意見がありました。
囲碁の教え方には二通りあります。囲ったら取れるというのと、最後は陣地の広い方が勝ちということで、陣地の広い方が勝ちというところに到着するためには、いろんな手法があります。
囲ったら取れるというのは簡単なので、それだけでいいのではという意見もありました。でも、せっかく囲碁を習って、幼稚園を卒業したときに「囲ったらとれる」というのだけでは、本当の囲碁を知っているとは言えません。もったいない。
どうしたらいいかと思って、保護者にアンケートをとりました。非常に楽しんでやっていて、「囲ったらとっただけでいい」という考えの方はほとんどいませんでした。陣地を広くとるというやり方は、守るための戦い方で、方法や作戦が広がって、ものすごくおもしろいのです。
幼稚園には六十名の園児がいて、「ホタルの碁」の仲間七人で教えていています。幼稚園のこどもたちは対局が楽しいのです。わからないなりに、対局すればわかってきます。三回戦では、最後には勝った子どもたちがみんなの前で対戦します。静かながら必死で、真剣な対戦を幼稚園児の皆で見ます。幼稚園で教えて今年で七年目です。
小学校で囲碁を教えていると、上手い子どもがいるんです。どこかで習ったのかと聞くと、大町先生に習ったと言うんです。嬉しいですね。幼稚園には一時間を年に三回教えに行っているんです。その三回だけですが、やりがいがあって楽しいです。
小学校に教えに行っているのは、土曜日に学校がお休みで、地域に開放しているときです。地域の方が先生になって、こどもたちに料理や太鼓、英語や中国語、サッカーなどを教えている「ウィークエンドスクール」というのが、年に十回あります。
もう一つ、放課後の一時間、学童保育でも教えています。教えたときは必ず宿題を出します。年度末には出席と成績と感想を書いて、級位を決めて、修了式に級位認定証をあげます。子どもたちの記念にもなりますし、思い出にもなればいいと思っています。
覚えてどんどんレベルが上がってくる子どもがいますが、その子に合わせて教えていると、ほかの子がついてこられなくなるので、常に同じレベルで教えています。一年目に教えて、二年目、三年目にも来る子もいれば来ない子もいます。
囲碁を理解して、もの足りなくなればこちらの狙い通りです。興味を次の興味に移してもらえればいいのです。
世の中には学ぶべきおもしろいことはたくさんありますから、囲碁はその中の一つでいいんです。将来大きくなったときに、また囲碁をやりたくなったときにやればいい。子どもの時にちょっと知識が入っているととっつきやすいんです。大人になって初めてだと考え込んでしまって、次の手が進まない、子どもは直感でぱっとできます。
要するに体験させることが大事なんです。勝ったりすると自分の自信にもつながります。また、負けて泣く子もいます。みんなの前で泣いてしまったら、ほめてあげるんです。
「この子は強くなる、悔しい気持ちが大事、こういう気持ちで打たないとだめなんだよ」とね。
あとがき
大町さんは、長身でおしゃれでダンディーで、七十九歳とは思えないほど若々しい印象の方です。落ち着いて丁寧に話してくださり、とてもエレガントな印象でした。
ご実家のことではご苦労が続いていらっしゃいましたが、それを乗り越えた強さと優しさがお話の中でずっと感じられました。
囲碁を通してのボランティアで与えること、貢献することをされています。子どもたちに囲碁を通して何を伝えていきたいかという思い、オリンピックや将来の夢を語る大町さんは輝いています。未来に輝く子ともだちのために、子どもたちの持っている力を信頼してじっくりその芽を育てていく取り組みは、大町さんの心をも豊かにしていくのだと思いました。
また、大町さんの奥様がずっと大町さんのことを支えていらっしゃることに、偉大さを感じました。
大町さんのチャレンジ精神と情熱は、聞いている私も、何か力が湧いてくるような気持になりました。ありがとうございました。
ききがきすと:柳瀬晶子
posted by ききがきすと at 20:54
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高知でのダンス三昧の日々
『ユリヤ』が柳町に移った、その年の春に僕は明治大学を卒業して、高知へ帰ってきました。高知で踊ってましたよ。当時は高知にもダンスホールがあって、最初は上町の『山本ダンスホール』に通ったなぁ。これは、僕の姉が行ってたんよ。次は『中の橋ダンスホール』だったかな。それから得月楼のちょっと裏手の東の方、浦戸町に『ガーデン』っていうダンスホールがあって、もう、そこへは夜な夜な通いました。
けどね、高知のダンスはダサいと思いました。東京はね、例えば、五反田の『カサブランカ』とか、新橋の・・『フロリダ』だったかな、きれいなダンサーがいっぱいいたんです。しかも、生バンドでダンスが踊れたんですよ。
そのころ、ちょうどアメリカのフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を観たんです。いわゆるタップダンサーで、「トップハット」とか、「キャリオカ」とか、いろんな映画に出た人です。それで今度は、タップダンスを自己流で踏み始めたんですよ。まぁ、バカなことしたもんよね。高知には、そんな就職先はないし、それに、タップを教えるほどうまくはなかったし。
だけど、ジャズとリズムと、そして足を踏み鳴らして踊る、そのハーモニーが好きでした。こんな格好のいい、おしゃれな世界はないと思いました。今でも、僕はそういう世界に憧れています。もう80歳を超えて、とてもダンスはできなくなったけど。・・まぁ、社交ダンスなら、ちょっとしたジルバぐらいはできるかなぁ。うーん、もう複雑なステップはできないね。
何にしろ、好きなものがあるっていうのは、ありがたいですよ。学究肌の人は、研究とかね、頭をつかう。けど、僕らみたいなぼんくらは、要するに手足を動かして、耳から入る音楽、ジャズを聴いて、あるいはタンゴの調べを聴いて、かっこよく踊るというのが、そのころの青年たちの、不良の遊びだった。今の子は、どうしているのかなぁ。
要するに、このドラ息子ときたら高知に帰ってからも、ダンスが高じてずっとキャバレーに入れ込んでいたってわけです。家業の『ユリヤ』がうまくいっていることをいいことにね。
その当時ちゃんとしたバンドがいて、ダンスが踊れるのはキャバレー。『椿』とか『リラ』、『ABC』とかね。そういうところに限られていました。そこへ毎晩通ったんです。やっぱりキャバレーは高いわね。それに、一人ではよう行かんから、また不良の友達を連れて行くわけですよ。いいかっこしてね。
まぁ、随分、はちゃめちゃ遊んだよ、あの頃は。今考えると、僕しか、あぁいう遊びはできなかったろうね。一応、僕のダンスは東京じこみだから、キャバレーでも、あいつはダンスはうまいなと。そらそうや、おまえらみたいな田舎もんとちゃうぞ、ってなもんよね。
ホームバー『フランソワ』の誕生
どうも僕には喫茶店での仕事が性に合わなくてね。ぶらぶらしとったですよ。そのうちに今の『フランソワ』の土地を両親が買いました。そこにあったバラックを壊して建て直し、ここで住まいをしようと考えたんです。
まぁ、2階、3階は住まいでもいいけど、1階は貸店舗にしようかとなって、けんど、1階だけ貸すのはいかんなぁ、と言い始めた。それなら、僕がバーをやると言うと、親父がなんと言ったと思う?「バーなんて、止めておけ。そんなもの、商売にならん。ウナギ屋やれ」言うたんですよ。「ちょっと待って」と。
まぁね、ウナギを焼くぐらいは俺も、やってやれないことはない、と思いましたよ。親父はウナギが好きだったからね。けど、「あのニョロニョロ動くウナギをね、あれの腹を裂くなんて、そんなむごいことは俺はできん」って言ったんです。それで、「親父、やるかえ」って返すと、親父もなにも言わなかった。それで、ウナギ屋は終わりです。
親父やお袋から、キャバレーとかバーへ飲みに行かんようにとさんざん説教されて、もうしょうがないから、自分でバーをつくる、となったわけです。それが『フランソワ』の始まりですよ。外へ飲みに行かんように、ホームバーにした・・・、バカなことよねぇ。それが昭和40年のことです。
しかし、最初の頃は、まったく儲けなかったんです。友達はたくさん来るけど、僕のことだから全部貸しです。俗に言う貸倒れ。そのはずよ。みな、昼間は競輪競馬へ行ってやね、すっからかんで飲みに来るんだから、金はないよね。そんなのに貸して、何百万も貸倒れになりました。
フランソワの前に立つ鈴木さん →
また、当時のことなら、支払いは盆暮れにまとめて。そういう昔からの習慣がありましたからね。県庁の役人とかの公務員や商店街の旦那衆とかは、盆暮れが多かったんです。しかし、盆暮れにでも払ってくれる人はまだまし。さすがの僕も、ちょっと待てよ、これじゃいかんとなった。これは、現金商売にせんと、どうやってもいかんぞと。
だから、料金がもっと安くなるようにしました。舶来酒ばかりでなく、国産酒も入れたりね。もう現金だけで商売しようと考えたわけです。それでなんとか、『フランソワ』がもったわけですよ。そうなるまでに10年くらいはかかりましたね。
僕の自慢はね、貯金がないこと。けど、なんとか日銭は稼げる。なんとか食っていけるわけ。今、これで食っているからね。まぁ、赤字にならんように、現金商売で。それが、一つの転機だったね。これは、やっぱり商売の鉄則だろうね。
『フランソワ』でカクテルをつくる
お袋に「章弘、おまえ、これが帳面やけど、お客さん結構来てるけど、全然お金がないよ。仕入れのお金もない」と言われて、それなら、よし、これ売ろうかと思ったこともあります。けんど、さぁ、売ってどうするということもない。そしたらね、東京だけじゃなく京都でも随分遊んでいた、その僕の胸に漠々とでも浮かんだのは、カクテルだったんです。
東京から帰って、『ユリヤ』を嫌々でも手伝っていた9年の間に、よく京都で遊びました。姉が京都に嫁いでいたので、ゆっくり3年ほどは遊んだかなぁ。京都に『サンボア』というカクテルの店があって、寺町にその本家があるんですが、そこの中川古鹿(ころく)さんというおじいちゃんに本当にお世話になりました。とってもおしゃれな方でね、動作が実にきれいなんです。その古鹿さんに憧れて、その京都『サンボア』へ夜な夜な通うことになり、それで、弟子入りしたいとまで思いました。でも、そこは息子が6人、男ばかりいて、結局、無理だったけどね。
『サンボア』本家は長男が跡を継いで、そして、次男、三男は喫茶と、酒屋をやっていました。四男の志郎と僕とは同い年で、その志郎が祇園でやっていた店も成功して、今は孫の時代になっているはずです。それで、京都には『サンボア』が3軒あるんですよ。本家の寺町と祇園、もう一軒は六男の清が始めた木屋町。今でも交際が続いています。
ちょうど祇園表通りからひとつ南に下がったところに、今でも八坂中学という学校があります。その前辺りからお茶屋街がずーっとあって、そのお茶屋の一角に『祇園サンボア』があるんです。これは山口瞳が本に書いてもいますよ。
それがすこぶる美しい名文で、たいへんな評判を呼び、今や京都を代表するバーになっているんです。そこへ行くと、お茶屋街ですから、現役の芸子さんなんかがちょいちょいお座敷帰りにお客さんと飲みに来てますよ。あぁ、京都っていいなって思うね。
僕は、祇園は敷居が高くて入れなかったから、よく上七軒とかいったなぁ。もう一つランクが下のお茶屋街が上七軒と他にもあったけど、どこやったかな。そんなところで、お茶屋遊びらしいこともやってましたね。
東京とか京都で不良している間に、僕はこんなふうにカクテルバーへ出入りして、こんなハイカラな世界があるだろうかと思いました。普通のバーは、サントリーのウィスキーならそれを出すだけ。だけど、カクテルは、酒と酒、あるいは酒とほかの飲み物をベースに調和させる。そうして新たなものを生み出すものなんです。
また、高知にも、そういう先駆者がいましたよ。高井久五郎(きゅうごろう)という人で、戦前大阪のキャバレーでバーテンダーをやっていたと聞いています。この人は愛媛生まれだったけれども、縁があって高知へ来て、野村デパートの食堂主任なんかやっていたそうです。
戦後はね、今の京町の野村証券のところ、あそこに『シルバースター』というキャバレー第一号ができて、そこのマネージャーをしながら、バーテンダーもしていました。僕らの大先輩です。この人がやがて独立して、『555(スリーファイブ)』を始めました。この店は、今の中種の葉山、あそこの裏にある路地にありました。すばらしいバーでしたよ。
こういう商売は、おしゃれじゃないと駄目です。清潔感はもちろん必要だけれど、それだけではいけない。僕がいくらダンスが好きでも、ここで踊るわけにはいきません。せめて、シェーカー振ったり、お話しする中でかっこよく見せる。
格好は、とても大事なことです。この世界で一流バーテンダーと言われる人は、みなおしゃれです。本当におしゃれ。おいしくつくるということは、おしゃれに振るということとイコールでなくちゃいけない。いわゆる、あちゃこちゃ、あっちへ走り、こっちへ走りすると、俗に言う「あいつは野暮だなぁ」ってことで、野暮ではできません。
おしゃれも、本物を知る第一級のおしゃれでないとね。僕が長年やってきたバーテンダーのスタイル。これは、世界共通です。ほら、外国のね、パリやロンドン、ニューヨークのバーマンは、本当におしゃれですよ。かっこいいんです。
カクテル西洋事情
ヨーロッバでは、カクテルは街中のバーではなくてね、ホテルバーなんです。日本とは違います。アメリカンバーという言葉があって、ヨーロッパでは、カクテルバーのことをこう呼ぶんです。
イギリスのアッパークラス、上流階級は、訪問客があったら、午後にシェリー酒を出すという習慣があったんですよ。まぁ、言わば、貴族の習わしですね。お茶とケーキを出すか、それに合わせて殿方にはシェリー酒を出す。それが高じて、カクテルも出すようになる。
だから、カクテルタイムとか、カクテルアワーというのは、まだ明るいうち、いわゆる午後から夜にかけてであり、カクテルはその時間帯に供する飲み物だったんです。
英国やフランス、パリでね、ホテルバーでカクテルを飲むというのは、その頃の有産階級の一つの象徴でしたよ。バーでカクテルを飲む、非常に贅沢な習慣だったわけで、それは、いまだにありますね。まぁ、ロンドンは別として、今でもパリの街中にカクテルバーは非常に少ないんです。あそこはワインバーか、あるいはホテルバーのどちらかでカクテルを飲む、そういうお国柄なんです。
アメリカ映画とか英国映画、フランス映画、イタリア映画などには、そういう酒を飲むシーンがふんだんに出てきて、僕は大いに感化されました。その一番いい例がアメリカの有名な「カサブランカ」という映画です。パリから亡命したアメリカ人、それがカサブランカの街でアメリカンバーをつくるんですよ。アメリカンバーというのは、カクテルバーのことです。そこで飲むのが、シャンパンでありワインであり、カクテルなんです。映画でそういう世界を観たんです。
それから、アメリカ映画でもう一つ、「花嫁の父」という映画がありました。その中で家の庭で娘の結婚式の披露宴をする、ガーデンパーティの場面がありました。それを観たのは高校1年くらいのときだったかな。そのときに、マティーニが出てきたんです。「マティーニには、まだ早いよ」というせりふがあって、なぜか僕はそういう文化に魅せられたんです。”It’s too early to drink a martini”「マティーニには、まだ早いよ」という、その謎が解けず、ずっと心に残りました。
なぜマティーニには早いよ、と言ったのか。マティーニというのは、いわゆるカクテルタイムで飲むには違いないけれど、非常にアルコール度数が強いんです。だから、早いうちに飲むと酔いつぶれるよという意味を兼ねてる・・。おそらくね。
これがいまでいう、アペリティーフ(aperitif)、食前酒です。マティーニは、食前酒ではあるけれど、ものすごく強い。ヤンキーとか西洋人は胃袋が丈夫だからいいけれど、日本人はあれをすきっ腹でやると、もう飯が食えなくなる。そういうシロモノ。人気はある。永遠のカクテルです。
マティーニで有名なのが、もう一つ。チャーチル・マティーニです。マティーニというのはね、ジンとベルモットだけ、それをミキシンググラスでこうしてつくるんです。チャーチル・マティーニというのはね、ジンだけ入れて、ベルモットをちらっと横目で見るだけで、ジン・マティーニをつくる。これがチャーチル・マティーニ。それだけ彼はドライが好きだったってことですよ。
一番のお宝、英国のカクテル・レシピ本
もう一つ、007マティーニ、これもまた面白い。有名な007の作者というのはね、日本へも何度も来たことがある、飲んべえのイアン・フレミングで、この作家はマティーニが大好きなんです。007マティーニ、これはスパイを意味します。英国人の地酒であるジンではなく、ウォッカをつかう、ウォッカ・マティーニなんです。また、マティーニいうと全部ステアー(*かきまぜる)なんですが、それをステアーでなくて、シェイクするんです。
けどね、それには訳がある。昔のロンドンカクテルの文献を見てみると、マティーニはステアーではないですね。1930年のサヴォイのカクテルブックにはシェイクとあるんです。ドライマティーニは、全部シェイクなんです。
だから、その007の作者、イアン・フレミングは、ソ連側のスパイというのでドライ・ジンをウォッカに替え、しかも、シェイクというので、非常に新鮮に映ったんです。けれど、実は、時代は繰り返すで、戦前は、マティーニはステアーでなくて、全部シェイクだったんです。その文献がね、これですよ。
『ザ サヴォイ カクテル ブック』って本でね、これは、たいへんな貴重品です。僕の一番のお宝なんです。ザ・サヴォイというのは、ロンドン・サヴォイ・ホテルのことで、僕はここへ2回行っています。
1930年ということは昭和5年ですね。昭和5年に、この本が刊行されたんですよ。そのときのマティーニは、・・(本に目を通しながら)・・いいですか、マティーニ(ドライ)は、フレンチバムース・・これはベルモットのことです。英語読みしたらバムースになるんですね。フレンチバムース1/3に、ドライジン2/3。これを、Shake well と書いてある。つまり、シェイクなんです。しかし、今はね、マティーニいうと全部ステアーなんですよ。
シェイクとステアーの違いは、シェイクの場合は、カクテル・シェイカーへ氷入れてシェイクしますわね。シェイクというのは、揺るがすということです。これは何を意味しているかというと、空気を入れるということです。
ステアーというのは、逆に空気を入れない。液体だけの澄み切ったもので供するためにステアーするんです。シェイクは、酸素を入れる。そこに違いがある。大きな違いです。これが今から80数年前に、もうすでにシェイクだったんですよ。マティーニは全部シェイクで、ステアーではなかったんですよ。
例えば、(本を見ながら)マンハッタンなんかね、これもシェイクでしょう。この頃は、全部シェイクなんですよ。ここに、ステアーが出ている。マンハッタン・カクテル・スウィート。ステアー、ウェル。これですね。ステアー。マンハッタンは1930年代にすでにステアーやっていた。
カクテルの酒を替えると、カクテル名が変わってくるんです。これは、ライオウ・カナディアン・クラブという。ライはライ・ウィスキーのこと。ライ麦のウィスキー。あるいは、カナディアン・クラブ。カナディアンというのは、ライ・ウィスキーのこと。こういうレシピがちゃんと出ている。
また、この本は石版刷りですよ。石へ絵をかいて色付けして、それを印刷に用いたものです。非常に貴重な文献ですよ。面白いでしょう。これが、サヴォイで、いまだに現存しています。ロンドンへ行く機会があれば、ぜひとも、サヴォイホテルへ寄ることを勧めますよ。
こちらの本はね、カフェ・ロワイヤル。これは、ピカデリーサーカスの近所にある大きなレストランです。バーレストラン。このカクテル文献も素晴らしいですよ。
ここに面白いことを書いてある。これ、ターリングという、その当時のバーテンダーが書いた本なんですよ。W・J・ターリング、カフェ・ロワイヤル。これがね、1937年。ここにコロネーションってあるでしょう。いわゆる戴冠式のことですよ。今のエリザベス女王のお父様、つまり、ジョージ6世の戴冠式の年に発行したカクテルブックということです。
これには、その当時の風俗画が描かれています。例えば、これはいわゆるレビューですよね。こういう世界とカクテルというのは、歓楽の世界感と交わるところにある。つまり、こういう世界だったんですよね、80年前はね。面白いでしょう。
さらに、面白いことにね、ここ見てください。『ツー ブラザー ジョセフ・ベッツ』。ブラザーというのは兄弟だけど、まぁ言わば弟分、彼の弟子だったんですね。『ウィズ エターナル ベストウィッシュ、フロム オーサー ターリング』。作家からベストウィッシュを持って君に贈ると、直筆で書いていますよね。1946年。これは、昭和21年ですよ。
カフェ・ロワイヤル。これはフランス語読みですよね。向こうでも、フランス語読みがハイカラだった。人品卑しからぬジェントルマンが出入りするバーレストラン。これも、ロンドンです。
この2冊を僕は、神田の古本屋で見つけました。いくらで買ったか忘れたけれど、結構高かったですよ。ここに神田・田村とあるでしょう。神田の神保町にある田村という古本屋。今でも神田にあると思いますよ。
『フランソワ』の灯りをつなぐ
今の高知にも、いいバーテンダーはたくさんいます。この頃は、女性のバーテンダーもいて、チェコのプラハの世界大会で優勝した高橋直美さん。彼女は高知で頑張り続けて、何回もチャレンジしてね、やっと栄冠を仕留めたんです。素晴らしい。今は銀座の八丁目あたりの外堀通りの『ガスライト・イヴ』というところで働いています、店長で。
やはりファッションの生まれる街といえば東京だろうけど、高知だって「しゃれもの」は結構いますよ。高知は高知らしいファッションが生まれて当然だと思います。その高知で、『フランソワ』のネオンを消さずにいきたい。その願いをかなえてくれたのは、三好誠さんです。
彼はね、広島県の福山生まれで、高知大学の学生だったんですよ。学生時代にバイトでうちに2年か3年いたかなぁ。それから、いったん就職したんだけれど、その後ちょっと体を壊して、高知へ遊びに来たんです。
「どうしてるんだい」と訊くと、「今は何もしてません」と言うから、「じゃ、うちを手伝ってくれ」となったわけです。それからもう20年近くになるかなぁ。
フランソワの店内 →
僕はやっぱりね、ちっぽけな店ですけど、この『フランソワ』、大好きなんですよ。だって、僕のホームバーだもの。僕は、ここでね、文章書いたり、手紙書いたり、本読んだりするんですよ。ちょっと一杯やりながらね。
店は、昭和40年に建てた当時と、ほとんど変わっていません。窓に『フランソワ』と描いてますわね。あれは実は、金文字なんです。表から見るとわかるけどね。これは、金紙を貼っています。これは僕の自慢でね。今から25年ほど前に改装するときに、つくってもらいました。でも、改装は入り口や窓の部分だけで、基本的な部分はいっしょです。カウンターやこの棚の辺りの感じもね。50年前と変わってないんです。
あの当時は、いわゆるデコラの時代でね。つまり、材木だけでは大工賃が高くつくから、デコラを張ったんです。カウンターも全部、デコラを張っています。デコラが流行ったのは、工賃が安いわりに耐久力が強いからなんですが、これは面白くない。と言うのは、いくら年が経っても古さがでないんですよ。まったくない。
この枠なんかもデコラですよ。木材に樹脂を張っている。変わらなくていいとも言えるけど、僕は面白くない。大失敗。本物をつくりたかったからね。けどね。まあ、それも仕方ない。これも、そうした時代を象徴する一つの工材だったからね。
大好きな高知の街、生き生きと自由であれ
我ながら、僕は恵まれてるなと思いますよ。やはり、家族、特に両親を思うとね。これくらい不良のドラ息子を長い目で見てくだすった。それから、姉は姉で、またそれを承知のうえで、僕によくアドバイスする。それはそれで、ありがたい。やっぱり姉弟愛だなぁと思うんですね。
それと、今の家内はね、こんな水商売なんか、まったく向かない女です。まったく酒も飲まないし、おしゃべりもできないしね。それでもなんとかやってきてくれました。だって、ほかの仕事しろと言われても、僕にはほかの仕事はできない。
これはもう私の天職ですよ。それは今、この年になって初めて言える言葉かもわかりませんね。若いときは、そんなこと関係なく、夢中でやってたからね。
ずっと暮らしてきた、この高知の街、僕、大好きでね。でも、今の高知は、僕らみたいな不良には、ちょっと住みにくくなった気がするね。不良は良きにあらずですが、その反面、ほかにない自由を感じる。これが不良だと思っています。
したいことをする、見たいものを見て、聴きたいものを聴く。あの自由な感覚ですよ。まぁ、これから世の中がどんなに変わっていくかわかりませんが、高知には、生き生きと自由な、そういう本物の文化が根付いて欲しいね。
あ と が き
鈴木さんは、軽く洒脱な語り口で、昔の新京橋界隈の暮らしや、青春の日々、東京や京都での経験について生き生きと聴かせてくださいました。私も同じ高知県に生まれ育った者ですが、遠くにアドバルーンを見ながら、あそこがお街と憧れた田舎の子。ハイカラな街っ子のエピソードの一つひとつを物語のように面白く聴かせていただきました。
明るい話しぶりに、戦争を挟むたいへんな時代だったことも忘れ、笑いを誘われることも度々で、こういう方が戦後の日本を楽しく、魅力的に色付けしてくださったのだと改めて思ったことです。昭和一桁生まれのモダンボーイの魅力を、少しでもお伝えできれば幸いです。
また、今回、岡内富夫さんが、この冊子の表紙にと、『フランソワ』を描いてくださいました。街のやわらかな風まで感じさせる2枚の素敵な絵に、心から感謝いたします。
なお、昔日のバーテンダーの方々については、資料の入手が難しく、確認できないまま記載させていただいた部分があることをお断り申し上げます。
ききがきすと:鶴岡香代
posted by ききがきすと at 22:15
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かたりびと:鈴木章弘(あきひろ)さん
ききがきすと:鶴岡香代
昭和7年12月22日、僕は父・正一郎(しょういちろう)と母・静(しず)の長男として、高知市新京橋35番地に生まれました。男の兄弟はなく、純子(すみこ)という2つ違いの姉がいます。
高知といえば、四国の中でも田舎には違いない、地理的には田舎に違いないけれど、その高知にあっても、戦前の新京橋(最終頁*1参照)といえば、まさに中心商店街。都会的というか、早くいえば、ハイカラな街で、そこでの暮らしぶりというのは、田舎とはまったく違うものでした。
今は中央公園になっているあの辺りを、戦前・戦中は、新京橋商店街と呼んでいました。新京橋の名称は今も若干残っていますが、もともとは、あの広い公園から堀詰へかけての一帯のことで、当時は新京橋という橋が本当に架かっていたんです。
戦前の新京橋界隈を知っている人はもう少なくなりましたが、街とその外では、まるで別世界だったわけです。だから、当時、みなが街へ行くと言えば、それは特別なこと。ビルを見て、店を覗いて、洋食を食べる。それから活動写真、今の映画ですよね。もちろん、テレビはない時代ですから、活動写真を観て、おうどんを食べて帰るというのが娯楽であり、最大の楽しみだった時代です。
街のデパートにアドバルーンが上がっていて、市内ならどこからでも見えましたよ。戦前、戦後を通じて、昭和30年代までかなぁ。あれが街の一つの象徴、シンボルだったんですね。あそこがみなにとっての街、行ってみたい街だった。だけど、僕は子どものときから、その街で暮らしてきてますから、そういう生活しか知らんわけです。
まぁ、小学校を卒業する昭和19年頃まで、僕はずっと新京橋に住んでいましたから、街っ子だし、今でいう「ぼんぼん育ち」ですよ。名が章弘ですから、子どもの頃はよく「あきちゃん」とか、「あっきん」とか、「ぼん」とも呼ばれてね。いやー、まぁ、ばかぼんですわ。
うちは商家でした。もともとの出は琴平なんですが、祖父の時代に博打で勘当をくらって、高知へ移ってきたそうです。祖父は鈴木時計店の看板を上げて、時計商をしてましてね。その棟並びで、僕の両親が鈴木写真館をやってました。
その時代の一番のお客さんというのは、やはり兵隊さんだったんです。高知には、今の高知大学になっているところ、あそこに陸軍の44連隊がございました。そこから戦地へ赴かれる兵隊さんが、新京橋で活動を観て、そして、腕時計を買って、記念写真を撮る。そうして戦地へ行ったのですよね。
だから、うちの商売というのは、兵隊さん相手に、まぁ、早くいえば、ぼろ儲けしたんです。あの頃は、軍人さんはたくさんいたし、金持ちでしたよ。だから、僕は何不自由なく育ちました。
ハイカラ感覚は幼少時から
母の生家は高岡郡波介村岩戸、今の土佐市ですが、母の父、つまり僕の祖父は早くから街へ出て、鳳館(おおとりかん)という映画館をやっていました。これは、堀詰の電停前にあって、家からほんの数分とかからない。子どもに人気のチャンバラ映画ばっかりやっていましたよ。だから、学校から帰ってきたら、叔父の家へ遊びに行くか、鳳館で活動写真を観るか。そりゃ、恵まれていましたね。
それで、こういうどうしようもない男、ばかぼんが生まれたってわけ。でも、街育ちのばかぼんしか知らない世界、特別な世界がそこにあったんですよ。ちゃんとした家庭で育っていれば、・・・もっと不良になっていたかな。
だけど、僕は田舎の楽しさも知っていますよ。夏休みの楽しみは、母の生家へ遊びに行くことでしたから。そこで田舎での生活を満喫したものです。野や山で鳥を獲ったり、ウサギ狩りに行ったり。よその家の畑の桑の実をつまんで、食べたりもしたなぁ。その時分は、おおらかでした。秋に行けば、柿が生っているし、栗もたくさんあったしね。
柳原幼稚園っていうのがありましてね。いいところのぼっちゃん、おじょうちゃんの行く幼稚園だったんですよ。この辺りにも幼稚園はありましたが、姉が行っていたから、僕もそこへ。当時も幼稚園というのは2年あったけれど、僕は1年だけ通いました。
今の乗出しをまっすぐ南へ下がって、東の角。下がると坂でね、その西にある沈下橋の前に忠霊塔があって、その隣が柳原幼稚園でした。戦後は競輪の選手の宿舎になったと聞きました。
家は商売しているから、母は忙しい。まったく子やらい(最終頁*2参照)はしないで、女中さんとかいましたよ。だからってことじゃないけれど、僕はね、よく幼稚園をさぼりました。もう、そのころから、みなと一緒に授業受けるとか、遊戯するとか、そういうのがまったく嫌でね。
途中の山内神社のところへね、エビ玉や箱瓶(最終頁*3参照)を隠しといて、それでね、幼稚園行くと言って行かずに、日がな一日鏡川で魚獲ったり、エビ獲ったりして、それで帰ってきよったね。そんな家庭に育ったから、まぁ、なんともだらしのない少年だったわけです。
幼稚園の頃から自転車に乗ったりもしていました。おやじはオートバイに乗っていたしね。家のすぐ近所にデパートもあったんです。野村デパート。中央食堂へ上がるエレベーターがあって、僕は、その食堂へ行くのが楽しみでした。
今でいうハンバーグステーキね。あれを、僕ら子どもの頃はミンチボールって言っていました。ミンチ肉をボール状にしてね。僕は、お子様ランチなんて、あまり食わなかったな。ちゃんと大人の食べる洋食、例えば、ビフカツとか、あんなのが好きだったね。外でよく食べたものです。
当時にすれば、実にハイカラな生活ぶりです。その気持ちをね、いまだに僕は失ってないつもりです。別に田舎の子を差別するわけではないですよ。けれど、おれは街でハイカラにやっていこうと。それは、子どものときも今もいっしょです。だから、現在、こういう洋酒バーを家業にしているのも、そういうハイカラ趣味がそうさせたのかもしれませんね。
ぼん、高知女子師範の附属小学校に通う
小学校は、高知県女子師範学校の附属小学校に通いました。昔はね、先生を養成する師範学校というのがあったんです。今の高知大学の教育学部ね。当時の師範学校は男子と女子は別で、男子は今の附属小・中学校のある小津町に、女子は潮江にありました。女子師範は、第二高等女学校と附属小学校を併設していて、小学校から女学校、女子師範と教育を一括する学校だったんです。今は、潮江中学校になっています。
本来の校区は第三小学校、後の追手前小学校だったから、僕ら、ごく一部の子どもだけが、新京橋から潮江橋を渡って通学したわけです。今、帯屋町に大西時計店がありますよね。当時の大西は、東店と西店という兄弟の店でした。今残っているのは、西店のほうです。そこの息子たちと一緒に通ったものです。
近所のガキ友達はみな第三小学校だったし、女子師範なんて小学校の名前に女子が付くのも嫌だったなぁ。「お前はねぇ、ばかぼんで、えいし(良い衆の意味 最終頁※4参照)の子やったから、ほんで附属へ行ったんだ」と言われたものです。
学校から帰れば新京橋界隈のガキとも遊ぶけど、僕は遊びも飽きっぽいんで、もう馬鹿らしくなったら、一人で家へ帰って好きな本読んだりしてました。だんだんと遠く感じるようにもなってね。そうして自然と一人で遊ぶことが多くなっていったかなぁ。環境も大きかったですね。
附属小学校は、一学年に男子25人、女子が28人の、本当に少人数の学校でした。男女共学は1年・2年まででね。3年からは男子組、女子組と分かれて授業を受けたもんです。決められた制服がありましてね、制服、制帽、帽章で通いました。
ここには、いろんな地域から子どもたちが来ていましたから、いろんな友達に出会いました。いわゆる、えいしの子ばっかりで、国家公務員とか学校の先生の娘や息子とか、そういった感じでした。
その頃、今の高知大学の前身の旧制高知高校というのがあって、そこのドイツ語の教授であった米原先生の息子が、同じ組にいたんです。米原君と僕は仲が良くて、いろんな思い出がありますね。
附小はね、やはり模範学校ですから、子どもの遊びで、これはやっちゃいけないというのがいくつかあったわけですよ。普通メンコといいますが、高知ではパンという、ボール紙のカードをパンパンたたいてけ落とす遊びよね。あれはだめ。ビー玉がだめ、コマ回しもだめというように、子どもが好きな遊びは、ほとんど学校ではできませんでした。
あとね、日月いう、けん玉。あれは、学校でやりましたよ。基本的には、けん玉を持っていくのも、禁止されていましてね。それをカバンの隅っこに入れて、昼休みなんかに米原君とよくやっていましたねぇ。
米原君の家は旧制高知高校の官舎で、小津町にありました。新京橋からそこまで歩いて遊びに行きました。その当時の高校生が盛んにやっていたのはラグビー、相撲とボート。それから、テニスもよくやっていましたね。なかなかハイカラでしたよ。僕らはテニスのボールをね、よくかっぱらいに行きました。
子どもの僕らが野球をするのにぼっちり(最終頁※5参照)でね。今も小津町には官舎がありますよ、附属小学校・中学校の北にね。
『へなちょこ』ぼんの中学受験
僕らの中学受験は、昭和20年の春、終戦の直前でした。僕ら男子は、城東、海南か、市商へ行くものが多かったね。25人のうち、一番できるやつは城東中学校、今の追手前高校です。それから軍人の息子たちは海南中学へ行く。今の小津高校ですね。商売人の息子は、市商、高知商業ね。
それから、器用な子は高知工業。女子は第一高女。これは丸の内高校ですよ、今の。それから私立の土佐高女、今の土佐女子ですね。ほとんどがそこへ行きましたね。
僕はね、叔父が海南へ行っていたこともあり、ぜひ海南を受けたいと思っていました。将来、軍人になるという気持ちはまったくなかったけれど、海南が男らしくていいと言ったら、叔父が「おい、あっきん。君は海南、無理や」と言う。なんで無理かと問うと、そこは軍人学校でね、教練がきついぞと。おまえのへなちょこやったら、それこそ付いていけんぞ、言うて脅されてね。
じゃ、教練の一番やさしい中学校はどこかと問うと、叔父はしばらく考えて「それは土佐中くらいのもんやな」って答えたんです。土佐中は僕が通っていた附属小学校のすぐ東やから、よく見かけたし、じゃ、土佐中を受けようかとなりました。
この叔父は、母の一番下の弟で、山本幸雄(ゆきお)といいます。昭和2年生まれでしたから、僕とは5歳しか違わない。僕の一番の遊び相手で、子どものころから「叔父さん」なんて呼んだことはない。「幸雄さん、幸雄さん」と呼んで、兄弟のように育ちました。高知新聞に長く勤めて、80歳で亡くなりました。
結局のところ、土佐中学校を受験し、なんとか滑り込みましたよ。僕たちの小学校の秀才二人は、学校推薦で入ったんですけどね。昔は、そんなこともあったんです。その同級生二人はね、土佐中、土佐高と出て、東大へ行きました。やっぱり頭のいい子は違うなぁと思いました。
僕らは推薦組じゃなくて、土佐中学校を勝手に受けたんです。そうして、終戦直前の土佐中に入ったんです。
高知市大空襲で、すべて焼けて
土佐中学校に入学した年の7月4日に高知市は大空襲にあいました。高知駅からはりまや橋、桟橋まで、また、上町までの電車通り沿いはことごとく焼け野原になって、全部見通せました。住まいも店も、学校も全焼しました。
夜が明け始めたころ、空襲が始まりました。夏の夜明けですからね、4時か、5時頃。父母は新京橋にいましたが、僕はじいさんのいわゆる寓居というか、土佐中のすぐ近所にある別宅にいました。
じいさん、ばあさんと一緒に逃げたわけだけど、じいさんというのがへそ曲がりで、絶対に防空壕に入らない。僕は、いったん、ばあさんと防空壕の中に避難したんです。出たときには、じいさんは大やけどしていて、子ども心にも『これは、いかんな』と思いました。
しかし、それを介抱する手立てもなく、そのまま置いて、高見の方へ逃げるしかありませんでした。どんどん焼夷弾が落ちてくるからね。高見まで行くと、空襲はまったくありませんでした。ほんの2ブロック、その差でしたね。
帰ってみると別宅は全焼。仕方なく与力町に住んでいる叔父を訪ねましたが、そこもまる焼けでした。その叔父と僕と姉と、あと2人の親戚の子を連れて、その5人で、その日のうちに波介村、今の土佐市にある母静の生家まで歩いて行きました。
親父やお袋がどうなっているか、わからんままね。じいさんも心配でした。親父がオートバイで探し回って、なんとか見つけたものの、じいさんはもう大やけどで、結局、その日のうちに病院で亡くなったって。これは後から聞いたことです。
大嶋校長のもと、土佐中学校の再建
7月4日の高知市空襲で、住まいだけでなく土佐中の校舎も焼けました。木造でしたから、ほぼ全焼です。4月に入学して、学徒動員で6月に麦刈りに行って、その後すぐ焼けてしまったものですから、たいへんでしたわ。しかし、その当時の大嶋光次校長というのは、これはすごい方やったね。
もともと土佐中学校は、宇田、川崎という両財閥が私財を投じて創った学校です。幕末から明治にかけて、高知県は龍馬をはじめ、谷干城らいろんな素晴らしい秀才を輩出してきました。そういう傑出した人物を育てる、英才教育に特に力を入れるということで、宇田家と川崎家がお金を出して創った学校なんですよ。
ところが、敗戦になり財閥が解体されて、もう川崎家、宇田家からはお金が出なくなりました。大嶋校長は、当時の進駐軍、GHQね、これは県庁にあったんですが、そこへ行って、高知県の総司令官と面会し、土佐中学校の再建への支援を願い出たんです。
旧校舎、後方に女子師範も見える →
当時、浦戸の航空隊というのがありました。それから、今の高知龍馬空港、あれは、当時、海軍の飛行場だったんです。それらをアメリカ軍が占領し管理していました。その瓦、材木でよければ、大嶋さん、君にあげる。ただし、それを持ち運び、建てるのは学校でやってくれ、となりました。
その作業に僕たち生徒も動員されたんです。あの当時は4年生が最上級でしたが、みなね、農人町から大きい木造の船に乗って、日章まで取りに行ったんです。太平洋に出て、そうして瓦や木材を運んで、農人町へ荷揚げして、農人町からはトラックへ移しかえて。そうやって土佐中まで運んだものです。
それを僕らは、3年ほどやらされた。自分たちで棟材、瓦運びをやって、バラック校舎を建てたわけです。大嶋校長のもとでね。
当時の『悪りことし』中学生
土佐中学校は、僕たちから1年あとの27回生までは男子校でしたが、28回生からは男女共学になり、女子も入るようになりました。いろんな人に入ってもらって、入学金も取り、授業料も上げたんです。それまでの僕らの授業料は非常に安かったですよ。
というのは、宇田・川崎の財閥が運営していたからね。お金のない頭のいい子を寮へ入れて面倒をみていました。学費だけでなく、寮生活させて食べさせ、すべてをみたんですよね。そういうよき時代でした。僕ら、悪りことしは別で、ちゃんと授業料を払ってましたけどね。
中学生の悪りことしというのはね、まず不良の真似をするんです。不良はなにをしているかというと、詰襟のボタンを外して、帽子をちょっと斜めにかぶる。それからタバコを吸うんです。これが不良のしぐさです。それにみな憧れていました。これは、アメリカ映画の影響も大きいね。アメリカ人が、うまそうにタバコを吸うんですよ。
高知へもアメリカやイギリス、オーストラリアから進駐軍が来てたでしょう。そこから親父がタバコを買ってくるわけですよ。キャメルなんかね。その親父が買ってくるタバコをよく盗み取りして、僕は中学3年から吸ってたんです。まさに不良だね。だけど、秀才面してタバコ吸うのも、結構いましたよ。僕は、勉強せん、ぼんくらだったけれども、真似だけは一応やった。
後は女学生とね、ほとんどが土佐女子だったけれども、一緒に鏡川でボートに乗ったりしてね。今でいうデートです。うん、楽しかったですよ。土佐女子の女の子なんか、これも不良ですよ。まじめな生徒は来ないからね。
美味しいお汁粉屋があるとか、あそこのあんみつがうまいとか言って、よくその女の子たちと食べに行ったものですよ。僕も甘いものが好きだったから。不良っていっても、かわいいもんです。懐かしい思い出です。
あの頃の懐かしい映画の数々
母方の祖父がすぐ近所で映画館をやってたせいで、幼少時から映画は僕の生活の一部でした。まずは、鳳館のチャンバラ映画ね。僕の好きな俳優は、雲井龍之介とか、大乗寺八郎だったね。紅トカゲといって、覆面して、白地に紅のトカゲの柄の着物を着て、それでチャンバラする。その真似をしたもんや。それが僕の日課だったよ。
戦前は映画を活動写真といってました。おもに大都映画で、日活なんかもチャンバラ映画が主体だったなぁ。あと、松竹、東宝の現代ものがありましたね。いわゆる新派です。
昭和13年、映画を観に初めて叔母と行きました。それが『愛染かつら』で、僕にはちっとも面白くない。もう金輪際、新派の映画は観ないぞと思ったね。当時は、『旅の夜風』という主題歌と、上原謙と田中絹代が演じた津村浩三、高石かつ枝の恋物語が大評判だったけど、僕はまだ小学校へ上がる前。子どもが観たって面白くないわね。
でも、映画館へあんなに行列して入ったのは、初めてでした。それが、今の高知大丸のところにあった世界館という松竹の封切館だった。僕は、それまで、ほら、チャンバラばっかり観ているでしょう。上原謙や佐分利信は、後で知るんですけど、そんな現代ものなんか面白くないわけよ
。
けど、その当時、桑野通子という女優さんがいてね。子ども心にね、素晴らしくきれいな女優さんやなぁって思ったんです。この人は、東京のダンスホールでダンサーやってて、そこで映画界の方にスカウトされたと言われていました。非常にモダーンで、いわゆるスーツ、帽子の似合う女優さんでしたね。
そのあとが、高峰三枝子とか小暮美千代とか、あのクラスです。その時代になると、みなさん、よく知っていますよね。
戦後になると、外国映画もよく観るようになるんですが、子どもの頃からずっと、僕はこんなふうに映画三昧の生活でした。
初めて上京、そこで見たのは・・
昭和26年に、僕は初めて東京へ出ました。土佐高校(最終頁※6参照)は私学だから、公立より早く卒業式があって、大学受験するからと2月に東京へね。けど、僕は全然勉強してなくて、受かるわけないんですよ。友人はみな、東大とか京大とか、私立では慶応や早稲田とかに行きましたけど、僕はそんなの通るわけはない。親には受験すると嘘をついて、東京へ遊びに行ったんです
。
僕はやはり日本人ですから、上京してまずしたことは、皇居遥拝でした。東京へ着いた翌日、皇居へ行って、二重橋の前で最敬礼しましたよ。その帰り道、日比谷公園のほうで、人がバタバタと走っている。なんのこっちゃと思って、追っかけていくと、「マッカーサーが出てくるぞ」と言う。
極東軍最高司令官ジェネラル・ダグラス・マッカーサー。天皇陛下よりも偉かった人ですよ、当時は。僕も走って見に行きましたよ。
ちょうど昼ご飯の時間帯、GHQ、今の第一生命ホールのところでした。昼は家族と一緒にランチをとるので、車で出てくるわけです。家族はアメリカ大使館に住んでいましたからね。今の第一生命ビルを見てもわかるように、柱がそびえ立ち、石段もかなり高い。その両脇でGIが捧げ銃をしてね、そこにマッカーサーが出てくるんです。
マッカーサーは朝鮮動乱で北爆をやると言って、トルーマンと喧嘩して、首になる。ちょうど、その時期なんですよ。その証拠には、それからすぐ後の3月か4月に、彼は解任されて、アメリカへ帰るわけです。
そのマッカーサーが出てくるって、ものすごい人でした。僕はすばやかったから、一番前へ行ってね、手持ちのカメラでマッカーサーの写真を撮りました。初めての東京見物の第一の収穫は、このことでしたね。
もう一つの収穫は、お堀端に今もある帝国劇場で観た『もるがんお雪』です。帝国劇場は、今は改装されてくだらん建物になっていますけど、昔の帝国劇場は立派だったですよ。
『モルガンお雪』は、アメリカ人のJ・P・モルガン、いわゆる銀行家の金持ちと日本の芸者との恋物語を菊田一夫が脚色、演出したものでした。僕はそのころ、菊田一夫は知らなかった。でも、モルガンを演じたのが古川ロッパ、お雪さんが宝塚を退団したばかりの越路吹雪で、それは楽しかったですよ。
僕、ほやほやの高卒の18歳でしょう。入場券は結構高かったと思うけど、そこで『モルガンお雪』を観て、わぁ、東京やなぁと思いました。
次に有楽町へ行くと、日劇ミュージックホールというのがありました。日本劇場という、円形のホールの中にね。映画とレビューを交互にやっていて、ものすごくいいダンサーがいました。
ちょっと外人ばりの、手足の長い、日本人離れしたダンサー。それで、僕も、今度は一生懸命ダンスを練習しようなんて思いましたよ。
高知へ帰ると、お袋が「どうだった」って訊くから、「いやー、受からんかった」って。受からんわけよ、受験してないんやから。それだけね、ひどい息子だったんです。お袋は、随分悲しくて、頼りなく思っただろうねぇ。
学生時代はダンスとバイトに明け暮れて
この後、東京の予備校へ行くからと嘘をついて、また、東京へ出ました。駿河台予備校と言う有名な予備校。今でもあると思います。行く言うて、行かずに、また、遊んでいたわけ。昭和26年から27年にかけてです。
でも、そのあくる年に、今度はちゃんと明治大学を受験しました。受けに行っただけじゃなくて、明治大学商学部へ入学したんです。早稲田へ行きたかったけど、早稲田、慶応はお金がたくさん要るから。明治も学費は要ったけどね。
それが不思議なことに、受験の半年くらい前に、明大の春日井教授・・だったかな、その先生と電車の中で偶然、向かい合わせになってね。「君は今、どうしているか」って訊かれて、「僕は今、高校出て浪人中です」と答えたんです。そしたらね、「今度、うちの明治へ来たまえ、そして、僕のゼミを受けたまえ」って。
僕は、教授がそう言ってくれたら、もう無試験で入れるもんとばっかり思って、世田谷のその教授宅を訪ねたんです。すると、「バカ言っちゃいけないよ。ちゃんと受験してもらわなくては困る。合格したら、僕のゼミを受けに来なさい」と言われました。
それで、なんとか滑り込んで、『よし、春日井教授のゼミ受けるぞ』と。だけど、ゼミに入るには試験があったんですよ。20人くらいしか採らないから、試験するんです。受かるわけないわ。そりゃ、難しかった。
春日井教授は、経済学の先生。いわゆる近代経済です。教授のゼミを受けた者は、その当時の一流銀行、第一銀行とか三井、三菱銀行とか、野村證券とかへ採用になるというわけよ。俺なんかが通るわけない。ゼミの試験で入れんのだから。やはり、大学はすごいなぁと思ったね。
それで、僕の学生生活は、麻雀と玉突き、それと音楽で始まりました。レコード喫茶というのがあってね。ジャズ、タンゴ、シャンソン。もう、いろんなところへ行きましたね。楽しかった。明治大の先輩にハイカラな遊び人がいて、レストランとか洋酒バーとか、それからダンスホールにも連れて行ってもらって、不良を仕込まれたわけ。まぁ、素質もあったんだけどね。
そのかわりアルバイトもしましたよ、キャバレーでね。その当時、銀座のキャバレーは、昼間はダンスホールになっていました。だから、昼はダンスを覚えて、夜はキャバレーでウェイターのバイトをやったりしました。
そのうちに、バーテンダーの空きができたんです。ある先輩がとんずらしていなくなってね。「お前、まぁちょっとやってみろ」となって、それで、バーへ配属され、そこでまねごとを覚えました。
今思い起こすと、銀座に『機関車』というバーがあって、そこへ先輩が連れて行ってくれたんです。そこで生まれて初めてカクテルを飲みました。後から知ったことだけれど、その時のバーテンダーが鈴木雋三(しゅんぞう)という、後の日本バーテンダー協会の会長になった人です。僕のお袋と同じ明治43年生まれのバーテンダーでね、もちろん故人になっています。有名な『クール』の古川緑郎(ふるかわろくろう)とかね、名だたるバーテンダーが活躍していた頃の銀座。『機関車』も、あの時代を代表する銀座のバーの一つでしたね。
ちょうど朝鮮動乱のあとで、所得倍増の時代が始まろうとしていた頃ですよ。景気はずっと右上がりで、キャバレーにみなよく来ました。有名人も悪も、金持ちもね。僕はバイトをしながら、なんとか食いつないでいました。昼間はダンスホールに行って、夜はキャバレーで働いてという、そういう生活を続けて、ダンスの腕は上がりました。
母の商才で喫茶店『ユリヤ』開業
家業の方はというと、戦後も写真屋を続けていましたよ。進駐軍のヤンキーがフィルムを欲しがって、物々交換が始まったんです。ヤンキーも金がないものだから、タバコ1カートンをおやじのとこに持ってきて、それと撮影用のフィルムを交換するんです。
ちょうど中学生の生意気盛りの頃でね、僕も下手な英語を使ってやってみましたよ。ところが、全然通じないんよね。テン、ツエンティと言うと、テンはテンですけど、20をツエンティとヤンキーは言わない。トニー、トニー言うんよね。俺、なんでトニーって言うんやろうと不思議でね。20円だから「ツエンティ円」って言うと、「テン、トニー?」って訊いてくるわけですよ。そんな思い出がありますね。
進駐軍からもらったものは、タバコだけじゃなかったんです。オーストラリア人なんかは、バターとかチーズを持って来ていました。これも田舎の子は知らんわけで、「おまえ、チーズ食ったことあるか」って言うと、「いやー、ない」。それで、俺がチーズの缶詰を渡してやると、なんか旨いような、不味いような顔して食ってましたよ。
そんなわけで、我が家には、コーヒーの缶詰、MJBとかヒルス&ブロス、それにハーシのチョコレートとかまでが山のようにありました。すべてフィルム欲しさに進駐軍が持ってきたものだったんです。その一方で、日本人はまだカメラとか、写真を写すとかいう余裕がなかった時代で、家業の写真屋はじり貧になるばかりでした。
そんな中、うちのお袋は商才に長けてたものだから、『よし、これで喫茶店やろう』となったんです。それが『ユリヤ喫茶店』の始まりで、まずは上町4丁目に立ち上げました。昭和22年だったかな。これは大当たりでした。
昔の新京橋大西時計店辺り →
その後、焼けた新京橋の店の辺り一帯を中央公園にすることになり、代替地として帯屋町をくれたんです。今は『池田洋装店』と紳士服の『原』になっています。2店とも大きな店舗ですよね。2ヶ所に分かれたのをもらったけれど、どうしようか。喫茶店をするには帯屋町は向かんだろうと考えているとき、柳町の角っこに売地が出たんです。だから、帯屋町の替地を売って、そこを買い、喫茶店を上町から移して、そこで新たに始めました。
それが、昭和31年だった。『ユリヤ』では、親父がコーヒーを焙煎して、お袋がパンケーキ焼いたり、おぜんざいつくったりね。夏は氷が評判でしたよ。クリームぜんざいとか、ピーチアイスクリーム。当時はまだまだ珍しかったからね。お袋も親父もハイカラ好きだったから。まぁ、今考えたら、特にお袋はえらかったと思うね。
(下巻に続く)
<参 照>
※1 新京橋:
新京橋は現在の高知大丸前に架かっていた橋で、この橋のすぐ西に当時の高知を代表する繁華街の一つである新京橋通りがありました。鈴木時計店と鈴木写真館は軒を連ねて通りの南側にあり、堀詰電停前だった鈴木さんの母方祖父の映画館鳳館も、すぐ近所でした。当時はみな、堀詰で電車を降り、新京橋、京町と歩き、映画を観たり買い物をして、はりまや橋からまた電車に乗って帰ったそうです。
※2 子やらい:子どもの養育の意
※3 エビ玉や箱瓶:
エビ玉は直径約12pで柄の長さ約20pの小さな玉網。箱瓶は底にガラス板を嵌め込んだ木製の箱型のもので、蓋はなく、これを水中眼鏡のように使って川底を見ながら魚を獲った。
※4 えいし:良い衆の意。土佐弁では、「良い」を「えー」「えい」と言う。
※5 ぼっちり:土佐弁で、ちょうど・過不足がないの意。
※6 土佐高校:
鈴木さんが入学した土佐中学校は、昭和22年4月1日に新制中学校を併設、昭和23年4月1日には新制高校に昇格し、校名を土佐高等学校、土佐中学校と改めた。
posted by ききがきすと at 22:16
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家族にささげた青春時代
私は昭和12年11月11日、中国で生まれました。戦争が終わって5歳の時、福岡県へ引き揚げてきましたが、生活は苦しく厳しい時代でした。父は引き揚げ後、三池炭鉱に就職して社宅住まいでした。当時は姉、弟、妹の4人兄弟でしたが、その後4人増えて8人兄弟になりました。
私は生活のために、社宅内をリヤカーで貝を売りに回りました。中学校の修学旅行は旅費が出せず、行けなくて辛い思いをしましたが、仕方ありません。
高校に入ってからは大学へ行きたいという思いがありましたが、家庭が苦しいものだから、高校にすら行くこともむずかしかったんです。そのために、まず姉が中学を卒業した後、岐阜の大垣というところへ、紡績工場の女工として集団就職をしました。その時のお別れの会で、姉の涙が今でも忘れられません。姉のおかげで、私は高校に行けるようになりました。
後に姉は亡くなりましたが、ある社長さんに見染められて、2号さんみたいな生活をしていました。その後、そこを辞めて、お金をいただいて帰ってきました。それで土地と家を買ったので、実家のほうは生活ができるようになったのです。だから兄弟に、姉のことだけは忘れてはいけないよ、と言うのです。
親友のとの想い出
中学からの同級生で、山崎という親友がいました。お父さんは事故で亡くなり、お母さんは三池炭鉱の選炭婦として働いていて、彼の家もまた貧しくて大学へは行くことはできません。
成績が良くトップクラスだった私は、大学を目指したかったのですが、兄弟が多く貧しくて、いくことはできません。そこで山崎と一緒に大学の受験だけして、もし合格してもいかない・・・という条件で受験しました。二人とも見事に大学に合格しました。しかし、その満足感を残したままで、就職をしました。
当時は就職難で、私は就職試験の筆記試験では受かるけど、面接で何度も落ちました。先生から、面接でなにを聞かれて、何と返事しているのかと問われました。自衛隊は憲法違反かどうかという質問に、私は憲法違反だと答えていたのでした。それで、試験を3社も受けて、みな落ちてしまい、なかなか次の会社を受けられなくて、待機をしていました。
その時、八幡製鉄所を志望の友人が別の会社に合格したので、私が替え玉で、八幡製作所を受験して合格しました。その時の面接では、先生のアドバイスを受け、自衛隊の憲法違反のことは言いませんでした。これで、もし落ちたら、三池炭鉱に入る予定にしていました。
親友の山崎は三池炭鉱に就職しましたが、後に塵爆発事故がありまして約460名の犠牲者が出てしまい、彼もその中にいたのです。私がもし山崎と一緒に、三池炭鉱へ就職していたら、爆発事故に遭って、あの中にいたのか・・・と思いました。
学歴の差を感じた職場
北九州の八幡製鉄へ入社してからは、職場や待遇の面で、学歴の差を肌で感じて愕然としました。それで、九州工業大学の夜学を受験し、通い始めました。ところが、入社した後の学歴は認めない、というのです。後1年で卒業というときに、2部制大学(夜間5年)の設立を知り受験しましたが、落ちてしまい、夢は途絶えてしまいした。
その後、その悔しさを胸に抱え、聴講生の資格で2年間授業を受けました。それが22歳の時です。
当時は仕送りをしながら、会社の独身寮へ入っていました。しかし親が「中2の弟の面倒をみてくれ」といってきましたので、寮を出ていかなくてはならなくなり、アパートを探し移りました。そのうちに、弟1人では寂しいだろうと、妹まで来たんですよ。やがて弟が高校進学のころになり、進学相談にも保護者として、若い私が行きました。
妹が中学卒業後、住込みの店員をしながら夜学に通っていた時に、勉強が分からないので教えてと、手紙がきていました。それで、添削して返してあげる、通信教育が始まりました。そこ頃、私は仕事をしながら、大学の夜学へ通っていましたので、自分の勉強もしたかったのですが、妹の方を優先しました。睡眠時間も少なくて、過労状態でした。
反対されゼロからの結婚生活
実家への仕送りや兄弟の面倒をみながらの生活で、私も苦しかったんですよ。そんなとき、同じ会社の事務の女性の方と、通勤の電車で会う機会が増えるようになり、お互いの身の回りの事情を話すようになりました。私の仕送りだけでは足りないので、結婚したら女房の分がそっくり送れる、という気持ちもありました。
でもそういう条件では、プロポーズもできないと思っていたら、そのことを理解してくれて応援する、というので結婚することにしたんです。
それで、彼女を親に紹介するため実家に行きました。兄弟たちも集まりましたが、冷ややかな目で見て、唖然としていました。皆は、私を将来の大黒柱と思っていたんですね。私が24歳、女房は29歳。そういう年齢差もあって、反対されました。
その後、父親が会社の人事部長に、「この結婚は認めない、別れさせてくれ」と手紙を書いたんです。でも、周りが反対すると、ますます気持ちを通したくなりました、私の意志は固く、式を挙げる日のお知らせだけをして、二人だけの結婚式を実家に伝えました。
そうしましたら、両方の親がきてくれまして、もうびっくりしましたね。慌てて仲人さんもたてて、二日後に、私達と両親8人で式を挙げました。
結婚後は共稼ぎで、嫁さんの給料は全額を仕送りしました。大きいアパートに移りましたが、12月に越して、3ケ月後の風の強い日に、お隣から出火し全焼しました。その時、私も必死に消火活動をしましたが、消防車は私の家は消さないで、延焼しないようにと周りを消すんです。
私は妻の貴重品などを取りに、煙の中へ入って行ったんですね。そしたら、後ろでグイッとひっぱるので見たら、女房が「止めておきなさい」と言うんです。そのおかげで命が助かりました。入っていたら焼死ですものね。
3日後に夫婦共に出勤するようになりましたが、みな焼けてしまい何もないです。会社から社宅を借り、資金カンパを受け、服などもみなに貸してもらいました。そういうことで、新婚生活ということは勿論なく、本当にゼロからのスタートでしたね。
再三、実家より仕送りの催促
でも、実家の方は気になっていました。反対を押し切って結婚したものですから、嫁さんにぞっこんで家のことを忘れたのでは、と思われたくありませんでした。自分の物を揃える必要もあるけど、仕送りは続けていました。生活が大変で、途中で仕送りが途絶えたこともありました。
すると、親父が田舎から出てきて「何とか、もう少し仕送りできないか」と言うので、「できないと」答えました。「貯金通帳を見せて」と言われ、見せたら、残額がないのを見て納得し、帰って行きました。
なぜ苦しい生活の中でも、家族に送金していたのかというと、父親が仕事をしないからです。そのうえに、子供たちが食事をしていても、台をひっくりかえしたり、物を投げつけたりと、家庭内暴力で家の中はめちゃめちゃでした。
死のうとまで思ったけれども、子供たちがいるので生きていかなくてはいけない、という母親の耐えてきた姿を、ずっとみてきました。
だから、自分は無理してでも、母親を助けなくてはいけない。母にはどんなことでもしてあげよう、それが私の役割だ、という気持ちが、固まり強くなってしまったのです。自分のこれからの人生や、将来のことなどを考えることすらできませんでした。
父親は以前、警察勤務をしていた恩給が入っていたので、それで生活ができると思っていたのですね。引き揚げ後は三池炭鉱に勤めましたが、辞めたりして長続きしない。でも子供がたくさんいるから大変ですよ。
それで、父親を和歌山の椿温泉に、母親は芦屋でお手伝いさんと、仕事の世話をしました。でも、二人とも長続きしなくて、半年間で家に戻りましたので、また、できる範囲で送金していました。
実家の家族全員で入信
時々帰省する時がありましたが、あるとき、両親や兄弟は創価学会に入っているのが分かりました。その活動の一つとして、寄付をしていたのです。それも情熱を持って・・・。苦労して出したお金がそちらに回っているのかなと思って、支援を止めました。後に女房から聞いた話ですが、女房は生活費が足りないと実家へ行って、お金を借りていたとのことでした。
実家に帰るたびに、入会を進められましたので、もう行かなくなりました。私以外の兄弟は、全員入りました。私だけ入らなかったので、兄弟たちから非難されました。
両親が亡くなり、遺産相続の問題になりました。貧乏をしていて財産は無いけれども、家と土地を兄弟で等分しようと提案したのですが、納得してくれなかったのです。それは、私だけ学会に入っていなかったからですね。そこで、裁判にかけることになったのですが、そんな価値はないんですよ。
調停まで行っても結論がでなくて、裁判の時間も費用もかかるので止めました。そんなことがあり、その後、兄弟との縁を切ったのです。こんなひどい関係になるのかな・・・と、情けなくなりました。子供のころは面倒をみたのに、兄弟から感謝の気持ちや、恩義はあってもしかるべきだと思いましたがね。
新たな人生の始まりは囲碁
大阪勤務を経て、私が45歳のときに東京へ転勤になりました。そこで、囲碁のプロ級の腕前の三井物産の「木村さん」に出会い、囲碁を教えてもらいました。そのことが、人生の分岐点となり、私を救ってくれました。そして、その後のボランティア活動が、私を浄化してくれたのです。
やがて東京の本社も定年になり、いろいろな会社に出向となりました。ある会社で、お客様からのクレームがなくならないのは、ちゃんと品質管理をやっていないからだから、やらないといけない、ということを社長に言ったら、クビになってしまいました。58歳のときでした。
私は、ゆくゆく60歳からどのような人生を描いていこうか、と考えていました。その時に、東京都が主催する「シニアボランティアスクール」というがありまして、どのようなやり方や、どういう活動のエリアがあるのかを勉強し、ボランティアの体験を2年くらいやりました。いよいよ60歳になったので、その時がきた、という感じでした。
江東区で「ボランティア連絡会」が発足した年で、興味を持った人が40人くらいいました。やりたいことに賛同する人で、それぞれグループを作るんですね。そこで私は、子供たちに囲碁を教えることを提案しましたら、4名が賛同してくれました。2000年の「ホタルの碁」の誕生です。蛍が飛んでいってそこに灯りをともす、という意味です。
最初はボランティアセンターに部屋を借り、囲碁の会場を作って、案内を出しました。はじめのうちは来たんですけど、だんだん減っていくんですね。ここに来なさい、教えますよ、ということではなく、そういうニーズのあるところに行かなくては、と近隣の小学校や幼稚園、児童館に教えに行くようになりました。
江東区には、子供への普及を熱心にやっている加藤雅夫名誉9段が創設した、「江東区子供囲碁大会」があり、10年経って、もっと発展させようと活動しています。
それとは別に、江東区全体での「学校対抗囲碁大会」をやって欲しいのですよ。なぜなら、地域の人が学校に教えに行き、子供とのつながりを持てば、お年寄りが教えてくれることに喜びを感じ、より勉強するので良いことですね。
そういう提案を区長や関連部門に働きかけるけど、なかなか実現は難しいですね。そのようにして「囲碁の町・江東」を夢見ているんです。
60歳になり、失業保険をもらいにハローワークに行って、就職する気はなかったのですが、働く意欲を示さないといけないので、求人を申し込みました。「電検3種」の資格をもっていたので、仕事に就くことになり、76歳まで仕事とボランティアの両立で忙しくて、ストレスがたまっていました。
女房から「そんなに忙しいのならボランティアを辞めなさい」と言われました。しかし、ボランティアがあるから仕事ができていたのです。
囲碁でいきいきの子供たち
私は、幼稚園児に教えている時が一番情熱的になる時ですね。やり始めて、今年で7年目、60名の園児を8名の仲間で教えています。なにも知らないところに、ひとつひとつ入っていって覚えて行く。小学生より感受性が強いですね。
囲碁は難しいですけど、教え方は2通りあるんですよ。やさしいやり方は囲って取る方法で、難しい方は陣地を広げて行く方法です。やさしいやり方だけでいいのでは、という意見もありますが、囲碁の本当の事を理解してもらいたいので、私は両方のやり方を教えています。
よく理解していない子も、いざ対局になるといきいきしてきて、すごく盛り上がります。負けて泣き出す子もいますが、その時は皆の前で、悔しい気持ちを持つのは大事だよと誉めてあげると、その子は強くなりますね。
小学校では月に1回、学校が土曜日休みの時「ウイークエンドスクール」といって地域に開放して、子供たちに何かを教えるという制度があるんです。たとえば、料理、踊り、太鼓、サッカー等があります。そこで囲碁を2時間10回コースで教えています。
もう一つは「ゲンキッズ(元気な子供の意味)」といって、働いているお母さんが帰ってくるまでの放課後に教えています。子供たちに宿題を出し、成績、感想、出席などで総合評価を出して、級を決め認定書を渡すと、とても喜んでくれます。
何年も来ている子は物足りなくなりますが、それが狙いです。次の興味に向いて、いろんなことに挑んでもらいたいです。将来、大人になって囲碁をやりたくなったら、また、その時にやれば良いでしょう。いろんな事を体験させることが大事なのです。そして、日本を背負う子供たちが礼節を重んじ、生きる力を育むことができるようになることです。
オリンピック・パラリンピックに向けて
オリンピック・パラリンピックの時は、海外からスポーツも見たいが、日本の伝統文化を知りたい人達も来ます。だから、江東区に日本の伝統文化を紹介するコーナーを設け、そこに囲碁板を置いて教えたいと思っています。夢で終わるかもしれませんが、いま、それを働きかけています。
でも、いくらそう働きかけても、私が外国人に英語で話ができないと、何の意味もないわけですよ。まずは自分だということで、会話の勉強を始めました。もし、このことが実現しなくても、4年先には英語が話せるようになったら、私なりの収穫ですね。私の生きがいの囲碁の普及、指導のために見据えています。
生かされた命を大切に
振り返ってみると、これまで何度も死に遭遇する事件がありました。
電線に触れ、感電し、池では溺れ、火事で煙の中に入って行こうとして妻が止めてくれました。親友の山崎と三池炭鉱で働いていたら、爆発の事故にあっていたかもしれません。それが、私の人生最大のエピソードです。
今生かされている私は、大変運のいい男だと思い、彼の分まで生きなくてはと九州に行ったら、いつも山崎のお墓参りをします。
健康維持のために、水泳やピンポンも励んでいます。今年80歳になりますが、3月25日の「電気の日」には、日本電気協会から、長年電気に携わってきたということで、卒寿功労者表彰を受けます。
長い間、ここまで付いてきてくれた妻にたいしては、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです。5歳年上の妻は長年の苦労がたたり、体調不良が続いています。これから残りの人生を、妻のためにすべてを捧げたいと思います。
あとがき
大町さんは戦後の混乱した貧しい時代、家族のために働き、生活を支え続けてきた青春時代でした。それなのに、家族から報いられることはありませんでした。こんなに寂しく辛いことはないと思います。
しかし、それを理解し協力してこられた奥様と、囲碁との出合いがあったからこそ、苦難を乗り越えられ、今日があるのだと思います。そのような波乱万丈な道のりを、静かにたんたんと語られるお姿に感銘いたしました。
いまは、子供たちに囲碁を教えることを生きがいとし、また、世界の人達にも広めようと、そのために英会話の勉強を始められています。目標をたて努力を惜しまない、大町さんの頑張りを見習いたいと思います。
(ききがき担当 木村景子)
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思い立ったら、ひとり旅
私は旅行が好きなのです。だいたい毎月1回は国内というか近場ですけど、どこかに出かけます。1日ツアーに参加するとか、あるいは「あっ、小田原行きたいなと」思ったら、電車に乗って行く時間を作ります。
そして、年に1回は海外旅行に行くというのを、目標というか、年間のスケジュールとしています。そのために、一所懸命お金を貯めるという感じですかね。
海外は、友達と行くのが多いですが、国内は日程が合わなかったりするので、一人で行くことが多いです。たとえば、友達とメールとか電話で話しても、その日は合わないこともあるし、面倒くさいから、もういいやと思ったりするので。
たまに温泉に行きたいねと、一緒に行くこともありますが、国内だと北海道から沖縄まで、ほとんど1人で行きます。どっちかと言うと、足のむくまま、気のむくままですかね。
初めていくところはガイドブック頼り
大きな都市なんかだと、バス会社がやっている「名所めぐり」などの半日か1日のバスツアーが5000円くらいで出ていたりします。初めて行った町は、それでひと通りわかるじゃないですか。最初に行く町は、謙虚に基本のガイドブックにちゃんと添って、しっかりまわります。次に行った時は、あそこは別にもういいかなとか、今度こういう所に行ってみようかと決めますね。
出張もわりとあります。今度も広島の方に行きますが、その帰り、どこに寄ろうかな、ついでに、あっちこっちへ行こうかなと。せっかく広島まで行くんだから、下関とか九州も近いなと思うと、行っちゃたりします。
うちのNPOの「くうかい」(まち歩き・食べ歩きのサークル)も同じですが、とにかく歩いて、その町を知って、美味しいものを食べます。最初は、その町の名物だと言われるものを食べます。その次は、いろいろ探しますけど。2回目くらいになったら、だいたいの場所が分かるので、その時はもう自分の足で歩きます。
バスや電車の時刻表も自分で調べます。今はスマホで、いくらでも調べられるじゃないですか。ここからここまでは車で何分。で、何分に乗れば着くから、ここに何分いて、帰ってくればいいかなと。出張で行った時は、仕事が終ってからホテルの部屋で、翌日の予定をスマホで調べて行く。そんな感じです。
たとえば、裏通りを歩いて、道に迷ったとするでしょ。地図を見て行ってもおかしいな、変だな、間違えたかなと。それがまた、おもしろいですね。そういうことが、旅の醍醐味というのではないですか。そこの町の人になったみたいです。
海外でロングスティしてみたい
実は、海外も国内と同じように旅がしたいのです。私は、ハワイとニューヨーク、パリは1人でも平気かもです。ハワイは日系人も多いし、日本語も通じたりするから、1人で歩いても全く平気ですね。CDを買いに行ったりね。
危ないところはもちろんあるので、そういうところは事前に調べて、寄らないようにします。ニューヨークは、だいたいどんなところが危ないか、危なくないか分かります。美術館やジャズのライブハウス巡りをしてみましたけど、意外と大丈夫でした。
でも、ロスはちょっと恐くて、できないなと思いました。海外の町でも、できたら、行った時にウロチョロしたいのだけど、場所によってはちょっと不安ですね。
これからは、どこか1か所、パリならパリ、ロンドンならロンドンのリーズナブルなホテルなどに泊まって、その町の人みたいに歩きまわるのをやりたいなと思います。宿泊先はエアビーアンドビーでもいいのですけど、今、流行ってますよね、自分の家の一室を貸すという仕組み。
日本をじっくり、すみずみまで
日本も、九州から北海道まで行きました。友達なんかには「松本さんは、日本で行っていないところはないでしょ」と言われるのですが、そんなことはありませんよ。たとえば、広島県には行ったところがあるけれども、広島市以外のところはほとんど行ったことがないとか。そのような場所や町はいくらでもあります。
私の田舎は宮城県です。仙台は知っているけど、他の町はあまり知らなかったりします。だから、行ったところがないとはいえません。
出張で、例えば、また名古屋か、なんで何回も名古屋ばっかりなんだろうと思うんだけども、この間はあそこで、「ひつまぶし」を食べたから、今度は足をのばして、高山の方まで行っちゃってもいいじゃない、などと考えると、同じ場所の出張でも楽しくなります。
1人旅の寂しさも醍醐味
1人旅は寂しい時もありますよ。でも、寂しいのも旅の醍醐味なのです。寂しくなければ旅ではない。人間というものは、本質的に寂しいものなのです。お友達と、ワーワーいいながら行くのも楽しいでしょうけど、それは別に、旅に行かなくてもできるじゃないですか。名所旧跡を見て、昔の人はこうだったのだなと、1人で考えたりすることが、私の旅なのです。
たとえば、小田原城を見に行って、その時に友達なんかいたら、ただ、すごいわねーと、言って終わりになったりします。少しはこうなのかしら、と考えたりはするけど、それより深くならなかったりするでしょ。でも1人だと、じっくりと考えて、なるほどね、なんて思うこともあるわけです。
たまに、道に迷ったりして、困ったなと思ったりしますけど、日本である限り、日本語通じます。日本人は、親切だし、「道が分からないんですけど」と尋ねると、女の人なんかは一所懸命説明してくれます。
旅先でご飯を1人で食べていて、寂しいなと思ったら、あー、こういう寂しさもありだな、人間とはそうものなんだろうな、と考えたりしますね。そして、1人居酒屋にいるときに、まわりには大勢で楽しい人達がいるけど、1人で呑んでいるのも悪くないなと思ったりすると、人間が深くなれた気がします。そういう意味でも、絶対に1人旅はするべきです。
慣れていない人は、近場からの1人旅をおすすめします。時々、1人になって自分のこと、家族のこと、もっと大きく言えば日本のこと、そして、日本と海外との関係や歴史などを考える機会にもなりますからね。
たとえば、函館に行き、実は、ここはフランスの人たちが住んでいた所なのです、と聞いて、そこからいろんなことを考えたりするのが楽しい。
ただ連れて行かれるだけだと、そういうことを知らなかったり、考えなかったりします。車に乗って食べて、また車に乗ってね。でも1人だと、食べ物も自分で選ぶでしょ。何を食べよかと、一所懸命見て、何か変わった物ないかとね。
老舗のおそば屋さんがあって、歴史的な説明書きがあったりすると、「そういうことか、なるほどね。このおそばも、そのようにして、できたのか」と思うのが、重要なところなのね。
たまには、友達とバスツアーで、楽しくおしゃべりしながら、それではここの見学は20分です、30分です、というのもいいのですけども、それはあまり記憶に残ってないです。友達と話したことは覚えているんですけど、なんでこの場所に行ったんだろう、何の由緒があったんだろうということは、あんまり覚えてないです。
ガイドさんの説明や資料を見るだけではなく、自分で調べて、ここに行ってみたいなと考えるのとは、思い入れが違うのです。
海外と日本とのかかわりを知りたい
海外旅行でも関心があるのは、その国の歴史です。大学で歴史を専攻しましたのでね。そして、人が好きです。
こういったら、怒られるかもしれないのですが、アフリカに動物を見に行くとかいうのは、あまり興味はありません。アフリカで象やキリン見て、だからそれがどういうこと?と思ってしまうんですね。東山動物園や上野動物園、北海道の旭山動物園にいるわけだから。なにもアフリカに行ってまで、キリンとか象を見るのはでなくて、アフリカの人たちがどのような人たちなのか、奴隷市場のような歴史はどういうものだったのか。そういうことを知るためなら行ってもいいです。
来年1月に、ポルトガルに行くんですよ。スペインには行ったことがあるので、今度はポルトガル行きたいと思っていました。スペインに「サンチィアゴ・デ・コンポスティーラ」という巡礼の道があります。日本のお遍路さんと同じで、向こうの人は一生のうちに一度は行きたいという巡礼の道です。そこに寄ってからポルトガルへ行くというツアーがあるのです。
仕事も忙しいのですが、8日日間の休みを取って。安いんですよ。10万円を切る金額なんですよ。すごいでしょ。思い切って、行くことにしました。ポルトガルでは、ファド(民族歌謡)も聞きたいと思っています。
ヨーロッパで行ったところといえば、イタリア、フランス、ドイツ、イギリス、チェコ、オーストリア、ハンガリーなど。そして、フィンランドには、オーロラを見に行きました。唯一、自然を見たくて行ったところですね。1回しか見られなかったのですが、見られなかった人もいますからね。帰りにロシアのサントクペテルブルグにも寄りました。モスクワは乗り換えに寄っただけなので、行ったとはいえません。
どの国にもいいところがある
勤めていた頃、営業の人達が成績を達成すると、ご褒美に海外旅行に招待するというプログラムがあったんです。私は、その事務局をやっていました。あまり料金の高いところや、日にちがかかるところは連れて行けないから、おもにアジアの各地、香港、マレーシア、台湾などと、毎年違うところへ、連れて行きました。
個人的にはタイ、インドネシア、バリ島も行ったし、カンボジアにも行きました。ビルマというか、今のミャンマーは治安がまだ良くなくて、行っていません。中国とか韓国とかは行っています。
1番印象に残った国というのは難しいですね。その国なりに良い所があるわけですよ。たとえば、暑いけれど、ベトナムでいいなぁと思うのは、アオザイの女性がきれいだったり、フォーが美味しかっったり、自転車の人力車みたいなのに乗って楽しかったり。
ベトコンが、ここで戦ったという地下道に行ったりすると、ベトナムの人ってすごかったなと思ったりします。
ヨーロッパの洗練されたパリのシャンゼリゼを歩けば、これはこれで、すばらしいなと思うし、行った先々でその時が1番です。だから、もう2度と行きたくないと思うのは、そんなにないかな。今の社会情勢では、韓国と中国には行きたくありませんけど。時期が来たら、また行ってみたいなという場所はありますね。
行きたいと思った時に行くのが良い、そう思います。私は旅行のライターをやってもよかったかもしれないですね。ただ、動き回るには、特に海外は、お金が必要ですね。
家にだけ、日本にだけいてもつまんないな。いろんなところに行って、いろいろなものを見て、いろいろ感じる。そういうことが、また自分の次の成長とか、仕事に生きてくると思うので、とにかくたくさんの体験をしたいですね。
写真を撮ることは、感性をみがきます
カメラは、旅行と関連があります。写真を撮るのも好きです。スマホのカメラがすごく良くなって、今は持って歩きませんけど、以前は小さなカメラをいつも持っていました。歩いていて、はっと感じるものがあると、それを、とりあえず写真にとって貯めておきます。
だから、パソコンの中には、花とか、景色とか写真のファイルがたくさんあります。「聴き書き」の冊子づくりにも写真が必要な時があるので、私はそれを使います。FacebookのようなSNSに投稿するときでも、イメージ写真として使います。文章だけだと、なんかつまんないですものね。やっぱり読んでもらう、目にふれてもらうには、写真があった方がいいではないかと思います。
ほとんど、自分は写っていません。1人旅ですから。たまに、私はここに来た、という証拠写真が欲しいなという時は、近くにいる人とか、私と同じようにカメラを抱えたりした人に、「すみません、写真をとっていただけませんか」という感じですね。「お撮りしましょうか」と逆にいうと、相手の方も「そうですね」と。それが楽しかったりします。感性をみがくということで、写真はいいと思います。
横丁歩くだけでも旅だ、というじゃないですか。単に歩いて横丁を曲がったって、ちっとも旅じゃないけど、そこで自分なりに感性をみがいてきれいだなとか、これ最近できたんだなとか、面白いなって思うことが、旅だと思うんです。
そう思って、忘れないように「こんな所に、こんなきれいな花が咲いているわ」と思った時に、パシャッと撮ります。あとからその写真見たときに、なんできれいだなと思ったんだろう、何かを感じたんだろう、もしかして、その前に何かあったのかもと思ったり。写真と旅とは関連付いていますね。
常にアンテナをはりめぐらせて
時間は作らないとね。やらなければいけないことは早く終わらせて、好きな方に持っていくというのが理想ですが、現実には、やりたくないなと先のばししてしまって、締切りだと必死になってやっています。
このところ、どこにも行ってないなと思ってテレビを見て、旅の情報をやっていたりすると、そこに行ってみようと思いますね。それが、アンテナを張るということではないかと思うのです。
食べ物も同じです。新しいお店ができたとか、新しい商品ができたらしいけれど、すぐに行くと、混んでいるからしばらくして、行ってみようと考えたりしたら、スマホにお店の名前を入れておきます。で、仕事に行って、空き時間ができた時にどうしようかなと思った時に、それを見て、この辺りに何とかいう美術館があるらしい、1時間あれば行けるかなと、行ったりしてね。
空き時間は、結構もったいないですね。お客さんとの面談が意外と早く終わった時とか、あるいは、急に電話が入って「ごめんなさい、今日の会議は延期にさせてください」とか、ぽかっと2時間くらい空いたりすることがあるんです。そんな時は、あそこに行ってみようとか、あれをちょっと食べたい、今行くとちょうど良いじゃないかと、そんなこと考えます。私は、好奇心が強いということですね。
あとがき
松本すみ子さんは、国内外問わず、小さな路地裏までも旅と称して、ささいなことも見のがさず、気軽にひとりで旅を楽しんでいます。その行動力、そのバイタリティには、ただ驚かされました。歴史への探求心や、人とのふれあいを感じる旅。そのためには、常にさまざまな事柄に関心を持ち、新しい情報を取り入れています。
また、自分と向き合うことの大切さを知るために、ひとり旅の良さ、大切さを説いた言葉は、深く心に残りました。これからの、ますます活動的な旅ライフが楽しみです。
ききがき担当:木村景子
posted by ききがきすと at 21:55
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| ききがきすと作品
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30日、12月7日の
水曜日6回
*募集パンフレットが新しくなりました。
ダウンロードしてご覧ください。
◆詳しい内容は元のページでもご確認ください。
http://kikigakist.ryoma21.jp/article/440162850.html
◆問い合わせ/申し込み
下記をプリントアウトして、必要事項を記載しお申込みください。
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| ききがきすと養成講座
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Ryoma21では、一定のレベル以上の聴き書きができる人を育成し、活躍につなげるために「ききがきすと養成講座」を開催します。
資格を取得すれば、ご自身でご家族や親しい方の「聴き書き」をすることはもちろん、Ryoma21の仲間と一緒に活動することができます。資格を取った先輩「ききがきすと」がすでに活躍しています。
今回は、「本講座」受講の前に、ききがきすととは何か、講座はどんな内容かを知っていただくための「ガイダンス講座」を用意しました。まずは、ガイダンス講座に気軽に参加してみませんか。
【ガイダンス講座の概要】
◆開催日
@2016年8月27日(土)10:30〜12:00 休日昼の部
A2016年9月7日(水)18:30〜20:00 平日夜の部
*どちらも同じ内容です。ご都合のいい日を選んでご参加ください。
◆会 場:銀座風月堂ビル5階会議室
◆内 容:@聞き書きとは? Aどんな活動?
Bききがきすとの体験発表 C本講座の内容
◆受講料:無料
◆参加締切日:開催日の前日まで受け付けます。
ただし、各回6名程度で締め切り。先着順。
【ききがきすと養成講座(本講座)の概要】
◆開催日:平成28年10月19日、
26日、11月9日、16日、
30日、12月7日の
水曜日6回
◆会 場:銀座風月堂ビル5階会議室、
ならびに公共施設など
◆カリキュラム概略
開校式、話を聞き出す技術、
傾聴実習、文章作成概論、
文章作成実習、パソコンでの編集作業
製本作業、聞き書き実習、閉講式
*詳細は、下の募集パンフレットをダウンロードしてご覧ください。
第6回講座受講生募集チラシ表:昼夜.pdf
◆募集人員:6名(先着順)
じっくり指導を受けることができ、確実にスキルが身につきます。
◆申込締切:平成28年10月12日(水)
◆受講資格:@年齢/性別不問
Aパソコンの基本的な操作ができ、ワードで簡単な文書が
作れる方
Bノートパソコン、テープ・ICレコーダー、デジカメを
持っている方。*新規購入の方にはアドバイスします。
*パソコンが使えない方は、Ryoma21が開催するパソコン
講座を会員価格で受講することができます。
◆受講料:Ryoma21正会員32,400円、正会員以外37,800円(消費税込)
*NPOに同時入会で、正会員料金になります。
*テキスト・資料代を含みます。
◆問い合わせ/申し込み
下記を記載して、お申込みください。
コース名、受講する方のお名前、郵便番号、ご住所、電話番号、
メールアドレスまたは、申込書に記入してお送りください。
ききがきすと受講申込書.pdf
NPO法人シニアわーくすRyoma21「ききがきすと」グループ・松本
e-mail: matsumoto@ryoma21.jp FAX:03-5537-5281
◎聴き書きをしてほしいというご相談・ご依頼は下のチラシをご覧ください。
また、上記まで、お気軽にご相談ください。
1410聴き書きのシステムと料金.pdf
以上
posted by ききがきすと at 14:06
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| ききがきすと養成講座
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ふるさと長野から上京する
私は、昭和9年3月30日、長野県長野市で生まれました。82歳になります。昭和の時代は長く続きましたが、もう少し後で生まれたら、昭和二桁生まれで多少若く見られて良かったんじゃないかといわれたりもします。
いまは、東京で暮らしています。思い返してみると、私も若い頃にはいろいろありました。若さにまかせ、若さゆえに、いたずらごころでやってしまったことなど、当時は楽しいと思ってやったことですが、良くも悪くも数々あります。
私の父親は三男でしたが、その当時は、長男が家の跡を継いで、下の弟たちは財産をもらうこともなく、小僧に出るようなそんな時代でした。おふくろは、財産を持たないそんなおやじの所に嫁いできた訳です。
私はというと、三人兄弟の長男でしたが、長男だから財産をもらって家の跡を継ぐということもなく、自分でも長野に住み続けようという気もなかったのです。高校を卒業したら、食いっぱぐれる心配のない公務員になろうと思い、公務員の二次面接試験を受けるために、一度東京に出てきました。
でも結局、二次の試験には受かることができなくて、公務員になる道は開けませんでした。その当時、造船疑獄事件が起きていて、そんなことが私の試験にも影響したのかもしれません。
それでも、高校を終える時に私が志望した学校は早稲田でした。早稲田大学を受験しようと思っていました。その時はすでに、昼間の学校に通うことはあきらめていましたが、早稲田の受験チャンスを狙っていました。
狙ってはいたんだけど、1年浪人して入ったのは、お茶の水にある明治の短期大学です。そして、大学に通うために下宿として、母親の弟の叔父の家に世話になったのが、東京へ出てくる始まりでした。叔父の家は、最初は台東区浅草の竜泉というところにあって、鷲神社・(おおとりさん)のそばでした。小さい家で、風呂もドラム缶を改造したようなものでしたが、しばらくして、吉野町に家を建てて移っています。
私は、中学生のころからみんなに「おっさん。おっさん」と呼ばれていました。若ものらしくなかったんでしょうかね。母方の実家で法事か何かがあって、母親の兄弟たちが集まってお墓に行ったことがありました。お墓は、三十分近くも山の方に歩いていくような所にあったのですが、大勢でだらだらと歩いていく時に、中学生だった私が、みんなへの気配りをしたり、誰それが居なくなってはいないかなどと、気を利かしたりしたようです。
その様子を見ていた叔父さんが、「おまえは大人だな」といったことがあります。そんなことから、「おっさん」といわれだしたようですが、当時から、なんとなく大人びてはいたようです。私も「おっさん」といわれても、とくべつ悪い気はしなくて、それからもずっとそんなふうに言われ続けてきています。
伝統ある長野北高校へ進む
私は、長野県立長野北高校の出身です。北高校は長野県でも伝統のある学校でした。高校1年の時には、生物班に入り、顕微鏡で精子を見るなんてこともやっていましたよ。大人になってから、2〜3回、この時の生物班の同好会に出ています。10年ほど前に、当時の生物班の会を新たに作るからと届いた発起人の名前は、京都大学で研究をしているような人でした。生物班に入っていた人たちの大半は、その後農林省に入ったり大学の教授になったりしています。
北高校は、長野でも下宿させても行かせたいと親が思うような学校で、もともとは男子校でしたが、女性が一人初めて入ってくる、そんな時代でもありました。同級生の3分の2くらいは大学に進学し、いじめなどは無く、北高校に通っていると、皆から一目置かれるようなそんな学校でした。
大蔵省の証券局長(次官級)になった優秀なやつがいたり、慶応大学を出て、地方紙ながら信濃毎日新聞という長野県民の大半が取って見るような新聞社の社長になる人。そして、500人ほどの生徒の中で成績が1番か2番ながら、父親が早くに亡くなってしまい、当時の校長先生が保証人になって、高卒で富士銀行(現:みずほ銀行)に入ることができた優秀なやつもいます。叔父の仕事の関係で、富士銀行の行員名簿を見る機会があった時に、中に彼の名前も見つけました。大卒でなく、高卒で入ると最初からラインが違ってしまうのですが。
私が尋常小学校2年の時に、学校の制度が国民学校へと変わり、また高等小学校高等科が新制中学へ、というように、学校の区割りも制度も大きく切り変わる時でした。私が通う頃は、戦争が終わって間もない時だったので、将来のことは何も分からないし考えられないような状況でもあったのです。でも、中学の時の友達は、ガキ友達でずっと続いています。
高校の友達は大学を出た人が多く、同級会に行って自己紹介すると、すごいやつが多くて、おれみたいに靴屋になったというと、「ふ〜ん」というような雰囲気になることもあります。中には大学へいかないでも、出世した仲間もたくさんいるんですけどね。
多感だった高校時代
高校時代の私は、コルホーズとかいうような社会主義に憧れていました。でもしばらくして、みんな平等で、やってもやらなくても取り分が変わらないというシステムに面白みを感じなくなりました。そして、労働貴族である連合や組合長などのトップになるのは、東大出の頭の良い人たちばかりだし、資本家のトップの連中もまた、利口なやつがうまく上に立つのだと分かってくると、どっちがどっちともいえないなと思うようになりました。
そんなふうに生半可に世の中を見てしまって、将来これで生きていこうとかいう計画が立たなくなっていたように思います。その都度その都度の生き方で、そんなに望み高くしなくても良いのでは・・・。そんな考えになりました。
小学校6年の時、先生からいわれた、鶏頭(にわとりの頭)と牛のしっぽという話を思い出します。しっぽでも、でかい所に就いて生きていくか。小さくても鶏の頭のようになって人の上に立つか。二つの生き方があるよと言われ、自分でよく考えなさいと教えられました。
時代はだんだん競争社会へとなっていきましたが、私はというと、人を蹴落として何が何でも一番にならなくても、自分なりの目標を定めていけば良いと、割合にのんびり考えるようになっていました。
加えて、高校生の時に蓄膿症にかかったことで、授業が散漫になってしまいました。蓄膿症は、結局、東京に出てから手術することになるのですが、今思えば、早くに手術しておけば良かった。その時は手術するのが嫌だったのです。そんなこんなで、重い蓄膿症では優秀な人たちと互角に競争するのは大変だなとも思っていました。
社会もだんだん変わってきているし、資格を取ってトップばかりをねらうのではなく、職人的な考えで生きていくこと。職人的な生き方をすれば、いつの時代でも人に世話をかけないで生きていけると思うようになっていました。
靴メーカーとして生きていくことに
私は学校を出てからは、叔父さんの店で、問屋から革を買ってきて、靴メーカーにそれを売るというようなことを仕事としてやっていました。叔父さんのところには、娘1人息子2人がいました。
いつか、息子のどっちかが店の跡を継ぐようになるかもしれない。そんな時に、私のような親戚が店にいつまでも居るというのはどうだろう・・・という話が出てきて、私は、違う商売を始めるか、独立した方が良いのではないかと考え始めました。当時私は、他の人とは違うものを作って靴メーカーから喜ばれていたので、靴屋の仕事としては、同業の人よりも勝てていました。
お金は無かったんだけど、他の靴屋さんと違ったことをすればやっていけそうでした。だったら、独立しても良いかなと考えました。腹を決め、五年くらいそのための修行をして、独立するきっかけを待ちました。
芝浦の屠場(屠殺場)から三輪車で皮を持ってくるのですが、皮といっても、豚の皮をはいですぐのものなので、内臓は付いてないのだけれど、多少の肉だとか耳だとかしっぽだとかがまだ付いています。お得意さんの所へそれを持っていっては、みそ汁の中へ豚の鼻をスライスして入れたりして食べました。それを見ていた小僧さんたちが、東京のちくわは穴が二つあるのかなどといったり・・・。思えば、楽しい青春時代だったですよ。
そうこうしているうちに、行きつけのお得意さんの靴屋が、勘定が払えなくなったから「50坪ほどの自分の店を供出するがどうだろう。」という話を持ってきたのです。その話のお得意さんと、靴作りは一人職人を引っ張ってくることにして、おれが靴を売れば良いじゃないかと考え、そのことがきっかけとなって、3人で靴屋を始めようと思いました。
それまで叔父さんの店に対して、自分としてはそこそこに稼ぎもできた方だから、おれが独立する時には、叔父さんも資金を出してやるからといってくれていました。叔父さんからは100万円くらいは出してもらえるかと思っていました。それを資金として、他の2人がいくらか出し、有限会社「大倉製靴」が始められると思いました。
でも実際に、叔父さんのところを辞めることになった日の最後の最後、挨拶して店を出る時になっても、叔父さんからは何ももらえなかったのです。あの時は裏切られた気がして、店から帰る道々涙が止まりませんでした。3人でやろうと、他の2人は上座におれの席を用意して、おれがお金を持っていくのを待っていてくれたのに・・・、お金はもらえなかった。それでは話が違うからと皆で考え直そうと相談しました。
すると程なく、20万円の定期証書を貸してくれるという人がいて、すぐにそれを換金することができ、また他の2人からもお金を出してもらうことができ、どうにかこうにか、ようやく工場をスタートすることができました。
叔父さんの店を辞める時、そこで働いていたおばちゃんたちは、どうせまた、大倉さんはすぐに頭を下げて戻ってくるだろうと話していたようです。叔父さんの方も、そう簡単にはうまくいかないだろうから戻ってくるに違いないと思っていたのかもしれない。後で考えると、どうやらおふくろともそんな話になっていたようですが。
スタートした当初は、借り受けた工場はおんぼろ靴工場で、雑然としていて、まず初めに便所の掃除から始めましたよ。残っていた従業員も、あまり良い人はいなかった。
そこも1年して3人でやるのは解消しました。おれが主流だとみんな思ってしまうので、私も、共同でやるのは早くにやめた方が良いとは思っていたのですが。
順調だったが、波乱も
叔父の店で働いていた頃に、ある靴屋に材料を売りに行った時のこと。顔見知りの問屋さんが来ていて、おれが靴屋をやるつもりだといったら、もし、あなたがうちに売り込めるような靴を作れば、どこでも買ってくれるはずだから頑張れと言ってくれました。また、浅草の橋場というところで工場を紹介してくれる人も出てきました。家賃は10万円ほどで、丁度良かったので貸してくれるように頼みに行こうと思いました。
当時の浅草の橋場というと、バカでかい御屋敷があって、たいそうなお金持ちが集まっているような場所でしたよ。工場を貸してくれるように頼みに行った所では、おれの顔を見て、この人は家賃を滞納しそうにないと思ったそうで、すぐに仕事場として貸してもらえることになりました。私は、その時はまだ独り身でした。貸してくれたその人には恩もあるもんだから、その後もえらいご奉仕することになるのですが。
しばらくして、大家さんから、そこの場所を正和自動車という北千住のタクシー会社に売りたいので、大倉さん違う所へ工場を作るから移ってくれないかと言われました。自分たちはそれでも仕事はできると思ったので、移りました。
仕事は順調でした。家賃もだんだんに上げて、最後は四十万くらいだったように思うのですが、毎月、北千住の大家さんの所へ持って行く、そんなことを張り合いにして喜んで働いていました。
それから、ちょうどバブルの時代になっていきます。不動産屋さんが「借りていても何だから、その場所を買わないか」という話を持ってきたのです。そして、バカ高い買い物をしてしまい、多額の借金をしょい込んでしまうことになりました。私が50代半ば頃です。そんな金があれば他の場所へ移っても良かったのに。
当時、私の家には風呂がありませんでした。風呂好きの私のかみさんは、毎日3時か4時になると近所の風呂屋に行って、一番風呂に入るのがなによりの楽しみだったんですね。そのことを理由にしたら、かみさんは怒るだろうけど、その場所にすっかりなじんでいたので、その場所から簡単には離れられなかったこともあります。
工場は、建てつけが良いとは言えないのですが、貸し工場ではあっても、大家さんから新築で建ててもらっていたし、感謝して住んでいました。そこを安住の地と思って、家賃も働いていれば払えていたのが、結果として転落の道を選んでしまいました。私の工場でしか創れないというような靴もできていたのに。
そして、バブルの影響で商売をたたまなければいけないという経験もしました。うまくやれば家1軒くらいは残してつぶれることもできたのですが、私のために財産を取りっぱぐれてしまったとかいうことがないように、銀行の方だけは法的に整理して、あとはなし崩し的に支払いを全部きれいにしました。助けてくれた人もいましたよ。
それだから、今でもうちのかみさんは、大手を振って浅草の仲間のところに遊びに行けたりしていますよ。
いろいろな種も蒔きました
こどもは娘1人です。そこに婿がきてくれて大倉姓になってくれました。娘たちは、椿山荘で式を挙げましたよ。婿は東洋エンジニアリングに勤めていましたが、そこをやめて靴屋になってくれて、10年くらい私と一緒に靴屋をやりました。2人には子どもは授からなかったんだけど。
大倉製靴制作の靴
娘は銀座の三越の食品売り場に勤めていたことがあります。三越とはなにかとご縁があって、面白い話もあるんですよ。私が最初に世話になった叔父さんの革屋の名は「三越商店」というのですが、叔父さんが「越 三郎」という名前だったから付けた名前なのです。
当時の三越デパートへ叔父さんが靴の革を売りに行った時に、商標登録に違反するから名前を変えるようにといわれ、「光越商事」にかえたという経緯があります。叔父さんの会社も、そこそこに大きくやっていたからということでもあったようですが。
ちなみに、私の靴屋は「大丸商店」(後に「大丸製靴」→「大倉製靴」へと変わる)という名前でしたが、あの「大丸」からは特別クレームはつきませんでしたよ。
私の所で作った靴の写真を見て下さい。当時、新聞社が業界紙に載せるからと、私の「大丸製靴」が創った靴を撮った写真です。
この他の一般全国紙や雑誌にも出たり、昭和48年頃、松島トモ子が履いて週刊誌にも載ったりしたこともあります。一足、5万円です。「パンタロンも走る」などといってパンタロンが流行っていた時代でした。ハイヒールでは歩きにくかったけど、私の靴はストーム底が厚いのでよく売れました。底の高さは二寸(5〜6センチ)で、この時の靴が元になって、いまだにヒールの厚い靴を若い人が履いてくれています。
今、業界からズバッと足を洗うということは、生半可にしていると、どっかへ迷惑をかけることがあっちゃいけないとの思いもあるんです。
あの山田洋次監督の「男はつらいよ」の映画の中でも、私の工場の靴が使われたんです。シリーズの48作目「寅次郎紅の花」の時です。満男の就職がどうのこうのというストーリーで、葛飾の靴職人役で、私も、私の靴と一緒に出ました。山田監督に、ふだん通りの言葉でしゃべって下さいと言われましたが、結局、緊張して何もしゃべれなくて・・・。頭が真っ白な状態でしたよ。
この映画の関係で、今でも葛飾区の寅さん記念館共催の「寅さんよもやま川柳」というものにも参加しているのですが・・・。
そこで選に入った私の川柳です。
・生きてます三途の川に寅の顔
・チャブ台と寅とさくらとおばちゃんと
愉しんで、社会活動もやっています
仕事を離れた今は、平成23年から、葛飾区の地区センターで「回想法」を始めました。やり始めてからもう5年になります。
注)回想法とは:おもに高齢者を対象とし、その人の歴史や思い出を、共感しながら聞くことを基本とする心理療法の一つ。世代間交流や地域活動として利用されることが多く、葛飾区では全国に先駆けて活発に行われています。
回想法を始めたのは、婿のお父さんが超音波の「ミューマ」という器械を作っていたことからです。「ミューマ」で頭に電極をあてて、超音波で脳に刺激を与えると、認知証のリスクがうんと減るということなのです。
ちょうど葛飾区の高齢者支援センターから「回想法」の案内がきたこともあって、イメージとして「ミューマ」と「回想法」は認知症予防に関連があると思ったので始めました。その時の区役所の担当者が同郷の長野県出身だったということで、のせられてしまったようで、会の代表にもなっています。
毎月与えられるテーマに添って、地区の仲間と集まってやっています。毎回手作りで、個人的にその時の「回想法」のテーマに合ったポスターを作っては、会の時に持っていっています。ポスターの絵文字やイラストなどは、いろんな新聞などのチラシを参考にしています。武田双雲さんの妹さんや、金澤翔子さんの文字などからイメージを膨らませ、作っています。
画家の池田満寿夫氏とは長野北高校時代の知り合いで、彼直筆のサイン入りの本も持っているのですが、時々参考?にさせてもらいながら作っていますよ。でも、やつの絵は、彼の母親がいうように近所にはちょっと配れないような絵が多いですけどね。(笑)彼についてはいろいろなエピソードがあるんですよ。
こんな回想法の時のポスターもそうですが、私も絵は下手なりに描いたりしています。中学3年の時の担任の先生で、途中で教員を退職し、陶芸の道に入られた先生がいるのですが、いまだにその方とも続いていて、その先生の所に顔を出しては、皿を作ったりして、うまいへた関係なくいたずら書きなどしています。
「ディベート」にも参加しています。ディベートは、全国的に広まっているもので、例えば、その時に関心が持たれているような「結婚したらどちらの姓を名のるか」など一つのテーマを研究し勉強します。そして、賛成反対に分かれて議論し、相手の弱点についてテーマを深めながら討論していくもので、最終的には審判を受けることになります。
これは、全国的には創価大学が伝統的に強いのですが、葛飾区シニア支援センターで募集があったことをきっかけに、最初は何が何だか分からなかったけど、面白そうだったので入り、今は三十人くらいで続けています。
注)ディベートとは:その時話題になっているテーマについて、賛成反対の立場に分かれ議論すること。討論(会)とも呼ばれているもの。
娘たちと暮らすこの頃です
今は、娘たちと暮らしていて、娘たちに食わしてもらっているようなもんです。年齢的にも、自分の身体が動けなくなるのも、もうすぐ近くに来ているから、いろいろ、考え方の切替えが必要かなと思っています。
うちのかみさんは、腰の具合は良くないが、元気にやっていて、月に2〜3回ほど、自分が信じる横浜の宗教法人に通っています。その宗教法人は、あれよあれよという間に大きくなっていって驚くばかりですが、かみさんはかみさんなりにやっているようです。かみさんの姉はアメリカに、妹はカナダに住んでいます。
私は、特別な宗教だけにのめり込む方ではないのですが、宗教がらみの繋がりもたくさんあって、創価学会の山口(代表)さんの選挙の応援なんかをしたりしています。宗教は分からない所もたくさんあるけど、宗教がらみでは民主音楽協会とも交流があります。ここには、東大出などの優秀な人が多くいて、たいしたものです。こんなような、多くの人とのつながりは、私なりに大事にしています。
娘たちは、一生懸命やっていることだし、まぁ、今は平穏に暮らしています。婿は、もと勤めていた、東洋エンジニアリングにまた勤めることができました。
中途半端を絵に描いたような私の人生だけど、悪い方にはいってないなと自分では思っています。笑っちゃうくらい、くそ真面目な道を選んでしまった。今は、靴屋はやっていませんが、そんな人生です。
願うことといったら、何度か大病も経験しましたし、出来る限り健康でこどもたちの世話にならない身体をつくることですね。
あとがき
大倉さんとは、平成27年の秋に葛飾区の「回想法」の講座でお会いしたのが始まりですので、まだ日の浅いお付き合になります。お会いした当初より、風格があり、講座の中でも存在感を示されていたお一人でした。ご出身が長野県とのことで、お隣の新潟出身の私としては勝手に親近感を覚えたりしていました。
この度の「ききがきすと」の話し手としてお願いしたのは、大倉さんの包み込むようなお人柄にひかれたからのように思います。「ききがきすと」については、最初は馴染みがなく戸惑われたことと思いますが、私の問いかけにいつも「そうだね。」とまず応じて下さって、楽しいお話ばかりではなかったはずですが終始明るいお話振りでした。
人の恩を忘れることなく、人とのつながりを大切にされてきたこれまでの生き方は、今現在の人脈の多さや、穏やかなご家庭の在り方に現れているように思います。
お忙しい中、あたたかな時間の共有に感謝しつつ、これからも宜しくお願い致します。
posted by ききがきすと at 22:39
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